<研究ノート>河上丈太郎と関西学院 : その軌跡と
学院における評価
著者
阪上 裕康
雑誌名
関西学院史紀要
号
24
ページ
49-84
発行年
2018-03-15
URL
http://hdl.handle.net/10236/00026749
河上丈太郎と関西学院
︱その軌跡と学院における評価
阪上
裕康
はじめに 日本においてクリスチャン政治家は決して稀な存在ではない 。総人口の二 % に満たないキリ スト教の信者数と比較しても日本においてクリスチャン政治家は一定数輩出されてきたといえる その代表的な人物としては首相を経験した片山哲や大平正芳などが挙げられよう。しかし﹁十字 架委員長﹂ と渾名された河上丈太郎もまた日本における代表的なクリスチャン政治家の一人である。 河上は戦後の日本政治史を論ずるにおいて欠かすことのできない人物である。もともと関西学 院教授であった河上は、戦前の普通選挙導入によって登場した無産政党・日本労農党の代議士と して政治家としてのキャリアをスタートさせた。戦後には無産政党の後進である日本社会党に属 し、社会党の左右分裂後は右派社会党の委員長として社会党の左右統一に貢献して革新の側から ﹁五十五年体制﹂の形成に寄与した 。その後も統一社会党の顧問など革新陣営の重鎮として活躍したが、当時委員長であった浅沼稲次郎が不慮の死を遂げたことをきっかけに、高度経済成長が 進行する激動の時期に委員長に就任し野党第一党党首として当時の池田勇人内閣に真っ向から対 した。 本論は河上について政界進出前に奉職していた関西学院との関係を取り上げることを主な目的 とする。具体的には当時必ずしも社会的な承認を受けていたとは言い難い無産運動を行っていた 河上について 、学院側︱すなわち同僚教授や学生たちの評価を明らかにすることを目的とする またそれを踏まえた上で河上の政治的軌跡を取り上げることで、河上の思想やその射程など人物 研究としての河上丈太郎論についても若干の再考を行いたい。 その意義は大きく分けて二つある。第一には河上の軌跡やその評価を取り上げることによって、 政治家・河上研究に貢献することが挙げられる。第二には関西学院史における河上をどのように 位置づけていくのかということへの貢献が挙げられる。後述するように河上が関西学院で残した 足跡は小さいものではない。本論では GH Q の文書から発見された学院関係者の河上への評価な どを取り上げることで、関西学院と河上との関係をより明らかにすることを目的とする。 これまで河上個人に関する先行研究は﹃河上丈太郎日記﹄の翻刻などを除きあまり蓄積されて こなかった 。これは河上の著書が多くはなかったこと、最晩年まで党委員長として政治の第一線 にあったことによって過去の軌跡について回顧する時間が与えられなかったことなどが理由とし て挙げられよう 。ただ一方で河上に対する周囲の人物からの回想は多い。河上の死後に刊行され た日本社会党による河上伝のほかジャーナリストらによる河上論も決して少なくない 。また河上 は社会党の重鎮であると同時に当時政党において重要な位置を占めていた一派閥︵河上派︶の領
袖でもあったが、河上派に関する先行研究については社会党研究のなかでいくつか存在する 。社 会党の源流は戦前における三つの無産政党であるがそのうち中間派であった日本労農党が河上派 の前身であった。 このように党首や派閥領袖でもあった河上が政治的基盤を築いたのは一九一八年から 二八 年に かけての約一〇年にわたる関西学院教授時代であった。河上は神戸市を選挙区としていたが関西 の出身ではなかった。東京の下町に生まれ一高・東京帝国大学というエリート・コースを歩んだ 河上は関西学院に赴任するに際して初めて関西の土を踏んだ。関西学院時代における河上の軌跡 には目を見張るものがある。それまで教員のいなかった文科の社会学科に教授として着任した彼 は学生を公私にわたって支えた。また旧友・森戸辰男のほか賀川豊彦や杉山元治郎といったクリ スチャンの社会運動家とも交わり、河上に遅れて赴任した東京帝国大学・新人会出身者である新 明正道、松沢兼人、阪本勝らと、こうした教授陣に感化された学生とともに学内外において精力 的に社会運動を行った。 その結果阪神地域における無産・革新政党は戦前・戦後にかけて彼ら関西学院に集った人々が 大きな影響力を有することになった。例えば阪本は普通選挙の導入とともに兵庫県議となり、戦 後は尼崎市長・兵庫県知事を務めた。知事退任後の一九六三年には河上委員長のもと社会党など の推薦を受けて東京都知事候補に立候補し、東京五輪を掲げた現職の東龍太郎に敗れはしたもの の善戦して四年後の美濃部亮吉による革新都政の誕生に向けて襷を繋いだ。松沢も社会党から立 候補して衆議院議員や参議院議員を務めている。河上らの教え子でもある永江一夫もまた社会党 から衆議院議員に当選し芦田内閣で農相に就任している。
このように関西学院に集った彼ら ﹁関西学院教授グループ﹂は日本政治において重要な役割 を担ったといえるだろう。そしてその基盤となったのは河上が学院で教鞭をとっていた十年間で あった。それを表すものとしては例えば﹁丈門会﹂の存在が挙げられる。同会は河上の教え子た ちで、関西学院の同窓たちで構成された団体である。地域においてオピニオンリーダーとなった 彼らは数十年に渡って河上を応援した重要な存在であった。その結果﹁河上自身の選挙は全くの 理想選挙で、関西学院の教え子や教会関係者の信望を集めるかれの選挙は、高い知名度も加わっ て、それらの人々の浄財によって十分にまかなわれた﹂という 。 このような関西学院時代の河上については管見の限り中村和光︵二〇一五︶による考察がほぼ 唯一の先行研究といえる。中村は﹁赴任にあたっての使命感及び普通選挙立候補に至る信仰と思 想形成﹂を明らかにすることを目的に、河上の残した手紙や学内での説教の記録など幅広い資料 を用いて研究を行った。その上で中村は森戸辰男、賀川豊彦といった人物が無産運動や政界進出 へと歩みをもたらした河上に与えた思想的影響を指摘している。しかしその主眼はあくまで河上 個人の﹁思想形成﹂にあり、河上の政界進出を可能にした環境がどのようなものであったのかと いうことについては後景に退いてしまっている。 本論では中村の知見を踏まえつつ、河上の思想や運動へのコミットが関西学院のなかでどのよ うに受容されてきたのかを軸に検討する。ここで重要であるのは、河上らの展開していた無産運 動・労働運動は戦前においては必ずしも社会的承認を受けていなかったということである。前述 の通り関西学院における河上の運動は日本政治史からみても重要なものであった。しかしこのよ うな運動は当時危険視されたものでもあった。例えば同志社大学において同様の運動を行ってい
た河野密︵のち社会党副委員長︶は、大阪の市電争議に関係したものの﹁同志社大学としてもな かなかうるさい問題になりまして、そのとき実際運動には関係しませんと、関係するときには学 校をやめて関係しますと、一礼を入れたのです﹂と回想している 。河上も家宅捜索を受けた経験 があり運動によって﹁河上らに対して次第に風当たりが強くなっていったのは確かであろう﹂と いう中村の主張には首肯できるものがある。しかし第一回普通選挙で当選した無産政党議員はわ ずかに八名であったが、日労党から当選したのは河上ただ一人であった。このような逆境のなか で河上の健闘を支えたものとして彼が政治的基盤を形成した関西学院の時代は重要であるといえ よう。 重要であるのは関西学院が河上たちを積極的に排斥しなかったという点である。河上が述べる ようにこのような運動に対して﹁関西学院ではあまり問題にしなかった﹂のである 。なぜ関西学 院は河上らの取り組みを排除せずにいられたのか。河上自身はそれを﹁院長ベーツ博士のおかげ である﹂と振り返っている 。確かにベーツは河上らの運動に深い理解を示しており、河上の義父 である平岩愃保とも懇意であった。河上と行動をともにしてきた松沢も﹁外人教師はこれを重大 に考えず 、社会科は廃止の運命に逢着せず 、学生数も二十人 、四十人と累年増加の傾向を辿り 、 安定の基礎が確立されていった﹂と暗にベーツが河上らの運動について理解を有していたこと を述べている 。また河上が学院の職を辞して約 三〇 年もの後、河上が社会党委員長であった時代 に暴漢に襲われて負傷した際には故国カナダより安否を心配する手紙がベーツより送られている しかしながら河上の運動に対する学院の穏健的な態度は、ひとえに河上とベーツの間における個 人的関係だけで説明できるのであろうか。
本論では 、関西学院における河上に関する資料や戦後 GH Q における河上に関する資料を用 いることにより河上や河上の運動が学院内で多くの人々に評価され、一定の参加をも勝ち得てい た事実を明らかにする。まず第一項では関西学院側の資料を主に取り上げ、河上が学院でどのよ うな人物として記録されているかについて取り上げる。第二項では GH Q の資料から発見された、 アウターブリッジ関西学院長や日野原善輔らによる河上への公職追放解除の嘆願書を取り上げ 関西学院関係者が同時代の知識人たちとともに河上を擁護してきたことを取りあげる 。第三項で はこれらの議論を踏まえ河上の思想やそれが関西学院関係者や知識人など社会主義者にとどまら ない要因と、その重要性について考察する。なお本論では日本語資料において旧字は原則として 新字に改める。英語資料については原則として日本語訳を行ったが、数語程度の引用には原文の まま引用を行った。 第一項 関西学院における河上 河上は関西学院をどのように認識していたのだろうか。河上によればそもそも関西学院に長く とどまるつもりはなかったという 。しかし河上は他校からの誘いを受けながらも約一〇年間関西 学院に奉職した。その要因としては当然彼が関西で家庭を持ったことや、恩師である野々村戒三 ら関西に集った様々な知己に恵まれたことなどが挙げられよう 。しかしながら当然関西学院にお いて何かしらの﹁やり甲斐﹂を見出したということについても検討する余地がある。 河上は、関西学院に赴任した際の記憶として、次のような回想をなしている 。
当時は学生︱殊に商科の学生の考が卑屈でありました 。隣の神戸高商の学生に対し自信がないのを見 て私は驚きました。私は官学の出身ではありますが、私学の意義を高く評価しておりました。 mission school の日本文化に対する意義︱基督教の教育の日本社会に於ける価値を強く意識していたものであ ります。⋮⋮この私が当時の学生の気分に mission school の使命に対する 自信が欠けているのに義 憤を感じました 。私はこの自信のない気風を一変して強き自信をもち 、 mission school に学ぶものの 喜悦とその誇を高めたいと思いました 。⋮ ⋮私は自分の過去の学問的立場よりして文科の社会学科を 充足することがこの目的に適うものと思い、社会科の完成に全努力を傾倒しました。 クリスチャンであり一高で新渡戸稲造から個人主義の薫陶を受けた河上は、関西学院において ﹁官﹂に負い目を感じ卑屈になるという事実に対して ﹁義憤﹂を感じていた 。そしてそれを変革 したいと願った河上は 、﹁私の三十 台 の生涯を学院に捧げました﹂と自負するほど関西学院に尽 力した。河上の赴任した社会学科については河上より後に赴任した松沢兼人より﹁社会科または 社会学科というのは帝大かさもなければ関西学院のように基督教主義の学校でもなければ珍しく、 外人教師の卓見に深く敬意を表したのである﹂との感想がある 。 河上のこのような献身はまず学生にむけてなされた 。教え子であった矢内正一によれば ﹁当 時は官立万能の時代であったことも関係して、学生達はとかく自信を失いがちであった﹂という。 しかし当時早稲田、慶応、一高などが集った陸上競技大会におけるリレー競技で﹁一位を走って いた一高のアンカーを、関西学院のアンカーが夕暮れのせまっている最後のストレートで、一高 を抜い﹂て﹁大きな優勝旗がもたらされ、全校の生徒が感激した﹂という出来事があった。この
とき河上は ﹁﹃自分は一高の出身であるので 、一高の生徒があの場面でどれだけ激しい応援をす るかよく知っている。その中で、関西から唯一人入っていって、一高を抜いて優勝した、この優 勝旗は実に尊い関西学院のスプリットがこもっている。実力というものの前には何を怖れること はないのだ﹄と、当時とかく自信を失いがちで、しかも肩身のせまい思いをした関西学院の創立 当時の学生を激まし、自信を与えてくださった﹂という 。このような河上の学院への熱意が学生 を惹きつけるのにそう時間はかからなかった。河上が着任する以前、社会学科はそれまで実態が なく、河上の着任によって初めて社会学科は実質的に始動することとなる学科であった。そのた め河上が着任してからしばらくは﹁社会学科の中心が河上先生なんです。河上先生お一人といっ てもいいくらいなんです 。神戸高商 、京都帝大 、神戸女学院の先生方もみえたが 、みな講師で 社会学部へ入るものは、まるで河上先生お一人の門弟のような気持だったわけです﹂というもの であった 。このような河上と学生の蜜月な関係は、新明正道や松沢ら新教員が着任してもなお変 わらなかった。河上は﹁おやじ﹂ ﹁オトッツァン﹂などと呼ばれ、 ﹁オヤジはまた大のさびしがり やだ。講演旅行などで自分の室にひとりでおれず、学生たちの部屋にきて﹃おれも仲間入りさせ ろ﹄というときのあの顔︱﹂など、学生達によく親しみ親しまれた 。実家が破産したため帰郷す る学生に月給をそのまま渡してしまったことすらあったという 。 それでは河上はこのように学生と接しながら、どのように社会学科を形成していったのであろ うか 。まず公的な部分 、すなわち河上の講義について取り上げよう 。﹁かれは 、いったい何を教 えたのであろう。私が学院で調べたところでは、要するに何でも教えたということになる﹂とは 阪本勝の弁であるが河上は文科において法学通論 ・憲法総論 ・刑法 ・犯罪学 ・法理学 ・法学史
政治史・民法・国際法、商科において商法と非常に広範な領域を担当した 。それ以外にも河上は 社会学科への入学を希望しながらも、教員がいないためにその目的を達せずにいた学生たちに私 的な講義を行うなど熱心に講義に取り組んだ 。そんな河上の講義のスタイルは特殊で﹁私の講義 がおもしろくなければ、外の芝生で寝ころんでてくれ﹂と公言して﹁試験のとき、白紙以外はか ならず合格点を与えた﹂ことから﹁学生の間ではなかなか人気があった﹂という 。ただしその試 験は少し難解でカンニングの効くような平凡な問題ではなく学生に自由な答案を促すような問題 であったという 。 このような当時の河上は﹁十字架委員長﹂と渾名された後年イメージされる河上像と比べると いくらか新鮮なものを感じさせる。例えば当時の学生の回想としては次のようなものがある 。 ずぼらな事はおびただしい⋮ ⋮教室の講義でも本論なんてものはいい加減に片付けてしまう 。その代 わりに談たまたま時事に触れ 、あるトピックにいたるときは滔々數千言 、その各々に関して豊富なる 観察を披瀝する 。実を言えば学生にとってはこの横道入りの講義が楽しみだったんだ 。真に血となり 肉となるのはこの時の話であったのである⋮ ⋮先生は努力家ではなく 、天才肌の人である事がそうさ せたんだろう。 このように当時の河上はいかにも一高・東大を出た才子としての顔を覗かせる。 また河上は学生監として学生と近い距離で接する立場でもあった。そのなかには学生と教員と の間で揺れ動く河上像も見いだせる。学生たちはしばしば当時の学院のシステムに対して異議申 し立てを行った。例えば﹁校風刷新運動﹂と称して学生たちが一部の教授たちの排斥運動を行っ
たことがある。このとき河上は学生をチャペルに集め学生たちに﹁盆の水かえりて再び帰らず﹂ ﹁窓を開けしかして光を入れよ﹂と切々と説き 、学生たちは ﹁あちらこちらですすり泣く学生さ えあってすっかり前日の勢はくじかれてしまった﹂という 。また学生たちが落第したときも河上 は対策を講じた。一九二六年、落第生が多いのに不満を抱いた文科の学生たちは商科にあった再 試験制度に注目し 、﹁河上おやぢの入れ知恵で﹂運動を起こした 。学生たちは ﹁落第生名簿﹂を 作成して教授陣に回覧するなど活動を行った。最終的にはベーツ院長が﹁商科にあって文科にな いのは不公平ですね﹂と述べたため文科にも再試験制度が設置された 。 他方で河上は新しい行事の導入にも熱心であった。その例としては高等商業学部編 ︵一九三一︶ で詳細に記されている一九二四年の﹁擬国会﹂が挙げられる。これは河上が﹁学校全体を動かす ような事をやっては﹂と講演部に提案し、永江一夫部長のもと議会の議事録を研究し擬国会が行 われたものである。松元益吉内閣総理大臣のもと、神崎騏一外務大臣、東晋太郎大蔵大臣、岸波 常蔵文部大臣、河上内務大臣、松沢労働大臣、新明司法大臣などが組閣された﹁松元内閣﹂のメ ンバーであった。次官・書記官級まで役を決めているほか、 ﹁宗教大臣﹂ ︵亀徳一男︶を設置して いる点が興味深い 。各政党は学生たちによって組織され 、商学部が ﹁商工党﹂ 、文学部が ﹁社会 党﹂ 、神学部その他によって﹁無所属倶楽部﹂ ﹁超人倶楽部﹂が組織された。その様子は﹁重要議 案が出て⋮⋮議政壇上にあっては常に既成政党の心胆を寒からしめるかの大衆党の闘士河上丈太 郎氏も、この時ばかりは内務大臣の官職にあって学生連より﹃治安警察法を撤廃せよ。言論出版 の自由を与えよ﹄と猛烈な攻撃を浴びせかけられ﹂たという 。この他にも河上は公私に渡って学 院に貢献した。河上自身は原田の森時代で学院を去ったが、 上ケ原移転に際しても﹁かげの参謀﹂
︵松沢︶として移転先の確保や交渉に携わった 。 このような河上の取り組みにより、河上に強く影響を受ける学生たちも存在した。ここでは関 西学院の学生のうち、とりわけ河上の薫陶をよく受けた学生たちを挙げておきたい。教え子の一 人である稲岡進は講演部および社研に所属した人物を抽出することで中核的な河上門下生の名前 を挙げている 。これら卒業生中において最も古い人物は一九一九年の関西学院大学神学部教授 ・ 初代宗教総主事となった原野駿雄である。翌一九二〇年には商科から京都市議会議員となる岩坪 真次郎らに加え、一九二一年には河上の妹愛子と結婚した神戸女子短期大学教授となる中村馨を 輩出した。一九二二年以降は徐々に人数が多くなり、木村己之吉、葉健二、竹中一雄、今井義一、 十河巌︵いずれも朝日新聞記者︶ 、和田伝五郎、谷永真澄︵毎日新聞記者︶ 、塩見恒明︵時事通信 記者︶ 、といったジャーナリストに加え、企業に勤めた者のほか山本利寿、永江一夫、聴濤克巳、 酒井一雄ら政治家も輩出している。 しかし 、稲岡が抽出した学生たちはあくまで一部であってこの他にも河上に影響を受けた学 生は少なくない。例えば帰米二世であるカール・秋谷一郎は河上の選挙の手伝いなどに従事した また関西学院大学社会学部でマスメディアの教育課程を構築した藤原恵も河上ゼミナールのメン バーであり河上民雄の支持者であった 。このほか高碕達之助の秘書であった阿江伸三も丈門会の 一員であり河上にとっては鳩山内閣へのパイプとなった 。河上は講演部のほか水泳部や新聞部の 部長も務めており 、﹁文科といわず 、商科といわず 、まったく先生はお若くもあったし 、中心で したよ﹂ ︵山本利寿︶といわれた当時の河上像を顧みれば、 当時の関西学院においてあらゆる人々 が彼に影響を受けていたことは創造に難くない 。
このような河上とともに社会学科を支えたのは、河上の後に赴任した東大・新人会出身の教員 たちである。一九二一年に赴任した新明正道はのちに東北大学教授となる社会学者であった。新 人会を後援した吉野作造より東大で政治学を学んだ新明は、学院赴任に際して吉野から一高弁論 部時代の河上などについて聞かされ 、﹁河上さんは信頼に値する人であるから赴任したらよろし く指導をお願いするがよい﹂と説かれて赴任したが、関西学院で社会学の研究に着手して東北大 学に転じてからも河上との交友が途切れたわけではなかった。戦後社会党時代は、仙台において 応援弁士として河上委員長と行動をともにすることもあった 。学生によれば新明は﹁温和そのも の﹂で、原田の森の古い松の切り株に腰掛けて学生と話すこともあったという 。 河上と同じくクリスチャンであった松沢兼人は同一九二一年に関西学院に着任した 。賀川豊 彦とともに大阪労働学校に積極的に関与した松沢は戦前には神戸市会議員、兵庫県議を務め戦後 には日本社会党より政界に出て衆議院議員・参議院議員となり活躍した。学院には一九四四年ま で奉職しアメフト部の部長を務めるなど学院に携わった。同部が一九四一年に関西鎧球連盟に加 わった際には常任理事として参画した 。そのため戦時中は﹁部員の学生が卒業して、また学徒出 陣で出征して、戦地で華々しく散華した報を聞き人知れず涙で頬をぬらした﹂という辛い経験も したという 。 のちに尼崎市長や兵庫県政で唯一の革新系の知事となった阪本勝は毎日新聞を経て河上の紹介 で講師となる 。やがて河上や賀川豊彦の説得を受けて政界に進出し、河上の最初の選挙の選挙事 務長なども務めた 。彼らもまた積極的に無産運動にコミットし、とりわけ松沢と阪本は社会党時 代に至るまで河上の政治的同志となった。
河上は一九二一年、賀川の指導した神戸における川崎・三菱両造船所での大規模なストライキ をきっかけに無産運動に関心を持つようになった 。これに対して学生はどのように反応したので あろうか。河上の関西学院時代における無産運動の内容については中村︵二〇一五︶に詳しいの で割愛するが、河上や松沢、新明といった社会学科による若手教員たちは賀川らとともに大阪労 働学校や神戸労働学校の設立など無産運動に積極的にコミットしていった 。これに対して学院の 学生たちは教授陣による労働運動に無関心ではなかった。ここではその例として賀川や杉山らに よる第一回日本農民組合大会を挙げよう 。大阪朝日新聞は 、﹁出席者は左記各支部より来神せる 代表者百五十名⋮⋮傍聴席には地方の懸吊技師、 友誼団体有志、 関西学院学生等百余名がいた﹂と、 同大会に学院生もまた関与していたことを伝えている 。また無産政党の揺籃である政治研究会に ついて、松沢や新明が発起人となり河上を長として一九二五年に成立した神戸支部では学院の学 生有志が参加していた 。 普選のときも﹁選挙事務長は阪本君がやり、松沢君や関西学院の学生、労働組合総連合の幹部 が中心になって運動を進めた﹂とある 。これによって森戸辰男、大山郁夫らの応援も受けた河上 は、数少ない第一回普通選挙における無産政党からの当選者となる。この選挙戦について阪本は ﹁学院の門下生はいっせいに起ちあがった。弾圧の嵐は吹きすさび、 演説会場の提灯は暴徒によっ て切り落とされた。会場の窓ガラスは悪魔の石で粉砕された。古きもの、新しきものの激突する 異様な音が会場の内外に炸裂した。それは真実と虚無の境でもあった﹂と回想している 。中核と なったのは講演部であった 。講演部には社会主義にも関心の深い学生がある程度いたという 。彼 ら学生による﹁丈門会﹂は戦後に至るまで河上を支える重要な組織基盤となった。同会において
は神戸丈門会・大阪丈門会・東京丈門会といった下部組織のほかシオン会︵のち神戸丈門会と合 同︶という河上の教え子たちによる会によって構成され、河上の晩年期には直接の教え子ではな い若い会員たちも加わっていたという 。﹃河上丈太郎日記﹄においても時折丈門会やシオン会が 開かれたことが記録されている 。 このように河上が政界進出して後も多くの学生たちは河上に好意的であった。それゆえに河上 は﹁吾等のおやじは⋮⋮然しどうしても学院になくてはならぬ人だ。新興大衆の﹃おやじ﹄であ り得ても吾等のおやじたる事を失ったならばそれは嘘だ。渦巻く政界を乗り切る姿も雄々しいが、 又校内にあっても真摯な学徒に自分の得た体験を伝え次の時代の河上第二世を養成する事も尊い 仕事でなければならぬ。しかもこれは著者の独断ではない。多くの卒業生等が一様に洩らす輿論 であり公論である⋮⋮吾等のおやじに健康あれ!そして無産大衆のために働くと同時に、も一度 学院へ帰れ!﹂といわれていたのである 。日々面倒見よく学生に接する過程で学生たちは自分た ちを尊重し擁護してくれる河上を深く信頼していたといえる。このように河上と学生の関係は蜜 月であったが、他方で教員との関係や教員による河上の評価はどのようなものであったのであろ うか。しばしば言及されるのは前述したベーツとの関係であるが河上はそれ以外の教員からも評 価されていた。その内容については次項において、主に GH Q の資料を用いることによって説明 したい。
第二項 関西学院関係者による河上への公職追放解除の嘆願 河上は戦前大政翼賛会総務の職にあり、その推薦を受けたという理由から公職追放された。こ れによって河上は片山・芦田内閣において連立政権を形成していた社会党の黄金期に雌伏の時間 を強いられることとなった。公職追放された河上に関する GH Q の資料はマイクロフィルムの形 で国会図書館に保存されている。そこには河上の追放における内情を物語る過程についても記さ れているがここでは紙数の都合から割愛したい。本論では河上の追放に対する関係者の証言及び 彼の公職追放解除に関する嘆願書について取り上げる。 河上には近親者や市民からも公職追放嘆願の依頼がなされていた。 その最たるものは河上の妻 ・ 末子によるものであろう。河上末子は関西学院にとっては﹁幻の院長﹂でもある平岩愃保の娘で あり河上が末子と結ばれたのは関西学院に赴任した時期である 。末子夫人については﹁どんな逆 境時代でも、どんなめまぐるしいときでも儀礼を失わず、方式にかなった作法で三つ指をついて 夫を送り迎えした﹂という評がある 。だがこのような末子像は一面的なものでしかない。彼女は 英語を得意として ﹁小説家を夢見ていた﹂ ﹁社交家﹂であった 。彼女は英語塾や河上法律事務所 での翻訳作業などでしばしば河上を公私に渡って助けた存在であった。とりわけ英語塾では社会 党で衆議院議員を務めた戸叶里子や河上の秘書となる杉本美樹枝も関係していた。英語塾を開く ほど語学に堪能であった末子は 、 GH Q に対して河上の伝記 ︵ biography ︶の執筆から河上に かけられた容疑への弁解を行う手紙まで送り河上の﹁弁護人﹂のような存在として活動した。 ところで、 河上の公職追放解除のために筆を執った末子が
good church friends
と
称
す
る﹁
オミの会﹂の菊田澄江 ︵ Sumie Kikuta ︶という人物が河上のために手紙を認めている 。彼女は その書面の中で次のように述べている。 ご存知のように 、今日の日本では河上氏のような真のキリスト者のリーダーにして 、ステーツマンが 求められています。アウターブリッジ博士の手紙からも、それは自明のことです。 この﹁アウターブリッジ博士﹂こそ河上の教授時代より関西学院で教鞭をとり、戦後再び来日し て関西学院に戻ってきたアウターブリッジ ︵ H.W.Outerbridge ︶ である。彼は手紙上部に kwansei gakuin と示された手紙で GH Q に河上の公職追放解除の嘆願書を提出していた。 アウターブリッジはカナダ ・メソジスト教会の学院への経営参加に伴い学院に赴任した人物 で河上よりも早い一九一二年に着任している。ギリシャ語などの科目を担当し一九四一年に一度 帰国したものの一九四七年に再び学院に復帰した。復帰後は神学部再興などに尽力し、一九五四 年から七〇歳となる一九五六年まで院長を務めた 。河上とアウターブリッジがどのような関係に あったかを確認することは難しいが、ベーツや平岩と同様アウターブリッジもカナダ・メソジス ト教会に属していたため平岩の娘婿である河上との接点は大いにあったといえよう。 また﹃関西学院学生会時報﹄や﹃関西学院新聞﹄によれば、弁論部が行っていた他地域での講 演会や全学院で行う講演旅行などにおいて河上とアウターブリッジが行動を共にしていたことが 伺える。例えば一九二二年一〇月 三〇 日付、 翌一九二三年三月一日付の﹃学生會時報﹄では、 ﹁弁 論部だより﹂の欄で高野山大学での交換講演会に際して河上とアウターブリッジが学生たちと高
野山を訪問したことを伝えている。なお後者の記事ではその様子を次のように述べている。 高野山大学での交換講演会の詳報 、物々しい登山姿のアウターブリッジ先生と山高帽に黒カバンの河 上先生とは一行の双璧である。河上教授が ﹁ルウテルの政治学説について﹂ と題してローマンカトリッ ク教会の例を挙げて 、宗教団体の国家勢力に依って圧迫されし歴史を 、先生一流の大熱弁をもって述 べられ 、聴衆の高野山知識階級に非常なる感動を与えられた⋮ ⋮河上教授の ﹁国際政治と宗教﹂アウ タブリッジ先生の ﹁ヘロニズムに就 に就いて﹂の二講演が先日以上に厳粛味を加え 、聴者の謹聴振こ の極みに達し⋮ ⋮大師の御像の前に 、数百の若き僧徒にキリストの人類愛を説く時 、吾等の心は自ら 厳粛を覚え真摯なる態度に導かれた 河上は講演部や水泳部に加えて新聞部の部長も務めていた。そのため新聞の発行兼編集人として 明記されており記事の信憑性は高いといえよう。 この他には一九二二年に朝鮮 ・ 満州において行っ た講演旅行においても河上とアウターブリッジ夫妻が神崎驥一高等商業学部長らともに団に随行 している 。 さて、アウターブリッジが河上の公職追放解除のために送った嘆願書は二つある。最初に出さ れたのは一九四九年五月四日付で関西学院より GH Q のホイットニー ︵ Courtney Whitney ︶民 政局長宛に出されている。以下その文面を訳した上で確認したい。 まずアウターブリッジは、 ﹁彼の古い友人たちを代表して﹂手紙を認めていることを述べている。 ここからは嘆願を送ったのはアウターブリッジひとりの意志ではなくより広範な関西学院関係 者・クリスチャンの存在があったことを伺わせる。その上でアウターブリッジは河上とは三〇年
来の知己であることを述べ、とりわけ関西学院において過ごした一三年間について言及する。そ してアウターブリッジは河上の敬虔なクリスチャンとしての性格を称揚しその誠意と目標に対し て敬意を表している。そして戦争中の河上について必ずしも熟知しているわけではないことを認 めつつも 、河上を Christian lines に沿ったキリスト教社会主義者であると評する 。その上で アウターブリッジは再来日して後河上が公職追放されていることに失望したと述べているのだが、 その理由が興味深い。すなわちアウターブリッジは今日の日本においては二つの思想、極右ない し保守派 ︵ extreme right or Conservative wing ︶と 、極左共産主義 ︵ extreme left communist wing ︶に分裂する危険性があるとする 。そしてアウターブリッジはさらなる危険性として 、安 定的な社会 ・ 経済的再建を望む中道派 ︵
moderate middle-of-the-road people
︶ が進歩の遅さやリー ダーシップの欠如といった理由によって実力行使のみを目的とする共産主義へ奔ってしまう可能 性を指摘する。アウターブリッジは﹁私の知る過去の彼なら﹂という留保をつけながらも、この ような日本において河上が高い理想主義を有し、安定的・建設的な思想・行動の手段へと人々を 導くことの出来る数少ない人物であると論じ、河上が機会に恵まれたならば今日でもなおこのよ うな貢献を行うであろうと確信しているとする。こうしてアウターブリッジは戦争以前の河上の 行動についてはよく知っており、現在の日本には河上の理想主義と建設的なクリスチャンの目標 が必要であると述べて手紙を締めくくっている。 この手紙に対して GH Q は一九四九年五月一五日付にホイットニー名義でアウターブリッジに 返信を出している。これは確認されたもののうち河上に対する市民からの公職追放解除の嘆願書 のなかでは唯一の返信である。そこでは河上が大政翼賛会のメンバーであったことなどの追放理
由が書き連ねられた後、河上の追放については数ヶ月前に再検討されていたことを明かしている。 しかし河上は軍事体制に対して日和見的な関与 ︵ opportunistic involvement ︶を行っていたとし て、新たな証拠が出ない限りにおいては追放解除の結果が変わることは難しいとしている。 これに対してアウターブリッジは翌年の一九五〇年三月六日付で再び手紙を送っている。手紙 の内容は前回のものとほぼ同一であった。しかしアウターブリッジは最後にあらゆる信頼できる 情報源によれば、河上氏は大政翼賛会や軍国主義体制に対するアクティブ・メンバーではないと 思われるとの文章を補足している。事態の好転しない河上の状況を憂慮し戦時中の動向について アウターブリッジがある程度の情報収集をしたことが伺える。このようにアウターブリッジは G H Q に河上の公職追放解除の嘆願を送っており、河上を高く評価していることが伺える。河上が 関西学院を辞してからはすでに二〇年近い歳月が経過していた。 このような河上の公職追放への擁護を行った関西学院関係者はアウターブリッジだけではな い 。次に関西学院で教鞭をとった日野原善輔 ︵ Zensuke Hinohara ︶を含む四人のクリスチャン による手紙についても取り上げよう。日野原は医師である日野原重明の父で河上が関西学院に赴 任していた一九二〇年代に関西学院で説教学を担当していた。なお日野原以外の差出人は小崎道 雄︵ Michio Kozaki ︶、植村益蔵︵ Masuzo Uemura ︶、三井勇︵ Isamu Mitsui ︶である。小崎は同 志社総長を務めた小崎弘道の子で日本キリスト教連合会長を務めた人物で河上とは小学校時代の 同級生である 。銀座教会の牧師である三井は河上民雄に洗礼を施した人物で、終戦後助けを求め て教会に駆け込んできた人々のために金銭の工面が必要なときは新橋にある河上・美村法律事務 所に相談に来ていたという 。この四人による手紙は河上の生涯について詳らかに述べたやや長め
のものである。 その内容は河上のこれまでの経歴について軽く触れた上で、政界参入後の河上について詳しく 述べられている。関西学院の河上については﹁学校を卒業した後、再三の説得にも関わらず官界 への就職を断り 、彼の信念に基づいて行動しクリスチャン ・スクールで Liberalistic な若者た ちを育て、学生たちの運動をサポートした﹂とある。全体としては﹁共産主義への若年・中年層 の支持を取り戻し 、日本を守るために日本社会党 ︵ Nippon Social Democratic Party ︶のすべて のメンバーを助け、団結させるために日本は熱心なクリスチャン政治家リーダーを持つべきであ ると確信する﹂と述べているように、キリスト教性を押し出した部分が特徴であるといえよう。 本項では河上の公職追放に際して、関西学院の関係者を含む多くの人々が河上の思想や信仰を 評価していることを明らかにした。とりわけ河上が関西学院に赴任していた時期は昔日のことで あり、大政翼賛会に参画していたことなどが認識されていてもなお河上に対して公職追放解除の 嘆願が出されていたことは興味深い。 河上と関西学院の関係はその後も継続した。 河上が亡くなっ た後には関西学院同窓会と丈門会の共催で ﹁故河上丈太郎先生追悼記念式﹂が執り行われ 、松 沢兼人や教え子である竹中一雄︵朝日新聞論説委員︶らのほか、当時関西学院長であった小宮孝 も出席した 。また同時期に英語に親しむための﹁国際親善友の会﹂という団体が﹁河上丈太郎先 生のご遺志を継いで﹂河上未子会長、宇都宮信哉理事︵商学部宗教主事︶らによって組織された。 宇都宮は河上が教授を辞した一九二八年に学院を卒業した最後の教え子の一人で、講演部員でも あった 。 次項では、なぜ無産運動に参画した河上に対してこのように広範な支持が集まったのかという
ことについて 、﹁ヒューマニズム﹂とキリスト教への信仰といった思想的な観点から検討するこ ととしたい。 第三項 河上の政治思想とその射程 前項では政界進出後の河上が教員を含む関西学院の関係者たちから高く評価されていたことを 取り上げた。本項ではこのような河上が社会主義者に留まらない人々より広く評価された要因に ついて改めて考察したい。第一に河上の政治的同志や知識人たちの河上評を取り上げ、第二に関 西学院時代に留まらない河上の軌跡を参照することでその思想が学院関係者に受容されてきた要 因について検討する。結論を先取りしていうならば、彼の思想はヒューマニズムの立場からあら ゆる社会的弱者を擁護することを目的とするものであった。 第一に、河上と関係した人々による河上評について概観したい。まず長年河上と行動を共にし てきた河野密による河上への評価を取り上げよう 。河野は 、﹁熱心なクリスチャン﹂である河上 の政治的信条として ﹁人道主義﹂ 、﹁イギリス流の社会主義思想﹂ 、そして ﹁平和主義﹂の三つを 挙げている。そして河上が掲げた﹁民主的な社会主義﹂は﹁人道主義的な考え方から社会主義に 進んだものの当然の帰結﹂であり 、 ﹁昭和時代に教養を受けたものの常識として 、またキリス ト信者のもつ共通の広場として、個人の自由を尊重する自由主義思想の持ち主であった﹂とい う 。河野によれば、河上は社会主義者である以前に、キリスト教に陶冶されたリベラリストであ り、ヒューマニストであったのである。また経済学者の大内兵衛は﹁日本の社会主義運動もその
理論はマルクス主義以外にはない。しかしその源流にさかのぼっていけば、いうまでもなくクリ スト教が大きい源流であった﹂ということを述べつつ 、﹁河上君においてはその運動のモチーフ は完全にクリスト教にあった。そしてそれがいつでも全面的に現れていた。それが党内において マルクス主義とどのように接合していたのか⋮⋮マルクス主義といっても、それをあまりにプラ グマチックに解釈して、それを行動の原理とするのには賛成ではない。それよりもマルクス主義 をユーマニスチックに偏向した方がまだましだと思う。そういう意味で河上君が日本社会党の党 首であることを甚しく不適当なようには思わなかった﹂と同じくクリスチャンとしてのヒューマ ニズムを有した河上を一定程度評価している 。この他にも、河上に社会党へ誘われた松前重義は ﹁先生の思想は人道主義に徹し 、先生の背後には常にキリストがあった﹂と述べ 、政治的にはラ イバルであった社会党左派の鈴木茂三郎も河上には﹁すばらしきヒューマニティ﹂があることを 認めている 。ただしこれらは死去した河上を追悼するなかでの述懐であることに留意せねばなら ない。 そこでこのような﹁ヒューマニスト﹂としての河上評を裏付けるものとして、本項では再び H Q の資料をもとに知識人たちによる河上への証言について取り上げる 。 G H Q は河上を追放 するにあたり、いくつかの﹁関係者各位﹂ ︵ whom it may concern ︶に聞き取りを行っている。 そこで挙げられている関係者とは、主に矢内原忠雄や森戸辰男など一高・東京帝国大学で河上が 青春をともにした錚々たる知識人や政治家たちであった。 例えば矢内原は新渡戸稲造や内村鑑三のもとでともに学んだ河上のことを bosom friends と 称 し、 liberalist and humanist である河上の信条はキリスト教によって形成されたと述べて
いる 。東大時代の知己である星島二郎もまた所属政党が異なる河上を democratic, humanistic and peace-loving statesman として高く評価する 。芦田均は河上を a man of high character and stable ideals と述べ、 ﹁日本の社会運動のため、人生のすべてを投げ打ってきた人物だ﹂と 河上を評する。そして河上は純粋な民主主義者であるだけではなく熱心なクリスチャンで、人々 を当然のごとく信じ 、尊重することの出来る民主国家日本に求められている人物であるとした 。 このほか片山哲や森戸辰男といった、当時河上と政治的に近かった人々も河上の信仰や人格者と しての部分を高く評価している 。最終的に河上は芦田が日記に記しているように 、﹁今日迄に判 明した G・ H・ Q の意見に基づき⋮ ⋮河上丈太郎君に準ずる case 等はダメとする﹂ 、すなわち 公職追放の早期解除はなされないという結果になる 。しかし河上が同時代の知識人たちからある 程度の政治的立場を超越した形でこうしたヒューマニストとしての側面を評価されていたことは 注目に値する。 第二に、こうした﹁ヒューマニスト﹂河上の思想を河上自身の論稿から考察を行いたい。河上 自身による文章が少ないことはすでに述べた。ただし関西学院において設立された社会学会にお いて発刊されていた﹃社会学会雑誌﹄では河上も一部学問的研究を行っている。同誌は月刊誌で 学生たちによって編集されていたが、同志社大学の河野が寄稿するなど大学の垣根を超えたもの でもあった 。河上は寄稿にあまり積極的ではなかったかもしれないが学生たちは教員たちの寄稿 を熱心に求めた 。 本論ではその河上の論稿の中から河上︵一九二五︶を取り上げよう。この論文の主題はドイツ 社会における﹁新中世紀主義運動﹂という運動に関するものであり、彼自身の政治思想を述べた
ものではない 。しかしこの思想に対する河上の評価を通じて、河上の社会運動に対する思想を明 らかにしたい 。河上によれば 、ドイツには共産主義と反共産主義の中間にある 、﹁中世主義的思 想﹂が存在するという。この思想は﹁文芸復興と産業革命の覚醒の結果として生じたる生命の機 械化に対する反動﹂であるという。そして﹁この運動をあの野蛮的な非人情的なる国家主義と誤 解﹂してはならないとして、国家主義とは峻別している。 ここで河上はキリスト教という宗教的規範を触媒とした﹁知識階級﹂という社会的階級の存在 を指摘する 。知識階級は知識精神的活動により 、﹁宗教的芸術的﹂である特性を持つという 。し かし河上は日本における﹁新中世紀主義運動﹂の普及に疑念を呈していた。そしてその要因とし て挙げたのが、 ﹁宗教的芸術的教養の乏しい﹂点であった。いわく、 ﹁基督教背景のない日本にお いては⋮⋮社会的意義ある運動となるけれどもかかる思想的背景のない日本においては一種の芸 術運動となりはしないかと思う﹂と述べているのである。 すなわち、河上は、ドイツにおいてキリスト教という背景をもった﹁知識階級﹂が、共産主義 と反共産主義の間にあって 、﹁生命の機械化に対する反動﹂という倫理的な観点から運動を行っ ていると指摘しているのである。河上はこの運動に対する将来性については悲観的であった。し かしこのような知識人によるキリスト教の倫理的な価値観に基づいた運動に着目しているなかで 河上が自らの運動においてそれを意識しなかったはずはなかろう。後年河上は政治家となった理 由として﹁民衆の幸福と政治の倫理化に貢献する﹂ことを述べているが、ここでいう﹁倫理﹂に はキリスト教の影響が見いだされるべきといえる 。 このようなキリスト教を軸にした思想を抱いていたのは河上だけではない 。例えば松沢は社
会科学研究会の運動における﹁その指導精神たるマルキシズム及その運動の方法の二三に就いて は、 吾人も賛成することは出来ない﹂と述べ、 ﹁学生基督教青年会﹂の可能性について述べている。 両者の違いについては資本主義に対して矯正するか態度が微温的であるかなどが挙げられている が、松沢は﹁最も異る根本的の点は、前者が階級的であるに反して、後者は超階級的であること である﹂としている 。すなわち松沢にとってキリスト教的な社会運動とはマルクス主義のように 労働者階級に限定された闘いではなくあらゆる社会階級から支持を集めるために運動することで あるといえる。 このようなキリスト教に影響を受けた超階級性は日本の社会主義においてきわめて重要な要素 であると思われる。というのは、戦後社会党が自民党に対して長らく政権交代を達成することが できなかった理由として、 社会党がマルクス主義に拠った ﹁階級政党﹂ を脱することができなかっ た結果労働者以外の支持層を動員することができなかったと指摘されているためである 。 河上が﹁超階級的﹂な思想を抱いていた証左は多い。河上は社会党においては珍しい二大政党 制・小選挙区制論者であった 。河上は小選挙区制で一時的に党勢が停滞しても二大政党制が展開 されていればいずれ革新勢力を勝利に導くことができると考えていた 。これは河上があらゆる階 級からの支持を調達する必要性と可能性を認識していた証左といえよう。河上のこのような﹁超 階級的﹂な取り組みは戦前にも見られる。例えば河上が一九三六年に森戸や賀川豊彦、杉山元治 郎と結成した日本俸給者協会の例を取り上げてみよう。同協会はサラリーマンを対象に失業者の 就職斡旋や教育などを目的としていた 。そこで目指された団体像は 、﹁従来の如き階級意識を基 調とせず、あくまで明朗な親睦団体﹂というものであった 。なおこのようなサラリーマンを対象
とした団体は一九二五年における神戸サラリーマンユニオンが挙げられる。同会は組織的に河上 らの政治研究会神戸支部とほぼ同一であった 。 そしてこのような﹁超階級的﹂な河上の社会主義の軌跡は、前述した河上のヒューマニズム思 想と歩みを同じくしていたといえるのではなかろうか。ここではその例として右派社会党が河上 委員長のもとで完成させた右社綱領を取り上げよう。右社綱領を作成したのは当時若手に過ぎな かった河上民雄と藤牧新平であった。民雄は左派社会党の左社綱領が社会主義におけるマルクス 主義的立場を自明なものとして扱っているのに対して、社会主義の意味を倫理的な部分に見出し ﹁ヒューマニズムの使命を再認識した 、民主社会主義の立場﹂を主張した 。丈太郎は必ずしも自 らの社会主義論について語ることは多くなかった。しかし政治的スタンスにおいて丈太郎と民雄 は限りなく近い立場であった。河上派の矢尾喜三郎の秘書であった高橋勉は民雄や藤牧が統一綱 領の作成に際し頻繁に河上のもとへ報告に訪れていたらしきことを回想している 。右社綱領にお いて民雄らを監督し是認した丈太郎のスタンスもまた彼らの綱領に近いものがあると言って差し 支えなかろう 。当時の知識人たちもこのような倫理的な社会主義に一定の賛意を示していた。例 えば朝日新聞論説委員である土屋清は 、﹁人間性の完全な解放と人格の尊厳が守られるような社 会﹂ 、﹁私はこの見解に賛成であり、そこにこの綱領の最も注目する点があると信ずる﹂と述べて いる 。 このような河上のヒューマニズムに裏打ちされた政治思想はキリスト教への信仰と切っても切 れないものであった。 このことは前述した周囲の人物たちによる河上評からも明らかである。 ﹁キ リスト教の信仰から人道的社会主義へ、そして﹃純粋の﹄社会主義へ﹂の途を歩んだ河上は、キ
リスト教の見地から社会主義を目指した日本でも数少ない人物であったといえよう 。 とりわけ注目するべきなのは、社会民主主義の隆盛した西欧ではキリスト教が大きな影響をも たらしたという点であろう。プロテスタント神学者のパウル・ティリッヒは﹁キリスト教と社会 主義とはさらに進歩を遂げて一致し⋮⋮その秩序のエートスは、すべての人間が人間であるがゆ えに積極的に肯定されることにある﹂と述べている 。これは ﹁﹃階級なき社会﹄という人類史の 可能性の時代に向けて、キリスト教と社会主義というヨーロッパの二大潮流を止揚し、巨大な統 合﹂ を行うことへの試みであったという 。また一九五三年にオランダで行われた社会主義インター ナショナルによるベントフェルト会議では社会主義とキリスト教の関係について踏み込んだ議論 がなされた。右社綱領の作成前夜に発表されたその声明では﹁社会主義は現代社会における人間 の非人間化に対する道徳的な抗議である﹂とヒューマニズムの観点から社会主義が位置づけられ ると同時に 、﹁ヨーロッパにおいては 、キリスト教が社会主義思想の精神的および倫理的源泉の 一つであることを、社会主義は認める﹂とキリスト教の役割を強調した 。 これらを踏まえれば、河上が学院関係者を含む広範な知識人やクリスチャンから評価されてき た要因も伺える。日本において社会民主主義の潮流は弱体であったが、河上は欧州においては広 く認められてきたキリスト教によるヒューマニストとして社会主義を求めてきた人物であったと いえる。 他方で関西学院関係者の河上に対する評価には、河上の学院への献身的な取り組みの影響を無 視することはできない。例えば学生たちの回想を概観すれば河上の思想に関する記述よりも河上 がどれほど学生のことを考えていたのかという﹁おやぢ﹂としての部分に大きく比重が割かれて
いることがわかる 。河上は学院での生活において﹁私は何等の学問的業績を残さざりしことを学 徒として恥じ申候。然し多くの若き終生の友を得たることを喜び居り候﹂と振り返っている 。事 実、多くの﹁終生の友﹂たちは数十年に渡って河上を支えた存在となっていた。 本論では関西学院の河上の取り組みを概観した上で、学院関係者らによる河上への評価につい て取り上げた。その上で本論は次の二点について明らかにした。第一には関西学院時代における 河上の献身的な取り組みは彼の政治的基盤の形成に影響を与え、ときには無産運動や公職追放な どの試練に立たされた河上を擁護する存在であったことが挙げられる。第二に、このような河上 に対する評価としては ﹁ヒューマニスト﹂としての側面を強調するものが多かったが 、﹁十字架 委員長﹂河上の政治的軌跡もまたキリスト教に影響を受けた﹁ヒューマニズム﹂ 、﹁超階級性﹂と しての一面を持っていたと思われる。 とりわけ第二の点については人物研究としての河上を積極的に位置づけうる可能性を秘めてい る。すなわちクリスチャン政治家としての河上である。前述したように、河上は教条主義的なマ ルキストとは異なり労働者階級以外の支持を集める必要性を認識していた。また一九六〇年から 六一年にかけて行われた社会党の分裂と民社党の結成に際しても河上・河上派は左右双方に分裂 を避け統一を呼びかけ続けた 。このような政治家としての河上像をキリスト教によるヒューマニ ズムからくる社会主義思想という観点から見出すことができれば、日本における社会民主主義の 失われた一つの可能性として河上という存在を見出すこともできるのではなかろうか。
︻参考文献︼ 芦田均、一九八六﹃芦田均日記﹄ ︵進藤榮一、下河辺元春編纂︶第二巻岩波書店 今田恵、一九五八﹁アウターブリッジ先生年譜﹂ ﹃神学研究﹄ ︵七︶二一∼二六 大内兵衛ほか、一九六八﹃高野岩三郎伝﹄岩波書店 小笠原慶彰、二〇一三﹁大阪暁明館と関西学院学生奉仕団 カール ・ 秋谷一郎の役割を中心として﹂ ﹃人 間福祉学研究﹄六︵一︶ 、六九∼八九 河上丈太郎、一九二五﹁現代独逸における新中世紀主義運動﹂ ﹃社会学会雑誌﹄ ︵四︶二∼一一 河上丈太郎 、一九四九 ﹁学院と私﹂関西学院学院六十年史出版委員会編 ﹃関西学院六十年史﹄二四九∼ 二五四 河上丈太郎、一九六一﹃私の履歴書﹄日本経済新聞社 河上丈太郎、一九六六﹃河上丈太郎演説集﹄ 河上丈太郎 、二〇一四 ﹃河上丈太郎日記﹄ ︵福永文夫 ・﹁関西学院と社会運動人脈﹂研究会監修︶関西学 院大学出版会 河上末子、一九六二﹃むら雲のかなたに﹄東海大学出版会 河上民雄、一九六八﹃現代政治家の条件﹄春秋社 河上民雄 、二〇〇一 ﹁現代の良寛さん﹂三井勇記念誌刊行会編 ﹃われらは無益なる僕なり︱牧師三井勇 の歩んだ途﹄燦葉出版社、二三二∼二三四 河上民雄、二〇〇二﹃一九四五年の夏︱文集︱﹄ 河上民雄、 二〇〇四 ﹁河上丈太郎﹂ 伊藤隆 ・ 季武嘉也編集 ﹃近現代日本人物史料情報事典﹄ ︵一︶ 、吉川弘文館、 一三四∼一三六 関西学院史編纂委員編、一九二九﹃開校四十年記念 関西学院史﹄関西学院史編纂委員 関西学院高等商業学部編、一九三一﹃関西学院高等商業学部二十年史﹄関西学院高等商業学部
倉田和四生、一九八八﹁関西学院における社会学の歩み∼ 1 ∼明治・大正時代﹂ ﹃関西学院大学社会学部 紀要﹄ ︵五七︶ 、一一∼二三 栗林輝夫、一九九九﹁解説﹂パウル・ティリッヒ、一九九九﹃キリスト教と社会主義﹄ ︵古屋安雄、栗林 輝夫訳︶白水社、三六三∼三七九 河野密、一九二四﹁社会観における空想とご科学的﹂ ﹃社会学会雑誌﹄ ︵三︶二∼一四 河野密、一九六六﹁河上先生の追憶﹂ ﹃月刊社会党﹄ ︵一〇五︶二∼七 河野密ほか 、一九七〇 ﹁河野密 ︵日本社会党 ・衆議院議員︶∼ 1 ∼ ︵現代史を創る人びと∼ 6 ∼ ︶大正 デモクラシーの洗礼﹂ ﹃エコノミスト﹄ 四八︵二一︶ 、一一六∼一二一 阪本勝、一九六七 ﹁都知事選始末記﹂五一∼六〇臼井吉見編、 ﹃現代の教養 . 第四︵保守と革新︶ ﹄筑摩書 房 新修神戸市史編集委員会編、一九九四﹃新修神戸市史 近代・現代﹄神戸市 新川敏光、 二〇〇七 ﹃幻視のなかの社会民主主義︱ ﹃戦後日本政治と社会民主主義﹄ 増補改題﹄ 法律文化社 高橋勉、一九九六﹃資料社会党河上派の軌跡﹄三一書房 竹中一雄、一九五三﹁キツネ丼を食って学生の心の中に飛込む﹂ ﹃母校通信﹄ ︵一一︶ 田村祐造、一九八四﹃戦後社会党の担い手たち﹄日本評論社 ティリッヒ・ P 、一九九九﹃キリスト教と社会主義﹄白水社 永江一夫、一九七六﹁わが青春﹂ ﹃革新﹄ ︵七七︶一一四∼一一五 中北浩爾 、二〇〇三 ﹁日本社会党の分裂︱西尾派の離党と構造改革派﹂山口二郎 ・石川真澄編 ﹃日本社 会党︱戦後革新の思想と行動﹄日本経済評論社、第三章、四五∼七四 中村和光、二〇一五﹁河上丈太郎の信仰と思想形成についての一考察 : 関西学院教授時代﹂ ﹃関西学院史 紀要﹄ ︵二一︶三五∼七六 芳賀綏、二〇〇八﹃威風堂々の指導者たち︱昭和人物史に学ぶ﹄清流出版
花見達二、 一九五七﹃政界巨頭論 : 日本を背負う十二人﹄雪華出版社 福永文夫、一九九六﹁社会党の派閥﹂河田潤一 ・ 西川知一編﹃政党派閥︱比較政治学的研究﹄ミネルヴァ 書房、第六章、二四五∼二八六 藤原恵、一九七四﹁関西学院史に見る新聞教育︱小山東助・河上丈太郎の先駆的役割﹂ ﹃関西学院大学社 会学部紀要﹄ ︵二九︶三∼一六 文学会編集部編、一九三一﹃文学部回顧﹄関西学院文学会 兵庫県労働運動史編さん委員会編、一九六一﹃兵庫県労働運動史﹄兵庫県商工労働部労政課 松沢兼人、一九二七﹁基督教青年の社会的進出﹂ ﹃開拓者﹄二二︵五︶五∼八 松沢兼人 、一九五九 ﹁社会科の思い出﹂関西学院七十年史編集委員会編 ﹃関西学院七十年史﹄関西学院 七十周年記念事業中央委員会、四六三∼四六五 萬成博、一九七四﹁藤原恵教授記念号によせて﹂ ﹃関西学院大学社会学部紀要﹄ ︵二九︶一 矢尾喜三郎、一九六二﹃日本社会党史﹄日本社会党史編纂会 安野正明 、二〇〇四 ﹃戦後ドイツ社会民主党史研究序説︱組織改革とゴーデスベルク綱領への道﹄ミネ ルヴァ書房 吉田健二 、 一九九八 ﹁︵証言︶日本の社会運動 ﹃日労﹄系指導者の戦後と ﹃社会思潮﹄ ︵一︶ 松井政吉 氏に聞く﹂ ﹃大原社会問題研究所雑誌﹄ ︵四七〇︶ 、四一∼五三 若宮啓文、一九九四﹃忘れられない国会論戦再軍備から公害問題まで﹄中央公論社 ︻注︼ ︵ 1 ︶文化庁の二〇一七年度宗教統計調査によれば日本におけるキリスト教系宗教の信者は約一九二万人 である。 ︵ 2 ︶中村、二〇一五
︵ 3 ︶河上には﹃私の履歴書﹄をはじめいくつかの著書や寄稿が見られるが、それらは河上民雄ら側近の 代筆であったものも少なくなかった。河上はときにその内容を確認することさえ怠ったという︵河 上、一九六八︶ 。 ︵ 4 ︶河上前委員長記念出版委員会編、一九六六河上、二〇〇四とりわけジャーナリストによる河上 伝としては田村︵一九八四︶や若宮︵一九九四︶ 、芳賀︵二〇〇八︶などが挙げられる。 ︵ 5 ︶社会党における派閥政治を取り上げた諸研究では河上派についても言及されている。例として福永 ︵一九九六︶ 、中北 ︵二〇〇三︶ 、新川 ︵二〇〇七︶などが挙げられる 。河上派の記録としては民社 党結成にともなう河上派の分裂を詳細に記録した高橋︵一九九六︶などが挙げられよう。当事者の 回想としては社会党総務局長などを務めた松井政吉の証言による吉田︵一九九八︶などがある。 ︵ 6 ︶芳賀、二〇〇八 ︵ 7 ︶河野ほか、一九七〇 ︵ 8 ︶河上、一九六一 ︵ 9 ︶河上、一九六一 ︵ 10︶松沢、一九五九 ︵ 11︶河上、一九六一 ︵ 12︶ G H Q に は 河 上 丈 太 郎 の 公 職 追 放 に 際 し 彼 に つ い て 資 料 を ま と め て い る ︵ 1945/12-1951/06. KAWAKAMI, Jotaro Reports of the Japanese Government to SCAP. Memoranda within SCAP. ︶。以下本論における GH Q の資料とは該当文書を指す。 ︵ 13︶河上、一九六一 ︵ 14︶中村、二〇一五 ︵ 15︶河上、一九四九 ︵ 16︶松沢 、一九五九 。ただし社会学科の成立に際しては小山東助が大きな役割を果たしている ︵藤原
一九七四︶ 。 ︵ 17︶河上前委員長記念出版委員会編、一九六六 ︵ 18︶河上前委員長記念出版委員会編、一九六六 ︵ 19︶河上前委員長記念出版委員会編、一九六六。講演旅行は当時社会科の学生であった木村己之吉の肝 煎りで、従来宗教部のみの仕事であった講演旅行を﹁地方文化発展のためという目的のために﹂商 学・文学会を含めた全学院の事業として開始したものであり、河上が学院を去るまで続いた︵河上、 一九四九︶ 。 ︵ 20︶河上、一九六二 ︵ 21︶河上前委員長記念出版委員会編、一九六六 ︵ 22︶河上、一九四九 ︵ 23︶河上、一九六一 ︵ 24︶文学会編集部編、一九三一 ︵ 25︶文学会編集部編、一九三一 ︵ 26︶文学会編集部編、一九三一 ︵ 27︶文学会編集部編、一九三一 ︵ 28︶高等商業学部編、一九三一 ︵ 29︶河上前委員長記念出版委員会編、一九六六 ︵ 30︶河上前委員長記念出版委員会編、一九六六 ︵ 31︶小笠原、二〇一三 ︵ 32︶萬成、一九七四 ︵ 33︶竹中、一九五三 ︵ 34︶河上前委員長記念出版委員会編、一九六六
︵ 35︶河上前委員長記念出版委員会編、一九六六 ︵ 36︶文学会編集部編、一九三一 ︵ 37︶﹃朝日新聞﹄一九四一年三月二五日 ︵ 38︶松沢、一九五九 ︵ 39︶河上前委員長記念出版委員会編、一九六六 ︵ 40︶阪本、一九六七 ︵ 41︶河上、一九六一 ︵ 42︶大内ほか、一九六八 ︵ 43︶﹃大阪朝日新聞﹄一九二二年四月一〇日 ︵ 44︶兵庫県労働運動史編さん委員会編、一九六一 ︵ 45︶河上、一九六一 ︵ 46︶河上前委員長記念出版委員会編、一九六六 ︵ 47︶関西学院高等商業学部編、一九三一 ︵ 48︶永江、一九七六 ︵ 49︶河上、一九六八 ︵ 50︶河上、二〇一五 ︵ 51︶文学会編集部編、一九三一 ︵ 52︶中村、二〇一五ほか ︵ 53︶花見、一九五七 ︵ 54︶河上京子氏 ︵河上民雄氏夫人︶へのインタビューより ︵二〇一六年八月二四日実施︶ 。また河上京 子氏は末子についてしばしば手紙を認めていた人であったと述べている。 ︵ 55︶今田、一九五八
︵ 56︶関西学院高等商業学部編、一九三一 ︵ 57︶河上、一九六一 ︵ 58︶この事実は河上民雄が河上と共同で法律事務所を経営していた美村貞男から聞いたことで明らかに なっている ︵河上 、二〇〇一︶ 。近年刊行された ﹃河上丈太郎日記﹄にも三井が事務所に来所した ことが記されている︵河上、二〇一四︶ 。 ︵ 59︶﹃毎日新聞﹄一九六六年一二月一一日 ︵ 60︶河上前委員長記念出版委員会編、一九六六 ︵ 61︶河野、一九六六 ︵ 62︶河野、一九六六 ︵ 63︶河上前委員長記念出版委員会編、一九六六 ︵ 64︶河上前委員長記念出版委員会編、一九六六 ︵ 65︶﹃芦田均日記﹄一九五八年五月一三日 ︵ 66︶河野、一九二四 ︵ 67︶例えば第一巻では ﹁松沢先生の原稿を戴くことの出来たのは幸福であった 。⋮ ⋮新明先生には約 二十枚以上のものを戴く約束が出来ている。今月締め切り間際になって、逃げられた埋め合わせで あるが、記憶のいい先生は決してお忘れになる気遣いはないので、この点は安心なものだ﹂と述べ られ、第三巻になると﹁河上先生からは本月も頂けなかった。色々お忙しいので無理におせがみす ることは出来ない。きっと来月の紙上を飾って下さるであろうと思うから期待して頂きたい﹂と書 かれていた。かくして河上は翌月の第四巻を含め計二稿の掲載を行ったが、学生が主導的な立場で 同誌を発刊していたことが伺える。 ︵ 68︶この運動については、 河上が﹁この思想的傾向に対する適当なる名前のないためにかく呼んでおく﹂ と述べているように、彼独自の呼称であった。