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鄭愚「大潙山大円禅師碑銘」考 ─ 士大夫と晩唐禅仏教─

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鄭愚「大?山大円禅師碑銘」考 ─ 士大夫と晩唐禅

仏教─

著者

齋藤 智寛

雑誌名

集刊東洋学

120

ページ

78-92

発行年

2019-01-24

URL

http://hdl.handle.net/10097/00129952

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78

鄭愚﹁大

山大円禅師碑銘﹂考

士大夫と晩唐禅仏教

一、問題の所在 禅思想史研究にあたっては語録や燈史など僧侶自身によ る記録のほか、士大夫による碑文が重要な資料とされて来 た。ただしその利用のしかたは、少数の碑文についてそこ に記される法系説が注目されたのを除け ば ︶1 ︵ 、生没年や師弟 関係など、伝記的事実を確定させる目的に偏っていたよう に思われる。近年、賈晋華﹃古典禅研究│中唐至五代禅宗 発 展 新 探︵ 修 訂 版 ︶﹄ ︵ 上 海 人 民 出 版 社、 二 〇 一 三 年 ︶ は、 禅僧の碑文にはしばしば問答や説法が記録されていること に着目し、碑文の記載を基準に後代編纂の語録から信頼で きる資料を判定抽出しようと試みている が ︶2 ︵ 、やはり碑主で ある禅師についての情報に着目した利用法と言える。しか しながら、碑文には碑主への賛辞や批評に託して撰述者の 思想が述べられる場合がままあり、士大夫の仏教理解、あ るいは僧俗を問わず禅仏教運動に参与した人々の思想を広 く捉えるための資料としての読解が求められるだろ う ︶3 ︵ 。 本稿では、晩唐の禅僧・ 潙 山霊祐︵七七一∼八五三︶の 碑文である鄭愚 ﹁潭州大 潙 山同慶寺大円禅師碑銘并序﹂ ︵以 下、 文脈に応じて﹁大円禅師碑﹂ ﹁鄭碑﹂ ﹁霊祐碑﹂と記す︶ を取り上げ、そこに見える鄭愚の思想を検討する。 潙 山霊 祐は後にその嗣・仰山慧寂と共に 潙 仰宗の祖師に奉ぜられ るのだが、霊祐碑を撰した鄭愚は法系や宗派の問題にいか なる見解を持っていたのかを明らかにしたい。 二、鄭愚と碑文撰述の経緯 ﹃宋高僧伝﹄習禅篇第三之四・唐大 潙 山霊祐伝によれば、 宣宗の大中癸酉歳すなわち大中七年︵八五三︶に霊祐が示 寂すると、廬簡求︵七八九∼八六四︶が碑文を撰し、李商 集刊東洋学 第一二〇号 平成三十一年一月 七八 −九二頁

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79 鄭愚「大潙山大円禅師碑銘」考(齋藤) 隠︵八一三?∼八五八︶が題額を書したとい う ︶4 ︵ 。李商隠が 題 額 を 書 い た の は、 大 中 年 間 に 廬 簡 求 の 兄 で あ る 廬 弘 正 ︵止︶の幕僚であった縁によるものであろう か ︶5 ︵ 。 つまり鄭碑は第二碑ということになるが、なぜ新たな碑 が必要とされたのだろうか。鄭碑の記すところでは、霊祐 の門徒・審 䖍 なる者が大 潙 山から鄭愚を尋ね、肖像画への 賛と、碑文の撰述を依頼した。鄭愚は咸通六年乙酉︵八六 五 ︶ に 撰 文 を 開 始 し、 翌 年 二 月 に 銘 を 完 成 さ せ た と い う ︶6 ︵ 。 ま る 十 二 年 を 隔 て て の 新 碑 建 立 に つ い て 鄭 碑 は、 ﹁ 吾 が 従 ︵ 徒 ︶ の 大 潙 に 居 る 者 尚 お 多 く、 師 の 開 悟 に 感 ず る 者 は 一 ならず。相い 与 とも に石を伐ち、師の道を精廬の前に碑せんと 欲し、其の文辞もて吾が師の側に近づけんと欲す﹂という 審 䖍 の言葉を伝えるのみで、直接には理由を示さない。 ただし鄭碑は建碑のいきさつを述べるに先立って、   師亡後十一年、徒有以師之道上聞、始詔加謚号及墳 塔、以盛其死、豈達者所為耶︵師が遷化してのち十一 年、門徒に師の道業を上奏した者がおり、詔により諡 号 と 塔 号 が 与 え ら れ、 そ の 死 を 飾 る こ と と な っ た が、 どうして通達自在なる者の行いであろうか︶ 。 と記すから、審 䖍 の依頼は上奏が認められ諡号と塔号が下 賜されたことを記念してのことであろう。鄭愚はこのこと について﹁豈に達者の為す所ならんや﹂と非難する立場を 表明しているので、奏聞の結果も記さず、賜号と建碑を関 連づける記述もしなかったものとおもわれ る ︶7 ︵ 。 なお、 鄭碑に廬簡求碑への言及はなく、 逆に﹃宋高僧伝﹄ は鄭碑の存在に触れないが、 これらの理由は定かではない。 現在、 廬簡求による碑文は伝わらず、 鄭碑のみが﹃唐文粋﹄ 六十三と﹃全唐文﹄八二〇に収録されている。 それにしても﹁大円禅師碑銘﹂には生前の霊祐と自分と の関係を言わず、鄭愚が霊祐に参じたことは無かったよう である。それではなぜ彼が碑文を依頼されたか、その経歴 から考えてみたい。 ﹃旧唐書﹄ ﹃新唐書﹄ に鄭愚の伝はなく、 いま両唐書や﹃資治通鑑﹄に散見される記事によれば、咸 通 初 年︵ 八 六 〇 ︶、 商 州 刺 史 の 任 に あ り ︶8 ︵ 、 咸 通 二 年、 桂 管 観察使、同三年に嶺南西道節度使を拝命するが、翌四年に 南蛮の寇に遇うや武臣への交代を望んで自ら辞したことが 知られ る ︶9 ︵ 。また、万暦﹃広東通志﹄二十三・広州府・人物 に立てられる伝には、開成元年︵八三六︶の進士、黄巣の 乱平定後、尚書左僕射に拝せられ三載にして卒したと言う から、もしこれを信ずればおよそ光啓三年︵八八七︶の没 と な ろ う か。 ﹁ 大 円 禅 師 碑 ﹂ に﹁ 行 年 五 十 ﹂ と 自 ら の 年 齢 を記すのを文字通りに受ければ、享年七十一。 著 作 は﹁ 大 円 禅 師 碑 ﹂ の ほ か、 ﹃ 新 唐 書 ﹄ 藝 文 志・ 丙 部 子 録 に﹁ ﹃ 棲 賢 法 雋 ﹄ 一 巻、 僧 恵 明 与 西 川 節 度 判 官 鄭 愚・

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80 漢州刺史趙璘論仏書﹂が著録され、恵明なる僧侶の著作に お い て 共 著 者 と も 言 う べ き 立 場 に あ っ た こ と が 知 ら れ る。 だが﹃棲賢法雋﹄は今に伝わらず、恵明と趙璘についても 不明であるし、撰述時期もわからな い ︶10 ︵ 。 さて、本碑や﹃宋高僧伝﹄霊祐伝によれば霊祐は一貫し て長沙郡の 潙 山で開法したようだが、鄭愚の経歴から長沙 に赴任した形跡はうかがえない。それにも関わらず碑文を 依頼されたのは、あるいは霊祐に法を嗣いだ仰山慧寂︵八 〇七∼八八三︶を間に挟んでのことであろうか。 陸希声﹁仰山通智大師塔銘﹂ ︵﹃全唐文﹄八一三︶ 、﹃祖堂 集﹄十八・仰山和尚章などによれば、慧寂は霊祐の印可を 受 け た 後、 袁 州 仰 山 に 法 徒 を 集 め、 次 に 洪 州 石 亭 観 音 院、 つ い で 嶺 南 道 の 韶 州 東 平 山 に 住 し て、 中 和 三 年︵ 八 八 三 ︶ に東平山で示寂している。洪州観音院への出世と、東平山 への移動は、江西観察使、続いて嶺南節度使と累遷した韋 宙の招請によるものと考えられている が ︶11 ︵ 、彼が嶺南節度使 と な っ た の は 咸 通 二 年︵ 八 六 一 ︶、 嶺 南 節 度 使 が 東 西 に 分 けられた同三年には嶺南東道節度使として留任し、八年ま で勤める。さて﹃北夢瑣言﹄は丞相楊収が貶死した際に鄭 愚 は 南 海 に 鎮 し て い た と 言 い、 ﹃ 唐 語 林 ﹄ は、 崔 鉉 が 荊 南 節度使だった時に広南節制に除せられた鄭愚が崔を訪問し たとの記事を収録す る ︶12 ︵ 。﹃旧唐書﹄ 崔鉉伝、 楊収伝および ﹃新 唐 書 ﹄ の 該 当 記 事 を 見 る と こ れ は 咸 通 八 年 に 当 た る か ら、 鄭愚はこのころ広州にお り ︶13 ︵ 、慧寂に参問したことがあった ものと思われ る ︶14 ︵ 。 また、慧寂碑の撰者であり、慧寂より門人の筆頭と称さ れ た 陸 希 声 が 関 係 す る か も 知 れ な い ︶15 ︵ 。﹃ 新 唐 書 ﹄ 陸 元 方 伝 には、 ﹁希声 博学にして善く文を属し、 ﹃易﹄ ﹃春秋﹄ ﹃老子﹄ に通じ、 論著 甚だ多し。商州刺史鄭愚 表して属と為すも、 後 去 り て 義 興 に 隠 る ﹂ と あ る。 鄭 愚 の 属 僚 と し て 官 界 に 入った陸希声が鄭愚と交流を持ち続け、師・慧寂の同門で ある霊祐門人に鄭愚を推薦した可能性もあるだろう。ただ し、 ﹁ 大 円 禅 師 碑 銘 ﹂ に は 慧 寂 と の 関 係 も 言 わ な い の で、 撰碑者選定の事情については不明としておくほかない。 三、 ﹁大円禅師碑銘﹂の内容 以 下 に、 ﹁ 大 円 禅 師 碑 銘 ﹂ の 内 容 を ほ ぼ 原 文 の 順 に 沿 っ て見てゆきた い ︶16 ︵ 。まず鄭愚は、儒仏道三教における仏教の 位置づけから筆を起こす。   天下之言道術者多矣、各用所宗為是。而五常教化人 事之外、於性命精神之際、史氏以為道家之言、故老厳 ︵ 荘 ︶ 之 類 是 也。 其 書 具 存。 然 至 於 盪 情 累、 外 生 死、 出於有無之間、昭然独得、言象不可以擬議、勝妙不可

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81 鄭愚「大潙山大円禅師碑銘」考(齋藤) 以意況、則浮屠氏之言禅者、庶幾乎尽也︵道をおこな う術を言う者は天下に多く、それぞれが自分の宗旨を 是 と し て い る。 そ の 中 で 五 常 が 人 事 を 教 化 す る ほ か、 性命・精神の領域を宗旨とするのは、史官には﹁道家 の 言 ﹂ と さ れ る が、 も と よ り 老 荘 の 類 が そ れ で あ る。 これら儒家・道家の書物はつぶさに残されている。し かし妄情のわずらいを払い、生死を度外視し、有無の 領域を超え、輝かしく独自の境地を体得して、言葉や 象徴では表すことができず、すぐれた玄妙さでも喩え ることが出来ないのは、仏教の中でも禅を言う者たち が、ほぼその境地を尽くしている︶ 。 ここで﹁史氏﹂とは、 ﹃史記﹄太史公自序所引の司馬談﹁六 家之要旨﹂などを想定するか。また冒頭の一文は、後述の よ う に﹃ 荘 子 ﹄ 天 下 篇 を 背 景 と す る だ ろ う。 鄭 愚 は ま ず、 天下の﹁道術﹂について人倫を説く儒家、さらに根源的な 性命・精神を説く道家の存在をみとめ、しかし一切の妄情 を離れ、生死・有無の領域から自由なのは仏教、なかんず く禅であると述べる。では、禅が儒・道二教を超えて﹁尽 くすに 庶 ち か 幾 ﹂いとはいかなることか。   有口無所用其辯、巧暦無所用其数。愈得者愈失、愈 是者愈非。我則我矣、不知我者誰氏、知則知矣、不知 知者何以。無其無不能尽、空其空不能了︵口才があっ てもその辯舌を用いることはなく、巧みな算術があっ ても数字を用いることはない。 得る者はますます失い、 是とする者はますます非となるからである。わたしは わたしだが、自己とは誰か知らず、知っていることは 知 っ て い る が、 ど の よ う に し て 知 る の か は 知 ら な い。 無をも無としたとて限りが無く、空をも空としたとて 終わりがないからである︶ 。 鄭愚によれば、禅においては得ること、是とすることに執 着することはなく、しかも得失是非の主体をも忘れてしま う。鄭碑は続いて、こうした認識の結果を述べる。   是者無所不是、得者無所不得。山林不必寂、城市不 必諠。無春夏秋冬四時之行、無得失是非去来之蹟、非 尽無也、宜於順也。遇所即而安、故不介於時、当其処 無必、故不跼於物。其大旨如此︵かくて是とすれば全 てが是となり、得れば全てを得ることとなる。山林は 必ずしも静寂ではないし、 都市は必ずしも喧噪でない。 春夏秋冬の四季がめぐることも無く、得失是非が去来 する痕跡も無い。全てを無としたからではなく、因り 順うことをよしとしたからである。住める場所に出遭 えばそこに安んずる、だから時節にこだわることはな いし、その場所を唯一の拠り所ともしない、だから外 物に限定されることもない。禅の大まかな宗旨はこの

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82 ようである︶ 。 是非得失へのこだわりを離れた結果、すべてが是となり得 となる。重要なのは、これは観念の次元においてだけでは なく、実際の処世においても、いかなる時運、場所にあっ てもそこに随順・安住する実践となる、とされていること で あ ろ う。 鄭 碑 は 冒 頭 で こ の よ う に 禅 の﹁ 大 旨 ﹂ を 述 べ、 いよいよ 潙 山霊祐その人について筆を進める。   其徒雖千百、得者無一二。近代言之者、必有宗、宗 必有師、師必有伝。然非聡明瑰宏傑達之器、不能得其 伝、当其伝、是皆時之鴻厖偉絶之度也。今長沙郡西北 有 山、 名 大 潙 ⋮⋮ 師 始 僧 号 霊 祐、 福 州 人。 笠 首 屩 足、 背閩来游、菴於翳薈、非食時不出︵禅の教えを奉ずる 者は千百を数えるけれども、体得できる者はそのうち の一、二人である。近ごろ禅を言う者は、必ず宗旨の ことを言い、宗旨があれば必ず師があり、師があれば 必ず伝授がある。しかしながら、聡明広大にして傑出 した器でなければ、その伝を得ることはできない。そ の伝にふさわしいとされるのは、みな時の泰斗として 抜群の度量をそなえた人物なのである。いま長沙郡の 西北に山があり、大 潙 山と名づけられている⋮⋮師は 始め僧号を霊祐としており、福州の人である。笠をか ぶり靴をはいて、閩を離れて来遊し、鬱蒼とした林に 庵を結んで、食事の時にしか庵を出て来なかった︶ 。 鄭愚の見るところ、霊祐こそは禅を体得した千人に一人の 傑物であった。それでは、霊祐の 潙 山における道行はいか なるものであったか。   栖 栖 風 雨、 黙 坐 而 巳︵ 已 ︶。 恬 然 昼 夕、 物 不 能 害。 非夫外生死、忘憂患、冥順天和者、孰能与於是哉。昔 孔門殆庶之士、以簞瓢楽陋巷、夫子由称詠之不足、言 人不堪其憂、以其有生之厚也。且生死於人得喪之大者 也。既無得於生。必無得於死、既無得於得、必無得於 失。 故 於 其 間、 得 失 是 非 所 不 容 措、 委 化 而 巳︵ 已 ︶。 其為道術、天下之能事畢矣。皆渉語是非之端、辨之益 惑、 無補於学者、 今不論也︵雨風にもひっそりと、 黙っ て坐っているばかり、昼も夜もあっさりとした気持ち で過ごし、外物に害されることがない。生死を度外視 し、憂い患いを忘れ、天の調和に冥合随順する者でな ければ、 誰がこのような境地を実現できるであろうか。 む か し 孔 子 門 下 で ほ と ん ど 道 に 近 い と 言 わ れ た 顔 回 は、わりご一つとひさご一つだけで、路地裏のわび住 まいを楽しんだ。 孔夫子はただ讃えるだけでは足りず、 ﹁ 人 は こ の 憂 い に 耐 え ら れ な い だ ろ う ﹂ と 言 っ た が、 凡人は生への執着が厚いからである。そもそも、生死 とは人の得失の中では最大のものである。生において

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83 鄭愚「大潙山大円禅師碑銘」考(齋藤) 得ることが無ければ,必ず死においても得ることはな く、得るということにおいて得ることが無ければ、失 うということにおいても得ることがない。だから、そ こには得失是非を介在させる餘地はなく、造化にゆだ ねるだけなのである。このような道術があれば、天下 のなすべきことは尽くされる。言葉が是非の両端にか かわることは、辨別しようとすればますます迷い、学 ぶ者に利益がないから、いま論じることはしない︶ 。 外境の変化に動かされない寂寞と恬淡の境地を、鄭碑は陋 巷 に あ っ て 楽 し ん だ 顔 回 に な ぞ ら え る ︶17 ︵ 。 鄭 愚 の 理 解 で は、 生に執着する世人とは異なり、顔回は生死得失から自由で あ っ た か ら こ そ 貧 賤 の 憂 い に 耐 え た の で あ っ た。 そ し て、 ﹁ 生 ﹂ や﹁ 得 ﹂ に 執 着 が 無 い 以 上 は﹁ 死 ﹂ や﹁ 失 ﹂ へ の 恐 れも無いのだと再び強調するのである。鄭碑はこのように 霊祐を讃えた後、是非にかかわることは論じないと断るの だが、その意味するところはよくわからない。霊祐につい て、あるいは鄭愚や依頼者である審虔の立場について誹謗 する者があったのであろうか。 碑文はついで霊祐の名が聞こえ、教団が形を整えたこと を記す が ︶18 ︵ 、重要なのは次に見る廃仏にあたってのふるまい であろう。   武宗毀寺逐僧、遂空其所、師遽裹首為民、惟恐出蚩 蚩之輩、有識者益貴重之矣。後湖南観察使故相国裴公 休酷好仏事、値宣宗釈武宗之禁固、請迎而出之。乗之 以已︵己︶輿、親為其徒列。又議重削其須髪、師始不 欲、戯其徒曰、 ﹁爾以須髪為仏邪﹂ 。其徒愈強之、不得 巳 ︵已︶ 、又笑而従之。復到其所居、 為同慶寺而帰之 ︵武 宗が寺を壊し僧を追い出し、そこを空っぽにしてしま うと、師はにわかに頭巾をかぶって俗人となり、わあ わあと騒ぎ立てる者たちが出ることを恐れたので、見 識のある者たちはますます尊敬したのである。後、湖 南観察使の故宰相裴休は仏教をきわめて好み、宣宗が 武宗の禁令を解くに際して、師を迎えてふたたび世に 出ることを請い、師を自分の輿に乗せ、自らは弟子の 列に加わった。またふたたびその髪とひげを剃ること を議論したが、師は初めはそうしようとせず、門人を からかって ﹁君は髪やひげを仏だとするのかね﹂ と言っ た。門徒がますます強いると、やむを得ず笑って従っ たのだった。ふたたび元の住居に帰ると、同慶寺とし てそこに落ち着いた︶ 。 唐の仏教界は高祖朝において傅 弈 による廃仏の上奏に反論 し、法難を未然に防いだ経験を持っていたが、霊祐は武宗 の廃仏にあたって、抗議行動を取るよりは時運に任せ俗人 の姿を取ることを選ん だ ︶19 ︵ 。鄭愚の理解では霊祐には廃仏に

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84 抵抗しようとする僧たちへの疑念があり、だからこそ人々 の尊崇を勝ち得たというのである。 霊祐が還俗した理由は、 ﹁ 爾 なんじ 須 髪 を 以 っ て 仏 と 為 す や?﹂ の 一 言 と、 し か し 結 局 は 門 人 に 従 っ て 髪 を 剃 っ た と い う 行 動 に 端 的 に 示 さ れ て い る。霊祐にとって出家の姿を取るか否かは仏法の本質とは 関わりがなかった。それは鄭愚にあっては、この碑文にお いて再三強調する是非得失を離れた態度であったろう。 碑文は霊祐の示寂を記した 後 ︶20 ︵ 、彼の法系に触れる。   師始聞法於江西百丈懐海禅師、謚曰大智。其伝付宗 系、 僧誄甚明、 此不復出︵師ははじめ江西の百丈懐海、 諡号は大智禅師に法を聞いた。その伝えられた宗旨の 系譜は、誄にはっきりと書かれているから、ここに再 びは記さない︶ 。 鄭愚は霊祐が百丈懐海に嗣法したことは記しつつも、法系 にはそれ以上触れない。その理由としては誄に述べられて いるからと一応は記すが、おそらくは彼にとって、 ﹁宗系﹂ へのこだわりは、己のみを是とすることに他ならないから ではなかろうか。これに続いて鄭碑は先述のように、門徒 が朝廷に諡号と塔号を求めたことについて、通達した人の おこないではないと断じている。鄭愚はさらにそのことに ちなんで、名誉欲の断ち難いことについて感慨を記す。   噫、人生万類之最霊者、而以神精為本。自童孺至老 白首、 始於飲食、 漸於功名利養、 是非嫉妬、 得失憂喜、 昼夜纏縛、又其念慮未嘗時餉歴息︵ああ、人の生は万 物の最も霊なる者で、神・精を本質とする。それなの に幼時から老いて白髪になるまで、 飲食の欲に始まり、 次第に名誉や利益に進み、 是非をあげつらっては妬み、 得失には一喜一憂し、昼も夜もまとわりついて、その 思いは少しの間も休まらない︶ 。 では、人はどのようにして是非得失を克服して神・精に返 ればよいのか。   斯皆自心而発、不可不制以道術。道術之妙、莫有及 此、仏経之説、益以神性。然其帰趣、悉臻無有。僧事 千 百、 不 可 梗 概、 各 言 宗 教、 自 号 矛 楯。 故 褐 衣 髠 首、 未必皆是︵これらはみな心から発するのであって、道 術で制御しなければならない。 道術の神妙なることが、 心に及ぶことがないとしても、 仏教経典の教えは、 神 ・ 性を養ってくれる。そしてその帰着するところ、いず れも有の領域を超越することにあるのだ。僧の実践は 多種多様であって、一概に言うことはできず、それぞ れに宗旨を述べて、互いに矛盾している。だから墨染 めに坊主頭が、すべて正しいというわけではないので ある︶ 。 ややわかりにくいが、碑文の冒頭に﹁天下の道術を言う者

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85 鄭愚「大潙山大円禅師碑銘」考(齋藤) は 多 し ﹂ と 明 言 さ れ て い る こ と を 思 い 起 こ せ ば、 ﹁ 道 術 ﹂ とは﹁道﹂そのものではなく、儒家や道家、仏教諸宗派を 含む﹁道﹂の﹁術﹂なのであろう。それらの道術の中には ﹁ 心 ﹂ を 制 御 す る こ と の 出 来 な い も の も あ ろ う が、 仏 教 こ そ は 心 の さ ら に 深 奥、 ﹁ 神 性 ﹂ ま で も 陶 冶 す る と 言 う の で ある。そして鄭愚は、 その仏教にもさまざまな ﹁宗﹂ の ﹁教﹂ があり、全てを是とすることはできないと付け加える。 碑文はここに至って、出家者への疑いを記すごとくであ る。ではこのように僧侶の世界を評する鄭愚自身の境地は いかなるものか、鄭碑はいよいよ自身に触れる。   若 予 者、 少 抱 幽 憂 之 疾、 長 多 覉 旅 之 役、 形 凋 気 乏、 嘗不逮人。行年五十、已極遅暮、既無妻子之恋、思近 田閭之楽、非敢強也、恨不能也。況洗心於是、踰三十 載︵自分のことはと言えば、幼くして憂鬱な病と共に あり、長じては旅路の任務が多く、肉体はやつれ気は とぼしく、まるで人並みにも及ばない。年齢は五十歳 となり、もはや妻子への眷恋もなく、いなか住まいの 楽しみを思うようになった。無理にそうしているので はなく、恨むらくは力が及ばないのである。まして仏 教に心を洗うこと、三十年を越えているのだから︶ 。 自 分 は 家 門 の 繁 栄 や 世 俗 の 利 益 に 興 味 は な い と い う 鄭 愚 は、その理由を修養ではなく、生来の病弱さと現在の年齢 に求める。しかし同時に、その心境は多年にわたって研鑽 して来た仏の教えにもかなうのだと、 彼は自ら言い添える。 ここには自分が学んで来た仏教への信頼と、今の自分が仏 教の理想から外れてはいないという自負とが込められてい るだろう。本碑を撰するずっと前から仏教を学んでいたと い う 言 明 は、 ﹃ 棲 賢 法 雋 ﹄ な る 書 物 の 編 纂 に 参 与 し て い た という﹃新唐書﹄藝文志の記述によって裏書きされる。 こうした自己評価は、破仏に際しての霊祐の言動、そし てそれを肯定する鄭愚の認識とも通底するものだろう。頭 髪の有無や衣の色などの外形と、 悟りとは何ら関係がない。 このことはいったん出家した霊祐についてのみならず、在 家のまま仏教を学び続けた自身にも当てはまると、鄭愚は 自認していたのである。そして続く一段を見ると、彼はそ うした学仏の深さが霊祐の門人からの信頼を呼び起こした のだと自負していたようである。   適師之徒有審 䖍 者、 以師之図形自大 潙 来。知予学仏、 求為賛説。観其図状、果前所謂鴻厖偉絶之度者也。則 報 之 曰、 ﹁ 師 之 形 実 無 可 賛、 心 或 可 言、 心 又 無 体、 自 忘吾說﹂ ︵そんな折、 師の門徒である審 䖍 なる者がいて、 師の肖像を携えて大 潙 山からやって来た。わたしが仏 道を学んでいるのを知って、賛と解説とを求めたので ある。その図を見ると、果たして先に言う泰斗として

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86 抜群の度量をそなえた人物である。 そこで彼に応じて、 ﹁ 師 の お 姿 は ま こ と に 賛 す る こ と が 出 来 な い が、 心 に ついては言うことが出来るかも知れない。だが心には 実体がないから、これまた自分の言葉を自分で忘れる ことになるだろう﹂と言った︶ 。 ﹁贊説﹂の意は不詳だが、 ﹁賛﹂は後に﹁形は実に賛するべ き無し﹂とあるから、画賛のことで問題ないだろう。 ﹁説﹂ については、後に自らの碑文撰述について﹁又た其の説に 因 り て 以 っ て 自 ら 警 触 す ﹂ と 言 い、 ま た、 ﹁ 心 は 或 い は 言 う べ き も ﹂﹁ 自 ら 吾 が 說 を 忘 る ﹂ と あ っ て﹁ 心 ﹂ に 関 わ る こととされるから、禅師の宗旨を解説する文章ということ でもあろうか。絵に賛をつけることは出来ないが、霊祐の 心については説くことが出来るかも知れないとは理解しづ らいが、仏道にかなった禅師の心については、同じく仏道 にかなった者として鄭愚の自得する所を述べれば良いとい うことだろうか。 鄭愚は画賛に加え、碑文についても結局は引き受けるこ ととなった。そのことを記して、彼は碑序を終えている。   審 䖍 不信、 益欲賛之云云⋮⋮予笑不応。後十来予門、 益堅其説。且思文字之空与碑之妄、空妄既等、則又何 虞。咸通六年歳在乙酉草創其事、会予有疾、明年二月 始訖其銘。又因其説以自警触、故其立意、不専以褒大 潙 之事云︵審虔は信ぜず、ますます賛を求めてあれこ れと言ったが⋮⋮私は笑って相手にしなかった。後に 十数回も私のところへ来て、ますます頑固に主張する のだった。思うに、文字の本質は空、石碑は虚妄であ る、空と妄とが等しい以上、何を恐れることがあろう か。咸通六年乙酉の歳に建碑事業を始めたが、たまた ま私が病気になり、翌年の二月になってやっと銘を書 き終えた。またその前に添えた解説によって自らを戒 慎啓発もしたのであって、この文の意図としてはただ 潙 山禅師を褒めるだけではないのである︶ 。 形相である石碑は虚妄だが、そこに文字として刻まれる言 葉の本質は空であり一切の執着が入り込む餘地はな い ︶21 ︵ 。こ の 洞 察 に も と づ い て、 彼 は﹁ 空・ 妄 既 に 等 し ﹂ す な わ ち 虚妄なる現象はそのままに空にして清浄なる悟りの世界で あるとの安心を得、建碑への協力を決意したのである。た だし 潙 山を讃えるだけの碑文にはしないのだと断りも入れ て お り、 こ れ ま で 見 て 来 た 通 り 実 際 に そ の よ う な 内 容 に なっているのであって、 これが鄭碑の大きな特徴であろう。 四、 ﹁大円禅師碑﹂の特徴 以 上、 ﹁ 大 円 禅 師 碑 ﹂ の 銘 を 除 く ほ ぼ 全 文 を 通 覧 し た。

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87 鄭愚「大潙山大円禅師碑銘」考(齋藤) この碑文は序末尾において自ら記すように、碑主の事跡を 記 す の み な ら ず 撰 者 の 見 解 を 述 べ る こ と に 注 力 し て い る。 これは、鄭愚がおそらくは 潙 山に師事したことがなく限ら れ た 材 料 に も と づ い て 撰 文 し て い る こ と も 一 因 で あ ろ う が、しかし何より、彼が長年の学仏により確固たる見解を 有しており、 潙 山の門人をはじめ当時の仏教界を批判的な 目で見ていたからだと考えられる。 鄭 愚 の 思 想 と い う 観 点 か ら 碑 文 全 体 を 振 り 返 っ て み れ ば、その内容の大きな特徴としては是非得失の分別を否定 することがあり、それを主張する際に﹃荘子﹄の思考と表 現 を 用 い る こ と が ま ず 指 摘 で き る。 ﹁ 大 円 禅 師 碑 ﹂ は 先 に 触 れ た﹃ 論 語 ﹄﹃ 老 子 ﹄ の ほ か、 儒 家 と 道 家 の 典 籍 に 由 来 す る 用 語 を ち り ば め つ つ 綴 ら れ て お り、 た と え ば﹃ 周 易 ﹄ からは ﹁天下の能事 畢れり﹂ ﹁心を洗う﹂ ︵共に繋辞上伝︶ 、 ﹃ 毛 詩 ﹄ 大 序 か ら は﹁ 之 こ れ を 永 歌 し て 足 ら ず ﹂、 ﹃ 荘 子 ﹄ か らは﹁巧暦﹂ ︵斉物論篇︶ 、﹁天和﹂ ︵天道篇など︶が用いら れている。多く典故を取るのは碑文の通例であるし、仏教 関係の文章でも外典の語を借りるのは士大夫の作文として 自然なことである。しかしながら、碑の冒頭を﹁天下之言 道術者多矣﹂で始めるのは、明らかに﹃荘子﹄天下篇の冒 頭﹁天下之治方術者多矣、皆以其有為不可加矣。古之所謂 道術者、果悪乎在。曰、無乎不在︵天下に方術を治めるも のは多く、みな自分の治めた術を最上としている。古の道 術というものは、いったいどこにあるのか。あらゆる場所 に あ る ︶﹂ を 意 識 し て い る だ ろ う。 そ し て、 わ が﹁ 宗 ﹂ を のみ﹁是﹂として相い争う現状からの超脱を説く鄭愚を支 えるのは、同じく﹃荘子﹄でも斉物論篇に示された思想と 表現であったと見てよいのではなかろう か ︶22 ︵ 。 是非得失を離れることを強調する鄭愚にとって、一般的 な 禅 師 の 碑 銘 の よ う に そ の 法 系 の 正 統 を 誇 り、 中 唐 以 来、 分派を重ねる禅宗の中での位置づけを記すことは、己のみ を是とする行いに他ならなかったろう。彼は当時の状況と して、 ﹁近代 之 こ れを言う者は、必ず宗有り、宗に必ず師有 り、 師 に 必 ず 伝 有 り ﹂ と 記 す が、 ﹁ 宗 ﹂ に も﹁ 師 ﹂ に も 否 定的であったとおもわれる。 五、 潙 仰周辺の人々の思想 では鄭愚の立場は、霊祐やその嗣・仰山慧寂に師事した 人々の中でいかに位置づけられるであろうか。鄭碑と﹃宋 高僧伝﹄霊祐伝が共通して伝える在俗の弟子に裴休︵七九 一∼八六四︶がいるが、圭峰宗密が彼の諮問に答えた﹃裴 休拾遺問﹄は、次のような裴休の質問状から始ま る ︶23 ︵ 。   禅法大行、宗徒各異、互相詆 訿 、莫肯会同。切要辨

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88 其 源 流、 知 其 深 浅。 此 雖 留 意、 未 得 分 暁、 撰 録 之 時、 恐有差錯。伏望略為條流分別、三五紙示、及太祖、列 南北宗、南宗中、荷沢宗・洪州宗・牛頭宗、具言其浅 深・頓漸・得失之要。便為終身亀鏡也。裴休状︵禅法 が大いに行われ、各宗派の門徒がそれぞれ教えを異に し、 互 い に 誹 り 合 い、 通 じ 合 わ せ よ う と は し ま せ ん。 その源と支流とを辨別し、深浅を知りたいと切に望む ものであります。 このことには意を止めているものの、 いまだはっきりとはせず、著述や編集にあたって間違 いを犯すのを恐れます。伏して願いますには、禅宗の 法系を整理して五紙ほどで示し、達摩・慧可にさかの ぼ り、 北 宗・ 南 宗 を 列 ね、 南 宗 中 の 荷 沢 宗・ 洪 州 宗、 牛頭宗について、その深浅・頓悟・得失の要点をつぶ さ に お 説 き く だ さ い。 き っ と 一 生 の 規 範 と い た し ま しょう。裴休が申し上げます︶ 。   裴休は禅を奉ずる者がそれぞれの﹁宗﹂を唱えているとい う 現 状 認 識 を 鄭 愚 と 共 有 し つ つ、 し か し﹁ 浅 深 ﹂﹁ 得 失 ﹂ を明らかにしたいと願っている。これに対して、宗密は次 のように回答する。   然達磨所伝、本無二法、後随人変、故以殊途。局之 即倶非、 会之即皆是。前者所述伝記、 但論直下 ︹一︺ 宗。 若要辨諸宗師承、須知有傍有正。今且敘師資傍正、然 後述言教浅深、自然見達磨之心流至荷沢矣︵そもそも 達磨が伝えた法はもとより一つであって、後に伝えた 人々によって変化したため、道を異にしたのです。一 つに偏ればすべてが非となるし、会通すればすべてが 是となります。前代に書かれた記録は、ただ単線的に 一宗を論じるだけでした。しかしもし諸宗の師承を理 解しようとするなら、傍系と正系があることを知るべ きです。今、まずは師資相承の正傍を記し、その後で 教えの深浅を述べれば、達磨の心は荷沢宗に流れてい ることは自ずと看取できるでしょう︶ 。 宗密は会通させれば全てが是となるとしつつ、法系には正 傍があり教えには深浅が存するのであって、あくまでも正 系たる荷沢宗の宗旨から諸派の会通がなされるべきだと主 張する。これは鄭碑とはまるで異なる立場であって、鄭碑 が批判対象として念頭に置いていたのは裴休に代表される ような傾向であっただろうし、 あるいはこの﹃裴休拾遺問﹄ そのものであった可能性もあると思われるのであ る ︶24 ︵ 。 次 に 注 意 し た い の は、 廃 仏 へ の 認 識 で あ る。 ﹃ 祖 堂 集 ﹄ 巻十八・仰山和尚章の末尾には、苑陵僧道存なる者の﹁和 尚沙汰後、再到湖南、礼覲 潙 山和尚。復有何微妙言説︵和 尚は廃仏の後、ふたたび湖南を訪れて 潙 山霊祐和尚に見え たとか。いったい、いかなる微妙なるお言葉がありました

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89 鄭愚「大潙山大円禅師碑銘」考(齋藤) で し ょ う か ︶﹂ と い う 質 問 に 答 え、 師・ 霊 祐 と の 対 話 を 回 想する記事が収録される。対話の主題はいかにして参学者 の悟境を見抜き、適切に指導し法を伝えるか、今の教団に 禅 僧 と 呼 ぶ に 足 る 人 物 は い る か 否 か。 し か し、 ﹁ 身 辺 に 還 ま た学禅の僧有るや 不 いな や﹂という霊祐の問に対する慧寂の回 答は、およそ次のようなものであった。   人前受持声教、祇対別人、即似背後楷定着。渠自己 照用処業識亦不識︵人が表面上、言葉による教えを受 持して、他人に応対するさまは、背後から判定するこ と も で き ま し ょ う。 し か し 彼 自 身 の 本 性 の は た ら き、 業を作り出す認識作用の領域については、識ることが できないのです︶ 。 さらに、大安・全 諗 ・志和・志遇・法端の五人の霊祐門人 についても、彼らの﹁見解﹂すなわち言語による教えの理 解は肯いつつ も ︶25 ︵ 、﹁行解﹂すなわち自得の境地については、 ﹁行解は自ら清濁の業性を辯ずれば、意密に属するに 縁 よ り、 所 ゆ え 以 に 他 かれ を知らず﹂として、内心の境界は知り得ないとし たのである。 仏 法 の 存 続 へ の 危 機 感 の 充 満 す る 潙 仰 師 弟 の 対 話 だ が、 こ れ も や は り 禅 仏 教 が 見 せ た 廃 仏 へ の 対 応 の 一 つ で あ ろ う。鄭碑においては、 霊祐は出家の形式になどこだわらず、 復仏後に弟子が集まって来ても﹁皆な幻視して意を為す所 無 し ﹂、 教 団 の 回 復 や 存 続 と い っ た 問 題 を 意 識 し て は い な かったかのように描写される。しかし、唐末の慧寂門人か ら五代十国期の﹃祖堂集﹄編纂に至るまでの間に、廃仏を 教 化 や 伝 法 に つ い て の 深 刻 な 反 省 の き っ か け と し た 人 々 が、 潙 仰の流れを汲む人々の中にも現れていたのであ る ︶26 ︵ 。 六、おわりに 鄭 愚 に よ れ ば、 是 非 得 失 へ の 分 別 を 離 れ た 境 地 こ そ が、 生死からの解脱をもたらし、霊祐はそのような境地を体認 していたからこそ開創当初の 潙 山にあって赤貧に耐え、廃 仏 に も 惑 わ さ れ ず 時 運 に 随 順 す る 処 世 を 取 り 得 た の で あ る。そして鄭愚自身はこうした認識にもとづいて、恐らく は撰碑の依頼者である 潙 山門人らの希望とはやや異なった 碑文を作成した。鄭碑は自ら﹁又た其の説に因りて以って 自ら警触す、 故に其の立意は、 専ら大 潙 を褒むるの事を以っ てせず﹂と言うように、碑主への賞賛を借りて撰者の思想 を色濃く反映させたのである。 こ の ほ か 鄭 碑 に 関 連 し て 気 に な る の は、 鄭 愚 の 属 僚 で あった陸希声が仰山慧寂の碑銘を撰してお り ︶27 ︵ 、あたかも禅 僧の師弟関係と士大夫の人間関係が相似形を なすかに見え ることである。最後に、碑文の資料価値もしくは士大夫と

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90 禅仏教という視点について、見通しを述べておきたい。 李華︵七七四卒︶の﹁潤州天郷寺故大徳雲禅師碑﹂ ︵﹃文 苑 英 華 ﹄ 巻 八 六 一 ︶ は 、 大 照 普 寂 の 門 人 で あ る 碑 主・ 法 雲︵七六六没︶が潤州天郷寺に住したのは、江東採訪処置 使として潤州に着任した吏部侍郎斉澣の招請によるものと 記 し ︶28 ︵ 、﹁ 是 こ れに由りて江景︵ ﹁左﹂の誤りか︶の禅敎、大照 の宗有り﹂と評している。これは、官僚の転任によってい わゆる北宗禅が南方に伝播したということになろう。 次に、荷沢神会︵六八四∼七五八︶の語録である石井本 ﹃南陽和尚問答雑徴義﹄を見ると、 第七条は潤州刺史 ・ 李峻、 第二六条は潤州司馬・王幼琳なる者が対問者となっている のが注目される。これは、同一州の地方官が集団で参じて いる事例であろう。時期や場所は不明だが、恐らくは刺史 李峻の要請で説法した折、李の部下も共に列席したものだ ろう。王幼琳の条に続く第二七条は牛頭寵法師、第三〇条 は 牛 頭 袁 禅 師 な る 僧 と の 対 話 な の も こ の 推 測 を 裏 付 け る ︶29 ︵ 。 牛 頭 山 は 潤 州 上 元 県 に あ っ て︵ ﹃ 元 和 郡 県 図 志 ﹄ 二 十 五 ︶、 あるいは牛頭山を会場にしてか、潤州の僧俗が神会を招請 して説法を聴いたことがあったのだと思われる。 ま た、 ﹃ 宋 高 僧 伝 ﹄ 霊 祐 伝 は 外 護 者 の 一 人 と し て 崔 慎 由 を挙げるが、同書巻十二・唐福州怡山院大安伝は、崔貞孝 公、すなわち崔慎由の弟・崔安潜の帰依を伝え る ︶30 ︵ 。大安は 霊祐に嗣法してお り ︶31 ︵ 、士大夫の兄弟がそれぞれ禅師の師弟 に師事したことになろう。また崔兄弟の叔父・崔魏公こと 崔鉉は、先述のように鄭愚との逸話を﹃唐語林﹄に伝える のであった。仏教教団の形成と士大夫との関連は、個人の みならず集団にも着目する必要があると思われる。 [ 付 記 ] 本 研 究 は、 科 学 研 究 費 補 助 金 基 盤 研 究 C︵ 課 題 番 号 18K00344 、代表 ・ 佐竹保子︶による成果の一部である。   注 ︵ 1︶   胡 適﹁ 白 居 易 時 代 的 禅 宗 世 系 ﹂︵ 一 九 二 八 年、 ﹃ 胡 適 学 術 文 集   中 国 仏 学 史 ﹄ 中 華 書 局 一 九 九 七 年 ︶、 柳 田 聖 山﹃ 初 期禅宗史書の研究﹄第二章第二節︵法蔵館、一九六七年︶ 。 ︵ 2︶   特 に 第 四 章、 第 五 章。 本 書 の 日 本 語 版 と し て、 齋 藤 智 寛 監 訳・ 村 田 み お 訳﹃ 古 典 禅 研 究 │ 中 唐 よ り 五 代 に 至 る 禅 宗 の発展についての新研究﹄ ︵汲古書院、 二〇一七年︶ がある。 ︵ 3︶   孫 昌 武﹁ 唐 代 慧 能〝三 碑 〟対 其 禅 法 的 理 解 ﹂︵ ﹃ 文 壇 仏 影   続 集 ﹄ 宗 教 文 化 出 版 社、 二 〇 〇 八 年 ︶ は そ う し た 視 点 か ら の論考である。 ︵ 4︶   以 大 中 癸 酉 歲 正 月 九 日 盥 漱 畢、 敷 座 瞑 目 而 帰 滅 焉。 享 年 八 十 三、 僧 臘 五 十 九、 遷 葬 于 山 之 右 梔 子 園 也。 四 鎮 北 庭 行 軍・ 涇 原 等 州 節 度 使・ 右 散 騎 常 侍 盧 簡 求 為 碑、 李 商 隠 題 額 焉︵四五一下︶ 。﹃宋高僧伝﹄ の底本には磧砂蔵本を用い、 ﹃仏 学 名 著 選 刊   高 僧 伝 合 集 ﹄︵ 上 海 古 籍 出 版 社、 二 〇 一 一 年 ︶

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91 鄭愚「大潙山大円禅師碑銘」考(齋藤) の頁数を付す。 ︵ 5︶   ﹃旧唐書﹄一六三 ・ 廬簡辞伝、 ﹃同﹄一九〇 ・ 文苑伝下、 ﹃新 唐書﹄一七七・廬簡辞伝、 ﹃同﹄二〇三・文藝伝下。 ︵ 6︶   ﹁ 適 師 之 徒 有 審 䖍 者、 以 師 之 図 形、 自 大 潙 来、 知 予 学 仏、 求 為 贊 ⋮⋮ 咸 通 六 年 歳 在 乙 酉 草 創 其 事、 会 予 有 疾、 明 年 二 月 始 訖 其 銘 ﹂。 以 下、 鄭 碑 の 引 用 に は 四 部 叢 刊 本﹃ 唐 文 粋 ﹄ 六 十 三・ 碑 十 五・ 釈 三 に 収 録 さ れ る﹁ 潭 州 大 潙 山 同 慶 寺 大 円禅師碑銘并序﹂を用いる。 ︵ 7︶   諡 が﹁ 大 円 禅 師 ﹂ と さ れ た こ と は 碑 文 の 題 名 に 示 さ れ て お り、 ﹃ 祖 堂 集 ﹄ 十 六・ 潙 山 和 尚 章 に は﹁ 勅 諡 大 円 禅 師・ 清 浄 之 塔 ﹂ と あ っ て、 塔 号 も 下 賜 さ れ た こ と が 知 ら れ る。 以 下、 ﹃ 祖 堂 集 ﹄ の 引 用 に は 高 麗 版 影 印 本︵ ﹃ 仏 学 名 著 叢 刊   祖堂集﹄上海古籍出版、一九九四年︶を用いる。 ︵ 8︶   商 州 刺 史 在 任 の 時 期 は、 郁 賢 皓﹃ 唐 刺 史 考 ﹄ 山 南 東 道・ 商 州︵ 中 華 書 局・ 江 蘇 古 籍 出 版 社、 一 九 八 七 年、 第 五 冊 二 四三九頁︶が桂管観察使就任の前とするのに従う。 ︵ 9︶   ﹃ 資 治 通 鑑 ﹄ 咸 通 三 年 八 月﹁ 以 桂 管 観 察 使 鄭 愚 為 嶺 南 西 道節度使﹂ 。 ︵ 10︶   ﹃ 宋 高 僧 伝 ﹄ 習 禅 篇・ 唐 大 潙 山 霊 祐 伝 で は 潙 山 に 隠 棲 し て い た 霊 祐 の た め に 伽 藍 を 整 備 し た の は 李 景 譲 だ と さ れ る が、 李は大中十二 ︵八五八︶ ・ 十三年の西川節度使であり ︵﹃唐 方 鎮 年 表 ﹄ 二、 九 八 二 頁 ︶、 あ る い は 鄭 愚 が 西 川 節 度 判 官 で あ っ た の は こ の 時 で、 当 時 の 西 川 節 度 使 に は 崇 仏 の 気 風 が 濃 厚 で あ っ た の か も 知 れ な い。 た だ し、 ﹃ 唐 刺 史 考 ﹄ は 趙 璘 の漢州刺史在任を咸通中のことと推測する。 ︵ 11︶   楊 曽 文﹃ 唐 五 代 禅 宗 史 ﹄︵ 中 国 社 会 科 学 出 版 社、 一 九 九 九年︶四七六頁。 ︵ 12︶   ﹃ 北 夢 瑣 言 ﹄ 九﹁ 唐 楊 相 国 収、 貶 死 嶺 外。 于 時 鄭 愚 尚 書 鎮 南 海 ⋮⋮﹂ 。﹃ 唐 語 林 ﹄ 三・ 賞 誉﹁ 鄭 愚 尚 書、 広 州 人 ⋮⋮ 崔魏公鉉鎮荊南、鄭除広南節制経過、魏公以常礼延遇﹂ 。 ︵ 13︶   呉 廷 燮﹃ 唐 方 鎮 年 表 ﹄ 嶺 南 東 道 は、 咸 通 九 年 に 嶺 南 東 道 節 度 使 と な っ た と す る が、 根 拠 と さ れ る 万 暦﹃ 広 東 通 志 ﹄ に当該記述を見い出し得なかった。 ︵ 14︶   ﹃ 景 徳 伝 燈 録 ﹄ 仰 山 慧 寂 章 に は 鄭 愚 と の 問 答 一 則 を 収 録 す る。 た だ し、 ﹃ 祖 堂 集 ﹄ 仰 山 章、 ﹃ 宋 高 僧 伝 ﹄ 仰 山 慧 寂 伝 には鄭愚との関係を示す記述は見られない。 ︵ 15︶   ﹁ 大 師 嘗 論 門 人、 以 希 声 為 称 首 ﹂︵ 仰 山 塔 銘 ︶。 陸 希 声 に つ い て は、 中 嶋 隆 藏﹁ 陸 希 声﹃ 道 徳 真 経 伝 ﹄ に お け る 思 想 と論理﹂ ︵﹃雲笈七籤の基礎的研究﹄研文出版、 二〇〇四年︶ 参照。 ︵ 16︶   柳 田 聖 山﹃ 柳 田 聖 山 集 第 二 巻   禅 文 献 の 研 究   上 ﹄︵ 法 蔵館、二〇〇一年︶にも訓注が収録されている。 ︵ 17︶   ﹃論語﹄ 雍也。なお ﹁有生之厚﹂ は ﹃老子﹄ 七十五章 ﹁求 生之厚﹂にもとづくか。 ︵ 18︶   師既以 兹 為事、 其徒稍稍知。其徙従之、 則与之結搆廬室、 与 之 代 去 陰 黒、 以 至 於 千 有 餘 人、 自 為 飲 食 綱 紀。 而 於 師 言 無 所 是 非、 其 有 問 者 随 語 而 答、 不 強 所 不 能 也。 数 十 年、 言 仏者、天下以為称首。 ︵ 19︶   吉 川 忠 夫﹁ 裴 休 伝 ﹂︵ ﹃ 東 方 学 報   京 都 ﹄ 六 四、 一 九 九 二 年 ︶ 第 二 三 二∼ 二 三 八 頁 に、 還 俗 し て 廃 仏 を や り 過 ご し た

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92 霊祐をはじめとする禅者たちが紹介される。 ︵ 20︶   諸 徒 復 来、 其 事 如 初。 師 皆 幻 視、 無 所 為 意。 忽 一 二 日、 笑報其徒、 示若有疾、 以大中七年正月九日、 終於同慶精廬、 年八十三、僧臘五十五。即 窆 於大 潙 之南阜。 ︵ 21︶   [姚秦] 鳩摩羅什訳 ﹃維摩詰所説経﹄ 弟子品に ﹁至於智者、 不 著 文 字, 故 無 所 懼。 何 以 故。 文 字 性 離、 無 有 文 字、 是 則 解 脱 ﹂ と あ り、 [ 隋 ] 淨 影 寺 慧 遠﹃ 維 摩 義 記 ﹄ 巻 二・ 本 は これを ﹁︿文字性離﹀ 、為是 ︿不著﹀ 。文字体空、 名為 ︿性離﹀ ﹂ ︵大正蔵三八、四五三上︶と解する。 ︵ 22︶   た と え ば、 次 の 一 段。 ﹁ 故 有 儒・ 墨 之 是 非, 以 是 其 所 非 而 非 其 所 是。 欲 是 其 所 非 而 非 其 所 是、 則 莫 若 以 明 ⋮⋮ 彼 亦 一 是 非、 此 亦 一 是 非。 果 且 有 彼 是 乎 哉、 果 且 無 彼 是 乎 哉。 彼 是 莫 得 其 偶、 謂 之 道 枢。 枢 始 得 其 環 中、 応 無 窮。 是 亦 一 無窮、非亦一無窮也。故曰莫若以明﹂ ︵﹃荘子﹄斉物論篇︶ 。 ︵ 23︶   ﹃裴休拾遺問﹄ は ﹃中世禅籍叢刊﹄ 九 ﹁中国禅籍集二﹂ ︵臨 川書店、二〇一六年︶所収真福寺本を用いる。 ︵ 24︶   裴 休 撰 の﹁ 唐 故 圭 峰 定 慧 禅 師 伝 法 碑 ﹂︵ ﹃ 金 石 萃 編 ﹄ 巻 一 一 四 ︶ に よ れ ば 宗 密 は 会 昌 元 年︵ 八 四 一 ︶ に 遷 化 し て い る から、 ﹃裴休拾遺問﹄の成書は鄭碑より前になる。 ︵ 25︶   向 後 受 持 和 尚 声 教、 為 人 善 知 識、 説 示 一 切 人、 如 瀉 之 一 瓶、不失一滴、為人師有餘。 ︵ 26︶   この対話は ﹃祖堂集﹄ のみに収録され、 ﹃宋高僧伝﹄ や ﹃景 徳 伝 燈 録 ﹄ に は 見 え な い。 ﹃ 祖 堂 集 ﹄ 仰 山 章 は 冒 頭 を﹁ 仰 山 和 尚、 嗣 潙 山、 在 懐 化。 師 諱 慧 寂、 俗 姓 葉、 韶 州 懐 化 人 也﹂ と記す。 ﹃祖堂集﹄ では ﹁仰山和尚﹂ であれば ﹁在仰山﹂ と す る の が 体 例 で あ る か ら、 ﹁ 在 懐 化 ﹂ は 異 例 で あ る。 あ る い は、 ﹃ 祖 堂 集 ﹄ 仰 山 章 は 袁 州 仰 山 で の 弟 子 で は な く、 韶 州 東 平 山 で の 門 人 た ち が 伝 承 し た 記 録 を 主 要 な 材 料 と し た も の で あ ろ う か。 ま た、 こ の 部 分 が 高 麗 開 版 時 の 付 加 で あ る 可 能 性 に つ い て、 衣 川 賢 次﹁ 祖 堂 集 札 記 ﹂︵ ﹃ 禅 文 化 研 究所紀要﹄二四、一九九八年︶参照。 ︵ 27︶   この事実は賈晋華 ﹃古典禅研究﹄ 導論も指摘している ︵五 頁、日本語版九頁︶ 。 ︵ 28︶   初 吏 部 侍 郎 齊 澣 採 訪 江 東、 見 天 郷 殿 宇 傾 圯 、 孰 尸 完 葺、 乃請禅師与絢公。 ︵ 29︶   ﹃ 南 陽 和 尚 問 答 雑 徴 義 ﹄ の 条 数 は 楊 曽 文﹃ 中 国 仏 教 典 籍 選刊   神会和尚禅話録﹄ ︵中華書局、一九九六年︶のもの。 ︵ 30︶   崔慎由、安潜については﹃旧唐書﹄一七七本伝を参照。 ︵ 31︶   後 止 溈 山、 礼 大 円 禅 師、 復 證 前 聞、 而 為 量 果 也。 時 豫 章 廉使贈太尉崔貞孝公、 則魏公之季父、 深契玄機、 敦安之道、 飛疏召之、厥誉愈昌︵四五四下︶ 。

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