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四谷から甲州街道を新宿へ
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歴史を探りながら歩く
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2017 年 4 月
四谷駅 ⇒ しんみち通り ⇒ 新宿歴史博物館 ⇒ 荒木町めぐり ⇒ 新宿通り南の寺町 ⇒ 四谷大木戸・玉川上水 水番屋 ⇒ 新宿御苑 ⇒ 新宿二丁目 ⇒ 新宿三丁目 ⇒ 職安通り ⇒ 百人町2
〈荒木町〉
四谷荒木町はかつて花街として栄え、飲食街の路地や坂に往時の面影を残す。 荒木町のほぼ全域は江戸時代、美濃高須藩の上屋敷だった。 幕末の会津藩主・松平容保は、この地から会津松平家に養子入りした。 広さ3 万坪余りの上屋敷には、自然の地形を模した大名庭園があった。 地形は、がけや急斜面に囲まれた すり鉢状をしている。“すり鉢の底”にはかつて大きな池があった。 池のほとりは明治半ばには景勝地となり、料亭が軒を連ねた。明治末・大正期には歌舞伎の劇場や寄 席も建ち、芸者は250 人を数えたという。 池はその後に水かさが減り、わき水がほぼ絶えた今は 「策(むち)の池」と呼ばれる滝つぼの跡に、わずかにそ の名残をとどめている。 この底に向かって 5 つの「階段坂」があるが、明治以 降になって整備されたものである。 明治以降、人々が集まり料理屋が軒を連ねて街を形成。 大正、昭和の中期には、芸者が行き交う花街になる。 今でも石畳や石階段など当時の面影が残る。 明治38 年 芸妓 59 名、お酌 11 名。荒木町の芸妓は「津の守芸者」と言われた。 昭和 3 年 芸妓屋 83 軒、芸妓 226 名、お酌 26 人。待合 63 軒、料理屋 13 軒。 昭和52 年 料亭・待合 13 軒。芸妓 23 人。 昭和58 年 三業組合(料亭・待合・芸妓屋)解散し見番も消滅。花街の歴史を閉じる。 1983 (昭和 58)年に荒木町 は花街の歴史を閉じたが、バ ブル景気やフジテレビの本社 が近くにあったことなどで、 飲食街として夜のにぎわいを 保っていた。しかしフジテレ ビ本社が 97 年に移転しバブ ルも崩壊したことで次第に活 気が失われていった。 現在、荒木町に残る石畳は、路地と坂の一部を合わせた約120 メートルある。これは廃止になった都 電の敷石を利用して、料亭の主人たちが整備したもの。 お昼どきも賑わうメインストリートから、うっかり見過ごしてしまいそうな細い路地裏にまで、大小 のお店がぎっしりある。3 荒木町に並ぶ飲食店はとても多彩。老舗の料理屋、一級シェフのビ ストロ、生演奏が楽しめるバー、創作料理の店、こだわりの焼肉店 などなど。だが、懐具合がよくないと近づけない店も多そう。 荒木町 概略図
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〈四谷の寺社〉
西念寺 浄土宗の寺院で、徳川家康の家臣であった服部半蔵により創建された。服部半蔵は言わずと知れた伊 賀忍者の頭領であり、江戸城の西門を守る役目を担っていた。 この寺には服部半蔵の墓の他に、徳川家康の長男信康の供養塔がある。 なぜここに信康の供養塔があるのか。 信康は、織田信長の娘徳姫と9歳で結婚した。だが徳姫は姑の築山殿と折り合いが悪く、夫婦 仲もわるかった。徳姫は父信長に 12 か条の手紙を書いたが、その中に、信康との不仲なこと、 築山殿が武田勝頼と内通したこと(おそらく嘘)、が書かれていたとされる。信長は家康に信康 の切腹を命じ、切腹の際の介錯人が半蔵だったといわれている(彼が実際に介錯したかは不明)。 半蔵は隠居後、出家し西念と号を名乗り、信康を供養するため西念寺を建立、供養塔を建てた。 (2 年前、江戸時代に作られた「小田原用水」をたどった時、箱根登山鉄道の駅「風祭」の 奥にある萬松院で信康の墓とされるものをみつけた。だが本当の墓は浜松にあるという。) 服部半蔵の墓、 信康の供養塔 西念寺の石仏 愛染院には、塙保己一、高松喜六の墓がある。 塙保己一は江戸時代の国学者。7歳で失明したとされる。『群書類従』666 冊、『続群書類従』1885 冊 の編纂者である。 ちなみに『群書類従』は、幕府や諸藩、寺社や公家の協力を得て、国文学や史書に関する文献・資 料を収集し編纂したもので、膨大な量にのぼり国文学や歴史学などに多大な貢献をしている。『続群 書類従』は完成してから100 年以上たった 1922 年に出版されている。 高松喜六は浅草の名主、新宿を甲州街道の宿場町として開設した人物 (後述)。 於岩稲荷田宮神社、於岩稲荷陽運寺 四谷怪談は、元禄時代に起きたとされる事件をもとに創作された。雑司ヶ谷が舞台。 鶴屋南北の歌舞伎や三遊亭圓朝の落語で有名になるが、その話は「貞女・お岩が夫・伊右衛門に惨殺 され、幽霊となって復讐を果たす」というもの。 「於岩稲荷田宮神社」は、その名のとおり『東海道四谷怪談』で有名な"お岩さん"を祀っている。お 岩さんは、怨みを幽霊となって晴らしたとされるが、神社では、お岩に物語と異なる人物像を与 え、健気で一生を送った美徳ある女性として祀っている。5 お岩を祀る神社と寺の不仲の理由 お岩稲荷はもともと"お岩さん"の敷地内にあった家の守り稲荷だった。 ところがそれから 100 年以上たった 1825 年に鶴屋南北が作った「東海道四谷怪談」が歌舞伎で大 当たりすると、出演者や町の人たちによるお岩稲荷詣でが始まり繁盛するようになった。 明治5年には、お岩稲荷はお岩さんの嫁ぎ先の田宮家子孫によって田宮神社と改称された。この 神社は明治12 年に火災で焼失し、神社は中央区新川に移転した。 その後、もとのお岩稲荷の近くに於岩稲荷陽運寺が建立され、四谷稲荷と称するようになる。 すると昭和27 年になって、中央区の田宮神社が元お岩稲荷のあたりに旧社と称してもう一つの 田宮神社を建設した。 商魂たくましい神社と寺は、このため仲が悪いらしい。 天龍寺 天龍寺の「時の鐘」は1767 年の鋳造で、上野寛永寺・市谷亀岡八幡宮の鐘と並ぶ江戸三名鐘の一つ。 とされ、内藤新宿に時刻を告げていた。 江戸の代表的な「時の鐘」として知られているのは、寛永寺、増上寺、浅草寺、天龍寺、市ヶ谷八幡 宮であり、「三大鐘」の組み合わせは色々。 成覚寺 新宿2丁目の靖国通りに面した「成覚寺」は、宿場の無縁者 を多く葬ったため、内藤新宿の投込寺と呼ばれていた。投げ 込むように葬られた飯盛女を弔う供養碑の「子供合埋碑」が ある。飯盛り女は子供と呼ばれていたのだろうか、子供と呼 ぶような歳だったのだろうか。 (投げ込み寺は、遊郭や宿にはどこにもあったようだ。第40 回の東京散歩で、吉原近くの浄閑寺、 千住宿の金蔵寺と不動院も投げ込み寺だった。)
太宗寺
高遠藩内藤家の菩提寺。境内には内藤家の 墓石3基が現存する。 「閻魔像」「奪衣婆像」が安置され、江戸時 代から庶民に信仰されてきた。現在も、毎年 7 月 15 日・16 日の縁日に御開扉されている。 太宗寺には江戸六地蔵の第三番、1712 年に作 られた「銅造地蔵菩薩坐像」がある。 江戸六地蔵は 1708 年から 1720 年(享保5年)にかけて、江戸に入る6本の街道口それぞれに 安置された。5体が現存している。 成覚寺の合埋碑6
〈四谷大木戸、水番屋〉
四谷から新宿南口方面に伸びる新宿通りの四谷4 丁目交差点のところには、江戸時代に、甲州街道を 通り江戸に出入りする通行人や荷物を取り締まるための関所、「四谷大木戸」があった。 1616 年に作られたこの木戸は、その両側に石垣が設けられており、地面には石畳が敷かれていた。 1792 年、木戸は撤去されたが四谷大木戸の名はその後も残った。 新宿区立四谷区民センターの脇には「四谷大木戸門跡の碑」 が立っている。これは昭和 34 年に地 下鉄丸ノ内線工事の際に発見された玉川上水の石樋を利用して作られたものである。 この碑の近くに、明治28 年建立の、玉川上水開削の由来を記載した「水道 碑 記いしぶみのき」が立っている。四谷大木戸の石垣
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四谷大木戸門跡の碑 大木戸近くには 1653 年に完成した玉川上水の「水番屋」が設けられ、ここから江戸市中へ配水して いた。羽村の堰から 40 キロ余りを開渠で流れ、この水番屋から暗渠となり、石樋や木樋といった水 道管で江戸市中へ水を流していた。水番屋では水量の調整やごみの除去をしていた。 (東京散歩では、第14 回で玉川上水を歩きました。また石樋や木樋は、第 35 回のとき御茶ノ水 の水道博物館でしっかりと見ました) 東京都水道局新宿営業所が入っているビルの前に「玉川上水水番所跡」というプレートがある。 「玉川上水水番所跡」のプレート 新宿御苑・内藤新宿分水散歩道 四谷 4 丁目の交差点で新宿通りから甲州街道がわかれる。現甲州街道は旧玉川用水沿い、すぐに地 下に潜る。このトンネルの上、新宿御苑の北側の縁に沿って「新宿御苑・内藤新宿分水散歩道」が整 備されている。 この散歩道に沿って側溝に水が流れているが、これは玉川上水の流れではなく、この下を通る甲州街 道の新宿御苑トンネルの共同溝に湧出する地下水である。
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〈新宿御苑〉
(新宿御苑へは、中学生の時に小学校のクラス会で行って以来。男子中の生徒にとってフォークダン スで女子の手に触れるのがはずかしくも心地よかったのを思い出す) 新宿御苑へは、新宿門、大木戸門、千駄ヶ谷門の3つの入り口から入ることができる。 大木戸門に入る手前に「旧大木戸門衛所」がある。昭和2年の建物で、現在の新宿御苑大木戸門はこ こを通りぬけていく。 「旧大木戸門衛所」 新宿御苑の旧新宿門衛所9
ここで新宿御苑の歴史を紹介
新宿御苑の歴史は、徳川家康の家臣である内藤清成が、家康が江戸に入った 1591 年に、その功労 と江戸城の西門警備の功績で、屋敷地を拝領したのに始まる。 言い伝えでは、家康は清成に馬を走 らせて「回れるだけの土地を授ける」といい、四谷、代々木、千駄ヶ谷、大久保におよぶ広大な土地 を与えた。新宿御苑のほとんどはその敷地内にあった。石高3 万石余りの大名としては破格。 7 代目の内藤清枚の時に、3 万 3 千石の高遠城主となり(大奥の絵島が流されたところ)、上屋敷を神 田小川町に授けられ、新宿御苑の地は内藤家の下屋敷となった。 後で紹介するが、元禄 11 年(1698)に甲州街道の宿駅設置が幕府に認められると、下屋敷の一部を 返還、町屋とともに馬継ぎの施設が作られ、甲州街道最初の宿駅「内藤新宿」となる。 明治5 年、内藤家の敷地と周辺地をあわせた 17 万 8 千坪(59 ヘクタール)は牧畜園芸の改良を目 的とする内藤新宿試験場となる。試験場の畑は、水田、穀物畑、蔬菜園などの7 園に分かれ、さらに 桑畑、茶園などが加わって、明治10 年には栽培植物数は 3,000 種を超えた。また 110 平方メートル の西洋式温室が完成し、日本の西洋温室の先駆けとなった。 明治10 年(1877)、試験場内に獣医学、農学、農芸化学、農芸予科の 4 科を置いた本格的な農事修 学場が開校。翌年には駒場に校舎を移し、駒場農学校が設立され、東京大学農学部へと発展する。 明治 12 年(1879)、試験場の業務が三田育種場に移ると、新宿の土地は宮内省の所管の皇室の財 産となり、名称を「新宿植物御苑」と改められた。 明治 30 年代、ヴェルサイユ園芸学校の造園教 授アンリ・マルチネーに改造を依頼、御苑は欧風の庭園として修築される。正門を入って正面にルネ サンス様式の2階建ての宮殿、その前庭に大噴水、後ろ側の主庭はイギリス風景式の様式、苑路は美 しい曲線を描き、池は広くゆったりとした輪郭が特徴的。明治 39 年(1906)に完成し皇室の園遊の 場として利用された。大正時代には9 ホールのゴルフ場も作られた。 昭和20 年(1946)の空襲で苑内はほぼ全焼。その後、食糧確保のため、芝生は開墾され農耕地と なり、農兵隊がジャガイモやサツマイモ、麦などを栽培。 憲法発布後、昭和22 年 12 月の閣議で、「国民の慰楽、保健、教養等、国民福祉のために確保し、 平和的文化国家の象徴」として運営していくことが決定され、 皇室庭園から国民の庭園に。昭和24 年(1949)5 月、「国民 公園新宿御苑」と名をあらため公開が始まった。 庭園内には、高遠藩下屋敷の庭園「玉川園」の面影をとどめ る「玉藻池」がある。池の水は、玉川上水を分水した渋谷川か ら取り入れていた。水は流れていないが、その導水路を確認で きる。池の南端には、渋谷川への排水路もある。 玉川上水からの導水路10
〈甲州街道と内藤新宿〉
甲州街道と伊賀、甲賀、根来 徳川将軍がいざという場合、逃げる時は忍者に守られて逃げるよ うに甲賀・伊賀・根来忍者を江戸城半蔵門から甲州街道新宿にか けて100 人組隊を用意した。 半蔵は 1590 年の小田原征伐で家康に従軍した。その功により 遠江に8000 石を知行し、家康の関東入国後、与力 30 騎および伊 賀同心200 人を抱えた。自身は武将だが、父親が伊賀出身であっ た縁で徳川家に召し抱えられた伊賀衆を統率した。 半蔵は江戸城の西門近くに屋敷を構え、伊賀同心らに城の周辺や甲州街道一帯を警護させた。今の 四谷三丁目辺りには伊賀忍者の住居があった。 内藤新宿 甲州街道の日本橋から数えて最初の宿場、現在の新宿一丁目から三丁目までの一帯。 甲州街道最初の宿場は高井戸宿であった。日本橋から約4 里(約 16km)と遠く、当時の交通には 不便だった。東海道の品川宿・中山道の板橋宿・日光街道(奥州街道)の千住宿は、いずれも日本 橋から約2 里の距離にあり、甲州街道のみが江戸近郊に宿場を持たなかった。 1697 年、浅草の名主であった高松喜兵衛(喜六)など 5 名の浅草商人が、幕府に甲州街道の新し い宿場の開設を願い出、翌1698 年 6 月、幕府は 5600 両を上納することを条件に宿場の開設を許 可した。日本橋から2 里弱の距離、青梅街道との分岐点付近に宿場が設けられ、高遠藩内藤家の屋11 敷の一部や旗本の屋敷などの土地を幕府に返上し、宿場用地とした。 内藤新宿は、四谷大木戸から新宿追分(現在の新宿三丁目交差点付近)までの約1km。 宿場開設に尽力した浅草の名主高松喜兵衛(喜六)は内藤新宿の名主になる。 宿場内では旅籠屋や茶屋が次第に増え、岡場所としても賑わった。宿場に遊女を置くことは認めら れていなかったが、客に給仕をするという名目で飯盛女・茶屋女として置かれていた。 1718 年、開設から 20 年足らずで内藤新宿は幕府によって廃止される。廃止の理由は表向き「甲州 街道は旅人が少なく、新しい宿でもあるため」だが、実際は享保の改革の影響。内藤新宿が宿場と してより岡場所として賑わっていたことで、風紀取締りの対象になったと考えられる。 1772 年、内藤新宿は 50 年ぶりに宿場を再開する。その背景に、品川宿・板橋宿・千住宿の財政悪 化がある。各街道で公用の通行量が増加し、宿場の義務である人馬の提供が大きな負担となってい た。幕府は宿場の窮状に対処するため風紀面での規制緩和をおこない、それまで「旅籠屋一軒につ き飯盛女は2 人まで」とされ ていた規制を緩め、品川宿は 500 人、板橋宿・千住宿は 150 人までとなる。飯盛女の大幅 な増員である。 これにより各宿場の財政は好 転し、内藤新宿廃止の理由も なくなった。 1808 年 に は 旅 籠 屋 が 50 軒・引手茶屋 80 軒。その繁 栄は明治維新まで続く。
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〈新宿二丁目、三丁目、歌舞伎町、百人町〉
新宿二丁目から歌舞伎町、百人町に至る一帯は、それぞれに特色と歴史があり文字通り ディープな世界。 若くないと疲れるかもしれない。でも夜でないので大丈夫。旧新宿二丁目
旧新宿二丁目は、新宿三丁目の東の端を含み、靖国通りと新宿御苑に挟まれた一帯。 江戸時代に甲州街道の宿場(内藤新宿)が置かれ、飯盛旅篭は岡場所として栄えた。 明治になって遊女屋は娼妓に座敷を貸す形での営業が認められ、「貸座敷」と呼ばれ、新宿三丁目の 追分交差点あたりまで沢山の貸座敷が軒を連ねていた。 夏目漱石は幼少時、内藤新宿の門前名主の養子となって内藤新宿北町裏に住み、その後太宗寺南側の 妓楼「伊豆橋」で生活していた。彼の小説「道草」には、子供時代、太宗寺の銅造地蔵菩薩坐像に登 って遊んだことが書かれている。 新宿遊郭は関東大震災後、吉原と洲崎の遊郭が焼けたこともあって栄え、その後「二丁目」といえば 新宿遊郭を指すようになった。 戦後の1946 年(昭和 21 年)GHQ による公娼廃止指令により公娼制度が廃止された。しかし、風俗 営業法の許可を受け、特殊飲食店(カフェー)として売春業は存続した。いわゆる赤線である。ただ その範囲は「新宿遊郭」時代より狭く、現在の新宿二丁目北西部の約100 メートル四方の場所に約 100 軒のカフェーが営業していた。風俗営業法の許可を受けていない青線もあった。 この時代の二丁目は五木寛之の「青春の門」などの舞台になっている。 豆知識 赤線:昭和21 年 GHQ が公娼制度の廃止を指示する。しかし、当時の一つの文化であり 売春で生計を立てている人も多かったので地域を限り認可されていた。赤線は、公認 で売春が行うことができた地区を警察が赤線で囲んだことに由来する俗称。昭和 33 年に売春防止法が施行されると、店はバー、トルコ風呂(ソープランド)、アパート、 下宿、旅館などに転業した。 青線:売春防止法施行以前、非合法で売春が行われていた地域を俗に青線といった。 1958 年(昭和 33 年)に施行される売春防止法によって街の歴史は大きく変わるが、1980 年代初めの 頃までは旅館や飲食店、ヌードスタジオ、トルコ風呂などが点在する地域になり、新宿三丁目の東(旧 二丁目の西の端)は都内屈指の飲み屋街となった。 建物など赤線時代の名残を残すものはほとんどないが、面影を窺わせる風景はわずかにある。 1980 年頃から、新宿二丁目はゲイタウンとして変貌している。新宿通りから靖国通りに抜ける、およ そ240m 弱の「仲通り」がメインストリートで、450 軒ほどのゲイバーがあるといわれている。13
新宿三丁目、歌舞伎町
昭和 10 年の新宿 地図の右端のグレイに色塗りされたゾーンからが旧新宿二丁目、遊女屋など風俗営業の多い地区になる。 伊勢丹の隣に市電の車庫があり、また中村屋(木造 2 階建て)と紀伊国屋が確認できる。 当時すでに映画館がたくさんあったのは驚き。昭和40 年代にも同じ場所に映画館があった。明治通りの伊 勢丹の反対側にあったアートシアターでフランス映画、その隣の映画館で若松孝二の映画を何本もみたのは 懐かしい思い出。新宿通りの伊勢丹の向いの映画館では〈その男ゾルバ〉などの映画を見た。ちょっとした 感傷。 (以下は川村光郎氏のコメント) アートシアターギルド(ATG)は葛井欣士郎が開き、通常の映画館では上映されない世界の名画を観るこ とができた(今は角川映画になっている)。当初はポーランドやフランスのヌーベルバーグ(トリュフォー など)の洋画が中心でしたが、後半は大島渚など日本のヌーベルバーグ映画になりました。新宿通りの伊勢 丹の向い(いまは丸井になっている)の帝都座は秦豊吉がつくった日活映画封切館で、後に新宿日活となり 日活ロマンポルノを次々に上映していつも混み合っていた。深作欣二や若松孝二等の新進監督が活躍した頃 である。狭い階段を5 階まで上ると、帝都座の頃はストリップや額縁ショウを見せていたが新宿日活となっ てからは「日活名画座」として確か40 円で洋画を見ることができた。 1933 年開店の伊勢丹の 2 階には当時では珍しいスケートリンクがあって、モボやモガが多く集まってス14 ケートを楽しんだ。沢田さんのお母様もその一人だった。私が滑ったのは戦後のことで、進駐軍による接収 が終わって百貨店事業再開後数年はスケートリンクが存続していたのである。昭和30 年頃、今の伊勢丹メ ンズ館の辺りにあった闇市が丸物デパートとなり、その建物の中にストリップ劇場があったので【ストリッ プのあるデパート】として有名になった。猥雑な新宿の街が偲ばれる。 地図からははみ出しているが、靖国通りにある花園神社も見逃すことはできない。今はもうほとんど見る ことのできない見世物小屋がしばらく前まで残っており蛇女などがいた。唐十郎の紅テントの芝居もよく掛 かっていた。 昭和 29 年の新宿西口には淀橋浄水場 昭和 33 年の伊勢丹 昭和 32 年 中村屋 昭和 35 年 新宿駅
15 末 広 亭 新宿三丁目にある寄席。明治30 年に創業している。 落語のグループには、落語協会、落語芸術協会、円楽一門会、落語立川流、上方落語協会の五派がある。 グループが色々できたのには、真打昇進をめぐる意見の相違などもろもろの理由があったが、末広亭で は、落語協会と落語芸術協会が10 日ごと交代で出演者を出している。落語の間に演芸などが入るから、 吉本興業の漫才なども加わる。 深夜寄席はこの2つのグループの二つ目が出演する。だが、上記の5 派の二つ目が一人ずつ出演する深 夜のイベントも開かれている。 豆知識 五派に所属する主な落語家 落語協会 : 園歌、馬風、金馬、小三治、円窓、小朝、こん平 など 落語芸術協会: 米丸、歌丸、子柳枝、昇太など 円楽一門会 : 円楽、好楽、円橘 落語立川流 : 談四楼、志の輔、談春 上方落語協会: 仁鶴、鶴光、鶴瓶、ざこば、月亭八方、桂吉弥、文枝、文珍、福団治 落語協会と落語芸術協会について 話は 1930 年代のこと。ラジオ放送がはじまり、落語家もラジオ出演するようになった。落語協会 と末広亭や鈴本などの席亭はこれをよしとしなかった。この反対を押し切る形で出演を続けたまだ 若き柳家金語楼を中心に吉本興業と一緒に設立したのが落語芸術協会である。この協会所属の落語 家は戦後、現代ものを演ずる落語家が多かった。 落語協会の分裂 1965 年から 72 年まで会長であった三遊亭円生は、真打は落語家の到達点と考え、真打昇進に厳し かった。このため二つ目が滞留し不満がくすぶった。次に会長になった小さんは理事による合議を 重視し、真打になってから研鑽を積めばよいとの考えで、一気に20 人を真打にした。これに不満 をもった円生が弟子などと脱会して組織したのが落語三遊協会。しかし脱会者が多く、円生の死後、 円楽を中心に組織されたのが円楽一門会。
16 新宿ゴールデン街 歌舞伎町一丁目には、知る人ぞ知る新宿ゴールデン街がある。飲食店街であり、狭い区画に戦後建 てられた木造長屋建ての飲食店が200 軒以上密集している。 常連客として作家や俳優など文化人と呼ばれる人たちが多く集まることで知られていた。 しかし、バブル期の地上げ攻勢で閉店したところも多く、バブル崩壊後の 1990 年代に一時ゴースト タウン化した。 2000 年代に入ると新規の出店が相次いだことで活気を取り戻した。近年は、欧米の 観光客にとってのスポットになっていて多くの外国人が訪れている。 エリア内の路地は全て私道であり、路上での無断撮影は禁じられている。 新宿ゴールデン街の起源は戦後の闇市と関係がある。私の幼い頃の記憶では、紀伊国屋の裏一帯は闇 市だった。昭和24 年に GHQ の指令で闇市が撤廃され、闇市にあった店舗は当時、繁華街から離れた ところであった新宿ゴールデン街あたりに移った。 この一帯はもぐりの売春営業の店が多く、いわゆる青線であった。昭和33 年の売春防止法施行以降、 こうした店は廃業することになり、その後、飲み屋が密集し「新宿ゴールデン街」と呼ばれるように なったのである。 ゴールデン街への通り道は、都電が廃止される以前に電車の軌道があり、現在は遊歩道になっている。
17 職安通り 職安通りとは、歌舞伎町と大久保百人町の境を東西に伸びる広い通りで、コリアンタウンとして知ら れている。道路標識などもハングルで書かれているところがある。 大久保百人町は韓国や中国の人が多く住み、 職安通りには、韓国食品の大型スーパー「南大門市場」 と「韓国広場」がある。 多くの韓国料理店や韓流ショップが並び、また韓国系だけでなく中国料理店やタイやベトナム料理店、 ホルモン焼肉店などもある。韓国料理店の中には裏メニューとして狗いぬの肉を食べさせる店もある。中 国や韓国からの旅行客も多く訪れる。 ドンキホーテの横の路地は、大久保通りまでは、露店らしき店も並び賑わいをみせている。店の店員 に韓国人の整形美男子が多く、イケメン通りとも呼ばれているらしい。 「南北朝鮮人の強制送還」などと民族浄化を扇動するヘイトデモが職安通りで騒ぎ、警察がこれを守 っている風景がしばしば見られたところ。 近くに小泉八雲記念公園がある。八雲の旧居跡であり、明治37 年 に死ぬまでこの地で暮らし、晩年は早稲田大学で英文学を講じてい た。 八雲は近代化が急速に進む当時の日本の消えゆくものを見つめて 愛した男だが、ギリシャを離れて異国に骨を埋める精神には感ずる ところがあるためか、ここが「逆境に強くなるパワースポット」に なっているとか。