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は じ め に
「炭鉱」というと,いまだに多くの人々が「暗い」 というイメージをもっているかもしれない。地底の暗 闇での危険で厳しい肉体労働,一度に多くの犠牲者を 出す炭鉱事故,斜陽産業となってからの相次ぐ閉山, それにともなう大量の失業者と地域社会の急速な衰 退,さらには戦時中の「強制連行」1)……。写真家・土 門拳の写真集『筑豊のこどもたち』はあまりに強烈で あり,幾度もドラマ化・映画化されている五木寛之作 の『青春の門』(筑豊・田川が舞台)は退廃した炭鉱 街のイメージを再生産してきた。また,2007 年に, 有名な産炭地であった北海道夕張市が財政再建団体に 指定されたのも記憶に新しい。報道では,炭鉱閉山後 の夕張市がいかに無茶な観光開発を行なっていたか, という側面が強調されることが多かったが,そもそも そうした観光開発を行なった夕張市の危機感も,以下 のように炭鉱の「暗い」(と思われているという)イ メージからきたものであったことには注意すべきであ ろう。 観光開発についての施策の基本としては,疲弊し た夕張の暗!い!イ!メ!ー!ジ!を!払!拭!させ,他からの来訪者 に期待がもてる町に変え,魅力のある町として企業 立地が図れることができることを目標としたもので ある(夕張市史編纂室編 1991 : 34,傍点筆者) その一方で,近年炭鉱をめぐる「明るい」ニュース としてあったのは,2011 年に山本作兵衛の炭鉱画が ユネスコの世界記憶遺産(Memory of the World)に 登録されたことだろう。世界記憶遺産は日本人にとっ てはまだ馴染みの薄いものかもしれないが,れっきと したユネスコの三大遺産事業の一つであり,今回は日 本政府によってではなく,福岡県田川市と福岡県立大 学共同の推薦で日本初の登録となったという点で画期 的な出来事であった。だがここで注意しなければなら ないのは,山本作兵衛の炭鉱画は,炭鉱労働,炭鉱社 会の豊饒な世界を描いているものの,あくまで筑豊の 小炭坑の,ある一時代の姿を描いたに過ぎないという ことである。さらにそこには,炭鉱労働だけでなく, 生活の様子や遊びなどの様々な風俗が描かれている が,なかでもとくに,狭い坑道で裸で作業をする姿生活戦略からみる炭鉱社会像の再考
──北海道岩見沢市朝日町における「出面取り」の事例から──
木 村 至 聖
Re-imagining Coal Mine Community :
From the Case Study of“Demen-tori”
KIMURA Shisei
Abstract : This paper analyzes the example of labor practice called“Demen-tori”performed at the Asahi coal mine in Iwamizawa, Hokkaido in the 1950s.“Demen-tori”is a dialect of Hokkaido referring to day labor. As illustrated by the example of this paper, the women in Asahi coal mine, in the face of the crisis of commu-nity caused by its closure, attempted to support the household economy by working in groups at the neigh-boring farm villages in order to overcome this crisis. This paper aims at reconsidering the image of coal mine community by showing clearly what kind of social condition made this“Demen-tori”possible and how it was organized.
や,刺青をした労働者の姿ばかりが注目されがちであ り,作兵衛自身が余白に記した詳細な解説文はしばし ば見落とされている。こうしたことの背景には,「一 般社会」から逸脱したものとしての自らの炭鉱のイメ ージを見ようとする社会的なまなざしがあるのではな いだろうか。 このように,特異なものとしての炭鉱のイメージ と,筑豊,夕張という土地の名は分かちがたく結びつ けられているようである。だが,国内の炭鉱は筑豊や 夕張だけではないのは言うまでもなく,またそもそも 筑豊と北海道の炭鉱とでも多くの点が異なる。中小炭 鉱が多かったため 1950 年代になだれをうって閉山が 相次ぎ,大量の失業者を出した筑豊に対し,北炭や三 菱などの大手炭鉱が多かった北海道の炭鉱は,1970 年代以降に日本の石炭生産の過半を占めるようになっ た(中澤 2011)。大手炭鉱,そして比較的遅くまで残 っていた炭鉱ほど,労働現場の機械化・組織化も進ん でおり,山本作兵衛の炭鉱画に描かれているような, ツルハシなどを使った手掘りの労働現場からは大きく かけ離れてくる。また,戦後労働運動の成果として, 炭鉱会社による福利厚生はますます充実し,会社側も 合理化の一方でそうした施策を積極的に推進すること で,良質な労働力の確保・再生産に努めた。これによ り,労働だけでなく,生活の面でも,地域・時代によ って炭鉱社会の姿というのは大きく異なっている。そ れゆえ,画一化された「暗い」,貧しい,厳しい炭鉱 イメージに対して,違和感を持つ炭鉱経験者も多い (たとえば,吉岡 2012)。 こうした一面的な炭鉱社会像に対し,本稿が注目す るのは,北海道岩見沢市にあった朝日炭砿2) の事例で ある。とくにここでは 1950 年代,炭鉱の一時休山と いう危機を救った,女性たちの「出面取り」3) に注目す る。「出面取り」とは,北海道の方言で日雇いのアル バイトのような仕事を指す言葉であり,本稿では,炭 鉱マンの妻たちが家計を助けるために近隣の農家に手 伝いに行く事例をとりあげている。もっとも,これは 規模からすれば小さな事例であり,資料も乏しく,数 少ない聞き取りから描き出すのには確かに無理がある かもしれない。しかし,それでも記録する意義がある と思われるのには理由がある。 第一に,本事例が炭鉱の世界の豊饒さを描き出す好 例だからである。炭鉱はその地理的条件や,経営側の 厚い福利のため,比較的独立した,閉じた社会を形成 していると考えられてきた。だが,この朝日の事例 は,炭鉱集落が近隣の農業集落と密接に関わることで 存続しえたことを示すものであり,どのような社会が 形成されるかには,その地域の文脈など,様々な要素 が影響していることが明らかになる。第二に,この事 例は,失業という生活の危機にあっていかに生き延び るか,という危機に対して,人々(家族,労使,地域 社会)の助け合いが持つ普遍的な可能性を示してくれ るからである。実際,炭鉱という世界は多様で豊饒な 世界であるとともに,「一般社会」と同様に人々が労 働し,生活していくために様々な工夫や努力を重ねて 築き上げられてきた社会であった。にもかかわらず, それを特異なものとして,「一般社会」から排除し, 忘却し,あるいは画一的なイメージのもとに押し込め てきたのが近代,そして現代の日本社会ではなかった か。本稿は,そうした炭鉱をめぐる事例の一つに注目 し,人が自らのもつ様々な資質や資源を動員し,かつ 他人と結びつきながら,生活を営んできた事例を通し て,一面的な炭鉱社会像を再考しようという試みの一 部である。
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朝日炭砿の概要
2. 1 万字線と石炭産業 まずここで紹介する事例の舞台について概観してお こう。その舞台とは先述の通り朝日炭砿という炭鉱の あった岩見沢市朝日町だが,その地域の特性をみる上 で,旧国鉄万字線の存在は見落とすことはできない。 図 1 のように,万字線は室蘭本線の志文駅(岩見沢 市)から分岐し,夕張炭鉱と山一つ隔てた万字炭鉱の ある万字炭山駅(空知郡栗沢町,現・岩見沢市栗沢 町)までを結ぶ路線で,1914(大正 3)年に全線が開 業した。万字炭鉱は,夕張炭鉱を経営する北海道炭礦 汽船株式会社(以下,北炭)が 1905(明治 38)年か ら本格操業開始したが,万字線沿線ではより早くから 拓けたのは上志文であり,1888(明治 21)年の夕張 炭鉱の発見をきっかけに岩見沢と夕張を結ぶルートが 形成され,その途上にある上志文には徳島・富山県人 が 相 次 い で 入 植 し た と い う ( 岩 見 沢 市 ・ 栗 沢 町 1986)。朝日炭鉱の開坑,および朝日の市街の形成は, 明治 40 年頃に上志文の人物が朝日の石炭を志文や岩 見沢市街地に運び販売したのがきっかけとされる(岩 見沢市 1963)。またこの頃から上志文地区では水稲が 盛んになり,のちの農業地帯としての基礎が作られて いった。万字線は,こうした石炭や農作物,そして木 材の輸送への要請から建設されたのであり(岩見沢市 ・栗沢町 1986),この沿線に,上志文,朝日,美流 甲南女子大学研究紀要第 49 号 人間科学編(2013 年 3 月) 122国鉄万字線地図 開通 大正 3 年11月11日 廃止 昭和 60 年 3 月31日 渡,万字といった主だった集落が形成された。 朝日での石炭採掘の始まりは先述の通りだが,以後 鉱業権4) は変遷し,1940(昭和 15)年に日本硝子株式 会社が自社の原料炭として使用するため,鉱業権を譲 りうけて事業を継承した(岩見沢市 1963 : 1060)。さ らに戦後,1949(昭和 24)年 3 月に朝日炭砿株式会 社に鉱業権が譲渡されて閉山まで継続した。採炭切羽 は炭層傾斜が 80°以上の急傾斜であったため,ほとん ど機械に頼ることのない,熟練の必要な急傾斜採炭5) が行なわれ,採掘された石炭は主に家庭や工場のボイ ラー用ストーブに用いられた。従業員数はピーク時の 1960(昭和 35)年でも 433 人(うち直轄鉱員 225 人) という小規模な炭鉱であったが,病院,保育所,従業 員住宅といった福利厚生施設を会社が設置しており (朝日炭砿株式会社 1963),コンパクトにまとまった 炭鉱集落であったといえるだろう。 だが不幸にして,1972(昭和 47)年に 9 名が亡く なる坑内のガス突出事故により,採炭現場をより深部 に移行せざるを得なくなり,新鉱開発を計画するも道 炭労の反対にあい挫折6) ,1974(昭和 49)年 12 月に あえなく閉山となった。ちなみに,万字線沿線では万 字炭鉱が翌年閉山するとともにほぼすべての坑内掘り 炭鉱は姿を消し,万字線も 1978(昭和 53)に貨物営 業を廃止し,1985(昭和 60)年には全線が廃止され ることとなった。 2. 2 「朝日」という町──近隣集落との関係 それでは,この朝日炭砿によって発展した朝日の町 はどのような集落だったのだろうか。地理学者の川崎 茂は,資本主義体制下における鉱山集落を一つの企業 体としてとらえ,日本の代表的な鉱山集落を単一企業 集落 single-enterprize community という視角から分析 いている。川崎(1973)によれば,鉱山集落は鉱山事 業所地域を中核として,鉱山従事者の住宅地域,商業 などそのサービス機能地域の 3 機能から構成されてお り,島や山間部など空間的孤立性の強いところほど, 企業が労働力保持のため後の 2 機能への投資を強め る。その最たるものとして,山間部の夕張や離島の高 島・端島(長崎県)が挙げられている。 すると朝日はどうであろうか。前節でふれた通り, 朝日は上志文という農業集落と隣接していることが特 徴として挙げられる。とくに戦後食糧難の時代,この ことは非常に大きな意味を持った。1946(昭和 21) 年,朝日炭砿に就職して当時の事情を知る竹林博さん は,以下のように語っている。 当時生活内容にしても,石炭増産のための特配な ど,国がやってましたから,まあ食糧事情はよかっ たです。……すぐ近所に上志文とか,農家のうちが あったから,三度の食事が野菜ばかりとか,かぼち ゃが多かったとか,やはりみなさんが工夫もあった でしょうけどね,お米を食べられる地域的な環境の よさ。7) また少し遠いが,朝日から 20 キロメートルほど離 れた栗山という集落からもゴボウを売りにきていたと いい8) ,終戦直後にはすでに炭鉱集落と農業集落の間 で行き来があり,自然と顔見知りの多い関係が出来上 図 1 国鉄万字線地図(岩見沢市『万字線鉄道資料館』資料より) 木村 至聖:生活戦略からみる炭鉱社会像の再考 123
がっていたことが推測される。また,朝日にはそれだ けの「オープンさ」があったと竹林さんは語ってい る。 (大手の)三菱あたりだとだいたい詰所があって ね,そこでがっちり押さえてますからね。出入りす るのでも普通だと「鑑札」渡してね,商売すると か,そういうのがあるけど。朝日だと……外勤がい てもね,別にそんな手厳しいこと言いませんから。9) またこうした開放的な関係は,炭鉱集落の内部にも あった。それは,しばしば炭鉱では身分制度に擬せら れる職員と鉱員の関係について語られている。 大手ですと,職員の住宅はここから,こっちは鉱 員だと,地域的な線は引かれてたけど,朝日の場 合,風呂入るのでもね,職員も鉱員もなし。学校の 先生だって鉱員の風呂に入って。そういう点は大手 とは全く格差のない,オープンな(関係)ね。10) 以上のような,集落内外での開放的な人間関係は, 朝日の特徴であるといえるだろう。その大きな条件と して考えられるのは,第一に朝日炭砿が三井や三菱, 北炭などの大資本による炭鉱ではなく,小規模な炭鉱 だったことが挙げられるだろう。企業が学校や病院な ど集落に必要な最低限の要素は面倒をみつつも,先の 川崎の言う鉱山集落の 3 機能をすべて占有する自己完 結性を目指すことはなかったのである。そして第二 に,炭鉱とは性質の異なる農業集落との近接性であ る。山を一つ隔てた谷あいの夕張とは異なり,朝日は 万字線沿線でも比較的岩見沢市街地に近い位置にあ り,市街地近郊に形成された上志文など複数の農業集 落と隣接していた。つまり,小炭鉱である朝日炭砿が 集落機能の占有を仮にできたとしても,あえてする必 要がない地理的条件があったのであり,それが朝日に おける開放的な人間関係を形成したと考えられる。
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炭鉱の閉山という危機
このように,朝日炭砿は万字線沿線の炭鉱のなかで も小規模ながら,1972(昭和 47)年の坑内事故まで は労使協調で堅実な経営を続け,集落としての朝日町 もコンパクトながら開放的で家族的な雰囲気を形成し ていた。その基礎となった近隣農業集落との良好で有 機的関係は,たんなる地理的な近接性だけから可能と なるものではない。そこには,実際に両集団の関係を 取り持つ主体がいて,葛藤や交渉,妥協や工夫の上に 朝日炭砿の存続を可能にした近隣集落との有機的関係 を築き上げたのである。その関係の形成過程,そして 実際に両集落でどのような関係が取り結ばれていたの か,それを知るための手がかりとして 1954(昭和 29) 年の炭鉱一時閉山(休山)という危機についてみてみ たい。 1954(昭和 29)年 4 月,土砂崩れ事故により朝日 炭砿は資金繰りが悪化し,労働組合は賃金未払いに対 して 5 月からスト,ロックアウトに入る。これに対 し,会社側は 5 月 31 日,全員を解雇し,一時閉山を 余儀なくされる。つまり,炭鉱に依存していた地域の 人々の生活が完全に宙に投げ出されてしまったのであ る。以下では,この閉山という危機に対して当時の朝 日の人々がいかに対処したのかについてみていきた い。 3. 1 一時「休山」という暗黙の了解 もっとも,この「閉山」というのも,「意味ありげ な」ものだったという。というのも,炭鉱は完全に放 棄されてしまったわけではなく,将来的な再開を視野 に入れて,経営者側と道炭労との話し合いのもと「生 産管理」が行なわれていたのである。通常の採炭現場 での採炭は大量の火薬が必要となるため,坑道の維持 ・補修のかたわら,必要最低限の火薬を使って家庭用 の石炭だけは出炭されていた。そのため,坑内保安の 確保のために必要な坑内職員や,採炭・掘進の経験の ある人など一部の組合員だけは生産に従事することが できたが,それでも総従業員の「7 割近く」は仕事が なかったという。 その一方で,あくまでも一時「休山」であり,いず れは生産が再開されるという労使の暗黙の了解のも と,会社側も従業員を朝日にとどめるための様々な援 助を行なった。たとえば,給料の前借りというかたち で,会社の配給所で使える「証明」を発行したり,社 宅の家賃や会社が運営する病院での医療費の支払いを 猶予したりするなどの措置である。その結果,一時閉 山から半年後の 11 月に生産が再開されたときにも, 従業員の大半は朝日に留まっていたという11) 。 3. 2 閉山中の苦境 こうした炭鉱再開への暗黙の了解を支えた,経営側 の会社再建への意思の表れとして挙げられるのが,岩 見沢市の援助を受けた上水道工事である。岩見沢市の 甲南女子大学研究紀要第 49 号 人間科学編(2013 年 3 月) 124記録によれば,この上水道工事は一時閉山以前から待 望されていた事業であったことがわかる。 岩見沢市朝日町は,国鉄万字線朝日駅の西北にあ る朝日炭鉱によって発達した市街であるが,この地 区は従来井戸水及び流水を止揚し,例年渇水期には 深刻な水不足を招来し,飲用はもとより衛生上憂慮 される苦境に置かれていた。これを一挙に解決すべ く,昭和二十八年六月,事業の認可を受け,昭和二 十八,二十九両年度にわたる継続事業として,国庫 並びに道費の補助等,総工費九百万円余をもって, 昭和二十九年一月三十一日工を起し,三十年三月二 十五日竣工を見た。(岩見沢市水道部上水道史編纂 委員会編 1978 : 361) この上水道工事が閉山の時期に重なったのはしたがっ て偶然ではあるが,閉山したにもかかわらず,この事 業が着手され,継続したということは,朝日にとって は大きな意味を持っていた。閉山当時,職員組合の副 委員長であり,この上水道に関わるダム建設工事の責 任者でもあった竹林博さんは,以下のように語ってい る。 債権者も,上水道着手したことの口実っていう か,ヤマが立ち直るきっかけになる工事をやるんだ ったら市の協力もいただいて,ぜひ成功させてくれ と。それがやっぱり働く人の定着ができるかけがえ のないシンボルだから。12) また,一時的な働き口という意味では,この上水道 工事に加えて,道路の舗装工事などがあった。1954 (昭和 29)年には国体開催にともない,戦後初の昭和 天皇北海道巡幸が実現した。その際,岩見沢の一条通 の舗装工事が行なわれ,その期間がちょうど朝日炭砿 の閉山時期と重なっていたのである。 今みたいな機械化された舗装じゃないんですよ。 野外で鍋で石炭炊いて,材料熱処理して作って。そ れで今みたいにダンプカーなんてないから,大きな 鍋みたいのに入れて持ってってね。13) このように,非常な重労働ではあったものの,こう した事業にともない一時的な雇用が発生したことで, 炭鉱で失業した朝日の一部の男性たちは,ひとまず臨 時の仕事を得ることができた。とはいえ,炭鉱操業時 と比べれば雇用されうる人数,給料などの面でも,朝 日の人々の生活を支えるにはとても苦しい状況であっ たことは間違いない。そんななかで,人々の生活と朝 日の再建を支えたのは,女性たちであった。
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近隣農村への「出面取り」
4. 1 当時の農村の状況と出面取り 朝日炭砿の広報紙として発行されていた『広報あさ ひ』第 30 号をみると,朝日の女性について,「一番感 心するのは良く仂くこと」,「春夏秋冬,四季にあつた 農業や其の他の仕事に出かける」(『広報あさひ』30 号,昭和 45 年 12 月 9 日)と書かれている。ここでの 「農業」とは,「出面取り」のことを指していると思わ れる。すでに第 1 章でも説明したが,出面取りとは北 海道の方言で日雇いの労働のことを指し,朝日では上 志文など近隣の農業集落に出かけて行って,田植えや 稲刈りなどの季節労働に従事することが一般的であっ た。この「出面とり」は,朝日では生活のなかに溶け 込んだ風景となっていたようである。 慣れてる方は頭下げて(田植えを)やってるでし ょ。ですからね,顔が腫れてくるんですよね。車で 帰ってきて朝日炭砿の商店街行くと,その当日もら った現金ですぐね,おかずを買ったりして帰る。そ のときお母さんのむくんだ顔があったり……。14) 1950年代は米の増産への社会的要請の一方で,農 家では人手不足の状況が続き,ここ岩見沢でも問題は 深刻であった。これについて北海道総合経済研究所は 以下のように記録している。 戦後一九五三年ごろから北海道の農家人口が減少 傾向をたどり始める。これは,戦時,戦後において 帰農,開墾入植,分家および食糧自給の目的からに わかに膨張した農業就業人口が,次第に食糧需給が 円滑となって不安感が払拭され,他産業の復興が緒 について年における雇傭が増加するにつれて,再び 減退に転じたことによるものであるが,こうした形 の減少を続けるうちに,一九五五,五六年にいたっ て経済成長に伴なう農業人口の「地すべり的」減少 へ と 発 展 し て い っ た 。( 北 海 道 総 合 経 済 研 究 所 1963 : 795) こうした背景から,臨時雇・季節雇である「出面さ 木村 至聖:生活戦略からみる炭鉱社会像の再考 125ん」への需要は高まり,「出面賃」も高騰していった。 農業機械もまだ一般的でない時代,稲刈りなどの作業 は人力に依存していた。朝日炭砿が閉山した 1954 (昭和 29)年という時期はまさにこうした時代にあ り,地理的にも恵まれた条件で,農業集落と炭鉱の閉 山した朝日との間で利害が一致したのである。第 1 章 でもみた通り,もともと朝日は地理的にも稲作地帯に 近かったこともあり,石炭と米の物々交換なども行な われていたというが15) ,閉山の年には朝日の女性が集 団を作って近隣の農家まで「出面取り」に行ったとい う。 集団を作った朝日の女性たちは,農家から迎えにく る車の荷台に乗り,10∼20 分ほど距離の上志文,40 ∼50 分ほどの北村などに働きに出た。主に田植えの ような集中的に人手を要する作業に従事するので,働 ける期間は一年間に一か月ほどしかないが,当時の田 植えの時期は 5 月の中旬から 6 月中旬頃であり16) ,そ れが朝日炭砿が閉山した時期と重なっていたことも幸 いして,朝日の人々の生活を大いに助けることになっ た。また,限られた期間ではあっても,先述の通り当 時「出面賃」は急騰しており,しかも現金当日払いで あったことが魅力であった17)。 そして,農家からの評判のいい出面取り集団は,他 の集落からも声がかかり,少しずつ時期をずらして仕 事を請け負っていくことによって臨時の収入を少しで も長く得ることができた。閉山当時,朝日には 2∼3 人からなる小さい組を含めて,5 組ほどの出面取り集 団があったという。そのなかでも,70 人を超える最 大の集団を組織し,当時 15∼20 軒あった上志文の農 家すべての仕事を請け負ったのが,金子清子さんの組 織する集団(組)であった。当時朝日の世帯数は 200 程度だったので(朝日炭砿株式会社 1963),一世帯か ら一人の女性が働きに出ていると考えるとおよそ三分 の一の世帯が,金子さんの組織する組で夫の失業中の 生計を立てたとみることができる。 金子さんの組が最大になったのは,やはり農家から の評判がよく,それだけ多くの仕事を請け負うことが できたからである。それでは,金子さんはいかにして こうした農家からの信頼を勝ち取り,この最大の集団 を組織したのだろうか。 4. 2 炭鉱が閉山になって 金子清子さんは,朝日にほど近い,栗山の農家の生 まれである。子どもの頃から,家の仕事を手伝ってい たが,その当時から「出面さん」が手伝いにきてお り,金子さんはその仕事ぶりをずっと見てきた。 実家農家だからね,出面さんのごはん炊くのが私 の仕事さ。田んぼ出る時間はあんまりないの。だけ ど昼になったら,ちょっと時間あれば手伝いなさい よっちゅって,なんぼか。そしたら出面さんたちが ね,のろけ話して,それを聞きたくて(笑),顔赤 くしながら。離れたら聞こえないから,遮二無二つ いて歩いたもんだよね。出面さん方って,黙ってな んてやってないから。一日中うつむいてるから,う ちでこうだったとか,ああだったとかって,おのろ け話やら,泣き言やら,そんなこと言いながら植え てるんだからね。18) 朝日には,1949(昭和 24)年,朝日炭砿の鉱務所 書記をしていた男性と見合い結婚をして移ってきた。 夫と夫の父と同居し,結婚の翌年に長女,翌々年に長 男が生まれた。そんなとき,朝日炭砿が閉山になった のである。 長男長女が生まれたころは,(朝日炭砿も景気が よく)何の苦労もなしに,家庭の心配なんてしたこ とないもん。それがいきなりだよ,収入ないってい ったら,面くらうでしょ。子ども二人いて,じいち ゃんが体悪くているんだからね。これは何とかしな きゃなって思って。19) そこで,夫は鉱務所の同僚たちと一緒に,先述の道 路舗装工事に出たが,慣れない仕事の上,収入も決し て十分なものではなかった。 父さんが岩見沢の出面(道路舗装工事)に来たと き,事務所だけでかたまって行ったの。そして土方 に行ったら,三日目でマメだらけ(笑)。かわいそ うになって,「あんたなんぼもらってるの」って言 ったら,300 円。そのときにしたら私(の出面賃 は)600 円なの。時間も 7 時から 6 時まで。お昼時 間 1 時間と休憩時間 30 分,それで 600 円。父さん のだいたい倍もらってるの。それならおれ家で番兵 (子守)してるわって。上の子いたから。20) 4. 3 出面取りはいかに組織されたか こうして,金子さんの家庭では,主に清子さんが夫 の失業中の家計を支えることになったのである。初め のうちは,金子さんも他の女性が組織する出面の組に 甲南女子大学研究紀要第 49 号 人間科学編(2013 年 3 月) 126
ついて行っていた。では,いかにして金子さん自身 が,朝日で最大となる組を組織するに至ったのだろう か。それにはある事件がきっかけとなっていた。 もうここまでいったら終わりの仕事だったの。そ れで 6 時の(終了の合図の)サイレンが鳴ったか ら,(仕事を)あがるわね。だけど仕事の「場合」 があるでしょ,私に言わしたらね。もう少し,5 分 かそこら(で終わり)だから,「もうちょっと植え てったら」って言ったら,「サイレン鳴ったもん」 って言ったから。……そしたらね,次の日,すまな いけど金子さんこれから 6 時から常会あるから,ち ょっと残ってくれないかって。そして農家のうちに あがっていったら,ちゃんとご飯の支度してて,こ れから大事な話があるんだっちゅうわけ。金子さ ん,これから 5 人でも 10 人かそこらぐらいのグル ープ作れるかいっていうから。そのグループ作って くれて完全にできたらね,うちの部落全部まわって もらって,……それをね,世話するから,(仕事の できる期間を)長くするからしてくれっちゅうこと で。21) 農家出身で,農作業の事情をよく知る金子さんは, 仕事を中途半端にして切り上げてしまうと結局農家の 人に迷惑がかかることを気にかけたのである。そうし た経験と,金子さんの人柄が農家の信頼を得たのだろ う,にわかに組を組織してほしいと農家の側から直接 依頼があったのである。 これに加えて,当時の出面取りの組と農家との間 で,賃金についてもめていたという。そのことで,両 者の関係まで悪化してしまっては元も子もないと考え た金子さんは,「結局,農家側の言い分とこっち側の 言い分の中に入んなきゃなんない」と,仕事の日数が 長くとれるという条件を優先して,農家側の依頼を引 き受けた。 やっぱりみんな旦那の仕事のない,お金のない時 代だから,必死なんだわ。そんなね,100 円くらい 安くても,日にちさえとってもらえばいい,一日で も多く働きたいっていう,そういう考えなの。そこ を農家の人が見込んだわけ。お金のことばっかり言 われたら困るっていうことでね。……600 円と 650 円だったら,長続きするっちゅうことになったらど っちが得だと思う? 50円の差でね,日にちがな かったら何もならんでしょう。そういうことな の。22) その一方で,農家の側も朝日の人々の事情をくん で,農作業未経験者であっても,一人前の出面賃を払 ってくれたという。 (素人の出面賃と熟練者の出面賃は本来)違うけ どね,そこをね,私行ったときにね,……未経験者 でもいいから,金子さんいいと思ったら連れてこい って言うでしょ,(全然作業できない人を連れてい っても)だけど一人前もらったの。……最初だから その人は半分(の出面賃)でいいと思ってる。うち に遊んでても病人か子供でなかったら町のなかにい ないっちゅうくらいなんだからね。少しでもみんな と一緒に肩並べたいちゅうことで,誘ったりしたけ ど,農家の人は当たり前にこうやって(同じ出面賃 を)くれた。……それを今でも恩人のように,あの とき行ったらまさか一人前の出面賃もらえると思わ なかったって。23) 夫に仕事がない不自由な状況で,作業に不慣れなの にもかかわらず一人前の賃金をもうらことができたこ とは,炭鉱閉山中の朝日の女性たちにとって家計を支 えることができただけでなく,大きな励みになっただ ろうことは想像に難くない。金子さんが出面に誘った ある女性は,その日もらった出面賃を,「もったいな くて使えなくて神様にあげた」24) というような話も聞 いた。 こうして,閉山の年の 5 月から 6 月にかけて,金子 さんは農家の要求を訊きながら,とにかくその日の生 活費がほしい朝日の女性たちに仕事を割り振りする 「番割り」に奔走した。 朝晩家の玄関の前に 20 人も 30 人もたまるの。明 日私どこ行くんだ,明日私どこ行くんだと。うちに 帰ったらすぐね,農家からも来てるでしょ,そこの うちは 5 人要るとか,ここのうちは 3 人とか,ここ は 10 人とか。そしたらここの家は何日がいいとか, こっちは何日がいいとか,うまく割り振りして。そ したらぶつかるでしょ,同じ農家でも早く植えたい んだから。そして素人もいるから,慣れてる人と慣 れない人を混ぜて。……いま息子が言うのでは,母 さんのあの姿,絶対忘れられないって。25) こうして金子さんのもとには仕事を求める朝日の女 木村 至聖:生活戦略からみる炭鉱社会像の再考 127
性たちと,信頼できる働き手を求める農家が集まり, やがて朝日で最大の出面取り集団ができた。地理的に も近い農業集落の側のニーズと,炭鉱集落の側のニー ズが合致したことが,この朝日における「出面取り」 の事例の前提となっているが,ここでみてきたよう に,その両者の利害に誠意をもって向き合い,その関 係をコーディネートできる信頼できる結び目として, 金子さんの役割が非常に大きかったということは間違 いないだろう。 とにかくね,農家の人っちゅうのは正直だから。 絶対誠意で付き合わなかったらね,ヤマかけたり ね,ハッパかけたりしたらダメなの。これしかでき ないからこれだけはやるからとかってね,自分の能 力の範囲内をちゃんと報告しないと。そしたら義理 もあるかもしれないけど,誠心誠意やってくれてる んだから,こっちもその気になってっていうことで ね。26) 4. 4 再建後の様子 さて,こうした金子さんら女性たちの支えで,炭鉱 閉山中の朝日の家庭生活はなんとか守られた。閉山の 半年後の 11 月,朝日炭砿は生産を再開し,金子さん は炭鉱主婦会に「内助の功」ということで表彰され た。その後,朝日炭砿は 1974(昭和 49)年の閉山直 前まで,小規模の炭鉱としては異例の長期間にわたっ て,労使協調で堅実な経営が続けられた。 一方,金子さんの家では,義父が炭鉱再開直前の 10 月に亡くなり,再開後の年明けに次女が生まれたた め,出面取りは数年休んだ。その後,子どもが幼稚園 に入ったのをきっかけに,出面に復帰したが,その頃 にはみな個人個人で出面に行くようになっており,農 業機械も入るようになっていったため,一時閉山当時 のような大規模な出面取りはもう行なわれていなかっ たという。
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考
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以上,炭鉱の一時閉山という危機にあたって,朝日 炭砿の女性たちが行なった「出面取り」の事例につい てみてきたが,この事例が従来の一面的な炭鉱社会像 を再考する上でいかなる意味をもつのか,検討してお きたい。 まず確認しておきたいのは,炭鉱社会は,冒頭でふ れたように「暗い,貧しい,厳しい」といった,ある 種の漠然とした負のイメージによって覆われているだ けでなく,戦後長らくも「一般社会」から逸脱した特 異な社会として扱われてきたということである。問題 は,いわばこの炭鉱社会の他者化,ブラックボックス 化によって,炭鉱社会の「暗さ,貧しさ,厳しさ」 が,近代日本社会が共有すべき本質的問題として捉え られず,またそこで営まれてきた人々の多様な生活戦 略が記憶されないまま忘れさられようとしていること にある。とくに炭鉱の地下労働という性質が,この炭 鉱社会のブラックボックス化の源泉となり,山間部や 島嶼部の自己完結した炭鉱社会のイメージがその他者 化を促進したと考えられる。これに対して,本稿でみ てきた朝日炭砿の事例は,近隣の農業集落と有機的に 結びついていたこと,そして女性がまさにその関わり の主体となり,炭鉱の危機の際に家計を支えたことな ど,炭鉱社会の多様性を示す例の一つとして,記憶さ れておくべきことであろう。 女性の役割という点でみても興味深い。戦前の炭 鉱,とくに九州の筑豊など,自然条件として炭層が薄 く,採炭過程が手作業に限定されていた小炭鉱では, 女性の坑内労働も行なわれていた。こうした坑内労働 は一般的には後山夫のことを指し(野依 2010),石炭 を採掘する先山夫に対して,掘り出された石炭を坑外 まで運搬する仕事であった。坑内労働はかなりの高賃 金であったが,1900 年代に入って女子の保護などの 名目で衰退し,1928(昭和 3)年には鉱夫労役扶助規 則改正によって禁止された27) 。この背景に,坑内保育 所や炭鉱主婦会,生活改善運動によって,女性の「主 婦」役割,「母性」イデオロギーが広がり,炭鉱女性の 「主婦」化が進んだことも指摘されている(野依 2010)。 視点を戦後の炭鉱に移すと,1955(昭和 30)年に 成立した石炭鉱業合理化臨時措置法に端を発するスク ラップ・アンド・ビルド政策のもと,財閥系の大手炭 鉱には人員と資源が集中され,社宅をはじめ,学校, 病院などの福利厚生施設はますます充実し,炭鉱女性 が「主婦」化できる条件は一層整備されていった。そ の一方で,それぞれが小規模で機械化が困難な自然条 件であった筑豊の炭鉱は次々に閉山していった。 朝日炭砿は,どちらかといえばその規模,機械化が 困難な条件などの点などからしても,戦後の筑豊の炭 鉱に近かったといえる(保育所,病院が完成したのは 1964(昭和 39)年)。にもかかわらず,朝日が一時閉 山を経つつも奇蹟的な再建を遂げ,なお 1970 年代ま で存続しえた背景には,女性が「主婦」化できるほど の豊かさはなかったものの,ほどよい近さに人手を必 甲南女子大学研究紀要第 49 号 人間科学編(2013 年 3 月) 128要とする農業集落があり,炭鉱の危機に際してそうし た農業集落との関係を取り持ち,女性たちを巧みに組 織したアクターがいたことが指摘できるだろう。しか も,かえってこうした困難のなかで,職員と鉱員,経 験者と非経験者の分け隔てなく,女性たちがみな同じ 一人前の出面賃をもらえたということが,朝日独特の 開放的で一体感を形成するのにも寄与したと考えられ る。
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む す び
第 2 章でもみた通り,1972(昭和 47)年,朝日炭 砿では坑内のガス突出により 9 名が亡くなる事故があ り,その後賃金交渉のもつれから 1974(昭和 49)年 に炭鉱は閉山に追い込まれる。前年のオイルショック により,石炭見直しが叫ばれるなかでの閉山であっ た。それから約 40 年経ち,大手資本によらない小規 模炭鉱であった朝日が,一度の閉山の危機を乗り越え て再建し,この時期まで存続してきたというこの注目 すべき事例は,ほとんど記録もなく,忘れ去られつつ ある28) 。だが,以下のような竹林さんの矜持も含め て,朝日の事例は日本の炭鉱をめぐる歴史のなかで記 憶されるべきことであろう。 ヤマももちろん借金はしてましたけどね,石炭政 策に対する協力の理解を得られるような経営をして たっていうことは,中小でも朝日炭砿はお手本にな ったんじゃないかと思いますけどね。普通ですと ね,大手のがあって,子会社が入ってやるのが中小 炭砿なんだけど,うちは中小炭砿であって,大手と 全く縁がなかったですからね。……あまり大手の看 板で再建したんじゃなくて,中小の朝日炭砿独自の 色合いでヤマが成り立ったっていうことはね,そこ までみなさんからは書かれてはいませんけどね,内 容的には僕はよかったと思う。29) ここでの「朝日炭砿独自の色合い」とは,小規模な らではの顔の見える関係を活かした,労使の,そして 近隣の農村との信頼関係のことを指すのではないかと 筆者は解釈する。そして,その信頼関係を築くための ミクロな生活戦略が,本稿で紹介した女性たちの出面 取りの事例から読み取れるのではないだろうか。 最後に,朝日炭砿で最大の出面取り集団を組織し た,金子清子さんのその後についてふれておきたい。 朝日で閉山の危機を家族で協力して乗り越え,三人の 子どもに恵まれた金子さん一家は,1963(昭和 38) 年,夫の転職にともない岩見沢市に転出する。石炭か ら石油という情勢の変化を感じとって転職を考えた清 子さんの夫は,職業安定所で偶然岩見沢にある農機具 会社の求人をみつけ,その事務の仕事に就いたのであ る。折しも,農業が急激に機械化されていく時期に重 なり,田植えや稲刈りも出面取りに依存する必要がな くなってきていた30) 。金子さん一家の転身は,まさに 絶妙のタイミングだったのである。そしてその後の生 活においても,朝日炭砿の時代に築いてきた人間関係 が,新しい職場でも大いに役立ったという。 父さんが農機具(の会社)入ったでしょ。そした ら農機具の「の」の字も知らないでしょ。事務員な んだけど一応は外交もしなきゃならない。……最初 はね,油売りをさせられたの。……そしたら父さ ん,上志文ずーっと歩きなさいって。全部知ってる でしょって。父さんも協力してくれた家内のおやじ だっちゅうことで,行ったとこ行ったとこ油買って くれたの。31) こうした,自らの置かれた環境のなかでもてる資源 を動員し,人と人との結びつきによって生き延びてい く生活戦略には,現代社会を生きる我々も学びとるこ とができる普遍的な示唆が含まれている。炭鉱の歴史 は,何も夕張,筑豊ばかりではない。たしかに規模や 知名度において,両者は日本の炭鉱を代表するものだ ったかもしれない。そして朝日炭砿の事例は,炭鉱社 会の像を描くにはあくまで例外的な特殊事例だったか もしれない。だが問題にすべきなのは,それぞれの現 場で人々が切り拓いてきた様々な生き延びのドラマ が,近現代日本史のなかで,夕張・筑豊中心の炭鉱社 会像(しかも一面的な)へと収斂され,忘れられつつ あるということである。本稿の事例は,日本の炭鉱の なかでもさらに周縁化された一つの小炭鉱の事例では あるが,そこで人々が力強く営んできた生活の軌跡 は,どのようなかたちにせよ記憶される価値があるだ ろう。まずは本稿がその一つになりえていたら幸いで ある。 付記 本稿は,科学研究費補助金(基盤研究 A)「旧産炭地の ネットワーキング型再生のための資料救出とアーカイブ 構築」分担金,および甲南女子大学平成 23 年度学術研究 及び教育振興奨励基金による研究成果の一部である。ま た本稿の執筆にあたり,朝日炭砿元職員の竹林博氏,お 木村 至聖:生活戦略からみる炭鉱社会像の再考 129よび NPO 法人炭鉱の記憶推進事業団には多大なご協力を いただいた。記して感謝したい。 注 1)「強制連行」の実態や語の定義についてはここでは深 入りしないが,近年では外村(2012)がきわめて丁寧 かつ明快な議論の整理をしている。 2)一般的に,一つの炭鉱施設全体を意味するものとし て「炭鉱」,個別の坑道を指すものを「炭坑」として区 別されることが多い。本稿では,さらに固有名詞とし ての朝日炭砿については,「炭砿」の表記を採用してい る。 3)「出面取り(でめんとり)」とは,「北海道で広く使わ れて来た方言で,日雇い労働者のことである。語源は 明確ではないが,日雇い労働者の稼働を確認すること を「でずらとる」と称することから来ているという説 がある。また,岩手県九戸郡では労働賃金のことを 「でめん」と呼ぶという。さらに,北海道には早くから アメリカの農業技術が導入され,日本語化した英語が 少なくないので,「でめん」の語源を英語に求めようと する説もある」。(関 1981) 4)鉱業法第五条によれば,「鉱業権」とは,登録を受け た一定の土地の区域(鉱区)において,登録を受けた 鉱物を掘採し,取得する権利であり,同じく第六条に よれば,「租鉱権」とは,他人の鉱区において,鉱業権 の目的となっている鉱物を掘採し,取得する権利のこ とをいう。 5)筆者も執筆者の一人となっている中澤編(2011)で は,急傾斜採炭について,北海道赤平市の住友赤平炭 鉱を事例として,その採炭法,その現場に関わった炭 鉱マンの生活史の側目から詳しく記述している。 6)当時の朝日炭砿の経営陣の一人であった竹林博さん は , 閉 山 に 至 っ た 経 緯 を 以 下 の よ う に 語 っ て い る 。 「(道炭労とヤマ元の意図の食い違いが)ありました。 ……新鉱開発にはだいたいね,250 人のうちの 100 人く らい整理して,140∼150 人でね,月産一万トンでやろ うかという計画だったんですが,炭労はできるだけ多 く使えと。多く使うとなるとやっぱり生産量も増やさ なきゃならないんですよ。それは坑内の採掘計画から いくとね,実行できないんですよ。ただ絵に描いたモ チであれば描けるけども。……労組の方もやはり地元 の決定力というか,判断力を持つにはね,精神的なバ ックアップがとれなかったんじゃないかとね。やっぱ 炭労がダメだといったらね,大きな組織の中の組織で すから」(2012 年 2 月の聞き取りより)。 7)2011 年 8 月,竹林博さんへの聞き取りより。 8)2012 年 8 月,金子清子さんへの聞き取りより。 9)2012 年 2 月,竹林博さんへの聞き取りより。 10)2012 年 2 月,竹林博さんへの聞き取りより。 11)2012 年 2 月,竹林博さんへの聞き取りより。 12)2012 年 2 月,竹林博さんへの聞き取りより。 13)2012 年 2 月,竹林博さんへの聞き取りより。 14)2012 年 2 月,竹林博さんへの聞き取りより。 15)2011 年 2 月,竹林博さんへの聞き取りより。 16)2012 年 8 月,金子清子さんへの聞き取りより。 17)「田んぼ行ったらね,もうお昼にはお金もらうの。300 円なら 300 円で,お昼ごはん食べたら親方から。そう すると時間になったらさーっと帰れるでしょ。たいて いお昼に精算。よっぽど慣れてる人で何日分ってまと めてくれる家もいるけどね」(2012 年 8 月,金子清子さ んへの聞き取りより)。 18)2012 年 8 月,金子清子さんへの聞き取りより。 19)2012 年 8 月,金子清子さんへの聞き取りより。 20)2012 年 8 月,金子清子さんへの聞き取りより。 21)2012 年 8 月,金子清子さんへの聞き取りより。 22)2012 年 8 月,金子清子さんへの聞き取りより。 23)2012 年 8 月,金子清子さんへの聞き取りより。 24)2012 年 8 月,金子清子さんへの聞き取りより。 25)2012 年 8 月,金子清子さんへの聞き取りより。 26)2012 年 8 月,金子清子さんへの聞き取りより。 27)西成田は後述するような,炭鉱女性への副業奨励, 福利施設や強化組織の展開にふれつつ,採炭過程の機 械化が女性労働の周辺化の主な要因であると指摘して いる(西成田 1985)。 28)「空知支庁でもね,北海道の炭鉱地帯の地図を描いて も,……夕張のとこは小ヤマが全部入ってるんですよ。 それがね,この岩見沢を中心にした万字線と幾春別線 の,いわば大手もね,……地図に出てこないんですよ。 岩見沢から万字炭山まで。美流渡とか朝日は全然ね, 無視なんですよ。なんもない」(2011 年 8 月,竹林博さ んへの聞き取りより)。 29)2012 年 2 月,竹林博さんへの聞き取りより。 30)「苗代の播種期は五月上旬から四月上旬へ,移植期も 六月上旬から五月下旬へと早まってきた。これととも に田植え労力が年を追って不足し農家を悩ませた。こ こにも機械力の進出があり,水田農家の夢とまでされ た田植え機が昭和四十五年(一九七〇)ごろよりそろ そろ普及し出してきた。農機具業界の必死の開発によ り田植え機の普及は年を追って増加した。加えて苗作 りも田植え機に併せて行うような作業となり,短期間 に田植えができるため,田植えの時期から逆算して苗 作りをするようになった。かつての出面さんが腰に苗 缶をぶらさげて,腰を曲げ一株一株土の中に苗を差し 込む田植え作業は見られなくなった。」(北村史編纂委 員会 1985 : 1008) 31)2012 年 8 月,金子清子さんへの聞き取りより。 参 考 文 献 朝日炭砿株式会社,1963,『朝日炭砿案内』. 北海道立総合経済研究所,1963,『北海道農業発達史Ⅱ』 中央公論事業出版. 岩見沢市,1963,『岩見澤市史』. 岩見沢市・栗沢町,1986,『鉄路とともに−国鉄万字線 史』. 岩見沢市水道部上水道史編纂委員会編,1978,『岩見沢市 上水道史』. 川崎茂,1973,『日本の鉱山集落』大明堂. 北村史編纂委員会,1985,『北村史 上巻』北村役場. 甲南女子大学研究紀要第 49 号 人間科学編(2013 年 3 月) 130
中澤秀雄,2011,「超縮小社会の破綻と再生?−空知旧産 炭地と地域政策」『地域社会学会年報』23 : 19−33. ────編,2011,『炭鉱労働の実際−住友赤平炭鉱の場 合』科学研究費補助金基盤研究 A「旧産炭地のネット ワーキング型再生のための資料救出とアーカイブ構築」 研究成果中間報告書). 西成田豊,1985,「石炭鉱業の技術革新と女子労働」中村 政則編『技術革新と女子労働』東京大学出版会. 野依智子,2010,『近代筑豊炭鉱における女性労働と家族 −「家族賃金」観念と「家庭イデオロギー」の形成過 程』明石書店. 外村大,2012,『朝鮮人強制連行』岩波書店. 関秀志,1981,「出面取り」北海道新聞社編『北海道大百 科事典 下巻』北海道新聞社,149. 内田大和編,2009,『北海道炭鉱資料総覧』空知地方史研 究協議会. 吉岡宏高,2012,『明るい炭鉱』創元社. 夕張市史編纂室編,1991,『夕張市史 追補』夕張市. 木村 至聖:生活戦略からみる炭鉱社会像の再考 131