七六
ペルー経済開発史上における
プランテーション発達の遅延について
一伯国東北海岸地帯とペルー海岸地帯との比較一
和
田
俊
二
序ペルー国は南米西岸にあり、その海岸線はブラジル東北海岸地方と惚々同緯度にある。南米の東西両岸に背馳せる両国
は、緊々同時代に欧洲の植民地として領有され乍ら、両国海岸地帯の開拓の経過には著しぎ相違がある。ブラジル開発史、上最も夙に開拓されたのは東北海岸地帯で、そこでは十六世紀初頭既に甘庶栽植耕が開始され、それが曽て伯国経済の主
体をなし、欧洲の砂糖需要の過半を供給したことは先稿で述べた。然るにペルー海岸地帯の栽植耕の多くは振替と同じく
十六、七世紀に起源を有し乍ら、今世紀に入るまでは、着て生産物を世界市場に供給したこともなく、ペルー経済を支え
る主要産業となったこともない。昔ペルーが華やかに世界的名声を博した経済部門には、ゴムや規那皮の如く、その発展
途上はかなく消滅したものあり、グワノの如く衰退したものあり、硝石の如きは十九世紀末のチリー戦争の結果、鉱床所
在地を喪失して終焉を告げたものもある。これらの諸部門の没落にも拘らず、ペルーの海外貿易がその後絶えざる上昇発
展の趨向にあるとすれば、それは他ならぬペルー海岸地帯の栽植耕の新たなる発展の結果であることを、この国の貿易統
計が如実に物語っている。然らばペルー海岸地帯の栽植耕と、ほぼ起源を同じうする髭篭東北海岸のそれが、領有当初よ
りいち速く主力を注いで開拓されたのに対し、ペルー海岸地帯の栽植耕の生産物が世界市場に進出するのは、 紀に入ってからである、という開発の遅延は何故であろうか。吾々はこの点を究明したいと思う。 やっと今世 本稿はラテン・アメリカ開発史上における移民労働力の気候適応に関する、和田の研究シリ㌃ズの一編である。 ①拙稿ブラジル経済開発史上における労働力気候適応の問題 東北海岸地方における甘葛プランテーションの発達と奴隷労働力 彦根論叢 秋山範二先生遽暦記念論文集 昭和三一年。 ②Ω貰88閃●ぢ器ω⋮Qり。暮ゲ>8巴β客磯■=Oωρ℃二。。O¶ ③09。二円同。牒”9Φ#o嘗8げ曾﹀巳①雪ぎ匹Φび§98竃節三ξ.p”ωOや︾ヨ巴ざ坤昌Z9。εき囚巳ε﹃¢昆芝認Φ口ω。訂沖寒山賊ミき 魯、魯αq、愚ミ恥鼻§§鴇§肋さミ一勺。誘留ヨ一8PGD.こ。c。刈一G。。。c。. 一 ペルー海岸地帯の自然条件 土地と気候とは農業生産の自然的前提条件である。吾々は先づ対象地域の画定とその地域の自然条件の解明より始める。 この小論において取扱われるペルLは、主として現代の国家領域を対象とするが、歴史的記述に亘るときは、ペルー翠陰領の彊域に関説 する場合もある。ペルー副王領とは一五三二年に岡羊雲9ω8”畔母容がインカ帝国と呼ばれる一文明国家を発見征服し、スペイン領有を宣 して間もなく設置されたもので、北方のヌエバ・エスパーニや副王制︵メキシコ︶と共にスペイン領アメリカ植民地の二大中心地域を形 成した。当時ペルー副王領は南はチリの冨Q巳Φ河より北はエクワドルのζ①巳。鑓沃地に跨る広大な彊域を有したが、十九世紀初頭、 全スペイン領植民地の独立運動の結果、ペルー・ボリヴィヤ・チリー.エクワドルに分離独立し、群々今日のペルー国の彊域が成立した。 ペルーの自然地理区 ペルーは図に示す如く、自然地理的特徴により通常三地区に分けられる。e狭い海岸地帯Ooω鼠︵コスタ︶、⇔ 。高峻なアンデス山嶽地帯○◎巳管Φ冨と広大な高台面℃一議Φ窪を含むQっ一興冨︵シエルラ︶、飼熱帯密林をもつアンデス東斜面諸。暮践餌 ①② ⑨ ︵モンターニャ︶であり、⇔にアマゾン低地を含める。人によりアマゾン低地を第四地区となして四区分するが、その当否の論議は藪で は不要である。 ペルー経済開発史上におけるプランテーシ。ン発達の遅延について︵和細︶ 七七
七八 認爾 ・‘︷・ψ ノノ
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5CALE OF MILES ワ O O 15 ペルーの自然地理区 1海蔭㌧也粥 1[山嶽。高台if、τ 理東斜面密林地帯 Whitbeckによる 吾々がいま対象とする海岸地帯は、北はΩ§饗ρq出湾より南 は﹀臨。㊤ に至るペルー全海岸に沿う幅一〇一四〇哩の狭長なる海岸低地で、太平洋側に急峻なエスカープメントを為す部分
もあり、西はアンデス山系の海岸コルディレラの山麓に連る。船上からの海岸眺望は旅人に不毛荒涼の平野の如き印象を与
える。曽てグロイリッヒはその印象を次の如く描写したーー
〃飽きるような暗褐色の丘と谷との連続が、海岸に突き出た懸崖と岩 礁とを蔽い、ときにグワノの白色がその単調を破るばかりである。来 る日も来る日も、これらのものが吾らの眼前を横切って行く。永遠に 遮られることなき、灼熱を降り注ぐ、烈日の太陽の下に、心揺ぎ、気 力失い、焙られて⋮⋮だがそれと対照をなして、港では沸しい土地生 産物 米や砂糖や棉花 が積出される。だから外貌だけでは当に ④ ならぬ。完全な沙漠は此処では問題ではあり得ない。ク この短い描写はペルー海岸地帯の異常なる乾燥性を人間が如何に克服しているかを、簡明に表現していると云ってよい。 事実、ペルー海岸地帯の最大の特徴は沙漠地帯だということである。 その原因はこの地帯の卓越風が少しも水分を運んで来ないからである。卓越風の一は遥か南方から、ペルー海岸を北上するフンボルト 寒流と共に来るが、低温から高温へ移動する結果、この風は乾燥し、含める水分を放出しない。他の卓越風はアンデス西斜面を吹き下る が本来.それは太西洋を渡って来る貿易風である。これがブラジル海岸に達した時は、洋上の水分を放出し、その地に多雨を獅らし、更に アンデス東斜面を上るにつれて、雨・雪として水分を放出してしまう。それがアンデスを越えてペルーへ吹き下るときは、断熱的加熱の 為に乾燥し、雨を齎らさぬばかりか、乾燥した土地からなお幾分でも水を吸牧せんとする傾向さえある。かくて一般的に全年雨のない海岸⑤⑥ 沙漠が出来る。
農業生産にとって、ペルー海岸地帯の異常乾燥性は致命的意義を有つ筈である。然るに狭長な海岸沙漠を横切って、五
二の河流が太平洋に注ぐ。河流の半数はアンデス高原上の湖に水源をもつか、雪に蔽われた峰に水源をもつため、永遠に
絶えることはない。他の半数は雪線に達しない西部山系に発するから、雨季には豊水であるが、年間大部分澗れている。これらの河流が沙漠を横切る処では、肥沃な漢谷が開け、流れを潅瀧農業に利用する可能性がある。インカ人は古くから
流れを農業に利用した。山麓から放射する水路は泥で固めて構築され、上段の畑を潅漸した後に、漸次下段の畑へと導か
れている。 渓谷の土壌は一般に深く、きめ細く、滲透性ある砂礫層の上をそれが蔽っでいるため、排水もよい。、併し沙漠の潅概可能性には限界が ある。砂礫層上の微粒の土壌が吹き飛ばされて、沙漠を移動しつつ三日月型の砂丘を生じ、粗い砂礫のみの不毛の荒地のみが残される場
合たとえ潅概が実現しても生産に供され得ない。また人工潅概による沙漠克服にはもう↓つの限界がある。それは鵠。一型Φぎ︵お悼“︶によ って図示された如く、全年降雨をもつ山地と雨量欠如する海岸地帯との間に引かれた限界である。
近代ペルー国が国家経済発展のための最大の課題は、この海岸地帯の大規模な潅瀧計画を実施して耕地拡張することに
ある、と気が付いたのは左程古いことではない。 一九〇五年以来、各種の計画案が発表されている。併し二九一八年当
時の海岸地帯の潅漸状態と比較して、インカ時代の潅瀧設備の廃嘘の方が、遙かに集約的だしという記録がある。此らの
計画案のうち、最初に実施されたのは、O昌08盤谷における勺櫛ヨ電器山ΦH日冒霞凶巴潅漸機構で、それによって七千ヘクタールを開拓したのは一九二三年のことである。なお大計画は○言。。。漢谷とO匿9≦旨埴田で、沙漠を六万ヘクター
ルの可耕地に変えようとする。ペルー海岸地帯が、栽植地として華やかに発展の途に就いたのは、やっと今世紀に入って
からだということがわかる。 ①○蝉江↓巴9胃9Φ曽。窟8犀2︸注g寅づ恥βミ95属舞=¢.蝉いωβ争︸ヨ①二訂一議ス餌ヨ同層囚三ヨ同§島芝誘①重星︷げ一Qっ.ωし。心一ω$■ ペルー経済開発史上におけるプランテーシ。ン発達の遅延について︵和田︶ 七九八○ ②渕■零二黒3①。犀曽巳男国.乏凶=貯日。・触国8ま臨oO8鴨餌励ξohωogず︾ヨ①風βら。﹃鎚a・漉くこ︷虞9毛’=G。1=“’ ③津巴︾・O霞︸ωo昌”08σq茜℃ξohU9島p︾日二一βω乙℃ユ馨■客ζ二8ω−℃﹄ま。 ④閑.園昌。。げ”国嵩ヨ三富儀Φ<oロ○っ民㊤ヨ。嵩op魯ミミ罫§、閑、帖ミミ。ご触全ヒロ猟自“冒篭全bd①島p6ω9ω二悼α■ ⑤O。牙op尽’春陽こ℃.鎧ひ’ ⑥匂8①ω⋮ω8臣︾日巴β”●お心■ ⑦O巴。。。p愚.ミ﹂毛・鍾刈Ip山。。● ⑧ρ国。算鉱コ⋮○び⇔〒Oげ鎚−O鋤風押巴oh↓ゲ①O屋讐Oぼ日Fgo晦3肉§器婁おpメ℃唱.ω無噛 ⑨09ユ↓巳=−p餌’ρω.ωc。c。一ωc。o. ⑩ρ毛。ω暮ε昌①け巴“胃ho目目①隅①=目ヨ錠8訂①垣笥胃畠①。侍○冨鑓マユσq竃屋。。℃帥只管ω伍ΦOぼ目び05切ミ◎6ミ鳶。§ミぴ。§帖雫 、8§套譜、ミ黛乞ρ〇一”に日⇔一εc。”即Φh臼箕§、●肉ミ紺ミ一一〇一ρ ⑬O鋤二↓δF勲卑ρω.ω。。o・ 二 ペルー海岸地帯の気候状態 ペルー海岸地帯は南緯◎。。から一〇。。の熱帯圏にある。海抜高度は緯度条件を変更する程の影響は全くない。その点伯 国東北海岸と同じである。併し伯国では高温が直ちに農業生産に利用出来るのに対し、ペルーでは高温利用に先行して、
前述の如くアンデスの自然的貯水池より流出する水量の合理的利用をなし、海岸地帯の異常乾燥性を克服する必要があ
る。だがその潅漸設備はインカ入の先例に倣えば、左程困難な土木技術を要求するものでもない。ペルー海岸を世界の最乾燥地帯の一たらしめたこの地の高温も、同一緯度の伯国のそれと比べて、左程高温でないとい
う事実が指摘される。それはこの海岸を洗って北上するフンボルト寒流の影響の為で、人はこの海岸沙漠は過度に暑くは
ないとか、完全には熱帯的ではないという。 全海岸の北三分の一ばかりが年平均po。を越えるだけで、O帥=8 では一〇一悼。ρそれより南下すれば気温は著しく温和となる。ζ。− =①巳。︵霜。﹃︶でも略々同じ値をもつ。月平均の最高は夏の終りにあり、ζo=①巳。では諺為。の二月、O巴断。では悼ごひ。の三月が最 緩月である。北部ペルーでも二、三月が気重月である。最冷月は八、九月で、と。=①コ仙P一ひし。の八月、一ひ迅。の九月、O畳9。oでは八、九月が一ρo。である。年較差は海岸では僅か㎝∼ひ。に過ぎぬが、海から少し隔たると急に増し、気候は大陸性となる。海岸のO国一冨。
では♪刈。であるが、海岸からひ犀ヨ隔たった団ヨ画では8心。となる。 エラダス ペルー海岸地帯で。。以下の気温は未だ観測されていない。それにも拘らす、ペルーの農夫はよくげ色巴器︵冷害︶という言葉をロに ② するが、それは作物が低温のため.霜害に似た被害を蒙ることがあるからである。
かように熱帯とは云い乍ら、ペルー海岸は伯国東北海岸に幾分気温の上では劣ることを認めざるを得ない。正確にペル
ーの気温の低さは、殊のほか気温に敏感な甘薦の生育期に現われる。キューバでは毎年甘庶は牧穫されるのに、ペルーで
は牧穫までげ○。∼b。N月を要する。併しペルー海岸の気候は、それどころか甘蕉や綿花栽培にどれだけ有利であるか。甘蘇の場合、年間日照時間の著しい
長大さ、細江高温の継続︵ペルー海岸にはやはり四季はある一和田註︶、潅瀧が容易なること、沖積性の砕け易い沙漠のローム土壌に年間エーカー宛り一五〇一二〇〇封度のグワノ施肥により、甘蕪栽培の最適条件を具備し、良質の甘露牧穫が保
証され、且つ牧獲に豊凶を生じない。その上、キューバではエーカー宛り牧量ご○米トンに対し、ペルーでは四〇−六〇
米トンであることは驚くべぎである。棉作の場合、成育中の豊実を傷める降窟がない、成熟せる繊維を変色させる降雨が
ない、棉の樹の成育を妨げる降霜がない、全年高温の継続︵北米の大棉花地帯では年問成育期に限定がある 和田註︶ 地味肥沃であるばかりか・潅瀧が容易であ%という最適条件を具備している・
熱帯と錐も気候条件は局地的には種々の差異がある。併し熱帯栽植作物は熱帯の特定の局限された気候条件に依存して
立地決定を見る訳ではない。なぜならば同一栽培作物が場所的に移動する事例は屡々見られた。伯国の斑瑳は先づ低地の
甘薦栽培地を転換して作られ、その後周期的に大霜害にさえ見舞われる高原へ移動した。甘蕪栽植の中心地は伯国やジヤ
マイカからキューバに移動した。また同一栽植地で異種の栽培作物が時代的に交代した事例も多い。だから熱帯栽植作物
は特定の局限された気候条件を要求するものではない。それは熱帯という大まかな限界内であれば、何処でもその要求は
ペルー経済開発史上におけるプランテーション発達の遅延について︵和田︶ 八一八二 充たされる。熱帯栽植作物との関連における気候条件は、熱帯圏内部の大地域において凡て同一でさえある。 気温条件は栽植立地を左右する主要な要因ではないことが、薮でも証明された。
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国.国爵ooげ“国一一日。犀口出伽①<oロQ◎岱匹馨費涛Pω■一謡一這ひ■ 囚■囚器目αq①層”い震畠黒ぼ諾。げ鑓跨ロロ山囚90臥雷謡。⇔ぢω℃鋤巳ωoげΦコ︾ヨ口曳僧U。なN蒔一8rHH一ω.呂一. ○閃.︸8・G。”Gり8夢︾δΦ昌。9一℃.︻oド ④冒器ωり愚■竃卦℃二。。ρ 拙稿 サン・パウロ高原におけ.る珈瑳プランテーションの発達と欧洲移民労働力 彦根論叢 三八号 根岸勉治 南方農業問題 昭和一七年 三二〇1三二五頁。 三 その気候状態と白人の気候馴化 三和三二年。 されば殊に気候は農業生産の前提条件の一であるが、熱帯栽植耕に関する限り、気候は栽植作物に対するよりも、栽植労働を遂行
する人間労働力に対して、重要な関係を有つ場合が多い。それは熱帯栽植耕は労働力の現地調達の困難のため、異郷より
労働力輸入を為す必要が屡々あったからである。 だがこの地帯は内部熱帯に位置する沙漠であるのに、気温は過度に暑くは・なく、内部熱帯において一つの健康地帯を形 成することは、異郷の労働力輸入の圭にも好適であった、と云わんが為に、吾々は気候を少し詳説する必要がある。この地帯の季節は回帰線外の地方ほど明瞭ではないが、夏冬の二季の区別は判然と感知される。ペルー滞在二十五年の
体験をもつミデンドルフ氏は、リマ近傍の海岸地帯の季節に、こう観照的描写を与える
P 六月終りから九月聖戦までが冬で、七、八月の朝は8。吻午後は一ひ。∼旨。である。九月の秋分が過ぎる頃ペルーでも春らしさが目に 見える。温帯諸国から移植された植物が発芽し始める。葡萄・無花果・林檎・梨・土着の常緑林が新芽をふく。十月、十一月は最も快適 な月である。一。。。∼巴。を示す。十二月は暑くなり始めるが、一月中旬までは耐えられぬ程でない。本当の夏は一月中旬から四月中旬ま で続く。二、三月の朝はやはり暑いが、夜は常に凌ぎよい。西印度へ旅行した人はうだるような昼間に次いで、蒸暑い夜が続くので、意気立斐ずる感をうけるが、此処ではそんな絶望的な感じを受ける人はない鋤四月中蝕の気温は著しく降り姶め、特に夜は冷涼で噛第二の 最も快適な時季である。五月上旬はもう.全く涼しくなり、六月には毎年〃聖ヨハンの夏ク匹く霞磐蹄○師ΦGり弩一季pと呼ばれる太陽の爽 かな日が続く。 ミデンドルフという白人の感覚によれば、この地帯にやはり耐え難い短い夏がある。藪で吾々が留意すべきは、.彼は白 人だが、とりわけ吾々が従.来主張して止まない嫌温的人種群の代表たる独乙人だということである。好温的白人種たる西
偉人の感覚によれば、感覚描写も自つと異る筈であるし、況んや東洋人種の感覚において一層異るであろう。吾々はかか
幽 飾 辮 ○§竃”邑魯民8畠“∩野び .. E.望環。桶冒=面τ 」山 @ Go 湘一 轟 ㌔﹄ ㎝ ﹂山 c晦 ﹂山 N ﹂山 薦ミωbJ 醸一万 冒。 oぼミ蝉B脚醸
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加うるにこの地に卓越する風向は、岸を洗うフンボルト寒流と相侯って、この地の居住条件を一層快適ならしめる。こ
こでは全強南風と南東風が卓越する。この風は遙か南方より寒流に乗って来るから、乾燥し且つ冷風である。この卓越風
と結合してこの地の実生活に深く関与するのは、この地でく膣舘80ωと呼ばれる海風の発達である。陸風は円Φ旨巴と呼
ばれる。海風が吹ぎ始める時刻はこの地では午前の中頃である。海風が始まる=一時間前は、沙漠の空気は息づまるほど
蒸暑いが、海風が平ぎ出すと夏の蒸視感も著しく緩稲される。だからこの地の気温の毎日最高は、午后ご時には観測され
ず、海風の吹ぎ出す直前である。最も暑い季節のさなかでも、夜は不快を感ずることは殆んどないのもこの風の為だと云
われる。吾々は酷暑の頃、一陣の涼風に如何程凌ぎ良さを感ずるかは、日頃体験する処で、風の人体に与える冷却作用は
特に熱帯生活に不可欠である。 ︵暑さ寒さは気温の高低だけでなく、湿度と風速との三者の結合より成る体感温度的表示を基礎とし て、初めて科学的合理的判定が可能である︶濠洲東北海岸で英人は卓越する東南貿易風に常時曝露されるように、居住地周辺の森林を完全に除去した事例は既に述べた。 なお一九〇五年当時、海岸地帯の熱帯性疾病につぎ、 ﹁黄熱病は一八五四年・一八六八年に発生を見たが臓滅され、腺ペストは 一九〇三年に発生、これも消滅し、この地帯は油断ならぬ危険地帯だという時代はなかった。この地帯で最も多いのはマラリアで、排水不
良の潅概地域に起るが、既に治療法も知られており、実施されている﹂という記録が、却って当落ではこの地帯が内部熱帯におけ る一つの健康地帯たることを示すものと思う。
ざれば上述するところより、ペルー海岸地帯は西印度や倍国東北海岸と比べて、白人種の来住を妨げる特殊自然条件を
具備しない健康地帯であり、嫌々的白人種の気候馴化さえ困難でないと云っても過言ではない。ペルー海岸地帯は白人の
云う搾取植民地であり同時に、居住植民地でさえあると云ってよい。南米唯一の臨海首都リマの発展はそれを証する、 アメリカ熱帯には十一の独立国家がある。そのうち臨海首都を有するのはブラジルだけである。そのブラジルでさえも完 全な意味で臨海的でない。高原上にあるペトロポーリス︵拙稿、彦根論叢三八号、六六一六八頁参照︶が真の行政中心であり、外交団住居 地であり、全国貴族の居住地である、と云ってラソセル・スミスは熱帯アメリカ高原の重要性を強調した。併しスミスは重要な一つの異例を不用意にも看過していることを吾々は指摘する。それは他ならぬペルーの首都リマで
ある。リマは海抜一八五米の内陸にあり、その外港カヤオから僅か六粁の距離は鉄道で結ばれている。だから形式的には
臨海首都でない。併しリマはペルーの政治・外交・商業・文化の一大中心であり、実質的には臨海首都である。異国リオ
・デ・ジャネイロが形式的臨海首都であるのと正反対である。、全熱帯アメリカにおいて、 一五三五年に既に建設された臨 海首都.リマは一つの異例と云わねばならぬ。 また一九四〇年センサスによる州別人口の人種構成によると、印旬人はペルー南部及び中部の山嶽地帯と東部森林地帯に著しく集中せ るに反し、白人及びメスチーソは北部山地と海岸沿いの倒句に集中している事実が直ぐ判る。これらの諸事実を考慮すれば、ペルー海岸地帯がアメリカ熱帯のなかでも、特別に冷涼で且つ健康的で、白人居住に好
適な環境であるということに異論を挿む者はないであろう。だから海岸地帯の栽植耕発展を久しく遅延させた理由を、吾
々は更にはかに求めなければならぬ。 ① 国.毛.冨置餌魯魚。駄”℃①巨”切①o訂。ぽロ嵩αqg琶山Qっε蝕①昌与興留のβき鎚己昌山。・Φぎ①ゆ①≦oゲロ臼毒聾冨gαoぎ①。・悼巳餌四一σq魯 糖焦Φβ跨巴βり一旨螢芦じd①ほ財P一〇。8︸§囚pooゲ”囚ニヨ帥忍目旨良のぐ。⇔oDρらp旨。ユ脚Pωe語cQ’ ②穴唇。﹃⇔.pO。QD.露ひ. ③︸8①。。“ωog﹃︾BΦ臨。p℃.おω. ペルー経済開発史上におけるプランテーシ。ン発達の遅延について︵和田︶ 八五八六 ④ 拙稿 気候馴化研究方法の批判一室内実験的方法への疑義 彦根論叢 五号 昭和二六年。 ⑤ 拙稿 熱帯濠洲における白人の気候馴化 彦根高商論叢 四三号 昭和一八年。 ⑥ρカΦσq5巴鎚国8簿”層①毎り硫§ミ郎§ミ時§恥ミ蕊−ひ豆﹃f6面一〇.8P ⑦8野島ω9ω日博げ⋮↓冨団8ロ。ヨ8Hヨ℃oユき80出置①℃一簿①謹言↓目。風。巴︾野蚕︷。pbコミ、ミ§駄溢ミミ●§晦3象賦鳴営ぐ9心ω噛 お=噛℃曾心。■ ⑧︾ヨΦほ。︾器鋤℃貧ま⋮○魯。。畠。︷℃窪二お心99揖、.肉§酌婁く9⊆。悼二〇念wやぶ.
四ペルー海岸地帯における労働力調達問題
吾々は次にペルー副主取時代より近代共和国への時代的経過において、ペルー経済を支えた主要産業部門が幾変遷を体
験し、それに応じて生産中心地が内陸高原から海岸地帯に地域的移動をなし、海岸地帯への移動の結果、初めてそこで労
働力問題をペルーが体験したことを論述したい。伯国において主要産業の中心地が、海岸地帯から内陸高原へ地域的移動
をなしたのと方向は全く逆であり、また伯国における地域的移動の原因が奴隷制度廃止という労働力問題に関係をもつの
に対し、ペルーのそれは奴隷制度廃止には全然関係をもたず、移動の結果、却って労働力問題を初めて体験する、という
ように事態は全く背馳する。スペイン入の植民地的性格は本来農業者ではなく、金銀探索者だということは、彼らの西印度・メキシコ経営において
確認された。海岸に定著し、そこから漸次内陸へ進行した北米の英国植民とは逆に、スペイン人はメキシコ経営において
の 海岸地帯を越えて、内陸高原にその植民活動を開始した、ということは、そのままペルー経営にも当嵌る。 ペルーでは︼五四五年に発見された℃08臥銀鉱,︵現在ボリヴィや領一和田註︶ が最大で、O。ほ。匙。℃窃8その他多数の鉱山はス ペイン本国へ莫大な貴金属を送出した。銀鉱採掘に不可欠な水銀は誕奉昌雷く色$鉱山より産出し、政府はこれを専売とし、その消費量 に鉱山税を課した。鉱山家の報告する原鉱産出量に課税するより合理的であった。。ホトシ銀鉱の鉱山税だけでも一五五六一一七八三年の 閥に三〇億レアーレスを越え、また一七五四一一七九一年の澗に三〇億レアーレス、一七九ニー一八↓三年の間に二二億レアーレスがりマにて鋳造された。
如斯、ペルー高原の鉱山業はこの国の主要産業として十九世紀まで続けられた。而もメキシコで実施されたレパルティ
ミエントスの制度は、ここではインカ人によりミ二階巨審制度と呼ばれて行われ、事実上奴隷制度と変らぬミータ制度
により印訴人は鉱山労働に駆立てられた。多数の鉱山が隔絶した人口稀薄地域に存在する、上部ペルー︵現在ボリヴィや領−和田註︶において、特に量るべぎ巨大な人命喪失があった。それは多数の置場人が郷里より遠隔の鉱山に拉致され、時
には数ヶ月も悲惨な状態の下に生活を強いられたからである。ペルー印画人口は一五七五年に一五〇万であったのに、 一
七九三年には六〇万に減少した。スペイン王室は鉱山労働の供給源の完全破壊を防止する目的で、諸取締を実施した。所
与の地における三旬人はその七分の一だけしか鉱山労働に強いてはならぬとか、印乱人は郷里より半径三〇哩以内で使用
しなければならぬとか、低地より高原へ拉致してはならぬとか規定した。 ︵和田思うに、これらの規定は、アンデス高度変化に 伴うて惹起する気候変換への印賢人の高距気候馴化の困難を考慮せるものである︶併しかかる取締は労働が必要となるときは、殆んど守られなかった。高原はペルーの巨大なる人口貯水池なるが故に、高原の鉱山経営において、スペイン人は倫理的立場
を無視すれば、労働力調達問題に事飲くことはなかったと云ってよいであろう。 一八二四年十二月九日ペルーは独立した。共和国初期には未だ金・銀及び少量の銅の鉱業が主要産業の位置にあった。だがその頃から交通位置良き鉱脈の澗渇が現われ、産額は激減した。それに代ってグワノ採集がペルー経済の主要な役割
をもつに至った。また一八二六年より旧タラパカ領の硝石採掘が始まった。だから・ペルー経済における主要産業が内陸高 原より海岸地帯に移動したのは、共和制時代に入ってからである。 プランクトン多く、従って魚族の多いフンボルト寒流に罵る烏の糞が、永年の間に雨のない海岸沿いの島瞑や岬に堆積保存されて来た それがグワノである。古い時代から印何人は肥料に使用したが、スペイン人は征服以来久しくこれに注意を向けなかった。 ペルー経済開発史上におけるプランテーション発達の遅延について︵和田︶ 八七八八
グワノ採集は西北欧洲の肥料需要のため、俄かに有利な産業部門となったのは一四八○年以降である。それより約四〇
年間ペルー全経済はこの富の源泉に懸っていた。その輸出は一八六二一一八七三年まで年平均四六七、○○○トンで、国家歳入の四 分の三はグワノによって賄われた。だが一八七七年の輸出額を頂点として、ペルー経済に一大危機が見舞った。それはチリーとの交戦︵一 八七九 一八八四年︶であった。グワノ堆積は既に澗渇に瀕し、また外国市場における他藩の肥料との競争のために、僅かの間にグワノー トン八○弗から五〇弗に暴落した。戦によって硝石地帯はチリーに奪われ,グワノ業もまた衰退した。 ⑦ 海岸地帯の栽植耕がやがてこの国の主要産業として軌道に乗るのは、 一八七〇年代以降である。前述の如く共和制に入って、ペルーの主要産業はグワノ。硝石・栽植耕へ変遷するが、それらの主要産業地域は悉く海岸地帯にあった。主要産
業が内陸高原から海岸地帯へ移動するや、ペルーは初めて労働力調達問題に当面することになった。それは何故であろう
か。吾々はこう考える1
第一に海岸地帯には印旬人口が元来少数である。印旬人口の分布はペルーではシエルラとモンターニャに集中せる事を、一九四〇年セ ンサスは明示した︵前出︶。 かかる状態はインカ時代から現代に至るまで、変らぬものと信じてよいと思う。いまそれを証明する数字を 持たないが、一般にそう信じられて異論あることも亦吾々は知らない。今日ではマソクブライトによれば、海岸地帯において原住入口は ⑧ 絶滅しているとさえ云われる。それに代って今日では白人及びメスチーソは海岸地帯に集中している︵前出︶。 原住人口の絶滅は、この 地帯における白人と印旬入の混血の急速な進行の結果と吾々は見る 第.二に海岸地帯にて少数であった印旬入労働力は非能率的であった。今日シエルラ地帯に残存せる国訓98富︵①ω舜①もご二巴8︶では ⑨ 小作入0980ω︵℃①O目︶たる印旬人は、アシエンダにおけるよりも、自己の使用に割当てられた土地で、より能率的に働くと云われる, ⑭ かかる農業制度はペルー海岸地帯では今日消滅し、自由労務者をもつ栽植耕が海岸地帯の特微となっている。然るにその印愚人は或る季 ⑪ 節には自己の耕地に帰って行く為に、蒋季的に労働力供給に間馬を来す。 第三に高地印工人を海岸地帯に使用するには限界がある。比較例証として示すのであるが、ボリヴィヤにおいても高地印三人は労働力の簗であるが、彼らは惹⇔ω︵アンデ董斜面の漢谷を総称してボ・ヴィきう呼ぶi和田町︶の亜繕麗境には適雷来な
⑫ い。海抜高度の差に伴う気候変換への適応の困難と熱帯性疾病の為である。同様のことがペルーでもある。モンへ博士は人道的立場から⑲ 高地印旬朔の季節労働者を低地に使用することに反対を声明している。ボリヴィヤでは止ひを得ず高地印旬人を極く短期間だけ、交代で
利用する方法を考えている。
土着労働力の調達の困難というのは、⊥述の如くその数とその非能率と高地人の低地移動不能の諸点に懸っていると吾
々は老える。かくてペルー海岸地帯は繰返し農業労働力鉄蹄に悩まされて来た。 海岸地帯﹁の栽植耕の発展開始は、この国の奴隷制度廃止直前まで遡る。その時に既に労働力不足は切実な問題となって いた。 一部は支那入苦力輸入で解決された。 一八四九年の法律は移民奨励の補助金支給を許したが、この制度は約四千人 の外国人移民を輸入しただけで一八五三年廃止された。 一八六一年支那人移民禁止が唱えられ、一八七五年支那との協定が全面的に支那入移民入国を禁ずるまで、約八万五千入の苦力が入国した。
何故奴隷制度廃止前に、支那人を翰入したかに若干の疑問が残る。だがペルー独立運動の勇将サン・マルチンは既に一
八ご一年に、革命後に出生せる奴隷の子を解放する旨宣言した。これは五〇年年に伯国が発布したく。ロ俘。¢<お法︵一八七 一年の奴隷漸次解放法︶と同趣旨である。かくてペルーで早晩奴隷が消滅することを織込んで、敢て黒入を輸入しなかったと考えたい。而して一八五五年夏ペルー奴隷制度廃止、奴隷所有者には解放さるべぎ二五、○○○の奴隷一人宛三〇〇弗
の補償金を支払う旨布告した。奴隷は海岸地帯の栽植労働力であったが、その数は多くなく、且つ解放感もその地に留ったので、ペルー海岸地帯の栽
植耕は奴隷制度廃止によっては何らの打撃も蒙っていない。人口構成で黒人が大ぎな役割をもった地域では、奴隷解放に
より経済的瓦解を蒙った。西印度ジャマイカの甘庶栽植耕は瓦解して、キューバが新たにその中心地域となった。キュー
バは白人と解放黒人とを直ちに利用出来たからである。だからキューバは他国の奴隷解放により却って利益を白けた。伯
国では奴隷解放により東北海岸地帯は一且没落したが、サン・パウロへ立地移動して、栽植耕は新たに大発展を見た。そ
ペルー経済開発史上におけるプランテーション発達の遅延について︵和田︶ 八九九〇
れはサン・パウロが欧洲より痛しい移民を輸入して、比類なき労働力調達の困難な問題を解決し得たからである。奴隷解
放後、栽植耕が大発展を見るか否かは、労働力調達の可否に懸っていたと云える。而してペルーも亦キューバと同じく、他国の奴隷解放により利益を享くべき立場にあったのに、ペルーの白人は労働を
軽蔑し、下賎の階級の為すべきことと見たために、ペルーにはキューバの如く直ちに利用さるべき白話も印旬入も存在し
なかったし、その上伯国のように欧洲移民の導入によって労働力調達の問題を解決することも出来なかった。労働環境と
してはペルー海岸地帯は、サン・パウロ高原と大差なき自然条件を具有するのに、何故ペルーは欧洲移民招致を熱望しつ
つ、それを叶えられなかったか。それはペルーの久しい地理的孤立が欧洲移民を近づけなかったからだと思う。 因みにペルーは熱望した欧洲移民を得ないた.め、 ﹁一時の間に合せに﹂日本人移民を契約労働者として導入した。それ が一九四〇年センサスでは東洋人の中で最多数を占めている。 ①雰。芝臥9=9Φ三器警⇔津。。σqΦoαQ鑓℃窪。。。冨9貯仙臼毒σq竃Φ×節。。・噛惹、.浴騎鳥ミミwbd匹■ω㎝二露Pω誌巴. ②U卑塁Ω霞穿嘆ζ毒附。”↓冨ピQ昌昌二陣Φユ。き菊①陰げ野ω”︾霞ω8q”悼尊話二目墨’お㎝O︸や8■ ③≧ぴ①属O匿。≦亀宝亀卑⋮090巳鑓獣8⋮︾ω言身。出爵Φ局。巨象護。︷乞①毒ω09Φ望しdoω什8ちOc。−や8c。■ ④ ζ§Nρ愚。h舜一マ9・ ⑤.囚Φ一一9愚.9針℃.Nひ刈. ⑥囚巴①さ愚■9卦や鷲O噛芝●菊○の。冨二ω冨巳ω﹃09。巳凝脂ω団。・冨β.Z.団’=8♪窓・心一ひ一国●Pしσ8目①”ω冨ぎぼ︾ヨ①凱。p 一ホOi一αc。ρΣ.団‘囲8♪OやPひOIま一. ⑦白og。。“ωo虞汗諺日Φユ。p℃℃二誌i霜。。■ ⑧08茜Φ嵐.ζo卑置Φ”霰讐霞ooh跨Φ︾αQ同pユ碧Go器8日ぢ勺霞∬§oq、.肉ミ暗ミ︸<oり蜀お誤も.乙。。● ⑨国曾餌ao菊。目Φoヨ”︾σq比。色9同巴︾留℃魯巴8ぎ切。=三欝Os鴫、.肉厚器斜く。ピ一〇L£O︸唱。N認. ⑩ζ。甲己ρ尽●息牒こやδc。● ⑪ρ即国げ。。パ“℃震∼℃.誌P ⑫この事については次のこ書に詳論される。国鋤匡⑦巷隠壇鱒qΦげ霞葭。げ魯勉犀江ぎ豊路口。∼婁.§蹄恥き、ミ讐bd丹心鈎お⇔ごOm注oq・ 冨8GqΦ”︾o。=ヨ餌口N魯8げ皆Φ︾昌匙Φω”霞ω8ほ。拙Ooま智ヨ鴛。湧。臨Ω一日p。曹︾αq空Φの鉱8言汗ΦU①︿90℃日Φ具。︷︾巳①9。昌崔p♪bd巴鼠ヨ。話一〇心。。.︵人文地理 五巻五号 に和田が紹介せり︶ ⑬98σQρ魯層亀帖.”毛噛一=1=㎝﹁ ⑭男○ヨΦ。旦愚e9馬二℃。旨ω﹁ ⑮ζ二軍p愚.亀帖二や讐G。. ⑯ 拙稿 サンパウロ高原にカける珈瑳プランテーションの発達と欧州移民労働力 彦根論叢 三十八号 ⑰竃二霞P愚.鼠黛唱●こ。二● ⑱属ロO。亘愚■職卦℃ニムρ ⑲国コ。。ぎ愚■亀計やD2曾 七六−七八頁 五 ペルー海岸地帯の交通位置−結言にかえて ペルーの地理的位置は南米西岸に孤立すると人は云う。地理的位置は時代の如何に.拘らず不変である。孤立性とは時代
的相対概念であって、交通路・交通機関・対象地自体の変遷により、時代的に絶えず変容する性質をもつ。副王領時代の
ペルーの孤立性は本国と結ぶ困難な交通路ーパナマ地峡横断ルートとホーン岬迂回航路とで、後者は一七四八年まで厳禁さ礼た 一−の故に強調される。交通路制限は植民地の鉱産搾取を目的とせる本国の植民政策の反映で、かかる状況の下では、殊更に陸上輸送距離に敏
感な栽植耕がペルー海岸地帯に発展する余地はなかった。一七四八年にホーン岬迂回航路は解禁。併しそれは悠長で退屈
な長途の大航海であった。
だから植民地時代のペルーの孤立性は強調して過ぎることはない。伯国東北海岸が領有早々栽植地として発展したのは
欧洲市場へ最も近接せる位置に幸された為である。それと反して、ペルー海岸地帯の栽植耕の発展が孤立性の故に妨げら
れたとすることは間違のない事実だと思う。一八四〇年頃から欧洲へ汽船航路が開けた。当時英国からカヤオまで約六週
間要したが、帆船に比べて驚くほど快適な旅となった。それはペルーの孤立性を幾分解消する効果はあった。併し吾々は
紐育ーヵヤオ間=、OOO哩の航程を、僅か三、七〇〇哩に短縮したパナマ運河の開通まで、ペルーの孤立性は続い
たと云いたい。ペルー海岸地帯の栽植耕が世界市場に生産物を送出し、それがペルー経済を支える主要産業にまで発展し
ペルー経済開発史上におけるプランテーション発達の遅延について︵和田︶ 九一九二 たのは、やっと今世紀に入ってからだとすれば、 ペルーの孤立性にあったと吾々は結論したい。