古代以前の河内
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三世紀を中心に、
﹁モノ﹂とのかかわりに着目して
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石
上
敏
1 、はじめに 2 、纏向遺跡出土銅鐸飾耳片について ⑴ 唐古・鍵のこと ⑵ ﹁円﹂について ⑶ 銅鐸の破壊と水路 3 、讃岐・阿波系土器と河内 ⑴ 河内に集中する讃岐・阿波系土器の出土例 ⑵ 河内の山と川 4 、玉造りの人々 ⑴ 海彼からの影響 ⑵ ﹁玉造﹂ ︵河内玉造︶について 5 、玉と櫛について ⑴ 玉櫛明神 ⑵ 櫛玉饒速日命 6 、おわりに︱今後の展望 一1 、はじめに 本稿のタイトルを﹁古代以前の河内﹂とし、副題に﹁三世紀を中心に﹂と付した。三世紀といえば古墳時代︵出現期・早期∼前期︶に当た るが、河内という名称の由来となった地域に古墳は多くない。むしろ、古墳がないことこそが河内の河内たるゆえんであると考えられ る 1 。 また、 周知の通り、 日本史における ﹁古代﹂ という時代区分には大きな揺れがあり、 現在に至るまで統一的な定義がなされていない。近年、 ﹃日本に古代はあったの か 2 ﹄という本が書かれているほどである。その一方で、 ﹁中世﹂といえば鎌倉・室町時代︵さらに詳細に分ければ、鎌 倉・建武の新政・南北朝・室町・戦国・安土桃山︶という時代区分は、よほどのことがない限り揺るがないし、さらに次の﹁近世﹂は江戸時 代、 ﹁近代﹂は明治維新以降であることも、おおかた異論のないところである。 ﹁人間の︵文化の︶歴史﹂を記述するに当たって、その最初が﹁旧石器時代﹂であることは︵ ﹁新石器時代﹂と合わせて﹁石器時代﹂とする 場 合 も 含 め ︶、 日 本 史・ 世 界 史 を 通 じ て、 お よ そ 共 通 し て い る。 そ し て、 そ の 次 の 時 代 が、 日 本 の 場 合 に は﹁ 縄 文 時 代 ﹂ で あ り、 さ ら に﹁ 弥 生時代﹂が続くということも、ほぼ異論がな い 3 。その後、 ﹁古墳時代﹂ ﹁飛鳥時代﹂ ﹁奈良時代﹂ ﹁平安時代﹂と続くが、文化史では、たとえば 奈良時代を﹁白鳳時代﹂と﹁天平時代﹂に分ける場合もある。さらに文学の歴史︵文学史︶には独特の時代区分があって、奈良時代以降の古 代を ﹁上代﹂ と呼んだり、 奈良時代を ﹁古代前期﹂ 、 平安時代を ﹁古代後期﹂ と呼び分けたり、 あるいは平安時代を ﹁中古﹂ と呼んだりもする。 日本文学の発祥が奈良時代以降︵とされている︶であり、文学史が文化史の一部である以上、このように独自の呼び方がなされるのは、ある 意味自然なことであった。 本稿では、以上のような﹁古代﹂の揺れには必要以上に拘泥せず、古墳という葬送儀礼・祭祀形態が日本各地で展開する三世紀を中心に、 旧石器時代から奈良時代まで広く時間軸をとりながら河内を観察し、人間がつくる﹁モ ノ 4 ﹂、むしろ、それらを﹁つくること﹂ ﹁こわすこと﹂ ︵捨てること︶に着目しつつ、 河内の風土について、 すなわち人間が住み着いて暮らす場所︵地域︶としての河内について考察して行きた い 5 。 右のような時間軸の問題の一方で、 河内をどの範囲と定めるかという空間軸の問題も存在する。かつて、 摂津 ・和泉を含んで﹁凡河内﹂ ﹁大 河内﹂と呼ばれた頃の河内は、ほぼ現在の大阪府︵兵庫県西南部を加える︶に匹敵する地域だったと考えられる。また、律令体制以降にも、 河内は和泉を含んでおり、八世紀の間に和泉国を分離した。また河内は、 難 波 ︵摂津︶との関わりの中で変遷してきた。そのような経緯はも ちろん無視できないが、本稿では生駒山の西側にひろがる平野部のうち、淀川から和泉山地まで、中でも淀川から羽曳野丘陵までの旧大和川 二 二
流域を主な対象として﹁河内﹂と呼ぶことを先ず記しておきたい。 2 、 纏 まきむく 向 遺跡出土銅鐸飾耳片について ⑴ 唐 古 ・ 鍵 のこと ﹁唐古・鍵﹂という地域に私が関心を抱いたのは、河内研究の一環として﹁八尾﹂という地名を調査する過程においてである。日本全国の ﹁八尾﹂ 、あるいはそれに類する﹁七尾﹂などの地域を考察する過程で、河内平野だけではなく奈良盆地にも、大和川の支流︵複数の川筋︶に よって蜘蛛の巣状に形成された地形の名称として 八 尾 があることを知った。その大和の八尾は、一本の川を隔てて唐古・鍵と隣接していたの である。それまでにも唐古・鍵という地名は知っていたし、そこが近年、弥生時代最古の大型建物を擁する大環濠集落の発掘現場として注目 を集めているという程度の知識は持ち合わせていた。しかし、そこが大和川の上流に当たり、すぐ近辺に八尾という地名があることまでは知 らなかっ た 6 。 そして、 唐古 ・鍵の上流には、 邪馬台国の候補地としてやはり近年注目されている纏向 ︵巻向︶ があった。たとえば ﹃邪馬台国と纏向遺跡﹄ には、橋本輝彦氏の発言として次のような記述があ る 7 。 ﹁ 纏 向 遺 跡 の す ぐ 西 南 側 に は 大 和 川 の 上 流 域 に あ た る 初 瀬 川 と い う 川 が 流 れ て い ま す。 こ こ で は 大 阪 湾 か ら 大 和 川 を 経 由 し て 桜 井 ま で 物 資 を運ぶ水運が古くから発達していたとのことで︵中略︶近隣に比較的大きな河川があり、陸路だけではなく水路も非常に交通の便のいい場所 ということです﹂ ︵二六 頁 8 ︶。 纏 向 も、 唐 古・ 鍵 も、 い ず れ も﹁ 大 和 川 の 上 流 域 に あ た る 初 瀬 川 ﹂ の ほ と り に 立 地 す る。 さ ら に、 こ こ で 注 意 さ れ る の は、 ﹁ 大 阪 湾 か ら 大 和川を経由して桜井まで物資を運ぶ水運が古くから発達していた﹂という部分である。そのような水路は、何もない平地から開鑿されたわけ ではなく、天然の川筋を利用して通されたものと考えられる。そして、水路の維持・管理を含め、すでにそのノウハウを有していた人々の力 が関与したと考えてしかるべきであろう。 本 稿 で 古 墳 時 代 の 河 内 を 取 り 上 げ る に 当 た り、 こ こ で は そ の 前 期 に 当 た る 三 世 紀 を 中 心 に、 六 世 紀 末 か ら の 飛 鳥 時 代︵ 王 朝 時 代 ︶、 八 世 紀 三 三
の奈良時代に至るまでの大和川の上流 ︵大和盆地︶ を観察し、 大和盆地の動向が大和川の下流、 すなわち河内にどのような影響を与えたのか、 また、これら二つの地域がどのような関わりを結んでいたのかを考察することから始めた い 9 。 ⑵ 「円」について まずは纏向の水路を考える上で、 ﹃邪馬台国と纏向遺跡﹄に載る、この地から出土したひとつの遺物に着目する。それは石田博信編﹃纏 向 10 ﹄ から転載した図版で、 ﹁銅鐸飾耳片﹂ と名づけられている。 すなわち、 その名称から分かる通り、 銅鐸の縁部に付属した耳型の飾り ︵円形部径四 ・ 二㎝︶である。 この地域の考古学的成果は、古墳というひとつの名称で呼ばれているものが、とりわけ前方後円墳という形︵定形︶に至るまで、ほとんど 定形すらないものとしてつくられていたことを示唆している。その一方で、 すでに ﹁円形﹂ と ﹁方形﹂ というフレーム ︵枠組み︶ またはフォー ム︵ 定 形 ︶ が あ り、 そ れ ら が 組 み 合 わ さ れ、 あ る い は 融 合 し て ゆ く 過 程 が 古 墳 の 形 態 の 変 遷 で あ る と い う こ と も、 お ぼ ろ げ な が ら 理 解 で き る。 た だ し、 前 方 後 円 墳 の 出 現 以 降 も、 特 に 円 墳 は 消 滅 す る こ と な く、 前 方 後 円 墳 と 時 代 的 に 併 行 し て 続 い て ゆ く︵ ﹃ 邪 馬 台 国 と 纏 向 遺 跡 ﹄ 一 一 六 頁 ︶。 さ ら に そ の 一 方 で、 ﹁ 前 方 後 円 墳 出 現 に 前 後 し て 住 居 形 態 が 円 形 ↓ 方 形 に 移 り 変 わ る ﹂︵ 同 一 一 七 頁 ︶ と い う、 古 墳 と 住 居 と の 連動という実に興味深い現象がある。言い換えれば、古墳を墳墓としてのみ考えるのではなく、当時の人々の生活全体の中で考える必要があ るということにな る 11 。 そのように、ある時期、そしてある地域の人々が特別に執着した﹁円﹂ ︵角のない形︶を脱して、生活の場の中心を﹁方﹂ ︵角をもつ形︶へ と変えてゆく力が、どこから発生してきたのか。これもまた住居だけではなく、生活全般の中で考えるべきことなのであろう。住宅の材質か ら、建築地︵地形・地質等︶が変化・変遷した可能性、さらには祭祀的な側面や技術面の革新から嗜好・流行に至るまで、あらゆる可能性が 検 討 さ れ て よ い。 そ う 考 え た と き、 ﹁ 前 方 後 円 墳 の 出 現 ﹂ と﹁ 住 居 形 態 の 変 化 ﹂ と が 相 前 後 し て 起 こ っ て い る こ と は、 や は り 見 過 ご す こ と が できない。この地域では、 ﹁前方後円墳の出現﹂とは、別の言い方をすれば円墳から前方後円墳への移行であり、 ﹁円﹂ ︵円形部︶に﹁方﹂ ︵方 形部︶が加わったということにほかなるまい。ただし、その一方で、三世紀以降の前方後円墳を通じて、原則的に円墳部が埋葬部の役割を果 たし続けたこともまた重要な事実であ る 12 。 ﹁ 方 ﹂ の 部 分 は、 弥 生 墳 丘 墓 の 突 出 部 が 原 型 で あ る と 言 わ れ て い る。 本 来 は 死 者 を 祀 る 祭 壇 と し て 発 生 し 発 達 し た と す る 説 や、 葬 列 が 後 円 四
部に至るための墓道であったと解釈する説などがあり、それらの﹁用﹂ ︵用途・役割︶と﹁体﹂ ︵形態︶が相俟って、次第に独特の形状を成し たと考えられている。つまり、住居形態と墳墓形態︵機能︶との間に強い関わりがあると仮定した場合の話であるが、それまで円形であった ものが方形に変わる︵新しく選ばれる︶ということは、まさに革命的な変化であったと称すべきことが理解できる。ただし、竪穴式住居の時 代にも方形︵高床式︶建物はすでに存在していたわけであり、いわば、それら高床式の方形建物︵その機能︶を住居に転用したという考え方 も不可能ではない。そう考えるならば、円形の竪穴式住居よりも、方形の高床式住居の居住性が高いことは、おおかたにおいて確実で、その 居住性の高さが認められるようになったという見方も可能であろ う 13 。 そのような変化・変遷の背景にあったと考えられるのは、ひとつには気候変化という自然環境であり、ひとつには防御の必要性が高まった という社会事情である。とりわけ後者は、権力の集中を可能にする蓄財の側面と大きく関連している。他部族︵外部の集団︶との抗争の頻度 や緊張度が高まるにつれて、 おのずから警戒と防御の必要性と意識が高まり、 できるだけ高い場所で生活 ︵特に就寝︶ したいと考えることは、 実に自然な経緯であり選択であろう。とはいえ、方形住居が必ずしも高床式とは限らず、竪穴式のものも報告されていることからは、居住者 数の増加という事情もまた考えられる。つまり、生産性の向上による人口増加と家族集団の自然増、あるいは居住空間の増大欲求、もしくは 家族制度の変化に応じたという可能性である。 弥生時代前期には東日本と西日本で大きく異なるが、後期には全体的に同形式︵竪穴式︶に収斂する傾向が報告されている。また、二世紀 末 頃 に 東 海 で は 方 形 墓、 近 畿 で は 円 形 墓 へ の 明 確 な 分 離 が 進 ん だ 中 で、 弥 生 時 代 後 期・ 終 末 期 か ら 古 墳 時 代 早 期 に か け て︵ 二 ∼ 三 世 紀 頃 ︶、 隅の丸い方形の竪穴式住居︵ 隅 丸 方形・長方形住居︶が現われてくるという報告もなされてい る 14 。方形の住居︵部屋︶は、おおかたにして円 形の住居︵部屋︶より広い面積を確保でき、天井までの距離も空間︵体積︶も大きくなる。円形住居とは、現代の用語でいえば住環境と生活 の質︵QOL︶が明らかに異なる。 それでは、住居に方形の空間を取り入れる趨勢と、墳墓︵円墳︶に方形の空間を設けることの、どちらが先行したのだろうか。二世紀から 三世紀にかけて住居の方形化がすでに進行していることから、住居・居住空間が方形へと移行してゆく経緯が先行し、当初は円墳であった墳 陵に方形を付加してゆく過程に、何らかの影響や関与をもたらしたものと考えられる。このことは、古墳が死後の住空間であったという考え 方とも整合性を持ち、死後の住空間・住環境をより快適にしてゆく目的で変化を遂げたという考え方を支える。ただし、最古の古墳とも言わ れる楯築墳丘墓は、すでに円丘部の両側に方形突出部を持ち、円形と方形の複合体として出現した。また、東海・関東では前方後方形墳丘墓 五
の 流 れ を 汲 ん で 前 方 後 方 墳 が 造 ら れ 続 け た 15 。 方 型 周 溝 墓 と 円 型 周 溝 墓、 方 墳 と 円 墳 の 分 布 に す で に 存 し た 東 日 本 の﹁ 方 ﹂︵ 角 ︶ 志 向︵ 嗜 好 ︶ と西日本の﹁円﹂ ︵丸︶志向の並立は根づよく、おそらく現代の角餅・丸餅にまで及んでいる。 実際の住居・住環境においてまさしくそうであるように、改変・改善には多かれ少なかれ経済的な側面が付随する。そして住居以上に余剰 生産とそれにもとづく労働力なくしては、墳墓の構築、とりわけ巨大古墳の築造は不可能であっただろう。およそ三世紀中頃に出現した古墳 が、 その後三∼四世紀に拡大化し、 五世紀にピークを迎えたあと、 七世紀に向けて縮小してゆくのは、 古墳によって威信を示す必要がなくなっ たという理由もさることながら、経済的に巨大古墳の造営が困難になり、ついには不可能になったからと考えることが最も合理的であ る 16 。 ⑶ 銅鐸の破壊と水路 以上のように、古墳と住居の相関的変遷を踏まえたうえで、再び﹁銅鐸飾耳片﹂へと戻りたい。この破片の検出されたのが、飛鳥時代の川 の中であったということは、 単なる ︵銅鐸の︶ 破壊のあとの廃棄とは、 また別の可能性を考えさせ る 17 。そもそも ﹃纏向﹄ に載る写真は、 この ﹁耳 片﹂が全くの破片︵破壊によるゴミ︶であったかどうかという問いかけを誘発する。すなわち、形態としての﹁円﹂を確保しつつ、注意深く 破片化した可能性が考えられるのである。 ﹃纏向﹄には、 ﹁ここ数年の間に︵中略︶銅鐸のかけらと、壊した銅鐸をほかの何かに作るための、 ふいごの羽口などの道具と一緒に出てきています﹂ ︵﹃邪馬台国と纏向遺跡﹄五九頁︶という石野博信氏の指摘があり、再利用の可能性を示唆 する出土例のあったことが確認されている。 この考察に基づくのであれば、 この破片も完全なスクラップと考えるべきであった。 信仰や祭祀、 宗教的な畏怖や敬意の結果とは全く別のもの、端的に言って廃棄物以外の何ものでもない。いわば、祭祀の供え物とした花や供物を、枯れた から、腐ったからという理由でゴミ箱に捨てるのと同じ理屈である。その場合には、ただ偶然に円形を残したまま破壊され、廃棄された欠片 が、たまたま出土したということになる。 し か し、 銅 鐸 は 花 や 供 物 で は な い。 あ る 期 間、 継 続 し て 祭 祀 に 用 い た は ず の 祭 具 で あ る。 よ っ て 捨 て た も の で あ っ た に せ よ、 そ の﹁ 捨 て 方﹂には、ある種の敬意が含まれていた可能性を考えることもできる。先に弥生時代の生活形態と古墳との関わりについて考察したが、いわ ば﹁モノの葬送﹂について考えを及ぼすことは無意味であろう か 18 。石野氏は、 ﹁三輪山の南側の脇本遺跡からも銅鐸のかけらが出てきました。 奈良盆地の東南部で銅鐸をたたき壊す、それまでさんざんお世話になってきたカミを祭る用具を壊すという出来事が、二世紀の終わりごろに 起こっています﹂と述べ、 ﹁そして、そのときに同時に登場するのが纏向です。纏向に来た人は、よっぽど厳しい人間ではないか﹂ ︵五九頁︶ 六
と加えている。銅鐸の破壊と纏向の成立が同じ人々によってなされたか否かは未だ立証されておらず、既述のように銅鐸の破壊であったか否 かも厳密には確定しがたい。よって石野氏の発言には一定の留保が必要だが、二世紀末に﹁奈良盆地の東南部﹂で銅鐸が破片へと解体された 事実は動かない。何らかの目的があって銅鐸が多くの部分︵破片︶に分割され、そして捨てられた。もしくは再利用された。ただし、それで もなお土に埋める行為、まして川に流すという行為が介在するのであれば、祭祀的な、また宗教的な意味合いが込められていた可能性を捨て きれな い 19 。 三輪山付近の旧河道は実に数多く、そして、いずれもが川幅一〇〇メートル級の大河として流れていた︵まさに、河内を思わせる環境であ る︶ 。その意味で、 ﹁銅鐸のかけらが飛鳥時代の川の中から出てきた﹂ということが、 全くの偶然である確率も高い。しかし、 当時の人々にとっ ての河川の意味を考慮に入れるならば、私には、あえて川に沈めたという可能性のほうが高いと思われるのであ る 20 。現在、この地域の河川の 多くは川幅数メートル、大きな川でも幅一〇メートルから数十メートル程度に過ぎない。そして、川幅一〇メートルに及ぶ河川は、安全対策 が徹底されて、高い護岸によって守られている。そこから何かが出てくるというのは、投げ入れたと考えてまず間違いない。ただし、古代の 纏向のように、一辺数キロに及ぶ範囲内に川幅数十メートルから一〇〇メートルを超える河川が何本も流れていたのであれば、あえて川に捨 てる、あるいは川に流すという意識すらなく、たまたま川に落ち、流された破片も多数あったと想像される。さらに、これらの川では氾濫・ 洪水が繰り返されたであろうことを考えるならば、保管していたものや土に埋めていたものまでが川底から見つかる可能性も十分に考えられ るだろう。 つまり、この破片がどのような契機で破片になったか、そして、どのような過程を経て旧河道の川底に沈んだのかということの、いわばす べてが未確定である。もちろん、数多くの発掘経験があり、考古学の見識のある方々の声に、先ず耳を傾けるべきことは当然であるが、それ でもなお私には﹁わからないこと﹂が多すぎる。言い換えれば、この欠片の来歴には多くの可能性が残されている。 七
3 、讃岐・阿波系土器と河内 ⑴ 河内に集中する讃岐・阿波系土器の出土例 内陸部の大和から、いったん河内へと視点を移動させたい。出土品について考えるため、同時代︵三世紀︶の河内と讃岐・阿波との関わり について、 ﹃邪馬台国時代の阿波・讃岐・播磨と大 和 21 ﹄に沿う形で、しばらく見て行きたい。 同 書 に 収 め ら れ た 山 田 隆 一 氏﹁ 大 阪 府 の 讃 岐・ 阿 波 系 土 器 と 備 讃 系 製 塩 土 器 ﹂ の﹁ 図 5 讃 岐・ 阿 波 系 土 器 を 出 土 し た 遺 跡 分 布 ﹂︵ 二 一 五 頁︶からは、その極端な中河内への集中に目を奪われる。二〇〇六年一〇月のシンポジウムの資料なので、やや古いものだが、基本的な数字 は十三年後の現在も訂正の要はない。古代には、上町が大阪の中心であったという論評をしばしば目にするが、上町には讃岐・阿波系土器の 出土がなく、 言い換えれば人の定住の気配がほとんどな い 22 。上町半島 ︵現在の上町台地︶ の西、 すなわち現在の大阪市の西半分が海の中にあっ ただけでなく、他に居住に好適な場所があったという理由が大きいだろう。また、ここでは讃岐・阿波系土器の使用に限って見ているという 限定条件もある。しかし、それにしても上町と生駒山麓との集住度は、従来考えられていたよりもずっと後者に偏重していた。 すなわち、出土土器による讃岐や阿波との交通・交易、あるいは移住という動態の推定から見えてくるものは、河内が舟を操る技術に長け た人々と関わりの深い地域であったという事実である。それに対して、いくら都市化していて発掘の機会が限られているという条件があって も、讃岐・阿波系土器の出土例が上町半島一帯︵特に沿岸部︶に皆無であることは注目される。また、上町半島の西岸︵大阪湾岸︶を南へと 下っても、 泉州地域からの出土例が少ないことも見過ごせない。石津川 ︵支流を含む︶ に三例、 大津川に二例、 近 木 川に一例といった程度で、 その他を含めても泉州沿岸一帯には一〇例が見受けられるのみであ る 23 。ここで再び河内へと目を転ずるならば、古大和川一帯における出土例 の多さに目を見張る。この数値が、河内湖の時代に河内平野に住んだ人々の密度を、どの程度正確に反映しているかは必ずしも明確ではない にせよ、三世紀頃、現在の大阪府域に住んだ人々の過半は、河内湖南の古大和川沿いに住んだと考えることができ る 24 。 その一方で、河内湖の対岸︵北岸︶に古淀川が形成する三角洲上には、五点以上の出土数という密度をもった崇禅寺遺跡以外、出土例は皆 無であり、この対比も注目される。崇禅寺遺跡を除いて淀川流域からの出土例はなく、北河内︵淀川以南︶では支流のかなり上流部に藤坂東 遺 跡 が 孤 立 的 に 存 在 す る。 摂 津 側 で は 桧 尾 川 沿 い に 一 例、 芥 川 沿 い に 二 例︵ 内 一 例 は 五 点 以 上 の 出 土 ︶、 そ の 他 に は 安 威 川 と 茨 木 川 沿 い に 各 一例の出土例を認めるのみである。むしろ旧淀川河口部の三角洲の北側から猪名川にかけて、一一か所の遺跡が集中し、中でも垂水南・五反 八
島・利倉西・穂積の四遺跡からは五点以上の出土がある。中河内以外で最大の密度を示す地域ではあるが、それでも中河内に比すれば、数分 の一程度の密度に過ぎな い 25 。 このような南北の偏りには、南に根を持ち、北に向かって伸びた上町台地︵半島︶の存在が大きく関与していたものと考えられる。この半 島あるゆえに、河内湖の南では古大和川によって運ばれた土砂の陸地化が進み、せいぜい上町半島由来の砂洲によって護られた北側では、古 淀川が運ぶ土砂は長い間洲のままで陸地化が遅れ た 26 。上記の出土密度の差異は、そのような事情の反映でもあったはずである。すなわち三世 紀頃の河内には、讃岐︵現在の香川県東部︶や阿波︵同徳島県︶と結んだ交易圏を有する人々がおり、その交易は活発な舟運︵水運︶によっ て 支 え ら れ て い た と 推 定 さ れ る。 の ち の 時 代︵ 奈 良 時 代 ︶ に な る が、 遣 唐 使 の 小 野 妹 子 一 行 が 答 礼 使 の 裴 世 清 を 伴 っ て 唐 か ら 戻 っ て き た 際 に 27 、 都︵ 平 城 京 ︶ へ は 難 波 か ら 舟 で 旧 大 和 川 を 遡 り、 河 内 と 大 和 の 国 境︵ 亀 ノ 瀬 峡 谷 ︶ を 越 え て 海 石 榴 市 ま で 進 ん だ 舟 運︵ 河 道 ︶、 少 な く と もその原型が、 すでに三世紀の時点で河内と大和を結んでいたとしても不思議ではない。 問題は、 同じ時代の大和では、 讃岐や阿波ではなく、 尾張などの東方や近江などの北方との交易の形跡が色濃いことであるが、そのことが舟運︵河川交通︶の脆弱さを示すわけではなく、河内と 大和との交流の稀疎を示すことにもならない。近隣の交易先であるからこそ、日頃用いている土器を大量に持って移動しない可能性が考えら れるからである。 昨今は、かつてのように河内と大和ではなく、それ以外の地域とのつながりの濃さを示す知見が多く報告されてい る 28 。そして、そのことが 相対的に大和と河内のつながりを打ち消すように作用している。しかし、やはり、まず大和と河内という大きなブロックがあり、それらが生 駒・葛城・金剛山系を介して緊密に交流することで、日本列島の経済的中枢をなしていたことは疑いえないであろう。 ⑵ 河内の山と川 河内の風土を考えるとき、私はまず河川︵旧大和川水系︶を考え、次に山︵生駒山地・金剛山地︶を考えるということを続けてき た 29 。しか し、 旧 河 内 平 野 が そ の 東 西 を 生 駒 山 と 上 町 半 島︵ 上 町 台 地 ︶ に、 南 北 を 羽 曳 野 丘 陵 と 旧 淀 川 に 囲 ま れ た 土 地 で あ る 以 上、 ﹁ 日、 出 ず る 山 ﹂ と しての生駒山はもちろんのこと、 海を背にして﹁日、 没する山︵丘︶ ﹂である上町台地や、 淀川を越えて北風を送ってくる北摂山地、 そして、 王陵の地である南の羽曳野丘陵などを複合的さらには相互交渉的に考えてゆく必要があるということを、近年ますます強く感じるに至ってい る。 九
河内平野から見た﹁日、出ずる山﹂としての生駒山は、奈良盆地から見れば﹁日、没する山﹂であり、その両義的・二面神的なあり方が、 この山塊に際立った祭祀的・宗教的陰影を与えてい る 30 。そして、河内平野にとっては上町台地が﹁日、没する山﹂の役割を引き受けてきたの だが、そこには、おのずから限定要件も発生した。それらの風土を全体として把握することで、この地を選んだ人たちがおり、さらに古大和 川を遡行して大和盆地に生活の拠点を移した人たちがいたという選 択 31 に、より自然に得心が行くものと考えている。 ただし、この平野︵河畔の自然堤防と後背湿地から成る微高地と低平地の複合体︶に生きた人々の生活を根本的に支えていたのは、やはり ま ず 第 一 に 川 で あ っ た。 た と え ば、 一 般 向 け の 解 説 書 で あ る が、 ﹃ 考 古 展 河 内 平 野 を 掘 る 32 ﹄ な ど を 読 め ば、 そ の 思 い は さ ら に 強 く な る。 先 ほ ど の﹁ 銅 鐸 飾 耳 片 ﹂ に 絡 め て 言 え ば、 縄 文 時 代 に 関 し て は、 遺 物 が 川 に 流 さ れ た︵ ﹁ 流 入 ﹂ と 呼 ぶ ︶ 可 能 性 も 高 く、 と り わ け 平 野 部 で は 縄 文 前 期 の 姿 を 探 る こ と は 難 し い が、 縄 文 後 期 か ら 晩 期 に か け て、 す な わ ち 河 内 潟 の 時 代 に 対 し て は 多 く の 発 掘 成 果 が 重 ね ら れ て い る︵ ﹃ 河 内 平 野 を 掘 る ﹄ 一 〇 八 │ 一 〇 九 頁 ︶。 こ の よ う な 事 情 は、 か つ て の 大 和 盆 地 に も︵ 大 和 湾 か ら 盆 地 へ と 変 遷 し た ︶ 適 応 が 可 能 な の で は な い だ ろ うか。 す で に 河 内 湾 の 時 代︵ 縄 文 前 期 か ら 中 期。 約 五 〇 〇 〇 ∼ 三 〇 〇 〇 年 前 ︶、 さ ら に そ れ 以 前 の 旧 石 器 時 代 か ら、 生 駒 西 麓 に 生 活 の 痕 跡 が 残 る 事実が知られてき た 33 。縄文時代にも日下貝塚・縄手遺跡といった標高一五∼二五メートルの扇状地末端部で、縄文人が生活していたことが明 ら か に な っ て い る。 そ れ ど こ ろ か、 長 原 遺 跡 や 瓜 破 遺 跡︵ 平 野 区 ︶ で は、 旧 石 器 時 代 の 出 土 品 に よ っ て、 一 九 七 〇 年 代 に﹁ ︵ 長 原 の よ う な = 引 用 者 注 ︶ 低 い 沖 積 地 上 に あ っ て も 旧 石 器 時 代 遺 跡 の 存 在 す る こ と が 推 定 さ れ た ﹂︵ 一 〇 〇 頁 ︶ の で あ る。 長 原 遺 跡 は、 現 在 の︵ 新 ︶ 大 和 川 の右岸︵北岸︶にあり、ここは大和川付替え︵新大和川開鑿︶以前にあっては、河泉丘陵の一角をなす羽曳野丘陵の北辺を北へと下った場所 と呼ぶことができる。ここから河内平野では最初に旧石器時代の尖頭器や石核が出土した際、発掘に当たった研究者が﹁大和川を越えればす ぐ羽曳野丘陵だということで、 この辺りにまで狩をしにきてたのかなと考えた﹂ ︵一〇七頁︶のも、 当時の研究水準から考えれば無理はなく、 むしろ自然な考察だったというべきであろう。 西田陽一氏︵ ﹃河内平野を掘る﹄ ︶によれば、河内平野からは、一九八一年までに六ケ所で旧石器時代の遺物が発掘され、遺跡が確認されて いる。発掘の順に列記すれば、以下の通りである。 ① 長原遺跡Ⅰ︵地表下約五〇㎝︶サヌカイト製舟底型尖頭器 一〇
② 同 Ⅱ︵ 地 表 下 約 一 ・ 五 m ︶ 切 出 ナ イ フ 型 石 器 一、 二 次 加 工 の あ る 剝 片 一、 石 核 三、 そ の 他 剝 片 約 一 四 〇︵ 石 器 製 作 区 で あ る か。 周辺に居住区の存在も推定されている。 ︶ ③ 八尾南遺跡 サヌカイト片︵後期旧石器時代︶ ④ 長吉川辺遺跡 削器 ⑤ 瓜破遺跡 国 府 型ナイフ形石器 ⑥ 長吉野山遺跡 サヌカイト欠片︵存疑︶ 長原遺跡Ⅰの標高が約一〇メートル、他もほぼ同程度の低地︵微高地︶である。これらの成果によって﹁河内平野の厚い沖積 層 34 の下にも旧 石器時代の遺跡や遺物の包含されているらしいことが、かなりの高い蓋然性をもって語れる段階に達した﹂ ︵同前、一〇六頁︶ 。周知の通り、 近畿一円でサヌカイトを産するのは二上山北部山麓であり、後期旧石器時代から弥生時代までの遺跡が検出されてい る 35 。ただし上記のサヌカ イトが二上山︵金剛山地北端︶由来のものであることは検証されておらず、八尾南遺跡の出土品からは、むしろ瀬戸内海地域との結びつきが 指摘されてい る 36 。 4 、玉造りの人々 ⑴ 海彼からの影響 大和川の上流域という意味でも、幾本もの河川が交錯した﹁八尾﹂という地名に象徴される、まさに﹁河内﹂と呼ぶべき地形につくられた ﹁ ま ち 37 ﹂ と い う 意 味 で も 、 纏 向 や 唐 古 ・ 鍵 遺 跡 は 河 内 を 考 え る た め の 大 き な 示 唆 を 内 包 し て い る 。 水 路 の 存 在 と 整 備 の 様 子 か ら は 、 河 内 と 同 様 に 、 朝 鮮 半 島 を 中 心 と す る﹁ 外 国 38 ﹂ と の 交 通 ・ 交 易 の 存 在 を 想 起 さ せ ら れ る 。 そ の 折 の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 、 つ ま り ﹁ 言 語 ﹂ は、 ﹁ 内 ﹂ と﹁外﹂を明確に意識する大きな要素になったと考えられるが、半島や大陸の言語を話す人は纏向にも相当数いたはずであ る 39 。 たとえば上田正昭氏は、纏向遺跡の東西軸について︵ ﹃邪馬台国と纏向遺跡﹄二〇│二一頁︶ 、中国の南北軸に対する独自の要素として注目 一一
された。上田氏は首里城の例を挙げて、 ﹁明の紫禁城に向かっている。だから西向きにしている﹂と述べる。すなわち、 ひとつは中華︵漢字︶ 文 化 圏 の 辺 境 国 同 士 の 交 易 の 在 り 方 で あ り、 一 方 で は 文 化 的 影 響 関 係 の 問 題 で あ る。 移 入 し た﹁ 外 ﹂ の 文 化 を、 ﹁ 内 ﹂ の 論 理 に も と づ い て、 どのように即自化してゆくかというダイナミズムを示唆する一例であろ う 40 。﹃邪馬台国と纏向遺跡﹄ 二五頁以降の橋本輝彦氏の報告を読めば、 図 8 ︵ 四 七 頁 ︶ や 図 14︵ 五 二 頁 ︶ に 明 ら か な よ う に、 上 田 氏 の い う﹁ 東 西 軸 ﹂ が 存 在 す る 事 実 は 決 定 的 と 思 わ れ る。 少 な く と も、 三 世 紀 前 半における日本最大級の建築物が東面して建てられたという事実は相当重要であろう。また、その前後︵東と西︶に中心軸を同一とした幾つ かの︵現状では三つの︶やや小さな、しかし、当時の一般的な住居に比べればずっと大きい建物が一直線に︵すなわち東西軸上に︶並んでい ることも注目され る 41 。黒田龍二氏も﹁軸線の存在には中国の影響が考えられる﹂ ︵八五頁︶としつつ、 ﹁中国では軸は南北軸、建物は土間床で ある。纏向で東西軸が採用され、高床式建物が主体になっていることが中国文化を知った上でのことであるならば、ここにはすでに独自の高 度 な 文 化 が 存 在 し た こ と に な ろ う ﹂︵ 同 前 ︶ と 述 べ て い る。 橋 本 氏 は 中 国 大 陸 か ら 持 ち 込 ま れ た 可 能 性 の あ る 土 器 の 存 在 を 指 摘 し て い る。 大 陸から直接ではなくとも、朝鮮半島を経由して中国文化が入って来ていた可能性は低くない。 しかし、その一方で中国からの影響とはまた別に、太陽の運行に従う東西軸への関心、むしろ信仰としての執着が三世紀の大和盆地、とり わけその東側の初瀬川︵大和川上流︶流域に定着していたことが想像される。そしてそのことが、この頃の日本列島では他に見られないほど の大型建築物を建てるだけの力を持った人、もしくは人々の行動原理としてはたらいていた事情が想像されるのであ る 42 。 ⑵ 「玉造」 (河内玉造)について 古代以前の河内を考えるうえで再び生駒西麓に目を移すならば、八尾市の恩智遺跡には旧石器時代以来の居住の形跡が残る。そして、弥生 時代の地層からは恩智安養寺の裏山より流水紋銅鐸と袈裟襷紋銅鐸が検出され る 43 。八尾東南域の住居地が東北域へとひろがった結果と考えて よいだろう。それは同時に、山腹から山麓へと祭祀場を包摂する居住域が移動したことを意味するはずである。 玉造遺跡は、 現在の高安地区 ︵八尾市東南部︶ に立地する。 玉櫛 ︵串︶ 川の右岸すなわち東岸と恩智川西岸の間にひろがる地域である。 ﹁玉造﹂ という遺跡名称に残るように、ここでは宝玉の加工がなされ、現代にまで続くこの地域の製造業︵モノづくり︶の端緒とも考えられる。石器 や土器といった生活用品︵少なくともその要素を含む︶とは異なる、威信材という意味でも装身具という意味でも、明らかに余剰生産力にも とづく産物でありアクセサリーである。そして、 玉櫛 ︵串︶ 川の流域に当たるこの地での ﹁玉つくり﹂ と、 ﹁玉櫛﹂ という名の由来となった ﹁玉 一二
︵珠︶ ﹂との間には、何らかの関連性が認められうる。さらに、大和川水系︵河内側︶の分岐の始点となるこの地域の﹁玉造﹂と、河内平野を 流 れ た 旧 大 和 川 水 系 が 上 町 台 地 の 北 側 で 再 び 合 流 す る 地 点 付 近 に あ る﹁ 玉 造 ﹂︵ 現 在 は 大 阪 市 中 央 区・ 天 王 寺 区・ 東 成 区 の 三 区 に ま た が る ︶ との関連が想定され る 44 。 難 波 ︵摂津︶側の玉造は平野川沿いにある。高安地区からは、玉櫛川・恩智川のいずれかを経て難波堀江まで水路を進み、一キロほど陸路 を南下するか、高安からそのまま二キロほど南下して二俣から平野川に入り、玉造の手前︵東︶で上陸するという経路が考えられる。移動の みならず運搬も容易、控えめに言っても十分に可能であっ た 45 。 以 上 を 合 わ せ て、 彼 ら は 旧 石 器 時 代 以 来、 大 和 川 の 水 運 を 握 る 要 地 と い う 立 地 の ア ド バ ン テ ー ジ を 掌 握 し て き た。 ﹁ 河 内 玉 造 ﹂ へ の 居 住 も さることながら、現在は﹁摂津玉造﹂の陰に隠れて取り上げられることもほとんどない、この﹁河内玉造﹂こそが、のちに至るまでこの地域 にモノづくりによる繁栄をもたらす先駆的な要因であった可能性を考えておきたい。 5 、玉と櫛について ⑴ 玉櫛明神 ここで、 ﹁玉櫛明神﹂とも呼ばれてきた津原神社について確認してお く 46 。同社は、 ﹃延喜式﹄神名帳に載る、いわゆる式内社であり、東大阪 市花園本町に立地する。右に述べた河内玉造︵八尾市高安地区︶の下流に当たる。祭神は、主神が 天 児屋根命 ・ 天 玉櫛彦之命 ・ 天 櫛玉命 の三 柱。摂社に白峰・一葉・八幡・稲荷二社の五社が、末社に若宮・水神社などが在る。かつては河内湖へ向かう旧大和川︵玉櫛川︶の船着場付 近に鎮座し、次第に近隣に市場が立ち市場村と呼ばれるに至った。天平勝宝六︵七五四︶年に風水害甚しき折、旭神社の摂社である平野可美 村若宮八幡宮の祝部への神託に、 上流より橘の枝と 櫛 笥 ︵櫛を入れた箱︶ を流し、 櫛笥の留まった所に神を祀ると水難は自ら収まるであろう、 と。そこで大和川の上流︵大和と河内の国境︶から櫛笥を流すと当地に留まったのだという。そして、橘の枝が留まった場所に建立されたの が若宮八幡宮であったとい う 47 。櫛笥の留まったのが、この地であることは動かないとして、同時に流したのが橘であれば、じつに多くの含意 に満ちている。 ただし、 主眼は櫛笥であったと思われ、 櫛笥の留まった地へと流れる川の名が玉櫛川であるのに対して、 橘は川の名はおろか、 一三
地名にすら残っていない。おそらく本来は、 ﹁玉櫛﹂という地名の起源説話に近いものとして語り出されたのではなかった か 48 。 櫛が、髪という︵神ともつながる︶霊力の宿る場所を﹁ 梳 く﹂ものであり、それ自体が霊的な物体でもあることにもとづけば、神意の卜定 に用いられるのは十分に理由のあることだった。縄文時代以来、副葬品として玉︵宝玉︶が 副 えられることは周知だが、櫛もまた副えられる 場合がある。死後の装身具であるとともに、避邪の意味が込められていたと考えられ る 49 。櫛は、神話体系の中でも繰り返し特別な﹁モノ﹂と して登場しており、津原神社の縁起に登場してくるのも、その霊性との関わりを押さえておく必要があるだろう。ただ、その折に流されたの が櫛笥だけではないこと、櫛笥に比してもうひとつのモノの正体が明確ではないことなどの疑問が残 る 50 。 ここには、おそらくスサノヲ伝承︵ ﹃古事記﹄ ︶が反映しているだろう。上流から箸が流れてきて、スサノヲは上流に人家のあることを知っ た の で あ り、 倒 し た の は ヲ ロ チ で あ る。 こ れ が 龍 に せ よ 蛇 に せ よ、 ﹁ 水 を つ か さ ど る ﹂ と い う こ と に は 間 違 い な く、 い わ ば︵ ス サ ノ ヲ が 自 然 の威力を象徴する人格であったように︶ヤマタノヲロチ︵八岐大蛇︶とは暴れる川の象徴であっ た 51 。そして、そうであれば﹁八岐﹂とは数多 くに分岐する川の姿を表わした名辞であった。玉が鉱物由来のモノであるのに対して、箸や櫛はいずれも基本的に木製品であり、日常的な衣 食に用いる生活用品である。一方は ﹁食﹂ 、 一方は ﹁衣﹂ ︵むしろ身だしなみ︶ に関わるものであるが、 共通する要素が多い。私の知る限り、 ﹁川 を流れる日用品﹂というプロットは、あまり多くの神話や説話に見られるものではない。日本神話では八岐大蛇説話のほかに、三輪山の大物 主伝承の丹塗矢または箸墓伝承の箸の事例︵ ﹃日本書紀﹄ ︶を知るのみであり、前者の場合は生活用品ではなく武具または装飾品である。ただ し、 ﹁川︵水︶に流す﹂という行為へと視点を移すと、 そこには避邪 ・禊祓を目的とするさまざまな浄化儀礼が浮上する。海神の生け贄となっ たオトタチバナヒメの櫛が海辺に流れ着く条りや、 神功皇后三韓 ︵新羅︶ 征伐の際に多くの箸やヒラデ ︵平たい食器︶ を浮かべた ﹁箸浮かべ﹂ ︵﹃古事記﹄ ︶なども、その範疇に収まるだろ う 52 。 一方、櫛で思い出すのは、竹の櫛を投げると筍︵タケノコ︶に変じたという﹃古事記﹄のプロットである。また、追いかけてくるヨモツシ コメに向かって投げるアイテムのひとつとして、蔓草の髪飾りなどと並んで用いられた。それらは、霊威の象徴であり、他の大きな﹁力﹂を 防 ぐ モ ノ︵ 物 神 ︶ で も あ り、 ﹁ 柵 ﹂ の メ タ フ ァ ー で も あ っ た だ ろ う。 ま た、 強 大 な﹁ 力 ﹂ を 顕 わ に す る 相 手 に 対 し て、 頭 脳 的 な︵ 悪 く 言 え ば 小賢しい︶技で対抗しようとする﹁智﹂の象徴と呼ぶこともできるかもしれない。そのような前提の上に、神功皇后の﹁櫛浮かべ﹂なども考 慮 に 入 れ つ つ﹁ 暴 れ 川 に 櫛 を 流 す ﹂ と い う 行 為︵ 神 事・ 卜 占 ︶ を 考 え て み る 必 要 も あ る だ ろ う。 た と え ば、 ﹃ 日 本 書 紀 ﹄ 巻 第 十 一、 仁 徳 天 皇 十一年の人柱譚である。茨田堤︵河内国茨田郡︶を築くに当たり、武蔵国の 強 頸 と河内国の 茨 田連 衫 子 が人柱にされようとした折、衫子が機 一四
転を利かせ、 匏 ︵瓢︶を浮かべて逃れるという話である︵ヒサゴは神功の﹁箸浮かべ﹂にも描かれる︶ 。また、南方熊楠が﹃南方閑話﹄ ︵坂本 書店、一九二六年︶に言及して以来、人口に膾炙する長柄の人柱伝説であり、いずれも河内と関わる。 ﹁櫛笥を流す﹂という伝承︵縁起︶が、いつからのものであるかが全く分からない現状では、 ﹃古事記﹄や﹃日本書紀﹄との関わりも曖昧だ が、平野の若宮八幡宮にその縁起が伝わったことは重要であり、津原神社と若宮八幡宮との関わりの中からその理由を探り出すことが試みら れてよ い 53 。本稿冒頭の記述に戻れば、価値の高いもの︵貴重なもの︶を川に流すという行為が、この場合には﹁神社︵鎮守︶の建立﹂という 重要な使命を帯びていたことを物語っている。そして、そこには先ず、圧倒的な河川への畏怖が存在しただろう。 ⑵ 櫛 玉 饒 速 日 命 神武東征神話の中に登場し、生駒西麓で神武軍を撃退する 長 髄彦 ︵ 登 美能那賀須泥毘古 ︶の逸話は、史実の上でこの地を合戦の舞台とせし めた物部守屋へと、饒速日命︵ ﹃日本書紀﹄ ︶という一柱の神を介して結ばれる。その詳細については別に考察することとして、ここで触れて おきたいのは、 ﹃先代旧事本紀﹄ によれば物部氏の始祖が ﹁ 天 照国照彦 天 火 明 櫛 玉 饒 速日尊 ﹂ または ﹁櫛玉饒速日尊﹂ 、 さらには ﹁櫛玉命﹂ ︵﹃伊 勢国風土記﹄逸文︶などと表記されていることであ る 54 。 物部氏の根拠地である弓削郷を潤して流れる川の名が玉櫛川であることは見逃せない。まして、弓削からやや北に当たる一帯︵玉櫛川の川 下︶が玉櫛と名づけられていたことは重要であ る 55 。玉櫛を通ってほぼ北へと流れるこの川が、Y字型に北東・北西へと二方向に分岐する︵東 を 吉 田 川、西を菱江川と呼ぶ︶手前で、河内平野の旧大和川水系を形成する河川の御多分に漏れず、大変な暴れ川として繰り返し洪水を惹き 起こした玉櫛川の鎮めとして建立されたのが、津原神社︵玉櫛明神︶であった。その縁起︵若宮八幡宮蔵︶にいわく。この川を鎮めるために 神社創建の地を卜して、上流から櫛笥と橘の枝を流したところ、櫛笥がこの場所に流れ着いて留まったため、ここを建立地にしたとは、すで に述べたところである。 ニギハヤヒノミコトを祖神とする物部氏の本拠は、津原神社︵玉櫛明神︶よりは、いささか上流︵南︶に当たる。既述の通り、津原神社の 祭神は主神が天児屋根命、天玉櫛彦之命、天櫛玉命の三柱であり、饒速日命は祭神ではない。しかし、物部系の石切劔矢神社と同じ天児屋根 命が祭神︵主神︶であり、天玉櫛彦之命、天櫛玉命という二柱が櫛玉饒速日命との深い関わりを思わせる神々であることから、ニギハヤヒと 全く無縁であるとも言えない。 一五
﹁玉串・宝持﹂エリアは、 ﹁国の境﹂でこそないけれども、長瀬川︵久宝寺川︶と玉櫛川によって形成される﹁境界﹂であった。その地名に 残る玉串︵本来は玉櫛︶は、そのすぐ北で大きく菱江川と吉田川に分岐する。そのように幾重もの意味で、この地は当時の言葉による﹁旁示 ︵傍示︶ ﹂ すなわち境界であっ た 56 。ここで再度思い返すべきは、 ﹁櫛 ︵櫛笥︶ ﹂ と共に玉櫛明神 ︵津原神社︶ 創設の縁起に登場した ﹁橘﹂ である。 流された︵神意を卜すために用いられた︶橘は、玉櫛庄に関わりが深く、本姓として橘氏を名乗る楠木氏をおいては語れな い 57 。私は、この地 域における ﹁櫛﹂ kusi というのは、 どこかで ﹁楠﹂ kusu と通底しているのではないかと考えている。すなわち ﹁玉櫛﹂ という地名の中に ﹁楠 木﹂が織り込まれている可能性である。それは、 ﹁橘﹂という楠木一族の別称を介して、玉櫛伝承ともつながっているはずであ る 58 。 以上、三世紀を中心に据えて論ずる拙論の末尾に、およそ千年後までの事象を述べたのは、そこには千年前の人びととつながる人間の姿が 見いだせるからである。この千年の間を埋めてゆく作業が、今後の課題と考えている。 6 、おわりに ─今後の展望 任車権氏﹃日本の中の百済文 化 59 ﹄は、四世紀以降の百済人の﹁渡日﹂について記す。とりわけ、六六〇年の百済滅亡に際して多数の渡来が あったことは、つとによく知られている通りである。 ﹃日本書紀﹄に記す久氐︵クテイ︶の来朝の頃から七世紀に至るまで、 ﹁渡日﹂は朝鮮半 島との間に固い交流の基盤が存した結果として行なわれたことであった。それは、まさに任氏が﹁日本とは交流が頻繁で、皇室にも百済人が 相 当 に 入 り 込 み、 近 親 関 係 を 保 っ て い た の で ﹂ と 記 す 通 り で あ る。 ま た、 ﹃ 日 本 書 紀 ﹄ の 天 智 四、 五、 八 年︵ 六 六 五 ∼ 六 九 年 ︶ に 千 百 人 余 を 近 江国へ、二千人余を東国へ﹁遷居﹂させるといった移民の配分は、これ以前からも実績があり、これ以後も波状的に続いたと考えられる。そ の結果、 ﹃新撰姓氏録﹄に見るような半島系移民の日本列島各地への展開と浸透があったと考えられるのであ る 60 。 その点でも問題となるのは、彼らの痕跡である。 ﹁喜連﹂が﹁クレ︵伎人︶ ﹂の郷であったとして、河内湾の周囲をぐるりと取り囲むように 定 着 し た 渡 来 人︵ 渡 来 系 民 族 ︶ の 集 落 の 中 で、 な ぜ﹁ 喜 連 ﹂ が﹁ 伎 人 ﹂︵ 久 礼・ 呉 ︶ と、 お そ ら く 定 着 民 の 出 身 地 の 言 葉 で 呼 ば れ 続 け た の か ということである。そこから敷衍しても、当時の言葉を用いた、彼らの出身地に関わる地名は少なくなかったものと考えられる。 そ し て、 そ の 痕 跡 は 河 内 に こ そ 多 く 残 っ て い る。 た と え ば、 こ れ ま で 知 ら れ て い る﹁ 巨 摩︵ コ マ ︶ の 杜︵ 巨 摩 堂 ︶﹂ 以 外 に も、 生 駒 の 東 に 一六
も あ る﹁ 鬼 虎︵ キ ト ラ ︶﹂ で あ り、 ﹁ 瓜 生 堂︵ ウ リ ウ ド ︶﹂ で あ る。 い ず れ も 中 河 内︵ 現・ 東 大 阪 市 ︶ の 地 名 で あ る が、 す で に 知 ら れ る 大 阪 市 内の﹁瓜破︵ウリワリ︶ ﹂や﹁遠里小野︵ウリウノ︶ ﹂などとともに、古代朝鮮語由来の地名であると考えられる。ほかならぬ﹁ナラ︵奈良・ 寧 楽 ︶﹂ が 朝 鮮 語 で﹁ 国 ﹂ を 意 味 し、 明 日 香 村 栗 原 が 本 来 は﹁ 呉 原 ﹂ で あ り、 な ど と い っ た 事 例 を 積 み 重 ね て ゆ け ば、 郡︵ コ・ ウ リ ︶ へ と 発 展するムラの地名などが朝鮮語由来の日本語として成立した可能性は十分にある。むろん日本語︵の表記︶そのものが、本来は外来語によっ て成り立っているのだから、逆にそのこと︵外国語の影響︶を取り出してのみ考える必要はないのかもしれない。とりわけひとつの言語︵の 痕跡︶を抽出するのは、どこまで意味のあることかを常に考える必要があ る 61 。 本 稿 で は、 大 和 と の つ な が り に 主 眼 を 置 き つ つ、 古 代 以 前 の 河 内 を、 ﹁ モ ノ ﹂ と の 関 わ り を 主 眼 と し て 考 察 し た。 大 和 に 定 住 し た 人 々 が、 渡来人と呼ばれる人たちの文化を大きく取り入れて朝廷と呼ばれる権力組織の中枢にまでたどり着いたことは疑いえないが、そこまでの経緯 については未だ知りえぬ要素が多分にあ る 62 。また、たとえば円形への嗜好︵の可能性︶は大陸や半島と日本列島を結びうるのか。本稿で垣間 見た通り、 列島の一地域においても、 それは必ずしも一定せず、 揺れていた。本稿では、 あえて統一的にそのことに注目し続けることはせず、 また議論の拡散をおそれ﹁鉄﹂と﹁馬﹂にはあえて目をつぶって旧大和川の上流︵大和︶と下流︵河内︶を観察してきたが、今後は﹁人﹂が 持ち運ぶ ﹁モノ﹂ から ﹁文化﹂ が生まれ、 社会の遷移をもたらす具体相に注目して論じて行きたい。もちろん、 河内の古代を考察するためには、 日本列島以外とりわけ周辺アジア地域の動向にも ︵こそ︶ 目を凝らす必要がある。本稿では、 4 ⑴﹁海彼からの影響﹂ に述べたところであるが、 これでは全く不足している。すべからく続稿を期したい。 【付記】 本稿は、平成二九・三〇年度大阪商業大学アミューズメント産業研究所研究プロジェクト﹁東大阪市の文化力︵カルチュラル・パワー︶に 関 す る 歴 史 地 理 的 研 究 ﹂︵ 研 究 代 表 者 石 上 敏 ︶ に よ る 成 果 の 一 部 で あ る。 な お、 ﹃ 大 阪 商 業 大 学 ア ミ ュ ー ズ メ ン ト 産 業 研 究 所 紀 要 ﹄ 第 18号 ︵二〇一六年六月︶ 掲載の拙稿 ﹁生駒山の 位 相 │アミューズメントエリア形成の前提として│﹂ では本稿と重なる時代の河内を考察している。 併せてお読みいただければ幸いである。 また、本稿は平成二六・二七年度大阪商業大学比較地域研究所研究プロジェクト︵研究課題﹁アジアにおける企業群像の抽出と企業家ネッ ト ワ ー ク に よ る 経 済 統 合 の 深 化 に 関 す る 研 究 ﹂、 研 究 代 表 者 坂 田 幹 男 教 授 ︶ に よ る 研 究 成 果 の 一 部 で も あ る。 東 大 阪︵ 中 河 内 ︶ 地 域 に お け 一七
る製造業︵モノづくり︶産業集積の背景を、古代以前にまで遡って検討する筆者の試みは未だ緒に就いたばかりであり、本稿ではその外延を 論じたにすぎないのだが、この観点から見た主要な事項のいくつかに触れることができた。研究遂行時、そして遂行後を通じて、研究代表者 の坂田幹男先生、比較地域研究所長の前田啓一先生には、種々お手を煩わせた。この場を借りて御礼申し上げたい。 私は、 大阪商業大学開講科目 ﹁河内の伝統と風土﹂ ︵旧 ﹁地域と文学﹂ ︶ を二十四年間担当するなかで河内の歴史に目を開かれてきた。また、 大阪商業大学商業史博物館内に事務局を置く﹁河内の郷土文化サークルセンター﹂に所属するサークルの方々との交流を中心に、地域史や地 域文化に関する多くの学びを重ねてくることができた。本稿では、特に上記両研究プロジェクトにおいて、飛田太一郎氏をはじめとする地域 史家の方々からのご教示、関係課室の皆様のご尽力を忝くしたことを記して、深謝申し上げる。なお、住居に関する考察は、大学院地域政策 学研究科 ・崔文彬さん ︵地域経済政策専攻 ・博士前期課程二〇一八年三月修了︶ の修士論文指導の副産物でもある。資料整理に協力してもらっ た本学卒業生・藤本貴司、在学生・石谷智哉の両君共々、謝意を記しておきたい。 注 ︵ 1 ︶ 拙 稿﹁ 河 内 論 序 説 │ そ の 地 勢・ 風 土 と 精 神 世 界 │ ﹂︵ ﹃ 大 阪 商 業 大 学 論 集 ﹄ 第 二 巻 第 四 号、 通 号 一 四 四 号、 二 〇 〇 七 年 二 月 ︶。 こ の 地 域︵ 中 河 内 ︶ に は 古 墳 が 存 在 し な い と 思 わ れ て い る。 あ る い は、 ほ と ん ど 意 識 さ れ る こ と が な い。 た だ し 中 河 内 に も 古 墳 は あ り、 中 で も 有 名 な も の の ひ と つ に 瓢 簞 山 古 墳 が あ る。 そ こ に は 瓢 簞 山 稲 荷 が 現 在 で も 鎮 座 し、 近 世︵ 江 戸 時 代 ︶ に は 日 本 各 地 の 稲 荷 の み な ら ず、 寺 社 地 全 体 の 中 で も 有 数 の 殷 賑 を 示 し て い た と い う。 そ の よ う な 後 代 と の 関 連 を 述 べ る の は 本 稿 の 任 で は な い が、 河 内 の 古 墳 時 代 と い え ば 南 河 内 の 巨 大 古 墳 群 と 河 内 王 朝 の み が 脚 光 を 浴 び る 現 今 の 傾 向 に、 い さ さ か の 疑 問 を 感 じ て い る こ と を 記 し て お く。 従 来 の 研 究 と 論 考 は、 あ ま り に﹁ 古 墳 の あ る 地 域 ﹂ に 集 中 し す ぎ て い た︵ そ の 傾 向 は、 古 墳 群 の 世 界 遺 産 登 録 に よ っ て 助 長 さ れ つ つ あ る ︶。 古 墳 時 代 に お い て、 ﹁ 古 墳 の な い 地 域 ﹂ に も 人 々 は 暮 ら し て い た し、 そ の 人 た ち も 身 近 な人が亡くなれば﹁墓﹂をつくり、葬送し、祈りを捧げて暮らしていたはずである。 ︵ 2 ︶井上章一﹃角川選書 日本に古代はあったのか﹄ ︵角川書店、二〇〇八年︶ 。 ︵ 3 ︶ただし、弥生時代の始まり︵縄文時代との境界︶は、近年の発掘成果によって大きく動いていること、周知の通りである。 ︵ 4 ︶ 中河内の一角を占める現在の東大阪市は、 同じく中河内の八尾市と並び、 製造業に従事する中小企業の日本を代表する集積地として知られている。 そこで製造業全般を示す﹁モノづくり﹂という表記に従う。 一八
︵ 5 ︶ 河内の地域と風土に関しては、 注 ︵ 1 ︶ の拙稿 ﹁河内論序説﹂ に論じた。本稿は、 それ以後 ﹁河内の通過者﹂ ︵﹃大阪商業大学論集﹄ 第九巻第二号、 通 号 一 七 〇 号、 二 〇 一 三 年 七 月 ︶、 ﹁ 河 内 の 近 世 ﹂︵ 同 第 一 〇 巻 第 二 号、 通 号 一 七 四 号、 二 〇 一 四 年 七 月 ︶、 ﹁ 河 内 と 能 ﹂︵ 同 第 一 二 巻 第 四 号、 通 号 一 八 四 号、 二 〇 一 七 年 二 月 ︶、 ﹁ 河 内 の 古 代 ﹂︵ 同 第 一 三 巻 第 四 号、 通 号 一 八 八 号、 二 〇 一 八 年 二 月 ︶ と、 古 代 か ら 近 世 に 至 る 各 時 代 の 河 内 を 論 じ た一連の拙論︵いずれも副題は省略︶へと連接するものである。 ︵ 6 ︶ 河 内 の 八 尾 と は、 旧 大 和 川 の 川 筋 に あ っ て 複 数 の 河 川 が 鳥 趾 状 に 流 れ て い る こ と か ら 名 づ け ら れ た 地 名 で あ る こ と を 証 明 し た い と、 私 は か ね が ね 考 え て い た。 大 和 の 八 尾 は、 そ の よ う な 所 説 を 支 え る の に、 ま さ に う っ て つ け の 場 所 で あ る。 唐 古・ 鍵 遺 跡 の 特 徴 と し て、 石 器 か ら 木 製 品・ 青 銅 器 に 至 る ま で の 製 作 地 と 推 定 さ れ る こ と や、 洪 水 に よ る 埋 没 か ら 繰 り 返 し 再 建 が な さ れ て い る こ と な ど が あ る。 ま た、 こ の 大 和 の 八 尾 か ら 移 動 し て き た人たちが河内の八尾に住み着いたという説も存在する。なお、後代の奈良盆地と区別するため、古代以前のそれを大和盆地と表記する。 ︵ 7 ︶﹃ ヤ マ ト 王 権 は い か に し て 始 ま っ た か ﹄︵ 学 生 社、 二 〇 一 一 年 五 月 刊 ︶、 及 び﹃ 邪 馬 台 国 と 纏 向 遺 跡 ﹄︵ 同、 二 〇 一 一 年 八 月 刊 ︶ は、 前 者 が 弥 生 時 代 中 期 後 半 か ら 後 期 弥 生 時 代、 す な わ ち 一 ∼ 二 世 紀 か ら 三 世 紀 に か け て、 後 者 が 邪 馬 台 国 の 時 代 に 当 た る 三 世 紀 に 焦 点 を 当 て て、 い ず れ も 一 ∼ 三 世 紀 頃に大和川の上流で起きていたことを改めて認識させる内容であった。 ︵ 8 ︶本文中に言及する引用文献のページ数は、引用文のあとに︵ ︶に括って示すこととする。以下同様。 ︵ 9 ︶ 以 下 の 考 察 は、 注︵ 1 ︶ の 拙 稿﹁ 河 内 論 序 説 ﹂ お よ び﹁ 河 内 イ メ ー ジ の 形 成 と 展 開 ﹂︵ 河 内 の 郷 土 文 化 サ ー ク ル セ ン タ ー 編、 水 野 正 好 監 修﹃ 河 内 文 化 の お も ち ゃ 箱 ﹄ 批 評 社、 二 〇 〇 九 年 ︶ の 中 で 論 じ た 河 内 の 古 代 以 前 を 再 考 し、 拡 充 し た も の で あ る。 本 稿 で は、 河 川 と の 関 わ り に つ い て 述 べ る 紙幅の余裕がないので、その詳細は、注︵ 5 ︶の拙稿﹁河内の古代│﹁千歳を待ちて澄める河﹂の解釈を中心に│﹂に譲りたい。 ︵ 10︶石田博信編﹃纏向﹄ ︵桜井市教育委員会刊、一九七六年︶ 。また、同氏著﹃邪馬台国時代の王国群と纏向王宮﹄ ︵新泉社、二〇一九年︶を参照。 ︵ 11︶ こ の 頃、 こ の 地 域 に 居 住 し た 人 々 が﹁ 円 ﹂ と い う 形 態 に 対 し て 特 別 な 思 い 入 れ を 持 っ て い た こ と は 無 視 で き な い が、 古 墳 時 代 の 末 期 に 至 れ ば 方 墳 の 存 在 が 注 目 さ れ る。 円 形 と 方 形 の 融 合 が 前 方 後 円 墳 に 残 存 し て い る あ い だ に 居 住 空 間 か ら は 円 形 が 駆 逐 さ れ、 つ い に 古 墳 に も 方 形 の み が 採 用 さ れ る と い う 経 緯 を 描 く こ と が で き る か ら で あ る。 し か し、 こ れ を 単 純 に 形 状 へ の 嗜 好 の 変 化 と と ら え て よ い も の か ど う か。 た と え ば 古 墳 出 現 以 前、 河 内 で は 方 形 周 溝 墓 が 造 営 さ れ て い た。 と こ ろ が 河 内 平 野 の 長 原 遺 跡︵ 現・ 大 阪 市 平 野 区 ︶ で は 弥 生 時 代 終 末 期 か ら 古 墳 時 代 初 頭、 円 形 周 溝 墓 と 方 形 周溝墓が混在し、 ﹁同じ墓域の中で円形周溝墓と方形周溝墓がそれぞれに群をなしながら築かれたようです﹂ との報告がなされており、 ︵﹃長原遺跡 ︵N G 03 │ 6 次 ︶ 発 掘 調 査 現 地 説 明 会 資 料 大 阪 市 平 野 区 長 吉 長 原 1 丁 目[ 長 原 東 住 宅 敷 地 ]﹄ 二 〇 〇 四 年 一 月、 大 阪 市 教 育 委 員 会・ 大 阪 市 文 化 財 一九
協会︶包括的な解釈を拒んでいる。 ︵ 12︶ た だ し、 時 代 を 下 る と 前 方 部 に 埋 葬 が な さ れ る 事 例 が 報 告 さ れ て い る。 古 墳 の 形 態 の 変 遷 に つ い て は 注︵ 7 ︶﹃ 邪 馬 台 国 と 纏 向 遺 跡 ﹄ な ど を 参 照 した。 ︵ 13︶ す で に 縄 文 中 期 か ら 高 床 式 倉 庫 が 出 現 し て い る︵ 太 田 博 太 郎 監 修﹃ カ ラ ー 版 日 本 建 築 様 式 史 ﹄ 美 術 出 版、 一 九 九 九 年 な ど ︶ 一 方 で、 竪 穴 式 住 居 は 縄 文 時 代 前 期 に 楕 円 形 と と も に 存 在 し た 方 形 が、 中 期 に 後 退 し、 後 期 に 至 っ て 再 度 出 現 す る と い う 経 緯 を た ど る。 弥 生 時 代 は 円 形 が 主 流 で あ る が、 中 期 か ら 後 期 に か け て 隅 丸 方 形・ 隅 丸 長 方 形 が 出 現 し て い る。 す な わ ち、 時 代 や 地 域 に よ っ て さ ま ざ ま な 傾 向 を 見 せ る。 現 代 に 至 っ て も、 私 た ち は 住 文 化 に お い て﹁ 円 ﹂ を 採 ら ず﹁ 方 ﹂ を 採 用 し て い る が、 実 際 に は、 ほ と ん ど 意 識 す ら な く 選 択 し て い る。 古 代 以 前 の 住 居 形 態 に 当 時 の 人 々 が ど れ だけ自覚的・意識的であったか、そのことを明確に考証した研究を知らない。 ︵ 14︶ 弥 生 時 代 中 期 か ら 後 期 に か け て の 東 日 本 の 遺 跡 で は、 竪 穴 式 住 居 は 隅 丸 方 形 か 隅 丸 長 方 形 で、 こ の よ う な 住 居 は 関 東 や 中 部 地 方 以 北 で は 平 安 時 代 まで続くが、 鎌倉時代以降は関東に竪穴状遺構の名残りを残しつつ全面的に消失する。一方、 近畿では飛鳥時代から掘立柱建物に移行するという ︵石 野博信﹃日本原始 ・古代住居の研究﹄吉川弘文館、一九九〇年︶ 。なお、方墳と前方後方墳との関わりについては、和田晴吾﹁前方後円墳とは何か﹂ ︵﹃シリーズ古代史をひらく 前方後円墳 巨大古墳はなぜ造られたか﹄岩波書店、二〇一九年︶など参照。 ︵ 15︶ 縄 文 前 期 に、 す で に 東 日 本 と 西 日 本 と の 間 に 対 峙 的 な 文 化 圏 が 成 立 し て い た と い う 見 方 が あ る︵ 岡 村 道 雄﹃ 縄 文 の 列 島 文 化 ﹄ 山 川 出 版 社、 二 〇 一 八 年 ︶。 そ れ は 縄 文 早 期 以 降 の 安 定 的 な 定 住 生 活 に よ る と さ れ、 岡 村 氏 は、 後 期 旧 石 器 時 代 後 半 に は す で に 石 器 文 化 に お け る 地 域 文 化 圏 が 出 現していた可能性に触れている。 ︵ 16︶ 巨 大 化 に 見 合 っ た 見 返 り が な か っ た と い う コ ス ト パ フ ォ ー マ ン ス の 問 題 以 外 に も、 埋 葬 の 意 味 や 祭 祀 形 態 が 大 き く 変 わ っ た 可 能 性 も あ り、 地 域 ご との部族や支配者の交替という可能性などが考えられる。前方後円墳に関する最新の成果と呼ぶべき注 ︵ 14︶ の ﹃前方後円墳﹄ ︵吉村武彦 ・吉川真司 ・ 川尻秋生共編︶に多くの示唆が含まれている。 ︵ 17︶ 桜 井 市 纏 向 学 研 究 セ ン タ ー 編﹃ 纏 向 学 研 究 ﹄ 第 二 号︵ 二 〇 一 四 年 ︶ 所 載﹁ 突 線 鈕 式 銅 鐸 破 砕 プ ロ セ ス の 金 属 工 学 的 検 討 と そ の 考 古 学 的 意 義 ﹂ で、 福 永 伸 哉・ 近 藤 勝 義 両 氏 は﹁ 破 片 銅 鐸 が ほ ぼ 近 畿 式 に 限 ら れ る こ と に つ い て は、 従 来 か ら 突 線 鈕 式 段 階 の 銅 鐸 分 布 が 薄 い と 見 ら れ て い た 畿 内 中 心 部 ︵大和、 河内︶でさかんに破砕された近畿式の破片銅鐸が、 素材 ・威信財などとして各地に流通した結果である可能性﹂ ︵論文要旨︶を指摘している。 私は銅鐸の廃棄について、 ひとつの可能性として音の不調 ・不具合を考える。 銅鐸の役割については諸説あったが、 特に大型化する以前の前期 ︵小型︶ 二〇
銅鐸は ﹁叩くもの ︵音色を奏でるもの︶ ﹂ という解釈が優勢となった。そうであれば、 その音色に銅鐸の存廃がかかる ︵祭具としての優劣が発生する︶ という要素が考えられる。後期︵大型︶銅鐸は﹁見るもの﹂という解釈が優勢だが、 ﹃続日本紀﹄和銅六︵七一三︶年の条には、 銅鐸の﹁音﹂が﹁呂 律 に 協 へ ﹂ た︵ 音 律・ 音 階 が 正 し い ︶ ゆ え に 所 蔵 し た と い う 記 事 が 載 り︵ 谷 川 健 一﹃ 青 銅 の 神 の 足 跡 ﹄ 小 学 館、 一 九 九 五 年 参 照 ︶、 大 型 銅 鐸 の﹁ 叩 くもの﹂としての用途を排除できない。 ︵ 18︶ 再 生 思 想 に よ る も の か、 単 な る 再 利 用 か、 さ ら に い え ば 決 定 的 な︵ 跡 を 残 さ な い ︶ 滅 却 と い う 可 能 性 も あ る。 ﹁ モ ノ の 葬 送 ﹂ と は 熟 さ な い 言 葉 か も し れ な い が、 た と え ば 竪 穴 住 居 の 多 く は 土 屋 根 が 焼 け 落 ち た ま ま の 状 態 で 発 掘 さ れ る と い い、 注︵ 15︶ の﹃ 縄 文 の 列 島 文 化 ﹄ で 岡 本 道 雄 氏 は、 主 人 が 死 去 す る と 家 を 燃 や し て 共 に 送 る ア イ ヌ の﹁ 家 焼 き 儀 式 ﹂︵ カ ス オ マ ン テ ︶ に つ な が る と 述 べ て い る。 一 旦 供 え た 供 物 を 戴 く、 す な わ ち 供 物 に も神威が宿ると見做す﹁ 直 会 ﹂のような儀礼も注目される。 ︵ 19︶ 銅 鐸 の 他 に、 平 原 遺 跡 や 桜 井 茶 臼 山 古 墳 に 代 表 さ れ る 銅 鏡 の 破 砕 事 例 も 多 数 報 告 さ れ て い る。 銅 鐸 破 壊 の 始 ま る 二 世 紀 末 以 降 に 古 墳 の 築 造 が 始 ま ることから、 祭祀形態の遷移を唱える説がある。ただ、 弥生時代以来の墳丘墓は明らかに古墳の前段階として無視できず、 破砕されない銅鏡も多い。 黒塚古墳のように多数の銅鏡の中で一枚のみ破損した事例などもあって、包括的な推論を拒んでいる。 ︵ 20︶ 当 時 に お け る 河 川 の 意 味、 た と え ば 彼 ら に と っ て の﹁ 大 河 ﹂ や﹁ 小 川 ﹂ な ど と い う 認 識 を 知 る た め に は 八 世 紀 の 記 紀・ 万 葉 を 待 た ざ る を 得 な い。 その一端を、注︵ 5 ︶・ ︵ 9 ︶の﹁河内の古代│﹁千歳を待ちて澄める河﹂の解釈を中心に│﹂にて論じた。 ︵ 21︶奈良県香芝市二上山博物館編﹃邪馬台国時代の阿波・讃岐・播磨と大和﹄ ︵学生社、二〇一一年︶参照。 ︵ 22︶最も近い場所を含めても、 阿倍野筋遺跡すなわち上町半島の東南隅と、 平野部における帰化人の居住地である瓜破北遺跡の二つがある程度である。 ︵ 23︶それぞれの﹁一例﹂の中には、一∼四点︵五点未満︶という幅を持つ出土点数が含まれることを付言しておく。 ︵ 24︶ 改 め て 記 す ま で も な く、 奈 良 盆 地 を 流 れ る ほ と ん ど す べ て の 川 は、 河 内 平 野 の 大 和 川 の 上 流 で あ る。 言 い 換 え れ ば、 奈 良 盆 地 の ほ ぼ す べ て の 河 川 が 合 流 し、 大 和 と 河 内 の 国 境 に あ る 亀 ノ 瀬︵ 北 の 生 駒 山 系 と、 南 の 金 剛・ 葛 城 山 系 と の 間 に 位 置 す る 最 低︵ 底 ︶ 部。 ﹃ 万 葉 集 ﹄ で は﹁ 畏 の 坂 ﹂︶ を 越 え て︵ 歴 史 的 に い え ば 削 っ て ︶ 河 内 へ と 流 れ 至 り、 旧 大 和 川︵ 主 流 は 長 瀬 川・ 玉 櫛 川 ︶ と し て 河 内 平 野 を 北 流 し、 上 町 台 地 先 端 部 の 北 で 淀 川 と 合 流 し て 大 阪 湾 へ と 注 い で い た。 な お、 河 内 平 野 の 旧 河 道 が ほ ぼ 確 定 し て 以 降 を﹁ 旧 大 和 川 ﹂、 そ れ 以 前 を﹁ 古 大 和 川 ﹂ と 呼 ん で 区 別 す る。 ち な み に、 五世紀に至っても土器等の生活用具の出土分布は、三世紀の讃岐・阿波系土器の分布とよく似た傾向を示している。 ︵ 25︶注︵ 21︶の﹃邪馬台国時代の阿波・讃岐・播磨と大和﹄参照。 二一