千の風と魂のこと - エミリ・ブロンテの文学と宇宙的理念 -
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(2) 文学・芸術・文化. 2 0巻 2号. 2 0 0 9 .3. うだが、作者不詳と言われているこの詩にエミリ・フロンテの表現がどれほ ど近いのか、あるいは近くないのか。エミリのすべての詩と唯一の小説『嵐 、 1 4 9番 、 1 5 2番に、「嵐が丘』では第 が丘」で比較すると、詩では 148番 33章のヒースクリフ (Heathc 1i ff)が宇宙的理念、について語るところに、類. 似した表現を見ることができるようである。 しかし、どのように類似しているかを説明する前に、まず「干の風になっ て」の元の英語詩から整理しておきたい。この詩の起源については諸説が あるようだが、もっとも有力視されているのは、メアリ・フライ (Mary Frye) というアメリカ人女性がドイツ系ユダヤ人の友人の母親の死を慰め. るために、 1932年に書いたという説である O その他にも、英語圏作家の作 品だという説、 1 9世紀末にアメリカに移住したイギリス人男性の作とする 説、メアリアン・ラインハート (MarianReinhardt ) というアメリカ人女 性による説、米国先住民族の伝承とする説、アボリジニ、アイヌ、ケル卜人 説などなど。結局は、作者不詳ということに落ち着くようである。 しかも、アメリカ人コラムニス卜のアビゲイル・ヴァン・ビュレン (Abigail VanBuren) は、コラム「ディア・アビィ J“ (DearAbbyづ で こ れ ら の. 諸説を紹介したが、同時にこの詩の表現についても、微妙に違う幾つもの ヴァージョンがあることを明らかにした。主なものを挙げると、以下のよう である。. ( A ) メアリ・フライによるオリジナル・ヴァージョンと言われているもの. Don o ts t a n da tmygraveandweep, 1amn o tt h e r e,1don o ts l e e p 1ami nathousandwindst h a tblow, 1amt h es o f t l yf a l l i n gsnow 1amt h eg e n t l eshowerso fr a i n, 1amt h ef i e l d so fr i p e n i n gg r a i n .. 8 8.
(3) 干の風と魂のこと. 清水. 1ami nt h emorningh u s h . 1ami nt h eg r a c e f u lrush Ofb e a u t i f u lb i r d si nc i r c l i n gf l i g h t . 1amt h es t a r s h i n eo ft h en i g h t 1ami nt h ef l o w e r st h a tb l o o m . 1ami naq u i e troom. 1ami nt h eb i r d st h a ts i n g . 1ami neachl o v e l yt h i n g . Don o ts t a n da tmygraveandc r y . 1amnot h e r e .1donotd i e. ( B ) メアリ・フライの死亡記事で、「タイムズ』に掲載されたもの. Don o ts t a n da tmygraveandweep 1amn o tt h e r e ;1don o ts l e e p . 1amathousandwindst h a tb l o w . 1amt h ediamondg l i n t sonsnow. r a i n . 1amt h esunonr i p e n巴dg 1amt h eg e n t l eautumnr a i n . Whenyouawakeni nt h emorning'shush 1amt h es w i f tu p l i f t i n gr u s h ofq u i e tb i r d si nc i r c l i n gf l i g h t. . 1amt h es o f ts t a r l i g h ta tnight Don o ts t a n da tmygraveandc r y . 1amn o tt h e r e ;1d i dnotd i e. ( c ) 新井満が「干の風になって」の原詩として翻訳に採用したもの. Don o ts t a n da tmygraveandwe巴p ;. -89.
(4) 文学・芸術・文化. 2 0巻 2号. 2 0 0 9 .3. 1amn o tt h e r e,1donots l e e p. 1amathousandwindst h a tblow 1amt h ediamondg l i n t sonsnow. u n l i g h tonr i p e n e dg r a i n 1amt h巴 s 1amt h eg e n t l eautumn'sr a i n .. Whenyouawakeni nt h emorning'shush, 1amt h es w i f tu p l i f t i n grush. . Ofq u i e tb i r d si nc i r c l e df l i g ht 1amt h es o f ts t a r st h a ts h i n ea tn i g h t. Don o ts t a n da tmygraveandc r y ; i dn o td i e . 1amn o tt h e r e,1d. それぞれのヴァージョンで句読点のっけ方や言葉使いに少々の違いがある A )のヴァージョンの最終行‘ 1donotd i e . 'と 、 ( B ) ( C )の が、注目すべきは、 (. ヴァージョンの最終行‘ 1didnotd i e . 'の違いであろう。これらには、「人の 生と死の捉えノヴ」を表わす点で大きな差があるからである。 因みに、新井満は著書「干の風になって』の中で、次のように解釈して、 1didnod i e . 'のヴァージョンの方を採用していることを明らかにしている。 ‘. 彼は言う、. r T人聞が死ぬ』、「死ぬとまず風になる』、「次に様々なものに生. まれ変わる」とこの詩の作者は考えている」と。 2 それゆえ彼は、この詩の メッセージとして、「干の風になるとは、大地や地球や宇宙と一体化するこ と」、「人聞は“いのちの大きな循環"の中にくみこまれること」、すなわち 「“いのちは永遠に不滅"であること」、を引き出している。つまり新井満は、 「私はたしかに死にました。けれど人間以外のいのちに生まれ変わって、今. 9 0.
(5) 千の風と魂のこと. 清水. もしっかりと生きているんです。だから心配しないでくださ L、。私のお墓の 前でそんなに嘆き悲しまないでくださ Lリと解釈したと言って、 3 くし、ったん 死んだけれど、実は死んだのではない〉のヴァージョンの方を採択して翻訳 しているのである。それで彼はこの詩を、「死と再生の詩」と意味づけるの である O この解釈と比べると、‘ Idonotd i e . 'のヴァージョンの万には、くわたしは 死んでなんかいなし、。わたしという人聞は風であり、雪であり、光であり、 雨であり、鳥や星でもあるのだから〉という、人聞を不死の存在とするメッ セージが明らかである O つまり、一時的にせよ生命の終結というものを否定 し、存在の継続性・不滅性をより明確にして、自然の万物と融合して存在す るくし、のち〉の在りょうを強調するのである。 結局、「千の風になって」の原詩で重点的に問題とすべきは、〈人間はし、っ たん死んでから自然の中に再生すると考えるのか〉、あるいはく人間は森羅 万象であるところの継続する永遠のいのちを生きると考えるのか〉、という ことであろうと思う O では、エミリ・ブロンテの場合はどうであろうか。ひとまず、この二点か. 4 8番の詩では、最後の二つの連は次のようになっていて、い ら見てみる。 1 のちの継続性が明らかに提示されている。. Thust r u l ywhent h a tb r e a s ti sc o l d Thyp r i s o n e ds o u ls h a l lr i s e, Thedungeonminglewitht h emould Thec a p t i v ewitht h es k i e s .. h i n es h a l lh o l d, N a t u r e ' sdeepbeing,t Hers p i r i ta l lthys p i r i tf o l d, Herb r e a t habsorbthys i g h s,. 9 1.
(6) 文学・芸術・文化. 2 0巻 2号. 2 0 0 9 .3. M o r t a l !thoughsoonl i f e ' st a l巴 i st o l d, Whooncel i v e s,neverd i e s !. (No .1 4 8,s t s .6 , 7 ). このようにしてまさしくその 1 旬カキ令たくなるとき おまえの囚われの魂はよみがえり その牢獄である肉体は土くれと 囚われ人である人間は空と. 自然の深い存在を 自然の魂を. 溶け合うだろう。. おまえの存在は掴むだろう. おまえの魂が抱きしめるだろう. 自然の息吹がおまえの吐息を吸い取るだろう 人間よ! まもなく生の終わりが告げられようとも ひとたび生きたおまえは決して死ぬことはないのだ!. 第. ( 14 8番 第 6・7連). 6連 で は 、 人 間 は 死 ぬ と き 、 そ の 魂 を 解 放 し て 大 地 や 空 と 融 合 す る と 言 っ. ている。そして第. 7連 で は 、 そ の 魂 の 息 吹 が 自 然 の 息 吹 と 一 つ に な る の だ か. ら、いったん生きた人間は死ぬことはなく、宇宙的循環の中で不滅の存在に なるのだと表わしている O つまりこの詩は、「干の風になって」に照らして. i e . 'のヴァージョンのくし、のちの継続性・不滅性〉の意 みれば、‘ Idonotd 味を強めていると言えるのである。 次に 1 4 9番 の 詩 で あ る が 、 最 初 の 4行 と 最 後 の 6行 は 、 以 下 の よ う に 、 母 なる大地に語りかけて死後の永遠不滅のいのちを夢想するものである。. 1s e earoundmetombstonesgrey. 汀. a Ed Z14lFIL. 氾. d ya ae w 仕出 a ヨ a rpL 山. &y. SU woe hhu. 昭白山. m v. mu. 出 dm Id 児 一山川町 t4 tie l1l. 陀. 1 h1u N K 沼. t tロμyL QU. 9 2.
(7) 干の風と魂のこと. 清水. Wewouldn o tl e a v courn a t i v chomc h eTomb Foranyworldbeyondt No-ratheronthyk i n d l yb r e a s t L c tu sbel a i di nl a s t i n gr e s t ; Orwakenbutt os h a r cwitht h e e ( N o . 1 4 9 ). A mutuali m m o r t a l i t y .. わたしの周りには灰色の幕石が 遠くまで影を延ばしているのが見える O わたしの足が踏んでいる芝上の下には 物言わぬ死者がさびしく横たわっている。. 墓の向こうにどのような世界があろうとも わたしたちはこの故郷の家から離れはしない。 いや. むしろあなたの優しいその胸で. 。 、 永遠の安らぎに浸らせてほし L それとも. 生きであなたと ( 14 9番). 互いの不滅を分かち合いたいのだ。. この詩では、死は全面否定されていなし、。詩の語り手は、死んで大地と一体 化する不滅の存在となるか、あるいは大地のとでその息吹を共有して永遠の いのちを得ることを、願っている o I 干の風になって」のヴァージョンで言 えば、‘ 1didnotd i e . 'の意味合いが強いと言えるであろう。 次の. 1 5 2番 で は 、 さ ら に 即 物 的 表 現 が な さ れ て い る と こ ろ に 、 「 千 の 風 に. なって」と類似したイメーシを結ぶことができそうである O. 9 3.
(8) 文学・芸術・文化. 2 0巻 2号. 2 0 0 9 .3. 1don o tweep,1wouldn o tweep; OurMotherneedsnott e a r s ; t i sv a i nt okeep Dryt h i n ee y e st o o,' Thisc a u s e l e s sg r i e ff o ry e a r s. Whatthoughherbrowbechangedandc o l d, Hersweete y e sc l o s e df o re v e r ? Whatthought h estone-thedarksomemould Ourmortalb o d i e ss e v e r ?. Remembers t i l ls h ei sn o tdead Shes e e sus,G e r a l d,now, L a i dwhereh e ra n g e ls p i r i tf l e d ' M i dheathandf r o z e nsnow. 僕は泣いてなんかいない. (~o.. 泣いたりするもんか. 僕たちの母さまには. 涙なんていらないんだ。. 君も臼を拭くといい. いつまでもこの理由なき悲しみを. 抱えていても無駄なのだから。. 母さまの顔が変わり冷たくなっても あの優しい目が永久に閉じられでも お墓が. 何のことがあろうか?. 黒々とした墓土が僕たちのいのちある肉体を. 隔てていても. 何のことがあろうか?. 母さまは今も死んではいないことを思い起こしてごらん ジェラルド. 今でも母さまは僕たちを見ていらっしゃるんだよ. 9 4. 1 5 2,s t s .1 ,2 , 4 ).
(9) 干の風と魂のこと. 清水. ヒースの中 凍てついた雪の中で 天使のような魂が飛び立ったところに横たわっていらして。 ( 15 2番 第 1・2・4連). ‘ 1donoweep'という言葉に始まり、墓の中の死者の不死を表現していると. ころは、いかにも「干の風になって」ふうのイメージと繋がる。さらに、「干 の風になって j の原詩のディスコースは、死んだ者から生きている者に語り かけたものであるから、この詩で生者から死者に語りかけているところのス タイルは同じではないが、お墓の中で眠る死者の死を前提とした上で、死者 の肉体から解放された魂の永遠存在を示しているところが、〈死んだけれど、 実は死んではいない〉という. ‘ 1didnotd i e . 'のヴァージョンと類似してい. る 。 そして、『嵐が丘』の次の表現を見ると、さらに「干の風になって」に近 似したものを、私たちは確信できるのである。キャサリン CCatherine) の 死後、彼女の魂との合ーを求めるヒースクリフが、ネリー CNelly) に言う 言葉である O. f o rwhati snotconnectedwithhert ome? andwhatd o e snotr e c a l l つ 1c annotl o o kdownt ot h i sf l o o r,butherf e a t u r e sa r eshapedont h e her. f !a g s !1 neverycloud,i neveryt r e e f i l l i n gt h ea i ra tnight,andcaught. byg l i m p s e si neveryo b j e c t,byday1amsurroundedwithh e ri m a g e ! The e a t u r e smockmewith mosto r d i n a r yf a c e so fmen,andwomen-myownf ar e s e m b l a n c e . Thee n t i r eworldi sad r e a d f u lc o l l e c t i o no fmemorandat h a t h a t1havel o s th e r ! s h ed i de x i s t,andt CWutheringH e i g h t s,Ch.3 3 ) 4. 「……俺にとって、彼女に繋がらないものが何か一つでもあるだろうかつ. 9 5.
(10) 文学・芸術・文化. 2 0巻 2号. 2 0 0 9 .3. 彼女を思い出させないものが何かあるか? この床を見下ろせば必ず、彼交の顔 が床石の上に現れてくる! どの雲にも、どの樹にも. 夜には大気をいっぱ. いに満たして、あらゆるものの中に彼女の姿が見えている、俺は一日中彼女の姿 に取り巻かれて生きているんだ! 男や女の平凡な顔も、また俺自身の顔までも が、どこか彼女に似ていて、俺をあざ笑っている。全世界は今や、彼女が生きて いたことを、そして俺が彼女を失ってしまったことを、思い出させるおぞましい. r c 嵐が丘』第 3 3章). J 集合物になってしまっている !. この言葉も生きている者の視点で語られてはいるが、ここでは、死んだ者が 雲になり、樹々になり、空になり、大気の息吹になり、宇宙のいのちある万 物と一体となって、永遠のいのちを得ているさまが表わされている。まさし くここには、「千の風になって J の類似表現を見ることができるのである。 しかし、エミリはヒースクリフを通してそのようにキャサリンの不滅のいの ちを表象させる一方で、最後のセンテンスでは彼女の死の現前性を嘆かせ てもいるので¥「千の風になって Jで言うと、ここは死と再生を詩う. ‘ 1d i d. n o td i e . 'のヴァージョンの方の意味を濃厚に見ることができる箇所である。 このように、「干の風になって」の原詩との類似表現に限定して考えると、 「千の風になって」とエミリの文学には共通して、魂は生き続けるのであれ いったん死んでから自然の中に再生するのであれ、人間のいのちと魂の不滅 性・継続性が表わされている点で、ひとまず、二つは中心で共通していると. 4 8番の詩で書いている 見ることができるようである。しかし、エミリが 1 「ひとたび生きた人間は決して死ぬことはない」という言葉は、実のところ、 「千の風になって」の一つのヴァージョンに該当するという以上に、エミリ 独自の存在論ないしは宇宙論に繋がる重大な意味があるのだといわざるを得 ないのである。「千の風になって」が自然、のサイクルの中で魂の生き続ける ことを優しく見ているのとは違し¥エミリは意思的に宇宙の神性と合一する 永遠不滅のいのちと魂の実在を見ょうとする、主体としての人間の生・死を. 96.
(11) 干の風と魂のこと. 清水. 考えていることが明らかであるからだ。以下で検証するように、詩と『嵐が 丘』の細部の言説は、そのことを明示している。. H エミリ・ブロンテの詩に見られる《宇宙の力と生の原理》につ いて エミリ・ブロンテの多くの詩が提示するのは、キリスト教の制度的神の力 を超越して、しかし神的な力として偏在するく宇宙の力〉と、その力ととも に生きている人間の〈生の原理〉である。それが特に明瞭で分かりやすい詩 は 、 4 4番 、 1 4 7番 、 1 4 8番 、 1 4 9番 、 1 7 4番 、 1 8 1番 、 1 8 3番 、 1 8 8番 、 1 9 1番 、 「番外」の 1 0篇だと思う。それらは、大地や自然や宇宙に深く行き渡ってい る神的なものの力の中に人間の生命の源泉を見、そのような宇宙に撮る神的 な力の中に人間の魂を解放して真に自由な存在となり、人聞が宇宙の力すな わち神的なものの力を内在化して不滅の存在となることを、〈生の原理〉と して提示するものである。. まず、エミリの文学全体に通底するものとして看過できない 1 9 1番の詩 で¥エミリ的宇宙観・存在論を確認しておきたい。. oGodwithinmybr巴ast Almightye v e r p r e s e n tD e i t y L i f e,t h a ti nmeh a s tr e s t As1UndyingL i f e,havepoweri nThee. ThoughEarthandmoonweregone Andsunsandu n i v e r s e sc e a s e dt obe Andthouwertl e f ta l o n e EveryE x i s t e n c ewoulde x i s ti nt h e e. 9 7.
(12) 文学・芸術・文化. 2 0巻 2号. 2 0 0 9 .3. Therei sn o troomf o rDeath Noratomt h a th i smightc o u l dr e n d e rv o i d S i n c ethoua r tBeingandBreath Andwhatthoua r tmayneverbed e s t r o y e d .. おお 全能の. ( N o .1 9 1,s t s .2 , 6 ,7 ). わたしの胸のうちの神 とこしえにおわします神. 〈不死のいのち〉であるわたしがあなたのうちでその力を得るとき くし、のち〉であるあなたはわたしのうちで安らき、給う. 大地と月が消えでなくなり また太陽と宇宙がなくなってしまっても あなただけが残っていれば くあらゆる存在〉はあなたのなかに存在するだろう. そこには死の入る余地はなく 死の力が無と成し得る原子もない あなたはく実在〉でありく息吹〉であるので あなたそのものが破壊されることは決してないからだ。(19 1番 第 2・6・7連). エ ミ リ は 、 第 2連 や 第 7連にあるように、〈宇宙の神性〉とくわたし〉がそ れぞれにく不滅の実体〉であるようなつながりを共生することをこそ、人間 に魂の永遠的解放をもたらすものであり、相互に不滅性を分かち合うものだ と示している O 人 聞 が 大 地 の 息 吹 と 合 ー し て 永 遠 の い の ち を 生 き る と す る 「干の風になって」のような視点は、エミリにあっては、第一に、このよう に死自体が明瞭に否定され、人聞はそもそも不死のいのちをもっ存在だとす る考えから生成されているのである O そして第二には、宇宙に偏在し人間の. 9 8-.
(13) 干の風と魂のこと. 清水. いのちのうちにある神的なものを人が主体存在として内在化して初めて、人 は大地の息吹である神性としての永遠のいのちを得るのだと、この詩は言っ ている。これが、「千の風になって」にはない、エミリ独自の見方である。. 4 8番の詩では、〈宇宙の力〉とく生の原理〉として表 これは、先に見た 1 わされており、次のように、同じようにいのちの永遠化とつないで考えられ ているものである。. Yes,1c o u l dsweart h a tg l o r i o u swind Hassweptt h eworlda s i d e, Hasdashedi t smemoryfromthymind L i k ef o a m b e l l sfromt h et i d e. Andthoua r tnowas p i r i tpouring Thyp r e s e n c ei n t oa l l 巴s t 'sr o a r i n g Thee s s e n c eo ft h eTemp. 'sf a l l Ando ft h eTempest. Au n i v e r s a li n f l u e n c e FromThineowni n f l u e n c ef r e e ; n t e n s e, Ap r i n c i p l eo fl i f e,i L o s tt om o r t a l i t y .. そうだ. ( N o .1 4 8,s t s .3 ,4 ,5 ). あの神々しい風が俗世界を. 吹き払ったのだとわたしには断言できる 海潮から泡沫を消し去るように おまえの心から俗世界の記憶を抹消したのだと. 99-.
(14) 文学・芸術・文化. 2 0巻 2号. 2 0 0 9 .3. そうしておまえは今こそあらゆるものに おまえの存在を注ぎ込む魂そのものとなるのだ 嵐の怒号の精髄となり また嵐の襲来の精髄となるのだ. おまえはおまえ自身の力から解き放たれた 宇宙の力. 人間には失われた 強烈な生の原理なのだ。. ( 14 8番 第 3・4・5連). この詩においてエミリは、わたしたち人聞は宇宙に満ちる神的な力によって 魂の力を獲得するとき、不滅の生を生きるのであると言っている O 人 間 の 魂 と存在は、宇宙の力と合ーして永遠性を意昧づけられるのだと示している。 そしてそれを、「生の原理」と見ているのである。 このような書き方が、同じように 1 4 9番、 1 5 2番の詩でもなされている。 まず 1 4 9番 か ら 見 る と 、 先 に 引 用 し た と こ ろ と は 別 の 連 で は 、 次 の よ う に 永 遠存在の意味が表現されている。. L e tmerememberh a l ft h ewoe e e nandheardandf e l tbelow ] ' v巴 s , fs opureandb l e s t, AndHeaveni t s e l. Couldneverg i v emys p i r i tr e s t. Shet u r n sfromHeavenac a r e l e s seye Ando n l ymournst h a twemustd i e !. わたしたちがこの世でこれまで見. 聞き. 1 0 0. C N o,1 4 9 ). 感じた.
(15) 干の風と魂のこと. 清水. 苦しみを半分でも思い出すといい いとも清らかで祝福されたく天〉そのものといえども わたしの魂に安らぎを与えることができないことはたしかだ。. 大地はく天〉から無頓着に日をそらせて た だ わ た し た ち 人 聞 が 死 ぬ 運 命 で あ る こ と を 嘆 く だ け だ ( 149番). 死と不滅性を詩うエミリの詩のディスコースには、このようにく天〉とし て表わされている神の存在が介入されているが、それは《死. 天の神性. 大地の不滅性》という一連のつながりの中で、大地の不滅性に神的イ メージを与えるレトリックになっていると分かるのである O エミリは、死す べき人聞が〈宇宙の神的な力〉と合一しく生の原理〉を生きるとき、人聞は 死と生とにかかわらず、この大地の息吹の中に解放されて永遠存在となるの だと、それがいのちをもったということだと、表わしているのである。 そして 152番では、死者の魂と永遠存在を述べる先に見た言葉の続きは、 同様に神的なイメージとつながれて表現されているのである。. Andfromt h a tworldo fheavenlyl i g h t W i l lshen o talwaysbend, Toguideusi nourl i f e t i m e ' sn i g h t 5 2,s t .5 ) (No, 1. Andguardust ot h eend?. そして神々しい光に満ちたあの世界から 母さまはいつも身をかがめて この暗黒の生を生きる僕たちを導き 最後まで僕たちを守ってくださるのではないだろうか?. 1 0 1. ( 15 2番 第 5連 〕.
(16) 文学・芸術・文化. 2 0巻 2号. 2 0 0 9 .3. ここでも、死と永遠のいのちが、大地の神性との合一あるいは宇宙の神的な 力への魂の解放として意味づけられるディスコースが使われている O エミリ は神的なものを宇宙の力の中に置き、魂をそこに一体化させて不滅の存在と することをく生の原理〉として表わしていることが、ここには明らかであ る 。 同じ視点は、「番外 JC“Stanzasつにもさらに明瞭である。エミリは次の ように書いているからである。. Whathavet h o s 巴l o n e l ymountainsworthr e v e a l i n g ? Moreg l o r yandmoreg r i e fthan1cant e l l : Thee a r t ht h a twakesonehumanh e a r tt of e e l i n g Canc e n t r ebotht h eworldso fHeavenandH e l l. “ (S t a n z a s ",s t .5 ). あの淋しい山々には啓示に値するどのようなものがあるのだろう? わたしには言うことができないほどの大きな栄光と大きな悲しみがあるのだ。 一人の人間の心を感動させる大地は 〈天国〉とく地獄〉を二つながら中心におくことができるのだ。. ( 1番外」第 5連). この大地の上に、この宇宙の中に、すべてがあるとエミリは考えている。 ハットフィールド C C .W.Hatfield) は「エミリはこの詩において、〈天国〉 よりも〈大地〉に対する人牟いなる愛を示している J 5と言うが、エミリが求 めるものは、この世界に行き渡るく宇宙的力としての神性〉との合ーである ことを、この詩のディスコースは示しているのである O 以上のように、エミリの詩の特徴は、魂の自由を希求し、魂の解放を願 い、この世で神性に包まれて不滅の存在であることを求め、それをく宇宙の 力〉とく生の原理〉として示すことである、と分かるのである O このよう 1 0 2.
(17) 千の風と魂のこと. 清水. に、生の永遠的継続を神的イメージと結んで表現し、〈宇宙の力〉すなわち 〈宇宙に偏在する神性〉と意味づける点で、エミリのくいのちの永遠化〉と、 「干の風になって Jのくいのちの永遠化〉の詩的表現は異質であると言える のである。. 1 1 1. W 嵐が丘』に見られる《宇宙的理念》について. では、「嵐が丘』の場合はどうか。『嵐が丘』ではエミリ・ブロンテは、 くいのちの永遠化〉とく生の原理〉について、さらに宗教的なディスコース を用い、〈宇宙的理念〉を表象する物語を書いているのである。『嵐が丘』で は基本的な物語のシークエンスは、伝統的なキリスト教の側にいる人間と、 それを逸脱する人間の、宗教的二項対立でもって構築されているが、この基 本構造においてエミリは、天国と地獄の概念を現世的宇宙的時空間に入れて 魂の解放といのちの永遠存在を表わすことを意図しているようである。《人 間は、この地上において魂の中心で神的なものと合一し不滅のいのちのヴィ ジョンを持つこと》. これが、『嵐が丘」でエミリが描こうとしているも. ののように思われる。 まず、『嵐が丘』の宗教的二項対立のシークエンスと構造から説明する O 『嵐が丘』では、登場人物はすべてキリスト教に対してどのような立場にあ るのかを明瞭にするディスコースによって書かれ、物語が構造化されてい る。第一に、ヒースクリフとキャサリンのメイン・ストーリーを進めるシー クエンスの担い手が、典型的キリスト教徒である堅実で信仰心に富んだネ リーに設定されていることがある。そしてその上に、ネリーというキリスト 教徒の信仰深さを視点にして、脱キリスト教的人物ヒースクリフとキャサリ ンを対置し、その違いを明瞭にする方法が採用されていることが挙げられ る。その一例としては、次のようである O キャサリンの死に対して苦悶する ヒースクリフについて、ネリーは「神様に向かつて挑みかかっても、結局負. ' . . .y o u rp r i d ec a n n o tb l i n d けて恥ずかしい思いをするのがオチですよ J( -103-.
(18) 文学・芸術・文化. 2 0巻 2号. 2 0 0 9 .3. G o d ! Yout e m p thimt ow r i n gthem,t i l lh ef o r c e sac r yo fh u m i l i a t i o n ! ', C h . 1 6 ) と述べ、神に反逆するヒースクリフ像を作り上げていること O また、 キャサリンの魂との合ーに心を奪われているヒースクリフについても、彼は 「昨夜、俺は地獄の入り口にいた。だが今日は、天国が見えるところにいる. (L a s tn i g h t,1wasont h et h r e s h o l do fh e l. lT o-day,1amw i t h i n んだ J‘. h .3 4 ) と言ったと、この世に天国と地獄を見る s i g h to fmyh e a v e n .. . ' .,C 反キリスト教的な姿として描出していること O しかもさらに畳み掛けるよう に、ネリーは自分の感想を「そのような彼が、まさにこの世の人間でない悪. ‘ I ta p p e a r e dt ome,NotMrH e a t h c l i f f,b u tag o b l i n .. . , ' .C h . 鬼に見えた J(. 3 4 ) と言って、反キリスト教的ヒースクリフの人間像を構築させているので ある。 また、「嵐が丘』におけるもう一人のシークエンスの担い手ロックウッ. Lockwood) も、善良なるキリスト教徒そのものとして設定されてお ド( り、ヒースクリフをめぐる物語の反キリスト教的な相を強調する役割を与え られている O たとえば、ロックウッドが「嵐が丘」に泊まって見た夢、ギ. eC h a p e lo fGimmerdenS o u g h ) でのドタパタ劇 デマン・スー礼拝堂(Th と、キャサリンの幽霊の夢が、それである O ロックウッドのこの一連の語り によって、神の許されざる罪人となるキャサリンとヒースクリフの反キリス ト教的生が暗示され、それに対峠している善きキリスト教徒ロックウッドの 図が意図されていることが、ここには明らかである O さらに、この導入部に おけるロックウッドの宗教的逸脱に対する不安感は、最終部分の宗教的秩序 化に対する安心感と対応されていることも確かである。ロックウッドは結婚. C a t h y ) とへアトン ( H e a t o n ) を見て、「二人一緒なら、 を控えたキャシー ( (T o g e t h e rt h e y サタンとその軍勢に対しでもものともしないでしょうね J‘. wouldb r a v es a t a nanda l lh i sl e g i o n s . ',C h .3 4 ) と言ったと、キリスト教 的ディスコースで語り、彼らの側の安泰を暗示して、反キリスト教的キャサ リンとヒースクリフによって引き起こされた生の逸脱ぶりを強調しているか. 1 0 4.
(19) 千の風と魂のこと. 清水. らである O キャサリンの「天国からの追放の夢」について語るネリーのディスコー スもまた、キャサリンの反キリスト教的な生の意味を際立たせるものであ る。ネリーはキャサリンが、「ただ天国はわたしの住むところではなさそう だと言いたかっただけなの。……別の夢と同じように、わたしの秘密を説. 1waso n l ygoingt osay 明するのに、ちょうど役立つでしょうからね JC‘ t h a theavend i dnotseemt obemyhome.... Thatw i l ldot oe x p l a i nmy s e c r e t,a sw e l la st h eo t h er .. . , ' .C h .9 ) と言ったと語る。ネリーはこの直前 で、キャサロンが何か夢の話をしようとしたことについて、「嫌な前兆と恐 ろしい破局の予感を感じ取って押しとどめた」のだと言うのであるから、 リアム・アロット C MiriamA l l o t t ) が指摘するように、ここでキャサリン. h eo t h e r 'と言っているのは‘ t h eo t h e rdream'で、実はキャサリンは が‘ t もう一つ別の夢の話をするつもりだったのである fそしてその夢とは、「宇 宙の無法性のようなもの J 7、すなわち「地獄脱出の夢 J B、であったにちがい ない。ネリーはそれを予知して、話すのを悶止したとなっている O エミリは ネリーに、キャサリンが天国から追放される夢を見たこと、また地獄から脱 出する夢を見ただろうことを暗示させることによって、キャサリンの生き方 もまた彼岸の天国も地獄も否定する、反キリスト教的なものであると示して 吾りによって、エミリは、キャサリンと いるのである O そしてネリーのこの E ヒースクリフの魂の合ーが、死後世界と彼岸を前提とするキリスト教的世界 観・宇宙観とはかけ離れていることを明確にしているのである。 また、その一方でエミリは、ネリーには他の人物たちを典型的キリスト教 徒として語らせ、キャサリンとヒースクリフの反キリスト教的な相を際立た せる語り方をさせているのである。たとえばネリーは、イザベラ C I s a b e l l a ) や キ ャ シ ー ら は ヒ ー ス ク リ フ を ‘S atan,d e v i l,demon,f i e n d,g o b l i n,. monster,e v i l,d i a b o l i c al'といった語で繰り返し表現したと言う O エミリは そのようにして、〈神に盾突くサタン〉のイメージでヒースクリフ像を創り. 1 0 5.
(20) 文学・芸術・文化. 2 0巻 2号. 2 0 0 9 .3. 上げる工夫をしているようである O 以上のようにして、「嵐が丘』におけるディスコースは、宗教的二項対立 によって、キャサリンとヒースクリフの宗教的特殊性の意味を明らかにする 基礎を準備しているように見えるのであるが、それは、エミリがそのような 仕掛けを用いて、く人間の永遠存在〉のテーマをさらに進めてく宇宙的理念〉 につないで表現しようとしているからであるように恩われるのだ。「嵐が丘』 でエミリがもっとも力を入れて表わそうとしているのは、ヒースクリフに語 らせている次の言葉の中の〈宇宙的理念〉に集約されていると見えるからで ある。. h a t1dot h es l i g h t e s ta c t,notpromptedbyone i ti sbycompulsion,t h a t1n o t i c eanythinga l i v eo rdead,whichi s thought,andbycompulsion,t n o ta s s o c i a t e dwithoneu n i v e r s a li d e a . .. 1haveas i n g l ewish,andmywhole beingandf a c u i t i e sa r eyearningt oa t t a i ni t .. CW u t h e r i n gH e i g h t s,Ch.3 3 ). 「……ひとつの思いに駆り立てられなければ、わずかな行為をするにも無理やり にしなければならないし、また、あるひとつの宇宙的理念に関わっていないもの には、生きているものでも死んだものでも、無理やりに注意を向けなければ気付 かない始末だ…・・俺の願いはただひとつで、俺の全身全霊がそれをかなえようと. r c嵐が丘』第 33章). 求めている」. このようにヒースクリフの言う「ひとつの思い」や「ひとつの願い」とは、 キャサリンの魂との合ーのことであろう。ヒースクリフの魂はキャサリンの 魂だけを求めてきて、まもなく合一するのだと言う O そしてそれは、「ひと つの宇宙的理念に関わって」いるからこそ可能であるというのである。すな わち、生きていても死んでいても、宇宙の根源を成しているひとつのイデア すなわち神性につながっていくこと、それを、ヒースクリフの魂はキャサリ. 1 0 6.
(21) 千の風と魂のこと. 清水. ンの魂とのつながりを通して成就するのだと、この言葉は表わしている。 この直前にヒースクリフが言う言葉とも、このことは関わっている O 先の. C h .3 3 ) したことであるが、宇宙に偏在するあらゆるも 第 l章で既に引用 C のにキャサリンのいのちを見るヒースクリフは、キャサリンの魂にリンクす ることで、宇宙のいのちと共生していると言っている。つまりエミリは、こ れらの言説をヒースクリフに使わせることによって、〈魂〉と〈魂〉がつな がり、〈人〉とくイデアとしての神性〉とく宇宙のエセンス〉がつながって、 〈広々とした宇宙に永遠不滅の存在となるいのち〉を表象することを、夢想 していると思われる。宇宙にはそのようなことを可能にする根本的法則(す なわちひとつの原理)が存在することを、エミリはく宇宙的理念〉と表現し ている。人間はそこにつながって初めて、全存在が全うされるのである。エ ミリの考える永遠のいのちとは、そのような神性としての宇宙的理念自体で あると、わたしたちには確認できるのである。 そのように考え得る手がかりは、反キリスト教的であるとされているヒー スクリフとキャサリンのディスコースの、. p i r i t, God,sou!,mind,heart,s. ghost'などの語の使われ方にある O たとえばヒースクリフは、死の直前と 死の直後のキャサリンに向けて、次のように言ったとされている。. . . nothingt h a tGodo rs a t a nc o u l di n f l i c twouldhavep a r t e du s,y o u,o f l ! ,d i di t . 1havenotbrokenyourheart-youhavebrokeni t yourownwi. i n e .. " oh,Godwouldy o ul i k et ol i v e andi nbreakingi t,youhavebrokenm. ( W u t h e r i n gH e i g h t s,Ch.1 5 ). withyours o u li nt h eg r a v e ? '. l '…・神やサタンの力によってさえ俺たちのあいだを引き離せなかったのに、 おまえが、おまえ自らの意志で引き離してしまったのだ。俺がおまえの心を打ち 砕いたのではない一一おまえが白分で打ち砕いたのだ 0 ・…-おお、神様! あ なたは自らの魂を墓に埋めたままで生きていたいでしょうか ?J. 1 0 7.
(22) 文学・芸術・文化. 2 0巻 2号. 2 0 0 9 .3. r嵐が丘』第 15章) c hauntmet h e n !. . .1knowt h a tg h o s t sh a v ewanderedone a r t h .' " onlydon o tl e a v emei nt h i sabyss,where1cannotf i n dy o u ! OhGod!i ti s u n u t t e r a b l e !1c a n n o tl i v ewithoutmyl i f e !1c a n n o tl i v ewithoutmys o u l ! ' 6 ) C W u t h e r i n gH e i g h t s,Ch.1. 「……それでは俺のところに出て来 L、 ! ……幽霊がこの世をさまよったこ とを、俺は知っている。……おまえの姿が見えないこの奈落に、俺ひとりを残し ていかないでくれ! おお、神様!そんなことは言いようもない苦しみです! 俺のいのちなしに俺は生きられない 1 俺の魂なしには俺は生きることができな. C r嵐が丘』第 16章). い!J. ど ち ら の デ ィ ス コ ー ス も ‘ hear t'や‘ s o u l 'を 使 っ て 、 ヒ ー ス ク リ フ の 存 在 が唯一問題にするのは、キャサリンとのあいだの心や魂のつながりのことで あると示している。そして、心や魂がつながっているので、キャサリンを失 うことは自らの魂を失い、いのちを失うことだと言わせているのである。エ ミリが‘ l i f e 'を‘soul'と言い換えて表わすのは、魂でありいのち自体であ るような人間のつながりこそが、生のすべてであるということを明らかにす るためであるだろう O そして興味深いのは、いずれの場合もエミリがヒース クリフに、キャサリンとの魂のつながりを思うとき神への呼びかけをさせて いることである。先に見てきたように、反キリスト教的な相をさまざまに強 調しているヒースクリフに、なぜ神への呼びかけをさせているのか。それは、 魂が結び、つくとは宇宙に偏在する宇宙的力としての神性につながっていくこ とだと、ヒースクリフに考えさせているからではないか。しかも先に見た第. 3 3章でも、エミリはキャサリンの魂との合ーを思うときのヒースクリフに、 ‘ 0,G o d ! 'と 呼 び か け さ せ て い る 。 エ ミ リ が そ の よ う な デ ィ ス コ ー ス で 表 わ. 一1 0 8.
(23) Tの風と五鬼のこと. 清 7 ) < .. そうとしているのは、人聞が魂そのもので求めるとき宇宙のエセンスと神的 なものは深くつながっていくということ、そしてそのとき存在は神的力に抱 き取られて不滅の自由を獲得し、宇宙の魂に合一するのだということである にちがし、ない。すなわちそれが、エミリの考える人間のく永遠存在〉であり、 〈宇宙的理念〉であると思うのである。 同じことは、キャサリンのディスコースにおいても表わされている。ネ リーにヒースクリフとの一心同体を述べるところの次のようなキャサリンの 言葉は、魂においてつながりがあるヒースクリフを自分そのものだと表現し ているからである。. •I fa l le l s ep e r i s h e d,andh eremained,1shoulds t i l lc o n t i n u et ob e ; 巴m ained,andhcwerea n n i h i l a t e d,t h eu n i v e r s ewouldt u r nt o andi fa l le l s er. t . .•. 1amHeathc 1iff-h e ' s amightys t r a n g e r . 1shouldn o tseemap a r to fi always,alwaysi nmym i n d . . .a smyownb c i n g . .. ' . CW u t h e r i n gH e i g h t s,Ch.3 3 ). 「もし他のものがみんな消滅してしまっても、彼が残っていれば、わたしは ずっと存在し続けるのよ。そしてもし他のものがみんな残っていても、彼が消え でなくなれば、この宇宙はまったく未知のものとなって、もはやわたしがその一 部だとは思えなくなってしまうのだわ。……わたしはヒースクリフなの. 彼. はわたし自身の存在として、いつだってわたしの心の中にいるのよ……」. c r 嵐が丘』第 3 3章) 「ヒースクリフがいなくなれば、自分もまたこの宇宙の一部だとは思えなく なる」というレトリックには、前述した 1 9 1番の詩との類似が明らかなよう. e 'は‘God'に 置 き 換 え 可 能 な も の で あ る 。 宇 宙 に 偏 在 す る 神 的 な 力 に、‘h と人間の魂と宇宙の根源的力がつながりあうとき、それらは同質の〈永遠の. 1 0 9.
(24) 文学・芸術・文化. 2 0巻 2号. 2 0 0 9 .3. いのち〉というエセンスとなってこの宇宙を充たすのだと、エミリはキャサ リンに言わせているのである。キャサリンもヒースクリフと同様に、自分自 身を、「自分以上の自分のいのち」をもって宇宙につながって解放されてい る存在だと考えていると、エミリは表わしているのである。 そのような魂と魂の結び、っきの可能性は、ヒースクリフがキャサリンの ‘ s p i r it'を感じたという言葉によっても、次のように明示されている O. .e t e r n a l l y .fromdawnt odawn.prayingh e rt or e t u r nt ome-her s p i r i t ]haveastrongf a i t hi ng h o s t s . .. ]knewnol i v i n gt h i n gi nf l e s h andb l o o dwasby-buta sc e r t a i n l ya syoup e r c e i v et h eapproacht osome s u b s t a n t i a lbodyi nt h ed a r k .thoughi tcannotbed i s c e r n e d .s oc e r t a i n l y] f e l tt h a tCathywast h e r e .n o tunderm e .b u tont h ee a r t h . ' C W u t h e r i n gH e i g h t s .C h .2 9 ). 「俺はずっと、朝から晩まで、彼女に. 彼女の魂に、俺のところに戻って. きてくれと祈っていた。……血と肉をもった生きものがそばにいないことは分 かっているのだが. その姿が見分けられなくても閣の中で生きた人間の近つ‘. くのがたしかに分かるように、俺もまたキャシーがそこに、俺の足の下ではなく. C r嵐が丘」第 29章). この地上に、いるのを感じたんだ J. ‘ s p i r it'の語は、先に見た詩では、エミリが神的なものや大地のいのちゃ宇. 宙のエセンスを表象するのに使用したものであったが、ここでも魂そのもの として、キャサリンの存在のエセンスとして、使われている。宇宙に遍く存 在するいのちの表象とされているのである。 だが、そうしてキャサリンの魂の存在を実感させているにもかかわら ず、それはヒースクリフに、「明らかに歓喜と苦痛の両方を極度にもたら す J‘ (i tcommunicated.apparent 1y .bothpleasureandp a i n .i nexquisite nHV.
(25) 干の風と魂のこと. 清水. e x t r e m e s ... ,: Ch.34) ものであるとされているのである。エミリはそれに よって、〈宇宙的理念〉の意味を明確にしているのであろう。この「歓喜と 苦痛」は、先に述べたように「天国」と「地獄」に呼応しているもので、エ ミリはこの地上で神的・宇宙的・不滅的なものにリンクする魂は、天国と. David 地獄を二つながらに経験するのだと考えているようである。セシル ( Cecil)が「エミリ・ブロンテの人生観では、善悪を容易に対照させること はしな L、。生のある面を善と言いある面を悪と言うことは、ある経験は受け 入れるが別の経験は拒否するということである。そうではなくて、すべての 経験を受け入れるのが、エミリ・ブロンテの姿勢を貫く本質的特徴なのであ るJ 9と指摘しているように、エミリは『嵐が丘」において、人間と神と宇 宙に関わるすべての経験を受け入れ肯定する思想を提示しているようであ るO キリスト教的な天国と地獄の二項対立概念を、この大地の宇宙的空間に おいて存立させ、人間の魂と宇宙の力と神性がひとつにリンクするいのち の在りょうを〈宇宙的理念〉として表しているのである。それは、ミラー. ( H i l l i sM i l l e r ) が言うように、ネリーの「合理的に整理された、伝統的に 宗教的な説明である J 1 0語り方が導くような、伝統的キリスト教の神の概念 を見直させるものであろう O すべてがこの大地の上で神性とともにあるいの ちの在りょうの、来し方と行く末を見つめているのが、エミリ・ブロンテの 文学であろうと思うのである。. I V 魂と主体の表象について エミリの文学は、「千の風になって」と類似した表現を用いて、同じく魂 の不滅性・いのちの永遠性〉のテーマを扱っているにもかかわらず、以上の ように神性につながるディスコースを持ち込んで、異質なものを生成してい るのである。わたくしはこれには、エミリが人聞を主体存在として捉えてい ることが大きく関係していると考えている。エミリの文学では、〈主体であ る人聞が永遠のいのちをもっ存在であるとはどういうことか〉が、問題にさ.
(26) 文学・芸術・文化. 2 0巻 2号. 2 0 0 9 .3. れていると思うからである。最後に、そのことを簡単に説明したい。 十七世紀デカルト以降の近代思想においては、近代的自我をもった人間 は、自己同一的主体存在であると認識されてきた。しかし十九世紀に入る と、人間の存在は「人間とは誰か」とつねに問 L、かけを発する不安定な実. M i c h e l 存的主体である、と認識されるようになった。たとえばフーコー C F o u c a u l t ) は、主体というのは普遍的な規範の形式としてあるのではなく (つまり、内側にある自己の規範に従って生きている、揺るぎない自己同一 的人間として存在するのではなくて)、能力ある人々がつねに自己を鍛え、 ある高みを求めて行う〈生の様式〉であると考えている O そしてフーコーは そのく生の様式〉を、「知と真理との関係」、「権力との関係」、「道徳との関 係 Jという三つのプロセスで説明し、これらのプロセスを経て、近代的人聞 は自己の規範に従属する近代的主体になるのだと説明している OIl そして、とくに晩年のフーコーは、「道徳との関係 Jの主体化のプロセス に、〈プラトン的主体〉とくセネカ的主体〉の、「自己に専念する」二つの 生存形式をもっ主体を見て、それを重視した。フーコーによると、「プラト ンは魂に対して、自分自身を振り返ることによって、その本性を見出すよう に命じた」のであるが、それは、魂が自己を振り返ることによって「視線が 『高み」に引き寄せられるような運動」をすることになる、すなわち、魂は 「神的な要素や本質、そして本質がそこで可視的なものになる場である天上 界などに引き寄せられる」ことになるからだ、と言うのである O つまり、プ ラトン的な主体は、「主体の中の真理を発見する」、あるいは「魂がその根源 的な本性と誕生の地を再発見する」主体なのであると、フーコーは考えてい るのである。それに対して、セネカが示唆しているのは、魂が「教育や読書 や忠告が与える真理を吸収する」ことであると言い、魂は「真理が自分自身 の一部となるまで、そして内的で恒常的で、つねに活動しているような、行為 の内的な原則になるまで、それを同化する」のであると考えている。すなわ ち、セネカ的な主体は、魂が知識を吸収することによって、「主体が知らな 1 1 2-.
(27) 干の風と魂のこと. 清水. かった真理、主体の内にはなかった真理を主体に備えさせる」主体なのであ ると、フーコーは説明しているのである。 12 このようなフーコーの主体の解釈は、まさしく、ブロンテ三人姉妹が置か れていた時代の要求する倫理的主体のあり方を捉えていて、ブロンテたちの テクストにも明らかにその反映を見ることができる。たとえば、先にアン. (AnneBronte,1 8 2 0 4 9 ) とシャーロット ( C h a r l o t t eBronte,1 8 1 6 5 5 )か ら説明すると、アンは「真理を語ることのできる主体としての自らを試し、 試練にかけている」ことを意識する主体、「真理を繰り返し見ょうとし主体 化を進めていることを語る」セネカ的主体を設定しているし、シャロットも 「知と権力が内側から自己規定してくる近代的主体性を生きる」主体、「自己 をつねに厳しく統御し鍛錬して高みを目指す」セネカ的主体を設定している と言える。しかしアンやシャーロットとは違い、エミリの場合は、詩の語り 手や小説の主人公らを、「主体のなかの真理を発見する」主体、「魂が神的な 要素や本質の高みに引き寄せられる」プラトン的主体として、テクスト内で 表象していることが明らかなのである。 エミリの文学もまた、フーコーが考えるように、人々が時代や人間存在や 主体性に対しでもっていた思想を忠実に反映しているのである。エミリの文 学は、先に見てきたような独自の宇宙観のなかに、〈時代が思想、としていた 非自己同一的主体・近代的主体である人聞が生きるとはどういう意味をもつ か〉ということを考察し、それをテーマにして表現していると思うのであ る 。. 9 1番の詩に戻って説明すると、あらゆるも たとえば、もう一度代表的な 1 のをこえて存在するいのちの氷遠性・不滅性は、現世をこえた世界にあると いうよりも、現世のこの大地の上に、この宇宙のなかに、語り手である主体 くわたし〉の力でもって現在=実在させられようとしているもの、というふ うに読めるのではないか。グナッシア. C J i l lDixGhnassia) の言うように、. 「エミリの内部の神があらゆる存在を含んでいるのは、くあらゆる存在はあ 1 1 3.
(28) 文学・芸術・文化. 2 0巻 2号. 2 0 0 9 .3. なたのなかに存在する〉から J 1 3であるが、それは、主体としてのくわたし〉 の意志が、あらゆるものに神性としてのいのちを見ょうとして存在させてい るものである。語り手くわたし〉は、〈不滅〉であり〈息吹〉である神的な ものを、〈主体であるわたしのなかの真理として再発見し〉、〈魂を神的な要 素や本質の高みに引き寄せる〉主体化のプロセスを経験しているのである。 <<不滅〉であり〈息吹〉であるものがこの世界の現世的実在であれば、その なかに実在するあらゆるものもまたこの世界に不滅のものとして実在する》 語り手くわたし〉のこのようなレトリックは、「わたしがそれを考える J 1 4という主体の主観を前面に出し のでなければ、今や{可ものも存在しな L、. て、すべてのものの現世への実在化を可能とするものである。エミリの文学 に表象され偏在させられているく永遠のいのち〉は、まさしく魂が神的な高 みを目指して主体化し続けるくプラトン的主体〉が生成することのできるも のである。それが、エミリの表わすく千の風〉としてのく魂の永遠性〉とい うことであろうと、わたしは思っている。. おわりに 「干の風になって」を介して、エミリ・ブロンテの文学におけるく千の 風〉、すなわちく宇宙的永遠のいのち〉とく魂〉のことを考察してきたが、 以上のことから分かるのは、まず、これら二つには人聞を不滅の存在と捉え る点で共通のテーマがあるということである。「干の風になって」が流行り 人々を慰めているという現象には、よく言われるように、現代の合理的繁栄 と荒廃がヴィク卜リア朝のそれと似ているということと関係があるのかもし れなし、。不安定な激動の時代にあって、人間は、永遠不滅のいのちと存在様 式を考えることで、根本的な存在原理を築いてその支えとしていることが見 干の風になって」の方に神性や主体存在という視点が明瞭でな えてくる o I く、エミリの文学にそれらが明らかであるのは、エミリがヴィクトリア朝の キリスト教の影響を多大に受けていたことと深く関わっていよう O オール. 1 1 4.
(29) 干の風と魂のこと. ティック. 清水. (RichardD .A l t i c k ) が言うように、エミリも、「キリスト教の教. えによって厳しく制限された文化の中で育ち、……宗教が人生観のすべてを 1 5時代を生きてい 決定し、人生の本質と目的に対する評価を決定していた J. たのであるから。そのような宗教的縛りと主体的人間存在の思想の行き渡る なかで、エミリもまた現代のわたしたち同様に、合理的繁栄とは無縁の魂の 問題を考えて、希望としていったのであろう。 16激動の時代を乗り越えると き、〈宇宙につながる永遠のいのち〉を存在の根本的理念にすることの意味 を、これら二つは教えている。 だが一方で、厳密に見ていくと、エミリのく干の風〉と「千の風になっ て」のなかのく千の風〉とは、その厳しさにおいて、あまりにも違うことに 惇然とする。作者不詳といわれる「干の風になって」が表象するところの、 優しい干の風になって魂をゆらゆら遊ばせているく生きているわたし・死ん でいるわたし〉の実在は、確かに、わたしたちに死を超越する確かな存在様 式を提示しているのである。けれども、エミリのく千の風〉は、「神々しい 風 J( g l o r i o u swind) として吹き渡り、あるいは「嵐の怒号の精髄 J( t h e 巴s senceo fTempest 'sr oaring). として吹き荒れているのである (No.148)。. のんびりと魂ゆらゆら遊ぶどころではな L、。エミリが表わすように、わたし たちは主体存在として魂の高みや大地の息吹の神性に近づけるよう、自らを 絶えずく死んでいても生きていても〉鍛えてし、かなければならないという、 宇宙的理念を生きるのであるということ。そのようなエミリの存在論を、「干 の風になって」を通してわたしたちは確認することができるのである。 (本稿は、日本フロンテ協会関岡支部 2 0 0 8年春季大会(於近畿大学) での講演を基に、加筆修正したものである。). 注 l 本稿で言及する詩番号はすべて,. c .W.Hatficld(cd.),TheComρletePoems01. :C olumbiaUniv巴r s i t yP r 巴s s, 1 9 9 5 ) による. EmilyJaneB r o n t e(NewYork. l l 5.
(30) 文学・芸術・文化. 2 0巻 2号. 2 0 0 9 .3. 講談社, 2 0 0 3 ), p p .4 8 4 9 . 2 新井満「干の風になってJl C. 9 5 0 . 3 同書, pp.4. u t h e r i n gH e i g h t s, 4 本稿における「嵐が丘」からの引用はすべて, EmilyBronte,W e d i t e dbyDavidDaichesCHarmondsworth:PenguinBooks,1 9 8 7 ) による5 H a t f i e l d,p .1 2 .. r o n t e :W u t h e r i n gH e i g h t sCLondon:Macmillan, 6 MiriamA l l o t tC e d . ),EmilyB 1 9 7 0 ),pp.1 9 4 9 5 . .1 9 5 . 7 I b i d .,p 8. 笹尾純正 n~沈黙」の彼方へJl. C C .S .R .s r l -Roma,2 0 0 2 ),p .7 0. 9 DavidC e c i l,E a r l yV i c t o r i a nN o v e l i s t s : Essaysi nR e v a l u a t i o nCNewYork: 9 3 5 ),p .1 5 4 . Bobbs-M e r r i l,1 .M i l l e r,F i c t i o nandRe ρe t i t i o n :SevenE n g l i s hN o v e l s CCambridge: 1 0H i l l i sJ. 9 8 2 ),p .4 5 . HarvardU n i v e r s i t yP r e s s,1 9 8 4 8 8倫理/道徳/啓蒙』 1 1 ミシェル・フーコー「ミシェル・フーコー思考集成 X 1 蓮賓重彦ほか監修(筑摩書房, 2 0 0 2 ), p p .3 0 77 2 . 内田隆三『ミシェル・フーコーJl (講談社現代新書, 1 9 9 0 ),pp.1 9 0 2 0 7 .. 9 8 11 9 8 2 1 2 ミシェル・フーコー『主体の解釈学コレージュ・ド・フランス講義 1 →. 年度」鹿瀬浩司/原和之訳(筑摩書房, 2 0 0 4 ),p p .5 5 5-6 2 『真理とディスクールパレーシア講義』中山元訳(筑摩書房,. 2 0 0 2 ),p p .2 1 2 2 2 .. e t a p h y s i c a lR e b e l l i o ni nt h eWorks0 1EmilyB r o n t e :A 1 3J i l lDixGhnassia,M. .Martin'sPress,1 9 9 4 ),p .2 0 0 . R e i n t e r p r e t a t l口n (NewYork: St Cf ジル・ディックス・グナッシア『エミリ・ブロンテ. 神への反逆』中岡. 0 0 3 ) 洋/芦津久江共訳(彩流社, 2. isappearance01G o d :F i v eNineteen-CenturyWriters 1 4H i l l i sM i l l e r,TheD (Cambridge:HarvardU n i v e r s i t yP r e s s,1 9 5 7 ),p p .1 8 1 8 2 . 1 5 RichardD .A l t i c k,V i c t o r i a nP e o P l eandI d e a s :A Companionl o rt h eModern. 1 1 6.
(31) 千の風と魂のこと. 清水. R e a d e r s0 /V i c t o r i a nLit e r a t u r e(NewYork: W.W.Norton& Company, 1 9 7 3 ),p .2 0 3 .. r o n t e ・ s 'andR e l i g i o n(Cambridge: Cambridge 1 6 Mariann巴 Thormahlen,TheB 9 9 4 ),p .4 7 . U n i v e r s i t yP r e s s,1. l l 7.
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