エックハルト紳秘古義の特質
海
邊
忠
ムロ亨
一、序 文 二、離 腕 三、無 四、恩寵−帥コ①≦曾謀ヨげΦ1現實生活について 五、エックハルトの糟⋮︼紳的境位と近代性 一、序 文 憩秘正義の特質は絶封的なるものと相封的なるもの、乃至は神・佛と人間との合一或は同一の禮験にある。然 るに宗敏の本質は絶封者と相撃者との關係、五器的に云へば何等かの意味に於て神・佛と人間との一燈の關係を 離れてあり得ないとすれば、あらゆる宗敏はその根抵に於て隠秘轟轟と本質的關係を持つと云ふことが出寝る。 唯一般に彼岸的︷示敏に於ては絶鍬者と人間との一箸と云ふも爾者の懸絶性が一鶴化成立の基盤をなして居る。然 るに紳秘圭義乃至紳秘忠義的宗敏に於て一書或は合一と云ふ場合、それは懸絶せるものの一塁化と云ふよりも絶 エックハルト憩秘主義の特質 九五エヅクハルト紳秘主義の特質 九六 封者と人間との本來一如、乃至は根抵に於て一たるところがその基盤となってみる。そも一半畳的なるものと 絶封的なるものとが合一し得るには相封的なるものは本曇絶封的なるものである、或は相封的なるものの根擦が 絶封的なるものにあると云ふ所がなければならない。併しそれは相撃的なるものが上昇の結果乃至は延長された 結果が絶封的なるものに到達したと云ふものではなくして、相封的なるものの本來の姿、或はその本源に還聾し た所が絶封でなければならないと云ふのである。ここにプロティノスを初め多くの西洋の隠秘家達が神乃至一槍 より萬物が流出し且その還諭する姿を読く理由があり、更に佛教に於て一切衆生悉有佛性乃至は本來一如を説く 所、これは一暦徹底されてるる檬に思はれるのである。 次に一般に︷示派的宗教に反ては教義が最も重んぜられる。併し神秘圭義にあっては敏義よりもむしろ自己の圭 ド グマ 盤的神秘言書が重硯される。この黙、哲學が敏義とか前提とかを置かす無前提の立場より眞實艶話なるものを把 握せんとする所、神秘圭義は哲學の立場に通するものを持つのであるが、一般に概念的折︹學に討ては論理乃至盤 系を標労するのを常とするに封し、紳受忍義乃至騨襲撃義的哲學にあっては、その原語ギリシャ語ミ藍鼠︵の語 幹ミいeの目零は口を閉ざすと云ふ意味に示さるる如く、一切の感畳的世界より遠ざかり、且表現的世界よりは 沈漱して、ひたすら根源的禮験、實在経験の世果に参入せんとする所があり、その鮎麗麗訳義は概念的哲學とは 趣きを異にするのである。併し要するに絶封なるものと一たら.んとする以上はあらゆる宗敏の基礎盟験と根源的 に通つるものをもっと云ひ得るであらう。されば新カント學派の紳秘圭義を以て宗敏に於ける中心的なものと圭 .張せるもゆえなきとしないのである。
今ここに西欧に於ける最も深く且純粋な紳秘主義者マイスタ;・エック、ハルトの重藤圭義に就て述べて行きた く思ふ。 彼は中世の代表的哲學者の一人であるが同時に現在乃至將來に亘って大きな意義をもつ思想家であると思はれ る。云ふ迄もなく彼は中世十三世紀の中葉ドイツに生れた神秘家であった。凡そ中世は古來學問の暗黒時代と云 はれる。成程自然垂泣的學問の世界では暗黒の時代であらう。併し精神的餓性的學問の世界では光の時代であっ たとも云ひうるのである。アウグスティヌス、トマスをはじめここに懐くエックルハルトを中心とする猫逸事秘 圭義者等の輩出は正に偉観である。彼は猫逸紳秘要義の父と云はれ、キリスト敏界に生れ出た思想家であった。 併しエッグハルトの紳秘玄義はキリスト薬瓶より生れ出たのであるがその読く所は根本的に佛敏の立場と逸つる ものがあり、むしろ佛教的とも云ひ得るのである。根本的に歴皮が違ひ背景が蓮つた宗教の世界に生れ出たもの に相通つるものがあるとは、やはり眞理と罷験の世界は如何なる異った世界の中より生れ出ようとも、.最も深く っきっめられた時には鰯れ合ふものがあると云ふこと、而も︷示教の世界でいかに教義が蓮ひ環境が異ってみても、 ほエ 本質の世界・盟験の世界にはやはり通つるものがあることを想はしめる。これからの世界は東洋・西洋の二世界 ではなく今や世界は東洋・西洋が別々に孤立した次元に止まってみることをゆるさなくなって來た。一の世界の 課題はもはや汎世界的課題となりつつある。そこには宗教思想に湿ても山口谷博士の云はるる如く佛敏は西洋思 想の基般皿をなすギリシャ精神乃至キリスト教精神を、キリスト教は東洋精神の基盤をなす佛教を辮讃する所がな ければならない。換言すれば佛教も現代に於ては廣く哲學、臨画を媒介すると共に西洋の宗教とも封決するとこ エックハルト憩秘主義の特暫ハ 九七
エックハルト紳士主義の一特質 九八 うがなければならない。併し一の世界と云ふことは全く異った二つが互に軍に結合され輩に混合され或は軍に.他 が.排斥されると云ふのであっ℃はならない。二者が夫々の根源をほり下げ、・五に他を辮諮することによりで却つ ℃より廣い普遍性と絶封的な基盤をそこに獲得するところがなければならない。この鮎エックハルトの思想は東 西の思想を通じての根源的問題をとらへてみると共に、現代將來に亘って多くの示唆を與へみものと思はれるの である。以下エヅ.クハルトの神秘思想とその將來的意義について述べて行くことにする。 ︵註1︶ ルドルフ.。オットτがそ,の著作﹁東洋西洋の紳秘主義﹂因・O簿PUδ♂<⑦簿−α。・二ざげ①寓鴇ω二犀に於て印匪のシャラ ンカラと狽逸・のエックハルトとを比較研究し、西洋の神秘主義と東洋の神秘主義乃至佛敏について研讃し.たのを始め馬 横撃主義を中心として東西の宗敏思想を一なる根源的立場よりとり上げ.たものは少くない。我國でも柳宗挽氏は棘秘主 義を通して東西の宗教に一なるものを見出し、西谷敗[治博士もキリスト教界に於ける憩郡家エヅクハルトを通して佛教 にふれ合ふ所を見、久松眞一博士もプロティノスを通して輝思想の姿を認めてゐられる。 二、離 脱 エックハルト一は彼の論述の中、離脱”げ6ぴq①ω070一畠05げΦ騨に曾ての出田に於て離脆悼か鼠取差目最宣同国の徳であると流⋮べ てるるが、この章に於てエックハルトの特徴がよく現はれてるるのでここから彼の思想に就て論を進めて行くこ とにする。 ポ事・が.リン・薯に﹁たとひわれ宣誓る修行を温むとも饗くばわれ着し。﹂︵箏心馳︶.と云つ
てるるが、エックハルトはキリスト教及キリスト敏會の傳統的な徳である﹁愛﹂以上に離脆の徳を讃へ、その理 由として彼は訣の二項をあげてみる。彼は云ふ﹁その理由として第一に、愛に於ける最もよいことは愛は紳を愛 する様に私を強ひる黙にある。ところが私が私を神の方へ彊ひると弐ふことよりは㍉私が神を私の方へ強ひると 云ふことの方が遙に貴い。そしてその二男私の永遠の浮輻は私と神とが一つに結ばれる所に成立するが、この⋮場 合私が私を神と一つに結び得るよりも、より一言密接に神は自分自身を私に合せ且つよりょく私に結び得るから である。かく離脆が神を私の方へ張ひると言ふことは次のことで讃明せられる。あらゆるものはそれぐ本來の 固有な歌態にあることを喜ぶ。然るに紳の三聖の固有な歌書は一たることと純粋譲ること容ある。ところがこの 一と純粋は離脆から來る。それ故に紳は離脆した心には自分自身を與へざるを得ないのである。﹂︵喝・国。集。鴇・ 竃①δけ。﹃国。犀ゴ94︹但し現代鐸の国・切鋒葺①さ竃鉱ωけ。﹁国。犀。ゲ国詳ωω6ずユ津。βロ昌α℃﹁①自おけΦ昌参照す︺!以下℃浄と略す一ψ&心︶ と。以上の如くエックハルトは愛よりも離脆を讃へてるる。ここで愛について考察すべき鮎は、凡そ愛は自我が その基準となって居り、そこには私より神へ、私をして紳を、と言ふ如き自我性の淺澤がそこに残って居り、自 我の個禮性の意識がその出駿黙をなしてみる檬に思はれることである。併し乍ら凡そ愛がその窮極態にある場合 にはもはや私の一切がその封象に捧げつくされると言ふ所がなければならない。即ち私そのものが室ぜられ、個 髄性や封立腰人格性がそこでは溝失せしめられる所がなければならない。故に愛の窮極に於てはもはや人格的輝 岩が破られるものがあり、自己が自己の根抵より破られるものがなければならない。彼はここに自己の底に自己 が破られ、自己が超えられた世界を思懸の世界と云ひ、愛をも超え愛よりも徹底された世界として最も窮極的な エックハルト棘秘主義の特質 九九
エヅクハルト神秘主義の特質 一〇〇 あり方とした。彼はかかる離脆の世界こそ個養性、仲立性を超えた一と純紳の世界であるとした。即ち神の本性 である一と純粋性はこの世界に來らざるを得ない。換言すれば封立を超えた一にして純粋なる神は、この離脆の 世界に來らざるを得ない。來るべき必然性をもつとするのである。その黙、愛の世界よりも離脆の世界に於て、 神との一が成立する必然的理由があると彼は言ふのである。 第二の理由として﹁愛は神の爲にあらゆるものを耐へ忽ぶ様に私に彊ひるに封し、離脱は神以外の何物をも受 容しない様に私に彊ひるからである。神の爲にあらゆるものを耐へ忍ぶよりは、紳以外の何物をも受容しないこ との方がはるかに貴いことである。耐へ忍ぶことに於て人は己に窄みを輿へる原因である所の被造物に卒して何 まユ らか關心をもつわけであるが、これに反し離腕はかかる一切の被造物を捨離してみるからである。﹂︵勺州.ω●劇QQ劇︶ 自我を離湿することは我執を去ることであり、 一切の被造物を捨離することは法執を去ることであり、要する にそれら一切を離脆することに予てのみ紳との一が最も完杢に一聯によるよりも勝れてi威倒するのである としてみる。 次に彼は離脆と更に謙虚の徳とについて比較してみる。 ﹁師達は謙虚を他の多くの徳より勝れたものとして辮 讃する。然るに私はいかなる謙虚にもまして離脱を稻讃する。そのわけは次の理由による。謙虚は離脆なくして もあり得る。併し完全な離州は二二な謙虚なくしてあり得ないからである・:・。﹂﹁私が離脆を謙虚より高貴なり ︵註2︶ として樗讃する理由の第二は次の如くである。完全な謙虚はすべての被造物の下に自分自身を屈するものであり、 そしてかく屈することに於て人は自己自身より出て被造物に移行する。然るに離脱は自己自身に止まる。そして
自己自身より出て行くことが如何に貴いものであらうとも、自己自身の中に止まることは常により貴いものであ る。::それ︵離脆︶はただ自己自身と一つであらんことを欲する。﹂︵℃いψ畠α・︵離脆︶は課者挿入︶ 謙虚の窮極は自我がなくなること即ち離脆に外ならない。しかも謙虚であることは他の被造物に己を屈し、或 .は自己が他に移行することである。然るにエックハルトによれば他に圭盤が移行することよりも自己自身に止ま るζとの方が貴いとなす。iこれは圭燈性を重んずる彼の思想の一の特色である。一かくて離脱は謙虚に勝 ると彼は曇ふのである。 ︵註1︶︵註2︶ 被造物は人間にとって憎みを與へる原因であると蓮ぺてるる如く、彼は紳と一つに結ばれる爲にもあらゆる被 造物より捨離すべきことを各所に於て操返し力説してみる。 ローゼンベルグはこれらについて云ってみる。 ﹁エックハルトは彼の論述で愛とか謙虚とか憐潤の如きクウス ト敏乃至師事的最高債値を論評し、そしてそれらのものは高さ、深さ、及び偉大さに於て、自暴的な盤の状態 ︵四脚∀に譲歩しなければならないことを見出してみる。﹂︵︾・困。の。ロげ巽ゆq璽O窪ζ旨ゲβω島$鱒9智汀ぎ民。鴇ω・ψb。器︶ と述べ、ここで叉彼は言ってみる。 ﹁世界統御してみる頑固な教會を向ふにまわして最高にして優勢な諸便値の 韓倒を企て、その上、素朴な信徒に一つの積極的な新しい最高債値へ離脆︶を傳達すべき試みを敢てすることが、 十四世紀初葉に於けるドミ国恩ン派の一修道院長にとって何を意味しなければならなかったかを想像して見るべ きである。﹂︵同ψNω。。︵︶内は馨者挿入︶と云ひ、精紳の自由と自圭性とを確保するに極めて困難な豊艶の環境 そっちょく に拘らす、エックハルトの自己に忠實にして眞理に極めて素直な彼の態度を総⋮讃してみる。凡そ多くの紳姻家は エックハルト神秘主義の特質 一〇一
ニツクハルト紳秘主義の特質︻ 一〇二 あらゆる葛西學詮にごだはらす素直に自己の盤験の世界を強調する。かかる純粋に自由な立場に立つ所に彼等.の 特色がある。 重て以上離脱の章に現はれてるる所は、ただひたすら紳に止して一切の被造物を捨離するならば、離脆によりて 神、我に彩りて一が現前すると、而もそれは私が紳に到って︵自力的︶でなく、紳の到來によって一.が現前する、 即ち神馬に來ってわが根抵が破られた所が紳との一である。これは換言すれば鰻に於ける神の誕生である。そこ に新しき圭燈、新しき生の出現がある。ただここに注意すべきは、この離脱は謙虚の如く自己の重量が他に屈し 他に移行するよりも、自己に止まる方が一暦よいとされてみる場合にも現はれてるる檬に、ここでは自己と云ふ ものがその底に向って超えられ、どこまでも圭歯性を徹底した方向に神を磯見し自己の生を見出すと弐ふことで ある。そこでは紳の誕生が自己の新しき圭髄性の出現であり、自己の新しき生が紳の生である。この七二がここ で,笊浮フ一であると云ふ事である。故にここではその根抵に璽と神との絶封的自己同一と云ふことが考へられね ばならない。彼は云ってみる。﹁ある師は﹃紳が人となり給ふたことによって全人類は高く貴くされたのである。﹄ と云ひ、また﹃我等の兄弟たるキリストが彼固有の耐力によって天使の合唱群を越えて高く昇天し、父なる憩の 右に坐し給ひしことをわれくは大いに喜びとすべきであらう。﹄と云ってみる。此の師は立派なことを云って ゐられる。併し眞實の所私はこの師の言葉を以て十分なりとすることは出師ない。假りに私に富者である兄弟が あるとしても、私が貧しくあるならば何の釜があらうか。又私に賢い兄弟があちうとも私が愚かであるならば何 の釜があらうか◎これに面し私はこれと違ったもっと切實なことを云ひたいのゴである。帥ち紳が人となり給ふた
と云ふのみでなく、更に神は人間性を御自身のものとされ給ふたのであると。::聖者達すべて、紳の母なるマ リヤ及人間としてのキリストによって所有せられたるすべてのものは、又悉くこの本性のままなる私の所有でも あると。﹂︵℃h●ψ罐︶ 又云ふ﹁生とは何であるか。神の本質が私の生である。私の生が紳の本質であるならば神の存在は私の存在で あり、紳の存在性は私の存在性でなければならない。それよりも少くも多くもない。﹂︵℃臨・φ卜。9︶と。或は云ふ ﹁私の根抵が榊の根抵である。 ここに於て騨が神自身より生き給ふ如く私は私自身より生きるのである。﹂︵勺い幹 8︶と。 帥ち彼にとって紳と自己とは根抵に於て一である。併しここで注意すべきは、その一は神と自己との箪なる直 接的な合一とか、生の絶封否定を通さざる一がそこに考へられてるるのではなくして、その一は自我が絶封に否 定されその根抵が突破された所に現はれる一でなければならない。その根抵が一であるとか、本來一であるとか 云ふのはかかる意味﹂でなければならない。この自我の絶封否定或は突破の経験なき騨との直接的合一乃至直接的 一が考へられる時、そこに常に最も大きな誤解が生する。︵紳秘圭義と汎神論の混同もここより生する。︶成佛を 云ひならされた我國では紳との一と云ふ事は新しいことではないが、キリスト面的傳統の國に重てエックハルト の言葉は實に大膿な痴言でなければならない。それは叉傲慢と異端と考へられたかもしれない。途に彼は誤解を 受け、死後彼に封ずる破門の宣告と、彼の著書に封ずる焼却命令が出されたのである。︵破門後年に解除︶併し彼 の立場は、先に述べπ如く自我性が同時に紳であるとか、神と人との直接的合﹁とかが圭張されてるるのではな エツクハルト棘秘主義の特質 一〇三
エックハルト神秘主義の特質 一〇四 い。自我の絶鉗否定乃至自我の突破蒋換が、實はエックハルトの最も大きな特役であったのである。それが彼の 突破自昼﹃oげび肖①o冨ロの膿瞼であり、先に述べた離脱と云はるるものであっ弛。 彼は云ふ﹁精神は一切の数を超え一切の多を突破しなければならない。そして精憩は紳によって突破される。 かく紳が私を突破するに從って、私もまた神を突破するコ紳はこの精神を神の沙漠の中へ、榊自愛の同一性の中 へ道丁く。・:・﹂︵℃h●ω’Nωbo︶ ﹁汝が神によって汝自身から全く脱出するならば、榊は汝によりて彼自身から全く脱出し給ふ。この導者が共 に脱出する時、そこにあるはただ全く一なる一者である。此の一者に於て、父はその最も内奥の源泉に於て御子 を生み給ふ。﹂︵譲・ω●86日︶ 精紳は神によって突破される。それが璽に於ける紳の誕生である。それは同時に新⋮しき圭禮、些しき生の出現 である。即ちかく嬢が自己を突き破ってくるものと一に生きると云ふこと、それは同時に私が自己を突き破って 新しき圭艦として生きる事に外ならない。印ち豊を無化する紳の働きは同時に自己自身を突破する璽の働きであ る。突破に於てその智者が全く一なのである。ここでは絶封の受動が絶封の能動であり絶叫の能動が壁塗の受動 である。而もエックハルトに於ては紳と一になると云ふ事は紳と合一してみるとか神に了してみると云ふ事でな くして、神によって突破された璽は同時に紳を突破して神の根抵、絶封無の世界にまで突出し、神をその根抵よ り生きる事に外ならない。即ち自己の根抵素生より生きることは、彼にとって神を根抵より生きる事に外ならな いのである。ごこに於てのみ爾⋮者は純粋に︵圭盤的に︶ 一たり得、 そこにのみ全き﹁一なる一者﹂、 一の純なる
働きがあったのである。而もこれが自己に於てなされてるると云ふこと、即ち泓の根抵︵習々︶乃至私の圭禮の 上で行はれてるると云ふこと、これが突破に於ける働きであり、彼の離脱の特徴でなければならない。 三、無 こ、に於て離脱・突破について述べたが、然らば以上述べて來たこの神の根抵と云ふのは一鞭如何なる性格の ものであるか。この神の性格がエックハルトに於ける最も重大な問題である。 彼に於ては父・子・聖釜の三一紳の根抵に超人格的な神的本質が考へられ、更に有としての紳の本質をも超え た無と云ふべき紳性質QO爵Φ答が、その紳の根砥とされてみる。 エックハルトは突破の経験について璽は﹁突破 して裸のままの︵稗自髄に於ける︶神を見出す﹂︵零.ω・り。。・︵︶内は諜者挿入︶と云ってみる。彼にとって三一.的人 格神は未だ被造物に於ける耐であり、それは更に神職罷に於ける神、否、無としての紳性へ突破さるべきであっ 完。彼は紳と自己の根抵をかかる無の世界においたのである。 然らば無の世界は何を意味するか。彼に於て嬢は生の根抵、無底の根抵より神との一に歴て生きるのである が、紳が有であるならば一たとひ絶封の有であらうとも1有に於ての合一には絶学の一と云ふことがあり得な い。有に於ける︸は純粋なる︸でなくしてやはわ二である。ここに無の基盤に於てのみ眞の主盤としての一の現 ︵註−︶ 成があると云ふことが出來るのである。 ︵註1︶ 佛教では空と云ひ一如と云ひ法性と云ひ眞如と云ひ或は法身と云って、そこに佛・衆生の根源を見るが、正統的キリ
エックのルト棘秘主義の特質 一〇五
エヅクハルト六二主義の特質 一〇六
スト教にはこ恥が見出せない。エックハルトが三一超人絡⋮棘の根跡として云ふ無は恐らく佛敏の一如法性の世界に當る のではなからうか。 次に絆に封ずる蹄依の世界に於て、或は紳に合一せんとする世界に於て、紳を求め紳を信じようとする自我、 聯と合一せんとする自我、乃至は紳に執着する自我が最後の自我の残澤となって残る。彼にとって更にかかる紳 への執着と神を求める自我がもう一度突破され、瀞をも放下し紳に執着する自我をも超えられた世界に突出され 転ければならなかったのである。又所謂疑点圭義的合一と錐も彼にとっては未だ神にとらはれた姿に愚ならなか った。この紳をも突破し神をも捨てた無の世界に躍出した所、却ってそこに彼は神と自己の根抵、根源的に一な る世界を見出した。かかる何ものをも離れ、否神への執はれをも超えた絶封に自由な二黒の世界!かかる紳すら なき世界tを、彼は沙漠と云ひ、紳と自己の根抵と云ひ、荒野と云ひ、無と云ったのである。彼は言ってみる。 ﹁霞の閃光はその本質が何虞から來るかを知らんと欲する。それは純一なる根抵へ、静寂なる斜影へ入らうと 欲する。その沙漠へは如何なる差別的なるものも、父・子・聖.簸も決して覗き入ることがない。何物も留まる ことのない最内奥のうちでこの光は満足する。そしてそこでは、それは自己自身に於てよりもより一である。﹂ ︵℃h●ω。H㊤悩︶ 璽はすべてを突破して止ます、途に紳をも突破して神もなき絶封の圭骸︵無︶の世界に突出する。眞の一はか かる無の世界、何ものにも依存せす何物にも障凝されない里並無の世界一沙漠一に於て極まるのである。この無 の世界に、はじめて霧は盤自身として最も自由に︵紳さへも關らない︶固有な主 罷として生き、神は又︵被造物に樹する神でなく︶神自禮の紳として本馬的にあり得る。かく爾者が本來的にそれ自身を生きる生の根抵−紳と 自己の根砥1に於て、爾者ははじめて主盟的に一、白蟻一であり、﹁自己自身よりもより一﹂たり得る。ここに 於てのみ生は瀞をその根抵より生きることが出來るのである。 そこでは私が私の生を生きることは、紳が神の生を生きることであ砂、紳が紳の行を行ずることは、私が私の 行を行ずることである。而もそれが絶封に一なのである。彼は黒田で云ってみる。﹁さてここで眞創に聞いても らいたい。私もしばく云ったし又偉い師達も云ってみる。帥ち入間は彼が神にとっての固有な場所になり、そ してそこで瀞が紳の行をなし得る程にすべてのものとすべての行とを、内的にも外的にも室じてあるべきである と。併し今我々は別のことを云ふ。帥ち人間がすべてのものを、すべての被造物をも彼自身も神をも転じてあ り、而して神が彼の中に行をなす場所を見出すと云ふ状態が彼に街あると假定すれば、さう云ふところが人位の 中にある間は、人聞は未だほとんど完全な貧に於て貧しくあるとは言へない。・:・精神の貧とは次の檬なことで ある。帥ち人間が紳とそのすべての行とを室じて居り、その場合若し神が.璽︵人間︶のうちで行をなさんとすれ ︵註︼︶ ば、紳自身が紳の行をなす場所となると云ふことである。そして紳はさうあることを喜ぶ。﹂︵]℃h・ω。卜ρ◎oQo ︵︶内は 仁者挿入︶と。ここではボーロの﹁我事くるに非すキリスト我に於て生きるなり。﹂も超えられてみる。即ちこの 立場ではまだ我が紳の場所として表現されてみるからである。エックハルトの無は我が神の場所となることすら ︵註宕︶ 超えてみるのである。即ち彼の無の世界は、神をも超えた塵に最も圭髄的に神との一に生き、宗敏をも超えた所 に最も深き宗教的世界が盟験された.世界とも云ふことが出來る。
エックハルト神秘主義の特質 一〇七
エックハルト紳秘主義の特質
一〇八 扱て紳をも超えたこの無の世界から、彼に去て次の三つの生き方が見出されるのである。 ︵註−︶ 神と人問が純粋に主禮的な一としてある時、かかる世界があるのではなからつか。信の成立の基盤も、かかる聯と我 グルンド との一如の基盤の上に於てのみ、その成立の原理的基礎があると思はれるのである。バルト憩學に於ては憩と人間の懸 絶の面のみが主張せられた備、如何にして人間は憩より啓示を受容する能力がありゃが聞題となり、バルトとブルンナ 一の論璽となって現はれたが、この熱眞宗が表面キリスト教バルト紳學と絹似し、佛と衆生の懸絶性を説くも、然竜本 來一如を説き悉有照性を読く佛教に根抵を置いてみる黙、その立脚の基盤に於て根源的に粕異してるる所大いに注目さ るべきである。 ︵註2︶ エックハルトが﹁憩は實に私自身よりも、もっと近い。﹂︵勺鯵OQ.boトのH︶と、或は﹁生とは何であるか。紳の本質が私 の生であるQ﹂︵℃臣・ω・卜⊃O膳︶と云ってみる意味もかかる立揚より解されねばならない。 四、恩寵一節ロ。≦母ロ葺σΦ一壷實生活について 先づ第一に恩籠についてである。 ここで云ふべきことは彼の立場は輩なる自力ではない。帥ち簸に於ける神の誕生は、彼に於ては紳の恩寵によ るわけである。併し彼の神をも超え紳をも突破する世界に到っては、受苦この﹁恩寵による﹂あり方は攣化があ らねばならない。帥ち神をも超えた世界ではもはや﹁恩寵による﹂世界は﹁恩三嘆らとなる世界﹂否﹁恩寵をも 超え﹂ゆく世界に轄ぜねばならなかった。﹁露が恩寵,の内にある間は嬢は樹小さい。璽はいっかは恩寵のうちで上り行かねばならないρ恩寵は簸を抑へ つけたのでない故に、簸は恩寵のうちに於て上り行くべきである。そして二一は完成されて恩寵の上に出る。﹂︵℃い ψお㊤点$︶璽が紳をも突破して事々の一に生きる時、鍍は恩寵をも超えることによって、恩籠の上に出る。恩寵 をも超えることによって、却って彼にとっては最高の恩寵がそこに見出されたのではなからうか。 第二にぎ①ミ碧賃ヨ冨︵何故なき︶の生についてである。 ﹁若し人が生に向って﹃何故お前は生きてみるのか﹄と千年聞問ひ書けたとしても、生は若しそれが答へられ るものとすれば、﹃私は生きるために生きてみるのだ。﹄としか言はないであらう。と云ふのは生はそれ自身の根 抵から生き、それ自身の中から湧き上ってくるものであるからである。それ故に生は唯それ自身生きると云ふこ とに於て、何故なくして生きるのである。﹂︵勺hQD・①①︶ エックハルトは、生の根抵から湧き上り斬る生命のままに、何故を問ふことなくただひたすらに生き、ひたす じ ねん らに行じ、自然に生きるべきを述べてみる。佛敏で云へば自然法爾に生きる世界であらう。何かの爲、何かの故 に、と云ふ個我的意識的世界を突破しだその根抵に、彼は﹁生﹂それ自盟の世界を磯見した。かかる生の根抵よ り、彼は生のおもむくままにi何故なくしてi生きたのである。爲めにする世界−有爲の世界1を超えた所に、 彼は無爲自然の世界を見出したのではなからうか。 第三に現實的自圭的生活についてである。 普通紳秘録義は神との合一境乃至はエクスクシス、洗惚境を至上の立場とする。プロティノスも彼の生涯、ポル ェックハルト紳秘主義の仙特質 一〇九
エックハルト二日主義の特質 一一〇 フィウオスが随時の問、このエクスタシスにわっかに四度入ったと云はれてるる。それ程最高の世界であったわ けである。普通はエクスタシスの境に正住するのが最高であって、この境より離れることは下落の道を取ること に外ならない。然るにエックハルトは胱惚境乃至神との合一境を更に一歩すすめ、悦惚や神をも超えた無の世界 に生きる。彼はかかる悦夢境をも突破した世界に眞の現實的世界を褒卜したのである。彼にとって二面の世界、 紳との合一の世界に止まることは、未だ一や神にとらはれた有の世.界であったのであり、かかる悦惚境をも超え、 一切の關はりを脆し、否神との關はりさへも放下した所に、彼にとっては絶封に自圭的にして無凝なる世界があ ったのである。故に彼に於て洗惚境をも突破して、再び現實の干常語に突出することは下落の道ではなく、眞の 一・眞の無の世界への突破向上に平ならなかった。毛嚢で云へば理の世界より事の世界へ、理事無礎の世界より 事汝無益の世界への進展とも比せらるべきものであらう。彼は軍なる悦惚の世界に惑溺する態度に心し吹の如く 云ってみる。 コ私が他に於ても又言った事であるが、假りに誰かが嘗て聖ボーロがあった檬な悦惚の猷態にあって、然もあ る病人が一杯のスープを自分に求めてみることを知った時、若し君が愛と洗惚から去って一暦大きな愛の中に、 渇えてみる者に奉仕するなら、私は遙にその方がよいと思ふ。﹂︵℃h9ω。窃帆Qo︶ 彼は幌惚境乃至紳との合一状態より、むしろ悦惚を超え、紳をも突破した現取的具象的世界を遙に高く評便し たのである。 ﹁永遠の光は自己自身をば紳と共に認識せしめるが、心なき自己自身をぼ認識せしめない。::聖ボーロは彼
の悦惚状態に於て、紳の中に紳と自己自身とを精神的な仕方で、且、皇国でなく︶見たが彼の中で各豆の徳を具象的 な仕方σ霞8びΦ鼠。DΦで一新って最も直接的に1認識することは出來なかった。それは彼が生活の昔作について 修練してみなかったからである。この鮎に於て異敏の脚達は、徳の修練によって非常に高い認識に入り、その爲 彼等はひとっくの徳について、ボーロやその他の聖者たちがその最初の悦惚状態の中で認識したよりも、具象 的なより直接的な認識をなしたのである。﹂︵勺恥●ω●癖QQ・ ︵︶内は澤者挿入︶又彼がル暴挙第十立町三十八節について の聡敏で特にマリヤとマルクとを比較し、マリヤを観照悦楽に生きたものの代表とし、マルタを悦惚境を超えた 砂箱的生活に生きπものの代表と七て、普通に行はれる便値軽便に大きな縛換を與へたのは有名である。この慌 惚の世界は末だ神に解した有の立場としてこれを突破し、瀞をも超えた上封自圭卓筆常底に於て、耳茸的實践的 生活に生きるべきを論いた彼の神秘主義は西洋神秘思想黄蝶稀に見る特色であらう。これは揮の宗教が悦惚、観 佛の世界に更に一歩をすすめ、佛に逢っては佛を殺し、組に逢っては租を殺し、更に現賞生活に蘇っては、茶に 遇っては茶を喫し飯に遇っては飯を喫する不常底を行ずる世界、叉は﹁聖的﹂世界を否定し﹁無聖﹂の所にその 極致をみる境に、或ぱ親書の現實の生活に生き抜いてそこに自然法爾を見出した立場とも一味通つるものがある 様に思はれるのである。かくて彼の生活は一言にして言へば神.的世界をも超えた縄封現實の世界に生きたとも云 ひうるのである。 以上四節に亙ってエッハルトの神秘思想を述べて來たのであるが、これらを通じて彼の思想の特徴は生の絶封
エックハルト憩秘主義の特質 =一
エックハルト赫秘主義の特質 一=一
否定或は突破が絶景肯定・絶認証實の世界となってみること、而もその肯定に前後一貫して見られるものはそれ が主盟性と自圭性に貫かれてみると云ふことである。 ローゼンベルグはエックハルトの簸の自主性圭髄性を讃して、ルターの如き人すら考へることを敢てしなかっ た大信な思想が明らさまに表明されてみるとし、 ﹁破の高貴なる簸より見られると総ての敏曲馬最高償値も第二 流第三流の二値と考へられて來る﹂︵oO● o卿け・ ω・ 卜⊃GQ刈一QO︶と彼の高貴にして自圭的な魂を讃へてるる。 又シュルツェrマイツィ1ルも彼の自由と自主性への衝動をとりあげ、特に﹁需巫の憤り﹂について、禰をも突 破して止まざる彼の需巫の能動性と衝動性とを指摘彊調してみる。︵聞・ω。げ三N。・竃軍器⑦さン繭・国。犀ぎ諄ωΩ①暮ω9。℃器画7 σqWロ¢.↓量江碧oPbQ>二恥燭ω.器︶ 要するに盤が絶封の自館主、主無性に継てあり、紳と自己とを突破した無主の圭禮的根抵、iそこでは紳すら 如何ともすべからざるi絶封の自圭自由の世界に生き抜いた所はエックハルトの最大の特色であらう。ここに十 四世紀初葉のエックハルトが中世に出てあり乍ら、深く近代性をもその中に包括した精紳に生きてみたことを知 るべきである。五、エックハルトの忌避的勢位と近代性
凡そ近代精紳はその端をルネッサンスに卜し、宗敏改革、フランス革命を通じて今に流れるのであるが、その 根本精紳は人間中心圭義の精紳である。それは人間が人聞に自圭性と圭食性を置く精華である。この精紳は哲學では、人間理性の自律を宣言したカントに現はれ、理性の絶馴化を篤くヘーゲルに至る猫耳観念論に見られるの であるが、更にヘーゲルの没後も、一は﹁神が人間を創ったのでなくして人聞が神を創った﹂と圭張するフォイ エルバッハの人間學、マルクスの辮誰法的唯物論にうけ縫がれ、他は猛撃哲學、生の合財、プラグマティズムに 根を引いてみる。それらを通つるものは彼岸的超自然的他者に基礎を置くのではなく、自己の理性、自己の生、 乃至は︵人闇學として︶自己の現存在U僧ω①ぎょり出螢する哲學となって現はれてるる。要するに人間より出褒 し、,人間を基礎とし、或は人間の自圭性を詮く哲學となってみる。人間性を押し進めた哲學は無神論的方向を もつ。フォイエルバッハ、マルクスの方向は言ふまでもなく、ニーチェ、ハイデッガーの生乃至は實存の哲學に 於ても近代人たる彼等には超自然的彼岸的紳を根抵に持ち出すことは出來なかった。唯、超越と否定とを失ひ、 内在に堕した近代人間圭義に封ずる批判より生れたキェルケゴールの野饗主義、バルトの辮誰法的差構の流れが 中世葡彼岸的宗教につながってみるのである。故にここに於て考へねぼならぬ問題は、近代精神の方向に徹し乍 ら然もキエルケゴ!ル、バルトの超越性否定性をも生かし、溢者を止揚する如き精神が將來に向って求められね ばならぬと云ふことである。ここに於て私はエックハルトの精神が現代及將來に向って大きな意義と示唆とをも つものであると思ふ。この問題についてエックハルトの生が徹底した人受の自主性に立つ黙深くニーチェの生と つながり、絶封否定を媒介とする黙キエルケゴール、バルトに通じ、然もこの人間の自圭的精神に立つ所近代の 人聞今上を内に包んだ、最も包括的にして深い生を彼に見るのである。勿論彼の生は近代初期のヒューマニズム や直接的入間性に立脚するものではない。むしろかかるヒューマニズムの母樹否定に於て却ってその生を内に包
エックハルト四目主義の特質 二三
エックハルト神秘主義の特質 一一四 んだ人間主義、むしろかかるヒューマニズムの根祇に立つ人間圭義であることは論を僕たない。かかる生に於て ﹁神は死んだ﹂と云ふニーチェの精紳をも﹁神を超える﹂彼の精紳に於て肯定し、又ある意味に於てキエルケゴ ール、バルトの紳をも﹁突破﹂の精神に於てその内に止揚し、然も人間の自圭自由と、主髄性現庸頁性とを承了に まで押し進めた近代的性格をも人間の原形として、エックハルトを私は見出すのである。この亜鉛の思想が中世 に於てあり乍ら、彼が現代將來の思想界の薪しき地卒を我汝に展開してくれる一人として、彼の意義は大いなる ものがあると思ふのである。