【報告】研究所プロジェクト「近代日本の民族スポ
ーツ形成におけるアジア諸民族の役割」
雑誌名
アジア文化研究所研究年報
号
48
ページ
262(145)-219(118)
発行年
2014-02-28
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00006387/
平成25年度
研究所プロジェクト
(第3年次)
「近代日本の民族スポーツ形成における
アジア諸民族の役割」
The Roles of the Asian People on the Formation of the Modern Japanese Ethnic Sports
近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割 研究所プロジェクト 近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割 《研 究 期 間》平成23∼25年 《研究代表者》石井 隆憲(ライフデザイン学部教授/アジア文化研究所研究員) 《研究分担者》三沢 伸生(社会学部教授/アジア文化研究所研究員) 福田 義昭(大阪大学外国語学部非常勤講師/アジア文化研究所客員研究員) 《研究協力者》大澤 広嗣(文化庁文化部宗務課専門職/元アジア文化研究所客員研究員) 吉田 達矢(名古屋学院大学経済学部専任講師/アジア文化研究所研究員) 沼田彩誉子(ボアジチ大学アジア学研究所客員研究員・早稲田大学大学院 人間科学研究科博士後期課程) シナン・レヴェント(早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程) 《研究協力者:トルコ共和国》 メルトハン・デュンダル(Merthan DÜNDAR) (アンカラ大学言語歴史地理学部准教授) ギョクニュル・アクチャダー(Göknür AKÇADA佯) (ユルドゥズ工科大学人間科学部准教授) ※ そのほか,資料探索,聞き取り調査,現地調査において様々な方から,貴重なコメントや御意見 を頂戴しております。紙片の関係上ここにお名前を列記できませんが,この場をお借りて御礼申 し上げます。 《研 究 目 的》 現在の日本において近代的な民族スポーツにかんして,野球 ・ サッカー(蹴球)に代表されるよ うに,ヨーロッパ起源のスポーツばかりに注目が集まるあまりに,アジア諸民族の果たしてきた役 割に関して等閑視されてしまっている。しかし今日の大相撲におけるモンゴル出身力士の活躍に見 られるように,近代日本の民族スポーツ形成において,東アジアから西アジア(=イスラーム世界) にいたるまでに展開する広範囲なアジア地域の諸民族の影響は極めて大きいものである。 本研究は,このように単に社会において忘却されるのみに留まらず,学術的研究の俎上に取り上 げられることが稀有な状況にある,近代日本の民族スポーツ形成においてアジア諸民族の果たして きた役割について,学術的に研究する上において不可欠となる基礎的資料の発掘・データベース構 築を行いながら,解明することを大きな目的としている。より具体的に,本研究では,アジア諸民 族のうち,タタール人をはじめとする西アジア民族の役割について解明することを目的として特化 し,さらに資料発掘・分析を進める上において単に日本国内だけの状況分析に限定することなく, アジアを舞台にしてスポーツがどのように伝播し,影響関係を構築していったかという近代スポー ツ文化の全体像を視野に入れながら,研究を進めていくことを目的としている。 西アジア民族に研究目的を特化するのは,戦後直後の一九四〇年代後半から五〇年代にかけて, 日本においてプロレスに代表されるように格闘技系のスポーツが再編され変容しながら,今日にま で至る民族スポーツとしての地位の基礎を築いていた。この過程において,実は戦前においてロシ アから日本(日本の植民地であった満洲・朝鮮半島・台湾を奮含む)へ亡命し,日本を終の棲家と していた在日タタール系トルコ人たちが,大きな役割を果たしていたからである。戦後という状況 において,欧米系スポーツ選手招聘が困難にあるなかで,彼らがときにアメリカ人,ときにソ連人
近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割 と出自を偽りながら,日本の格闘技系民族スポーツの発展に貢献してきたのである。 本研究は国内外において長らく看過されてきた研究課題であるスポーツ人類学の視点から近代日 本の民族スポーツの形成に関する研究を目指すものである。しかしながら国際的学界におけるス ポーツ人類学の進展にともない,民族スポーツの多面性・形成過程にかんする諸要素の分析の必要 性が指摘されている。国内でも日本の民族スポーツ,すなわち相撲や柔道のような国技と呼ばれる 伝統的スポーツから,野球・サッカーのような大衆の圧倒的人気を誇る外来スポーツに至るまで, 民族的諸要因が研究されている。本研究はそのなかでアジア諸民族の役割に焦点をあてながら研究 する位置づけにある。研究代表者・研究分担者は既に既存の研究プロジェクトで,日本を含めてア ジア諸国広域において現地調査を行い,現地研究者との交流を図っている。その意味で本研究は民 族スポーツ形成の国際比較とも位置づけられる。 研究分担者・研究協力者は,研究代表者のようにスポーツ人類学を専攻しないものの現地研究に 長らく従事しており,戦後日本における在日タタール系トルコ人の活躍は日本=トルコ関係史,さ らには日本=イスラーム世界関係史において,新しい事実を解明する研究として位置づけることが できる。 《研 究 経 過》 三年間にわたる研究プロジェクトの最終年度にあたる本年度は総括・研究成果公開を主眼として 位置づけて,国内における文献資料の探索・分析・整理とデータベースの構築をめざしている。 中間年度である昨年度において,三沢研究員が東京およびトルコ共和国において・福田客員研究 員が関西において進めてきた在日タタール人関係者への聞き取り調査は当初の予想以上に困難に遭 遇している。とりわけ聞き取り調査の交渉準備中であったユセフ・トルコ氏が逝去されてしまった ことが悔やまれる。聞き取り調査として三沢研究員は5月19日に駐日トルコ大使館文化部ユヌス・ エムレ・トルコ文化センターが主催した「トルコ・タタール文化の日 2013」に講演を行いつつ参 画して,在日タタール人関係者と聞き取り調査を約したものの,実際に進めることが難しかった。 そこで新たにイスタンブルのボアジチ大学客員研究員である沼田彩誉子氏に参画を願い,アンカラ 大学のメルトハン准教授とともにトルコにおける聞き取り調査および写真・書簡などの私文書資料 探索を進めた。本報告書に所収されるものがその成果の一部である。 こうした状況から,研究代表者の石井研究員の判断により,昨年度後半から在日タタール人の調 査と並行して,中東・イスラーム世界における日本の民族スポーツの伝播に関する聞き取り調査を 進めている。石井研究員は昨年度のトルコ共和国イスタンブルにおける合気道伝播にかかわる聞き 取り調査を補完するために昨年度末にトルコ・エジプトに合気道を広めた熊谷研二師範が主催する 香川県小豆島での合宿に参加して聞き取り調査を行った。一方,研究分担者の福田客員研究員も昨 年度末に急遽,エジプト・カイロに熊谷師範が広めた合気道の現状をアラビア語を用いて聞き取り 調査を行った。両調査によって,日本の合気道がトルコ・エジプトにいかに流布・定着していった かを明らかにすることが出来た(両聞き取り調査の詳細については本報告書所収の報告を参照)。 研究の推進に欠かせない基礎文献調査として,本年度は昨年度から着手した『アサヒスポーツ』・ 『週刊スポーツ毎日』の調査を継続しつつ,スポーツ・グラフ誌の内容を当時の世論の中で位置づ けすべく補完的な作業として,日本を代表するグラフ誌である『アサヒグラフ』を補完資料として 選定し,比較検討調査も進めてきた。 研究成果公開として,本報告書作成と同時並行で準備を進めているが,①平成25年1月に公開シ ンポジウムの開催,②データベース資料集の刊行,③ホームページの構築・公開を年度末に向けて 準備中である。
近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割 1.はじめに 本報告は,トルコ・インスタンブルに合気道 を定着させることに尽力してきた熊谷研二氏の 日本国内における合気道指導について取り上げ るものである。今回見学させていただいたの は,熊谷氏が毎年3月におこなっている香川 県・小豆島における合気道合宿である。熊谷氏 は和歌山大学合気道部と大阪府立大学女子合気 道部の師範であり,この時期に両大学の合気道 部の合宿を小豆島で数十年にわたっておこなっ てきた(以下,熊谷師範と記述する)。今回は 両大学が1日だけ合同でおこなう稽古とその 後,和歌山大学がおこなう稽古を見学した。 周知のように,合気道はいくつかの団体に分 かれているが,熊谷師範が籍を置く合気会は合 気道の創始者である植芝盛平翁によって設立さ れ,現在では公益財団法人合気会として,合気 道界における最大の組織となっている。合気会 は1950年頃から海外への普及活動をおこなって おり,ホームページによれば2010年には約95ヶ 国にまでその裾野を広げているという。1976年 には国際合気道連盟(IAF)が結成され,さら に1984年には国際競技団体連合(GAISF)の 正式会員となっている(1) 。 言うまでもなく,海外への普及にあたって は,日本でトレーニングを受けた指導者が派遣 されて指導がおこなわれている。このような状 況からすると,指導の内容や方法は,日本でお こなわれているものとほぼ同じであると考えて もよいのかもしれない。ところが,武器術(剣, 杖)については,それを積極的に指導する師範 もいれば,ほとんど指導しない師範もおり,必 ずしも統一した見解がもたれているわけではな いようである(2) 。そうした点においては,指導 場面において違いを見いだすこともできるもの と思われる。 今回このような観察調査を実施したのは,将 来的にトルコ国内でおこなわれている合気道と の比較の可能性を見いだすためのものである。 例えば,上述したような武器術がどのように取 り扱われているのかといった状況を明らかにし ていくことは,合気道の指導に対する考え方や 稽古のあり方を知ることにもつながってくるか もしれないと考えるからである。以下は観察の 記録である。 2.観察の記録 3月8日の夕方に岡山に向かいここで一泊 し,翌9日にフェリーで小豆島に移動して合気 道の稽古先となる「海浜センターますや」に到 着した。今回の稽古は,熊谷氏が合気道の師範 をしている和歌山大学の合気道部と女子合気道 部,また大阪府立大学の女子合気道部が合同で 合宿をしていた。11時前に到着したが,すでに 稽古は1時間前からはじまっていた。合同稽古 ということもあり,道場には70人近い学生たち が稽古をおこなっていた。 午前中の稽古は木刀や杖を用いた稽古であっ た。杖での稽古は,最初に熊谷師範が道場の中 央に進み出て,一人で杖を使って一つの動き方 の見本を見せたあとに(写真1),学生たちは
小豆島合気道調査報告
─トルコと日本における合気道稽古の比較の視点から─
石 井 隆 憲
小豆島合気道調査報告
近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割
写真1
写真2
小豆島合気道調査報告
近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割
写真4
写真5
小豆島合気道調査報告 近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割 整列してその動きを繰り返すということを何度 かおこなっていた(写真2)。学生たちがうま くその動きができていないときには,師範が特 に注意すべき点をもう一度実技を交えて説明 し,再び稽古に入るといったことを繰り返すの である。杖を使ったわざの練習は徐々に動きや 杖の使い方が複雑化してくると,その動き方に どのような意味があるのかを,学生を立たせて 相手を目の前に置くことで理解させようとした り(写真3),杖の構え方の一つ一つの注意す べき点を説明したりすることが多くなる。その いっぽうで,白帯や茶帯の学生たちは,どのよ うに動いたらよいのか,戸惑っている場面も多 く,その都度,師範は動きを分解しながら簡単 な解説を加え,また,同じ動きを何度も何度も 繰り返す。これによって1年生たちも杖の構え とその動かし方だけは,見様見真似でできるよ うになるが,やはり上級生に比べるとさまに なっていないことは見て取ることができる。 杖を使って一人でおこなう動作が一通り終了 すると次に二人でおこなう稽古へと移行する。 ここでも最初に熊谷師範が上級生の有段者を指 名して,動きの手本を見せる。何度か学生と対 になって見本を見せた後に学生たちは,それぞ れ相手を見つけて,今みた動きの稽古をはじめ るのである(写真4)。いっぽうがおおよそ3 回くらい連続して技をおこなった後に受けと攻 めは交代となる(写真5)。ここでは1年生な どでまだ合気道を始めて1年程度の学生は動き ができる2年生などに相手を務めてもらう場合 も見受けられた。また,人数の関係から3人一 組になるような場合には,上級生が必ずその中 に入っており,そこで下級生に対して指導も兼 ねて動きを教えるような行動を取っていた。前 述したように,こうした武器術については,現 在,稽古をする機会が減っており,もっぱら徒 手による稽古に終始する傾向にあるようだが, 熊谷師範は武器術も合気道上達のためには欠か すことのできない技術であると位置づけてい る。そのため,合宿のように集中的に稽古ので きる時間が持てるときには,武器術の稽古を導 入しているということであった。 12時に午前中の稽古が終わり,12時半から昼 食となった。今年は午後の稽古から合気会本部 道場から指導員をお願いして2泊3日の予定で 合宿に参加してもらうということになってい た。13時30分に本部道場から鈴木俊雄指導員が 到着した。その後,稽古は14時30分から17時ま で鈴木指導員によっておこなわれた。 14時頃になると道場には学生が集まりだし, それぞれにウォーミングアップや技の練習を始 めている。14時30分になったところで整列し, 正面に熊谷師範が座り,正面左側に鈴木指導員 が着座した。師範に対して全員が礼をした後 に,師範と指導員が礼を交わし,場所が入れ替 わり,鈴木指導員が正面にたち,ここで正面の 壁に飾られている植芝盛平翁の写真に全員で座 礼をしてから準備運動がはじまった(写真6)。 8分ほどの準備運動が終わったところで,前回 り受け身と後ろ受け身,膝行をおこなったあと 入身転換をそれぞれ組になっておこなった。こ うした一連の基礎的な動きが修了したところで 技の練習に入った。 投げの練習では,最初に上級生の有段者を一 人呼び,鈴木指導員が特に言葉を発することな く技を見せていき(写真7),その後,学生た ちはお互いに技を掛け合いながらの稽古となる (写真8)。技が徐々に複雑になってくると,今 度は技の説明をしながら技のかけ方を時には ゆっくりと,あるいは速い速度で見せていく。 一通りの説明が終わると,学生たちはお互いに 技をかけていくが(写真9),その間に鈴木指 導員は学生一人一人に技をかけていき,道場の 端から端まで順に技をかけたところで次の技の 説明に入る。こうしたことを繰り返しながら, 最後まで稽古がおこなわれた。鈴木指導員の稽 古で特に気がついた点は,非常に多くの学生に 休みなく技をかけていくということである。日 本の武道に共通することであるが,上級者が技 を見せたり,特に技をかけたりすることは,模
小豆島合気道調査報告
近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割
写真7
写真8
小豆島合気道調査報告 近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割 倣することで技術を習得していく武術にはとて も有効な方法として,昔から続けられてきたも のである。鈴木指導員は30代ということもあ り,とにかく積極的に多くの学生に技をかけた り,かけさせたりしており,実は最も多く技の 稽古をしている状況にあった。 ところで,この合宿には OB・OG も参加し ていた。私が到着したときには和歌山大学の卒 業生たちが時間を作って参加しており,なかに は2泊3日で北海道から稽古に参加した OB や 茨城から1泊2日で参加した OB,また3泊4 日の長丁場で稽古に参加する OB・OG もいた。 OB・OG たちはこの合宿で在校生たちと一緒 に稽古をおこなうのであるが,彼らは卒業後も 合気道の稽古を続けていることから,稽古時に おいて技が高度化すると,師範や指導員は技の 受け手を OB や OG に代えて模範を示している (写真10)。これによって技の実演に幅を持たせ るとともに技の解説にも厚みを持たせることが できているようである。このような状況をみる 限り,やはり合宿は特別な空間を作り出してい ると思われる。稽古後,銭湯で師範や OB に話 を聞くと,毎年,多くの卒業生たちが時間を見 つけて参加してきたという。こうした伝統もま た大学の合気道部の活動を支えてきた重要なシ ステムの一部になっている。この日の合気道の 稽古は17時頃に終了した。稽古後の18時30分か らの夕食時間に学生から話を聞くと,今日の稽 古はとても充実していて,午前中の稽古が数日 前のようだったという感想を漏らしていた。20 時半からはミーティングがおこなわれ,ここに も熊谷師範が出席し,稽古のことも含めて諸々 の話をしていた。また,この日の大きなテーマ は4月に入学する新入生をいかに合気道部に勧 誘し,入部させるかというものであり,そのた めの作戦会議がおこなわれていた。このミー ティングには OB・OG も複数人参加しており, とてもつながりの強さを感じた。 翌10日は午前,午後ともに鈴木指導員によっ て指導がおこなわれた。稽古の内容は昨日とほ ぼ同じであるが,この日は昨日以上に時間が経 過するに連れて徐々に難易度の高い技の練習と なった。技が難しくなってきたところで,学年 別にグループ分けされて指導がおこなわれた。 大阪府立大学の学生はこの日の午前中で合宿が 終了して帰路についたため,午後からの稽古は 和歌山大学の学生だけとなった。それでも40名 以上の学生が稽古に励んでいる。熊谷師範の稽 古に対する指導方針は,言葉での説明を最小限 にして,とにかく技をかけるという実践経験を 繰り返させることであった。こうした考え方が あったことから,若くて体力があり,将来を嘱 写真10
小豆島合気道調査報告 近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割 望されている鈴木指導員を本部道場から招いて 稽古をおこなうという新しい試みがおこなわれ たのである。この日も鈴木指導員はとにかく学 生たちに技をかけ続け,かけられることを何度 も繰り返すことで,学生たちに身体を通して技 を理解させるという方法を取り続けた。こうし た稽古を通じて,学生たちは鈴木指導員の技を 直接身体で感じながら学び取っていく,あるい は技を盗んでいくのである。これが熊谷師範の ねらいであったと思われる。このような考え方 と稽古の仕方は現在のトルコの合気道指導の中 にも息づいていることが,すでに確認されてい る(3) 。熊谷師範によれば稽古の方法などについ ては,指導者によって異なるという。特に最近 は技を盗むような時間のかかることは望まれな いので,指導にもついつい言葉を多く使うこと になるという。前日のミーティングの時間に鈴 木指導員が,自分自身の指導がそうした方向で おこなわれていることを話し,鈴木指導員が指 導する3日間で指導者自らも指導について考え てみたいというような発言をしていたのが印象 的であった。 11日の最終日は,午前中最後の稽古を見学し た。この日は1時間半の短い稽古であったが, 前日とは異なり,基本的な動きの原理や原則に ついて,稽古を通して学ぶというメニューで, これまでとは異なり,言葉による説明とその後 は実技付きの解説で,何度も「受け身」を取る ことで,相手のかけた技の感覚を知る。あるい は技術を盗むということについて,何度も説明 がおこなわれた。11時半に稽古が終わり,12時 から昼食となった。この日の午前中で鈴木指導 員による指導は終了であった。その後,筆者も ホテルのバスで土庄港まで送迎してもらい,帰 路についた。 おわりに 今回の調査で,ほんの僅かであるが,合気道 についての一部を理解することが来たように思 われる。合気道の稽古・指導方法については, 基礎的な技術の指導場面に違いを見いだすこと はほとんどできないようであるが,応用技の練 習場面では指導者の考え方が反映し,指導者一 人一人が技をどのように体系化しているのかを 稽古の中に見いだすことができる可能性のある ことが示唆される。ただ,こうした可能性をよ り明確にするためには,合気道についての知識 を深める必要があり,これがない限り,今後先 に進むことは難しいと感じた。調査2日以降の 記述が,どうしても淡泊になるのは,初日との 違いや技の一つ一つの違いが明確でないことか らおこっているからである。 こうした問題を解決するためには,自分自身 が合気道を経験し,技の違いなどを理解するこ とである。これによって,はじめて合気道の技 術そのものを記述することが可能となるし,こ うした基礎知識の下に参与観察をおこなわなけ れば,稽古の全体を明らかにすることもできな いのではないかと考えられる。以上の点を踏ま えて,今後とも継続的に調査を続けたいと考え ている。 ※末筆になりましたが,今回の小豆島調査に あたり合宿への参画を快諾いただいた熊谷研二 師範,および和歌山大学合気道部・大阪府立大 学女子合気道部部員・関係者の皆様,また昨年 に引き続きイスタンブルにおける合気道関係の 情報を御提供いただいた町恵美・ヴェジヒー・ テルジー(M. Vezihi TERZ佲)御夫妻に感謝申 し上げます。 ※本稿は,東洋大学学術推進センター・研究 所プロジェクト研究研究助成金に基づく,研究 課題「近代日本の民族スポーツ形成におけるア ジア諸民族の役割」【拠点:東洋大学アジア文 化研究所,研究代表者:石井隆憲,平成23∼25 年度】の研究成果の一部である。 <註> ⑴ 公益財団法人合気会ホームページ「世界に広
小豆島合気道調査報告 近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割 写真11 イスタンブルにおける合気道大会の記念写真 写真12 イスタンブルにおける合気道調査にご協力いただいた町恵美・ ヴェジヒー・テルジー(M.Vezihi TERZ佲)御夫妻および筆者 (2012年9月5日撮影 , イスタンブル・御夫妻経営の MVT 書店にて) 【付:イスタンブルにおける合気道調査時の写真】 がる合気道」(http://www.aikikai.or.jp/jpn/what. htm) ⑵ 熊谷研二師範の話(2013年3月9日) ⑶ 石井隆憲・三沢伸生「トルコ・イスタンブル における合気道の伝播と現状─その覚書─」『ア ジア文化研究所研究年報』(東洋大学)第47号, 2013年,23-30頁。 *石井隆憲(東洋大学ライフデザイン学部教授/ 東洋大学アジア文化研究所研究員)
近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割 1.はじめに 筆者は,研究プロジェクト「近代日本の民族 スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割」 (拠点:東洋大学アジア文化研究所,研究代表 者:石井隆憲)の一環として,平成25(2013) 年3月24日から同年3月30日までエジプトを訪 問し(出張期間は23日─31日),同国における 日本武道,とくに合気道に関する調査を行った (文献資料調査および聞き取り)。本稿は,この 調査を通じて知ることができたエジプトの合気 道に関する簡単な報告である。もとより,短期 滞在による予備的な調査であったため,包括的 な記述は望むべくもない。ここに記すのはあく までエジプト合気道の一端にすぎない。しか し,中東地域における合気道の受容について は,そもそも我が国にあまり情報が伝わってい ないため,ここで簡単に紹介しておく意義もあ るかと思う。また,同じ中東に位置するトルコ の合気道については,すでに石井隆憲および三 沢伸生によって報告が書かれているが(1) ,これ に対する補足という意味合いもある。石井・三 沢が記しているように,トルコの合気道は熊谷 研二氏(合気会)によって導入され普及した。 一方,エジプトの合気道もまた,同氏の努力に よって(トルコに先立って)広まった経緯があ るからである。 2.熊谷氏が蒔いた種 在エジプト日本国大使館広報文化センターが
al-Y b n(Information Bulletin–Japan)という
アラビア語の広報誌を不定期に刊行している。 この雑誌の2013年第1号(通巻第293号)に「ス ポーツを通じた日エジプト交流」という特集が 組まれている(2) 。FIFA クラブワールドカップ で2006年と2012年の二度にわたって来日したエ ジ プ ト の 強 豪 サ ッ カ ー ク ラ ブ・ ア ル = ア ハ リー,角界で活躍するエジプト人力士の大砂嵐 (アブド・アル=ラハマーン・シャアラーン氏), そして JICA シニア・ボランティアとしてエジ プトで柔道の指導に当たる小山繁氏や1984年の ロサンゼルス・オリンピックで柔道無差別級の 銀メダリストとなった(決勝で山下泰裕氏と対 戦した)ムハンマド・ラシュワーン氏らに続い て,最後に熊谷研二氏のことが取り上げられて いる(写真1)。 熊谷氏が会社員としてエジプトに赴任中の 1980年に同地で合気道の指導を始めたこと,当 時は柔道に比して合気道の知名度が低かったこ と,指導開始一年後の合気道人口はわずか30人 だったが現在は300人に達しており,カイロに は警察アカデミーに加えて合気道を教えるクラ ブが三つ,アレクサンドリアにも複数のクラブ があることが書かれている。また,今でも熊谷 氏は年二回エジプトを訪問し指導を行っている ということで,実際に2012年11月にカイロのム ハンディスィーン地区にあるシューティング・ クラブ(Nādī al-Ṣayd)で同氏が行った稽古の 様子が紹介されている。 今回の調査中に訪問することができたエジプ ト合気道センターを主宰するムハンマド・アル= サイイド(Muḥammad al-Sayyid)氏(合気会
エジプトの合気道
─ムハンマド・アル=サイイド氏の道場
(エジプト合気道センター)を訪ねて─
福 田 義 昭
エジプトの合気道 近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割 五段)もまた,熊谷氏がエジプトで合気道を指 導し始めたころに同氏から手ほどきを受けた先 駆者の一人である。 3.エジプト合気道センター訪問 エジプトでは現在,かつての「エジプト柔道 連盟」が「エジプト柔道・合気道・相撲連盟」 (al-Ittiḥād al-Miṣrī li-l-Jūdō Aikidō
wa-l-Sumō)と改称されており,この三種のスポー ツが同じ連盟の管轄下にある。筆者はエジプト の合気道関係者に知己がいなかったため,年来 の友人で国際交流基金カイロ事務所に勤務する ミドハト・アブド・アル=ラスール氏と,その 弟であるハーリド・アブド・アル=ラスール氏 に協力を仰いだ。両氏は,上記の広報誌の特集 について教えてくれるとともに,ムハンマド・ アル=サイイド氏の道場見学の便宜も図ってく れた。ハーリド・アブド・アル=ラスール氏自 身が,かつてエジプトの柔道界で活躍し,現在 も上記連盟の関係者として活動しているので, サイイド氏とも知り合いだったのである(つい でに言えば,柔道家ラシュワーン氏や,大砂嵐 などとも懇意の間柄とのことである)。 アブド・アル=ラスール兄弟の案内でエジプ ト 合 気 道 セ ン タ ー(al-Markaz al-Miṣrī li-l-Aikidō)を訪問したのは3月27日(水曜日)の (写真1)在エジプト日本大使館広報文化センター広報誌より
エジプトの合気道 近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割 夕刻のことだった。センターがあるのはカイロ 南郊,ナイル河東岸にある新マアーディーのサ クル・クライシュ地区である。一帯は日本でい えば「郊外団地」にあたるような場所で,セン ターも集合住宅の1階にある(写真2)。我々 が到着したとき,サイイド氏と弟子らは,ちょ うど日没時の礼拝をセンター内の道場で行って いるところであった。入り口には,礼拝中につ き立入無用であることを示すらしい障碍物が置 かれていた。入り口に向かって右側の集合住宅 外壁には,黄色いアラビア文字で「合気道」と 大書した赤い布がかかっている。 (写真2)エジプト合気道センター外観 ややあって,礼拝を終えたサイイド氏が出て きた。会話を交わし始めてすぐにわかったが, 氏は気取ったところのまったくない,非常に人 あたりのいい人物だった。それほど上背はない が,鍛え上げられたがっしりとした体格,何も ないところから手作りでエジプト初の個人道場 を作り上げた不屈の精神,そういった剛毅な面 と一見矛盾するかのような「軽み」がある。そ のギャップがおもしろく,不思議な魅力を持つ 人であった。 センターの中に通してもらうと,カイロ郊外 の庶民的な団地の一角に,突如として日本的な 空間が出現することに驚く(写真3)。玄関ホー ルの左奥には刀剣が飾ってあり,右手の壁の前 には木剣なども置いてある。あえて言えば,ク ルアーン(コーラン)の章句を書いた額やパレ スチナ国旗をデザインしたペナントが飾られて いるのが,現地ならではの要素として目を引く くらいである。両側や正面の壁には一面に証書 類が飾ってある。サイイド氏は合気会から五段 の証書を授与されているのだが,それ以外に も,合気道を指導したり,あるいはセミナーに 参加したりしたことを示すおびただしい数の証 明書がかかっていた。指導した場所は,やはり 警察など治安関係の部署が多い。アラブ首長国 連邦のアブダビなどにも教えに行ったことがあ るらしい。無論,日本は セミナー などで何 度も訪れている。入り口の奥にはカーテンのか かった小部屋があり,ここで着替えをすること になっている。その横にはシャワー室もある。 玄関ホールの右奥が道場への入り口になって いる。道場の広さは30畳くらいか,あるいはそ れ以上か,正確にはわからなかった。というの も,道場の床一面に敷かれているのはサイイド 氏手作りのマットレスだったからである。正方 形に近い形をしており,一枚あたりの面積は本 物の畳の半分ほどではないかと思われる。人工 素材でできているが,クッションの加減はかな り本物の畳に近いように作ってある。色も畳に 近いものを選んだのであろう。さまざまな材料 を吟味して選んだらしく,苦労がしのばれる。 道場奥の壁には二本の柱と横木で正面が設けら れ,その中央に合気道の創始者である植芝盛平 氏の肖像写真,両側に漢字で「合氣道」などと 書かれた横物が飾られている。このあたりは日 本の道場と変わらない。また,ここにも刀剣や 木剣が置かれ,さらにはエジプト・日本両国の 国旗も貼られていた(写真4)。 稽古はサイイド氏と弟子たちが対面しての 「礼」から始まった。稽古開始時に道場にいた のは10人くらいだったが,しばらくするとサイ イド氏を含めて14人ほどになった。この人数に しては道場がやや狭い感じはするものの,みな 汗を流して懸命に稽古している(写真5)。な かには,額の「礼拝だこ」やあご髭の感じから してイスラーム主義者風の人たちも交じってい
エジプトの合気道
近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割
(写真3)合気道センター玄関ホール
エジプトの合気道 近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割 る。ユースフさんというマダガスカル人の青年 もいた。その相手をしていたのがサイイド氏の 若い御子息(初段)で,父親がいないときには, 彼やユースフさんが稽古を指導することもある という。センターを訪問したのは平日(水曜日) の夕方だったので,週末や休日などはもう少し 人数が増えるのかもしれない。 稽古が一段落したのを機にサイイド氏にイン タビューを行い,これまでの氏の経歴などを尋 ねてみた。その際,筆者は氏の著書をいただい た(写真6)(3)。 (写真6)サイイド氏より著書をいただく 現在のところ,合気道に関してアラビア語で書 かれた唯一の本だという。たしかに,カイロ市 内の書店をいろいろ探してみたものの,柔道や 空手(あるいはテコンドー)など比較的ポピュ ラーな武道や格闘技とは対照的に,合気道に関 する本を筆者は一冊も見つけることができな かった。 ともあれ,サイイド氏の合気道歴の概要を以 下に記してみよう。 もともとサイイド氏は1977年から柔道を習っ ていた。彼は国際柔道連盟から二段の認定を受 けている柔道家でもある。ところが,1980年(著 書では81年になっている),カイロ市内にある ザマーレク・クラブ(Nādī al-Zamālik)で柔道 の練習をしていたとき,偶然,その横で熊谷氏 らが合気道の稽古を始めたのを目にしてから興 味を持ち,やがて同氏から合気道を教わるよう になったという(写真7)。 (写真7)熊谷氏とサイイド氏 (サイイド氏の著書より) (写真5)道場での稽古の様子
エジプトの合気道 近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割 その後,会社員だった熊谷氏はトルコへ転任 となったが,1983年に熊谷氏の弟子である須磨 弘氏がエジプトに来て,85年まで指導を行った。 サイイド氏は熊谷氏のセミナーに参加するため トルコを三回ほど訪問したというが,そのうち の一回(1984年)は須磨氏と一緒だった。 サイイド氏とともに合気道を始めたのは三人 だった。その中でも,とくにアイマン・アル= スィバーイー氏は1985年から90年までサイイド 氏と一緒に合気道の指導を行うなど,エジプト における合気道の普及に大きな役割を果したそ うである。その後,スィバーイー氏は仕事が忙 しくなり,サイイド氏も仕事でフランスへ行く ことになったので,エジプトの合気道は一時休 止状態に陥ったらしい。しかし,サイイド氏自 身はフランスにいたあいだも,仕事のかたわら 合気道を続けていた。そして,1995年に帰国す ると,その後は合気道に専念するようになっ た。この年から警察スポーツ連盟(Ittiḥād al-Shurṭa al-Riyāḍī)で「合気道による護身術」 を教え始め,それ以来,さまざまなクラブ,内 務省や警察関係の部署などで合気道を教えるよ うになった。2009年には今の道場を自前で作っ たが,これは現在でもエジプトで唯一の個人道 場である。 なお,エジプトの合気道に関してサイイド氏 はまさに草分けと言うにふさわしいが,アラブ 世界全体を見れば,もっと古くから合気道を やっている人はいる。特にモロッコのムバーラ ク・アル=アラウィー(Mubārak al-Ἁlawī)氏 (八段)は,50年以上前にアラブ世界で初めて 合気道を始めた人物として知られているそうで ある。サイイド氏も彼に会ったことがあり,そ のとき一緒に撮った写真を披露してくれた。 以上のように,エジプト(やモロッコなどア ラブ諸国)にも,情熱的に合気道に取り組み, それを普及させてきた人たちがいる。たしかに オリンピック競技でもある柔道などと比べれ ば,まだまだ知名度は低く,合気道家の数も少 ない。上述のとおり,エジプトでは柔道・合気 道・相撲が一つの連盟を作っているが,実際に は今まで柔道のみに重点が置かれてきたと言っ ても過言ではない。しかし最近になってようや く,合気道にも少し注意が払われるようになっ てきたとサイイド氏はいう。彼は現在,連盟内 の合気道委員会を率いて,合気道の活発化に精 力的に取り組んでいる。 4.文化の問題 ところで,エジプトに合気道が普及していく 過程で興味深く思われる,またある意味で問題 になりそうな点の一つは文化の問題である。一 般のエジプト人から見て,日本文化はまだ遠く 異質な存在である。そもそも合気道がどのよう なものかを知っている人は少なく,武道(系ス ポーツ)特有の所作についても,慣れないあい だは戸惑う人が多いだろう。その背後には日本 の文化的伝統や精神性・宗教性の問題がある。 サイイド氏は,合気道のことをまったく知ら ないエジプト人に教える際には,最初に,少し 驚きを与えるようなやり方で目の前で実践し, 相手の興味をかきたてるようにしているそうで ある。すると,彼らはすぐに合気道に興味を持 つようになるという。そうして,護身術として の価値や,年齢に関係なく始められること,さ らには老いを遅らせる効果や肉体と精神の調和 を実現できることなどを説明する。これらはご く一般的で,エジプト人にとっても何ら支障な く受け入れることのできる価値である。 では特殊日本的な側面,精神性といった側面 についてはどうだろうか。先に述べたように, サイイド氏の道場はエジプトにあって非常に不 思議な日本的空間である。きちんと正面も設け られ,創始者の肖像も掲げられている。日本・ エジプト両国の国旗が飾られていることから も,合気道が日本的なものであることは常に印 象づけられていると言える。このこと自体は, 特に何の問題もないようである。しかし同時 に,すべてが日本とまったく同じわけではな い。合気道の指導法にせよ,(具体的なところ
エジプトの合気道 近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割 まで今回は聞けなかったが)日本式とエジプト 式が折衷されている部分もあるとサイイド氏は 言う。 よりセンシティブなのは宗教的とすらいえる 精神性であろう。デリケートな面もあるので深 くは尋ねられなかったが,ムスリム社会に適合 的な形で合気道が実践されていることは言うま でもない。既に述べたように,我々が合気道セ ンターを訪問したとき,サイイド氏は弟子たち とともに道場で日没礼拝を行っている最中だっ た。十分な広さを持つ道場は集団で礼拝するの にも適した場所である。植芝盛平氏の肖像写真 は飾られているものの,神棚などはもちろん置 かれていない。そもそも道場内には宗教的シン ボルは一切ない。ただ,センター入り口の右奥 の壁にクルアーン(コーラン)の聖句,いわゆ る「ムアウウィザート」(神の加護を求める祈 祷句としても用いられる112∼114章)の書かれ た額がかけられているのが唯一宗教的な要素で あった(写真8)。イスラーム的配慮とも言え るが,こうした聖句を飾る行為自体はどのよう な場所にも見られる普通の行為であって,エジ プト社会で特別に強い宗教的含意を持つわけで はないだろう。いずれにせよ,外見からすると イスラーム主義的志向を持つように見える人た ちも一緒に修業しているので,宗教面での問題 はクリアされているのだろう。 このあたりはサイイド氏による丁寧な説明が あってのことなのかもしれない。たとえば,筆 者はサイイド氏に礼(お辞儀)の問題について 質問してみた。立礼は柔道などほかの武道でも 行われているので,エジプトでもある程度おな じみのものであろう。しかし,合気道で多用さ れる座礼は,姿勢がイスラームの礼拝に似てい るところもあるので,ムスリムにとっては抵抗 感が強いのではないかと思われたのである。こ れについてサイイド氏は,要するに「挨拶」で あるから問題はないと答え,自らの著書にある 関連箇所を示してくれた。そこには初心者向け のQ & Aが掲載されており,その中に次のよ うな質問が入っているのである──「お辞儀を しているということは,合気道家は何か特定の 宗教を信じているのでしょうか?」。これに対す るサイイド氏の答えは以下のようなものである。 (写真8)合気道センター玄関ホールに掲げられたクルアーンの聖句
エジプトの合気道 近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割 いいえ。あらゆる国のさまざまな宗教を信 じている人たちが合気道をしています。ただ そ れ( お 辞 儀 ) は, 合 気 道 特 有 の 精 神 的 (rūḥānī 霊的)側面,倫理性を帯びたものな のです。それによって,合気道家は自らの人 格的・精神的(rūḥī)存在を高めるすべを教 えられるのです。つまり,内的自己と他者と に同時に感応することを通じて,合気道は内 外両面の安寧(salām)を同時に生じさせる わけです(4) 。これは,若者であろうと40歳を 過ぎた人であろうと,また男性であろうが女 性であろうが,あらゆる個人に等しく有益な ことです。 合気道のお辞儀に関しては,柔道や空手や クンフーやテコンドーなど,ほかの格闘技 (al῾āb al-munāzalāt)と同じようなものです。 ただし,それは適切な形で行われなければな りません。ルクーウやスジュード(5) の形を とってはなりません。というのも,ルクーウ やスジュードは,賞讃すべき至高なる万世の 主〔アッラー〕に対してのみなされるべきも のだからです。今話しているお辞儀は個人と 個人,あるいは個人と集団のあいだでの挨拶(6) として,双方から同時に相互的に行われるべ きものです。なぜなら,こうしたお辞儀の仕 方は日本人やその他東 マ マ 南アジアの人々にとっ て,お互いの間での挨拶(al-salām)と見な されているからです。アラブ人の挨拶が握手 であり,またアフリカや欧米の他の国々には 別の挨拶の仕方があるのと同じです。肩に接 吻したり,体を抱き合ったり,その他たくさ んのやり方があるのです。結局は,お互いに 敬意を持ち,信頼し合うところから出てくる べきものなのです(7) 。 おそらく似たような質問をよく投げかけられ るのであろう。これは質問の二番目に挙げられ ている。ほかにも,合気道をやるうえで日本語 も勉強すべきなのかとか,なぜ袴をはくのかな ど,文化的なテーマに関する質問が掲載されて いるが,サイイド氏はそれらに丁寧な回答を用 意している。 5.おわりに そもそも,あらゆるスポーツはもともと特定 の地域の伝統や文化の中から生まれてきたもの で,背後に特定の価値観や美意識を持ってい る。しかし,民族スポーツが世界に伝播して国 際的なスポーツになる過程で,そうした特殊な 価値観や美意識は変容し,もともと持っていた 価値観を部分的に保持することはあっても,よ り普遍的で幅の広い「スポーツ精神」のような ものに統合されていく傾向があるだろう。ただ し,それと同時に,たとえば「日本野球」と「ア メリカン・ベースボール」の比較論が行われて いるように,受容する社会の文脈に合わせてス ポーツがローカライズされる面もあるわけである。 こうした異文化としてのスポーツの受容とい うテーマからすると,いわゆる武道(系スポー ツ)がイスラーム圏で普及していく過程は,興 味深い例となるかもしれない。一方で,「武道」 は「単なるスポーツ」ではないという議論があ り,そうした主張の正当性と曖昧性はよく指摘 されるところである。他方,本報告で取り上げ ているエジプトは,国民の約9割がムスリム, 1割がキリスト教徒という一神教の国であり, アラブ諸国の中でもとりわけ宗教的な国民性を 持つとも言われている国である。単なるスポー ツでない武道が持っているもの,合気道に備 わった「日本の武道」としての性格や精神性・ 宗教性といった文化的要素をエジプト人がどう 受け入れるのか,または受け入れないのか,あ るいは変容させるのか。こうした問題は,文化 変容の一例として,今後さらに本格的に,様々 な側面から研究される価値があるだろう。 * 福田義昭(大阪大学外国語学部非常勤講師/ 東洋大学アジア文化研究所客員研究員)
エジプトの合気道 近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割 (写真9)2013年現在カイロで購入可能な日本武道関係書籍の一例 (左:柔道なのにテコンドーの帯の表紙,右:空手関係書籍) (写真10)調査に協力してくれたアブド・アル=ラスール兄弟 (左端がハーリド,右端がミドハト,国際交流基金カイロ事務所にて)
エジプトの合気道 近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割 【参考 URL】 1.ムハンマド・アル=サイイド氏 HP(アラ ビア語)[http://www. aikidoegy. com/] 2.Facebook ページ(アラビア語):エジプ ト合気道センター( で検索可) [https://ar-ar.facebook.com/pages/%D8%A3% D9%8A%D9%83%D9%8A%D8%AF%D9%88-%D8%A7%D9%84%D9%85%D8%B1%D9%83% D8%B2-%D8%A7%D9%84%D9%85%D8%B5% D8%B1%D9%8A/116893801751404] 【謝辞】 末筆ながら,稽古中に貴重な時間を割いてイ ンタビューに答えてくださったムハンマド・ア ル=サイイド氏に深謝いたします。また,友人 であるミドハト・アブド・アル=ラスールと ハーリド・アブド・アル=ラスールの両氏はサ イイド氏との面会をアレンジしてくれただけで なく,自ら運転する車で現地まで連れて行って くれ,さらにここに掲載した何枚かの写真まで 撮影してくれた。二人に心より謝意を表した い。 ※本稿は,東洋大学学術推進センター・研究 所プロジェクト研究研究助成金に基づく,研究 課題「近代日本の民族スポーツ形成におけるア ジア諸民族の役割」【拠点:東洋大学アジア文 化研究所,研究代表者:石井隆憲,平成23∼25 年度】の研究成果の一部である。 <註> ⑴ 石井隆憲・三沢伸生「トルコ・イスタンブル における合気道の伝播と現状──その覚書」『ア ジ ア 文 化 研 究 所 研 究 年 報 』 第47号(2012年 ), 268−261頁。 ⑵ インターネット・ウェブ上で閲覧可能(2013/ 12/15現在)。 [http://www.eg.emb-japan.go.jp/e/culture_ event/bulletin/201301/201301.htm]
⑶ Muḥammad al-Sayyid, Ta l m Fann al-Aykid /
Teaching Art of Aikido, Cairo: Ārt Grāfīks, 2008.
⑷ salām には「安寧」「平和」「平安」などとい う意味と同時に,「挨拶」という派生的な意味も ある。 ⑸ 「ルクーウ」(rukū )と「スジュード」(sujūd) はイスラームの礼拝中の動作。前者は,立って 足を伸ばしたまま両手を膝に置き上半身を直角 に曲げる姿勢をとることで,「屈折礼」や「立礼」 などと訳され,後者は,両掌と両膝,両足の指先, そして額と鼻を地面につける姿勢をとることで, 「平伏礼」などと訳される。 ⑹ 原文には al-taḥiyya (al-salām) とある。 ⑺ Muḥammad al-Sayyid, op. cit., pp.21-22.
近代日本の民族スポーツ形成におけるアジア諸民族の役割
An Essay on the Immigration of
the Turk-Tatars to Japan
Ali Merthan DÜNDAR
Most of the work that has been done in our country having to do with Turkish-Japanese relations has dealt with the Ertuğrul disaster or comparisons between the Meiji restoration and modern Ottoman reforms; and stories of Japanese people who lived in Turkey during the Ottoman era. Unfortunately, the Turkish presence in Japan, which is of at least as much importance, has not come under much study. We now attempt to bring this subject into the open through documents in American, British, Japanese and Turkish archives and conversations with those who know the period well. This study is the fi rst of a series on Turk-Tatar peoples who have lived in the Far East.
Russia, which had begun a policy of expansion in the northeast around the middle of the 1450s, occupied Kazan in October of 1552, gradually seizing the Turkish lands in Asia (Rorlich 2000: 71). All of western Turkistan fell into Russian hands in the late 19th century (Hayit 1975: 118). Eastern Turkistan was entirely
occupied by China in 1878, and all of Asia’s Turkish peoples had come under foreign domination (Saray 1998: 220). Though Turks under Russian domination rebelled from time to time, they did not succeed. Among the reasons for this was that there was no unity among themselves. These Turks, who had not been able to start a united action before, resolved to struggle. Understanding that they needed a plan, they began to hold meetings, albeit unoffi cially (Çağatay 1976: 9).
The architects of this new closeness among Russian Turks were undoubtedly the Volga-Ural Turks. In particular, beginning in the 19th century, it is possible to see the leadership of Russian Turks in religious,
economic and political matters among reformist Tatar intellectuals(1)
. The intellectuals met to determine strategies for independence, but despite these efforts, the Russian Turks found themselves unprepared when the 1917 revolution broke out(2). As a natural consequence, the Turkish peoples found themselves between the
two factions when civil war erupted. While some in the community joined the Bolshevik (Red) faction, others took the Tsarist (White) side. Ruined by the defeat of the Tsarists, Volga-Ural Turks in the armies battling in the Siberian region (under offi cers such as Admiral Kolçak, General Semenov and Captain Kalmıkov) fl ed to Manchuria and to regions controlled by Japan in 1919(3). Another wave of migration took
place during the great famine of 1920 – 1921. Many Volga-Ural Turks left their homelands and emigrated to China and Manchuria. Among the émigrés were manufacturers, rich merchants, imams, schoolteachers – in short, people from every walk of life. Many of these émigrés were forced to turn back due to desperate conditions and poverty. The greatest support to those who did not, without doubt, came from the Turks who had settled there before (Tahir 1971: 7).
In the last years of the 19th
century, Russia gained the right to construct and operate the Chinese Eastern Railroad [part of the Trans-Siberian Railroad] from China. Thousands of Russians poured into the areas where construction was taking place (Bakich 2000: 51), among them many Turk-Tatars. Other Turk-Tatars
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An Essay on the Immigration of the Turk-Tatars to Japan
opened and owned stored which supplied necessities for the families of the railroad workers. The Turk-Tatar population began to increase in 1904, especially in Harbin (Chernolutskaya 2000: 82). The émigrés opened a mosque there in 1906. They also used the mosque as a school(4). A new school was built between 1917 and
1918 in order to handle the increasing number of children (Baday 1976: 44). Harbin remained the social and cultural center of the Turks in the Far East until 1930, when Japan became the center. Harbin was the home of the fi rst Turk-Tatar publishing house in the Far East. It published newspapers such as Yırak Sark, Miñ (Bin)
Yıl Mescidi, Beyrem Nurı, Çatkı and many books, securing the fl ow of knowledge and news among the
Turk-Tatar people (Tahir 1972: 47).
The Volga-Ural Turkish Tatars, trying to build new lives for themselves far from home, established associations not only in Harbin, but also in cities such as Haylar(5), Mukden [Shenyang](6), Manchuria(7),
Shanghai, Hun Hul Di(8), Dairen(9)(10). These became stepping stones on the way to Japan. In particular, those
who engaged in trade won an important place in Japan and the Japanese market, leveraging the network they established in their adopted lands.
Aside from the prospect of a better life and more profi table trade, there were political reasons for the immigration of the Volga-Ural Turks from China and Korea to Japan. These have to do with Japan’s policies in Asia.
With the beginning of the Meiji era in 1868, power in Japan passed from the feudal lords to the Emperor, resulting in a centralized administration (Mason 2001: 258). This was a bloody transition, but it gave birth to the opening of Japan to the outside world. This in turn allowed Japan to achieve levels akin to those of the advanced Western countries in science, technology, trade and the military and secured Japan a place as a new power(11)
. Advances in the economic sector created a demand for raw materials. This pitted Japan against the other powers in the area, namely Russia and China. Inevitably, the Sino-Japanese War erupted in 1894 - 1895, followed by the Russo-Japanese confl ict in 1904 - 1905. Japan emerged victorious from both wars, drawing the attention and winning the good will of victimized peoples of Russia – Muslims and Turks (Esenbel 2003: 29). Further, with their victories, Japan gained new territories and economic privileges on the Asian continent(12).
Japan, which joined the U. S., England, Italy and France in sending troops to Siberia during the 1917 Russian revolution(13)
, established relations with the White Russian leaders of the area. By giving them military and economic aid, Japan attempted to establish a dependent puppet regime. Relations with the Muslim Turk-Tatar groups serving in the White Russian armies were also established during this time. This relationship endured even after the Japanese forces withdrew due to pressure from Western countries. It is during this period when the makers of Japan’s foreign policy came to understand the potential power of the Muslims.
Actually, the relationship between Japan and Russian Muslims extends from long before. Japan, which was becoming a powerful state in the area, sent many observers to the Asian mainland, and worked to understand events in the neighboring countries. Following the fi rst travelers and observers, Japan established nominally cultural institutions, especially in China, to assure a continuous and healthy fl ow of intelligence(14).
By thoroughly understanding the ethnic elements and their religious activities, she made Muslims her potential allies. This was because friction between the Chinese Muslims, that is, the Tungan or Dongen and Turkish (Uygur, Kırgız, Kazak) Muslims, and the Chinese had existed for a long time(15)
. During the late 19th
century, Japan began to organize its policies in these areas, naturally including the Russian Muslims. These fanatically nationalist Japanese institutions, which shaped the new Islam policy and in fact sponsored it,
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established unoffi cial contact with the Russian Muslims, and succeeded quite well in delivering Japanese propaganda to them(16)
.
The fi rst Volga-Ural Turk to come in contact with the Japanese and effect the establishment of their relations with the Russian Muslims was Abdürreşit İbrahim Efendi(17)
. İbrahim, a truly controversial man who committed his life to the independence of the Muslim Turks, was not only important from the perspective of the Muslim Turkish struggle for independence, but also from that of Turkish history, due to his Ottoman citizenship(18)
. We are ever more aware of his importance when we take into account his place in the Turkish-Japanese relations(19)
. İbrahim sought assistance for his struggle through Russian publishers, thereby continuing to receive assistance from the Ottoman state. But due to the politics pursued by Ottoman Emperor Abdülhamid II, he was forced to seek other allies. Thus Japan, which was a rising force in Asia at this time, became a new hope for İbrahim for the deliverance of Russian Turks and Muslims.
Japan, which had made social, economic and military improvements during the Meiji Restoration, had quickly become powerful and therefore Russia’s rival. For this reason, Abdürreşit İbrahim established a relationship with Japan. Visiting Japan often beginning in 1902, he became friends with statesmen, the highest ranked military offi cers, and leaders of extremist nationalist groups, and secured support for his cause(20). Ibrahim’s belief in Japan increased after Japanese victory in the 1904-1905 Russian War. Japan, as
the new non-Christian power in Asia, decided to enlist İbrahim’s assistance in establishing close relations with the Ottoman state, which was in the position of being the leader of Russian and world Muslims. İbrahim fashioned Japanese propaganda in the Turkish and Muslim worlds with his writings and speeches(21)
. Toyama Mitsuru is doubtlessly one of the most important people with whom Abdürreşit İbrahim formed friendships in Japan. Mitsuru was the father of Japanese nationalism and Asiaism. He founded the Genyousha society and was the spiritual leader of the Kokuryukai society. The aim of these societies was to cleanse all Asia, beginning with Manchuria, of Westerners and to unite Asia under Japanese leadership. In 1909, Abdürreşit İbrahim and Toyama Mitsuru founded a society called Ajiya Gikai with various Japanese persons who had the same aims.
Several upper class Japanese became Muslims and joined this society. The society took actions to guide the Asian Muslim independence movement. Due to İbrahim’s efforts, Japan’s rulers became a little closer to the Muslim Turks in Russia and became potential allies. Abdürreşit İbrahim, who was the fi rst Turkish leader to come into social contact with Japan, went to Japan in 1933 at the invitation of his old friends and remained there until his death(22)
.
Other Volga-Ural Turks went to Japan and settled there, taking advantage of the door opened by Abdürreşit İbrahim. This brought about an aspect of Turkish-Japanese relations that is not well known. Some Volga-Ural Turks who were engaged in trade secured special permission from the authorities and went to Japan and Japanese controlled Korea with their families, beginning in 1920(23)
. Those who went to Japan settled in Yokohama, Kobe and Nagoya. At fi rst, there were larger numbers in Yokohama compared to other cities. Later, the Turk-Tatar population grew in Tokyo, Kobe and Nagoya.
The Turk-Tatar community in Tokyo began to take form in 1921. This group initially consisted mostly of bachelors. They rented rooms in hotels in Tokyo’s Shinjuku district. There they lived and conducted their business. Once their businesses became established, they gradually had their families join them or got married, and moved to areas of Tokyo that had small populations of Muslim families. Some Turks in Japan
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An Essay on the Immigration of the Turk-Tatars to Japan
became butchers or opened produce markets to cater to the needs of the growing number of Muslim families. Most of them sold fabric or clothing. Rich Turk-Tatar merchants had traveling salesmen, also Turk-Tatars, sell their wares. These salesmen brought the wares to the farthest villages. Some went by themselves, others with their wives(24)
. As the fabric and clothing trades began to show profi t, the merchants found themselves with a shortage of personnel. They sought to bring in young Turk-Tatars from Manchuria and Korea to alleviate this problem(25). However, every Russian entering Japan was obliged to show that they possessed
1,500 yen, either in cash or in a note of guarantee. This became a great obstacle for the new arrivals. The amount was originally 400 yen, but it had been raised to 1,500 in a law passed in 1924 to stem the wave of Russian immigrants after the 1917 revolution(26)
. This problem was overcome with a scheme that relied on trust. The merchants who invited the young men to Japan gave them a check made out for the necessary amount, payable to the holder. The young men gave the checks back to the merchants after they arrived. As European style clothes and fabric picked up favor and their use became widespread in Japan, the role of the Turk-Tatar merchants grew.
The Turk-Tatar families in Tokyo collaborated and stuck together in order to overcome the hardships in their lives. In order to establish an identity for themselves they placed great importance in getting together for religious feasts and national holidays, as much as their fi nancial situation allowed. For such gatherings, they would rent a hall in a Tokyo hotel in the Shinjuku district.
1924 was a turning point for the Turk-Tatars in Japan. Muhammed Abdülhay Kurbanali, from a prominent Başkurt Turkish family, arrived in Tokyo(27). During the civil wars, Kurbanali had joined with the
White Russian armies. Later, he, together with these armies, had gone to the areas under Japanese control. There, Kurbanali had come into contact with the Japanese, and worked as a translator for the South Manchuria Railroad, operated by the Japanese. According to American intelligence reports, Kurbanali was an agent working for Japan and taught Russian and Turki languages in the intelligence school in Manchuria(28).
In 1924, Kurbanali amid a group of associates came to Tokyo. From the fact that his activities declined here, we can say that the Japanese used him as a vehicle to help them execute their Islam. The arrival of Kurbanali and his group added to the Turk-Tatar population in Japan, causing changes in the way that this community lived. The Tatars became more organized and made sure that they congregated at every opportunity. Regular Friday prayers were organized starting in January, 1925. That was also the year that Mahalle-i İslâmiye was founded. Mahalle-i İslâmiye was built in Shibuya, where the earlier arrivals to Tokyo lived. The district in which the Turk-Tatars and Muslims lived came to take this name. Kurbanali worked to bring all Turk-Tatars living in Japan and in lands controlled by Japan under systematic control, beginning with those living in Tokyo. He was quite successful at this, at least for a time(29)
.
With the increase in their numbers came the problem of educating their children. After several meeting, they decided to start a school. Upon receiving permission from the Japanese government, they rented a house
at 273 Hyakumin-cho in Shin Okubo(30)
on October 2, 1927 and used it as a school, naming it Mekteb-i
İslâmiye. It began as an elementary school. Students were taught not only reading and writing, but also
religion and nationalism. The house was also used as a mosque and meeting hall. The Tokyo Muslim Association was established on October 3, 1928 with Kurbanali as president. By becoming principal and teacher at the school, as well as the religious leader by accepting the position of Imam, Kurbanali assumed great infl uence. When the school was closed later at the request of the landlord, it was moved fi rst to Okubo, then to the Kashiwagi district. Having to move the school so frequently had a crippling effect not only on the children’s education, but also on the religious and community meetings. Families began saving money and,