中等教育機関の設立を成就させた相生市にとって、最終段階の目 標は、「相生市としてのアイデンティティ(自己同一性。 あるいは それがよって立つところのもの)の確立」でした。赤穂の「赤穂藩 と忠臣蔵」、龍野の「龍野藩とあかとんぼ」のような歴史的な集合体 としての相生市をイメージし市民を統合できる物語を作り出すこと によって相生市は完成すると市政の担当者たちは考えました。1978 年(S53)、相生市は「相生市史」の編纂に着手し、東寺百合文書に記 録された「矢野荘」の解読を日本史の専門家に依頼します。そして、
1984年(S59)の第一巻から相生市史の発行が始まりました。
ところが、ここで、想定外のことが起こります。プラザ合意によ って円高が進むなか、70年代の造船不況から造船事業の縮小を進め ていたIHIが相生の新造船部門を閉鎖したのです。相生市は大混 乱に陥り、挫折感のなかで人口が減少しました。IHI相生の合理 化を調査した国立国会図書館調査立法考査局は、右のように結論づ けています。
1987年4月24日 最後の進水式 IHI提供
国立国会図書館調査立法考査局
「企業城下町 相生市の場合」 構造調整のもたらしたもの 結局、構造調整は何をもたらしたのだろうか。
相生地区での新造船は終わりとなった。必要とされる労働力が減少し たので、地域の雇用が減った。人口も減った。労働集約的な産業の衰退 に伴う現象である。しかし、企業そのものは存続している。企業は、こ れを契機に、今後の発展が期待できる部門への人員のシフトを行い、シ フトに応じることのできない人員は余剰労働力として整理した。不採算 部門を切り捨てていくのは、ある意味で企業としては当然の行為なので ある。第一次不況の際には、地元の雇用に対する配慮がなされたが、今 回は企業の論理が優先された。それだけ、厳しい状況だったのである。
相生市及び相生市民にとっては、IHIへの過度の依存に気づかせ、
依存からの脱却への第一歩を踏み出す契機となった(と思いたい)。し かし、依存を脱却する際にも、企業に依存せざるを得ないのが皮肉な現 実である。
離職者について見ると、私たちの調査では、あまり悲惨な例には出会 わなかった。勿論、給料等は切り下げられており、労働時間の長時間化 等、生活の質という面では、明らかに切り下げが起こっているが、失業 保険等による所得保障政策のある程度の充実もあり、日々の暮らしに困 るという程ではない。また、しだいに経済が好況を呈するようになった ため、問題は目に見えないものになってしまった。
下請企業について見ると、この傾向はさらに顕著となる。すなわち、
関連下請企業といえども、実は長期化する不況の中でIHIへの依存を 弱めつつあったのであり、内需拡大による好況もあって他へ活路を求め て達しく企業活動を行っていることがわかった。
しかし何といっても、この機会を最もうまく利用したのは、大合理化 を実施し、人員削減を果たしたIHIであることは疑いがない。
(斎藤純子)
26.播磨造船所と相生市
1987年(S62)のIHI相生の大リストラによって、相生の衰退が加速 しました。明治時代から「造船所と相生は一体」として盛衰をともに してきた私たち相生市民にとって、IHI相生の大リストラは複雑な 感情を残しています。
私は、皆勤橋や造船所を身近な風景として育ちましたので、最初 の写真集「ふるさと相生の二十世紀写真集」を作成したときは、造 船所の興隆と相生市の発展をモチーフとして写真集を編集しました。
その後、「播磨造船所進水記念絵葉書写真集(1960年まで)」と「播 磨造船所進水記念絵葉書写真集続編(IHIになってから)」を作り ましたが、前半の方が圧倒的におもしろいのです。
それは何故でしょうか。1958年(S33)の創業50周年までの時期は、
造船所と市民を結びつける豊富なエピソードがあり、造船所と市民 の一体感を感じるからだと思います。しかし、本社が東京に移転し、
さらに石川島と合併した後は「何だかなあ」という気がします。
これは仮想ですが、播磨造船所のままで事業を続けていたらどう なったでしょうか。日本の造船業が行き詰まったのですから、造船 主力の播磨造船所は下手をすると破綻してしまったかも知れません。
しかし、相生に本拠をおいたまま万策尽きて倒れたのであれば、播 磨造船所は地域の神話になったことでしょう。
感情的にはIHI相生のリストラに釈然としないものはありますが、
客観的にみると1970年代から相生衰退の兆しはありました。それは、
鉄道と船の時代から自動車の時代への移行期に相生がうまく対応でき なかったからでした。マクロな視点からみますと、明治から高度経済 成長期前までは、天然の良港の時代でした。この時期に発展したのは、
神戸・呉・横須賀のような港町で、相生はこの系統の成功例です。し
かし、土木技術の発展により、砂浜を掘ることによって深い水深の港 が人工的に建設できるようになると、天然の良港の優位性は失われて しまいました。さらに、自動車の普及は郊外の広い平坦な土地の価値 を高めました。
相生は、1950年代に中央通りを建設するなど当時としては新しい思 想にもとづいたまちづくりを進めていました。しかしながら、ここま で自動車が普及するとは想定外のことであったでしょうし、想定でき なかったとしても、それはやむを得ないことであったと思います。
「今から思えば」ということはありますが、それは、結果論にすぎ ません。
この頃、播磨病院・総合事務所・相生球場・プールなどが建設され、
半世紀にわたって相生を支えました。
1958年 播磨造船所創業50周年記念式典
27.二十世紀の相生のまちづくりと相生の弱点
造船所の大リストラの衝撃によって1990年代から相生が衰退し、「昔 は良かった」という雰囲気のなかで20年余りが経過しました。しかし、
二十世紀の百年をとおしてみれば、相生は衰退しているどころか大成 功をおさめました。
「造船所による村おこし」というコンセプトによって、相生は、龍 野・赤穂と並ぶ小都市に成長しています。唐端清太郎村長が「相生
おうの将来を造船所に託そう」と考えた頃と比べれば、相生市という 組織、二つの県立高校、新幹線の駅があります。
それでは、相生市に欠けているものは何なのでしょうか。私は、「相 生だけでやっていく」という決意なのではないかと思うのです。
1960年代、2000年代と「相生・龍野・赤穂」を合併させて「西播磨 に十万都市を」という動きがありましたが、どちらも不調に終わりま した。私は、赤穂藩と龍野藩が合併することはないと思います。まし て、相生を中心地にして「相生・龍野・赤穂」が合併することはあり 得ません。
城下町は小京都といわれることがありますが、それは建物等のハ ードが似ているだけでなく、周囲の村々の住民から中心地と認めら れるという性格(ソフト)に本質があります。京都が日本の中心地 であるように、城下町は領国(藩)の中心地(小京都)なのです。
藩を超えて合併することは、どちらかが中心地(首都)であること を放棄することになります。資本・経営の論理は、合併によって大 型化や効率化を進めようとしますが、地域の論理からみますと、二 つの地域が同質化されるということは吸収合併された側の歴史・文 化が失われてしまうことを意味します。小京都として自分たちの歴 史・文化を誇りに思っている城下町が他者に吸収されることを拒む
のは、当然の行動といえるでしょう。兵庫県では、あの神戸ですら 明石を吸収することができませんでした。
幕藩体制の優れたところは、その地の人材に「この土地で頑張る しかない」と宿命づけたことにあります。この宿命のなかで、200年 に及ぶ統治経験を有することが龍野・赤穂の強みであり、その200年 を赤穂や上郡の統治に依存して過ごさざるを得なかったことが相生 の弱みです。播磨造船所は、鈴木商店の文化を受けつぐ社風をもち 地域と共生していましたが、最終的には、資本の論理に従いました。
ここが、地域を本源とする城下町と、資本を本源とする企業城下町 の似て非なるところです。
相生あいおいのもう一つの弱みは、那波村・相生おう村・若狭野村・
矢野村という似た規模の村が合併したために、すべての人が中心地 と認める地域が存在せず、統一体という意識が薄いことにあるので はないでしょうか。
さらに、矢野・若狭野が天領、那波・相生が赤穂藩と分断され、
しかも赤穂藩は「相生は漁港 那波は商港」という分断統治政策を とっていました。天領は税率が低く、「天領は藩領より上」という意 識があったと言われています。さらに「佐方さびしや、おうやかま しや、那波の浦こそ都なれ」という那波中心意識とおうの対抗意識 もあったでしょう。そのなかで、播磨造船所が興隆し造船所主導で
「那波と相生」の合併、そして戦時中の相生市の成立と戦後の市域 拡大が行われましたが、那波・相生おう・若狭野・矢野という地域の 対抗意識は消えませんでした。
戦後の町村合併から、まもなく60年。私たちは、相生は一つの統 一体であるという意識を持って、まちづくりを進めたいものです。