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Int. Relations 168: (2012)

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74 日本国際政治学会編﹃国際政治﹄第 168号﹁国際政治研究の先端 9﹂ ︵二○一二年二月︶

冷戦期西ドイツの対外文化政策

︱︱﹁外交の第三の柱﹂の形成︱︱

川 村 陶 子 

ド イ ツ で は 、 ﹁ 文 化 政 策 は 外 交 の 第 三 の 柱︵ dritte S ¨aule ま た は dritter Pfeiler der Außenpolitik ︶ ﹂という表現 が定着して いる。外 務 省 ウ ェ ブ サ イ ト に は 、 対 外 文 化 政 策 ︵ ausw ¨artige ︵ 1︶ Kulturpolitik ︶ は﹁政治的・経 済的関係 と並ぶ、ド イツの対 外政策の 三本の柱 のひ とつ ︵ 2︶ です﹂とある。文化交流関係者もこの用語を使用して ︵ 3︶ いる。 ﹁外交 の第三の 柱﹂とは、文 化を政治 、経済と並 ぶ国際関 係の主 要領域 とみなす という思 考である 。こうした 考えは、東 ドイツと の 競争が 激化し国 民分断が 固定化す る中で普 及した。本 論文では 、対 外文化 政策の形 成過程に 分け入り 、戦後西ド イツで﹁第 三の柱﹂と いう理 念がいか につくら れたかを 明らかに する。文化 を﹁外交の 第 三の領 域﹂に位置 づける論 理の効用 と弊害も 考察した い。一九五 〇 年代後 半から六 〇年代後 半までを 対象に、刊 行資料と 外交文書 、連 邦議会資料を主材料として分析する。 対 外 文 化 政 策 の 公 的 原 則 は 、一 九 六 九 年 に 成 立 し た ブ ラ ン ト 政 権、続くシュミ ット政権 の社民リ ベラル連 立時代に 形成され た。こ の時期には 、広義の文 化概念、互 恵的で双 方向的な 交流、政府 外機 関への事業委 託といっ た理念を 掲げた文 書が種々 策定され 、今日の 対外文化政策 も、これら 原則にほ ぼ沿って 行われて いる。本論 文で 取り上げるア デナウア ー政権か らキージ ンガー大 連立政権 は、公的 原則形成前の 時代にあ たる。先行 研究は、こ の時期の 対外文化 政策 を冷戦と東西 ドイツ関 係の文脈 で考察し ており、第 三国での 両独の 対立・ ︵ 4︶ 競争、東西間交流などに着目して ︵ 5︶ いる。 本論 文では、冷 戦期西ド イツの対 外文化政 策を次の 二つの視 点か ら考察する。第 一に、連邦 共和国の 対外文化 政策形成 史の一段 階と しての検討で ある。西ド イツ外務 省が文化 政策の主 体的立案 実施を 模索するのは 一九五〇 年代後半 以降であ り、一般的 には冷戦 の進行

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75 冷戦期西ドイツの対外文化政策 や東西両 独の対立 がこうし た展開を 規定した とされる 。しかし、現 場の議論 を検討す ると、単な る東への 対抗論理 でない、国 際関係の 構 造 変 化 へ の 認 識 が 確 認 で き る 。そ の よ う な 認 識 は 、交 流 に よ る 国 民 間 関 係 運 営 を 志 向 し た 七 〇 年 代 の 公 的 理 念 に つ な が る も の で ある。 第二に、国 際関係に おける文 化をめぐ る理念の 展開事例 としての 検討で ある。ドイ ツでは文 化が近代 国民国家 形成の鍵 概念であ った 上に、ナ チス時代 への反省 も相まっ て、国家や 国際関係 と文化に 関 し て 幅 広 い 議 論 が な さ れ て き た 。戦 後 、文 化 を 外 交 の﹁ 第 三 の 柱 ﹂ とみな す理念の 普及は、対 外文化政 策の重要 性に対す る意識を 高め た が 、同 時 に 文 化 事 業 の 混 乱 を 助 長 し 深 刻 化 さ せ た よ う に も 思 わ れる。 以 下 で は ま ず 、敗 戦 後 の 西 ド イ ツ が 対 外 文 化 政 策 を 遂 行 し づ ら かった 事情を概 観する。そ の上で、東 ドイツの 文化攻勢 が活発化 す る中、外 国で文化 事業を体 系的に行 うべきだ という議 論が高ま った 過程を 考察する 。文化が政 治・経済と並 ぶ外交の 重点であ るという 認 識 は 、一 九 五 九 年 か ら 六 六 年 ま で 外 務 省 文 化 局 長 を 務 め た ザ ッ ト ラ ー ︵ Dieter Sattler ︶ が ﹁ 外 交 の 第 三 の 舞 台 ︵ dritte B ¨uhne der Außenpolitik ︶﹂ 、 そ の 後 大 連 立 政 権 の 外 相 ブ ラ ン ト ︵ W illy Brandt ︶ が﹁外交の 第三の柱 ﹂というフ レーズを 用いたこ とで、普及 し定着 し て い っ た 。本 論 後 半 で は 、 ﹁ 第 三 の 舞 台 ﹂論 と﹁ 第 三 の 柱 ﹂論 の 展開過程 を分析し 、両者の共 通性と相 違を、こう した用語 法が政策 に与えた 影響を念 頭に置き つつ考察 する。なお 、本論文で は、ドイ ツ 連 邦 共 和 国 を 呼 称 す る 際 、略 称 と し て ド イ ツ と い う 名 称 を 用 い 、 必要に応じて、西ドイツ、連邦共和国といった呼称も使用する。

二度目の敗戦と公的対外文化事業の困難

建国 直後のド イツ連邦 共和国は 、対外的な 文化事業 の実施が 難し い状況にあっ た。当初は 首相府内 の連合国 高等弁務 官連絡事 務所が 外 交 を 担 っ て お り 、こ こ に 一 九 四 九 年 一 一 月 か ら 文 化 課 が お か れ 、 五一年春の外 務省設立 時に文化 局へと発 展した。だ が、五〇年 代前 半になっても 、同局が主 体的に事 業を行っ た形跡は みられな い。五 〇 年 前 後 に は 、戦 間 期 に つ く ら れ た 文 化 交 流 団 体 が 活 動 を 再 開 し 、 民間から文化 交流の政 策提言が 寄せられ ることも あったが 、外務省 は折々の実務 的要請に 対応する 形で業務 を行って いた。五四 年まで 初 代 文 化 局 長 を 務 め た ザ ラ ー ト ︵ Rudolf Salat ︶ は 、 自 身 の 仕 事 が 、 旧西 側占領国 や西欧諸 国との連 絡、国際機 関への代 表派遣、国 内諸 団体の支援などだったと回想して ︵ 6︶ いる。 連邦 政府が対 外文化政 策に消極 的だった 背景には 、四つの事 情が あった。第一 は、敗戦に よる物理 的損害で ある。文化 局は、一九 五 四 年 二 月 に ボ ン の 外 務 省 庁 舎 が 完 成 す る ま で 、木 造 バ ラ ッ ク や 旧 い 兵 舎 を 転 々 と し て い た 。文 書 の 破 壊 や 紛 失 も 業 務 に 支 障 を も た ら ︵ 7︶ した。第二に 、外務省設 立に先行 して形成 された諸 制度が障 害と なっ た。連邦国 家体制の 下、一九四 八年に州 立文部大 臣会議︵K M K︶が 設立され 、国際文化 交流もそ こでの議 題となっ ていた。こ の ため 、対外文化 政策の立 案実施に 際し、外務 省とKM Kの間で 恒常

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76 的な調整 が必要と なった。さ らに、連邦 政府内で は、内務省 も文化 交流関連 施策を行 っていた ため、外務 省との間 で個別領 域ごとに 業 務分担が 交渉され 、多くの時 間と労力 が失われ た。第三に 、周辺諸 国 と の 摩 擦 も 懸 念 さ れ た 。 ﹁ 反 フ ァ シ ズ ム ﹂を 旗 印 と し た 東 ド イ ツ と異なり 、西ドイツ にはナチ スの人種 政策や文 化統制の 印象が色 濃 く残って いた。外務 省関係者 は、国が文 化政策を 主体的に 行うこと は諸外国 の不安や 疑念を煽 ると考え 、相手国や 民間から の要請対 応 を業務の 中心とし た。第四に 、ヨーロッ パの東西 分断が妨 げとなっ た。連邦政 府は東ド イツ国家 と東部国 境を国際 法上承認 しなかっ た が、鉄のカ ーテンの 向こう側 の文化的 業績をも﹁ ドイツ文 化﹂とみ な す こ と は 大 き な 問 題 を 伴 ︵ 8︶ った。 ﹁ ド イ ツ 文 化 ﹂定 義 の 困 難 は 、そ れを取り扱う事業の発展をも必然的に阻害した。 連邦政府 のこうし た消極性 は、ヴァイ マル共和 国時代と は対照的 である 。第一次大 戦敗戦時 、共和国派 勢力には ドイツの 文化を広 め ようと の合意が ︵ 9︶ あり、とくに 旧帝国領 地域のド イツ系住 民に向け て 文化事 業が活発 に行われ ︵ 10︶ たが、二度目 の敗戦は 、政府の文 化政策へ の意欲を大 きく減退 させた。文 化は外交 上の重点 とされず 、文化局 長ザラート の肩書は 一九五四 年の離任 まで﹁局長 臨時代理 ﹂のまま であった。文 化局は人 員が不足 し、管轄調 整にも労 力を割か れ、十 分に事業を立案、展開できる体制ではなかった。

対外政策における文化の活用の要請

しか し、一九五 〇年代半 ば過ぎに は、政治・経済 と別次元 での国 際関係運営の 有用性が 認識され 始めた。声 を挙げた のは、各地 の在 外公館に駐在する文化担当官たちであった。 一 九 五 六 年 一 月 末 か ら 二 月 に か け て ボ ン で 開 か れ た 会 議 で は 、 ヨ ー ロ ッ パ 、米 国 、地 中 海 地 域 の 計 一 三 名 の 文 化 担 当 官 が 、 ﹁ 東 ブ ロック諸国﹂が 大々的な 文化活動 を行い、強 い存在感 を示して いる と報告した 。ハルシュ タイン次 官も、共産 主義との﹁ 戦争は⋮⋮ 物 質的な闘い にとどま らないの であり、精 神的・知的な 諸力の投 入が 必 要 だ ﹂と 述 べ て ︵ 11︶ いる。翌 年 に は 、 ﹁ 東 ブ ロ ッ ク ﹂や﹁ ソ 連 占 領 地 区﹂の文 化攻勢を 伝える公 電が世界 各地から 舞い込 ︵ 12︶ んだ。パリで は ドレス デン交響 楽団やベ ルリナー・ア ンサンブ ルに芸術 愛好家が 心 酔して いる、カイ ロではジ ャーナリ ストが年 に四度も 東ドイツ に招 か れ た な ど 、と く に 東 ド イ ツ の 文 化 事 業 に つ い て 詳 細 に 報 告 さ れ 、 対抗措置が要請されている。 やが て、防戦的 思考から 一歩進み 、西ドイツ の国際的 信頼回復 に 向けて文化を 外交の重 点とすべ きだと主 張する人 びとが現 れた。在 外公館の人手 不足を補 うため、民 間から起 用された 文化担当 官たち で あ る 。ワ シ ン ト ン D C 駐 在 の ヴ ェ ル ナ ー ︵ Bruno E. W erner ︶ は 、 一九五 八年七月 の講演で 、西ドイツ はいまだ に移民向 け民族事 業の 延長線 上で文化 事業を行 っており 、その﹁お粗 末さ﹂が米 国でドイ ツ の 地 位 を 凋 落 さ せ て い る と 嘆 い た 。彼 は 、ド イ ツ 語 普 及 も よ い

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77 冷戦期西ドイツの対外文化政策 が 、英 語 に よ る 伝 達 や 非 言 語 的 媒 体 も 重 視 し 、 ﹁ 外 国 の エ リ ー ト に 語りかけ 、ドイツ文 化への好 奇心をそ そる﹂こと に注力す べきと述 べた。そし て、英国の モデルに 倣った、外 務省から 独立し、十 分な 組織と人員をもつ文化交流団体の設置を主張 ︵ 13︶ した。 同 年 後 半 に は 、ド イ ツ 外 交 研 究 所︵ D G A P ︶が 、﹁ 外 国 に お け るド イツ文化 事業促進 のための 団体設立 の提言﹂を 発表 ︵ 14︶ した。シュ テ ル ツ ァ ー・プ ラ ン と よ ば れ た こ の 文 書 は 、D G A P 総 裁 シ ュ テ ル ツ ァ ー ︵ Theodor Steltzer ︶ 名 義 で 公 表 さ れ た が 、 そ の 立 役 者 は 、 ロ ー マ の 西 ド イ ツ 大 使 館 で 文 化 担 当 官 を 務 め て い た ザ ッ ト ラ ー で あった。ザ ットラー は建築家 を生業と していた が、一九五 二年に外 務 省 に 入 省 し 、ロ ー マ で 勤 務 し て い た 。 ﹁ 東 の 文 化 攻 勢 ﹂を 日 々 実 感してい た彼は、シ ュテルツ ァーを私 邸に招き 、初代文化 局長のザ ラ ー ト も 交 え て 対 外 文 化 政 策 の 改 革 構 想 を 練 り 、 提 言 書 を 起 草 ︵ 15︶ した。 国際文化事 業を行う 公法上の 団体創設 を求め、組 織構成や 活動分野 も具体的に提案している。 当時の 西ドイツ では、連邦 制や縦割 り行政、多 数の民間 団体の関 与が、対 外文化政 策の透明 性と円滑 性を損な っている という憂 慮が 広が って ︵ 16︶ いた。ヴェル ナー演 説とシ ュテル ツァー・プ ランは 、こう した流 れの中で 生まれた が、単なる 組織改革 論ではな かった。そ れ らは、世 界の構造 変化への 洞察に基 づく、新し い国際関 係運営の 提 言でもあった。 ヴェル ナーは、 ﹁世界の 緊張や摩 擦が、⋮⋮国 民国家体 制の空間 、 国境の 維持やそ の帝国主 義的拡張 、つまり二 次元のレ ベルから 、こ の一〇年 間でより 包括的な 、三次元的 空間へと 移行して いる﹂と述 べ る 。 ﹁ 東 の 諸 国 民 の 台 頭 ﹂や﹁ 植 民 地 シ ス テ ム の 終 焉 ﹂に 直 面 す る 今 日 、 ﹁ ヨ ー ロ ッ パ 文 化 の 存 続 ﹂が 問 わ れ て お り 、対 外 文 化 政 策 は﹁今日の 芸術、文学 、学術の活 動を⋮⋮世 界の人び とに示す ﹂こ とで、その 要請にこ たえうる とさ ︵ 17︶ れる。西洋中 心的秩序 から多元 的 価値観の競 合へと移 行する中 、外交の刷 新が必要 との考え が表れて いる。 一九 五八年前 後は、ヨー ロッパの 国際情勢 が緊迫し た時期で あっ た。五七年秋に はスプー トニク衛 星打ち上 げが成功 し、東ドイ ツが ユ ー ゴ ス ラ ヴ ィ ア と 国 交 を 樹 立 す る な ど 、﹁ 東 ブ ロ ッ ク ﹂ の 伸 張 が 実 感 さ れ て い た 。翌 年 一 一 月 に は 、ソ 連 が 西 ベ ル リ ン 中 立 化 を 迫 る 。 ヴェルナー演 説は、こう した状況 を米国か ら観察し た文化担 当官の 意欲的な提言であった。 シュ テルツァ ー・プランは 、世界の分 断よりも 、国境を越 えたつ な が り の 増 大 に 着 目 す る 。 ﹁ 人 類 の 運 命 ﹂へ の 意 識 の 高 ま り 、自 然 科 学 を 端 緒 と し た﹁ 普 遍 的 思 考 へ の 移 行 ﹂ 、宗 教 な ど の﹁ 精 神 的 支 柱の回復要求 ﹂ 、 ﹁人類史 の全体的 関連性を 示す、新し い歴史像 の希 求﹂といった動 きを看過 すべきで ないとい う。途上国 も先進国 も対 等 な 立 場 で 、﹁ 近 代 が も た ら し た 人 類 的 な 文 化 の 問 題 ﹂ に 取 り 組 む べ き で あ り 、国 際 的 相 互 理 解 と 人 類 的 協 力 に 役 立 つ 文 化 活 動 を こ そ 、 ドイツの対外関係運営の核とすべきだと主張 ︵ 18︶ する。 こ の 頃 は 、西 ド イ ツ で 核 を め ぐ る 問 題 が 浮 上 し た 時 期 で も あ っ た。アデナウア ー首相の NATO 枠内核武 装容認発 言に対し 、超党

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78 派 の﹁ 核 の 死 に 対 す る 闘 争 ﹂が 展 開 さ れ て い た 。シ ュ テ ル ツ ァ ー・ プランが 国際協力 を訴えた 背景には 、国際関係 の研究や 実践に関 わ る人びと が、こうし た形で﹁人 類の一体 化﹂を実感 していた 事情が あった。 ヴ ェ ル ナ ー 演 説 は 全 国 紙 で 報 じ ︵ 19︶ られ、 全 文 が 論 壇 誌 で 公 開 さ れ た 。 しか し、文化担 当官が本 省と異な る見解の 発言をし たことに 、外務 省内 では風 当たり が強ま ︵ 20︶ った。シュテ ルツァ ー・プラン も外務 省や 各 州 文 化 省 で 批 判 さ れ 、提 言 内 容 は 実 行 に 移 さ れ な か ︵ 21︶ った。他 方 、 こうした 動きは、国 際関係や 文化政策 に関心を 持つ人び とに文化 交 流への注 目を促し た。一九五 八年一一 月末、フリ ードリヒ・エ ーベ ルト財団 が二日間 の会合を 開催し、連 邦議会議 員、外務省 文化局ス タッフ、文 化交流 機関職 員らが 討論を 行 ︵ 22︶ った。翌年一 月には 、連邦 議会 で与党議 員が対外 文化関係 振興に関 する小質 問を提出 ︵ 23︶ した。二 月 に は 経 済 団 体 系 の 組 織 が 資 料 集 を 発 行 し 、 政 策 構 想 整 備 を 促 ︵ 24︶ した。 こ の よ う な 中 で 一 九 五 九 年 七 月 、 ザ ッ ト ラ ー が ボ ン に 召 還 さ れ た 。 彼は六 六年三月 まで七年 近く、外務 本省の文 化局長を 務めるこ とに な る 。 ﹁ 文 化 は 政 治・経 済 と 並 ぶ 外 交 の 重 点 ﹂と い う 理 念 は 、ザ ッ トラー局長の下で大きく発展していった。

ザットラーの﹁外交の第三の舞台﹂

ザット ラーは、文 化局長在 任中、文化 は﹁外交の 第三の舞 台﹂と いうモ ットーを 打ち出し 、文化が政 治・経済と同 等に重視 されるべ く力を 尽くした 。外交を複 数の要素 に分け、文 化を他と 同様に扱 う べ き だ と す る 主 張 は 、以 前 に も 存 在 し た が 、概 ね 修 辞 的 な も の で あった。た とえば、ヴ ェルナー は先述の 演説で、経 済が国に 収入を もたらす﹁ 赤い頬を した兄﹂で あるのに 対し、文化 政策は裏 庭に閉 じこめ られ栄 養不足 の﹁青白 い顔の 弟﹂だと して ︵ 25︶ いる。これに 対し て、ザ ットラー は、文化こ そ今後の 国際関係 運営の中 心手段で ある というテーゼを、局長就任当初から主張し続けた。 一九 六〇年出 版の小論 で彼は、国 境を越え る動きが 活発化し 、戦 争が国家間関 係の運営 手段とし て無意味 になる中 、文化交流 が通商 政策ととも に国民 間の﹁出 会いの 場﹂とな ると述 べて ︵ 26︶ いる。その後 彼は、外 交の場を 演劇の舞 台になぞ らえ、文化 は軍事、経 済と並ぶ ﹁ 第 三 の 舞 台 ﹂と い う 主 張 を 展 開 す る 。六 三 年 出 版 の 論 文 で は 次 の よ う に 論 じ る 。 ﹁ 数 千 年 間 に わ た り 、国 民・民 族 間 の 関 係 は ⋮⋮ 軍 事的に 決定され てきた。そ れに加え て、最近の 四∼五世 紀におい て は、商業 政策の重 要性が増 している 。二〇世紀 の現在、対 外関係の ﹃ 第 三 の 舞 台 ﹄が 姿 を 現 し 始 め た よ う に み ︵ 27︶ える。 ﹂ 。こ の 論 文 は 、そ の後若干修 正され、翌 年発行の 論集﹃対外 文化関係 年報﹄創刊 号に 掲載 ︵ 28︶ された。ザッ トラーは 外務省文 化局年次 報告の巻 頭文でも 同趣 旨の 議論を 行って ︵ 29︶ いる。文化政 策は﹁外 交の第 三の舞 台﹂とい う表 現は、この頃から関係者に流通していったと思われる。 ザッ トラーは 、文化政策 に﹁外交の 第三の舞 台﹂に見合 う実質を 与えるべく 奮闘した 。第一に、在 外施設の 運営制度 を整備し た。文 化 会 館 は 、 外 務 省 や 現 地 協 会 が 国 ご と に 異 な る 形 で 所 管 し て い た が 、 一 九 五 九 年 夏 以 降 、そ れ ら を す べ て ゲ ー テ・イ ン ス テ ィ ト ゥ ー ト

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79 冷戦期西ドイツの対外文化政策 ︵ G I ︶ に 移 管 し 、 会 館 事 業 は ド イ ツ 系 移 民 で な く 現 地 国 民 全 般 に 向 ける こと、事業 内容はG Iが主体 となって 決めるこ とを定 ︵ 30︶ めた。在 外ドイツ 人学校へ の教師派 遣事務は 、連邦行政 庁に移管 した。シュ テルツァ ー・プランが 構想した 総合的機 関の代わ りに、分野 別に委 託 先 を 決 め 、専 門 家 が 事 業 を 立 案 遂 行 す る 体 制 を 整 ︵ 31︶ えた。第 二 に 、 文 化 政 策 予 算 を 強 化 し 、着 任 後 三 年 間 は 毎 年 約 三 割 の 増 額 を 実 現 ︵ 32︶ した。ブ レ ン タ ー ノ︵ H. v. Brentano ︶外 相 の 協 力 に 加 え 、ザ ッ ト ラーが 自身の政 界人脈に 働きかけ た成果で あった。た だし六二 年以 降、全体 予算の 伸び悩 みや大 臣の交 代で、文 化予算 は停滞 ︵ 33︶ した。第 三に、方針 整備のた め、外部有 識者によ る文化政 策審議会 を招集し た。初回会 合は六一 年一月で 、ザットラ ー在任中 に計一二 回開催さ ︵ 34︶ れた。委員は 研究者 や文筆 家、教会・教 育関係 者、政治 家など 十数 名であ り、会議は 非公開で 、文化の重 要性を一 般に印象 づける役 割 をもた されて ︵ 35︶ いた。このほ か、六四年 からは対 外文化政 策の年次 報 告を発行し、予算や事業の記録蓄積に努 ︵ 36︶ めた。 精力的活 動の結果 、文化交流 は政治の 表舞台で 注目を浴 びていっ た 。そ の 例 証 が 連 邦 議 会 で の 扱 い で あ る 。各 会 派 が 大 質 問︵ Große Anfrage ︶を 提 出 し 、本 会 議 で 文 化 政 策 の 意 義 や 方 策 を 討 論 ︵ 37︶ したほ か、議員 の個人質 問も増え た。一九六 四年末に は、外交委 員会が政 策目標 に関する 報告書を 作成 ︵ 38︶ した。六五年 には在外 学校の現 状報告 を求める本 会議決議 が採択さ れ、外務省 が五一ペ ージの報 告書を提 出 ︵ 39︶ した。同年秋 、エアハル ト首相が 施政方針 演説で対 外文化政 策強 化 に 言 及 ︵ 40︶ する。そ し て 六 六 年 三 月 に は 与 野 党 会 派 が 在 外 学 校 事 業 、 六月には 社民党会 派が対外 文化事業 強化に関 する決議 案をそれ ぞれ 提出し、本会議で審議さ ︵ 41︶ れた。 ザッ トラーの 局長在任 中は、東ド イツが盛 んに文化 宣伝を行 って いた。一九六 一年三月 の文化担 当官会合 では、世界 各地での﹁ ソ連 占 領 地 区 ﹂広 報 活 動 が 報 告 さ れ 、出 席 者 は 皆 西 ド イ ツ 側 の 人 員 増 強 や 文 化 セ ン タ ー 設 置 の 必 要 性 を 訴 ︵ 42︶ えた。ベ ル リ ン の 壁 建 設 後 も 、 ﹁ 東 ﹂へ の 対 抗 措 置 と し て 文 化 事 業 に て こ 入 れ せ よ と い う 主 張 が 折 に触れてなさ れた。この ように、文 化事業振 興策が支 持を集め たの には、東西関係緊張の影響も大きいと考えられる。 ただ し、ザット ラー自身 の対外文 化政策観 は、より長 期的な国 際 関 係 の 展 望 に 基 づ い て い た 。本 節 前 半 で 取 り 上 げ た 彼 の 諸 論 考 は 、 東ドイツはお ろか東西 対立にも ほとんど 言及せず 、代わりに 冷戦と 関連しつつ進 行する国 際関係の 構造変容 が強く意 識されて いる。そ の 変 容 と は 、 科 学 技 術 の 発 展 と 相 互 依 存 の 深 化 で あ り 、 文 化 事 業 は 、 そうした不可 逆的流れ の中で、国 民や社会 の間の関 係を構築 する重 要手段とみなされていた。 文化 事業をよ り短いス パンで外 交の手段 にしよう としたの は、一 九 六 六 年 末 に 成 立 し た 大 連 立 政 権 で 外 相 と な っ た ブ ラ ン ト で あ っ た。後に首相と なる彼の 力により 、対外文化 政策は注 目を集め ると 同時に、その性格をナショナルなものへと変えていった。

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ブラント外相と﹁外交の第三の柱﹂

ブ ラ ン ト 外 相 は 、対 外 文 化 政 策 を﹁ 外 交 の 第 三 の 柱 ﹂と 表 現 し 、 自 身 の 推 進 す る 緊 張 緩 和・平 和 政 策 の 一 環 に 位 置 づ け よ う と し た 。 就任翌 月には、文 化局に対 外文化政 策の原則 と組織の 説明を求 めて ︵ 43︶ いる。文化へ の関心が 薄かった 歴代外相 と異なり 、彼がこの 分野を 外交の重点領域とみなし、自ら統括しようとしたことが窺える。 一九六七 年六月の 連邦議会 予算審議 で、ブラン トは次の ように発 言 し た 。 ﹁ 対 外 文 化 政 策 は 、事 実 上 、現 代 の 対 外 政 策 の 三 本 柱 の 一 つにな りました 。狭義の外 交、対外通 商政策と 並んで、そ れらと等 し い 価 値 を 占 め て い ︵ 44︶ ます﹂ 。同 年 発 行 の 外 務 省 文 化 政 策 年 報 巻 頭 言 も 、同 様 の 文 章 で 始 ま る 。 ﹁ 対 外 文 化 政 策 は 、現 代 の 対 外 政 策 を 支 える 柱のひと つになり ました。⋮⋮ 狭義の対 外政策︵安 全保障政 策 を 含 む ︶、 対 外 経 済 政 策 ︵ 開 発 政 策 を 含 む ︶ と 並 び 、 そ れ ら と 同 価 値 で あ り ︵ 45︶ ます。 ﹂ 。こ の 年 報 刊 行 に 際 し た 記 者 会 見 で は 、 ﹁ 人 は 同 盟 政 策に よって盟 友を、貿易 政策では ビジネス パートナ ーを得、文 化政 策 に よ っ て 友 人 を つ く り ︵ 46︶ ます﹂ 、同 年 一 〇 月 に 招 集 し た 文 化 政 策 審 議 会 で は 、﹁ 安 全 保 障 政 策 、対 外 経 済 政 策 、対 外 文 化 政 策 は 、み な 同じ ように 重要 ︵ 47︶ です﹂と述べ ている 。文化政 策は﹁狭 義の外 交︵安 全 保 障 ︶ 政 策 、 通 商 ︵ 経 済 ︶ 政 策 と 並 ぶ 外 交 の 支 柱 ﹂ と い う 表 現 は 、 機会あるご とに用い られ、国民 的人気が 高い大臣 の発言は﹁ 第三の 柱﹂というフレーズを広めていった。 ブラント はまた、自 身の外交 目標達成 のために 文化事業 を使おう とした。一 九六七年 後半頃か ら、彼は連 邦共和国 が伝える﹁ ドイツ 像﹂の検 討を文 化局に 求 ︵ 48︶ めた。翌年五 月には 、ブラン トの腹 心で当 時 外 務 省 企 画 部 長 で あ っ た バ ー ル︵ Egon Bahr ︶が 、 ﹁ 国 家 承 認 を 問題に せずに国 民の一体 性を示す 手段とし て、文化政 策は適切 であ る﹂とい う論点を 、文化政策 審議会で の外相挨 拶に盛り 込む旨、文 化 局 に 指 示 ︵ 49︶ した。結 果 、 こ の ス ピ ー チ で は 、﹁ ド イ ツ 像 ﹂ 伝 達 に つ い て次のような趣旨の新見解が披露さ ︵ 50︶ れた。 ﹁国 際社会に おけるD DR︵ドイ ツ民主共 和国の略 称︶の存在 感 は増しており 、その文化 攻勢によ り我々は 損害を被 っている 。連邦 政府はDDR を承認し ないが、国 民の一体 性維持は ドイツの 利益に なる。東ベルリ ンもドイ ツ国民へ の帰属は 否定して いない。文 化政 策 は 、国 家 承 認 を 問 題 化 せ ず に 国 民 の 統 一 性 を 示 す の に 適 し て い る。今後、一種 の﹃全ドイ ツ的対外 文化政策 ﹄を活性化 したい。西 ドイツ在外公 館で、西側 諸国の旅 行者に、D DRに関 する一一 項目 の情報を提 供するこ とを検討 ︵ 51︶ する。DDR ではなく 我々が情 報を提 供する点に メリット がある。現 在DDR の情報へ のニーズ が世界で 高まってお り、こうし た措置は 、全ドイツ という考 え方や単 独代表 権の実現につながるだろう。 ﹂ 一九 六八年五 月は﹁プラ ハの春﹂の 改革ムー ドが最高 潮に達し た 頃である。当時 の東ドイ ツ指導部 がこれに 批判的姿 勢を示し たこと は、西ドイツで 巻き返し のチャン スと受け 止められ た。先のス ピー チ原稿の下 書きでは 、チェコス ロヴァキ アの出来 事で﹁反動 ﹂姿勢 を 示 し た D D R は 孤 立 し て い る と の 記 述 が ︵ 52︶ ある。 ﹁ 東 ﹂の 宣 伝 攻 勢

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81 冷戦期西ドイツの対外文化政策 に悩まさ れてきた 西ドイツ 外務省が 、国際環境 の変化を とらえ、反 撃に出ようとしていたことが窺える。 他方、文 化交流の 現場では 、外国に紹 介する﹁ド イツ﹂に東 ドイ ツを含 めるべき かが問題 になって いた。一九 六八年三 月には、文 化 交流機 関や在外 公館から﹁ 文化事業 の中でD DRの業 績を扱う こと は可 能か﹂とい う質問が 文化局に 寄せら ︵ 53︶ れた。東ドイ ツが国と して 存 在 す る 以 上 、第 三 国 で 同 国 の 実 情 を 知 り た い と い う 要 望 は 強 ま る 。だ が 、そ の 業 績 を 西 ド イ ツ が 伝 え る こ と は 、 ﹁ 東 ﹂の 宣 伝 に な りかねない。か といって 放置すれ ば、東ドイ ツが自前 の広報事 業を 展 開 し 、同 国 の 存 在 感 が 高 ま っ て し ま う 。﹁ 二 つ の ド イ ツ ﹂が 既 成 事実化する中、ブラントは文化政策の方針決定を迫られていた。 こうした 状況で導 き出され たのが、政 治的問題 の少ない 分野に関 しては 西ドイツ が東ドイ ツに関す る情報提 供を行い 、文化と国 民の 一体性 を表出す るという 方策であ った。国家 承認を留 保する一 方で 諸外国 の要望に こたえ、ド イツは一 つという メッセー ジを発信 する ことは 、単独代表 権の主張 を維持し つつ﹁東﹂の 攻勢にも 対抗する 一 石 二 鳥 の 政 策 で あ る 。ブ ラ ン ト は 後 に 首 相 と し て﹁ 二 つ の 国 家 、 一つの 国民﹂を旗 印に緊張 緩和を推 進するが 、外相時代 にも文化 政 策を通じて東西ドイツ国民の一体性維持を試みていたのである。 東 ド イ ツ の 文 化 に つ い て 在 外 公 館 で 情 報 提 供 す る と い う 提 案 は 、 一 九 六 八 年 五 月 の 文 化 政 策 審 議 会 で 出 席 者 の 賛 同 を ︵ 54︶ 得た。し か し 、 ﹁ 全 ド イ ツ 文 化 政 策 ﹂へ の 言 及 は 、同 年 八 月 初 旬 を 最 後 に 行 わ れ な くなる。八月二 〇日付で 在外公館 に送られ た﹁文化政 策関係業 務の 原則﹂では 、﹁ドイツ 像﹂や東ド イツへの 言及はな く、 ﹁文化関 係の 情 報 提 供 ﹂ の 項 で も ﹁ 照 会 対 応 を 嫌 が ら ず 、 真 摯 な 姿 勢 を 示 す こ と ﹂ が指示さ れるだけ で ︵ 55︶ ある。当時、ソ 連圏諸国 がチェコ スロヴァ キア を批判し 、軍事介入 も行って 、東西関係 が再び緊 張した。国 際関係 の転換が﹁ 全ドイツ 文化政策 ﹂放棄を促 したのか 、外交文書 から判 断することは難しい。 確 か な の は 、﹁ 全 ド イ ツ 文 化 政 策 ﹂ を 明 示 的 に 追 求 し な く な っ た 後 も、ブラント が﹁ドイツ 像﹂にこだ わり続け たことで ある。一一 月 の文化政策審 議会を彼 は体調不 良で欠席 したが、代 読された スピー チ で は 、 ﹁ 統 一 的 ド イ ツ 像 ﹂伝 達 の 重 要 性 を 強 調 し た 上 で 、外 国 に 伝えるべきドイツ像を審議会で検討して欲しいと述べて ︵ 56︶ いる。 一九 六九年、ブ ラントは 再び、文化 は﹁外交の 第三の柱 ﹂と主張 し始める。外 相就任時 と異なる のは、ドイ ツ文化国 民や、文化 交流 を通した互恵 的関係構 築にも言 及してい ることで ある。三月 の予算 審議では、ドイ ツは平和 実現の中 心国にな るべきだ と述べ、そ うし た 目 標 は ① ヨ ー ロ ッ パ と 世 界 の 平 和 へ の 貢 献 、 ② 世 界 の 福 利 増 進 、 そ し て ③ 文 化 政 策 で ド イ ツ の 文 化 と 文 化 国 民 を 表 出 し 、双 方 向 交 流 の中で自己 の価値を 示すこと を通じて 達成され ると ︵ 57︶ した。五月、文 化 局 年 次 報 告 刊 行 声 明 で は﹁ 政 治 的 貢 献 ﹂ ﹁ 世 界 貿 易 へ の 関 与 ﹂に 加えて﹁文 化国民と して文化 交流に積 極的役割 を果たす ﹂必要性を 主張して ︵ 58︶ いる。 大連 立政権成 立時、西ド イツでは 学生運動 やベトナ ム反戦運 動が 盛り上がって いたが、一 九六九年 には国際 協調と緊 張緩和へ の契機

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82 が一層強 まってい た。一月に はワルシ ャワ条約 機構諸国 が安全保 障 協力会議 開催を求 めるアピ ールを発 表し、三月 初頭には 平和こそ ド イツの 基本価 値と主 張する ハイネ マン ︵ Gusta v Heinemann ︶ が連 邦大統領 に選出さ れた。ブラ ント外交 の中心は 、東西や南 北の対話 をリード すること で自国の 正統性を 示す方向 へと変化 しており 、文 化交流はそうした政策の推進に最適な手段であった。 ブラント は、文化政 策の外交 上の重要 性を認識 した西ド イツ初の 外 務 大 臣 だ っ た 。冷 戦 が 膠 着 状 態 に 陥 り 、﹁ 二 つ の ド イ ツ ﹂が 既 成 事実化 する中、彼 はドイツ 国民の一 体性を表 出する手 段として 文化 政策を 活用しよ うとした 。さらに、国 際情勢が 緊張緩和 へと変化 す る と 、 双 方 向 交 流 の 推 進 に よ る ﹁ 平 和 国 家 ﹂ の 地 位 確 立 を 目 指 し た 。 文化は﹁ 外交の第 三の柱﹂と いうテー ゼは、ブラ ントが、連 邦共和 国の国 際的正統 性確立と いう大目 標の追求 手段とし て、文化政 策を 戦略的に遂行しようとしたことを表している。

﹁外交の第三の柱﹂の功罪

文化政 策は﹁外交 の第三の 柱﹂という 認識は、ブ ラント外 相時代 に幅広 く普及し た。一九六 九年五月 に文化局 年次報告 刊行を報 道し た主要 紙の見出 しには﹁外 交の第三 の柱﹂の文 字が躍り 、この表現 が定着していたことが窺 ︵ 59︶ える。 ﹁外交 の第三の 柱﹂は、ザッ トラーの﹁ 外交の第 三の舞台 ﹂と似 た 表 現 で あ る 。両 者 と も 対 外 政 策 の 要 素 と し て 政 治 ︵ 安 全 保 障 ︶、 経 済︵貿易 ︶ 、文化を挙 げ、三つが 等しく重 要として いる。だが 、﹁第 三の舞台﹂と﹁第三の柱﹂の間には、本質的相違もあった。 ﹁ 第 三 の 舞 台 ﹂ 論 は 、 文 化 政 策 が 政 治 や 経 済 と 別 の 場 ︵ 次 元 ︶ で 、 異なる脚本︵ 目標、時間 幅、方法︶に 基づき進 行すると の考えを 示 している。ザッ トラーは 教養市民 的価値観 をもち、文 化局業務 の筆 頭に民族振 興を挙げ てい ︵ 60︶ たが、さきの 分析から は、彼が国 民の一体 性や正統性 よりも、国 境を越え た人びと の出会い 促進に強 い関心を 抱 い て い た こ と が 窺 え る 。国 際 関 係 の 長 期 的 変 化 を と ら え 、そ れ に 即 し た 国 民 間 関 係 運 営 を 提 案 す る 立 場 は 、相 互 依 存 論 や C・F・ ヴァ イツゼ ッカー ︵ Carl F riedric h von W eizs ¨ac ker ︶ の世界 内政政 治 ︵ W eltinnenpolitik ︶ の そ れ に 近 い 。こ れ に 対 し 、 ブ ラ ン ト の ﹁ 第 三の柱﹂論 は、ナシ ョナル な外交 の道具 として 政治・経済・文 化の 諸政策を 等しく行 うとの考 えを表し ている。ブ ラントは 、文化政策 は﹁独自の 法則に 基づか なくて はなら ない﹂と も述べ てい ︵ 61︶ るが、国 益達成手 段であり 、国民の一 体性表出 や平和国 家の地位 確立とい っ た目標に 従属すべ きとみて いる。文化 政策は外 交という 単一の舞 台 の 上 で 政 治・経 済 政 策 と 関 連 さ せ つ つ 行 う も の と い う 見 解 は 、政 治 ・ 経 済 ・ 文 化 を 別 次 元 の 営 み と み る ザ ッ ト ラ ー の そ れ と は 異 ︵ 62︶ なる。 その 後の西ド イツで、文 化政策の 外交的位 置づけを 表す表現 とし て 定 着 し た の は﹁ 第 三 の 柱 ﹂で あ っ た 。 ﹁ 第 三 の 柱 ﹂が 人 口 に 膾 炙 したのは、ザッ トラーと ブラント の地位や 知名度の 違いを考 えれば 自然であろ う。在野の﹁ 文化人﹂ザ ットラー の論理よ りも、政治 家 ブラントのそ れの方が 、政策関係 者に馴染 みやすか ったとも 考えら れよう。

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83 冷戦期西ドイツの対外文化政策 い ず れ に せ よ 、 ﹁ 第 三 の 舞 台 ﹂論 や﹁ 第 三 の 柱 ﹂論 に よ り 、文 化 は外交 の重要要 素という 認識が普 及した。で は、現実の 対外文化 政 策は、こ うした認 識に支え られ充実 発展した のか。残念 ながら、外 務省で は方針の 検討が進 まず、現場 では停滞 や混乱が 目立った 。D DRの 宣伝に対 抗する﹁も うひとつ のドイツ ﹂像は、結局 定まらな か っ た 。文 化 政 策 審 議 会 も 知 恵 袋 と な る こ と は 少 な く 、﹁ お 飾 り ﹂ 的 扱いに委員が不満を呈する場面もみら ︵ 63︶ れた。 一九六 六年から 翌年にか けて、外務 省では、文 化政策の 方針に関 し在 外公館に アンケー トを実施 ︵ 64︶ した。しかし 、この時期 には文化 局 長や外務大臣 の交代も あり、調査 結果が政 策に反映 されたこ とを示 す記録はない 。文化政策 の中核は ドイツ学 校振興や ドイツ語 普及で あり続け、メディアでも時代遅れとの批判が高まってい ︵ 65︶ った。 文化事業 実施面で は、各方面 の注目が むしろ否 定的な形 で高まっ た。具体 的には、外 務省とG Iの関係 が問題化 した。外国 のドイツ 文化会 館で論争 的テーマ が取り上 げられる たび、在外 公館や議 会で 非難が 起こり、メ ディアで も盛んに 報道され た。連邦議 会の議員 質 問 の 形 で も 批 判 が な さ れ 、外 務 省 は 釈 明 に 追 い 込 ま れ た 。歴 史 家 ゴ ー ロ ・ マ ン ︵ Golo Mann ︶ が ロ ー マ の 文 化 会 館 で 連 邦 政 府 に よ る 東 部国 境の扱い を批判し た責任を 、与党議員 が追及し た例、第一 次大 戦 開 戦 の 裏 に ド イ ツ の 拡 張 的 意 図 を み る 歴 史 家 フ ィ ッ シ ャ ー ︵ F ritz F isc her ︶の 米 国 講 演 を 、外 務 省 が 助 成 し な か っ た と 野 党 議 員 が 糾 弾 し た 例 、体 制 批 判 的 作 家 エ ン ツ ェ ン ス ベ ル ガ ー︵ Hans Magnus Enzensberger ︶ を 外 国 に 派 遣 す る 是 非 が 問 わ れ た 例 な ど が ︵ 66︶ ある。G I の 戦 後 史 研 究 で は 、同 機 関 の 事 業 が マ イ ナ ス の 形 で 注 目 さ れ る ﹁ 政 治 的 ス キ ャ ン ダ ル ﹂が 、一 九 六 〇 年 代 か ら 七 〇 年 代 に か け て 数 多くみられたと述べて ︵ 67︶ いる。 以上 のように 、ザットラ ー文化局 長からブ ラント外 相の時代 、文 化交流の現場 で政策の 具体的方 針が固ま る気配は なかった 。むしろ 改 革 の 努 力 不 足 が 批 判 さ れ 、実 験 的 な 事 業 が 否 定 的 注 目 を 集 め た 。 文化政策が﹁ 外交の第 三の柱﹂で あるとい う評価は 、国際関係 にお いて文化が重 要である という認 識を高め たが、その ことはま た、文 化政策への批 判やあら 探しを後 押しし、現 場担当者 が対応に 追われ る展開をも招いたと考えられる。

冷 戦 期 西 ド イ ツ で は 、連 邦 共 和 国 が 国 際 社 会 に 復 帰 す る た め に 、 文 化 政 策 の 積 極 的 活 用 が 必 要 だ と の 合 意 が 形 成 さ れ た 。そ の 過 程 で、文化は政 治・経済と並 ぶ外交の﹁ 第三の﹂重 点である という認 識も定着して いった。こ うしたプ ロセスが 、冷戦の進 行と東西 ドイ ツの対立の中 で促され たことは 疑いよう がない。し かしそれ は同時 に、世界の構造 変化への 認識に基 づく、新し い国際関 係運営の 模索 で も あ っ た 。そ の 性 格 は と り わ け﹁ 第 三 の 舞 台 ﹂論 に 顕 著 で あ る 。 こ れ に 対 し 、﹁ 第 三 の 柱 ﹂ 論 は 、 文 化 政 策 を 従 来 的 国 民 国 家 観 の 延 長 線上で活用す る色合い が強かっ た。結局、文 化は外交 の重点と いう 認 識 と は 裏 腹 に 、文 化 政 策 は 一 九 六 〇 年 代 末 に な っ て も﹁ 問 題 児 ﹂ のままであった。

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84 文化政策 の原則づ くりは、大 連立政権 には進ま なかった が、続く ブラン ト政権の 下で大き く進展し た。一九六 九年一〇 月の施政 方針 演説で ブラント は、平和貢 献のため に国際協 力を推進 する意思 を表 明 し 、 ﹁ 過 渡 期 の 今 日 、ド イ ツ で も 知 的 な 論 争 や 実 り 多 い 動 乱 が 日 常の現 実である ﹂旨を、文化 交流を通 して伝達 すること が大切だ と 述べて ︵ 68︶ いる。二つの ドイツを 現実とし て認めた 上で、西ド イツのあ りのま まの姿を 世界に伝 える方針 は、七〇年 代の政府・議 会文書に 盛り込まれ、対外文化政策の基本理念となった。 しかし ながら、公 的原則形 成後も、文 化事業の 現場の停 滞や混乱 は 改 善 さ れ な か っ た 。予 算 緊 縮 が 関 係 者 の 頭 痛 の 種 と な り 、﹁ 第 三 の柱が ゆらいで いる﹂との 苦言も呈 された。そ の一方で GIの﹁ス キャン ダル﹂は過 激化し、税 金を使っ てずさん な事業が 行われて い る、政府 が文化を 検閲して いるとい った、耳目 を集める 報道が行 わ れた。一 部の保守 系政治家 は対外文 化政策を﹁ 国の恥さ らし﹂とみ なし、敵視していった。 筆 者 は 、対 外 文 化 政 策 を め ぐ る こ う し た 停 滞 や 混 乱 は 、﹁ 文 化 政 策は外 交の第三 の柱﹂とい う認識に よって助 長された ところが ある と 考 え る 。 ﹁ 第 三 の 舞 台 ﹂ 論 に お い て 、 文 化 と は 、 国 家 を 主 体 と す る 既存の 外交を超 えた、それ とは異な る国際関 係運営の 次元を指 して いた。文 化事業は 、社会の幅 広い領域 における︿ ひと﹀の出 会いを 促し、行 政システ ムや狭義 の国益に とらわれ ない形で 策定実施 され る も の と い う 含 み が あ っ た 。し か し 、﹁ 第 三 の 柱 ﹂論 は 、主 権 国 民 国家体 制の枠組 みの中で 、 ︿くに﹀の 維持と発 展︵ブラン トの場合 、 東西ドイ ツの再統 一も含ん だであろ う︶のため に、外交を 政治・経 済・文化とい う同一平 面上の三 領域で行 うことを 志向する 。そこで の文化は 、国家の政 策領域か ら﹁政治﹂や﹁ 経済﹂を除 いた残滓 で ある。この ように消 極的で曖 昧な形で 対象化さ れる文化 は、他領域 の外交の 補助とし て使われ やすく、そ の内容は 現場担当 者や監督 者 によってさまざまに解釈される。 文化 を﹁外交の 第三の領 域﹂として 対象化す る思考は 、文化の定 義の困難や、政 府と文化 の担い手 の関係を めぐる問 題を助長 し、国 際関係におけ る文化政 策の混乱 を深刻化 させると は考えら れないだ ろうか。ドイツ 対外文化 政策の歴 史的分析 をさらに 進める中 で、こ の問題を検討することが筆者の課題である。 ︵ 1︶ 対 外 文 化 教 育 政 策︵ ausw ¨artige Kultur -und Bildungspolitik ︶ と い う 用 語 も 使 わ れ る が 、 本 稿 で は 対 外 文 化 政 策 に 表 記 を 統 一 す る 。 ︵ 2︶ ” Ziele und Aufgaben der Ausw ¨artigen Kulturpolitik“, < http://www .ausw aertiges-amt.de/sid 04DD4184E7D7C453579732CE85C59428/ DE/Aussenpolitik/KulturDialog/ZieleUndP artner/ZieleP artner node .html > 、 二〇一〇年六月五日最終更新。 ︵ 3︶ Hilmar Hoffmann, ” ,Dritte S ¨aule‘ der Außenpolitik“, Interna-tionale P olitik Nr . 3, 1996, S .15–20. ︵ 4︶ Olivia Griese , A usw ¨artige Kulturpolitik und Kalter Krieg , Harrassowitz V erlag , W iesbaden 2006; P eter Ulric h W eiß, Kul-turarbeit als diplomatisc her Zankapfel , Oldenbourg V erlag , M ¨unc hen 2010. ︵ 5︶ Kurt D ¨uwell, ” Zwisc hen Propaganda und F riedensarbeit—

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85 冷戦期西ドイツの対外文化政策 100 J ahre Gesc hic hte der deutsc hen Ausw ¨artigen Kulturpolitik“, Kurt-J ¨urgen Maaß (Hrsg .), Kultur und A ußenpolitik (2. Auflage), Nomos , Baden-Baden 2009, Kap . 2, S .89–90. ︵ 6︶ 文 化 局 照 会 へ の 回 答 書 ︵ カ バ ー レ タ ー 六 四 年 九 月 二 五 日 付 ︶、 ド イツ外交史料館所蔵文書︵以下 P AAA ︶ B90-600 439, S .2–7. ︵ 7︶ 同、 S .1, S .7. ︵ 8︶ 天文学者 コペルニ クスの﹁国 籍﹂をめぐ るポーラ ンドとの 対立 など。 P AAA B90-6 KA 7. ︵ 9︶ F ritz von Tw ardowski, A uf ¨ange der deutsc hen Kulturpolitik zum A usland , Inter Nationes , Bonn-Bad Godesberg 1970, S .12. ︵ 10︶ Kurt D ¨uwell, Deutsc hlands ausw ¨artige Kulturpolitik , B ¨ohlau V erlag , K ¨oln 1976, S .104–119; T ammo Luther , V olkstumspoli-tik des Deutsc hen Reic hes 1933–1938 , F ranz Steiner V erlag , Stuttgart 2004, S .30–40; Rogers Brubaker , Nationalism Re-framed , Cambridge: Cambridge University Press , 1996, pp .123– 124. ︵ 11︶ Protokoll ¨uber die Kulturreferententagung in Bonn vom 31. J anuar bis 3. F ebruar 1956, P AAA B90-600 226. ︵ 12︶ P AAA B90-600 209. ︵ 13︶ Bruno Eric h W erner , ” Geist, Kunst und Diplomatie“, Neue Deutsc he Hefte , Heft 50, September 1958, S .497–515. ︵ 14︶ Theodor Steltzer , V or sc hlag f ¨ur die Bildung einer K ¨orper sc haft zur F ¨orderung der deutsc hen Kulturarbeit im A usland , 1958 ︵以下 Steltzer -Plan ︶ . ︵ 15︶ 一 九 五 七 年 二 月 に は 、ロ ー マ に 東 ド イ ツ の﹁ ト ー マ ス・マ ン・ セ ン タ ー ﹂が 開 館 し 、西 ド イ ツ の﹁ ド イ ツ 図 書 館 ﹂と 競 合 し て い た 。 Ulrike Stoll, Kulturpolitik als Beruf , F erdinand Sc h ¨oningh, P aderborn 2005, S .307–314, 318–319. ︵ 16︶ Dietric h Sc hw arzkopf , ” Sorgenkind kulturelle Außenpolitik“, Der T agesspiegel , 19.04.1957. 各 国 大 使 館 宛 て 公 電︵ 五 八 年 八 月 四 日付︶および添付資料、 P AAA B90-600 227. ︵ 17︶ W erner , op .cit. , S .498, S .515. ︵ 18︶ Steltzer -Plan, S .2–4. ︵ 19︶ ” Neue W ege der deutsc hen Kulturpolitik im Ausland“, F rank-furter Allgemeine Zeitung , 14.07.1958. ︵ 20︶ ヴェルナ ーが文化 局長に釈 明した書 簡︵一九五 八年一〇 月一六 日付︶ 、 P AAA B90-600 227. ︵ 21︶ Arbeitsring Ausland f ¨ur kulturellen Aufgaben e .V ., Zur Neuordnung der deutsc hen Kulturbeziehungen zum A usland , K ¨oln, F ebruar 1959; Stoll, op .cit. , S .322. ︵ 22︶ Die kulturelle Stellung der Bundesrepublik in der V ¨olkergemeinsc haft , F riedric h-Ebert Stiftung , K ¨oln, ca. 1958. ︵ 23︶ 連 邦 議 会 資 料 ︵ 以 下 Drs ︶ 3/798 ︵ 一 月 二 〇 日 。外 相 回 答 は 一 九 五九年二月一二日、 Drs 3/875 ︶ . ︵ 24︶ Arbeitsring Ausland f ¨ur kulturellen Aufgaben e .V ., op .cit . ︵ 25︶ W erner , op .cit ., S .498–499. ︵ 26︶ Dieter Sattler , ” Kulturaustausc h: ein neues F eld der Begeg-nung“, A usblic k , August/September 1960, S .17–18. ︵ 27︶ Dieter Sattler , ” Die Dritte B ¨uhne—Kulturelle Außenpolitik“, Univer sitas 1963, Heft 9, S ,. 913-920, S .916. ︵ 28︶ Dieter Sattler , ” Die dritte B ¨uhne der Außenpolitik“, J ahrbuc h der A usw ¨artigen Kulturbeziehungen 1964, S .13–21. ︵ 29︶ Dieter Sattler , ” Einleitung“, Die Kulturabteilung des A usw ¨artigen Amts . J ahresberic ht 1964 ︵ 以 下 J ahresberic ht 1964 ︶ , S .IX–XVI, S .X. ︵ 30︶ 一九六一 年三月二 三日付通 達・書簡、コブ レンツ連 邦公文書 館 所蔵文書 B307/159. ︵ 31︶ Stoll, op .cit., S .303.

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86 ︵ 32︶ J ahresberic ht 1964 , S .47 (T abelle 3). ︵ 33︶ Stoll, op .cit., S .346–358. ︵ 34︶ ザットラ ー退任後 も、審議会 は構成員 を入れ替 えつつ断 続的に 開かれた。 ︵ 35︶ 外 務 大 臣 直 属 の 委 員 会 と い う 位 置 づ け は メ デ ィ ア の 注 目 を 惹 き 、第 一 回 会 合 の 招 集 は 主 要 各 紙 に 報 道 さ れ た 。 ” Private Berater des Staates“, Christ und W elt , 20.01.1961; F riedric h Steburg , ” Die W affe der Kulturpolitik“, F rankfurter Allgemeine Zeitung , 23. 01.1961. 実 際 に は 、審 議 会 に 対 す る 外 相 の 関 心 は 低 か っ た 。 Stoll, op .cit ., S .386–388. ︵ 36︶ 報告書は 一∼三年 に一回の 割合で発 行され続 け、一九九 四年以 降 は ﹁ 連 邦 政 府 対 外 文 化 政 策 報 告 書 ﹂ と し て 議 会 に 提 出 さ れ て い る 。 ︵ 37︶ Drs 3/1555 ︵一 九六 〇年 一月 一九 日︶ 、 Drs 4/233 ︵六 二年 三月 二 日 ︶ 、 Drs 4/1315 ︵ 六 三 年 六 月 一 二 日 ︶ 、連 邦 議 会 本 会 議 議 事 録 ︵ 以 下 PlPr ︶ 3/119 ︵ 一 九 六 〇 年 六 月 二 三 日 ︶ 、 PlPr4/20 ︵ 六 二 年 三 月一五日︶ 、 PlPr 4/101 ︵六三年一二月一一日︶ 。 ︵ 38︶ Drs 4/2888 ︵一二月一六日︶ 。 ︵ 39︶ Drs 4/3672 ︵六月二三日︶ 。 ︵ 40︶ PlPr 5/4 ︵一一月一〇日︶ 。 ︵ 41︶ Drs 4/435 ︵ 三 月 一 五 日 ︶、 Drs 5/439 ︵ 三 月 一 六 日 ︶、 Drs 5/692 ︵六月一五日︶ 、 PlPr 5/49 ︵六月二二日︶ 。 ︵ 42︶ Die P olitisc he ¨Offentlic hkeitsarbeit im Irak, 13.03.1961, P AAA B90-600 231. ︵ 43︶ Aufzeic hnung: Organisatorisc he Aspekte der ausw ¨artigen Kulturpolitik ︵ 一 九 六 七 年 二 月 二 二 日 付 ︶ ; Zielsetzung der Ausw ¨artigen Kulturpolitik (Nr . 1 der W eisung des Herrn Bun-desministers vom 20.1.67) ︵ 六 七 年 四 月 五 日 付 ︶ 。 P AAA B97-610 324. ︵ 44︶ PlPr 5/111, S .5307. ︵ 45︶ W illy Brandt, ” Geleitwort“, Die Kulturabteilung des A usw ¨artigen Amts . J ahresberic ht 1966 , S .7–9, S .7. ︵ 46︶ W illy Brandt, ” Bedeutung und Aufgaben der Ausw ¨artigen Kulturpolitik“, Bulletin 05.07.1967, S .613–614, S .613. ︵ 47︶ W illy Brandt, ” Ziele und W ertvorstellungen der Ausw ¨artigen Kulturpolitik“, Bulletin 03.11.1967, S .1053–1054. ︵ 48︶ 一 九 六 七 年 一 〇 月 三 一 日 文 化 政 策 審 議 会 記 録 、 P AAA B90-600 658. 六 八 年 前 半 に は 、﹁ 外 国 に 伝 え た い ド イ ツ 像 ﹂に つ い て 文 化 局 各課の意見を募っている。 P AAA B90-600 656. ︵ 49︶ 文 化 局 総 務 課 へ の 書 簡︵ 一 九 六 八 年 五 月 一 〇 日 付 ︶ 、 P AAA B90-600 658. ︵ 50︶ Entwurf f ¨ur einleitende Bemerkungen des Herrn Bun-desministers bei der Sitzung des Kulturpolitisc hen Beirats am 21.5.1968 ︵カバー書類日付五月一六日︶ 、 P AAA B90-600 658. ︵ 51︶ ① 一 般 旅 行 情 報 、 ② 著 名 な ミ ュ ー ジ ア ム 、 ③ そ の 他 の 見 ど こ ろ 、 ④ 宗 教 生 活 、 ⑤ 学 術 会 議 、 ⑥ す ぐ れ た 研 究 成 果 、 ⑦ 学 術・文 化 賞 の 授 与 、 ⑧ 文 化 的 催 し 、 ⑨ 劇 場・オ ペ ラ の 公 演 日 程 、 ⑩ 展 覧 会 情 報 、 ⑪ 新 刊 情 報 。下 書 き で は﹁ ⑫ 外 国 で 入 手 で き る 非 学 術 的 分 野 の 刊 行 物﹂も挙げられている。 P AAA B90-600 658. ︵ 52︶ P AAA B90 600-658. ︵ 53︶ ” Gesamtdeutsc he Aspekte“ unserer ausw ¨artigen Kulturpoli-tik ︵四月三日付、署名 Sc h ¨ott ︶ P AAA B90-600 658. ︵ 54︶ 文 化 政 策 審 議 会 成 果 記 録︵ 一 九 六 八 年 八 月 六 日 付 ︶ 、 P AAA B90-600 658. ︵ 55︶ Ric htlinien f ¨ur die T ¨atigkeit der deutsc hen Auslandsvertre-tungen in kulturpolitisc hen Angelegenheiten ︵ カ バ ー レ タ ー 一 九 六八年八月二〇日付︶ , P AAA B90-600 924, S .14. ︵ 56︶ Ansprac he des Bundesministers des Ausw ¨artigen, W illy Brandt, vor dem Kulturpolitisc hen Beirat am 12.11.1968, P AAA

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87 冷戦期西ドイツの対外文化政策 B90-600 658. ︵ 57︶ PlPr 5/211, S .11986. ︵ 58︶ W illy Brandt, ” Aktivierung der Ausw ¨artigen Kulturpolitik“, Bulletin 20.05.1969, S .549. ︵ 59︶ G ¨unter Krems , ” Kulturarbeit – dritter Pfeiler der Außenpoli-tik“, Die W elt 20.05.1969; ” Die dritte S ¨aule der Außenpolitik“, F rankfurter Allgemeine Zeitung 20.05.1969. ︵ 60︶ Sattler , ” Die dritte B ¨uhne der Außenpolitik“, S .20. そ の 点 、 ﹁ 対 外 文 化 政 策 は 民 族 政 策 と 訣 別 す べ き ﹂と し た ヴ ェ ル ナ ー と 異 な る。 W erner , op .cit. , S .508-509. ︵ 61︶ W illy Brandt, ” Ziele und W ertvorstellungen der Ausw ¨artigen Kulturpolitik“, S .1053. ︵ 62︶ Entwurf einer Ansprac he des Herrn Bundesministers des Ausw ¨artigen vor dem Kulturpolitisc hen Beirat am 31.10.1967, P AAA B90-600 658. ︵ 63︶ 第八回文 化政策審 議会︵一九 六三年九 月一九︱ 二〇日開 催︶簡 易議事録︵カバーレター一〇月五日付︶ 、 P AAA B90-600 441. ︵ 64︶ P AAA B90-600 556. ︵ 65︶ Kurt J oac him F isc her , ” W ie sieht uns die W elt heute? Alte V orbehalte in der Einsc h ¨atzung der Bundesrepublik – der Kul-turpolitik Ausland – Mangel und M ¨oglic hkeiten“, Rheinisc her Mer kur , 22.08.1969. ︵ 66︶ PlPr 4/118 ︵ 一 九 六 四 年 三 月 四 日 ︶、 PlPr 4/124 ︵ 六 四 年 四 月 二 九日︶ 、 PlPr 5/108 Anlage ︵六七年五月一〇日︶ . ︵ 67︶ Steffen R. Kathe , Kulturpolitik um jeden Preis , Martin Mei-denbauer , M ¨unc hen 2005, S .229–231. ︵ 68︶ PlPr 6/5 ︵一〇月二八日︶ . ︹付記︺ 本論文は 、平成二二 ︱二四年 度科学研 究費補助 金︵基盤研 究 ︵C︶ ︶の成果の一部である。 ︵かわむら ようこ  成蹊大学︶

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『台灣省行政長官公署公報』2:51946.01.30.出版,P.11 より編集、引用。