庚南 ア ジア研究 11巻 2号 1973年9月
イン ドネ シア 「
新秩序J とその政治的近代化
西
原
正 *Indonesia)s New Order and PoliticalM odermi zation
by
M asashiNISHIHARA
Thisarticleattemptstoanalyzelndonesia'sNew Orderunderitspost-1965militaryleadership inlightofitspoliticalmodernization. Thediscussionassumesthattheal)jliy oftt heruling eliteto implementpoliticalmodernizationdependsuponfourconditions:占rst,therulingelitemustbeableto maintainnationalunityinapoliticalandgeographicalsense;second,itmustdclinenationalot,jectives approprlatetOPrevailingnationalconditions;third,itmustformulatee(二OnOmicplansandorganize aneffectiveadministrationfortheirexecution;andfourth,itmustallowforpoliticalgroupstofunction aslongastheysupportthegoalsanddirectionsofIndonesiaasprescribedbytherulingelite.
The(.urrcntmilitaryelitehasdemonstrateditsability torestorean(1maintainnationalun]ty,and tode丘netheappropriatenationalobjectivesthrough thenew politicalsymbolsof"development"and "PancaSilademocracy." Sin(、C1969thereglmehaslaunchedtheFive-YearEconomicDevelopment Plan,bywh]'chtheregimehassough ttoJustifyitsownexistenceandwhichhasfunctionedasasymbol ofnationalunitytoagreatdegree・ Thisregimealsohasearned politicallegltlmaeythrough the generalelectionsof1971,whichresultedinthevictoryofitsparty,Golkar・ Although theseactions eneourageIndonesia'spolitieajmodernization,thereareotherfactorswhichseem tosti月°it. Ther e-glmehasmobi】izedhighlyeducatedtechnocratsintoeconomicplanning,buttheyhaveencountered manydi用cultiesinimplementingiteffectively. TheJavanese-dominated "moderate"wingofthe
Army,whichcontrolsthepost-1966Indonesiangovernment,hasconsolidateditspoliticalpositionbv eliminatingtheArmy'smore"radical"leaders,weakeningtheIndonesian Nafiona】istand Muslim Partics,regrouplngtheninepoliticalpartiesintotwo一argeones,andplaclngGolkarunderthe(・ontrol oftheDefenseandSecurltyDepartment. Although theSuhartoleadershiphasI)eenstrengthened temporarilybytheseactions,itslackofpoliticalgenerosltylnmaintainingCompetinggroupswithinthe politicalsystem appearstohavesti鮎ddesirablepoliticaldevelopmentinlndonesia・ Althoughthe Suhartogovernmentmaytoleratealowlevelofpoliticaldevelopment,ltCannotaffordfaillurein ec onom-icdevelopment, Tnshort,thefutureofthecurrentFive-YearDevelopmentPlananditssucceeding plans,whi(、haresomuchasymbolofnationalunitv.maywelldetermi nethepoliticallifeofthcreglme.
イ ン ドネ シアの軍人 エ リー トが政治的実権を掌擬 し 「新秩序」 (OrdeBaru)樹立を ス ロー ガ ンと して以来,既に 7年が経過 した。 この よ うに一 国の統治権が軍部 エ リー トによって撮 られ るのは開発途上国 に特 に著 しい現象で あ る。多 くの欧米学者 の指 摘す るところによれ ば,軍 部 エ リー トは これ らの国におけ る国家運営 に必要な数少 ないエ リー トの一 つで ある。 その理 由 と して彼 ら学者 達 は, これ らの国において軍人が (1)明確な命令体系の組織 内で働 く訓練 を受 け *京都産業大学外国語学部
て い る こ と, (2)比 較 的 教 育程 度 が高 い こ と, お よび (3)軍 事 訓練 を 通 して 国 内外 を よ く動 い て い るた め比 較 的 広 い 視 野を 持 って い る こ と, な どを 挙 げ ,軍 部 エ リー トが 開発 途 上 国 に お け る政 治 的 近 代 化 の 担 い手 で あ る と 規 定 して い る。1)この 規 定 は一 般 的 に は受 け入 れ られ る命 題 で あ ろ うが ,個 々の ケ ー ス に適 用 され た場 合 に は, どの程 度 の妥 当性 を 持 っ の で あ ろ うか 。 本 稿 で は過 去7年 間 余 りの イ ン ドネ シア 「新 秩 序 」 を 観 察 し, その 陸軍 反 共 派を 主 流 とす る軍 部 の指 導 力を 検 討 し, ひいて は イ ン ドネ シアが政 治 的 近 代 化 - の道 を 歩 んで い るか 否 か に つ いて 若 干 の評 価 を せ ん とす る もの で あ る。 建 国 以 来 20年 間 続 い た ス カル ノ体 制 にお け る共 産 党 お よ び容 共 勢 力を中 心、とす る政 治 エ リー ト, 特 に共 産 党
(
PKI
)
お よび 国 民 党(
PMI
)
容 共 派 を打 倒 し た 陸軍 反 共 派 の指 導 力 の 体質 を 考 察 す る こ とは, 東 南 ア ジ ア最 大 の人 口 と天 然 資 源 を もつ 同 国 の政 治 動 向 を見 きわ め る上 に重 要 で あ り, また 東 南 ア ジア に顕 著 で あ る軍 部 政 権 を 比 較 研 究 す るた めの有 益 な一 助 と もな るで あ ろ う。 そ こで まず 「政 治 的近 代 化 」 の概 念 の定 義 づ げ と近 代 化 の た めに必 要 な4条 件 を 挙 げ る。 次 いで イ ン ドネ シア軍 部 の と った 政 治 的 措 置 を この4条 件 に照 ら して 検 討 す る こ と とす る。 Ⅰ 「政 治 的近代 化」
の 定 義 と条 件 一 国 の政 治 的 近 代 化 を,
「その 国 の 人 的 お よ び物 質 的 資 源 を 国 家 目標 達 成 の た め に 動員 す る 統 治 能 力 の 効 率 が高 い こ と」 と定 義 して み よ う。 そ して 政 治 的 近 代 化 を推 進す る際 の エ リー ト の特 性 に 関 して 次 の 四 つ の条 件 を 想 定 して み よ う。2)す な わ ち, (1)統 治 エ リ- トが 国家 統一1) Lucian W .Pye,"Armi esintheProcessofPoliticalModernization,"inTheRoleoftheMilZ'tary in UnderdevelopedCounzγZ'e∫,ed・byJohn J・Johnson(Princeton,New Jersey・・Princeton UniversityPress, 1962),pp.69--89,および MorrisJanowitz,TheMilitar)′inthePoliticalDeyeZoPmentof New Nation∫
(Chicago:TheUniversityofChicaをぎOPress,1964),ch・3を参照。
2) ここでは 「政治的近代化」の概念を 「政治発展」や 「政治成長」のそれ と同義語 として扱 っている。 こ こに掲げた政治的近代化の定義は,-政治体系(politicalsystem)の発展能力(capacityfordevelopment)に 視点をおいた もので,例えば KarlW ・Deutschはこの発展能力を 「既設の 目標を達成 し, 目標を状況に 応 じて修正する能力」と定義 しているoTheNerve∫of Gover71ment(New York:TheFreePress,1963),
pp.250-253をみよ。また A・F・K・Organskiの著 TheStagesofPoZitl'calDe乞・eZoPment(NewYork:Alfred A.Knopf,1965)も政治発展を 「一国の人的および物的資源を 国家 目標に利用す る統治上の能率を増大 さ せること」と定義 している (p.7)。 これ らの概念の検討については,JasonL.Finkle&RichardW .Gable, eds.,PoZitz'{aZDevelopmentand Socz■alChange(New York・・JohnWiley 良 Sons,In°.,1966),pp.83-118, や白鳥令
「
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発展学 >の構想 と問題点」『アジア研究』第18巻第 3号 (1971年10月)pp.44-74を参照。 こ の本文の統治エ リー トの特性 としての 4条件は,上記 Deutschの前掲書の 「成長」の六つの次元 (人力の 質的成島,経済成長,人的および物的資源の戦術的備蓄,国家の自己決定力,政策遂行のための組織の戦 略的簡素力,目標設定能力), および LesterG・Seligmanの主張す る政治体系のエ リー ト養成能力を参考 とした。後者については "EliteRecruitmentandPoliticalDevelopment,"JournalqfPoZiiic∫,XXVI(Au・ gust19641,pp.612-626をみよ。 これ らの条件を 日本の政治的近代化における統治エ リー トの特性 と比較して本文の4条件 とした。従 って この4条件は必要条件であって充分条件ではない。 日本の政治的近代化 については,例えば, RobertEIWard,."PoliticalModernizJationandPoliticalCultureinJapan,"World Politic∫,ⅩV (July1963l,pp・569-596をみよo W ardはここで, 日本の近代化が成功 した理由として明治 の統治エ リ- トが国家統一 と富国強兵 とい う適切な目標設定能力を しめした こと,そ して工業化 と官僚組 織の強化によりその 目標を達成 した こと,民主運動の台頭を抑えて権威主義政権下に秩序を保 ちつつ, し か もその政権の指導下 に国家 目標に関す るコンセ ンサスづ くりを行ない,その枠内で反政府勢力を徐 々に 認 めた こととしている。 172
西原 :イン ドネシア 「新秩序」 とその政治的近代化 を維持す る能 力を もってい ること, (2)統治 エ リー トが国家 目標設定能 力を もってい ること, (3)統治 エ リー トが経済生 産性 を高 める経済政策を立案 し, それを実行 す る組織能力 が あるこ と, および(4)統治 エ リー トが国の 目標 に関す る一般 的合意 (コンセ ンサス)の枠内で競合 す る政治集団を許容す ること,で あるO ここで国家統一 とは領土保全 および治安維持な どの物理 的統一 ばか りでな く,政治 シンボル その他 による政治的統合 を も含んでい るO国家 目標設定能 力 とは権力保持者 がその国のおかれた条 件下で最 も適切な国家 目標を設定 し,遂行す る能力を 意味す る。 そ して これ にはエ リー トが 自己の権力を正 当化せん とす る行為 も入れ ることがで き よ う。経済生産上の向上 とは単 に一人 当 りの国民総生産の増加 だけでな く国民 の社会 的 および 地理 的移動の大 きさを も意味す る。 それ は経済活動 の増大,国民経済の形成, そ して国民総生 産 の増加 に もつ らな るか らで ある。国 家 目標 に 関 す る一般 的合意 とは, 追求すべ き国家 目標 (目的)に対す る一般 的合 意のみでな くその 目的を遂行す る方 法 (手段)に対す る一般 的合意 を も意味 してい る.すなわ ちこれ は政治ゲームのル ール に関す る コンセ ンサス といえよ う。近 代化 には この一般 的 コンセ ンサスの枠 内で政治集団が対立 し競争 して い ることが必要で あるO 政治集団 (政党で あれ官僚組織 内の派閥で あれ)の競争関係 こそが進取 の精神を再成 し,変貌 す る社会 の要求を充 たす ことがで き, さ らには次代 のエ リー ト創 出源 ともな るので ある.一般 的合 意がない ところで は競合 政治集団は国民統合 を促進で きずむ しろ破壊す ることにな るで あ ろ う。基本的問題で同意 して い る競合 集団で あって こそ
ダ
イナ ミックな政治的安定 (安定下 の 変革 )が期待で きるので あ る。政治的近代 化の担い手 と して の必要条件 は これ以外 に も挙げ る ことは可能で あ るが, スペースの制約上 この四つの条件 に検討対象を しぼ って65年以降のイ ン ドネ シア政治を観察 してみ ることにす る。 Ⅲ 軍 部 と 国 家 統 一 まず1965年以 降のイ ン ドネ シア政治を鳥放 してみ よ う。 イ ン ドネ シア軍部反共派が65年9月 30日事件以後共産党勢力を壊滅 させ,ス カル ノ大統領か ら治安確保権限を奪取 したのは66年3 月11日で あるが, その軍部 の リーダーで あるス-ル ト陸軍大将が正 式 に二代 目大統領 とな った のは68年3月27日で ある。 同年6月 には彼が 自ら人選 して作 った第一 次開発 内閣が発足 し69年 4月 よ り第一次経 済 開発5カ年計画をス ター トさせ た。 また1971年7月 には延期 されて いた総 選挙 を実施 し,軍 部支援 の与党で ある ゴル カル (Golkar)を圧勝 させて 権力 の 正 当化 に成功 し た。 そ して これを基礎 に73年 3月 に憲法下で は最初 の正式な 国民協議会 (MPR)を開いて ス-ル ト大統領の再選 を実現 し,第二次開発 内閣を組織 した。3) 3) インドネシアは1945-1949年,1949-50年,1950-59年 にそれぞれ異なった暫定憲法を運用したが,1959 年にスカルノが大統領令で暫定45年憲法を正式にイン ドネシア憲法とした。 しかしこの憲法に基づ く選出 議員によって国会や国民協議会が構成されたのは,69年選挙法にもとづいて施行された1971年の総選挙が はじめてである。 1736
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年1
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月 よ り7
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年3
月 まで の イ ン ドネ シア軍 部反共派 の とった 種 々 の 措 置 を 回顧 して み る と, それ らの措 置が イ ン ドネ シアの政治的近代 化をすす め るに とって必要な先述 の4条件 の う ち少な くとも最初 の 2条件 に合 うもので あ ることが分か る。 これ らの措 置が どの程 度 に近代化 を強 く意識 した上で と られ た もので あ るか は今 の ところ不明 で あるが,1
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1年 の総選挙 にあた って ス-ル ト政権 が, 軍部 は国 の 「近代化」(modernizasi)を推進す る任務 を負 って い ること を繰 り返 し明言 した ことと併せ考 え ると,相 当程度 に近化代 を は じめか ら意識 して いた, とい って よい よ うで あ る。1
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年1
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月1
日以後 陸軍 主流派 (反共派) は先 ず国家統 一のた めの措 置 を とった.す なわ ち最精鋭部隊 といわれた陸軍 シ リワ ンギ師団 と陸軍 降下部隊(RPKAD)を使 って 中部お よび東部 ジ ャワにおけ る"赤狩 り"をすす め,共 産主義 イデオ ロギーな い し容共 イデ オ ロギ-をいだ く従来 の政治 エ リー トを武力で排除 した。 そ して治安維持 に全 力 を そそいだo 約3
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万 といわれた PKI党 員お よび1,
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万 人 といわれた傘下 の労働 ,婦人,青年組織 が活動 を樟止 させ られ,解 散す るか地下 に も ぐるにいた った。4)6
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年1
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月1
日にス カル ノ大統 領か ら治安秩序 回復作戦 司令官(KOPKAMTIB)に任命 された 当時 のスハル ト中将戦 略予備軍 司令官 は 自己の任務 を拡大解 釈 して ,治安秩序 回復 の名 におい て対立 エ リ- トを粉砕 した ことにな るo この任務 のた め軍 部は情報収集機 関 も改組 した。6
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年 12月 まで スバ ン ドリオ外相 が兼務 して いた中
央情報 司令部(BPI)を軍 の統轄下 にお き, ついで6
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年8
月 には国家 諜報 司令部 (KIN)に改組 し, ス-ル ト自身が これを兼務 した。 後 に この司 令部 は国家情報 調整 本部(BAKIN)に改名 されたが,大統 領直属で あ ることは今 だに変 りはな い。 このBAKINには情報収集活動以外 に特務 工 作を も行 な うこととされて い るが, ス- ル ト大統蝕 は政治担 当特別補佐官 と して 腹心 の ア リ ・ムル トポ少将 を起用 して BAKIN とは別 に特別政治工作 (い わ ゆ るOPSUS)をや らせ た。KOPKAMTIB,BAKIN,OPSUSは1
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年 の総選 挙 に も立 候補者 の資格 審査 ,政府与党 の人気調査 ,対 立政党 弱体 化工作な どの積極 的 活動を展 開 した。 軍 はまた舗土保全 のために も早急 に解 決の手 を打 った
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年1
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月, 当時 イ ン ドネ シアはマ レ ー シアに対 して いわ ゆ る対決政策(Konfrontasi)を推進 し, そのマ レー シアが国連 の非 常任理 事国 に選 出され ると抗議 して 国連 か ら脱退 して い た。 また当時 のス カル ノ大統領 は,同国が英 米 をは じめ新植民地主義国 の勢 力 に包 囲 されて い るので 「新興勢力」 は彼 らの国際会議(CON 4) 9・
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事件首謀のウン トン陸軍中佐が逮捕されて後共産党の嵐 蕗首脳部が追跡されたoまず政治局員のニ ュノ,-ユト,ルクマンがつかまり,11月には中部ジャワ山中に潜行 していたアイディト議長が逮捕され 軍によって極秘の中に銃殺された。共産党員は1
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万から5
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万人が殺害されたとされている。6
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年に入って スカルノ派の巻き返 しが一時みられたがこれ も3月11日の事件でス-)L,ト派の勝利におわり,同11日に即 座に共産党が非合法化され,その後一週間以内にスカルノを支えた2人の副首相 (サレ-工業大臣とスバ ン ドリオ外務大臣)を含む1
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人のスカルノ側近関係者が逮捕された。さらに6
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年6
月には軍は学生統一行 動戦線(KMMI)らの反スカルノ勢力を利用して,暫定国民協議会(MPRS)でスカルノの終身大統領制を停 1ヒし共産主義教義の文献の流布を禁止 したのである。1
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西原 :インドネシア 「新秩序」とその政治的近代化 EFO)を開いて これ と対抗すべ きことを絶 叫 して い たが 新 興 勢 力 か らは 充分 な 支 持 が得 られ ず, また英米か らの援助 も停止 されて,中共,北 ベ トナム,北 鮮, カ ンボ ジア らの アジア共産 または容共 国 の陣営 に入 って いたo またマ ラ ッが 毎峡をは さむ ス マ トラ島 とマ レー半 島や カ リ マ ンタ ンとサ ラ ワク国境 問で のゲ リラ戦 を展 開 したが, マ レー シア側 は英 連邦 諸国 の軍 事援助 を うけて対抗 したため, イ ン ドネ シアの対 決政策 は効果 を上げ得 ないでい た。 こ う した事情か ら陸軍 派 はすで に65年 8月 ごろか ら極秘裡 に クア ラル ンプールやバ ンコクで マ レー シア側 と接 触 して対 決政策 の終結策 を練 って いた。5)これ ほ と りもなお きず 軍 部反共 派が徹土 その ものの 保全 が危機 に瀕 した と感 じたか らで あろ う。66年5月 には対 決政策を終結 す るた めの会 談を は じめ,8月11日に妥結 をみ た。 そ して 同年9月28日には国連 に復帰 した。 同時 に 日本を は じめ 西側 諸国か ら援 助を大 量 に受 け入 れ ,い ちはや く徹土 防衛 の基 礎をつ くった。他方 外交 姿勢 の 急激 な転換 はIIJ国関係 を冷却化 させ,67年以 降国交 を断絶 させて い る。 政治的国民統 合 とい う点で も軍 はい くつか の巧妙 な手 を打 った。 まず9・30事件直後軍 は国民 の支 持を集 め るた め,
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月30日運動」
分子 に対 す る武力鎮圧 は スカル ノ を守 りイ ン ドネ シア 革命 を推進す るた めなの だ と発表 した。 こ うして「9
月30日運 動」参 加者 を反革命分 子 ときめ つ けて , スカル ノ支持 にまわ ったか にみせなが ら一方 で は親 ス カル ノ派を徐 々に排 除 して い っ た. こう して非 ス カル ノ化 を強力 に押 し進 める一方 ,軍 は1945年憲法 とパ ンチ ャ ・シー ラ (建 国五原則 ) の護持を唱え, この下 に 「新秩序」
を掲げて 国民 に 結集す る よ う訴 えた。6) この 「新 秩序」 について注 目す べ きは軍 が新 しい ス ロー ガ ンを提 唱 した ことで はな く, 旧体 制か ら 継 承 されて きた ものを再 強調 した にす ぎない点で あ る。軍 は建 国以来 これ らを堅持 して きた も ので あ ると し, ス カル ノ旧体制 こそが この45年憲法 お よびパ ンチ ャ ・シー ラか ら逸 脱 した とい う論 法を とった ので あ る。7)ス カル ノ勢 力を排 除 した後 に残 った 国民統合 上 の最大 問題 はイス ラム勢力で あ った.暫定45年憲法で はパ ンチ ャ ・シー ラを唱え, イス ラム教 国家で はな く非宗 教 国家 をつ くって複数宗教 グル ープの併存 す るrfjで単一 国家を樹立す ると してい るに もかか わ5) FrankWeinstein,Zndone∫iaAba7don∫Confrontatio71(Ithaca,New York:Modern IndonesiaProject,
CornellUniversity,19691,p.54をみよ。筆者 (西原)は1971年ジャカルタ滞在中,-米大使館高官より, 「共産党はイン ドネシアの軍勢カをジャワ島外に分散させるため,スカルノの背後にあって,1960-61年に は西イ リアン紛争を支援 し, 1963-65年には対マレーシア対決政策を推進 した。 しかしインドネシアの質 反共派はこれを見抜いて, 1965年8月マレーシア対決政策の絶頂期に和平収拾策をねっていた.」 という 見解に接したことがある。 6) パ ンチャ・シーラとはイン ドネシア建国五原則をさし,人道主義,民族主義,民主主義,社会主義,棉 への信仰をさす。イン ドネシアの宗教的多様社会を統一するためスカルノは,この五原則を1945年に打ち 出し,イスラム教を国教とすることを排除 した。 7) 66年 5月 5日ス- ル ト中将は内閣幹部会議長としてラジオ ・テ レビ向け演説を行ない,そこで 「国民の 真の望みは,それ (45年憲法)の厳密な施行に復帰することであった。---くりかえしいうが45年憲法の 実施はたしかに1959年以降効力をえたとされながらも9月30日運動/共産党分子によって序曲か ら終曲ま で逸脱 していたのである。」とのべている。Pre∫idenzl'alOrder q/llMarch1966to General Suharlo (Jakarta:DepartmentofInformation,1966,・specialissue002/19661,pl14を見よ。
らず, その後 イス ラム勢力 はイス ラム教国家 の法制化を しば しば試みて きたが,65年以 降に も 軍 とイス ラム勢 力が共産主義勢 力打 倒で利害 が一致 した際, その勢 いにの って後者 が イス ラム 教 国家樹立 を再 び唱遺 したO これ に対 して軍部 は国論 の分裂を さけるた め,パ ンチ ャ ・シー ラ を打 ち出 して,66年 6月 の第四回暫定 国民協議会で イス ラム教国家否認 の線 で決着をつけた。8) そ して軍部 は 「パ ンチ ヤ ・シー ラ民主主義」 とい う語を創 りだ した。 これ は, スカル ノの 「指 導民主主義」 に代わ る語で,「民主主義」 とい う語を使 って 国民統合 を計 る点で もス カル ノと スハル ト執 政 は共通項 を もって い るので ある。 軍 はこう して治安維持 と国民統合 を めざ して軍 の政治介入 を正 当化 した。軍 はこれを軍 の二 重機能(dwifungsi)と称 して,政府 の要職 に軍 人を任命 した。 例 えば現役軍人が内閣閣僚 ポス トを 占める割合 をみ ると (表1), 1959年の指導民主主義体制下 の 第一 次実務 内閣 では45人中 12人 (27パ ーセ ン ト), また1964年 の ドウ ィコラ内閣では110人中36人 (33パーセ ン ト) と増加 してい るが, 65年以降ではこの比率が さ らに 増大 して い るのがわか る。9)また1960年の中央政 痢:省 の次官 クラス20人 中現役軍人 は1人のみで あったが,1971年 7月現在 では25省 中の次官中 13人 は現役軍人 に よって 占め られて い る。各省 で大 臣,次官以外 にも重要局長 クラスのポス ト 表1 インドネシア内閣閣僚中の現役軍人の占める割合 閣僚数 軍人数 (百分比) 1 1956-57 2 1957-59 3 1959-60 4 1960-62 5 1962-63 6 1963-64 7 1964-66 8 1966.3 9 1966-67 10 1967-68 11 1968 12 1971 13 1973 25 30 45 12 44 12 63 14 67 16 110 36 90 33 30 14 24 9 24 7 25 6 23 5 ( - ) ( - ) ( 27% ) ( 27 ) ( 22 ) ( 24 ) ( 33 ) ( 37 ) ( 47 ) ( 38 ) ( 29 ) ( 24 ) ( 22 )
出所 :Indonesia,DepartmentofInformation,Su∫unanKabz'net,RepubZikIndo・
ne∫ial945-1970(Jakarta:PradnyaParamita,1970),および 『月刊イン ド ネシア』(日本イン ドネシア協会),第306号 (1973年 5月),pp.1ト13.
8) Kepuzu∫an2M・A R.S・SidaugUmumheZVTh・1966(Jogja:U.P.Indonesia,1967),pp.94-97をみ
よ。
9) もっとも1973年 3月の第二次開発内閣では総閣僚ポス ト23のうち,軍人閣僚は5人である。この減少は 経済開発推進にはテクノクラー トにたよらざるをえないことをいっそう認識 したことによるものでろう。
しかし国防治安と内務のポス トは依然として軍人が占めている。 176
西原 :イン ドネシア 「新秩序」 とその政治的近代化 で軍人が 占めるケースは著 しく多いolO) しか しなが ら軍 自身が内部統一 を していたのでほ決 してなか った.空軍 が9
月
30日事件 に加 担 して いた ことは確実 であ った し,陸軍 内部 で も容共分子がいて9・30運動 に共鳴 したの も事実 であった。容共分子 を排除 した後 の陸軍 は反共 とい う点では一致 していて も新体制推進 のあ り 方 に関 して は,後述す るよ うに穏健派 と急 進派の対立や ジャワ系軍人 と非 ジャワ系軍人 の伝統 的摩擦な どもあ った. とはいえ65年か ら73年を概観す る限 り,軍部 の国家統一能力は充分 に証 明 された といえ よう。特 に政治的混乱 の永 くつづいた広大な多 島国で大 きな不祥事 もな く1971 年 に総選挙を断行 した行政能力 は高 くか って よいで あろ う。 Ⅲ 軍 部 の 国 家 目 棟 設 定 能 力 軍 部 は国家 目標 の設定 において もス カル ノ旧体制 に比 べて はるか に優れ た能力を もってい る ように思われ る. スカル ノは 「イ ン ドネ シア革命」 の推進を国家 目標の第一 にかかげ, その 目 標の中核を政治 的な もの,すなわ ち1957-58年におけるオ ラ ンダ企業 の国有 化,196ト62年の西 イ リア ン紛争,1963-65年 の対 マ レー シア紛争,1962年の新興 国競技大会 , 1965年の新興 国会 議提 唱な どにみ られ る 対外 的国威 の発揚 において いた。 「イ ン ドネ シア革命 の偉大 な指 導者」
とい う称号を 自己の任命 した議 員 による ゴ トン ・ロ ヨン国会か ら受 けてス カル ノは革命 の ロマ ンチ シズムに 自己陶酔 した。 これを側面か ら推進 したスバ ン ドリオ外相 はイ ン ドネ シア外交 を 「革命外交」 とさえ呼んだ。11)「イ ン ドネ シア革命」 とい う言葉 自体 あいまいな もので あるが, 45年憲法 で うたわれたパ ンチ ャ ・シー ラとイ ン ドネ シア社会主 義を実現す る努 力 と考えて よい であろ う。 スカル ノのカ リスマ的魅 力にひかれて 「イ ン ドネ シア革命」 は1945年以 降の重要 な イ ン ドネ シア政治用語 の一つ とな ってい る.軍部 は 「イ ン ドネ シア革命」 を国家 目標か ら退 け ることは避 けなが らも経済開発 と西側協調を掲げた。つ ま りイ ン ドネ シア革命 の経済 的側面を 強調す ることに よって国民の政治的興奮 をお さめ,経済復興 を通 して軍部 エ リー トへ の支持を とりつけることと したのであ る。 この 目標設定 は当を得 た ものであった。つ ま り一方 で旧体制か ら引き継がれ た 「45年憲法」
「パ ンチ ヤ ・シー ラ」
「イ ン ドネ シア革命」な どの政治 ス ロー ガ ンを内容 の不明確な まま掲げ る ことに よって国民的統一へ の シンボル と し,軍部が イ ン ドネ シア建 国精神の正 統な後継者 で あ ることを示す ジ ェスチ ュアと した。 そ して他方 では経済 開発 目標 を大 き く打 ち出す ことによっ 10) 例えば内務省では,1971年には,大臣以下地方自治局長,村落開発総局長,土地総局長,特別総局長, 国家イデオロギー局長,西イ リアン特別局長,広報部長,国家機関再編成班長は中将,少将,准将,大佐 級の陸軍系軍人があてられている。東南アジア調査全編 『インドネシア国軍人事のフォロー ・アップと人 事面より見た国軍の行政面-の進出状況 (1971年7月現在)』(東京,1971年7月),26ページをみよo ll) Subandrio,"RevolutionaryDiplomacy,"inhisIndone∫iaonzheM arch(Jakarta:DepartmentofForeignA鮎 irs,1963),γol.ⅠⅠ,pp.266-292をみよ。
て"政治 の季節"を り経済 の季節''にかえ,国民 にフ レッシュな イメー ジを与 えることに成功 し た。 それ は高度 の政治性 を もった脱政治化政策で あった。 さ らに軍部 は実権掌握 に対す る国民の支持, つ ま り権 力 の 正 当化を も大 きな国家 目標 と し た。65年10月以降66年 3月 までの陸軍 の初期 の軍事行動の根拠 は,同年10月 2日にスカル ノよ り出された治安秩序回復を指示 した大統 触指令で あった。 これを さ らに強固な もの とす るため 陸軍 は権限 の根拠 をスカル ノ大統領 の よ り明確な確認 によることを 目指 した。 これが66年 3月 11日に大統領 に署名 させた,治安確保権限譲渡令で あった。9月30日事件 に加担 した との疑惑 が濃 くな り,加えて経済疲弊 に対す る無策ぶ りが批判 されて,すで に落 ち 目にあったス カル ノ 大統領か らわ ざわ ざ権限を"譲 り受 ける"ことと した裏 には,軍部 と して その行動 に法的根拠を もつべ きだ とす る慎 重な考 え方 が あったか らで あった。12)この3月11日令 によ り強 い根拠 を与 え るた めス-ル ト中将 内閣幹部会議 長 (兼 国務 相,陸軍 司令官)は,66年 6月
2
1
日の第 四回暫 定 国民協議会総会 で3
月11日大統領令を国民協議会令 と して採択 させた。13)この措 置はス-ル トの権限の根拠 をスカル ノの権限か ら離脱 させ る試みで あった。 この協議会総会 は同年7月 5 日にス カル ノ終身大統領制を停止 す る決議 を した。 これ に よって ス カル ノの権威が決定 的に失 墜 したので ある。 ス-ル トはその後 自己の権限 の根拠を暫定国民協議会 に置き,67年3月 には 臨時総会 を開いて ス カル ノの大統 領 と して の権限を名 目のみ と し,実質的権限 は 自らに与えて 大統領代行 にな った。 ついで6
8
年3
月の第五回暫定国民協議会総会 で ス- ル トは正 式 に第二代 大統領 とな ったので ある。 しか しなが らこれ らの国民協議会 は暫定 国民協議会 で あ って代議員 はすべて軍事政権 に より 任命 されて いた。従 って スハル トは 自分 で任命 した議員か ら大統領 と して指名 され るとい う欺 隅的要素 を否 めなか った。 これを是正す る道 は 総 選 挙 を 実 施 す る以外 になか ったわ けで ある が,1955年以来実施 されていないため有権者 名簿の作成だけで も相 当の経費のかか る作業で あ った。 そのため軍部 は結局当初予定 の6
8
年7
月 を71
年7
月 に延期せ ざるを得な くな った。14)そ の延期期間中に軍部 は与党 と して の ゴル カル の組織化をすす め,7
1年総選挙 における与党の大 勝 によ り総選挙 による権 力の正 当化 とい う目標を見事 に達成 したので ある。 軍部 が設定 した国民経済生活の安定 とい う目標 もこの権 力を正 当化す る努 力の一環 と してみ ることがで きる。疲弊 した国民経済 の再建 には軍部指導者 が誠実な関心を もって いた ことは疑 いのない ところで あるが, この再建を通 して 自己の政治権 力へ の支持 を求 めた ことも事実で あ 12) 0・G・Roeder,Tu SmilingGeneral,Pre∫ide72tSoehartoofZndone∫ia(Jakarta=GunungAgung,1969),pp.47-52を参照。
13) Keputu∫an2M ・P・a.S.Sidang Umum keIV Th.1966,04.cz'7.,pp.13-14をみよ0
14) 総選挙を延期したのには財政的理由以外に,"経済の季節''に徹底し,経済安定の実効の上がったとこ ろで総選挙を実施 したほうが国民の支持が多 くなるだろうとの積極的見通しもあったようだ。と同時に軍 部としては選挙を行なう前に与党の組織強化のため時間をかせ ぐ必要があったことも選挙延期の理由の一 つであったろう。
西原 :インドネシア 「新秩序」とその政治的近代化 っ た。 経 済 の再 建 は米 の 緊 急 調 達 とい うご く初歩 的 な こ とか ら出発 せ ね ば な らな か った が,65 年10月 以 降 陸 軍 反 共 派 もス カル ノ
・
PX.
Ⅰ派 もそ の 抗 争 の過 程 で と もに海 外 か ら米 を 調 達 す る こ と に よ って 国 民 の支 持 を 集 めん と した の で あ った。15) 66年3月 ス カル ノ勢 力 を 打 倒 した軍 部 が 最 初 に と った 捨 置 は , 国 民 的 信 望 の厚 い ジ ョグ ジ ャ カル タ の サ ル タ ンで あ る- マ ン ク ・ブ オ ノ九 世 を 経 済 担 当 副 首 相 に起 用 した こ とで あ る。16)5 月 以 降 同 副 首 相 は早 速 経 済 使 節 団 を つ く って 日本 を訪 問 して ,3,000万 ドル , ヨー ロ ッパ 諸 国 か ら5,500万 ドル の援 助 を と りつ け た 。同 年 末 に は 西 側 の 債 権 国会 議(
I
GGI
)
が 発 足 し,イ ン ドネ シ ア の経 済 援 助 を組 織 化 して い った。67年 よ り7
1年 まで の5年 間 に年 ご と の援 助 は1
億8
千 万 ドル か ら6億3千 万 ドル に 増 加 した。17)こ う して 1966年 の 年 間 イ ン フ レ率 が 650パ ー セ ン トだ った の が 1970年 に は8.8パ ー セ ン トに 急 減 した018)ス - ル ト政 権 は さ らに67年 1月 に外 資 導 入 法 を 制 定 して 経 済 再 建 の刺 激 剤 と した。中
国 の影 響 下 に あ った ス カル ノ 旧体 制 内 で は 自力 更 生 (ブル デ ィカ リ) を 経 済 の 原 則 と し, 外 資 導 入 を極 力 抑 えて き た が , この 面 で も大 転 換 した わ け で あ る。68年3月 の第 五 回 暫 定 国 民 協 議 会 は 「開 発 内 閣 を組 織 し経 済 五 が 手計 画 を 作 成 す る よ う」
決議 した 。 この 内 閣 は 同 年7月 に発 足 し経 済 学者 を 主 要 経 済 ポ ス トに つ けて 五 力年 計 画 を69年4月 か ら出発 させ た の で あ る。 軍 部 が い わ ゆ る テ ク ノ ク ラー トを 起 用 して 経 済 問 題 と取 り組 ませ た の は成 功 で あ った . ス カル ノ時 代 の経 済 計 画 は元 来 テ ク ノ ク ラー トの 作 った もの で な く,む しろ政 治 色 の 強 い もの で あ って ,そ れ らの計 画 はす べ て 破 綻 に終 わ った。 例 え ば 1961-68年 に わ た る8カ年 計 画 は 政 治 的 配 慮 に も とづ い て 選 ば れ た 委 員会 が 作 成 に あ た った。 そ の 莫 大 な 計 画 書 は8部17巻1945節 か らな る もの で この数 字 は イ ン ドネ シ ア人 の好 きな 独 立 宣 言 日の 1945年8月17日に ちな ませ た もの で あ る。 内 容 は も ち ろ ん 充 実 性 を 欠 い て い た。 これ に比 して ス - ル ト政 権 下 の経 済 計 画 は ア メ リカ の大 学 で 経 済 博 士 号 を 取 得 した 若 手 の 学者 た ち を 集 めて 立 案 され た もの で,19)農 業 増 産 (主 と して 米 産 ) を 主 眼 点 と しそ の た め の通 信 , 道 路 な どの イ 15) 『朝 日新聞』1965年10月15日朝刊。 同年11月には, 日本の外務省 は 「純粋に人道的立場か ら」食料, 衣料の援助を行 な うことを決めたが,これが実現 したのは,翌年の3月末の閣議を経た後であった。すな わ ち,1966年3月29日に米1万 トンおよび綿約5,000梱 (併せて約250万 ドル相当)の緊急援助の決定を行 な った。『朝 日新聞』1965年11月2日朝刊および66年3月29日夕刊をみよ。 16) ジ ョブジャカル タのサル タンは 現在憲法上の地位はないが ジャワ社会では伝統的に尊敬を享受 してい る。従 ってかかる人物を困難の時期 にあって起用す ることはそれな りの政治的計算があった とみてよい。 -マ ンク ・ブオノ九世は対 オ ランダ独立戦でみせた勇気が伝説的に語 りったえ られてお り,49年以降国防 相をつ とめた こともある。 ス-ル トとともにジャワ人であ り,独立戦争に二人はと もに戦 った とされている。 SinarHaraPan,March23,1973,および 「ス-ル ト・スル タン秘話」『月刊イ ン ドネ シア』第306号
(1973年5月), pp.14-15をみよ。後に1973年3月-マ ンク ・プオノ九世は副大統領に指名 された。
17) 通商産業省貿易振興局 『経済協力の現状 と問題点
1
9
72』(東京,通商産業調査会,1973年刊),p・338を みよ。18) PidatoKencgaraanPrc∫idenRePubZih Zndone∫iaDjendraZSoeharlodidePan Sidang DPR-GR 16 Agu∫tu∫1971(Jakarta:DepartmenPenerangan,1971,Iseriamanatno.50),p.95をみよ。
19) これ らのテクノクラー トは 「バー クレイ ・マフィア」 と皮 肉 られ て い る。 この語はDavidRansom,
"TheBerkeleyMa危aandthelndonesianMassacre,"RamParZs,October1970,pp.28-29,40-49の論文に 由来 してい る。
ンフラス トラクチ ュアの充実 をね らい と した もので ある。従 って新体制 が経済 開発重点主義を とるにあた って,それ を推進で きる政策立案 エ リー トを軍部が起用 した ことは軍部 に 目標設定 能 力の充分 にあることを示す証 とな る。
Ⅳ
経 済 計 画 と 運 営 組 織 経済政策立案 エ リー トが計画を練 りあげて もそれを遂行 す る組織 がな ければ意味がない. イ ン ドネ シアの場合,その中心組織 が国家開発企画庁(
BAPPENAS)
で大統領府 に属す る。 これ を調整 して機能す る主要 中央官庁 と して は大蔵省, 貿易省, 工業省, 農業省, 建設省,労働 省, 鉱 山省 , 移住省な どが あ り, 大統領府 にはこのほか, 米 の増産計画をつか さどる食糧庁(
BULOG)
や外国投資 を認可す る投資調整庁が ある。 また独立機 関 と して はイ ン ドネシア銀行 が ある。 これ らのポス トのほ とん どは欧米で学んだ経済学者 が 占めて きた。特 に開発企画庁の 長官や副長官,大蔵大 臣,貿易大 臣,投資調整庁長官の地位 にあるウ イジ ョヨ,E ・サ リム,A
・ワル ダナ, ス ミ トロ,M
・サ ドリらはすべて イ ン ドネ シア大学経済学部教授で もある。彼 らのな した経済政策 について種 々の評価があるが, とにもか くにもス カル ノ時代の絶望的な イ ンフ レが停止 し,通貨 が安定 した ことはこれ らテ クノクラー トの貢按 とい うべ きで ある。 イ ン ドネシアの実質国民総生産の年平均成長率 は1960-70年 には 4.7パーセ ン トで あ ったが,1970 年,71年,72年 にはそれぞれ 6.3,6.9,7.0パ ーセ ン トと増加 した とされてい る。 そ して これ に人 口増加率3.1パーセ ン トを考慮 して も-一人 当 りの実質国民総生産伸 び率 は3.2ない し 3.9パ ーセ ン トと考 え られ る。20)ともあれ経済 が 向上 してい ることは,筆者 の1970-72年の ジ ャカル タ滞在 中に も,首都 に関す る限 り観察で きた。 問題 は トップ クラスでな された政策決定が どの程度実際 に遂行 され るか にあるが, イ ン ドネ シアの場合 決 して 円滑 に運営 されてい るとは言 えない ようで ある。 その原 因 と して は,有能な 中堅 クラスの役人がいない こと,経済学者 は経済知識 には豊富で も組織 を動かす統率力にもす ぐれてい るとは限 らない こと,各 部局の責任体制が不明確 で あること,長官や大 臣個人 に行政 責任がかか りす ぎ,下 部 ライ ンや スタ ッフに分 担 されていない こと,な どが しば しば指摘 され て きた。 イ ン ドネシア文化の-特徴で ある父権 的権威主義が随所 に頭 を出 し,下部 レベル-の 責任分担 の障害 にな ってい るので ある。政策立案担 当者や経済学者 は,卓 上電子計算機を用い て数字を ひね りまわ して経済予測 をすれば彼 ら白身の威厳をそ こな うと考 えてい るようで もあ る。21)また部局 内の 要職 にあるものの汚職, 収賄 がたえず, これ も行政上の 効率を妨げて い 20) ECAFE,Th Preh.minaryDraftoftheEconomicSurveyofA∫3'aandtheFarEd∫t,1972,PartI,p.31andp.34・をみよ。
21) この観察はたとえば開発企画庁顧問をした 日本の-経済学者 もするところである。 飯田経夫 「体験的 技術援助論-インドネシアにおける-ケース」『経済評論』1973年6月臨時増刊,pp.9-17および 「途上 国問題への体制整備を急げ」『日本経済新聞』1973年6月 3日朝刊を参照。
西原 :イ ン ドネシア 「新秩序」 とその政治的近代化 る。 これ らは筆者 も同国滞在 中 しば しば体験 した。 さ らに行 政 上 の非 能率 は,要職 に適材 で な い軍 人 が ついて い るこ とに もあ る。 次 官,局長 ク ラスの ポス トに軍 人 が多数 ついて い る ことは す で に述 べ たが,不適材軍 人 の好 例 は食 糧 庁 で あろ う。 この庁 がで きたの は1967年で主要物 品 9品 目の価格安定 ,供 給調 整 を主務 と して い る。1970年庁長 官 に陸軍軍 人 が任命 され た。 この 庁 の もとに1968年か らいわ ゆ る ビマ ス計 画 (米 作増産計 画 ) が遂行 され たが,1970年5月突 如 計 画 が中止 され た。 中止 の理 由は一 般 には説明 され なか った が,計 画 が予期 した よ うな成 果 を 上げ なか った こ とが主 原 因 ら しい。 この ビマ ス計 画 は同年末 「新 ビマ ス計
画
」 と して再 出発 し たが これ とて その成 功 の ほ どは疑 わ しい。 ついで1972年 には異 常 な干 ばつ がつづ いて米 の凶作 がお きた が,庁 が充分 な米 の貯蔵 対 策 を講 じて い なか った ことが問題 を深 刻 化 させ た。 これ に 汚職 問題 も絡 ん で つい には食 糧庁長 官 の更 迭 とな ったので あ る。22) 経 済 問題 に関す るい ま一 つ の難 問 は外 国政府 か らの援 助や外 国民 間投資 な どの非 民族 資 本 の 取扱 いで あ る。 イ ン ドネ シアの軍 部 エ リー トは 自国 の経済再 建 は外 国の援 助 と投 資 に よ るほか はな い と して積 極 的 に これ らを歓 迎 して きた が,外 国資 本 の流入 は必 然 的 に種 々の問題 を惹 き 起 こ して い る。 外 国政府 の援 助約 束 (コ ミッ トメ ン ト) が イ ン ドネ シア政 府側 の受入 れ体制 が で きて いないた め,約3
割 しか実 際 には供 与 されて いな い とい う。23)多額 の外資 流入 は弱体 経 済 を い っそ う弱体 化 させ, イ ン ドネ シア経済 が外 国資 本 の支 配 下 におか れ る不安 を増大 させ る。 これ が た め外資 を規 制す る必 要 があ るが, はた して イ ン ドネ シアの エ リー トに これを規制 す る こ とがで きるのか ど うか 疑 わ しい。規 制す るた め には規制 した際 の不足 の資 本 を国 内の資 本 蓄積 で充 たす こ とがで きね ばな らぬが それ が可能 で あろ うか。 イ ン ドネ シア民 間企業 は外 国資 本 との合 併方 式 を多 く採 用 して い るが,前者 の 出資 は実 際 には後者 か らの融資 に よ って い る こ とが多 い。他方 外 国民間投 資 は イ ン ドネ シアの経済 目標 に合 致 させ るべ く規 制 されて い るだ ろ うか。1967年1月か ら72年末 まで の 外 国民 間投資 額 は約2,297百万 ドルで, これ を業種別 にみ ると上二 位 は鉱 業 の1,000百 万 ドル と, 森林 開発 の460百万 ドル とな って い る。24)いずれ もイ ン ドネ シアの産 業 振興 よ り当該投資 国- の 原料輸 出が 目標 とな って い る。 繊 維, 食 料 品, 製薬 品,電 気機 器, 自動車 な どの生産 は国 内 消費 (輸入 代 替) と輸 出振 興 が 目的 とな って い るが, これ ら軽工業 部 門の投 資 額578百万 ドル の大半 お よび商業 , ホ テルへ の投 資 額104百万 ドル の ほ とん どが首都 ジ ャカル タ周辺 に投入 され て い る事実 は, これ らの投資 が全 人 口1億2千 万 の80 パ ー セ ン トを 占め る農 民 の生 活 にはほ とん ど役 に立 って いない といえ よ う。 電気 冷蔵庫 や扇風 機 は電 力の弱 い地 域や配 電 の お よんで い な い地域 で は全 く無用 の長物 で あ る。 また これ らを購■ 22) イン ドネシアの米の増産計画については例えば,本間武 「イン ドネシア農業開発の新転機」『東南アジ ア研究』10巻3号 (1972年12月),pp.451-465を参照。 23) 『日本経済新聞』 1973年5月1日夕刊。 この報道によると多国間援助の場合供与国の援助手続が異な っているためイン ドネシア側の援助受入れ事務が煩雑になり,イン ドネシア政府は二国間協定を好んでい るようである。 24) 『月刊イン ドネシア』第307号 (1973年6月),pp.9-10をみよ。 181入 す る財力を もつ者 も大都市以外で は極 めて少 ない。25)合 弁企業の製薬会社 が販売す る精力剤 は食料難の国民 には全 く関心外で あろ う。 これ と関連 して微妙 な問題を起 こ して いるのが華商系資本で ある。いわ ゆる華南系の屠住民 が牛耳 る商業資本は驚異的で あ り,1967年 に内密 に大統領 に報告 された といわれ る,華商状況 を扱 った 「スナル ソ報告」では, これ ら華商系住民が全商 品の60パ-セ ン ト,繊 維工業の75パ ーセ ン ト, 海上輸送業 の70パーセ ン トを支配 して い るとされた.26)わずか 300万人 の華商が 1 億 2千万人の イ ン ドネ シア社会 の経済 を握 って い るのはお どろ くべ きことで ある。 これ ら華商 は多 くが イ ン ドネ シア人 と して帰化 して いるとはいえ,27)過去の迫害の再来を恐れて商業資本 にのみ投 資 して,国外 に資本を蓄積す る傾向が ある。 また 自己の保身術 と して軍 の上層部 に物 品を貢 ごうとす る. こうして軍首脳部 と 華南 の 「汚 ない関係」 が既 に存在す るといわれて い る。28)政府官庁 よ り種 々の許可証 (自動車の運転免許か ら物 品輸入許可証 にいた るあ らゆる許 可 ・免許 もの)を うけ るのに華商系が他 の イ ン ドネ シア人 よりも多 くの賄賂 をだ して いる事実 を筆者 もよ く彼地 で見か けた。 これ も華商が 自分 たちの 「二流市民」 としての立場 をみ とめて それを貢物 で補完す る保身術で あ る。二流市 民的立場 にあ りなが ら,華商の もつす ぐれた実業 力を外国資本は高 く買 い,合併事業のパ- トナー と して組 む傾向にある. これが資金不足 に悩 む イ ン ドネ シア人実業人の不満の種 とな って い る。経済政策が立案 されて もその実施 にあた っ て華商資本の規制 をあいまいに してい るため,多 くの問題 に直面 してい るので ある。
Ⅴ
一般 的 コンセ ンサス と競合 的政治集 団 イ ン ドネ シア軍部 が,国の進むべ き遺 お よび政策の優先順位 についての国民的合意が国民の -llか ら自然 に形成 されて くるのを待つのではな く,積極的 に上か ら強制 して きた点 はすで に述 べた。 まず共産主義活動を 徹底的 に排除 し, 次 いで他 の イデオ ロギー主導の 政党活動を批判 し,パ ンチ ャ ・シー ラと45年憲法 の下での開発主導 の政策を進 めるとの コンセ ンサスをつ くら ん と して きたので ある。 しか しなが ら問題 は この コンセ ンサス押 しつ け戦 略のた めに,軍部主 流 エ リー ト (す ぐ後 にのべ るス-ル トらの穏健 派) と競合 で きる政治 集団が芽生 えないでい る 点 にある。 この点をみ るのに 1971年の総選挙戦 を「LI心 と して (1)軍部 と既成政党 の関係, (2) 25) インドネシア全国の テレビ台数は約19万でその中 13万台がジャカルタ周辺にあるとされている。 1台 は市販で約 15万ルピア, 1人当り年間国民所得は約 4万 8千ルピア (約 100米 ドル)である。
『月刊イン ドネシア』第303号 (1973年 2月),p.17をみよ。 26) 『朝日新聞』1968年 1月 5日朝刊。 ● 27) 最新の資料ではインドネシアに居住 し,インドネシアに帰化した華商は約200万人,帰化していない華 商は約101万人。このうち中国 (北京)系が87万人,無国籍が14万人,台湾系は66人とされている。『月刊 インドネシア』第302号 (1973年 1月),p.3をみよ。 28) この点をついた ジャカルタの-新聞 『ヌサンタラ』紙の編集長は対ス-ル ト名誉崇損罪で禁鏑刑一年 を宣告されたほどである。Alan A・Samson,"Indonesia1972lThe Soll idはcation ofMilitaryControl,"A∫ianSurvey,XIII(February1973),p.129,footnote2をみよ。 182
西原 :イ ン ドネ シア 「新秩序」 とその政治的近代化 軍部 内の穏健派 と急進派の関係,(3)軍部 とゴル カルの関係, の三点 に注 目 してみ よう。 (1)軍部 と既成政党 軍部 は1966年以 降総選挙実施を考え るにあた り,国民党
(
PNI
)
反共派や ナ-ダ トール ウラマ(
NU)
との接近を一時考 えた ようで ある。29)特 に旧マ シュ ミ政党指導者 や イス ラム改革派の グ ル ープが結党の動 きをみせ た ときは,彼 らの伝統的 な反共姿勢 を大 いに買 って1968年 2月 には ス-ル ト大統領代行令で イ ン ドネシア ・モス レム党(
PMI
)
の結成をみ とめた ぐらいで あ る。 そ して国会が選挙法を討議 した際には これ ら政党 は政府案 (小選挙 区制を骨子 と した もの) に強 硬 に反対 した。 この国会討論 をみ る限 りでは,政府与党 と他 の9政党 は,総選挙施行 とい う目 的では一致 して いてその実施方法 においてのみ見解 を異 に していたので あ った.そ して両者 は む しろ健全 な競合 関係 にあるか にみえた。前 述のど と く政府側 は野党側の反抗 に譲歩 して,小 選挙 区制を撒回 し,任命議員数 (結局 は政府の任命 とな る公算 が大 きか った し,事実 そ うな っ た)を増加 させ ることと引換 えに従来 の比例代表制 を復活 させ た。 そ して69年末 にや っと野党 側 の同意を得て総選挙法 を国会 で通過 させ ることがで きたので ある。 しか し選挙法 が成立す ると, この競合 関係 は次第 に姿 を消す ことにな る。軍部 はいろいろな 手段 で既成政党 の弱体化を計 った。先 ず1970年の 1年間 にPNI
やPMI
の執行部 が軍部の圧 力で よ り強い軍部支持派にかわ って しま った。1970年 4月 のPNI
全 国大会 では軍部の政治的 役割 に批判的な従来 の委員長ハルデ イが大方 の予想 を裏切 って散 れ,第五副委員長の-デ ィス ベ ノが新委 員長 に選 ばれた。PMI
は同年10月 に執行部が分 裂 し 結局党幹 部 に入 っていなか っ た ミンタ レジ ャが大統領のあ っせ んで新委員長 にお さま ったので ある。そのため新委 員長 は選 挙運 動 中を通 じて 自己の忠誠 を党 よ りも大統領 に表明す る有様 で あ った。NU
は これ らの外圧 を さけるため同年12月 に計画 していた党大会 を延期 して しま ったのである。 これ らの裏 に大統 領府 の特別政治工作班の策略があ った とい うのは公然の秘密の どと くうわ さされている。1971 年は じめには,前 述の どと く,軍部 は65年以 降PKI
掃討 にあた っていた治安秩序回復作戦 司 令部 (1970-71年 の 司令官 は 国軍 副 司令官のパ ンガベ ア ン陸軍大将 が兼務 )を通 して 71年国会 総選挙の議 員候補者 の資格審査 を行 な った。 これ は共産主義者 や スマ トラ, ス ラウェシでの地 方 反乱者 を排除す るとい う意味で候補資格者 に関す る一般 的 コンセ ンサスを創 出す るの には有 効 な措 置であ ったが,他方 この措 置を通 して これ らの基準 に該当 しな くて も,既成政党 の有力 候補者 をそ う した名 目で失格 させ,政党 の弱体化をほか る手段 に も使われた ようである。少 な くと も主要政党 のPNI
,NU
お よびPMI
はス-ル ト政権 を この点で批難 した。 資格審査 は 二段 階に分 かれて行 なわれたが, これを通 じてPNI
の候補者 は669人か ら505人 に,NU
は415 29) この節に関するより詳細な検討については拙著,GoZkarandThe/ndone∫l'anEZectio7iSOf1971(IthaCa,NewYork:ModernIndonesiaProject,CornellUniversity,1972)をみよ。
人か ら
3
9
7
人 に,PMI
は4
5
8
人か ら3
2
7
人 に減 らされた。 これ に対 して政府与党 た るゴル カル は5
4
9
人か ら5
3
8
人 に減 ったのみで あ った。30) 選挙戦が は じまると軍部の対政党弱体化工作 はい っそ うきび しくな った。選挙演説会場 の場 所, ポスターの内容, ラジオ演説 の原稿 はあ らか じめ 当 局 に 届 け ね ばな らない ことにな った し,地方 においては予定 していた党の演説会場- の道や橋 が大会直前 にふ さがれて しま うとい ういやが らせ も受 けた。 また旧マ シュ ミ党指導者 はPMI
の精神的大 黒柱で あ ったが,選挙運 動 に加わ ることは内務省令 で禁ぜ られた。NU
の委員長の秘書 は共産党 とつなが りがあ った と い うか どで逮捕 され,中部 ジャワで所属不明の武器が発見 されたためPNI
の指導者 の家が衣 宅捜査 を うけるとい う事件 もお きたので ある。 ラジオ演説 は事前検 閲があ ったため, どの党の 演説 もそろ って スハル ト大統領を支持,経済 開発支持,パ ンチ ヤ ・シー ラと4
5
年憲法擁護を表 明 していて党問の政策上の実質的論議 はつい にな され ることはなか った。31) 軍 部 はまた政治安定 のため9政党 (ゴル カルを除 く)を再整理 して政党 の数を減 らす必要 が あることを1
9
6
6
年か ら唱えていたが,1
9
7
1
年 のは じめか らは ことにこの点 に言及 しだ した。政 党 によって は選挙後解散を命ぜ られ ることを危慎す るほ どで,その為選挙戦 における野党の関 心 は議 席数 を どれだけ とるか とい うことよ りも, どれだけ長 く党 と して生 きのび ることがで き るか とい う点で あ った。つ ま り1
9
6
9
年 までは野党が政府勢 力 (軍部 とゴル カル) と一応 の競合 関係 にあ ったが,その後 その関係 は姿を消 して しま った。71年の選挙 の結果,3
5
1
の公選議 席 中主要政党 の議 席は,PNI
が2
0
議 席(
5.
6
パーセ ン ト),NU
が5
8
議 席(
1
6.
5
パーセ ン ト),PMI
が2
4
議 席(
6.
8
パ ーセ ン ト)で,1
9
5
5
年 の選挙の計2
5
7
議席での 議席 占有率 に比べてそれ ぞれ1
6.
5
パーセ ン ト,1
.
5
パーセ ン ト,1
5.
3
パーセ ン ト減 少 してい る.32) 総選挙後 ゴル カルを除 く9政党 は政府側か ら くる合併再 編成の圧 力 に屈 して71
年1
0
月末 には 2大政治 グループ,す なわ ち四つの イスラム系政党 による 「開発統一 グループ」 と五つの非 イ ス ラム系政党 による 「開発民主 グループ」に まとめ られて しま った。 そ して7
3
年初 めには これ が二大政党 にな って しま ったので ある。 この各政党の名の前 に 「開発」 とい う語 をつ けたの も 軍部か らの指示 による もので ある。 これ によって も政党 の立場 が非常 に弱い もの にな って しま った ことが よ くわか る。 そ して これ ら政党 は長年の懸案で あ った副大統領の選 出では,軍部 と ゴル カル がハマ ンク ・ブオノ九世 を推す と, あ っけな く支持 を表明 したのである。 (2)軍部 内の穏健派 と急進派 イ ン ドネ シア国軍 の中心 は 陸軍 で ある。 国軍 の総兵力は 最新の資料では3
1
万7
千人 といわ 30) Zbtd.,TableIIをみよ。3
1
)
各政党のラジオ演説の原稿全文はAntaraWartaBeritaの1
9
7
1年4
月2
9
日から5
月7
日に掲載されて い る。3
2
) 1
9
5
5
年の選出議席はPNIが5
7
議席,NtJが4
8
議席,PMIの前身マシュミ党は5
7
議席であった。西原 :イ ン ドネ シア 「新秩序」 とその政治的近代此 れ, その うち陸軍 の兵 力は
2
5
万人で ある。33)他 国の軍 事組織 に しば しばみ られ るどと く, イ ン ドネ シアの軍部 も1945年の創設以来 多 くの 内部対立や 派閥抗争 を繰 り返 して きた。 その派閥行 動 の基盤 には出身師団,軍 事訓練 の タイプ,種族,血縁 ,性 格 な どか ら来 る対立 が絡 み あ って 簡単 に軍 部 内の派閥 関係 を説明す ることはで きないが,34) 9・30事件以後 の動 きをみ る際 には, ス カル ノ派 と反 ス カル ノ派 との抗 争にあ って後者 が指導権 を握 った過程 と,後者 の反 ス カル ノ 派の穏健 派 と急進 派の緊張 関係 にあ って穏健 派が実 権 を に ぎった過程 の二 つ に注 目す る ことが 肝 要 で あろ う。 ス カル ノ派 と反 スカル ノ派 の抗争 は1967年 まで続 いたが9・30事件以後1966年 3月 までの 5カ 月余 りが もっと も職 烈で あ った。 この期 間 中にス-ル ト, ナス チオ ンらの陸軍反共 派を申心 と す る反 ス カル ノ派が軍 部 内の ス カル ノ派,容共 派,共産党 員 らを粛清 してい った。 こ∽過程 に つ いてはすで に多 くの文献 がでて い るので, ここで は省 略す る。35)この過程 が イ ン ドネ シアの 経済 開発 を重視す る反 ス カル ノ派 エ リー トの台頭 を もた らしたわ けで あ るが, この開発 派軍部 エ リー トとい うべ き勢 力はス カル ノ ・共産党打倒,経済再建重視 とい う 「新秩序」
建設 の 目標 で は一致 して いて も, 「新秩 序」
確ltT.の手 段 に関 しては意 見を異 に した, いわ ゆ る急 進派 (こ れ は相対 的表 現 で あ って陸軍 反共 派 とい う枠 内にお け る急進派で あるので実 際 には早期 改革派 とい った程度 の もの)は, ス カル ノの大 紋飯 と しての地 位 を名実 と もに即刻剥奪 しス カル ノ勢 力 と対 決す ることを主張 したの に対 し, ス-ル トを中
心 とす る穏健 派 はス カル ノ勢 力 との直接 的対 決を避 け る道 をえ らぴ, 68年 3月 まで ス カル ノを大統領 と して祭 り上げ た。36)急進 派 はま た小 選挙 区制 を実施 して二大政治 グル ー ブ制をつ くることを進言 したが穏健 派 は イ ン ドネ シア 型 の民 主主 義 (別 名 「パ ンチ ヤ ・シー ラ民主主義」)は単純過半数で決 め る0
)で な く, もっと 33) InstituteforStrategicStudies,TheMilitaryBalance1972-73,p.49.内訳は陸軍のほか,海軍 3万 4千,空軍 3万 3千で, この他準軍隊として警察軍 2万人,民兵10万人がいる。
34) イン ドネシア軍部の派閥に関する数少ない研究の中での好論文はAnn Gregory,``DimensionsofFac -tionalism in the ∫ndonesian Military,H a paperread atthe American PoliticalS(、ience Association meeting,September1970.
35) これに関する代表的著書に次のようなものがある。 すなわち,9・30事件を軍部内の対立が主原因であ るとするBenedictR.AndersonandRuthT,McVey,A PreZimz-MaryAnd/y∫Z■∫oftheOctober1,1965,Co年少 inZndone∫2'a(Ithaca,New York:Modern IndonesiaProject,CornellUniversity,1971)。 これとは対照的 に9・30事件は,共産党が北京の支援をえて計画したとするArnoldC.Brackman,TAGCommuni∫tCaZZa_t,∫e
in/ndone∫i〃(New York=W.W .Norton良 Company,Inc.,1969)。後者の立場に近いが,前者の立場 も配
慮するJohnHughes,/ndonc∫ianUjbheavaZ(New York:DavidMcKayCompany,Inc・,19671いずれにし ろ史実的解明に疑点が多 く9・30事件の決定的分析は当分の間不可能であろう。 これら文献を検討 したもの としては,例えばJusufM.vanderKroef,"Interpretationsofthe1965Indonesian Coup:A Review oftheLiterature,"PaciGcAgair∫,Vol.43(Winter1970-71),pp・557-577を参照.
36) 穏健派とはいえ,スカルノ勢力には1965-66年には武力であたったし,また政党の反政府演説には強力 な圧迫を加えている。すなわち政治改革には漸進主義であるが,その漸進主義を貫徹するために強硬手段 をとるOこの両派の抗争については,例えば,HerbertFeith,"Suharto'sSearchforaPo一iticalFormat,"
多い支持 を受 け る多数 決 に もとづ くべ きで あ る と主張 して急進派の進言 を退 けた。37)しか しな が ら急進派 の リーダーで あ る西部 ジ ャワの シ リワ ンギ師団 (陸軍 )司令官 のダル ソノ中将 は, 1969年 1月 にな って 自分 の管轄 内の酉 ジャワ州 の地方議会 で二 大政治 グル-プ制 を実施す るよ う指示 した。 この場合 の二大政治 グル- プ とは ゴル カルを政府 グループ と し,残 りの政党 を一 丸 と して批判 グル-プ とす る もので あ った。 しか し穏健主 義の ス- ル ト派 は これ を不満 と し, 同年4月 ダル ソノ中将 を駐 タイ大使 に任命 し,5月 には政 府 は二大政治 グループ制で はな くゴ ル カル と二 つの政党 グル-プか らな る三大政治 グループ制 を考 えて い ると表明 した.38)急進派 のいま一 人 の リー ダーで あ った戦 略予備
軍 (
KOSTRAD)
司令官 ケマル ・イ ドリスL国守は, そ れ に先立つ 同年2月 に東部 イ ン ドネ シア地 域 防衛 司令官 に任命 されて しま った。 もう一 人 の急 進派 リー ダーで あ った陸軍 降下部 隊司令 官のサル ウ ォ ・エデ ィは68年7月酉 イ リア ン軍 管 区司 令官 に転任 させ られた。 いずれ も首都 ジ ャカル タの政治決定過程か らはず されたわ けで,政治 的左遷 だ とされてい る。39) 軍 部の穏健 派 と急進 派の派閥背景 は決 して明確で はないが概略的 に示せ ば,前者 が ジ ャワ種 族 で シ リワ ンギ師団 (西 ジ ャワ) かデ ィポネ ゴロ師団 (中部 ジ ャワ) 出身者 が多 く, また第二 次大戦E叫 こ日本軍 の訓練 を受 けた者 (いわ ゆ るPETA
出身) がほ とん どで, それ にイス ラム 教徒 でかつ反共主義者 で あ るとい うことがで きよう。後者 は シ リワ ンギ師団 出身者 で西 欧的合 理主 義思考 を持 つ者 が多 い といわれ る. この穏健 派がIIlJL、とな って1969年以 降の総選挙対策を 練 ったわ けで あ るが,直接責 任を担 った とみ られ る人物 は,大紋餌府 ,総選挙庁 , 内務 省,情 報省,国防治安省,検 察庁, 国軍 首脳部 ,治安秩序回復作戦 司令部 , ゴル カル首脳部 らの もの で あ った。 これ らにつ いて 出身師
団 お よび種族別 にみたの が表2で あ る。 これ に よ って もわか るように,第1に,総 選挙 に関係 した中枢 ポス トが軍人で あ る点で イ ン ドネ シアの軍人政権 と しての特色 を遺憾 な く示 して い る。第 2に, これ らの計24ポス トの うち, 7ポス トは兼務 され て い るの も特徴的で あ る。 これ は煩雑 な行政 ,政治組織 を限 られた指導者 が兼務 す ることに よ って統治 機能 の 円滑化 を計 ってい るとみて よい。第 3に,17人 の軍部指導者 中,14人 までが陸 軍 出身で あ ること,そ して この14人 中, 出身 師団別 で は シ リワ ンギ系 4人,デ ィポネ ゴロ系 4 人, ブ ラウ イジ ャヤ系3
人 と一応 の均衡 はあ るが, 種族 的 にみ ると, ジ ャワ系 (中部 お よび 37) 「政治グループ」(GolonganPolitik)と称 して 「政党」(PartaiPolitik)とよばない点に留意すべきであ る。「新秩序」下では政党はイデオロギーを主張 し開発といった具体的政策に関心がな く, 従って軍部に は受け入れがたいものとされてきた。 このことから 「二大政党制」ではな く 「二大政治グループ制」とい う用語を用いたのである。 38) KomPas,May28,1969. 39) ダルソノ中将は駐 タイ大使から駐カンボジア大使になり, 1973年 1月下旬ベ トナム休戦に付帯 して設 立された国際管理監視委員会(ICCS)のイン ドネシア ・チームの司令官となったO『朝日新聞』1973年 1月 24日朝刊をみよ。イ ドリス中将は71年 7月末ダルソノの後任としてバンコクに赴任し,後に駐ユーゴ大使 に転出した。 186西原 :インドネシア 「新秩序」とその政治的近代化 表 2 1971年総選挙施 行に参画 した とみ られ る主要 ポス ト,軍人名,出身師団,帰属種族* ポ ス ト 1.行政府 大統領 大統領私設補佐官 国家書記局長 国家情報調革局長 内閣書記局長 内務大臣 地方 自治局長 情報大臣 2.総選挙庁 長官 兵端部長 3.司法府 検事総長 4.国軍 最高司令官 副司令官 陸軍参謀長 海軍参謀長 空軍参謀長 5.国防治安省 大臣 人事社会機能担当参謀長 参謀部情報局長 6.治安秩序回復作戦司令部 司令官 副司令官 諜報 7.ゴル カル首脳部 総議長 総選挙対策本部顧問 軍 人 名 出身師団 種 族 スハル ト陸大将** ア リ・ムル トポ陸准将 ア ラム シャ陸少将 ス トポ ・ユウ ォノ陸少将 スダルモノ陸准将 ア ミル ・マ-ム ッ ド陸中将 プ リヨスダルモ陸少将 ブデイアル ジ ョ空 中将 ア ミル ・マ-ム ッ ド陸 中将 (兼務) ア リ・ムル トポ陸准将 (兼務) スギ ・アル ド陸中将 ス-ル ト大統領(兼務) パ ンガベアン陸大将 ウイ ラ-デ ィクスマ陸大将 ス ドモ海 中将 スケ ンダル空中将 ス-ル ト大統領(兼務) ダルヤ トモ陸中将 ヨガ ・スガマ陸少将 パ ンガベアン陸大将(兼務) ス ミトロ陸中将 ヨガ ・スガマ陸少将 (兼務) S・スコワテ ィ陸中将 ア リ ・ムル トボ陸准将 (兼務) デ ィポネゴロ デ ィポネゴロ TT/ⅠⅠ(スマ トラ) シ リワンギ ブラウ ィジ ャヤ シ リワンギ TT/VI ジ ャワ人 ジ ャワ人 スマ トラ人 ジ ャワ人 ジ ャワ人 スンダ人 ジ ャワ人 ジャワ人 シ リワンギ ジ ャワ人 TT/ⅠⅠ(スマ トラ) バ タ ック人 シ リワンギ スンダ人 ジャワ人 ジ ャワ人 デ ィポネゴロ ジャワ人 デ ィポネゴロ ジャワ人 ブラウィジャヤ ジ ャワ人 ブラウ ィジャヤ ジャワ人 注 *このポス トの選択は,筆者が1970.5月-1972.3月 の期間イ ン ドネ シアに滞在 した ときに新聞報道を 中心に したいわば個人的観察を もとに した ものであ って,暫定的な ものである。出身師団 と種族に 関す るデー タは コ-ネル大学の /ndonej7'aの1967年4月号,67年10月号,および69年4月号 および イ ン ドネ シア入学者 との私信による確認 によった。 **階級は1971年7月現在による。 東 部 ジ ャ ワの 種 族 ) 軍 人 が10人 で あ るの に比 して ス ンダ系 (酉 ジ ャ ワの 種 族 ) 軍 人 は2人 とい う具合 に ジ ャ ワ人 が圧 倒 的 勢 力 を 占 め て い る。 穏 健 派 は こ う して イ ン ドネ シ ア の 政 治 的 伝統 で あ る ジ ャ ワ人 支 配 の原 則 を 具 現 す る形 とな った。 す な わ ち軍 部 内 で一 時 は穏 健 派 と急 進 派 の健 全 な競 合 関 係 が で き るか に 見 え た が 穏 健 派 は結 局 強 硬 に漸 進 的 政 治 改 革 主 義 と ジ ャ ワ人 支 配 を 押 し出 して この競 合 関 係 の 芽 を つ み と って しま った の で あ る。 しか し軍 部 内 の 対 立 が これ で 消 187