• 検索結果がありません。

事物知覚における「付帯現前化」に見られる「他者」の契機

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "事物知覚における「付帯現前化」に見られる「他者」の契機"

Copied!
13
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)Title. 事物知覚における「付帯現前化」に見られる「他者」の契機. Author(s). 千葉, 胤久. Citation. 現象学年報, 15: 237-248. Issue Date. 1999-10. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/1777. Rights. 日本現象学会. Hokkaido University of Education.

(2) 事物知覚における﹁付帯現前化﹂. 晩年のフッサールは﹁超越論的に共に機能している他者﹂. に見られる﹁他者﹂. の契機. 千 葉 胤 久. である。. ある。だが、本稿が取り上げるのほ、もうひとつの付帯現. について語り、﹁対象として構成される老﹂としての﹁他者﹂ 前化、すなわち﹁事物知覚における付帯現前化﹂ ではなく、﹁共に構成する老﹂として校能する﹁他者﹂を問. ではなく、﹁事物知覚における付帯現前化﹂を論ずるのかと. まず、第一節では、なぜ﹁他者経験における付帯現前化﹂ いう点を二つの. 題にするようになる。超越論的次元において自他は﹁共に. て明らかにしていこう。. 二つの付帯現前化. ﹁付帯現前化﹂概念の簡単な整理もふくめ. この自他の超越論的な共機能とはどのようなものなのであ. 一. 構成する老﹂として機能しているというわけである。だが、 ろうか。この自他が﹁超越論的に共に機能している﹂とい ぅ事態を具体的に把握することが本稿の目的である。ここ. を知覚しているとき、意識されているのは見えている表面. 前化がある。事物知覚における付帯現前化とは、ある事物. 者経験における付帯現前化﹂という異なった二つの付帯現. 付帯現前化には、﹁事物知覚における付帯現前化﹂と﹁他. では、フッサールにおける﹁付帯現前化︵Appr訝entatiOn︶﹂. 概念を再検討することを通じて、自他の共機能という事態 の問題を扱う際に主. を具体的に把握するという作業を進めていきたい。 通常、フッサールにおける﹁他者﹂. 題的に論じられるのは、﹁他者経験における付帯現前化﹂で. 事物知覚における「付帯現前化」に見られる「他者」の契機. 237.

(3) だけではなく、見えていない裏面もまたある程度予測可能. とは決して︵論理的に︶できない。自分の頭が痛ければそ. はできるけれども、その他人の頭痛を自分の頭で感じるこ. 帯現前化を際だたせることは、他者の問題を考えるにあ. 確かに、両者の間にこのような相違を指摘し、後者の付. 痛とは言えないからである。. れは自分の頭痛と呼ばゎはならないのであって、他人の頭. なかたちでともに意識されているという事態を指してい る。 一方、他者経験における付帯現前化とは、要するに、目 の前のある物体を見て、それが単なる物ではなく、他人で あると把握する働きのことであるが、物体の現在化、現前. 要な意味を持つと言えるであろう。実際、﹃デカルト的省察﹄. 化︵Pr訝entatiOn︶という本来的な自体能与と結びついて、 たって、ある種の自他の非対称性を指摘したものとして重. でのフッサール自身も他者の問題に関しては後者の付帯現. 前化を主な考察の対象としている。しかし、自他の共機能. ることで他我として把握することである。 こうした二つの付帯現前化の間の相違点として、﹃デカル. の内実を求めるわれわれが目を向けるべきは、むしろ前者. その現前している物体に私の自我・身体の意味を移し入れ. ト的省察﹄ においては、以下のことが挙げられている。事. で見ていくことにしよう。. 物知覚における付帯現前化は、﹁第一次的自然︵primOrdia−eの付帯現前化のはうである。このように言える理由を以下 Natur︶ の構成にすでに参加している﹂︵Hua−㍍﹂∽豊付. 相互主観性としてのみそれが現にあるところのもの、つま. 周知のように、﹃危機﹄においてフッサールは﹁主観性は. り構成的に機能する自我である﹂︵HuaくH㍍﹂謡︶と述べ. 帯現前化であり、﹁それに対応する現前化によって充実さ のに対して、他者経験における付帯現前化には、現前化に. れ、確証されるという可能性が含まれている﹂ものである. のであるが、この観点からすれは、他者経験だけが共構成. 的であるわけではなく、事物知覚というひとつの構成︵事. ている。これは構成がつねに共構成であることを述べたも. も裏へ回ることさえできるならば、今度はその裏面が表面. して考察される必要がある、ということになる。. 物構成︶もまた、当然ながら、共構成的であり、共構成と. よって充実される可能性がアプリオリに排除されていると. になるので、それを実際に見ることほ可能である。これに. いう点が挙げられている。例えば、いま見えていない裏面. 対して、他人が頭痛で苦しんでいるのを見て同情すること. 238.

(4) であるがゆえに、他. 経験﹂がつねにすでに含蓄されているということである。. は、他者経験だけを特に優先して考察すべき理由はないの. だとするならば、﹁構成するもの﹂としての他者を問う際に. 他者経験は﹁他者を経験すること﹂ れたもの﹂であるにしても、結局は﹁経験されたもの﹂﹁構. 者経験の分析において他者は、﹁構成するものとして構成さ. よって、﹁︵共に︶構成するもの﹂としての他者という側面. ﹁構成されたもの﹂としての他者が前面に出てくることに. することができると言える。逆に、もし事物知覚のうちに. て、自他の共機能の有様の、少なくともひとつは明らかに. のように見て取ることができるかを問題とすることによっ. であり、事物知覚のうちに他の超越論的主観性の機能をど. が隠蔽されてしまうおそれがある。そして、もし、そのよ. であれば、超越論的主観性はそもそも相互主観的であると. は自他の共機能的事態を見て取ることはできないというの. 成されたもの﹂として考察されるわけであり、このように. している経験・構成﹂と捉えるのみであるならば、それは. は言えないということになってしまうであろう。. うに他者を構成する他者経験・他者構成を単に﹁私が遂行 ﹁構成とはつねに共構成である﹂とする立場とは相容れな. サールが、﹁モナドの共同化﹂といった表現にも見られるよ. このように見てくると、﹃デカルト的省察﹄においてフッ. うに共構成的事態を視野に入れているにもかかわらず、な. い態度であり、そのことは、﹁共に構成するもの﹂としての ろう。他者経験の分析を自他の共構成の問題として考察す. 他者を考察の視野から完全に追放することにつながるであ. ぜ事物知覚の分析に﹁他者﹂. の契機を積極的に見て取ろう. としなかったのかということが疑問として生じてくる。だ. ﹁私がしている経験﹂. る場合には、その他老経験を素朴に. が、その理由はある意味で単純である。というのも、﹃デカ. において﹁第一次的﹂という語に与えられた. と断定してしまう思いこみへの、いわば﹁エポケー﹂が必. ルト的省察﹄. 要なのである。 いずれにしても、自他の共枚能を具体的に把握するとい. 規定によって、事物知覚がそこに属する﹁第一次的自然の. において﹁第一次的﹂. ︵primOrdia−︶とは﹁自己固有的﹂︵eige邑eit−ich︶の別名. であり、 るからである。﹃デカルト的省察﹄. であるよりも、 構成﹂からは、そもそも﹁他者﹂が方法的に排除されてい ﹁他者の経験﹂. ﹁他者の経験﹂. う課題を果たすために問題とされるべきは、﹁︵私が︶他者. を経験すること﹂としての. ﹁他者がしている経験﹂としての. ﹁私がしている経験﹂そのもののうちに﹁他者がしている. 事物知覚における「付帯現前化」に見られる「他者」の契校. 239.

(5) なのである。. 性的であること﹂とを同一視することができないとしたな. 側面が含まれているならば、事情は異なってくる。したがっ. のなかに自己固有ならざる. て、﹁自己固有的であること﹂と﹁感性的であること﹂とを. らば、つまり﹁感性的なもの﹂. る﹁第一次的自然﹂を果たして自己固有なものと言いきる. 同一視することが妥当なことかどうか、つまり、感性的自. 問題は、事物知覚や、事物知覚がその構成に関わってい ことができるのか、ということである。別な言い方をすれ. 然は単に自己固有なものであるのか、それともそうではな. いのか、あるいはそこには自己固有な側面と非自己固有な. ︵1︶. 不徹底なのではないか、と言うこともできる。超越論的主. ば、﹃デカルト的省察﹄における自己固有なものへの還元は 観性はつねに超越論的相互主観性であるということを堅持. 側面との双方が同時に認められるのかということが問題と. 超越論的主観性はつねに超越論的相互主観性であり、構. なる。. しょうとするならば、自他の共構成は﹁第一次的自然の構 の次元にも関与しているものでなければならない。確. かに、﹃デカルト的省察﹄における﹁第一次的自然﹂の概念. 成﹂. 成はつねに共構成であるとする立場からは、感性的自然と. 面が認められると言わねばならない。では、感性的なもの、. 上、感性的自然のうちに自己固有な側面と非自己固有な側. ﹁自己固有的﹂と 自己固有的自然とを単純に同一視することはできない以. 規定に忠実であろうとするならば、このように言うことは ﹁第一次的﹂とは. あるいほ事物知覚のうちに見られる非自己固有な面とは一. いうことを意味しているからである。しかし、﹁第一次的自. 奇異に響く。そこでは 然﹂. 体何であろうか。. の概念は多義的であるということに注意すべきであろ. う。﹁第一次的自然﹂には﹁自己固有的自然﹂という意味の. 事物知覚の構造. の、すなわち﹁他者﹂. の契機を見出すための準備作業とし. 事物知覚における付帯現前化に見られる非自己固有なも. 〓. はかに、事物知覚が第一次的自然の構成として取り上げら れていることからもわかるように、﹁感性的自然﹂といった. ルのように、﹁第一次性﹂を﹁自己固有性﹂と同一視して見. 意味も含まれている。﹃デカルト的省察﹄におけるフッサー. るならば、そのときには確かにそこに他者の契機を見て取 ることはできない。しかし、﹁自己固有的であること﹂と﹁感. 240.

(6) 知覚それ自体にもどって、そこに見られる構造を簡単に確. て、ここではまず、付帯現前化を構造契機として含む事物. は、﹁非本来的現出﹂とその﹁非本来性﹂をどのように把握. こうした事物知覚の構造に関してここで問題にしたいの. 外的事物の知覚は、あくまであるひとつの事物を志向し. 視しているので、この非本来性をも自己固有性として理解. のフッサールは、感性的自然全体を自己固有なものと同一. するべきであるかということである。﹃デカルト的省察﹄で. ているのであって、その事物のそのつどの現出ないしは射. することになるであろう。そして、そのように解釈するの. 認しておこう。. 映を志向しているわけではない。したがって知覚の際には、. は確かに一般的であり、地平といった事柄を誰かに説明す. ︵2︶. そのつどの現出・射映のみならず、それを越えて、非現前. 現出する前面より以上のものである。知覚の全体ほ、構造. けれはならない。知覚される事物は厳密な意味で知覚され. らも、そこから一歩進まねばならないであろう。もし﹁非. 張しようとする場合には、そのような理解をもとにしなが. 論的相互主観性であること、構成が共構成であることを主. 的︵abwesend︶なアスペクトをも共に志向しているのでる な場合には有効でもある。しかし、超越論的主観性が超越. 上は本来的な現出︵見える表面の見え︶と非本来的な現出. 本来性﹂をも自己固有的なものとして解釈するならば、そ. ﹁私の. ︵見えない裏面の﹁見え﹂︶に分かれるが、ある意味では﹁見. uneigent−iche見E cい he ・けであることを意味し、事物知覚が なr しsて るiだ. れは、事物知覚を自己固有の知覚、つまり﹁私の知覚﹂と und. えない裏面﹂も﹁知覚﹂されているのであり、﹁本来的現出 と非本来的現出︵eigent−iche. nung︶は分離されたものではなく、広い意味での現出にお 知覚﹂として考察されただけに終わってしまうからである。. それに終始することは、結局、事物知覚に共構成的事態は のである。知覚. いて統一されている﹂︵Hua舛くー﹀S.g︶. ひとつの知覚において融合している。知覚は、現前化と付. 固有的﹂であると言わざるをえない一面があるということ. 来的﹂なものだけであり、﹁非本来的﹂なものにほ﹁非自己. われわれに必要なのは、﹁自己固有的﹂と言えるのは、﹁本. 認められないということを容認することにしかならない。. 帯現前化という両者の分裂とその共働において、﹁ひとつの. を、その根拠とともに論ずることであろう。﹁非本来性﹂を. であり、見える面の現前化と見えない面の付帯現前化とは. は、本来的現出と非本来的現出という分裂を含んだ統一態. 事物の知覚﹂として成立しているということができる。. 事物知覚における「付帯現前化」に見られる「他者」の契機. 241.

(7) 物知覚における付帯現前化は、想起という過去意識でもな ければ、予期という未来意識でもなく、また想像という虚. ﹁非自己固有性﹂として捉え直すべきであるということ、にも同様の問題がある。﹁準現在化﹂と言えばふつうは﹁想 起・予期・想像﹂を思い浮かべるが、付帯現前化はこれら のいずれとも異なる﹁知覚﹂の構成契機だからである。事. この点 を 次 節 で は 見 て い く こ と に し よ う 。 tニ ﹁ここから﹂と﹁そこから﹂. ことのない虚構的意識であるのに対して、付帯現前化は現 にした い 。 第一節において事物知覚における付帯現前化を説明した 実に存在する﹁裏面﹂に関するものであるという相違が指 摘できる。以上で確認できたのは、付帯現前化は﹁かつて 際、﹁予測可能なかたちでともに意識されていること﹂とい う表現を使用したが、この表現には若干の問題があること のもの﹂や﹁将来のもの﹂や﹁虚構的なもの﹂ へ向かう意 を認めねばならない。付帯現前化が﹁予期﹂という﹁準現 識ではなく、﹁いま現在、現実にあるものへの意識﹂である 在化﹂を意味しているものと誤解されるおそれがあるから という点であり、﹁現在的﹂と﹁現実的﹂という二つの性質 をもつということである。 である。﹃デカルト的省察﹄においてフッサールは付帯現前 化を﹁準現在化﹂と呼んでいるが、﹁準現在化﹂と呼ぶこと また、想起などが主題的意識であるのに対して、付帯現. 他の意識作用との相違を吟味するという仕方で明らかにし 異なっていると言うことができる。そして、想像に対して ていき、そのことを通じて、この課題を果たしていくこと は、想像が想像されたものを客観的時間のうちに定立する. しを実行していくことがこの第三節の課題であると言うこ きの事物を志向する意識であるのに対して、﹁裏面の付帯現 ともできる。事物知覚における付帯現前化の有する特性を 前化﹂は﹁︵共︶現在的﹂なものに向かっているという点で. う事態を﹁ひとつの超越論的自我と他の超越論的自我たち たときのかつてのある事物を志向する意識であり、予期が との共働﹂として捉え直すということである。この捉え直 いま現在の裏面がいつか表面となるであろう将来のあると. ﹁非本来性﹂を﹁非自己国有性﹂として把握するという構意識でもない、ということがその特性としてまず指摘で きる。想起が、例えば、いま現在の裏面がかつて表面であっ ことほ、言い換えれは、﹁現前化と付帯現前化の共働﹂とい. 242.

(8) うか。目の前にある黒い箱を見ているとしよう。縦長の直. 前化では、裏面はどのように思い浮かべられているのだろ. 方体で、見えている面はすべて黒一色である。このときそ. 前化それ自体は主題的意識ではないということが、付帯現 識として特徴づけるとしたならば、それは﹁知覚﹂と呼ば. 前化の第三の性質として挙げられる。もし、仮に主題的意. 付帯現前化は﹁共想起﹂とも区別されなければならない。. まで﹁知覚﹂という主題的意識の一契機であるという点で、. この﹁主題的意識ではない﹂という点で、あるいは、あく. る別の主題的意識であると言わねはならないからである。. 像﹂と呼ぶことはできない。それらと知覚はまったく異な. 物体を見るように、﹁ここから﹂透視図法的に見られた形が. られた形として思い浮かべられているのであっで、透明な. るかである。それは、﹁裏側から﹂、つまり﹁そこから﹂見. 題なのは色や形ではなく、どのように思い浮かべられてい. れていると記述することができるだろう。だが、ここで問. 長の長方形ないしは平行四辺形が非主題的に思い浮かべら. はどのようなものか。色に関しては黒が、形に関しては縦. れなければならないものであって、﹁想起﹂・﹁予期﹂・﹁想 の箱の見えていない裏面の付帯現前ないしは非本来的現出. 共想起とは、いま知覚することはできないが現在存在する. 思い浮かべられているわけではない。いま現在行われてい. の事物の表面のみを対象としてまず知覚し、その後にその. 題的意識であると言えるからである。確かに、あるひとつ. 化という﹁いま・ここからの知覚要素﹂と共働して、同時. 含まれているのである。したがって、付帯現前化は、現前. る知覚という働きのなかに、﹁そこから﹂見るという要素が. ︵3︶. に向かっているにしても、それと知覚は明らかに異なる主. ものを想い浮かべることであり、知覚と同様に現在のもの. 事物の裏面のみを対象として共想起するということは考え. に働いている﹁いま・そこからの知覚要素﹂とでも呼ぶべ. ﹁そこから﹂見るという性質を持つものなの. られる。しかし、これは二つの別々の主題的意識が順次成. て、なおかつ. きものであるということになる。付帯現前化は、知覚とし である。. 立したということであって、あるひとつの事物を主題とし た、ひとつの知覚が行われたということとは明らかに異. サール自身が、自己固有的という意味での第一次的圏域. さて最後に注意すべき点は、﹃デカルト的省察﹄ でフッ. なっている。 次に注目したいのは、付帯現前化が非主題的にではあれ、 裏面をどのように思い描くのかということである。付帯現. 事物知覚における「付帯現前化」に見られる「他者」の契機. 243.

(9) の付帯現前化は、﹁いま・ここから﹂. ﹁私がしていること﹂ではないと言わざるをえない。﹁私が. の﹁私﹂に固有なものと見なすことはできないものであり、. ︵primOrdia−eSph腎e︶においては、﹁いま私がいる場ば 所、 は﹁いま・そこから﹂. ﹃ここ﹄であり、﹃ここ﹄以外にない﹂と見なしていること である。. の視点を確保しょうと. ﹁かつて・そこから﹂、﹁いつか・そこ. そこから見る﹂という﹁そこから﹂. から﹂、﹁虚構的に・そこから﹂といった仕方でしか確保で. するならば、それは. に方位付けられている第一次的世界の中心である。それ. きないからである。これらを付帯現前化と見なすことは、. ﹁私ほ、身体をもってここに存在しており、私の周り ゆえ、モナドとしての私の第一次的自己固有性︵primOr・. することでしかない。このように、事物知覚における付帯. dia−eEigenheit︶全体は、ここという内容をもっていて 付、 帯現前化を﹁想起﹂や﹁予期﹂、あるいは﹁想像﹂と混同. ﹁そこ﹂. の知覚要素﹂. であると言い切ることほできないのであり、. ︵4︶. に属する事物知覚の場. であると言わざるをえないのである。. あくまで﹁知覚︵要素︶﹂と呼ぶならば、それは﹁他の自我 の知覚︵要素︶﹂. こうした﹁第一次的自然の構成﹂ に位置を うかたちで. ﹁私の知覚﹂. に含蓄されているのであるから、. へ行くことができ 面な においてもすでに、﹁他の自我の知覚﹂が付帯現前化とい. ﹄. ということが実 現前化は﹁いま・そこから﹂のものである以上、それを﹁私. いかなる意味でもそこという内容をもたない。したがっ て、何らかの ﹃私はできる、私は行う﹄. 行に移されることによって変わるという、あの特定のそ. ﹁私﹂は. こという内容ももたないのである。﹂︵HuaI㍍﹂念.﹃ 内はイタリック。︶. ﹁いま・ここ﹂ の. いのであり、その ﹁私﹂が同時に﹁いま・そこ﹂. 付帯現前化における非本来的現出、つまり非現前的で共現. なのである。ここから、事物の無際限に開かれた多様な射. に位置するのであって自 、我の知覚のノエマ的な相関者﹂とでも呼べるようなもの. の概念からしても不可能な 在的な射映は自己固有なものではなく、言うならば﹁他の ﹁いま・ここ﹂. はフッサールの ﹁自己固有性﹂. 占めることは論理的にも不可能である。そして、このこと のである。﹁私﹂ は. ﹁いま・そこ﹂ に位置する可能性がないのだとすれば、そ. の﹁私﹂ は ﹁いま・ここから﹂見るはかはない。だとすれ 映とその事物を知覚する無際限に多くの他の自我たちとの. 244.

(10) うちに見出すことができる。この意味で、そもそも超越論. 相関というかたちで、﹁開かれた相互主観性﹂を事物知覚の. の還元は不徹底ではないのか、という疑念を呈示した。﹁不. 第一節において、デカルト的省察﹄における自己固有性へ 徹底﹂. いかなるものなのか、ということに関しては明示的には示. ﹁徹底した自己固有性への還元﹂とは. であるということの意味は、前節までで確認できた. 的主観性は同時に超越論的相互主観性なのであり、超越論. と思われるが、では. してこなかった。その欠を補うために、われわれの考える. ある事物を知覚するというありふれた行為のうちに、す. 的自我は同時に超越論的われわれなのである。. でに他者の機能が非主題的に含まれている。このことを言. 行されるべき還元は、前節の議論のポイントが. への還元、. のことによって、前節での議論を補足、補強できると思わ れる。. であり、﹁いま﹂. へと還. ﹁私がいま. 非主題的な﹁付帯現前化﹂. いる場所はここであり、そこではない﹂という点にあった. ﹁自己固有性への還元﹂を遂行したい。ここで遂. 意味での. 験を非主題的な仕方で把握することでもある、と言い換え. ことに暗に示されているように、﹁絶対的ここJ. ほ、同時に、他者のしている経. い換えれば、ある事物を主題的に知覚することに含まれる. ることができるであろう。そして、この非主題的な仕方で. ﹁絶対的いま﹂への還元、﹁絶対的私﹂への還元である。そ. ︵5︶. の把握が、他者を主題的に把握することの基礎をなしてい ると見ることもできよう。. いずれにしてもここまででわれわれは、事物知覚という. はつねに﹁ここ﹂. 元された場合、﹁ここ﹂. ﹁絶対的ここ﹂、﹁絶対的ないま﹂、﹁絶対的な私﹂. 摘することによって、﹁自他の共機能﹂の具体的なあり方の、. 具体的な現場に見られる﹁自他の超越論的な共機能﹂を指. はつねに﹁いま﹂であり、﹁私﹂はつねに﹁私﹂である。こ. ﹁表﹂と﹁裏﹂. についてどのようなことが言えるの. か、ということである。この水準では、﹁ここ﹂ほつねに﹁こ. 水準で. まず問題となるのは、﹁絶対的ここ﹂への還元であり、その. のはどのようなことであろうか。本稿のわれわれにとって、. 少なくともひとつは見て取ることができたと言うことがで. への﹁徹底した還元﹂. の水準を忠実に守った場合、われわれが語ることができる ﹁絶対的ここ﹂. きる。. 四. 最後に、一種の ﹁徹底した還元﹂を施すことにしよう。. 事物知覚における「付帯現前化」に見られる「他者」の契挽. 245.

(11) こ﹂であるがゆえに、﹁ここ﹂が﹁そこ﹂になる可能性はア. このことは、この﹁私﹂. には付帯現前化・非本来的現出. には付帯現前し、非本来的に現出するような﹁裏﹂がそも. はありえないということを意味する。というのも、この﹁私﹂. そも存在しないからである。したがって、﹁絶対的ここから. プリオリに排除されている。そうであれば、﹁表面﹂はつね いは﹁いま見えている面﹂が﹁表面﹂であり、﹁いま見えて. に﹁表面﹂であり、﹁裏面﹂はつねに﹁裏面﹂である。ある. や非本来的現出ということがそもそも意味をなさないとい. 開けてくる圏域﹂としての自己固有圏域では、付帯現前化. であると言えるだけで、それ以上の. いない面﹂が﹁裏面﹂. うことになる。つまり、付帯現前化・非本来的現出を﹁自. ことは言うことができない。つまり、﹁絶対的ここ﹂に位置 する﹁私﹂にとって、﹁表面﹂が﹁裏面﹂になるという可能. 己固有なもの﹂と見なすことはできないと結論しなけれは. へ回って﹁裏 ならないのであり、付帯現前化・非本来的現出ということ. 性はアプリオリに排除されている。この水準の﹁私﹂は﹁表 面﹂を﹁裏面﹂ に変えること、つまり﹁裏﹂. である。この点からしても、付帯現前化をともなった事物. が認められるのであるならば、その場合には自己固有圏域 面﹂を見ることができないのである。どんなに動いても﹁こ こ﹂が﹁ここ﹂である以上、そして、﹁ここ﹂の﹁私﹂が﹁見 は既に乗り越えられてしまっていると考えねばならないの. 知覚が行われているときには、つねにすでに自己固有圏域. 覚を自己固有圏域に属するのみであると見なすことはでき. は乗り越えられてしまっているということになる。事物知. るもの﹂は言葉の意味からして﹁表面﹂と呼ぶはかはない ﹁表面﹂だからである。. 以上、﹁ここ﹂の﹁私﹂が﹁見る﹂ことができるのはつねに ここで、﹁裏﹂へ回って見ることができないということの. 機能するものとして関与していると積極的に考えなけれは. の﹁私﹂は、 ないのだとすれば、他者は私の事物知覚にはじめから共に. たまたま蓑へ回ることができないのではなく、決して︵論. 意味を考えてみよう。これは、﹁絶対的ここ﹂. ならないと言うことができる。. この議論をさらに続けることも可能である。﹁裏﹂が意味. 理的に︶裏へ回ることはできないということを意味してい. ﹁表﹂も意味を. をなさないということは、この. には. なさないということである。これを遡っていけは、﹁ここ﹂. ﹁私﹂. しないということであり、そもそも﹁裏﹂ということが意. る。これは、言い換えれば、その﹁私﹂には﹁裏﹂は存在 味をなさないということである。. 246.

(12) も意味をなさないし、﹁いま﹂も意味をなさない、そして﹁私﹂. 一九九五年、所収︶、一七四⊥八五頁を参照。. 関しては、賀田清一﹁他者の現象学﹂︵﹃人称と行為﹄、昭和堂、. のほかに、﹁裏側から﹂ つまり﹁そこ. ﹁そこから﹂ということに﹁他者の知覚﹂を見て取ろうとする. tO. P−ura−ity. Re−eくanCe. POtentia︼. Transcendenta−. TheOry Of Space。. the. the. Of. ここで念頭に置かれているのは、K・ヘルトのよく知られた以. 下の主張である。﹁私の世界とその世界のうちで与えられている. ︵5︶. Bd﹂∽ひーK−uwer−−冨の−SS.∽N・焉.. §軋註二百戻§註室監こぎ3乳量賢註単b評言箋§邑厨訂. て、次のものを挙げることができる。くg−.−D.Naha阜辞sh恥ミ. た、この児島論文に示唆を受けて議論を展開している研究とし. ゝ3良計c訂穿∽屯ミ計器やく○−.くーー︻︸D.Reide︼﹂当¢−pp.∽†竺.ま. Husseユand−ts. 。↓he. 先駆的な研究としては、児島洋の論文がある。Cf.﹀牢KOjima﹀. ︵4︶. らないのである。. から﹂思い浮かべられているということも含まれていなけれはな. 帯現前化には﹁ここから﹂. 異なる。したがって、両者を同一視することはできない以上、付. られる見え方と裏側から思い浮かべられる見え方とは、明らかに. ということは不可能ではない。しかし、透視図法的に思い浮かべ. ︵3︶もちろん、そのように﹁ここから﹂透視図法的に思い浮かべる. 年、所収︶を参照した。. 間・空間﹂︵﹃フッサール間主観性の現象学﹂、創文社、一九九五. ︵2︶知覚の構造を簡潔にまとめるにあたって、浜渦辰二﹁他者と時. も意味をなさない、ということになる。こうして、すべて が意味を失うということになるだろう。このことは何を意 ﹁絶対的ないま・ここ・私﹂が何らかの仕方ですでに乗. 味しているのだろうか。それは、何かが意味をなすために は り越えられていなけれはならないということを意味してい る。何かが意味をなして立ち現れることを﹁構成﹂と呼ぶ ならば、構成が遂行されるためには、﹁絶対的ないま・ここ・ 私﹂が乗り越えられていること、われわれのいう意味での ﹁自己固有なもの﹂が乗り越えられていることが不可欠な のである。自己固有なものだけでは構成を遂行することは できないのであるから、構成には非自己固有性がほじめか ら介在していると言わなけれはならない。この意味でも構 成は、はじめからつねに共構成的であると見なさなければ ならないのである。 註 内に、■.Hua;という略記号を用いて、巻数を表すローマ数字と. *﹁フッサール著作集し︵穿竃ミ計ヾ岩︶からの引用は、本文中丸括弧. ページ数を表すアラビア数字を付して表記した。 ︵1︶第一次性と自己国有性が等値でありうるか否かという問題に. 事物知覚における「付帯現前化」に見られる「他者」の契機. 247.

(13) ていること、このことの付帯現前化が、この他著そのものの主題. ものが、非主題的に共に楔能している他者によって共に把握され. und. 的で統覚的な把握の基礎になっているのである﹂︵K.He声=Das. Intersubjektiまt讐. die. ldee. einer. ph旨OmenO−OgischeコTranszendenta−phi訂sOphie。∵n=隷下. PrOb訂ヨ der. b訂3QS屯営、局叫cやBd.畠−MartiコuSNijhOff﹂笥N﹀S.焉.坂本. 阜蟄計3 さ至蛋ざぎ旨嘗き皇§已邑註ぎ、ヨさ喜ぶ− 満訳﹁相互主観性の問題と現象学的超越論的哲学の理念﹂、新田. 一九三頁。なお、訳語は一部改変した。︶。本稿において﹁他者の. 義弘・村田純一編﹁現象学の展望﹂、国文社、一九八六年、所収、. 知覚︵要素︶﹂として見届けられた﹁事物知覚における付帯現前. 非主題的把握﹂︵a.a.〇.﹀S.缶.邦訳一九一貫︶ないしは﹁受動. 化﹂は、ヘルトの言う﹁共に機能するもの︵Mitfungieredes︶の. 的に他者を経験する付帯現前化﹂︵a.a.〇.㍍.筈.邦訳二〇九頁︶. として理解することができるように思われる。また、この論文に. 性﹂︵Ank旨ftigkeit︶と見なしている︵くg−.も.a.〇.㍍.莞丁邦. おいてヘルトは、他者の﹁匿名的な共現在の時間形式﹂を﹁到来. 訳二〇九貢︶。この解釈を踏まえ、その上で到来性を未来予持 ︵PrOtentiOコ︶に先立つものと考えるならば、事物知覚における. 胤久・ちば. たねひさ・東北大学︶. に関して﹁他者﹂の契機を同様に指摘することができるであろう。. 付帯現前化を未来予持として理解し直す場合でも、その未来予持. ︵千葉. 248.

(14)

参照

関連したドキュメント

問についてだが︑この間いに直接に答える前に確認しなけれ

2.1で指摘した通り、過去形の導入に当たって は「過去の出来事」における「過去」の概念は

ムにも所見を現わす.即ち 左第4弓にては心搏 の不整に相応して同一分節において,波面,振

第四章では、APNP による OATP2B1 発現抑制における、高分子の関与を示す事を目 的とした。APNP による OATP2B1 発現抑制は OATP2B1 遺伝子の 3’UTR

事前調査を行う者の要件の新設 ■

一方、Fig.4には、下腿部前面及び後面におけ る筋厚の変化を各年齢でプロットした。下腿部で は、前面及び後面ともに中学生期における変化が Fig.3  Longitudinal changes

本案における複数の放送対象地域における放送番組の

定的に定まり具体化されたのは︑