近代日本における知識人の中国認識 ――中国文学
研究会を中心に――
著者
朱 琳
学位授与機関
Tohoku University
学位授与番号
国博第187号
URL
http://hdl.handle.net/10097/00121805
論文内容要旨
近代日本における知識人の中国認識
―中国文学研究会を中心に―
東北大学大学院国際文化研究科
国際地域文化論専攻
朱 琳
指導教員
勝山 稔 教授
佐野 正人 准教授
1
論 文 内 容 要 旨
【本研究の目的と特徴】 本研究は従来の硬直化した日本の対中認識論を打破することを目的とし、文化受容の視 点から近代日本知識人の中国認識について考察を試みた。具体的には、戦前・戦中期の日本 で活動を続けた中国文学研究会(以下「中文研」と省略)を手掛かりに、当時の知識人の中 国認識が如何なるものであったのかを解明しようとしたものである。 この時代の中国認識についての先行研究は、主に「政治」(対中政策に密接に関わりを持 った人物の言論を中心とする)、あるいは「文学」(訪中した日本文人の紀行文学を中心とす る)という二つの視点によって構成されている。例えば、子安宣邦氏『日本人は中国をどう 語ってきたか』(青木社、2012)、祖父江昭二氏『近代日本文学の射程』(未来社、1998)な どが挙げられる。ただし、そこには重大な欠点が見られる。すなわち、政治の視点から出発 した研究は、戦争の危機に直面している時期にも重なり、研究対象が対中政策に深く関与し ていた人物の言動に偏重しており、導き出された中国認識は「連携――侵略」などの構図に 限定され、重層的な中国像を発見しにくくなる。また、文学の視点から出発した研究は、作 家それぞれの体験によって形成された中国観の集約であり、往々にして主観に偏り、体系的 な中国認識は読み取れなかった。 そこで本研究は従来の考察の弊害を排し、中文研(1934-1944)に着目して新しいアプロ ーチを試みることにした。その機関誌『中国文学月報』(『中国文学』)を駆使し、1930 年代 から 1940 年代において中国やその文化に関心を寄せる知識人の言論や、中国現地体験によ る思想的変化も含めて、彼らの描く中国認識の動態を明確化した。これによって当時の中国 認識に関する一面的なイメージを脱却し、別の側面に照明をあてようと試みた。 本研究の特徴は大きく以下の 3 点に約言できる。 (1)従来の「政治」・「文学」的な視点から脱却し、知的集団から見た中国像の形成と動 態を分析するという、まったく新しい視点を学界に提供した点。 (2)綿密な資料収集を実施し、周到な分析を行った点。前述した機関誌をはじめ、各関 連人物の作品・書簡・未発表の肉筆原稿資料も含めて検討を行った。また中文研に関する中 国側の関連資料の収集・発掘も実施した。 (3)中文研は近代中国文学の受容史を語る上で、欠くべからざる存在であることが近年 明らかになってきたものの、この団体に対して網羅的・系統的に分析を加え本格的な考察を 行ったことは、斯界においては最初である。2 【研究対象】 本研究が着目する中文研の活動時期、メンバー、機関誌などの基本情報については、表1 のとおりである。 表 1 中国文学研究会について 活動時間 ●戦前:1934 年 3 月〔成立〕~1943 年 3 月〔解散〕 ●戦後:1946 年 3 月〔復活〕~1958 年秋頃〔休会〕 同人会の主要 メンバー 竹内好、岡崎俊夫、武田泰淳、松枝茂夫、増田渉、曹欽源、斉藤護一、 実藤恵秀、千田九一、飯塚朗、飯村聯東、猪俣庄八、神谷正男など 機関誌 ●『中国文学月報』:第 1 号(1935.3.5)~第 59 号(1940.2.1) ●『中国文学』:第 60 号(1940.4.1)~第 92 号(1943.3.1) ●〔復刊後〕『中国文学』:第 93 号(1946.3.1)~第 105 号(1948.5.1) 中文研は 1934 年 3 月、竹内好、武田泰淳、岡崎俊夫らを中心に結成された団体である。 初期の中文研は同人会によって運営され、そのメンバーは年々変わっていた。1940 年に同 人会は解消されたが、旧同人から幹事(交替制)を選び、機関誌の編集やほかの仕事を委嘱 することとなった。表1に記したように、同人会に参加した人は数多くいるが、中文研の方 向を左右する人物は限られている。前述した中心人物の三人以外に、増田渉と松枝茂夫も中 文研の活動に多大な影響を与えたのである。 戦前における中文研の活動時期は 1934 年から 1943 年までの 10 年間であり、満州事変 (1931)に続いて、日中戦争が本格的に展開した時期と一致する。従来の伝統的な漢学を批 判し、同時代の中国の文学、言語を学術的に研究しようとする点に特徴がある。主な活動と して、機関誌の発行、研究会や講演会などの開催、同時代中国文学の翻訳などが挙げられる。 本研究は、戦前期に注目し、竹内好の動向と機関誌発行状態の変化に従って、戦前期にお ける中文研の活動期間を以下のように三期に分けた。 表 2 本研究における中文研の活動期間の区分 期間 時間区分 機関誌 第一期:草創―発展期 1934.3-1937.10 第 1 号-第 32 号 『中国文学月報』 第二期:模索―転換期 1937.11-1940.3 第 33 号-第 59 号 第三期:中興―葛藤期 1940.4-1943.3 第 60 号-第 92 号 『中国文学』
3 第一期、草創―発展期は、中文研の成立から竹内好の北京留学までの期間とする。1934 年 には団体を成立するために、同人達が種々の準備作業を行った。そして、1935 年にようや く機関誌が刊行されるようになり、誌上に中国近代文学の紹介や、漢学批判など多種多様な 記事が見られる。また、中文研は中国近代文学講読会・中国語発音講習会などの種々の行事 を開催し、活気溢れる様子を見せていた。この状態は 1937 年まで続き、同年 10 月には、 竹内好だけではなく、武田泰淳も応召して中国に渡った。岡崎俊夫もまた、一年前の 1936 年に朝日新聞に入社し、名古屋に転居した。このように主要メンバーの 3 人が不在の状況と なり、中文研は第二期の模索―転換期に入った。 この時期、機関誌に第一期のような中国近代文学に関する特集が見えなくなり、漢学批判 に関するものも著しく減少した。例会・中国近代文学講読会・発音講習会などの行事も停滞 状態に入った。誌上に掲載された文章はまとまりがなく、また実際の中国を目撃した竹内好 と武田泰淳は、それぞれ中文研の方向性を反省しはじめた。そして 2 年後、二人が同時に帰 国した後、機関誌は『中国文学』と改題され、一般雑誌と変貌した。そこから中文研は新た なステージに入り、画期的な進展をとげた。 第三期の中興―葛藤期は、機関誌改題後から中文研の解散までの時期とする。この時期に おいては、中国語教育と翻訳批評に関する文章が誌上に数多く掲載された。これは、第一期 に行われた漢学批判の継承といえる。しかし、戦争の深刻化に従って、誌上に時局に乗るよ うな論調が出現しはじめ、従来の中文研の姿勢と衝突するような傾向が見られるようにな った。 本研究は、上記したような活動期間に従い、第一期について、中国近代文学の紹介と漢文 批判を中心とし、第二期について、中国に赴いた竹内好と武田泰淳の方向性の転換に注目す る。そして、第三期については、誌上に掲載された中国語教育に関する記事と翻訳批評を検 討し、戦争と葛藤する中文研の輪郭を描き出す。 【研究方法】 図 1 は本研究のプロセスを示したものである。本研究で使用する資料は、中文研の機関誌 『中国文学月報』と雑誌『中国文学』を中心とする。本誌は長期間刊行され続け、多くの中 国に関する学術的・文化的情報を戦時中の日本に紹介したものの、その全体像はいまだ明ら かになっていない。 本誌の全体像を把握するために、まずは、掲載された内容をデータベース化する。これを 基礎とし、内容によってそれぞれの文章を A.近代中国文学・文化、B.中国文学の翻訳、C.日 本における中国研究、D.中国の古典文学と伝統文化、E.中国語問題、F.現地体験、G.文学創 作、H.日中関係と日中交流事情、I.諸国と中国との接点、J.中文研関連、K.文化消息・会報・
4 コラムと分類する。さらにこの分類に従い、掲載文章の数量的分析を行い、時間的推移に伴 う誌面の変化を捉える。 図 1 本研究のプロセス この作業を通して、時期にしたがって呈示された問題点が探り出せる。さらに、上述の作 業によって抽出された問題点が、誌上においてどのように論じられたかを検討する。つまり テクストの解釈作業を行う。中文研にはある程度に類似する主張が散見されるものの、実際 には執筆者のあいだでそれぞれ異なる論調が存在するため、それらに統一的な姿勢を見出 すことは困難である。したがって、本研究は数量的分析を通して、誌上の論調の流れを把握 しつつ、内容的分析を通して、テクストの中に含まれている異なる論調の関連性を重視する。 そして、異なる論調の関連性を明白にするために、本研究では比較考察も行う。具体的に いうと、外部比較と内部比較という二つの方向がある。外部比較は、中文研の言論と他者と の比較を意味し、主に中文研の同時代の中国文学との関係、漢学批判の形成などを論じる時 に行われる。例えば、第三章では竹内好の「漢学論」と保田與重郎の文学批評を取り上げ、 両者の言論を比較しながら、竹内の漢学批判の内実を探る。また、内部比較は中文研の同人 間の比較を意味し、主にメンバーの現地体験と中文研の中国語問題を論じる時に行われる。 例えば、竹内好と武田泰淳は同じ時期に異なる身分で中国を訪れたため、第四章では両者の 体験と思想的な転換を比較することによって、彼らの現地体験が帰国後の共同活動にどの ような影響を与えたかを察知できる。そのほか、第五章では創刊頃と終刊頃の中国語に関す る文章を比較し、中文研の時局に対する態度の変化を把握する。 無論、雑誌以外に、執筆者たちの経歴を示す日記、書簡、および同時代の他の文学活動の 数量的分析 •中文研の機関誌に掲載された記事を分類し、数量的な分析を行うことによって、 その全体像を把握する。 言論考察 •知識人の言論から、戦時下において日本に受容された中国文化のあり様を解明し、 それらによって培われた「認識」が彼らの行動に与えた影響を考察する。 関連性の比 較 •中文研同人たちのそれぞれの「認識」の間に存在する関連性を比較する。 歴史上の位 置づけと評 価 •中文研が知的集団として、日中文化交流史上において果たした役割を明らかにす る。
5 記録も併せて利用する。このように、資料の多様性、および分析視点の多面性によって、中 文研の中国認識を構造的に把握することができる。 【本研究の構成】 第一章 近代日本における中国認識の形成 第一章では、まず 1930 年代前後の日本における中国認識の形成に注目し、政治界・調査 機関・学術界・メディア界・文学界という五つの分野で形成された中国論を考察した。その 結果、1930 年代の中国論には同時代の中国民衆への関心が希薄である傾向が分かった。調 査機関が多数存在し、中国に関する情報が日本に溢れていたものの、中国人の実態を反映す るものは少なかった。また、大学における中国研究は支那学のような新たな研究視点が形成 されていったが、同時代の中国文化界に対して無関心のままである。つまり、日本国民の中 国理解を深める土台が築かれていない状態であった。このような言論環境において、中文研 は既存の学界に対する対抗、および同時代の中国人に注目することという二つの方向に向 かって出発したのである。 また、中文研の創立に関わった竹内好、武田泰淳、岡崎俊夫の三人の中心人物に注目し、 彼らが高校時代と大学時代において示した知的関心の共通性を明らかにした。つまり、彼ら には、左翼運動との関わり、ジャーナリズムと文筆活動への強い関心、漢文中心の大学教育 への不満、および同時代の中国文学への関心といった共通点が見られる。このような共通点 によって彼らの作り上げた中文研は、日本文壇に進出しようとする性格を帯びている。1935 年に発行された機関誌『中国文学月報』は、当初は 12 ページぐらいのものであった。とは いえ、中文研の発足と機関誌の創刊が日中の文壇で活躍していた多くの文人に関与した事 実からも、彼らが当時の文壇に一定の知名度を広げたことを察知できるだろう。また、機関 誌の変遷をたどることによって、機関誌の時期ごとの特徴を明らかにした。第一期(1934.3-1937.10)では、誌上において近代中国文学に関する内容が最も充実していた。また、漢学 批判、および中国古典文学に関する考察も多くなされている。第二期(1937.11-1940.3)で は、竹内好と武田泰淳の不在によって、機関誌は全体的に低調期に入り、第一期のような活 発な議論が見えなくなる。そして、第三期(1940.4-1943.3)では、最も多く現れたのは中国 語に関する論述であり、これは第一期の漢学批判の継承だと考えられる。 第二章 草創―発展期〈一〉:同時代の中国文学への覚醒(1934.3-1937.10) 第二章は、第一期における中文研の同時代の中国文学への関心を中心に、彼らの中国文学 に対する認識の内実を探ってみた。まず、雑誌掲載記事を量的に分析した結果、中国近代文 学に関する文章は、第 60 号(1940.4.1)以前に集中していることが分かった。また、中文研 は誌上に中国文学を取り上げるだけではなく、例会や懇話会などのイベントを開催するこ
6 とによって、同時代の中国文学者との交流を促進し、特に、郭沫若から様々な支持と協力を 受けていた。また翻訳活動も彼らの一大事業といえる。中にも増田渉は同人として誌上に発 言することが少なく、中文研での役割は不明瞭であったが、実際は中文研の翻訳活動にとっ て、増田は無視できない存在であることが分かった。 次に、中文研の中国文学者との交流に関して、増田渉と魯迅との関係、および謝冰瑩・茅 盾との交流を中心に考察した。増田渉と魯迅との付き合いが、誌面に反映されている一方、 初期の機関誌の編集方向にも影響を与えていると考えられる。そして、茅盾と謝冰瑩などの 左翼作家との交流において、中文研の同人達は中国文学に現れたリアリズムに関心を向け、 これはまた、彼らの中国民衆への注目にも関連する。彼らの中国民衆に対する関心は、初期 の機関誌に掲載された漫画と木刻画、および農民文学に関する文章を通して読み取れる。そ して、1937 年から 1940 年までのあいだ、誌上に一連の農村文学に関する論文と翻訳が掲載 されていた。中文研の同人達の執筆した沈従文、葉紫、蕭軍に関する論文を比較した結果、 彼らに共通して見られるのは、政治に圧倒された文学に対する批判的な態度である。 このように、中国近代文学の日本での受容に対して、中文研は作品の輸入から人的なネッ トワークの構築まで、大きな役割を果たしたことが明白となった。そして、中文研の関心は 主に中国の民衆を表現することに向けられており、さらに中国文学の政治性などを批判し たのは、変動する自国文学に対する彼らの思考にも通底し、日本プロレタリア文学の批判的 な継承ともいえよう。 第三章 草創―発展期〈二〉:漢学への反抗(1934.3-1937.10) 第三章では第一期における中文研の中心的な課題であった「漢学への反抗」について考察 した。まず 1930 年代に至るまでの漢学に関する言論環境を振り返ってみた。1920 年代末か らは漢学を国民精神にする傾向が見られはじめ、1930 年代の学術誌にもそれは表れている ように、漢学と日本精神との一体化が強要されるようになった。 次に、機関誌『中国文学月報』に現れた漢学論争に関する言論を詳細に分析した。その結 果、まず誌上に積極的に漢学に関する討論を導入しようとした、竹内好の編集者としての寛 容的な姿勢を確認できた。さらに、中文研の誌上に現れた漢学批判は学問としての漢学への 反撥ではなく、漢学の価値を教化の面で大いに喧伝していた既存学界の学風に対する対抗 であることが明らかになった。従来の研究では竹内好と竹内照夫の論争に現れた対立関係 のみがクローズアップされてきたが、本研究では、既存学界の学風を問題視する両者の間に は、実は表裏一体の思想が存在すると究明した。 中文研は漢学批判から出発したとはいえ、竹内好の思想に同調することなく、同人のあい だでそれぞれの立場を保ちながら、誌上に多種多様な中国古典文学に関する研究が発表さ れた。しかしながら、この時期の中文研の同人による漢学論の方向性には、なおも曖昧さが 残っていたことも否定できない。
7 また、竹内好の漢学論に関しては、彼自らの漢文コンプレックスの影響、および、当時日 本の文芸評論界で活躍していた同窓の保田與重郎との関わりも確認できた。竹内が高校か ら大学にかけての間、保田の言動を追いかけようとした姿勢はその文章から読み取れる。さ らに彼の漢学論には、保田與重郎の初期文芸評論に通底する内容も見られる。 このように、中文研の「漢学論」は昭和初期の時局において形成されていた中国認識と深 く関連していたといえる。竹内好たちの展開した批判は、中国古典文化としての漢学に向け られているものではなく、漢学を帝国イデオロギーに吸収しようとする学界の傾向に対し て向けられていたのである。彼らの志したジャーナリズム的な研究手法という斬新な提言 は、結局は体系的な理論を構築するまでには至らなかった。しかしなから彼らの挑戦は、中 国の古典文学がやがては時局の束縛から解放され、外国文学としての地位を回復する可能 性を提供したのである。 第四章 模索―転換期:中国における二人の交叉(1937.11-1940.3) 第四章は、竹内好と武田泰淳の中国体験について考察し、中文研の改革に関わる両者の連 帯性を明らかにした。竹内好は戦争を傍観する思いで留学生として北京へ渡ったが、現地に おいて予想と異なる「平和」を目撃し、次第に初心を失っていく。竹内は北京の「長閑」を 通して、政治と文化との不可分性を意識し、中国文学に対して動揺しはじめた。このような 体験によって、帰国後、彼は中文研を改革し、新たな出発点からやり直そうとした。以前の 活動に比べ、竹内は一層政治的な方向へ向かっていく。彼の政治性には、二つの意味が含ま れている。一つは、現地の人間に目を向けない既存研究に対する批判である。もう一つは、 「近代」を再認識することによる新たな中国文学史観の樹立である。 一方、武田泰淳は戦争に参加する兵士として中国に赴いた。彼は現地で多くの民衆と接す ることによって、自分の従来の中国認識と日本の中国研究の脆弱性を意識するようになっ た。さらに、彼は現地で文化の破壊と消滅を目撃したことによって、書物に書かれている文 化に懐疑するようになり、自分と中文研に対して強烈な批判を行った。彼は民衆の精神にお ける文化の持続を模索しながら、民衆と風土に基づく中国認識を形成した。帰国後に発表し た武田の文章には、このような認識が強く反映している。 竹内と武田は同じ時期において異なる中国体験を得た。しかし、その中に共通性が見られ る。一つは、従来の中国文学観の動揺であり、これは中文研の改革に至る直接の原因である といえよう。もう一つは、戦争という極限状態において、中国文化にどう向き合うべきかと いう疑問である。これは、竹内の北京で感じた文化の擬制、および武田の戦場で目撃した文 化の破壊という二種類の体験によるものといえる。中文研の改革の活動が、中国文学そのも のから離れる傾向を示したのも、前述した二人の連帯性によるものだと考えられる。
8 第五章 中興―葛藤期:中国語問題の展開(1940.4-1943.3) 第五章は誌上に取り上げられた中国語問題を中心に、中文研の第三期の思想動向を検討 した。まず、「翻訳」、「漢文訓読法」、「中国語教育」を通して現れた中文研の漢学批判の復 活について考察した。第一期に行われた漢学批判が、第二期の沈滞期を経て、竹内好の北京 体験において生まれた中国文学の基礎への思考と変容したのである。竹内は、まず翻訳での 誤訳問題に注目し、誌上に翻訳時評を設けた。竹内をはじめ、神谷正男、魚返善雄、吉川幸 次郎などの執筆者は、翻訳を「人間の問題」として扱い、語学問題を超越した翻訳論を展開 した。彼らは、それぞれの間に異なる立場があるものの、共通して訓読に対する批判的な態 度を持っており、これもまた、日本の便宜主義的な思考に基づく中国認識の現状への反省で あるといえよう。翻訳論を通して、竹内の日本文化に対する自己認識の一側面も窺える。彼 は原語を用いる翻訳法を批判し、日本語の伝統を重要視する。このような日本語の独自性に 関する言論は、彼の戦後における日本文化の主体性に関する思考に通底するのではないか と考えられる。 次に、「国語運動」と「支那語学」を中心に、第一期と第三期における中国語に対する見 方の変遷を考察した。第一期の中文研は中国の国語運動に大きな関心を寄せ、中国語を言語 学的に研究しようとする姿勢を持っていた。しかしながら、1941 年前後から時局と関連し た「支那語学」の役割を論じる文章が掲載されるようになり、戦争における「支那語学」の 時局的意義が強調されるようになった。このような転換は、中文研の内部に存在している葛 藤を表しているのではないか。 翻訳論で示された中国理解に基づく言語観、および第一期における中文研の行動からみ ると、戦時下における功利的な中国認識に対して、中文研は対抗しようとした姿勢が確かに 見られる。しかし、彼らはこのような姿勢を貫くことができなかった。第三期の時局に沿う ような中国語に関する言論が中文研の人々の屈折に満ちた心境を物語っている。また、『中 国文学』誌上において、中国語は近代日本の自己意識にも関わる問題として論じられている。 同文意識に対する批判、および日本語の独自性に関する主張もこのような問題意識による ものであるといえる。 以上に述べた通り、中文研は戦時下の日中文化交流史において大きな役割を果たしたと 言える。彼らは初めで同時代の中国文学を日本人の視野に取り入れ、文学作品の紹介だけで はなく、様々人的ネットワークの形成にも貢献を果たした。また、彼らは中国を介して、つ ねに日本文化の様態を内観していた。漢学批判から読み取れる国民精神化された学問への 反撥や、現地報告に反映した竹内好の政治への目覚めと武田泰淳の文化観などが、彼らの内 省する姿を如実に語っている。中文研は、戦局の進展の中に巻き込まれる運命を避けられな かったが、その解散こそ彼らの立場を保つ最終手段であったとも言えるのではないか。 本研究は中国文学研究会というミクロな視点から戦時下の日本知識人の中国に対するさ
9 まざまな行動と心境を明らかにした。残された課題も数多く挙げられる。例えば、本研究に おいて戦時中の中文研の活動を全面的に考察したものの、戦後の活動について触れていな い。中文研の戦後の活動は戦前と大きな断層が見られるが、中文研の歴史を知るためには、 その戦後の活動についての考察が無視できない。そして、よりマクロの視点も必要であろう。 日中文化交流史にとどまらず、日本文化の近代化において中文研が果たした役割がいかな るものか、まだ考察する余地がある。近代日本知識人の中国認識という課題は、さらに多様 な視点によって検討されなければならない。
別 記 様 式 博在-Ⅶ-2-②-A 論 文 審 査 の 結 果 の 要 旨 学 位 の 種 類 博 士 ( 国 際 文 化 ) 氏 名 朱 琳 学 位 論 文 の 題 名
近代日本における知識人の中国認識
―中国文学研究会を中心に―
論 文 審 査 担 当 者 氏 名 ( 主 査 ) 勝 山 稔 , 黒 田 卓 , 大 河 原 知 樹 , 佐 野 正 人 , 藤 田 恭 子 , 朱 琳 , 論 文 審 査 の 結 果 の 要 旨 ( 1,000 字 内 外 ) 本 研 究 は 戦 前 ・ 戦 中 期 の 日 本 で 活 動 を 続 け た 中 国 文 学 研 究 会 ( 以 下 「 中 文 研 」 と 省 略 ) を 手 掛 か り に 、 当 時 の 知 識 人 の 中 国 認 識 が 如 何 な る も の で あ っ た の か を 解 明 し よ う と し 、 文 化 受 容 の 視 点 か ら 近 代 日 本 知 識 人 の 中 国 認 識 に つ い て 考 察 を 試 み た 。 第 一 章 で は 1930 年 代 前 後 の 日 本 に お け る 中 国 認 識 の 形 成 に つ い て 注 目 し 、 政 治 界 ・ 調 査 機 関 ・ 学 術 界 ・ メ デ ィ ア 界 ・ 文 学 界 と い う 五 つ の 分 野 で 形 成 さ れ た 中 国 論 を 考 察 し た う え 、 中 文 研 の 創 立 と 当 時 の 言 論 環 境 と の 関 連 性 を 分 析 し て い る 。 そ し て 、 中 文 研 の 創 立 に 関 わ っ た 竹 内 好 、 武 田 泰 淳 、 岡 崎 俊 夫 の 三 人 の 中 心 人 物 に 注 目 し 、 彼 ら が 高 校 時 代 と 大 学 時 代 に お い て 示 し た 知 的 関 心 の 共 通 性 に 着 目 し 、 中 文 研 の 機 関 誌 の 変 遷 を た ど る こ と に よ っ て 、 初 め て そ の 機 関 誌 の 時 期 ご と の 特 徴 を 明 ら か に し た 。 第 二 章 で は 草 創 ― ― 発 展 期 ( 1934.3- 1937.10) に お け る 中 文 研 の 同 時 代 の 中 国 文 学 へ の 関 心 を 中 心 に 、 彼 ら の 中 国 文 学 に 対 す る 認 識 の 内 実 を 分 析 し た 。 本 章 は 、 ま ず 、 雑 誌 掲 載 記 事 を 量 的 に 分 析 し 、 さ ら に 中 文 研 の 展 開 し た 同 時 代 の 中 国 文 学 に 関 す る 活 動 を 考 察 し た 。 こ れ に よ り 本 章 で は 、 ① 機 関 誌 の 内 容 か ら 見 れ ば 、 中 文 研 の 同 時 代 の 中 国 文 学 へ の 関 心 は 、 改 題 (1940.4)以 前 に 集 中 し て い る こ と 、 ② 中 文 研 が 中 国 人 民 衆 の 姿 を 反 映 す る 作 品 に 目 を 向 け 、 政 治 性 を 強 調 し た 中 国 文 学 を 批 判 し た の は 、 自 国 文 学 で あ る 日 本 プ ロ レ タ リ ア 文 学 の 変 動 に も 関 連 す る こ と 、 と い う 新 見 を 得 た 。 第 三 章 で は 草 創 ― ― 発 展 期 ( 1934.3- 1937.10) に お け る 中 文 研 の 中 心 的 な 活 動 に つ い て 、「 漢 学 へ の 反 抗 」 と い う 視 点 か ら 考 察 を 行 っ た 。 本 章 は 、 ま ず 1930 年 代 に 至 る ま で の 漢 学 に 関 す る 言 論 環 境 の 変 遷 に 注 目 し た う え で 、 機 関 誌 に 現 れ た 漢 学 に 関 す る 論 争 、 お よ び 中 文 研 の 中 心 人 物 で あ る 竹 内 好 の 漢 学 論 の 形 成 を 考 察 し た 。 本 章 で は 、 ① 竹 内 好 と 竹 内 照 夫 の 論 争 を 再 評 価 し 、 既 存 学 界 の 学 風 を 問 題 視 す る 両 者 の 間 に は 、 実 は 表 裏 一 体 の 思 想 が 存 在 す る と 究 明 し た こ と 、 ② 竹 内 好 の 漢 学 論 に 関 し て は 、 彼 自 ら の 漢 文 コ ン プ レ ッ ク ス別 記 様 式 博在-Ⅶ-2-②-B の 影 響 、 お よ び 当 時 日 本 の 文 芸 評 論 界 で 活 躍 し て い た 同 窓 の 保 田 與 重 郎 と の 関 わ り も 確 認 で き た 。 ③ 中 文 研 の 提 言 し た 新 た な 漢 学 論 は 、 体 系 的 な 理 論 を 構 築 す る ま で に は 至 ら な か っ た が 、 中 国 の 古 典 文 学 を 時 局 の 束 縛 か ら 解 放 す る 可 能 性 を 提 供 し た こ と が 判 明 し た 。 第 四 章 で は 模 索 ― 転 換 期 (1937.11- 1940.3) に お け る 中 文 研 の 活 動 に つ い て 竹 内 好 と 武 田 泰 淳 の 中 国 体 験 と い う 視 点 か ら 考 察 を 行 っ た 。 留 学 生 と し て の 竹 内 と 兵 士 と し て の 武 田 は 、 同 じ 時 期 に お い て 異 な る 中 国 体 験 を 得 た が 、 そ の 中 に は 共 通 性 も 見 ら れ た 。 一 つ は 、 彼 ら の 持 つ 従 来 の 中 国 文 学 観 の 動 揺 で あ り 、 こ れ は 中 文 研 の 改 革 に 至 る 直 接 の 原 因 で あ る と い え よ う 。 も う 一 つ は 、 戦 争 と い う 極 限 状 態 に お い て 、 中 国 文 化 に ど う 向 き 合 う べ き か と い う 疑 問 で あ る 。 本 章 で は 中 文 研 の 改 革 (1940)後の活動が、中国文学そのものか ら 離 れ る 傾 向 を 示 し た こ と が 、 前 述 し た 二 人 が 少 な か ら ぬ 影 響 を 与 え た も の で あ る こ と を 明 ら か に し た 。 第 五 章 で は 中 興 ― 葛 藤 期 (1940.4-1943.3)における中文研の改 革後の活動について、 誌 上 に 取 り 上 げ ら れ た 翻 訳 論 と 中 国 語 問 題 と い う 視 点 か ら 考 察 を 行 っ た 。 翻 訳 を 通 し て 表 れ た 中 文 研 の 訓 読 に 対 す る 批 判 的 な 態 度 は 、 日 本 の 便 宜 主 義 的 な 思 考 に 基 づ く 中 国 認 識 の 現 状 へ の 反 省 で あ る と い え よ う 。 そ し て 、 中 文 研 の 「 国 語 運 動 」 へ の 関 心 と 「 支 那 語 学 」 に 関 す る 見 方 の 変 遷 は 中 文 研 の 内 部 に 存 在 し て い る 葛 藤 を 表 し て い る 。 本 章 は 中 文 研 の 中 国 語 に 関 す る 議 論 に よ っ て 、 彼 ら の 解 散 直 前 に 見 ら れ る 団 体 内 部 に 存 在 す る 矛 盾 を 描 い た だ け で は な く 、 彼 ら の 中 国 語 に 対 す る 認 識 が 近 代 日 本 の 自 己 認 識 の 一 側 面 を 表 し て い る こ と を 捉 え た の で あ る 。 審 査 会 で は 、 先 行 研 究 に つ い て 、 よ り き め 細 や か な 検 証 と 記 述 が 望 ま し い と い う 意 見 が 出 た ほ か 、 北 京 に お け る 竹 内 好 の 心 境 が や や 不 明 確 な 点 な ど が 指 摘 さ れ た 。 し か し な が ら 実 証 的 な 手 法 に よ り 特 記 す べ き 成 果 を あ げ た 意 義 は 極 め て 大 き い 。 以 上 よ り 、 本 研 究 成 果 は 、 論 文 執 筆 者 が 自 立 し て 研 究 活 動 を 行 う に 必 要 な 高 度 な 研 究 能 力 と 学 識 を 有 す る 事 を 示 し て い る 。 よ っ て 、 本 論 文 は 、 博 士 ( 国 際 文 化 ) の 学 位 論 文 と し て 合 格 と 認 め る 。