• 検索結果がありません。

ふるさと相生再発見

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ふるさと相生再発見"

Copied!
85
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

ふるさと相生再発見

相生いきいきネット

ふるさと相生再発見 相生いきいきネット発行 松本恵司著

(2)

ふるさと相生再発見

業ヲ子孫ニ譲リテ 世ヲ背キ 空舟ニ乗リ 西海ニ浮カビ給イシガ 播磨ノ国南波尺師ノ浦ニ寄ル 蜑人 舟ヲ上ゲテ見ルニ 化シテ神トナリ給フ

相生いきいきネット

(3)

まえがき 本町商店街のなかにある実家に、 祖父が残した一箱の古い写真があり ました。十年ほど前、ふと思い立っ て、その写真について調べ始めまし た。当時、県立須磨友が丘高校で「フ ィールドワーク相生」という企画が あり、その準備のために旧市内を歩 きまわりました。そして、それが縁になって、相生まちづくり塾の人 たちと知り合い、今は、相生いきいきネットの映像アーカイブで、古 写真・古絵葉書の整理を担当しています。 あれから十年、興味の向くままに、「矢野荘入門」「三濃山の魅力」 などの講演をしたり、「ふるさと相生の二十世紀写真集」「播磨造船所 進水記念絵葉書写真集」「矢野ふるさと散歩」という写真集を作ったり してきました。 私は、旭幼稚園・旭小学校・双葉中学校・龍野高等学校と初めの二 十年を相生で過ごし、県内を転々とした後、ここ十年は週末を相生で 過ごしています。数えてみると、人生の半分を相生で暮らしているこ とになるのですが、ようやく相生という町が理解できてきたような気 がしています。 「フィールドワーク相生」という企画によって、多くの人と知り合 いになりましたが、そのなかの一人に菅谷教順寺の清水住職がいます。 このたび、その縁で、相生市仏教会の講演会でお話しすることになり ました。その準備のために原稿を書いていて、思いついたテーマが 「ふるさと相生再発見」です。 人間、生まれて育ったというだけでは、ふるさとを理解するという わけにはいかないようです。私も、十年にわたり、相生という町がど 大正時代の本町商店街

(4)

のようにして成立したのか、これからどのようになっていくのか、考 えながら、歩いたり・読んだり・話したりして、ようやくここまでた どりつくことができました。 この小冊子は、仏教会の講演会でお話ししたことを文章化したもの がベースになっています。読み物として再構成するにあたっては、海 老名系図と明宿集に関する記述を増やしました。市史によれば、海老 名氏が源義家の裁決で相生に来たことも、秦河勝が空舟に乗って相生 に漂着したことも、史実ではないとされています。では、何故、海老 名系図の作者や金春禅竹は、伝承を創作したのでしょうか。「ふるさと 相生再発見」を書きながら、二つの伝承と求福教寺を結びつけて、ち ょっとした謎解きをしてみました。 この小冊子は、相生市史を記述の裏付けとして用いており、できる かぎり歴史書としての正確さを考慮しました。しかし、この謎解きで もわかるように、私の主観や感想を大いに交えたものでもあります。 それを了解して読んでいただければ、相生のコンパクトな通史になっ ています。 私は、二十世紀の相生のまちづくりは素晴らしいと思っています。 点在する村々をまとめ、県立高校を二校も擁する小都市に育てた先人 の智恵に学ぶことは多くあります。 造船不況から二十年あまり、相生は苦しい時代を過ごしてきました が、「造船の町相生」もようやく歴史になろうとしています。市制70周 年をむかえ、二十一世紀は新しいコンセプトによるまちづくりが進む ことでしょう。 この小冊子が、二十一世紀の相生のまちづくりに、少しでも貢献で きるとすれば、こんなに嬉しいことはありません。 2012年8月 松本恵司

(5)

ふるさと相生再発見 第一章 ふるさと再発見への視座 01.相生市の歴史を語る二枚の地図 02.矢野荘と矢野村 相生あいおいと相生おう 03.大正初期の西播磨 04.池田輝政の播磨統治 第二章 矢野荘の歴史 05.相生市の歴史的ルーツ 06.相生市のルーツ中世矢野荘 07.奈良時代の相生 08.矢野荘の開発 09.矢野荘の成立 10.荘園の権利関係 11.惣荘と浦分 例名と別名 12.海老名氏の矢野荘進出 13.鎌倉時代から南北朝の矢野荘 14.室町時代から戦国時代へ 15.池田輝政の姫路城築城と国人地侍の再編成 16.江戸時代の矢野荘 第三章 播磨造船所の興隆と相生市の成立 17.鉄道の開通 18.大正初期の相生

(6)

19.唐端清太郎と播磨船渠 20.鈴木商店の進出 21.播磨造船所の企業城下町 22.市制施行と戦後の市域拡張 23.市政首脳部の悲願 24.市立相生高校と県立相生高校 25.相生市史の刊行とIHI造船部門の閉鎖 26.播磨造船所と相生市 27.二十世紀、相生のまちづくり 28.浦山桐郎監督が見た相生 第四章 文化を受けつぎ未来への構想 29.二十一世紀の相生市へ 30.相生のアイデンティティ 31.金春禅竹の秘伝書「明宿集」 32.秦河勝の足跡を探るⅠ 大避神社 33.秦河勝の足跡を探るⅡ 三本卒塔婆 34.秦河勝の足跡を探るⅢ 求福教寺 35.相生市(矢野荘)の歴史を彩る文化 古代 磐座神社 中世 海老名盛重と三つの神社 近代 造船所とペーロン 36.相生市(矢野荘)は人間に適した大きさ 37.求福教寺をふるさとの象徴に あとがき 年表

(7)

01.相生市の歴史を語る二枚の地図

相生市は南北に細長い形をしています。どうして、このような形 をしているのかと疑問に思ったことはありませんか。 1960年代に、私が双葉中学校で相生市の地図を学んだときの説明 は、次のようなものでした。 ①相生おうと那波が合併して、相生あいおい町ができた。 ②戦時中に、相生町が市制を施行した。 ③戦後の町村合併で、相生市が矢野・若狭野・那波野を編入して、 現在の相生市になった。 この説明は、相生おう村発展史観とでもいうべきもので、相生市域 には、別々の歴史を持った相生おう・那波・矢野・若狭野という四つ の地域があり、相生が三つの地域を合併して大きくなったという歴 史観です。しかし、その授業では、何故この四つの地域が合併して 南北に細長い形になっているのかという理由の説明はなく、私は、 相生市は変な形の市だと思っていました。 この疑問が解けたのは、それから40年も経ってからのことでした。 2007年、私は「矢野荘」についての講演を依頼されて、相生市史を 読んでいました。すると、そこに一枚の地図がありました。それが、 右下の地図です。この地図は「目から鱗」でした。相生市は中世矢 野荘と同じ領域にあるのです。中世の人たちは、今よりもずっと自 然とともに生きていました。相生市の形は、人間の自然な行動から みても、歴史の流れからみても、必然性のある形だったのです。 この小冊子では、本来、ひとまとまりの生活圏であった中世矢野 荘が、どのようにして私たちの視界から消えたのか、そして、どの ようにして相生市として復活したのかを考えてみたいと思います。

(8)

上は、相生市役所のHP に「相生市のあゆみ」と して掲載されている地図 下は、相生市史に「矢野 荘の範囲」として収録さ れている地図 市のHPには、相生市の成り立 ちを次のように説明しています。 明治22年4月1日 相生村と野瀬村が合併 大正2年1月1日 町制施行、相生町となる 昭和14年4月1日 相生町・那波町合併 昭和17年10月1日 市制施行、相生市となる 昭和26年8月10日 揖保川町那波野を編入 昭和29年8月1日 若狭野村、矢野村を合併

(9)

02.矢野荘

やののしょう

と矢野村

やのむら

相生

あいおい

と相生

おう 相生の歴史について語るときには、「矢野」と「相生」という二つ の地名の定義をしておく必要があります。 相生市のある地域は、奈良時代、風土記の頃は八野やのと表記され ていました。やがて、八野は矢野と表記されるようになり、平安末 期に荘園「矢野荘やののしょう」が成立します。 1889年(M22)、大日本帝国憲法が発布され、市町村制が施行されま した。このとき、現在の相生市の領域に四つの村が成立しました。 このときの村を行政村といい、江戸時代の村を藩政村と呼びます。 例えば、戦前の那波村は、那波・陸・池之内・佐方という四つの藩 政村が合併してできた行政村です。 村制実施にあたり、矢野荘の北部四分の一の地域は、村名を「矢 野村」としました。一方、かつて矢野荘の荘官の拠点があった現在 の若狭野も「矢野村」いう村名を考えていました。そのため、両村 の間で村名をめぐる紛争が起こりましたが、結局、若狭野は浅野公 の若狭野陣屋から村名をとって「若狭野村」となりました。 こうして、明治時代から矢野という地名が矢野村の意味で使われ るようになった結果、「矢野荘」は矢野村の領域にあり、相生おうや 那波は矢野荘ではないという誤解が生じました。 もう一つは、相生「あいおい」と相生「おう」です。 これは、鎌倉時代、相模から地頭として赴任してきた海老名氏が、 相模生まれから「相生」という文字を作り、「おう浦」に組み合わせ

(10)

たことから起こりました。「おう」か「おお」かという問題もあるの ですが、本書は「おう」で統一しています。 「あいおい」という地名が広く使われるようになったのは、1940 年頃です。町名は1939年(S14)に那波町と相生おう町が合併したとき から相生あいおい町となり、駅名は1942年(S17)の市制施行とともに那 波駅から相生あいおい駅に変更されました。ただし、小学校は明治時 代から相生おう村立相生あいおい小学校であったようです。 相生電報電話局の沿革を記した資料では、相生に「オウ」「アイオ イ」のルピがふってあります。それによると、1951年(S26)から「あ いおい」と改称されたことがわかります。 沿革 明治30年5月1日 那波郵便電信局開設 明治44年2月1日 相生オウ郵便局電話業務開始 昭和26年4月1日 相生オウ郵便局の電話交換事務を直轄運営する こととなり那波電報局に吸収、 相生アイオイ電報電話局と改称 1955年(S30)の市内 の電話総数は785。 1968年(S43)にダイ ヤル化されて回線 容量が増え、各家 庭に電話が普及し ました。 昭和30年頃 相生電報電話局の交換手 市役所提供

(11)

03.百年前(大正初期)の西播磨

矢野荘が相生市として復活したといいましたが、それは「なるべ くしてなった」わけではありません。右は、1914年(T03)に発行さ れた地図で、今から百年前の西播磨の様子がわかります。 この地図で中心地らしい市街地は、龍野・赤穂・佐用・山崎の四 カ所にあり、郡役所・警察署・郵便局が設置されています。この四 つの町は旧城下町で、明治時代にも地方行政機関がおかれました。 では、どのような歴史的経緯でこの四カ所が城下町になり、大正 時代にも一定の地位を保っているのか、また、相生は何故そうした 経緯をたどらなかったのか、疑問に思って調べてみました。 1914年の地図を見ますと、西播磨では、安志・林田・新宮・三日月に小さな 町があります。これらは、一万石程度の小大名の陣屋があった町ですが、平成 の町村合併までに、旧城下町から出発した市に吸収合併されています。また、 室津・網干は商港として栄えましたが、龍野市・姫路市に吸収されています。 相生の風景を撮した最古の写真。那波浦は矢野荘の積出港でした。 明治初期の那波浦 田中藤治商店提供

(12)

龍野町・赤穂町・山崎町に大きな市街地があり、網干町・佐用村・上 郡村がそれに続いています。相生は地図では村ですが、1912年(M45)に 最初の船渠が完成し、1913年(T02)に町制を施行しました。道路では、 室津から正条に続く室津街道が、江戸時代のなごりをとどめています。

(13)

04.池田輝政の播磨統治

関ヶ原の戦いの後、播磨は池田輝政の領国となりました。池田輝 政は、姫路城を築くとともに、三木・明石・高砂・龍野・赤穂・佐 用(平福)に支城をおき、川と西国街道の交差点に宿場(加古川・ 正条・有年)をおきました。これに、輝政の死後に山崎藩が設置さ れた山崎を加えますと、西播磨では、龍野・赤穂・佐用・山崎が池 田姫路藩の統治拠点として整備されたことがわかります。東播磨で は、池田姫路藩の時代は、明石と三木に支城がありましたが、池田 家の鳥取転封後、三木城は廃城となり、南部に明石藩、北部に小野 藩が設置されました。 昭和20年代までに播磨で市制を敷いた都市は、姫路・明石・加古 川・高砂・小野・三木・龍野・赤穂と相生・西脇ですが、このうち、 相生・西脇を除く8市は池田姫路藩の拠点またはその後継地から出 発した町です。 明治以降も、姫路・明石・加古川・小野・龍野・赤穂には、旧制 中学校が設置されるなど地域の中心と位置づけられてきました。こ れに対して、相生は、戦時中までに独力で市制に到達した播磨唯一 の町です(兵庫県では芦屋と相生)。 また、佐用や山崎・上郡に、県立の女学校や実業学校が設置され たにもかかわらず、相生には、戦前、中等学校は設置されませんで した。 こう考えると、大正初期の地図からの百年間で、相生が如何にま ちづくりに成功したか、先人の功績に驚くとともに、相生市が県立 相生高等学校の設置と育成にかけた執念を理解することができます。

(14)

1615年、大坂の陣で豊臣家が滅亡すると、幕府は一国一城令で、城 郭は領国(藩)に一つに制限しました。3000あった城郭は170に整理さ れるとともに、城は領国の中心地の象徴になりました。 播磨では、1617年に池田宗家が姫路から鳥取に移封され、中小の藩 が各地に分立する形で、統治体制の骨格が決まりました。 姫路藩 本多家15万石 明石藩 小笠原家10万石 龍野藩 本多家5万石 赤穂藩 池田分家→浅野家5.3万石 平福藩 池田分家2.5万石 山崎藩 池田分家3.8万石 高砂城 一国一城令で破却・姫路藩の御用蔵をおく 三木城 一国一城令で破却 1642年 小野藩1万石が成立 日本史豆知識 江戸時代中期、米が2500万石、人口が2500万人でした。おおまかにいうと、 10万石の藩の人口は10万人で、その1割、1万人が城下町に住んでいました。 江戸時代の村の社寺を見ると百姓の経済力は案外高かったことがわかります。 池田姫路藩の統治拠点

(15)

05.相生市の歴史的ルーツ

私たちは、「龍野城」「姫路城」のような近世のお城を見て、そこ に町のルーツを見ようとします。しかし、相生市には、「相生藩」や 「相生城」のような近世史がありません。そして、私たち相生市民 は歴史がないことをとても残念に思ってきました。 伊井直行氏の「悲しみの航海」は、相生をモデルにした「穂屋」 という小さな都市を舞台にしたミステリー小説ですが、1980年頃の 相生の雰囲気をうまく描写しています。 「将来計画」の方は、(うるおい)だの(いきいき)だの(アイデンテ ィティー)だのといった言葉のちりばめられた退屈なものだが、「現状 の分析」は、数多くの市民を対象に念の入ったアンケート調査をしてい て面白い。 穂屋市民の多くは、緑の山林、きれいな川や海を市の大事な部分とし て評価しており、近代的なビル街のようなものは、中高年層を中心に三 割以上もの人が「ない方がいい」と考えている(現在、ない)。 「歴史的要素」が市の中に感じられると良いと思っている人が多いのに、 ずっと以前は小さな漁村・農村であり、大正時代から後は退屈な造船単 一産業都市である穂屋には、それがない。例えば、穂屋最大の年中行事 は、毎年七月初めに行われる「造船まつり」で、これは三十年ほど前、 他所から穂屋の造船所に働きに来た人たちが中心になって始めたもので ある(大学教授や都市計画家は、穂屋の山間部に打ち捨てられたままに なっている、石の羅漢さんのある廃寺を復興し、ここを森林浴のできる 遊歩道の起点とすることを提案している)。 かわいそうなのは穂屋の若者たちである。十代、二十代の青年たちの 大半は、男女を問わず「若者の集まる通り」が欲しいと望んでいるのに

(16)

(今は、一軒だけのボウリング場や二、三の喫茶店がその代役をしてい る)、彼らの親であり、穂屋を動かす中心になっている四十代の大人た ちの実に四割もが「そんなものはない方がいい」と断言しているのだ。 アンケートの分析の終わりに、市民の肉声がいくつか細介されている。 「はっきり言って、『21世紀プラン』なんて、このまちには似合わない。 どうせ、わたしは二一世紀には穂屋にはいないだろう。穂屋市なんて、 わたしは大キライダア…‥‥!」 アンケート用紙の末尾の<意見欄>にこう書いた(十七歳、女性)と は、去年高校二年生だった坂上裕子である。 伊井直行「悲しみの航海」 朝日文芸文庫版P126 延岡出身の伊井直行氏は、学生時代、新幹線や九州行きの夜行列車が 停まる駅「あいおい」を知ります。後日、相生湾を旅すると、対岸の造 船所では大きな船が山に突き刺さっているように見えました。この光景 に興味を持った氏は、相生をモデルにした小都市穂屋を舞台にした不思 議な小説「悲しみの航海」を書きました。小説は、白い外国客船アスパ シア・アンが、造船所に入港するという噂から始まります。 白い客船はオリエント・ビーナス

(17)

06.相生市のルーツ中世矢野荘

相生市には、「相生藩」や「相生城」のような近世史がありません。 そして、私たち相生市民は、歴史がないことをとても残念に思って きました。 しかし、この町のルーツはもっと深いところ「中世矢野荘」にあ ります。京都の人は「千年の都」といいます。相生市は、京都には 及びませんが、中世までの歴史を文書によって遡ることができます。 中世においては、土地の支配を正当づける文書が極めて大切なもの でした。幸いなことに、矢野荘関係のこうした文書は豊富に伝わっ ています。私たちは、この文書を通じて、ふるさとの中世を生きた 人々にふれることができます。 中世の歴史がわかる町は、日本中にそれほど多くはありません。 私たちは、近世のフィルターを取り除き、中世の矢野荘と近代の相 生市を直結することによって、自分たちの置かれている大きな状況 を理解できると思います。 相生市の中世を語る古文書 ①東寺百合文書 東寺は、1313年から1527年まで、矢野荘を所有していました。その時 代に大量の文書が東寺に蓄積されました。この文書は、江戸時代に加 賀藩の支援で整理され、百の箱におさめられました。「東寺百合文 書」は、現在、京都府立総合資料館が保有しています。 ②海老名文書 海老名氏は、鎌倉時代に地頭として矢野荘に移り、戦国時代は国人 に成長、江戸時代以降も在地の有力者であり続けました。海老名家 に伝わる文書が海老名文書です。現在、京都大学が保有しています。

(18)

07.奈良時代の相生

相生市域は、矢野川流域から開発が始まりました。この地域には、 古山陽道が通り、条理制の地割りが行われました。古代の土木技術 では、大きな川の下流の治水は困難がともない、上流・中流から開 発が進みました。 古山陽道は都と太宰府を結ぶ主要路で、筑紫大道ともいいます。 古山陽道は、小犬丸から二木・小河を通り、椿峠を越えて高田に抜 けます。上郡の高田には、赤穂郡の郡衙がおかれていました。 矢野川流域における条里制 6町(654m)四方を里とし、里 の横列を条とよびます。 釜出・森が一条、瓜生が二条 で、若狭野まで地割りされて います。 日本史豆知識 条里制の地割りは、近年の圃場整 備で消滅しましたが、若狭野に一 部が残されています。 矢野荘は、「宝石箱」「国宝級」と よばれるほど日本史研究者には有 名なところです。 市史一巻図表213

(19)

08.矢野荘の開発

律令政府は公地公民制を採 っていましたが、平安時代に 入ると口分田の荒廃が進み、 国衙(こくが 今でいうと県庁)の 税収が減少していきました。 10世紀、国衙は、大規模な 開発を認めないという従来の 方針を転換し、在地領主(現 地の有力者)が大規模な開発 を行うことを認めることにし ました。 相生市内では、南部が未開 発のままになっていました。 1075年(承保2)、秦為辰(は たのためとき)は赤穂郡司の地位 を利用して人夫の動員を国衙 に申請し、久富保(ひさとみのほ) の開発を始めました。 久富保は、苧谷川と佐方川の流域で、未開地が多いところでした。 田畑を開発しますと、新しい田畑に税がかかります。開発領主は、 この税を免れようと考えました。当時、国司は荘園の課税を免除す る権限を持っていました。久富保を開発した秦為辰は、播磨守藤原 顕季に接近し、久富保を寄進して税の減免を受けようとしました。 市史一巻図表91 久富保の範囲

(20)

藤原顕季は受領クラスの下級貴族ですが経済力があり、白河上皇 を支えた有力者でした。寄進によって、久富保の名義上の所有者は に藤原顕季になりました。藤原顕季は、名義上の所有者として国司 の徴税から荘園を守る代わりに、一定の収益を得る権利を得ました。 秦一族は現地の支配者として、実務を執行することによって収益を 得る権利を持っていました。このように、一定の役割を果たす見返 りに収益を得る権利を「職しき」といいます。 藤原顕季の「職」は、代々継承されて曾孫の美福門院に受けつが れました。 藤原顕季 あきすえ 播磨守 白河上皇の院の近臣 秦為辰が寄進 藤原長実 ながさね 顕季の子 女房二条殿 美福門院 孫 美福門院は鳥羽上皇に愛され、 近衛天皇と八条院を産みます。 日本史豆知識 鳥羽上皇は、長男の崇徳天皇を嫌い、寵姫、美福門院の子である近衛天皇を 後継者にしようと考えていました。そして、崇徳天皇を退位させると近衛天皇 を立てて院政をしきます。矢野荘が荘園となったのは、この時期です。崇徳上 皇は、鳥羽上皇・美福門院に反発し、復権の機会をうかがっていました。 近衛天皇が若くして亡くなり、続いて鳥羽上皇が亡くなると、崇徳上皇一派 と美福門院一派の対立から保元の乱が起こります。美福門院は、後白河天皇を かつぎ平清盛を活用して保元の乱に勝利しました。続いて平治の乱にも勝利し た後、1160年に44才で亡くなりました。

(21)

09.矢野荘の成立

1129年(大治4)、鳥羽上皇が院政を開始します。上皇は、院庁とよ ばれる役所を持っていましたが、上皇は律令政府の役職ではありま せんので正規の収入はありません。そこで、鳥羽上皇は、荘園を認 めて財源を確保しようとしました。 1136年(保延2)、美福門院は、久富保を荘園にするよう申請し、正 式に荘園となる手続「立券」を求めました。鳥羽上皇の院庁はこれ を認め、久富保は「矢野荘やののしょう」として公認されました。矢野 荘は、現在の相生市とほぼ同じ領域の大きな荘園でした。 荘園を積極的に公認した結果、鳥羽上皇のもとに膨大な荘園が集 まりました。鳥羽上皇から、美福門院そして娘の八条院に継承され た荘園群は、皇室領荘園とよばれ、鎌倉・室町時代を通じて、朝廷 の財源になりました。 市史一巻図表94 赤 穂 郡 ・ 揖 西 郡 の 荘 園

(22)

10.荘園の権利関係

矢野荘に関する職しきは下のようになります。職を確保しなければ、 それにみあう収入は入りません。人々は、職の確保に必死でした。 ときには、訴訟をおこし、ときには、武力で職を確保しようとしま した。訴訟には所有関係を証明する文書が必要です。文書を手放す ことは、所有権の喪失を意味していました。 ①京都 本家職 上級貴族 名義上の所有者 領家を指名する ②京都 領家職 下級貴族 預所を任命する ③相生 預所職 貴族の家臣 現地に赴任して荘園を管理 ④相生 公文職 寺田一族など 荘園を差配する現地の有力者 ⑤相生 地頭職 海老名氏など 鎌倉幕府ができてから、 荘園に入り込んできた ⑥相生 名主職 ひとまとまりの田畑を管理する ⑦相生 作人 名主のもとで田畑を耕作する 初期は1年契約 昭和初期 条里制の地割りが残る若狭野地域 市役所提供

(23)

11.惣荘と浦分 例名と別名

未開発であった那波・佐方の開発が進んでくると、若狭野・矢野 地域と那波・佐方地域というまとまりができていきます。やがて、 若狭野・矢野地域は「惣荘」、那波・佐方地域は「浦分」とよばれる ようになりました。 1160年(永暦01)、八条院は、若狭野・矢野地域の4割を分割して、 年貢を歓喜光院の建設費に充てることにしました。これを別名べつみ ょうといいます。 若狭野・矢野地域の6割は例名れいみょうといいます。那波・佐方 は例名に含まれることに決まりました。例名・別名は、地域でまと まっているのではなく、田畠を一枚ずつ指定します。 矢野荘の本家職はこのように継承されました。 京都の美福門院 娘の八条院が継承 1160年 例名・別名に分割 例名 矢野・若狭野の6割と浦分(那波・相生) → 1313年 後宇多上皇が矢野荘例名を東寺に寄進 別名 矢野・若狭野の4割 → 1300年 亀山上皇が別名を南禅寺に寄進 矢野荘を開発した秦氏のその後について、市史から記述を探してみました。 ①承久の変で、惟宗氏(秦一族)が京方について敗北した ②開発領主である悪党寺田法念が「秦氏の子孫」と名乗っている ③開発領主で矢野荘の下司であった矢野馬次郎が海老名三代盛重になる 矢野馬次郎が秦一族であるとすると、秦氏は地頭海老名氏と融合して在地の 有力者であり続けたことになります。そうであったらいいなと感じました。

(24)

那波は矢野荘の商港でした。矢野荘の年貢を京都に運ぶルートは、姫 路・篠山・亀岡を通る陸路と、那波港からの海路がありましたが、海路 の方が多く利用されました。那波には米を売買する市があり、年貢米は 那波の市で売却して銭で都に納めました。 昭和初期の那波 矢野の薪や炭を阪神に出荷した 元禄時代の矢野荘浦分 江戸時代には五ヶ村があった 市史二巻口絵

(25)

12.海老名氏の矢野荘進出

海老名氏は、鎌倉時代に地頭として矢野荘に住みつき、現在まで 有力な地位を保っています。海老名氏の歴史を示す文書のなかに海 老名系図があり、海老名一族である青山氏や那波氏に伝えられてき ました。右は、系図の初めの部分をわかりやすくしたものです。 相生市史は、「長治元年(1104) 家督争いがあり、源義家の裁決によ って、播磨国矢野庄の大嶋に下向することになった」ことは史実に反 するとしたうえで、専門家らしく史料にもとづいて確実なことだけを 記述しています。そのために、市史の記述はわかりずらいのですが、 簡単にまとめるとこうなります。 文治二年(1186)、海老名氏が矢野荘に初めて姿を現した。しかし、このとき 海老名氏は正当な地頭の権限を持っていなかったので、幕府は、下司の矢野 馬次郎盛重に海老名能季の濫妨をやめさせるよう命じた。盛重は、「開発領 主」として下司職を有する矢野荘の有力者であった。 承久の乱(1221)で矢野荘の地頭であった惟宗氏が京方について敗北し、代わ って海老名家季が新補地頭として矢野荘に赴任してきた。 矢野馬次郎盛重(海老名盛重)は、海老名頼保に下司職を譲り、頼保の次 の海老名季茂のとき、幕府は海老名氏の下司職を認めた。こうして、海老名 氏は地頭職と下司職を兼ねることになった。 史実と異なる海老名系図の記述は何を意図して書かれたのでしょ うか。私が相生市史を読んだ感想はこうです。秦氏の後裔で矢野荘 はえぬきの有力者矢野馬次郎盛重と、鎌倉から移住してきた海老名 一族は、融合することによって支配力を強化しようとしました。ブ ランドは、幕府御家人である「海老名」を使うことにし、系図のな かに矢野馬次郎盛重を組み込みました。そして、秦氏創建の寺、求 福教寺を保護した源義家の裁決を系図の始まりにしたのです。

(26)

源 親季 海老名源四郎 後に左馬大允 本国相模国海老名郷 次の代で海老名家は相模海老名と播磨海老名に分かれる 初代 家季 海老名太郎左衛門尉 長治元年(1104) 家督争いがあり、源義家の裁決によって 播磨国矢野庄の大嶋に下向することになった 城営を構え、水田・町を開発して住みついた 二代 季重 海老名龍王丸 父、家季の遺迹を伝領した 三代 盛重 矢野馬次郎 後海老名右馬次郎 相模国の住人、海老名四郎能季が盛重の所領を押領しよ うとしたが、先祖家季の莫大な忠義が認められ、後鳥羽 院の叡慮により、代々の家領は全て相続安堵された。 文治二年(1186) 下屋敷を築くにあたり、本国相模から相 の字を取り、大嶋から大の声を取って、相生邸と名付けた 那波八幡宮、双子島弁天社、相生天満宮、親盛寺を創建 四代 頼保(養子) 海老名備中介 後上有智蔵人 盛重から別名下司職を譲り受ける 五代 季茂(頼保の弟の子) 海老名袈裟王丸 弘安二年(1279) 頼保から別名下司職を譲り受ける 弘安五年(1282) 本所歓喜光院から抗議を受けるが 幕府は海老名氏の下司職を認める

(27)

13.鎌倉時代から南北朝期の矢野荘

海老名氏が地頭として活動し始めると、領家・預所と年貢の徴収 をめぐって紛争が起こります。1297年(永仁05)、矢野荘例名の領家 と地頭は下地中分を行うことで合意しました。 下地中分が行われた後の1313年(正和02)、矢野荘例名の領家方は 東寺に寄進されました。東寺は鎌倉時代末期から室町時代にかけて 矢野荘例名の領主として経営にあたり、その記録が東寺百合文書と して残りました。この文書によって、私たちは、ふるさと相生の中 世の様子を知ることができます。 東寺百合文書に記された矢野荘の動きのなかで、最も有名なこと は悪党寺田法念の活躍です。寺田氏は、開発領主秦為辰以来の由緒 をもつ公文職を持ち、鎌倉幕府の御家人でもあるという有力者でし た。東寺が矢野荘の経営に乗り出した頃、寺田法念も矢野荘での勢 力拡大を図っていました。寺田法念と東寺は対立し、ときには武力 行使も辞さない寺田法念は、播磨一帯で「国中名誉の大悪党」と称 されました。 悪党の活動は各地で活発になり、鎌倉幕府は信頼を失います。 1333年、上郡に本拠をもつ赤松円心は後醍醐天皇を支援して挙兵 し、六波羅探題の軍勢と戦いました。こうして、鎌倉幕府は滅亡し、 後醍醐天皇による建武の新政が始まります。しかし、後醍醐天皇の 政治は、武士たちの信望を得ることができませんでした。赤松円心 は六波羅攻めの恩賞に不満を持ち、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を 翻して南北朝の内乱が始まると、足利尊氏方にたって武家政権の樹 立をめざしました。

(28)

1336年(建武3)、足利尊氏は後醍醐天皇方に敗れて九州へ逃れ、追 撃する新田義貞が播磨に侵攻してきました。このとき、赤松円心は 白旗城に籠もり、感状山城では赤松則祐が新田義貞を迎え撃ちまし た。則祐は50日余りにわたって感状山城を守り抜き、この間に、足 利尊氏は態勢を立て直して反撃に成功します。足利尊氏が赤松則祐 の功績に感状を贈ったことから、この城は感状山城とよばれるよう になりました。感状山城は昭和末期に本格的な調査が行われ、中世 の代表的な山城として国の史跡に指定されています。 海老名一族は赤松軍に加わって籠城しましたが、無人となった大 嶋城は新田勢によって焼き払われました。一方、徳力季隆は新田義 貞に加勢し部将として感状山城を攻めました。新田義貞が兵庫に後 退すると徳力季隆は新田義貞に従いますが、新田義貞が越前で戦死 すると郷里の中野に隠棲しました。 瓜生大池から見る秋の感状山城

(29)

14.室町時代から戦国時代へ

鎌倉時代末期に、矢野荘では下地中分が行われました。室町時代 前半の矢野荘は、領家方を東寺が支配し、地頭方を海老名氏が支配 しました。1313年に寄進を受けて矢野荘の経営に乗り出した東寺は、 悪党寺田法念との戦いに勝利し、寺田氏は没落しました。 東寺・海老名氏が矢野荘を支配していた時代の播磨国守護は赤松 氏です。赤松氏は、室町幕府四職の一角を占める有力守護でしたが、 1441年に嘉吉の乱を起こして滅亡、その後、勢力を復活させたもの の山名氏に敗れて衰退しました。 戦国時代になると、矢野荘には宇喜多直家の勢力が浸透しました。 播磨では毛利と織田の戦いが繰り返され、最終的に矢野荘を含む赤 穂郡は、宇喜多直家・宇喜多秀家の支配下に入りました。 現在の感状山城の石垣は、宇喜多氏によって改修されたものと考 えられています。 矢野荘から東寺への未進 年貢の累積の推移 1430年代から未進が増え ていきます。未進の原因 は、年貢の徴収等にあた る現地有力者が年貢を滞 納したことにあります。 市史二巻図表44

(30)

1297年、矢野荘惣荘の例名で行われた下地中分を示す図です。西半 は領家方、東半は地頭方と定められ、相互に干渉しないこととなりま した。荘園の政所は○のあたりにありました。1313年、領家方は後宇 多上皇から東寺に寄進されます。 公文の寺田法念は、下地中分によって地頭方に所有していた土地を 喪失します。法念は支配地を増やすために仲間とともに活動しますが、 領家からみると荘園の秩序を乱す「悪党」でした。 市史一巻所収の下地中分図

(31)

15.池田輝政の姫路城築城と国人・地侍の再編成

1600年(慶長05)、関ヶ原の戦いが起こります。宇喜多秀家は西軍 の主力として奮戦しましたが敗北、宇喜多氏は滅亡しました。宇喜 多氏が滅亡した結果、矢野荘地域における戦国時代から安土桃山時 代の記録が消失したのではないかと考えられています。 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、播磨を池田輝政に与え姫路 城を本格的な城郭として築城させました 1605年、池田輝政は地頭であった海老名氏に文書提出を命令しま すが、海老名本家は文書提出を拒否して尼崎へ去りました。土地関 係の文書が入手できなかったので、池田輝政は苦労したようですが、 1609年、検地を完了しました。海老名氏等の国人や地侍は、池田家 の家臣となるか、地元に残るかの選択を迫られました。 1615年(元和01)、矢野荘に残った海老名氏は、武士の身分を失っ て農民となり村役人の道を歩み、相生村庄屋・陸村庄屋等の地位に 就くとともに、相応の特権を与えられました。 こうした動きは、全国的に見られたことでした。中世の在地領主 は、戦国時代には国人・地侍とよばれ各地を支配しましたが、豊臣 秀吉の検地・刀狩によって、武士として地元を支配する道を絶たれ ます。彼らの一部は、武士を選んで大名の家臣になりました。しか し、多くは、武士を捨て、農民・商人・僧侶などの道を選びました。 農民・商人・僧侶を選択した旧領主階級は、地元において庄屋のよ うな指導者階層を構成しました。 彼らは、古くは平安・鎌倉に源流をもつ名家でした。江戸時代の 大名は、彼らと折り合い協調しあうことによって、藩内を統治しま した。庄屋を中心とした在地の指導者層は責任感が強く、明治政府 も彼らの協力を得て、地方を統治しました。

(32)

源重郎池は、1802年(享和2)に着工、1809年に完成しました。 矢野小河の豪農、光庵源重郎は、還暦の頃に新池築造を思いつき、 私財を投げ打ってこの石垣を築きました。池は小河の集落から北へ 4㎞ばかり山中に入ったところにあり、小河の田に三度水を入れる ことができます。明治になって、光庵久吉は姓を光葉に改め、池を 小河村の共有にしました。 この写真の後、光 葉十郎は鶴亀の高 田分家を継いで早 稲田大学に進学し ます。卒業後は奈 良師範学校に勤め ながら民俗学を研 究しました。 源重郎池の石垣 明治35年若狭野小 中列左から四人目が光葉十郎

(33)

16.江戸時代の矢野荘

1617年(元和03)、池田宗家は姫路から鳥取に移され、池田一門で 鳥取と岡山を領有しました。赤穂郡は岡山系の池田赤穂藩が支配し ていましたが、1645年、藩主発狂により改易され、浅野赤穂藩5万3 千石に替わります。その後、若狭野3千石が分家されましたが、浅野 赤穂藩は、本家・分家を併せて赤穂郡の全てを領有しました。 しかし、1701年、元禄赤穂事件で浅野赤穂藩(外様)は断絶、永 井赤穂藩3万2千石(譜代)を経て、1706年(宝永03)に森赤穂藩2万石 (外様)が成立しました。浅野赤穂藩と森赤穂藩を比べると、森赤 穂藩領は、赤穂郡の南半分に削減され、赤穂郡の北半分(相生市北 部と上郡町)は幕府に没収されて天領になっています。 大坂夏の陣で豊臣家が滅亡してから、幕府は外様大名の勢力を削 減し、特に畿内を幕府の勢力圏にしようという政策をとりました。 姫路城主を外様から譜代に変更した国替えがその代表的なものです が、赤穂郡の北半分を天領にしたのも幕府の政策の一環でした。 相生市史に所収されている右の地図が示すように、18世紀から19 世紀にかけて、赤穂郡の北半分は、天領→小田原藩領(震災を受け た小田原藩の救済措置)→天領・大坂城代支配地→尼崎藩領(大坂 に近い尼崎藩領地を取り上げたことの代替地)と支配系統がめまぐ るしく変わりますが、すべては幕府の勢力圏内での動きでした。 赤穂郡の北半分を統治する拠点は、上郡におかれました。安志藩 の拠点は有年にありました。こうして、旧矢野荘を一体として統治 する主体はなくなり、南半分(相生・那波)は赤穂からの統治圏、 北半分(矢野・若狭野)は上郡からの統治圏に分割されました。但 し、経済的には、那波港は矢野荘の産物を出荷する港として機能し ていましたし、商業は龍野との結びつきが強かったようです。

(34)

赤穂郡の移り変わり 1645 浅野赤穂藩5万3千石成立 1701 元禄赤穂事件 浅野家改易 上 北部は幕府領となる 黄色の村 南部は赤穂藩(譜代永井家)桃色 浅野分家3千石は残る 橙色の村 ↓ 右上 北部は小田原藩救済のため小田原藩領に 鶯色の村 1723年 南部は赤穂藩(外様 森家) ↓ 右下 北部は幕府領・大坂城代領に戻る 黄色・灰色の村 1756年 南部は赤穂藩(外様 森家) 1702年の赤穂郡

(35)

17.鉄道の開通

1889年(M22)、大日本帝国憲法が制定されるとともに、市制および 町村制が施行されました。江戸時代の村(藩政村・旧村、今の大 字)は合併して、町村制による村(行政村)を作ることになりまし た。旧矢野荘には、北から矢野村、若狭野村、那波村、相生おう村と いう四つの村が作られました。 「矢野」という地名は、今の相生市全域を指す言葉だったのです が、北部の地域が「矢野村」と名のりました。若狭野はかつて荘園 の政所が置かれていたこともあり、中部の地域こそ「矢野」にふさ わしいと考えていましたが、北部が「矢野村」を使ってしまったの で浅野陣屋のあった若狭野から「若狭野村」という村名にしました。 1890年(M23)、山陽鉄道が有年まで開通し、那波駅が開業しました。 山陽鉄道は線路敷設にあたって急勾配を避けるという方針をとって いましたので、相生付近の線路の位置は必然的に今のようになりま した。姫路から岡山県境まで、「トンネルなし、10パーミル以下」と いう原則で路線を決めると、西に山地のある龍野、東に山地のある 赤穂を鉄道が通ることはあり得ませんでした。右の地図を見ますと、 鉄道が山地を迂回していることがわかります。なかでも、○の地点 は地峡になっており、西国街道・国道二号線・そして山陽本線が並 行しています。 那波駅は開業したものの、正条・有年・上郡に比べると小さな駅 でした。1895年(M28)の「山陽鉄道旅客案内」は那波について、この ように書いています。「那波港は、室津・坂越の中間にある一海港に して、海水遠く陸地に侵入す。然れども、港内水浅く、岸遠くして 大船巨舶の停泊に便ならざれば、商業また従て盛ならず、戸数わず か六、七十あるのみ。」

(36)

山陽本線が通らなかった龍野・赤穂では、地元資本によって鉄道 が建設されました。上の地図では、省線の網干駅から播電鉄道が新 宮村・龍野町・網干町に、省線の有年駅から赤穂鉄道が高雄村・赤 穂町に伸びています。相生では、那波駅から相生港へ臨港鉄道を建 設しようとする動きがありました。 大正時代の 那波駅 1890年に山 陽鉄道那波 駅として開 業。1906年 に国有化さ れ まし た。 昭和初期の地図

(37)

18.百年前(大正初期)の相生

右の地図は、1910年頃(大正初期)の赤穂郡です。この年、第一世 界大戦が勃発し、第一次世界大戦中の播磨造船所大拡張によって相 生の人口が急増するのですが、この地図はその直前の状況を示して います。 鉄道は敷設されなかったものの、龍野・赤穂は依然として大きな 町でした。明治維新から半世紀を経た大正初期においても、江戸時 代の統治拠点であった龍野・赤穂・上郡が町としての実力を有して いたことがわかります。 明治時代、兵庫県は西播磨唯一の中学校を龍野に設立し、赤穂郡 の政治機構や高等小学校を赤穂に設置しました。上郡は、山陽鉄道 が1895年(M28)に駅を設置してから1912年(M45)に山陰本線が鳥取ま で全通するまで、鉄道から鳥取方面への玄関として繁栄しました。 1914年頃の網の浦 数年後、造船所の拡張により関連施設が建設される

(38)

1914年(T03)発行の地図。1912年(M45 T01) 播磨造船の船渠が完成した頃の赤 穂郡です。1913年に相生村が町制を施行、第一次世界大戦中の1916年に鈴木商 店が造船所を拡張し、相生の人口が急増しました。この頃、鉄道沿いの村々 は、赤穂郡の郡役所を加里屋から鉄道沿いに移転するよう要求していました。

(39)

19.唐端清太郎と播磨船渠

1892年(M25)、相生村は唐端清太郎を村長に招聘しました。赤穂藩 は「那波は商港、相生は漁港」と規定し、相生村は漁業を主産業と していましたが、当時、漁業にかげりが見えていました。村長のか たわら県会議員・県会議長を務めた唐端清太郎は、造船と港で繁栄 する神戸を見て、相生に造船所を創ることを考えました。「造船所を 創れば船が入り人が集まる」、唐端清太郎は地元と阪神財界から出資 を募り、1907年(M40)に播磨船渠(通称ハリマドック)を創設します。 1912年1月 船渠竣工式の祝詞 播磨船渠竣工ヲ告ゲ、本日ヲ以テ開業ノ式ヲ行フ。余モ亦、此ノ盛 典ニ列シ、何ノ喜ビカ之ニ過ギン。抑モ当会社ハ千挫百折万難ヲ排シ テ六十月ニ至リ、其目的タル哉汽船巨艦ヲ製造スルニ有リテ、国家ヲ 利スル極メテ擴大ナリ。本会社ノ進捗ト共ニ相生港ノ繁栄、昔日ニア ラザルヤ明ナリ。茲ニ、諸君ト共ニ快哉ヲ呼ビ祝意ヲ表ス。 明治四拾五年一月廿一日 郡会議員 松田三次郎

(40)

唐端清太郎は、1862年(文久2)、飾磨郡谷外村に生まれました。 1892年(M25)、相生村村長に招かれ、1913年(T02)、町制をしくまで に村を発展させました。村長を務めながら、1903年(M36)、兵庫県会議 員、1907年(M40)、県会議長に選ばれています。早くからの普選論者で、 1918年(T07)、衆議員総選挙に当選しますが、1920年(T09)6月、病気の ため永眠しました。 漁業の振興に尽力するとともに、町の将来を託して播磨船渠を設立、 第一次世界大戦中、鈴木商店の資本によって播磨造船所は大企業に成 長しますが、相生の人たちは造船所をハリマドックとよび「わしらの ドック」という気持ちを持ち続けました。 浜口雄幸首相の揮毫による頌徳碑は、1932年(S07)に除幕式が行われ ています。1954年(S29)、頌徳碑の周囲は公園となり、唐端清太郎の雅 号「雨香」から雨香園と命名されました。 1952年 唐端清太郎頌徳碑から見渡す相生港 市役所提供

(41)

20.鈴木商店の進出

1914年(T03)、第一次世界大戦が勃発しました。神戸に拠点をおく大 商社鈴木商店は、造船業への進出を急ぎました。一方、播磨造船は船 渠が完成し修繕船の入渠が続きましたが、経営は安定しませんでした。 唐端清太郎は、鈴木商店に播磨造船の買収を働きかけ、1916年(T05) 鈴木商店は相生に膨大な資本を投下して事業の拡大を図りました。数 年にして、従業員200の小さな造船所であった播磨造船は、従業員5000 を擁する播磨造船所に一変します。 鈴木商店は、事務課長の北村徳太郎など若き精鋭社員を相生に送り 込みました、1917年(T06)、ロシア革命が起こると、彼らはマルクス主 義に対抗できるような資本主義を模索しなければならないと考えました。 急増する従業員のために藪谷などの社宅建設が進んでいましたが、彼ら は、YMCAの理想を取り入れるとともに、共済組合・青年会を設立、 播磨病院や播磨劇場などの厚生施設を整備しました。 藪谷の社宅街

(42)

播磨病院は 1917年(T06)7月 播磨造船所附属 籔谷医院として 開設されました。 1922年(T11)2月 同位置に病院が 建設されて、播 磨病院と改称し ます。 1 936年 (S11 )か ら本館・病棟を 改築して規模を 拡大、1950年代 には、西播磨の 雄病院になりま した。 1 957年 (S32 )か ら中央通り側へ の新築移転工事 に着工、1958年 に本館と北病棟 が完成、引き続 き、南病棟が建 設されました。 中央通りは苧谷川のつけかえによって1958年(S33)に皆勤橋まで開通、病院が 移転した跡地には、1960年に生協中央店が開店しました。 1922年頃 新築された播磨病院 1950年頃 増築された播磨病院 1958年 新築移転した播磨病院

(43)

21.播磨造船所の企業城下町となった相生

第一次世界大戦後の再編成で、播磨造船所は神戸製鋼所播磨造船 工場になりました。その後、金融恐慌で鈴木商店が破綻しますが、 播磨造船所は神戸製鋼所の一部門として危機を乗り切りました。 1929年(S04)、神戸製鋼所は、異業種であり規模の大きい播磨造船 所を独立させることを決定しました。それ以来1957年(S32)まで、播 磨造船所は本社と主力工場を相生におき、地域と盛衰をともにしま した。播磨造船所の従業員は、大正時代と1950年代に5000人を超え ましたが、大正期には長崎や呉など各地の造船所から従業員が移っ てきたのに対して、戦後の拡張期には地元からの入社が多く、旧矢 野荘の地域は、播磨造船所の企業城下町として一体化していきまし た。 昭和18年、海軍は10の箱船をつないで皆勤橋を作りました。定時にな ると本町通りまで自転車の列が続き、通りを横切れないほどでした。 1958年頃 皆勤橋の退勤風景

(44)

相生で建造された多くの船のなかで、相生市民が最も愛した船が図南 丸です。図南丸は、日本水産が大阪鉄工所で建造した捕鯨母船で、戦前 の日本で最大の商船です。戦時中、海軍に徴用されて石油の輸送に従事 していましたが、トラック島で米軍機の爆撃を受け沈没しました。 戦後、日本水産は捕鯨に復帰しましたが、占領下の日本では大型船の 建造は禁止されていましたので、捕鯨母船の新造はできませんでした。 日本水産は、トラック島に沈んでいる図南丸を購入し、呉軍港の沈没船 浮揚で実績のあった播磨造船所に浮揚・曳航・修繕を依頼しました。 1950年(S25)、日本水産と播磨造船所は社運を賭けて図南丸の浮揚に 着手、翌1951年(S26)10月18日、修繕を完了した図南丸は、市内五千の 生徒をはじめ多くの市民が打ち振る日の丸の小旗に見送られて南氷洋へ 旅立ちました。 春、図南丸は捕鯨から相生に帰港、夏はペルシア湾との原油輸送を行 い、秋になると相生で船団を組んで南氷洋へ向かいました。「図南丸が 入ったよ」という言葉は、子供心にも嬉しい響きが感じられたものです。 注 建造時の船名は第三図南丸、修繕後に図南丸と命名 1958年の播磨造船所 停泊している船は捕鯨母船図南丸 橋本一彦氏撮影

(45)

22.市制施行と戦後の市域拡張

1939年(S14)、播磨造船所の仲介によって那波町と相生町が合併し、 相生町が誕生しました。大東亜戦争が始まると造船所には二万を超 える人々が働くようになり、1942年(S17)、相生は市制を敷きます。 兵庫県で9番目、西播磨では、姫路に次いで2番目の市でした。 そして、1954年(S29)、戦後の町村合併のなかで、相生市と矢野 村・若狭野村が合併して現在の相生市になるのですが、それは「矢 野荘の復活」といえるものでした。 しかし、昭和時代、「相生市が矢野荘の復活である」という視点は、 まだ、現れていませんでした。その理由の一つは、町おこしとして の播磨造船所が奇跡的な大成功をおさめていたこと、もう一つは、 矢野荘の歴史が知られていなかったことでした。 戦時標準船は構造を簡素にして量産をめざした船です。830総トンの 油槽船が多く、二年間で173隻、最大で月に14隻が建造されました。 1944年 戦時標準船を量産した松の浦工場 市役所提供

(46)

23.相生に中等教育機関を

兵庫県で9番目の市制施行を成し遂げた人たちの喜びはいかほど のものであったでしょうか。市制施行まで達成した人たちにとって、 悲願ともいえる課題は何だったのでしょう。 私は、中等教育機関の設立であったと思います。 西播磨では、ナンバースクールの旧制中学が龍野にあり、続いて 赤穂にも旧制中学が設立されました。また、上郡・佐用には高等女 学校や実業学校がありました。 これに対して、相生・那波・若狭野・矢野という現在の相生市域 には、公立の中等教育機関は無く、播磨造船所の徒弟教習所がある だけでした。 戦時中、土井ヶ谷に播磨造船所の疎開施設として建設され、戦後、市 立相生高等学校の校舎となりました。 1949年 市立相生高等学校 大川弘氏撮影

(47)

24.市立相生高等学校と県立相生高等学校

戦前、兵庫県にあった市と県立高校(旧制中学)を一覧表にする と次のようになります。 ①∼⑨は市制 ●は地域の拠点となった中等教育機関(いわゆる ナンバースクール) ①1889年(M22) 神戸市 ●神戸第一中学校 ②1889年(M22) 姫路市 ●姫路中学校 ③1916年(T05) 尼崎市 尼崎中学校(市立で発足 S05県立移管) ④1919年(T08) 明石市 ●明石中学校 ⑤1925年(T14) 西宮市 西宮商業(市立商業で発足 S25県立移管) ⑥1940年(S15) 洲本市 ●洲本中学校 ⑦1940年(S15) 伊丹市 ●伊丹中学校 ⑧1940年(S15) 芦屋市 芦屋中学校 S15 ⑨1942年(S17) 相生市 なし 町にあった旧制中学 ●龍野 ●加古川 ●豊岡 西播磨の各町にあった中等教育機関 龍野町 県立龍野中学(M30)・県立龍野高女(T11)・町立龍野商業 赤穂町 県立赤穂中学(S02)・県立赤穂高女(S17)・ 上郡町 県立上郡高女(S06)・県立上郡農学校(T11) 佐用町 県立佐用農蚕(T11) 山崎町 県立山崎高女(T12) ( )は、県立に移管された年

(48)

戦時中、相生市は次々に中等教育機関を設立しました。 1943年 市立相生高等女学校開校 → 1948年 市立相生高等学校に 1944年 市立相生造船工業学校開校 1945年 県立移管 → 1948年 県立相生工業高等学校に 1946年 市立相生水産学校開校 → 廃止 戦後、高校三原則(小学区制・総合制・男女共学)のもとで、龍 野高校・相生高校・赤穂高校・上郡高校が並立し、相生の中学生は 市立相生高校に進学するようになりました。 しかし、財政危機のなかで、高校の統合が始まり、相生市は市立 高等学校を断念し、1959年(S24)、県立相生工業高校と市立相生高校 は統合されて、県立相生産業高校が発足します。 こうして、旧制中学・旧制高女系の普通科高校は消滅し、相生の 普通科進学希望の中学生は、龍野・赤穂・上郡・相産に分かれて進 学するようになりました。相生市にとって、これはゆゆしき事態で す。1960年代、造船所が全盛期を迎えると、相生市は県立普通科高 校の新設(市立相生高等学校の復活)をめざしました。 そして、1977年(S52)、県立相生高等学校が創立されます。この頃、 多くの高等学校が新設されましたが、県立相生高等学校は異色の学 校としてスタートしました。

(49)

普通、新設高校は、高校ピラミッドの下層に入ります。ところが、 県立相生高等学校は、龍野高等学校を縦割りにする形をとりました。 相生市内の中学生の成績上位層は、龍野高校・赤穂高校へ進学する ことをやめ、相生高校に進学するようになったのです。 このような形で出発した新設高等学校は、兵庫県では相生高校だ けです。1980年、私が龍野高校に転勤した頃、龍野高校は相生から 成績上位者層が入学しなくなったために学力が低下し、その対策を どうするかに追われていました。 市民の友の「高校進学は地元の高校への方針を決めました」とい う言葉に、私は、龍野・赤穂に並びたいという執念を感じます。龍 野高校・赤穂高校に合格できる学力上位層の生徒を、新設の相生高 校に進学させるためには、「高校進学は地元の高校への方針を決めま した」という言葉だけでは駄目で、この方針を実行するために当時 の相生市がどれほどの努力を払ったことでしょうか。その甲斐あっ て、新設高校のなかで、相生高校だけが地元の成績上位者が入学し 進学実績のあがる高等学校になっています。 当時の兵庫県教育委員会は、地域の学校を育てようという方針に 理解を示していましたので、こうしたことができました。近年、兵 庫県教育委員会は「学校選択の自由」を掲げ、学区制の拡大を企て ています。これが実現しますと、神戸高校・姫路西高校など都市部 の旧制中学をトップにして高校の階層化が進むと予想されています。 地域の子供は地域が育て、地域の高校は地域に貢献するという姿 勢を大切にしたいものです。

(50)

「市民の友」の抜粋 近隣市町では大多数が仲よく地元高校へ進むのに、相生では大多数 がばらばらになって、よその高校へ行かなければならなかったのです。 そのために相生では他にみられない、きびしい進学の実態が生じてい ます。 新しい高校ができたこの機会にこそ、旧来の慣習を破り地元の高校 へ仲よく進学させたい、そして明日の相生を創る人達を育てたいもの です。 この願いをかなえるために市教育委員会では、市民各層の代表の人 達で作られている高校誘致促進協議会や市議会の新高校対策特別委員 会の人達の支持を得て、高校進学は地元の高校への方針を決めました。

(51)

25.

相生市史の刊行とIHI造船部門の閉鎖

中等教育機関の設立を成就させた相生市にとって、最終段階の目 標は、「相生市としてのアイデンティティ(自己同一性。 あるいは それがよって立つところのもの)の確立」でした。赤穂の「赤穂藩 と忠臣蔵」、龍野の「龍野藩とあかとんぼ」のような歴史的な集合体 としての相生市をイメージし市民を統合できる物語を作り出すこと によって相生市は完成すると市政の担当者たちは考えました。1978 年(S53)、相生市は「相生市史」の編纂に着手し、東寺百合文書に記 録された「矢野荘」の解読を日本史の専門家に依頼します。そして、 1984年(S59)の第一巻から相生市史の発行が始まりました。 ところが、ここで、想定外のことが起こります。プラザ合意によ って円高が進むなか、70年代の造船不況から造船事業の縮小を進め ていたIHIが相生の新造船部門を閉鎖したのです。相生市は大混 乱に陥り、挫折感のなかで人口が減少しました。IHI相生の合理 化を調査した国立国会図書館調査立法考査局は、右のように結論づ けています。 1987年4月24日 最後の進水式 IHI提供

(52)

国立国会図書館調査立法考査局 「企業城下町 相生市の場合」 構造調整のもたらしたもの 結局、構造調整は何をもたらしたのだろうか。 相生地区での新造船は終わりとなった。必要とされる労働力が減少し たので、地域の雇用が減った。人口も減った。労働集約的な産業の衰退 に伴う現象である。しかし、企業そのものは存続している。企業は、こ れを契機に、今後の発展が期待できる部門への人員のシフトを行い、シ フトに応じることのできない人員は余剰労働力として整理した。不採算 部門を切り捨てていくのは、ある意味で企業としては当然の行為なので ある。第一次不況の際には、地元の雇用に対する配慮がなされたが、今 回は企業の論理が優先された。それだけ、厳しい状況だったのである。 相生市及び相生市民にとっては、IHIへの過度の依存に気づかせ、 依存からの脱却への第一歩を踏み出す契機となった(と思いたい)。し かし、依存を脱却する際にも、企業に依存せざるを得ないのが皮肉な現 実である。 離職者について見ると、私たちの調査では、あまり悲惨な例には出会 わなかった。勿論、給料等は切り下げられており、労働時間の長時間化 等、生活の質という面では、明らかに切り下げが起こっているが、失業 保険等による所得保障政策のある程度の充実もあり、日々の暮らしに困 るという程ではない。また、しだいに経済が好況を呈するようになった ため、問題は目に見えないものになってしまった。 下請企業について見ると、この傾向はさらに顕著となる。すなわち、 関連下請企業といえども、実は長期化する不況の中でIHIへの依存を 弱めつつあったのであり、内需拡大による好況もあって他へ活路を求め て達しく企業活動を行っていることがわかった。 しかし何といっても、この機会を最もうまく利用したのは、大合理化 を実施し、人員削減を果たしたIHIであることは疑いがない。 (斎藤純子)

(53)

26.播磨造船所と相生市

1987年(S62)のIHI相生の大リストラによって、相生の衰退が加速 しました。明治時代から「造船所と相生は一体」として盛衰をともに してきた私たち相生市民にとって、IHI相生の大リストラは複雑な 感情を残しています。 私は、皆勤橋や造船所を身近な風景として育ちましたので、最初 の写真集「ふるさと相生の二十世紀写真集」を作成したときは、造 船所の興隆と相生市の発展をモチーフとして写真集を編集しました。 その後、「播磨造船所進水記念絵葉書写真集(1960年まで)」と「播 磨造船所進水記念絵葉書写真集続編(IHIになってから)」を作り ましたが、前半の方が圧倒的におもしろいのです。 それは何故でしょうか。1958年(S33)の創業50周年までの時期は、 造船所と市民を結びつける豊富なエピソードがあり、造船所と市民 の一体感を感じるからだと思います。しかし、本社が東京に移転し、 さらに石川島と合併した後は「何だかなあ」という気がします。 これは仮想ですが、播磨造船所のままで事業を続けていたらどう なったでしょうか。日本の造船業が行き詰まったのですから、造船 主力の播磨造船所は下手をすると破綻してしまったかも知れません。 しかし、相生に本拠をおいたまま万策尽きて倒れたのであれば、播 磨造船所は地域の神話になったことでしょう。 感情的にはIHI相生のリストラに釈然としないものはありますが、 客観的にみると1970年代から相生衰退の兆しはありました。それは、 鉄道と船の時代から自動車の時代への移行期に相生がうまく対応でき なかったからでした。マクロな視点からみますと、明治から高度経済 成長期前までは、天然の良港の時代でした。この時期に発展したのは、 神戸・呉・横須賀のような港町で、相生はこの系統の成功例です。し

(54)

かし、土木技術の発展により、砂浜を掘ることによって深い水深の港 が人工的に建設できるようになると、天然の良港の優位性は失われて しまいました。さらに、自動車の普及は郊外の広い平坦な土地の価値 を高めました。 相生は、1950年代に中央通りを建設するなど当時としては新しい思 想にもとづいたまちづくりを進めていました。しかしながら、ここま で自動車が普及するとは想定外のことであったでしょうし、想定でき なかったとしても、それはやむを得ないことであったと思います。 「今から思えば」ということはありますが、それは、結果論にすぎ ません。 この頃、播磨病院・総合事務所・相生球場・プールなどが建設され、 半世紀にわたって相生を支えました。 1958年 播磨造船所創業50周年記念式典

(55)

27.二十世紀の相生のまちづくりと相生の弱点

造船所の大リストラの衝撃によって1990年代から相生が衰退し、「昔 は良かった」という雰囲気のなかで20年余りが経過しました。しかし、 二十世紀の百年をとおしてみれば、相生は衰退しているどころか大成 功をおさめました。 「造船所による村おこし」というコンセプトによって、相生は、龍 野・赤穂と並ぶ小都市に成長しています。唐端清太郎村長が「相生 おうの将来を造船所に託そう」と考えた頃と比べれば、相生市という 組織、二つの県立高校、新幹線の駅があります。 それでは、相生市に欠けているものは何なのでしょうか。私は、「相 生だけでやっていく」という決意なのではないかと思うのです。 1960年代、2000年代と「相生・龍野・赤穂」を合併させて「西播磨 に十万都市を」という動きがありましたが、どちらも不調に終わりま した。私は、赤穂藩と龍野藩が合併することはないと思います。まし て、相生を中心地にして「相生・龍野・赤穂」が合併することはあり 得ません。 城下町は小京都といわれることがありますが、それは建物等のハ ードが似ているだけでなく、周囲の村々の住民から中心地と認めら れるという性格(ソフト)に本質があります。京都が日本の中心地 であるように、城下町は領国(藩)の中心地(小京都)なのです。 藩を超えて合併することは、どちらかが中心地(首都)であること を放棄することになります。資本・経営の論理は、合併によって大 型化や効率化を進めようとしますが、地域の論理からみますと、二 つの地域が同質化されるということは吸収合併された側の歴史・文 化が失われてしまうことを意味します。小京都として自分たちの歴 史・文化を誇りに思っている城下町が他者に吸収されることを拒む

参照

関連したドキュメント

○菊地会長 ありがとうござ います。. 私も見ましたけれども、 黒沼先生の感想ど おり、授業科目と してはより分かり

とりひとりと同じように。 いま とお むかし みなみ うみ おお りくち いこうずい き ふか うみ そこ

○今村委員 分かりました。.

○齋藤部会長 ありがとうございました。..

これからはしっかりかもうと 思います。かむことは、そこ まで大事じゃないと思って いたけど、毒消し効果があ

○安井会長 ありがとうございました。.

きも活発になってきております。そういう意味では、このカーボン・プライシングとい

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場