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谷崎潤一郎と戦争 : 芸術的抵抗の神話

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Academic year: 2021

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(1)(95). 谷 崎 潤 一郎 と 戦 争 ︱ ︱ 芸 術的 抵抗 の神 話︱ ︱. 谷 崎 潤 一郎 は 、 第 二次 大 戦 中 、 国家 権 力 によ る弾 圧 を 受 け な が ら、 ﹃ 細 雪 ﹄ を 書 き 続 け た為 、 谷 崎 は ︽戦. 評 さ れ る よう にな った 。 が 、 果 し て谷 崎 は 、 本 当 に反. ︲年 刊 ︶ な ど と 識 人 ・言 論 弾 圧 の記 録 ﹄ 白 石書 店 、 S 5. 抵 抗 が つら ぬ か れ て いた の であ ろう ︾ 重 ︹ 田秀 俊 ﹃ 知. で、 作 者 の非 協 力 と 逃 避 の文 字 のう ら に こそ 、 言 外 の. ャ ンチ ヤ ン﹂ 又 は ﹁チ ャ ンチ ヤ ン坊 主 ﹂ と 蔑 称 し た事. 0︶によ れば 、 中 国 人 を ﹁チ し、 ﹃ 老 いのく り こと ﹄︵ S3. い谷 崎 には戦 争 の理由 は よく呑 み込 め な か った 。 し か. 、 ︲ 清 戦争 であ る。 ﹃ 幼 少 時代 ﹄ ︵ S0 3 ∼ 3︶ によ ると 幼. 谷 崎 が最 初 に経 験 し た 戦争 は 、 数え 年 九 歳 の時 の日. ら は、 専 ら戦 争 画 に興 味 を 感 じ て、 軍艦 の種 類 や、 軍. 憩 時 間 に石盤 に描 いて いた が 、︽日清 戦 争 にな つてか. 谷 崎 少 年 は以 前 か ら 武 者 絵 が好 き で、 よく 学 校 の休. 戦 と 芸 術 的 抵 抗 を 貫 いた 作 家 な のであ ろう か 。 日本 の. いても 問 い直 し て見 た い。. 谷 崎 の戦 争 観 を 再 検 討 し 、 併 せ て ﹃ 細 雪 ﹄ の意 味 に つ. は 、彼 も 例外 では な か った 。. 日清 日露 戦 争 か ら 日中 戦 争 ま で. 江. 敗 戦 か ら ち ょう ど 五十 年 の節 目を 迎え る こ の機 会 に、. 争 と 戦 争 政 治 にた いす る 不 同意 を この作 品 に託 し た の. 糸田.

(2) (96) 谷崎潤一郎 と戦争. 馳 せ た 嘲 八 卒 白 神 源 次 郎 の戦 死 の図 、 原 田重 吉 の玄 武. を 輝 か し て見 惚 れ て いた 。 中 でも ︽成 歓 の役 に勇 名 を. 双 紙 屋 の店 の前 に立 って、 三 枚 続 き の戦 争 の錦 絵 に眼. る のが楽 し み であ つた ︾ と 言 う 。 少 年 は毎 日 の様 に絵. 服 の階 級 別 等 に注 意 を 払 ひ 、 そ れ らを 細 か く 画き 分 け. 文 字 な り と す 。︾と し て、ゴ oヨ” ∽9 退 E ︼の 巧 F. ︽吾 人 の愛 す る所 は 雄 偉 の筆 を 以 て物 し た る悲 痛 な る. 無 題録 ﹄ で、 既 に現 わ れ て いた。 ま た 、 三十 六年 の ﹃. る 図 に﹂ と 題し た 歌 を 載 せ るな ど 、 忠 君愛 国 の傾向 も. 小 島 高 徳 桜 樹 に題 す た ﹃ 道 徳 的 観念 と美 的 観 念 ﹄ や ﹁. 三 十 五年 には藤 田東 湖 の ﹁ 和 文 天祥 正 気 歌﹂ を 引 用 し. 日露 戦争 開戦 時 には 、谷 崎 は数 え 年 十 九 歳 、 中学 四. 門 の 問 破 り ︾等 々 は 、 ﹃ 幼 少 時 代 ﹄執 筆 当 時 、 七 十 前. 6︶ 春 風秋 雨 録 ﹄ ︵ M3 の真 似 を し て描 いた ︾ と 言 う 。 ﹃. S 年 にな って いた が 、 ﹃シ ンガ ポ ー ル陥 落 に際 し て﹄ ︵. 、 ∪oくコ菫 ︼R F ︼ ” 5■ を 引 いて いる のは 民 族 主 義 への. 中略 ︶ では 、 ︽わ れ 幼 き より 、 最 も 嫌 ひ し は 軍 人 に て ︵. 7︶によ ると、︽毎 朝 日比 谷 の第 一中 学 校 へ通 ふ途 中 、 ︲. 後 の谷 崎 の記 憶 にも 残 って いた 程 であ る。 少 年 は 、絵. た と へ名 声 を 世 界 に ふ る ひ 、 功 名 を 天 下 にた つと も 、. 当 時 銀 座 尾 張町 の四 つ角 にあ つた某 新 聞 社 の楼 上高 く. 共 感 と いう 点 で注 目 さ れ る。. 他 人 の生 命 を 奪 ひ 、 刃 を ふ る ひ て血 を 流 す は 、 これを. 掲 示 さ れ る号 外 の 記 事 を 読 ん で は 血 を 沸 き 立 た し. 双 紙 屋 の ︽店 先 で図 柄 を 覚 え 込 ん で来 ては 、 熱 心 にそ. し も 人 の道 に か な へり と や いは む ︾ と 述 べ た 谷 崎 だ. 海 々戦 の時 の ︽国 民 的 感 激 ︾ は 、 昭和 十 七年 にな って. た ︾。 分 け ても 国 交 断 絶 後 の最 初 の海 戦 で ロシ ア軍 艦. 学 生倶 明 治 三 十 一年 には 、 阪 本 小 学 校 の回覧 雑 誌 ﹁. 直 木 君 の歴 史 も 忘 れ ら れ な いと 述 べ て いる。 ま た 、 ﹃. が 、 自 分 が な る の でな い限 り は 、 必ず しも 常 に軍 人 を. 学 楽 部 ﹂ に、 黄 海 海 戦 で の 日本 の勝 利 な ど を 描 いた ﹃. 小 説 に ついて実 S 8 ∼ 9︶でも 、︽嘗 て 日露 戦争 の時 、. 二隻 撃 減 の報を 読 んだ 時 、 そ れ か ら奉 天 の会 戦 、 日本.   一中 入 楠公論﹄ ﹃ 生 の夢 ﹄ の他 、 ﹃ 桜 井 駅 ﹄を 寄 稿 し 、. 殆 んど 舷 々相 摩 せ ﹁ 此 の 日天気晴朗 な れ ど も 浪 高 し﹂ ﹁. 嫌 った 訳 で は な か った ら し い。. 護 良 王 ﹄、 学 友 会 雑 誌 ﹂に漢 詩 ﹃ 学 後 も 、 三 十 四年 の ﹁.

(3) 光. 二 田 た 糸. (97). ふ豪 壮 な 戦 争 の記 述 を 読 む と 、 い つでも 血 湧 き 、肉 躍. 名 にな つた こと が あ つた が 、 わ れノヽ 日本 人 はあ ゝ云. んと す る が 如 く に﹂ と 云 ふ やう な 海 軍公 報 の文 章 が有. す め ら大 君太 刀と り て/ 文 明 の仇 、 世 界 の敵 、蛮 露 を. ま す 神 の仰を か し こ み て/ 亜 細 亜 の救 世 主 、神 の御 子. 日出 づ る東 の方 光 充 満 た る大 八洲 国 /高 天原 にお は じ. 中 略 ︶あ ゝ勇 しき 扶 桑 国 の日本 男児 の様 にな ら の軍 ︵. 討 てと起 ち たま ふ。 / 兵 馬 堂 々海 を こえ て再 お こ る神. 明治 三 十 七 年 十 二月 の ﹁ 学 友 会 雑誌﹂ に載 った 谷 崎. ひ て/ 一人 も 余 さ ず 皆 奮 ひ 起 て 亜 細 亜 の蒼 生 八 億 余. る のであ る。︾ と 述 べ て いる。. の ﹃ 春 期 撃 剣 部 小 会 記 事 ﹄ に は 、︽撃 剣 は 是 れ 実 に我. 万 。﹄︾. 帝 国主 義 的 な悪 しき 白 人 、 個 人主 義 的 で国家 を 顧 み. 大 和 民族 の固有 せ る武 術 、 須 く 世 界 に向 つて誇 称 す べ き 也 。 況 ん や 目 下 の時 局 に際 し 、 彼 の広 瀬 中 佐 に よ つ. な い中 国 人 、 アジ ア の救 世 主 日本︱ ︱ 素 朴 な 正義 感 と. し か し 、作 家 デビ ュー し た 谷 崎 は、 間も なく 西 洋 の. て本 邦 の武 術 の真 価 の世 界 に発 揮 せら れ た る今 日 に於. ︽聴 け 、悪 虐 の罪 の声 、黒 竜 江 の血 の流 れ 、 実 に大 神. 文 学 と 文 明 に心 酔 す る よう にな った為 、彼 の文 章 に反. 英 雄 崇 拝 に裏 付 け ら れ た こ の図式 が 、谷 崎 の脳裏 に意. も 怒 り ま す 、 権 威 に誇 る白 人 が 、 /か よわき 民 の血 を. 西洋 的 な 言 辞 が姿 を 現 わ す 事 は 、長 らく な か った 。第. てを や。︾ と あ る。 し か し 、 谷 崎 の日露 戦 争 観 を 最 も. す ゝり 毒 の剣 を 振 ふ時 、 欧 亜 の土 を撼 し ゝ成 吉 思 汗 の. 一次 大 戦 時 には 、非 難 ・賛 美 、 いず れ の反応 も 示 し て. 外 に深 く 刻 み込 ま れ て いた事 を 、我 々は後 に確 認 す る. 中 略 ︶ 黄 金 の財 殖 やす に は 賢 し き 支 那 霊 いか ん 。﹄ ︵. いな い。 そ の谷 崎 が 日本 回 帰 し 、 反 西洋 的 にな って行. よく伝 え て いる のは 、 同 じ 時 に ﹁ 学友 会 雑 誌 ﹂ に載 っ. の商 人 よ / 汝 利 欲 の念 を す て ゝこ ゝに社 稜 を 顧 み よ /. く のは、 も と より 彼 の内 的 必 然 性 に関 西移 住 な ど の外. 事 にな るだ ろう 。. 威 海 衛 上 ひ る が へる旗 のし る し を 如何 にみ る/ 膠 州 湾. 的 偶 然 が加 わ った結 果 であ る が 、 そ の外 的 要 因 の 一つ. た新 体 詩 ﹃ 起 て よ 、 亜 細 亜 ﹄ であ ろう 。. 辺 た ゞよ へる艦 を 何 国 のも のと 観 る。 ︵ 中略︶見 よ や.

(4) (98) 谷崎潤 一郎 と戦争. であ る が、 標 準 を 高 く し て云 へば 傑 作 と 云 ふも のは案. 日本 物 より 優 れ て ゐ る し 、 見 た 眼 が 面 白 いこと は事 実. 米 両 国 の映 画 の悪 口を 言 った 挙 句 に、︽亜 米 利 加 物 は. 映 画化 された ﹁ 同 年 十 一月 の ﹃ 本 牧 夜 話と で は 、 日. 食 の テーブ ル ・マナ ー は特 にう る さ 過 ぎ ると 批 判 し 、. 洋 食 の話 ﹄ では 、 洋 食 は 不 味 く 、英 米 人 の洋 月後 の ﹃. が 、 大 正 十 三年 五 月 に排 日移 民 法 が 成 立 し て僅 か 三 ヶ. の力 が作 り 出 す 偉 大 な 夢 だ 。︾ と 賞 賛 し て いた 。 そ れ. の眼 の眩 む やう な 絢 爛 な フイ ル ムは ︾、 ア メリ カ の︽富. ビ ・マリ ア﹄ で は 、 ア メ リ カ 映 画 に 関 し て、︽あ れ ら. り 、 壮 快 な気 分 にな ると 述 べ、 大 正 十 二年 一月 の ﹃ア. い元 気 と 活 力 と に充 ち 溢 れ た 亜 米 利 加 の国 民性 ︾ が 分. を 得 な い﹄ では 、 チ ャ ップ リ ン の喜 劇 か ら は ︽若 々し. 其 の歓 び を 感 謝 せざ る 谷 崎 は 、 大 正 九 年 十 二月 の ﹃. た 。 谷 崎 が レ ニング ラ ード の出 版 社 プ リボ イ に宛 てた. だ す か も 知 れな い。︾ な ど と 椰 楡 す るま で にな って い. を 放 つやう にしな け れば 、 真 の文 明 人 では な いと 云 ひ. にキ レイ に掃除を し 、垂 れ る糞 ま でが嬰 香 のやう な匂. メリ カ 人 は鼻 の穴 か ら 臀 の穴 ま で、 紙 め ても い ゝやう. な ると 、︽清 潔と 整頓 と を 文 化 の第 一条 件 と す る︾︽ア. S 5︶に 風 ︾を 非 難 す る。 さ ら に後 年 の ﹃ 瀬 惰 の説 ﹄ ︵. に扱 ふ︾ と 、作 中 人物 が 、 そ の ︽狭 量 な 、 不愉 快 な気. 自 分等 の仲 間 でな いど こ ろか 、 野蛮 人 であ るか のやう. 同 じ 西 洋 人 でも 、 ア ング ロサ ク ソ ン人種 でな け れば 、. 中 略 ︶ 彼等 は 洋 の商 権 を 独占す る やう にな つてか ら ︵. ︽亜 米 利 加 人 と英 吉 利 人 が 外 の外 人 を 追 ひ 払 つて、東. 正 十 五年 二月 の ﹃一と 房 の髪 ﹄ では 、第 一次 大 戦後 、. な いと し て、石井 漠 兄妹 の舞 踊 を 絶 賛 す る。 ま た 、大. い、 ア メリ カ のデ ニ oシ ョウ ン 一座 な ど 寄 席 芸 に過ぎ. 本 の舞 踊 ﹄ では、含目目 的 な 西 洋 芸 術 崇 拝 の弊 ︾を 言. だ ︾ と 述 べ て いる。 翌大 正 十 四年 十 一月 の ﹃ 西洋 と 日. 外 少 い。 だ か ら 其 奴 を 無 批 判 で受 け 入 れ 、 そ れ にか ぶ. 昭 和 四年 頃 の書 簡 で、 ﹃ 痴 人 の愛 ﹄ は ア メ リ カ か ぶれ. ア メリ カ の排 日移 民 法 案 も あ った よう に思 わ れ. れ る のは宜 しく な い。 日本 には 日本 で芸 術 の伝 統 があ. 批 判 だ と 説 明し て いる のも 、 こう し た 反 米 感 情 を 執筆. は. る のだ か ら 、 映 画 に於 いても 寧 ろ そ の方 を 開拓 す べき. ○. る(1)に.

(5) 江. 光 細. (99). 説 さ せ てお り 、直 隷 派 の背 後 に英 米 が 、 反 直 隷 派 の背. 派 と 反 直 隷 派 、張 作 森 と 呉 侃 年 の関 係 ︾ を 主 人 公 に解. 為 介 の話 ﹄ で、︽直 隷 谷 崎 は 、 大 正 十 五年 一月 の ﹃. 右 に挙 げ たも のは 、 主 に文 化 面 に つ いて の非 難 であ. 後 に 日本 があ って、 中 国 で の権 益 を 巡 って鏑 を 削 って. 当 時 に遡 って投 影 し た 結 果 であ ろう 。 5︶ にな ると 、大 分き な 臭 つた が 、 ﹃ Tl 上海 交 遊 記 ﹄ ︵. り では な いかも 知 れ な い。︾ と 慰 め て いる。 こ の様 に、. い汁 を 吸 は れ て ゐ る 訳 で、 苦 し ん でゐ る のは支 那ば か. さ れ て ゐ るだ らう 。 詰 ま り 世 界 ぢ ゆう が、彼 等 にう ま. る。︾︽日本 にし た つて ア ング ロサ ク ソ ン の金 力 に支 配. 米 利 加 と 英 吉 利 の金 で、 此 れ も 世 界 中 を 席 巻 し て ゐ. そ れ に対 し て谷 崎 は 、 ︽外 国 の資 本 と 云 つても 主 に 亜. 力 と 実 権 と を握 つて ゐ る者 は外 国 人だ 。︾. 中 略 ︶ 上 海 は 殷 賑 な 都 会 だ と は 云 へ、 そ こ の富 ふ。 ︵. 入 し て来 て、う ま い汁 は み ん な 彼 等 に 吸 は れ て し ま. 中 略 ︶ 外 国 の資 本 が 流 に次 第 に駆 逐 さ れ つ ヽあ る。 ︵. ︽わ れノヽ の国 の古 い文 化 は 、 目 下 西 洋 の文 化 のた め. 沫 若 か ら次 の様 な 訴 え を 聞 か さ れ る。. 英 語 や仏 語 の直 訳 に終 つた のは 是 非 も な いけ れども 、. つけ ても 西洋 文 物 の模 倣 時 代 であ つた か ら 、 文 法 迄 が. ︵ S 4︶ でも 、学 校 文 法 に関 し て、︽明 治 年 間 は何事 に. 現 代 国語 文 の欠 点 に ついて﹄ つた。︾と 書 いて いる し、 ﹃. って、︽現 在 の日本 文 は非 常 に煩 は し い醜 いも の にな. S 2︶ では 、 西 洋 の文 脈 が 入 って来 る事 に よ 舌 録﹄ ︵. 谷 崎 は こ の後 、 西 洋 的 な も のを 低 く 評価 し 、 日本 的 ︲ 饒 な も のを 称 揚 す る発 言 を 繰 り 返 し て行 く 。 例え ば ﹃. 戦 争 を 肯 定 さ せ る事 にな る の であ る。. 親 中 国 的 であ った谷 崎 に、 満 州 事 変 以 降 の日本 の侵略. を 得ざ る事 と 見 な し て いた ら し い。 そ し てそ の事 が、. に対 し て行 なう 侵略 ・搾 取 は 、 正 当 な いし は 必 要 やむ. 谷 崎 は 、 英 米 の帝 国主 義 は 批 判 し ても 、 日本 が アジ ア. いた事 実 も 、 恐 らく は知 って いた であ ろう 。 し か し、. いも の にな って来 る。. ﹃ 上 海 交 遊 記﹄ の谷 崎 は 反 英 米 的 であ り 、 同 時 に中 国. 私 た ち の習 つた やう な文 法 が今 も 教 へら れ て ゐる のだ. 大 正 十 五年 一月 、 上 海 を 訪 れ た 谷崎 は 、 田漢 及び 郭. に対 し ては 同情 的 であ った 。.

(6) (100) 谷崎潤 一郎 と戦争. 洋 思 想 を 尊 重 す る こと であ る。 徒 ら に左 傾 思 想 の取 り. 頃 であ る。︾︽国 語 の伝 統 的 精 神 を 発 揚 す る こと は 、東. も う 今 日は 独 創 的 な 国 文 法 が お こな は れ て ゐ ても い ヽ. と し た ら 、 全 く 有 害 に し て無 益 な も の であ る。 ︵ 中略 ︶. く は 保 護 国 の繁 栄 と を 思 ふ時 、 日本 文 化 の光 被 す る範. し いと は 云 ふも の ゝ、我 が帝 国 の隆 盛 と 、 殖 民 地 若 し. 難 であ る か ら、 世 界 の読 者 を 顧 客 に持 つこと はむ づ か. な る と 、︽わ れノヽ の国 語 は 外 国 語 に翻 訳 す る の が 困. さ ら に、 ﹃ 職 業 と し て見 た 文 学 に つ いて﹄ ︵ SO l︶ に. 小 説 家 稼 業 は今 後 大 いに発 展 の余 地 があ り 、 我 が 国運. 締 ま り を す る よ り は 、 此 の方 が ず つと 有 効 で は な い. こう し た 考 え の延 長 線 上 に書 か れ た のが 、 ﹃ 文章読. の消 長 と 運命 を 共 にす るも のと 云 ︾え ると 、 領 土 拡 張. 囲も だ んノヽ 広 く なり つ ゝあ る。 斯 く 考 へて来 れ ば 、. 本﹄ ︵ S 9︶ であ る が 、 そ の第 一章 で は 、 日本 語 の語. 主 義 的 な 発 言 が 飛 び 出す ま で にな る。. か 。︾ な ど と 述 べ て いる 。. 彙 が 乏 し いのは寡 黙 な 国 民 性 によ る と し て、次 の様 な. 満 州 事 変 ・満 州 国 建 国 ・国 際 連 盟 脱 退 と いう 一連 の事. 彼 の方 へ同 情 す る。︾. り な が ら 、各 国 の代 表 は 支 那 人 の弁 舌 に迷 は さ れ て、. ま く ら れ る。 わ れ ノヽ の方 に正 当 な 理 由 が十 三分 にあ. 議 でも 、 し ば ノヽ 日本 の外 交 官 は支 那 の外 交 官 に云 ひ. な る と 、 訥 弁 のた め に引 け を 取 り ま す 。 国 際 連 盟 の会. ︽我 等 日本 人 は 戦 争 に は 強 いが 、 い つも 外 交 の談 判 に. 程 では な いかも 知 れな い︾と 述 べ て いる。 思え ば 谷 崎. では な く な つて来 た ら しく 、 も は や直 本 君 の慨 歎 す る. 見え 出 し て、若 い作 家 たちも 以 前 のやう に歴 史 に冷 淡. 国 文 学 の古 典を 再 び新 し い眼 で見 直 さう と す る傾 向 が. ズ ム の拾 頭 と 共 に国粋 主義 を 口 にす る者 が漸 く多 く 、. 史 小 説 に つ いて﹄ ︵ S 8 ∼ 9︶ では 、︽最 近 、 フア ツシ. た 直 木 三 十 五 に対 し ても 好 意 的 だ った 。 ﹃ 直 木 君 の歴. 歓 迎 し て いた ら しく 、 昭和 七 年 に フ アシズ ム官一 言をし. 谷 崎 は 、満 州 事 変 以 後 の国 粋 主 義 的 な 動 き も む し ろ. 件 に つ いて、谷 崎 が 日本 の正 当 性 を 信 じ 切 って いた事. は、 ﹃ 饒 舌 録 ﹄ で既 に、︽立 憲 政 治 と か 代 議 政体 と か云. 例 を 挙 げ て いる。. が 良 く 判 る。.

(7) 光 江 細. (101). 崎 は、︽わ れノヽ の国 の固有 の伝 統と文 明と は、東京. S9︶ の最後 で谷 た可能性 があ る。 ﹃ 東京を おも ふ﹄ ︵. 谷崎 は橘 の農本主義的 フ アシズ ム思想 にも 同情的だ っ. を見 て、貰 い泣きをしそう にな った事 が出 て いるが、. ら何を云 ふことがありま せう ︾と言われたと いう記事. 後 の別 れ に行き、︽お前 がお国 のため に尽 し てゐるな. 座 し て服役中 の愛郷塾主 ・橘孝 三郎が、危篤 の母 に最. ﹃ 初昔﹄ には、昭和十 一年十月、五 ・一五事件 に連. たと 言 う ︵ 高木治江 ﹃ 谷 崎 家 の思 い出 し 。 ﹃ 細 雪﹄ に. 度 さ は 申 す も 畏 れ多 いこと な が ら﹂ と い った 調 子 だ っ. 居 に つ いて語 る時 には 、 ﹁ 瑞 雲 棚 引 く 千 代 田 城 の目 出. 拝 領 し た こ の紫 衣 を 貰 い受 け 、 大 切 にし て いた し、皇. て いる のを 目撃 し た。 谷 崎 は宮 仕 え を し て いた 伯 母 が. さ な が ら に紫 の衣 を 両手 に捧 げ 持 って、皇 居 を 遥 拝 し. が書 斎 の灯 り を 消 し て月 の光 を 浴 び な が ら 、 菅 原道 真. し て いた 江 田治 江 は 、 昭和 五年 八 月末 の或 る夜 、谷 崎. ︵ S 7︶ では 後 鳥 羽 院 を 追 慕 し て いる。 谷 崎 の助 手 を. こ の時 期 にはま た 、少 年 時 代 以 来 の天皇 崇 拝 の傾向. 中略︶ よりも却 つて諸君 の郷土 に於 いて発見される。 ︵. も 、 ︽勿 体 な く も 天 子 様 のお膝 元 へ移 住 す る と 云 ふ の. ふやう なも の︾が ︽果し て日本 の国民性 に合致 した政. 東京 は西洋 人 に見せるため の玄関 であ つて、我 が帝国. に︾ ︵ 上 巻 二十 一︶ と か 、︽瑞 雲 棚 引 く 千 代 田城 のめ で. が、 作 品 の中 にま で顔を 覗 か せ始 め 、 ﹃ 乱 菊 物 語﹄ ︵ S. を今 日あ らしめた偉大な力 は、諸君 の郷土 に存す るの. た さ は 申 す も 畏 いこと ヽし て︾ ︵ 中 巻 十 四 ︶ な ど の表. 体 であ るか どう か︾と 疑 間を 投 げ 掛け て いた のであ. だ。︾と読者 に呼び掛け て いるか ら であ る。 こう した. 現 が 使 わ れ たり 、 シ ュト ル ツ父 子 と 雪 子 と 悦 子 が 二重. 直 刈﹄ 5︶ ﹃ 吉 野 葛 ﹄ では 後 南 朝 の史 実 を 取 り 上 げ 、 ﹃. T5 友 田と松永 の話﹄ ︵ 郷土主義 的な考え方は、 ﹃ l︶あ. 中 巻 十 四︶ が 出 て来 た り す る。 橋 で最 敬 礼 す る 場 面 ︵. Z θ。. S3∼4︶ や ﹃ 吉野 たりから表 面化 し、﹃ 蓼喰 ふ虫﹄ ︵. こ の頃 の谷 崎 はま た 、 軍艦 にも 関 心 を 示 し て いて、. 確 認 でき るも のだ け でも 昭和 五年 十 月 、 十 一年 十 月 の. S6︶は、そ の流 れ の中 で産 み出 さ れたも のだ 葛﹄ ︵ った。.

(8) (102) 谷崎潤一郎 と戦争. 太 郎 宛 書 簡 で報 告 し て いる。. に乗 船 さ せ て貰 った事 を 、 十 月 三十 一日付 け の佐 藤 豊. 三度 、 観 艦 式 を 見 に行 き 、 昭和 十 一年 の時 には 、 軍艦. る。 日中 戦 争を 日本 の侵 略 戦争 と す る考 え な ど は 、微. 国 万 歳 ﹂ な ど は いか ゞでム いま す 。︾ と 書 き 送 って い. が学 校 へ提 出す る書 初 め の文句 に つ いて、 ︽時 節 柄 ﹁ 帝. 話﹄ ﹃ 聞 書 抄 ﹄ と 、 谷 崎 が 乱 世 の武 将 を 好 ん で 顔世﹄ ﹃. いて、 そ の下訳 が完 成 に近 付 いて いた が 、 中 央 公 論 社. こ の当 時 、谷 崎 は ﹃ 源 氏 物 語﹄ 現 代 語 訳 に従 事 し て. 塵 も な か った のであ る。. 取 り 上 げ る よう にな る のも 昭和 五年 か ら 十 年 に掛 け て. の意 見 により 、 そ の出 版 は時 局 平定 ま で見 合 わ せ る事. ﹃ 乱菊物 語﹄ から ﹃ 吉 野葛 ﹄ コロロ物 語 ﹄ ﹃ 武州公秘. の事 、 戦 国 の武 将 谷 崎 忠 右 衛 門 に谷 崎 家 の ルー ツを 求. にな った 。 谷 崎 は 昭和 十 二年 十 二月 十 八 日付 け 土 屋計. 同様 の考 え は 、 昭和 十 四年 一月 に刊 行 さ れ た ﹃ 潤一. て いる。. さ へ済 めば 前 より 一層 有 望 と 云 ふ訳 です ︾ と 付 け 加 え. 文 化 発 揚 の意 義 が 認 め ら れ て来 た時 勢 です か ら 、 戦争. 左 右 宛 書 簡 の中 で、 そ の事 に触 れ た 上 で、 ︽尤 も 東 洋. めた ﹃ 私 の姓 の こと ﹄ も 、 昭和 四年 の文 章 であ る。 二、 日中 戦争 から太 平 洋 戦争 ヘ. そ れ では 、 昭 和 十 二年 七 月 七 日か ら始 ま った 日中 戦 争 に対 す る谷 崎 の反応 は ど う か 。. た 歌 ︽み いく さ は 南 に北 に勝 つと いふ つち のえ 寅 の春. を ひも と き てあ り ぬ︾と 、︽昭 和 十 三 年 元 旦 ︾ と 題 し. と 題 し た 歌 ︽南 京 の城 お ち ゐ る と 聞き な が ら宇 治 十 帖. わ れノ ヽ が敢 て世 界 に誇 る に足 ると 信 ず ると こ ろ の、. 東 亜 再 建 の事 業 に邁 進 し つ ゝあ る。 かう 云 ふ時 代 に、. 社 会 の状 勢 が著 し く 変 り 、今 や我 が 国 は 上 下協 力 し て. ︽顧 れ ば 、足 かけ 四年 前 に私 が筆 を執 り 始 め た 頃 と は 、. 郎 訳 源 氏 物 語﹄ 巻 一序 の、 次 の様 な 一節 にも 窺 わ れ る。. を 迎 ふ る ︾ が 収 め ら れ て いる。 そ し て昭和 十 二年 十 二. わ れノヽ の偉 大 な る古 典 文 学 の結 晶 を 改 め て現 代 に紹. 、 ﹃ 谷 崎 潤 一郎 家 集 ﹄ ︵ S2 5︶ に は ︽南 京 陥 落 の 日︾. 月 二十 四 日付 け 松 子宛 書 簡 には 、 小 学 生 の娘 ・恵 美 子.

(9) 光 江 細. (103). 国 粋 主 義 歓 迎 は 、 こ の頃 の谷 崎 の 一貫 し た態 度 な ので. な い。︾. 介 す る こと にな つた のも 、 何 か の機 縁 であ る かも 知 れ. 遊 が 、金 づ く で ア メ リ カ 人 の妾 に さ れ そ う に な った. は 、 谷 崎 も 同 じだ った 。幕 末 の横 浜 岩 亀 楼 の遊 女 ・喜. 落 籍 さ れ た お 雪 の帰 国 に、 反 米 感 情 を 刺 激 さ れ た の. は濡 ら さ じ﹂ と いう 歌 を 残 し て自 殺 し た と いう 伝 説 を. 露 を だ に いと ふ大 和 の女 郎 花 降 る あ め り か に袖 時、 ﹁. 昭 和 十 三年 四 月 、 モ ルガ ンお 雪 の帰 国 が新 聞 紙 上 を. 踏 ま え て いる のも 、 そ の為 であ る。 だ か ら右 の引 用 部. あ る。 賑 わ す が 、 そ の際 、 谷 崎 は喜 び の余 り 涙 が止 ま ら な か. 全 初 昔 ﹄が戦後 初 め て活 字 にな って、 新 書 版 ﹃ 分 は、 ﹃. 皇軍に 大 大 阪﹂ ﹁ 翌 昭 和 十 四年 一月 、 谷 崎 は 雑 誌 ﹁. った事 を ﹃ 初 昔 ﹄で回想 した 後 、 次 の様 に続 け て いる。. 声﹂ に つい 大阪人 の ﹁ 捧 ぐ 感 謝 と 慰 問 特 輯 号 ﹂ に、 ﹃. 3︶ に収 録 さ れ た際 に削 除 さ れ 、 現在 の 3巻 ︵ S3 集﹄ 2.   一方 反英 米 思 想 が熾 烈 な 慕 す る念 が 眼 覚 め つ ゝあ り 、. 私 の見 た大 阪 及 び 大 阪 人 ﹄ て﹄を 寄 せ て いる。 これ は ﹃. 全 集 でも そ の儘 にさ れ て いる のであ る。.  一旦 は降 る ア メリ ら んと し て ゐた 時 代 であ つた か ら 、 、 カ に袖 を 濡 ら し た お 雪 が、 翻 然 と 日本 人 に復 つて 少. の 一節 の再 録 に過ぎ な いが、谷 崎 潤 一郎 自 筆 の題 と 署. ︽蓋 し あ の当 時 は さ つき も 云 ふ通 り 支 那事 変 の第 二年. か ら ぬ動 産 不 動 産 の損 害 を も 顧 みず 故 国 の懐 へ飛 び 込. 名 があ り 、 協 力 の意 志 は 明 ら か であ る。. 真 に日本 的 な るも の﹂ を 探 求 し愛 目 で、 国 民 の間 に ﹁. ん で来 た 行 動 には 、大 いに国 民 的 共鳴 を 喚 び 起 す も の. に序 文 を 寄 せ て、︽今 は 総 べ て の東 洋 の古 典 が 新 し く. 東 光︶ の ﹃ 易 学 史﹄ 昭 和 十 六 年 一月 に は 、今 春 聴 ︵. 中 見 直 さ れ よう と し て ゐ る のであ る か ら 、 此 の書 は ︵. があ つた 訳 な の で、 さ れば こそ新 聞 があ んな に持 て囃 し た の でも あ らう 。 と す ると 、 あ な がち 私 一人 が感 動. 、 版 であ る と 云 へる。︾ と 述 べ て いる。 も っと も こう. 略 ︶ 世 間 一般 に取 つても 頗 る時 機 を 得 た 、 有 意 義 な 出. 7/ 7 ﹁ 文芸 Sl し た の で は な か つた か も 知 れ な い︾ ︵ 春秋 し か つて ア メリ カを 代 表 す る モ ルガ ン財 閥 の御 曹 子 に.

(10) (104) 谷崎潤 一郎 と戦争. と 用 紙 の確 保 が 難 し か った当 時 の出 版 事 情 によ る面 も. し た 序 文 には 、 出 版 の意 義 を 大 袈 裟 に言 ってお か な い. ヨ刷翻コ﹁副日J倒司綱日コ創ヨ捌劉 刻鞘利翻利劃ヨヨ劉酬コ刻引刻引剰剰. 刷刷劃馴列劃劉劃劉引倒﹁到日司引剥. あ り 、 幾 分 か は 割 引 いて考 え ね ば な ら な い。 昭和 十 六年 四 月 十 一日 には 、 京 都 帝 大 で開催 さ れ た て いる。 東 亜 文 化 協 議 会 は 、 昭 和 十 三年 八 月 、 日本 の. 月 八 日と 云 ふ日は 、 二重 の意 味 で私 には忘 れ ら れ な い. に行 き 、 初 め て初 孫 の顔 を 見 た ので、 昭和 十 六年 十 二. ヨ劉ヨJ判悧劉囚剛洲創川﹁剰司調細 、﹁九段のK病院 劃洲州団目川目剰引引則劃引回目劃︱ し. 愧 儡 政 権 だ った 王 克 敏 の中 華 民 国 臨 時 政府 と 日本 政 府. め でた い日 にな つた 。︾ ︵ 傍 線 細 江 ︶と な って いた 。 谷. 東 亜 文 化 協 議 会 文 学 部 会 に参 加 し 、 周 作 人 と 語 り 合 っ. が 、 日中 文 化 提 携 の中 心 機 関 と し て設 置 し たも の であ. 十 二月 八 日と 云 ふ 日 は 、 二重 の意 味 で私 には忘 れ ら れ. 院 に行 つて、 初 め て初 孫 の顔 を 見 た の で、 昭和 十 六年. ︽ち よ つと 偕 楽 園 に寄 り 、 そ れ か ら 直 ち に九 段 のK病. を 見 に病 院 に行 こう と し て いて開 戦 の知 ら せを 聞 き 、. と さ れ た 。 谷 崎 は こ の日 の朝 、 鮎 子 の産 んだ 初 孫 の顔. 同年 十 二月 八 日 、 遂 に太 平 洋 戦 争 の火 蓋 が 切 って落. に重 ね て此 のよ ろ こび あ り 外 には皇 軍赫 ゝの捷 報 あ り. 子 の出 産 に 関連 し て、︽ま こと に本 年 は 源 氏 翻 訳 完 成. 十 二月 二十 日付 け で小 島 政 二郎 に宛 てた書 簡 では 、鮎. 行 く 子 のお ひ先 よ光 り か ゞよ ふ︾と 書 き 送 った 。 ま た. り し 今 日 ぞ 初 孫 を 見 る︾︽偉 いな る時 に生 れ て そ だ ち. 学﹂ 展 図 録 所収 ︶ に、︽た ゝか ひを 宣 ら せ 給 へる 詔 下. 宛 てた 葉 書 ︵ 生 誕 一〇 〇年 記念 ﹁ 谷 崎 潤 一郎 o人 と 文. 崎 は こ の感 激を 歌 に詠 み 、十 二月十 四 日付 け で鮎 子 に. な い日 にな つた ︾ と 、 現行 全 集 所 収 の ﹃ 初 昔 ﹄ には あ. 内 外 共 に多 事 に て愈 ゝ小 生 に取 り ては忘 る べか ら ざ る. Z 匈。. る 。 し か し 、 こ こ にも 先 の例 と 同 様 、 新 書 版 全 集 以 来. 年 と 相 成 申 候 ︾ と 述 べ て いる。. こう し た 感激 と 興奮 を そ の儘 に伝 え てく れ る のが 、. 7/ 9︶では 、 ︽偕 の削 除 があ り 、 初 出 翁文 芸 春 秋 ﹂S l 楽 園 へ寄 つて、 借 楽 園 主 人 の居 間 で待 つて ゐ る 間 に、.

(11) 光 江 細. (105). 皇 軍 が シ ンガ ポ ー ルを 陥 れ た と 云 ふ快 報 を 耳 に し て︾. ﹃シ ンガ ポ ー ル陥 落 に際 し て﹄ であ る。 これ は 、︽無 敵. の労 苦 に満 腔 の謝 意 を 表 し 、貴 い犠 牲 と な つた 幾多 の. ︽御 稜 威 の下、 斯 く の如 き 輝 か し い戦 果 を 齋 し た 皇 軍. こ の文 章 は 、 昭 和 十 七年 二月 十 五 日、 シ ンガ ポ ー ル. 英 霊 に敬 弔 の誠 を 捧 げ る︾。 そ し て、 最 後 に ︽将 来 の. て、 香 港 及 び マ ニラ の占 領 に於 いて、更 にノヽ これを. のイ ギ リ ス軍降 伏 を 受 け て、 早く も そ の翌十 六 日 の夜. の所 感 を 述 べた も の で、 こ の様 な ︽国民 的 感 激 ︾ は 、. 経 験 し 、今 又 シ ンガ ポ ー ル の陥 落 を 聞 いて これを 経 験. 八時 から 、 JO A K で和 田 アナ ウ ンサ ー によ って朗 読. 日本 人 た る者 は 、 大 東 亜 の文 化 を 指導 し福 利 を 増 進 す. す る の であ る ︾ と 言 い、︽我 が 日本 帝 国 が 東 洋 の天 地. 放 送 さ れ、 ﹁ 文 芸 ﹂ 三 月 号 に再 録 さ れ た 。 進 ん で書 か. 普 通、   一生 に 一度 あ る か な いか であ る のに、自 分 は 日. に打 ち 立 てた赫 々た る偉 業 の跡 を 振り 返 つて見 ると 、. れ たも の であ る事 は 疑 いの余 地 がな い。︽皇 軍 の征 く. る使命 が自 分 達 の双 肩 にか ゝつてゐる こと を 覚 悟 ︾ す. 豪 爾 た る東 海 の島 帝 国 が 一度 起 つて老 大 清 国を 鷹 懲 し. と こ ろは 常 に公 明 正 大 であ ︾ る と いう 信 念 は 、 ﹃ 起て. 清 o日 露 戦 争 に続 い て、︽畏 く も 昨 年 十 二 月 八 日宣 戦. てか ら 、 遂 に今 回 の挙 を 以 て、香 港 、 フイ リ ツピ ン、. よ 、亜細 亜 ﹄ 以 来 、 全 く 揺 ら いで いな い。 ま し て や反. べき であ る、 と 結 ん で いる。. マレ ー方 面 よリ ア ング ロサ ク ソ ン人 の勢 力 を 駆 逐 す る. 戦 な どと いう 考 え は 、 谷 崎 の頭 に浮 か ぶ べく も な か っ. の大 詔 を 拝 し て以 来 、 布 畦 及び マレー沖 の海 戦 に於 い. に 至 る 迄 、皇 軍 の征 く と こ ろ は 常 に公 明 正 大 であ つ. た。. 昭和 十 七 年 六 月 、 日本 文 学 報 国 会 が 設 立 さ れ る と 、. て、 欧 州 人 の侵 略 史 に見 る が如 き 不正残 虐 の事 蹟 を 留 め な い のは 、真 に 聖 戦 の名 に負 か ず と 云 つて よ い。︾. 翌 七 月 、 斎 藤 清 二郎 の ﹃ 文 楽 首 の研 究 ﹄の序 を 執 筆 。. 谷 崎 も 小 説 部 会 の名 誉 会 員 と し て参 加 す る 。. ︽我 が 国 に依 る大 東 亜 の解 放 と 云 ふ こと は 決 し て偶 然. そ の中 で 谷 崎 は 、 ︽今 の時 局 に か う 云 ふ 研 究 的 に し て. と し 、倭 冦 や豊 臣 秀 吉 ・真 如 法 親 王 の先 例 を 挙 げ て、. でな い︾と す る。そ し て︽哀 心 より 帝 国 の万 歳 を 叫 び ︾、.

(12) (106) 谷崎潤 一 郎 と戦争. を 怠 らざ るわ れノ ヽ 日本 国 民 の、 不 撓 不 屈 の精 神 を 語. の大 戦 に際 し ても 一日と し て国 粋 文 化 の研 鑽 と 発 揚 と. 中 略 ︶ 此 の未 曾 有 美 術 的 な 書 籍 の出 版 を 見 た こと は ︵. 文 出 身 の作 家 ら し い自 然 な 態 度 だ った 。︾と いう 事 で. で、 ゆう 然 と し て国 策 協 力 を 説 いて いた。 いか にも 国. 英 治 氏 が熱 烈な 語 調 だ った に比 し 、 谷 崎 さ んは和 服姿. 3 谷 崎 潤 一郎 氏 の思 い出 ﹄ に よ れ ば 、金 口川 6歳 ︶ の ﹃. 三、 ﹃ 細 雪 ﹄ の執 筆. あ る。. るも の であ ると 云 へよう 。︾ と 述 べて いる。 同 年 十 月 一日、 反 高 林 で近 く に住 ん で いた 黒 瀬 隆 志 氏 が 入 営 す る事 にな った 。 谷 崎 は そ の日、 隣 組 の人 達 と 一緒 に 日 の丸 の旗 を 振 って、 住 吉 神 社 か 三宮 ま で見 送 った 。 出 征 兵 士 に対 し ては 、 い つも 同 じ 様 にし て熱. ″戦 ふ文 学 魂 ″に融 け あ つて講 演 会 を 終 つた ︾と あ る。. に富 む ﹁ 所 懐 ﹂ を 述 べ、 壇 上 、聴 衆 席 と も に渾然 た る. こ の時 、 ︽最 後 に 日 本 文 学 報 国 会 谷 崎 潤 一郎 氏 が 示 唆. か れ た。 翌 日 の ﹁ 東 京 朝 日 新 聞﹂ T じ 面 記 事 に は 、. 共 同 主 催 で、 午 後 一時 よ り 大 阪 中 之 島 中 央 公 会 堂 で開. 東 亜 文 学 者 大 講 演 会 が 、 日本 文 学 報 国会 ・朝 日新 聞 社. 出 席 の 一行 を 大 阪 に迎 え て、 同大 会 閉会 式 を 兼 ね る大. 同 年 十 一月 十 日、 東 京 で開 か れ た 大 東 亜 文 学 者 大 会. 。 ﹁細雪﹂ 回顧﹄ ︵ S3 文学界﹂など︶ 3 ﹁ 2︶など の回. 4/ 始も そ の頃 であ る ︵ 座談会 ﹁ 細雪を めぐ つて﹂ S2. ﹃ 全集﹄ ﹁ 夢魔 の 一時期し、執筆開 月報 9 1﹂畑中繁雄 ﹁. 新書版 央公論﹂ への掲載が決ま るのは、 こ の年 の秋 ︵. 中 は辞退し、結局、中央公論社 が引き受けたと言う。﹁. 打診 した。しかし、執筆 に五年 かかると聞 いて創 元社. 元社 の和 田有司を反高林 に呼 ん で、﹃ 細 雪﹄ の出版を. 出版人 の肖像﹄ によれば、谷崎は この年 の二月頃、創. た年 でもあ る。大谷晃 一の ﹃ 矢部良策と創元社 あ る. 昭和十七年と いう 年 は、﹃ 細 雪﹄ の執筆 が開始 され. 朝日 ま た 、 谷 崎 の死 に際 し て、 昭 和 四十 年 八 月 六 日 ﹁. 想 によれば、何年何月 にこう いう事 があ ったと年代記. 心 に見 送 って いた と 黒 瀬 氏 は 証 言 す る。. 自由業 ・ 新 聞﹂ ﹁ 声 ﹂ 欄 に掲 載 さ れ た 西 尾 福 三 郎 氏 ︵.

(13) る事 な ど が 、 こ の頃 、 予 知 でき た筈は な いの であ る。. 9 が 開 発 さ れ て、 阪 神 間 が空 襲 で焼 野 原 と な 戦 や、 B 2. た 。 が 、 少 な く と も 、 予 言 者 な ら ぬ谷 崎 に、 日本 の敗. ﹁ 細 雪 L ︶、 そ れ以 後 も 同種 の論 が幾 つか あ っ 谷崎 と ﹃. 5/ 5 ﹁ 文 芸﹂ S 2 細 雪 ﹄を 書 か せ た と 論 じ ︵ 動︾が ﹃. る世 界 を 、 そ の昨 日 の完 全 な 姿 のまま に再 現 し た い衝. ま た 、 か つて中 村 真 一郎 氏 は 、 戦争 で ︽亡 び つ つあ. 対 す る批 判 が籠 め ら れ る事 は 、 あ り得 な い。. 細 雪 ﹄ に 日 中 戦 争 や太 平 洋 戦 争 に う 。だ と す れば 、 ﹃. は執 筆 開 始 時 点 で殆 ど 確 定 し て いたと言 って良 いだ ろ. は 予定 通 り に書 け た と いう 事 であ るか ら、 作 品 の本 質. 風 に覚 書 に し て、 粗 筋 も 終 わ り ま で書 いておき 、 大 体. いな い。. 収 録 さ れた 際 に削 除 さ れ 、 現 在 の全 集 でも 復 元 さ れ て. 6/ 7︶ に S2 谷 崎 潤 一郎 随 筆 選 集 ﹄ 第 三巻 ︵ な って ﹃. だ が そ の部 分 は 、 ﹃ き の ふけ ふ﹄ が 戦 後 初 め て活 字 に. 戦 争 に対 す るかな り 踏 み込 んだ 発 言 も 含 ま れ て いた。. き と こ ろ で、こ の年 の六 月 か ら 十 一月 ま で、谷 崎 は ﹃ ‘ 文 芸 春 秋 ﹂に連 載 す る が、 そ の中 には 、 のふけ ふ﹄を ﹁. Z O。. 雪 ﹄ の構 想 を 完 成 し 、 執 筆 を 始 め る事 が出来 た の であ. 細 争 の帰 趨 は 定 か でな く ても 、 こ の時 期 に谷 崎 は 、 ﹃. であ る のは そ の為 で あ る。 ま た そ れ だ か ら こ そ 、 戦. の末 尾 が 、 日米 開 戦 な ど では な く 、雪 子と 妙 子 の結 婚. 細 雪﹄ 筆 以前 に既 に決 定 的 に失 わ れ て いた のであ る。 ﹃. 細 雪 ﹄執 た 。 し か し そ れ ら は 、 二人 の結 婚 によ って、 ﹃. た彼 女 た ち と 共 に過 ご す 事 の出 来 た時 間 そ のも のだ っ. 妙 子 ︶ の娘ざ かり であ り 、 ま 雪 子 ︶と 信 子 ︵ な重 子 ︵. が 、 そ こ で愛 惜 さ れ て いる のは 、散り やす い桜 のよう. の物 の間違 ひ であ つて、 何 の日 にか 氏 が これ ら の総 ベ.   一時 握 つてま で 日本 に楯 を 突 いた り す ると 云 ふ のは 、. た り 、 そ の共 産 党 と も 相 容 れ な い筈 の重 慶 政権 と 手 を. 古 典 に深 い造 詣 のあ る文 学 者 が 、共 産 党 の闘 士 と な つ. げ た り す る こと は よく な いけ れど も 、 氏 の如 き 東 洋 の. ︽私 事 と 公事 と を 混 同 し た り 、 感 傷 のた め に節 義 を 曲. 記 述 があ った。. 例 え ば 七 月号 掲 載 分 には 、 郭 沫 若 に関 し て次 の様 な. 江. ﹃ 細 雪 ﹄ に は 確 か に失 わ れ 行 く も の への 愛 惜 があ る. 細. 光. (107).

(14) (108) 谷崎潤 一郎 と戦争. か 、嘗 て の共 産 党 に対 す る遣 り 口同様 、忽 ち 矛 を 倒 ま. ば 、 蒋 介 石も 諮 然 と 大 悟 し て昨 日 の非 を 悔 いるど こ ろ. に意 地 で反 抗 し て ゐ るだ け で 、 何 か のキ ツカ ケ が あ れ. と 大 東 亜 戦 争 の輝 か し い発 展 を 見 た今 日 では 、 た ゞ徒. れ ど も 、 そ の重 慶 政権 にし てか ら が 、 近 衛 原 則 の確 立. 待 であ らう か 。 いや、 これ は 全 く のし ろう と 考 へだ け. る時 があ る やう な 気 が す る のは 、 私 一人 の身 勝 手 な 期. て の過去 を 清 算 し 、純 東 洋 の詩 人 た る本 来 の境 地 に復. こう し た 発 言 の結 果 だ った 可能 性 が高 い。. 言 論 弾 圧 の記録 ﹄︶と いう が 、 そ れ は ﹃ き の ふけ ふ﹄の. 有 力 筋 にね らわ れ た こと も あ った ︾ ︵ 前掲 ﹃ 知識人 ・. は 、 対 中 国 工作 に 一役 買 わ せ る べき だ と 、参 謀 本 部 の. 報 道 部 の某 中佐 か ら 聞 いた 所 では 、 谷 崎 も ︽ひと こ ろ. 戦時 中、﹁ 中央 公 論 ﹂ 編 集 部 に いた 黒 田 秀 俊 が 陸 軍. 本 の戦 争 を 全面 的 に肯 定 し て いた事 は 明 ら か であ る。. 本 と 手 を 結 んでほし いと いう 意 味 だ った。 谷 崎 が 、 日. 元 は 郭 沫 若 および蒋 介 石 に、   一日も 早 く 悔 い改 め て日. 十 月 号 掲 載分 では 、映 画 製 作 者 は 画 面 に出 て来 る衣. に し て、 英 米 を 向 う に廻 す の で は な いであ らう か 。 東 条 首 相 の演 説 でも 重 慶 を ﹁ 弟 ﹂ と 呼 び か け て ゐる が 、. が 、 近 頃 のや つに我 が 国 の映 画 が共 栄 圏 内 の国 々 へ盛. 食 住 全 般 に、細 心 の注 意 を 払 う べき だ と 述 べ て いる所. ︽狡 猾 な る第 三 者 ︾ と は 、 勿 論 イ ギ リ ス ・ア メ リ カ. に輸 出 さ れ て行 く 時 代 に於 いて、︱ ︱ 映 画 を 通 じ てわ. お 互 に兄 弟 の国 であ る こと が 分 つて ゐな が ら喧 嘩 を し. の事 であ る。 こ の削 除 部 分 に続 く ︽国 と 国と の間 も さ. れノヽ 日本 人 の各 方 面 に於 け る文 化 や生 活 様 式 を 彼等. で、 次 の部 分が削 除 さ れ た 。. う だ が、 個 人 と 個 人 と の間 に し ても 、 此 の不自 然 な る. に知 ら し め る必 要 のあ る時 代 に於 いて、 此 のこと は特. て、狡 猾 な る第 三者 を 利 す る こと ぐ ら ゐ馬鹿 げ た 話 は. 絶 交 状態 が 、 そ んな に い つ迄 も 続 き 得 るも のと は 、 私. に 一層 の深 い意 義 を 持 つ。 顧 れば 戦 前 ア メリ カ式 の思. ︽斯 様 な こ と は 専 門 家 は 疾 う に 承 知 の こ と で あ ら う. に は 信 じ ら れ な い の であ る。︾ 以 下 は 、今 は 単 に 日 中. 想 や文 化 が我が 国を 始 め東 亜 方 面 の国 々を 風靡 し た か. な い。︾. の平 和友 好 を 望 む と いう 意 味 に拘 替 え ら れ て いる が 、.

(15) 光 江 細. (109). 土 の質 実 な る淳 風美 俗 と 明 媚 な る山容 水 色 とを 普 く 大. こと を 思 へば 、 今 度 は そ れ に代 るも のと し て、我 が 国. 生 活 様 式 の表 面 的 な 花 やか さ に魅 せら れ た結 果 であ る. れも 劇 の面白 さ や俳 優 の演 技 の巧 妙 さ より も 、彼 等 の. た の では な く て、 主 と し て ア メリ カ の映 画 の魅 力 、 そ. リ カ の優 秀 な る文 学 と か高 遠 な る哲学 と か に影 響 さ れ. の観 を 呈 し た 時 代 が あ つた が 、 あ れな ど も 、何も ア メ. う 本 来 の主 張 が、読 み取 り にく く な って いる。. ギ リ ス のやり 方 を 日本 の植 民 地 政 策 に取 り 入 れ よと い. 栄 圏 内 の民衆 であ る にお いてを や︾ と いう 部 分 も 、 イ. わ れノヽ と 一脈 相 通ず ると こ ろ のあ る東 洋 の人 々、共. 中 略 ︶ 況 や相 手 が 自 身 が 先 づ 持 た な け れば な ら ぬ。 ︵. 中 略 ︶是 非 共 分 ら せ て見 せ ると 云 ふ自 信 を 、 わ れノヽ ︵. わ れノヽ の生 活 様 式 が 彼 等 に 分 り に く いと 云 つても. 中 略 ︶ 出 先 の原住 民 にま で自 国 の る ︽イ ギ リ ス人 は ︵. し ま う 事 にな る。 だ か ら 例 え ば 、 そ の儘 に残 さ れ て い. 民 と の友 好 相 互 理 解 の為 と いう 意 味 に、 総 て掏 替 え て. 栄 圏 内 への宣 伝 の為 と いう 本 来 の論旨 か ら 、単 に他 国. れ は僅 か な変 更 のよう だ が 、 以 下 の議 論 の趣旨 を 、 共. 新 書版 ﹃ 全集 ﹄ か ら は ﹁ 外 国﹂ に書き 換え て いる。 こ. 随 筆 選集 ﹄では ﹁ いう 部 分 の ﹁ 共 栄 圏 内 ﹂を 、 ﹃ 東 洋 ﹂、. 画 劇 を 共 栄 圏 内 の民 衆 に親 しま せ よう と す る場合 ︾ と. ま た 、 こ れ に続 く 内 田吐 夢 の話 の内 、︽我 が 国 の映. 日本 語 普 及協 議 会 ﹂ を 開 い て、 ﹁日 本 早 わ か り﹂ の パ. には 、 情 報 局 ・陸 軍省 ・海 軍省 ・文 部 省 な ど が ﹁ 対外. 語 と を 対 照 さ せ た会 話 辞 典 の編 纂 に着 手 し たり 、 三月. 設 工作 の為 に、 日本 語 の初 等 教 科 書 、各 民 族 語 と 日本. 月 に国 語協 会 と カ ナ モジ カイ が 、 大 東 亜 圏 内 の文 化建. 鑑   昭和 十 八年 度 版 ﹄ に よ れば 、 昭 和 十 七年 には、 二. 関 わ るも の であ った事 を 忘 れ ては な ら な い。 ﹃ 文芸年. 題 ︾ な るも のも 、実 は共 栄 圏 内 への日本 語普 及 政策 に. に関連 し て言 及 さ れ る ︽近 頃 やか ま し い国 語 国字 の間. く いのは 、 日本 の和 洋 折 哀 の生 活 様 式 だ 、 と 述 べた事. ま た 、 内 田吐 夢 が 、 共 栄 圏 内 の民 衆 に特 に分 かり に. 流 儀 を 押 し つけ よう と す る か に見 え る が 、 わ れノヽ も. ン フレ ツトを 作 る、 な ど の事 があ り 、 六 月 には ﹁ 中央. 東 亜 の人 々 の脳 裡 に印 象 づ け な れ ば な らな い。︾. 少 し は さう 云 ふ 図 太 さを 見 倣 つた 方 が よ い。 ど ん な に.

(16) (110) 谷崎潤 一郎 と戦争. だ と 考 え て いた 可 能 性 が高 い。 戦 後 ﹃ 細 雪 ﹄ が完 成 し. 上 げ る事 こそ が 、自 分 に出 来 る 国 家 への最 大 の御 奉 公. 細 雪﹄ を 書 き 始 し て いた谷 崎 は 、 書 斎 に立 て籠 って ﹃. 細 雪 ﹄ の執 筆 を 開 す る事 は 避 け た が 、 こ の秋 、 丁 度 ﹃. の で は あ るま いか 。︾ と 述 べ、 自 ら の方 針 を 明 ら か に.   一人 々 々 の作 家 に つ いて決 定 す べき も へな い問 題 で、. で は 、今 ﹂れ は 一般 的 に は 執 方 が よ いと も 悪 いと も 云. き のふけ ふ﹄ た 。︾と し て、賛 否 両 論 を 紹 介 し て いる 。 ﹃. 公 に な る 、と 云 ふ や う な 説 を 強 調 す る 人 も 現 れ て 来. 精 進 す べき だ 、 そ れ が 結 局 国 家 に対 し ても 第 一の御 奉. れ 、 作 家 は矢 張 書 斎 に立 て籠 つて本 来 の職 域 に於 いて. 崎 は 、 ︽近 頃 文 学 者 の街 頭 進 出 の機 会 が多 く な る に つ. こ れ は削 除 さ れ な か った ︶ では 谷 十 一月 号 掲 載 分 ︵. 九 日の ﹁ 朝 日新 聞﹂ T じ 面 に、 原 稿 の写 真 版 で掲 載. は 、 辻 小 説 ・辻 詩 の計 画を 紹 介 す る記事 と 共 に、 三月. 莫妄想 ﹄ 増 強 に努 力 す べき事 を 説 いたも の であ った。 ﹃. な つてか ら神 風 を 送 つて下 さ る ︾ のだ か ら 、 先 ず 軍備. 敵 を 圧 す る戦艦 や飛行機 を 続 々と 造 り 出 す のを ご覧 に. 大 神 は 、 我 々が 武備 に最善 の努 力 を 致 し て、 太 平洋 に. れ た り し ︾ ては いけ な い事 、 神 風 は 吹 く が 、︽天 照 皇. り 、 奴 等 の飛行 機 が成 層 圏 を 飛 ん で来 や し な いかと 恐. の会 話 の形 で、︽ルーズ ベ ルト の大 風 呂 敷 に怯 び え た. て、谷 崎 は ﹃ 莫 妄 想 ﹄ を 執 筆 し て いる。 これ は 、 兄弟. 建 艦 ﹂ を 訴え る第 一回 辻 小 説 の企 画 に応 じ 発案 し た ﹁. 昭和 十 八年 、 日本 文 学 報 国 会 が 日蓮 の辻 説 法 に倣 って. か った と いう 訳 でも な い。 ﹃ 細 雪 ﹄ の連 載 が 始 ま った. と は言 え 谷 崎 も 、 国民 の戦意 昂 揚 には全 く 協 力 しな. 7/ 7 ﹃ 略 ︶発 揚 ︾ ︵ 文 楽 首 の研 究 ﹄ 序 ︶ に な る と Sl. た 際 、 特 別 の製 本 を し て天皇 に献 上 し た のも 、 そう し. さ れ た 。そ し てそ の記事 は 、︽銃 後 文 芸 陣 にと つては 、. 公 論 ﹂ が 、座 談 会 ﹁日本 語 の海 外 進 出 に つ いて﹂ を 掲. た 考 え が背 景 にあ った か ら であ ろう 。 た だ し そ れ は 、. これ が最 初 の職 域 奉 公 だ ︾ と し て、 辻 小 説 ・辻 詩 の原. いう 意 味 で の奉 公 だ った筈 であ る。. 作 品 を 通 じ て 国 民 の 戦 意 昂 揚 を 図 る と いう 事 で は な. 稿 料 と 印 税 が、 す べ て建 艦 献 金 に廻 さ れ る事 を 伝 え る. 載 し て いた のであ る 。. 中 く 、 優 れ た芸 術 作 品 を 生 み出 す 事 が 、︽国 粋 文 化 の ︵.

(17) 光 江 細. (111). ﹃ 細 雪 ﹄ は 、 陸 軍 報 道 部 か ら ﹁こ の戦 時 下 に 不 謹 慎 極. と こ ろ が 、 こう し た協 力 にも 拘 らず 、 四月 に入 って. は 、 ヒ ット ラ ー支 持 のド イ ツ人 であ り 、 キ リ レ ン コ家. ば 、 蒔 岡 家 の人 々が友 達 付 き 合 いを す る シ ュト ル ツ家. し た 部 分 は幾 つかあ るが、 反 戦 的 な 発 言 は な い。 例え. 実際、 ﹃ 細 雪 ﹄ には、谷 崎 の戦 争 肯 定 的 立 場 を 反 映. ま る﹂ と の攻 撃 を 受 け 、 遂 に雑 誌 掲載 を 禁 止 さ れ てし. 王義 の白 系 ロシ ア人 で の人 々や ウ ロ ン スキ ーは 、 反共 ヽ. も のだ った 。. ま う 。 こ の件 に ついて谷 崎 は 、 敗 戦後 間も な い時 期 の. 二十 四︶ では、貞 之 助 が 、 これ か ら の女 あ る。 上 巻 ︵. 主 張 す る方 が賢 明 であ った 。 にも 拘 らず 谷 崎 は 、 反戦. 雪 ﹄ は 民 主 的 ・反 戦 的 だ った か ら 弾 圧 を 受 け た のだ と. 細 す が ︾ と 語 って いる。 敗 戦 後 の情 勢 を 考 え れ ば 、 ﹃. 略 ︶ な にも 戦 争 にさ し さ わ り は な いと 信 じ て ゐた ので. 中 中 略 ︶な にも 反動 的 な 思 想 があ つたわ け では な く ︵ ︵. か 、ど こ が 反 動 的 な のか 、サ ツパ リ様 子 が判 り ま せ ん。. 蒔 岡 家 では 、貞 之 助 が 軍需会 社 に関 係 し 出 し てか ら 、. 十 六 ︶には 、 至 り に堪 へな い︾と 書 き 送 るし 、 下巻 含 一. の花 々し い戦 績 は親 交 国 民 のわ れノヽ と し ても 同慶 の. 二十 五︶ では 、幸 子 が シ ュト ル ツ夫 人 に ︽独 逸 下巻 ︵. 巻 二︶等 の表 現 を 、貞 之 助 や妙 子 が 用 いる所 があ る。. 中 中 巻 一︶︽時 局 への認 識 が 足 り な い︾︵ 謹 慎 であ る︾︵. れ ば な ら な いと 考 え るし 、他 にも ︽今 日 の非 常 時 に不. 子 は 銃後 の任 務 に堪 え るよう に剛 健 に育 て て置 か な け. 新 生 日本﹂S 談 話 ﹃″細 雪 と ″聞 書 抄 に つ いて﹄︵﹁ ″ ″ 、 、 ︲ 2/ 6︶ で ︽私 と し て は あ の作 品 のど こ が 悪 いの. 的 意 図 が無 か った事 を 、一生 懸 命 、弁解 し た の であ る。. 家 計 の方 も 大 分 ゆと り が出来 る やう にな った と 語 ら れ. 細 雪 ﹄ の執 筆 に専念 連 載 中 止後 も 、谷 崎 が そ の儘 ﹃. S そ の 一︶﹄︵ 後 年 の ﹃﹁ 細 雪﹂に就 いて︱ ︱ 創 作 余 談 ︵. 中 略 ︶ 家 庭 的 な 話 だ け を 書 く ぶ ん に は差 支 は な いし ︵.   一つには中央 公 論 社 の経 済 的 支 援 の御 蔭 でき た のは 、. て いる。. へな いだ らう 、と 考 へて書 いた ︾ と 、 そ の説 明 は 一貫. だ が 、 反 戦 な いし は 反 国家 的活 動 を し て いる 訳 では な. 、 ︲ 3︶ でも ︽別 に戦 争 反 対 の意 見 を 書 い て ゐ る わ け で. し て いる 。.

(18) (H2) 谷崎潤 一郎 と戦争. た 。 ま た 、 西安 事 件 に関 し て、 ウ ロ ン スキ ーと キ リ レ. え あ った 。 既 によく 知 ら れ て いる事 だ が 、 上 巻 ︵ 十 七︶. な いど こ ろ か 、 日中 戦 争 を は っき り と 肯 定 し た 部 分 さ. 局 の弾 圧 は あ った が 、 こ の私 家 版 には 、 反 戦 の意 図 が. し 、 私 家 版 三百 部 を 出 版 す る 。 これ に対 し ても 警 察 当. そ し て、 翌 昭 和 十 九 年 七 月 に は 、 ﹃ 細 雪﹄ 上 巻 を 完 成. 開 か れ た 大 東 亜 文 学 者 決 戦 大 会 に、参 加 し た ら し い。. 昭 和 十 八年 の谷 崎 は 、 こ の後 、 八月 二十 五 ∼七 日 に. う ︾、 自 分 の命 が 助 か り た いば か り に ︽負 け る に極 ま. ︽ま さ か 日本 と 戦 争 し て勝 てると は 思 つて ゐな いで せ. 信 じ て いた のであ ろう 。 も っとも 貞 之 助 は 、蒋 介 石 は. に予 見 し た事 にな る。 恐 らく は谷 崎 自 身 も 、 密 約 説 を. あ る か ら 、彼等 は 七 月 七 日 に始 ま る 日中 戦 争 を 、 見事. は 、 昭和 十 二年 三月前 半 のお水 取 の最 中 と いう 設定 で. け て来 る。多 分 今 年 のう ち ︾と 語 って いた 。 こ の場 面. て いて、︽彼 等 はき つと 近 いう ち に 日本 に 戦 争 を し か. いと いう 安 心 感 も 、ま た 与 か って力 あ った に 違 いな. のキ リ レ ン コの家 で の会 話 が そ れ であ る。 水 上 勉 氏 の. つて ゐ る戦争 に国 民 を 駆 り 立 てるな ん て、 日本 人 には. ン コは 、蒋 介 石と 中 国共 産 党 の間 には密 約 が交 わ さ れ. ﹃ 谷 崎 先 生 の書 簡 ﹄ で紹 介 さ れ た 昭 和 二十 年 九 月 二十. 考 へら れ な い心 理だ がな あ ︾と 、 こ の時 点 では ま だ 半. 党 は 嫌 ひ です け れど も 、 日本 の勢 力 を 支 那 か ら 追 ひ払. 九 日付 け 嶋 中 雄 作 宛 谷 崎 書 簡 に明 ら か な よう に、 こ の. 例 え ば 、 現 行 本 文 で ︽何 に し ても 日本 と 支 那 と が仲. ふた め には 、嫌 ひな も のでも 何 でも 利 用 し ま す 。 あ の. 信 半 疑 であ るが 、 キ リ レ ン コは、︽英 吉 利 だ つて蔭 で. が 悪 い のは 困 つた こと です よ ︾ と な って いる貞 之 助 の. 国 は 滑 いです か ら ね 。︾ と 言 い、 カ タ リ ナ の母も 、︽世. 部 分 は 戦 後 、 G H Q の検 閲 を 恐 れ て、削 除 ・改 変 さ れ. 発 言 は 、 こ の私 家 版 で は 、︽さ あ 、 日 本 の政 治 家 も 何. 界 ぢ ゆう で 一番 滑 い国 、英 吉 利 ご ぜえ ま す × 露 西 亜 、. 蒋 介 石を 喉 け て ゐる かも 知 れま せ ん よ。 英 吉 利 は共 産. と か し た い の でせう け れ ど も 、 何 し ろ支 那 は ひ ど く 日. 今 迄 何 度 も ノヽ 英 吉 利 に欺 さ れま し た 。 世 界 ぢ ゆう の. て いる。. 本 を 誤 解 し て ゐ る のは 困 つた こと です よ ︾ と な って い.

(19) 光. 二 田 た 糸. (113). は 中 国 の 一部 にあ る排 日 ・抗 日運 動 を 止 め さ せ 、 真 の. った 。 そう し た 政府 及 び ジ ャー ナ リズ ム の官一 伝を谷崎. 国 、 英 吉 利 に欺 さ れ ま す 。︾ と 反 英 感 情 を 剥 き 出 し に. 起 てよ、 亜 細 亜 ﹄以 こ こ に現 わ れ て いる考え 方 は 、 ﹃. が鵜 呑 み にし て いた事 に ついては 、 説 明 の要 はあ るま. 日中友 好 関 係 を 打 ち 立 てる為 だ 、 と し て いた か ら であ. 来 の谷 崎 の戦 争 観 であ ると 同 時 に、言 わ ば 当 時 の政府. い。. し て いた の であ る。. の公 式 見 解 でも あ った 。 例 え ば 、 昭和 十 六年 十 二月 八. ノ禍 乱 ヲ助 長 シ平 和 ノ美 名 二匿 レ テ東 洋 制 覇 ノ非 望 ヲ. 二相 関 ク ヲ悛 メ ス米 英 両 国 ハ残 存 政権 ヲ支 援 シ テ東 亜. 慶 二残 存 ス ル政 権 ハ米 英 ノ庇 蔭 ヲ侍 ミ テ兄弟 尚 未 夕惜. リ帝 国 ハ之 卜 善 隣 ノ誼 ヲ結 ヒ相 提 携 ス ル ニ至 レ ル モ重. ラ シ メ滋 二四年 有 余 ヲ経 タ リ幸 二国民 政 府 更 新 ス ル ア. テ東 亜 ノ平 和 ヲ攪 乱 シ遂 二帝 国 ヲ シ テ干 文 ヲ執 ル ニ至. ︽中 華 民 国 政 府 曇 二帝 国 ノ真 意 ヲ解 セ ス濫 二事 ヲ構 ヘ. 様 に述 べら れ て いる。. ら た け を の征 き た ま ふ 日 に︾︽た く ま し く 戦 ふ 国 の秋. か の醜 のえ び す 等 ︾︽秋 空 は爆 音 た か し 矛 取 り てま す. を ︾、 ま た ︽ま す ら を は何 か 恐 れ ん蒼 蝿 な す 醜 あ め り. つ ゝ我 が 大 君 のし ろ し め す 海 の守 り に 征 く か ま す ら. 五月 十 九 日、森 田肇 出 征 の国旗 に寄 せ た 歌 ︽やす み し. に生 れ て菖 蒲 太 刀 た ゞに侃 か ん や 日本 男 児 は ︾、 同 年. 永 見 徳 太 郎 の初 孫 の初 節句 に寄 せ た 歌 ︽お ほ いな る時. 一郎 家 集 ﹄ か ら 拾 ってみ ると 、 昭和 十 九 年 五月 五 日、. 筆 の傍 ら 、好 戦 的 な 歌 を 幾 つか 残 し て いる。 ﹃ 谷崎潤. 昭和 十 九 年 か ら 二十 年 にか け て の谷 崎 は 、 ﹃ 細 雪 ﹄執. 中 略 ︶事 既 二此 二至 ル帝 国 ハ今 ヤ自 存 退 ウ セ ムト ス ︵. な れ ば 都 大 路 にそば の花 咲 Q ︾ が 昭和 十 九 年 の歌 と し. 日 の米 国 及 び 英 国 に対 す る宣 戦 布 告 の詔 書 では 、次 の. 自 衛 ノ為 版 然 起 ツテ 一切 ノ障 凝 ヲ破 砕 ス ル ノ外 ナ キ ナ. ほと ゝぎ す 雲 井 にあ げ よ いさぎ よき 名 を ︾ が 昭和 二十. て、︽出 英 利 君 応 詔 ︾ と 題 し た 歌 ︽美 作 や 神 南 備 山 の. 支 那 事 変﹂と名 付 け 、 ﹁ 戦 日本 が 日中 戦 争 を 敢 え て ﹁. 年 作 と し て、 収 録 さ れ て いる。 た だ し 、 生 前 の谷 崎 は. リ︾. 争 ﹂ と は呼 ば ず 、 宣 戦布 告 さえ し な か った のも 、 戦 闘.

(20) (H4) 谷崎潤 一郎 と戦争. 昭 和 十 九 年 九 月 十 四 日、谷 崎 は 日本 文 学 報 国 会 の事. 記 ﹄﹃ 歌 々板 画 巻 ﹄な ど か らも 慎 重 に取 り 除 いて いた 。. 疎 開 日記﹄ や ﹃ こ れ ら の歌 を 公 表 せ ず 、 ﹃ 都 わす れ の. 像 し な ど 、谷 崎 のす べ てが 否 定 さ れ て いた 訳 で は な. 入る ︵ 大谷晃 一 ﹃ 矢 部 良 策 と 創 元社   あ る出 版 人 の肖. 春 琴抄 ﹄ が 用文 芸 図 書 と し て決 め た 十 六点 の中 にも ﹃. れた 日本 出 版会 が、 昭和 二十 年 二月 四 日 に第 二次 非 常. 同 年 九 月 二十 五 日 に は 、 土 屋 計 左 右 に絵 葉 書 を 送. 務 局 長 ・中 村 武 羅 夫 に出 し た 返 信 の中 で、︽昨 今 の御. 闘を祈 居候 ︵ 中 略 ︶ 御 申 越 の件 は 単 に名 儀 上 の顧 間 に. り 、︽比 島 方 面 や ゝ戦 呆揚 り 国 民 の気 分 も 秋 晴 れ と 共. か った 。. て宜 敷 候 は ゞ差 支 無 之 実 務 之 儀 は 平 に御 ゆ る し 被 下度. に幾 分 明 るく相 成 候 ︾ と し て、自 作 の歌 ︽み んな み の. 職 務 さ だ め て御 忙 しき 事 な る べく 折 角 邦 家 のた め御 健. 小 生 も 発 表 す る し な いは 別 と し て 日、自 己 の仕 事 に精. は る け き 海 のた ゝか ひを お も ひ つ ゝ見 る 十 五 夜 の月 ︾. 昭 和 二十 年 に入 って、 三月 一日付 け で土 屋 計 左 右 に. 進 致 居 候 次 第 御 諒 察 被 下度 候 ︾ と 書 いた 。 ︽御 申 越 の れ る が 、 名 儀 上 だ け な ら差 支 え な いと 返 答 し た のは 、. 宛 てた 書 簡 には 、︽日本 橋 三 越 に愛 国 百 人 一首 の歌 と. を 記 し て いる。. 反 戦 の意 志 が な か った か ら であ る 。 ︽自 己 の仕 事 に精. 絵 の展 覧 会 あ り 、大 伴 旅 人 の絵 を安 田靭 彦 氏 、 歌 を 小. 件 ︾ は 、 日本 文 学 報 国 会 の顧 問 への就 任 依 頼 と 推 定 さ. 進 ︾ と いう 表 現 は 、 ﹃ き の ふ け ふ﹄ の ︽作 家 は 矢 張 書. 店 で 開 催 さ れ た 日本 文 学 報 国 会 ・日 本 美 術 報 国 会 共. 生書 か さ れ申 候 ︵ 中 略 ︶ 一度 御 覧 被 下度 候 ︾ と あ る。. ﹃ 細 雪 ﹄ を 禁 止 さ れ た谷 崎 が 顧 間 と は 不 思 議 な 気 も. 催 、毎 日新 聞社 協 賛 、 情 報 局後 援 の ﹁ 愛 国 百 人 一首 理. 斎 に立 て籠 つて本 来 の職域 に於 い て精 進 す べき だ ︾ と. 蓼 喰 ふ 虫 ﹄ は 、 皇 軍 慰 問 用 と し てど ん ど ん す るが、 ﹃. 念 昂揚 展覧 ︿ 文 芸 報 国﹂ 昭 和 二 十 年 三 月 こ の事 で、 ﹁. これ は 、 二月十 七 日か ら 三月 四 日ま で日本 橋 の三越 本. ︲/ 9 ﹁ 増 刷 し て いた ︵ 対談 ﹁ 文 芸 放 談 ﹂S 2 朝 日 評 論し. 十 日 記 事 に よ れ ば 、︽本 会 ︵ 注 o日本 文 学 報 国 会 ︶ 並. いう 一節 を 想 い起 こさ せ る。. し 、 国 家 総 動 員 法 に基 づ く 出 版 事 業 令 によ って設 立 さ.

(21) 光 江 細. (115). 内 相 、 緒 方 情 報 局 総 裁 、 松 村 大 本 営 陸 軍報 道 部 長 そ の. に美 報 会 員 中 の大 家 ど こ ろ に、 加 へて児 玉 文 相 、 大 達. 見 る べき だ ろう 。. る箇 所 が多 く 、 都 合 の悪 い所 を 伏 せ て発表 し た 結 果 と. す ら全 く 読 み取 る事 が出 来 な いが、 日付 け が 飛 ん で い. 以 上 見 て来 た 事 か ら 、 ﹃ 細 雪﹄ に 反 戦 的 意 図 が 無 か. 四 、 ﹃細 雪 ﹄ の 中 の 戦 争. 他 朝 野 の名 士 が 、愛 国 の熱意 を こめ て、絵 に筆 に、 米 英 撃 滅 の意 気 込 みを 現 し ただ け あ つて仲 々 の盛 況 であ つた ︾ と 言 う 。 そ し て敗 戦 も 近 い五 月 十 日 には 、入 院 中 の知 人 の息 疎 大 東 亜 戦 記 録 画 集 ﹄を 買 い求 め た事 が 、﹃ 子 の為 に、﹃. よ 。︾ と 答 え て、 或 る 程 度 、 戦 争 讃 美 に 引 き 摺 り 込 ま. だ つて或 る程 度 さう な んだ か ら 、 ひと の事 は 言 へな い. いふ やう な 所 か ら自 然 と ひき ず り 込ま れ た 。︱ ︱ 僕 ら. 対 し て、︽ま あ な いと 思 ふ な 。 性 格 の弱 さ と か 、 さ う. な 戦 争 讃 美 者 な ん て人 があ る でせう か ︾ と 訊 ね た の に. 記 者 が ︽日本 の作 家 で本 当 に軍 国 主義 者 だ と か 、 極 端. 文 芸 放 談 ﹂ で、 た と 思う 。 谷 崎 自 身 は 、 戦後 の対 談 ﹁. な も のと 信 じ 、 勝 利 を 祈 って いた事を 、 ほ ぼ確 認 でき. 以 上 、 谷 崎 が敗 戦 時 ま で 一貫 し て日本 の戦 争 を 正当. 来 た筈 であ る。 そ れを そう しな か った以 上 、 谷 崎 は 戦. 小 説全 体 を も っと 平 和 な 時 代 ヘスライ ド さ せ る事 も 出. 年 四月 であ る事 にも よ る。 が、も し そ の気 が あ れ ば 、. より そ れ は 、 モ デ ルと な った重 子 の結 婚 が 、 昭和 十 六. ざ 戦争 下 に時 代 を 設 定 し て書 か れ たも のであ る。 も と. 原稿 第 十 九 章 後 書 ﹄ の言 葉 か らも 窺 え る通 り 、 わざ わ. 上巻 十 六年 の春 、 雪 子 の結 婚 を 以 て終 る。︾と いう ﹃. 十 一年 の秋 に始 ま り 、大 東 亜 戦争 勃 発 の年 、 即 ち 昭 和. しか し ﹃ 細 雪 ﹄ は 、︽日支 事 変 の起 る前 年 、 即 ち 昭 和. い事 は 、作 品 を 読 み さえ す れば自 ず と 明 ら か であ る。. った事 は 明 ら か だ が 、逆 に戦意 昂 揚 の意 図も あ り 得 な. れ た事 は 認 め て いる。 公 表 さ れ て いる 昭和 十 九 年 か ら. 争 を 、 作 品 の背 景 と し て避 け よう と は し な か った の で. 開 日記 ﹄ に記 録 さ れ て いる。. 二十 年 に掛 け て の谷 崎 の日記 か ら は、 連 合 国 への敵 意.

(22) (116) 谷崎潤 一郎 と戦争. あ る。 だ と す れ ば 、 ﹃ 細 雪 ﹄ と いう 作 品 世 界 の中 で谷 崎 は 、 戦 争 にど の様 な 意 味 ・役 割 を 持 た せ よう と し た. る の であ る。. 谷 崎 には、 ﹃ 母 を 恋 ふ る 記﹄ ﹃ 盲 目 物 語﹄ ﹃ 猫と庄 造. 狸 紅 熱 、妙 子 に は 阪 神 大 水 害 o板 倉 の 死 ・赤 痢 ・死. り 掛 か る。 幸 子 には 黄 疸 ・流 産 、 悦 子 には神 経 衰 弱 ・. そ の反 面 で、 大 小 様 々 の不幸 が次 々と ヒ ロイ ン達 に降. か な 行 事 があ る が 、 そ れ は ﹃ 細 雪 ﹄ の片 面 に過 ぎ ず 、. ・蛍 狩 ・地 唄 舞 ・歌 舞 伎 見 物 ・旅 行 な ど 、 種 々 の華 や. 小 説 であ る。 幸 福 の側 には 平 穏 な 日常 と 、 花 見 ・月 見. り な が ら 、蒔 岡 家 の緩 や か な 没落 と 離 散 の過 程 を 辿 る. に、 蒔 岡家 に交 互 に訪 れ る幸 福 と 不幸 、 光 と 影 を 物 語. ﹃ 細 雪﹄ は 、 そ の原 題 ﹃三寒 四温 ﹄ が 示 し て いた 様. 物 語﹄ のお市 の方 が 死 ん でも 、 モデ ル の松 子 が 死 んだ. 小 説だ か ら であ ろう 。 歴史 小 説 でな ら、例え ば ﹃ 盲目. 雪﹄ が比 較 的 モ デ ル の現実 に近 いリ アリズ ム風 の現 代. は 最 後 ま で優 雅 な 暮 ら しを 続 け て いる。 こ れ は 、 ﹃ 細. 者 は出 な いし、 本 家 こそ没 落 す るも の の、貞 之 助 一家. る。 大 水 害 や病 気 や流 産 は あ っても 、蒔 岡家 か ら は 死. か る 不幸 が 比較 的 さ さ やか な も のであ る点 に特 色 が あ. 連 な る作 品 であ る。 た だ 、 ﹃ 細 雪﹄ の場 合 は 、降 り 掛. が、 い ﹂う し て見 ると 、 ﹃ 細 雪﹄ は 明 ら か にそ の系 譜 に. いた り 、 悲 惨 な 最 期 を 遂 げ た り す る 作 品 系 列 が あ る. と 二人 のを んな ﹄ な ど 、美 女 が落 塊 流浪 した り 、 年 老. 産 、 雪 子 には顔 の シ ミ ・本 家 と 一緒 に東 京 へ行 か さ れ. 様 な シ ョ ツクは な い。 が 、 ﹃ 細 雪﹄ で は、 ヒ ロイ ン達. の であ ろう か 。. る事 ・思 わ し い結 婚 が 出 来 な い事 。 妙 子 の巻 き 起 こす. の不幸 が 、 谷崎 の愛 す る モ デ ル達 自 身 の不幸 の様 に感. 従 って ﹃ 細 雪 ﹄ では 、 戦 争 は ヒ ロイ ン達 を 襲う 不幸. スキ ャ ンダ ルも 、 蒔 岡 家 全 体 にと って の災 難 であ る。. も 頂 き ま す と 言 い出 す 程 す っかり 貧 乏 にな り 、 妙 子 は. の 一つと し て、   一応 、呼 び 出 さ れ ては いるも の の、 仲. じ ら れた 為 、極 端 な 不幸 は 避 け た の であ ろう 。. バ ー テ ンと 結 婚 し て下 層 階 級 へ転 落 す る 。 そ し て、 雪. 良 く し て いた シ ュト ル ツ 一家 を 帰 国 さ せ たり 、本 家 の. 作 品 の最 後 では 、 本 家 は ブ ルー マー の古 いの でも 何 で. 子 も 結 婚 を 悲 し み 、 下痢 が 止 ま ら な い所 で作 品 は終 わ.

(23) 光 江 細. (117). 稀 であ り 、 言 及 さ れ る場 合 にも 、 ど こか遠 い世 界 の出. て実 害 が な いと いう だ け では な い。言 及 さ れ る事 す ら. ﹃ 細 雪 ﹄ の中 の戦 争 は 、 し か し、単 に蒔 岡 家 にと っ. 事 に過ぎ な いと 、 強 調 さ れ て いる のであ る。或 いは 、. 秋 の訪 れ の爽 やか さ に比 べれば 、 取 る にも 足 り な い些. 事 だ け が、 そ の消息 を 伝 え て来 る。 が、 そ れす らも 、. 戦争 は 、あ く ま でも 別 世 界 の出 来事 であ り 、新 聞 記. し て ゐる珈琲 の匂 が 際 立 つて香 ば しく 匂 つて来 る のに. 来事 と いう 印 象 し か 与 え な いも のとな って いる。 例 え. 戦 争 は秋 空 を 彩 る飛 行 機 雲 のイ メージ ヘ、 見事 に景 物. 持 ち 株 の価 値 を 失 わ せ た り す る 程 度 の被 害 し か 与 え. ば 、 昭和 十 二年 七 月 七 日 に 日中 戦争 が勃 発 し た と いう. 化 さ れたとも 評 し得 るだ ろう 。 開 戦 は言 わば 跨 ぎ 越 さ. 秋 や な あ 、︱︱ ﹂ と 、新 聞 の面 か 心 づ いて、突 然 、 ﹁. 歴史 的 大 事 件 も 、 ﹃ 細 雪 ﹄ の中 で は、本 家 の東 京 への. れ 、 そ の後 の南 京 占 領 も 武 漢 三 鎮 占 領 も 、 ﹃ 細 雪﹄ に. ず 、 戦 死 者 はも と よ り 、 出 征 す る親 類縁 者 さえ も 居 な. 二十 一︶ 移 住 が 決 ま り 、 鶴 子 が 準 備 に追 わ れ る 上 巻 ︵. は 出 て来 な い。 谷 崎 は 、 日本 軍 の戦 果も 犠 牲 も 、 中 国. ら顔 を 上げ て、貞 之 助 に云 つた 。︾. 辺り に該 当 す る筈 だ が 、 そ こ では全く触 れ ら れず 、 上. 人 民 の苦 難も 、 共 に無 視 し て いる のであ る。. いの であ る。. 巻 ︵ 二十 三 ︶ で、 本 家 の東 京 移 住 に付き 合 わ さ れ た 雪. た。 悦 子 が 学 校 へ出 て行 つたあ と で、彼 女 は貞 之 助 と. 一夜 のう ち に秋 の空 気 が 感 じ ら れ る爽 か さ に変 つて ゐ. ︽幸 子 が 此 の手 紙 を 受 け 取 つた 日 の朝 は 、 関 西 方 面 も. 漸く ち ら り と 顔 を 覗 か せ るだ け な のであ る。. な 歌 を 詠 ん で いた 。 ︽我 が 家 にも 水 が 浸 く か と 潜 山 の. も 、 阪神 間 の御 影 に住 ん で いた 歌 人 川 田順 は 、次 の様. は殆 ど な か った 。 昭 和 十 三年 七 月 の阪神 大 水 害 の際 に. や国際 情 勢 に つ いて の論 説 や座 談 会 が誌 面 を 飾 ら ぬ月. 中 央 公 論﹂ であ れ ﹁ 色 で、 ﹁ 文 芸 春 秋﹂ であ れ 、 戦 争. し か し、 ﹃ 細 雪 ﹄ の時 代 の 日本 は 、実 際 に は 戦 争 一. さ し向 ひ に食 堂 の椅 子 にか け な が ら、我 が艦 上 機 が 油. 激 戦 の日 に怖 れ ゐた り き ︾︽戦 場 の夜 寒 厳 し と いふ 記. 子 か ら の九 月 八 日付 け の手 紙 を 読 む次 の様 な 場 面 で、. 頭と 潮 州 を 空 襲 し た 記事 を 読 ん で ゐると 、台 所 で沸 か.

(24) (l18) 谷崎潤 一郎 と戦争. には、 か な り の勇 気 と 確 固 た る信 念 が 必要 だ った 筈 で. か し、 ﹃ 細 雪 ﹄ の中 か ら 、 こ こま で戦 争 を 排 除 す る 為. のざ わ めき を 遠 ざ け る事 は 必 要 だ った に違 いな い。 し. 簡 ︶と 評 し た 三姉 妹 の雅 び な 世 界 を 守 る為 にも 、 戦 争. し て いら し つた やう ︾ ︵ S H/ 5/ 6松 子 宛 潤 一郎 書. のであ る。 勿 論 、谷 崎 が ︽平 安 朝 の絵 巻物 か ら抜 け 出. 関 す る 限 り 、 当 時 の日本 の現 実 を 殆 ど 反映 し て いな い. さ ほど にも 感 じ ら れ な い。 つま り ﹃ 細 雪﹄ は 、 戦 争 に. 厳 しく な って いた 筈 だ が 、 ﹃ 細 雪 ﹄ を 読 ん で いる と 、. 対 す る取 り 締 ま り や非 難 も 、 昭 和 十 三年 以 降 は 相 当 に. 集 ﹃ 銃 後 私 帖 し 。 生 活 物 資 の欠 乏 や贅 沢 に 鷲﹄ 所収 ﹁. ご と大 阪 駅 に降 り し か ば 今 朝 の多 さ よ兵 送 る こ ゑ × 歌. にう づ だ か き こ の街 よ り も 今 朝 は 兵 発 つ︾︽い つも の. 事 は水 害 を 免 れ し 吾 を 衝 ち にき ︾︽山 津 波 の土 砂 軒 下. ら 、 そ れ ら が此 の人 々 の社 会 や経 済 に相 当 の影 響 を 及. は 世 界 戦争 そ の他 の大 事 件 が起 り つ ヽあ る のであ るか. が 、 全 然 な いと云 ふ の では な いが 、殆 ど な い。 周 囲 で. て ゞも 政治 を談 じ た り 天 下 国 家 を 論 じ た り す ると こ ろ. の であ る。 此 の物 語 の中 では 、 人 々が 一場 の話 柄 と し. は 大 体 に於 いて ︵ 中 略 ︶ 物 静 か に泰 平 を 楽 し ん でゐ る. は 容 易 な らな い大 変 動 の時 代 であ り な が ら ︵ 中略 ︶人 々. 変 、 支 那事 変等 々 の大 事 件 が あ り ︵ 中 略 ︶ 支 那と し て. の間 に北清事変 、 日露 戦 争 、 第 一次 世 界 大 戦 、満 州事. ︽此 の小 説 に扱 は れ て ゐ る 四 十 年 間 と 云 ふも のは、 そ. 様 に紹 介 し て いた 。. 、 7 ︲/ 9︶ の中 で こ の作 品 の戦 争 に対 す る態 度 を次 の. が 固ま る以 前と推 定 でき る。 谷 崎 は ﹃ き のふけ ふ﹄︵ S. 崎 が これ を 読 んだ のは 同 年 四 五 月 頃 、 ﹃ 細 雪﹄ の構 想. そ し て、 ﹃ 北京 の日﹄ の 一節 、︽北 京 の古 い文 化 を 受. ぼ し て ゐ る筈だ け れど も 、 さう 云 ふ影 響 はあ ま り表 面. け つ いだ 生 粋 の北 京 人 は ︵ 中 略 ︶ 落 着 いた ゆ つたり し. あ る。 こ の点 で谷 崎 を 大 いに励 ま し た のは 、 林 語 堂 の. 。一九 三 九 年 ﹃ 北 京 の 日﹄ ︵ 原題 R 〓oヨ① 二 〓 F バ一 濡.. には 現 れ ても ゐず 、描 か れ ても ゐな い。︾. 刊 ︶ は 、 鶴 田知 也 の訳 で 昭 和 十 五年 一∼ 二月 に刊 行 さ. 中 略 ︶ 永 遠 と 瞬 間 と が 一致 し た 生 活 を 営 んで ゐた 。 ︵. ﹃ 北京 の日﹄ だ った ら し い。. れ てお り 、 ﹃ 続 松 の木 陰 ﹄ の読 後 感 記 載 箇 所 か ら 、谷.

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