両大戦間期の下呂温泉と鉄道網の発達 : 温泉観光
ブームの創出
著者
笠井 雅直
雑誌名
名古屋学院大学論集 社会科学篇
巻
40
号
1
ページ
1-21
発行年
2003-07-31
URL
http://doi.org/10.15012/00000811
Copyright (c) 2003 笠井雅直名古屋学院大学論集 社 会科学篇 第40巻 第1号 (2003年 7月)
両 大 戦 間期 の下 呂温 泉 と鉄 道 網 の発 達
―
温泉観光ブームの創出―
目次 は じめに 一。 第一次大戦以前の下呂温泉 二.高山線の建設 と下呂温泉 三.北恵那鉄道 と下呂温泉 四.下呂温泉の戦略転換―外部資本の進 出・ 内湯路線へ 五.鉄
道省・ 名岐鉄道の観光開発―ブームの開拓 と仕上 は じ め に 古来,草
津温泉,有
馬温泉 と共に「天下の三 名泉」 と謳われた下呂温泉が,温
泉地 として本 格的に復活す るのは,第
一次大戦後の ことで あった。第一次大戦期のブームは,下
呂温泉が 本格的に観光開発をすすめる決定的な要因とな る。 われわれがこれまで見た様に,「花巻温泉」(岩 手県)の 場合には,「宝塚新温泉」にならって, 1924(大 正13)年,新
たに温泉地 を設置 して, 幹線鉄道の東北本線花巻駅 までの電気鉄道路線 (花巻温泉電気鉄道)を
整備することで,一
挙 に「温泉遊園地」を生み出 したのであった(1)。 そ して,「湯谷温泉」(愛知県)の場合には,電
気鉄 道たる豊川鉄道及び鳳来寺鉄道の経営陣が自ら 「温泉経営」に乗 り出すことで (1926年,直
営 の湯谷ホテルに納涼台と温泉を併設),本格的に 温泉地 として再登場することになった(2)。 さら に,「湯本温泉」「湯川温泉」(いずれ も,岩手県) においては,鉄
道省による鉄道敷設にかかる横 黒線の開通 (1924年)に対応 した温泉地の整備 (共同湯の増設 と自然景観の整備)に
よって,笠
井
雅
直
従来の地域的な「湯治場」と しての温泉地 か ら, 遊覧型の全国的な温泉地へ と転換す るが,同
時 に,温
泉地間の競争 にさらされ ることで,浮
沈 の激 しさをみせ ることとなる(3)。 ぃずれ も第一 次大戦 後 の こ とで あったが,温
泉地 をめ ぐる ブームは一様 ではなかった。 他方,伝
統的な温泉地 は,明
治以降の鉄道敷 設 とい う「交通革命」の過程 において,鉄
道資 本が競 って,そ
の沿線 に鉄道敷設をすすめ るこ とによって,観
光地 としての開拓 は急速 にすす め られ る。た とえば,箱
根 。熱海 。湯河原の温 泉地 をめ ぐる鉄道敷 設 に示 され る ところであろ う。箱根温泉 については,1888(明
治21)年に 開業 した,官
設鉄道駅 の国府津か ら小田原 をヘ て箱根 にいたる路線 は小田原馬車鉄道 によって 敷設 された ものであ り,同
鉄道 は,後
,小
田原 電気鉄道 と改称 して,1900(明
治33)年には, 全線 を電化す る(4)。 さらに,小
田原電気鉄道 は , 湯本か ら奥の,宮
ノ下 。強羅 に至 る各地 に分布 す る温泉地 に向か うべ く,1919(大
正8)年
に, 箱根湯本 と強羅間の路線 を開業 してい る(5)。 湯 河原温泉および熱海温泉 については,官
設鉄道 が,国
府津 と小田原で開通す るのは,1920(大
名古屋学 院大学論集 正
9)年
であ り,そ
の後1924(大正13)年に, 湯河原まで,そ
して1925(大正14)年に,熱
海 までそれぞれ開通することで,熱
海線は全通 と なるR同
地域については,す
でに,1896(明 治 29)年 までに,「 小型の箱車 を軌道の上 に乗せ, 数人の人夫が人力を もって押 してい く鉄道」で あった豆相人車鉄道が,熱
海 と小田原 を結んで いたが`, 同鉄道 は, 1906(明治39)年に葬ネ,毎車九 道 と改称 して,1907(明
治40)年か ら「小型の 蒸気機関車 をつけた軽便鉄道」 となった。同軌 道 は,後
,大
日本軌道の支社線 となったが,官
設の熱海線 との競争 に敗北 して,1920(大正 9) 年,鉄道省 に買収 されている(7)。 この様 な鉄道敷 設の過程が,同
時 に,温
泉地 の開発 に対す る外 部資本の進出を促iLし,観光地 としての開発 に, 一層拍車がかか ることはこれ までに指摘 されて きた ところである(8)。 下 呂温泉 もそ うした過程 をたどることで,一
大観光地 として登場す ることとなる。その過程 を明 らか したい。 第一次大戦以前の下 呂温泉 第一次大戦以前の下呂温泉について見 ると, まず,一
つの最盛期 を閲 したと言われる江戸時 代の下呂温泉については,次
のオ動商がある。 「往古ハ不知天明ヨリ文政年間天保ノ始二至 り繁昌之節一年惣計凡2万 67千人 ヨリ3万 人二及 ヒ候」(9)。 しか し,そ
の後,下
呂温泉は,順
調には発展 できなかった。つまり, 「…文政年中,天
保年中など層々の飛騨川大 洪水に会い 〔河岸随所にある露天の〕浴槽が 埋没 し,河
充の変動に依って湧出口が或は左 岸 に移 り或 は右 岸 に移 り変遷 常 な らず ・…」(10)。 指摘 されている様に,下
呂温泉が大 きな発展を 遂げることがで きなかったのは,「交通の利便に 阻まれて居た故 もあるが, しば しばかかる湧出 日の変動に依 り中絶状態を繰 り返 したことに由 来」 したのであった(H)。 明治にいたっても事情は変わらなかった。「明 治 19年,同 29年等度々の大洪水で温湯の湧出 個所移動 し,或
は中絶するなど幾多の変遷」を 見ている(12)。 したがって,当
時の下呂温泉の状 況については,次
のように悲観的なもの となら ざるを得ないであろう。 「明治年代に至って川 〔飛騨川〕の東岸に湯 口を見出 したが稀薄なもので,お
まけに変動 常な く,そ
れで も泉効を慕 う浴者によってこ れを汲み上げて焚湯 とした り,わ
ずかに川縁 の砂原を掘 って患部を浸 した りして居る始末 だった」(13)。 明治前半における下呂温泉の状況は表 1に 示 し 表1
明治前期 の下 呂温 泉 年 客 数 明治10年 5,000 明治12年 2.560 明治14年 1,133 明治15年 1,133 出典:『岐阜県概表 明治10年12月刊行』 5ペ ージ,『岐阜県概表 明治13年6月刊行』5 ページ,F岐阜県統計表 明治14年』65ページ,F岐阜県統計表 明治15年』67ページ。 2 鉱 泉名 地 名 温 度 浴 戸 数 100度 77 下呂 飛騨 国益 田郡 三郷村 85度 77 下 呂 飛騨 国益 田郡 三郷村 下 呂 ノ湯 飛騨 国益 田郡 三郷村 字湯 ノ河原 48度 32 48度 32 下 呂 ノ湯 飛騨 国益 田郡三郷村 字湯 ノ河原両大戦 間期 の下 呂温泉 と鉄道網 の発達 た ように,「浴戸数」の多さが 日を引 く。温泉宿 の実情 をあきらかにす ることはで きないが
,そ
の数は後の時期 と比べて もかな り多 く,往
時の 盛 んな様 を知 ることがで きる。 とはいえ,わ
ず か5年
の間 に温泉の温度が三 回 も変化 してお り,度
々の洪水 をうかがわせ る。それに対応す るように,i谷 客は激減 している。 なお,下
呂温泉地域 は,1875(明
治8)年
, 三郷村 に湯之島村が合併 し,三
郷村 に所属す る こ とになったが,1876(明
治9)年 ,飛
騨国益 田郡13大区1小区三郷村 となった後,1883(明 治 16)年 には,下
呂温泉地域が分村 し,益
田郡 下 呂村 とな り,1889(明
治22)年には,益
田郡 下 呂村 に,川西村の三原組,小ケ野組が合併 し, そ して1897(明治30)年に,益
田郡下呂村 は, 東上 田,湯
ノ島,森,小
川,小
ケ野,三
原か ら 構成 され るに至 っている(14)。 日清戦争後 には,鉄
道の発達 とともに,各
地 の遊覧地 として温泉地が1責極的 に紹介 され る。 例 えば,
日本鉄道 は沿線の「避暑遊覧案内」 と して,伊
香保温泉は「高崎 ヨリ几六里」 とい う 様 に,最
も北 に位置す る浅虫温泉 (青森県)ま
で を紹介 している(15)。 その時代の下呂温泉につ いては,次
のオ罰1商を見 るこ とがで きる。 「下呂鉱泉 〔は〕三郷村湯島字湯 ノ河原 に在 り…此地 は益田川の畔に在 りて砂石暁仙の間 よ り湧出す,泉
池 を距 るこ と四五十歩の間に 浴舎三十戸余あ り,道
路 は益 田川 に沿 いて僅 かに一帯の水 を隔つ るのみにて甚だ便 な り, 浴客一 ケ年 に二千人に達す と云 う・…」(16)。 いずれに して も,河
畔の泉源 を確保 し,安
定的 な温泉 を確保す ることは,課
題 の ままであった が,第
一次大戦直前には,次
に見 られ る様 に, 事情の変化への兆 しが うかがわれ る。 「下呂温泉は…皮膚病 に卓効あるを以て名高 し,唯
近時湧出の地点河原に変 じたる為めャ)易 温低 く若千の火力補温の要あるも現 に数戸の 温泉旅舎あ りて浴客常に絶 えず地下温湯 は頗 る高 きを以て遠か らず電力を利用 し之を汲上 げ温浴 に便ず るの計画中な り…」(17)。 その機会は第一次大戦後のブームによって与 え られ る。高山線建設の決定 と,外
部資本の下呂 温泉への本格的な参入によってブームは具体化 す る。 まず,高
山線建設 との関連 について見 よ 二.高
山線の建設 と下呂温泉 下呂温泉が位置する飛騨地方は,明
治の中頃 より高山から木曽 。恵那地方に至る横断鉄道の 構想をもっていた。構想が具体的に進展するの は, 日清戦争後の 1895(明 治28)年に「飛騨鉄 道」の敷設を決めて株式を募集 してからであっ た。1897(明 治30)年に,「愛知一高山一富山」 間の鉄道路線が衆議院を通過することで,構
想 は,「美濃 。飛騨鉄道」に拡大する。それは, ま ず,1918(大
正7)年
に,高
山から富山に至る 飛越線 と,岐
阜から高山に至る高山線の鉄道敷 設計画 として実現する(18)。 高山線は,岐
阜。各務ケ原間が 1920(大正9) 年11月に運輸営業を開始 して以来(19),1934(昭 和9)年
10月に,高
山線の高山。小坂間 と飛越 線の坂上 。高山間が開業することで,全
通 とな るという様 に,約
15年 をかけて建設がすすめ られ,完
成におよんでいる(20)。 下呂までの鉄道 開通は,1930(昭
和5)年
であった。 こうした動向は, ド呂温泉に大 きな変化を生 み出す。 まず, F呂温泉を遊覧地 とすべ く自然 景観の整備がすすめられる。それは,1917(大
正6)年
「下呂同志会の設計に成」る下呂公園 の整備であった。園内には「桜桃梅楓等を植栽 す瑠璃光の杉自鷺の池紅葉渓観翠嶺等の名所」 つ出 河 ” ■ 月 u ● ■ “ 菫 幸 電 森 ︱ 口 , 嘔 ポ 原
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中 央 Z 古 屋 名古屋学院大学論 集 下 呂温泉 関係交通 図 (高山線全通後) (『飛騨下呂温泉御案内 内湯・清芳閣│の もの をイ修正 して11手1場) がぁった(21)。 もちろん, 下呂温泉 は,当
時 も , 周辺 には 自然の景観 にあふれていたわけである が,温
泉街の一角,下
呂富士 とい う山の中腹 に 新 たに,下
呂公園が遊覧地点 として設定 された のであった。 さらに,不
安定であった泉源の安定化 。整備 をはか る。1919(大止8)年
の試みは種 々の事 情か らうま くいかなかったが,そ
の過程で,下
呂温泉 を「飛騨鉄道 ノ開通」にあわせて「再興」 すべ く,「温泉湧出地区 ノ権利一切 ヲ取得」した 事業主体たる「下呂温泉株式会社」が設立 され た(22)。 その上 で,1924(大
正13)年には,「 湧 出 日の探求工事 に着手 し」「湧泉源 を確かめ水面 以下│‐数尺の所 に強固な るセメ ンコンク リー ト の二重装置に依 る湯壺 を設け」たのであった。 「仮浴場」を設置 して「一般入浴の便 を計」った という。1924(大 正 13)年 に設立されたFl本電 力瀬戸発電所からの「諸機械及電力供給」によ るものであった(23)。 それ以前にあっては,「入浴 ノ使 二供 スル宿屋三戸アル モ浴 客殆 ン トナ シ」(24)と ぃう状況か らすれば,画
期的なことで あった。高山線の建設に対応 して,下
呂温泉に おいては,大
規模なボー リングが行われ,強
固 な泉源が市雀保 されたのであった。更に共同湯の 建設がすすめ られ る。その過程 は次の通 りで あった。 「…大正十一・二年頃より漸次交通の便 も開 け,世
の温泉熱勃興に伴い温泉復興に注目す る者が出来,地
元区民 も党醒 してボー リング の採掘工事を始め,努
力の効あって大正│・四 年百度内外の湯口を掘│)当て仮浴合を建てて 下呂温泉復興を世間に発表 した。其の後更に 中京の資本家岩「‖氏の助力を得て有力な新湧 出llを採掘 し,或
は合資会社を胤IL繊して薬師 湯白鷺湯の両共同浴場 を建設する等 ここに約 数十年間イ村威の状態に瀕 しILに閑却 されてい た下 呂温 泉の 名声 を盛 り返 したので あ る …」(25)。 1926(大 正 15)年,薬
師湯 と自鷺乃湯 という二 箇所の共同湯が設置され (5ページの写真を参 照),そ れぞれ,下
呂温泉薬師合資会社,および 下呂温泉合資会社によって運営 される(26)。 その 利用客の増加が期 待されることから,新
たな泉 源掘削工事をすすめるために,「中京の資本家岩 田氏」の資金援助をあお ぐこととなる。なお, 下呂村は,1926(大
正 15)年 1月に町制を施行 する。人││は 1925(大正14)年で 3,300人 余で ぁった(27)。 こうした動向は,高
山線の建設過程に対応す るものであった。つまり,高山線は,各務ケ原。 4両大戦 間期 の下 昌温泉 と鉄道網 の発達 薬師湯
驚 1調 :タミ「 警Ψ 白鷺乃湯 大 田間が1921(大正10)年 11月 に運輸営業 を 開始 したこ とに続 いて(28),大田 。下麻生間は, 1922(大正11)年 11月 に(29),上麻生 までは, 1924(大正
13)年
3月 に(30),1926(大 正15) 年 3月 には,上
麻生 。自川 日間が(31),1928(昭 和3)年
3月 には,自
川 口 。飛騨金山間が(32), 大船渡・焼石間は,1929(昭
和4)年
4月 に(33), そ して焼石 。下 呂間は,1930(昭
和5)年
11月 にそれぞれ開通 し, F呂に至 っていた(34)。 高山 線の下呂 までの開通 は下呂温泉に とって決定的 であったが,途
中の上麻生,飛
騨金山,焼
石 の 各駅 までの開通によって も効果 は大であった。 その こ とは,表
2に明 らかであるが,立
ち入っ て見ると,高
山線の建設中において,次
のよう な宣伝がおこなわれていた。 上麻生駅 までの開通では次のようであった。 「下呂温泉…高山線上麻生か ら 13里 …上麻 生からこの温泉に至る益田川の沿岸は所謂中 山七里の勝で渓谷美の粋 とも云 うべ く行人の足をとどめさせるところも数多い。〔もちろ
ん
,下
呂温泉には〕散策地として下呂公園
,湯ケ淵などある…」
(35)。 飛騨金山までの開通では,次 の ようであった。 「飛騨金山駅下車,駅
前か ら益 田川 の渓流 に 沿 うて七里,そ
の尽 きる所 に美 しい閑寂なF
呂温 泉がある」(36)。上麻生 飛 騨 金 山 焼 石 乗 「年 乗 乗 降 乗 降 97,288 94,250 81,519 80,387 73.857 72.369 6.331 6,208 47,468 48,381 102,967 101,426 48,719 45,208 95,691 91,217 89.380 91.043 37,926 33,185 74.993 68.561 63,052 68,146 36,296 27,296 27,121 78,289 34.654 32.423 67,357 64,793 32,061 30,422 66,354 60,585 24_117 24.632 83.690 35,111 31,058 73.386 67.634 27、675 28,243 102,695 29,484 29,856 111,469 36.895 33.082 87,842 80,487 34,939 91,284 83,001 33,380 32.202 121.117 38,501 名古屋学院大学論集 表
2
高 山線・駅別 旅客 人員 駅 名 年 度 大正14年 昭和元年 日召禾日2イ「‐ 昭 和3年 日召禾n4年
日召和5年 日召本田6年 日召禾117年 E召禾口8年 日召禾口9年 昭 和10年 出典:『名古屋鉄道局年報』各年度版。 焼石駅 までの開通では,一
転 して,下
呂温泉 を「殊に夏季の避暑地 として絶好の地である」 として,「東海道諸都市の遊園別荘地帯」とまで 位置づけるに至る(37)。 そ して,同時に ,「下呂温 泉の名称を廃 して湯之島温泉の名に復帰」 し, 「昔 日に優 る温泉街 を現出 している」 とさえ言 われたのであり(38),以後, しばらくの間,下
呂 温泉は湯之島温泉あるいは下呂湯之島温泉 と呼 び習わされることになる。 以上のことは,表
2の 「乗降客」の推移を見 ることで了解 されるであろう。それによれば, 上麻生,飛
騨金山,焼石の各駅 における昭和5, 6年以降における「乗降客」の推移に照 してみ ると,約
4, 5万
人が下呂温泉に向かったもの と推定されよう。とすれば,下呂駅の開通後は, 更に加速度的に下昌温泉への「乗降客」が増加 したといえよう。 しか し,下
呂駅 までの開通後 における乗降客数 との差の背景には,高
山線以 外か ら下呂温泉に至るルー トが存在 したことに 下 呂 39,025 92,171 93,935 114,733 129,492 144.093 もよっていた。つまり,中
央本線中 '判 │1駅から 北恵那鉄道 と自動車によって,下
呂温泉に至る コースであった。次にその点をみよう。 三.北
恵那鉄道 と下 呂温泉 高山線の鉄道建設が,上
麻生駅 までた ど りつ いた 1926(大 正 15)年 頃,中
央本線 中津川駅 か ら北恵那鉄道 を経 由 して下呂温泉 に至 る経路 は 主要な ものであった。そのことは,名
古屋鉄道 局の観光案内に次の ように記 されてい るこ とか らも知 られ よう。 「下呂温泉 〔は〕中央本線 中津川駅か ら分れ る北恵那鉄道線下付知駅 より八里, 自動車三 円六十銭。別途高 山線上麻生駅 か ら十三里, 自動車四円を要す る」(39)。 まず, ここでは,北
恵那鉄道の設立過程 につ いて見 よう。lL恵 那鉄道 を設立 したのは,大
同 電力であった。 当時,同
社 は,都
市への電力供 降 6両大戦 間期 の下 呂温泉 と鉄道網の発達 給を行なうべ く
,水
力発電による大容量の遠隔 送電を推進中であった。特 に,本
曽川水系は, 大同電力の電源区域 として重点的にすすめ ら れ●0),すでに,前
身会社である名古屋電燈の時 期に,木
曽川の上流の「駒ケ根・ 日立の二水利 権」を確保することで,本
曽川における水力発 電は予定の もの となっていた。そのためには, 「数百年来木曽川の重要使命の 1つ となってい た御料材の流下問題」を解決することが前提で あった。というの も,「木曽材は,1日尾州藩戸聯頁、 の時代 より官行伐木 を行ない,其
の伐出材は木 曽川 を流下 し桑名を経て名古屋へ輸送 し,自
鳥 貯木場に収容 して之を処分」 していたが,木
曽 を「御料地に編入後」 も同様のことが行われて いたためであった(41)。 とくに,問
題 となったの大井発電所の建設で あった。同発電所の建設は,「初め水路式計画」 として許可を得たものであったが,1921(大
正 10)年8月に,「高堰堤式」に計画を変更 し,許
可を得た後,一部変更を経て,最終的に1922(大 正11)年4月に許可を得たのである(42)。 都市に おける電力需要の拡大に応える高電圧 。長距離 送電に対応する大規模な水力発電所建設方針ヘ の転換が,その背景にあった。しか し,「高堰堤」 は,当然のことなが ら,木曽川 を遮断 し,「流材」 は不可能 となる。大井発電所の設置予定地であ る木曽川流域には恵那峡の付知町,加
子母村 を 中心 として「所謂裏木曽御料林」があ り,こ
の 「御料林」か ら「毎年多量の伐出材木があって 支流付知川及び木曽川を川狩 して名古屋地方へ 流送せ らるる慣例 となっていた」ことからすれ ば,こ
の解決が建設の前提であった。 大同電力・大井発電所の建設許可に際 して, 義務づけられた「付帯命令書中の御料林運材条 項」は次のような ものであった。 「(付帯命令条項抜粋) 第六条 許可ヲ受ケタル者ハ其ノ費用ヲ以テ 木曽川支流付知川通 り適当ノ場所二木材陸場 設備 ヲ施シ且該陸揚場 ヨリ中央線坂下駅又ハ 中津川駅 卜連絡スヘキ軽便鉄道 ヲ布設シテ付 知川筋ヨリ伐出スル木材 ヲ運材者ノ請求二基 キ六箇月内二安全二中央線停車場迄運搬スヘ シ,但
其ノ運賃二就テハ帝室林野局ノ定ムル 価格二依ルヘシ 第七条 水力工事中木曽川本流 ヲ遮断スヘキ 堰堤工事及之二伴フ仮締切工事ハ前条ノ軽便 鉄道及陸場設備 ヲ完成シタル後ニアラサ レハ 着手スルコ トヲ得ス」(43)。 これに対する大同電力の判断は,次
の通 りで あった。 「単に裏木曽の御料材の運輸のみの為に多額 の工費を投ずることは甚だ不経済で もあ り, 寧ろ一般旅客及び貨物をも取扱 う一般運輸営 業を為すを得策な りとの結論に達 したので, 地元有志 と相謀 り,地
方鉄道法に依 り北恵那 鉄道株式会社を創立 し,当
社 [大同電力]は
其の半数余の株式を引受け,北
恵那鉄道をし て前記命令条件に依 る木材運輸の責務を負は じめる方法 を採 った」(44)。 当初,大同電力は,森林鉄道 を敷設することで, 「命令書の義務」を果たす予定であったと言わ れているが,結
果的には,一
般旅客および貨物 の取 り扱いが可能な鉄道敷設へ と計画を拡大 し た。その背景には,「地方より旅客及び一般貨物 の輸送を希望陳情するものが出た」ことをあげ ている。その結果,「地方に於て株式の半数を持 つ ことを条件 として之を地方鉄道事業 に変更 し,別
に一会社を創立することとなった」 とい う。当初は「濃飛電気鉄道株式会社」 という名 称の下に創立準備 を進め,資
本金を二百万円と し,そ
のうち半数を大同電力が引受け,残
りは 「地元村民其の他」が引受ける(45)と ぃう経緯名古屋学 院大学論集 をたどることになる。 こうした経緯の背景には,次の事情があった。 もともと
,中
央本線中津川駅 と岐阜県の北部高 山線下呂駅 とを結ぶ浅失道敷設構想が,1922(大
正11)年4月,鉄
道敷設法により「予定線に編 入され」たことから,現
実の もの となったこと である(46)。 実際,北
恵那鉄道の「鉄道線路は , 中部 日本縦貫鉄道予定線 (国有)の
一部を布設 せ る為め開業後十ケ年間政府補助金を受け」て いる(47)。 さらに言えば,当
初,濃
飛電気鉄道株式会社 という名称で設立にこぎつけることができたの は,か
つての濃飛電気鉄道建設運動に,下
呂町 を含む高山線沿線の関係者 も加わっていたこと を想起すれば(48),鉄道敷設が「美濃・飛騨鉄道」 構想の一部たることを沿線の町村に期待させた ことは想像にかた くない。地元町村の支援 もそ の観点からであった。 1922(大 正 11)年 2月,名
古屋市内の大同電 力株式会社名古屋支店でおこなわれた創立総会 において,「会社名ヲ[濃飛電気鉄道株式会社か ら]北
恵那鉄道株式会社 卜変更 ヲ決議」 してい る(49)。 設立 された北恵那鉄道の役員構成は,表
3の 通 りであ り,沿
線の町村関係者 と大同電力 によって設立 されたことが知 られる。 地元の支援は,株
式の引受けと鉄道用地の確 保の際に見 られる。前者については,表
4の 株 主構成における岐阜県内の株式所有者の割合の 高さに明らかであろう。後者については,「鉄道 敷設二要スル線路用地ハ会社設立前沿道町村 ヨ リ協定価格 ヲ以テ買収二応ズ可キ旨ノ申出」が ぁったことゃ(50),「並松,見佐島ノ各停車場予定 敷地ハ各地地元有志者 ヨリ無償提供ノ申出」が ぁったことゃ(51),「田瀬停車場予定敷地ハ地元 有志者 ヨリ無償提供 ノ申出」があったことがあ げられる。もっとも,「下付知停車場構内木材陸 表3
北 恵那鉄道 の役 員構 成 (大正11年,設
立期) 役職 名 付 記 取締役社 長 大 同電 力株式会社社 長 取締役 大 同電力株 式会社取締 役 取締役 元鉄 道院監督 局長 取締役 元 恵那郡 会議員 取締役 元衆議 院議 員 取締役 岐阜 県会議 員 取締役 株式 会社 付知銀 行頭取 監査役 元愛知 電気鉄道株式会社 常務 監査役 中津電気株式会社取締 役社長 監査役 福 岡村 会議 員 出典:『第1期報告書 自大正11年2月15日至大正11年5月31日 北恵那 鉄道株式会社』。付記 は「1999年度 明治大学文学部 卒業論文 大 正期 における局地的鉄道の成立 と地域社 会 清水孝治」,鉄道院文 書「第10門 私設鉄道及軌道 三 軽便 濃飛電気鉄道」(国立公文 書館所蔵)などによってい る。 -8-氏 名 持株 数 福沢桃介 19.924 村瀬末一 500 大 園栄二郎 500 熊谷鉄太郎 500 牧野彦太郎 460 市 岡年雄 100 曽我 藤太郎 200 熊谷 常光 酒井一平 500 西尾 章 100人 数 14 38 28 217 259 734 1,310人 両大戦 間期 の下 呂温 泉 と鉄道網 の発達 100-300株 表
4
北 恵那鉄道株式会社株主構 成 (創立期) 株式所有数 内,岐
阜 県 人 (%) 一万株以上 0 1000株 0 500株 28.6 るように,付
知 と三原の間で「定時運転」 して いた。高山行 きは,下
呂温泉に近い三原で「接 続 し同所 より二時間弱にして到着」すべ く運行 したのであった(55)。 名古屋か ら中津川 まで2時 間48分,中津町か ら下付知まで1時間11分, 付知か ら三原 まで恵北 自動車で1時間30分, そ して三原から下呂まで濃飛 自動車で15分と いうことで5時
間44分の所要時間であった。 対 して,名
古屋から岐阜 を経て高山線飛騨金山 までの鉄道 と,飛
騨金山から濃飛 自動車で下呂 までの所要時間は,あわせて,ほぼ8時
間であっ た(56)。 とすれば,下
呂方面への連絡路線は当初 から,北
恵那鉄道 において経営上の力点 となら ざるを得ないであろう。 まず,北
恵那鉄道の営業実績 を見てみると, 表 5の 通 りである。見 られる様に,同
社の貨物 運賃収入は安定 した推移を示 している。同社が 御料林伐材の運搬業務を担当 したことによる当 然の結果であった。同業務は,1925(大
正14) 年から開始 されているが,雪
深い地域 というこ とで,「帝室林 野 局伐 出御料材 ノ輸 送」は, 1926(大正15)年でみれば, 2月 27日から11 月8日 まで輸送をおこなっている(57)。 その実績 は,1928(昭
和3)年
において,「本年度御料材 ノ輸 送 ヲ開始 シ出材 総 数1万
1140噸 ノ内 7147噸ヲ輸送セ リ」(58)と ぃうものであった。 しか し,営
業の もう一つの柱は,「旅客」輸送 によるものであ り,1931(昭
和6)年
までは, 貨物運賃収入を上回っていた。表 6に よれば, 開通後の数年間に見 られる,際
立った数字は, 高山線の下呂駅 までの開通に至る時期において 漸次減少 してお り,高
山線の建設 と運動 してい たと推定するのが妥当であろう。下呂駅 までの 開通に対応 して,北
恵那鉄道の未降客が減少 し たことは,次
の指摘で も明 らかであろう。 「…客車収入二於テハ財界不況ノ影響 卜固有 71.1 50-801未 67.9 10-40株 91.7 5-8株 93.6 1-4株 100 合計40,000株 94.7 表3に同 じ。 揚場及貯木場二充当スヘキ地域ノ内牧野彦太郎 氏 〔大正 12年 1月取締役辞任〕所有地ハ土地収 用法…二依 り協議中ノ処期 日…二至 り回答 ヲ得 ズ協議不調二帰シタルヲ以テ収用審査会ノ採決 ヲ申請スルコ トトナ レリ」 という目論見の違い もあった。その上で,1924(大
正 13)年8月に 「運輸営業 ヲ開始」する(52)。 路線は,中
央本線 中津川駅に隣接する中津町駅か ら下付知駅 に至 るものであった。 北恵那鉄道の運行は,次
のような地域的な交 通上の効果 を期待させ るものであった。 「…飛騨連絡の最捷路に当 り…北濃及飛騨奥 地 と名古屋,長
野方面 とを最 も迅速安全に連 絡を保ち,兼
ねて本線の利用に依 りて埋れた る裏木曽の天恵は弦に漸 く開発の曙光に接 し たるもの と言うべ く・・・」(53)。 裏木曽の開発への期待 とともに,当時,人
口76 万人余 (1925年)をかかえる都市。名古屋(54)と 飛騨連絡の最短区間ということが強調 されてい る。実際,北
恵那鉄道は,終
点の下付知駅構内 に車庫をおいて「各電車に夫々直ちに接続」す名古屋学院大学論集 表
5
北 恵那鉄道運 賃収 入内訳 の推 移 (円) 年度\費 目 大正13年 大正14年 昭和元年 日召ホロ2年 日召和3年 日召禾口4年 日召禾口5年 昭 和6年 昭和7年 昭和8年 昭和9年 昭 和10年 出典 :『 岐阜県統計書』 各年度版。 表6
北 恵那鉄道乗 降客の推 移 合 計 48,328 124.742 127,555 112,181 125,558 114.363 97,450 82,117 83,028 91.550 95,630 88,378 新大井・大井ダム間乗客数 F期 23,961 20,019 10.041 5,050 \ 駅 名 年度 \ 大正13年 大正14年 昭和元年 日召不口2年 昭和3年 日召禾口4年 昭 和5年 昭和6年 日召禾口7年 昭 和 8年 昭 和 9年 日召禾口lo年10
-旅 客 貨 物 手小荷物 39.924 7.717 687 87,466 35,540 1,736 82,378 41,444 3,733 75,335 33,333 3,513 74.997 47.137 3.424 67,274 45,545 1,544 54,365 42,018 1,067 41.162 39.896 1,059 34,248 46.917 1.863 36,317 51,783 3,450 34.737 57,519 3,374 32,987 51.902 3.489 中津町 下付知 乗 降 乗 降 上 期 50,884 32,889 17.566 20.083 86,804 84,819 42,775 41,823 84.895 71.733 39.581 41,174 83,737 69,941 37,876 36.566 77,649 69,196 34,111 33,474 73.090 66.437 28,654 28,615 21,122 66,224 58,175 22.787 23.296 14,739 52,774 45,618 16,565 16,592 9,159 48.430 43.821 12,748 13,074 5,328 47,591 42,518 14,388 13.512 44,902 38,057 12,719 14,153 51.105 38.542 12,709 10,848 出典 :表5に同 じ。両大戦 間期 の下 呂温泉 と鉄道網 の発達 鉄道高山線ノ延長開業ノ余波 ヲ受ケ…減収 ト ナ リタルガ貨車収入二於テ御料材 ノ出材多ク 之 レガ輸送二努カシタル為 メ…増加 ヲ得 タ リ」(59)。 高山線が下呂駅 まで開通 したことによって
,北
恵那鉄道は決定的な打撃を受たのであった これに対応すべ く,同
社は,客
車運賃収入の 減少傾向がはっきりしてきた 1927(昭 和2)年
に,付
知 と下呂の間の「地方鉄道延長敷設免許 申請」を提 出 している。それは,最
終的 に, 1931(昭 和6)年
9月 ,「不許可」とな り,実
現 にはいたらなかった(60)。 同社は,他
方で,新
たな遊覧地の開拓によっ て旅客運賃収入の減少傾向に対応 しようとす る。1928(昭和3年)年 12月 に営業を開始する 大井線 (新大井一大井 ダム間)の
建設で あっ た(61)。 それは,も ともと ,「大同電力大井発電所 の堰堤築造後に観 る一大湖水の出現によりて奇 勝新たに加」わったこともあって(62),「奇岩快岩 に富み,紅
葉腰 `I蜀 の眺め亦麗 し」い恵那峡の景 勝 を活用す るものであった(63)。 同鉄道 は同社 が,「新タニ大同電力株式会社 ヨリ譲受タル新大 井奥戸間ノ専用鉄道 ヲ地方鉄道二変更」 して整 備 したものであった(64)。 大井線の実績は次のようなものであった。 「昭和3年 12月 3日 ヨリ営業 ヲ開始 シタル 新大井,大
井ダム間ハ…未ダ予期ノ成績 ヲ挙 グルコ ト能ハザルヲ遺憾 トス蓋シ今期ハ大半 冬期二属 シ恵那峡遊覧客来ラズ中津,大
井ノ 両遊船会社 卜協定シテ省線連帯客ヲ誘致セン トスル企画モ未ダ好調二至ラザ リシハ不得止 二出ヅ」(65)。 表 6の 「乗降客」の推移か らみても,旅
客運賃 の収入減 をカバーするもの とはならなかったこ とは明らかであろう。同社は,1932(昭
和7) 年に大井線の運行を中止 している。 北恵那鉄道 においては,既
に見た様 に,貨
物 輸送の収 入が安定的 に推移 してい るこ とか ら, 収 入の規模 を拡大 させ るために,鉄
道以外の 自 動車 による運行の整備・拡充 にむか うこ ととな る。同社は,1929(昭
和4)年
8月 に,中
央本 線坂下駅 とつなが る坂下・付知間の 自動車営業 免許 を申請 し(66),そ して,1930(昭
和5)年
10 月には,付
知・下呂間の 自動車営業免許を中請 している(67)。 とすれば,北
恵那鉄道 は,中
津町 と下付知間の鉄道輸送 に加えて,
自動車輸送 に よる中央本線坂下駅 か ら下呂温泉 にいたる路線 を自オ嚇泉として確保 しようとしたので ある。 特 に,下
呂 と下付知間の乗合 自動車運行 につ いての志向は,徹
底 した ものであ り,「自動車運 輸事業中請二伴フ陳情請願」を,「鉄道省陸運課 長」へ,1935(昭
和10)年6月 に,「鉄道省監督 局長」へ は,同
年 7月 に(68),「鉄道大 臣」へ,同
年 12月 にそれぞれお こなってい るほ どで あっ た(69)。 しか し,認
可 には至 らなか った。 当時,高
山線下呂駅の乗降客が激増の過程 に あったこ とか らすれば(表2参照),下
呂温泉に おける浴客数の激増傾向は明 らかであ り,北
恵 那鉄道 は同社 の浮沈 をかけて,つ
いには,鉄
道 大 臣 と名古屋鉄道 局長宛 に,下
付知 と下呂間 に お いて,鉄
道 省 の「省営バ ス開設 方請願」 を 1936(昭和11)年7月 に提出す る(70)。 同様の請 願 は,1937(昭
和12)年 10月 に も行われてい るが(71),認可 を得 るこ とはで きなかった。 自社鉄道 と自動車 に よって下 呂温泉 との連絡 交通網 を確保す るこ とを絶 たれた北恵那鉄道 に は,中
津町か ら下付知 に至 る鉄道路線 を下 呂方 面 に延長す るこ としか残 されていなかったこ と になる。次の ように下呂町側の認識 もこうした llR絡での期待であった。 「…中央線中津川 より東濃付知町 まで敷かれ て居 る北恵那鉄道 も下呂まで延びん とす る計名古屋学院大学論集 画があ る。かか る上 は
,現
に旅客の乗降数に おいて高山線 中一 。二位 を競 って居 る下呂駅 は一層将来の殷賑 を予想 され る…」(72)。 いずれに して も,下
呂温泉が,交
通網の整備 に支 えられて,一
大観光地 として登場 して きた こ とハ 北恵那鉄道の経営動向 を大 きく規定 し たのであった。 しか し,下
呂温泉その ものの発 展 は,他
方で,温
泉経営 における新たな機軸の 提起 。実現 に よっていた。次にその点 を見 よう。 四。下 呂温泉 の戦略転換一外部資本 の進 出・ 内湯路線 ヘ 第一 次大戦 後 にお け る下 呂温泉 の復興過程 は,1926(大
正15)年における共同湯の完成 に 始 まるが 当時の温泉旅館 については,表
7に 示 した通 りである。おそ らく,主
要 な旅館 と考 え られ るが,浴
客の収容能力は,総
数で405人 となっている。 これ を,少
し前の時期 における それぞれの旅館の状況 と比べ ると,中
屋-3部
屋,小
池屋-6部
屋,山
形屋-8部
屋,湯
本 ホ テルー8部
屋,上
田屋-6部
屋 となって お り(73),ぃ ずれの旅館 も部屋数は増加 してお り , この間に増築が行われたことが知 られる。下呂 ホテルの創業は,1920(大
正9)年
であ り,清
芳閣の開業は1929(昭和4)年であ り,「山田モ ト」は,1930(昭
和5)年
の創業であった(74)。 下呂温泉は新旅館の建設ラッシュであった。 し か し,い
ずれの旅館にも内湯はな く,二
つの共 同湯を利用する形式であった(75)。 とはいえ,共
同湯の湯源を安定的たらしめる ために,下呂温泉が外部資本に依存 したことは, 従来 とは異なる新たな温泉旅館を生み出すこと となった。新たに湯源を確保 して内湯旅館 とし て登場 した「湯之島館」 と「水明館」がそれで あった。 まず,湯
之島館についてみると,倉│1業者の岩 田武七が事業参入に至った背景には,下
呂温泉 においては,共
同湯が設立 されたとはいえ,そ
の泉源は一本で,「温度不定」という事態を打開 するために,更
に,泉
源をボー リングする必要 が下呂温泉側にあったことである(76)。 1925(大 表7
下 呂温 泉の旅館 一覧 (昭和4年,焼
石駅 まで 開通の頃) 旅館 名 標 準宿泊料 山田モ ト 清芳 閣 伊佐地 上3円
50銭 中2円
50銭 下2円
下 呂 ホ テル 中 屋 小 池 屋 山形 屋 湯本 ホテル 上 田屋 出典: │・名古屋附近の温泉』名古屋鉄道局。12
-室 数 収 容 客(人) 12 45 16 60 13 40 14 40 25 25 16 50 25 100 20両大戦 間期 の 「 呂温 泉 と鉄道網 の 発達 正 14)年 に
,第
一 号湯源をほ りあて,「仮浴合」 を建設 したことで,温
泉地 としての整備を急 ぐ べ く,下
呂温泉は外部資本への依存を一層明確 にした。それは,次
の引用文からも知 られる。 「浴場其他理想的ノ諸設備 ヲ完成シ,名
実共 二温泉遊園地タリ,天
下三名泉タルノ声価 ヲ 博 シ,内
外顧客ヲ吸収スルハ刻下最大急務ナ リ,然
ルニ是 レガ実現 ヲ期セム トスレバ,更
ニー大資本ヲ要スルヤ論ナシ…短 日月二是ガ 実行ヲ期スルハ不可能ナ リー有カナル資本家 二委ネ,以
テ発展ノ速成ヲ図ルハ尤モ適切ナ ル策 トナシー大正十四年四月八 日」(77)。 これに応えたのが,名
古屋市中区鉄砲町三丁 目で「洋革靴付属品ポンプ付属品卸小売」の「中 島屋」から始めて,1921(大
正 10)年 に,「機械 製靴」の「亜細亜製靴」を創業 していた岩田武 七であった(78)。 岩田武七 と下呂温泉側 との取 り 決めは,1927(昭
和2)年
にむすばれる。そこ では,岩
田武七がその費用の全額を負担 して, 「現在の湯壺 を更に深 くボー リング掘 さく」を 行 うこと,そ
れが成功 した場合には,温
泉湧出 量の三分の一を岩田武七の経営する旅館へ供給 すること,というものであった(79)。 この成功の 後,更
に豊富な温泉量を確保するために,「三本 の湯壺のボー リング掘 さく」を継続する。その 工費は,岩
田・薬師湯・ 白鷺湯の三者が,等
分 に負担する」こと,「岩田経営の旅館」は,浴
客 一名につ き金 15銭 に相 当する金額 を両温泉に 支払 うことを協定 した。その結果,1931(昭
和6)年
頃までに,第
二号湯壺か ら第四号湯壺 ま でを掘 りあてる(80)。 湯之島館は,「下呂富士の中腹原始的密林 を拓 い」ものであ り(81),1928(昭和3)年
4月に起 [「し,1931(昭
和6)年
11月に竣工する。経営 は飛騨川温泉土地株式会社(代表者 岩田正作) の直営 で,初
代支 配人 は久保 田 四郎 で あっ た(82)。 湯之島館は「百万円の巨費を投 じて総檜 造 りの純 日本式三階建の本館に数寄屋好みの玄 関を配 し二∫1普建別館大広間それに隣 りして新た に建てられた四棟の特別館」などからな り,そ
の収容力は28部屋,定 員 141人 であった。湯之 島館の当初の設備は,本
館 (三階建)・別館 (二 階建)。新別館に,「読書室」「日光浴室」「ダンス ホール」「音楽室」「撞球室」「写真現像室」「ピン ポン台」「鯉の池」「モンキーホール」「禽合」「ス ベ リ台」「売店」「前庭」「後庭」「花壇」「稲荷祠」 「天然公園」「医療 専門医師などを聘用」「見晴 台」「休憩室」「社交室」「食堂」「喫茶 と酒場」な どを配置する 1つ の街 を形成す る温泉旅館で ぁった(83)。 それは ,「内湯の設備は勿論,客室調 度の結構 日本一を誇 る旅館」といわれた(84)。 そ の最大の特徴は,本館に,二ヶ所の大浴場 と六 ヶ 所の小浴場,新
別館には各室一 ヶ所ずつ浴室を 備えるという「内湯主義」を採用 したことであっ た。このため,湯
之島館は,宿
泊料などとはベ つに,「御人湯料 として御滞在一 日毎に」各1名, 30銭 を徴収 していた(85)。源泉の開削に参加 した 湯之島館の利用条件である1人 15銭 の温泉利 用料 を下呂温泉合資会社および下呂温泉薬師湯 合資会社に対 して支払 うという取 り決めに対応 するものであった。 他方,下
呂駅 と益田川に挟 まれた地に立地す る水明館が最初から「内湯旅館」 として下呂温 泉に参入できたのは, 自力で泉源をボー リング によって確保 したか らであった。水明館の源泉 については,か
つて,江
戸期に「益田川の西岸 に熱湯湧出 して浴客殺到 した」地点が,「水明館 の上流数町」の ところであ り,「其遺蹟 を辿 り満 三ケ年の 日子を費 し地下八百尺を掘削 し湧出 し たのが乃ち水明館の温泉」としている(86)。 実際 には,一宮市出身の実業家滝多賀男が,1931(昭 和6)年
11月に温泉掘削を岐阜県知事に申請名古屋学院大学論集 して許可されたものであった。温泉掘削地であ る「益田川の森地区」が
,従
来の温泉地である 「湯之島区」の地域外であり,温
泉の湧出が期 待できない土地であったことや,地
域的な温泉 権の枠外にあったことなどが幸い した もの と言 われている(87)。「山の旅館湯之島館に対 して,川 の旅館」といわれた水明館が,建
設されたのは, 1930(昭和5)年
のことであった。直後に水害 にあい大半を流出 したが,程
な く,再
開で きた の は,豊
富 な資 金 力 に よって いたの で あろ ぅ(88)。 水明館は「建設費三十五万円の巨費を投 じて構築 したる十五棟,千
三百五十坪 を有する 宏壮なる建物」であった(89)。 水明館は,「内湯水明館」と銘打って,「四時粧 いを新たにする自然の美 とまどらかに して美 し い湯女」「下呂小唄踊」「新時代に於ける下呂温泉 の姿」 というように,や
や歓楽的な温泉旅館を 宣伝 としていた。水明館 自体について見ると, 入浴料は無料であ り,宿
泊設備 としては,客
室 63室を備 えていた(90)。 高山線全通後,水明館の宣伝はやや変化する。 家族的な雰囲気に方針転換 し,そ
して高山線沿 線における遊覧コース (団体旅行)の
一地点 と しての下呂温泉・水明館 という設定を謳ってい る(91)。 高山線全通後の水明館の宿泊設備 につい て見 ると,客
室は「本館,茉膚官,臨
川閣,清
風 荘,古
代荘,北
の寮,観
月亭の七棟」であ り, 収容力79室274名 というものであった(92)。 驚 くほど巨大な収容力の温泉旅館が一挙に出現 し たのであった。 水明館は,「散策地」の整備 にも着手 している。 「水明館直営」の「住吉谷遊園地」がそれであ る(93)。 住吉谷は敷地外の少 しはなれたところに 位置 し,ラ
ジュウム温泉である「住吉の森」の 「ラジュウム館」が,「住吉の瀧」と相対 してあ り,「料亭,待
合点在 し」ていた。併せて,勇知也 内にあっては,「館外遊園地」の整備 として,「テ ニスコー ト,乗
馬,ブ
ランコ,滑
り台,遊
動木 等の運動具,モ
ンキーホール,小
鳥の小屋,熊
の家等の動物」など(94), というように家族向け を意識 したものを設定 している。水明館の収容 力は,「客室 最大収容力 四百五十名」にまで 拡大 している(95)。 湯之島館 と水明館は,高
山線の開通にあわせ て,内
湯旅館 として,そ
して遊覧地 としての下 呂温泉を謳 うことで大規模な集客をはかったの であった。両旅館の動向は,下
呂駅開業後の次 のような雰囲気を代表するものであった。 「温泉は泉量豊富なるが故に種 々と新設備計 画か樹 てられつつあ り,遠
く東海方面の投資 家にしてここに注 目するものが多 く,何
箇所 とな く,新
湧出口の掘削工事が起 こされて居 る外,街
並は郊にむかって,ど しどし延長 し, 随所に家屋の新改築が行われて,隆
々たる発 展気分が全街に横温 して居る」(96)。 高山線の全通後における大 きな変化は, ド呂 温泉において内湯旅館への転換が進行 したこと であった。それについては,次
のオ討商で了解 さ れる。 「下呂温泉 〔は〕…新興の温泉場である。 も とは薬師湯,自
鷺湯二つの外湯に浴 して居た が,今
は内湯の旅合力淋目当出来た。・…」(97)。 「下呂温泉 〔は〕飛騨川の上流益田川の清流 に臨み翠轡に囲まれた清々しい新興温泉で, もとは薬師,自
鷺の両外湯に浴 していたが, 現今では内湯旅館 も相当出来て殷賑を極めて いる」(98)。 これに対応 して,共
同湯を経営する薬師,下
呂 の両温泉会社は,各
旅館への配湯事業 も併せて 行なうようになる(99)。 以下,少
し長 くなるが,高
山線全通後におけ る下呂温泉の活況 を示す もの を引用 しておこ14
-両大戦 間期 の下 呂温 泉 と鉄道網の発達 つ 「二層三層 と
,本
の香新 しき旅合旗亭が呻干を 並べた今 日の温泉街 も,当
時 〔十年前〕は肥 料臭い百姓町だった。・…ここ数年間に…次々 に新 しき湯日が掘 削されて郊外の此所に彼所 に新市街地や遊園地の計画工事が起 され, 日 下では都市計画法の改正を契機 として,町
の 全地域を包括する遠大の泉都計画さえ樹てよ うとする機運に立ち至った。最近下呂の呼声 は,中
京 。関西間にはもとより,遠
く関東人 士の耳柔にまで温泉の名によって親 しまれる ようになって来て居る・…」(1°°)。 「…斯様にして下呂温泉は,更
生のスター ト を切ってから年月は短いが, 日本中部に優秀 な温泉の少ないこと,気
候風土の上に保養地 乃至遊覧地 としての好条件 を具 えること, 偶々温泉熱勃興,鉄
道開通の機運に乗 じたこ と等の順境に恵まれて,実
に驚異的な進出を した。以前の部びた百姓町の面影は下呂の中 心部湯の島か ら消えて,旅
館を首め,温
泉関 係の営業者を以って全 く商業地 と化 し,更
に 高層な建物がどしどし郊外にむかって殖えて 行 く。河岸随所にボー リングの櫓が立ち,源
泉の外に既に新湧出口を発掘 して引用 して居 るのが数 ヶ所あ り。・…」(1°1)。 「…・ 〔芸妓屋・料理屋・待合・カフェなども 50軒前後あるが〕しか し人が殖え街が繁華に なっても,ジ
ャズ的な喧喚 と,碩
廃的な雰囲 気への堕落は当業者の常に避けて居るところ で,閑
静な山郷の湯の落ち着 きと飛騨の温泉 としての ローカルカラーの保護 に腐心 しつ つ,近
代的感能に迎合せんとする点に当業者 の努力がある¨・」(102)。 「〔温泉附近の散策地 としての)・…高寺公園 〔は〕駅の対岸,温
泉街の背景をなす下呂富 士の腹部にあ り,展
望絶佳,満
園桜花に富ん で居 る。公園の登 り口をなす百数十階の石段 には,両
側 に桜樹が林生 し,桜
の頃には全 く 花の トンネル を出現す る。園内には温泉 に因 縁深 き医工山薬師寺があ り…薬師寺 は通常高 寺 とも呼ばれ,高
寺公園の名 はこれ を取 り入 れた ものである。温泉街 に接近 して居 るが故 に浴客がつれづ れの散策 には好箇の場所であ る」(103)。 「〔温泉附近の散策地 としての〕千羽ケ瀧 〔は〕 下呂駅 より北へ約四キロ,大字東上田にある, …近頃下呂温泉の発展に伴い,温
泉に従属 し て欠 くべからざる遊覧地 となって来た。今は 滝壷に近 く蒲洒な旗亭が設けられ,夏
季等は 涼味 を満喫せん とす る浴客の姿が溶れて居 る」(104)。 「〔温泉附近の散策地 としての〕住吉谷遊園地 〔は〕大字少ケ野郷社住吉神社の背部住吉洞 と呼ぶ山懐 にあって,温泉街中心 よりニキロ, 常時 自動車が通って居る。優秀なラジウム鉱 泉が多量に湧き医効 も顕著なようであるが, 住吉谷を中に鬱蒼 とした森林の中,清
冽な住 吉瀧が浴場のそばにあり,幽
迩その ものの境 域に旗亭娯楽場 。旅館等が並び,下
呂温泉郊 外の遊園地 として唯一の場所である…」(105)。 以上,見
た様に「温泉旅館の数は三十余軒,そ
の浴客収容力は楽に見て千人」(106)と ぃう下呂 温泉は,遊覧地,「温泉街の全容がそのまま一大 公園」(107)と して整備 されたのであった。 このように,高
山線開通後の下呂温泉が収容 力の拡大や遊覧地 としての整備 を遂げることが で きたのは,鉄
道省 。名古屋鉄道局の集客戦略 と名岐鉄道の高山線乗 り入れによる遊覧地 とし ての下呂温泉に関する宣伝戦略が与かって力が あった。つ ぎに,両
鉄道における下呂温泉の支 援 に至る過程 を跡付けたい。名古屋学 院大学論集 五
.鉄
道 省・名 岐 鉄道 の観 光 開発 一 ブー ム の開拓 と仕 上 鉄道省は,明
治以来行なってきた沿線の遊覧 案内を大正末頃には,更
に積極的に展開する。 そこには,「一般世況ハ旅客運輸 ノ閑散 ヲ告ケ鉄 道収入亦甚 夕悲観 スヘキモノ」 という事情が あった。 まず,大
正 14年 度に「旅客誘致策」と して実施 されたのは,「臨時的運賃ノ割引」であ り,そ
れは,「名勝地,遊
覧地,神
社仏閣又ハ博 覧会,運
動競技会等多数ノ旅客ノ集合スル地ニ 向ケ運転スル臨時列車又ハ特別列車二乗車スル 旅客二対シテハ団体旅客二対スル割引二準シ, 二,二
等旅客二対シ臨時運賃ヲ割引スル コ トト シ」たものであった。更に,「遊覧券」を発売す る(108)。 そのうえで,「近時旅行熱ノ勃興二伴 ヒ 名勝地 ノ遊覧,登
山,キ
ャンピング等ノ旅客漸 次増加セル」ことに対応すべ く,│」召和元年度に は,「旅客誘致策」として「割引回遊未車券ノ発 売」「季節的割引乗車券ノ発売」など(109)を 実施 する。 その後,鉄
道省は,更
に,遊
覧旅行の組織化 をおこなうべ く,遊
覧経路の設定を行なうに至 る。新設された 19の「遊覧経路」のうち温泉地 とリンクするのは,「伊豆温泉回 り」「東伊豆温泉 回 り」「西伊豆温泉回 り」「松島・陸羽温泉回 り」 「猪苗代会津温泉回 り」「羽越温泉回 り」「松島・ 金華山・十和田湖 。東北温泉回 り」「道後・讃岐 回 り」「天橋立・城崎回 り」(H°)と半分近 くにの ぼっている。このような「普通遊覧券経路」は, 1930(昭和5)年
の設定以来「旅客ノ好評 ヲ博 シタ」ことから,そ
の後「上州温泉回 り」「箱根 温泉回 り」「信越北陸温泉回 り」などを追加 して いる(Hl)。 併せて,各
鉄道局で遊覧促進のための観光展 覧会を開催する。その意図は,「名勝地其ノ他各 地 ノ人情風俗等 ヲー般二紹介 シ旅客誘致二資ス ル ロ的 ヲ以 テ或ハ活動写真 ヲ利 用 シ或ハ博 覧 会,共
進会等二出陳 シ普 ク之力宣伝二努ムル ト 共二之等二関スル印刷物 ヲ頒布 シ旅行上 ノ資料 タラシメ」ようとした ものであった(H2)。 展覧会 の うち温泉 に関係す るものを見 ると,「温泉展覧 会 (東京新宿 ほてい屋)」(H3),「ビュ_口
_,
日 本温泉協会共同主催 涼味展覧会(新宿三越)」 「ビュー ロー ト共同主催 秋の温泉写真展覧会 (浅草松 屋),温
泉茶 室写真 展覧会 (上野松坂 屋),温
泉 とスキー案内所及写真展覧会(日本橋 三越)」(H4),「大阪鉄道局, 日本温泉協会主催温 泉展覧会」「仙 台鉄道局,日 本温泉協会主催 温 泉 とハイキングの夕」(H5)が実施 された。 遊覧 コースを多様 に設定す ることがで きたの は,鉄
道省が鉄道運:輸だけでな く, 自動車 によ る運輸 をお しすすめたことに もよっていた。「自 動車運輸」は,1930(昭
和5)年
に,「 国有鉄道 最初 ノ試 ミトシテ」,「名古屋鉄道 局管内岡崎 。多 治見間,瀬
戸紀念橋 。高蔵寺問」で開始 されて ぃたが(H6),高 山線の下 呂温泉 に関連す る路線 につ いてみ ると,1930(昭
和5)年
に,焼
石・ 下 呂間で(H7),1931(昭和6)年
に,下
呂・萩原 間でそれぞれ運輸営業 を開始 してい る(118)。 この ように経路 を整備 したうえで,名
古屋鉄 道局は,温
泉旅館 と提携 して,運
賃 と宿泊料 な どを合めたクーボン券の発行 をおこなっている (表8参照)。 水明館は,同旅館の規模拡大の要 因 として鉄道省 との提携 をあげてお り(H9),そ の効果のほどが知 られ る。 とすれば,下
呂温泉 は「名古屋鉄道局の ドル箱」 とな らざるを得 な いであろう(120)。 他方,名
古屋市内か ら高山線方面 に最短距 離 となる自社線 を保有す る名岐鉄道 は,1930(昭
和5)年 11月 ,高 山線が下呂駅 まで開通す ると, 所属 客車の高 山線乗入れ を計画 し,1932(昭
和16
-両大戦間期の下呂温泉 と鉄道網の発達 表
8
下呂温泉のクーポン旅館一覧 (1934年) 旅館 名 湯 之島館 山田館 水 明館 清芳 閣 山形 屋 湯本 ホテル 伊佐地7)年
5月,鵜
沼 。下呂間直通運転の認可を鉄 道省監督局に中請する。地方鉄道の客車が,省
線 に乗 り入れ ることとしては全国初の試みで あった。省線の岐阜経由では4時間を要すると ころを2時間余 りで行ける特急を実現 したこと が宣伝 されるに従って,来
客は増加する一方で ぁったとぃぅ(121)。 そのうえ,「下呂温泉遊覧ニ ハ全国未夕嘗テ其ノ類例ヲ見サル畳敷特急直通 列車ノ運転 ヲ企テ名古屋下呂間二時間ヲ以テ突 走スルニ至 り人気頓二場 り期末二及ンテ者シク 其ノ数ヲ増加」したという(122)。 なかで も「毎土 , 日曜 日運転スル下呂温泉行直通列車ノ人気ハ頓 二揚 り定員ヲ超ユル状況ナ リ」(123)と ぃぅこと であった。いずれに して も,高
山線全通によっ て,「幸二当社線 〔名岐鉄道〕力``最短距離ノ好条 件二恵マ レタル為来往ノ客貨頓二増加シ」たの でぁった(124)。 その人気の背景には,更
に名岐鉄道 と温泉旅 館 との直接的な提携があった。それは,内
湯旅 館に関する「宴会乗車券及び旅館券」 としての 「クーポン券」の発売開始であった。その内容 は,例えば,「山田館及水明館 七円(梅ノ宿泊) (往復乗物賃,夕
食六品,御
飯,香
の物,朝
食 五品,御
酒二本,芸
妓二時間,祝
儀共)」などと 浴 室 10 6 出典:『クーボン旅館案内 1934』 社団法 人ジャパ ン・ツー リス ト・ビューロー。 なっている。「下呂特急」の利用が条件であっ た(125)。 かって,1900(明
治33)年
頃に「阪鶴 鉄道」によって,時
期限定で実施 された城崎温 泉への阪鶴鉄道の運賃割引 (ゆき3割引,か
え り3割半割引)か
ら更に,一
歩進んだ もの とい ぇょぅ(126)。 第一次大戦後の観光地 としての温泉地の発展 は,鉄
道の発展によって支えられたものであっ たが,同
時に,温
泉地が味斤たな遊覧地 として登 場することによって,鉄
道資本が味斤たな経営多 角化へ と誘引されたこともオ計商されねばならな いであろう。下呂温泉を「東海道諸都市の遊園 別荘地帯」にまでお しあげたのは,名
古屋鉄道 局,北
恵那鉄道,名
岐鉄道の競争的な経営展開 によるところが大であった。第一次大戦後,特
に大正末から,昭
和恐慌の前後にかけて,観
光 ブームが生み出されてい くのは,上
で見た鉄道 資本 と観光地 との連携 という新たな局面によっ てきりひらかれた ものであった。こうした潮流 は戦時経済に向か う 1930年 代後半の軍需景気 において も,観
光ブームを支えるもの となるの であった。 クー ポ ン宿泊料 クー ポ ン中食料 収容 人員 室 数 5.50 2.00 270 35 3.50 1.50 120 23 2.80 1.00 150 62 2.50 1.00 52 11 2.50 1.00 50 17 2.50 1.00 100 17 2.50 1.00名古屋学 院大学論集 圧 (1)拙論「戦前の花巻温泉―観光開発か ら温泉報国ヘ ー」富士大学サ也域経済文化研究所 『研究年辛剛 第5 号,1997年を参照。 (2)拙論「両大戦間期における豊川鉄道の経営多角化 と観光開発」『名古屋学院大学論集 社会科学篇』第 38巻第4号,2002年を参照。 (3)拙論「第一次大戦期における温泉観光の産業化 と 地方鉄道」『富士大学紀要』第32巻第2号,2000年 を参照。併せて,湯本・湯川の両温泉地 を対象 とし た『平成13年度 岩手中部・地域フォーラム 基調 講演・パネルデ ィスカツンヨン 記録集』岩手中部 地区広域市田財1圏事務組合,2002年を参照。 (4)『神奈川県史 通史編
1 4
近代 。現イヽ1)』 1980 年,831ページ以下,および 『神奈川県史 通史編6
近代・現伏ズ3)』 1981年,824ベージ以下。併せ て,詳細な,箱根観光開発史 ともなっている,『富士 屋ホテル80年史』富士屋ホテル株式会社,1958年 を参照。 (5)前掲『神奈川県史 通史編 6』 1083ペ ージ以 ド。 同路線は,富士屋 自動車による国府津 と箱根町の間 でのバス運行によって,打撃をうけ,小涌谷か ら箱 根町 までのバス運行にも乗 り出すことになる。 (6)前掲 『神奈川県史 通史編 4』 834ペ ージ。 (7)同上,834ページ以下,および前掲 『神奈川県史 通史編 6』828ページ以下。同鉄道路線は,関東大 震災の影響によって閉鎖 となる。 (8)老川慶喜「箱根開発 と箱根土地会オ劃 地方史研究 協議会編 『都市・近郊の信仰 と遊山・観光―交流 と 変容―』雄山閣出版,1999年,そして,野田正穂ほ か『神奈川の鉄道-1872-1996-』 日本経済評論社, 1996年 を参照。さらに,本稿のテーマに関連する最 近の もの として,大分県立歴史博物館『湯浴み―湯 の歴史と文化―』1999年 ,お よび東北歴史博物館『観 光旅行一大正∼昭和初期のツー リズムー』2002年, 力炒ヽ味:架い。 (9)「明治6年8月 筑摩県管下飛騨国益田郡湯之島 村益田川積11温泉」北條,11誅扁『下呂温泉史料集』下 呂温泉保護協会,1967年,176ページ。下呂町史編 修委員会『飛騨下呂 史料II』 1986年 にも収録 され ている。 (10『湯の街 下呂』下呂町役場,1931年, 6ページ。 (■)同
上。 (10 伊藤焚陽編輯 『日本三名泉の一 下呂温泉案内』 1929年 。 (10『湯の街 下呂』下呂町役場,1938年,10ページ。 (10 詳 しくは,岐阜県『岐阜県町村合併史』臨川書店, 1961年 刊行,1987年復刻, にあたられた し。 (lD『鉄道時報』1900年 8月 5日広告。更に,鉄道史 における観光をテーマ とした鉄道史学会の大会報告 (『鉄道史学』第 13号,1994年)を 参照 されたい。 (10 野崎左文『日本名勝地誌 第四編 東山道之部_劇 博文館,1908年〔初版は 1894年 〕,253-254ページ。 (1つ 『益田郡紀要 完』岐阜県益田部役所,1916年, 9-10´く―ジ。 (19『高山本線全通高山駅開業 50年のあゆみ』社団 法人飛騨高山観光協会,1984年, 6-7ページ。 (19 『大正9年度 鉄道省年報』1922年,80ページ。 20『昭和9年度 鉄道省年報』1935年,198-199ペー0
川上渓水『天下三名泉の一 下呂温泉名所図絵』 1926`「。 20 前掲 『飛騨下呂 史料II』 410ペ ージ以下。 20 飯島正太郎『 下呂本側下呂村 自治会,1925年 ,39, および56ページ。 24)内務省衛生局『全国温泉鉱泉二関スル調査』1923 年,74ページ。 (25)前掲 『湯の街 下呂』1938年,10ページ。 20 前掲,北條浩編 『下呂温泉史料集』279ペ ージ。 0つ 前掲 『湯の街 F呂』1931年, 2ページ。 98)『大正10年度 鉄道省年報』1923年,95ページ。 (29)『大正11年度 鉄道省年報』1924年,116-117 ページ。 (30)前掲 『高山本線高山駅 開業 50年のあゆみ』8 ページ。 01)『大正14年度 鉄道省年報』1927年,136ページ。 (32)『昭和2年度 金:知萱省年報』1928年,163ページ。 (33)『昭和4年度 鉄道省年報』1930年,163ページ。 (34)『昭和5年度 鉄道省年報Л 931年,189ページ。 (35)名古屋鉄道局運輸課 『山の湯め ぐリー中央線の巻 ―』1927年,10-11ページ。18
-両大戦間期の下呂温泉 と鉄道網の発達 (36)『紅葉の名所 休 日遊覧案内 十一月版』名古屋 鉄道局案内所 〔パ ンフレット,飛騨金山まで開通時 の もの〕。 Oη 前掲 『日本三名泉の一 下呂温泉案内』。 (38)大日本雄弁会議談社 『日本温泉案内 西部篇』大 日本雄弁会講談社,1930年,265ページ。 (39)前掲 『山の湯め ぐり 中央線の巻』10ペ ージ。 (40)さ しあた り,拙論「高田商会 とウエスチングハウ ス社」福島大学『商学論集』59-4,1991年を参照。 は1)『大同電力株式会社沿革史』大同電力社史編纂事 務局, 1941年,10-12ページ (復刻版による)。 (42)同上,83ページ。 (43)同上,89,および380ページ。 (44)同上,90ページ。 (45)同上,380ページ。 (46)小冊子『国鉄下呂線早期建設の実現を』国鉄下呂 線建設促進期成同盟会,中津川市立図書館所蔵。 (4つ 前掲 『大同電力株式会社沿革史』381ペ ージ。