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「経済学」と「経済」教育の乖離 その3 : 専門と教養の違いがもたらす乖離 利用統計を見る

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(1)「経済学」と「経済」教育の乖離 その3 専門と教養の違いがもたらす乖離. A Gap between Economics and Education of Economy Part7. 宇 多 賢治郎 Kenjiro UDA. 山梨大学教育学部紀要 第 28 号 2018 年度抜刷.

(2) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号. pp.73-91. 「経済学」と「経済」教育の乖離 その3 専門と教養の違いがもたらす乖離 A Gap between Economics and Education of Economy Part7 宇 多 賢治郎1 Kenjiro UDA キーワード:ミクロ経済学、教養(Liberal Arts)、外部費用、輿論と世論、社会科公民 1.はじめに 孔子 必也正名乎 (必ずや名を正さんか) 筆者は本紀要の前身である『山梨大学教育人間科学部紀要』、第 16 巻から、「経済学」と社会科の 公民教育で必要な「経済」の知識の違いを比較してきた。本稿は一連の論文の続きとして、専門分野 である経済学と、社会科の公民教育の一環で教える教養としての経済の違いが、経済理論の構築とは 関係ない所で生じていることを説明する。具体的には、専門分野自体が持つ性質、説明する人の「立 場」、また理論を用いる際の「目的」といった、外的要因が説明に影響を与えることを確認する。 今回は、その例として「ミクロ経済学」の基礎理論を用いた「政府の介入」、 「市場の失敗」の比較を 行い、理論としての正しさは、現実を説明しているという意味での正しさとは無関係であること、ま た社会を説明する際の適切さやその理論を方便として使うことの正当性を保証しないことを明示する。 また、このような乖離によって生じる問題を可視化し、それを改善するための社会科公民における経 済教育のありかたを確認する。 この説明を始める前に、以下の二点を確認しておく。第一に、本稿は経済学の基礎理論を否定する 類のものではない。むしろ、基礎理論の意義と共にその限界を示し、現実の経済を説明するために役 立つよう、誤解また誤用をしないよう努めなければならないことを説くものである。そのため、専門 分野の知識と教養や一般常識の間の乖離を減らす努力が不可欠であることを説明する。 第二に、本稿は冒頭に引用した言葉に倣い「名を正す」、つまり金谷(1963)の解説にある「名と実 とがあっていること。」を確認する作業を行う2。この作業により、社会科学を理解する上で重要な語 句や理論が本来の意味と違って使われていることがあることを示し、他の事柄との関連を示しながら、 社会を俯瞰して捉える方法を説明する。このような説明をわざわざ行うのは、孔子が説くように「名 と実」のずれを放置すれば、現実の理解が妨げられ、意思や情報の伝達に支障きたすなど、社会科教 育的にも、社会的にも望ましくない問題が生じるからである。 2.経済学と現実の乖離 2-1.経済学と現実の乖離の例 まず孔子の言う「名を正す」、つまり「名と実」を一致させるため、まず本稿で扱う「名」 (名目)と 1 山梨大学(教育学部 准教授)、kuda@yamanashi.ac.jp 今回も執筆の際、本学部の皆川卓氏には、西洋史を専門とされる立場から貴重な意見をいただくなど、大変お世 話になった。ここに記して感謝申しあげる。 2 金谷(1963)、p.249。巻第七、子路第十三。注には、以下の訳がある。なお、( )内は、筆者の補足である。 子路(孔子の弟子)がいった。「衛の殿さまが先生(孔子)をお迎えして政治をなさることになれば、先生は何 から先になさいますか。」先生はいわれた、「せめては名を正すことだね。」. - 73 -.

(3) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号. 「実」(実態)の意味を確認する。本稿は、社会科教育の立場から説明するため、「名」は言葉の一般的 認識の基礎となる辞書、ここでは小学館の『大辞泉』、三省堂の『大辞林』から確認する。ただし、専 門的な表現を確認するため、補助的に有斐閣の『経済辞典』を用いる3。 「名と実」の乖離はどちらかまたは両方が変化することによって生じる。まず、 「実」の方が変化する ことから説明する。「実」は、例えば「economy」の語源は「家政」(oikonomíā)であり、この言葉が作 られた家産制国家の時代は、政治と不可分なものであった。これに対し、今日のグローバル資本主義 の下で「経済」は複雑化し、アリストテレスが「貨殖」と呼んだ金稼ぎや「節約」という意味が多く 使われるようになっている。一方、理論が実態の変化についていけてない例としては、これまでの論 文でも取り上げた、根井(2005)による 18 世紀の経済理論の「焼き直し」が現在の一部の学派の「根 本思想」として未だに使われているという指摘があげられる4。 次に、 「名」が変わる方を説明する。宇多(2018b)では、スミスの「見えざる手」が本来の説明と異 なるものに変わっている例を示した。このように、 「名」を使う人の意思によって本来の意味から離れ、 使われることもある。 このような単語レベルに留まらず、これらがつなげられて構築された理論レベルでも、「名と実」が ずれてしまっていることがある。本稿ではその例として、経済学者の説明と現実の経済の乖離を取り 上げた山本(1995)の見解を紹介する5。 山本は、まず具体的に体験した出来事を示し、続いて解説をするという形式で説明しているため、 元の趣旨の意味を損ねぬよう、本稿に必要な箇所を抜き出して引用する。 ある著名な経済学者を囲む会に出席したことがあった。だが、話しを聞いているうち、私は 少々奇妙な気持ちになってきた。私にはその人が、現実には日本に存在しない架空の対象を、分 析し、批判し、同時にそれへの対策を語っているように思えたからである。 この人が頭に描いている「資本主義」などというものは、日本にはないのではないか、日本にあ るものは全然別のものではないのか、もしそうなら、この人が語っていることは、その人の頭の 中にある架空の対象への対策としかなり得ないのではないか。 山本はこのように考えた後、出版社の社主という自身の立場を示した上で、「こういう世界におりま すと、今のお話しは全然われわれに無関係の別世界のお話しとしか感じられません」と、素直に感想 を述べている。また、この質問をした後の状況を、次のように説明している。 この方は大変な論客なので、激烈な反応がくるものと思っていたが、完全の沈黙のうちに相当 の時間が過ぎ、最後にポツリと、「その質問に答える用意は何もない」と言われた。 私の質問は、おそらく場違いであったのであろう。こういう席には、それにふさわしい「知的 ゲーム」が必要なのであり、そのゲームの前提を崩すようなことを言うのは非礼なのかもしれな い。そのため何やら座が白け、気まずい沈黙がその場をおおった。 それでも、他の人を交えたやり取りがされ、それを踏まえ、次の感想を述べている。 日本では、「儀礼のルール」を踏みはずしてはならず、その場の「空気」に水をさすようなこと 3 4 5. 本文では、一冊のみ引用しているが、三冊全て、必要に応じてそれ以外の辞書を確認している。 根井(2005)、p.15。 山本(1995)、第一章「日本のこれまで支えてきたものは何だったのか」より、適宜抜粋。 - 74 -.

(4) 「経済学」と「経済」教育の乖離 その3. (宇多賢治郎). を言ってはならないことは、私はよく知っている。だが私は決して、「反論のための反論」をして いたのでもなければ、講演者をとっちめてやろうと思ったわけでもない。日本企業がもっている 前述の「見えざる原則」、おそらくは大企業も中小企業も共にそれに従っている現実の「規範」を 知りたいと思ったのである。 そして、ウェーバー(1920)が欧米の資本主義をプロテスタンティズムの精神的見解から説明したよ うに、山本は「日本の伝統と日本資本主義の精神」という形で「見えざる原則」を捉えることの必要 性を、次のように説いている。 この「見えざる原則」のもつ諸問題を明確に表に出さない限り、現実には何も解明できず、何 も解決できないはずである。となれば、それを明らかにすることが、先決ではなかろうか。 この山本の行動を、本人も述べているように、「場違い」という指摘で済ましてしまうことは可能で ある。このやり取りが行われた場は「ある著名な経済学者を囲む会」であり、そのような場では「知 的ゲーム」のルールをわざわざ説明することはしない。それは、競技場に出向いた観客に対して行わ れる競技の基本的な進め方を説明しないようなものである。 しかし山本の説明によれば、その場には「知的ゲーム」の部外者もいたようである。また「囲む会」 では、そのような質問に対する回答をする必要がないとしても、専門外の人達が山本のような疑問を 持つことは十分考えられるはずである。それならば「備え」、つまり専門外の人達が考えるであろう 「質問に答える用意」を専門家はしていないのか、という疑問が生じることに違いはない。 2-2.社会科学分野の構造的問題 このような、現場の人には学者の話が別世界の話と感じられるような乖離が生じる原因の一つに、 これまでの論文でも説明したように、専門知識と教養(liberal arts)として必要な知識に乖離があるこ とがあげられる。このことを説明するため、まず「科学」(science)の意味を確認する。「科学」は『大 辞泉』には、 「一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動。」と説明されている。また本 来、「science」にあたる言葉の語源はラテン語の「scire」(知る、分別する)であり、「学問全般」を意 味するという意味での「philosophy」であった。これが「分けられ」 (scire)、単語も「科」 (分けられた) 「学」である、「science」の方が使われるようになっていった6。 このように、学問に分野ができる形で「分業」がされた理由は、他の仕事と同じように、高度化に より一人の手で負えなくなったからである。一人がこなせる量は限られているから、内容が高度化す れば、扱える範囲は狭くせざるを得なくなる。その後、またさらに高度化が進めば、いっそうの細分 化がされ、また抽象化も進み、分野としても切り離されていくことになる。 この「分業」の利点は、一部のことに「集中」できるということである。「集中」とは、それ以外の ことを見なくても済む状況を整えること、悪く言えば「意図的に視野狭窄になり、それ以外のことを 考えるのを止めること」が必要である。このようにして分業が進み、それに特化する集団ができれば、 それよりも大きな集団に内包しているという実態を無視し、小さな集団の利を優先して考えることが 起こりうる。 また厄介なことに、人は日常生活に追われれば目の前のこと、個人や家族、勤める会社など、社会 に内包される、それよりも小さな集団の方に気が向くものである。そうなれば、直接的に自身に利を 6. 皆川氏によると、17 世紀以降のアリストテレス哲学の専門知への分化と共に代わっていった。 - 75 -.

(5) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号. もたらす小さい集団を優先してしまうようになる。その結果、間接的で長期的、つまり分かりにくい 形で自身の生活を支えている社会益、国民益をないがしろにし、結果的にその国家、社会の構成員で ある自身の利益を損なうことになるとしても、それに気づくことができなくなる。あるいは気づき、 そのような状況が望ましくないと考えたとしても、「空気を読む」こと、つまり同調圧力を感じ、それ に対して保身に走ることで、止めることができなくなるものである。 このようにして、専門分野以外のことを考えないで済むようにしていた手段が目的化し、考えさせ ない同調圧力が働くこと、またそのような行動を正当化する「方便」が作られることになる。これに より、本来は限られた条件の上でしか成立しないはずの理論が、その理論が絶対で普遍のものである ため、それだけで全ての人が納得する真理であるかのように扱われることになる。 例えば、経済の「経」は社会における「関係」、 「流れ」であるが、視野を狭めて「経」に属する一部 の「私」に焦点を当てれば「収支」になる。これにより、 「私」の関心はその人にとっての金の出入り、 金銭的なつじつま合わせでしかなくなる。このような形で寸断された収支を再結合し、「経」つまり 「流れ」として認識するためには、俯瞰して見る姿勢と努力が必要になる。しかし、「神の見えざる手」 のように余計な「介入」をするとかえってうまくいかなくなるから、「私」を見るだけでよい、他の事 は考えないでよいという理論が正しいこととされ、それに対する異論を許さない形で教育がされれば、 俯瞰して捉えることができなくなってしまう。これにより、語源である「経国済民」の意味で、 「経済」 を捉えることができなくなる状況が成立する7。 このようなことから、社会の規範を変えてしまうような理論は教えるべきではない、という主張も 可能であろう。しかし分野が確立され、高度化された専門知識の基礎を説明する場合、現実離れした 抽象論から始めなければ理解できないことがある。これは社会科学に限ったことではなく、例えば自 然科学に属する物理学でも、現実にはあり得ない「摩擦がない」という状況を想定して作られた理論 を説明するということが行われている。つまり、専門知識を確立し、それを人に理解させるためには、 このような理論の構築と、その教育が不可欠になる。 これに対し、専門知識を必要としない人に一般常識、「教養」(liberal arts)として教える場合はどう か。この回答は、説明の仕方次第になる。つまり、教えるのならばその前提、基礎部分の理解のため に極端に抽象化していること、それゆえ現実と乖離があることを示さなければ、役に立たないどころ か、誤解を生じさせることになる。このような基礎段階の内容を、必要な補足をせずに説明しただけ で教育を終わらせてしまい、その内容が社会における多数派の認識となれば、社会の共通認識、つま り常識がひっくり返り、見ないでもよい、考えないでもよいということになる。 しかし、経済学が属する社会科学は、扱う対象が「社会」という人工物(artificial, art)である。この 人工物は、人の考え方や人々の間にある共通認識によって成立している。このことから、現状の考え 方や共通認識と異なる理論が構築され、それが教養教育でも説明されれば、現実の社会を変えてしま う力になることがある。このようなことから、社会科学の教育は慎重さが必要であることが分かる。 2-3.専門的知識と人のあるべき関係 このような社会科学の専門家がする説明の性質を踏まえ、次に教養(liberal arts)である社会科教育 と、専門的知識(technical knowledge)である経済学のあるべき関係を、先人の言葉を引用する形で示 す。 以下は、リンゼイ(1929)の見解である。. 7. 「経世済民」のほうが使われているが、社会科教育の論文であるため「経国済民」のほうを用いた。その理由である、 「国」と「世」の違いの説明は、宇多(2016a)を参照。 - 76 -.

(6) 「経済学」と「経済」教育の乖離 その3. (宇多賢治郎). わたしたちにとって必要不可欠のことでありながら、同時にもっとも難しい事柄は、それぞれ の領域における玄人の専門的知識と、一般市民の持つ共同生活についての経験と理解とを、結び つけることであります。専門家は輿論に対して敏感でなければなりません。 一般のひとびとは、専門家によって出された諸提案の意味するところをいく分でも理解して、 それについてなんとか討議するのでなければなりません。ですから、民主主義は教育ある民衆 あって、はじめてその成功を収めることができるのです。 このようにリンゼイは、民主主義を成立させるためには教育が不可欠であること、そのためには専 門家はどのように振る舞うべきか、また専門的知識に対してそれを専門としない人々がどのように向 き合うべきかを説いている。 これを踏まえ、まず専門家が敏感でなければならないとしている「輿論」の意味を確認する。 「輿論」 と訳された箇所は、原文では「public opinion」である8。またこの訳文では、今日汎用されている「世 論」ではなく、見かけることが少ない「輿論」の方を使っている。訳者が「輿論」を使った意図は確 認できないため、ここでは読者がどのように解釈するかを、辞書を使って確認する。 この「輿論」と「世論」を比較している『大辞泉』には、次のように説明されている。 よ‐ろん【×輿論/世論】 世間一般の人の考え。ある社会的問題について、多数の人々の議論による意見。せろん。「―を 喚起する」「―に訴える」→せろん(世論) [補説]当用漢字制定以前は「よろん」は「輿論」と書いた。 「世論」は「せろん・せいろん」と 読んだ。「輿論」は人々の議論または議論に基づいた意見、「世論(せろん)」は世間一般の感情ま たは国民の感情から出た意見という意味合いの違いがある。 重要なのは、補説の説明にある「世論」(せろん)は「世間一般の感情または国民の感情から出た意 見」、「輿論」(よろん)は「人々の議論または議論に基づいた意見」という箇所である。この説明に従 うのなら、感情的な「世論」は論理的な「輿論」と同一視すべきものではなく、これらは分けて扱う ことが必要なはずである。 人は「世論」、つまり感情的な考えを抱いたとしても、情報を収集してつなげ、自身の常識に基づい て吟味し、また人と議論を行うなどの過程を通して熟慮ことにより、「世論」を「輿論」にすること ができる。このような過程を経て精錬された「輿論」を、感情に基づいた「世論」と同一視するのは、 社会科教育の観点から望ましくないことであろう。それにもかかわらず、1946 年の「当用漢字」の制 定により、一緒くたにされてしまったのである 9。 2-4.公と私の関係の確認 このようなことから、次に「輿論」を形成するために必要な事柄を、「私」と「公」を比較する形で 確認する。ここでは、小学校における社会科の教育内容を確認、整理する形で説明する。 まず、文部科学省(2018)つまり『学習指導要領』では、小学校社会科の教育目標として、次の内 容を掲げている。. 8 9. Lindsay(1935)、p.79。 日本国憲法が公布された 1946 年に、感情的な意見と議論した結果まとまった意見を、区別無く同一視するように 漢字が定められてしまったというのは、皮肉なことである。 - 77 -.

(7) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号. 社会的な見方・考え方を働かせ、課題を追究したり解決したりする活動を通して、グローバル 化する国際社会に主体的に生きる平和で民主的な国家及び社会の形成者に必要な公民としての資 質・能力の基礎を次のとおり育成することを目指す。 この育成内容である、小学校の社会科教育の過程を図示したのが、宇多(2016b)に載せた図であ り、図1はそれを再掲したものである。 図1 社会科教育による視野の広がり. 注:小学校学習指導要領から、筆者作成。 . 図1のように、小学校では1~2年生の間は生活科で、経験や体験を通じて身近なことを確認する。 また児童間の経験や体験の違いを減らす共通化が行われる。この生活科の授業を通じて、各自の自立 のため「私」の確認を行った後、社会科の授業が始まり、3年生から6年生の4年間に自身の経験や 体験だけでは学べない部分を学習する。これを生徒に持たせる視野で捉えれば、小学校3~4年の内 容は、児童の視野を自身の身の回りから日本国まで広げる作業、つまり空間的に把握する範囲を拡張 するための学習が行われる。次に、5~6年は日本を公民的視点から俯瞰して見る学習が行われる10。 つまり、3~4年の目的は「私人」の視野を広げることであるのに対し、5年生以降は「公民」の視 点で日本国という社会を俯瞰して捉えることに変わる11。そのため、学習指導要領の3~4年生の目標 の箇条書きは「地域」で始まり、 「地域社会の一員」つまり「私」(一員)の視野を拡張するための内容 になるのに対し、5年生以降は「我が国」で始まり、「公民」の視点、視野に基づいた説明がされる。 このようにしてみれば、「私」と「公」の違いは、判断をする際に考慮する範囲の違いであることが 分かる。しかし、辞書によっては対立概念として説明していることがあるように、これが対立するも のとして捉えられてしまうことがある。しかし、 「私」と「公」の対立とされる現象をよく観察すれば、 一部の集団による「公」の私的な専有、国家などの「社会」(自立した個人の集団)と異なる共通目的 や意識を持つ集団との対立など、「公」と「私」の対立ではないことが多い12。少なくとも、民主主義 を掲げ、それが機能しているはずの国家ならば、「私」と「公」の対立が構造的に生じており、長期的 にそれが改善されず、「私」を「公」から守る憲法や法律を整備できない状況が続いているのならば、 それはその国民の怠惰ということになる。 つまり単純明快なことであるが、「輿論」を作り出すためには視野を広くすること、物事を俯瞰して 捉えることが重要であるということになる。逆に言えば、集中するために視界を狭くし、他のことを 考えない専門分野の教育でよしとするのは、この社会科教育の目標とは逆であり、このようにすれば 10. 6年生では、「世界の中の日本」という題で、日本を外国と比較するために、国外のことを学ぶ教育もしている。 この説明は、既に宇多(2017a)で示した内容を、本稿に合わせ、加工したものである。 12 あるいは、戦乱や災害時における緊急避難など、公共の福祉を優先させたものもある。 11. - 78 -.

(8) 「経済学」と「経済」教育の乖離 その3. (宇多賢治郎). 社会人としての常識は失われ、議論に必要な能力は養われず、感情的な「世論」が「輿論」を押しの けてのさばることになる。 このようなことから、民主主義の社会を成立させるには、まず参加する者が必要な教育を受けるこ とが必要になる。この場合の教育とは、当然のことながら、集中により他を見えなくすることで成立、 発展する専門的知識(technical knowledge)ではなく、人の集団である国家や社会に属して生きていく ために、俯瞰して物事を捉えるための教養教育(liberal arts)である。 このことから、専門家は専門的知識を、 「輿論に敏感」になりながら、 「一般のひとびと」に分かるよ うに説明し、「一般のひとびと」は、それを己に培われた教養を踏まえ、少なくとも社会的合意として 適切か否かの判断をしなければならないことになる。それは、「知的ゲーム」をひけらかして優越感に 浸ることでも、それが分からない人に対して「経済(学)をまるで分っていない人」と感情的に反発 し、貶めることでもない。また、 「一般のひとびと」がするべきことは、 「専門家がよく分からないこと 言っているようだが、自分には関係ない」と無視することではなく、「いく分でも理解して、それにつ いてなんとか討議する」ことが必要であることが確認できる。 3.「政府の介入」と「市場の失敗」の比較 3-1.基礎的な前提理論 第2節の説明を踏まえ、専門分野の経済学と社会科教育のために必要な経済の理解の違いを示す。 その例として、ミクロ経済学の基礎理論に基づいた、「政府の介入」と「市場の失敗」を例として説明 する。 この例は、実際にとある政策論議の場を目撃した、筆者の体験に基づいている。その際は、経済学 者から政策提言の根拠として「政府の介入」を、ただ抽象的な理論のまま、現実との乖離の説明なく 用いていた。この体験を踏まえ、本節ではまずミクロ経済学の基礎理論に基づいた「政府の介入」と 「市場の失敗」そのものを説明する。この理論の使い方等を、社会科に必要な経済教育の観点から評価 する作業は第4節で行う。 初めに前提として、「政府の介入」を示すために必要な、ミクロ経済学の基礎理論である需給理論を 説明する。そのため本稿では、中学校の公民の教科書に載っている、つまり義務教育で説明されてい るものを示す。 図2は、東京書籍(2016)に掲載されている、「需給量・供給量・価格の関係」という題がついた図 を模写したものである13。 図2 中学校社会科、公民教科書の需要供給曲線の例. 13. 宇多(2017)、p.104 の模写を再掲。元図は東京書籍(2016)、p.138。 - 79 -.

(9) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号. これを需要者(消費者)と供給者(生産者)の別に分けて説明したものが、図3である14。 図3 ミクロ経済学的説明 左:需要者(消費者)、右:供給者(生産者). 図3左は需要者、図3右は供給者の行動の結果を説明している。図3ではどちらも、価格が直線 BO になり、需給量は直線 OE が示す量だけ何かが生産され、市場で流通、販売がされ、消費者が購入する ことが示されている15。 ま ず 図 3 左、 需 要 者 の 方 か ら 説 明 す る と、 需 要 曲 線 は 右 下 が り で あ る。 こ れ は「 支 払 意 思 」 (willingness to pay)、消費者に対し次の1つを買うならいくら出すかを意思表示してもらい、その結果 を金額が高い順から並べ、繋げて曲線としたものである。なお、図2では曲線なのを、図3では直線 で表している。このような説明では、このように直線で表しても曲線と呼ぶため、それに倣うことに する。 このように、「支払意思」を高く示した方から順に並べるのだから、曲線が緩やかに、また水平にな ることがあっても、右上がりになることはない。この供給曲線から、消費者が直線 OE だけ購入する場 合、「支払意思」は□ ADEO になる。つまり直線 OE 購入するためなら、□ ADEO の面積にあたる金額だ け支払っても良いということになる。これに対し、価格は直線 BO で一定なのだから、1つの価格を示 す直線 BO と購入する量を示す直線 OE の積が支払う金額となる。つまり、□ADEO 支払ってもよいのに、 実際は□ BDEO の面積の金額で済んだのだから、その差分である△ ADB だけ、心理的に得したことにな る。「心理的に」とわざわざ明記したのは、そのように思うというだけであり、実際にその金が入手で きるわけではないからである。 これに対し、供給曲線は右上がりである。需要曲線と異なり逆に右下がりになること、場合によっ ては波打つこともありうるが、導入的な基礎理論では右上がりとして説明する。また、供給曲線を右 上がりと限定していても、今回の指摘は可能なため、そのまま説明する。 しかし、供給曲線が「限界費用」(marginal cost)曲線であるという説明は、避けることができないた め行う。そのため、まず「限界」について説明する。この場合の「限界」は、汎用の日本語の意味と 異なり、 「ある状況で追加が起きた場合の効果」という意味になる。例えば、生産の「限界費用」とは、 ある物を生産する場合に「ある量まで生産した状況で、次の一個を生産した時に必要となる、追加的 14. 図2では左側で途切れている線が図3では縦軸に届いている。本来ならば、この違いを説明する必要があるが、 今回は省略する。 15 記号は、左上から始め、時計回りに振るようにした。 - 80 -.

(10) 「経済学」と「経済」教育の乖離 その3. (宇多賢治郎). な費用」を意味する。また、この「限界費用」をつなげて線グラフにしたものを「限界費用」曲線と 言い、これがそのまま「供給曲線」になる。このことから、図3では供給曲線に「marginal cost」の頭 文字である MC と記している。 これら供給曲線と需要曲線の交点で、取引される価格と数量が決まるという説明から、図3左の生 産者の収入は □ BDEO、生産のために支払った費用は □ CDEO になり、利潤はそれらの差分である △ BDC となる。 最後に、「余剰」(surplus)の意味を説明する。ここでは「余剰」は「その人の利、もうけ」を意味す るものと捉えてもらえばよい。そして、消費者の得したと思う気分、生産者が実際に入手した金であ る利潤を、それぞれを「生産者余剰」、「消費者余剰」と呼ぶ。「生産者余剰」は先ほど説明した利潤、 収入 □ BDEO と費用 □ CDEO の差であり、現実に金の動きが生じる。これに対し、「消費者余剰」 △ ADB は先ほどの「支払意思」□ ADEO と実際に支払った金額□ BDEO との差である。 また、これら「生産者余剰」、「消費者余剰」を合わせたものを「社会的厚生」(social welfare)と呼 ぶ。これは、社会全体の幸せは各自の余剰(儲け)を合計したものと考えてもらえばよい。つまり、 生産者の利潤、消費者の得した気分の合計△ ADC が、社会の全体の幸せであるということとする。 3-2.「政府の介入」 このような前提を踏まえ、「政府の介入」は、次のように説明される。 まず、図4左は税金をかける前、図4右は税金をかけた後の状態を表している。 図4 政府の介入(左:無税、右:課税後). 図4左の場合は無税であり、「消費者余剰」が△ ADB、「生産者余剰」が△ BDC であるため、「社会的 厚生」はそれらの合計である△ ADC になる。 これに対し従量税、例えば一個あたりに一定額の税金 t がかけられたものとし、説明したものが図1 右である。この場合、財の需給量は直線 KE だけ減少し、直線 OK になる。また税をかけられたことに より、消費者価格つまり消費者が一個あたりに支払う額、直線 FO に増加する。しかし、税金 t が取ら れるため、生産者価格つまり生産者が一個あたりの販売で受け取る額は直線 GO まで減少する。 これにより、「消費者余剰」は△ A I F、「生産者余剰」は△ G J C に縮小し、政府は税収□ F I J G を得 ることになる。このような課税により、「社会的厚生」は無税の状態よりも△ I DJ だけ減ってしまうと いうことになる。これにより「政府の介入」により「社会的厚生」が失われた、つまり政府が社会で - 81 -.

(11) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号. 暮らす人たちの幸せを税収によって、□ F I J G だけ奪うのに留まらず、「社会的厚生」を△ I DJ だけ損ね る、つまり全体量を減らしてしまうことになるという説明が成立する。 3-3.「市場の失敗」 これに対し、同じ理論を使いながら「市場の失敗」という、同じ課税という政策に対して正反対の 評価ができることを説明する16。 図5は、図4に加筆し、「市場の失敗」に必要な図にしたものである。 図5 市場の失敗(左:無税、右:課税後). 図5左は、税金をかけていない状態であることは図4左と同じであるが、この現象を観察、評価す る人が社会を俯瞰して見る広い視点を持っているため、単に生産に直接的に必要な費用以外も存在し ていることを理解できているものとしている。このことから、以降の説明では、図4で「費用」と表 現していたものを「私的費用」と表し、それ以外の間接的な費用を「外部費用」、また「私的」と「外 部」の合計を「社会費用」と表して、区別する。またグラフの表記では、限界費用 MC の前に、「私的」 (Private)の P、「社会的」(Social)の S を付けて区別する。 この「外部費用」を、『経済辞典』では以下のように説明している。 外部費用 external cost ある経済主体の活動にかかる費用のうち、市場取引で評価されていないためにその経済主体の 経済計算に算入されず、社会や第三者が負担している費用。外部費用が存在すると、市場によっ ては効率的な資源配分が達成されず、市場の失敗が生じる。 ここでは、「外部費用」は単純に需給量、つまり生産量に応じて生じるものであり、一個あたりの発 生量は同じとする。つまり図5では、「限界外部費用」と書かれた矢印の分だけ一律に増加するものと する。 これにより、図5左の場合、需給量は直線 OE であるから、外部費用の発生量は、平行四辺形の □ H LDC となる。この外部費用は、社会的厚生としてはマイナスであるため、図4で示した社会的厚生△ 16. 「市場の失敗」はミクロ経済学の入門書、例えば日経文庫の奥野(1990)でも取り上げている。つまり、 「政府の介入」 だけ使う人は、後の方を読んでいないか、理解できなかったのか、都合よく取り出していることになる。 - 82 -.

(12) 「経済学」と「経済」教育の乖離 その3. (宇多賢治郎). ADC の外部費用と重なっている台形□ H I DC は相殺されてしまう。また相殺されていない外部費用 △ I LD が残っていることから、この場合の社会的厚生は △ A I H -△ I LD、つまり△ I LD と同じ面積の三角 形の△ D’I L’を引いた台形□ AD’L’H になる。 これに対し、外部費用の分だけ従量税 t をかけたのが図5右である。これにより外部性、つまり「市 場で評価されていない」部分が、市場で評価されることになる。 この場合、需給量は直線 OK まで減少するから余剰と税金の合計(この合計は社会的厚生ではない) は△ I DJ だけ減少し、また外部費用も平行四辺形の□ I LDJ だけ減少する。これにより、税金をかける前 よりも△ I LD、つまり同面積の△ D’I L’だけ社会的厚生が増加し、△ A I H になる。 3-4.「政府の介入」と「市場の失敗」の比較 次に、「政府の介入」と「市場の失敗」から導かれた結論の違いを比較し、そのような違いが発生す る理由を整理する。 図6、図7は、それぞれ図4、図5から導かれる社会的厚生の違いと課税の効果の違いを取り出し、 図にまとめたものである。 図6 「政府の介入」のまとめ(左:無税、右:課税後). 図7 「市場の失敗」のまとめ(左:無税、右:課税後). - 83 -.

(13) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号. また表1は、これまでの説明を一覧にまとめたものである。 表1 課税が及ぼす影響の評価の違い 政府の介入. 市場の失敗. 課税前. 従量税 t を課税. 課税前. 従量税 t を課税. 消費者価格(税込). 直線 BO. 直線 FO. 直線 BO. 生産者価格(税引). 直線 BO. 直線 GO. 直線 BO. 直線 FO 直線 GO. 需給量. 直線 OE. 直線 OK. 直線 OE. 直線 OK. 消費者余剰. △ ADB. △A I F. △ ADB. △A I F. 生産者余剰. △ BDC. △GJC. △ BDC. 税収. □F I JG. △GJC □F I JG. 外部費用. -□ H LDC. -□ H I J C. 相殺部分. □ H I DC. □H IJC. □ AD’L’H. △A I H. 社会的厚生. △ ADC. 課税の効果. □A IJC -△ I D J. △ D’I L’. これら表1、図6、図7を使い、これまでの説明をまとめると、次のようになる。 まず「政府の介入」という説明では、税を課すことで、市場的に適切な直線 OE で示される需給量よ りも直線 KE だけ少ない直線 OK に留め、社会的厚生を△ I DJ だけ損ねてしまうことになる。 これに対し「市場の失敗」という説明では、税を課すことで、「外部費用」を市場システムの中に内 部化、つまり組み込むことができるのに放置することになり、望ましい生産量直線 OK よりも直線 KE だ け過剰に生産し、その外部費用により△ D’I L’ だけ社会的厚生を損ねてしまうことになる。また、「外 部費用」の存在を踏まえれば、「政府の介入」という説明では、「外部費用」という社会で生じる費用 を無視する、つまり他人に与える負の影響は「無い」とすることで、課税前の社会的厚生を□ H I DC だ け、課税後の社会的厚生を□ H I J C だけ過剰に評価していることになる。 以上の説明から同じ理論に基づき、同じ展開をしているのに、「外部費用」の存在を考慮するかしな いかで、結論が逆になることが確認できる。つまり、これら二つの理論のどちらを採るかは「外部費 用」、つまり当人には課されずに「社会や第三者が負担している費用」を、考慮するかしないかで決ま ることになる。 4.社会科、公民的特性を踏まえた評価 4-1.「政府の失敗」と費用 この「外部費用」を考慮すべきか否かを説明するため、まず「市場の失敗」に対する再反論である、 「政府の失敗」を紹介する。この「政府の失敗」は、 「政府の介入」や、それに対する「市場の失敗」に 比べると説明が多様である。そこで今回は、その中から第3節の説明に則ったものを紹介する。それ は、要するに「現実問題として『外部費用』を正確に測ることはできないから、それを内部化すると かえって社会的厚生を損ねるという『政府の失敗』が生じる。そのため、やはり『政府の介入』がさ れないのが望ましい。」という説明である。 確かに、これまでの説明では、 「 SMC = PMC + t 」、つまり外部費用と同じだけ税を課すことができる ものしてきた。現実の世界でこのような課税ができる保証は確かにない17。 17. これまで「かえって社会的厚生を損ねる」ということを、図解したものを見たことがない。そこで図化を試みた が、論理的な説明になっている図を作成できなかったため、掲載を断念した。 - 84 -.

(14) 「経済学」と「経済」教育の乖離 その3. (宇多賢治郎). そこで、この「外部費用」の意味を理解するため、そもそも「費用」はどのように決まるかを確認 する。『大辞林』では、次のように説明している。 費用 1.ある事のために必要な金銭。ついえ。 2.ある生産活動のために消費される金銭。すなわち生産要素・生産財に支払われる対価。 この説明によれば、「金銭」を「対価」として「支払う」こと、つまり人に金を渡すことが「費用」 ということになる。つまり、「費用」と「外部費用」の説明の違いは、当事者間で金銭を支払っている かどうかである。このことから、 「政府の失敗」を主張する人は、 「費用」も「外部費用」も正確に測定 できるものではないはずなのに、 「費用」だけは正確に決めることができ、 「外部費用」の方はできない としていることになる。 しかし、このように「費用」は正確に決めることができるとするのは、ミクロ経済学の基礎理論的 には正しい説明である。それは、この理論が「情報の完全性」を前提にしているからである。この 「情報の完全性」を、『経済辞典』では次のように説明している。 情報の完全性 価格・品質など経済取引にかかわる情報を経済主体がすべて保有していること。 この説明のように、「情報の完全性」があるという前提で理論を組み立てれば、必要な情報を入手し ているから費用の計算も完全に行うことができ、かつ取引相手も同じことができるという状態を想定 することになる。これにより、払う人、受け取る人の双方が情報を全て保有した状態で合意がされる のだから、 「外部費用」などというものは存在しないという論理が成立する。つまり、 「知的ゲーム」と しては、 「外部費用」という現実を持ち出した「市場の失敗」よりも、 「政府の介入」の方が論理的とい うことになる。 しかし、先ほどの「政府の失敗」の説明のように、「市場の失敗」の説明を否定するために現実との 整合性を問題にすれば、「外部費用」の存在を認めたこと、つまり「政府の介入」が成立する根拠であ る「情報の完全性」自体を否定することになる。 要するに、この話は「費用」という形で市場には現れない、当事者以外に与える影響、「外部費用」 の存在を認識できるか、それを前提に話ができるかどうかでしかない。専門分野の基礎理論は、基礎 理論の理解のために初期段階ではあえて認識の外に置き、「外部費用」をないものとして論理展開を行 うのである。つまり、このような基礎理論の初期段階を理解させるための説明から、「政府の介入」が 成立するという部分だけを切り取り、現実を説明するために用いているということは、そのことを分 かっていないのか、分かっているのにあえてやっていることになる。 4-2.費用の外部化と自由 次に、現実の「費用」が持つ性質を踏まえた説明を行う。先ほどの「費用」の説明を踏まえれば、 「外部費用」が正確に測定できないだけでなく、 「費用」自体が当事者間の合意という、あいまいな決ま り方をするものであった。 ただし、「費用」は当事者間の合意によって決まるとしても、国家の「規制」に左右されるもので ある。例えば、国によっては環境汚染という「外部費用」を抑えるために汚染物質の除去装置を取り 付けることが制度化、つまり「規制」がされている。しかし、そのような制度が整っていない、規制 - 85 -.

(15) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号. がない国では、国際的なイメージ戦略などから企業が自発的に行うのでもなければ、外部費用は内部 化されない。また、規制が整っているとしてもそれが守られるかどうかは状況次第であり、力関係に よって一方的に踏み倒されることも起こりうる。 また「外部費用」を内部化、つまりこれまで計上しなかった費用を計上するようになるのではなく、 逆に「費用」を外部化してしまうことも可能である。例えば、生産のために原材料を工場まで運ぶた めの道路は公共物、つまり税金によって作られたものである。この公共物、つまりその会社のもので はない道路に原材料を運搬する車を待機させることで、「費用」を外部化することができる。つまり、 工場内の倉庫に原材料を保管するべきところを、工場の近辺の道路にトラックを駐車することで済ま せてしまえば「費用」を節約できる。この節約により、渋滞や交通事故などの公共の福祉を侵害する、 「外部費用」が発生する。 このようなことを防ぐために制度化が図られ、その結果、設けられたものが法などの「規制」であ る。ところが「政府の介入」を説明に用いた主張には、「規制」がない国に勝つ国際競争力をつけるた めなどの理由をあげながら、そもそも規制は自由競争を妨げるだけで、廃止するのが「経済学的に正 しい」とするものがある。 しかし、これまでの説明を踏まえれば、 「規制」が整っていないとは、 「外部費用」を配慮し、内部化 できていないということである。つまり、規制がない国が競争力を持つのは、費用として計上する必 要が少ない分、安く価格を設定できるからである。それは、制度が整った国では支払いを受ける人た ち、また外部費用から守られている人たちの権利を保障しないことで可能になる。このことから、「規 制」を導入する、あるいは撤廃するかは、「自由貿易」や「政府の介入」といった学者間の論争の問題 ではなく、その支払いはされるべきか、というその国家や社会における合意、つまり常識や政治の問 題であることが分かる。 次に、 「規制緩和」の主張がされる際に使われている「安価な政府」(小さな政府)や「夜警国家」と いった言葉の意味を確認する。 まず「安価な政府」の意味を『経済辞典』で確認する。 安価な政府 cheap government 自由競争による経済の調和と発展を信じ、国家は、外敵の侵入を防ぎ国内治安を維持するにと どまり、むしろその活動は必要最小限にとどめるべきであるということを理想とした、18 世紀後 半から 19 世紀前半にかけての財政思想。スミス(A. Smith)の『国富論』 (An Inquiry into the Nature and Cases of the Wealth of Nations, 1776)(第5篇)の所説に代表される。ラサール(F. Lassalle)の 夜警国家の思想も同義。 この説明に基づけば、「安価な政府」は「18 世紀後半から 19 世紀前半にかけての財政思想」、日本な ら江戸時代にあたる時期のものであり、また「自由競争による経済の調和と発展を信じ」るとされる 人たちの「理想」であり、「市場の法則」といった大層なものではないことになる。また、この時期の 欧州における「政府」とは、王侯貴族、教会といった国家を称する一部の特権集団のことである。こ のような特権集団の私利私欲的な行動が問題であったからこそ、このような「財政思想」が生まれた と読む方が、絶対普遍の経済法則とするよりは妥当であろう。また、スミスの所説とされるが、その 中の「見えざる手」(an invisible hand)が、 『経済辞典』の「神の見えざる手」(invisible hand of God)の 説明と似て非なるものであることは、宇多(2018b)で示したとおりである。 次に、「夜警国家」を調べると、『経済辞典』は次のように説明している。. - 86 -.

(16) 「経済学」と「経済」教育の乖離 その3. (宇多賢治郎). 夜警国家 state as night‐watcher (Nachtwächterstaat) 第三階級(ブルジョワジー)の国家観。国家の目的はもっぱら個人の人格的自由と所有の保護 にあるとするもの。「夜警」という名称は、ラサール(F. Lassalle)の批判に由来する。 彼は上記の国家観を、 「強奪、盗取を防ぐことを職分とする夜警としか国家を見ないものであり、 そこでの自由は、強者・富者の弱者・貧者を搾取する自由にほかならない」と批判した。 この説明から、上記の「安価な政府」の説明だけでは、ラサールがその思想の代表者であるように 読めてしまうのに対し、ラサールはむしろ批判のために、この表現を使っていたことが分かる18。この 説明を踏えれば、「夜警国家」という言葉を使っている人は、実はラサールが「夜警国家」を批判的に 使っていたことを知らないか、その事実を隠していることになる。またその批判にあるように、 「強者・ 富者の弱者・貧者を搾取する自由」を社会に求め、弱者、貧者の立場を思いやる人の情が自身にはな いことを表明し、自分が病気や事故などの理由で弱者、貧者の立場に回ることがありうるということ を想定できず、自分にはそのようなことが起こるはずがないと豪語していることになる。 また、「安価な政府」が当時の「政府」を前提にしたものであることを踏まえれば、この主張は今日 の民主主義国家の中で国民を守るために生まれた規制と、王侯貴族と教会の利権のために設けられた 規制を同一視しているか、それらが同一のものであると思わせるように仕向けていることになる。つ まり直接的な利にならないような制度を、時間と手続きを経て国家というシステムに組み込んできた ものを、結果的に誰かの利のために排することを主張していることになる19。 仮に、ある「規制」が特定の集団の利権を守るための前時代的なもので、かえって国民の安全や生 命、また権利を損ねるから撤廃すべきだと言いたいのなら、その事実を指摘し、国民益を損ねている ことだけを明示すればよい。つまり前時代の「思想」、 「理想」を、あたかも普遍の法則であるかのよう に持ち出し、肝心の説明を怠るのは適切な行動ではない。そのような行為は、長年の経済学者の研鑽 によって積み上げられた理論の信用を貶めることになる。 4-3.社会科教育の視点に基づく評価 次に、これまでの説明を踏まえ、「政府の介入」の理論が社会科公民における経済教育として適性を 説明する。まずこの理論では、結論で「社会的厚生」を面積で示し、この面積が大きいほどよいと評 価していた。このように「社会的厚生」を評価基準とすることを踏まえれば、この理論は現実の経済 を語るには、社会科教育で必要な二つの配慮が欠けていることが分かる。 第一に、「市場」をただ「ある」としてしまっていることである。しかし「市場」を初めとする社会 科学の研究対象は「人工物」、つまり自然発生するものではなく「人の為すもの」である。それ故にそ の構築、管理、維持には様々な労や負担、つまり「費用」がかかるものである。それを、ただ「ある」 ということにして費用を無視し、考えなくても良いとしていることになる。 第二に、 「社会的厚生」が私利の集まりだけでできていると限定していることである。つまり社会益、 国民益は私利の寄せ集めだけでできており、「外部費用」のような、自身の行動が他者に影響して損失 や被害を与えるものはないとしている。これにより、第3節のグラフや表で示したように、「市場の失 敗」よりも「政府の介入」の方が、無税の場合も課税の場合も「社会的厚生」を大きく示すことにな る。しかし、これは「外部費用」を考慮しない分だけ「社会的厚生」を過大評価しているだけである。 18. 皆川氏によると、ラサールは労働者主義者であるため、むしろ「政府の介入」を支持する立場であり、そのため 当然のことながら、「安価な政府」も批判的概念として用いていたという。 19 「結果的に誰かの」と表現したのは、主張した本人がその利を得るとは思えない、むしろ損害を被ると思われる人 によって、その制度が作られた経緯、もたらされる影響などを、およそ理解しているとは思えない説明がされて いたのを聞いた経験に基づく。 - 87 -.

(17) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号. これらの説明を踏まえれば、「政府の介入」は、視野を狭くし、他者への配慮を欠くことによって、 つまり「考えない」ことによって成立するものであることが分かる。この視野の狭さを、図1に基づ いて示すのならば、それは広い「公」の視点ではなく、意図的に社会科教育以前の小学校2年生以下 の「私」の視点に狭めて、物事を捉えていることになる。また、このような「私」の狭い関心と視野 から生まれる考えは、既に示したように配慮と議論の結果作られた「輿論」ではなく、それらの努力 を欠いた「世論」でしかない。また、このような一面的な見方をし、またそれを絶対化、普遍化する というのは、社会科の目標にある「多角的・多面的」な見方を否定し、自身が考えることを止め、人 に考えさせないよう仕向けている行為であるということになる。 確かに「外部費用」、「社会や第三者が負担している費用。」は曖昧なものであり、基礎理論の教育で は優先度が低く、除外しないと説明が難しくなるものである。しかし、曖昧なものを忌避する基礎理 論の説明を、そのまま現実にも正しい普遍的な法則として持ち込めば、目の前にある問題を見えなく し、放置し、悪化させることになりかねない。 そもそも直接的ではないもの、数値などで示しにくいもの、考える際にややこしくさせるもの、自 分には直接は関係ないもの、要するに実感がなく、理解しにくいものを除外するという姿勢は、考え や配慮の及ばない物事に対する謙虚さ、または慎重さを欠いていることになる。このようなことから、 理論そのものに問題があるというよりは、前提を無視した理論の用い方の問題、また現実に臨む姿勢 の問題であるということが分かる。 4-4.専門家がなすべき対応 以上の説明を踏まえ、社会科における経済教育のため、まず専門家は何をすべきかをまとめる。 今日の専門分野は「科」、つまり分業によって成立しているため、他のことを考えずに集中、つま り視野を狭くしてしまう危険性がある。それ故に、専門分野の研究を生業とする人は、その専門的知 識を一般の人々に対して示す、世に役立てる際は、限られた条件でのみ成立する理論の限界を意識し、 現実との整合性に注意を払う必要がある。 しかし、昨今の経済学は次のピケティ(2014)の批判を受けるような状態である。 素直に言わせてもらうと、経済学という学問分野は、まだ数学だの、純粋理論的でしばしばき わめてイデオロギー偏向を伴った憶測だのに対するガキっぽい情熱を克服できておらず、そのた めに歴史研究や他の社会科学との共同作業が犠牲になっている。経済学者たちは余りにしばしば、 自分たちの内輪でしか興味を持たれないような、どうでもいい数学問題ばかりに没頭している。 この数学への偏執狂ぶりは、科学っぽく見せるにはお手軽な方法だが、それをいいことに、私達 の住む世界が投げかけるはるかに複雑な問題には答えずに済ませているのだ。 この批判に使われている表現は攻撃的なため、紹介をためらうものであるが、本稿の説明に必要な 否定できない事実を簡潔にまとめているため、引用した20。この指摘は、本稿が問題にしてきた、専門 分野に走ることで視野を狭くしていること、それにより周りが見えなくなり、「他の社会科学との共同 作業」といった、俯瞰して捉えるために必要な作業ができていないことを説明している。このような、 専門分野が視野を狭くすることで成立するという危険性を理解することが必要であることが分かる。 このことから、 「他の社会科学との共同作業」を通じて、小学校学習指導要領の目標にある、 「社会的 事象の特色や相互の関連、意味を多角的に考え」ること、またリンゼイの言うように「輿論に対して 20. ピケティ(2014)、p.34。 - 88 -.

(18) 「経済学」と「経済」教育の乖離 その3. (宇多賢治郎). 敏感」になることが必要であることが確認できる。 4-5.一般の人々がなすべき対応 これに対し、専門家以外の「一般のひとびと」はどのように行動するべきか。リンゼイの見解を踏 まえれば、「専門家によって出された諸提案の意味するところをいく分でも理解して、それについてな んとか討議するのでなければ」ということになる。 それには、 「専門家によって出された諸提案」は二つの性質、 「理論」と「方便」が混ざっていること を理解する必要がある。 まず「理論」の方から説明する。既に説明したように、「理論」は条件という枠の中で成立するもの であり、普遍的なものでも絶対的なものでもない。そもそも「科学」自体が「認識活動」と、その結 果蓄積、共有された「共通認識」でしかない。それ故に「科学的に正しい」という認識は、特定の目 的や手段の上で成立する条件付きのものでしかないことを理解する必要がある。これができずに「科 学」の意味や成果を過大視すれば、「認識活動」やその結果である「共通認識」に対する過剰な「信 仰」、また「科学」を用いる人に対する「超人崇拝」になってしまう。またこのような考え方をすれ ば、特定の理論を特別視し、他の人を自身の信奉する理論に同調する、正しい考えを持った同志か、 理解できない愚か者かの二者択一で人を評価する、「選民思想」になりかねない。 このような考え方をせぬよう、「経済学」の意味を『経済辞典』で確認する。 経済学 economics 社会科学のうち、経済に関して研究する学問。広い意味では、人間社会における物質的生活 資料の生産と交換を支配する諸法則を研究する科学であるが、ほとんどは資本主義経済を直接 の研究対象としている。古典学派の時代には political economy(政治経済学)と呼ばれていたが、 economics の語が、19 世紀末にマーシャル(A. Marshall)たちが使いはじめて以来、近代経済学で は広く用いられるようになった。経済学の定義は経済学者ごとに異なるといってよいが、大まか にいえば、「富についての科学」(plutology)という見方と、「交換についての科学」(catallactics) という見方に分かれる。 この説明で特筆すべきは、「経済学の定義は経済学者ごとに異なるといってよい」と説明しているこ とであろう。つまり、経済学の専門家なら持っているであろう『経済辞典』が、「経済学」の意味は 「人それぞれ」と明言してしまっているのである。このことを踏まえれば、経済学者やエコノミストな ど、経済学の理論を用いた説明をする人たちの、 「経済学ではこう説明する」というものは、 「私の、あ るいは私が所属する集団の考える」という、重要な断り書きが省略された「主張」であることが分か る。 このような説明に流されないようにするには、自身がこれまでに得た知識に基づき、必要があれば 情報を追加し、評価する姿勢が必要であろう。ただし、そのためには「知的ゲーム」に参加資格があ るとみなされるほどの、専門的な知識が必要というわけではない。リンゼイの言うように、「何とか議 論できるようにする」よう努められればよいのである。 次に、もう一つの「方便」の方を説明する。専門分野への不慣れや、情報量の不足では勝てるはず のない状況での対処方法として、相手の立場や目的を確認するという方法がある。つまり、説明して いる人の所属、参加者の顔ぶれ、主催者や後援団体といった、説明された内容以外の情報を確認する 作業を行えばよい。また理論の使われ方がそれを成立される条件から外れていることが分からないと しても、内輪的な説明がされ、説明の仕方に同調圧力を感じる、つまり一択に限定した上で誘導し、 - 89 -.

(19) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号. それに従わないものを「経済学が分かっていない人」と決めつけるような、説明相手を侮るような説 明がされていれば、それは恣意的な「方便」であると判断してもよい。 確かに、専門外の人からすれば、専門家によって理論が展開されたら戸惑い、反論する十分な根拠 もないため、ひるんでしまうであろう。しかし、これまでの説明を踏まえれば、専門家以外は専門分 野の基礎理論の特性を理解し、社会科が目標としている「多角的、多面的なものの見方」ができれば よい。そのためには、説明を「聞き、不足を他から補足し、油断せず考え、理解する」という苦労だ けは避けることができない。これが専門家の、専門外の人にも分かるようにした、恣意的でない説明 と結びついた時、リンゼイのいう「必要不可欠のことでありながら、同時にもっとも難しい事柄」で ある「それぞれの領域における玄人の専門的知識と、一般市民の持つ共同生活についての経験と理解 とを、結びつけること」を実行できる可能性が生じるのである。 5.おわりに 本稿を含む本誌に掲載してきた論文は、経済学と社会科公民における経済教育の違いを説明する方 法を検討している。今回は、冒頭で引用した孔子の言葉を踏まえ、「名と実」の乖離を埋める努力が必 要であることを示した。この必要性を理解してもらうため、「経済学」の説明が現実から乖離した「知 的ゲーム」になっていることを示す例を紹介した。また、この例の説明を通して、視野を意図的に狭 くすることで成立する専門分野では、論理的であるほど抽象度が高まり、現実からかけ離れることが ある、という二律背反を可視化した。 しかし、本稿で述べたように、専門分野における基礎理論やそれを使って行われる「知的ゲーム」 は、現実離れしているとしても、論理的であることは否定すべきではない。それは細分化された分野 の、抽象化せざるを得なかった基礎理論を、一から体系的に学ぶために不可欠だからである。 本稿で問題にしているのは、「知的ゲーム」やその中で用いられている「理論」そのものではなく、 その前提を示すことなく普遍のものであるかに説明し、またそれを都合よいところだけかいつまんで 「方便」として利用している「行為」である。この「方便」という、理論を都合よく利用して誘導する 方法を、本稿が問題にする理由は、自身が考えることを止めているだけでなく、社会科の目標にある 「多角的、多面的に」捉えさせないよう、人に考えさせないように仕向けているからである。このよう なことから、非常に残念なことに、聞く側である「一般のひとびと」は「教養」(liberal arts)を対抗手 段として身に着けることが必要になるのである。 このことから、視界を狭めることで成立する論理的「正しさ」を口実に、多角的多面的に考えるこ とを怠ること、また人に考えさせないように仕向けてはならないことが分かる。そのため、このよう な行動を採らないよう、結果的に採っていることにならないよう努めることが必要になるのである。 参考文献一覧 井上永幸、赤野一郎 編(2012)『ウィズダム英和辞典 第3版』、三省堂。 ウェーバー,マックス(1920)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、大塚久雄訳(1989)、岩波書店。 宇多賢治郎(2016a)「『経済学』と『経済』教育の乖離 前編:経国済民と節約の分離」、『山梨大学教育人間科学部 紀要』、第 17 巻、山梨大学教育人間科学部。 宇多賢治郎(2016b)「『経済学』と『経済』教育の乖離 後編:私と公民の分離」、『山梨大学教育人間科学部紀要』、 第 17 巻、山梨大学教育人間科学部。 宇多賢治郎(2017) 「社会科教育と経済学の基礎理論 前編:例1 需給均衡理論の検証」、 『山梨大学教育学部紀要』、 第1巻、山梨大学教育学部。 宇多賢治郎(2018a)「経済動向を示す値と経国済民の関係 前編:収支バランスと経国済民」、『山梨大学教育学部 紀要』、第2巻、山梨大学教育学部。 - 90 -.

(20) 「経済学」と「経済」教育の乖離 その3. (宇多賢治郎). 宇多賢治郎(2018b)「経済動向を示す値と経国済民の関係 後編:経済成長と経国済民」、『山梨大学教育学部紀 要』、第2巻、山梨大学教育学部。 奥野正寛(1990)『経済学入門シリーズ ミクロ経済学入門 第2版』、日本経済新聞社。 金森久雄、荒憲治郎、森口親司(編)(2013)『経済辞典 第5版』、有斐閣。 金谷治訳注(1963)『論語』、岩波書店。 小学館国語辞典編集部(編)(2012)『大辞泉 第2版』、小学館。 スミス,アダム(1789)『国富論 II』、大河内一男 監訳(1978)、中央公論新社。 東京書籍(2016)『新編 新しい社会公民』。 根井雅弘(2005)『経済学の歴史』、講談社。 ピケティ,トマ(2014)『21 世紀の資本』、みすず書房。 平凡社(編)(2006)『世界大百科事典 第2版』平凡社。 山本七平(1995)『日本資本主義の精神 なぜ、一生懸命働くのか』、PHP 研究所。 松村明(編)(2006)『大辞林 第三版』、三省堂。 文部科学省(2011)『小学校学習指導要領』。 文部科学省(2018)『小学校学習指導要領 平成 29 年告示』。 リンゼイ,A.D.(1935)『[増補]民主主義の本質 ―イギリス・デモクラシーとピュウリタニズム―』、永岡薫訳 (1992)、未来社。 Lindsay, A.D. (1935), Essentials of Democracy, Oxford University Press, UK.. - 91 -.

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参照

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