アイデンティティを考える (三) (秩序としての混
沌 -- インド研究ノート 第8回)
著者
湊 一樹
権利
Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア
経済研究所 / Institute of Developing
Economies, Japan External Trade Organization
(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp
雑誌名
アジ研ワールド・トレンド
巻
208
ページ
37-38
発行年
2013-01
出版者
日本貿易振興機構アジア経済研究所
URL
http://hdl.handle.net/2344/00003797
●民主主義と
アイデンティティ
独立後、留保制度がより広範に 行われるようになったことで、ア イデンティティの再構成が促され たという側面があることを前回の 連載の後半部分で指摘した。 ただし 、留保制度がアイデン ティティの在り方に与えた影響に ついて考える場合、 その背後で ﹁政 治﹂がどのような役割を果たして いたのかという点にも目を向ける 必要がある。実際、一九九〇年八 月に当時の国民戦線政権が﹁その 他後進諸階級﹂ ︵以下 、OBC︶ への留保の実施を唐突に発表した 裏には、それを梃子に深刻な内部 対立を押さえ込み、政権基盤の安 定を図ろうとする狙いがあったこ とはよく知られている。また、O BCへの留保が宗教アイデンティ ティに与えた間接的な ︵しかし 、 きわめて深刻な︶ 影響についても、 政治的な思惑が決定的な役割を演 じた。なぜなら、一九九二年一二 月のアヨーディヤーでのモスク破 壊とその後の大規模なコミュナル 暴動は、留保問題の争点化によっ てヒンドゥー社会がカーストに 沿って分断されるのを避けるため に、インド人民党をはじめとする ヒンドゥー至上主義勢力がムスリ ムとの間の宗教対立を意図的に煽 ろうとしたことが発端だったから である︵参考文献①、二三八︱二 五七ページ︶ 。 これらの例からも明らかなよう に、カーストや宗教といったアイ デンティティの在り方に大きな影 響を与える要素のひとつとして 、 独立後に導入された民主的な政治 制度を挙げることができる。 実は、 このような議論は比較的早い時期 から展開されていた。一九七〇年 に刊行された﹃インド政治におけ るカースト﹄の導入部分で、この 本の編者である政治学者のラジ ニ・コターリーは次のように述べ ている。 ﹁実際 に は 、 カ ー ス ト と 政 治 の 間 の相 互 作 用 の 帰 結 は 、 よく いわれ てい る も の と は ま った く の 正 反 対 である 。 つ ま り 、 政 治 がカー ス ト にまみ れ て い る の では な く 、 む し ろ カ ースト が 政 治 化 し て い る の で ある。 ︵ 中 略 ︶ さ ら に 、 よ り 緩 やか にで は あ る が 、宗 教 心 や ム ス リ ム ・ 指定 カ ー ス ト ・ 指 定部族な ど の 間 での マ イ ノ リ テ ィ ー 意 識 に つ い て も同様 の こ と が 起 こ っ て い る 。﹂︵ 参 考文献 ② 、 二 〇 │ 二一 ペ ー ジ ︶。 コターリーがこのような議論を 展開したのは、 ﹁アイデンティティ の政治化﹂によって上位カースト を頂点とする階級秩序に動揺がみ られることを積極的に評価してい るためであると考えられる︵参考 文献③︶ 。●
﹁アイデンティティの政治﹂
の台頭
上記の引用文で、アイデンティ ティが政治から受ける影響により 力点が置かれているのには、もう ひとつの理由がある。それは、ア イデンティティによる政治の侵食 ︱つまり 、﹁アイデンティティの 政治﹂の台頭︱がはっきりと現れ るようになったのは、一九九〇年 代以降のことだったからである。 この よ う な 傾 向 は 、主 要 な 政 党 が特定のカーストや宗教を強 い 支 持基盤と し て い る 北イ ン ド の 二 つ の州で特に顕 著にみられる 。約二 億人 の人口を抱え るウ ッ タ ル ・ プ ラデーシ ュ 州 ︵以 下、 UP州 ︶ では、 過去 一 〇 年 に わた っ て 二 つ の地域 政党が州政権を担 っ て い る 。 そ の ひと つ 大 衆社会党は 、 指 定カー ス ト ︵ そのなかでも 、特にチャ マ ー ル と 呼ばれるカー ス ト 集団︶ から の支持を背景 に党勢を拡大し 、 二インド研究ノート
湊 一樹
秩序としての
混沌
第8回
アイデンティティ
を考える
(三)
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アジ研ワールド・トレンド No.208 (2013. 1)〇 〇 七年 の州議会選挙 で単独過半 数を獲得し て 政権 の座 に就 い た 。 また 、OBC のひと つ であるヤー ダヴおよ びム ス リ ムを重要な支持 基盤とする社会主義党は 、 二 〇 〇 七年の選挙で州政権を失うもの の、 二 〇 一 二 年 の 選 挙 で は 大 衆 社 会党を破り政権 の 座 に 返り咲 い た。一方、 現 在 で は 二 つ の 地 域 政 党の後 塵 を 拝 しているインド 人 民 党は 、 ヒ ンドゥ ー の上位カースト から多くの支持を集め 、単独で州 政権を担 っ て い た 時期もあ っ た 。 UP州の隣のビハール州でも 、 OBCに属する特定のカースト集 団を支持基盤とする二つの地域政 党︱ジャナタ・ダル︵統一派︶と 民族ジャナタ ・ダル︱を中心に 、 指定カーストを主な支持層とする 別の地域政党やインド人民党など が入り乱れて、州政治が展開して いる︵詳細については、参考文献 ①・④を参照︶ 。 このような複雑な政治状況を背 景に、各政党はアイデンティティ を巧みに利用している 。例えば 、 選挙の際には 、特定のコミュニ ティーに狙いを定めた政策︵例え ば、留保政策︶を盛んに訴えるこ とで、他陣営の支持層の切り崩し や特定の政党に投票する傾向のあ まりない集団の﹁浮動票﹂の掘り 起こしに躍起となっている︵参考 文献④・⑤を参照︶ 。
●
民主主義とアイデンティ
ティの相互作用
アイデンティティが政治に与え る影響を強調する議論は、どちら かというとカーストや宗教といっ た要素が政治に持ち込まれること による混乱や政治的分断といった 否定的な側面に焦点を当てる傾向 にある。 しかし、 アイデンティティ が政治のすべてを規定しているか のような見方には、多分に誇張が 含まれているといわざるをえな い。この点を二〇一二年のUP州 議会選挙の事例から検討してみる ことにしよう。 この選挙について特に興味深い のは、政権与党の大衆社会党がほ ぼすべてのコミュニティーで得票 率を上昇させている一方、最も重 要な支持基盤である指定カースト の間で得票率を大きく減らしたこ とである。さらに、その他の主要 政党も従来の支持基盤と考えられ てきたコミュニティーからの支持 を一様に減らしている︵参考文献 ⑥、 表 3︶。 また 、各党の当選者 のカースト・宗教別の構成に目を 向けると、特定のコミュニティー への偏りが徐々に薄まる傾向を示 している︵参考文献⑦、表 1︶。 したがって、インドにおける民 主主義とアイデンティティの間の 関係は、前者から後者または後者 から前者という一方通行のような 単純なものではない。むしろ、互 いに影響を及ぼしあう相互作用と して捉えなければならない。そし て、アイデンティティと政治をめ ぐる問題は一筋縄ではいかない非 常に厄介なものだからこそ、両者 の関係が﹁実際にどうなっている のか﹂という点と﹁どうあるべき か﹂という点を明確に区別するこ とが必要なのである。 ︵みなと かずき/アジア経済研究 所 在デリー海外派遣員︶ ︽参考文献︾ ① 中溝和弥 [二〇一二] ﹃インド 暴力と民主主義︱一党優位支配の 崩壊とアイデンティティの政治﹄ 東京大学出版会。 ② K othari, Rajni 2010. Intro-duction: Caste in Indian P oli-tics, in Rajni K othari (ed.) Caste in Indian P olitics , 2ndedition, Orient Blackswan.
③ 佐藤宏 [二〇〇八] ﹁インド政治 論のメタモーフォシス︱一九八〇 年代から九〇年代以降へ﹂近藤則 夫編 ﹃インド民主主義体制のゆく え︱多党化と経済成長の時代にお ける安定性と限界﹄ 調査研究報告、 アジア経済研究所。 ④ 中溝和弥 ・ 湊 一樹[二〇一一] ﹃イ ンド ・ビハール州における二〇一 〇年州議会選挙︱開発とアイデン ティティ ﹄機動研究成果報告 、ア ジア経済研究所。 ⑤ Promises to K eep: K ey Provi-sions in P arty Manifestos, Hindustan Times , F ebruary 1, 2012. ⑥ Sixteenth Assembly Elections in Uttar Pradesh, 2012. Eco-nomic and P olitical W eekly , 47 (14), pp.80-86. ⑦ Ja ffrelot , Christophe , a nd Gilles Ve rn ie rs 2 0 1 2 . Ca st es , Com-munities a nd P arties in Uttar Pradesh , Economic a nd P oli ti-ca l W e ek ly , 47 ( 32) , p p .89-93 . 社会主義党の候補者の選挙ポスター。右下には、 同党のシンボルである自転車が描かれている。イ ンドでは、文字が読めない有権者でも候補者と その所属政党が識別できるよう、各党にシンボ ルが割り当てられている。(2012年2月、筆者撮影)