経営権
の経営理論序説
一経営組織と経営権の問
題1
山 本 安 次 郎
序 言 、経営権が労働法学において労働権に対立するものとしていろいろ論じられているのは周知の通りである。われわれはこ
の問題をどのように理解したらよいであろうか。もちろん、われわれにとっては経営権の法学理論ではなしに経営権の経
営理論ないし組織理論が問題であるのはいうまでもない。その場合、両者はどのような関係に立ち、これを如何に考えた
らよいであろうか。われわれは経営権を広く経営学特に経営組織論の問題として考えて見たい。さて、改めて説くまでもなく、経営が大規模化すればするほど、経営組織の形態や構造の如何は重要な問題となり、遂
には経営の死命を制するほど重要なものとなる。今日われわれの直面する技術革新の時代における経営問題の中心が何れ
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へかといえば組織の問題或いは再組織の問題に移りつつあり、端的に﹁組織の時代﹂とも蓑現し得ることは、いわゆる事業
部制の確立、取締役会、常務会、経営委員会制度の確立や充実その他の組織改善に努力しつつある実際界の現実の示す通
りである。しかし新しい﹁組織の時代﹂は新しい組織の理論を要求する。まことに、かかる要求に応えて近時における組
織理論の発展は目覚ましく、伝統的な組織理論に立つ経営組織論はその根抵から反省し自己批判を試みねばならないが、
組織問題と関連をもつ限り経営権理論についても同様のことがいえる。われわれのこれまでの努力も主として﹁組織理論
経営権の経営理論序説 一経営権の経営理論序説 二
におけるイデオロギー革命しといわれる新しい組織観、組織概念、組織理論を理解し、それに立脚する経営組織論を確立
しょうとすることであった。もちろん、それは現実の経営組織そのものの研究を前提している。新しい経営組織論は現実
の経営組織の新動向の分析を通して試みられざるを得ない。かかる方向への研究の一環としてここでは、経営組織の中心
問題として経営権の問題を取り上げて見たい。それは本来的に経営ないし経営組織の基本問題であるばかりでなく、或る
意味では、それは伝統的な古い組織理論と反逆的または革命的な新しい組織理論とがそれをめぐって相争う枢軸点をなし
両説の特色を浮び上らすキー・ポイントをなすからである。
組織の本質が何であるかはここでの直接の問題ではないが、新しい組織理論によれば、それがバーナードのいわゆる協
働体系︵860臼。牙①。・蕩滞管︶または活動体系︵ω蕩審日。︷。8鼠○霧ζ80巳ぎ馨①虚蝉a︿乙①ω○同年90謎Ohヨ09こ口冨唱。Hωo蕊︶ の理論によって代表せられるものであり、その要素が、ωユミュニケーション、②協力または貢献の意志、㈲共通目的であっ
て、その組織的統一が馬場博士のいわゆる調整力︵8。﹁曾聾ぎσq。二幕σq聾5σq℃。≦①同︶であることは明らかである。そして経 営組織におけるそのような調整力こそ経営権︵ヨ。・8σq①臼①艮層9・σq鎮一くρHおま。胤暴8σq①ヨφ艮”雲華鋤αq①日9ご戯拝暴8σQΦヨ①三舞跨守葺ざ切①けコΦげ田三。葺餌け︼しd①巳Φげωσq①惹罫竃8﹃け§ゆ①鼠Φσ︶の問題に外ならない。経営は一面からは明らかに⇔ω閤8ヨoh⇔o匪守
同詳団であり、も。ヨ8巴一霧蜂巳同8である。経営権の在り方や構造が経営組織の形態や性格を規定するからである。 ところで、この経営権の問題は上述の如く今日では主として労働法学や労働組合論において、労働権︵コσq葺。=QげOu︶と の関連においていわゆる﹁、経営権条項﹂︵暮8αq。§三コσq窪9口。。。︶の問題と考えられる位で、決して正面からは取上げられ ていないように思われる。しかしそれはむしろ根本的には経営形態ないし経営組織形態の形態源︵閃。§毎σQω臼ゆ=①︶の問題
として正に経営学の問題であり、特に経営組織論の問題であることは明らかである。これまでの経営学や経営組織論にお
いてもこれに触れない訳ではないが、必ずしも十分とはいえない。われわれはここではいわば経営権の経営学的理解を試
み、今後におけるこれを中心とする経営組織の構造の解明への準備にしたいと思う。われわれの考えるところによれば、
経営学は単に資本の立場に立つものではなく、また単に労働の立場に立つものでもなく、まさに経営の立場に立つの外は
⑨ ない。それだからこそ資本や労働をも批判することが出来、同時に資本の要求にも労働の要求にも応え得ると思われる。 ﹁経営﹂の成立こそ経営学の基礎であり、経営権の問題も経営の根本的理解の問題に外ならない。われわれはこのような経営主義の立場かち経営権の経営学的考察を試み、特にその経営組織における意義を明らかにして経営権論の出発点にし
たいと思う。われわれの.中心問題はど戸品までも経営であり、経営組織である。 ① これについては、勺窪含Φさ臼.ζこ碧匹QQ冨﹃≦。。9﹁.℃二︾畠巨岩番屋旨くΦ○薦簿三Np・ユopお①9︾¢配h■特にやδ。。の新旧対照表を参照Q なお原理的には、拙稿、経営組織概念と組織の論理︵彦根論叢第五三号︶参照。 ② ℃h蓬昌興。巳ωず興≦oo98■島梓こ唱.一2■ホーソン実験を契機とする組織理論の展開、特にバーナード・サイモン理論を思うべきであるQ ③ 拙稿、組織学と経営学︵彦根論叢第三〇号︶、経営学と組織論 ︵PR第七巻第一〇号︶、経営学的組織概念の発展︵彦根論叢第三七号︶、経営組織概 念と組織の論理︵彦根論叢第五三号︶など参照。 ④勺譲貯興p・巳Qり冨﹁≦oogo℃●息けこやり㊤. ⑤拙稿、バーナード組織理論の﹁考察︵彦根論叢第三四号︶参照。 ⑥ 馬場敬治、組織の基本的性質、二三頁、組織の調整力と其の諸理念型、一一頁。 ⑦ これらの言葉の意味するところは厳密にはそれぞれ異る。それについては後で触れる。 ③ 出。答臼き登団二︾口90葺く磐α○三国葺墨仲δ口冒O興ヨ舞冨き畠φ日ΦPけ冒一白㊤.周。話≦〇誘く・これはドイツ経営の経営権的構造の実態調査 の書として興味深いものがある。 霞︻律幕hきαoらぼ巽芝oo9ロ。卜。伊なお、ドラッカーについては後にふれる。 ⑨ この点については、拙著、経営管理論、二八頁以下参照。 竃oo同ρミ・国こ﹃ユ¢馨ご巴閃Φ一pユ05の騨一乙筈ΦGQ。o巨Oa①びH誤9サ軽はその立 場を旨9感興胃。冨σo畳=o同p。昌鉱毒げ。目と規定するが、更に昌Φ詳ぽ巽肩。。書閑長8目p♪口什ド9群巴を附加すべきであろう。∩審日げ⑦=巴PZ.≦二 目ぽφ⇔⇒一〇づOプ巴冨5ゆq①8]≦ゆσ妙αqΦヨΦ暮60⇒離orH罐。。その他にも同様な立場を見得る。 経営権の経営理論序説 三経営権の経営理論序説 四 s 一一.
経営権問題の起源と経営権理論
1 経営権の問題性 経営権問題は、他の経営問題と同様に、新しい問題であるが、また古いといえば古いのである。
先ず、その問題性或いはその起源の老察から始めよう。それはその理解の深化を助け、その新しい意味を明示するに役立
つであろうから。さて、経営権が経営権として意織されるかどうか、また経営権という言葉が使われるかどうかは別として、事業の経営
がともかく現実に行われる限り、何れの時代何れの社会においても、その構造や形態はともかく、実質的にいって経営権
が予想せられ経営作用がこれに基づくことは否定せられないであろう。その意味にては明らかに経営権ぽ普遍性をもち、その起源も古いといわねばならない。しかし一方からいえば、そのような経営権は無に等しいのであって、真の経営権問
ヘ ヘ ヘ ヘ へ題は経営の構造的または形態的発展、つまり経営における労資の対立関係の発展を通して具体的になるのである。絶対的
な資本主義、絶対的な労働主義の下では、経営権は経営権としては特に問題となる筈はない。誰でもいうように、﹁権威
はしばしば挑戦されるときにのみ自らを主張する﹂ものであるが、 ﹁組合こそ経営権に対する挑戦者たる地位にある﹂からである。ドイツにおいてよりもアメリカにおいて、経営権問題が重視せられるのは、経営構造と労働組合組織との差に
よると見るべきであろう。 一般に、常に存在するもの必ずしも問題性においてあるものではない。ある問題が問題性︵即。窪①ヨ長江︶をもって、真に 問題︵即。σ一Φ日︶となるのは、つまり現実の問題となり、何等かの形で解決を迫るのは、一定の歴史的社会的条件の下に解 決すべぎ課題︵﹀亀σq虐げΦ︶として自覚せられるからに外ならない。このことは雷。窪①日という語源がこれを示している。一方では歴史的社会的な経済関係、経営関係という客観的条件が成熟し、これが問題の問題性したがって課題性の自覚を迫
り、他方ではこれを担う主体的条件を成立せしめる。一定の時代には、それに対応する客観的条件と主体的条件之が成立
するが、経営権の問題も経営構造の発展に対応して時代的特質を示すこととなる。 ④ 先ず、わが国の経営権問題の起源を見るに、松岡教授はいう。 ﹁わたくしの記憶が正しければ、経営権という言葉を流行させたのは 河合良成氏である。終戦後間もなく同氏の厚生大臣時代は、争議行為の手段として、いわゆる生産管理の嵐が吹きすさんだ。河合厚生 大臣は、争議行為の手段としての生産管理を違法還する理由として、﹃それは経営権の侵害である﹄という表現を使用した。この表現 は、当時マスコミに乗って相当流行した。 その後、経営権という表現を盛んに利用したのは、田経連あたりであろう。昭和二十三年、ドソジ政策による竹馬経済の手術と称し て、戦後経営内に深く食い込んでいた労働組合を追い出すために、 ﹃経営権は経営者のものである﹄というキャッチ・フレーズを使用 した。 このように、経営権という言葉は、労働運動に対する対策のために、時には政治権力により、あるいは経営者により使用され、労働 組合は、これに負けないで対抗したために、経営権、労働権論争が深刻に争われるに至った﹂。 経営学界においてもこのような事情に 刺激されてか、当時は経営権に関する論文が多い。 次に、このような事情はアメリカにおいても同様である。もちろん、アメリカにおける経営権の問題は、見方によっては労働組合や団 ⑤ 体交渉の歴史と共に古いといえるかも知れない。しかしこれを具体的に見れば、比較的に新しい。チェンバーレンは次のようにいう。 ﹁組合保障︵¢巳。コωΦ2二な︶の問題に対応して、経営権︵雲霧認①ヨ①三.ω二αq寒︶の問題がある。この問題の起源は、組合保障の問題 と同様に、相当昔に遡るけれども、問題そのものは特に第二次大戦に続く時期に尖鋭的であった。戦時中の四年間戦時労働局によって 抑圧されて.来た組合は、疑い深い経営者には何もかも﹃社会主義﹄になってしまうではないかと疑われるほどに多くの要求をして、そ の新しく獲得した力を誇示したのであった。この問題は、近年では余り激烈に論議されなくなったけれども、それはなお組合と経営と に対しては戦場であり、そして恐らくこれからも常に戦場であるであろう。﹂ しかし、一体、その経営権とは何か。どのような根源をもち、どこでどのような経営構造において考えられ、どのような内容と構造 のものであるか。経営権と労働権はどのような関係にあるか。そもそも経営権というものが存在するのか。これは極めて困難の問題で ⑥ あって、まだ定説がないばかりか、考え方さえも明瞭とはなっていないともいってよかろう。だから、わが政府当局は﹁もし未だに経 経営権の経営理論序説 五経営権の経営理論序説 六 営権とは何ぞや、経営権と労働権との限界如何、といった事で頭を悩ましている労便があったら、その議論を一先ず棚上げにして、労 働条件その他個々の協約条項を如何にして最も社会及び当該企業の実情に適した適切な規定とするか、にその精力を向けられることを お勧めしますしといっているほどである。 しかし、﹁相互の労働権または経営権を尊重﹂することをうたう労働協約において、尊重す べき労働権なり経営権なりを明確にするのでなければ尊重の仕方もあるまい。われわれは以下の行論の便益上、先ずこれまでの経営権 の考え方の特質を明らかにし、新しい経営構造の発展という見地から経営権理論の方向を指摘せねばならない。
2 経営権の残余理論と信託理論 先ず、経営権理論の三つの型とその発展的関係の考察から始めよう。
ω 経営権理論はその根源をどこに認めるか︵経営権と所有権との関係︶、経営権を経営構造の発展のどの段階で老えるか ︵経営権と経営構造または経営形態との関係︶、更にどのような組織理論に立っているか︵経営権と組織または組織理論との関係︶、 などによっていろいろに区別せられる。例えば㍉デヴェイの残余理論︵奮匡曲面チ8曼︶と信託理論︵冒ω徳ω匡℃チ8蔓︶との 区別、ハルトマソの窮極的、または形式的、または終局的権威︵毎・冒9。=・§L。=圃邑・三ぎ・身︶の組織型と職能的権威 (hケag巴窪チ。﹁身︶ の組織型との区別、フィフナー・シャーウッドの権威または命令権︵。三ぎ馨ざ話窪8。。盲目⇔融︶の 組織型と権力または能力︵℃。転び畠冨。ξδ。。①2おひゆ臨。二日9①。h。9、。。<巴器。・。﹁σq8呂の組織型、或いは伝統的︵権威主義的︶ 前民主的︵いな反民主的︶組織理論と祉会的︵人本主義的︶、民主的組織理論との区別、ムーアーの権威の命令理論︵8ヨ§⊆。註 普8曼9仁。三プ。三冤︶と職能理論︵h呂a8子①。蔓oh窪二’○﹁ξ︶の区別、その他グーテンベルクの所有権と経営意志形成との 関係を原理とする五つの経営意志中心︵NΦ旨2げΦ鼠①穿3臼を一=Φ蕊げま当σq︶、従って経営形態の区別、ノイローの所有と経営 との関係一統一原理︵国一昌げO詳ωbH剛昌N一目︶、分離原理︵日器弓§σq。・o旨旨︶、綜合原理︵琢三冨。・。℃9暑︶−を原理とする根本的な三つの経営形態の区別などをあげることが出来よう。しかしここでは、これら諸見解を詳説する余裕がないから、それぞ
れの説の内容を比較検討すると共にチェンバーレンの所説をも参考に、われわれの問題の展開に必要な理論の型に整理し、概観するに止めねばならない。この見地からすれば、発展する三つの理論の型が結論される。われわれはこれをいわゆる
残余理論から信託理論を経て経営理論への展開として考察して見たい。前二者を法学理論的といえば、 経営権的構造の発展と共に法学理論的から経営理論的へ発展するのである。 経営権論は経営.の ② 経営権はどこでも、先ず、いわゆる残余理論の形をとる。残余理論というのは経営権を財産権または所有権そのものであり、財 産の所有者たる経営者の絶対権であるとする見解の総称である。残余理論というのは、それが﹁すべての権利、機能及び特権は、組合 の存在しない時期には経営者に帰属していたと前提し⋮⋮⋮組合運動の発展、したがって団体交渉の導入は、従来独占的であったこの ⑬ 領域への侵入⋮⋮⋮自然法によって経営者に与えられた特権に対する侵害とみなす﹂からである。 いうまでもなく、このような見解が歴史的には妥当した時代があった。例えば、二十世紀の初め﹁経営は資本と同義語として出発し ⑭ た﹂のであった。今日でも﹁所有と経営の統一原理﹂を具現する所有経営者︵O≦旨①機,ヨP”曽αq①門︶の形態を普通とする企業、特に中小企 業については、どこの国においても妥当性をもつと見られる。しかし、そζでは資本や企業者はあってもまだ﹁経営﹂は成立せず、労 働や労働組合も力をもたないから経営権そのものも潜在的なものといわねばならない。この見解は所有権の絶対を説き、企業者の特権 ︵冒Φ﹃o鴨島⊃二くΦ︶を主張するものに外ならず、経営権理論としては後向きのものであることは否定出来ない。 この理論は、組織理論の ⑭ 方から見れば、﹁絶対主義、自由放任経済学、合理主義、人間行動を自動人形と見る人間観の結合﹂に基づき、﹁アメリカの経営哲学の ⑰ ﹃神権的﹄権威主義︵..a<ぎΦユαq窪、.p三ぽ。二一霞冨三ωヨ︶を表現するものであ.る。﹂また﹁ドイツ経営も経営権が強く残存し.ているとい われ、海外の視察者は命令を発し服従を期待する経営権︵已雪超。∋Φ昇げ目蒔窪︶に関する紛争を殆んど見出さない。従って、ドイツ労 働者の﹃従順すぎること﹄︵.、。︿Φ誉8日三目ヨ①暮..︶とドイツ経営者の﹃権威主義的﹄特質︵、、鋤三ぎ葺胃冨ロ.、常p・ε器の︶がしばしば語ら ⑱ れる﹂のも無理はない。われわれはわが国についてもこのような傾向を見出し得ないであろうか。それはともかく、経営権の問題はこ のようないわば﹁経営前の﹂経営形態を基礎にしては考えられす、残余理論も経営権理論というよりも資本や所有のセンチメンタリズ ムの表明にすぎない。今日ではもはや経営学や組織論においてはこのような理論の通用し得ないことは特に説明を要しない。 ㈲ そこで、次の信託理論であるが、これは株式会社や専門経営者を前提し、その経営権の基礎を資本所有者からの信託に見、そこ に経営者責任を説き、その責任遂行上、労働の侵入を許さす、団体交渉を必要としない経営者の排他的な経営権を主張せんとする見解 ⑲ の総称である。一九四五年アメリカの全国労資会議︵子Φ三①鉱8巴ぴ。σoでζ雪目αqΦヨの暮Oo霊寺窪8︶における経営権委員会︵序①o。ヨー 日算①Φ。5竃雪Qσq。8①耳空瞬暮8竃雪9・σqΦ︶の経営者側委員 ︵日聖Qαqoヨg什日Φヨげ興ω︶が、労働側委員 ︵冨げ。﹃日①ヨび①富︶の見解を 経営権の経営理論序説 七
経営権の経営理論序説 八 ⑳ ﹁共同経営﹂ ︵営暮打違轟ΦヨΦ巳の主張として反対し、自分の経営権の明確化を主張した見解はその.典型といえよう。この説も経営 権が所有権ないし財産権に根源をもっとする点においては残余理論と同様で、異るところは直接か間接か、絶対か相対か、全体か部分 かの差といえよう。このような差はそれぞれの理論の根拠とする経営構造の差、経営発展の段階の差にあると見なければならない。す なわち、この見解は所有と繰営の分離を原則とする近代の株式会社と車門終営者を基礎に労使関係特に団体交渉を前提して考え、経営 権が所有者たる株主から経営者たる取締役会に信託されたものと見る点に特色がある。 この見解が経営権を経営構造の変・化に適応して考え直そうとする態度を示すことにおいて一の進歩ではあるが、それも今日の経営構 造の変化を認識し得ない点五十歩百歩といわねばならない。なるほど、使用、機数、処分からなる所有権が分裂し、それが経営権とし で経営者に信託されるということは認めねばならないであろう。しかし、そのような経営権が﹁物﹂に及ぶことは問題ではないにして も、それと同じように﹁人﹂にも及ぶといえるかどうか。この点は誰でも直ちに疑問とするところであろう。 経営が﹁物﹂と﹁人﹂、 ﹁資本﹂と﹁労働﹂から成るとして、人の支配が果して信託理論によって基礎づけられるか。これに積極的に答え得ないところに、こ ヘ ヘ ヘ ヘ へ の説の欠陥があり、この信託関係を抵写して複数的信託を説き、株主からの信託だけではなしに、労働から社会からの信託をも問題と ⑳ 、 、 、 、 、 、 するとき、信託理論は変らなければならない。換言すれば、所有と経営との形成的分離ではなしに、実質的分離の事実、つまり﹁経 営﹂の成立の事実を認めた上での経営権を問題とするとき、単なる信託理論では説明し得ない。われわれはそこに経営権の経営理論の ヘ へ 方向を見ねばならない。真の信託理論は経営理論であるといわねばならない。 ⑳
3 経営権の経営理論 団体交渉過程についての経営理論の主張者たるチェンバーレンはアメリカの経営権問題につい
て次の如く通説を批判するが、われわれはそこに経営権の経営理論︵ヨ。轟σqΦ﹁配夢8蔓︶への道を見出さねばならない。 ﹁権威主義的関係︵帥=什ずO﹃一什帥﹁一〇口 円O一働什一〇昌ω7一〇︶︵例えば国内での兵役、諸外国の全体主義的社会における︶を除けば、人々の同意によって のみ、これを管理し指揮することが出来る。財産権は財貨の処分力をもつが、それはしかしその使用に他人の協力を必要とするときに は、これらの財貨を使用するのと同一の力をもつものではない。財産権は協カーこの協力がなければ、財産権は財産処分の力に減退 する一を命令することは出来ない。それはただその同意によってのみ得られる。何れの会社の株主の財産権も一経営者によって彼 等のために行使せられるが一労働者を含めて、事業の運営に現実に必要とするすべての人々の協力をもってのみ意味あるものとなり 得るのである。しかもそこには労働者が協力すべき法的強制はない。協力が行われねばならない条件についての法的規定はない。これ’ らの条件の規定は直接に当事者に委ねられている。法律の中には組合の要求を阻止する何物もないのである。⋮⋮⋮財産権は他人を支 配する命令権を与えてはいないから、経営は、運営中の事業の価値を維持するためには、協力を誘致する手段としてその権限を分ち合う 必要のあることを理解せねばならない⋮⋮。L
しかし、それでは経営に固有な経営権というものは認められないであろうか。もし認め得るとすれば、それはどのよう
⑬ な条件においてであろうか。そしてこれに答えんとするのが、経営権の経営理論であり、われわれの課題に外ならない。 しかしその前に労働法における経営権の問題を考察しておこう。 幽 ①2Φ巳。章O二∪冨Uo葺ω9Φ切Φ窪冨誇く①﹁冨ωω§σq口凌ぎ冨ωo自浄ho﹁9①⇒三ωN霞ζ詳げ窃ニヨヨρコσq”お㎝9ここでは企業者︵資本︶の単独 決定︵第一の道︶と従業員︵労働︶の単独決定︵第二の道︶と労資の共同決定︵第三の道︶の三つの形態が区別せられている、経営権問題の参考とな る。われわれはこの﹁第三の道﹂にアメリカのバーリーの60一一Φo鋤く①o碧一3一置据の思想を見得るように思う。この点後にふれる。 ②出母け日彗ジ8.9叶こ℃器h碧ρ ③ ]≦oo﹃ρ≦こぎ匹二ωけユ帥一閃9ρ二〇ロω餌口窪夢①ωoo冨一〇乙Φぴお㎝ρOロ●ωb⊃①一ωミ。 ④松岡三郎、労働法と労働協約、八二頁。 ⑤O冨ヨσ①二鉱ジ客≦こωog村慶びoo犀。伝いぎ。きお切G。−燭・$ω.なお、日露¢三80冨=窪αqΦ8蜜m呂σq①ヨΦ暮08窪96幽。。一〇〇濠〇溶く① じU胃σq鯨巳コ鵬に豊かな歴史的記述のあることを見落してはならない。 ⑥石黒拓爾、労働協約、七八頁。 ⑦∪国く①ざ出.芝二〇〇巨ΦヨゼoN遅くO病竃。薄く①しd¢。同αq鉱三5伽q間お田︾切戸一〇①一=Pなお、藻利重隆編、労務管理、二九五頁参照。 ⑨団母伸ヨ磐員8●息酔こづ●切. ⑨ 勺h罵営臼塁自ωず興≦oogo唱■息叶ニサ胡いp。ロユ℃・切ωh。 ⑩ζ8﹃ρ8●息叶こO■δ刈噛豆。巳やω㊤①。 ⑭O暮Φ口σ臼αq−国二〇機§巳国αqgα臼切2二Φげω≦跨叶ω9鉱邑①ぽ①LW窪■一二Qo■ω卜。卜。罫 ⑫ZΦ巳。章β。﹁pOこω’畦hh・ ⑬藻利編上掲書二九五頁。O剋捷ぴΦ﹁巨P2●≦こOo=ΦoけぞΦω国﹃四国ぎぎ﹃q”唱.田鳶.もほぼ同様にいってこれを批判している。O冨日びΦユ巴量 Q巳。コOぴ巴δ5σqΦ8ζ磐餌m脅Φ日①暮OOコ窪。 一夕。。・浜野邦訳もこの見解の批判の書である。 経営権の.経営理論序説 九 ↓げΦ経営権の経営理論序説 一〇 ⑭oD﹃Φ冠opOこ↓冨℃三ε。・8﹃︽o︷冨壁餌αqΦ日①ロ計おb。心’唱.ωピ ⑮℃隷3響きα60冨﹃≦oo9唱■置は特権としての経営権に対する批判として﹁議会の主権に対する侵入へのスチュアート王の抵抗は、二十世紀の 経営者の労働組合に対する経営権の擁護とその性質を異にするものではない﹂といっている。 ⑬粟義コ興讐αし∩冨同≦oogoO■9件二戸㎝ω. ⑰霞葭器﹁田乙ω冨﹁類oogoサ息けこ℃●刈。。・ ⑱国鷲叶8雪ジ8●島仲こやω. ⑲ 藻利編上掲書二九六頁参照。われわれは単数責任と複数責任を区別して、両者を発展的関係と考えたい。 ⑳O訂ヨび①ユ臥量Oo幕。葛く①ヒd零αqpぎぎ堕ρωおh.QDo霞8σoo評8り魯。びや巳。。h. ⑳O冨Bげ①二巴ジ↓げΦd三〇ロO﹃四=ΦロαqΦけ。竃pロQひqΦヨ①葺Ooコ貫or邦訳五六頁以下参照。 ⑳O冨日ぴ㊦二巴量Oo濠隊一くΦbd碧。喰臥巳口堕P。。窃“ ⑳チェソバーレソは団体交渉の過程を日。美Φユコ瞬子Φo﹃ざ職。︿Φ同ロヨΦ馨巴9①o陛ざヨpコp・ひq①﹃巨9①oqに分けているが、われわれの経営権の理 論がこの経営理論に関連することはいうまでもない。Ω影日びΦ二二ジoP∩騨、づ℃.這Olお㊤・ 三 権利としての経営権 −経営権の形式の問題一
1 経営権否定説 経営権というものがあるかどうか、その主体は経営なのか経営者なのか、更に経営権はどうあるべ
きか、が問われるとき、その﹁経営﹂なり﹁経営者﹂なりはどのようなものであり、またその﹁権﹂はどのような意味か
が明らかにされなくては、何ともいい得ないであろう。経営や経営者は次の問題として、先ず、経営権の権の方か・ら考察 ①しよう。この点からは一応否定説と肯定説とに分けることが出来るが、内容的には上述の残余理論か信託理論に外ならな
いのである。もし、経営権の権が権利であり、権利が法律によってのみ保障せられるとするならば、経営権というような権利は実定
法上にどのような規定もないのであるから、当然に否定されなくてはならない。その意味では、経営権など初めから問題
とならない筈である。然るに、実定法⊥の権利としては否定せられながらも、何かの意味にて現実に問題とせられざるを
得ないところにこそ問題があるというべきであろう。思うに、・法は単にO①ωΦ言としてのみ問題となるのではなく、その 根抵の菊Φ。ぼとしても考えられねばならない。 経営権がある意味では嫌悪され否定されながら、なお問題とせられざる を得ないのは、このことを物語るものではあるまいか。それはわれわれが組織を問題とするとき、ho同ヨ緯とぼ︷o﹃ヨ①r 。・
錐ィと亀旨p日8との関係を問題とするのと同様であろう。 われわれは暫く経営権の法学的理論を聞くことにしよう。
石井教授はいう。 ﹁近時経営権と労働権という語を対立せしめて使用することが少くないが、法律上とくに経営権といったような独 ② 立の権利があるわけではなく、⋮⋮⋮経営権と労働権との対比は通俗的意味のものである。﹂また、日く、﹁よく労働協約などで使用者 は⋮⋮⋮労働権を尊重し、組合は経営権を尊重するというようなことを書くことがあるけれども、あの場合の労働権というのは、恐ら く非常に漠然とした意味で使っていると思う。労働基本権といったような意味、つまり争議権なども皆入れた意味ではないかと思う。 労働権を尊重すると書いてあるから、解雇は制限されるのだというようにはとることは出来ない。⋮⋮⋮この意味では、労働権と経 営権とを対立させて考えることが、少七面が違うのではないかと考える。のみならす、経営糎という言葉も感心出来ない。企業者の権 利として財産権その他があるけれども、経営権という特殊な権利をどこまで独立に認めることが出来るかという点については、相当疑 問をもっている。 “ 結局、現在の法律の考え方では、所有権とか占有権とか、営業権とか、入格権とかを綜合したものを経営権といって通俗的な言葉で 使っているのではなかろうか。経営権という独立の権利が使用者に保証されていると考えるわけにはいかないと思う。恐らく終戦後組 合としては、何でも労働者に関する権利を一括して、労働権といって主張したから、使用者の方でもそれに対抗する適当な権利がなけ ればますい。そこで経営権をもち出したのではないか。このように、労働権と経営権は↓応の通俗的意昧しか持たず、強い意味は持つ ⑨ ④ ていないと解する。﹂教授は﹁あまり経営権という言葉を好まない一人です﹂といって、以上の見解を繰返しておられる。 経営学の方面においては、坂口教授は経営権に関する先駆的論文において﹁経済的性格﹂を解明して、 ﹁果して之等の ものが法律的に現代法的な批判と、その基礎づけに堪え得るものなりや否や﹂として問題を提出され、馬場克三博士は、 ⑥ ﹁経営権は私有財産権の扮装にすぎない﹂として否定説を援護するのである。経営権は遂に成り立たないであろうか。 営権の経営理論序説=
経営権の経営理論序説 一二
2 経営権肯定説 経営権を独立の権利と認めるこどは、実定法上そのような規定がないから出来ないにしても、そし
て経営権という言葉が俗語にすぎないにしても、それが現に問題となっている限り、これをただ否定するのではなく、経
営権問題の意義を掘り下げて見る必要もあろうQ
、 われわれはこのような方向を、一応、松岡教授に見出すであろう。﹁日本国憲法が労働権と対比して保証したものは、財産権である。 憲法第二九条は﹃財産権はこれを侵してはならない﹄︵第一項︶。 また﹃財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律で.これを 定める﹄と規定し、民法第二〇六条は﹃所有権ハ法令ノ制限内高層テ自由二其所有物ノ使用、牧益及ヒ処分ヲナス権利ヲ有ス﹄と定め ている。経営者は、憲法や民法で保証された財産を投じ、資材を購入し、労働者を雇い入れて、経営を行うのである。だから、経営権 ⑦ という言葉を使用するならば、それは財産権と労働権の結合から、生するものである。﹂ この点は石井教授もほぼ同様に説いておられ ⑧ るところである。ところで、﹁経営者は、経営を行うに当って、労働力を買い入れなくてはならない。経営者は、労働力を買い入れる にあたって、労働力の処分の条件については、労働組合と交渉して決めるが、その条件のもとで労働力を使用する法的権限を有する。 すなわち、経営者は、労働者が経営者の指揮命.令によって労働力を提供しなければ、労働契約を解除できる。経営権という法律的意味 の一つは、この点にある。換言すれば、それは経営者の労働力支配権である。業務命令権とよばれるものは、その労働支配権から生す ⑧ ⑩ る、﹂石井教授はこれを人事権として認めている。 要するに、経営権は﹁いわば労使双方の合意から生れるものである。﹂だから、﹁経 ⑭ 営権は、⋮⋮⋮労使双方の約束によって、どうにでも決めることが出来る﹂ということになる。 次に、﹁経営者は、施設や物件を管理しなければ、経営を行うことはできない。 それは所有権によろうと占有権によろうと、経営者 の施設管理権は、経営を行ってゆくうえの前提条件である。 ⑫ 経営権とよばれるものの内容として、右の二つの内容は否定できないであろう。﹂ 説明の仕方は異るにしても、この意味では、石井 教授の見解も、これからそう遠くはないようにも思われる。ただ経営権に対する態度の差は見逃し得まい。 3 経営権理論の新展開 以上われわれは、一応権利として経営権の否定説と肯定説を見た。それは・内容的には上述の残余理論か信託理論に立つものに外ならない。そこでは、経営権は財産権の反映にすぎず、実定法上の権利としては形式
的には否定せられる外はないが、実質的には何等かの形でその要求を認め肯定せざるを得ないことを知った。経営権は法
ヘ ヘ へ
学の対象としては、実定法上の概念、解釈法学上の問題ではなく、いわば経営法ともいうべぎ法社会学上の概念或いは立
法的問題ともいうべき問題ではなかろうか。松岡教授は、経営の行われる過程を見つめつつ、経営権の内容として二つの
権利を認められたのである。しかし、その経営権は、教授によれば、 ﹁労使双方の合意﹂から生じ、 ﹁労使双方の約束﹂ によって、どのようにでもぎめられる.ものである。経営権が肯定せられるにしても、それは全く相対的なものとしてである。大河内教授も経営権を肯定しながらも、労働組合との関係から歴史的に変化し、その中味が次第に稀薄化することを
指摘し、ほぼ右と同様の見解を明らかにしておられる。しかし、経営権の中身がどのようにでもなり、また次第に稀薄化するというそのことの中に、却って新しい経営権が要
求され、成立するとは考えられないであろうか。われわれは労働法や経営法の世界から、経営の世界へ立ち帰り、これを
経営理論的に或いは組織理論的に考察しなければならない。法の形式の世界から経営の実態の世界において、経営に固有
な経営権の問題を考察しなければならない。 ① 一般的にいって、労働組合側が否定説、資本家側ないし経営者側が肯定説であることについては、上述のアメリカの経営権委員会における労使の意 見の対立が示している。しかし、理論的には、必ずしもそういうことの出来ないことを注意しておきたいQ ② 石井照久、商法−会社法、八九頁。 ③石井照久、労働法総論︵新しい.経営と労働第一巻第一冊︶八三頁以下。 ④石井照久、経営権と労働基本権︵季刊労働法第三三号︶二二頁。 ⑤ 坂口幹生、﹁経営権﹂の経済的性格︵経営と経済、第二九号第三冊︶二八頁。 ⑥ 馬場克三、個別資本と経営抜術、二三二頁以下。 ⑦松岡上掲書八三−八四頁。 ⑧石井上掲論文参照。 ⑨松岡上掲書八六頁Q ⑩ 松岡上掲書八四頁。 ⑭ 松岡上掲書八五、一三一頁。 ⑫ 松岡上掲書八六−八七頁。 ⑬ 大河内一男、経営権と労働権一労働者の経営参加について︵東洋経済新報社編、経営権団交権をめぐる法律問題︶八−一六頁参照。 経営権の経営理論序説 一三 、経営権の経営理論序説 一四
四権能としての経営権一経営権の実質の問題1
1 経営権問題の基礎一経営学的経営の成立 以上われわれは権利としての経営権、いわば経営権の法学理論を考察し
たが、それは結局残余理論か高々信託理論に属することが明らかになった。ところで、われわれの経営学でも経営権とい
う言葉を用いない訳ではないが、しかしそれは決して⊥述の如き法律⊥の形式をもった権利としてよりは、むしろ社会学
的意味での作用、作用のもととして力、地位、能力などとして実質的に考えられる。われわれは特に﹁権威﹂と﹁職能﹂
ないし﹁能力﹂とを併せ意味せしめるために権能︵または職権︶としての経営権と呼ぶことにしよう。要するに、経営権の法学理論と経営理論は問題の基礎を異にするのである。それゆえに、同じく経営権とはいっても、見るところは異るので
ある。それをただ労働権に対抗するため、その根拠を顧みず、政治的な意味合いに使用し要求するところがら、無用の混
乱が生じたともいえるであろう。両者は全く無関係ではないにしても、問題の臼日Φ諺δ昌を異にする。このことを無視
して用いられる経営権が﹁偽装された経営権﹂であり、所有権ないし財産権の別名にすぎないと否定せられるゆえんであ
る。われわれも、このような経営権を残余理論ないし信託理論として批判を加え、むしろチェンバーレンの開いた経営理
論に発展せしむべきことを指摘しておいたのであるが、この問題に帰って根本的に考えねばならない。その際、われわれ
は先ずそのような経営権問題に固有の基礎としての経営学的﹁経営﹂を特に注意せねばならない。この基礎を忘れるとぎ
には、経営権も単に形式的なものとなる外はないからである。チェンバーレンが労使関係を﹁凡そ五千万ドル︵約百八十億 円︶の資産を有する会社﹂を基礎に考察したのは これを直接意識しないにせよ このことを意味するのである。
経営学的経営につぎ論ずることはここでは許されないが、それは要するに、経営の大規模化に伴う経営構造の質的変化、
つまり所有と経営との分離 これは必ずしも非資本主義的でも反資本的でもなく、むしろ資本主義的合理性の現われで
さえある−一の進展の結果、自律性を示すに至った﹁経営﹂を意味し、経営学の客観的基礎をなさすと考えられるもので
③ ④ある。それは約四十年前、シェルドンによって見出され、バーリ・ミーンズによって実証せられ、更に資本主義革命の理
論として明確化され、今日では常識化した事実であり、また理論でもある。シェルドンは経営が資本と労働とを結合する
ものでありながら、その経営は資本からも労働からも明確に区別せられるものとなり、専門的経営者の必然性を予想した
ヘ ヘ ヘ ヘ へ のであったが、それは今日の大経営においては事実となり、所有の外化として次の如くさえ衷現せられるに至った。 ﹁それ故に、証券の全所有者または一部所有者によって代表せられるものとしての資本の目的と個々の雇傭者の組合によって代表せ られる労働の目的とは、昂る程度まで経営の目的とは独立の越階関係である。経営はいろいろな方法によってこれら二つの形態の利害 ヘ ヘ ヘ ミ ヘ ヘ モ 関係の仲介的地位を占めるから、資本と.労働とは経営行動の条件︵8p象二〇諺ohヨ雪妙鴨ユp一p9δコ︶と見なされる。換言すれば、株主 や労働組A口の利害は全体としての経営者集団にとり重要でないことはないが、それらは一般的に経営者や管理者からは、経営の目標そ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ のものとしてではなく、状況構成の部分︵冨昏。断。q罫轟鉱。コ︶と見られねばならない。﹂ このようにして、 。Pb搾巴占9ぴOHから日賦口口αq①ヨΦ⇔→冨ぴONへ、やがてq巳O白駒鋤口鋤αq①日Φ三へという動きにこのような 経営の自主化の事態を見、そこに経営権問題の基礎を見ざるを得ないのである。デノ,ーンは経営経.済学的にこのことを示さんとしているがこれを経営理論として確立したのはドラッカーである。彼の主著﹁現代の経営﹂は、見方によっては経
営権の本質を論ずるものである。 彼はいう。事業に本質的にして明確であり且つ指導的制度としての﹁経営の出現は社会史における中枢的な出来事である。﹂﹁われわ れはもはや﹃資本﹄と﹃労働﹄とはいわない。われわれは﹃経営﹄と﹃労働﹄という。﹃資本の責任﹄という言葉は﹃資本の権利﹄とと もにわれわれの用語から消滅した。その代りに、われわれは﹃経営の責任﹄と︵奇妙で余りよい言葉ではないが︶﹃経営権﹄︵宥韓。ぴq曽 穿く①ω9日彗僧鴨日Φ暮︶という言葉を聞くのである。﹂彼はこの経営に西欧自由文化の特質をさえ見、アメリカ経済の繁栄の基礎をこの 経営に見出すのである。そこで、彼はこの現代の最も重要な経済的強皮としての﹁経営﹂を取上げ、そこにおける経営権者としての経 営者の地位と役割を説き、経営の全構造と経済社会における作用を解明するのである。 経営権の経営理論序説 一五! 経営権の経営理論序説 工ハ
2 経営権の担手−専門経営者の成立 経営の自主化、自律化は当然に経営の組織化を伴い、それは経営者の専門化自
律化であり、経営権の変化であり、経営権理論発展の基礎である。大河内教授が﹁そう考えてくると、いったい経営権と
いうものの固有の中身というのは、あるのか、ないのか、という問題に当面し、けつぎよく経営権というものは、中身の
はつぎりしないものだということが現在の状況ではないかと思う﹂といわれるのは、経営権の変化、古い経営権の消滅の
方のみを見て、新しい経営権の成立を見ないものといわなげればならない。上述の如く、残余理論においては経営権の担手は所有経営者であり、信託理論においてはそれは代理または代表経営
ヘ ヘ へ者であった。所有権が経営権の源泉の一或いは一部であることは否定出来ないけれども、それが唯一の源泉ではなく、種
々の源泉を考察しなければならないところに、経営権問題の発展があり、経営理論の主張が成立すること前述の通りであ
る。ここでは経営権の担当者が専門経営者︵頸。粘①。・ぎコ百日きpσqΦヨΦ巳に外ならない。経営者は経営権者である。 現代の経営が如何に大規摸であるかはいろいろな指標で示すことが出来るが、世には私企業でも五十万の従業員をもち、三、四兆円 の売上二千億の利益をあける会社︵ジェネラル・モーターズ︶がある。わが国でも国鉄は四五万の従業員、薄野入三千五百億、正味資産 一夏四千億を越える超巨大経営である。わが国の五大私企業を年売上高︵昭和三+四年九月期を二倍する︶で見れば、八幡︵千五百億︶、日 立︵千四百億︶、富士︵千二百億︶、東芝︵千億︶、東電︵九百億︶である。これらの巨大経営はそれ自身﹄の社会をなし、政治を要求し、 もはや単なる経済的単位とのみ見ることは余りにも抽象的にすぎることとなる。ドラッカーがこれを﹁経済的、政治的、社会的制度﹂ といい、フィフナー・シャーウソドが経営組織の政治性を指摘するのも理由のないことではない。さて、これらの大量需要に応ずる大量生産を建前とする巨大事業が一体如何にして経営せられるかに疑問をもたないで
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へあろうか。概念的には、近代的な経営組織によって数千、数万人の協力が実現せられ、近代的な経営管理によって、旨㌣
塁びqΦ白Φ三ξoぼΦ。画くΦω⇔巳ω①午8⇒#9の形において事業が経営せられると考えられるものの、その真相を理解するのは必ずしも容易ではない。経営の外からはもちろん内からさえもその理解の如何に難しいかは、ドラッカーがこれを理解
させるために﹁現代の経営﹂を書かざるを得なかったことからも分るであろう。われわれはここで経営組織や経営管理の
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ問題に立入る余裕も意図もないが、とにかく組織作用や管理作用の中心であり、帰着点として経営の合理化と民主化を実
ヘ ヘ へ現しながら事業の安定と発展を図る最高最終の責任的﹁地位﹂に立つ者が経営者、それも所有者なるが故にではなく、経
営能力のある﹁経営術﹂の専門家、 ﹁経営道﹂の担手なるが故に経営者となるような経営者である。その意味で、現代は ﹁経営者時代﹂ともいえよう。英語のマネジメントが管理作用、経営作用であり、その作用を担当とする経営者であり、経営者集団であり、更には経営そのものであることも理解に難くない。とにかく、経営者は経営の中枢的存在で、経営即
ち経営者とも見られ、西欧経済の特色がマネジメントにあり、別けても高水準のアメリカ経済の秘密がマネジメントにあ
ることはドラッカーのいう通りである。欧洲諸国の資本投下や設備はアメリカと同じなのに、その生産性が三分の二にす
ぎないのは、ただそのマネジメントの相異であるというのである。アメリカ経営学が﹁経営者論﹂を中心とし、また経営
権の主張の強いのも経営者が経営権の担手たるがためである。バーナムの﹁経営者革命論﹂は有名であるが、わが国でも
種々の﹁経.営者論﹂が現われているのは周知のところである。そして、その経営者に固有の地位、役割、職能や責任、権 限の問題こそ経営権の問題に外ならない。経営者論の中心が経営権となるゆえんである。 さて、それではそのような﹁経営権の源泉﹂はどこに認められるか。チ.一ンバーレンはこれを詳細に研究した後、 ﹁指ゆ
導的経営﹂︵α留。口くΦ§8σq①巨Φ耳︶ という職能に認めているが、表現はともかく、何入もこれを承認せざるを得ないであろう。経営者は本来的に経営の意志を決定し、指揮し、指導し、各人の要求と全体の目標とを調整し、常に全体性を実現す
る﹁職能﹂を果さねばならないからである。この意味で、経営者は経営組織において、そして組織を通しての最高最終の
デシジョン・メーカーであり、ディレクターであり、りーダーであり、コオーディネーターであるといえよう。わが国の
取締役もこのようなディレクターつまり指揮者を意味すべく、文字からする消極的な取締役や取締られ役であってはなら
経営権の経営理論序説 − 一七経営権の経営理論序説 ∼麗 ないのである。
経営者がディレクターであり、リーダーであるためには、その前にデシジョン・メーカーでなければならない。経営者
のこの役割はデシジョン・メーキング、マネジメント・デシジョン。プロセス、ポリシー・メーキングなどとして、そ
の研究は現代経営学の一特色をさえなしている。今日の大規模経営においては投資も長期計画たらざるを得ず、デシジョ
ン・メーキングの重要性と困難性が増すと共にデシジョン・メーカーとしての役割が経営者の中心職能となりつ.っある。なお、経営者が、たとえ形式的には株主総会において選任されるにしても、単に所有者に対して責任を負だけには止らな
い。﹁事業﹂の経営者として、労働者に対しては固より消費者に対しても責任を負い、いわゆる社会の公器として﹁経営
責任﹂を負うところに特色がある。要するに、経営権の内容は経営意志の決定の権能であり、その主体たるものが経営者
である。真の経営権の問題はこのような経営者の出現を前提する。.それが現実にどめような形態をとるかは経営権の範囲と構造に関連し、別に考察されねばならない。その際、経営者も反経営的でありうることを見落してはならない。
3 経営権の源泉一権・能一致の要求経営権の源泉は上述の如く経営そのものであり、その表現としての経営者の
﹁地位﹂一8白日帥巳匪8qo暁震爵。ユ什図上と経営者の﹁職能﹂1津琴臨。嵩爵Φoqo帖ゆ月潟げoH騨団iとである。
経営組織は見方によっていろいろに分析されるが、われわれは ①仕事の組織、責任の組織 ②権限の組織、意志決定
の組織、伝達の組織 ㈲人間の組織、能力の組織、影響力の組織、の三段に分析したい。ω②はフォーマル・オーガニゼ
ーション、スタティック・オーガニゼーションの面であり、③はインフォーマル、ダイナミックの方面といえる。いま、この経営組織における経営権の源泉を見るに、それは経営者たるの﹁地位﹂から来る。前に述べた経営者の﹁職能﹂ー
ディレクター、デシジョンメーカー、リーダーiもこの﹁地位﹂に固有のものである。この面から見れば、経営組織は、
8日ヨ。昌侮跨Φoq亀。暮げ。昌け団や鋤信チ。ユ寅二蝉三ω日に立つかに見える。しかしそのような伝統的組織埋論の 生日匡ロ①目。α色は今日では妥当せず、入間組織の面が重視せられざるを得なくなっていること上述の如くである。思うに、﹁地位﹂
も﹁職能﹂も一定の個性と能力や影響力をもつ人格者たる﹁入間﹂によって占められ、遂行せられるのである。このゆえ
に、今日では経営組織の問題は上述のω図の面と共に、或いはそれ以上に⑧の面に重点がおかれるに至った。それが伝統
理論に対する反逆であり、革命を意味するのである。 これまで、経営権は経営者たる﹁地位﹂に固有のもの︵ぼの§魯邑き跨。八面︶としてユαq簿88薬日⇔昌αと考えられるの が普通であった。しかし今日では﹁職能﹂に関らしめ、更には﹁能力﹂に係らしめ、 ℃o毒巽霞。碧霧岡畠↓oω①〇二器汗Φ ロ。日ヨ餌旨80ho口Φ.ω<巴ρ霧oHαqoo﹃と考えられるに至った。権威の転換、組織観の革命である。それがバーナードの権威受容説︵鴛8葺p。⇒8子8曙︶または上部委譲説︵窪臣。葺博も≦葭貸密。曼︶に外ならない。 この説によれば、経営権の有効度
は部下がこれをどの程度喜んで受容するかの度合によって測定される。だから、ある意味では、権威や権限は部下から上
部へ委譲されるともいえるのである。このような見解によって組織の民主化、経営の民主化が促進されるが、それは同時
に経営権の変容でなければならない。 このようにして、経営権は一方では地位に関する権威、他方では能力に関する権威として両極.的に対立し、その間に種々の中間形態が成立する。いま、ブィブナi・シャーウッドにより前老を①臼げ○葺ざ後者を℃o毒2と呼ぶならば、真の
経営権が窪停。旨団も。≦28昌島旨ロq8つまり権・能一致でなければならないことは明らかであろう。 もちろん、これは
全く理論的に考えたものではあるが、経営権の理念型であるだけに、現実の経営権の構造や形態の理解の一つの規準とし
て用いることも出来るであろう。 ① 0ぽpヨぴΦユ巴P日ぽ①Oロ一〇POず9一Φ弓鵬Φけ。︼≦ロP卯αqΦヨΦ5什Oo二窪。一冒邦訳、三六百ハ。 ②拙稿、経営学と共同決定の経営形態︵小島昌太郎博士古稀祝賀記念論文集牧録︶参照。 経営権の経営理論序説 一九r .経 c権の経営理論序説 二〇 ③QQずΦ崔opoやユ梓こや.冨h。oづOやト。。。⑪● ④しd①二ρ︾.﹀曾⇔コ瓢竃Φ響ρ○‘ρ植同輩ζo匹①旨O。愚。冨臨。ロp巳℃ユく馨Φ勺H8Φ詳ざ一㊤認.︵北島氏邦訳︶ ⑤︼W卑︼p↓㌻Φ鱒090自色﹃︸・Oo嘗欝︼δ峠開Φ<oご二。§お課.︵桜井氏邦訳γ自。こ℃。芝興雪囲ぎ。昇勺﹁8Φ目畠”一芸P︵加藤氏他邦訳︶ ⑥ 言。自ρoや。旨こで曜曾幽なお、彼の﹁所有と経営の分離の度合﹂を示す図︵p零︶は有名で、上述の三つの経営権理論も分離の三段階に対応す るものである。 . ⑦∪舘p旨こ竃き躍Φユ巴国9口。日冒。。、お繰.O.卜。㊤顕 ⑧U毎6百び勺幽団こ↓冨勺茜。舘80hζ雪餌αqΦ日①三−お頴.やド ⑨ 大河内一男 上掲論文 ﹁六頁。 ⑩.∪さ。ぎぴ↓冨Z①毛Qり。Ω①2堕一㊤お噂7ω。。■ ⑪ 零一跨器﹁蝉巳ω冨同≦oogoPo一什こ戸卜。㎝. ⑫U毎。冨ひ↓冨育碧誠80h要言品①日Φ艮、唱.ω野 ⑱O訂ヨぴΦ二鉱pOo密。欽くΦ切帥贔p3言ひq、や奏N. ⑭ この点については、萬成博、社会階級と社会移動−現代日本の大企業の指導者1︵関西学院大学社会学部紀要創刊号︶が参考となる。 ⑮ 例えば、ドラッカーは ︵同︶四〇鉱ユ寓①ω磐p貯忽ω、︵鱒︶⊆Φ島ω一〇昌pロ三碧一ω、︵。。︶﹁巴9。二〇コωpコ巴︽ω冨をあげ、アレンは ︵一︶象≦忽80h冨σoひ ︵悼︶。・oロ零Φoh磐90ユ蔓−︵ω︶器冨二〇口ω甑陽をあげている。その他多少の差はあれ、殆んど同様である。 ⑯℃窪旨興露畠ωげ巽≦oogoや皇叶こや経.拙稿、経営組織概念と組織の論理、彦根論叢、五三号参照。 ⑰零臨含興p。コ創ωぽ震毛oo鼻oO.島肯二〇.誤︷堕バーナードは主観的と客観的とに分ける。o唱.o誉埴や崔ら。. ⑯ しσ鍵コ錠鼻O.一こ↓ず①う白。訟。易oh葭①国図Φ2江くρや一①ω巨 上掲拙稿参照。 ⑲バーナード説特に人間関係論に対する批判については、剛鵠瞭コΦ﹃帥孟ω﹃Φ円≦oo皇。サ9什こや刈。。い ⑳℃津診Φ﹃雪αしQず興≦oogoウ。帥什こ戸刈O.いうまでもなく、pρ80答ざOo≦①ツぎ自口①コ。①などについては社会学においては種々な見解があり 産業社会学や経営組織論においても別に統一がある訳ではない。われわれはこれらについては別に研究せねばならないと思う。Up蕊ρ即Oこ↓密 岡琶98Φ9巴ωoh↓8ζ雪蝉ゆqΦBΦ暮冒一霧一、唱.b。。。犀い参照。
五経営権の理念と現実
1 地位、経営権、所有権、労働権 経営学や経営組織論においては上述のように経営権を経営者の経営維持発展の権能一
権限、能力iと解するのを常とする。然るに、村本教授はこの経営権を更に一歩進めて﹁独立権﹂として認むべ
きことを最も明瞭に説く点において特色を示している。教授は次のように結論される。 ﹁経営が如何なる支配に対しても自主的であらねばならないとするその支配は、資本とともに労働のそれをも意味し、資本と労働と には、それぞれ経営が顧慮しなければならない、平均利潤の保証、労働者の生活とその向上の保証が存在し、この為に、経営に対し、 所有権的要求や、勢働権的行動に出ることの権刹が認められるが、このことは経営すること自体ではなく、又、かかる要求の調節が経 営でもなく、そうした要求をはらむ生産諸要素の均衡化せられた機能の組織体を通じて、重大なる人生目的を達成するところに、経営 を主体化し、経営権を所有権、労働権の上に認める意義があるのであって、かかる経営の独立主体性の確保あって、所有権や労働権は 確保せられるとするものであって、若しこの経営権の確立なき時は所有権が労働権により或は反対に、労働権が所有権により侵害を受 けることなきを保し難いのである。﹂ なるほど、 ﹁現代経営﹂の成立と発展の跡を顧み、またその経営構造を見れば、そこに経営権ともいうべき経営の基本
的職権または権能の存在は否定せられず、これを現実の経営関係を通して具体化し確立することが要求される。労働法学
においてさえも、そして経営権という言葉に賛成しかねる入でも、経営が現実に資本と労働とを結合して一定の社会的職
能を営む姿を見るとき、そこに見られる﹁所有権とか占有権とか、営業権とか、人格権とかを綜合したものを経営権と﹂してこれを認めざるを得ないのである。この点からしても、教授の主張は論旨頗る明快、その意味はこれを理解すること
が出来る。しかしながら、経営が経営権に基づいて行われ、その確立を必要とするということと、経営権を経営者の排他
的権利として法制化すべしということとは全く別の問題である。われわれは経営権の事実は承認せざるを得ないけれど
も、所有権とも労働権とも全く独立の権利として経営権を主張すべきかどうか、またそれが法学的に可能であるかどうか
はなお深き研究を要すべく、その断定を跨躇せざるを得ない。われわれは﹁経営﹂の成立の事実を認め、この経営の安定と 発展の基礎として所有権と労働権との経営権における調和と協力の不可欠の事実とその確立を説かんとするのみである。2 経営権と経営責任 経営権に対する労働側の反対については前に述べた。多くの労働協約に見られる﹁経営権の尊
経営権の経営理論序説 一=経営権の経営理論序説 二二 重L・は果して労働権の制限や侵害であろうか。それは残余理論に対しては肯定せらるべきも、経営理論に対して、はむしろ 否定せらるべきであろう。
いうまでもなく、経営権の反面は経営責任である。経営学には責任権限一致の原理︵o言。旦①。隔爵①。9琴一α窪80h陰欝。。〒 ω建長叫巳磐3。誌団︶がある。これは当然経営権にも妥当する。そうとすれば、経営権の承認は経営責任の承認であり、経
営者批判の規準となる。経営者責任とか、経営の公器性は経営権の承認を前提とする。経営権と経営責任とは労働組合そ
の他の経営関係者に経営が現実にその責任を果しているかどうかについての経営批判の武器を与えるという意味をもつ。この意味からはそれは経営者の自覚を促進する。わが国の経営はなお前経営的段階のものが多く、経営者も所有経営者で
真に経営者になり切れないものが多く、労働組合を邪魔視するものが多い。経営権問題を契機に、このような経営者なら
ぬ経営者を経営者たらしめることは挑戦者としての労働組合の権利であり、義務ですらあるともいえよう。経営権の作用と範囲は、これまで述べたところがら明らかなように、労働権に制約せられ団体交渉を通してきまってく
る。その意味で経営権はあるものというよりも作られるものといわねばならない。労働組合のカが強まれば経営権も影響
せられざるを得ない。そめ力は暴力ではなく知力であり、臼鋤建晦Φ白Φ緊勉巳詳による経営権批判の力でなければならな い。われわれはそこに﹁ガラス張りの経営﹂の可能性を見たい。この意味で、労働組合はその意識すると否とに拘らず、経営の創造的契機である。労働組合がこれを自覚するのみならず、経営側も組合の強化が経営権の強化、経営の向上を促
進するものであることを忘れてはならない。労使協力の諸制度がこのことを示している。3 経営権と経営参加 労使協力制度の一としての経営参加制度もその目的、態様、形態、方法などによってさまざま
であり、また時代により国によって異り、一概に説き得ない。ここでこれを問題とする余白はないが、経営権との関連に
おいてその可能性を指摘しておきたい。労働の経営参加についてはその理由は異るにせよ、経営者側からも労働組合からも反対がある。経営者側の反対に理由
のないことはこれまで述べた通りである。労働側の反対についてはチェンバーレンがその理由のないことを説明したが、われわれもこれを承認しなければならない。組合の目的が専ら政治的目的であるとする組合理論は別として、普通の組合
を問題とするとぎは反対の理由は認め難い。第一に、経営に参加することは必ずしも経営権に参加し、経営責任を分担す.ることではない。ただ経営の意志決定過程に参与し、これに影響力を与えるもので、組合目的に沿いこそすれ、反するも
のではあり得ない。第二は、経営に参加することは必ずしも御用組合化することではない。わが国の組合は企業組合で、 それでなくても御用組合化しがちであるのに経営参加はこれに拍車するというのである。なるほど︸応その通りである。しかし、それであればこそ却って労働組合は自己を強化し、労働権の伸張によって、参加するも経営の捕虜とならないだ
けの能力と自信をもつべきである。そのときこそ労働組合は真に経営の創造的要素となり得るであろう。要するに、経営
権は経営において成立つ。その担当者が経営者であるにしても、労働者の協力によってのみ、形成せられ確立せられる。 ① 村本福松、経営権論、商大論集第一号二七頁、なお、取締役と経営権︵高瀬編、新会社法と会社経営︶参照。 ②石井照久、労働法総論、八四頁。 ③ U四くす、oや。詳二賢悼OQP ④O冨ヨσΦユ巴pOo濠。餓くΦじd母撃ぎぎ堕ΨHωOh● ⑤ 大河内一男、上掲論文 二七頁以下参照。この点において、昨年の夏はじめて試みられた労組幹部に対する経営セミナーの開催は注目に値するもの である。 六 結 口以上われわれは経営権の経営学的意味を問題としたが、われわれには経営権は権利として形式的な.ものとしてではな
経営権の経営理論序説 二三経営権の経営理論序説 二四