’ 伝 え ら れる形態を信ずろならば、 板行を意図していたと考 え ら れる随想集の冒頭に、 万象亭森島中良は二代目 市川団十郎につい ての次のような聞き苔きを、 興味深げに書き留 めている。 '
....
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彼が若年の時、 父オ牛(割注•初代団十郎)傍輩の役者 に舞台にて刺殺され、 その無念、 骨随に徹り、彼者の埒られ 居る所へ走り寄り、帯したる狂言刀 を引抜き、 飛懸つて敵の 首を丁々と叩きたるを、 皆々訴寄り引留めぬ。後敵は刑せら れたれば、 此上、 人を切ろぺき我ならねば、 木刀にて事足り (注1) ぬとて、生涯是を帯したり。 このような逸話 を苔き記した万象亭の意図は、 奈辺に存したであ ろうか。 彼自身は続けて、 歿後三代目団十郎が兄弟、 和泉屋茶筵が所蔵 と 成りしが、 明 和九年の大火の時、 烏有となりしと焉馬が梧りき。 と記してこの一節を閉じ、 自らは何の評を加えも感想を漏らしも しない。 先に、 伝えられる形態を信ずるならば、 と困いたが、実は現存 の形態、 即ち続燕石十種等にr反古籠」として収められる形態は、 後人の手に成る II 寄せ渠めーと考えられ、 ' 彼がこの 一 節に自らの 評を付記しないのは、 むしろ当然と言えるのだけれども、 策者は (注2 ) r反古籠』の編者が恐らくそうであったよ う に、 万象亭自身が「金 (注3) 丸が木刀」と題したこの短い逸 話 に、 いた<注意を引かれるので あろ。 これから見ていく彼の虚実論に則 れば、 舞台という虚構装臨に 殺人という最大級の現実を持ち込んだ倒錯者に対する に、 虚構と して生きろぺく運命づけられた自らの アイデンティティー(彼ら の言い方に沿って、 それを〈分〉と呼んでも良いだろう)を固守 し、 父親の敵に狂言刀で切りつけるという極めて強烈な自己主張、 哀返せば、 同じ運命にある筈の「傍輩の役者」への比類なき糾弾 を行なった一一代目団十郎への共感が、彼をしてこのエどソードを 嘗き留めさせたのに違いあるまい。 そして 「敵」は現実の手に よ って刑せられ、 団十 郎は生涯木刀を帯したという、その鮮かな〈実〉万象亭が源内から受け継いだもの
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と〈虚〉の対比。無論、万象亭 は彼 ら自身の肉体性が〈実〉であ り、そうでしかない こ とを知り抜いていた。但し、世界の到 る 所 に、或いはひっそりと或いはあからさまに 、〈虚〉が息づいてい るのだということも知り抜いて いたのである。先の逸話に即して 言えば、社会一般と梨閑、客席と鍔台、真剣と木刀、といった風 に彼が虚実論をつき つめていっ た時、それは現代作劇法にも通ず ろ、実存的な意味においての「生」と「死」との問題にまで行き 箸かねばならない虚構論へと限りなく近づいて行く。 ところで我々は、近世期の日本列島に、即ち遂に内発的には、 我々の文学史が虚渭論を育て得な かったことを知っていろ。それ は品覚虚実論であって、虚構論ではなく、そ の虚実論ですら、殆 ど全てが大陸からの口移し、もしくは焼き直しなのであった。 その よ うな中に在って、何故万象亨の虚実論が、虚構論に近づ き得たのか、それは単なる筆者の僻目ではないのか。以下、この 問いに答えられるぺく、筆者の考えを述べ た い。 (注4) 万象亭の虚実 論は、既に言われるように 、彼が終生師と仰いだ 風来山人平賀源内に拠る所が大き い。しかしそれ は、単なる再生 産の域には留まらなかった。言わば、 万象亭の知的営為の蓄積、 知的視野の拡大と ともに、彼の・虚実綸も成長したのである。勿綸 その背景には、源内の活動した明和•安永期に較ぺて遥かに 成熟 した、天明1文化期江戸の知的現境が存在し、博物図鑑一冊 の為 に家産を傾けてしまう源内に対して、当時屈指の蔵善・採本等 々 を擁した桂川家が在った事実は否めないが、今はそ の ことは問う まい 。 源内の虚実論として、常に引き合いに出されるのは、大田南畝 が直接の聞き書きとしてr一話一言」に記した、 讐へば、針を捧に云ひなすは虚の虚なり、箸を棒とすろは虚 の実なり、樟を棒にて削りて週ふは実の虚なり、捧を棒にて 遣ふは実の実なり、都ぺて小説は箸を棒にて遺ふ体にて然ろ ベ 頃 °6) という一節で ある。この外、特に虚 実論と言うべき発言は源内に は無い。但し、彼の戯作を 検討すれば、そこに は紐り返し(後節 で 見ていくような)事実とコトバにかかわる一種独特な認識が述 ぺられている。彼の晩年は、深く虚構に沈潜することで、事実へ の何らかのインパクトを殆ど祈るように幻想せねばならない状態 であったとする見方も可能である。 その源内の晩年、現 存する賓料から知り得る限り、戯 作者とし ての源内に最も近いところにいた万象亨 が 、先 の 南畝以上に源内 の臀咳に接したことは閻違いない。万象亭一世一代の戯作論〈田 舎芝居・序〉でも彼は自らの論の遡源 が 源内で ある ことを隠そう としなかった。 いへる しやれ“んつゞる ・・・・・・予か兄弟子の万象亭謂事あり。凡稗官を編に一ツの害法
あり。能ク近く た
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が とらば立 役其ン剣 を 抜ィ て ま 応匹敵役の苧i ベ を碗、ゃっし女形をとらへて前 をまく りはた えをあ らはにし て ふんどし 合Lた之 ゑならぬ事を仕出し。道外抑 をは づして翌丸を 振, 廻さば。 れどる 目を驚かし片腹を拘ゆべけ れと 。正の物を正で御目に懸ずし て。じかも正の物の如 く見するを上手の芸と云つぺ し。 戯作 も亦然 り 実 を以 て 実 を記 すは実録なり虚 を以て実の如く書 成は戯作なり。晒 落本の晒落を 見て晒落る晒 落は晒落た所が おかしき 晒落に もならねば。只可咲を専とすぺしと此語戯作の確論と (注6) いふぺし 万象亨の書いた文の中でも、r風来六部集」序と並んで 、 平賀ば り 11 の色濃い、正味この三倍程の序文で、彼の口吻はまさしく源 内そ のものであった。殊に その末尾に「天明七年 未のはつはる風 . ゃどり ぷ らつく 来山人門生無名子神田の寓居に棲遅暇久し振にて軍を採」と記し た時 J 万象亭は、既に七年前に没し ている 源内に 、半ば意識的・ 半ば無意紐裡 に憑衣されていたと 言える。「 虚を 以て実の如く書 成は戯作な り」 とは 全く「都ぺ て 小説は箸を捧にて遣ふ体にて然る べし」のリライトであった。それ ら虚実詰の 典拠と して、r=一体 (注8)唸,)
詩」r五雑'』などが挙げられるが、万象亭が直接に拠ったのは、 彼が戯作者として立 つに 当たっ て親炎した源内の言、繰り返し読 んだ形跡の如実な 源内の戯文であっただろうし、源内がそのよう な虚 実論を血の通ったものと して受け止める背景 に は 、彼 が浄瑠 jg ) 璃作者として信奉した近松の虚実論 を考え るべきであろう。虚実 論に限らず 、凡そ社会全般に亘っての立論の例示が、芝居に よっ て示された当時の碩向は勿論考慮する必要は有るものの、先に引 いた 〈 序〉の「詈 」 は、明らか にr難波土産』所載の近松の 論を 意識している し、万象亭は同笞を読んでもいる。 更に 、 〈 序〉を草する万象亭の脳裡に、源内の影が立ち現われ て いただろうことを思わせる のは、「正の 物 」 「上手の芸」とい った話句であ る。 前者 は 、源内の戯作中 に散見される言葉であり、 後者は、先 に 見た「備妄掌記」と同系列の手控え 級であ る、閲会 図祖館蔵「不弁録」中で、話句自体は多 少異な るが 次のように用 い ら れる。 此浄瑠璃の六 部と兵庫は、左伝の程管杵臼に て、一,体は眉間 象貴なり。道念の狐場は愛護若の茶道口なり、渡場の場は仁 徳天皇難波梅の生捕な り、 (割注・頓兵衛は仁 王な り)上手 の作を上手が盗む故、尻尾も見えず面臼く化すなり。 (前掲r反古節」「矢口渡」) 「此浄瑠璃」とは、世評高い源内のr神霊矢口渡』であり、「尻 尾も見 えず面白く化す」と は宮い換えれば「正の物を正で御目に 懸ずして。しか も正の物の如く見する」ことである。それは源内 に言わせれば、「数万の人の目に さらし、仕掛の見えぬ程な れば、 タトヘ マnト 昏仕掛有とても哀にひると同前(11同然)なり 」 (r放屁論』)と いうことな のであ った。こ こで「頓兵衛の姿は 仁 王の見立である とするのは而白い。根南志具佐で二世団十郎が閻魔に 似せ た扮装をたたえた源内の、 いかにも行いそうなことだからである3とい う大系本・中村幸彦氏の評言に導かれて改めて局囲を見回せば、 奇しくもその二世団十郎とは、 冒頭に引い た逸話における、〈虚〉 の体現者に外ならなかった。 · 蓋 し 「立役 真 、ぷ知を抜 ィ て実に敵役の頭を制・・・・:」と記す万象 亭に、 烏亭罵馬から聞き、 最晩年まで細部に亘って忘れることの 無かった〈費台上の殺人〉一件が、 生なま しく去来してはいなか っただろうか。 焉馬と万象亭との交友は、 源内を媒として安永年中には始まっ ていたと思われる。 ・ 同 日(引用者注・安永七年六月朔日)よりOO七月十七日まで、 回向院にて信州善光寺弥陀如来
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帳・・・・・・平賀鳩渓、 烏亭焉馬 が求めによりて工夫をなし、 小さき黒牛の背に六字の名号を (注11) あ ら はし、 見せものに出して利を得たりといふ。 . と いうr武江年表」の伝える一件当時、 万象亭は、 涼内作r里の をだ巻評』に祓を寄せ(安永一__年七 月)、 源内推挙のr力婦伝」 を刊し(五年三月)、 r天狗憫儒墜定縁起」に序(同年十一月) r菩捉樹之弁』に祓(七年九月)を困き、 翌八年二月には、 涼内 スケ 作の浄瑠璃に補助と して加わったr荒御霊新田神徳」が初演され るなど•最も足繁く源内宅に通っていた。天明四年七月刊のr狂 文宝合記』で万象亭が焉馬の「太平楽記文」を取りなす口閲、翌 年七月刊r太平楽記文」に見える互いの親しげな口吻は、 以前か らの交友を疫わせるに足る。 天明六年の焉馬主催第一回咄の会に も、 勿綸万象乎は出席していろのであった 。 ところが、 寛政期以後急速に戯作界と疎遠になっていく万象亭 と、 落咄中興の祖としてその中心に在り続ける爵馬との交友を証 すろ資料は殆んどない。従来、 熙馬の関係すろ咄本や咄の会にそ の名の見えるとされてきた「万象」 は、 実は二世であって森烏中 良その人ではなく、 焉馬との関係で苫えば、 文化四年刊の五世団 十郎追悼三升迎狂歌集r追善数珠の親玉」に載る「風来山人」の 一例が僅かに中良自身であった。即ち、 万象亨が競馬から冒頭 の 逸話を諾られたのが、 r田舎芝居」執箪以前であった可能性が極 めて高いということである。 「哀剣」と「木刀」がシンポライズする〈死〉と〈生〉。その ような、 〈実〉と〈 虚 〉への透徹した眼差しこそが〈序〉の虚実 綸を生み出し得た。 '彼は同じ文中で、戯作には〈虚〉が必要だと 営うのみならず、〈実〉は不要だと言い切 っ ていろので あっ た。 という〈虚〉の世界での、 その理由としてこう記す。 くら闇の事をあかるみへ持出され て。 姐妓のgの上には迷惑 に及ふ事少なからず。 是見に興なく見らるAに害あり。 (庄12~ ここで万象亭は、 恐らく源内のr放屁論』を意識していた 遊里 「役者」程にも〈虚〉である存在の遊女、 その肉体が発する〈虚〉の極北と言うぺき「屁1料、危う< 遊女の肉体、即ち〈突〉を 「 死」に至らしめようとすろ背理を、 まさに〈実〉に立脚した作 中人物(対立者)の口から、r放屁論』 というとっておきの〈虚〉の中で語らせる。あろうことか、 「此 事口外せまじきよし、 証文を祖て、漸自害をとゞめ」た、誰も知 らない筈 のこの話を「頃日田舎より来りた る、石部金吉郎といヘ ' ( 注14) ろ侍」が「青筋はつて」語るのであろ。果たして記述者源内が何 処にいろのか、当の源内 にすら分 かっていろのだろうかと危ぷま れるこの重層的入れ子構造の戯文か ら、万象亭が持ち出 して来た のは、〈虚〉と〈実〉との微妙な均衡の上に立つ遊女もまた紛れ もな いMortaーであろこと、そしてそうである限り人間性が諄 (庄15) 重されねばならないという倫理的
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面であった。 虚構であるとの前提の上で、盗み、隣し、殺害すろことは、当 然許容される。しかし、 その虚構を仕組み、菰ずろのは、真剣で 斬られれば死ぬ、本質的に〈実〉たる人閥の肉体なのである。そ して、その一点の通路が逆に〈実〉'を衡き動かす〈虚〉を保証し、 その時、彼らの宮う「戯作」 「 小説」が可能となる。万象 亭は 〈序〉 において、 「 正の物」に対して「芸」(11芝居)、 「実」「虚」 に対して「実録」「戯作」といった形で微妙に使い分けているの であり、そうであれば彼がr泉親衡物語』(文化六年刊)で「小 説伝奇」「遊戯三昧の策」について記した 「 虚実相半すぺし」 (「自序」)との戯作論(続本論)は、 r五雑組』の「凡為 -l 小 説及雑劇戯文 1 須=是虚実相半こと結びつくものではあっ ても、 r田舎芝居』の〈序〉とは 間接的以上には繋がらない。享和二年 刊の読本r玉之枝」におけろ万象亭の物語論は、 もとよリ 此話元来仮を弄して真となろより端を起せり。仮は虚にして 無なり。其は実に して有也。されば無中に有を生じたろ作り 物語なれパ。 ( 「 叙」) と、また、ややニュアンスを迎えろのであった。即ち、洒落本に おける「似たり寄っ たり」 を快しとしなかった万 象亭も芝居での 「盗み」は容認しており 、この意識レペルの相違が〈序〉におい ては綴り合わされていろこ とを、先ず考えなければならない。 そ してこのII級り合わせ”こそが、洒落本(野夫本)の中で劇を展oo
するという〈洒落本・田舎芝居〉の趣向を支えた。それは不完 全ながら、 『二日酔庖野」(天明五年刊)で一度試みられていた 方法なのでもあったが。 ともあれ、万象亭編r海外異聞」寛政元年四月の 序に、 ・・・・・・実に陳留の謝在杭が未曾て見さ る苔を読。未かつて至ら ざる山水を歴れは至宝を獲。異味を苔るか如しと云けろも味 ,i 注"~ ' ひある力な と見え 、 r田舎芝居」成立までに彼がr五雑組』を披見していた ことはほほ確実なのだけれども、ここでの彼の論は「虚実相半ば すぺし」ではなく、 「 虚を以て実の如く柑」け、 なのであった。 付言しておけば、万象亭にとって の〈虚〉から〈実〉への通路• nトパは実体を照らし実体へ向かうーつの通路であ る けれども、 ―つの通路に すぎない。こ れは、同じ博物学者として、万象卒が 源内か ら受け継いだ認識であった。源内にとって始ど唯一 と 召っ . て良い悔物学分野での業棋r物烈品随』(宝府十 三年刊 )で、彼 は類雹にかつて無かった程の周到さを以て、nトパによって実体 を措定し定位しようと試み た 。しかし、それはど こまで行こうと 一応の分節化でしかなく、源内がnトパの絹の目を更に細 かくし て、実体を溺め取り掬い上げようとすればすろ程、実体は生なま 「可咲11笑い」を本道として 開かれろぺき ものであった。彼 には白話小説が そうである よう に、続本もまた笑いを含む文芸で なければならなか ったし、自ら若した四作の玩本の内、特にr月 下清談」(究政十年刊) は、殊更深刻面にのみ目を向けたがる続 本に対する、アンチテーゼが含まれていろものと思われろ。また、 洒洛本はその成立の経緯からして、本来的に無害な笑いの文芸で あろ必要があった。卒双紙・絵本に於てをや。このような、当代 に在っ てはむし ろ特異と言うぺき文 芸理念の持ち主によって滑捨 本の端緒が 開かれたこと は、歴史の必然と言うぺ きなのであろう 、 。 そしてまた、そのような理念の種子を蒔いたのが、源内だった のである。 △ペイレンプラーウ しく撥ね回って彼のnトパの網を すり抜ける のであった。 紅毛人持来ル扁冑二似テ質軽ク扁青二 比スレパ色深クシテ甚鮮ナリ予力家紅毛花搭一帖ヲ蔵ム品類 凡ソ数千種形状設色営真ヲ套フ其青色ノモノハ此ペ レ インプ ラーウニテ彩ルト見エタリ其ノ色至テ妙ナリ東墾曰ク天冑大 青西夷回回青仏冑有リ種々同カラ.ス回回育尤モ貨シト疑ラク (注17) ハ此ノ物回回胄ナうン こ の一編の学術害において、彼のコトパは半ば敗文化していろの であり、r物類品椛」刊行の宝暦十三年七月頃より、 身を翻すよ うにして困いた談義本r根南志具佐』(同年十一月 刊 )で、彼は 6
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ロ一番次のように記したのである。 ー 「公無レ渡こ河、公党渡レ河、堕 J 河而死、当-—奈:公何一」一 からうた と特に作しは 、見ぬ唐土の古、夫の水に溺て死 た るをなん、 ゎtc かなしみ に堪ざる妹子の歎とかや。されば宝暦十あまり三の 年水無月の頃、荻野八重桐となんいへろ改f52が、水に入て 死たろ甲、世の取沙汰まち/\にして、そ れ と定たろ印を知 全18) 人なし。 こう記しておきながら、源内が五巻に亘って0き迎ねたのは、果 たして一歩でも「それと定 た ろm
」に近づ こ うとする「実録」で あったか 。 否、初めから〈沼実〉などには一顧だにせぬ、これ以 上あろうかと思われる程の荒唐無格な夢物語なのであった。同困 自序で彼は言う。をらんだ 唐人の陳紛呑、天竺のおんぺらぼう(原文梵字)、紅毛のす つぺらぼん(原文蘭字)、朝鮮のむらやりくちや り( 原文ハ ングル文字)、京の男の髭喰そらして、あのおしゃんすこと わいな、江戸の女の口紅か ら、いま/\しい、はつ つけ野郎 なんど、其詞は違へども、喰て糞して寝て起て、死で仕鍔ふ 命とは知ながら、め ったに金を欲がる人情は、唐も大倭も、 昔も今し珈び となし 。 .ここには、特異な世界認溢者の影に隠れて、〈コトバ11実体〉と いう一般認識に対する懐疑者の姿がほの 見えるだ ろう。 (注19) 同じ宝府十三年のII顔見せIIとして笞かれたr風流志辺軒伝』 (同十一月刊)でも
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惰は同じである。 そh 夫篤鹿の名目ーならず。阿房 あ り、雲津久あり、部羅坊あり、 Cとば たはけあり、また安本丹の親玉あり。但同じ詞にて兄ィとい へば、少しやさしく、利口に ないといへば、人 めったに 腹を 立ねど、つまる処は引くるめて、た はけは同じたはけなり。 (「自序」冒頭) 実体を措定し ようとす ればする程、拡散し揺れてしまうコト パ。 ならばそのようなコトパの通性を逆手にとっ てやろうじゃないか、 というのがr根南志兵佐』であり r風流志追軒伝」であって、だ から戯作者源内は、r物類品塩「』までの本草・博物学者源内の中 に、自ら胚胎して いた と箪者は考えるのである 。 ともあれ、「伝」 と銘打った後者に お いて 、二万五千字の余を費し て書いたことの その中に、串実は僅かに、「愛に江戸浅草の地内に、志道 軒とい へろえせものあり。 .... 誠に目出度親父な り 。」ということだけな のであった 。 このようなコトパヘの不信、否、コトパ で実体を把える営為に 対すろ疲労感が、却って〈虚〉を前提とした戯作の中での、自由 自在縦横無尽なコトパのアク0パットを可能にしたのだと言えろ。 襄から見れば、そのために 駁内には、前記のような〈小説〉論が 必要だった。 かい たわごと うそ 釈迦の鳩の卵、老荘の堕宮 、 紫式部が虚宮八百に比すべ きに はあらざれ ども 、只人情を論ずろにお いては、彼も一時なり 是も一時なり。 (r根南志兵佐』 「自序」末尾) 源内にとってみれば「人情」即らこの世界感を成り立たせるもの それ自体も、掌上にある ひとか けらの石ほどにも 、永続的で確固 たる存在ではなかった。 さだめ 定なき世と人Cとにいへども、世の定なきよりは、只定なき は人の心にてぞ有け る 。 ● ……いかに口から 地代の出ぬものな ればとて、出る儘のいひたい事 、つまる処は霞2函“)いひな し次第の浮世にて、浮世の定なきは、人の心の定なきなり。 (『根南志具佐」五之巻) 不完全な形ながら、これは実体論に対する意床での認益論である。 少なくともここには、 浮世な子作者たちが与件として疑いもしな かった「浮世」 などは無い。 認識論などと言えば面映いようだが、-17-... 我々の文学の同時代人、 太宰治の次のような文章に足許を晉かさ れてしまう我々が、 源内ほど に浮世を相対化し得てい るか 、 どう ヽ・ 世間とは、 いったい、 何の事でせう。 人間の複数でせうか。 どこに、 その世岡といふものの実体があるのでせ う。 …•9. (それは世間がゆるさないJ/(世閥ぢやない。 あな たが、 ゆるさないでせう?)/(そんな事す ると、 世間からひどい めに逸ふぞJ/(世間ぢやな い。 あな たでせう?)/( いま に世間から葬られる9/(世閥ぢやない。 葬むるのは、 あな たでせう?) . (r人間失格」昭23.7、.筑昭苔房) スミェ・ジョ.ーンズ氏が「危機の宮語」(r日本文学の構造』 昭 60 . 5、 . 創樹社)において、 .テク ス トヘの信頼ということでg えば、.この人の右に出る者はいないと思われる祖裸に、涼内を対 照させた ことは出見であ る が、 . 源内が テ クストに無限可能的解釈 故の永続的普遍的佃債を与え柑たのは、 むしろ彼が「出る儘の」 「いひなし次第」にコトバを吐き、 言わばテクストが「捨売」 ・ ( r根南志具佐」五之巻)にさ れたからではな かっ たか。 だが、 そうであったが故に、 源内のコトパ不信(それは深唇で 存在不安と繋がるだろう。 源内が吃音者であった という口碑は、 だから強ち根拠の無いことではない)は、 彼に一種弛迫神経症的 なまで の重閣的コトパの表出を要請し 、 そ のような多囮的表現は` ともすれ ば〈英文〉として評価された。 涼内の営語表出が普逼的
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だったのではない 9 日本語による表出史が特殊だったのであろ。 源内の死から丁度半年後の安永九年五月十八B、 万象亨はこの ように記した。. •• そのかみ<も ふみばつし 予が先師風来山人、 宿昔青槃の梯を踏失て、 天竺浪人と成リ みざへいどぷらく つきちら しより、 油浪の水穆に濁醸の世の酔を醒し 、 吐 散したろ酒反 のたまく 吐は、 酔た浮世に廷さろヽ、 酔潰共に目を明す、 コトパヘの懐疑を抱いて出発した戯作者源内 が、 いつか知らず実 体よりも認識11コトパに溺め取られ 、 そ うで なければ恒常性を保 ち得なかった人生の果てに、 バトンを受け取った万象亭にとって 既に源内のコトバは、 「酒反吐」ほどにも実体的であっ た。 源内 のコトパの飛翔は、 それが「捨売」であろ限りにおいて可能であ り、 鬱屈を哨らすための嘔吐じみた役割、 「酔洪共に目を明す」 といったような目的を背負わされた時点で それは、 地の上を這 う●酒反吐」に過ぎなかったのである。 このr風来六部集」序は、 決して言われるような手離しの涼内礼讃ではなく、 二律背反的な ものであると思う。 そしてそのような意味において、 彼は源内の 唯一無二の後継者であった。 それがたまたま、 源内に対する屈折 した愛情に発するものだとしても。 さて、 万象亭森島中良は、 風来山人平双源内以上 に「浮世」が 相対的であるととを知っていた。 それだけに、 〈虚〉を〈虚〉として定位することで〈実〉を確定したかったのである:〈日本話〉 .を揺らし相対化する様ざまな 言語を 、彼は 一っひとつ実際に学習 し、そこに必ず実体との対応関係があり法則があり体系があろこ とを確認していった。〈日本人〉の存在感を揺らしにやって来ろ 〈異人〉たち にも、 自分たちと同様、 社会があり風俗があること を丹念に証し立てていった。現象のどのよ うな 細部をもゆるがせ にしない姿勢の彼はしかし、師 の 源内がそうであった よう に、や はり飽く までも認識の人で あった 。 夫奇器を製するの要は。多く見て心に記憶し。物に触て機転 を用ゆろを尊ふ。 ...... 此害の如き。実に児戯に等しけれとも。 見ろ人の阻酌に依てハ。 起見生 心の一助とも成なんかし。 ・ ( r機巧図彙」序) (注20) この給がr遠西奇器図説」の援用である力ら無価依なのではなく、 むしろ、 ここまで飼い馴らしていろ万象亭の知を評価すぺき であ ろう。そしてそれは彼が源内から受け継ぎ、 「胸中数万巻の告を 秘めおき、世界を我が家のうちの如く看なしたりしとぞ9(r百 家碕行伝』巻四)とまで評される人生の内に補強し祖め続けた、 人生の指針なのであった。言わば彼の生 は、 謝肇制の言う「未曾 .て見さる苔を読。未かつ て至らざる山水を歴れは至宝を獲。異味 を答ろか如し」の実践だったの である 。 本稿第一節での自問に対するに 、筆者の現時点での解答は以上
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(注) 中期以降頷著に 戯作類の序祓等として論が書かれろ場合、特にその傾向は近世 の如きであろ。 なるよう であ るが、それらの論の 多 くは 〈虚実論 〉 の形をとろ。そ れは、 彼ら の手本とした中国小説、次いで先行の 戯作がそうであったことに掛り、 加えるに 、寛厳を経り返しつつ 幕末に及んだ出版取締りへの自衛手段がいつしか習い性とな っ て いったこと、また〈虚実論〉自体が極めて多庖的なレペルでの言 ......... 辞を許容する柔軟な論となっ てしまってい たこと等に拠ろだろう。 そして前述の如く、それらは〈虚構論〉ではなく〈虚実論〉なの であ っ た。 それら移しい〈虚実論 〉の中で、大阻魅力的で力の節ったもの として、筆者の管見は 、源内・万象亭の合作と言うべき〈田舎芝 居・序〉を選ぴたいのであろ。 その詳細な検討と、 後代に 賣した小さくない影響については、 場を改め .て述ぺなくてはなろま . い。 以下、2以古籠」の引用は、日本屈箪大成新版(二期八)に よる。 不明。慶応大学蔵、野崎左文手写本磁語「分曾て此書の古 写本を持たりしが明治二十年頃ある人(引用者注・朝倉無声 ママ か)に貨したる 侭に帰らずいと惜しく思ひ居りしに云々」に 籾っても、 「古写本」としか分からないし万象亭の書き留め本稿ではr根南志具佐』とr風 流志道軒伝』 との成立順序 の問題は留保する。 只、 成立時期 の 些かずれ る両作の刊行が、 共に宝暦十三年の「+一月」であったことは、源内が戯作に よる顔見せ狂営を意図していたからと考えられる。 20 ( 物と人間の文化史、 法政大学出版局) 。 ー 2 有朋堂文庫による。 〇すぺて引用は、 適宜旧字体を新字体に改めて記した。 (新見女子短期大学講師) とr反古籠」がほぼ一字 l 句対応することなどから、絹者は の ) の虚構装殴が、田舎では正常(都市的)に作用しない と 万象亭以外の者と考えられる。 いう落差から、〈都市〉の自覚とともに〈田舎文学〉が形成