Huis closの劇形式について : nouveau theatreと
の比較において
著者
岡村 雅史
雑誌名
年報・フランス研究
号
13
ページ
1-21
発行年
1979-12-25
URL
http://hdl.handle.net/10236/9100
Huis closの
劇形式 について
一―■
ouveau th6atreと
の比 較 にお い て一一
I
SARTREは
,最
初 の劇作 二θs ν θ%θttθs初
演 の翌年,
つ ま り1944年 に第二作 〃%づsθ′οsを
発表 してい る。 しか し,
これ は内容的 に も形式的に も,前
回の も の とか な り作風 を異 に してい るよ うに思 われ る。 また,
これ以降 の彼 の劇作 と も違 ってお り,そ
の諸作品の中では,特
異 な位置 を しめてい るの であ る。一般 自りこSARTREの
作 品は,
形式上 は斬新 な ものではな く,
比較的 オー ソ ドック スであ るとみな され てい る。 にθs νο%θんθsは
古典劇 的,LDづ
αダθθιノθ Bο% Dづθ%は
やや シエ ー クス ピア調, Lα P%ιαづ%γ
θsクθθι%θ%Sθ,Nθ
んγαssθυ は ブ ル ヴ ァール際1風・……0) 従 って,彼
の作 品の独 自性 は,む
しろ,その哲学理念 に よる もの と思、われ る。 La nouveaut6 du th6atre sartrien n'est pas dans la forlne(a l'exception de ″%づs θJοs, 1944), mais dans son double engagement, philosophique dans(J l'existentialisme ath6e, politique dans l'id6ologie r6volutionnaire.
SARTREが
,既
成 の演劇形式 を採用 す るのは,
自分 の思想 を伝 えるた めには 最 も大衆 に馴染 みの あ る劇 のconventionに
従 って際1を創 ることが最 良の手段 であ ると考 え るか らであ る。 しか し彼 の世界観 は決 して古典的 な理性主義 に とどまってはいない。現代 に 史 雅 村 岡《Huis clos》 の劇形式について お け る
,あ
らゆ る危機 を彼 は鋭 く意識 してお り,そ
の思想 は今 の時代 に属す る ものであ る。 しか も,人
間の存在,行
動,意
識 に関す る彼 の考察 は,極
めて演 劇 と密接 な関係が あ り,革
新的 であ る。従 って,彼
の思想 が,演
劇 の形式 に波 及 しないはずはないのであ り,そ
れ が,彼
の劇 の形式が,そ
の内容 に比 して古 い といわれ るゆえんなのであ る。Sartre aussi bien quc Camus(sont des) moralistes avant d'etre dramatu―
rges, ils ne vOient dans le th6atre qu'un moyen emcace。 (¨。)A aucun monl‐
ent, ils ne tentent d'en r6volutionner la forme et les structures, versant avec
insouciance leur宙n nouveau dans lcs宙eilles outres du th6atre traditionn』
だが
,
本 当にSARTREは
演劇 にお け る 形式の 改革者 ではないのだろ うか。 それ と も彼 の思想の斬新性 は,新
しい演環J形式 を生 み出すにはいた らなか った のか。 この疑間 を解 明す るた めに,私
は ここで,彼
の劇作 の うちで最 も異色 であ る と思 われ る ″%づs θJοsを
と りあげてみ よ うとす るのであ る。 この劇の 構造 , そ こに提起 され てい る問題,お
よび思想 は どの よ うな ものか。 そ して,そ
の表 現法,す
なわ ち劇形式 は,従
来 の もの と比較 して,い
かな る点 で異 な り,い
か な る点 で共通 してい るのか。 さらにその問 い以前に古い劇形式 とは,新
しい劇 形式 とは何か。 また,い
わゆ るnouve〔tu th6atreと ″%グsε′οsの
関係 は どう なのか。 それ らの点 について,考
察 を続 けてゆ くことにす る。 註 (1) Alfred SIMoN, T力ι′力′θ //α%fαづs θοπノθ,7ι夕θ/αづκ, p。 227。 (2) Geneviё ve 8ERREAU, ムrグsノοづγθαπ 《″r)?ィ7ノθα% ノ/2ノ′ノタ′θ》, p. 26。 Ⅱ 演劇 を分類す る場合,宗
教劇,風
俗劇,政
治劇 といった く゛あいに,そ
の内容《Huis clos》 の劇形式 について
に よって区別す る方法 と
,古
典主義演劇,象
徴主義演劇,
レア リスム演濠1といった
,多
分 に形式的 な分類 とが あ る。 しか しこれ らの分類 は,そ
の基準がいずれ もあいまいで
,
しか も複雑 多岐 にわた ってい る。 従 って,
先 ず我 々は ここ で,一
つの倶1面に しぼ って,簡
潔 な分類 を試 みな けれ ばな らない。演濠1を美学 の立場 か ら研究 してい る
Henri GouHIERは
RACINEや
VIGNY,MONTHERLANTな
どの劇作家が,
自 らの演劇理念 を述べ るさいに,二
つの要素を主 に挙 げてお り
,そ
して その二 つの要素 が,そ
れ ぞれ対応 してい ることに注目してい る。
RACINEは
単純 さ (simplicit6)を 尊 び,複
雑 さ(complexit6)を排除 しよ うと努 め る。
VIGNYは
,
精神的行動 (action mOrale)と物質的行動 (action mat6rielle)と い う対比 を示 す。MoNTHERLANTは
濠Jを,静
(statique)と動
(dynamique)と
い う二 つの面か ら見 つめ,「
ギ リシア演劇 は,純
粋 に,典型 的にstatiqueであ る。」 としてい る。もっと も
GouHIERは
これ を訂正 し て,動
(n10bile)と 不動(immobile)の
対比 よ りも, む しろ拡散 (dispersiOn)と集 中 (concentration)の対比 の 方が
,
よ り正確 であ るとしてい る。 また彼 は, RACINEが Simplicit6-complexit6の 一 対 に, unitё ―multpilicit6の 一 対 を加 えてい ること もま旨摘 してい る。 これ らの対比 はいずれ も作濠1上の問題,す
なわ ち,「
出来事」(6v6nement) が単数 であ るか複数 であ るか,筋
が 単純 か複雑か,あ
るいは事件が複数 で も, 扱 われ てい る内面性 が一つであ る場合,そ
の逆 に事件 が単 一であ り,そ
の内面 性 が,多
様性 を持 つ場合,
とい った い くつかの 組 み合 わせが 考 え られ,
そ し て そのいずれの組 み合 わせが優れてい るか,あ
るいは本筋 であ るかの問題 であ る。 い うまで もな くこれ は,
ア リス トテ レスの唱 えた「 悲濠1は行動 (action) の模倣 (imitatiOn)な り。」 とい う言葉 の様 々な解釈 に由来す る。 さて,
これ らの対応 す る様 々な 要素 を,GouHIERは
大 き く二 つに分 けて, 隊1の筋 を意味す るactionと,
観客の興味 をひ きつけ,朦
1の進行 を円滑 にす る《Huis clos》 の劇形式について た めの筋立 て (intrigue)と い う二 つに要約 す る。
Que Ce SOit le schё me ilnmobile― mobile signifiant surtout concentration一
dispersion, ou lc schё me int6rieur_ext6rieur se pr6cisant dans le couple rnoral― mat6riel,ou le schё me silnplicit6_multiplicit6 traduisant l'opposition qualitatif― quantitatif, il s'agit toujours d'exprilner une dualit6 radicale, une distinction
fondamentale compararable a cene de deux 616ments, c'est― a一dire de deux
termes 6galement preΠliers et,par suite, irr6ductibles.Pour voir clair,d6cidons
d'appeler ceS deux 616ments αειづο,c etづπιγグg%θ.
actionと は
,
字義通 り,
行動 の意味 であ り,
人間が一 つの 目的 に向か って 行動 を企 て,
いかに してそれ を完遂す るか を舞台上 に示すのが筋 (action)と ぃ うわけであ る。一方,観
客 の 目を外 らさぬ よ うに色 々の事件 を組 み合 わせ, いわゆ るsuspenseの
状態 を持続 させ るた めの 操作が筋立 て (intrigue)と 呼 ばれ る。 これ ら二 つ の 要 素 は,観
客 に 効 果 を与 え る とい う究 極 の 目的 に照 ら して み れ ば,本
来,一
体 の もの で あ る筈 で あ る。Francis FERGUSSONは ,ア
リス トテ レス に お い て は この actionとintrigueの
区 別 は な され て い な か った こ と を 指摘 してい る。 しか し,行
動 の模倣 とい う目的 のた めに一 つであ った これ らの 要素 は,時
代 と共 に次第 に分裂 してい ったの であ る。actiOnの
演劇 の典型 が ギ リシア際1であ るな ら,近
代劇,こ
とに心理劇 に代表 され るブルジ ョワ演劇 は, intrigucの 演劇 であ る。そ こでは,か
つて action を支 え るための補助 であ った intrigueが幅 を きかせ,actionは
ひか えめにな る。 こうい つた傾 向に反発 して Pierre一Aim6 ToucHARDは
,{4)
《L'intrigue n'cst que le squelette de l'action。 》
と述べ てい る。
《Huis clos》 の劇形式について
5
劇,エ
リザベス朝演劇等 々は,
いずれ も行動 の模倣 を 中心 とした 劇作 であっ た。 しか し,CoRNEILLE,RACINEの
劇 では,行
動 の模倣 は抽象的 な論理 で しか な く,行
動 の結果 はあ らか じめ与 え られてお り,主
要 な ものは行 為 ではな く, 言葉 に よって示 され る心理 の世界 なのであ る。 そ こには近代劇 の きざ しが見 ら れ る。 こ うい った劇 では,行
動 の展開に よって観客 を動かす ことがないので, intrigueの必要性が 大 きくな る。そ して もっば ら intrigucが 主体 とな る演劇 が,商
業演劇,あ
るいは ブルジ ョワ劇 であ る。 この よ うに見て くれ ば,
古 い劇形式 は, actionの
要素 が多 く,
新 しい劇形 式 は intrigueの要素 が多い といえ る。ところで, I%づs εJο
sに
は actionも intrigueも ない。 そ して劇作 につ きものの
,事
件(6v6nement)も
ない。 しいていえば,作
中人物 が,な
ぜ,
どこ か ら地獄へ送 りこまれ, どの よ うな罪 で,
どの よ うな罰 を受 け るのか とい う疑 間 の追求が,
この劇 のおお よその筋 といえよ う。 そ してその答 えが,す
べ てわ か った時が,
この劇 の終幕 であ る。 しか し,
この筋は三人 の登場人物 のA 藤の 中で,漠
然 と示 され るだ けであ って,積
極 的 なactiOnで
はない。 彼等 は 自分 達 の身 に何 が起 こるか を,た
だ待 ってい るだ けであ り,従
って この劇 では行動 は描かれていない といえる。 この劇 の主要 なテーマは,二
人 の caractёresの
間の相克 のみであ る。SARTREは
劇 の要素 としてではないが,行
為 (acte)と仕種 (geste)と い う 二 つの概念 を示 す。acteと
は,
自由な意志が一 つの 目的 を定 め,
これに向かうことであ り
, gesteと
は無効 の acte, あ るいは 似非 のacteを
言 う。 「 行為 (acte)が仕種 (geste)と な るのは,
行為 その ものが 無効 の 烙印 を押 された時 です。例 えば
,私
が牢 に閉 じこめ られた として,そ
こか ら出 よ うとノックす るのは仕種 です。(0。・)仕 種 とは不完全 な行為 なのです。行為 とな るた
《Huis clos》 の劇形式について
つ ま り
,無
目的 な行動,す
なわ ち衝動,み
せか け,無
駄 と知 りつつす る自暴 自棄 の行為,等
々は,す
べ て gesteであ る,
そ して acteと gesteの決定的 な 相違 は,前
者が必 ず,何
らか の効果 を持 つのに対 し,後
者 には それ が欠如 して い るとい う点にあ る。そ してSARTREは
文学 に もactcの
文学 とgesteの
文 学 が あ ると主張す る。「(…
)文
学 に も仕種 の文学 と行為の文学が あ ります。仕種 の文学 はなんび とに も損害 を加 えず
,
なんび とを も怒 らせた り,
傷 つ けた りしませ ん。 仕種 とは
,行
為の カ リカチ ュアなのです。」これ を敷衡 してみれ ば
,筋
(action)は行 為 (acte)に,筋
立 て (intrigue)は仕種 (geste)に 対応 してい るとみなす ことがで きる。例 えば
,一
人 の女 の気 をひ くた めに,別
の女 を誘惑す るとい った際1の intrigueは,
それ 自体,
目的 か ら逸脱 した行為,す
なわ ちgesteで しかない。 この点か ら見れ ば 〃%グs θJθs はgesteを
描 いた 演劇 といえよ う。 なぜ な ら登場人物 の人生 は 終 わってい る のであ り,舞
台上 に示 され る彼等 の諸行為 は,す
べ て無効であ る。従 って,そ
れ は何 らの効果 も生 み出す ことはない。「 地獄」 とい う舞台設定 の特殊性 が, この劇 を内容的 に も,形
式的 に も,独
創的 な ものに したててい る。 では,
ここ でSARTREの
倉J造す る地獄 とは,
どの よ うな ものであ るか を見 てみ よ う。 註 (1)Henri GouHIER,二'α?ιυγθノ乃ι′ノγα′θ,p。 61。 (2) ∬bづα。, p. 63。 (3)Francis FERGUSSON, Tλ θづαθα r9/α ιλθαιθγ,p。 37.Aristotle says the tragic Poet iS prilnarily a maker of Plots, fOr the plot is the ``soul of a tragedy," its forrrlal cause.(The reader must be warned that this conception Of the plot is rather unfarniliar to us. Usually we do not distinguish betlween the plot as the for]m of the play and the plot as
producing a certain efect upon the audience―excitement, “interest," susp‐
ense, and the likeo Aristotle also uses “plot" in this second sense.
《Huis clos》 の劇形式について (5)J.P。 サル トル
,『
サル トル対談集I』,p.130。 (6) ∬bづα., p。 130。 Ⅲ 人間 は 自由な意志 に基 づいて,
自らの在 り方 を行動 に よって決定 してゆ く存 在 で あ る。 しか し状況 は我 々に苛酷 であ り,我
々が沈滞 し,逃
避 し,非
行動的 にな ることを強 い る。 ゆえに,状
況 に対 して常 に突破 口を開かねばな らない, それが人間の宿命 であ る。 「 主人公 は我 々が皆 そ うで あ るよ うに,罠
にかか った 自由者 なのだ。 では出 口は どこか?各
々の人物 は一個 の出 日の選択 に他 な らず,出
日以上 の価値 もな い。 …選 ぶべ き出 口は,あ
りは しない。 出 口は創 り出 され るのだ。」 そ して,そ
の出 口が創 り出せぬ状態,抜
け出せ ない罠,そ
れ が『 出 口な し』 (″%づsθ′θs)の
世界 で あ る。 この劇 の舞台は,死
後 の世界 で展開す る。 だが作者 は地獄 も,人
間 の死後存 続 も信 じてはいない。従 って,SARTREの
地獄 は,人
間 に とって死 とは何か, 耐 え難 き地獄 の責苦 とは どんな ものであろ うか を論理的 に証 明 してゆ く。 いわ ば,そ
れ は合理的に構築 された地獄 であ る。FERGUSSONは
,RACINEの
劇 を, 0) 行動 の論証 であ るとい ってい るが,同
様 の意味 で,Hzι づsεノοsは
,「
地獄 とは 何 か」 を論証 す る もの と見 ることがで きる。 それ ゆえ,舞
台 には異様 な空間 を創 るた めの背景 は,い
っさいない。 この劇 の世界 は,神
秘 的 な要素 を全 く持 たず,非
常 に リア リステ ィックに表現 され て い る。三人の登場人物, Garcin,Inёs,Estelleは
いずれ も,
死人 とい うこと で あ るが,彼
等 は息 を し,[考
え,
話 し,
苦 しむ。つ ま り彼等 の意識 は全 く自 由に作用 し,そ
の会話 は極 めて レア リス ム劇的に始 まる6人
生 を終 えて しまっ た彼等 に とって,
今 あ るのは 行動 で も情熱 で もな く,
ただ言葉 だけであ る。8
《Huis clos》 の劇形式 についてGilles SANDIERは
,や
は り言 葉 の 呪 術 性 を そ の 手 段 とす るGENЁTと
,SARTRE
の類似性 を認 めて次の よ うに述べ てい る。
Sartre, et pour cause, ne connaissait pas Gcnet quand, en 1943, i1 6crivait
H%づ s ειos, trag6die du regar(l et de l'ilnage, et trag6die de la parole: pour la
prenliere fOis en France depuis Racine peut_etre, le langage, au th6atre, re‐ trouvait son pouvoir d'ο夕ιγαιづοκ, sa valeur instrumentale : i1 6tait acte, il 6tait a lui seul le ressort du tragique, qui naissait de la pure articulation de
{3) la parole,(… 。)
SARTREは
言葉の効力を最大限に発揮 させ ようと試みる。彼に とって言葉は 理性の証 しであ り,真
の行動 を生みだす ものは,理
性 しかないのである。(.¨)il s'agit de trouver une organisation de la parole et de l'acte, ot la
parole ne paraisse pas superf6tatoire, ot elle garde un pouvoir, au_dela de tOute 61oquencee C'est meme la premiOre condition d'un th6atre vrailnent
(4) e“ cient. 舞台 は平几 な会話か ら始 ま る。一人 のジ ャーナ リス ト風 の男
, Garcinが
ボ ーイに連れ られ て室 に入 って くる。 男は 自分 が理性的 な人間であ ることを,
し き りに他人 に納得 させ よ うとす る。 虚勢 を張 ってい るのであ る。紳士 ぶ ってい るこの男は第二 の 登場人物 Inёsに ,お
行儀 良 くす ることを提案す る。 だが, Inёsの
態度 は ニ ヒ リステ ィックであ る。 彼女 はすべ ての ことに対 し,
否定 と い う形 で しか 自分 を示 さない。最後 に現 われ るEstelleは,
さらに見せか けで 自分 をおお ってい る。 他の二人 は彼女 の正体 を 暴露 させ よ うとす る。Inёsは
罪 の中に身 を沈 めてい る。 彼女が後悔 していない よ うに見 え るのは,彼
女 が 自 分 で 自分 に刑罰 を与 えてい るか らだ。 あたか も彼女 は 喪服 を着 た,
あの 二θs y。%εttθsに
お け るArgosの
人 々の一員の よ うであ る。彼女 は憎悪の化身 であ り,他
人 も自分 自身 を も憎 む。 そ して他の二 人の罪 を,ひ
たす らあば きだそ う《Huis clos》 の劇形式 について とす る。
Inёse ― (…。)Moi, je
france des autres pour
suis m6chante 1 9a veut dire(lue j'ai besoin de la souf‐
(5) exister. 劇 の進行 と共 に明 らかにな って くる彼等 の性格 は次の よ うな ものであ る。 み せか けは平和主義者
,イ
ンテ リでジ ャーナ リス トのGarcinは
,実
は卑怯者 で 徴兵忌避者 であ り,
虚栄心 が強 く粗暴 で 女好 きで,
妻 を苦 しめて きた男であ る。Inёsは
同性愛嗜好 の女 で,
男 を嫌悪 し,
自分 の生 を感 じるために他人の 情熱 を奪 う。 彼女 は相手の女 の 恋人 を死 にいた らしめた。Estelleは
色情 狂 で,嬰
児殺 しであ る。 各 々の素性が露見 した後 の彼等 の次 の関心 は,一
体何 が 自分達 の身 にふ りか か るのか とい うことであ り,
なぜ この 三人が 一組 にな って 幽閉 され たかであ る。偶然 だ とい うGarcin,何
かの間違 いだ とい う Estelle,最 初か ら仕組 まれ ていた とい うInёs。 しか し,
彼等 が この疑 間 を 解 くために なす ことは何 もな い。最初 にGarcinが
Inёsに
い った よ うに,た
だ待 つ しか ないのであ る。lnёs.― (.…)Alors P Qu'est―cc(lui va Venir P 鯰)
Garcin. 一Je ne Sais Pas. J'attends.
通常
,
この待 つ とい う姿勢 は,観
客 の とる立場 であ る。観客 は舞台上 に展開 され る行動 の行方 を追 い,
その 目的が果 た され るのを待 つ。 ところが, I%づs θJοsで
は,登
場人物 の方が待 ってい るのであ る。待 つ とい う姿勢 が観客か ら舞 台へ移行 す ると,劇
の動的 な要素がな くな り,一
種 の膠着状態 がお こる。 これ は intrigueによ らないsuspenscで
あ る。 ここで,た
だ ちに想起 され るのは,BECKE質
のE%α
ιノθ%αα%″ Gοαοιとの比較 であ る。 この劇 の二人の主人公 は, 待 つ ことのみに終始 してい る。彼等 は 自殺 す ること もで きず,生
きる目的 もな い。 ただ,
と りとめ もない会話 が続 くだ けであ る。10
《Huis clos》 の劇形 式 につ いてEstragon。 ― En attendant, essayons de cOnverser sans nous exalter, puisque nous sornrnes incapables de nous taire.
Vladimir。 一C'estTvrai,nous sommes intarissables.
(7)
Estragon。 ― C'est pour ne pas penser.
これ もまた言葉の悲劇であろう。彼等の道化 じみた仮面の ドには
,人
間の宿 命的な悲哀がある。SARTREは
この二人の主人公を, G[trcin達
と同様に,罪
ある者 と見なす。
Et peu ilnporte cc que peut etre Godot: I)icu Ou la R6volutiOn。。。 ce qui compte, c'est que Godot ne vient pas a cause de la faiblesse int6rieure des h6rOs; qu'il ne peut pas venir a cause de ce《p6ch6》, parce que les honllnes
(8)
sont ainsi.
つ ま り
,二
人 は舞台 に登場 しないGodotを
いつ まで も待 つ とい う罰 を課せ られ てい る。 では ″%づs εJοsの
人 々は,
どの よ うな 罰を 受 け るのか。ほ どな く
,
それ は明 らかにな る。男 を憎 む同性愛 の Inёsは
, Garcinを
排 し,Estelleを得 よ うとはか る。色情狂の Estelleは Inё
sを
退 け,Garcinの
愛 を 得 よ うとす る。 虚栄心 を満足 させたいGarcinは ,情
欲 に 日の くらんだ Estelle の言葉 よ りも,男
に興味 のない Inёsの
賞讃 を求 め る。 だが その結果 は破綻 であ る。 この三 人の堂 々め く゛りは飽 くことを知 らない。 そ して Inё
sは
明晰 に結論 を下す。
{9) Ines. ― Le bourreau, c'est chacun de nous Pour les deux autres.
この結論 は正 しか った。 彼等 に罠が仕掛 け られ てい ることは
,
もはや疑 う余地 の な い こ と で あ る 。 そ し て そ れ は,SARTRE哲 学 の,「あ ら わ れ 」(apparition) と,「 存在」(etre)の論理 に裏打 ちされ てい る。
人間 は世界 を考 え
,判
断 し,
自 らの在 り方 を選 ぶ能 力 を持 つ。世界 をあ るが《Huis clos》 の劇形式について
SARTREは
考 え るё 人間が一人 でい る限 りは,
この 自由は完全であ る。 しか し 同 じ人間であ る他者 の 自由は,人
間 に とって障害 であ り,私
は私が物事 に与 え た意味 に他者の それが反発 す ることを阻止 で きない。SARTREは
行動 の 第一条件 を自由であ るとす る。 だか ら自由を阻 むあ らゆ る 要 因 を列挙す ることで,「
行動 の不可能 な世界」 つま り死 の世界 を描 くことに 成功 してい る。 ではその 自由へ の障害 とはいか な る ものであ るのか。 まずその第一 は,
自己欺IWi(mauvaise foi)で あ る。〃%づs θJθsの
人 々が苦 しむのは,
彼等 のmauvaise foiが
原因であ る。 そ こに,
この戯 曲 と前作 の 二ιs ν θ%θんιsと
の間にあ る 明白な連続性が 認 め られ る。彼等 は良心 に重 くのしかかる後悔に身をゆだねた Ё
lectreの運命を受け継いでいる。 彼等は過去
の行為の結果を悔やみ
,正
当化し, さらには事実を歪曲しようとまでする。自
己 に とって好 ま しい誤 りを真実 とす ることであ るmauvaise foiは,何
よ りも 自己 を欺 き,そ
して他者 の 目を意識 す る。Garcinは
自分 が 主義 のた めに死ん だ英雄 であ るとい うみせか けを,確
か な真実 とす るた めに Estelleの 同意 を求 め る。 だが彼女 は男の過去 には無頓着 であ る。 彼女 の興味 は男の 目に,魅
力 あ る女 と映 る ことだ けなのだ。Estelleの言葉 は,
彼 を 満 足 させ る ことはで き ない。Estelle.一 Que tout cela cst donc agacant P Menle si tu 6tais un l含 che, jc
uo t'ailnerais, la! cela ne te sufit pas P
この言葉 は彼 を致命的に打 ちのめ して しま う。 そ して彼は完了 して しまった 自己 の行為 に
,な
お も固執 す る。Garcin.― (¨。)Autrefois, j'agissais.…
Ah
d'eux.¨ quel d6menti!(。 .。)Je suis tomb6! revcnir un scul jour au nlilicu
aJ dans le domaine publiquee 死者 で あ る彼 には
,い
か な る努力 を もって して も,新
た な行動 で過去 の意味12 《Huis clos》 の劇形式について
を変 え ることはで きない。 そ して彼等 は mauvaise foiを 内に持 つ限 り
,そ
れ を暴 く他者 の存在 におののかねばな らないのであ る。自由を阻 む もう一 つの要 因 として
,
この他者が あ る。 《L'cnfer,c'est les Au‐tres.》 とぃ う
Garcinの
言葉 は ″%づs θJθsを
要約す る もの と して有名で あ る。だが それ は
,単
な る人間の6golsmeの
衝突 とい う解釈 では充分でない。人間が即 自 (en_soi)を超越 で きるのは, 何か を否定す る能力によってであ
り
,同
様 に人間 はen_soiだ
けでな く,
対 自 (pOur一soi)であ る人間 を も否定 しうる。 他者の まな ざ し (regard)は,
常 に人間 の 自由に とっての 障害 で あり
,人
間 を固定 し,な
ろ うと思 うものにな ることを阻 む。Inese ―Tu es un lache, Garcin, un lache parce que je le veux.(¨ 。)E)t
pourtant, vois conllne je suis faible, un souttle; je ne suis rien que le regard 田
qui te voit, que cette pens6e incolore qui te pense.
人間 は他者の 言葉 を封 じ
,力
で沈黙 を強 い ることはで きて も,他
者 の頭 の中にあ る自由な否定 の能力 を
,
その思考 を 変 え ることは 不可能 であ る。その結果
,見
つ め ること,見
られ ること,そ
して見せ よ うとす ることの堂 々め くめ が 始 ま る。Estellc.― (…)Mon image dans les glaces
si bien。¨ Je Vais sourire: mon sourire ira
lコ
sait ce qu'il va devenir.
6tait apprivois6e. Je la COnnaissais
au fond de vos prunelles et E)ieu
か くして
,人
は 自分 の望 む自己の映像 を控造 すべ く,一
つの役害J(r61e)を 演 じる。 この r61eも また,
自由を景J奪す る要 因であ る。 それ は安易 な生活 を送 るた めの発 明であ り,責
任 や真実か ら逃 げ る手段 なのだ。 しば しば, SARTRE
の使 う語彙 の中には「 ネズ ミ取 り」 であ るとか「 罠」 とい った言葉が見受 け ら れ るが
,r61eは
,いた るところに存在す る罠の一 つであ る。 それ はすべての人《Huis clos》 の劇形式 について
間が
,共
存す る他者 の視線 に さらされてい るか らであ り,
この地獄 の幽閉者達はお まけに
,生
きてい る地上 の人間の さらしものに もされてい る。彼等 は,人
々が 自分達 の噂 を し
,過
去 の もの として葬 り去 るのを見 て苦 しむ。《Ёtre mOrt, c'est etre en proie aux vivants.》 とsARTRE
はい う。死者 は 〃1ィグs θJο
sに
おいては見 つ め る意識 で しか な く,具
体的現実性か ら切り離 され てい る。彼等 は
,血
も涙 もな く,傷
つ くこと もない。彼等 は 自由に思考す る対 自(pOur一soi)で あ ると共 に
,一
方 では過去の中に埋没 した即 自 (en_soi)で あ る。 このよ うな分離 こそ
,
もはや彼等が存在 していない こと,つ
ま り 死 んでい ることを示 す ものであ る。 この よ うな存在論的立場か らSARTREは
生 け る死 と もい うべ きもの を示 し, そ して それ は現実 に生 きる我 々へ の痛烈 な告発 となってい る。 しか も,
これ は 極 めて否定的 な形 での告発 といえ る。 ここに 〃%づs θJοsの
特性 が あ り,そ
れ は この劇作 とnOuveau th6atreと を結 びつ け る要素 と思 われ るのであ る。 註(1)J.P.サ
ル トル,『
シチュアシオンⅡ』,p。 242.(2)Francis FERGUSSON, T力 θ づαθα o/α ′λθα′θγ,P050。
The action of Bιγ′%づεθ(using an ininitive to suggest if not to deflne it)
is “to demonstrate the tragic life of the soul一 as―rational in the situation of the three passionate monarchs." It is this demonstraion which the audi‐ ence is invited to see, which Rαεづ%ι makes, ■rst in his rational plot, then
in his reasonable presentation of character(kingS and queens as they logically
would be by conventional agreemet); and finally and above all, in the
logical and musica1 0rder Of his language. (3)Gilles SANDIER,SOε γαιθαγα%α′%γgθ,p。 80。 (4)Jo P.SARTRE, Tλ ι′ιγθαθ sづι%α ιづο%s,P。 75. (5)J.P.SARTRE,Л 「%づs εJοs,p。 157. (6) ∬bづα., P. 136。 (7)Samuel BECKETT,E%α ′ιι%α απι Gοごοι,p。 87。 (8)J. Pe SARTRE, T乃び′′γιαθ sづιπαιづο%s,P.75。
14
《Huis clos》 の劇形式について (9)J.P.SARTRE,月 「πづs θJOs,P。 147。 l10 」らグα。, p. 175。 llD 」bづα。, p。 174. αO 」らづα。, pe 182. l13 fbづα。, P0 180。 l10 ∬bグα。, p。 151.〔
o J.い。
sARTRE,二'f″ι
θ
ι
/θ ,oια
%′,p.628. ⅣSARTREは
諸性格 (caractёres)の
分析及 び,
それ らの間の衝突が主 な関心 事 で あ るよ うな性格劇 (th6atre de caractёres)を否定 す る。 人間は性格 では な く行為で あ ると考 え るか らであ る。 しか し π%づsθ′οsで
は,
明 らか に この caractёresの
間 の衝突が主要 なテーマなのであ る。 この劇 の三人 の登場人物 はいずれ も感情 の資質 に富 んだ,生
々 と描かれた人 物 であ り,
単 に理論 を提起す るた めの 小道具ではない。 そ して 彼等 はいずれ も,心
理劇 が好 んで採 り上 げ る複合性 を持つ 人間であ る。 だが彼等 の見せか け と実体 との二重性 こそ,
〃%づs εJθsに
お け る 否定 の 対象であ る。 とい うよ り は,SARTREに
とって1生格 な ど存在 しないのであ るか ら, この人物達の性格 と 見 え る ものは,す
なわ ちあの役割 (r61e)に 過 ぎない。 そ してそれが,あば き出 され るのは,
この劇 が閉 ざされた空間の中で展開 され るか らであ り,
日常的 な 空間 であれ ば, この劇 は単 な る心理際Jと変 わ るところが ない。しか しSARTRE
が,
こ うい った性格劇 に共通 してい るかのよ うに見 え る作劇法 をとるのは,性
格劇,
或 いは心理劇,
ブルジ ョワ劇 の示す 世界 を否定す る 目的か らなのである。 彼が, こ うい った intrigueの 演濠
1,つ
ま りgesteの演劇 のconventionを拒 む唯一 の証 しは
,″
%づs εJοsに
おいて,筋
(action),筋 立 て (intrigue),結末 とい った ものが
,
い っさい欠如 してい る点 であ る。そ してSARTREが
行動 の ない無益 な 自由を,
地獄 と して 示 してい ることは,
と りもなお さず action《Huis clos》 の劇形式 について の存在す る演際1を要求す る ものなのであ る9 この よ うな否定的 な手法 による告発
,筋
や結末の欠如 とい うところに,I%づs εJοsと nouveau th6atreと
の連続性 を見 ることがで きる。H力
s ειοsに
お け る否定的 な表現 は,そ
の作劇法の細か な技巧 に も及 んでい る。窓 のない暑 い第二帝政風サ ロン。 そ こにあ る ものは,本
来 の意味 を失 な っ てい る。押 して も気紛れ に しか鳴 らないベル,開
か ない ドア,
ブ ロンズ像,本
もないのにテー ブルにあ る一本のペーパ ーナイ フ。 それ らは明 らかに,
日常的 な機能 を果た さない。 しか し,
これ らの ものはすべ て,仕
組 まれ た地獄 の拷問 の道具立 てであ ることが後 に示 され る。Estelleは
Inёsを
殺 そ うとペ ーパ ー ナイ フで突 く。もはやいか な る死 も不可能 な ことが明 らか にな る。Ines, sθ ごぁ αιια%ι θιγづα%ι。一 Qu'est一ce que tu fais, qu'est―ce que tu fais,
(1)
tu es folle P Tu sais bien que je suis IIlorte。
Ga′rcinは ブロンズ像を眺める。 それは彼等 と同様
,視
線に さらされ るobjetである。
Garcin.― Lc bronze(IJ Jι εαγθssι。
)Eh
est la, je le contemple et ie comprends
que tout 6tait pr6vu. 1ls avaicnt pr6vu
cherrlin6e, pressant ma main sur ce bronze,
bien, voici le moment. Le bronze que je suis en enfere Je vOus dis
quc je me tiendrais devant cette
佗)
avec tous ces regards sur moi.
地獄 の中での相克 は始 めか ら演 出 された ものだ った。 この劇 の二人 の登場人 物 は
,互
いを蝕 ばむよ う仕組 まれた芝居 を演ず る役者 で しかない。 このよ うに 演劇的 なか ら くりを,演
劇化 す る,そ
こに演劇 の持 つ魔術性へ の否定が あ る。Garcinは
自分 が単 に 役 を演 じてい るに 過 ぎない ことに気 づ く。 しか も,彼
は それ を永久 に演 じ続 けねばな らないのだ。 また この劇 は,
レア リス ム風 の表現 を用 いなが ら,時
間 と空間の枠組 を超 え16 《Huis clos》 の劇形式について
ることで
,
レア リスムを脱 してい る。二人の死者か ら,次
第 に遠 ざか ってい く現実 の世界
,そ
れ は聞 こえな くな り,見
えな くなってい く。 この消失 の感覚 はIONESCOの
世界 を思 わせ る。Ines.―(...)Ene lui dit qu'il est midi et qu'il fait grand soleil.Alors,c'est
que je deviens aveugle。 (び
%
″θ夕,3夕s。) Finic Plus rien: je ne vois plus, je (3)n'entends plus.
Estene.― (…。)IIs ont 6teint les larrlpes cornrrlc pour un tango;pourquoi
jouent一ils en sourdine P Plus fort! Quc c'cSt loin ! Je00・ Je n'entends plus
(4)
du tOut。
一方
,時
間の進 み方 も現実 とは違 って くる。彼等 は加速度的 に地獄へ落 ちこんでい く。
Garcin。 一]Eh bien, quoi, ma femlne. Ellc est mortee
lnёs. 一 Morte P
Garcin. ―J'ai d0 0ublier de vous le direo Elle est morte tout a l'heure. 11 (5}
y a deux mols envlron.
(6)
そ して
Garcinが
劇 の終 わ りに放 つ,《Eh bien,cOntinuons.》 とぃ う台詞 は,この劇 の永続性 を見事 に表 わ してい る。彼等 は今 も尚
,互
いに責苦 を与 え合 う, 地獄 の芝居 を演 じ続 けてい るのであ る。BECKETTの
戯 曲,Cο%びαづθは,Iπ
づs ε″οsの
延長 と も見 うけ られ る。甕 の中か ら首 だけ出 した三人 の登場人物。 そ し て照 明のあた る時 だ け彼等は 口をひ ら く。 肉体 とい う即 自を失 ない,意
味 のな い独 自だ けの存在 であ る彼等 は, Garcin,Inёs,Estelleの
その 後 の姿 の よ う で あ る。 この よ うに ″%づs
θJοsと
nouveau thё atreと の共通点 は 明 らかであ る。 しか しnouveau th6atreと 一括 して呼 ばれ る 一群 の劇作 には,様
々な形態 が あ り,
一 ま とめにで きる ものではない。 そ こで最低限度,
そ こに共通性 を見《Huis clos》 の劇形式について いだす とす るな ら
,
それ は actionと intrigueの欠如 であ る。 そ して, この 点 において ″%づs εJοsは
nouveau th6atre
と形式的につなが るのであ る。 Fl()uVeau th6atreは,観
念的 な前衝劇 とい うよ りは,む しろ極 く商業的 な ブ ル ジ ョワ劇,つ
ま りintrigueの主 にな った劇 を継承 してい る。 だが それ は批 判的継承 と もい うべ き もので,観
客 に うけ ることに専念す るブルジ ョワ劇 とは 正反対 の ものであ り,現
実 を嘲弄 し,観
客 を怒 らせ よ うとさえす る。 こ うい っ た異化 (distanciation)の 技法 は本来,喜
劇 あ るいは笑劇 (farce)の 真髄 であ っナこが, 万J名不≠条理ユ濠1(th6atre de l'absurde) と呼│ゴれ るよ う│こnouveau
th6谷′treは
既成概念 を,
ことごと く否定 してい く点で,喜
劇 の嘲弄的性質 を一層徹底 した ものであ る。 そ こでは理性 も
,言
葉 も,演
劇 その もの も椰楡 の対象とな り
,解
体 され て しま う。我 々に限定 を強 い るあ らゆ る観念,そ
して言葉 さえ も否定す ることで,こ うい つた劇 は観客 を本源的 自由のただ中に投 げ入れ る。
従 って
,nOuveau th6atreで
は, 一貫 したactionが
描 かれ ることはな く,それ を補助 す る intrigueも ない。 それ は ア リス トテ レスのい う行動 の模倣 の 理念か ら完全 に離反 した劇 といえよ う。実際
,
こ うい った演劇 は演劇 その もの を否定 す る目的 で書かれた と思 われ るふ しさえあ る。 なぜ な ら,椰
楡,嘲
弄 の 対象た る ものに,非
常 に しば しば演劇的 な ものが見 られ るか らであ る。 演劇 は他の芸術 に比べ て,よ り虚妄 に頼 る芸術 であ り,本質的 に見世物(spec_tacle)で
あ ることを まぬがれず,
登場人物 や 劇 の状況 は そ こでは 神話化 す る。SARTREは
この spectacleの もつ,
人間の 魔術的態度,
すなわ ちr61e,gesteを告発す る。 これ らの告発 の対象 こそ,「 行動 の模倣」 よ りも「 見せ る」
ことを重視す る intrigueの劇
,
つま り1生格劇,
あ るいは ブル ジ ョワ劇 の産 物 なのであ る。 演劇 が その時代,そ
の文化 の 様相 を 映 し出す鏡 であ るな ら,SARTREが
, こ うい った劇 を批半Jするのは,
その劇 を生 じさせた社会 に批半Jの《Huis clos》 の劇形式について を次 の よ うに述べ てい る。
La il faut tout de suite le constater: leurs(Beckett, Ionesco, Adamov) piёces ont un cOntenu profond6ment, essentieHement bourgeois。 (…。)tous les
thёmes de Godot sont bourgeois: ceux de la solitude, du d6scspoir, du lieu
COΠllnun, de l'incorrlinunicabilt6. 1ls sont tous le produit de la solitude interne
{7) de la bourgeoisie. これ は彼の
nouveau th6atreの
作家 に対す る 批判的 な意見 で あ るが,
この ことは,そ
っ くりその まま π%づsε″οsに
もあては ま る。 この作 品以外の SAR―TREの
劇 は確か に肯定的 な作 品が 多 く,actionの
演際1とい え る。 では,H%づ
s εJοsだ
けは, nOuveau th6atreで
ぁ るのか。 この点について解 明す るた めに は再 び行動 の面か ら考 えみなけれ ばな らない。 註 (1)J.P.SARTRE,″ 1イグsε′οs,P。 182。 (2) fbグ α., p. 181。 (3) rbづ α。, P. 161. (4) fbづ α。, p。 166。 (5) fbづ α。, p. 173。 (6) rbづ α., p。 182。 (7) Jo Po SARTRE, Tλιαιγθαθ s夕 πα′グοπs,p.75.V
SARTREは
,
自由な意志が選択によって行動 をな し,
その行動が孤独や疎外 によって屈服す ることのない,真
の行動 (action authentique)と なることを 信 じている。 この見解が,π
%づsεノοsと nouveau th6atreと の間に,わ
ずかだ が重大な差異を生 じさせている。従 って特に,不
条理性 (absurdit6)とい う点 に関 して,両
者の間に一線が引かれ る。SARTREは
世界を不条理ではな く,合
《Huis c10s》 の劇形式について
理的だ と考 え るか らであ る。〃%づs θJο
sの
世界 は irrationnelで あ るが d6rai‐sonnableで
はない。 そ こには論理 が あ り,規
範 が あ る。理性 を,ざ りざ りの限界 まで追 いつめて
, SARTREは
人間の不合理 な要素 をあば きだそ うとす る。 その結果,多 くの不条理際Jが
,嘲
弄 をその表現手段 とす る,喜劇 の形 を とってい る のに対 し, この劇 は悲劇 であ る。 《L'homme est une passion inutile.》 と考 え るこの哲学者 は,人
は皆生 まれ なが らに して死ぬべ く罰せ られ てお り,考
え, 感 じ,苦
しむ宿命 を背負 ってい るとみなす。 こ ういった思想 は ″%づs θJοsを
悲劇 た らしめ るに充分 であ る。 そ こには虚無主義 さえ認 め られ る。 しか も, こ の人間の「 自由の悲劇」 は色 々な点で古典的 な悲劇 とは逆転 してい る。悲劇 の 主人公達 の苦悩 はおお むね,与
え られた状況 に 自由のない ところに起因す る。 その結果,彼
等 は死 を望 む。死 は悲劇にはつ きものであ り,状
況 の中に,唯
一 開かれた突破 口であ る。 反対 に 〃πづs θJθsは
その表題 の示 す ごと く,
逃避 口 のない,
と りわけ死 がゆ るされ ない世界 であ る。古典悲劇 の登場人物 は,望
み 通 りに未来 を変更で きない ことに苦 しむが,″
%づs θJοsで
は過去 の意味 を変 え られ ぬ ことが 彼等 の悲劇 であ り,
未来 はな く永遠 に続 く現在 があ るのみであ る。 この よ うな逆転か ら見れ ば ″%づsθ′οsを
反悲劇 (anti―trag6die)と みなす こと もで きよ う。重要 な ことは,
この劇 を悲濠1に仕上 げた ことでsARTREが
積極 的 に,
現 実 の世界へ の 批判 の姿勢 を 示 してい ることであ る。 そ して彼 はnouveau th6atreの
作家達 の,現
実 に対 す る姿勢 を次 の よ うに説 明す る。Et le problёme de ces 6crivains, c'cst Celui de l'int6gration, 一 en cela, ce
sont les seuls dramaturges de nOtre temps(ils font 6clater le th6atre bour_
geois oi cette int6gration est dOnn6e a l'avance), 一mais de n'importe quelle int6gration,de leur int6grtiOn a n,importe sOci6t6:en ce sens,a politiques,
ils sont aussi r6actionnaires.
20
《HuiS C10S》 の劇形式について 向性 を持 た ない。彼等 が嘲弄 をその手法 とす ることは,い
いか えれ ば世界 を外 側 か ら見 てい ることなのであ る。 この姿勢 は,「
現 実 を覗 きこむ」 とい う,
レ ア リス ム作家の立場 に似 てい る。現実 を覗 きこむ,で
はその作家 はい ったい ど こにい るのか,神
の位置 なのか。SARTREが
″%づSε′οsを
悲際1に してい る理 由 が ここにあ る。 なぜ な ら彼の主要 な関心事 は action authentiqueの 百]・台ヒ性 を 追求す ることだか らで あ る。 それ はギ リシア悲際1,シ
エー クス ピア劇等 々の, 真 のactionの
演濠1にお け るよ うな,「
行動 の模倣」 の対象 とな るべ き過不足 の ない,正
真正銘 の行動,
自由を阻 む諸 々の障害 に よ ってgesteに変 え られ る ことのない行動 を求 め ることであ り,そ こに こそ真 のdrameが
創造 され る。 彼 が,悲
劇 を書 いたのは,た とえそ うい った行動 の実現 が不可能 で あ って も,と い うよ りは不可能 であ るゆえに,現 実 を単 に嘲弄 す るに とどまれ ないか らであ る。 H%づs θJοsで
は,言
葉 は人間 を傷 つ け苦 しめ る道具 であ ると共 に,理
性 の最 後 の砦 であ る。RACINEの
創 る理性 の世界 に対 し,
この劇 のそれ は非理性的に みえ る。 だが言葉 に代表 され る 理性 の域 をSARTREは
出ない。 それ は 彼が合 理 主義者 であ り,現
実が不条理 なのは論理 が間違 ってい るか らだ とみなすた め で あ る。SARTREは
自由が華 々 し く行動 を生 み出す ことを望 む。 この action authen‐tiqueの
可能 な世界 を,彼
岸 の世界 と して心 に抱 く限 り,
彼 は悲慮1を書 くこと が で きるのであ る。nouveau th6atreと
ル んづsθ ′οsの
関 係 をMichel CORVINは
次 の よ うに説 明 す る。「 サル トルは『 出口な し』 で対話劇の限界をつ きとめた。(000)舞台を地獄 と
す ることで彼は
,芝
居の筋 とい う筋 をみな廃止 した。(0…)今日の演劇は『 出口な し』のせ りふのや りとりで
,
せ りふ 劇最後の バ トン・ タッチ をしたのであ る。」《Huis clos》 の劇形式について
21
この言葉 はSARTRE劇
の位置 をよ く示 してい る。彼 はそのい くらか の劇作 の中で最 も形式的に斬新 な劇 として ″%づsθ′οsを
書 いた。 筋 もな く,
事件 も ない この劇 で,彼
は古典的 な意味 での悲劇 を,現
代 において書 いた最後 の作家 であろ う。悲劇 をえLみ出す土壌 には,常
に一つの定着 した価値観,世
界観 が必 要 であ った。 そ して悲環1を死滅 させた ものは,虚
無主義 で あ り,そ
の嘲弄的 な 姿勢 なのであ る。SARTREが ,
その pessimisteな思想 に もかか わ らず,現
実 を椰楡 す ること な く,悲
劇 を書 こ うとす るところに,
この作家が悲劇の存在 が可能 な文化,真
の行動 の存在 しうる社会,そ
して真 のdrame,す
なわ ちactionの演際1の実現 を,信
じてや まぬ ことが うかが え るのであ る。 註 (1) Jo Po SARTRE, ■'Ёιγθθι ′θηιαπι, P。 798. (2)J. Po SARTRE, T力 ι′′γθαθ sづ ι%αιグο%s,p。 76。 (3)ミ シエル・ コル ヴァン,『
フランスの高な衛劇』,p。 37。 参 考 文 献 ミシエル・ コル ヴァン,『フランスの前衛劇』石沢秀二・利光哲夫訳 (白水社)1973。 J.P。 サル トル,『
サル トル対談集I』 (人文選書)1969。Henri GouHIER, 二'(形%υγθιんび′ιγαJθ, Flammarion 1958。 Alfred SIMoN, Dづ θ′づο%%αづγια%′乃ι′″γθ ブレα%′ αグS θθ%ιθ
`%夕Oγαづ%, Larousse 1973.
Geneviё ve SERREAU, HiSι οづγθごπ 《%ο %υ ια% ιλι′ιγθ》, Gallilnard, Colletion ld6es,
1966.
Francis FERGUSSON, rん θ づ″θα 9/α ′λθαιθγ, Princeton University Press 1972。
Gilles SANDIER, SOεγαιθごγα夕2oαノ%γgθ, ■ノArc N°30 1966.
Samuel :BECKETT, Eπ αι′θ%α απ′ Gοαο′, Les Editions de Minuit。 1970。
Jean―Paul sARTRE,I%づSθ′οs,Gallimard 1945.
― , Sづι%α′づο