北斉村落制の成立過程
福 島 繁 次 郎
<旨即αqooゆ貯琴葺毎量壱①凶Oげ、一 ︵口︶ ロ◎レひq①扁貯。団唱即屋三欝魯 152 序 論 第一節 党族百家制の成立 第二節 元孝友上表の解釈 第三節 三長の任用と復夫 第四節河清令と村落制 第五一斗 缶詰の社会と村落制の意義第二節 元孝友上表の解釈
一、東魏の政治と上表の時期 一の一 浴潅王孝友の上表は何時なされたか?・は先ず第一の問題点である。 これについて次に志田氏の考証を掲げる。 先ず第一に此の上表は何時為されたかということを考えて置きた い。本伝によるとこの上表の前に次のような事が伝えられている。 魏静聴宴副耳於華林。孝友因重書誉、叉云陛下許賜県営。帝鶏日、 朕恒聞王自通津。丈嚢日、臨逗留奉旨、訓説。於是君臣倶笑而不罪。 ︵拙注、北斉書巻二八︶ とある。 ﹁王自若清﹂というのは本伝の冒頭に、 元孝友祖魏太武皇帝兄臨潅王或、無子、令孝友襲爵、累遷槍州刺史、 為政温和、好行小恵、不能清白、而無所侵犯、百姓亦以此便之。 ︵拙注、前掲書︶ とあるに相当するのである。さてこれは文裏︵高裁︶の在世中で、而 も神武︵高歓︶の死後に当るから、武定五年︵五四七︶七月以後︵神 武の死は五年正月景午︶、武定七年︵五四九︶七月盗に遇って姐する時 までの間のことである。而して孝静帝は武定八年︵五五〇︶夏五月、 澄の弟洋に位を譲って東魏亡び、北斉これに代った。これより後を天 保元年という。叉元孝友も天保二年︵五五︼︶冬には害せられている から、彼の上表のあったのは少くとも高澄が使持節大丞相都督中外諸 軍録尚書事大行台渤海王として在職中で、孝静帝在位の末年︵五五〇︶ までの間に求めなければならない︵五四七−五五〇︶。かくて東魏の末 造に元孝友が郷覚制に対する改革意見を提案した時、その改革の対象 とされたものは全く高祖牽女帝の定めた三長制とは異るもの、即ち別 な﹁令制﹂が行われていたのであって、この別なる郷党制の弊害を匡 正せんとするのが元孝友の改革意見であったのである①、 と論断している。がこれには問題がある。志田氏は﹁これは淵叢︵高澄︶ の在世中で、而も神武︵高歓︶の死後に当る。﹂と言われるが、﹁迎撃﹂一23一
151 北斉村落制の成立過程 (福島) とある呼称のみからはかかる論断を下すことは許されない。丈裏とは高 歓の長子高情を北斉受禅の後に世宗文裏皇帝と追超したのである。北斉 書帝紀に聖駕を高祖神武皇帝とし三主を世宗文嚢皇帝とするは当然であ るが、魏書帝紀、孝静紀を見ても高歓の生死に拘ることなしに高騰は斉 献聖王とし、高澄は斉文受電と記録している。これは魏書の撰者が北界 の時課業によって行われたからであろう。丈二王とある事のみから、志 田氏が肥馬帝との華林園の宴遊や元孝友の上表の時を神武︵高言︶の没 後で文場︵高腰︶の政権下︵総下課¢︶の三年中のこととしているのは、 全く不当であって何の根拠も無い主張と言う外は無い。次に魏書巻一八 には﹁孝静帝業悔文裏王於華林園﹂とあるが、華林園は都都に在って、 雲叢帝紀に﹁帝幸華林都堂聴訟﹂などの記事が散見するから政堂もあっ たのである。この雄蕊に在って政治を論ずる所からして東魏末の文裏王 の政権下のこととすることも考えられるが、これも速断と言う外はな い。魏書巻一二孝静紀を見ても、叉北斉書の神武・文裏の帝紀を見ても 明かであるが、神武帝高歓は晋陽を本拠として兵権を掌握して覇業を企 てる。軍国の政務はすべて高歓の相府に帰したが、しかし都響の帝都は 鄭城であり、長子の文裏帝高澄をここに常駐せしめて、孝静黙を監視 し、朝政を総遇せしめたのである。此の晋陽と郷都とに於ける威権と朝 政との両分は、丈斎串が天平三年に﹁入輔朝政﹂とあってから武定の年 までつづき、高歓は没するに際して高澄を晋陽に招き後継とするが、そ の時、﹁十一月庚戌、遣太原公洋鎮獅、辛亥徴世子澄至晋陽﹂とあって、 交裏帝が軍国の実権を握り、代って弟の丈宣直言洋が鄭都に在って朝政 を総締する。この際高洋は﹁武定五年授尚書令・中書監・京畿大都督﹂ とあって高澄の官歴と全く同じであるのも其の役割が理解されるであろ う。かくて丈裏帝が鄭都に在って政治を指導したのは、東魏の末期の事 では無く、実は東魏前期のことである。従って華−林園の宴遊と、元孝友 の上表も、寧ろ前期の事でありて、天平三年目認O︶から武定四年︵鰹①︶ までの間のこととするのが、より可能な解釈であると言えるのである②。 志田氏も指摘しているが、宴中の孝静帝の語に﹁朕聖断、王自裏罫﹂ とあるのは、元孝友が槍州刺史の時に﹁好行小恵、不能清白﹂とある政 治に対する課刺であって、文裏王のユーモアな取成しで笑いの中に終る が、此の会話の事実がすべて宴遊中の現在の記事である点からして、孝 静帝が丈嚢王を華林園に招宴した時は、元孝友は槍州刺史であったので ある。以上の記事につづいて上表が採録されていて、﹁孝友明証政理、平 野表日⋮⋮﹂とある。何時、何官の時と言う明確な記録はないが、記事 の順序は元孝友が二二刺史であった華林園の記事につづき、時間的には ﹁直奏表日﹂とある点からして矢張り槍州刺史の時の事とすべきである し、槍州刺史たる時の上表の内容によって元孝友が﹁明於政理﹂とあっ た事実を具体的に立証せんとしたものであった。ただ此れらの事実を女 藩王が鄭都に常駐したと言う点からして配当前期のこととするには尚十 分な条件とは言えない。晋陽に常駐してからも﹁丈裏王来朝﹂ ﹁夢裏王 還晋陽﹂と言う風に往来の記事が見えているからである。ただ魏書巻十 八星霜王孝友伝の末尾に次の如くある。 孝友在郡積年、以法自署、厚謝声称。然性無骨鰻、善事権勢、為正直 者所機。斉受禅、爵例降。 とある。 ﹁斉受禅﹂とあるから顕祖文宣帝︵高洋︶の纂位︵調O︶以前の 事で、東魏写実帝の在位中で、しかも後期の事である。 ﹁在高積年﹂と あるから元孝友がどこかの郡太守となった事と、其の政治の名声を論評 したのである。してみると槍州刺史から郡太守となったのであるから一 種の左遷降任であると言えるが、元孝友伝には罪瓢左遷にあった記事は なく寧ろ﹁明於政理﹂とか﹁以法自書、甚著声称﹂と言う風に郡守とし ても有能な良吏として伝えられている..留書の此の疑問に関係して北斉 書巻二八の元孝友伝には、 孝友在サ積年、以藍碧守、甚著声称。 とあって、以下全く魏書の前掲丈と同じであり、北斉書の記事は至心巻 一六元孝友伝とも同じである。即ち﹁孝友在サ積年﹂とある。魏書によ 一一 24 一
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号 7 第 要 紀 大 滋 150 る記事の不明確な点は、北上書や北史によって補い得て事実を明かにす る事が出来る。魏書に﹁在郡積年﹂とあるは、相州魏郡の太守たるの言 い方であり、﹁在サ積年﹂とは、司州の魏サとなった事を意味している。 魏書巻十二、孝静紀の天平元年の条に、 十有一月俸寅、車駕至鄭、居北城相州之癖。改相州刺史為司州牧、魏 郡太守為魏サ。 とある。相州と魏郡・林慮・広平・陽丘など鼠走を併せて皇畿と定めて いる。魏華北斉もこ・に都して清都郡・改称する︵通典巻一七、郭都の条︶.馨 巻一百六地形志によると、郵・臨滝・繁陽などの十三県を領している。 この撚県を王都として相州を遺棄とするに及んで相州刺史は司州牧とな り魏郡太守は魏サと改まったのである。北斉では清都サと改まる。つま り元孝友は東灘の此の魏サとなったのである。魏書巻一百十三正嫡志に よると、蘇州牧は隠隠晶であるが、﹁河南サ、上州刺史﹂は第三品であ ノ る。階書巻二七百宮中の北斉の官制でも﹁清都サ、三等上州刺史﹂とあ って同様に第三品である。北魏、北斉の官制ではサは共に第三晶で、上 州刺史の上坐に置かれている。司州牧や魏サが重職とされた事実はその 運営を見ても朋かにする事が串来る。魏書巻十二孝雷雨によると、天平 二年三年の交に録尚書事西河王係が自筆牧となりやがて太尉となった。 北斉書巻二八元照応に司州牧の記事があるが、万斯同撰の歴代史表巻四 二東魏の條に司州牧として昌楽王誕とか威陽王坦を挙げて、威三王坦は 天平四年から武定,二年の八年を司農牧としてあることとなっている。元 魏以来、王族をあてたのである③。魏サも重職をあてた事は同様であっ て、魏書巻四一源子恭伝に、 天平初除中書監。三年君津舜、又為斉献武王軍司。不乱元年卒。 とある。中書監から魏サとなっている。東魏の中書監は重職であって、 源子恭につづいて文爽王高澄がなり、高澄が驚喜に転ずると弟の帯下高 洋が就いている。かかる重職から魏サとなったのである。東魏に撃ては 臨潅王孝友は元魏の王族であるから、其の門地と政治的才能によって槍 州刺史から魏サとなったものであって、決して左遷では無く、寧ろ其の 人物を立証するものがある。こうした任命は、北斗となっても同様であ って、司州牧と清都サとは北斉王族の任官となっている事実は、北上書 巻十一、十二の北斉諸王の列伝を見ると明かである④。軽量牧と魏サの 任用に王族高官を配している事実は、東亜・北斉の一貫した任用形式で あったとも言えよう。 東面の王族たる臨席王孝友が此位となった過程は以上で明かである が、﹁在サ積年﹂とあるからは魏サの職位に在った事が三年や四年の間で あったと言う意味では無い。前掲の威虚誕坦は野州牧として八年にわた っている。臨潅王孝友も亦同様にこうした長期の年数が考えられるであ ろう。此の八年とか﹁積年﹂と言う年数が、当時の官僚制の上から如何 なる根拠に基くものかを明かにしよう。後にもその都度具体的に論証す るように、東魏、北面の諸制度は多く北頭孝文帝以後の制度の継承であ るから、面諭の官僚運営を知るためには、北江の官僚運営が如何なるも のであったかを明かにしなければならない。宮崎博士は、﹁九晶官人法の 研究﹂を発表されて、北朝の貴族制と考課の意義について説かれてい る⑤。ここでは北西の考課法が問題となるが、私は宮崎博士の研究を参 照しながら主として北魏以来の地方官の任期を明かにし、其れが如何な る法制的根拠と運営によって東魏に至ったものかを明かにする。 魏書巻三八王慧竜伝に、 ︵王感傷︶拝禁陽太守、傍学長史、在任十年。農戦等量、大著声高。 招捲落遠、帰附羨望余家、習事善政。 とある。世祖太武帝︵ムb。隼臼︶の時の事であるが、彫工竜が漿陽郡太守 として十年間在任した例であるが、彼は郡治に名声をあげた良吏であっ た。北魏では国初から考課を重視した事は、宮崎博士も説かれる所であ るが、世祖太武帝は地方官の考課を次の如くに実施している。 膨雀元年︵騒GQ切︶十有二月番申、冬日、i太守覆検能否、藪其殿最、 列星属州、刺史明考優劣、抑退蓄、升誉泉聖意挙課上台。︵融一25一
149 北斉村落制の成立過程 (福島) 購緯ゼ︶ とある。郡太守が属官の置市を簸興し、属州に報告し、州刺史が優劣を 考定して、黙防を行い、年末に中央に報告する。地方官の任期はこうし た考課の結果定まつたのであるが、考課法の明かに定められたのは、高 祖竜燈帝︵心母占Φ︶の延興二年︵ミb。︶の詔による。魏書巻七、高祖紀上 に、 延興二年都有二月言成、法例、書云、三巴一考、三考瀦防幽明。頃者 己来、官以労升、未久而代、牧守無言民之心、競為聚敏、送故迎新、 相属上路、非所以固民志隆治道也。自今警守温仁清倹、克己奉公者、 可久遠尊墨、歳積有成、遷位一級。其有負残非道、侵削黎客思、難在 官甫爾、必加瓢罰。著皆皆令、永為灘準。 とある。孝丈帝は即位当初から書経に見える三年一考、三考即ち九年の ・後に官吏の瀦防を行うと言う儒教主義的な考格を実施した。当時の官吏 が任期が短かくして交替し、地方政治に責任を負わず、悪徳の限りをす る弊害に省みて、良史は任期を長くして其の地の政治に実績を挙げさせ て、然る後に昇進させるが、貧官汚吏は官甫に在っても必ず紫黒を加え る方針を定めた。これが刃針となった事は﹁著之於令、云為撃茎﹂とあ るのでも明かである。孝文帝の此の方針が守られた事実は、呉延墨の撰 した元解方鎮年表に見ても肯かれる事である。本書は河南では司・予・ 売などの二十州を、河北では恒・朔・#・翼などの十州の刺史の任期を 明かにしている。これら諸州刺史の太和年間の任期は著しく長期の者の 多い事が特色である。桓誕は東岳州刺史として延興二年から太和十八年 にわたる実に二十三年間を勤続し、醇万古抜は予州刺史として顕祖皇興 元年︵&﹃︶から高祖曽和八年︵心。。心︶までの十八年を在任し、野釣州刺史 の畢元賓は太和元年から十五年の間を査州に勤続している。良吏をして 民俗につながって其の他の政治に責任を負わしめると言う孝交響の政治 的意図がよく実証されていると言えよう。しかるに太和十八年の洛陽遷 都の後は、従前の方針を反省して官僚の任期に改変がある。 太和十八年九月壬申朔、詔日、三載考績、自古通経、三考職防、以彰 能否。今若待三考、然後馳防、可勲者不足為遅、可進者大成除緩、是 以朕今三豊一考、考即勲防、欲令愚田無単解賢者、才能不塞於下位、 各階当曹、長駆優劣、為三等。六品以下、尚書重問、五晶以上、朕将 領海公卿論其善悪。上上者遷之、下下者瓢之、中中海砂其本任。壬 午、帝臨朝堂、親加瓢防。. とある。三年一考、三考︵九年︶瓢防の制は論難者を保証して、昇進さ すべき能吏を沈滞せしめると言う弊害を免れ難い。此の弊害に省みて三 年一考で直ちに瀦防すると言う制度に改変した。考課の結果上上の者は 最短期の三年で転任するが、考課中中の者は更に三年後の考課を待つ事 となって六年間同一の任に在る事となる。ここに注意すべきは、同じく 儒教的政治思想に基く蛋白であるが、其の適用の目的が延興二年の考格 と此の考格とでは全く異ると言う事である。延興二年の考格は貧官汚吏 を瓢退して、良吏を長く一地方に在職せしめる方針であって、その治績 の結果に照らして九年にして始めて一級を昇進させたのである。後者の 考格⋮は有能な良吏は進級転任が早いが、考課の結果の悪い者は心地に長 く固定されるか、或は免官となる規定である。能力本位の考適法であ り、法家的な官瞭運営である。前者は北魏の地方政治の安定と言う点に 主眼が置かれた官僚制の運営であった。魏書巻七高祖紀に見ても、濁江 三年以後の単層帝の政治には地方の安定と統一政治の確立に主眼があ る。牧無骨長の責任を正して、勧農に税法に、戸口の検括と土地の分給 と次々に実施して地方の安定をはかっているが、これが発展して、百官 の垣網、三田制や均田制の実施となり、太和十六年の律令、或は官学令 の制定となる。孝文帝の政治の発展であって、統一的支配体制の確立を 示すものである。承和十八年の考格は洛陽遷都後の新政治方針を示すも のであるが、地方政治が上述の段階を経過して、国家の麦配体制が確立 した後に集権的な官僚制の運営に転換したものであって、孝等等の政治 の発展を示すものと言えよう。曾和十八年の考課と馴防は、孝文帝が自
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9 1 号 7 第 要 紀 大 滋 148 ら朝堂に臨んで大期し、其の賞罰は峻厳を極めたとある。宮崎博士はこ れを評して、中国流に言えば法家者流のなす所であり、重事帝の思想の 底には距離的な考えが流れていたとあるが⑥、厳法主義に立つ孝丈帝の 官僚運営によって其の政治的意図は徹底したものと言わねばならない。 次に世宗朝︵㎝OO占㎝︶の風格と地方官の任期の実際はどうであったで あろうか。魏書巻六四郭三韓に、 景明初、考格五年者得一階半。正始中、減軽書中山王英奏田本被旨、 但可正満三周為限、不得計残年之勤。 とある。郭柞の上表と前後して高運王雍︵魏書巻二十一上︶の延昌二年 の上表にも、景明之格と正始之奏の事が見えているから此の丈は正しい 記録としなければならない。景明初年の五型では三年の考績で一階の進 級が基準となっていても年限の適用に融通があって五年で一階半の進級 があった。正始中には正満三周を限年として、三年を超過した残年の勤 務年数は通算しない規定となった。又景明の牛蝿は三等であるが世宗末 の延豊中の岸里は三年の一考で九等となり、﹁望事上中者三年升一階﹂と なっている︵灘王﹀。要する毒磐田の考格は憂していなかった。法 家者流から言えば、最も厳正であるべき羽越が一貫しないのでは官紀の 遅緩が既に萌していると言える。更らに素乱の条件となるものは、景明 初の考課が実施されて以後は長期にわたって瓢防が行われなかったとあ る。即ち魏書巻八世宗紀に 永平四年忌有二月壬申、詔日、進善退悪、治之通規、三景考察、政之 明典。正始二年以来、干今未考。功過早早、寧無昇降。従景明二年至 永平四年、通考以聞。 とある。これに関連した上.表が前掲の郭詐伝に見えて、 景明三年以来、至今朝有一載、準限而判三、応昇退。今既通考雌蝶。 とある。右の記事で問題となるのは、景明の考課は、景明初年か或は景 明二年かと言う事である。景明元年の考課は壁書本紀に記載が無いが、 孝文帝の太和十八年の考課からすると、此の年は考課の年であるし、前 記の郭酢の上表には﹁景明初云々﹂とある。叉﹁従景明二年至永平四年 通考以聞﹂の記事も︼致する。矢張り行われたものと考えねばならない であろう。これに対して景明二年の考課も根拠がある。魏書世宗紀に、 景明二年六月丁亥、考諸州刺史、加以国防。 とあって、此の耳蝉州刺史の考課が実施されている事である、郭酢伝に ﹁景朋三年以来﹂とあるのは、二年の考課の翌三年からの起算である。 前記の永平四年の詔に﹁正始二年以来出面来歴﹂とあるのでは正始元年 には考課が行われたものと考えられるが、正始元年は景明三年からして 三年目である。正始四要素は﹁最中進塁級﹂︵世宗紀︶・あって、所謂 三階の恩詔であるが、此の年は考課の当年であった。こう考えて来ると 景明元年と二年との考課を如何ように解釈すべきであるかが問題となる が、決定すべき根拠が無い。元魏方里年表の岐州刺史の条を参照する と、景明二年︵㎝O同︶に趙超宗が刺史となって三年し、正中元年︵切O亟︶に 楊津と代っている。今津は正始元年から永平四年︵q買︶に至る七年間を 在任する。ついで延昌元年︵㎝同b二︶に趙至聖諸が就任し、粛宗熈平元年 ︵縁①︶までの五年の間在任する。右の岐州刺史の転免は、景明二年の豆 州刺史の考課に始まって、以後の考課の予定年次とも一致するものがあ るが、元塗方鎮年表の記事も色々であるから刺史の黒字の年次を以て、 百官の考課が行われたとは言えない事である。ただ前記の魏書世宗紀 に、景明二年から永平四年に至る聞は、瀦防が行われなかったとあるの は、箋である。此の±年間に、正始四年に舌官民進駐︼級L︵雛宗︶ との恩詔があっている。此の百官の同時一半の進級を汎︵汎階︶と言っ ているが、これが考格の適用に関連して論議の多い問題となっている。 魏書高陽王雍伝、同郭詐.伝、同特製恵伝などを参照すべきであるが、汎 階は臨時の一躍の昇進であるから一応それまでの勤務年数は論外で行わ れる。所が啓蟄を実行して以後に考課を行う事となると、汎階以前の勤 務年数と其の考課、和平以後の勤務年数と其の考課が問題となってく る。郭詐の永平四年︵或は尊親元年か︶の上奏に対して の一27一
147 北斉村落制の成立過程 (福島) ︵世宗︶詔日、考在上中者、得汎以前有六年以上遷一階、三年以上遷 半階、残年国事。考在上下者、得汎以前六年以上遷半階、不満者除。 其得汎以後、考在上下者、三年遷一階⑦。 とある。正始四年の汎階以前の六年以上の勤務年数と三年以上と、汎階 以後の三年とに分って、夫々考課によって進階を異にする。この勤務年 数の基準によると、景明二年以後は詩吟が実行されなかった事に疑問は 無い。官僚の才能と実績を無視して考課が行われないと言う事は、官紀 の遅緩、官界の沈滞は覆うべくも無かったであろう。 正始四年の汎階は考課の上に問題が起つたばかりで無く、地方官に悪 影響を与えたことが、魏書巻一九拝任城王澄の上奏に見えている。 初正始童心、詔百司普昇一級、而執事者、不測旨意、刺史胸倉限而不 及。 とある。正始四年の百官の一率一級の昇進は実は京官にのみ及んだ恩詔 となって、地方の刺史禅機は此の恩沢に浴しなかったと言うのである。 所が此の不公平な処置には非常に不平の者が出たものと見えて、 至於昇竜不及守雫璽+年冤訟昏絶。︵前書︶ とある。刺史に就ては、先に景明二年に諸州の刺史を考課して勲記を行 った事が見えているし、元魏方鎮年表を見ても浜岡の事実が認められ る。所が郡守、県令長に至ってはかかる記事は無い。恐らく考課は景明 二年以後は百官と同様に実施されなかったのであるし、更に汎階の恩沢 にも故意に除外されると言う結果となっている。後段に論証するよう に、郡守県令の任期は長く六年である。正始四年の汎階以後十年間も冤 訟は絶えなかったとあるが、守令の長い醗積した不平が原因となったも のであろう。 ﹁冤訟﹂の内容が如何なるものか、明かでは無いが、任城 王澄の上奏では守宰に対する不公平な待遇が原因である。こうした事情 を背景にして、龍華元年の考課を見ると甚だ興味深いものがある。 延昌元年十有二月乙巳、詔、守操車御史所弾、遇赦免者、千弄在中第、 皆代之。︵魏書世宗紀︶ も とある。当時の郡県の事情が中央に反映した対策と思われる考課であ る。第一に郡守県令に限った考課と二塁が此の年に全国的に実行された 理由は、守令の階層の一新をはかる必要が当局に強く認められたからで ある。次に御史の弾劾を受けた研出とあるが、郡守県令の不正が一般常 習化したもののある事が窺われる。農民に接触する首長として其の社会 的弊害は甚しいものがあったにちがいない。かかる結果を生んだのも、 考課と瓢防塁免の無い地位の固定化からする官僚の不正が原因で、官紀 の遅緩と腐敗を示すものに外ならなかろう。第三には﹁考在中第﹂とあ るが、考課中第の者は、孝丈帝の定めた考格では原任のままと言うのが 規定であった。これも同時に転貸せしめた所に久しく固定化した地位 と、これ以上善政の期待出来ない実情が窺えるであろう。要するに延昌 きずもの 元年の郡守・県令の顯防は、悪徳の官吏か負殿のある傷者の守宰であっ て、この転免の対策が重要な政治問題としての段階に在った事を立証す るものがある。この理癬のためには上掲の任城市澄の上奏を以てして其 の過半の原因とすべきものであり、郡守県令の地位が考課も瓢防も無く して、長期にわたり沈滞していたものとする解釈は理解されるであろ う。要は世宗末期には官僚構成の下部は腐敗し、北魏の政治は基盤から して乱れていたのである。 世宗朝の考格の運営は以上の如くであったが、郡守・県令の任期につ いては特別に高祖の時から六年が規定であって、これが原則であったら しい。魏書巻四二房法寿伝に、房法寿の族子房景伯が、清河太守に任ぜ られているが、その時に 旧単玉六年聖水。限満将代、郡民韓霊和物三百余人、表訴重留、復加 二身。 とある。何帝の時の事か明かで無いが、孝昌二年に年五十歳で没してい るから其の官歴を通して推定はつく。太和元年の生れとなり、高祖末年 には二十三歳である。其の官歴や清河太守として在職した八年を考える と、高祖朝では無くて、世宗か粛宗の時である。其の後の官歴や母の服
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滋大紀要
146 喪、そのために塩菜を食わずして水病となって積年病臥したとあるを考 えると、彼の粛宗朝十二年聞の事ではなくて、世宗朝の事とするのが妥 当であろう⑨。してみると﹁旧、拝撃六年忌限﹂とある旧制の守令の年 限は高祖朝からあった規定であり、世宗朝に至っても行われている制度 である。恐らく太和十八年以前からあった守令運営の規定であったが一 此の年の詔で重言が新定されても、守令の六年の任期の規定は変更され なかったのである。三年一考、直ちに馳駆すると言う考格からすると、 守令は京町などとは明かに運営を異にしている特別の規定であるが、こ れは帰する所、守令の地位とその任務を重視した対策であって、高祖延 興三年の墨守に対する考格の意図と一致したものがある。郡県は国家政 治の基盤として、罷職では一貫して郡県の政治を重視している。こうし た理由から郡守県令は六年を任期と定めたもので、三年一考で転免する 官僚運営の弊害を防ぎ、郡県の下部は官僚の重心を重くして、民俗とつ ながり治績を挙げしめて、総じて国家基盤の政治的安定を図ったものと 言える。 ﹁限満﹂とある如くに六年の任期を終ったのであるが、善政の 者は民衆の希望を容れて、更に其の任期を延長する事も出来たのであ る。魏書巻四十陸凱伝に 除正平太守、在銘七年、号為良吏。 とある。陸凱は高祖に信任された良吏であったが、高祖の時に六年以上 郡太守として在任した明証である。太和十八年以前の高祖の施政方針か ら言えば、七年以上の者も決して少く無かったであろう。清河太守の房 景伯と同じ例が又隣黙諾に在る。魏書巻四五章閥伝に、従子章嵩は高祖 が洛陽遷都︵口和十八年︶の後に司令中正となって名声があり、ついで 右将軍威斎王禧の開府従事中郎となり、叉河南邑中正となった。衡品に 出て高直の称があったと言うのは、中正に在って公平であったとの意で ある。 章嵩頻居器品、以平直見称。出為郷郡太守、更満応代、吏員印章乞留、 復延三年、在郡九年。 とある。郡太守として九年間も在職した例であるが、明かに世宗朝の 事であって、﹁更満応代﹂とは六年置任期が満了して交代すべき時に至っ た事を言ったものである。復三年の延長は善政を慕う家声の希望が容れ られた結果である。これらの例に拠ると、守令の任期は法家者流の厳重 な官僚運営ではなくして、地方の実情に合致する事がより重要な要件で あって、任期も長期であり、且つ融通性があったものと言える。守令の 六年以上の在任の例は世祖太武帝の朝にも在ったが、高祖孝文帝の考格 にも一貫していて、京官などの運営とは異った規定であった。郡県の安 定と言う本旨に照らして九年の延長も欲しも不法とはならなかったので あるが、限満とか更満とある当時通用の言葉からして郡守県令の任期は 普通常識的には六年と定まっていたのである。六年限満の守令が景明二 年以後は全く考課が行われなくなって、一地に固定化してしまったので あり、本来の任期の目的を逸脱して、沈滞活動化した状態に置かれてし まったのである。 次に粛痛言︵α窃歯Qo︶の考課と守令との関係はどうであったろうか。 魏書巻七一表帯遙伝には、 山粛自爪初、 拝平冒尿十ハ守、 在郡山ハ年、 政理如在威陽。 とある。郡守の任期六年は、高祖以来の通制であったが、粛宗朝に至っ て此の制度が厳守されていた証左である。氏文遙に限った特例では無 い。粛宗朝の考課の実施の状態は、魏書巻五九瀟宝寅伝に論ぜられてい る。彼の正光四年︵認Q。︶の上表があって、此の当時の考課の弊害とこの 対策としての改革意見を上表した内容である。此の詩の官僚の種別を誓 事の官としては京官と地方官とし、それに無官を加えて、三種類とし、 夫々考課の年限に著しい差異のある不合理を論じているが、地方官では 郡守県令の考課に論及しているのは、詞宗以来の重要な政治問題たる事 を示している。まず京官については、 又在京器官、積年一考、壷中、留所事之主、遷移数四、患所奉儲君、 身亡廃絶、或具寮離索、或同時凋零。錐当時丈簿記其難業、日三月深、一29一
145 北斉村落制の成立過程幅島) 鮫落石尽、人有去留、誰等長其勤堕。 とある。京職は﹁積年一考﹂とあって、三年一考が守られていない事実 を示している。そしてこの積年一考とは、上下の主従関係も、同僚の関 係も変化してしまって、殿最を記録した交簿も不明となる程の長年月を 経過して行うものであると言うのである。其の根拠が明かで無い所から 相互に色々不正なつながりを作って各自の考第を良くしようとする弊害 を論じたものである。次に地方官たる守令については 叉勤憧塵隠、威帰守令、厭任非望、所責紐重。然大言考課、悉以六下 為程、既而限満代還、復経六年而叙、是則歳周十二、始得一階。 とある。長官や外官の実務の官は以上の如くであるが、散財の進級につ いては、 及其土日、更得四年為限、是則一紀之中、便登三級。 とある。職事を持たない散位は四年に一階、一紀︵十二年目に三階級を 進むのに、京官や守令の三密と比較して甚しく不合理であると言う主張 である。 以上の粛⋮宝亀の上表で、考課は三年一考と言う原則が全く守られてい ない事が明かであり、又特に注意すべき事実は、京学と守令との考課の 規定が異る内容のものであると言う新しい事実である。京官は積年一考 であっても原則は三年一考であるが、郡守県令は六年を以て考課を行う 程式があり、其の一階の進級には任期満了して交代して帰還した後に、 更に六年を経過せねばならない。つまり十二年に一階の進級であると言 うのである。省令の六年の任期は高祖以来の旧法であったから其の原則 は一貫して守られているが、更に六年後の叙階と言う事は、今までの史 料に無かった事で.ある。恐らくこれは粛宗朝に始まった署長では無くし て、従前から行われた制度であったと思われる。百官の考課と難防を停 止する事は、内外官僚の統一的運営が停滞する事であって、特に守令は 一階の進級に十二年をも要する事とて郡県官僚の固定化の被害は更に甚 しいものがある。下部官僚の地位が硬著し、考格による有機的な官僚運 営が不可能となると、高祖の理想とした北魏の集権的官僚政治は破壊す る。世宗から粛宗にと進展する政治の末期的混乱はこの内部的自壊の現 われである。官僚制の動脈硬化は一日の原因になるものでは無いが特に 此の儒を奨長めた者は、武夫勲人の入選で、霧伝︵魏書巻六四︶覧 える如き暴力による官職の要求である。此の暴力を抑制する政治力を既 に失っている北魏では、霊太后が武官の入選を許して以来官職の不足は 更らに甚しく、﹁設令十人共一官、猶無官可授﹂と言う程に充満して、昇 進補充し得る空位は全く無くなってしまったのである。尚書李紹は﹁循 常、擢人﹂の実力任用主義を実施したが、﹁百姓大為墜怨﹂と言う風に、 一般に反対者の多い祉会状態に在った。武人の暴力とこれを含めた社会 人の反対に屈伏した北魏政権は、吏部尚書崔亮の創案によって、神亀二 年︵盟㊤︶停年格を実施した。停年格とは、 一言にして﹁不問士之賢愚、 専領停菊月為断﹂・あるもので、賠伝︵管巻︶には﹁不学人ま二 等着旧﹂ともある。一種の年功優先の鐙衡である。庸才下晶で従来下位 に沈滞していた者がその勤務の年功が久しい為めに灼然として昇進が早 いと言う制度となったので沈滞者からは大いに好評を得たとある。停年 格に対する知識人の反擾と非難は甚しい。崔亮の外甥の司前端議劉景安 は﹁天下士子、誰鉛筆属名行哉﹂と言って、停年格によって官僚の沈滞 腐敗の必至である事を痛論して、崔亮の反省を求めているが、確しかに 其の欠点を突いたもので、魏書の撰者である葱鮪も﹁自酌賢愚同憂、脛 滑無畜﹂と言って、﹁魏之失才、従亮始也﹂と言って、苗齢の対策に歴史 家として北魏衰亡の論評を加えている。当時の知識人官僚の定論となっ た非難の言論中で、停年格の郡県の政治に及した弊害を論じたのは、霊 太后に上書した吏部語中鎌取の意見と、粛面外の孝昌二年に上卑した吏 部郎中辛雄の意見とで、注意すべきものがある。採鉱︵北史巻二五︶は 停年格の年労主義を非難して笹踊の官吏野面と言う事の無意味である事 を述べると共に、特に郡守県令長の地位は重大であるから入職の遠近、 年勲の多少に拘わることなしに才学兼備し、政職に暁達する者を第一に
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9 1 号 7 第 要 紀 大 滋 144 選に入れ、次に積労の年功者で牧人の心ある者は先ず任用の限りとする が其の余の牧人の才に堪えない者は年労者は任用しない。将佐丞尉の如 き直接に民衆に害を与えない職は年次によって任用すべきであると。此 .の意見は年労主義と実力主義の両要素を取った任用方法であるが、郡守 県令に貫くものは実力者の任用である。この上書は容れられなかったが 再び上写して漢代の選挙制に準じて四科を立て、郡県の吏は三公宰貴に 一代の賢才を推薦させるべきだと陳述している。要するに臨書は守令の 任用に対策を立てねばならないと言う主張である。停年格が行われる限 り醇取も述べる如く吏部の官吏錠衡と言う事は無意味であって、考課に よって瀦防される余地は少い。官僚運営は行きつまてしまい、国政の基 盤である郡県の政治は優秀な官吏を失って沈滞し混乱してしまう。此の 官僚運営に徹底的な改革を加えない限り尊意政権の自壊は必然の傾向に 在ると言うのである⑨。此の事に著冠したのが辛雄であって、吏部面中 として官僚任用の地位に在った。辛雄の改革の意見は第一節で既に述べ たが、高祖・諸宗の善政が粛宗に至って乱れ、民衆は混乱し兵乱となっ た原因は停年格による官吏任用の悪い結果である。年功によって詰直さ れる人物は老旧であり庸劣の人物が多い。庸劣の人は大体に卑官汚吏で あって、これが郡守県宰となると皆豊平を是れ求め、放縦の限りをし て、地方政治を乱し農村を混乱させてしまって、無政府無秩序の状態と する。 二聖明詔、寝而不遵、画一之法、懸而不用、自著夷夏之民、相撃為乱、 豊有余馬借。蕎講授不得其人、百姓不堪其雲量。︵魏書巻七七辛雄伝︶ とあって、粛宗末の戦乱の原因が停年格の弊害に由って、貧官汚吏が庶 民を苦しめる結果であると論じている。此の辛雄の著眼は禅宗以来累積 して来た官僚制の行きづまりによる必然的結果を良く道破したものと言 える。辛雄は兵乱と地方農村の破壊を論じて、これを救済するには郡守 県令の選挙を重くして、真に才望を尽した人物に任じなければならない が、両存出来なければ地謡を後にして才能を置きとして任用すべきで、・ 鈴革なき停年制などに拘ってはならないと。そして官僚制の運営につい ては、 三下瓢防、有称二言在京名官、如前代故事、不歴郡県、不霊湯内職、 則人思自勉、上下同心、雄心可申、彊暴自息、刑政日平、民俗奉化 。復虚血垂心潰鑑於逆徒也。︵銅V とある。守宰は転官とは異って六年忌任期で十二年で一階の昇進であっ た。三年の考課で格言するのは、新陳代謝を早くして沈滞と固定化を破 ることとなる。郡県から京都の名官に転補せしめたり、或は郡県の官歴 がなければ中央の内官たり得ないとは、郡県の地位を重視すると共に、 能力次第で栄進を保証した積極策である。又これによって中央と地方と の一体的統一的な運営をはかるもので、集権体制の強化策でもある。要 するに辛雄の敵革案は現行の停年格を根本的に改めて、北登載の混乱し た政局の転換を企てたものであったが、粛宗崩じて実.現するに至らなか った。 停年格をめぐって以上の如く発展した北魏の政権はその崩壊の前夜に 在った孝昌元年に郡部県令を中心とした考課が行われている。 孝昌元年二月壬寅詔日、勧善瓢悪、経国茂典、其黒斑歳一終、郡守列 室長、刺史列幅下、以定考課、弁其能否。若手毒消、以考前失衷論。 ︵難儲九︶ とある。此の考課の形式は前に挙げた世祖太武帝太延元年の形式に類す るものがある。郡県の考課はかかる形式で行われたのであろう。地方の 実情に照らして到底実効のあったものでは無いが、地方の実情は実情と して、雷電は厳に存在していたのである。守宰は任期六年で十二年一階 の進級の規定は変化は無かったであろう。 出格の問題に立入ってやや本論を逸脱した憾があるが、北魏では通学 県令の任期は一貫して六年が法制上の年限であって、決して二年や三年 で転免となるのが常制であるわけでは無かった。善政の良吏では九年も 十年以上も在任する事も認容される運営であった。其の考格も京官とは一31一
143 北斉村落制の成立過程 (福島) 異って、内外の官吏では考課の年期と国防の年期を異にしていて、守令 は十二年に一階の進級とある。こうした長年の勤務は本来は良吏をして 地方政治に専念せしめるのが目的であった。六年を年限とした規定は西 南朝でも実施されていた。宋書巻九二、良吏伝序に、 守宰之職、以下碁為断。難没世不徒、未及買時、平民有所係、吏遅駆. 得。家政人足。 とある。郡守県令の年限は北魏と同様に六年である。宋交帝の元嘉の治 の原因をなすと思われるが、守部を長く一所に留めて民俗とつながり官 吏に不正なからしめて、責任を以て其の地.の政治にあつからしめる趣意 であった。北裾短に官僚運営の停滞はあったが、守宰の年限の原則が改 変されたものでは無かった。粛宝費の改革の上表も﹁寛無所定﹂となっ ている。轟は北下の繁体製禁湿舌司悉依旧血早﹂︵魏書巻十二︶・あ る如くに北魏の旧制を以て運営したのであった。宮崎博士は、北魏孝文 帝以後の制度は北斉が継承しているから北魏の制度を以て北斉の制度を 理解する事が出来ると説かれているが⑩、東魏は改まって北斉となるが、 高歓政権の一貫したものである。してみると臨准王孝友が﹁在郡積年﹂ とあって、法を守って甚だ声称を著すと言うのは、孝交帝以後の逸事県 令の任期と、運営とに従って考えるべきものである。常識的にも積年と 言うのは、三年や四年の言いでは無いが、上述の官僚運営の規定に準拠 した勤続年数を示すものと考えると、その年数は六年とか、或は良吏の 故に九年とかの年数を内容としたものである。この年数を底幅の魏サの 地位に在ったと言うのである。これを孝漁燈の末年︵留O︶から逆算する と、献武豊︵高遠︶の死後、丈嚢王r︵高澄︶の政権中の三年間の事とす べきでは無くして、更に遡って高樹の在世中の事と言わねばならない。 それでは元孝友が魏サとなったのは天平元年︵qQ。心︶の魏サの始置、即ち 東魏初年からかと言うとそれは明かにそうでは無い。魏書巻六五李譜伝 に、 孝静初、遭母憂還郷里、重扇魏サ、将軍如故。歯面制未終、表解。 とあるし、叉魏書巻四一源子恭伝に、 天平軍資中書監。三年拝速歩、叉為斉献武王軍司。元象元年卒。 とある。天平三年交薬王輔政の時は源子恭であり、孝静帝や弦掛王と華 林園に宴遊したのは天平三年以後であり、彼は槍州刺史であった。、元孝 友伝に槍州刺史となって以後の官歴を全く記録することなしに久しく魏 サに在った事のみを記している所を見ると槍州刺史から魏 ヂに遷ったと 解釈する外は無い。かぐ解釈して反証となる根拠は無いし、魏サたるこ と積年であったと言うのはこの山陰である。そして﹁野釣積年﹂とある のは明かに東魏の後期の事であるから沖州刺史で華林園に宴遊したのは 東魏前期の事実と言う計算になる。この事実は文裏王の離恨に常駐して 内政の指導にあたった時期とも完全に一致するわけである。 以上の結論に基いて元孝友伝の記載の順序をみると、上表したのは、 華林園の宴遊の記事の次に在って、﹁孝友曇霞政理﹂と書き始めてつづい て﹁嘗奏表日﹂として上表を載せている。元孝友が政理に明達していた とは、野州刺史としての政治実績と其の政治的見識から言ったものであ り、その証左として上表を掲げて元孝友の政治的見識の非凡であったこ とを示したものである。上表は魏サの地位に在った時では無くして、槍 州刺史としてあった時の上表であると推断されるのである。 以上の結論として、志田氏が墓−林園で宴遊の行われた時期を、文嚢王 の在世中で神武の死後の事として、武定五年︵経﹃︶七月以後、武定七年 (㎝ yΦ︶七月に丈瓢虫が害されるまでの間のこととしたのは、否定されな ければならない。叉上表の時期も武定五年七月、丈裏王が使持節大本相 都督中外諸軍事録尚書事大行蔵渤海王となった時から孝静帝在位の末年 ︵五五〇︶までの間の事として、﹁東魏末造に元孝友が郷党制に対する改 革意見を提案した。﹂と断定したのは、明かに誤謬の論断であって、成 立しない。 ■の二 かくして志田氏の東魏末造の上表説が否定されて、寧ろ東魏前半の事
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1 号 7 第 滋 大 紀 要 142 とする解釈が可能である。東魏は孝半島即位の天平元年︵㎝ω恥︶から武定 八年︵誤O︶に至る十七年間で、この前半の事件として解すべきものがあ る。此の考定を裏附けするものは資治通鑑の説である。同書巻一五八、 大同七年の条に、﹁東魏臨潅王孝友日﹂として、上表の事実を此の年に繋 ぐのである。梁武帝の大同七年︵㎝自︶は、東法難静坐の興和三年にあた る。東魏末年からして九年以前の事であり、東魏前半の事ではあるが、 これを興和三年︵蟄一︶に決定する明確な記録は、魏書・北斉書・北史か らは発見することは出来ない。通鑑の繋年も上掲の史書とは別により根 本的な資料があったとも思えないから司馬光の解釈による年次の決定で あると判断する外は無いであろう。それでは通鑑は如何なる歴史的事実 に基いて上表の年次を決定したのであろうか。以下東魏の政治に照らし てこの点を検討してみよう。 三長制による村落麦配は、官僚制の支配機構を通して中央に集中され ている。従って三長制改革の問題は当然に中央の政治的改革に伴なった 官僚機構の改革に関連するのであり、かくして一貫して中央の政治が村 落社会にまで貫徹することとなる。こうした上部構造の改革が関連的前 提となって隷属的な末端機構の改革が問題となってくるのであるから、 元孝友上表の年代の規定は、上部の政治動向に関わるものとして此の点 に注目して、看過する事の出来ない問題である。 東畑は尊爵帝一代で終るが、孝天帝の擁立は高雄の権略に出たもので 表面的偽慢的なものがあって、やがて北斉の成立する前段階となるに過 ぎない。従って軍国の実権は晋陽に於ける図葉の大丞相府・に帰するが、 其の麦配の構成は言わば軍政二分であった。晋陽は兵馬之地として高歓 が覇業の達成にあたり、再三は政治の中心で高歓は親臣に委任した。即 ち北斉書巻一八の末文に撰者李百薬は論じて曰く、 史臣日、高祖以晋陽戎馬之地、覇図依属、治兵訓旅、遙制朝権、京華 機務、委寄深遠。孫騰等倶不能清貞守道、以治乱為懐、厚漱貨財、填 彼雄心。昔薫何之鎮面縛、筍残之居許下、不亦異。於是乎頼世宗入汐、 責以驕縦、厚遇崔遙、手製溌墨、不然則君子属厭、豊時間焉。 とある。東魏の初年、高配の委任を受けて京台の機務を掌る権官は孫騰 を始めとして貧官汚吏が多く、北魏末の混乱を受けたまま粛清政治は確 立しなかった。華車同の歴代史表によると畢生に於ける上部機構は明か であるが今此の全貌を詳論するのが目的で無い。李百薬の論に即して其 れを例証すると、これらの官僚の中でも特に高岳・高隆之・司馬子如・ 三聖は四二と称されて、高野の最も深重な委任を受けている。北斉書巻 一八孫子伝に、 在鄭、与高岳・高隆之・司馬子如、号為四望。非法専恣、騰調馬焉。 とある。四人の中で高岳︵北爆書巻一三︶のみが比較的高祖世宗の期待 を裏切らなかっただけである。高岳は高祖︵高歓︶の従父弟であって清 河王岳である。侍中孫騰と共に京師に在って家政したが、顕祖の増高帰 彦の構に会い非命に終っている。孫騰︵榎草書巻一八︶は高祖の信任を 受けて天平初、尚書左単射となり、﹁内外之事、騰威知之﹂とある程であ ったが、清白の官吏では無くて寅慾の限りをして官紀を乱した事を伝え ている。高隆之︵北端書巻一八︶は尚書令右僕射で侍中を兼ね、司馬子 如︵北斉書巻一八︶は左孕射となって相並んで重職に在ったが、高隆之 は皇宗︵高澄︶が宰となるに及んで受納の罪で大いに責辱を加えられて おり、司馬子如も﹁与奪心情﹂と言う態の男であって、世宗が輔政とな るに及んで御史中尉崔逞の弾劾を受けている。四貴と言われる大官で、 委任を受けて政治の枢機に在っても、混乱した社会の弊風のままに不正 を不正としなかったのである。群小の官吏の風紀を推して知ることが出 来る。素乱した鄭都の政治を粛清して、権官豪族を容量なく処断して内 治の整頓をし、地方にまで秩序を立てたのは、世宗丈嚢帝であり、世譜 を中心とした官僚群であった。前述の如く高澄は自ら求めて、高曇の許 しを得て天平三年郷都に入って朝政を輔佐したが、武定四年に晋陽に至 るまで内治の改革に尽している。時に高澄は未だ少年に過ぎなかった が、強いて高堂の許しを得て郵に入って朝政を車知することになった。一33一
141 北斉村落制の成立過程 (福島) ケン この事に尽力した孫塞が、其の功を侍んで特進を乞うた時に但単騎常侍 を加えたのみとある。官僚の粛清を深く決意していたのである。北斉書 巻二四陳元康伝に、 世宗入輔京室。崔逞・義母鍔・鶴甲等並被任使、闘牛・張徽章並高祖 所待遇、然委任皆出元康之下。時人語日、三崔二士不如一康。 とある。高歓・高潔の信任を受けた代表的人物を挙げたものである。陳 元康は﹁識超往哲、単極時英﹂と言う如き人物で高炉に、献策すること が多かったが、清白の人物では無く、﹁溺於財利、受納金茶﹂とか、﹁放 責交易、偏於出頭﹂などとあって群論の非議を受けている。世宗の難に 殉じたが、世宗は﹁元康既貧貨賄、一世宗内茎蜂之﹂と言う一面があっ 亀張亮︵北斉書巻二五︶も藻為高祖世宗所信黍以腹心手任﹂・あるが、財 利を好み﹁在左右、不能廉潔﹂とか地方長官となっても﹁歴諸撚、威有 黙貨之聞﹂と言う貧官の一面があった。ただ三崔のみは世宗の羽翼とな って粛清政治を容謝なく推進したのである。 崔逞︵北斉書巻三〇︶は緩安平の人で、漢の尚書難の後である。崔昂︵響 。︶も農安平の出身で、祖の雛は魏富船刺史であり、書意璽認巻︶ も亦博陵安平の人で父の崔軍楽は魏の鴻櫨卿であった。所謂三崔は同郷 の同族であって、華麗伝に﹁世為北州著姓﹂とある如く、漢代以来晴唐 にわたる名族であって、博陵の崔氏と言われ、門閥豪族の貴族祉会で帝 族にまさる第一等の世理であることは、歴代の史書これを著録し、史家 周知の事実である。此の崔族と結合して、世頸丈嚢帝の粛清政治が推進 されたのである。元魏と豪族との通婚による結合、豪族間の通婚による 結合は、既に宮川博士の博渉な考証のある所であるが⑪、高卑政権も同 様であり、掌骨宗の女を崔邊の子に嫁した如く聖運とも通婚し、崔族は 叉渤海帯の高上とか趙郡平棘の李氏とか禁陽開封の旦夕などと雷う華北 一流の名族と通婚して豪族的勢力を固めていたのである。繋争は武定初 吏部郎から御史中尉となって権輿を避けることなしに摘発するが、当時 御史中尉は北魏の官僚制の如くに御史を部下として統轄し、長官たる中 尉は御史を自由に辟召していたのである⑫。高乾の壁高慎は元町初に御 かな 史中尉となったが、﹁選用御史多其親戚郷閾﹂とあって朝望に称わずして 世宗は改選せしめたとある。崔遙は 武定初遷御史中尉、選畢義雲・墓畔・宋農道・野心・軍陣・社藍稽 曄・糟偉・隼武季昌運為御史。世称其知人。︵姦臣伝︶ とある。有能な人材を部下に集めたのである。 ﹁世宗欲仮逞威勢﹂とあ る如くに、豪族祉会の信望の厚い女族の如き強固な勢力構成.の支持を受 けて、中央地方の不法な豪族官僚の風圧が出来たと言える。孫々・司馬 子如・元羨・黒々王坦などの大官を始め多数の権豪を弾圧して、免官或 は翠黛に処断した。当時大官の不正のみでなく、大官は豪族的構成をし ていたので、其の余累の弊害も多かったのである。 時濠州親族賓客、在都下放縦、多行不軌。孫騰・司馬子単二門尤劇、
昂受世宗密旨以編之。黒崎間童謡.︵羅島伝︶
とある。雛易が丈裏帝の命で余累の不法を処断したと言うのである。 ﹁内外斉粛﹂とあって厳法主義が徹底したとある。雀季請伝には 時勲貴多不法、交裏無所縦捨、緊急以季箭及崔遙等所為、甚被怨疾。 とある。崔季舖と崔遙等が一体となって丈嚢帝を助けて不法者の処断を 行ったと言うのである。女上帝を中核とした三巴の勢力構成によって粛 正政治が実行され、﹁遠遍粛清﹂とあるように地方にまで及ぼされて行っ た。雀遙伝に高野が崔遙の粛正の功を称した語の次に、 魏当量於華林園。謂高祖日、自慰朝貴、墨守令長、所在百司、県有貧 暴、侵削下人。朝廷意中、有用心公平、直言弾劾、回避親戚者、王可 勧潭︵北斉書巻三十︶ とある。高歓は詔を奉じて豊野の功に賞賜したとある。世宗の入朝輔政 から武定年間にかけて、厳法厳罰主義が地方にまで徹底して行って、其 の政治が粛清された事を伝えている。 東魏の初、地方官僚は高歓の威令に服しなかった。天平元年に侍中封隆之等五人の喜実与して天下を巡論芒めた︵難孝︶。翌天平二
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1 号 7 第 要 紀滋大
140 年に﹁治民之官、多不奉法﹂の情態に在るので、警官の清正者を各州毎 に一人宛派遣して農民を安旛せしめている。前項に論及した如く北魏末 の郡県は官僚の腐敗と共に秩序が立たなくなって諸官汚吏が多く、半ば 無統制の状態に在った。北魏末の混乱と政権の争奪戦は一層此の風を助 長したであろうが、これとは別に、東魏に著て地方官僚が不法であり、 反統制的であったのには二三の理由がある。北魏粛宗末からの打ち続く 戦乱で地方官僚は文武の権を一身に集めて、独立自存の体制を強化した 事である。高隆之伝に、 魏自孝昌己後、天下多難、刺史太守、皆為当別都督。難無兵事、皆立 佐僚、所在頗為煩擾。隆之表請、二二実在必要、町有兵馬者、悉皆断 之。︵北斉書巻一八︶ とある。州刺史郡太守は文官であって文治の官属を持つわけであるが、 三六末以後の戦乱で、刺史太守は夫々守部の都督をも兼ねて其の幕府下 には文官とは別に武官の佐僚を立てて兵馬の権をも掌握していたのであ る。これは各地の州郡の状態であるが、﹁所在頗為煩擾﹂と言うのは、州 郡の内に丈武平系統の二宮が並存して麦配機構として煩擾を極めたと言 うばかりでは無くして、州郡は言わば一個の独立勢力の体制下に在るわ けで、これでは新政権の威令は簡単に徹底し難いことを言ったもので、 従って辺境の軍政を必要とする地城以外は、州郡の兵馬の権は一切断絶 しようと言う対策である。かかる条件下に在る軍隊が無秩序なものであ った事は、﹁冒奇矯官者﹂が犯濫した事でもわかる。署名猟官とは、岡崎 博士の﹁僧階艦名﹂とある種のもので⑭、軍功の有無を度外した豪族の 私恩、或は偽称によるものであろう。此の種の偽称者が無数に在ったと 言う事実で軍隊構成の実情が知られる。前掲の高隆之伝に、 自軍国多事、冒名器官署、不可勝数。隆之奏請検括、獲五万余人、而 愛惜需隆之催嵩置。︵北斉書一八︶ とある。検括の己に波及するを恐れる璽小の色名騒芸者を加えるとまさ に中央の権力者に抗し得る一大勢力であって、其の数は数えるべからざ るものがあった・。此の種の謹群小・言っても華商群小﹂︵北斉書巻十︶ の用法もある如く、一種の実力者であって、夫々特権を主張して地方民 衆を苦しめたであろうが、特に単弱な貧農は其の害に苦しんだであろう 事は、論ずるまでも無いことである。 官僚の横暴は高慮の止むを得ない政略による黙認と言う理由もあっ た。死命を署した政権争華の復讐勢力構成が原因である。杜弼︵砒 譜騰︶は轟に仕還した名臣であるが、丈武の官僚簾肇が乏しいの で高祖︵高歓︶に忠 言した。時に高歓は次の如く答える。 天下、濁乱の習俗は已に久しい、今自分に属する将軍の転属は多く西 魏︵関西︶に在り、宇交泰は常にこれらの将軍を招麗しておるので、 将軍達の心は未だ定まっておらない。江東︵南朝︶では梁寝藁薫術が 君臨して、専ら衣冠礼楽を薫じた政治をしておる。中原の士大夫︵北 朝の漢人︶は叢れを望んで正当天子の所在と考えている。此の際若し 自分が急に綱紀を厳正にするならば、将軍達は西魏の注文泰に投じ、 漢族の士人は悉く南朝に奔るであろう。 と言って、綱紀を粛正する時機で無い事を述べて﹁宜少待、吾不忘之﹂ と言って、革新の時機の至るを待つべきであると告げている⑭。未だ安 定しない高歓政権の弱点が原因となっている。かくて高歓の地方官の任 用にも此の種の政略によるものがあった。北斉書巻四六循聖餐には次の 如く論じている。 以戦功諸将、出惜外藩、不識治体、無聞政術。非唯書協前言往行、乃 至始学課判付曹。聚甘酒厭、淫虐不己。難或直話、終無音革。於戯此 朝廷工大失。 とある。軍功の武将が必しも行政の能吏で無いことは高歓にも明かな事 であるが、戦功を賞し武人を収撹するために無智無能の武将を地方官に 任命して地方政治を貧暴と淫虐に陥したのであり、此のことは、高網敦 治の最大の失政であったと言う撰者李百薬の論評であり、嵯嘆である。 世宗による三崔の粛清政治が中央から地方政治に浸透して行くことは 一 35 一一139 北斉村落制の成立過程 (福島) 既に述べたが、これに並行して二重の著零した根本的な官僚政策は、官 吏任用の改革であった。上述のような混濁した官僚の実情を革新するの に、実力主義、徳望主義を併せた選挙制度として、新官僚によって政治 の刷新を企てた事である。世宗ば天平三年に郷都に至って朝政総知の地 位につく。この年頭に東魏では百官に官吏の推薦をさせたが、挙士で才 能の無い者は本人はもとより、推薦者たる官吏も責任を正されて共に免 官とすると言う厳制を立てている⑱。官僚の刷新は元来高歓の宿志でも あったから丈野島高澄によって強力に推進されたのであった。元象元年 (α ヨQ。︶になると従前の官僚制は根本的に改革された。 占象元年摂吏部尚書。魏自崔亮以後、選人払以年掛為制。交裏乃麓改 島式、鎗擢唯在得人。叉沙汰、尚書郎妙選人地、以充之。 とある。北魏の停年格に就ては前に述べたが、此れに対する識者の批難 も甚しく、特に此の制度が実力本位の考課制を否定し、郡県の官吏を沈 滞せしめて、郡県の政治を混乱する結果となる事に対する非難が多かっ た⑯。東魏では他の官僚制と同様に停年格も北魏のままに踏襲していた のであった。丈裏帝は其の弊害に省みて、停年格を廃止して、蘇蜜等の 主張に在った如く、才望兼備の人物主義に改めて、北魏以来の弊政の︼ 新を断行したのである。北熱狂の論議に照らしても、此の改革が地方の 郡県政治に大きな影響を興えるものがあったことは明かである。 女嚢帝による厳法厳罰主義が徹底し、官僚の任用と運営の法が改革さ れ、権力の地方貫徹が行われてゆくにつれて、臨時に中央の大官を派遺 して地方官の粛正と民衆の安定把握が企てられている。今其の顕著な二 三の史実を挙げる。 ① 天平元年十有二月年子、遺侍中封隆之等五人為大使、巡諭天下。 ︵卜書=一孝静紀︶ ② 天平二.年九月、斉磁器王以治民若干多不詳法、請選朝憲清正者、 州別離天間疾苦。︵前書︶ ③ 興和元年六月乙酉、以尚書左僕射司馬子如為山東勲防大使、尋為 東北道大行台、幽居勇士。庚寅、前穎州刺史細思三惑河南大使、 簡発勇士。︵前書同︶ 注、興和中、以為北道行台、巡検諸州、守令已下、委其馳防。 ︵北調書一八司馬子如伝︶ 紛 武定二年冬十月丁己、太保証騰・大司馬高隆袖引六七戸大使。凡 記憶戸六+秀。︵尊書孝静紀︶⑰ 注、北斉書巻一八、孫騰伝、高隆之伝を参照。 北魏末の戦乱と内官汚吏の横行で地方村落の荒廃した事は辛雄伝にも見 える所で、民衆の流亡の甚しかった事実は、贋書地形志の伝える所であ る。東魏の新政権が巡論大使や瓢防大使を派遣して考課を厳重にして地 方官吏の治績を調査し不正を弾圧する事によって国威の体制を固めたの であるが、かねて民生を安坐して、流民の安定をはかった事は、重要な 政治問題であると共に叉重要な経済問題であった。重職大官を大使とし て派遺している事でもその関心の容易なもので無かった事を知り得る。 武定二年春順順戸六十余万を検深したとあるのは、東魏初の政治と社会 の状態とを知るに足る事実である。此の二戸をなした無籍の流民は括戸 大使の政治的圧力によって析出し得たのであるが、その多くは官僚豪族 の麦配下に在って食につき、国家の戸籍を離れ、課役を免れていた者で ある。三戸政策は祉会の安定、豪族抑制の政治問題であり又経済問題で もあるが、これを徹底させて村落の秩序を立て、ひいて郡県の政治を確 立するものは、村落に着ては三寸制であり、郡県では粛正された官吏で ある。丈嚢帝の厳法厳罰による粛正工作は上述の如くであるが、最も重 要な村落機関は旧状のままに在った事は元孝友の上表に述べる所であ る。東面は北魏の遺制のままに霊長制の統制方式を利用して村落の政治 を行っていたのであるが、東魏の政治力が郡県に徹底すると共に当然に 三長制の現状に対する直視と、その改革が論議される時期に至ったので ある。それは巡察大使や瓢防大使が派遣されて、更に.括戸大使が派遣さ れた天平・興和・武定初期の事であり、丈馬料自習が内政を担当して其
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