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〈震災〉という歴史への問い : 「文化」の練習帖(ニ)

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︿震災﹀という歴史への問い

﹁文化﹂の練習帖︵二︶

阿 部 安 成

はじめに1糸子と鎗に導かれて  わたしは生きている臆をみたことがないし、残念なことに、白身のおいしい魚といわれる鰭を食べる機会にも恵まれて いない。わたしたち滋賀大学経済学部の構成員にとってみちかな琵琶湖には、イワトコナマズ、ビワコオオナマズという 琵琶湖水系特産種の鰭がいるというのに  。鰭はこの列島にあまねく棲んでいたわけではないようだ。その棲息分布は、 フォッサマグナ帯によるところがおおきいという。﹁ナマズはむしろ西日本で馴染みの存在だったということになる﹂一 iと述べた北原糸子はそこで、﹁ナマズに馴染みのなかった東日本で、地震総が鹿島の要石によって押さえられるアイディ アはどうして生まれたのだろう﹂と考えた。  ここにいう、北原糸子とは、﹃安政大地震と民衆−地震の社会史﹄︵=二書房、一九八三年。二〇〇〇年に﹃地震の社会 史−安政大地震と民衆﹄と解題されて講談社学術文庫に収録︶や﹃磐梯山噴火−災異から災害の科学へ﹄︵吉川弘文館、 一九九八年︶の著作で知られる歴史研究者であり、地震総−鹿島神一要石とは、一八五五年に江戸で地震が起こることに よって社会に表出した、鰭絵︵あるいは地震鎗絵︶と呼ばれる錦絵版画にある図像の主題のことである。さきに一文を引 用した北原の近著である﹃近世災害情報論﹂︵塙圭旦房、二〇〇三年、亜±二八一頁。以下とくにことわらない引用は本書 ︿震災﹀という歴史への問い一﹁文化﹂の練習帖︵二︶1 二一

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十七号 二二 からおこなう︶には、﹁本草学のナマズから鎗絵の鰍へ﹂︵第九章︶という論考が収められている。それは、琵琶湖の鯨を      ︵1︶ 論じた章だった。  わたしはこれから展開する小文で、災害一なかでも震災やそれをめぐる情報を歴史のなかでどのように問うたらよい のか、についてのレファランスを試みる。そのときにおもに参照するが、北原の﹃近世災害情報論﹄という作品である。 わたしの小文は、北原の近年の作品を検討しながらく震災﹀という歴史あるいは歴史としてのく震災﹀を主題とするささ やかな評論となる。さて、そのまえにすこし、北原糸子に導かれて、淡水魚の鯨をおうとしよう。  本草学とは、人見必大による﹃本朝食鑑﹄︵一六九七年目や貝原益軒のあらわした﹃大和本草﹄︵一七〇九年︶などの成 果によって代表される、植物、動物、鉱物を薬の観点から考察した学である。両著では、臆が採れる場所には、宇治川、 淀川、琵琶湖、諏訪湖があげられていて、箱根より東に鎗はいないと記されている。貝原が説くところでは、鰭に毒は擾       カマポコ く、あるいはあったとしても﹁揚々﹂にすれば病人にも害がなく、﹁虐疾﹂にもよいという。そして琵琶湖の総である。 彦根藩士︵小林義兄﹁湖魚考﹂一八〇六年︶、彦根藩士の従臣︵里居重啓﹁湖中産物図証﹂一八一五年︶、膳所藩儒医︵渡 辺奎輔﹁淡海魚譜﹂天保年間︶が、琵琶湖に棲息する鎗について記している。それらによると、地元の人びとには、琵琶 湖の鰭はおおむね美味と感じられたようだ。それはともかく、琵琶湖での鰍はというと、湖北の竹生島近辺の深みには大 鰭が多い、梅雨のころには陸にあがることもある、よく眠りいびきをかくこともある、﹁虚疾﹂﹁疽疾﹂﹁疽眼﹂﹁雀盲﹂に 効くといわれていた。関東にはいないとされた臆も、神田玄泉の﹁日東魚譜﹂︵一七三六年版︶には、 一七二八年の洪水 で関東、なかでも千住川で鰍がよくみられるようになったと記されている。  本草学により鯨の棲息域やその薬餌としての効能が知られてゆくなかで、さきにあげた﹃本朝亀鑑﹄にみえる琵琶湖の 鰭伝説に北原は着目した。一つは、竹生島の伝承にいう島の底をとりまいているといわれてきた竜がじつは鰍だったとい

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うこと、二つには、八月中旬の月あかりの夜に、竹生島の砂浜にあがってきた数多の総が踊るように跳ねるということだ。 北原は、前者は鰭一竜一蛇が﹁相互に変異可能な存在として、島の守り﹂であることのあらわれとみた。神性をおびる鯨 ではあっても、それを食餌あるいは薬餌として食べることがあるために、﹁鯨餌味﹂を免許する﹁鯨免状﹂がある。また 後者の伝承にかかわっては、ときに大雨や産卵期などには入り江や水田にまで鰭があがってきてかんたんに獲れるように なることの表現だという。  ﹁近世初期に限らず、食餌としての本草学が日本に根付いていく過程で琵琶湖の魚が本草学者に与えた影響が大きかっ た﹂と北原は述べた。琵琶湖の魚のなかでも総をとりあげてみると、本草学においてはそれをあぐる伝承も記録されてい        ママ  た。その﹁琵琶湖のナマズ⋮⋮と対局にあるのが、⋮⋮地震暴論の鰭である﹂と北原は区別した。つぎには、この地震鰍 絵についてみるとしよう。地震と鎗とはどのように結びついたのだろうか。 噂 系  譜  鰭絵︵あるいは地震聡絵︶とは、﹁一般には臆が地震を起こすという寓話に基づいて鰭を主役に安政江戸地震︵一。。留︶ の時に出版された錦絵版画のことをいう﹂。北原は鮒絵をめぐる研究史を三つに分ける。①﹁日本の研究者にショックを 与えたオランダの文化人類学者による鎗絵の図像から日本の文化構造を読み解こうという研究﹂、②﹁総絵そのものの図 像学的実証研究﹂、③﹁鰭絵が生み出される社会的背景を探ろうという研究﹂となる。①については、C・アウエハント ﹃鰭絵  民俗的想像力の世界﹄︵せりか童二上、一九七九年︶、があげられ、②としては、気谷誠﹃鰭絵新考﹄︵筑波書林、 一九八四年︶、加藤光男﹁鰭絵に関する基礎的考察︵1︶﹂︵﹃埼玉県立博物館紀要﹄第一八号、 一九九三年︶、富沢達三 ︿震災﹀という歴史への問い一﹁文化﹂の練習帖︵二︶1 二三

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十七号 二四 ﹁鯨絵と民衆意識﹂︵﹃日本民俗学﹄第二〇八号、一九九六年︶、そして③には、前掲の北原自身による﹃安政大地震と民衆﹄ があがっている。また、鰭絵を多数収録した図録として︵ここには鯨絵をめぐる論考も載っている︶入手しやすいものに、 宮田登ほか監修﹃堂廊−震災と日本文化﹄︵里文出版、一九九五年︶が上梓され、鮒絵のそのほとんどがひろく知られる ようになって瞥見①∼③にはおさまらない総髪や地震鰭をめぐる論考として、小島理禮﹁鰭と要石−日本の地震神話の 展開﹂︵﹃民俗学論叢﹄第一一号、一九九六年︶を北原はあげ、くわえて近年の新動向として、富沢達三﹁幕末風刺画と臆 絵﹂︵﹃歴史民俗資料学研究﹄第二号、一九九六年︶﹁時事錦絵としての総量﹂︵﹃史潮﹄新五〇号、二〇〇一年︶や阿部安 成﹁総絵のうえのアマテラス﹂︵﹃思想﹄第九一二号、二〇〇〇年︶も北原は参照している。  北原が先行研究をふまえて整理したのは、﹁鰍絵の系譜問題﹂である。鰍絵の主題である鰭と地震とはいつごろに結び ついたのか。俳講にかかわる語群のなかで、一七世紀後半には、総と竹生島、あるいは総と竹生島や弁財天、地震、瓢箪 とのつながりもみえるようになる︵もっとも竹生島縁起ならば一五世紀、さらには一〇世紀にまでさかのぼれるという︶。 俳聖の隆盛が、ことば遊びの連想をとおして、総と地震のつながりの定着をうながしたといわれるなかで、北原はこれに 二つの系譜をくわえる。  一つは、仮名草子﹃かなめいし﹄︵浅井弔意、一六六二年執筆か︶。一六六二年に起きた琵琶湖西部の断層地震を体験し た浅井は、﹁ゆるぐともよもやぬけじのかなあいし、かしまの神のあらんかぎりハ﹂のうたにもとづいて書名をつけたと みずから述べた。このうたの告げるところは、怒ると大地を振るわせる竜王の首と尾を、鹿島神が要石で打ちつけてしまっ たので、これからはどんなに揺れようともひとの世界が滅亡することはない、との寓意なのだと北原はいう。二つめは、 一六世紀末に豊臣秀吉が伏見城普請について記した書状にみえる、鎗の起こす地震という記述だ。前者の﹃かなめいし﹄ では大地を揺るがすのは鰭ではなくじつは麗なのだが、北原は﹁大災害を経験した人々の間では、過酷な事態を通して一

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気にある種の認識に到達することがあるのではないだろうか。それまで観念のなかだけではなかなか結び付かなかった鰭 と地震が一気に習合することも不思議ではない﹂と考察した。こうしてみると、一六世紀末から一七世紀後半にかけて、 地震鰭−鹿島神一要石の連想が人びとのあいだで整ったとなるようだ。しかもこの思念の連結は、一五八五年と一六六二 年目起きた現実の地震が支えていることとなる。あたりまえのことのようだが、ここで指摘しておくと、現実に地震が起 こらなくては、自然現象にたいする人びとの想像力も活性化することはない、のだ。  ただし一九世紀前半に﹃鹿島志﹄を記した鹿島神社神官北条時鄭はそこで、日本を囲有する大魚の首と尾を鹿島明神が 要石で打ちつけたという伝承を記したものの、それを荒唐とかたづけている。地震ないし震災をめぐる知の分裂だ。他方        りゅう え で、﹃鹿島志﹄と同年代の﹃地震考﹄︵一八三〇年の京都地震のときに上梓︶に描かれた伊勢暦のいわゆる竜絵図  ロ 本を竜が取り囲む図と、前述の要石のうたが記されている  のように、鹿島神が要石で押さえるのは鯨ではなく竜とい うこともあった。あるいはまた、彦根や近江八幡など琵琶湖東岸に甚大な被害をもたらした、一八一九年発生の地震を記 した﹃世直双紙﹄には、瓢箪と鯨が組みあわせとなった挿図がみえる。瓢箪と鰭は大津絵の一つの基本形だ。こうして北 原は、﹁西の瓢箪鰭に対して東の要石鰭という二つの鰐絵の系譜が歴然として存在している事実﹂を指摘捷。  地震の発生とそれを伝える摺物の刊行が即応するなかで、一八四七年の地震では、それが善光寺周辺に被害をもたらし たために、地震輪を押さえるのが釈迦如来となる図像がみられた。そして、一八五三年の小田原周辺の地震において、地       ︵4︶ 震鰭−鹿島神⋮要石の組みあわせが登場した。その年に江戸で賑わった国芳の﹁浮世又平名画奇特﹂にみえる瓢箪と総、 ︸八五四年のいわゆる安政東海・南海地震にかかわる﹃地震世直草紙﹄︵大坂︶にみえる瓢箪と鰭、というように、国芳 の風刺画にしても地震に世直しをみる草紙にしても、﹁画像の対象が大きく動き出したこと﹂を北原は読む。それは﹁時 代の変容の表出﹂でもあるとの解釈が示された。では、いったい以北は時代をどのように表現していたのだろうか。 ︿震災﹀という歴史への問い一﹁文化﹂の練習帖︵二︶− 二五

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十七号 二六 二 表  象  鰭絵とはなにより一八五五年の江戸地震にかかわる摺物だったコそうとなると、﹁江戸地震の鮒絵ブームはその量とバ ラエティーにおいて特異な社会現象といってもよい。しかも、その江戸地震の鰭絵の基本構図は、鹿島明神一要石−地震 輪であり、瓢箪輪はそのヴァリエションとして登場するにすぎない﹂と総括されてしまう。﹁特異な社会現象﹂としての       ︵5︶ 臆絵がなぜ一八五五年の江戸地震で登場したのか、じつはいまのところだれも説得力のある論述を展開していない。それ はともかくも、﹁総絵解読﹂は、一つに鯨絵に﹁民衆の世直し願望が表出した﹂とみること、二つに﹁賊しい数の鰍絵の ストーリーをどう読み解くか﹂が﹁中心課題﹂となってきたのだし、﹁こうした鰭絵解読は比較的安定して一般的に受け 入れられてきた﹂と北原によってまとあられた。たしかに江戸の鰍絵は、琵琶湖の総からとおくに隔たってしまった。北 原は、鯨絵についてのこれまでの論述をあぐって二つの論点を示した。一つは﹁東西の鯨絵の違いが明確に指摘されたこ        ︵6︶ とはない﹂こと、二つめは鎗絵のなかにあらわれたいわば震災の︿その後﹀の世界である。前者について北原は、   現実にナマズが存在した地方には抽象化された鰭は生まれず、普段はみることのないところで鰭の漫画化あるい   は変化自在な絵が活発化するといえそうだということになろう。竹生島の聖なるナマズこそ地震鯨の根源的イメ⋮   ジを生み出したものであったにもかかわらず、地震鰭が活躍したのは幕末江戸の地震であった。 という。だが、ここではちがいの指摘はあってもその根源にいたる考察はない。また、後者については、   アマテラスを登場させることでこそ世が直るとするのは、単なる震災からの復興だけが目指されたのではないと   いうのである。リアルにそれとわかる形では鯨絵に登場することの少なかったペリー来航がもたらす危機意識が

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  実は根深いところで人々を捉えていたのであり、震災はこの問題との緊張関係で展開したからこそ、鰭絵があれ   ほどのブームになり得たというのである。⋮⋮/⋮⋮幕府崩壊と統一政権としての天皇政権への見取り図すら暗   示されていたから、鰭絵は禁圧されたのだという。 というように、ある一つの当絵読みを北原は参照している。これは鯨絵を﹁民衆の世直し願望が表出した﹂図像とのみみ ることからの脱却である。  さて、こうした読みを可能とする鰭絵とは、どのようなテキストなのかを北原に聞こう。一﹁一口に地震鰭絵のテー        ︵7︶ マを要約するなら、地震による世直りを享受する民衆の姿ということになる﹂  こうした﹁世直し﹂あるいは﹁世直り﹂ をあらわした図像としての鰭絵ということならば、そこには、これまでも指摘されてきた震災後に現実社会に現出した好 況をふまえた﹁災害ユートピア﹂が描かれていることとなる。ただし北原はいう、震災景気という日ごろの﹁さかさま﹂  ︵8︶ の世界が﹁虚妄﹂であることを当時の人びとは承知していたのだと。では、﹁世直し﹂や﹁世直り﹂といってもそれは ﹁虚妄﹂にすぎず、そこへと現実を転換させる能動性が当時の人びとにはないと断定してしまうとどうなるか。それは現 代人から江戸時代の人びとにむけられた﹁ある種の倫理的判断﹂による断罪となると北原は提言する。彼女は、特記を当 時の文脈のなかにおいて読まなくてはならないというのだ。  一八五五年江戸地震の輪絵に先行する、一八五四年東海・南海地震のときの流言︵異国船虚無艘難破、唐人多数死亡、       ︵9︶ 異国人種絶滅、神国日本、日本豊穣、などの内容︶をふまえて看取できる、鯨絵があらわす﹁現実謳歌﹂とは、﹁震災景 気に湧く現実こそ本来あるべきはずの楽土すなわち常世であり、だからそれが実現したこの時が謳歌され﹂たとの謂にほ かならず、﹁苦楽相半ばする現実の日々こそ虚妄なのだ﹂という当時の人びとの意識が、北原の述べる﹁災害期待論﹂や ﹁災害ユートピア﹂の内実となろう。人びとが生きる現実世界は地震により﹁逆転﹂したわけで、地震によって切り開か      ︿震災﹀という歴史への問い一﹁文化﹂の練習帖︵二︶1       二七

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     滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要第三十七号       二八 れた﹁本来あるべきであった楽土﹂が﹁日常を忌避する﹂のだ。ここにこそ一八五五年の地震後に出版された﹁かわら版﹂ にふさわしい﹁社会謁刺﹂があるのであって、そもそもそれらは幕府やその政治を論じる媒体ではなかったとなる。  こうした、﹁当時の人々﹂にとっての災害認識を北原は、﹁もうひとつの﹂それと呼ぶ。この﹁もうひとつ﹂という追記 あるいは選択代案は、いったいなにのあらわれなのだろうか。鰍絵に導かれて、江戸時代の災害認識や災害情報といった 領野に分け入ってみよう。 三 鼓 膜  ﹁もうひとつの災害認識﹂とは、﹃近世災害情報論﹄第八章﹁災害と災害意識−安政江戸地震の場合﹂の第二節表題で ある。第八章第一節は﹁被害の量的把握﹂と題されている。冒頭で北原はいう、   災害が発生すると、わたしたちは死者の数や倒壊・流失・焼失家屋などの数値の大小をもって、ひとまずその災   害規模を把握しようとする。これは、災害とは、まず人間と人間の作った社会の受けた損失であることを前提に   しており、昔も今も変わらない災害認識のひとつのあり方である。しかし、こうした被災数値のうちでも特に死   者の数はシンボリックな要素を持つものであり、わたしたちはこうした数のうちに、死者を発生させた災害時の   衝撃の強さや死に至らずとも瀕死の傷を負った人々の多数いたであろうことを想像してみる。 そのうえで、過去の災害については﹁得られた数字が社会的文脈のうちに捉えられないと、わたしたちにとって意味をな さない場合が多い﹂と付記する。ここにいう﹁社会的文脈﹂とは、たとえば、江戸の市街地を武家地、寺社地、町人地と 分節したときに、それぞれ管轄がことなること、それぞれの戸口やそもそも江戸の総人口がはっきりしないこと、江戸城

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や将軍といった情報の対象外が存在すること、があげられている。﹃近世災害情報論﹄での北原の仕事はなにより、残さ れた史料をとおして、もとより残りにくい災害をめぐる数値を拾いあげながら、くわえて当時の江戸における﹁社会的文 脈﹂をあきらかにすることにあったといえよう。べつにみると、   死者の数の多少、死者発生の事由などを問うていくと、概念や制度史のうえで知られていることよりも、複雑で   意外性に満ちた局面が展開されてくる というわけだ。つづけて北原は、   災害研究においては被害の量的把握が災害規模の判定に不可欠なことは勿論であるが、実は量的に均質化できな   い要素を定量化した結果のみをもってわたしたち自身を納得させていることもあるのではないだろうか。 ともいう。ここには数量化をめぐる微妙な交錯があらわれている。すなわち、さきにみたとおり、災害にかかわる数値を 確定することは従来の制度史の記述にあらわれにくい事象をとらえる好機となるともいえるし、あるいは、災害をめぐっ ては数値によって均質化されてはならない心性や意識などの領域があるともなろう。だからこそ、﹁災害の社会史﹂が必 要なのだと北原は提唱する。ここにいう﹁社会史﹂とはどのように考えられるのか。        ︵10︶  北原が構想する﹁社会史﹂とは、﹁災害から立ち直る人々や社会の姿をリアルに伝える歴史を編み出す﹂ことを意味し、 ﹁災害情報史﹂はその一環ないし一端として、﹁災害社会史﹂に包含される関係にある。だが、﹁災害からの回復過程を語 る資料が少ない﹂という情況がある。その理由は、﹁災害発生というイベントには記録をたくさん残しても、ロ常に復す る段階になると、生活が完全に回復したということを意味しないものの、ほとんど記録すべきイベントを発見できなくな    ︵11︶ るかららしい﹂。北原が構想した﹁災害社会史が考える歴史の復元は困難である。そこで、むしろ、残されている資料か らもっともよく歴史過程が復元できる領域を選ぶとすると、災害情報の問題﹂となったという。しかも、この近世災害情      ︿震災﹀という歴史への問い一﹁文化﹂の練習帖︵二︶1       二九

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十七号 三〇 報という領域は、﹁他の政治向きの情報がタブーであったのに比べ、比較的自由な情報市場が開かれていた﹂という利点 もある。こうして、﹁近世災害情報論﹂が北原の論文集の書名となったのだった。  北原もいうように、﹁メディアの原義は、要するに何かと何かを媒介するもの﹂だ。膨大に残されている江戸時代の ﹁紙媒体﹂をみると、落書や落首にくらべて﹁災害かわら版﹂︵ここには総絵もふくまれるはず︶については、   被災の事実を伝えるものが圧倒的に多く、社会批判とか椰楡とかいうのは、ほとんど認められません。むしろ、   体制を謳歌する表現が目につく。⋮⋮事実の報道性ということを別にすれば、社会が表現したいことの本質に迫   るようなこと、あるいはその膨大な厚みといったものは、むしろ、落書や落首に率直に表出されても、かわら版   にはそういうことを求めても期待を裏切られます。 といわざるをえないこととなる。災害かわら版を、江戸時代に起きた事象とそれを復元しようとするわたしたちとを媒介 するという意味でのメディアとするとき、北原にとっての﹁被災の事実﹂とは、一つに被害の実態、災害情報の伝播過程、 そして情報伝播の地域性と階層性となり、二つに災害をめぐる意識や災害にむけられる認識となる。北原も取りあげた、 流言や鰍絵のような錦絵は﹁人々の災害に対する想像力﹂の産物ということとなる。他方で北原は、﹁事実への強い追究 力の底に、災害の意味、あるいはそれが啓示するところのものを求める社会的衝動が働いていたと考えることはできない だろうか﹂と史料の読みをあぐる展望を示している。そうすると、北原が﹁近世災害情報論﹂として示した論点の要諦は、 江戸時代の震災などを記し伝える摺物とは、事実と想像をつなぐメディアであり、また地震がもたらす震災などの災害と いう境界が現実界と啓示界とを切開してみせたことの表現だったといってよい。そうした裂け目としての鰭絵のうえに太 陽神にして皇祖神であり、震災の世に至高神として顕現したアマテラスをわたしはみたのだし︵前掲﹁鰭絵のうえのアマ テラス﹂参照︶、この総絵読みが北原に活用されたのは前述のとおりである。

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 北原の所期の研究課題である﹁災害の社会史﹂にもどると、災害から立ち直る江戸時代の人びとの記録されがたいかす かな声やいまだ言語化されない声の原基、そうした人びとの集合態としての社会に潜む声を、現代のわたしたちがうまく 聞くためのいわばく鼓膜﹀として歴史災害があるといえよう。ではこの︿鼓膜﹀には現実世界のなにがどのように響いた のであろうか。 四 断 面  ﹁地震のような瞬間的に人の生死を分けてしまう災害では、災害現場が、鋭い刃で切られた当時の流動する社会的現実 の断面図であることがわかる﹂と北原がいうように、たとえれば、震災という出来事は人びとの日常を切開する刃となる。 そこにはいったいなにがあらわれるのか。すでにみたように、北原は一つにその断面に﹁現実﹂と﹁本来のあるべき姿﹂ との転倒をみていた。すなわち、回復された理想としての豊穣な世界が震災後の現実となり、それまでの日常が虚妄と映 り忌避されて非現実へと転化するという転倒である。震災をめぐってもちいられた﹁断面﹂に類する表現は、現代のその 現場からも発信されていた。大地の揺れを体感したもの、震災の街区を訪うたものは、そこで、そこに、なにをみたか。  たとえば、神戸の季村敏夫は﹁切断された日常の裂目﹂という表現を、﹁阪神大震災とは、なんであるのか﹂という問       ︵12︶ いをとおしてもちいていた︵﹁さまざまな声の場所﹂︶。この裂け目とは、神戸市灘区から三宮にきたものが体験した、﹁世 界は一変した﹂︵笠原芳光﹁過ぎ去りゆくもの﹂︶という光景との直面とかかわっているだろう。そこにみえたのは、﹁建 物のすべてが歪み、直線というものがどこにも見当らなくなった阪神大震災直後の神戸﹂だ︵佐々木幹郎﹁いかにやわら かく壊れるか﹂︶。﹁ひしゃげている﹂と家をあらわさざるをえない︵上念省三﹁風景が壊れている、そして私も⋮⋮﹂︶、      ︿震災﹀という歴史への問い一﹁文化﹂の練習帖︵二︶1      一一二

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     滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十七号       三二 ﹁地上に立っている物がことごとくゆがんでいる﹂と感じざるをえない︵瀧克則﹁土地の記憶﹂︶、そうした世界が震災と して人びとの眼のまえにあらわれたのだった。宮本隆司の作品集﹃国Obび国 お⑩α ﹀津霞爵①国舞些ρ庫跨①﹄︵弓9①ω8℃Φ        ︵13︶         ゆが \≦o艮鴇。眉h負﹀容巨富9二話碧ΩC毎9巳ω目、発行年不詳︶には、ひん曲がり、歪み、折れ、崩れ、潰れ、挫けたよう な世界が写しだされている。もちろん震災時の市街にまったく﹁直線﹂がなくなったわけではない。だが︼軒の家であれ       ひず       いびつ 道路のひと区間であれ、それが歪んでしまえば、それをふくむ世界が歪になったと感じられもしよう。  すべてが歪む世界は、そこに立つものの﹁平衡感覚をおかしくさせた﹂という︵前掲﹁土地の記憶﹂︶。均衡が破れると、 ﹁感性もまた裏返﹂り、そして世界の仕組みも白日のもとに曝されてしまう。それは   わたしたちの生活を覆うモノというのは、人の秩序の中で仮に整然としているだけで、いつだつてふと自然に戻   る。そして仮の姿の陰に、実は自然の姿を隠し持っている。わたしたちはこの都会の中にあって、そのモノに隠   された力、暴力的でそれでいて豊かな自然の生命力のような力に覆われていた。⋮⋮あってはならない日々の直   中で、モノはくるりと裏返り、それに囲まれて感性もまた裏返る。外気に触れた真相が深層と出会う。︵浜田洋   一﹁自転車通勤の街中で、モノもまた夢を見る﹂︶ iという観察にもあらわされている。季村のべつな表現をあげれば、﹁いきなり世界が告げられた﹂﹁世界はこんな幻影        ︵14︶ を隠していたのか﹂というにふさわしい事態だ。さきにみた﹁切断された日常の裂目﹂にもどると、そこは季村にとって 問いの場所となった。   切断された日常の裂目で、あの日こう問うたはずだ。/信じるにたる社会を、ほんとうに築きあげてきたのか。   人と人とが信頼しあい、ともに歩むことのできる社会の意識を、私たちは培ってきたのかと。/だが問いは、日   常の回復とともに薄れ、やがて問いそのものも消えようとしている。/問いの刃は、亀裂によってあきらかになつ

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  たものに向けるのではなく、隠蔽する構造の方に向けるべきである。︵前掲﹁さまざまな声の場所﹂︶ ここにいう﹁隠蔽﹂との表現は、﹁自然災害がゆすった亀裂﹂−そしてそれは﹁私たちの社会を構成する意識、無意識 に及﹂ぶその亀裂を﹁修復﹂することの本質をついている。この修復11隠蔽は﹁暴力的﹂なまでにこの社会を覆っていて、 かくある事態は﹁欲望消費資本主義社会と密接不可分﹂だと季村は述べる。  だがここにいう、亀裂によってあきらかになったものも、それを隠蔽する構造も、じつは同一の様態を指しているので はないか。すなわちそれは、わたしたちの日常を成り立たせている力だ。  さきの引用は、自然日反秩序11暴力性しかし生命力、との見解を表明していた。わたしたちの日常世界は、もちろん曲 線や切断面もそこにあるのだが、多くは直線によって構成されているととらえてみよう。部屋も家も、ビルディングも道 路も、そして街区も、そのほとんどの構成に多数の直線をみつけることはたやすい。たいして、たとえば森のなかや海の なかにはどれだけ直線がみられるだろうか。木々が折れたり曲がったりし、岩が崩れ、地面や海底が隆起したり陥没した りする様子や、川の流れ、石のかたち、砂の堆積ぐあいは、宮本隆司が写しだした﹁地震後の神戸﹂の光景と重なりあわ ないだろうか。ひとは自然のありようをとらえて、ことさらに、歪んでいるだのひしゃげているだのとはいわないだろう。 むしろ等間隔に植えられた木々や作物に人工をみる。だがここでは人工と自然を対比して、どちらの秩序に暴力性が強い かを判定することが目的ではない。たとえば、木々を矯あて柱や板とし、石や岩を敷石や石垣に適するように加工し、大 地を均して生活空間を造成しているわたしたちの日常は、世界を矯正するための強い力によって造成されている。わたし たちの生活空間が歪な世界へと一変したとき、そこでひとは感覚がおかしくなり、感性がひっくりかえってしまったのだ。 それほどにわたしたちは日常において直線や平衡を志向しでいることを、ここで確認しよう。大地の強烈な揺れが﹁わた したちの生活を覆うモノ﹂を﹁自然に戻﹂したとき、そこであらわになった﹁そのモノに隠された力﹂とは、日常をささ ︿震災﹀という歴史への問い一﹁文化﹂の練習帖︵二︶1 三三

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     滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十七号      一二匿 える強い矯正力にほかならず、わたしはそれをこの世界の秩序とみる。﹁切断された日常の裂目﹂は、隠されていたわた したちの日常の内奥界がなにかをいきなり告げた。生活空間に潜む矯正力を除去すれば、世界は歪にみえる。だから震災 という世界は、一方で、平衡感覚が狂う不安をその居住者にあたえもするが、他方で、﹁世界は一変した⋮⋮そんな光景 を眼のあたりにしながら、なぜか異常を感じなかった﹂︵前掲﹁過ぎ去りゆくもの﹂︶とひとをしていわしめるのだ。だが、 やはり日常への回復を多くの人びとが望み、いわば震災という啓示が告げた黙示録をふたたび閉じるためには、強度の矯 正力が必要となるのである。  さきにたとえた震災という︿鼓膜﹀には、地震が日常世界に﹁断面﹂﹁裂目﹂﹁亀裂﹂といいあらわされる領野を開いて しまい、そこに日常を成り立たせている淵源の力を察知したものの声が響いたといえよう。 五 不 在  ところで、北原の﹃近世災害情報論﹄が刊行された二〇〇三年は、一九二三年からちょうど八○年めとなる区切りのよ い年と数えられたときとなった。このとき多くの人びとに想起されたのは、一つに、八O年まえのその年の九月一日に起 きた地震とその日にはじまる震災だった。八0年を経たところで、その出来事はなにをとおして、どのように想起された のだろうか。  たとえば、﹃朝日新聞﹄︵二〇〇三年九月一日、夕刊、﹁単眼 複眼﹂欄、執筆者は宮代栄一︶は、二〇〇三年が﹁関東 大震災80年﹂の節目の年となり、﹁各地で災害展﹂が開催されたと報せて、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館での﹁ド キュメント災害史 一ざωlb。OO。。﹂、神奈川県横浜市の日本新聞博物館の﹁大震災と報道展﹂、同市の神奈川県立歴史博物館

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﹁80年目の記憶﹂、東京都台東区の国立科学博物館での﹁THE地震展﹂の四つの展示を、鯨絵の写真入りでとりあげた        ︵15︶ ︵展示名はいずれも新聞記事表記のとおり︶。  記事はこれらの展示を﹁成功﹂と評価している。それは、﹁災害というテーマは、生々しく、時に悲惨で、かつ動的な ものであるだけに﹁展示﹂という枠組みの中で表現するのは難しい﹂一にもかかわらず、二〇〇三年のそれぞれの展示 においては、﹁絵画資料や体験型の展示などを利用することで、観客に必要な情報を提供しつつ、適度に楽しませ、問題 意識を育むこと﹂ができたというわけだ。そのうえで、﹁展示された資料には、過去の被災者たちが﹁後の世のために﹂ と書き残したものが数多く含まれている。それらから、何をくみ取り、役立てるのか。私たちの認識が問われているよう       ︵16︶ に思う﹂との感想も記している。  じつは、災害のなかでもとくに地震による震災の展示においては、一八五五年の江戸での地震にかかわる鰭絵を核とし た図像をみせることは、もはや常套といってもよい表現となっている。震災という災害を表現する展示では、絵画資料が そこにならんでいるかどうかではなく、それをどうみせるのかがくふうの勘所なのだ。その点ではさきの﹃朝日新聞﹄記 事とおなじ﹁単眼 複眼﹂欄は、二〇〇三年九月九日夕刊に﹁﹁震災映画﹂の上映とシンポ/未来に向け﹁記録﹂の意味 問う﹂と題した記事︵執筆は大西若人︶をかかげ、映像表現された記録あるいは記録を表現することの意味を問うて、歴 史災害のなかでも震災をめぐる論点をさらに開いている。  ここでとりあげられたのは、東京国立近代美術館フィルムセンターで開催されたシンポジウム﹁関東大震災80周年記年 公開シンポジウム﹁関東大震災と記録映画−都市の死と再生﹂﹂だ︵二〇〇三年八月三〇日開催、東京大学文化資源学研       ︵17︶ 究室主催︶。ここにいう記録映画とは、﹁関東大震大火実況﹂﹁関東大震災−伊奈精一版﹂﹁帝都復興﹂など。この﹃朝日新 聞﹄記事は、シンポジウムで語られた﹁不在なもの﹂に注目した。たとえば、東京本所の被服廠跡を映しながら横浜公園      ︿震災﹀という歴史への問い一﹁文化﹂の練習帖︵二︶⋮       三五

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     滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十七号       三六 や朝鮮人虐殺を残さないフィルムをとりあげて、﹁ひとつの記憶の作り方は、別のケースを忘れさせる﹂こと︵成田龍一︶、 被災地を視察する皇太子の姿があるのに、映しだされない大正天皇の﹁不在﹂︵原武史︶、復興から一五年後にはまた東京 が焼け野原になってしまうことを映せないフィルム︵木下直之︶。そして記事の要諦は、﹁そう、﹁未来﹂こそ、記録映像 の絶対的な﹁不在﹂といえる﹂と指摘することにあった。震災とそれからの復興をめぐる映像にとどまらず、現在のイラ  ︵18︶ ク戦争にせよ政局にせよそれらの映像もなにかしらの﹁不在﹂が映しこまれていることではおなじだから、﹁﹁不在﹂を補 いうるのは、﹁記録﹂を消化した上での、確かな想像力だけだろう﹂と記録映像をみるときの作法を記事は喚起している。 つまり、視覚にうったえる図像があるかないかで展示の成否を問うのではなく、その図像をどのようにみるかが重要なの だ。展示会場での図像のみせ方と、それを観覧にきたものによる見方との交錯の場で、展示された図像の活きうる可能性 があるというわけだ。  そもそもこのシンポジウムは、﹁関東大震災が都市に何をもたらしたのかを、死生学の観点から解読しようとする試み﹂ として企画されていた︵﹁開催趣旨﹂︶。一八五五年に起きた江戸での地震から、一九二三年九月一日の地震による震災を はさんで、一九四五年のアメリカ軍による東京空襲までをみると、﹁東京の近代史とは大量死を重ねてきた歴史でもある﹂ とみられる。シンポジウムは、﹁東京の死と再生を記録した映画を手掛かり﹂として、﹁大災害に見舞われた都市が、どの ように死者に対処し、慰霊し、悲劇を克服しつつ、再生するのかを検証﹂する。そのとき、﹁記録映画が何を記録し、何 を記録していないかを探る﹂ことが一つの論点としてあらかじあ示されていた。死と再生ないし震災から復興へという観 点は、地震という出来事をみるときにくその後﹀という視野をもつというのである。琵琶湖のほとりに住むわたしには、 残念なことに、このシンポジウムの開催情報が事前に届かなかったし、その場に出席することもできなかった。けれども、 シンポジウム開催趣旨と、一九二三年九月一日にかかわる現在の二つの新聞記事をとおして、震災を表現することの論点

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は捕捉できた。  当然のこと地震が起こらなければ震災も発生しない。﹁死と再生﹂という論点を震災についての問題構成に組み入れて みれば、そこでは、震災から日常生活への復帰過程ないし回復や復興の確認をめぐる多様な事象をとらえられるだろう。 つまりは、地震発生直後にはじまる震災をふくめて、 ︿その後﹀という視野が地震や震災を問うときに意味をもつのだ。 この︿その後﹀は、当然のことまさに︿そのとき﹀には知りようはずも記録できるはずもない。そもそも、すべての記録 にはなにかの﹁不在﹂がかならずある、といってもまちがいはない。だが﹁単眼 複眼﹂︵九月九日付︶記者は、その ﹁不在﹂を補填するたあにも﹁想像力﹂を活用せよと提唱する。文字記録よりも写真、静止画像よりも動画のほうがより 現実をそのままに記録しうるとみなされるとしたら、ここでは現実をめぐるメディアの直裁性はあまり問われずに、むし ろ、記録映画であってもそれをみるときに﹁想像力﹂が欠かせないというのである。 おわりにかえて  この小文を終えるにあたって、 ︿震災﹀という歴史への問いをめぐる論点を示すとしよう。そのまえにここで、写真を もちいて、震災世界の﹁切断面﹂を写しとった宮本隆司のことばを聞こう。   ここに集められた写真には、地震直後の神戸の街が写されている。想像を絶するいかに大きな力が建物に加わっ   たか、どのように街区が破壊されたかを、写真の雰囲気や細部に見て取ることが出来よう。/私はこの状態の街   に立ち、自分の身体を取り巻く、破壊され、歪められ、燃え尽くされた環境には、身の安全を保障する何物も残   されていないことを感じ取り、愕然とした。⋮⋮復興が始まる直前の街をもう一度、凝視して欲しい。都市にわ く震災﹀という歴史への問い一﹁文化﹂の練習帖︵二︶1 三七

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十七号 三八   れわれが託し、求めているものが何であるかをもう一度考えるために。︵前掲﹃囲Obu国お⑩α︾津山昏①国取暮7   自欝①﹄︶ たとえ地震直後の圧死をまぬがれたとしても、衣食住のどれか一部が欠如している、いやそのすべてが深刻なほどに喪失 してしまった情況においては、地震発生の現場から生還したにもかかわらず、ひとは身の危険を確信したことだろう。な らば、破壊とも焼尽とも無縁の歪んでいない正常な状態を、危機にある人びとはなおのこと切望する。だがなんであれ、 歪みも曲がりもないまっすぐの状態を正常とするためには、そこに強烈な力がくわわっているはずなのだ。復興とは、よ り強度の高い矯正力によって整えられた秩序を実現するとの謂である。こうした日常と現実の機構を、わたしは宮本隆司 の写真にみたのだった。強烈な力がなければ、都市が壊滅したとみまこうほどの破壊はおこらない。一九九五年一月一七 日の午前五時四六分ころに淡路島北部の深さ二〇キロメートルで生じたマグニチュード七・二とあらわされる力は、その 南北方向への加速度が八一八ガル、東北方向六一七ガル、垂直方向三三ニガルでひろがり、おそらく木造家屋はいともた やすく、そしてビルディングの︸つの階を完全にひしゃげ、さらに高速道路を倒すなどの暴力となってあらわれた。宮本 が復興まえの街を凝視せよというとき、そこにみえるのは、これほどの暴力により歪になった都市が、そうではなく正常 をたもっていたときの姿と力の﹁幻影﹂ではないか。  都市をささえる力があり、それを破壊する大地の暴力が発現し、そして復旧ではなく復興をめざすというのならば、そ もそもの都市をそれとして成り立たせていた力よりもさらに強靭で持続する力がもとあられることとなろう。一八五五年 江戸の地震についていえば、わたしはその力としてアマテラスの顕現を鰭絵のうえにみたのだった。鳶足のうえにアマテ ラスをみつけたことが、わたしにとっての一八五五年=月=日地震の︿その後﹀の叙述を可能とした。一九九五年一 月一七日の地震以後に、その力はどのようにして社会のなかで象形されたのか、どのようなものとして人びとは仰望した

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のだろうか。  わたしの読んだ鰭絵は、いわば人びとの想像力の結晶だった。もとよりそこには、なにかしら現実の出来事やことがら も描かれてはいる。だが、地震を起こした鯨も、それをおさえる鹿島神も要石も、またその神を凌駕するアマテラスをも みたものはいない。鰭絵はフィクションにほかならない。ならば、怨讐にあるリアリティをみようとするならば、その表 現と現実とのちかさで測ってはうまくゆかない。そうではなく、わたしは、岩絵があらわす︿その後﹀の展望を担保とし て鰭絵のリアリティを読んだのだった。現実世界には不在の、あるいは不確定もしくは不安定ななにかが総絵のうえに確 かなものとして顕現したとみたわけだ。  歴史のなかのある出来事にむかいあうとき、リアリティと想像力と︿その後﹀が論点となる。これが総絵と北原などの 作品からわたしが学んだ成果であり、震災に代表される災害はまさにこの論点を展開してゆくかっこうの素材といってよ いだろう。またこれらの論点を歴史に問うとき、書かれた歴史としての史料の読み方や、これから叙述するという意味で の歴史のありようもかわってゆくとよい。  本草学にみる琵琶湖の総からはじまったこの小文は、歴史学の再生というくりかえし問われてきた課題の入り口でひと まず終わることとなる。だが、震災にしてもひろく災害にしても、それは歴史学の活性や歴史屋の繁盛のためにあるので はない。戦争には反対を、災害には減災をと呼号すればよいのか。﹁いかにやわらかく壊れるのか﹂というときの﹁﹁やわ らかく﹂は、どれほど難解におもえたことか﹂︵前掲﹁さまざまな声の場所﹂︶と記した季村のひそみにならえば、わたし には﹁過ぎ去り行く者となりなさい﹂︵前掲﹃日々の、すみか﹄︶という季村の引用も理解することがむつかしい。けれど も季村がその書の﹁はじまりへ﹂においてF君に告げた、﹁どうかこの夏、息災のうちにくぐりぬけてください﹂のこと ばを、ひとまずのてがかりとしよう。﹁息﹂は息をすることであり、生まれること、生きることもあらわす。﹁息災﹂︵息      ︿震災﹀という歴史への問い一﹁文化﹂の練習帖︵二︶i       三九

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     滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要第三十七号      四〇 禍の語もある︶というときには、災いを絶つ、やめる、終える、の意となる。熟語をつくらずとも、﹁息﹂とは安らかに すると滅びるとをともにその意味とする語なのだ︵息をするとともに喘ぐの意もある︶。問いは、ここにみられるような 両義を生きるということなのだろう。 ︵1︶ 初出は、琵琶湖博物館五周年記念企画展・第九回企画展図録﹃鯨一魚がむすぶ琵琶湖と田んぼ﹄琵琶湖博物館、二〇〇一年、   所収の鎖題論文。ここで﹁近世災害情報論﹄の構成を示すと、序文、1近世における災害情報とかわら版︵第一章 大坂夏の   陣のかわら版は実在したか、第二章 かわら版にみる江戸時代の災害情報、第三章 災害絵図研究試論、第四章 近世災害情   報論、第五章 江戸時代のメディア かわら版は何を伝えたか︶、H安政江戸地震と情報問題︵第六章 安政江戸地震におけな   武家地の被害について、第七章 安政江戸地震情報の伝播過程︶、皿災害と災害意識︵第八章 災害と災害意識、第九章 本草   学のナマズから総絵の鎗へ、黒々 ﹁地震火災版画平準帖﹂と石本巳四雄︶となっている。 ︵2︶ ﹃近世災害情報論﹂に付帯として収あられた﹁﹁地震火災版画帳交帖﹂と石本巳四雄﹂は、東京大学総合図書所蔵の﹁地震火   災版画張交帖﹂︵一一冊。請求番号BS11︶とそれを収集編集した石本巳四雄︵地震学者。一八九三年生一一九四〇年没︶と彼   のほかの収集資料の紹介である。ここに一八五五年江戸地震にかかわるあたらしい鰍絵と、一八世紀から二〇世紀までの災害   などを主題とした摺物や錦絵が披露された。前掲宮田登ほか監修﹃遍照﹄をおぎない、それとならぶ資料集の紹介といえよう。   たとえば、そこに収録された﹁明治十四年十一月十五日ヨリ世界転覆噺﹂︵OG。と一〇︶や、また一八九一年濃尾地震のさいの﹁愛   知県岐阜県震災義下金一覧表︵東京大学総合図書館所蔵。北原糸子﹃災害ジャーナリズム むかし編﹄歴博ブックレット21、歴   史民俗博物館振興会、二〇〇一年、に収録︶は、一八五五年江戸地震以降の感涙として重要である。

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︵3︶ ﹃世直双紙﹂を記した猿猴庵は﹁猿猴壷草観図会﹂で大須観音境内︵名古屋︶に瓢箪と鰭のオブジェを描いたし、また﹃神   田明神祭礼絵巻﹄には要石と鯨をかたどった山車がみえることを北原はあげている。 ︵4︶ この図像についてのわたしの読み方は、 ﹁国芳という戦場一想像と表象への試論﹂上中下﹃彦根論叢﹄第三二七、三二八、   三三〇号、二〇〇〇∼二〇〇一年、を参照。 ︵5︶ ここでの論点の展望をかんたんに示しておくと、一八五〇年代前半にひろくこの列島において地震と震災がくりかえされた   ことによって、一八五五年に江戸でそうした事態をめぐる人びとの想像力の噴出として鰍絵が登場したのではないだろうか。 ︵6︶ 地震そして震災の︿その後﹀への考察については、すでに発表したわたしの論考、﹁鮒絵というテキスト、解釈としての輪絵   一︸八五五年江戸地震とその後の事態についての﹂﹃民衆史研究﹂第五三号、一九九七年、前掲﹁墨絵のうえのアマテラス﹂、   ﹁横浜の震災復興と歴史意識︵一九二三∼三二︶年﹂﹃日本史研究﹄第四二八号、一九九八年、を参照。 ︵7︶ この引用箇所をふくむ北原の論考の初出は一九八六年であり、さきのアマテラスへの言及は二〇〇一年発表の阿部の論考で   おこなわれている。﹃近世災害情報論﹄が刊行されるかんに、鰭絵読みにおいてはその主題を﹁世直し﹂や﹁世直り﹂に限定す   ることが適切かという論点がだされたのだった。 ︵8︶ ここでは、バーバラ・A・バブコック編/岩崎宗治ほか訳﹃さかさまの世界一芸術と社会における象徴的逆転﹂岩波書店、   一九八四年︵現題とその発行年は、円げΦ幻。くΦ話一疋Φ≦〇二9一零oo︶、が参照されている。 ︵9︶ この史料は、﹁浅野家文書︵東京大学地震研究所蔵写真版による︶﹂という。 ︵10︶ 北原の﹁リアル﹂﹁リアリティー﹂の語の用法は、﹁名古屋市中から参詣に出かけ災難にあった人たちの話が中心である。恐        の   ロ      怖のあまり﹁大震高節誰一人として口置者無菌由﹂のリアルな一条の書留は、著者水野正信がこれらのことを実際にごく身近   な話として聞いていたことを想像させる﹂、あるいは﹁危機管理という言葉が阪神大震災以降急浮上した。この言葉は危機は管     ︿震災﹀という歴史への問い一﹁文化﹂の練習帖︵二︶1      四一

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   滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十七号      四二   理できるという前提に立つ強圧的な機能主義の臭いがして好ましいとは思わない。しかしこの言葉が流行する背景には、震災        り   り   で都市は壊滅したかと思わせるほどの自然の破壊力とそれに抗することのできなかった人知の限界をテレビ画面を通してリア       ルタイムで体験した大半の国民に、日本はいま危機的状況にあると感じさせ、できることなら、この危機を回避したいという        コ           願望も同時に強く抱かせたからである﹂、また前引のとおり﹁⋮⋮リアルにそれとわかる形では藍絵に登場することの少なかっ   たペリー来航問題⋮⋮﹂、そして﹁巳四雄の一世代前の石本家の人々が被災し、また焼死して顔もわからないほどであったとい       ロ   リ   ロ   う状況が判るが、このことは数多い安政江戸地震の資料に照らしてみても、痛ましいほどのリアリティーがある﹂︵傍点は引用   者による︶というように、史料を読むさいにうけとめられる、現実とそれについての表現とのあいだにある距離のみじかさや   変換のすくなさを指している。第W章として﹁災害リアリティーへの接近﹂を立てた前掲﹃磐梯山噴火﹄において北原は災害   現場を﹁眼のあたりに写し出﹂す﹁写真﹂がありそれを﹁解説﹂する﹁幻灯会﹂をリアリティが発現する場所とみている。か   かる﹁写真が⋮⋮災害発生後の現場の断片の映像にすぎない﹂という観点を提示してはいるが、やはりどれだけ現実のままで   あるかが﹁リアル﹂ということなのだろう。ただし北原は一八九一年濃尾地震において災害現場を伝えるメディアとして写真   と同時に錦絵がもとめられた理由として、﹁当時もっとも話題が集中したものをすべて絵に取り込むことは写真ではなく絵にし   かできないこと﹂をあげ、﹁絵空事﹂としての﹁疑似リアリズム﹂を旧来のメディアがあたらしい時代にあらわす意義として述   べている︵前掲﹃災害ジャーナリズム むかし編﹄︶。リアリティを考えるうえでの重要な論点である。 ︵11︶ すくなくとも、いわゆる関東大震災と阪神大震災については、震災からの回復や復興にかかわる記録も膨大な量にのぼって   いる。そうした史料の読み方については、わたしの論考、前掲﹁横浜の震災復興と歴史意識︵一九二三∼三二年︶﹂と、﹁きず   なに絆される1震災とひとのつながりへのヒストリカル・スタディーズにむけて﹂森村敏巳ほか編﹃集いの諸相﹄︵仮題︶柏書   房、近刊予定、を参照。

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︵12︶ 笠原芳光・季村敏夫編﹃生者と死者のほとり1阪神大震災・記憶のための試み﹂人文書院、一九九七年、所収。以下、本書   からの引用にあたっては本文に執筆曲名と論題を記す。本書は﹁震災に関して一冊どうしても上梓したいという﹂季村の気持   ちがはじまりとなり、﹁平和な現代の大都市を突然、襲った震災の実態を浮彫りにしているといってもよい﹂﹁多様さ﹂をそな   えた作品という。 ︵13︶ この作品集に収録された写真のうち一四葉は前掲﹃生者と死者のほとり﹄にもみえる。宮本は自身が撮影した光景を﹁地震   発生後二週間から一ヵ月経過﹂したときのものと記し、それを﹁わずか数秒間の振動から数十年間に及ぶ変遷へいたる多様な   都市の変容の中で、私が撮影することが可能だったのは、ほんのわずかの切断面でしかない﹂とあらわした︵宮本隆司﹁都市   の変容の速度﹂︶。 ︵14︶ 季村敏夫﹃日々の、すみか﹂書騨山田、一九九六年、所収の、前者は﹁草の身﹂、後者は﹁しずけさに狂い﹂という題の詩か   ら引用した。 ︵15︶ これらの展示と展示図録についての批評は別稿でおこなう。 ︵16︶ この﹁後の世のために﹂という目的で残された記録から﹁教訓﹂をくみ取ろうとする発想はいまあちこちに容易にみてとれる。   現に内閣府は今年︵二〇〇三年︶度から中央防災会議のもとに災害教訓の伝承についての委員会を発足させた︵算苔目\\毒≦毒’   げ。=。。巴.σqo.壱\○ωげ冒騨ω①\巳O\OG。一b。b。b。\一−一も亀などを参照︶。 ︵17︶ シンポジウムの構成は︵耳昔⋮\\雲影≦.一.〒↑○犀団。.p9甘\ω臣の臥σq曽犀自\ooρ。。Φ障Pω曽。。巴第一ヨ一−または、葺8 \\≦妻芝.一.午   8犀団○.p9も\○団鳶。歪B\ω団Bboωご5b。OOω.算唐一を参照した︶、第一部﹁関東大震災の記録映画上映﹂︵﹃関東大震大火実況﹄   六四分、東京シネマ協会、一九二三年号﹁関東大震災[伊奈精一版]﹄九分、伊奈精一監督、一九二三年、﹃猛火と屍の東京を踏   みて﹂一〇分、ハヤカワ芸術映画制作所、一九二三年置常石史子﹁上映映画に関する解説﹂、成田龍一﹁震災と都市の死﹂、と     ︿震災﹀という歴史への問い一﹁文化﹂の練習帖︵二︶1      四三

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十七号 四四   ちぎあきら﹁大震災が映画表現にもたらしたもの﹂、佐藤健二﹁震災と視覚メディア﹂︶、第二部﹁帝都復興祭の記録映画上映﹂   ︵﹃帝都復興﹄一〇七分、松竹キネマ・大日本教育映画協会・復興局、一九三〇年、より﹁震災火災編﹂九分、﹁完成編﹂三〇分    ﹁日曜日﹂をのぞく、﹁御巡幸﹂一五分、﹁完成式典編﹂九分、原武史﹁帝都復興祭と都市の再生﹂、木下直之﹁死者の行方﹂︶、ディ   スカッション。わたしはこのシンポジウムの開催を、さきの九月九日付の記事で事後に知った。 ︵18︶ 北原も﹃近世災害情報論﹄の﹁あとがき︵二〇〇三年二月差︶で迫りつつある﹁アメリカによるイラク攻撃﹂をふまえて、   自己の災害史研究をふりかえり、﹁自然災害の発生は止められなくても、被害をできるだけ少なくしよう、災害から受ける打撃   をできるだけ少なくして、生活回復を破約するための知恵を蓄えようというのが、災害を研究する目的のひとつであるはずだ﹂   とまとめ、それとの対比で﹁避けられたかもしれない戦争を世界は知恵を出し合い、避ける努力を続けることができなかった﹂   ﹁惨禍を避けるのではなく、わざわざそれを呼び起こす行為が罷り通る社会﹂の現状に﹁怒りよりも無力感、絶望感すら抱く﹂   と述べている。ここにみるかぎりでは、災害情報をとおして自然災害の﹁リアリティー﹂を確定することにより、できるかぎ   りの災害回避と被災したばあいにはできるだけすみやかな生活回復を可能とする﹁知恵﹂をえられると北原は考えているよう   だ。ここには、人災か天災かの区別はおくとして、歴史研究者が戦争と自然災害を対象とするときの論点が示されている。戦   争であれ自然災害であれ、その﹁リアリティー﹂を再現するとは、なにをどのようにあらわすのか、それはどのような意味と   力をもつかということとひとまずわたしは考える。

参照

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