沖縄における集落公民館の自治と運営論に関する歴史実証研究
小 林 平 造 (1999年10月12日 受理)
A historical positive study on a theory of self- government
and administrationof "Shyuraku Kominkan (citizen hall of village commnnity)" in Okinawa area
Heizou AOBAYASH はじめに 本研究は1995 (平成7)年の九州教育学会大分大学大会発表以降,同学会で毎年報告してきた "琉球弧の集落と社会教育"に関する研究の第4年目に位置づいたものである。筆者を中心とする 鹿児島大学教育学部社会教育学研究室メンバーは,これまで沖縄の青年団の地域芸能,地域文化活 動について,また与論町の自治公民館制度(1996年)や名護市の字公民館(1997年)などの実証研 究を報告してきた。 1998年は,これらに関わって日本社会教育学会大阪教育大学大会(9月)にお いて,沖縄における集落公民館実践の各世代に関わる学習論の分析を行った。 本研究は,これら一連の研究をふまえて行った,九州教育学会長崎大学大会(11月)での報告『集 落公民館の自治と運営論に関する歴史実証研究-沖縄の事例を中心にして-』 (報告原稿作成と 報告者は,小林平造,川又美春である。また,共同研究者は,山城千秋,北原淑子,小林浩隆の3 名が加わる)と,当日の討議などをふまえて,大幅に加筆したものである。
1章 本研究の課題
日本社会教育学会の先行研究が示す「自治公方式」 (字佐川満:京都府・久美浜町や鳥取県・倉 吉市)は,自治公民館が対象とする集落のエリア,そこでの自治組織,運営論,自治公民館の機能, いずれについても現代的なものとして改編していくことが前提的な課題とされて,その有効性が論 議されたものであった。 その背景には,自治公民館が,権力の最末端機能や市町村行政の末端機能を持つことについての 吟味があったのである。すなわち,そうした末端的機能は,自治公民館の住民自治性に対して矛盾 しながら存在し,自治公民館の二面性を生み出しているとする論議であった。 沖縄においても,戦前の「村屋(ムラヤー) 」などをみると,こうした性格は否定できない。さ らには,戟後においても,そうした側面を全面的に否定することはできないだろう。しかし,筆者298 鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第51巻(2000) は,戟後沖縄における集落公民館の次の諸点に注目したい。 第1に,米軍占領下に置かれた戦後の沖縄では,民衆は民族主義的な運動を展開することなしに, 生活や権利を守ることはできなかったということである。例えば,戟後初期に沖縄の各地で展開さ れた「シマおこし」のとりくみは,占領下においてシマ(ムラないし集落)を闘いとるようなとり くみであった。それは,広範な人々による「土地闘争」の土台を形成したといえよう。 「土地闘争」 もしかり,後の祖国復帰運動の展開も民族主義的な運動であった。そして今日,祖国復帰後にも, 核戦争の脅威のなかで基地問題を抱えての生活が続いている。異民族統治下と祖国復帰後において は生活実態の違いはあるとしても,沖縄に在住する人々にとって,民族の主権と文化を守ることが 課題とされる現実は共通したものがあるといえよう。人々がこうした課題解決にとりくむ拠として, 集落の自治組織と集落公民館が位置づいてきたことに注目しておきたい。 例えば,自らの生活体験を通して,次のように述べる沖縄の社会教育研究者がいる。 「こうした 厳しい状況において,逆に住民の生活構築の動きは激しく燃え上がり, "村おこし"の運動として展 開していく。その拠点は昔からの村屋(ムラヤー)であり,それは部落の生産,文化,諸行事そし て『学習所』でもあった・ - (云々) 」 (沖縄大学教授の平良研一氏,出典は小川利夫編著『生 涯学習と公民館』亜紀書房1987年7月)と。 たしかに自治組織としての集落公民館は,その戦前的形態において権力の末端機能として位置づ いていたであろうが,戦後においては,以上のような諸とりくみの歴史が,その状況を改革してい く契機を幾重にも生み出していたとみるべきではないだろうか。その歴史的経緯は実証される必要 があろう。あるいはまた,そうした視点による戦前史の吟味も欠かせないのではないかと考える。 第2に,米軍占領下で,琉球政府がとった社会教育政策においては,集落公民館が普及されたの であった1953年11月の琉球政府中央教育委員会「公民館設置奨励について」はその端著となって いる。)この施策は,字の自治組織を学習組織として位置づけたものであり,日本本土と異なった政 府中央教育行政による字公民館振興策となったのである。このことも集落公民館の戦前的な体質を 乗り越える歴史的側面を形成してきたのである。 第3に,以上のような社会的背景のもとで,集落公民館は,戟後沖縄において,集落生活を守り, 発展させる現代的な内実を持つものへと進化してきた戦後史を持っていることである。例えば, ① 今日沖縄の多くの集落で取り組まれている「字詰づくり」のとりくみ(名護市の天仁屋集落と底仁 屋集落そして屋部集落などが,よい事例である)や②名護市源河集落の「源河川のアユを取り戻す とりくみ」, ③名護市における福祉推進委員による集落をエリアとした高齢者と子どもへのとりくみ 等は,明らかに集落公民館を拠点として展開してきたことに特徴があるし,集落公民館活動を新し く創造していく内実を持つものとして定着してきている。それは最近,国からの紐付きの予算を返 うまんちゅ-ムラヤ-上して, 「御万人の村屋(自分たちの公民館)」をつくった読谷村・大添集落などにも典型的に明ら かである。 第二次大戦後,沖縄の字公民館は,人々がその体質の改善を進めつつも, ①琉球の個性的な文化
としての芸能や, ②様々な習俗や子育ての習俗, ③家庭や集落における様々な神行事,そして④沖 縄型集落(例えば, 「やんぼる型土地利用」など)の,沖縄固有の意義を守り発展させてきたとみ ることができる。それは,沖縄に固有の文化の歴史的展開を背景として成立しているものである。 そして,伊波普猷が最期の著作『沖縄歴史物語』 (1947年)で述べた, 「ただ地球上で帝国主義が終 わりを告げる時,沖縄人は『にが世』から開放されて, 『あま世』を楽しみ十分にその個性を生かし て,世界の文化に貢献することができる」 (付記部分の一文)という指摘と重ねて理解されるべき 質のものであろう。以上の視点を基本にして,表題テーマにそくした検討を行う。
2章 集落公民館の自治と運営をめぐる戦前・戦後史
一辺野古集落の事例を中心にして-ここでは,沖縄県名護市辺野古集落の事例をとりあげて検討していこう。辺野古区は,戦後初期 からキャンプシュワブという基地を抱える集落である(軍用地収容は既に1956年からはじまり,キ ャンプシュワブは1959年に竣工している)。また近年では,ヘリポート基地の誘致をめぐる問題が, 名護市や沖縄県は勿論日本国を揺るがす問題に発展したことでも注目されている地域である。人口 は1426人(1997年9月現在),第3次産業従事者の多い集落である。基地に関わる職業への従事者が 多く,若者の人口も他の集落とくらべて格段に多い集落である。集落は,従来からの下集落と,基 地の設置により流入人口によってできた上集落とで構成される(それらの詳細は,この小論では省 略) 。 (1)集落自治と民主的運営の獲得過程 1)村内法から区条例へ-区条例成立過程-沖縄では,古琉球(沖縄の時代区分で14世紀前後から1609年の薩摩侵攻までといわれる)から1908 年の沖縄県及び島喚町村制の施行まで,地方末端の行政単位として独自の「間切」 ・ 「村」があった。 このような長い間,各間切や村の統制のために慣習的に執行されてきた約束ごと等が地方の役人た ちの手で成文化されたものに「各間切内法」・「各村内法」というものがある。間切内法を細分化し たものが,村内法である。この村内法には,村行政の職務に関することから年貢の上納,農事,風 紀に関する取締り等が記されていた。また特に,住民に対する罰則が多く記されていた。しかし, それぞれの村において,実際の執行に使った罰則等は,村ごとに決められた内容で構成されていた。 辺野古でも, 「村吟味」と称して,村内法に準じて更に独自な細かい規律が設けられていた。さらに, それぞれに「札」と呼ばれる罰則制があった。辺野古では,戟前に至るまでこれが厳しく守られ, 執行されてきたのである(辺野古に関する記述は,筆者による辺野古区公民館関係者へのヒアリン グと辺野古公民館関係資料および辺野古区事務所・辺野古誌編集委員会編『辺野古誌』 1998年4月 による)。300 鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第51巻 戦前における村内法は,間切や村において,役人が民衆を統治するために作成,強制した規則 (捉)だったといえよう。第2次世界大戟後には,米軍占領下で, 1955年に『辺野古部落内規』が 施行されている。戦前の村内法は,村役人によって作成されたのに対し,ここでは戦後における字 行政の担い手が作成していることが注目される。それは,字を自治的に運営していく発想に基づく ものであったといってよい。 戦前の『村内法』と戟後の『部落内規』以降のものとの違いの吟味が重要である。そこで,戟前 の村内法とそれに準じて規定,執行されていた札による罰則制度から戦後施行された部落内規への 内容の変化について具体的な例をあげて比較検討してみよう。例えば,区長選出についての規定で ある。戦前,戦中とは異なり,部落内規では, 20歳以上で集落に3か月以上居住する者について選 挙権が与えられ,区長を選出できるように規定されている( 『辺野古区部落内規』の「区長・有志 会員等選出」に関する条項から)。 次に,戦前の「札」について検討しておこう。 『辺野古誌』に具体的に記されているものをあげれ ば,例えば「ユラリ札」という罰則がある。これは農民の勤怠を厳しく律したもので,畑や山仕事 等に行く途中で他所の家の門にクワや鎌等を置いて怠けていたり,山道をのらりくらりと歩いてい たり 2, 3人で立ち話などをしているところを見られたら執行されるもので, 「ユラリ札」と称し ていた。このような者は,捕らえられ,既に札をもっている者によって村屋に訴えられ科料される という罰則である。他には「女ヌ罰金」 (イナグヌパッキン)というものがあった。これは,最も 厳しい罰則で, 「村内法」の41条に定められた罰則( 「他間切他村ノモノ当村ノ婦女卜姦通スルモノ ヲ捕得ルトキハ男ハ科銭千五百貫文申付候事」)に鑑みたと思われる。これは婦女子が他村の青年と 密通したりするととがめられるもので,違反した者は家畜をとりあげられた。 これらの取締りには,すべて青年団が関わったといわれている。これは,村の労力を低下させな いために,一人でも他村へ稼がせることを防ぐためのものであった。 さらに,年に一度の「大集会」というものがあった。これは,約束事を破ったものが集められ, 札の道具をもって住民の前を一周しなければならないものであった。罰則とはいえあまりにみじめ で恥ずかしく,顔をあげて歩けなかったといわれる。ただし, 「女ヌ罰金」や「大集会」は,大正時 代に廃止したといわれている。 戟前の字の秩序は,ほとんどが,これらの札による罰則や科料によって保たれていたといわれる。 戟後に施行された部落内規は,戦前のものを踏襲した部分もあるが,さらに民主化された内容とな っていた。辺野古においては,部落内規は約4回にわたり改定,改正されている。現在の辺野古で は, 「辺野古区行政内規」 (1979年から)を中心として,成文化された各種規則規定によって,円滑 な行政運営が図られている。この間に,戦前の慣習としての罰則や夫役等の条項は削除されるなど 旧来の慣習を改変し,民主的で字独自の条例をつくりだしてきたといえる。 字独自の条例として,辺野古の他で注目すべきものでは,国頭村の奥区の条例がある。ここでは, 1954年にそれまでの慣習法を成文化したものが最初である。その後何度か改定されてきているが,
内容としては主に行政の諸制度に関するものである。 1963年改正の条例においては,それまでの総 会に代わる機関として「区議会」が位置づけられている。これは,理事,議員の他に共同店主任, 成人会,婦人会,青年会の正副会長を加えて構成されており(条例第畠条),民主的な行政運営に変 化してきたことが分かる。 2)運営組織の変遷 先に述べたように明治後期まで沖縄では間切・村と呼ばれる行政の末端組織があった。各間切の ントウデ-最高職は「地頭代」であり,王庁の指揮監督の下に耕地の配分,林野の保護,諸税徴収上納等の間 ムラヤ-ウノチ 切行政を担当している。各村の村屋には現在の区長にあたる錠がおり,最末端の行政の責任者とし て地頭代の指揮をうけ一切の事務を請け負い,統括していた。その責任は重大であった。これらの 下に「耕作当」, 「山当」, 「惣頭」などの役職が置かれ,村の統治を支えていたのである(図1参 照)。 図1 久志間切番所機構と役名・任期 「 任 期 」 地頭代-五年内規三年とする 惣耕作当-無期 惣山当︰無期 夫地頭-三年 首里大屋子︰夫地頭退役に際し順次繰上げ 大技-同上 南風綻-同上 西桂-同上 綻 ︰ 無 期 大文子-同上 脇文子-同上 相付文子︰同上 下知人-同上 遠見番-同上 耕作当-同上 山 当-無期 山工 人-一年以上 十年以下 各村役職 綻冊 -耕 作 当 -山 当 p n H 一 惣耕作当三 円 ト ト l L u p n u 惣山当五 ( 捌庫理
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室兼字事務所が誕生した。これは辺野古だけの事例ではない。例えば, 1934年には同じ久志村字久 志でも,養蚕室建設補助制度を利用した養蚕室兼区事務所がつくられている。この施設は,徐々に 老朽化していったが,改修をくりかえしながら利用されてきた。後に,この施設の改修は,区政委 員会(字の代議員組織)の提案により,公民館建築計画として提案されるに至る。そのために,棉 人会等も含めて設置された設置委員会は,他の公民館視察,村当局や民政府,キャンプ・シュワー プ基地司令官への協力要請などの活動を行っている。そして1968年には,建設費用の約1 6%を高 等弁務官資金によって賄い,その他寄付金,銀行借入金等により区事務所と結婚披露宴場も兼ね備 えた公民館が完成し,今日に至っている。 このように,戟前から,村の末端行政を行う場として機能した字(区)事務所は,時には共同売 店であったり,また養蚕室であったりと常に字住民の生活圏に存在しながら,その拠点となってき たといえるのである。 4)宇内の団体が果した役割-青年会と婦人会-戟前の辺野古青年会の主な活動としては,祭紀行事の参加,夜間取締り,冠婚葬祭への協力等が あげられる。そのなかでも注目すべきことは,宇内における札制度の取締りを青年会が行っていた ことである。まがりなりにも,青年が字行政の一端を担っていたということなのである。但し,育 年会自体は上下関係が厳しく民主的な運営とは言えない状態であったことは否めない。 戟後の青年会は, 1947年に再結成し,集落の復興に努めつつ伝統行事復活のとりくみや奉仕作業 などの活動を再開している。 『久志誌』では, 「旧7月の村踊りは古くから青年会主催による伝統行 事であったが,戟後 (中略 1947年の旧7月13日, 16日, 17日の三日間にわたり盛大 に村踊りを催して,区民に喜びと希望をあたえ見事に盆踊りを復活した意義は大きい」 (名護市字 久志区公民館・字詰編集委員会編『久志誌』 1998年P223)とその活動が高く評価されている。久志 集落では,こうした青年会活動が認められ,部落の常会で婦人会とともに青年会の正,副会長を「有 志会員」 (行政委員)とする決議が行われたという経緯がある。青年と婦人を代表する字内の自主 的な団体が,このように部落の運営機関に加わっていったのである。これらも,集落を民主化して いった過程として注目されるのである。 (2)自治機能の継承・発展・現代化 1)戟前・限られたなかでの自治機能の展開-潜在的エネルギーの蓄積-共同売店 字における相互扶助的な自治の機能として,まず共同店の存在があげられる。辺野古 では1920年頃,郡長役所の行政指導のもとに,住民の相互扶助を目的として,生活必需品の仕入れ・ 販売,及び林産物の一括収集・出荷・販売をはかることを目的として,字直営の共同店を設立し, 営業を開始している。村屋の∵角がその場所であった。その運営は,字行政と密接に関係していた 売店主任(常会で選任した)に担当させていた。この共同店の収益金は,字行政の運営財源にあて
304 鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第51巻 られ,字を支えてきた。しかし,養蚕室改築によって閉業となっている。その際の店舗は個人の家 に移された(1932年)。 このような共同店は沖縄ではあちこちにみられるものである。例えば,前掲の国頭村の奥区の共 同店が最初であった1906年創設)といわれている。奥区では,共同店主任は行政組織のなかに位 置づき,字になくてほならないものとして機能してきた。 住民自治運動の展開 次に戟前における住民自治運動の展開として一つの事件を紹介しおこう。 1931年,名護市のなかの羽地(間切)の字古我知・呉我等-流れている川の水源地付近の嵐山に県 がハンセン氏病患者療養所建設を内密に行っていることが明るみになった(嵐山事件)。これに対し て,各字で建設反対の意識が高まり,村民総決起大会などが行われているのである。この動きは, 周辺の字の人々約7,000人が仲尾次事務所前広場に集まるなど,大規模なものとなった。具体的には, 税金不納同盟が運動を展開したり,学校児童は同盟休校するなど住民あげての反対運動が展開した のである。この運動は,逮捕者も出るほどの事態にまでなったが,結果的には,療養所が別の地域 に設置されることとなって終結している。このことは,戟前のごく限定的な住民の自治権のなかで, 住民が団結して行政と対峠し,それが大きな動きとなって実際に行政の政策を変えていったものと して特筆すべき出来事であったといっていい。 2)戦後・自治機能の発展,現代化 第二次対戟後,各集落では様々な復興の努力が重ねられてきた。教育の面からみると,辺野古で は, 1945年にいち早く青空保育ながらも幼稚園が開設されている。また学校の「校舎建築が仝稼働 者を動員しておこなわれ,建築用材の伐出から学齢児童は茅運びに従事し茅葺き校舎が完成した」 (前掲『辺野古誌』 P454)という。辺野古小学校は,字住民の手によってつくられたのである。そ して,その後米軍占領下においては,久辺初等学校が開設されている。また, 1968年頃から教育隣 組の組織づくりが奨励され, PTAから補助金が出たり,字行政において教育隣組育成費を予算化 するなど,地域における子育て機能としての教育隣組が字行政に位置づいて今日に至っている。辺 野古では,戦後復興の財源確保のために,戟前にあった共同店を復活させることを構想し, 1950年 に字直営の共同店を開設するなどの動きもみられた。 3)沖縄の個性として自治機能の継承・現代化 いうまでもなく,沖縄は芸能・文化の豊富な地域である。沖縄における多くの芸能はまた,生活 基盤である集落単位の営みによって,歴史的に継承され支えられ続けてきた。こうして,芸能や文 化が,集落を単位とした集団によって,また年齢階梯集団によって支えられているのは,沖縄の個 性といってもいいだろう。それは,政治的,あるいは経済的な自治活動とは異なるが,明らかに文 化や生活に係わる自治的な機能を持つ人間集団として存在している。さらに注目すべきことは,こ うした文化(生活)的な自治集団が,近代を越える以前から,営々として継承されてきていること
なのである。芸能や文化をめぐる自治集団(例えば「踊り団」や「芸能保存会」など)においても, またその自治性や民主性は獲得され続けた歴史でもあったのである。 表1 辺野古区平成9年度行事予定表 月 行 事 祭 事 旧暦 王 管、 委 員 会 役 員 会 4 (9 日) 浜下り ( 5 日) 村清明 (人口) 区神人 監査委員会 (決算監査) 定例班長会 月 (27 日) 区民大会 (13 日) 一般清明 行政委員会 教育隣組長会 5 (18 日) アブシバレー (16 日)十日ウマチ 4 7 10 神人 行政委員会 三区合同委員会 定例班長会 月 (24 日)十八夜ウガミ 4 718 神人婦人 総合開発推進委員会 親善委員会 教育隣組長会 6 (8 日) 第24回区民運動 (19 日)五月ウマチ 5 / 15 区神人 行政委員会 定例班長会 月 会 総合開発推進委員会 教育隣組長会 7 (27 日) 合同清掃作業 (19 日)六月ウマチ 6 / 15 青年神人 行政委員会 定例班長会 月 (29 日)ユーこゲー 6 725 神人 教育隣組長会 8 (10 日) 親子ソフトボ2 . 3 日) 大綱引 き 行政委員会 定例班長会 月 ール大会 (16 日) 平和祈願 三区合同委員会 教育隣組長会 9 月 (15 日) 敬老会 (20 日)秋の彼岸 (入 日) 区神人 総合開発推進委員会 定例班長会 教育隣組長会 10 月 (31 日)シマクサラ 10/ 1 神人婦人 監査委員会 (中間監 査) ■行政委員会 定例班長会 教育隣組長会 ll 月 学事奨励会 総合開発推進委員会 定例班長会 教育隣組長会 12 月 (21月) 合同清掃作業 (25 日) キリシタン 行政委員会 定例班長会 教育隣組長会 1 (3 日) 新春走 り初め大 会 もちつき大会 火返 し 12/ 12 青 年 行政委員会 定例班長会 月 たこあげ大会 新年宴会 (10 日) 生年合同祝い サンナモー 三区合同委員会 教育隣組長会 2 月 ■カーメー 年頭ウガミ 十八夜ウガミ 1 / 2 1 / 5 1 /18 区 神 入 神人婦人 神人婦人 行政委員会 総合開発推進委員会 給与及び補助金検討委 員会 定例班長会 教育隣組長会 3 月 ウタティ初願 春の彼岸 (入日) 神 人 区 神人 行政委員会 褒賞審査委員会 三区合同委員会 定例班長会 教育隣組長会■ (辺野古区行政資料より抜粋)
306 鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第51巻(2000) 辺野古においては,表1にみられるような行事が年間を通じて行われている。ここでは特に,芸 能,祭りに関して, 1973年に辺野古の芸能の復活と保存継承を目的とした「辺野古芸能保存会」が 結成されている。この保存会を通じた集落の芸能・文化活動は現在においても活発である。このよ うな芸能をめぐる自治組織は,名護市にかぎらず沖縄の各地に見られるものである。例えば,同じ 名護市の屋部区では, 130年以上の歴史をもつ『八月踊』があり,毎年行われている。この『八月踊』 では, 『八月踊』開催の1カ月程前に「踊り団」と呼ばれる組織が結成される。これは,図2に表さ れているように,区長直属の組織であり,区長の前任者を踊り団長としている。また,区行政とは 区分して,祭りを運営する独自の自治組織によって伝統芸能やまつりが継承されていくのである。 図2 屋部区踊り団組織図 部 劇 組 踊 二才踊- 女踊-(屋部区行政資料より抜粋) (3)異民族統治下の集落自治と運営 1)米軍による占領支配と収容所生活・ 「シマおこし」の展開 戦争末期の自治組織および運営機能の停止1941年の太平洋戦争の勃発, 42年の国家総動員法の 成立,そして大政翼賛体制の成立は,シマの生活を戦争一色に塗りつぶしていった。若者の徴兵, 集落民の徴用,シマでは在郷軍人等による防空壕づくりや防空演習,教練などの続く日常となり, 「字 事務所でも,通常の行政を司ることはなく,総て,来襲する戦争に向けられ」, 「政府の命によった 戦争体制づくりが日課となり,本来の自治活動等は停止状態」 (前掲『辺野古誌』 P.189)となって いた。この頃は, 「疎開民の受け入れや,住民避難等と政府から久志村を通じて示達される上意下達 のみが末端行政に課せられた責務であった」 (同P.190)と示されている。権力の末端機能として の戟前における字の行政機能は,戟時下に至って, ①行政末端機能,および②権力的統制機能の典
型的状況を生み出していたのである。自治機能の全面的解体である。 米軍による占領と臨時行政機構下の自治組織 沖縄北部地域は, 6月23日を前にして, 4月から 5月にはすでに占領下に入っていた。そして5月から6月には,収容所のなかで,戦後最初の自治 組織が成立,行政活動が展開されている。しかしその実情は, 「従来の自治活動は認めない連絡機関 でしかなかったといわれ,すべてが軍命による」 (同P.190)活動とその運営となっていたのであ る。その頃の字の業務は, 「すべて米軍から指示され」 (同P.192), ①配給物資の適正な分配, ②避 難民の住居の世話, ③住民の生活環境保全や食料の自給増産, ④保健衛生面における改善,等であ った。事務所,配給所,警察署,農耕班,衛生班,建築班,漁業班,病院などがこの頃の字におけ る自治活動を構成していたのである。このように,戦後の字における自治活動が開始したのである が,占領米軍による統制は厳しかった。確かに,建築用資材や農耕に必要な物資の確保等について 軍に要請し,これを獲得している事実などが伝えられているが,敗戦と失望,続く収容所生活,隻 落施設の混乱と食料不足の現実のなかで,米軍占領下の先の見えない集落生活は開始されていった のである。 字行政が主体性を持ちはじめるのは, 1946年ニミッツ布告(戟前所有していた財産権の尊重,な ど)による土地所有権委員(村長の任命)が基礎調査を始めたころからである。その画期は, 48年 の戟後の地方自治権を位置づけた新選挙法に基づく仝琉一斉自治体議員選挙の時である。ここに至 り, 「ようやく従来の行政機能が胎動し,初めて新たな自治活動の転換期を見るに至った」 (同P. 576 のである。 米軍による占領支配は,確かに民主主義に基づいた沖縄建設が意図されたものではあるが,それ は,あくまでも占領下でのものでしかなかった。また集落の状況は,施設も自治組織も混沌として いた。まず人々は,収容所のなかで子どもたちに教育を行うことを始めた。 「青空学校」である。そ れらは,初等学校づくり-と展開した。 『辺野古誌』には, 「何カ月も教育の空白は続き,子弟教育 に憂慮した住民により自然発生的に教育問題が起こり,駐留米軍との学校再開にあたっての詳細は 定かでないが,昭和20年9月『辺野古小学校』が開設された」 (同P.453)と記述されている。この 頃には,青空保育による幼稚園も始まっている。また,若者を中心にした集落を再興するための様々 な活動も開始されている。こうして,戦後の集落復興のための「シマおこし」は展開していったの であった。 2)米軍による土地接収と土地闘争(島ぐるみ闘争),祖国復帰運動の展開 第2次世界大戦後における米軍の環太平洋戦略は, 1950年6月の朝鮮戦争の勃発により大きく展 開する。社会主義圏との冷戦構造の本格的な始まりである。その環太平洋戦略にとって沖縄は, 「太 平洋の要石(keystoneofthepacific)」とされ,重要な戦略拠点となった。米軍が沖縄諸島に基地建設 を必要とした要因である。これが,米軍による「軍用地収容予告」 「土地接収」 「基地建設」のとり くみを具体化していった。
308 鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第51巻 2000 土地の強制接収は,民族として沖縄の地に生きる大きな基盤を失うことである。まして沖縄にお いて土地問題は,明治政府の沖縄に対する旧慣温存政策に対して民衆が旧慣廃止運動などによって 長い歴史のなかで獲得してきた「権利(限定的ではあるが)」に関わる問題である(榊。したがって戟 後初期のシマおこしと同様に譲ることのできない民族問題として人々には受け止められた。これが, 1950年代に,島ぐるみの闘争として展開した土地闘争であり,これは,沖縄における民衆の爆発的 な運動で支えられた。民衆の土地闘争は,最終的に① 「軍用地料を1956年段階の評価の2倍(当初 評価の約6倍)に引き上げること」 ,また② 「使用料の支払いを原則として毎年払いとするが,希 望者には10年分の前払いをおこなうこと」等の譲歩を勝ち取っている。そして民衆に大きな自信を 与えるとともに,米国民政府側の沖縄支配政策に,以後,かなりの柔軟性を持たせた歴史的な運動 となったのである。この土地闘争は, 1958年に沖縄民衆側の一定の範囲での勝利によって終止符を 打った。この年はまた,戦後沖縄における教育四法公布の年でもある。さらには祖国復帰運動が前 期段階の山場を迎え,運動が全島的に加熱していく歴史的段階にも位置している。これら一連の民 衆運動は,沖縄の民衆が民族としての主権を守り,祖国復帰を勝ち取っていく民族運動として評価 することができる。 ここで大切なことは,これらの諸とりくみが,集落の自治的な努力によって支えられていたこと である。辺野古集落をめぐる「軍用地収用予告」と「土地接収」と「基地建設」の経緯は,この様 子を典型的に示している。 (注) 旧慣廃止運動とは, 1879年の琉球処分から,日清戟争(1894-95年)にいたる時期の沖縄における 民衆運動の総称である。主には, ①貢租,公費の過重負担, ②地方役人の特権乱用や不正行為の横行 などが客観的な背景であった。このとりくみは,一般農民層の視野を広げ,運動の主体的条件の形成 を促進したといえる。 例えば,名護間切・屋部土地騒擾事件は,裁判の結果,元地方役人の久護家は屋敷地1500坪のうち 600坪だけを農民に明け渡すことで事件が落着している。この後には,今帰仁間切の各村の越来間切の 越来村,知念間切の各村などで同種の民衆運動が展開している。宮古島農民の「人頭税廃止運動」は, 全県下の旧慣廃止運動のピークに位置し,この政策を破綻させる導火線になったと言われている。 収容施設も廃止され,平静をやや取り戻した辺野古集落に, 「久志岳,辺野古岳一体の山林野を銃 器演習に使用したいとの一方的な連絡があった」 (同P.631)のは, 1955年1月のことであった。ま た7月21日には,約500エーカー(約62万坪)の土地の新規接収を伝えてきた。これに対して,久志 村では,臨時議会を招集して山依存の住民の生活権に関わる問題だとして反対決議をあげ,行動を おこしている。同時に辺野古区では常会において,一方的な軍用地接収への反対決議をあげている。 こうした動向に対して米軍は,強硬手段で対応し,集落ごとの強制立ち退きなどで次々と土地を接 収し,基地建設の増強を図りつつあった。群島の各地で軍用地の返還を求めての運動が展開したの
はこの頃からであった。民政府と立法院の間では,四原則(一括払い反対,強制使用の土地保障, 損害保障,新規接収反対)が打ち出されていくが,これをもとにして辺野古では, 1956年12月28日 に軍司令部との間で14条項の賃貸契約が成立している。こうして,基地建設が始まり, 1959年10月 にキャンプ・シュワブが竣工したのである。それらの経緯については,文末の年表に示してあるが, 沖縄全域の動向に対比して独自な対応をした辺野古については,他の地域に動揺を与えたことなど を指摘しておこう。 なお,こうした経緯に対して,辺野古区においては, 「部落内規」成立(1955年)や「久志内取締 り法」の成立(1954年)が,それと時期を同じくしていることについては注目しておかなければな らない。 3)今日における基地問題の展開-ヘリポート基地建設問題を中心に-いま,辺野古は普天間基地の代替えへリポート問題で全国的に注目されている。この地にキャン プ・シュワブが誘致されて以降,辺野古集落の約90%が基地で占められてきた。それにもかかわら ず,基地を抱える集落に今また新しい問題、海上ヘリポート建設問題が取り沙汰されているのであ る。この間題は,日本国家や米国が直接に関わる問題であるだけに,これ-の区行政としての対応 は難しいものがある。それでも,現在の基地と海上ヘリポート基地建設問題への辺野古集落として の対応は,集落の自治と運営の力量に支えられてのものである。三点を指摘しておこう。 第一に,区の運営組織としての行政委員会のもとに「親善委員会」が位置づけられており,キャ ンプシュワブ基地との間で生起する諸課題に,区の自治組織が直接対応してきたことである。親善 委員会は, 「駐留する米軍と地域住民との意思疎通を図り,派生する諸課題の解決に努める」ことを 目的とし, 1959年に設立されている。構成人員は, 「海兵隊基地キャンプ・シュワブ」から19名,辺 野古側からは21名となっている。委員会は年に2回開催され,相互の交流を促進するうえで問題と なることがらについて話し合う場として位置づけられている。ちなみに1996年4月の定例会で辺野 古側が提起した課題を紹介しておこう。次の通りである。 (1)辺野古区内外における米軍人の立入禁 止区域に関する件, (2)キャンプ・シュワブにおける辺野古区民雇用に関する件, (3)軍用機による 学校周辺での演習及び夜間演習に関する件である。それぞれキャンプ・シュワブより直接回答を得 ているが, (2)の雇用問題については, 2-3年の間に基地従業員として辺野古集落から15人が採用 されている。この委員会が基地側との直接の協議体となっていることで,基地被害を最小に防ぎ, 尊重しあうことが可能になっているといえよう。 第二に,今回の海上へリポート建設の動向については,辺野古区行政から独立させて位置づけた 組織として, 「ヘリポート対策協議会」 (各団体長,及び有識者を含めた51名で構成)を設置して対 応していることである。但し,この間題への対応を具体化することは困難点が多い。公民館として も住民の意見を反映させようとするが,その見解が両極端に別れる問題だからである。様々な集落 行事に関しての区民に対立はないが,この間題だけは共通見解が生み出せずに,苦慮しているのが
310 鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第51巻 実際のところであろう。 辺野古集落には, 1997年11月に62名の基地従業員がいた。また,基地があるが故に支給される集 落への交付金・補助金,そして地主に対する軍用地料などは集落の人々にとって無視できない収入 源である。基地に依存する人々の多い集落で,ヘリポート基地反対を唱えることは,集落の人々の なかに,たとえ強い反基地感情があるとしても,苦慮するところであろう。それにしてもたとえ不 十分であれ,集落民の共通の意思を示す組織として, 「ヘリポート対策協議会」を設置して対応して いることに注目しておきたい。 第三に,以上のような区としての対応が困難ななかで, 「ヘリポート建設阻止協議会(命を守る会) が結成され(1997年1月),建設反対の意思表示をする人々が出てきたことを指摘しておこう。区氏 からの参加は46名(1997年11月)であったが徐々に参加者が増えてきている(ヘリポート建設阻止 協議会「命を守る会」からのヒアリングによる。また引用は,同会配布資料『ヘリポート建設阻止 協議会・命を守る会』 ,他から)。特に, 「現在先頭に立っているのは15名ほどで, 10日間の実施1300 名の区民中840の署名を集めることができました。表だって反対はしなくても信条的には反対の人は たくさんいます」との集計結果に基づいた指摘は注目に催しよう。これは,集落の問題に対して, 住民運動としての対応があり得ることを教えている。このような方法のとりくみが展開しているこ ろに,辺野古集落における人々の自治的力量の展開と発展があることを指摘しておこう。 ところで,この形式は,源河集落におけるアユを呼び戻すとりくみを,本来の自治組織から少し 離して,集落で認められた公的な団体として位置づけたことと比較して吟味しておく必要があろう。 アユを呼び戻すとりくみも,当初は集落内の見解が分かれていた。そしてとりくみのなかで共通理 解が生まれていったのであった。 この基地問題については,字の力量をはるかに越えたところでの解決すべき課題が横たわってお り,以上三視点については,今日における集落の自治機能の形成として注目しておきたい。
3章 琉球弧の集落公民館と公立公民館の連携論
第2次世界大戦後のわが国においては,地方自治は市町村自治体最小の単位として成立してきた。 従って,集落に生起する様々な課題もその解決のためには,市町村自治体における議会や行政当局 での決定や方向づけが重要な意味を持つ。戟後の社会教育が,その本質的な特徴として, 「住民主体 主義, (市町村)自治体主義,施設主義」という3視点を位置づけてきたことも考慮しなくてはなら ない。ここから,集落公民館論は公立公民館との連携論(あるいは非連携論?)を構想する必要が 出てくるのである。学習活動に関する多くの問題が,市町村自治体行政との関わりを抜きにしては 十全な展開を成しえないと考えるからである。 公立公民館と集落公民館と双方のどのようなネットワーク論が必要とされるであろうか。ここで は,報告者が既に検討してきた,与論町の自治公民館制度(1996年度九州教育学会報告・後に,小林平造ほか「自治公民館制度と生涯教育計画の研究-与論町の『自治公民館制度』を中心にして一 I) 『東アジア社会教育研究』 No.2, 1997. 9に掲載),名護市の集落公民館重視論(1997年度九州 教育学会報告・後に小林平造ほか「地域の生活・文化と『集落公民館』 (琉球弧)に関する実証研究一 一公民館概念の再検討作業として- (上・下)」 『鹿児島大学教育学部研究紀要・教育科学編』 1999. 3に掲載)をベースにして,具志川市の事例などを紹介しながら検討しておくことにしたい。 まず確認しておきたいのは,それぞれの自治体においては,公立公民館(分館を含む)と集落公 民館との,双方を充実発展させることが,自治体における公民館活動発展に欠かせぬ視点だという ことである。そこにおける検討課題は,各々の役割と相互の連携論の吟味である。 与論町においては, 1984年に「自治公民館制度」が成立している。これは,区長制度を廃止して, 9つの各集落で公民館活動に専念できる専任の館長を置くもので,行政の末端業務は,町行政職員 の嘱託などで賄ってしまう方式である。この制度成立に至る15年間は,与論町の中で自治公民館制 度のあり方をめぐる論議が展開された時期であり,自治公民館施設が各集落に新築されていった時 期に重なっている。ここでは,中央公民館の運営審議会に9名の自治公民館々長全員が位置づいて いる。また与論町自治公民館連絡協議会があり,中央公民館活動を自治公民館活動が側面から支え ていく役割を持っている。特に自治公民館の財政は,与論町中央公民館活動をすすめるための補助 金としてかなり充実した措置が取られていることも指摘しておかなければならない。図3の朝戸自 治公民館組織図にあきらかなように,与論町の自治公民館は部局制をとることで,集落民の多くが 活動に参加し,諸活動における権限も分配されるしくみになっている。 「元気通り会」など新しい関 係団体が生まれていることも特徴の一つである。それぞれの実践は,ここ10-15年に各自治公民館 の創意的な努力で新たに展開した要素を持っている。このように与論町では,新しい地域課題に対 応する「実践創造的な自治公民館制度論」が位置づいているのである。 これと同様な形態は,奄美大島の瀬戸内町にみられる。ここでは,自治公民館にあたるものを総 て分館として行政公民館の中に位置づけている。分館長の多くは,非常勤職員となっている。この 形式はまた,長野県などに多くみられるものでもある。これらに対して,与論町の自治公民館制度 があくまでも分館とせずに,自治公民館制度として定式化していることが注目されるのである。 具志川市が1998 平成10)年現在吟味している内容は, 「中央公民館と自治公民館の連携・強化」 の方向である(具志川市教育長・大嶺自書氏,宮城英次氏からのヒアリングによる。引用は,いず れも具志川市教育行政資料から)。そこでは,公民館体制として, 3層の内容が提示されている。
312 鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第51巻(2000)
図3 朝戸自治公民館組織図
総 会 最高名誉顧問 名 誉 顧 問 関係機 関 役 員 会 運営委員 会 顧 問 体ブ会会団会会会部部合ブブブ会 i.n<i,<ii<n< i(1111一IItII iiNiri w:in-'llサ∴Iill''ilkI 関老壮婦青元立魁和野小元立魁元 日少年婦人局 体 育 局 産業振興局 ○農業経営部 ○基盤整備部 ○研 修 部 ○陸上部 ○相撲部 ○駅伝部 ○応援部 ○レクリエーション部 ○普及指導部 ○小学部 ○中学部 ○高校部 ○青年部 ○婦人部 ○壮年部 ○高齢部 文化敬老局 ○敬老運動部 ○親孝行運動部 ○文化活動部 ○公民館教室部 厚生環境局 総 務 局 ○事業部 ○備品管理部 ○広報宣伝部 ○防災安全部 ○連絡調整部 ○環境美化部 ○保健衛生部 ○新生活運動部 (朝戸自治公民館資料より) まず中央公民館を生涯学習センターとして位置づけている。 30の自治公民館に対して,中学校区 ずつ4つの自治公民館を地区館として指定することである。この地区館には,館長と主事を置き(市 の職員であろうと思われるが,ヒアリングの時点ではまだ不明確であった。)地域ニーズにこたえる ような特色ある自治公民館活動を推進することとし,さらに,中央公民館と自治公民館とをネット ワークして自治公民館活動を活発にさせていく役割を担うことがめざされている。特に自治公民館 については, ① 「生涯学習を推進する上で専任公民館長を置くことが望ましい」としている。また ②市当局からの事務委託事項による多忙化を防ぐにために, 「時代に対応した諸規約(自治会会則, 自治公民館運営規定等)を整備する必要がある」としている。ここで狙いとしているものは,自治 公民館活動本来の自主的活動ができるようにすることである。さらに③30の自治公民館の施設老朽 化に対して,これを新築していく必要を示している。あと一つ注目されるのは, ④自治公民館のとりくみ課題として,高齢者福祉への対応が指摘されている点である。ここでは,福祉と学習を一体 化させて,高齢者と青少年の交流も位置づけられている。 具志川市の構想も,中央公民館と自治公民館とを連携強化させていくものであり,当面4つの自 治公民館を地区館とし,館長と主事を配置するとしている点が注目される。高齢者福祉と学習・交 流の位置づけは,名護市の各字に設置されている「福祉推進委員」のとりくみや読谷村の字公民館 におけるミニ・デイケア-サービスのとりくみなど先進事例がある。 字公民館を最も充実させている事例の一つは,金武町の並里公民館であろう。その行政的根拠は, 辺野古公民館と同様に基地からの収入にある。その詳細は,松田武雄「字公民館のなかの運営審議会-沖縄県金武町並里公民館を訪ねる-」 ( 『月刊社会教育』 1995年11月号No.477 に譲りたいが,字公 民館の常勤職員のなかに公民館主事を配置していることや公民館運営審議会を持ち,字公民館のな かで社会教育機能が分化して位置づけられていることに注目しておきたい。ここでの紹介は省略す るが, 『並里区条例」, 「公民館条例」, 「公民館運営審議会規則」などが参考となる。 並里公民館の事例は,字公民館重視型である。名護市の事例は,与論町や具志川市に対してむし ろ,集落公民館の自治性重視型である。各字公民館があくまでも自主的かつ自治的に諸活動を展開 していくことを重視しているのである。そのうえで,必要な範囲の,むしろ消極的なネットワーク / を形成しているといえよう。但し,中央公民館がより積極的な役割を発揮すべきであることが課題 とされる。その役割とは、 ①各集落公民館で明らかになる学習課題をとらえること。 ②これを社会 教育専門職員が分析・検討し,学習内容編成をして,各集落や一般市民に返していくような内容で ある。このように,名護市の場合も,字公民館重視型である。 ここでは,集落における人々の学習とは何か,そして学習課題とは何かの解明が今後の研究課題と されよう。また,行政公民館がこたえるべき学習課題とは何か,社会教育専門職員,公民館主事な どによる学習内容編成の視点と内容などが研究課題とされよう。
第4章 沖縄・集落公民館の自治と運営論の発展-結語として
1) 「本研究の課題」で述べたように, 「自治公方式」を評価する条件は,自治公民館が対象とする 集落のエリア,そこで自治組織,運営論,自治公民館の機能,いずれもが現代的なものとして改 編されていくことが前提条件となっていた。本研究では,沖縄の自治公民館( 「集落公民館」と示 している)について,この点を吟味したものである。 小林文人,末本誠,松田武雄などの一連の研究は,琉球弧の字公民館が戦後に民主的な内実を 持つものとして機能し,異民族統治下で沖縄の公民館論を発展させたものであり,祖国復帰後も, 公立公民館設立が続くなかで,沖縄独自の公民館論(「集落公民館論」)として形成されてきたこ とを評価するものであった。筆者もまた,ここ4年間の一連の実証研究において,こうした視点 を具体的な事例を通して解明することに努力してきた。特に近年発表してきた名護市における集314 鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第51巻(2000) 落公民館研究は,沖縄の様々に個性的な集落公民館の実態を明らかにするものとなった。 しかし,複雑な歴史を持つ沖縄の近現代史のなかで,権力の末端機能として,住民統制の内実 ムラヤ-を形成した村屋を前史にもつ集落公民館が事実に即してどう評価できるかの吟味は不可欠な課題 であった。 2) 2章(1)では,村内法,運営組織,字役所の施設機能に着目して戦前・戦中・戟後の変化を検討 した。そこではすでに示したように,戦前の民衆統制機能を持つ権力末端機能としての実態が明 らかである。しかし,旧慣廃止運動<琉球処分(1879年)から日清戦争1894年 -1895年,の 時期の沖縄の民衆運動の総称>以後は,このようにのみいうことはできず,辛(当時は村)の持 つ自治的な要素が芽生え出していたことも明らかになった。特に村内法と運営組織の戦前と戟後 の変化に象徴的なように,第二次世界大戟をはさんだ相互の時代の違いは明白である。 「部落」に おける「処罰」など一定程度の「旧慣温存」の面はみられるが、例えば,処罰のための「大集会」 などが廃止されたように(大正中頃) ,そして字における区長ほか役員,有志会などの選任が公 平な選挙によるものとなったりしていること(1955年部落内規)が象徴的である。そして戦後の 辺野古「部落内規」は, 「区行政内規」へと内容が改革されている。奥や並里などでは「区条例」 が制定されているのである。これらに至っては,その内容における民主的な性格の完成度が高い。 すなわち,ここで扱った事例については,明らかに沖縄における戦後の区行政と字公民館とが, 自治的機能や民主的運営の内実を獲得しているということができるのである。 3)さらには,次の二つの側面を指摘することができる。一つは自治機能が充実し,発展させられ てきたことでことである。例えば,共同売店を生み出し,物資の購入や生活必需品の購入など, 相互扶助的な活動を区行政が歴史的に展開してきたことである。また,敗戟直後に,まず青空教 室をつくり子どもたちの教育の場をつくりだしたことである。 1960年代の教育隣組の成立と展開 もまた自治機能の充実のよい事例である。あるいは,源河集落のアユを取り戻すとりくみを集落 全体の課題として位置づけて取り組んできたことである。二つは,古くから,例えば戦前から一 連の経緯をもって継続させられてきた集落のとりくみのなかに自治機能を伝統的に継承してきた 部分がある。その典型事例は,豊年祭(八月踊)における「祭り団」 (屋部集落の場合)の存在 であり,これを通じた祭り自治の存在である。祭りも伝統芸能も,神人を通じて現世の者たちが 来世の神々と交信する場でもあろう。そのような神行事を司ることもまた,行政自治,教育自治, そして生産に関わる自治などとは区別されたところに形成されてきたといえる。エイサーを踊る 青年たちの青年団など青年活動をめぐる自治もまた,集落における自治機能の発展として注目し ておきたい。集落の自治力を評価していく際に,このような要素を軽んじてはならない。なぜな ら,辺野古においては1955年に青年団の代表や婦人会の代表が「有志会」のメンバーとされてい ったのだから。
これら二つの側面は,沖縄的な部分として,その個性として指摘することができよう。筆者は, 占領米軍が占領初期にとった宣布工作としての「旧慣温存」政策を,必ずしも占領意図にとって有 効だったとは考えない。なぜならば,沖縄の民族としての個性を継承させ,開花させることは,実 に戦後沖縄の一連の民族主義的な運動を励まし,力づけるものであったと考えるからである。否む しろ,沖縄の伝統芸能やまつり,そして集落をエリアとし,集落公民館を拠り所としてきた生活実 態が,祖国復帰運動に典型的なように,民族主義的な運動を集落から支える沖縄ならではの力とな っていたと考えたい。 4) 2章の(3)で示したように,以上に説明される自治機能と運営論は,異民族統治下に置かれた沖 縄の戦後史のなかで, 「シマおこし」や「土地闘争」,そして祖国復帰運動,基地問題へのとりく みなど,苦渋に満ちた沖縄民衆のとりくみと交錯したとりくみとして展開されることで,その内 的なエネルギーを豊かに成長させていったということができる。そうした民族主義的な運動は, 集落の自治機能と運営論を民主的なものに成長させていくための少なからぬ支えになっていたと いうこともできよう。 5)以上の検討に明らかなように,沖縄における集落公民館の近現代史は,その自治機能と運営論 の発展史でもあった。それは正に,沖縄における戦後公民館史(移民族統治下と祖国復帰後と) が字公民館(集落公民館)の系譜と公立公民館の系譜とがあり,双方がパラレルに存在し続けて きたことを説明する際の字公民館(集落公民館)の存在の力強さを実証する歴史的背景である。 また,字公民館(集落公民館)論に関する理論問題への回答でもある。したがって,沖縄におけ る公民館論の検討においては,字公民館(集落公民館)と公立公民館と,双方の吟味を位置づけ ることが不可欠である。 3章では,琉球弧における集落公民館と公立公民館の連携論を検討した。そこでは,具志川市, 名護市,与論町,読谷村など,この課題を検討するために欠かすことの出来ない地域の事例研究 をふまえている。その結語は, 3章での論述に代えることとする。
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年表・ 「軍用地収容予告から土地契約・基地建設に至る歩み」
※資料一沖縄タイムスほか 1955年2月13日 山は村民の生命、久志岳一帯の銃器演習使用に臨時議会を開き反対陳情。 7月22日 東・国頭・久志・金武・宜野座・名護に新規使用計画o 8月10日 接収地の変更,久志村長が米軍へ陳情。 1956年2月15日 軍が演習地の12ヶ所を法務局に通知、 (久志・金武・名護・宜野座など) 12月20日 問題化する久志村辺野古の収用予告、辺野古地積628エーカー新規接収され、接収 事務が進められている事で土地連・守る総連が主席へ収拾要請 12月21日 再燃する久志村の土地問題、 DE係官が地元地主と相当接触する。長崎原・思原・ 上下福地原は55年7月収用予告している。 12月22日 村長、モーア副長官と会談、単純封土権について解釈を求める席上封土権はあく まで使用権であり日本の領土権にも抵触する事もあり所有権でないと言明。また 地主代表と当間主席とも会見年内賃貸契約を行う旨伝える。 12月23日 久志村の新規接収問題、 「立法院」 12月25日 土地問題解決の時期に来た(一面掲載) 12月27日 土地問題で立法院各派対策委員を設置。 12月28日 適正地料条件で軍工作隊と土地使用契約へ、立法院各派対策委員久志村を現地踏 査。 ※地代明示すれは契約。米軍現地で発表、久志村辺野古軍工作隊と土地賃貸 契約締結、プライス勧告以来初めてのケースとして注目される。 12月29日 米軍係官辺野古地主会と懇談会 12月30日 辺野古の土地接収に動揺、立法院土地対策委員二つの党派で賛否論対立する。 (1)辺野古の場合接収ではない、四原則新規接収とは無関係であくまで地主が貸 そうとしている。 (2)経済的にもよくなると自主的判断からである。 (3)地元の支配者一人が直接軍に行き交渉を重ねた等。 1957年1月5日 1月7日 1月9日 1月11日 1月14日 1月18日 1957年1月24日 2月4日 3月18日 土地総連辺野古の新規接収で意見対立、四原則貫徹の一角崩れる。 山依存から方向転換、基地辺野古の前景気 辺野古部落その後 久志村にまた追加接収、主席辺野古を皮切りに地方視察 土地問題無理のない解決に自信、当間主席辺野古で語る。 辺野古∼二見間の28万坪余追加接収。 (辺野古弾薬庫用地) 辺野古の影響に関心、名護も対策にそわそわ。 基地建設第一期工事国際入札。 第一期工事起工式、経済発展も期待、いよいよ軍工事開始3月23日 基地建設工事ワシントンで再検討を理由に突如中止。 3月27日 辺野古の工事延期、マリン隊全工事更に検討。 4月21日 工事中止の辺野古100万円の負債。 5月9日 軍工事7週間ぶりに再開される。 5月10日 工事再開に万才、息吹き返す辺野古、バス増車、銀行も本建築へ。 6月22日 辺野古工事再開でにぎわう、地価も高騰、映画館近く完成。 7月12日 軍道路工事着工(旧13号線代替道路) 7月18日 名護・久志にまたがる171万坪に対しDEは定期賃貸権の収用告知。 10月2日 基地建設第二期工事国際入札(10億2,000万円落札) 10月10日 辺野古軍工事二度目の中止、理由も海軍予算の削減によると米軍発表。辺野古以 外の中止はないとDE隊長会見する。 10月13日 軍工事再開、人騒がせな工事停止再開にほっとする辺野古。 1958年2月18日 基地建設第二期工事起工式及び工事着工。 3月19日 DE478筆102,911坪2合収用宣言。 1959年8月11日 辺野古基地完成、同月25日∼26日第一陣海兵隊300人移駐。 9月3日 米本国より海兵隊2,000人移駐する。 ※辺野古区米兵移駐に伴いのぼりを掲げて大歓迎する。 9月28日 中部米軍基地より800人が辺野古基地へ移駐。 10月3日 辺野古海兵隊基地竣工式典及び引渡式(キャンプシュワープと命名) (同編集委員会『辺野古誌』 1998年4月より作成)