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Title
世代間倫理をめぐる考察
Author(s)
清水, 真哉
Journal
東京歯科大学教養系研究紀要, 27(): 1-8
URL
http://hdl.handle.net/10130/2680
Right
世代間倫理をめぐる考察
清水真哉
1 2011 年、フクシマでは四基の原子炉が制御不能となり、大量の放射能が 放出された。 2011 年、東南アジアでは一国の首都が数ヶ月に渡り水没した。これは未 来予想図である。 2011 年、世界の人口は 70 億人を超えた。 2011 年、南アフリカで開催された地球温暖化防止のための国際会議では、 自らの危機に対応する人類の能力に疑問符が付けられた。 世代間倫理という思想をめぐる議論も、速度を上げなくては意味を持 たなくなるのではなかろうか。後に続く世代に対する責任の問題は、環 境倫理のもう一つの主要なテーマである自然保護と並べても、人間社会 により深刻な葛藤と軋轢を生み出す、文明にとって根源的な課題であ る。 1) 世代間倫理が議論される背景 いにしえより、後の世代が同じ環境や資源状態を享受できなくなるよ うな形での環境破壊や資源の濫費は行われてきた。 古代において既に、自然を損なうことで自らの生存基盤を揺るがしか ねない行為に対する認識はあったようである。(註 1) 1 東京歯科大学 ドイツ語研究室今の中東やギリシャの荒涼とした荒野や禿山は、そもそもは緑豊かな 土地であったという。中東やギリシャに住む現代の人々は、古代に生き た祖先の行為を断罪し、呪う権利があるのかも知れない。 古来人類は、世代間倫理が必要とされる状況と無縁ではなかった。で はなぜ、今日特に、世代間倫理ということが言われるようになったので あろうか。 一つには、科学技術の進展により、自然破壊の速度が加速していった ということがある。 19 世紀のアメリカでは西欧人によって、無尽蔵にいたリョコウバトや バッファローが、みるみるうちに捕り尽くされてしまったのだという (註 2)。今も生きる先住民族の人々などは実際に、侵入者たちの過去の 蛮行を恨めしく思っていることであろう。 このアメリカの例など、猟銃がなければこれほどの殺戮はありえなか ったであろう。技術の発展が自然の破壊を加速したのであり、人間は自 らの所業に恐れをなしたに違いない。 不可逆性の自然破壊では、世代間倫理的問題性を含んでいる。 更に、世代間倫理が議論される背景には、枯渇性の資源に現代の文明 が大きく依存しているという問題がある。 現代文明は化石資源、その中でもとりわけ、石油に依存している度合 いが高い。食糧生産さえ石油に依存しており、現在の 70 億人の胃袋を満 たす食糧の生産は石油なしではありえない。また、生産した食糧を運ぶ 輸送も石油なしには困難であろう。 現在の日本では、過度の森林伐採が問題になることはないが、それは 輸入される石油によって燃料の需要が満たされているからで、石油がな くなれば人々は薪炭を手に入れるために樹木の伐採を始めるであろう。 (註 3) 石油はこのように現在の文明の根幹を担っている。この文明を持続さ せるためには、石油があり続けなければならないのだが、その有限性は 明確である。その有限な資源をこれほど浪費し続けていることは、瞠目
すべきである。文明のただなかに居る者には、資源の消費量が供給力に 見合わないことが見えなくなってしまうものなのかも知れない。しかし 石油の重要性と有限性を考え合わせれば、少しでも多く後世に残さなく てはならないという所に行き着くはずである。 枯渇性の資源を消費し続けているということでは、アメリカの一部の 農業が有限な地下水に依存していること、その他も挙げられる。 世代間倫理が議論されるもう一つの大きな背景は、人類が有害な廃棄 物を蓄積しつつあることである。 現在生きる我々は、過去の人が残した PCB の管理を強いられている。 アスベストを用いた建築物や、土壌汚染の問題でも、責任者が既に存在 せず、後の人間が処理を強いられるというケースは稀ではない。 大気中の二酸化炭素の濃度の高まりもそうであり、さらに原子力発電 が生み出す放射性廃棄物という特段の長期に渡って高い毒性が残る物質 を人間が作り出してしまったことがある。放射性廃棄物というものによ って人類には、時間を隔てた対象に対して加害することが技術的に可能 になったのである。 こうした物質的な背景とは別に、現代社会における情報流通量の増大 が可能とした、予見可能性の高まりが、未来世代に対する責任の意識を 高めているという側面もあるであろう。 2) 世代間倫理について議論されていること 世代間倫理というテーマをめぐって、応用倫理学の世界でこれまでな された議論の主たるものは、世代間倫理というものが倫理学的に成り立 ちうるのかというものであった(註 4)。この議論そのものに意義がある ことは否定することはできない。 しかしこうした議論が、後の世代に対する責任から逃れるための言い
訳に見えてくることがあるのも事実である。 応用倫理の一つである世代間倫理が、倫理学の枠内の議論に終始し、 現実と関わることがなくなれば、その存在意義が問われよう。 世代間倫理は、倫理学の一領域として学としての厳密さが求められる 一方、現実問題の解決に寄与しようとする志向も捨ててはならない。 3) 世代間倫理の論じられ方の盲点 世代間関係の同時代性 世代間倫理が論じられる場での未来世代のイメージは、顔も見ること のない遥か先の時代の人たちと捉えられていることが多い。であるから 未来世代との価値観の共通性に疑問を呈したりする議論も出てきたりす る。 しかし、世代間倫理の主要なテーマである枯渇性資源と放射性廃棄物 の問題は、必ずしも顔を合わせることのない遠い世代に対する問題では ない。 石油を本格的に使い始めた頃の人たちはまだ生きているであろうが、 現在既に新たな油田は見つかり難くなっているし、採掘の困難な海底油 田などに手を付けなくてはならなくなっている。 世代間倫理を議論の必要のある問題とする最も主要な事象である放射 性廃棄物にしても、日本で原子力開発を始めた人たちは今でも存命で、 そこから産まれたエネルギーを利用した人たちはまだ生きているが、残 された放射性廃棄物は、既に今いる人たちの課題となっており、それを 使用した訳ではない若い世代が現にそれを管理する仕事に携わっている。 法人の中で廃棄物の管理に関する仕事を、孫の年に当たる若い世代に引 き継ぐこともあるであろう。放射性廃棄物はすでに同時代人に対して負 担を掛けている。 未来世代は同世代、次世代、次々世代という連続性の先にある。次世 代との関係は同世代と同じ倫理的関係にあるように、次々世代との関係 も変わらないだろう。同世代に生きる人に対する責任の徹底が、後の世
代に対する責任につながるのではなかろうか。 世代間倫理は倫理としては、同時代に生きる人に対する倫理と本質的 に異なったものである訳ではない。未来の人間が生理的に現在の人間と 異なるはずはなく、現在の人間にとって必要な物質は未来の人間にとっ ても必要なものであり、現在の人間にとって危険な物質は未来の人間に とっても危険なものとして考えなくてはならない。 4) 世代間倫理において何が論じられなくてはならないのか 将来世代の利益を考慮した行動の規範というものは、人類の歴史にお いて新しいのかも知れない。環境の歴史に関する知識が増大し、残存資 源量などについてもこれまでより見通しのつくようになった現在である から可能なことなのかも知れない。その意味が分かっている以上、人類 は将来の世代に負債を残すことはできない。 将来の技術革新を期待して、今の生活水準を上げることは許されない。 現在残る資源を使い果たした後には、後の世代が技術革新をすることで 問題を解決してくれるであろうという期待は、無責任である。現在ある 技術水準にあった生活をすることが、分に甘んじるということである。 有限の資源については、後の世代が使う分を十二分に残すように配慮し つつ消費することが義務付けられている。 世代間の公正の問題の解決が、現在における社会的な公正の問題と矛 盾することはありえる。将来世代の石油の一滴のためには、今の時代の 誰かが諦めなくてはならない。 将来世代のために石油などを残すことは、今の貧困層から奪うことで ある可能性はある。しかしそれは今の世代の中で解決すべき配分の問題 である。 とはいえ、現在、一滴も石油の配給を受けることの出来ない人にとっ
ては、後世の人のために何ほどかを残さねばならない理由を見出し難い であろう。その分、過剰消費を繰り返す先進国の人間の罪は重い。 5) 世代間倫理の現実化 世代間倫理については、哲学の分野においてのみ議論される時期を早 く乗り越え、全人類的な課題として捉えなくてはならない。 人類の文明を保ち、次代へ持続させていくことこそが、人類の偉大さ なのである。世代間倫理ということ以前に、文明というものを持続させ る意志があるかどうかである。人類自体は続いて行くかも知れないが、 問題はどのような質のものとして続いていくかだ。石油文明が終わり、 森林も伐採し尽くされて、壊れた自然とともに何とか生きていくだけの 人類であってよいのであろうか。 見方を変えると、世代間倫理という視点から行動できるようになると いうことこそが、人間の理性の発展、人類の進化とも言えるのではない か。ここにこそ哲学の使命、哲学に限らない学問の使命があるのではな かろうか。 文明の長期的な設計をする場を人類は持ってよいはずだ。世代間倫理 という課題について、ダボス会議のような経済中心の会議ではなく、人 類の持続的な存続に寄与するための世界賢人会議が持たれて良い。 そのような場において、人権宣言や「子供の権利宣言」のように、「将 来世代の権利宣言」が宣せられるといったことが考えられる。 また、世界各国の議会において、世代間関係基本法のようなものを制 定するようなことにも意義があるであろう。 選挙権年齢の引き下げにも多少の効果はあるだろう。仮りに 15 歳まで 選挙権を引き下げれば、五年間でもより未来に生きる人たちの立場が反 映されるわけだし、世代間倫理とは言いながら、それは同時代を生きる 世代間の対立でもあることを考えれば、それは五年分以上の意義を持つ であろう。
そうしたことの上に、将来世代の利益を代弁する機関が創設されてよ い。自然界の動植物は当然、人間界に対して自分でものを言うことは出 来ないが、それらを保護しようとする団体や個人は数多い。子供は自分 の利益を政治的に意思表示することはできないが、その利益を代弁しよ うとする市民団体や国際機関などの政治勢力は存在する。ならば未来世 代の利益を代表する国際機関が創設されてもよいはずであり、市民団体 としても未来世代の声を代弁する政治的な団体が現れても本来不思議で はないはずである。 さらに個別具体的になるが、重要な課題として、少しでも石油を合理 的に用い、後の世代のために長持ちさせようとする立場から、化石燃料 の採掘制限をする国際的な機関が創設されるといったことも考えられて よい。 未来学といったものの必要性を検討してみるべきである。我々の行動、 生産物などが将来に害を及ぼすことがないかを研究するのである。 しかし、このようなことを書いても虚しく思われてくる。世界の石油 消費量は地球温暖化対策の掛け声も虚しく、抑制されるどころか拡大を 続けている。人類は必ず最速のスピードで石油を使い尽くすであろう。 誰もそれを止めることはできない。将来世代のために何ものかが残され ることはほとんど期待できなさそうである。 (註 1) プラトン『クリティアス』(クライヴ・ポンディングに拠る) (註 2) クライヴ・ポンディング (註 3) 建材の需要が輸入木材によって満たされているという要因もあ る。 (註 4) Partridge
参考文献 加藤尚武『環境倫理学のすすめ』、丸善ライブラリー、1991 年 K・S・シュレーダー=フレチェット編、京都生命倫理研究会訳『環境の 倫理』(上・下)、晃洋書房、1993 年 クライヴ・ポンディング、石弘之・京都大学環境史研究会訳『緑の世界 史』(上・下)、朝日新聞社、1994 年
Partridge, Ernest, 1990, “On the Rights of Future Generations,”Donald Scherer ed.,Upstream/Downstream: issues in environmental ethics, Philadelphia: Temple University, 40-66.
Jonas, Hans, 1979, Das Prinzip Verantwortung: Versuch einer Ethik für die technologische Zivilisation, Frankfurt am Main: Insel Verlag.(=2000,加藤 尚武訳,『責任という原理―科学技術文明のための倫理学の試み』東信 堂)
池田和弘「世代間倫理の(不)可能性――有限性の環境哲学――」東京 大学大学院人文社会系研究科 社会文化研究専攻 社会学専門分野 修 士論文 2002 年 3 月