春川常緑会事件研究 : 常緑会事件訊門記録をとおして
221
0
0
全文
(2) 春川常緑会事件研究. −常緑会事件訊問記録をとおしてi. 目 次 序論 一 研究の目的. 二 研究の経過と方法. 第四節. 第三節. 第二節. 第一節. 小説﹃土﹄・﹃朝鮮の現在と将来﹄. 社会主義運動と民族主義運動. 日本の植民地支配と朝鮮農村. 朝鮮の教育政策. 朝鮮総督府. 第=早 一九三〇年代の朝鮮︵常緑会事件の背景︶. 第五節. *秘密結社・常緑会事件関係図. ●. ﹃常緑樹﹄. ●. ●. 2. 5. 9. 10 16. り07. 5ρ0. 70. 80.
(3) ・ ⋮ 81. ・ 。 ・ ・ 81. 第二章 春川中学校同盟休校事件 第一節 春川中学校同盟休校事件. ・ ・.・ ・ 83. ・ ・ 。 ・ 88. ・ ⋮ 86. 第二節 萬寿堂事件 第三節 岡田教諭の差別発言. 第四節 十字架党事件. ⋮ l18. 9FO. 第四章 読書会. 第三章 常緑会. 第一節 三〇年代の学生運動 第二節 春川中学校﹁読書会﹂. ⋮ 118 ⋮ 120 ⋮ 132. 第五章 常緑会と啓蒙運動. ・ ・ 142. ・ ・ 138. 第三節 キリスト教の影響. ① 梧井敬老会.
(4) ②. 梧井共同組合 梧井婦人会・牟谷婦人会. ③ ④ 夜学会. ⑥. 牟谷少年団. 梧井村に常緑樹︵桐︶を植える. ⑤ 朝起き会 ⑦. 第六章 常緑会事件と治安維持法. 結論. 春川中学校事件関連年表. −FOら○. −FOFD. 165 173. 17・FO. ︷⊥7ρ0. 189. 20n∠. 211.
(5) ・⋮ゼ/ ノ. ヒ ニ いノノ. コ . ココノ. ㌦ ノ ︶ 報 タ /綜鳥 .栢 津濡坂q 漫瑠 山 州言莱 一自︶. .⋮鮮問. ロ ヒロし ヨン. 一族島 蔭成鏡北道 聡訓. ゥ北. ..⋮辺一. ︷.. 省 吉. 林. ぐノ. . 額/烈.鷹. 園安前. 顯 .. O. 翫△. ,創. 梅. .38. 0. り. 越南. 9σ. 海. 糖 道. . ] 勘 一 一 鴨. =⋮。. 境境劇道市 事 国軍道鉄都. 界.. 線. H難讐轟. 馬. b. 海. ’よ蛾1.﹄.9 髄. ズ輪講. 靴繍.. 薩. ﹁. 、、.ボ.極 .薩 ,離離 囎 灘. 諭噸k、.藤殖.多. 遼. 〆、舗釧嚢甫 ●. 溝鋤艦慮. ロコ . 翻慈難. ち ヂヨア. ー灘 腱.騨無. 国. .唱・邑‘二・‘.. 延〆. 中 . 省 寧. よ. り. ︶. 7 7 9. ●. 1. 書 新 代 現. 社. 区談. 講. 政史 鮮 行朝. ﹃ の樹. 鮮秀 村 朝︵梶 代 現. 一. 1. ﹁.
(6) 序論 一 研究の目的. 植民地期の朝鮮史を振り返ってみると、学生がその中心的役割をになった事件が多いことに気がつく。. 三・︺運動︵一九︸九︶、六・一〇万歳運動︵一九二六︶、光州学生運動︵一九二九︶等が、その代表的な 事件である。. 三・一運動の研究については多方面から研究がなされ、詳細が明らかになっている。 ︵1︶. そして、六・一〇万歳運動・光州学生運動の研究についても研究が深められている。 ︵2︶. これらの事件の実態について、私達はその詳細を知ることができるのであるが、それ以外の事件となると、. そこで活躍した学生達や民衆の姿がはっきりと浮かびあがってこないのである。学生運動は大きな事件の時 だけ、突発的に高揚したわけではなく、ふだんに粘り強い学生の運動があったと考えられる。しかし、現在 それらについての本格的研究はほとんどみあたらない。. 総督府は、学生達の動向については常に注意をむけていた。そのことは総督府の発行する﹃高等外事月報﹄ ﹃思想彙報﹄等やその他の記録からも、うかがい知ることができる。これらの史料には学生たちの動向に関. する記事を多数掲載している。しかし、それらの記録のほとんどは形式的にまとめられた結果のみの報告で、 それ以上の事実について多くを語っていない。. それら多数の学生運動の報告の裏には学生達に対する訊問があり、それに伴う膨大な記録類が残されてい. た。そして、それらを詳細に分析できれば、官憲側の記録であれ、具体的な学生の動向を知る貴重な手がか りになると思われる。. しかし、、現在それらの記録の所在さえ、つかめていないのが実態で、この方面の研究は大きく立ち後れて. 一. 2. 一.
(7) いる。学生運動の研究状況について阿部洋氏は次のように述べている。 ︵3︶. 。..植民地教育政策に対する積極的抵抗の一形態としての学生運動の本格的に解明した論文は今のと. ころみいだされていない。阿部の﹁韓国学生運動日誌﹂は、まだその事実を年次的に整理しただけの基 礎資料である。ただし、最近、金成植の研究が翻訳紹介され、また資料として総督府警務局﹁朝鮮に於. ける同盟休校の考察﹂ ︵一九二九年︶が﹃抗日韓国学生運動史﹄ ︵一九七一年︶と題して復刻されてい. るので、今後この面で研究が逐次本格化するであろう。. 阿部重氏がこのように指摘されたのは一九七二年であるが、学生運動の研究状況に関しては、その後も事. 情はあまり変化がないようである。それは前述のように、資料の決定的不足が大きな原因のひとつにある。. 朝鮮近代史において多くの場合、学生の果たした役割は大きく、学生運動の研究は重要な研究分野である ことを認めつつも、その手がかりがっかめないのが実態である。. 学生運動に関する研究状況が、このような行き詰まりの状況の中で、﹃常緑会事件訊問記録︵全二六巻︶﹄ を入手することができた。. この記録は、朝鮮の江原道春川郡の公立高等普通学校︵旧制の中学校にあたる︶の学生が一九三七年︵昭 和十二︶、学校内に朝鮮民族の独立を目的とする﹁常緑会﹂を組織し、同志を拡大し、更に自らの学習と広. く民族独立意識拡大のために﹁読書会﹂を結成し、そして、婦人会・敬老会︵高齢者を敬う青年の会︶・少 年団・朝起き会・夜学会等々、幅広く啓蒙運動に取り組んだようすを記録している。. 常緑会は翌年の一九三八年に組織が警察に発覚し検挙された。常緑会は結成から検挙されるまでの期間が あまりにも短期間であったため、十分な成果をあげたとは言えないが、幅広い活動を展開していたのである。. 常緑会事件の訊問記録は官憲側の記録であるが、そこから時間・季節・場所・学生たちの心の動揺等々を. 一. 3. 一.
(8) 具体的に鮮やかに我々に伝えてくれる。 本研究はこの﹃春川常緑会事件訊問記録﹄により、学生運動の空白の一部分を埋める作業を試みたい。. もちろん、これは各地で展開された学生独立運動のひとつの事例研究であり。今後、他に同様な多くの事例 が明らかにされる時、あらたな民衆の姿が明らかにされるであろう。. 更に常緑会事件は一九三〇年代、それも後半の一九三八年の事件であり、この時期はとりわけ日本の植民. 地政策は厳しさの度を加えていた時代であった。日中戦争もはじまっていた。我々は、ややもすればこの時 期の朝鮮の民衆は、日本の厳しい弾圧の前で、その嵐が過ぎ去るのをただじっとして、通り過ぎるのを待っ ているかのようなイメージのみでこの時代をとらえがちである。しかし、それだけであろうか。 この点に関して朝鮮近・現代史専攻で、小説﹃常緑樹﹄の翻訳者の一人である梶村秀樹氏は次のように指 摘している︵4︶. 一九三〇年代の朝鮮を、もっぱら官製の資料の側から見るならば、そこに浮かんでくるのは、強力で. 横暴な統治者が受身な﹁物﹂のように民衆をさいなみ、民衆はだた﹁アイゴ・アイゴ﹂と悲鳴を上げな. がら空しく逃げまどうのみ、といったイメージである。そのイメージに基づいて、私たちは勝手な同情. をしたり、偏見を持ったりしてきた。ところが﹃常緑樹﹄に描き出されている農民のイメージは決して. 単にそういうものではない。確かに状況はすさまじいが、にもかかわらず農民たちは人間的な生活感情 をもって状況と対峙し、したたかに生き抜いている。. 厳しい時代であるほど、 梶村氏が言う﹁︵民衆は︶状況と対峙し、したたかに生き抜いた。﹂のではなか ろうか。. 一. 4. 一.
(9) 本論文では﹃常緑会事件訊問記録﹄を通して、一九三〇年代後半の厳しい植民地政策下における朝鮮学生. の意識及び朝鮮独立運動の組織・形態を明らかにし、春川常緑会事件の歴史的意義を考察しようとするもの である。. 二、研究の経過と方法. 本研究は先に述べたように、﹃春川常緑会事件訊問記録﹄を通して日中戦争期の学生運動・民衆運動の一 面を明らかにしょうとする研究である。. 朝鮮の学生運動の概要についての研究は、 ﹃抗日韓国学生運動﹄ ︵5︶をはじめ多くあるが、ひとつの事. 例を具体的に紹介した研究は現在のところみあたらない。. ﹁春川常緑会事件﹂の一部は研究書・報告書等でも紹介されており、その内、次の記述は春川常緑会事件 の内容を比較的詳しく紹介した例である。 ︵6︶ ︿春川公立高等普通学校生徒朝鮮独立運動事件﹀. 江原道春川高卑学校卒業生、南長髪は在学中より民族主義思想をもち、一九三七年十月ごろ在学生ら. 三八名とともに朝鮮独立の現実の実現のため﹁常緑会﹂という結社を組織し、あるいは読書会を開き、. これに多くの学友を加入させ、民族意識を高揚させたと言うことで検挙され、一九三九五月起訴。同年 十二月治安維持法違反として一二名が懲役二年六月∼同一年六月の判決を受けた。. そして、経過・概要について、最も詳細に紹介しているのは﹃思想彙報︵第二十二号︶﹄ ︵7︶である。. そこでは﹁雪質校生徒の朝鮮独立運動事件﹂として、事件の経過と被疑者︵春川中学生︶の行動の事実を掲. ︸. 5. 一.
(10) 載している。. 右の︿春川公立高等普通学校生徒朝鮮独立運動事件﹀も﹃思想彙報﹄を参照して、その内容を紹介したも. のと思われる。この﹃思想彙報﹄の記述は、各種の書物に引用されているが﹁常緑会事件﹂の具体的な全容 は把握できない。学生運動及び﹁常緑会事件﹂の研究状況は以上のようである。. 研究が行き詰まり状態にある中で、春川高等普通学校生︵春川中学校生︶が春川警察署において、取り調 べられた記録・﹃春川常緑会事件訊問記録﹄ ︵コピー︶の閲覧が可能になった。. ◇資料︽春川常緑会事件訊問記録︾. ﹃春川常緑会事件訊問記録﹄を紹介していただいたのは韓哲礒氏である。韓哲礒氏の主宰す﹁青丘文庫﹂ ︵神戸市須磨区︶に﹃常緑会事件訊問記録﹄のコピーが所蔵されてる。. この記録はソウルの﹁韓国教会史文献研究院﹂が発掘した史料であり、そのコピーが青丘文庫に納められ ている。. コピーはもう一部なされたが、それは韓七宝氏を通じて国際キリスト教大学に納められている。国際キリ. スト教大学でも、この資料の分析はまだ取り組まれていないとのことである。また、 ﹁韓国教会史文献研究. この事件に影響を与えた事件として︽十字架党事件︾がある. 院﹂に問い合わせたが、これも研究はこれからとのことである。 ﹃常緑会事件訊問記録﹄を読み進める中で、 ことが判明した。. 一. 6. 一.
(11) ◇資料︽十字架党事件訊問記録︾. ﹁十字架党事件﹂についての研究は﹁常緑会事件﹂以上に研究が進んでおらず。この事件を紹介した論文 ・ 書 籍 は 今 のところ全くない。. 一九三四年︵昭和九年︶に春川中学校のある、春川郡︵現・春川市︶に﹁十字架党事件﹂という朝鮮民族. 独立運動があった。その﹁十字架党事件﹂の中心になったのは﹁常緑会事件﹂で中心になり活動した、南宮. 瑞の親族の南県警である。彼は一時﹁独立協会﹂の会長も務めたことがあり、﹃皇城新聞﹄の社長でもあり、. ﹁韓国教会史文献研究院﹂が発掘した資料で. 朝鮮史上あまりにも高名な人物である。 ﹁十字架覚事件﹂については、今後の研究に期待されるが、常緑会 事件と関連した箇所は、この資料を一部使用した。. ﹃十字架党事件訊問記録﹄も﹃常緑会事件訊問記録﹄と同様 青丘文庫にそのコピ⋮がある。. ◇資料、そして今後の研究について、. 本研究では資料として﹃常緑会事件訊問記録﹄そして一部﹃十字架党事件訊問記録﹄を使用した。韓国教. 会史文献研究院によれば、今後もこのような資料の発掘される可能性があるとのことである。. これら植民地時代の記録に対する研究は今後若い韓国の研究者に期待されているが、日本語で書かれてお. り、それも多くは達筆な手書きであるため、彼等が読むには余りにも難解である。その意味で、この分野で は日本人の果たす役割は大きいと言える。. 一. 7. 一.
(12) 注. ︵1︶独立運動史編纂委員会﹃独立運動史︵2︶ ︵3︶﹄ソウル・教育図書出版社 一九七一 ︵2︶宋建鏑﹃日帝支配下の韓国現代史﹄風涛社 ︸九八四. ﹃光州抗日学生事件資料集︵朝鮮総督府警務局秘密文書︶復刻版﹄風媒社 一九七九 ︵3︶阿部洋﹁韓国学生運動日誌︵= ︵二︶﹂﹃韓﹄第一・二号 一九七二 ︵4︶沈薫著・梶村秀樹等訳﹃常緑樹﹄龍渓書舎 一九八九 ︵5︶金成植著・金学旧訳﹃抗日・韓国学生運動史﹄高麗書林 一九七四 ︵6︶朴慶植﹁治安維持法による朝鮮人弾圧﹂ ︵﹃季刊・現代史﹄ 一九七六︶. ︵7︶高等法院検事局思想部﹃思想彙報二十二号﹄ 一九四〇. 一. 一. 8.
(13) 第一章 一九三〇代の朝鮮・常緑会事件の背景. 春川中学校の常緑会・読書会は一九三七年︵昭和十二︶に結成され、その組織は翌年﹁常緑会事件﹂とし. て発覚した。常緑会事件の分析の為に、その時代的背景を概観しておきたい。まず、当時の支配機構である 朝鮮総督府の統治方針を検討する。. 本論に入る前に、 ﹁中学校﹂ ﹁高等普通学校﹂の名称と春川の位置について、確認しておきたい。. まず名称であるが一九三八年に第三次朝鮮教育令が公布されるが、それまで日本の統治下で、日本人の通. う、中学校︵旧制︶を﹁中学校﹂といい、朝鮮人の通う同種の学校を高等普通学校︵略して高塚︶と区別し. て呼んでいた。常緑会事件が発生した 九三七年・三八年はちょうど、その移行期のため、名称に混乱を生 じかねない。そのため、支障のない限り、共に中学校の名称を用い論を進めることにする。資料等で﹁高等. 普通学校﹂を使用する場合、注で補うことにする。当時、春川郡には日本人のための中学校はなく、公立春 川高等普通学校が唯一の中等学校であり、江原道でもただひとつの中等学校であった。. 次にこの論文の主な舞台となる﹁春川﹂であるが、一頁の地図でその場所を確認してほしい。. 春川は江原道の道庁所在地で、人口は一五万五二四七人二九八○年︶の都市である。太白山脈北部の山. 岳地帯と首都ソウルとを結ぶ拠点で、地方行政と商業の中心地として発達した。朝鮮戦争により廃壇と化し たが、戦後放射線状の道路を骨格とする計画的都市建設が進められまた、上流地域では韓国最大の電源開発 が行われエネルギー基地となっている。 ︵1︶. また、一九八九年には閾妃殺害や断髪令により潜在していた反日闘争が全国に先駆けて春川で蜂起し、全 国に広がっている︵2︶。. ﹁光州学生運動﹂では春川郡の各学校の学生たちはいち早く運動に加わった︵3︶。春川は民族運動の歴 史を持った町でもあった。. ﹁. 9. 一.
(14) 第一節 朝鮮総督府. 一九二九年∼三三年置世界恐慌は日本の政治の大きな転換点であった。満州事変︵︸九三一︶、そしてそ の後、日中戦争︵一九三七︶と、日本は世界恐慌からの脱出の道を大陸侵略に求めた。. その為、朝鮮は﹁大陸前進兵靖基地﹂と位置づけられ、朝鮮は人的・物的に最大限戦争に動員されたので ある。. 兵姑基地について﹃新しき朝鮮﹄ ︵4︶は、次のように説明している。. ﹁兵靖基地﹂というのはもともと軍の用語である。戦争の勝敗を決する重大な一要件が前線の補給の. 確保にあることは昔も今も変わりないが、そのためには戦場に最も近く、しかもその基地自体として自. 活しつつ同時に前線への補給をも確保しうる、というところが兵姑基地としてもっとも理想的であろう。. その意味で半島朝鮮が大陸兵帖基地と呼ばれること、故あるかなと言わねばならぬ。⋮﹂. そうした、情況下で朝鮮総督府に着任したのが宇垣二成である。彼は︸九三一年︵昭和六︶六月から三六 年八月まで、その地位にあり、最も力を注いだ政策は﹁農村振興運動﹂であった。. 農村振興運動については、本章三節でも述べるので、ここでは簡単にふれだけにする。前述の﹃新しき朝. 鮮﹄ ︵総督府情報課発行・昭和十九年︶で総督府は、宇垣のすすめた農村振興政策について次のように説明 している。. ⋮宇垣総督は就任の第一声に﹂﹁朝鮮人を楽に喰はせること。﹂を以て統理方針と率直に声明したが、. その第一は先ず農山漁村の振興と自力更生運動として強力に展開された。この運動は所謂、南棉北羊、. 及び北鮮開拓と共に宇垣統理の三大施策といわれるが・⋮中略・・⋮. 〇. 一. 一. 1.
(15) 由来朝鮮には春窮という言葉がある。秋から冬の終わりにかけて有るだけの食料を喰ひつくし、翌年. 麦の収穫をみるまでの春季端境期に於ける食料欠乏の意味である。朝鮮の人口の八割は農民であるが、. その大部分は所謂細民で、,併合以前永年に亙る圧政に殆んど勤勉、節約、貯蓄の美風を失ひ、一般に生. 活向上の自覚に乏しく、年々歳々食料の不足を訴へ高利の負債に喘ぎながら、春窮季には草根木皮によ って辛うじて一家の糊口を凌ぐという状態にあった。これを匡求し、根本的に打開する為には単なる救. 済事業による労銀散布などではだめで、農家それ自身の自覚による生活改善に侯つより外なく、こ︾に. 自力更生を基本とする農山漁村振興運動に行政のすべてを集中努力したのであった。当時、二百三十万. 戸と推定された窮乏農家は逐次年度計画によって更生部落及び更生農家に指定され、営農法と家計生活. の改善を各個別に指導した結果、指定された部落は数年ならずして負債を償還し、食糧の自給を得ると. いう統治上の画期的な成功をもたらすと共に、この組織と指導の素地がその後に於ける朝鮮の精神総動. 員運動から国民総力運動に至る母体となり、基礎となったことを見逃すことは出来ない。﹂. 以上のように、総督府は宇垣の三大政策﹁農村振興﹂ ﹁南棉北羊﹂ ︵5︶ ﹁北鮮開拓﹂、中でも最も力を. 注いだ﹁農村振興運動﹂を以上のように自賛している。 しかし、宮田節子氏の詳細な﹁農村振興運動﹂の分析で明らかにされたように、実態は地主をそのままに. し実施された農村振興運動は、効果を上げることができず、小作農を増やしただけで、疲弊した農家は、む しろその後増加したのである。 ︵6︶. 農村振興運動は農家を戸別に﹁指導﹂する方法を採用したため、農家各戸に精神総動員運動を浸透させる 素地を作ったといえる。. ↓九三六年︵昭和一一︶八月から朝鮮総督に南次郎が着任し、その後六年間﹁皇民化政策﹂を徹底させて いくのである。. 一. 1. 一. 1.
(16) 南次郎の政治は、国体明徴、鮮満一如、教学振作、農工並進、庶民刷新の五大政策といわれる。 それぞれの具体的な内容について、簡単にふれておきたい。. ︿国体明徴﹀敬神観念の強化のため、一面一神祠の計画︵7︶、皇国臣民の誓詞制定︵8︶、. 南総督. 宇垣総督. 教育の改正︵9︶、志願兵制度実施︵10︶、品等改名︵11︶の実施等。 ︿鮮満一如V鴨緑江地域の開発、満州と朝鮮の食料交流等。 ︿教学振作﹀教育の大改革を目指し、国語︵日本語︶の普及の徹底等。 ︿農工並進V食料増産の確保と地下資源の開発、水力電気の開発等。 ︿庶民刷新﹀国民精神総動員連盟︵後の国民総力連盟︶ ︵12︶の結成等。. まさに、臣民化教育のようすが知ることができる。. 宇頻二成朝鮮総督に着任。 ︵六月︶. 次に、常緑会事件の時代を年表で確認しておきたい。. 一九三一年. 満州事変。 ︵九月︶. 南次郎朝鮮総督に着任。 ︵八月︶. 〃. 一九三六年. 春川中学校︵高普校︶に常緑会結成。 ︵三月︶ 日中戦争勃発。 ︵七月︶. 一九三七年. 〃. . 2. 一. 1.
(17) 陸軍︵朝鮮人︶特別志願兵制度実施。 ︵四月︶. ﹁創氏改各﹂を強制。 ︵十一月︶. 一九三八年. 常緑会事件︵常緑会発覚︶. 一 九 三九年 国民徴用︵強制連行開始︶。 ︵七月目. 、. 一 九 三九年 太平洋戦争へ突入。 ︵十二月︶. 春川中学校︵高士校︶. 一九四一年. O. 南総督. 春川高等普通学校の生徒が常緑会を結成したのは、日本が本格的に大陸に侵略を開始した、日中戦争の開 始 の 年 と 重 なる。. 厳しい取り締まりのため、それに対抗するすべての活動にとって困難な時代であった。学生運動も﹁満州. 事変﹂以後急激にその数を減じている。そして、日中戦争以後はほとんど姿を消して行くのである。 春川常緑会は最後の時期の学生運動である。. 春川常緑会事件の分析に先立ち、 以下教育の歩み、農村の状況、学校行政、独立運動組織、学生の思想状 況等々について概観しておきたい。. 注. ︵1︶﹃朝鮮を知る辞典﹄平凡社 一九八六 ︵2︶姜在彦﹃朝鮮近代史﹄平凡社 一九八六. [. 3. 一. 1.
(18) ﹃新しき朝鮮﹄. ︵3︶朝鮮総督府警務局﹃光州抗日学生事件資料︵復刻︶﹄風媒社 一九七九 ︵4︶. 朝鮮総督府が昭和十九年四月、朝鮮の植民地政策を加害者の立場から朝鮮支配の実態をまとめた書 籍。一九八二年、風濤社から﹃悪魔の皇民化策・新しき朝鮮﹄として復刻された。. ︵朝鮮総督府情報課﹃︵復刻版︶新しき朝鮮﹄風濤社 一九八二︶ ︹5︶南棉北羊. ︸九三二︵昭和七︶、農村振興というスローガンをかかげ、 ﹁南棉北羊﹂という言葉で、南部地方. では、綿花栽培、北部地方では、羊を飼うことを強要し、侵略戦争遂行の日本軍の被服の材料をつ. くらせた。 ︵尼崎日朝問題研究会﹃あまりにも知られていない朝鮮﹄ 一九七八︶. ︵6︶宮田節子﹁農村ける農村振興運動1一九三〇年代日本ファシズムの朝鮮における展開1﹂. ︵﹃季刊・現代史﹄現代歴史の会 一九七三︶. ︵7︶一面一祠. 一九三七年七月、神社参拝と一面︵面は日本の村にあたる︶に一神社を義務づける政策を強行し、. 山間僻地にまで神社を建てた。一九三九年には五三〇社、一九四三年には八五四社にも達した。. ︵宋建鏑著・東学者グループ訳﹃日帝支配下の韓国現代史﹄風濤社 一九八四︶. ︵8︶皇国臣民の誓詞 昭和十二年十月二日制定された。子供用と大人用の二種類がある。 ︵子供用︶. 一、私共ハ 大日本帝国ノ臣民デアリマス ニ、私共ハ 心ヲ合セテ 天皇陛下二忠義ヲ尽シマス. 三、私共ハ 忍苦鍛錬シテ 立派ナ強イ国民トナリマス. 一. 4. ︸. 1.
(19) ︵大人用︶. 一 我等ハ皇国臣民ナリ 忠義テ君国二心ゼン ニ 我等皇国臣民ハ 互二分野協力シ 以テ団結ヲ固クセン 三 我等皇国臣民ハ 忍苦鍛錬ヲ養ヒ以テ皇道ヲ宣揚セン. ︵朝鮮総督府﹃施政三十年史﹄ 一九四〇︶ ︵9︶教育の改正. 第三次朝鮮教育令をさしている。内容については一章二節を参照。 志願兵制度. ︵10︶. 日中戦争の展開とともに、朝鮮に徴兵令︵一九四四︶を施行する前提として、一九三八年二月︿陸. 軍特別志願兵令﹀が交付され、四月から施行された。志願といいながらも強制的に人数が村々に割. り当てられている。 ︵﹃朝鮮を知る辞典﹄平凡社 一九八六︶ 創氏改名. ︵11︶. 日本が植民地支配のため皇民化政策の一環として、朝鮮人から固有の姓を奪い日本式に名前を変え. させ、天皇家を宗家とする家父長制に組み入れようとした政策。一九三九年十一月朝鮮民事令改正. という形で創氏改名が公布され、翌年二月から施行された。 ︵注5に同じ︶ 国民精神総動員連盟. ︵12︶. 皇民化政策の推進体として一九三八年七月に発足した。また、総督府の行政機関と一体となって各 地に連盟が組織された。 ︵注5に同じ︶. 一. 5. 一. 1.
(20) 第二節. 朝鮮の教育政策. ︵昭和=二︶、春川中学校生、曹興換は次のように日記に幽い. ⋮教育令から見る植民地下の朝鮮の教育・ 第三次朝鮮教育令が公布された一九三八年 ている。. ︿六月十七日﹀. 午前、本を読んで居る時、突然心思が分店となり、高飛遠足し窺い思が、焔の如く立ち上がった。 日本の束縛的教育を受けるよりは自由の教育を受け度い。 ︿九月十七日﹀. ︵五校時︶大運動会の時、応援する準備にて応援団長を定め応援歌を作るべく会を開いた。. 然し、使用する言葉は皆日本語であった。・・独りで我らの言葉をした。倭奴の息子︵日本の奴の息. 子の意味︶が居るので、其れも意の如くすることができなかった。・⋮ ︿十月一日V. ︵裏山へ登った時︶吾等の言葉を言う時にも前後を顧る不自由な生活があったが、今日こそ自国歌を. 高唱しながら自由に山を上下した。・・⋮こんな愉快な日が将来に又幾度あるだろうか。 ︿十月三日﹀. 放課後には柔道に行った。始めには朝鮮人のみであった。然るにも拘らず、倭語をつかう。・・これ. で完全なる生きた精神を持って居る奴等か。・・⋮ ︵﹃常緑会事件訊問記録﹄第二六巻︶. 曹興換は、学校での朝鮮語の使用状況を以上のように日記に書いている。この時、第三次朝鮮教育令が実 施され、学校では朝鮮語の使用を禁止していた。また、朝鮮語の授業を随意科目とし、事実上なくしてしま. 一. 6. 一. 1.
(21) つたのである。欝積した学生の不満が想像できる。六月十七日の彼の日記には﹁日本の束縛的教育を受ける. より、自由の教育を受け装い。﹂と述べている。これは警察に押収された日記に書かれた文章である。その. ﹁常緑会事件﹂として春川中学生が起訴される、昭和十四年までの朝鮮. ためか率直な気持ちが述べられているようである。他の生徒は多くを語っていないが、彼と同じ気持ちであ ったのであろう。. 本節では﹁朝鮮併合﹂の時期から 教育史の概略をたどっておきたい。. ◇朝鮮併合︵一九一〇︶ 第一次教育令︵一九=︶・・﹁民度﹂ ︵1︶にあった教育。 ︿武断政治﹀. ◇三・一運動︵一九一九︶ 第二次教育令︵一九二二︶・・一定の朝鮮人の要求を入れた教育。 ︿文化政治﹀. 第三次教育令︵︸九三八︶ ・皇国臣民化教育。. ☆山梨半造総督・・⋮第二次教育令の見直し。 ︵初等、実業教育の拡大︶ ◇日中戦争︵一九三七︶. 以上のように、本質は最後まで変わらなかったというものの、総督府は朝鮮の教育政策を大きく三度変更. した。以下、一∼三次の朝鮮教育令の概略を検討するが、本研究の主題である﹁春川常緑会事件﹂は一九三 七∼三八年のできごとで、第二次から第三次朝鮮教育令の移行期の事件である。. 一. 7. 一. 1.
(22) 第一次朝鮮教育令・. 、. O. ﹁民度﹂にあった教育二九一一年∼︸九二二年︶. 一九一〇年︵明治四三︶八月二二日、 ﹁日韓併合﹂の条約が調印され、日本は朝鮮総督による本格的な朝 鮮の植民地支配を開始した。 〆. 初代の朝鮮総督寺内正毅は憲兵警察制度に代表される、厳しい取りしまりを第一とする﹁武断政治・憲兵. 政治﹂をもって植民地支配に臨んだ。 そして、朝鮮植民地支配に際して、なかでも特に教育に着目し、一九一一年︵明治四四︶第一次朝鮮教育. 令を公布した。この第一次朝鮮教育令を公布するにあたり諭告で︵一︶教育勅語に基づく臣民の育成、. ︵二︶帝国臣民の資質︵国語の普及・徳性の酒養︶、 ︵三︶時勢と﹁民度﹂に応じた教育の三点を指摘して いる。. ﹁諭 告﹂. 惟ウニ朝鮮未ダ内地ト事情ノ同ジカラザルモノァリ、是ヲ以テソノ教育ハ、特二徳性ノ酒養ト国語ノ 普及ト二塁シ、以テ帝国臣民タルノ資質ト、晶性トヲ具エシメルコトヲ要ス。若、夫レ空理ヲ談ジテ. 実行二疎リ、勤労ヲ厭イテ安逸二流レ、質実敦厚ノ美俗ヲ捨テテ、軽桃浮薄ノ悪風二陥ルカノ如キコ. トァラムカ、膏二教育ノ本旨背クノミナラズ、終一二身ヲ誤り累ヲ国家二及ボスニ至ルタルベシ。. 故二、之が実施二関シテハ、須ラク趨勢ト民度トニ適応シ、以テ墨譜ノ効果ヲ収メンコトヲ努ムベシ。. ﹁諭告﹂にある﹁民度にあった教育﹂とは、﹁朝鮮の現状においては、まだ高尚な学問の必要はなく、実. 業を中心にした教育を施し、一人前として働きえる人間を作るための教育。﹂という意味である。. 制度上においても朝鮮人が通う小学校︵普通学校︶の修業年限四年、中学校︵高等普通学校−日本の旧制 中学校にあたる。︶四年夏実業学校二年ないし三年、専門学校三年ないし四年であり、日本人の通学する小. 一. 8. 一. 1.
(23) . 計 3 3. 3. 1. 3 1. 3. 30 30 30 30. 3. 体 三唱 歌. 図 工. 6. 一. 6. 3. [. 2. 1. 習 字. 勤 3. 辱. 4. 一. 3. 4. 騰実 業 理 科 4. 3. 3 7. 仇 酌. 酬 韓. 十. 干. 準 難. 注. 準 1. 4. 1. 3. 7. 2. 4. 2. 4 8 1. 2. 2. 4 2 卿. 4 8 1. 一. 数 学. 灘. 歴 史. 地 理. 繍 轍鰻. 国 語. 聯 修 身 科教 年 学. 1. . 操認体口. 科理. 術算. 麟 欝 語国. 身修. 繍讃. 3. 一. 6. 6. 3. “. 6. 6. 2. 1. 3. 2. 6. 5. 3. 1. 3. 2. 6. 5. 4. 1. 10 10 10 10. 2. 1. 一. 七. ラ. 八 九. ︵. コ. 守. の. 口. に. る. 丁 丁 地 下 植 本. 日. お. け. ﹁. 二 丁. 作 有. 沢. 小. 一. 9. 一. 1.
(24) 学校は六年、中学校五年、専門学校四年、大学六年と比べてみると朝鮮人と日本人の修業年限の差がはっき りとしていた。. また、小学校︵普通学校︶では日本語を中心にした語学教育があてられ、中学校︵高等普通学校︶では、. 日本の地理・歴史が教えられた。これらは彼等を自らの生活・文化からも切り離す教育内容であり、まさに ﹁愚民化政策﹂であったと言えよう。. さらに、この第一次朝鮮教育令では、総督府は大学の開設も認めなかった。即ち、一九一〇年九月、梨花. 学堂大学科の認可を取り消しただけでなく、朴股植、梁窮達、南宮憶らによる民立大学等の大学設置要求も 認めなかった。これらが総督府のいう﹁民度にあった教育﹂の内容である。. 一九一〇年当時、日本主導の教育機関の在籍者が一万二千人余りであり、私立学校には八万人が在籍し、. 伝統的な書堂には一九=年の十四万人から一九一六年の二六万人へと増加を見せている。 ︵2︶. つまり第二次教育令︵一九二二年︶までの時期は公教育が全く定着しなかったという事実に注目する必要 がある。. 二、 ﹁三・一独立運動﹂と植民地政策の転換. 一九︻九年三月一日、抑圧された朝鮮人の抗日運動が﹁三・一独立運動﹂という大きなうねりとして全国 に広がった。総督府は、この運動に容赦のない弾圧を加え押さえきるが、以後武力で朝鮮を統治できるとの. 安易な考え方は大幅に修正を加えなければならなかった。総督府は従来の露骨な﹁武断政治・憲兵政治﹂を 改めざるを得ず、代わって﹁文化政治﹂への転換を打ちだしたのである。. ﹁三.一独立運動﹂後、長谷川好道総督に代わった斉藤実総督は着任後ただちに、左記のように﹁朝鮮併. 〇. 一. 一. 2.
(25) 合以来すでに約十年を経過し、朝鮮の実情にあわなくなった制度も多くなり・・﹂という苦しい理由により =疋の制度改善を表明せざるをえなかった。 ︵3︶. ・・⋮各先任者の努力と国民の奮励とに依り、克く平和を維持し民衆の福利を増進し、教育・産業. ・交通・衛生・社会救済、其の他各方面に亙り、頗る其の面目を一新したるものあるは、中外の均しく 認める所なり。. 然りと錐、今や併合行われてより、既に約音星霜を経過し、其の当時に於て適切有効なりし施設にして も、往々時勢の進運と朝鮮の実情に適合せざるものなきに非す。・・ このような理由により、いっそう巧妙で危険性を持つ、融和政策を推し進めるのである。. しかし、朝鮮人は武断政治下では全く否定されていた言論、出版、集会の自由を、厳しい制約はあるもの. の勝ち取ったのであり、﹃東亜日報﹄﹃朝鮮日報﹄ ︵4︶など民間の新聞も発行されるようになった。. ﹁三・一独立運動﹂直後から光州学生運動︵一九二九︶ ︵5︶の間は、朝鮮語による新聞が発行され、社. 会主義をはじめ新しい思想が伝播し、各分野の芸術活動も盛んになり、そして将来の朝鮮独立に対してもか. ●. 一定の朝鮮人の要求を入れた教育︵一九二二年∼一九三八年目. すかな希望を持つことができた唯一の時代であったといえよう。. ︼﹃第二次朝鮮教育令・. 総督府は﹁国語を使用する者と然らざる者﹂との区別を設けているが、ともかく表面上は同一の教育を目 指す第二次朝鮮教育令︵一九二二年二月︶を公布する。. 第二次朝鮮教育令を公布するにあたって、総督府は次のような声明書を発表し、趣旨を説明している。. ︵6︶. 一. 1. 一. 2.
(26) ︵第一次教育令︶制定後、年を経る既に十年余、社会の進歩著しきものあるを以て、時勢に順応して. 改正を為すの必要を生ずるに至ったのである。⋮新教育制度は一視同仁の聖旨に依り、差別撤廃 を期し、内地と同一の制度によるを主義としてみる。其の結果、旧令は単に朝鮮人に対する学制であ. ったが、新令に於ては朝鮮内に於ける教育に人種的区別を設けず、此の一法令に統合することになっ. たのである。唯朝鮮に於ける国民は、現状においては其の日常生活に於て、 ﹁国語を使用する者と然. らざる者﹂とがあって、其の風俗・習慣等に干ても、亦同じからざるものがあるから、普通教育に於. て全然同一の制度を布き、又主義として国語を常用する者は小学校・中学校又は高等女学校に、国語. を常用せざる者は普通学校・高等普通学校又は女子高等普通学校に入学することを本体とし、唯特別. の事情ある場合に嘗てのみ、交互に入学することを得しめたのである。感心両者の学校の名称は異に. すれども、其の教育の内容は同一であって、入学資格、修業年限、学科課程及上級学校への入学資格. 等凡て同一である。尤も普通学校の修業年限を短縮し得るの途を設けたるが如き差異はあるけれども、. これは朝鮮の現状に鑑み、主として学校の普及を速ならしむるの必要に出たものである。尚新教育制. 度に於ては一般に各学校の入学資格、修業年限及学科課程を高め、新たに大学教育及師範教育を加へ られた。而して実業教育・専門教育及び大学教育は全然内地の制度に依り、又師範教育は朝鮮の事情. に適応せんことを期し、内鮮共通の新制度を樹てられたのである。是等の教育は国語を常用する者と 否らざる者とに依り区別せず凡て共学混合教育を施す方針になったのである。. 総督府は国語︵日本語︶を常用する者︵日本人︶の通う学校と、国語を常用しない者︵朝鮮人︶が通う学 校を区別する以外は全く差別しないといいながら、実際教育令は多くの差別を含んでいた。例えば大学入学. 試験は日本語で行われるため、日本人に有利なのは当然である。また、日本入のための小学校はすべて六年. であるが、朝鮮人の通う小学校は場合、四年・五年の例外も認めているのである。そのため多くの国民学校 ︵朝鮮人のための小学校︶が以前と同じ四年制であった。その他、多くの差別があった。. 一. 一. 2 2.
(27) 計 3. 32 32 32 33 32 3. 3. 3. 3. 3. 1. 3. 4. 糊体 操 1. 1. 4. 1 2. 1. 3 5. 5. 3. 1. 一. 籠音 楽 1. 3. 3. 6. ︸. 騰図 画 2. 3. 4. 一. 実 業 2. 5. 2. 理 科 5. 轍 3 3. 6. 6. 1. 6. 1. 5. 2. 7. 1. 4 5. 3. 7. 1. 3. 2. 1. 2. 2. 1. 3. 6. 3. 3. 数 学. 購醗魍 外国語. 獺. 轍鰻. 鋤. 育. 科教 年 学. 教 国 語 鮮 朝 修 身 次 二. 僅. . 計. 体 操. 2. 4. 4. 24 26 27 33 36 36 一. 3. 一. 3. 1. 一. 3. 1. 2. 4 3. 1. 2. 4. 1. 1. 2. 2. 1. 2. 一. 3. 申. 2 一. 一. 一. 2. 一. 一. 一. 一. 2. 一. 職 業. ︸. 3. 理 科. 一. 図 画. 唱 歌. 灘. 地 理. 4. 2. 2. 4. 2 藷. 6. 2. 一. 6. 3. 鞠. 5. 3. 鼎. 5. 5. 国 史 算 術. 5. 9 1. 2. 1. 3. 1. 4 5 6. 1. 1. 1. 1. 10 12 12 12 9. 朝鮮語 国 語 修 身 学年 学. 糊. 八. 二 二. 一. 学. 局 務. 府. 3. 一. ︸. 鮮 朝. 2. 督 総. . 令. 正. 教. 育. 組 朝. ﹃. 改.
(28) もちろん数は少ないものの大学の設置を認めたり、朝鮮人が通う小学校・中学校︵普通学校、高等普通学. 校︶の修業年限を基本的には延長するなど、第二次朝鮮教育令では問題を含みながらも、朝鮮人の不満を緩 和させるために一定朝鮮人の要求を取り入れている。 第二次朝鮮教育令の特徴を呉天錫氏は次のように分析している。 ︵7︶ ︿第二次朝鮮教育令の特徴﹀. ︵一︶差別待遇ではないと印象をあたえるため﹁国語を常用する者﹂と﹁国語を常用せさる者﹂という言. 葉を用いて日本人と韓国人が通う学校を分けている。 ︵﹁国語﹂は日本語のこと︶。. ︵二︶普通学校の就業年限が六年越延長されたが韓国人の為の普通学校には﹁四年に短縮してもよい。﹂ という規定がある。日本人の小学校にはその規定がない。 ︵三︶普通学校では朝鮮語を正科目に、漢文を随意科目とした。 ︵四︶農商業初歩及び実業科目を随意科目とした。. ︵五︶修業年限六年の普通学校に、修業二年の高等科を置くことができる。 ︵六︶高等普通科の修業年限を一年延長する。 ︵日本と同じくする︶. ︵七︶女子高等普通学校を三年から四年に延長。. ︵科目では朝鮮語を必修に、漢文を随意科目にした外は日本と同じ︶ ︵八︶実業学校は普通学校卒業後、三∼五年。. ︵従来二∼三年、職業学校・実業補習学校は普通学校四年終了でもよい︶. ︵九︶師範教育のため独立機関として師範学校を設置する。男子師範学校六年︵普通科五年・演習科一年︶. 女子師範学校五年︵普通科四年・演習科一年︶とし、一部︵小学校教員養成︶、二部︵普通学校教 員養成︶を設けた。 ︵十︶大学に関する規定を設けた。. 一. 4. 一. 2.
(29) 以上のように第二次朝鮮教育令は多くの問題を含みながらも、朝鮮人の一定の要求を認めざるを得なかっ. たのである。このように、=疋の自由さを勝ち取った﹁文化政治﹂下で、学生達は多くの場合同盟休校とい う運動形態をとり、彼等の要求を当局にぶつけていったのである。. その中心を担ったのは中等学校の学生であった。彼等の要求は、ほぼ次のようである。 ︵8︶ ︿民族意識を反映した盟休理由﹀ 二九一=∼二八︶ ・内地人差別を撤廃すること。. ・内地人教員を朝鮮人教員にかえること。 ・朝鮮人本意の教育を行うこと。 ・内鮮人教師の俸給を均等にすること。. ・内鮮生徒間の喧嘩訴訟に対する朝鮮生徒側の弁護依頼の不服主張 ・内地人生徒の入学を制限すること。 ・内地人共学反対。. ・朝鮮歴史、地理教育の要求。 ・ハングル雑誌の備えつけ。. ・朝鮮語科の新設と時間割増加。 ・独立宣言記念日に行事の要求。. ・太平洋会議における朝鮮問題の上程の祝賀。 ・学校内の集会・言論・出版の自由要求。. ・学校を植民地統治の機関たらしめることから解放し、学術の自由研究要求。 ・日本臣民化目的の朝鮮教育制度反対。. 一. 一. 5 2.
(30) ・民族運動の手段としての同盟休校。 総督府は第二次朝鮮教育令施行後、つまり三・一独立運動以降の同盟休校の理由を以上のようにまとめて いる、.. これらの要求は朝鮮人学生・民衆にとっては当然の要求であり、幅広く支持される要求でもあった。. 一九二五年以降は治安維持法が実施されたため、明らかに社会主義運動と分かるスローガンを掲げること. はできなかったが、これらの要求を掲げた運動の中には、社会主義を目指して活動した学生も含まれていた。 そして、それら同盟休校事件は着実にその数を増していたのである。. 四、山梨総督による教育方針の転換. 一九二七年十二月、斉藤実総督の後に赴任した山梨半造総督は第二次教育令の再検討に着手する。彼は初. 等教育の内容及び其の教育機関の普及に大きな関心をしめし、普通学校の拡充と勤労︵実務︶教育の強化を 唱 え る の で ある。. また一方、彼は高まる学生運動については﹁・・近時一般に社会主義的運動盛んとなり、諸学校に於ける. 生徒の同盟休校頻出し、動もすれば誰激の思想漸く浸潤せんとする趨勢に在るを以て、・・﹂ ︵9︶と指摘. しているように﹁三・一運動﹂後、社会主義・民族主義運動の台頭等により﹁文化政治﹂が総督府が望むよ. うな方向で推移していないという現実を前にして、総督府は政策転換をせまったのである。. 三・︸運動以後﹁文化政治﹂下で社会主義運動・民族主義運動の台頭、小作争議、労働争議、同盟休校等. 々は着実な増大傾向をたどっていた。これら社会の変化は総督府にとって不気味な蚕動であった。. この時代、内地でも社会主義運動の台頭は勢いを強めたが、植民地下の圧制により矛盾が一層はっきりし. [. 6. 一. 2.
(31) ていた朝鮮において、総督府はなおさら社会主義、 民族主義を主張する学生運動の動向には敏感にならざる をえなかったのである。. 五、実業教育の強化と中等教育︵高等教育も含む︶の軽視. 山梨の唱えた﹁実業教育の強化﹂の方針は、一九三一年六月に朝鮮総督に着任した、宇垣総督に引き継が. れる。彼の考えは︼九三四年目昭和九年︶九月、全国師範学校長会の席上での発言によくあらわれている。. ︵10︶. ﹁然るに往昔より伝来せる人心の荒廃、獺惰の習俗、生活の窮乏等の域を解脱し得ざる朝鮮の現状に在. っては、何と申しても質実剛健、勤労愛好の民謡を作興し、生活の安定向上を図ることが急務であり、 又夫れが将来に於ける諸般の積極施設の前提であると思はれましたに依り、初等・中等の学校には職業. 科を設けて、之に頗る力瘤を入れて居る所である。単的に申せば教育即生活、生活歯勤労の意味合の下. に努力せしめつつある所であります。其の帰結として中等程度の学校新設に付きましても、特種の原因. それはあくまで初等学校の量的な充実であって決して中等、. の存在せざる限りは、当分は実業的のもの以外はこれを許可せざる方針を以て進んでいる。 宇垣総督も教育には関心を持ち力を注ぐが、 高等教育の充実を目指したものではなかった。 次の表はそのことを端的に示している。 ︵11︶. ︿公費による高等普通教育機関対照表﹀. 一. 一. 7 2.
(32) 二. 五. 一九一九年. 九. 一五. 一九三五年. 学 校 数. 一、七〇五. 二、二五六. 七、九九二. 一九三五年. 三七八. 一九一九年. 学 生 数. *高等普通学校は朝鮮人学生のための中学校であり、 女子高等普通学校は朝鮮人学生のための高等女 学校にあたる。. 区 分. 高等普通学校 女子高等普通学校. 一九三五年︵昭和五︶当時、朝鮮入のための公立中学校・高等女学校の学生、男女合わせても約一万名で しかない。これを当時の韓国人人六二、二〇〇万人と対比させると人文系の公立中学校生の占める比率は二 〇〇人に一名にすぎないことにある。いかに中等教育が貧困であるかがわかる。. また、一九三〇年当時、朝鮮人のための私立中学校は=校あり、同じく高等女学校は一〇校あり、その. 生徒数はそれぞれ六、三七二名及び三、七六一名であった。生徒数においてほぼ同数である。. 中等教育は初等教育に比べ増加していない。総督府は中等教育の充実に関してはあまり関心を示していな か っ た と い える。. 日本の政策のため高等教育が十分発達できなかった朝鮮において中学生は、まさに時代を担う知的エリー トの役割を担っていたのである。. ︻. 8. ︸. 2.
(33) 六、第三次教育令・ ●. ・皇国臣民化教育︵一九三八年∼︶. 0. *第三次朝鮮教育令︵一九三八︶で、 朝鮮人学生の通う中等学校である﹁高等普通学校﹂の名称は日本. 人の通う﹁中学校﹂と統一される。. 一九三一年の満州事変、一九三七年の日中戦争と日本は本格的に戦争を拡大させていった。これらは教育 政策にも大きな影響をもたらし、当時総督府学務局学務課長であった八木信雄は、朝鮮における教育を次の ように語っている。 ︵12︶. 朝鮮は大陸前進兵姑基地として軍事、経済上の任務を完全に遂行するのみならず、思想、文化の方面. に於ても大陸進出の基地的任務を遂行しなければならぬのであって、根本より其の実を提ぐる為には統. 一せられたる教育方針に依る皇国臣民の教育に侯たなければならない。⋮. これは﹁新東亜の建設﹂の美名の下に日本の野望を語るとともに、朝鮮が大陸前進兵靖基地としての役割. を果すべきことをあからさまに指摘し、この任務遂行のためにあたって教育が必要不可欠な手段であること を強調しているのである。. 一九三六年八月五日、朝鮮総督は宇垣二成から南次郎に代わった。南は着任するや、さっそく朝鮮の教育. 改革に着手し、一九三八年︵昭和十三︶三月四日、第三次朝鮮教育令を公布した。 ︵施行四月一日︶. 一. 9. 一. 2.
(34) 学. 合 計. 数 学. 理 科. 実 業. 図 画. 音 楽. 校 体 操. 中 ︵. 間 時 授 教. 及. 地 理. 歴 史. 程 外国語 課. び. 毎. 週. 科 教. 朝鮮語. 育 教 国語漢文 鮮. 学 年. 朝 公民科 次 三 修 身. 令. 第 く. 5 5 1. 5 1. 5. 家事家庭. 合 計. 34 34 35 35 35. 5 1 1. 2. 1. 3. 1. び. 職業女. 毎 図画男. 朝鮮語. 墨 教 算 数 職. 学 年. 催 修 身. 次 国 語 三. 朝. 引 国 史. 地 理. 理 科. 及 程 職業男 課 新. 教. 隙 手 工 授 図画女 教 週. 例 唱 歌 間. 椥 体操男. 体操女. 1. 岸. 1. 2. ﹁−. 2. 4. 1. 2 3. 5. 4. 5. 5. 3. 6. 5. 3. 5. 3. 4. 3. 5. 1. 3 1. 5. 3. 1. 5. 3. 2. 6. 3. 2. 7. 3. 7. 1. 2 1. 5. 2 2. 4. 鞠. 2. 3. 一. 2. 2. 一. 1. り6 43 つ﹂男女. 27 25 29 3. 2. 3. R4男女. 2. 3. 34. 3. 2. 4 49J QJ男女. 3 2. 1. 3 3. 1. 1. 1. 一. 1. 1. 1. 2. 一. 1. 1. 2. 一. 1. 1. 一. 一. 一. 一. 一. 一. 一. 一. 2. 2. 1. 2. 2. 2. 3. 1. 2. 2. 2. 3. 1. 1. 一. 一. 一. 1. 4. 一. 1. 4. 一. 一. 一. 一. 一. 一. 一. ﹁. 一. 6. 9. 2. 4. 9. 2. 4 6. 5. 2. 5. 4 3 3. 2. 2. 2. 3. 2. 4. 2. 5. 2. 6. 2. 10 12 12 12. 1. 八. 八. 局. 三. 一. 務. 鮮. 学 府 同 封. 朝. ﹄. 正. 上. 鞍. 教 旨 朝. ﹃. 改. 〇. 一. 一. 3.
(35) この第三次朝鮮教育令の特徴を呉天錫は次のように指摘する。 ︵13︶. ︵一︶普通学校、高等普通学校、および女子高等普通学校の名称をかえ、小学校、中学校、および高等 女学校に統一。. ︵二︶現在、就業年限四年め普通学校が多数にのぼるが、財政的に困難なため、当分の間四年制尋常小 学校の存続を認めている。. ︵三︶師範学校は普通学校養成⋮機関と小学校養成機関が別であったものをひとつにする。. ︵四︶教科目、教科課程は朝鮮語を除いてすべて両国同一とする。. ︵五︶朝鮮語は正課から随意科目に転落させ、行政指導により、朝鮮語は禁止された。. 第三次教育令の最も大きな特徴は︵五︶の朝鮮語を随意科目とし、行政指導により事実上禁止したことで あろう。第三次中学校︵高等普通学校︶の朝鮮語教育・国語︵日本語︶教育のようすを第二次朝鮮教育令 ﹁高等普通学校規定﹂との比較でみておきたい。 ︵14︶. ◇中学校における朝鮮語・日本語教育 第二次朝鮮教育令では朝鮮語について次のように定めている。 ︿第二次朝鮮教育令・高等普通学校規定一朝鮮語﹀. 第十一条朝鮮語意ビ漢文ハ普通ノ言語、.文章ヲ了解シ・正確且自由二思想ヲ表現スルノ能ヲ得シメ・ 文学上ノ趣味ヲ養ヒ、兼ネテ知徳ノ啓発二資スルヲ以テ要旨トス。. 一 1. 一. 3.
(36) 次の第三次教育令の. 朝鮮語及ビ漢文ハ、普通ノ朝鮮企及ビ平易ナル漢文ヲ講読セシメ、 実用簡易ナル朝鮮文ヲ作 ラシメ、又朝鮮語文法ノ大要ヲ授クルヘシ。. 第二次朝鮮教育令では、文言の上では朝鮮語教育の必要性を一定程度認めており、 ﹁中学校規定﹂と大きな違いをみせている。 ︿第三次朝鮮教育令・中学校規定−朝鮮語﹀. 第十条 中学校ノ学科目ハ修身、公民科、国語漢文、歴史、 地理、外国語、数学、理科、実業、図画、 音楽、体操トス。. 前項ノ学科目ノ外、朝鮮語ヲ加フルコトヲ得。 朝鮮語ハ随意科目ト為スコトヲ得。. 第二四条 朝鮮語ハ普通ノ言語、文章ヲ了解シ、正確且自由二思想ヲ表現スルノ能ヲ得シメ、兼ネテ知 徳ノ啓発二資スルヲ以テ要旨トス。. 朝鮮語ハ普通ノ朝鮮文ヲ講読セシメ、実用簡易ナル朝鮮文ヲ作ラシメ、又朝鮮語文法ノ大要 ヲ授クベシ。生徒ノ情況二依リテハ発音、諺文ヨリ之ヲ授クルコトヲ得。. 朝鮮語ヲ授クルニ豊成ルベク日常ノ生活二関連セシメ、常二国語ト関連ヲ保チ、皇国臣民タ ルノ信念ヲ滴養セシムルコトヲカムヲ要ス。. 第三次朝鮮教育令では朝鮮語は教科としては体操に続き、最後の二四条で右の様に﹁皇国臣民タルノ信念 ヲ酒養スル科目﹂として定められた。そして、十条の朝鮮語を﹁随意科目﹂にする規定のほうが、むしろ重. 一. 一. 2 3.
(37) 要であり、かくて学校から朝鮮語の教科はなくなったのである。 次に国語︵日本語︶教育の中学校︵高等普通学校︶規定を比較しておきたい。. 国語漢文ハ普通ノ言語、文章ヲ了解シ、正確且自由二思想ヲ表現スルノ能ヲ得シメ、文学上. ︿第二次朝鮮教育令・高等普通学校規定−国語︵日本語︶﹀ 第十条. ノ趣味ヲ養ヒ、兼ネテ知徳二啓発二資スルヲ以テ要旨トス。 国語漢文ハ現時ノ国文ヲ主トシテ講読セシメ、進ミテ平易ナル近古文ヨリ、簡易ナル上古文. に関する文言は、朝鮮語と同程度の扱いであるが、第三次朝. 二及ホシ、又平易ナル漢文ヲ講読セシメ、簡易ニシテ実用二適スル国文ヲ作ラシメ、国語文 法ノ大要及ビ習字ヲ授クヘシ。 第二次朝鮮教育令において、国語︵日本語︶ 鮮教育令では随分その扱いが違っている。 ︿第三次朝鮮教育令・中学校規定一国語︵[口本語︶﹀. 第十︸条は指導上の留意事項を述べているが、その七項で国語について﹁国語ノ使用ヲ正確ニシ、且其ノ. 応用ヲ自在ナラシメテ国語教育ノ徹底ヲ期シ、以テ皇国臣民タルノ性格ヲ酒養セシムルコト。﹂と皇国臣民 の性格の酒養を強調している。. そして、国語教育については朝鮮語教育とは対照的に次のように規定している。. 一. 一. 3 3.
(38) 第十四条 国語漢文ハ国語ノ理解及応用ノ能ヲ得シメ、漢文ノ読方及解釈ノカヲ養ヒ、我が国民性ノ性. 質ト国民文化ノ由来トヲ明ラカニシ、国民精神ノ酒養二資スルコトヲ以テ要旨トス。. 国語二於テハ国語ノ構造特質ヲ知ラシメ、国語ノ正確ナル理解ト思想、体験ノ明確自由ナル. 表現トニ就キテ指導シ、国語が国民性ノ具現ニシテ、国語ノ教養が国民ノ自覚ヲ促シ、品位. ヲ高ムル所以ナルコトヲ会得セシメテ、国語愛護ノ念ヲ養フト共二、美的・道徳的情操ノ陶. 冶二力メ、漢文二於テハ︵以下省略︶・・・⋮. この⋮様に朝鮮語、国語︵日本語︶について、中学校規定を比較するたけでも、第二次と第三次朝鮮教育令. の違いは明確である。第三次教育令では具体的且つ、詳細な説明になっている。一方、教養としての古文等 の表記は削られている。. その他の科目に関しても、第三次教育令では国語教育と同様に、皇国臣民の思想が随所に強調されるので ある。歴史教育はもちろん、外国語でも﹁外国トノ比較二依リ、我が国民性ノ特異ナル所以ヲ知ラシメ、国 民道徳ノ養成二資セン。⋮﹂と言う具合に国民︵日本国民︶道徳を強調している。 この第三次朝鮮教育令は昭和十三年三月四日公布された。. 第三次朝鮮教育令に先立ち、昭和十三年二月二十六日、朝鮮陸軍特別志願兵令が公布され、更にその前年. の十一月一日﹁皇国臣民の誓詞﹂が制定になり、学校では毎朝朝礼でこれを斉唱し、宮城遙拝、国旗掲揚、. ︵昭和十二∼十三年︶、つまり第二次. 君が代斉唱等が行われるようになった。皇国臣民化教育であり、朝鮮民族の否定であった。. O. それにともない、一九三八年には朝鮮陸. 春川中学校で常緑会が結成され活動したのは、一九三七年∼三八年 教育令から第三次教育令に移行した、’まさに激変の時代であった。. この時期、日本はアジアに対する戦線を拡大した︵日中戦争︶. 一. 一. 4 3.
(39) 軍志願兵制度が実施されるなど、朝鮮の兵靖基地化は明らかになってた。このような時代の変化にもっとも 敏感であったのが学生である。. 三・一運動後のような独立運動の核となる全国的な組織はなく、独立運動にとっては困難な時代であった が、多くの学生たちは民族の独立を願い、立ち上がろうとした。. 昭和十二年九月十八日、春川中学校の学習会︵読書会︶で龍懊琵は次のように発言する。. 7・・吾等ノ前途二如何ナル困苦障害圧迫ガヤッテ来ヨウト、吾等ノ鉄腕西之ヲ突破シ得ル。. 吾等ノ鉄腕ハ万能ダ。吾等前二、吾等ノ鉄腕ヲ以テシテ、不能ナル事ハナイ。確乎タル信念ノ下二困難 圧迫二屈シテ、自暴自棄二陥ル事ナク、不買不屈、我等ノ目的歯向ヒ突進ショウ。﹂. ︵﹃常緑会事件尋問記録﹄第三巻︶. ﹃民度﹄にあった教育. 注. ﹁春川常緑会﹂は日中戦争が始まった植民地下で、厳しい弾圧に立ち向かい、独立を求める運動を始めた。.. ︵1︶. 民度は人民の貧富または開明の程度を意味し、朝鮮併合当時日本政府は朝鮮を開明の程度が低いと. の認識にたち、高尚な学問の必要はなく実業を中心とした教育を実施した。 ︵民度の説明・⋮﹃広辞苑﹄岩波書店 一九七五年版︶. 例、第一次朝鮮教育令では朝鮮人の民度が低いとして、中学校では外国語の授業がなく、普通科目 の割合が少なく、実業科目が重視されていた。. 一. 一. 5 3.
(40) ︵2︶鈴木敬夫﹃朝鮮植民統治法の研究﹄北海道大学図書館刊行会 一九八九. ﹃東亜日報﹄﹃朝鮮日報﹄. ︵3︶大野謙︸﹃朝鮮教育問題管見﹄京城・朝鮮教育会 一九三六 ︵4︶. 東亜日報、﹁九二〇年四月創刊。右派民族主義の立場を代弁した。朝鮮民衆の代表的な表現機関。 四〇年強制廃刊になる。. 朝鮮日報、一九二〇年七月創刊。左派民族主義の立場を代弁した。朝鮮民衆の代用的な表現機関。. 四〇年強制廃刊になる。 ︵﹃朝鮮を知る辞典﹄平凡社 一九八六︶ ︵5︶光州学生運動. 本論文、=畢四節五七頁を参照。 ︵6︶注3に同じ。 ︵7︶呉天錫﹃韓国近代教育史﹄高麗書林 一九七五 ︵8︶朝鮮総督府警務局﹃朝鮮人学生騒擾事件﹄ ・一九二六 ︵9︶朝鮮総督府﹃施政二十五年史﹄ 一九三五. 注3に同じ。. ︵10︶. 注7に同じ。. ︵11︶. 八木信雄﹃学生改革と義務教育の問題﹄京城・緑旗同盟 一九三八. ︵12︶. 注7に同じ。. ︵13︶. 朝鮮総督府学務局﹃朝鮮教育要覧﹄ 一九二六. ︵14︶. 朝鮮総督府学務局﹃朝鮮における教育改革の全貌﹄ 一九三八. 一. ︻. 6 3.
(41) 第三節 日本の植民地支配と朝鮮農村. 朝鮮農村の実情は、常緑会事件の中心人物の一人、李燦雨が﹁現在農村ノ状態ヲ観察スルニ、農村ハ粗衣. 粗食ハオロカ、粥ヲス、ッテ漸ク生活シテオルモノが大多数、富裕ナル少数ノ者ト難卜、単二生活ヲ維持シ. テオルノミデアッテ、非常二疲弊シテオル。⋮﹂ ︵﹃常緑会事件訊問記録﹄第二六巻︶と語っているよ. うに、農村の惨状は多くの学生達の心を動かし、行動にかりたてた最大の要因であったと思える。常緑会事. 朝鮮農村︵零細経営農家の増大︶. 件の理解のために、当時の農業の実情を概観しておきたい。. 、. 朝鮮併合以来の農政を概観すると、それは一九一〇年代の土地調査事業︵1︶、二〇年代の﹁産米増殖運. 動﹂ ︵2︶であり、三〇年代日本は朝鮮を大陸への兵姑基地化することを目指し、本格的な植民地政策を実. 施し、朝鮮農村を破壊に追いやった。まさに、朝鮮農民を窮乏と飢餓に追いやった歴史であった。農地を奪. われた農民は工業の未発達の中で小作予備軍として、農村に留まらざるを得なかった。日本帝国主義支配の 下で、とりわけ農民問題は深刻の度をましていったのである。当時の絶望的な朝鮮農村生活についは、総督 府もその実情を認めざるをえず、次のように述べている。 ︵3︶. ﹁農家、特に小作農の中には、秋の収穫期に小作料と借用食料及び債務利子を支払えば、あとには稲 を脱穀した台と籾を入れていたパガジ︵4︶しかの残らないという、惨憺たる状態にあるものも少なく ない。. それゆえ、こうした農民は、地主から来年の収穫を担保として食料を借りるのが常となっている。こ. 一. 一. 7 3.
(42) れを農糧と呼ぶ。農糧にも高率の利子がつき、かくして農糧に悩まされ、自から食料を生産しながら、. 自身はこれを食べることができず、端境期になると、もっぱら草根木皮で生命をながらえることが多い。. この窮状を表現して、春窮蘭越︵麦ができるまでの端境期の峠を越えるのが困難であるという意味︶と か い う 言葉がある。. さらに、次の統計をからも朝鮮農民のおかれた悲惨な状況を知ることができる。生活に必要な最小限の年 収、一〇〇円未満の者が四二%をも占めていたのである。 ︵5︶. 入収間年. 数個. %. べ. 調 月 ヨ 年. 一3. 4 査9 調1. 南 平. ︵金. 組 融. 連 合. 会 合 上土〃〃〃〃〃満円 未0000000一計00000040201010税翫乞L 免. 部 支. ?x馬脳3﹄﹄﹂−ρ0ρ00007ρOQU雪11⊥aUaUQり50り0り0 9σ只JQUら014 1 90. 49 O2 U1 T8 W7 W0 S6 W0. らσ7亡U77000803遵’9漣’1渇⑩泊’0001077830 1123 10. 石三斗である。この二〇石三斗からρ次のものを控. 籾の収穫高から全小作料を支払った残りは、二〇. 七斗である。. について小作料を籾に換算して四三五斗、計四一石. の支払い、籾についての小作料三七・二斗と、雑穀. 斗・大麦四斗・そば三斗・じゃがいも八石。小作料. 二九三八年︶収穫高、籾六二石・粟五斗・大豆七. この農家の収支計算は次のとおりである。. 家族は八名であり、そのうち働き手は五名である。. 金某は小作地、二二町歩、畑八段を小作している。. ︹江原道︺鉄原郡菓農場︵水利組合︶の小作農、. べている。 ︵6︶. 鉄原郡のある農家を例にし、 農民の生活の一例を述. そして、同﹃朝鮮年鑑︵一九四〇︶﹄は江原道の. 数 家 摩濃. 年. 入 収 間. 表. α. 一. 一. 8 3.
(43) 除する。. 一、家屋および農具年賦償還金と利子として籾三石四斗。 二、農具および肥料代および利子六石三斗。. 三、前借りした食料及び種子籾とその利子三石四斗。. 四、備荒貯蓄、これは農糧前借のため抵当として農場側が控除するもの・・二石建斗。 計一五石九斗。 これを差し引いた残りは、籾で四石四斗である。. これが小作農民の純収入となる。この純収入を当時の米価一石当たり一八円に換算するば、七九円二〇 .銭となる。. このほかの雑穀は自家消費に当てられる。この農家は右記純収入と一部の副業収入を合わせた=︸=. 小作の. そうであ. 円六〇銭でもって、営農費および生活費を支出しなければならない。しかし、約一七六円が不足する。 そのうち一〇〇円は高利貸から借り、残りは地主から雑穀で借りる。. 年収が一〇〇円以上あるこの農家でも結局は高利貸や地主から負債をせざる得ない状況である。 るとすれば、1表にある年収一〇〇円以下の四二%の農民の惨状は容易に想像できる。. 以上の例からも、うかがえるように朝鮮における地主・小作の関係は総督府も認めているように、 負担が余りにも重すぎる。. 次に、朝鮮における小作料・小作権の実施状況をみたい。. 二、朝鮮における小作慣行. 一. 一. 9 3.
関連したドキュメント
第 1 項において Amazon ギフト券への交換の申請があったときは、当社は、対象
金正恩体制発足後、初の外相会談も実施された。金正恩第一書記の親書を持参した李洙 墉(リ・スヨン)外相が、 9 月 30 日から 11
平成 28 年度は 4 月以降、常勤 2
事業名 開 催 日 会 場 参加人数 備 考 オーナーとの出会いの. デザイン 3月14日(土) 北沢タウンホール
⑤ 日常生活・社会生活を習得するための社会参加適応訓練 4.
「PTA聖書を学ぶ会」の通常例会の出席者数の平均は 2011 年度は 43 名だったのに対して、2012 年度は 61 名となり約 1.5
「PTA聖書を学ぶ会」の通常例会の出席者数の平均は 2011 年度は 43 名、2012 年度は 61 名、2013 年度は 79 名、そして 2014 年度は 84
「PTA聖書を学ぶ会」の通常例会の出席者数の平均は 2011 年度は 43 名、2012 年度は 61 名、そして 2013 年度は 79