昭和初期経済史の研究
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(2) 北海道教育大学紀要(教育科学編)第59巻 第2号 JournalofHokkaidoUniversityofEducation(Education)Vol.59,No.2. 平成21年2月 February,2009. 昭和初期経済史の研究 辻 修二・安藤 豊* 北海道旭川凌雲高等学枚 *北海道教育大学旭川枚社会科教育研究室. ResearchontheEconomicHistoryoftheEarlyShowaPeriod TSUJIShuujiandANDOUYutaka* HokkaidoAahikawaRyounnhighschool. *DepartmntofEducation,AsahikawaCampus,HokaidoUniversityofEducation,AsahikawaO70−8621. 概 要. 1920年代後半から1930年代初期はいわゆる戟間期と呼ばれる時期であるが,高等学校の日本史の授業でこ の時期を取り上げる場合,幾つかの問題点が浮かびあがる。最大の問題点は,依然として高校の日本近代史 教育内容にドミナントである内発的要因偏重の傾向を反映して,この時期の日本の歴史は世界恐慌など世界 経済システムに深く組み込まれそれと一体化していたのであるが,外的要因であるそのような世界史的背景 がそれとして教えられておらず,そのため学習者が立体的構造的に歴史像を認識することを困難にしている 点である。本稿では,学習指導要領や教科書の記述内容の分析的検討をふまえ,世界経済に深く組み込まれ,. その一環としての昭和初期の経済史との視角から,新しい教育内容の構成とひいては教科書記述内容の改変 を目的とし,当該時期の歴史記述がどうあるべきかを,高橋亀吉など当時における当事者の見識に依拠しな がら考察するものである。. はじめに. しているといえる。同様に日本史の教科書記述も, 目標にある「世界史的視野に立って総合的に考察. 1920年代後半から1930年代初期の日本経済の動 きは世界とのつながりが深いものがある。この時. させ」という点で,十分であるとはいえない。 特に,近現代の歴史を学習する上で,経済の動. 代を高等学校の歴史の授業で取り上げる場合を考. 向は重要である。世界は複雑な要因で動いており,. えると,幾つかの問題点が浮かびあがる。. 政治と経済は複雑に関係しているからである。. 学習指導要領の目標に記されているような,世. そこで,学習指導要領や教科書の記述内容をふ. 界の歴史の大きな枠組みと流れを,「我が国の歴. まえた上で,昭和初期の歴史について新しい教育. 史と関連づけながら理解させる」という点は,残. 内容を構成し,教科書の記述内容を改善する必要. 念ながら現行の世界史教科書の記載内容では不足. があると考えた。本稿は,その基礎的な作業とし. 13.
(3) 辻 修二・安藤. 豊. て,当該時期の経済史に焦点をあて,その概観を. 業的な段階を脱していなかったが,第一次大戦を. 得ようとするものである。. 経ることによって,明らかに工業国的な段階に到. 以下の,各章では次のことを明らかにした。 第1章では第一次大戦による空前の好況から金. 達した」(1)とされた。 大正5年から開始された八幡製鉄所(当時官営). 解禁までの動きを追った。第2章では,世界恐慌. の第三次拡張計画や,翌年施行された製鉄事業奨. の影響について考察した。第3章では,世界恐慌. 励法もこれらのことと関連して重要な意味をもつ. に対して当時世界の中心であった米英が採った政. ものだった。鉄鋼業では八幡製鉄所が拡張され,. 策を考察した。終章では,日本はいち早く恐慌を. 満鉄の鞍山製鉄所が設立されるなど民間会社の設. 脱出し,輸出が好調となったこと,しかし,それ. 立があいついだ。薬品・. は諸国からダンピングと批判され,また関碗障壁. は世界大戦中「ドイツからの輸入に依存していた. によって市場から閉め出されることになったこ. 化学工業品の輸入が途絶したため,染料その他の. と,そして,日本も世界の趨勢となったブロック. 化学工業部門も一挙に成長した」(2)といわれる。. 経済を形成せざる得なかった状況について述べ. 染料・肥料などの分野で. しかし第一次世界大戦終結後,ヨーロッパ諸国. た。そして,まとめとしてその後の日本の動きを. の復興が進み,アジア市場に復帰すると日本経済. 述べた。. は一気に苦境に立った。主力輸出品である綿糸・ 生糸の相場は半値以下の大暴落となったという。. 終戦直後こそ第一次世界大戦ブームの期間に蓄 1.第一次世界大戦後から金角牢禁までの動き 第一次世界大戦は,欧州が主戦場となった。日. 積した巨額の利潤で経済全般に「カネ余り現象」 が生じていたこと,および大戦中に機械,資材の. 本は経済面で欧州が占めていたアジアやアフリカ. 輸入難に阻まれ,抑制されていた投資活動が活発. の市場に参入。戦場となった欧州にも必要物資を. 化していったことが刺激となり,1919(大正8). 輸出するなどかつてない活況となり,大戦景気を. 年までは景気上昇が続いたという。新規の事業計. 享受した。こうして日本は明治以来のいわば慢性. 画が次々と打ち出され,銀行・会社計画資本,株. 的輸入超過国から輸出国に転じたのである。. 式・社債振込金は上昇の一途をたどった。また,. この経済的活況の要因として,大戦期を通じて. 投機熱が日本全国に浸透し,その範囲も商品,株. 日本が政治的,経済的優位を確保した中国に対す. 式,企業,土地とあらゆる分野に及んだという。. る輸出のほか,帝政ロシア等連合国に対する軍需. 1918(大正7)年9月から1919(大正8)年11月. 品輸出,日本と同様あるいはそれ以上に「戦争景. までのわずか1年あまりの間に,日銀は4度にわ. 気」を謳歌した米国への生糸輸出,さらに交戦国. たる公定歩合引き上げ(5.84%→8.03%)を実施. となった欧州諸国からの輸入が途絶したアジア,. し投機の行き過ぎに警告を発したがブームは過熱. アフリカ諸国からの代替品の受注などをあげるこ. する一方で,一向におさまる気配はなかったとい. とができる。また,大戦勃発とともに船腹不足が. う。. 生じ,用船料等の極端な暴騰が生じたが日本の海. ところが,1920(大正9)年に入ると景気後退. 運業は市場のそうした変化にのり急速に発展し. がはっきりしはじめたという。まず,同年3月15. た。三井物産船舶部に代表されるように遠洋不定. 日,東京,大阪両株式取引所で株式価格の大暴落. 期配船が急増し,山下汽船に代表されるように社. による混乱が起こり,ついで4月上旬には増田ビ. 外船による定期航路が開設された。. ルブローカー銀行(手形売買,コール仲介と銀行. こうして主に「輸出と海運の活況に支えられた. とを兼営してい金融機関)が破綻し,それを契機. 産業の拡大は,日本の経済構造をも変容させた。. とする株式市場,商品市場の大暴落と混乱が深刻. すなわち日本は,まだ第一次大戦まではいわば農. 化し,急速に恐慌様相を呈してきた。とくに5月,. 14.
(4) 昭和初期経済史の研究. 横浜の代表的な生糸輸出商茂木商店とその機関銀. 源は主とて郵便貯金等)を動員し,日本興業銀行,. 行であった七十四銀行が破綻するに及んで,日本. 日本勧業銀行,農工銀行を通じて約5千6百万を. 経済は全面的大恐慌状態に陥ったとされる。日本 銀行の調査によると,同年4∼7月に取付を受け た銀行は169行(うち支店銀行102),休業を余儀 なくされた銀行は21行に達したという。 こうして日本経済にかげりが見えた時期,1923 (大正12)年に関東大震災が発生した。震災は恐. 『生業資金』として貸し出させたという。 こうした状況について中村隆英は次のように述 べている(5)。 震災後に日本銀行が再割引をして肩代わりしていた震 災手形の金額は,震災後半年たった1924(大正13)年の. 3月で4億3千万円に達していた。当時,鈴木商店をは. 慌に追い打ちをかけ,日本経済に壊滅的な打撃を. じめ久原商事,国際汽船などの商店や企業が左前になっ. 与えた。これについて有沢正巳は次のように述べ. ていて,2億円の震災手形を残していたのです。その2. ている(3)(4). 億円のうち1億円が台湾銀行関係の震災手形で,そのう. この地震はマグニチュード7.9という強烈なもので,東 京,神奈川,千葉の三府県をはじめ,関東全県から山梨,. ち鈴木商店の分が720万円ありました。. こうしたなか鈴木商店に巨額の融資を実施して. 静岡,長野の各県に及ぶ地帯に激甚な被害を与え,とく. いた台湾銀行の経営悪化が表面化した。これに対. に東京横浜の両大都市,なかんずくこれらの官公庁街,. し時の若槻礼次郎内閣は緊急勅令によって台湾銀. ビジネスセンター,商工地区に壊滅的打撃を与えた。日. 行の救済を試みるが,枢密院の承認が得られず,. 本の政治・軍事・経済・文化の中心部を直撃した大災害. 内閣は総辞職した。これは「関東大震災の後遺症. だけに,これの機能はマヒ状態に陥った。. を要因とするものであり,大正時代からひきつが. (中略一引用者−). 銀行の営業所の焼失は東京都内で343店と総数の76%に. 達し,東京銀行集会所組合銀行4行中焼失を免れたもの. れた日本経済の矛盾が,おくれていた銀行制度の. 面において現れた」(6)とされている。 そして若槻内閣の後をうけて成立した田中義一. はわずかに日本勧業・三菱・小池・麹町の各本店店舗と. 内閣の高橋蔵相が,モラトリアム(支払猶予令). 横浜正金・台湾・住友などの八支店店舗にすぎず,横浜. を発し,全国的に広がった金融恐慌はようやく沈. 市においては19の本店店舗と23の支店店舗が全部焼失し. 静化した。そしてこの恐慌を契機に,中小企業や. た。. 銀行は倒産したり或いは,三井,三菱,住友,安. これにより手形は決済不能となった。そこで手 形の再割引が行われた。手形の再割引というのは. 田,第一の五大銀行に吸収されていったという。 さて,日本が相次ぐ恐慌でもたつく間に,世界. 市中銀行がこれを日本銀行に持っていくと,手形. の主要国は金本位に復帰していた。金本位制度と. に「震災手形」というスタンプを押してくれ,必. は,国内における貨幣価値の基準として金を用い. ず割引(現金化)してくれるという仕組みであっ. ることである。19世紀の初めイギリスが金本位制. た。また各種の輸入税減免令が発せられ,復興資. 度を採用してから,主要な欧米諸国は相次いで金. 材と食料品など生活必需物資が緊急輸入された。. 本位の採用に踏み切った。第1次世界大戦の間,. これによって輸入が爆発的に増加し,当然のこ. 各国は金本位を停止した。戦後アメリカが1919年. とながら,国際収支関係のいちじるしい悪化を招. に金本位に復帰したものの,ヨーロッパ諸国は大. いたとされる。また日本銀行が融通した「震災手. 戦の痛手がいえず,ただちに金本位復帰すること. 形」の額は通算4億3千万余にのぼったという. はできなかった。. (『日本銀行震災手形割引損失償令』はその後再. そこで,金決済にもとづく円滑な交易の復活の. 度延長された)。これらは経済的重圧として昭和. ため1920(大正9)年にブリュッセル国際金融会. 年代に持ち込まれたという。. 議,1922年にはジュノア会議が開催された。そこ. 政府は手形救済のため大蔵省預金部資金(資金. での決議の要点は,「通貨に関しては,金本位制. 15.
(5) 辻 修二・安藤. 豊. の再建を最終目標にして,経済復興を行うことを. 帰を実現し,フランスにおいてもまた近くの実行が予定. 声明した。それとともに二つの重要な新しい提案. されており,独りわが国のみが取残されようとしてゐる。. が付け加えられた。その第一は通貨が膨張しイン. ここにおいて吾は官民上下,真の挙国一致をもって遅滞. フレが進んでいる国では必ずしも大戦前の貨幣単. なく金解禁への準備に努力すべき機運を醸成せしむる必. 位を維持するには及ばない,すなわち貨幣一単位. 要を認め,6月22日下記両者経済部共同主催の下に関西. が含む金の量を切り下げ(平価切り下げ)てもか. の財界,学界,政界諸名の本間超に関する懇談会を催し,. まわないという点。第二は,金本位といっても,. 先づ関西における輿論喚起の蜂火を挙げることとしたの. 中央銀行が正貨を準備することができぬことも多. である。. いので,金本位を維持している国の外国為替を通. そして,10月12日には東西の商工会議所の建議. 貨の発行準備に充てるという金為替本位制の主旨. があがり,大手銀行業者代表として池田成彬東京. を加味してもよいという点」(7)であったという。. 手形交換所理事長,八代則彦大阪手形交換所理事. その後イギリスが1925年,フランスも少し遅れ. 長の名をもって「政府は即時金輸出禁止を解除せ. 1928年に金本位に復帰した。他方既述のように. らるべし」とする金解禁即行建議案を三土蔵相に. 1920年代の日本経済は,慢性的不況の状態を続け. 提出したという。こうした状況をみて,日本も金. ていた。財界からは,大戦後金本位に復帰した欧. 輸出解禁を実施して,金本位に復帰すれば為替相. 米にならい,金輸出解禁を実施して為替相場を安. 場も安定し,産業を再編成することができ,更に. 定させ,貿易の振興による輸出拡大を望む声が高. 輸出増加が期待できるという目論見が財界を中心. まったという。. に広がっていたという。1929年7月2日浜口雄幸. 1928(昭和3)年1月25日に東京銀行倶楽部新. 内閣が成立し,大蔵大臣に金解禁論者の井上準之. 年晩餐会で頭取の山本達雄が金解禁に関して次の. 助が就任した。浜口は全閣僚を集め施政方針案に. ような演説をしていたという(8)。. ついて検討,その結果が次のように表明されたと. 今日の日本銀行は,経済社会がかくの如き状態であり ますからして,その中央銀行の場としてはこれを捨てて. いう(10). 金輸出の解禁は国家財政及び民間経済の建て直しを為. 置くことは出来ませぬ。昨春(昭和2年一引用者−)の. す上に於いて絶対必要なる基本要件たり,而も,之が実. 金融界擾乱に於て,これまで腫物にさはるの思ひをなし. 現は甚だしく遷延を容さず,上述財政経済に関する諸項. たる病源(銀行の抱えていた多額の不良債権一引用者−). (財政整理緊縮,公債非公募並びに減債主義を指す一引. 既に赤裸々に一般に顕はれ尽くし,最早余り懸念する程. 用者−)は膏に我財政経済を矯赦する上に於いて必要な. の病根も伏在しないだらう,随て彼是と顧慮することな. るのみならず,金解禁を断行する上に於いて必要欠くべ. ども減少したことと思ふから,此際早く金の解禁でもす. からざるの要件たり,政府その如く諸般の準備を整え近. るやうことに歩を進めて,さうしてその伸縮によって,. き将来に於いて金解禁を断行せんことを期す,之別ち我. 通貨の伸縮も自然にして行くといふ大体の道に進んで行. 財政を安定し其発展を致す唯一無二の方途なるを信ず。. くことが一日も早く来ることを欲するのであります。. 1929年8月31日付け『東京朝日新聞』の社説「金. また,5月1日の『エコノミスト』誌上には大. 解禁に怯えるな」によれば,「金解禁は物価の低. 阪手形交換所会長八代則彦が次の見解を発表した. 落を促し,金利の昂騰を招く傾向のあることは否. という(9)。. み難いが,世上の観測はそれらを余りに過大視し,. 事業界の生産過剰は依然たるものがあり,今一段の根. 金解禁すれば,せきを切り落として溢れた水が激. 本的治療を必要とするが,金融の整理に雁行して事業界. 流となるように流出すると誤解し,財界に一大混. の整理亦著々歩を進めつつあるは明らかであって,全体. 乱が起きるものの如く盲信している」としたうえ. 的に見て我国経済界の浄化作用は一昨年に比較し余程進. で「案ずるより生むがやすしということを思いだ. 展したと考えられる。殊に世界の主要国は概ね金本位復. さざるを得ないのである。国民が金解禁に怯てい. 16.
(6) 昭和初期経済史の研究. る現在の状態を一掃する必要がある」と説いた。. 少ならず特に貿易の入超は激減し為替相場は漸騰し物価. さらに,11月7日「米英利下と金解禁機運」では,. は凋落の傾向を示す等経済上諸般の状況は解禁の実行に. 英米が金利を下げた絶好のチャンスを捉えて「今. 頗る有利に展開するに至れり,然して政府及び日本銀行. はただ政府当局の決心をもつのみ。政府は多年,. は七月以来為替相場の被る好調なるに当たり正貨の充実. 我経済界を悩ましたる本間題に対し最後の断案を. に努めたるを以て今や我在外正貨の額は三億円に達し其. 下し,財界混迷の空気を一新」せよと主張していた。. の地位を極めて安国たるものありと錐も更に横浜正金銀. そして浜口内閣成立の翌日の7月3日の社説. 行は政府及び日本銀行の援助の下に今回英米銀行団より. 「浜口内閣成る」では「可及的やかに金解禁の断. 行に邁進すべし」と主張した。また9月17日には 「現内閣は迷わず金解禁使命を果たせ」と政府を. クレジットを与えらるべき契約の締結に成功せり。 斯くして外国財界の変遷と相侯って内外諸般の準備全 く成り今や解禁を行ふも経済上何等憂ふべき事態の発生. バックアップ,11月5日には主張「金解禁予告の. せざるべき確信を待たるを以て叢に金の輸出取締を撤廃. 前提」で「金解禁金本位制を維持するために十分. する大蔵省令を発布し明年1月11日以後金の輸出禁止を. 準備をすべきだ」と主張したという。さらに金解. 解除することとなせり,即ち我財界多年の懸案たる金解. 禁当日の1930年1月1日には,「金解禁の日は来. 禁の問題は叢に漸く解決を告げ我国民経済は始めて更正. れり,挙国の真剣の努力を要す」という異例の2. の第一歩を就くを待たは邦家の為慶賀に堪えざる所にし. 段見出しの社説を掲げ,次のように主張していた. て其の如き大問題が極めて好都合に解決を見るに至れる. という(11)。. は主として有力なる輿論の支持と熱誠なる国民協力の結. わが国にあっては独り産業上に限らず,日常生活にお. いても,最大に合理化すべき点あり,この基礎を築かねば,. 果に因るものにして政府の深く謝する所なり。 然りと維も政府も国民も之を以て能事了れりとして心. 到底,金本位維持は出来ぬのであって,その基礎の成る. を安んずべきにあらず金の解禁は国民経済発展の行路に. まで国民は隠忍自重,現前の不況にも堪え忍ぶ覚悟がな. 横はれる第一の関門を突破し我国の経済をして世界経済. くてはならぬ。. の常道に復せしめたるに過ぎず,今後益々国際貸借の関. 井上準之助蔵相は財政緊縮を実施,物価の引下. 係を改善し金本位を擁護し以て財界の回復其の健全なる. げ,産業合理化により,国際競争力の強化をめざ. 発展を計るが為には今日迄の国民的努力は将来に向かっ. した。そして,上述のように1930(昭和5)年1. て之を継続するの必要あり,即ち政府は引き続き緊縮の. 月には金解禁を断行した。この時の浜口首相は次. 方針を以て財政の基調となし之と同時に適切なる方策を. のように声明したという(12)。. 講じて国力の培養に努むべく国民も亦今日の緊張せる気. 現内閣は金の輸出禁止を解き之によって財界の安定を. 分を失う事なくいよいよ勤倹行の精神を発揮し以て産業. 計り国民経済の建て直しを行ふを以て其の重大なる使命. 貿易の堅実なる発達に向かって真剣なる努力を傾注せん. となし速やかに実現すべき旨組閣の当初に於いて声明す. こと望むものなり。. る所ありたり,以来政府は解禁問題の解決を以てあらゆ. ところが,こうして金解禁を実施した直前,. る財政経済政策目標となし鋭意準備の歩を進め極力財政. ニューヨークのウォール街では株価暴落がはじ. を緊縮し国債の啓理を計ると共に地方公共団体の財政に. まった。それは,世界恐慌に発展し,日本経済は. ついても亦同一の方途を遵守せしめ一般国民に対しては. 金解禁による不況とあわせて深刻な恐慌に陥るこ. 経済難局の実情を力説して其の自覚を促し以て消費節約. とになった。. の奨励に努めたり。此の政府の方針は幸いにして国民の 理解と輿論の後援を受け人心頓に緊張を加え勤倹節約の 精神は全国を風靡し相率ゐて難局の打開に猛進するの機 運を醸成せり,此の一般国民自覚と協力とは比較的短日 月の問によく其効を奏し為に財界に好影響を与えたる所. 2.世界恐慌と昭和恐慌 1929(昭和4)年10月24日にアメリカのニュー ヨーク株式市場で株価の大暴落が発生した。. 17.
(7) 辻 修二・安藤. 当時,第一次大戦による経済の停滞から回復し. 豊. 員席の価格は,62万5000ドルの最高値を記録し,. ていないヨーロッパ各国の購買力は,アメリカ品. 26年当時の15万ドル準の4倍以上にも達した」(14). の生産量に追いついておらず,またアメリカ国内. としている。. においても工業製品の生産量は,国の購買力を上. こうした事態に対して米国の連邦準備局は,株. 回り,次第に生産過剰状態に陥っていた。また,. 式市場の過度投機抑制のため金利を異常な高利ま. 農業面でもアメリカは大戦中南米の農業国に大き. で引き上げたが(1928年初頭3%後のニューヨー. な資本の投下を行っていたが,徐々に欧州各国の. ク連銀公定歩合を1929年8月までに4回引き上げ. 農業生産が回復に向かい,加えて農業の機械化が. て6%という異常高の警戒金利にした),これは,. 進展し,次第に農産物生産が過剰となり,その結. 国の内外に次のような重大影響を与えたと高橋亀. 果世界的農業不況を招いていた。. 吉は後に解説した(15)。. さて大戦景気によって株式ブームが始まった. (イ)国内的には,株式熟,企業熟,鉱工業投機の抑圧. ニューヨーク証券取引所の売買高は,1927年の5. に成功するとともに,その大反動を斎らしたが,同. 億7700万から1928年には9億2000万株へと跳ね上. 時に,むしろ価格低落防圧対策を必要としていた農. がった。そして,1929年10月17日にはイエール大. 業品(過剰滞貨を抱えていた一引用者−)をも等し. のアーヴイング・フィッシャー教授が「株価は永. く圧迫し,ここに従来の農産品価格維持政策破綻の. 久的な高値と思われる点に達した」と語ったこと. 口火を切る結果となり,世界農産品暴落の堤防決壊. が報じられる事態となったという。そして彼は. の動因となるに至った。. 数ヶ月以内に今よりずっと高値になると予言した という。. コ)米国金利の異常引き上げは,欧州その他の諸国の 資金の対米流出を刺激すること甚だしく,ために,. キンドルバーガーによれば,こうした異常な状. これに対抗上,各国は金利を異常高にまで引き上げ. 況にありながら,アメリカ政府は適切な抑制措置. たが,それは各国金融の異常引き締めとなって,世. をとらなかったために株価大暴落を招いたとい. 界財界の悪化を激成した。. う。そして「ニューヨーク連銀は,市場金利が再. 金利を引き上げることにより,アメリカ国内に. 割引率以上に騰貴していることと,ニューヨーク. おける株式投資が有利となり,アメリカの海外投. の銀行が10億ドルのフェデラル・ファンドを借入. 資は減少する。このためヨーロッパからアメリカ. れて満足しきっていることに不安を抱いた。他方. に資金が戻るが,しかし高金利のためにそれまで. 同行は,金利引き上げがヨーロッパ諸国の中央銀. 好調だった住宅建築などは低調となりはじめたと. 行の金準備に圧迫を加えることを恐れて,金利引. いう。そしてアメリカの高金利と証券市場の騰貴. き上げに踏み切れないでいた」(13)とし,その間. により資金がヨーロッパに流れないという状態に. にも「株価は,途方もなく大量の貸付と投機のば. なり,1929年10月24日の株の大暴落になったとい. か騒ぎによって,設備や資産収益力の増加見通し. う。しかし,アメリカもフランスも貸付によって. とは無関係の水準までつり上げられ,余りにも高. 国際経済システムを維持することはできなかった. くなっていた。市場は一息ついては編成し直して,. し,そうしようともしなかった。. 一段と高揚していった。銀行家や床屋や靴みがき. こうしたアメリカの経済恐慌はヨーロッパや他. や大学教授が,市場を盛り上げていった。ニュー. の地域にも波及していったという。竹澤正武はこ. ヨーク連邦準備銀行は結局,8月9日に割引率. の状況を次のように描いている(16)。. 6%に引き上げることを許可された。市場はそれ. すなわち1919(大正8)年の対独平和条約成立後,各. に何の注意も払わなかった。9月1日はニュー. 国はそれぞれ自国の復興に努めたものの,その資金は大. ヨーク株式取引所は,株式分割によって各会員に. 戦中に軍需品などを提供して,経済力を強化したアメリ. 四分の一席を与えて会員席をさらに増やした。会. カの援助によるものであり,その返済の引当てとなった. 18.
(8) 昭和初期経済史の研究. ものがドイツから受け取るべき賠償金であった。 ところが,この賠償金は天文学的な数字といわれた巨 額なもので,ドイツとしては事実上支払が不能とみられ たほどのものであったから,たちまちにその支払いが停. 儀なくされたこと。第三に,国際貿易の多角的貿易・多 角的決済網が崩れ,貿易は二国間において決済され収支 の均衡が図られ,世界貿易を縮小させたこと。. さて,金解禁実施時日本の状況はどうであった. 滞して,ヨーロッパ各国のアメリカに対する借入金の返. か。ウォール街の株式大暴落のニュースを,当初. 済はもちろん,自国の所要物資買入れにもこと欠く状況. 兜町はむしろ好感をもって迎えたという。“永遠. となり,アメリカの経済は非常な打撃をうけることになっ. の繁栄’’を誇った米国の株式ブームがもたらした. た。(一部略一引用者−)他方ヨーロッパの諸国もドイツ. 異常な金利高は,金解禁後の正貨流出を招く要因. の賠償金が期待薄となれば,自力によって復興をはから. として懸念されていたから,恐慌によるブームの. ねばならずそのためには関税を引き上げて外国品の輸入. 沈静は歓迎されたとされる。ところが鐘紡社長武. を抑制することが必要となり,貿易が軒並減少する一方,. 藤山治は,世界恐慌が起きているのに,金解禁を. 自国内も不況が深刻となって物価が暴落するという悲劇. 行う井上財政は,「嵐に向かって窓を開くような. を演ずることになった。. ものである」という名文句をはいて金解禁策を攻. アメリカの恐慌が世界に波及した誘因を白木沢. 旭児は三つあげている(17)。 第一に,世界恐慌に先立ち1920年代後半に進行した世. 撃している。結果として武藤が正しかった。また 高橋亀吉は「世界恐慌がわが財界に与えた打撃は, 他の諸国よりも,最も深刻であった。というのは,. 界農業不況のため一次産品諸国国際収支危機を招いてい. わが国は旧平価金解禁による打撃ですでに少なか. たこと。. らず衰弱しているところへさらに,恐慌の重大打. (具体的には一引用者−)1929年には中南米諸国では. 撃を附加されたからである」(18)と指摘していた。. 農業不況に対する財政資金や軍事費などの生産的な外債. そしてこれらの事情のため,1929年秋までに物価. がアメリカ,イギリスより供給されていたが,一次産品. は,米国においては,少なからぬ利潤を含み好景. 諸国の累積債務は1929年にはひとつの頂点を形作る。1929. 気であったが,日本では,すでに1928(昭和3). 年中にはカナダ,アルゼンチンが金本位を停止し,アメ. 年下期以来,企業利潤を脅かす不況物価であった。. リカの恐慌発生以後は中南米諸国の債務不履行が現実化. 従って,同一率の物価暴落でも,その産業に及ぼ. した。これらの一次産品諸国は極度の輸入制限措置や為. す打撃には多大の差があったされる。ちなみに,. 替管理政策を採用し危機の打開をはかることになるので. この時期重要産業統制法が制定されている(19)。. ある。しかし,高金利は国内投資を有利にしたため,対 外投資は急速に減少し,アメリカに依存していた南米な. さて,このような事態について,さらに竹澤は. 次のように説明している(20)。. どの経済を悪化させた。つまり,世界的な農産物過剰問. 物価は為替相場の回復とはほとんど無関係とも言うべ. 題は第一次世界大戦後の農産物需要の拡大に対応して,. き暴落となったが,特に海外市場と関係の深い主要商品. 米国が農業国に対して資本を投下し農業生産を増大させ. の影響がはなはだしく,昭和5年中の低落は生糸が46%,. たところからはじまる。その後,欧州の工業国も,自国. 綿糸が2%,鉄鋼が38%,銅とセメントが28%,硫安が37%. の農業保護を図って自給率を高めようとしたために,世. に達したほか,生糸は4年4月の140円から5年10月には. 界的な農産物供給過剰の状態となっていった。農業国は. 574円と60%の暴落となり,製糸業者は練糸釜数を制限す. 米国資本輸出により過剰な農産物をストックし,市場へ. るなど生産制限に努める一方在荷の棚上げを行ったが,. の流出を抑え,辛うじて価格の大暴落を回避していた。. 綿糸相場が前記のような安値となり,また銀塊相場が有. 第二に,金本位体制崩壊がイギリスなど1931年までにそ. 史以来の崩落を示したため,インドにおける綿布関税の. こから離脱した諸国とフランス,オランダ,ベルギーな. 引き上げと不買同盟運動などで輸出が停頓し,5年6月. ど1930年代前半はそこにとどまった「金本位ブロック」. には年初に比べ49%の激落となった。なお主要食糧たる. 諸国の対立をもたらし貿易量を低下させ,管理貿易を余. 5年産米の作柄は6600万石と空前の豊作となり そのた. 19.
(9) 辻 修二・安藤. 豊. め相場の暴落がはなはだしく,5年10月には16円台と,. 林省,各政党本部を訪れて陳情した。同村木崎村. 前年10月の平均30円に比べ半値となり,全国期末市場は. の佐々木辰次郎はこう訴えたという。「実際今日. 一斉休業やむなきに至ったが,農家の副業たる繭相場も. 私共農民の生活は生か死か助けるか殺すかの岐路. 生糸の暴落により春繭が50%,夏秋繭が7%の低落とな. に立つ実に涙の渉む苦難の時代です」(22)。. り,そのため農家の経済は極度に切迫し,政府低利資金. この危機に対して政府のとった施策は,低利資. の貸出,米穀輸入税の引き上げ,過剰米の処分,新米の. 金の融通や米および生糸の市価維持であったが,. 買い上げなどの救済処置がとられたものの,豊作飢饉の. それらは地主・米商・糸商を救済はしたが,塗炭. 庄迫によって農家の収入は8億8500カ円と前年度に比べ. の苦しみにある中小農民にはゆきわたらなかった. 35%の減収を免れなかった。. という。必要な抜本的対策は解禁の緊縮財政に. こうして,すでに農工間の生産性格差にともな. よって制約され,実行不可能であった。政府はこ. う所得格差が鉄状に拡大していたが,恐慌の影響. の基本的矛盾にたいして,ほとんど為すところが. は農業,とりわけ生糸と米に深刻にあらわれたと. 無かったとされる(23)。. いうのである。. 生糸についてみると,1920年代後半には,人造 絹糸の台頭(価格低落を伴う生産拡大)によって アメリカの生糸輸入量が早くも停滞気味となり,. 3.ブロック経済体制への動き 世界恐慌時の主要国の動きを見ると,すでにイ. それに中国糸との競争が加わって日本年糸の交易. ギリスは国際経済を安定させる能力と役割を第一. 条件は悪化しつつあった,恐慌勃発後は,廉価な. 次大戦により失い,これに換わることが期待され. 人絹生産が一段と拡大し,生糸は織物用から靴下. たアメリカは保護主義(スムート・ホーレイ法). 用に販路を狭められ,アメリカへの生糸輸出量は. や自国の証券投資の大量引き上げを行って一国経. 明確に減少傾向に転じた。このような条件下にも. 済を守る政策を取ろうとしていた。これに連動し. かかわらず,日本の蚕糸業は生産および輸出を拡. て各国は自国通貨による経済ブロック化へと突き. 大し,とくに恐慌勃発後も生産を縮小せず,むし. 進んでいった。では,各国はどのようにブロック. ろ微増させた(そのため34年には再び糸価・繭価. 化へすすんだのであろうか。. は暴落する)ため,構造不況に陥ることとなった。 米についてみると,当時の日本には朝鮮,台湾. から大量の米が移入してきていた。米騒動いらい. アメリカの場合. 農産物の輸入に対して農業を保護するために高. 政府は,とりわけ朝鮮の産米増殖運動を政策的に. 閲脱を予定した,保護貿易政策の法案であるス. 推進してきた。そしてそれが成功し本土に大量の. ムート・ホーレイ法を制定した。. 朝鮮米が移入されるようになると,米価が低価で. この法の内容は,外国の産業が低賃金やダンピ. 安定し,実質賃金の値上がりを抑制することにつ. ングにより,アメリカ国内に安価な商品を輸出す. ながっていた。これは工業化の途を邁進する日本. ることを防止し,アメリカの産業を守るというも. の企業家たちを側面から支援することになった。. のであったされる。. しかし,その裏側を見れば米価の低迷は日本の農. 株式市場が崩壊した後にも,議会では,アメリ. 家経営を圧迫していた(21)。そこに豊作による価. カが海外経済からの悪影響を断ち切れば国内の産. 格の甚だしい暴落が襲ったのである。. 業が保護され,順調に操業・雇用が維持され,経. こうした農村恐慌に対して,各地から農民の陳 情団が東京におしよせたという。たとえば1930年 7月10日,埼玉県北足立郡力町村の代表者120名 は,生活難のため大挙上京,大蔵省,内務省,農. 20. 済は回復するという考えが強かったという。 キンドルパーカーはいう(24)。 農業に発生した困難の最初の兆候を見てフーバーは, 世界各国は関税休戦を行うべきであるという1927年世界.
(10) 昭和初期経済史の研究 経済会議の勧告が出ていたにもかかわらず,共和党の家. スムート・ホーレイ法による高関税政策で大変な. 庭薬(スート・ホーレイ法のこと)に手を伸ばしたので. 打撃を受けていた。この協定はそれに対する対抗. あった。この行動は,アメリカの国際収支への影響にとっ. 策でもあった。そしてこのような英連邦内の帝国. て重要であるとか債権国にふさわしくない振る舞いとし. 特恵関税はイギリス帝国が一つのブロックを形成. て重要な意味をもつというよりは,アメリカの無責任さ. し,自由貿易の本家ともいえるイギリスが自由貿. を現すものとして重要だった。. 易から理論的に離れたことを意味した。. そして,フーヴァ一大統領のあと,1933年3月,. フランクリン=ローズベルトが大統領に就任し た。彼は,これまでの孤立主義から善隣外交へと. フランスの場合. フランスの場合は,本国の貿易統制を植民地等. 転換させ,アメリカ周辺諸国との間に関碗の引き. に及ぼした点ではイギリスやドイツと同様のブ. 下げをおこない経済的結びつきを強化した。これ. ロックを形成したが,それよりも,1933年のロン. は,「1934年の互恵通商協定で一面では,世界貿. ドンでの世界経済会議が失敗したのちに,ラテン. 易を推進しつつ他方でカリブ海国に輸出促進をは. 系諸国やポーランドとともに結成した「金ブロッ. かった。他の場合より封鎖性には乏しいがブロッ. ク」(27)の方が重要であるとされている。. ク化に対抗して周辺小国を勢力圏に確保しようと した」(25)こ. とを意味したとされる。所謂ドル=. ブロックの形成である。. ドイツの場合(28). ドイツーブロックは,ドイツが東南ヨーロッパ 諸国を相手に,為替精算協定を主たる手段として. イギリスの場合. 1931年8月,マクドナルドが他の政党の協力を 得け挙国一致内閣を組織し,金本位制を停止し,. 結成したが,領域が狭いために限界があり,域内 取引に多角性を欠き,最後は軍事的支配に走るこ とになったとされる。. 財政削減などの恐慌対策を着手した。12月にはウ. エストミンスター憲章を制定し,自治領にイギリ. さて,スムート=ホーレイ法は保護関税の先駆. ス連邦の一員として忠誠を誓うことを条件に,対. をなすもので,各国も追随した。関税戟の激化は. 等の地位を与えた。英連邦の成立である。そして,. 英国その他多数の国が金本位を離脱して以後活発. 翌年6月には輸入品に10%(奮修品は30%)の関. 化したという。為替下落国からの商品に対しては,. 税を課し国内商品に対する保護政策を打ち出し. 為替低落の割合だけ関碗付加碗を課する為替補償. た。ついで7月には大英帝国会議をカナダのオタ. またはダンピング脱が設定された。さらに差別関. ワに開催招集した。会議の結果,オタワ協定が締. 税が普及したという。その最も主要なものはオタ. 結された。その主な内容は以下の通りであったと. ワ協定にもとづく英帝国内特恵制度の強化であっ. いう(26). ① イギリスの輸入関税は帝国内の産物について免除. する。 ② イギリスが外国からの輸品に課す関税は,それに. た。その他,互恵通商協定あるいは複関税制度に. より特定国からの輸入阻止を目的とするものも あったという。この結果世界各国は報復と自国商 品保護のために,さらに徹底的な輸入防過策を必. 利害関係のある帝国内諸国の同意なしには引き下げ. 要とするに至り,悪循環の自縄自縛に陥っていっ. ない。. た。. ③ 他で帝国内諸国は,イギリスからの輸入品には原. こうして1930年代前半の世界貿易政策は,高関. 則として課税しないが,一部の品目については関税. 税よりも直接的輸入制限の実施拡大で特徴づけら. の適用を許容する。. れたという。これら輸入制限策は,当初は臨時的. 英連邦のなかでもカナダは1930年のアメリカが. 措置として採用されたのであるが,その効果が有. 21.
(11) 辻 修二・安藤. 豊. 効,迅速で,しかも個別的に差別待遇をなしうる. 債発行をひとまず日銀引受で行い,低金利政策の. 特徴もあったので,欧州を初めとして世界各地に. 実施により,公債価格を維持し,一般金利が公債. 普及し,しかも漸次恒久的制度となっていったと. 利回りを下回った時点で日銀は売りオペを行い公. いう。これらの制度には以下のものがあったとさ. 債の市中消化をはかる,というもの(公債たらい. れる。. まわし)であったという。そしてこのような高橋. ① 輸入割当制度・・・一定品目の輸入総量を 決定し,一定基準に従って国別に割当てる。. 財政の実施は,相次ぐ赤字公債発行によるインフ レ政策にもかわらず,悪性インフレへの転化を回. ② 輸入許可制度・・・特定商品の輸入に際. 避しつつ景気を回復させ,他方巨額の軍事費の散. し,あらかじめ政府の許可を得る。. 布は軍および関連重化学工業を刺激し,1932(昭. ③ 為替管理・・・(南米の場合)外国為替委 員会が輸出入為替取引を管掌し,相手国との 貿易関係を考慮して為替許可に制限を与え る。 (ギリシャ・ルーマニアの場合)為替許可願 いを自国への輸出額または一定額に制限。 (ドイツの場合)外国に与える輸出為替の総. 和7)年下期には同工業を中心に景気回復をもた らせたとされる。. そしてこの景気回復は,軍備拡張と軍需生産の 拡大に依拠したもので,これによって綿を主とし た軽工業中心の従来の日本産業構造を大きく変化 させ,重工業中心へと転換させたという。 こうして輸出の躍進と赤字国債の発行による財. 額をあらかじめ決定し,各国別に割当額を分. 政の膨張は産業界を活気づかせ,日本は1933(昭. 配。. 和8)年ごろに世界恐慌以前の生産水準を回復し,. こうして結局自由貿易は崩壊の道を歩むことに なっ7,〈. 世界に先駆けて恐慌を脱したという(30)。 こうして日本は景気を回復し輸出も好調となっ. たが,まだ恐慌に苦しんでいた世界各国は日本商 4.日本経済のブロック化とその後 世界恐慌の影響による昭和恐慌という経済困難. 品の進出を防御する手段をとるようになった。諸 国は自然の成り行きとして,まず関碗引き上げに 向った。関税引き上げ当初,各国商品に平等に課. の中で,その解決に立ち向かったのが犬養内閣の. され,日本だけが特に著しく不利な立場におかれ. 蔵相高橋是清であった。彼は就任と同時に次のよ. たわけではなかったという。ところが,日本の輸. うに声明したという(29)。. 出攻勢が激しくなると,これに対して各国の関税. 我国は最近の金解禁以来財政経済供に極度の行詰りを. 手段が日本をターゲットに個別化し,いちじるし. 来し歳入は激減し歳計の一大不衡を招き産業は萎靡沈滞. く差別的となり,日本商品圧迫の運動が激化した. し前途好転の兆しを望むこと能わざるに至れり,正貨の. という。. 流出相ぎ財界は更に深刻なる打撃を被り殊に金利の騰貴, 金融の榎塞に因り此の俵推移するに於いては誠に寒心に 堪えざるものあり,従って時局を匡赦する為にも金の輸. 各国の対日関親政策を概観すると次のようで あったという。 中国。1931年関親政策を保護手段として関税引. 出禁止を行ふ根本の政策とせざるを得ず,是政府が組閣. き上げを採用したが,これは日本にとって予想さ. の努頭に於て金輸出禁止令を発布するに至れる所以なり。. れたもので,やや不利になったものの大きな影響. 中村隆英によれば,高橋財政は三本柱があった. はなかったといわれる。それよりも影響を受けた. という(30)。すなわち,①金輸出を禁止した結果. のは,この年の9月に起こった満州事変を契機と. として為替レートが下がり出すが,自然に落ち着. した中国全土に広がった日本商品ボイコット運動. くのを待つ,②低金利政策,③財政支H。. であったとされる。これは日本との経済関係を解. この高橋による恐慌脱出のメカニズムは赤字公. 22. 消しようとするものであったとされる。.
(12) 昭和初期経済史の研究. 英連邦。1932年7月には,既述のように,オタ ワ会議が開催され,英連邦経済ブロックが形成さ. に,もう少し具体的にみておこう(31)。. 英連邦領のカナダは,1846年,英国から関税自. れた。連邦構成各国は,連邦国と非連邦国で関碗. 主権を獲得し,1906年の日加通商条約より日本と. 率が異なる二重関税制度を設け保護主義政策をと. の貿易を開始。1929年まで順調に拡大したが,カ. るようになった。先ずカナダの関脱が大幅に上げ. ナダにとって最大の貿易相国は米国と英連邦で. られた。公定価格ダンピング脱をもうけ,これの. あった。米国のスムート・ホーレイ法に基づいて. 日本商品への関税率は最高で193%にのぼった。. カナダ製品,特に農産物に高率関税をかけたこと. これで日加間貿易は壊滅状態とされたという。. がカナダ経済にとって最悪の状態になった。その. ついでインドも綿布輸入関碗の差別的引き上げ. 結果,対米貿易で痛手を受けたカナダは,以前に. を実施,翌年4月には日印通商条約を破棄した。. も増して英連邦を頼りにその関係を強化し,厳し. これによって日印間の貿易ルールが失われた。そ. く輸入制限と保護主義へと傾斜していった。非英. して6月インドは対日綿布関脱率を再び引き上げ. 連邦諸国への関脱引き上げの実施であるこうした. 75%とした。この時英国製品への関税は25%のま. 動きが対日貿易に大きな影響を与えることになっ. まであった。こうして高関税にもかかわらずイン. たのである。. ド市場で45%ものシェアーを占めていた日本綿製 品は駆逐されていった。. 豪州も,オタワ協定にもとづき二重関我利度を 設け,英連邦特恵をカナダ,ニュージーランド,. 日本はカナダに対し通商交渉をするが,交渉は 決裂した。日本がついに1935年通商擁護法を発動 したのに対し,カナダが報復的に日本輸出品に一 律に従価33%3分の1の附加税を設定した。. ニューギニア,ノーフォーク,英植民地及び英支. 次に日本とインドの貿易関係を見てみる。オタ. 配下にある諸地域に広げた。一方,日本商品にか. ワ協定後,インド政府は英国から連邦特恵を拡大. ける関税はカナダより高率とされた。. するように要請され,その特恵税を日本の160品. オランダ。1933年一般関税制度を改定し緊急輸 入制限法を実施した。蘭領東インド(インドネシ ア)との関係は後述の通りである。. 目すべてにかけた。 特に綿布に関して見ると,既述のように,イン. ドは突如として,1933年4月12日,日印通商条約. その他。5月には南米エクアドルが日本の綿布,. 廃棄を通告してきた。同年6月6日イギリス製品. 絹,レイヨン,ニット製品の輸入を一時禁止した。. 以外の綿布に対して7割5分と,ほとんど輸入禁. 同月,エクアドルは日本の綿布,絹,レイヨン,. 止的高閲碗を設定した。このようなインドの禁止. ニット製品の一時禁止。この月は南米のハイチも. 的な関税引き上げに対して,日本の紡績業者の団. 日本製品への関税引き上げている。. 体大日本紡績連合会はただちに8日,印度綿不買. 9月にはキューバが関税を引き上げ,10月には,. 断行を決議してこれに対抗し,まず横浜貿易協会. コロンビア,ペルー,が相次いで日本との通商条. が,報復関碗によって対抗する旨の声明を発表し. 約を破棄した。11月にはウルグアイが日本商品に. た。他方商工省も,19日,日印通商条約廃棄対策. 対する輸入規制と外国為替管を実施した。そして. の官民懇談会を開催して前後処置について協議を. 1935年1月には,キューバは日本との通商条約を. した。その後,9月からシムラ,のちにニューデ. 破棄,2月にはグアテマラが日本に高率碗を適用. リーで日印会商が開催され,翌9年1月に日印通. した。7月にはエジプトが日本との通商暫定取り. 商協定綱要の合意が成立し,7月には日印新通商. 決めを破棄し,9月には日本商品に対する付加関. 条約が調印された。協定では,日本綿布輸出をイ. 税を実施した。. ンド綿花輸入とリンクさせて輸出数量を制限する. こうした日本に対する経済封鎖とこれに対する. 日本側の対応の実状を,池田美智子の分析をもと. のとひきかえに綿布関脱50%へ引き下げることが 定められた。これは実質的に物々交換であった。. 23.
(13) 辻 修二・安藤. 豊. オーストラリアとの場合は,わが国は著しく輸. 一方,中国からの輸入は日本の総輸入の約11∼. 入超過を示し,この貿易不均衡を調整し通商協定. 12.5%を占めていた。日本は1918年を除いて毎年,. を成立させようとする日豪会商が,すでに1935年. 中国貿易に出超を記録し,その額は1920年以後,. 1月以来両国に継続されていたが,翌1936年4月. 著しく増していた。この対中貿易の黒字が,日本. に豪州は新たに関税引き上げと数量統制を計画,. の対欧先進工業国諸国の貿易収支の赤字横和に役. 協調的態度を棄てた。5月豪州は突如綿布及び人. 立った。1926年だけでも,日本の貿易収支は3億. 絹布の禁止的関税の引き上げ,綿布人絹布を含む. 2900万ドルの赤字であったが,中国貿易の黒字は. 86品目に対する輸入許可制を発表。6月,ついに. 8500万ドルにのぼっていた。. 日本は通商擁護法を発動した。日豪は同年12月通. さて,日本の中国向け輸出が低下した理由は,. 商協定を締結し,双方の貿易禁止的処置を撤廃し. 既述のように,関親政策にも理由を求めることが. たが,以降両国の貿易量は減少していった。. できるが,ボイコット運動が決定的であったとい. 蘭領東インドは,中国と英領インドに次いで当 時の日本の工製品輸出に重大な役割を果たした市. えよう。. 対日ボイコット連動は,日本の二十一力条要求. 場であった。日本からの蘭領東インド向け輸出は,. の最後通牒を中国政府がのんだ後から活発になっ. 1922年日蘭通商条約いらい増加し続けてきたが,. た。中国は日本の要求を受け入れたことを民族的. 第一次世界大戦中に大きく前進していた。この間,. 屈辱と感じ,自国の権利と経済的利益を侵害され. オランダ本国からの輸入が1913年の33.3%から. たと受け止めた。無論その陰にはコミンテルン・. 1932年の15.8%へと半減以下となった反面,日本. 中国共産党の系統的工作が想定されよう。. からのそれが1.6%から21.3%に増加し,日本は 蘭領東インドの最大の輸入国となっていた。. しかし恐慌以降,自由貿易政策を捨てた宗主国. こうして日本は,1926(昭和元)年以降ボイコッ. ト運動により対中貿易量は激減し,実質的には中 国大陸市場から追出されていたのである。その代. オランダは,付加関税を50%に引き上げる法案を. 替えを日本は,高関税障壁に苦しみながら,米国. 議会に提出したり,既述のように1933年3月には. 市場をはじめとして,対日規制が厳しい市場から. 緊急輸入制限法の立法化を実施するなどしたた. 横やかな別の市場へと,いわば貿易の焦点をはず. め,日本は大打撃を受けることとなった。. しながら通商を続けていたのである。. このようなブロック経済政策による高閲碗障壁. このように大陸での日本の軍事行動は経済的利. に跳ね返された日本は,その後貿易摩擦の可能性. 害関係と連動していなかったのである。もっとも. が少ないと思われた国を求めて,ラテン・アメリ. 軍需の拡大にともなう国内市場の拡大が好景気に. カにたどり着いた。ここで日本商品は価格の安さ. 寄与したとはいえる。. と高品質で,極めて強い需要を引き出した。そし. 以上,具体的に見てきた。このような対日経済. てラテン・アメリカ向け輸出は1935年にピークを. 封鎖に対して日本が反撃できたのはカナダとオー. 迎えたが,宗主国が主導した日本商品の輸入に対. ストラリアとの交渉でみられた通商擁護法の発動. する厳しい規制と差別待遇が加わり,これらの. だけであったことがわかる。もともと近代日本は. 国々への輸出の好調は短命に終わった。. 国土的地理的条件から貿易立国を国是とせざるを 得ず,自由貿易に反する貿易政策は,いわば自縄. さてこの時期一般に,日本の中国対立進出と経 済的利益との間に相関があったと論じられること. が多いが,それは不正確な認識であることに触れ ておく。 中国は当時,日本の総輸出の約20%を吸収し,. 24. 自縛となり,原理的にこれを採用できなかったの である。. これに比しイギリスなど先進国は,本国と植民 地で排他的なブロック経済圏をつくり,輸入の割 当てや高率の関税による保護貿易政策をとった。.
(14) 昭和初期経済史の研究. そして日本に対して「ソーシァル・ダンピング」. を唱え,高関税障壁により市場から閉め出す行動 に出たのである。 その急先鋒が,アジアに植民地を有し,世界の. は輸入剖宛乃至禁止其の他の差別的論拠である。 つづけて高橋は,ダンピング論の中心論点である. 低賃金問題について次のように反論していた(34)。 もともと,日本の労働条件が欧米に比して少なからず. 金融の中心の座を第一次大戦後アメリカに譲った. 低劣であるということは厳然たる事実だ一彼等の譲るが. イギリスであったといえる。. 如くそれ程ヒドク低劣ではないが−。就中,欧米と東洋. しかし皮肉なことに,世界恐慌により世界的に. との問に非常な差異がある。然るに,日本の労働条件が,. 原料価格が暴落し,またブロックは逆に原料販路. 欧米に比し現に少なからず低劣であるわけは,かかる不. を狭めそれが滞貨する事態を生むようになった。. 当に低条件と云うが如き性質のものではなく,現在の我. このため日本は綿花などの原料を安価に仕入れる. が経済の根本そのものに,低労働条件を必然ならしめて. ことができるようになり,したがって安価な製品. いる一資本主義的意味に於て一内外経済事情が厳存して. を世界に提供できるようになったのである。. いることに基因している。就中,此の際,欧米人の注目. こうした条件と後に述べる高橋財政が相侯って. を特に喚起することを要することは,我が労働条件低劣. 日本は輸出攻勢と景気回復に転じるようになっ. の大部分の根因は,欧米自らの責任に属するものだ,と. た。このことができた要因について,高橋亀吉は. 云うことだ。何となれば,我が低労働条件の最も根幹的. 次のように説明している(32)。. 原因は,H資源貧弱,人口過剰なるにも拘わらず,白人. わが財界は,世界恐慌の最悪期(1931年9月から1932. 種は世界の豊富なる資源と広大なる土地とを独占し,か. 年中)の打撃については,その部分を積極的な苦痛増大. つ口本人の移民其の他を禁止していること,及び⊂)口本. の形において,すなわち,物価の一層の惨落等の形にお. 商品に高関税其の他の庄力を加えていること,此の二つ. いて,それを感ずることなくしてすんだ‥・そして,. に在るのである。. 1932年以降においては,世界各国が,恐慌のブリ返しで, 最も激しく痛めつけられているさ中において,日本は円. 我が低労働条件を非難するからには,彼等は先ず,か. かる根因を除去すべきが本筋である。. 為替低落(満州変によって激成された)という波に乗って, 世界恐慌のわが経済に斎らした相対的有利を収穫し,恐. ところで日本政府は当初ブロック経済を考え. 慌からの国内経済の立ち直りを世界中最も早く達成し,. ず,あくまでも自由貿易の立場を採ろうとしてい. 進んで輸出の世界進出の機会を掴むに至った。第三は,. たようである。これは先に述べたように,貿易立. 当時の日本経済は,世界恐慌による物価の暴落に応じて. 国は日本の生存条件であることからもわかろう。. コストを引き下げて,これを再均衡化する弾力性におい. しかし,やがてそれは大きく変わっていく。満. て,他の諸工業国に比し少なからず有利な基本事情にあっ. 州国の成立によってこれでの日本は日浦ブロック. た。. へと拡張をとげた。ここに日本は,旧来の朝鮮・. そしていわゆる欧米の「ソシヤル・ダンピング. 論」を次のように批判していた(33)。 日本商品の世界的一大進出の根因は,云う迄もなく,. 台湾に加えて「満州国」という新たな商品市場,. 資源供給地そして資本投資地を拡大した。それは 日本の国力の伸張の結果であるとともに,世界経. その品質に於き遜色なきにも拘らず一否戎場合にはヨリ. 済の統一性の解体が日本経済に強いた結果でも. 優秀でさえあるにも拘わらず一他に比してその価格が驚. あった。「日浦ブロック」は通貨制皮・決済機構. くべき至廉だと云うことにある。事実,日本商品の一大. における「円」の支配を通じて,さらに「大亜共. 進出に悩める欧米諸国,就中,英国は,特に,日貨排斥. 栄圏」へとつながった。. の理由を見いだしているのである。果たして然からば,. 高橋亀吉によると,満州事変に対する国論は,. かかるソシヤル・ンビングと云う日本の不当競争に対抗. はじめ関東軍の方策に圧倒的に反対であったが,. するため,各国は,日本商品に対し,或いは高関税戎い. 翌1932年8月,オタワ特恵関碗協定が成立し,英. 25.
(15) 辻 修二・安藤. 豊. 帝国のブロック経済政策が露骨に推進されるよう. して満州興業銀行を設立,また日本農村の過剰人. になると,世界のブロック経済体制への対抗上,. 口圧力の横和と「満州国」治安維持の協力という. 満州進出も余儀なしとする国論が俄然強大になっ. 一石二鳥をねらって,「満州」への農業移民が1932. たと指摘している。このことは1935年5月帝国議 会特別議会での広田内閣当時の外務大臣有田八郎 の演説からもうかがうことができよう(35)。 国際貿易の現状を観察致しますに,諸外国に於きまし. (昭和7)年から本格的に推進された。 他方,「満州」経済建設計画は,早くから関東 軍特務部と満鉄経盲斉調査会との協力により推進さ. れてきたが,1933(昭和8)3月には「満州国経. ては,或いは諸種の口実を設けて外国の生産品の排斥を. 済建設綱要」が発表され,統制経済の基本方針計. 企図し,或いは数国間に所謂経済ブロックを結成致しま. 画要綱が示された。日本政府はこれに対応して. して,経済的武装を固めんするの趨勢,愈々顕著となり. 1934年3月には「日満経済統制方策要綱」を作成. つつあるのであります。斯かる趨勢を放置するに於いて. し,「日満経済ブロック」を打ちだし「日満経済. は,世界史的経済不況は益々深刻化し,究極に於いて世. 共同委員会」を発足させた。. 界貿易の萎縮,延ては人類経済生活の退嬰を招来するに. その後,日中戦争期になって華北経済圏を併合. 到りますが故に帝国政府に於きましては,機会ある毎に. した形で円ブロックが形成された結果,日本の貿. 各国に対し此の種経済的武装の撤廃こそ,真に世界的経. 易構造は,外貨決済を伴わない対円ブロック内貿. 済不況を打開し,民族の共存共栄に資し,世界平和に寄. 易と外貨決済を伴う対第三国貿易との二局面に分. 与する所以である旨を強調しきったのであります。. 断され,第三国貿易での入超を円ブロック地域へ. このように有田は日本が,外国との通商を必要. の出超で相殺していた従来の構造が崩壊する結果. とする国であることを自覚し,世界で進みつつあ. となった。したがって円ブロック向け輸出は増加. る排他的な貿易環境を変えることによって,世界. 傾向を続けても,その輸出は外貨不足に制約され. 的不況を克服できるという見解を外相として明ら. て制限されざるをないこととなり,相次ぐ輸出制. かにしている。. 限の結果,満州や中国占領地では物資が欠乏し,. 高橋も次のように解説していた。 しかし,各国の特恵関税制,及び各種の直接的貿易制. 物価騰貴が激化する結果となった。 さて,後回しとなったが,日本は「満蒙は日本. 限に直面して,輸出の一大頓挫に直面するに至り,ここ. の生命線」,「満蒙の危機」をスローガンに,1931. にそれとの対抗上,後馳せに,かつ,受動的に,輸出入. 年満州事変を起こし,全満州を占領し満州国をつ. の割当制求償貿易制度,ブロック経済偏護政策等の採用. くりあげた。これに対し中国は日本の侵略行為で. を余儀なくされた。日,満,華の経済ブロックの必要性. あるとして国際連盟に碇訴した。世界は恐慌対策. を認めしめ,またこの程済ブロックを作るためには,九カ. で身動きがとれずにいたが,連盟はリットン調査. 国条約にいわゆ門戸開放,機会均等ということは,その. 団を派遣し,その報告を受け満州国の不承認を決. まま無条件にこれを認めえないと考えしめるに至った。. 議した。その後,関東軍はさらに華北地方も影響. 日満ブロック形成とは,満鉄を包囲していた中. 下におこうと華北分離工作をおこなっていった。. 国側鉄道の接収・軍事的な新線建設・北浦鉄道の. 1937年7月北京近郊の庭清聴で日中両軍が軍事. ソ連からの買収(1935年)などにより,「満州」. 衝突した。当初日本政府は不介入方針を声明した。. 全土の鉄道を満鉄のもとに統一し,また満州事変. それは日華事変の処理による満支ブロック経済の. 勃発直後より行われていたが,東三省官銀号など. 確立を急務と考えていたからとされる。しかし,. を接収して金融機構を掌握し官銀号保有銀を基礎. 中国側においては国共合作が成立して抗日戦線の. として満州中央銀行を設立し(32年6月),満銀. 形成を背景に,通州事変,第二次上海事変がおき,. 券を発行して幣制統一事業を進めることであっ. 8月15日に蒋介石が全国動員令を発令,口中両軍. た。そして1936年12月には,在滴朝鮮銀行を改偏. は全面戦争となり,戦争は長期戦に持ち込まれる. 26.
(16) 昭和初期経済史の研究. 状況となった。この戦争の遂行の過程で日本は,. 慌の影響を受けスターリングブロックを形成し乗. さらにブロック圏を南方に拡大して,その資源の. り切った。さらに日本は戦争(満州事変)を起こ. 獲得をはかる体制を整える必要があると考えた。. し大陸への侵出で切り抜けようとした」と。. そして,それがますます促進される形勢となった. そうではなく,グローバルに経済横断的なつな. のは,中国国民党支援に回ったアメリカが1939年. がりを把握しなければ,当時の世界の趨勢が見え. (昭和14)年7月日米通商条約破棄を通告,翌1940. てこないのである。. 年6月工作機械の対輸出を禁止し,次いで同年9. ところで,現在の高等学校の地歴科は世界史が. 月,日独伊三国同盟の成立をみると屑鉄輸出の禁. 必修であり,日本史は地理との選択である。従っ. 止という強圧政策をとり,このため従来海外資源. て,日本史を学ばずに,卒業する生徒も多数いる。. に依存した日本経済は,いかに国内統制を強化し. だからこそ,世界史では,特に近現代は,世界の. ても戦争の遂行が不可能な事態となった。そこで. 動きばかりではなく,世界と日本の関わりをしっ. 日本は1941(昭和16)年8月仏領インドシナへ進. かりと取り上げなければならないし,日本史では. 駐を開始したが,その前後からアメリカ,カナダ,. 世界史の知識を生かし世界との動きを見ながら学. イギリス,オランダは日本の資産を凍結し,経済. ばなければならないと思う。. 制裁強化の措置をとった。そこで,近衛内閣は日. さて,本稿を通して明らかになったことは,日. 米交渉により局面打開に努めたが,アメリカの意. 本経済には第一次世界大戦以降恐慌が連続して起. 図的妨害により不成功となった。そして近衛の辞. こったが,その中で銀行の抱える不良債権問題が. 任によって首相となった東条英機内閣がハル・. 大きく関わっていたこと,金解禁は日本だけの国. ノートをうけ日米開戦に追い込まれ,12月8日真. 内的な問題ではなく第一次世界大戦後の世界経済. 珠湾攻撃を実施,大東亜戦争に突入したのであっ. との関わりが大きな要因であったこと,世界恐慌. た(36)。. により世界経済はブロック化に向かうがイギリス. の動きではオタワ会議が,アメリカの動きではス ムート・ホーレイ法が大きなポイントになること おわりに 一成果と今後の課題一 を再認識したことなどである。また,恐慌から日. 本論文では,現行の高等学校学習指導要領に照. 本はいち早く立ち直ったが,しかし先進諸外国か. らし合わせ,現行の世界史,日本史の教科書の近. らのダンピング攻撃,高関税攻撃によって世界各. 現代史の記述内容が不備であり,その記述内容を. 地に市場を求め彷但したこと,そして,貿易に行. 改善する必要があるとの問題意識から,世界史的. き詰まり,日本もブロック化への模索を余儀なく. な視野から,昭和初期の経済史を再構成するため. されたことを明らかにすることができた。. の基本的作業を行った。. 近現代史は経済的な要因に比重をおかなければ. この点で特に,. 満州事変が経済的逼迫と直接的. に結びついていた動因ではなかったこと,さらに,. 理解しがたい部分が多い。その顕著な時代が今回. 日中戦争は経済的困難の解消としては説明ができ. 取り上げた時代である。一国のみの通史や,世界. ないことを指摘できた。. を地域個別的に分断した記述内容や,政治史中心. 満州事変は,たしかに中国での反日運動を激化. の事象羅列だけでは,世界の動きも日本の動きも. させたし,アメリカにおいても日本への批判が強. 容易に掴めないことが指摘できる。. まり,経済的には日本商品への風当たりを強くし. 例えば,次のように個別事象を羅列した記述で. た。他方,当時の日本が目指していたものは,外. は,到底当時の複雑な国際関係は理解できないだ. 交では国際協調であったし,経済面では自由貿易. ろう。「世界恐慌からアメリカはニューディール. 体制を維持することであった。戦争により経済状. 政策などにより立ち直った。また,イギリスは恐. 態が改善されるというのは短絡的であろう。. 27.
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