西ドイツ共同決定法の成立とその背景--共同決定権
の歴史の一断面,1948年-51年-1-著者
門田 信男
雑誌名
東洋法学
巻
9
号
1
ページ
1-35
発行年
1965-05
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00007834/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja西ドイツの共同決定法の成立とその背景
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共同決定権の歴史の一断面、 一 九 四 八 年l
五一年ーー 七 六 五 四 三 二 一 目 次 は じ め に 対独政策転換による西側同営への組みいれ 石炭鉄鋼業の新秩序をめぐる思惑 シ ュ l マン・プランの構想のもとでの鉄鋼業 DGB が要求する共同決定権法 DGB の共同決定権防衛と反権力闘争(以下次号﹀ 共向決定法の MH 基準 HH 案妥結 共同決定法をめぐる闘争の評価 西ドイツの共同決定法の成立とその背長(一)
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は じ め
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さきに、西ドイツの財閥解体過程における組合運動と共同決定枢と題して、戦後の一九四五年から四七年にかけて の労働組合によりおしすすめられた共同決定権の歴史の一断面をとりあげた(比較法二号)。 そこで、労働者の共同決 定権は、連合国占領軍の管理のもとで、対独経済政策の基本原則である経済の非軍事化、平和経済の再建と民主化の 一貫として、鉄鋼業におけるコ γ ツェルンの解体にともなって、曲りなりにも実現したことをみた。組合の共同決定 権要求は、占領平、政府、政党、企業主そして世論のくみいった交錯模様をえがいて、 一応その目標の前段階に足合 ふ み い れ た 。 組合はなぜこの時期に経営組織をめぐる闘争を力強くたたかわなかったのか。どうして一九五一年にまでひきのば し、しかも鉱工業だけの共同決定権獲得だけで権利悶争のホコを収めざるをえなかったのか。もし敗戦直後の経済の 再編成を、今日の組合の支配的見解とも思える企業組織の民主的な管理運営においていたなら、五一年から五二年に かけての組合組織をあげての闘争と、そして後退を招かないですんだのではないのか。そこに、西ドイツ組合運動に おける戦略・戦術上の誤りがあり、組織の力をみつめた指導者のたたかいの組み方が批判されるのではないか、とい った疑問が提起されよう。この阻害要因の一つは、四八年以降の東西冷戦から生れた対独政策の転換にともなう、経 済の民主化運動にたいする占領軍の科圧と干渉である。そのこは、対独管理政策にたいする資本と政治権力の根強い反抗であり、しかもアメリカを軸とする西側三国の対独政策がこの擁護に転換したということである。この転換期に あって、組合みずから下からの要求を主体的にくみあげえなかったのは致命的といえる。 たしかに、組合は基幹産業 の社会化を中核とするいくたの霊安な目標設定の実現をめざしている。 にもかかわらず、組合の決断をずるずるとひ きのばしたのはどこにあるのだろうか。おそらくそれは、社会化の前段階と規定する共同決定格の確立を経済新秩序 の前奏曲として前面にうちだすとすれば、基本目標である社会化を中心とした重要目標が、なんくせつけられてひき のばされはしないだろうかという懸念に帰せられよう。 こ こ で は 、 一九四八年から五一年の共同決定法の成立にいたるまでの交錯校総と、そこにえがき記される妥協の産 物としての性格を素描しようと思う。占領寧の組合組織の分断策のため統一化が遅れたにしても
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それはなんら決定 的理由にはならないl
、結果としては、組合の戦略目標である社会化は水泡に帰し、かつてその前段階として位置づ けられた経営組織をめぐる闘争だけがたたかいの目標にのこされた。そして、そのあいだに企業主は資本蓄積と経済 力をたくわえ、たくましく成長した。残された唯一の目標である経営組織の新秩序も、五一年に石炭鉄鋼業での共同 決定権制度をやっとのことでわがものにするのみであって、五二年には一九二O
年経営協議会法の水準にまでも後退 を余儀なくされ、資本と権力のまえに屈せざるをえなかった。四八年から五一年の短い歳月の歴史は西ドイツ労働者 階級のはりつめた力の限界を物語る歴史でもある。 西 ド イ ツ の 共 同 決 定 法 の 成 立 と そ の 背 景四 対独政策転換による西側陣営への組みいれ 一九四五年七月のポツダムにおける三首脳会談は、ドイツを分轄しないで単一体として統治すること、ドイツ 国民の手になる政府を当分のあいだ承認しないこと、ただし行政に参与させる目的から経済、貿易および運輸に三つ の中央事務局を設けることで一致した。ポツダム協定の決定事項は日ならずして根底からくずれさった。 一 九 四 七 年 三 月 一
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日から モスクワ外相会議は全ドイツ政府をつくることで原則的に一致した。この政府には主 権国家として権限は与えず、連合国管理理事会の管理のもとにおくということであった。 四つの占領地域を一つのも のに癒着することの必要を認めたが、政府の権限をめぐりそれぞれに思惑があった。 ソ速は中央集程、仏は各州分 立主義、英米はゆるやかな連邦主義の政府を考えた。仏は英米の説得でこの点を譲るも、ザイ γ およびル l ル地方を 全ドイツ政府の管轄からはずすこと、そしてル l ル地方を国際法上の特殊地帯とすることを最後まで頑強に主張し 7こ つ い で 、 四月七日の外相会議において、 単一国家か連邦制かはドイツ国民の投票にすべきだとのソ述外相の提 案は、西側三国のかたくな恒否にあう。三国は五二年以降の軍事同盟への加盟があきらかになると、自由選挙に賛成 する。自由選挙はその時折の必要によりとりかえられる手袋のようなものであった。また、ポツダム協定の中央事務 局の設置にしても同じである。ポツダム協定が結ぼれて数カ月を経ないあいだに、仏は形式的にはポツダム協定の決 定事項に拘束されないことを理由にこれに反対し、後にこれに代るラ γ ト代表評議会を提案している。 四 七 年 四 月 一一日の西側三国外相会議は仏の構想を基礎に、各中央行政官庁はラ γ ト政府の、代表をもって椛成することで一致し た。ポツダム協定違反さえもあえてはばからない。 そのあいだに、三つの占領地区は西側の特徴を日ましにとりもどした。英米は、仏、ソ連の反対にもかかわらず、 四七年六月に両占領地区を合併して、経済行政を共通にした二重地区(統合経済領域﹀にすることを決定し、翌年の二 月六日に発効した。ソ連の反対は東西聞に溝をつくることと賠償取立の硲保にあった。ソ述は、全ドイツからの賠償 取立てを拒否されてからというものは、どんな控え目な形のものであれ、およそドイツ統一には絶対反対の態度を示 すようになった。四八年という年は東西陣営の対立を決定的にした。これが対独政策の転換を必然化した。 ﹁ ア メ リ カはアジアの防壁﹂としての日本の戦略的地位を確定し、 一月六日に米陸軍長官は日本を﹁全体主義﹂にたいする防 破堤とする旨をのべる。対独政策もまた同様であり、クレイ米軍政長官が建設的な占領政策に切換えることを戸明し たのは四九年三月一五日である。しかし、すでに四カ国管理理事会は事実上の機能を停止している。東西対立は四八 年四月一日からのベルリ γ 封鎖で顕在化した。 四七年二一月一五日のロ
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外相会議はドイツ統一問題で決裂し、これをうけてソ連を除く西側三国にベネルッ ク九三国を加えての六カ国外相会議がロ γ ド γ で行われた。四八年二月二三日からはじまったロ γ ド γ 会議は、三国 占領地区を統合しこれに適用する憲法の制定とその手続の原則、ドイツ連邦共和国の創設、ルl
ル国際管理へのドイツ の参加などに関する最終コミュニケを六月一日に発表する。このロ γ ド γ 協定を履行するため、三国軍政長官はポ γ に一一のラソトの首相を招き、西ドイツ連邦共和国設立の原則を文書にして手交した。召集の権限を与えられたラソ 西 ド イ ツ の 共 同 決 定 法 の 成 立 と そ の 背 景 五-'-J
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トの首相らの見解が三国軍政長官の承認をえたうえで、基本法制定会議は各ラ γ ト議会から選ばれた委員で椛成され てい一勺九月一日に開会した制定会議は、ラントの首相たちによって設立された専門委員会の草案を基礎に討議し、 四九年五月八日に五三票対二一票をもって西ドイツ基本法を採択する(反対票を投じた一二票は、キリ久ト教社会同盟 ( C S U ﹀ 六 票 、 中 央 党 二 票 、 ド イ ツ 党 二 票 、 共 産 党 二 票 で あ っ た ) 。 こえて五月一一一一一日、基本法は大部分のラ γ ト議会の採択 により成立し、即日公布され、その翌日から施行された。基本法の施行にともない、八月一四日に初の連邦議会選挙 ( C D U / C S U 一 三 九 名 、 spD 一 一 二 一 名 、 FDP 五二名、ドイツ党一七名、共産党一五名、議員総数回 O 二名﹀が行われた。 九月七日に成立した連邦議会と連邦参議院は、 一二日に T ・ホイ不を大統領に、 一四日に K ・アデナウアーを首相に 選出する。かくして九月二O
日にアデナウア l 連立内閣が誕生したので、翌二一日に米英仏三国は軍政から民政への 移管をなし、同時に三国と西ドイツおよび国民との関係を規定する占領条令を公表した(一九四九年一 O 月七日、ドイツ 民 主 共 和 国 が 成 立 し 、 同 時 に 政 府 樹 立 が 宣 言 さ れ て い る ﹀ 。 (1)P・ゼ i テは、この点について次のようにいっている。﹁ソ連はこれにはげしく抗議してはいたが、しかし自分の占領 地区を少くとも共通の経済行政に参加させる用意があるとはいっていたのである。しかしこのような決定はソ速の場合、ア メリカやイギリスの場合とは違って、相当大きな譲歩を意味した。:::それにもかかわらず、ソ速がその占領地区を全ドイ ツ的経済図に入れることに傾いた場合には、ソ連は自分の求める代価をあからさまに口にした。つまりソ連は、賠償を切に 必要としていることを強調していたが、ドイツの統合された経済行政は賠償取立ての一手段となると考えた﹂。(パウル・ゼ lテ著、朝広正利訳﹁ポ γ とそ久クワの問l
戦後のドイツ問題﹂一六l
七 頁 ) 。 ( 2 ) 基本法制定会議は、六五名の代表者と表決権を有しないベルリンの代表者五名によって格成された。議長はキリ久ト教民主同盟 ( C D U ﹀ の K ・アデナウアーであり、専門委員会の委員長は社会民主党 ( S P D ) の C ・ シ ュ ミ ッ ト で あ っ た 。 委員六五名の内訳は、 CDU ・ csU 二 七 名 、 spD 二七名、自由民主党 ( F D P ﹀五名、ドイツ党 ( N O己 E E ) 二名、共 産党二名であった。 ﹁キリスト教民主同盟および社会民主党にたいしては、はじめから、その政見の相違を調整するように三国軍政長官から 強制が加えられたばかりでなく、基本法制定会議もその度重なる干渉を受け、これがため基本法の制定はなかなかはかどら なかった﹂といわれる(山団員﹁ドイツ近代宗法史﹂一五三
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四頁﹀。ドイツ社会民主党の連邦共和国と基本法制定にたいす る立場は、シュ l マ ッ ハ l 党首の言葉に簡潔に語られている。﹁われわれは新しいドイツの建設を切に望むものである。し かし、述合国は、新しいドイツをドイツ人のために望むのではなく、連合国の目的のために望むのである﹂と ( W ・ タ イ マ ー著、内海洋一訳﹁ドイツ社会民主主義の歩みベ l ベルからオ l レ γ ハウアーまで﹂一一一六頁。なお、社会民主党のこれに たいする見解については、同訳書ご一五頁以下参照)。 ドイツ連邦共和国は東西両陣営の対立の産物である。西側体制への組みいれば国際政治の緊張にあるが、 九 四八年以降のマーシャル・プラ γ を中心とする西ドイツ経済へのテコいれの意義を看過することはできない。ほとん ど絶望的状態にあった当時のドイツ経済は、マーシャル・プランの発足とともにはじまった転換をとくにきわだって浮 きださせることになる。西ドイツ経済の再建過程は、本課題の時期では三つの段階にわけられよう(ミユンへ γ 経済研 究所著、吉野俊彦訳﹁西独経済の再建過程﹂四回l
五 頁 参 照 ﹀ 。 四八年におけるマーシャル・プラ γ への参加と通貨改草、 四九年の輸入自由化政策につづく合同輸出入機関の解体と西ドイツ政府の手になる貿易協定の締結、五O
年における ヨーロッパ支払同盟と朝鮮動乱である。 戦後の西ドイツにおける経済発展のもっとも顕著な特徴は一九四人年にあらわれた。その一つは、六月二O
日の米 西ドイツの共同決定法の成立とその背景 七内 U F L D 向 。 噌 i -n y n u n メ H n , “ 噌 E 4 噌 E 4 り 一 t 価 ル フ 一 平 マ ス 一 定 イ 一 頁 十 ル 一 公 印 げ 間 百 凶 引 一
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ムにもよく耐えた。また、国際経済の 観点からみても、ドイツマルクは最近の五カ年間を無事にきりぬけて 資 料 いる。時間の経過につれてドイツマルクは完全に﹁ハ l ド﹂通貨にな 月 年 ったといわれるハ表 1 参照可 西ドイツは、通貨改革によりその経済再建を許容されただけでなく、ガリオア資金の導入や、 よる積極的な措置によって支援された。 マ ー シ ャ ル ・ プ ラ γ に マーシャル国務長官のハーバード大学における一九四七年六月六日の講演に 端を発した(
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足 、 印 ・ ωU) 、 マ ー シ ャ ル ・ 。 フ ラ γ の作用を過小評価してはならない。 マーシャル・プランによる供給は、その時までドイ ツでほとんど一般的であった窮之をもっとも平凡な形で除去し、経済の基礎としての必要なハパを与えた。通貨の健 全化、国家統制の綬和、価格の自由化などの措置は、要するにマーシャル・プランによる食糧と原材料の流入をまっ表2 西独〈西ベノレリ γを含む〉の対ドノレ 地域国際収支(1949年一51年〉 ア メ リ カ の 対 日 援 助 額 〈単位100万ドノレ〉 表3 〈単位 100万ドノレ〉
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428i 25ト-)206(一-)11問 1 " ,. 前 掲 西 独 経 済 の 再 建 過 程55頁 商品・サーピス 米 会 計 年 度 1945~ 6 1946~ 7 1947~ 8 1948~ 9 1949~ 50 1950~ 1 @ f夏 金 ・ ド ノ レ 支 出 てはじめて可能となった。 マーシャル・プラ γ の主要な芯義は、西側三国が 92.6 287.3 351.4 523.7 425.3 182.6 海 外 計 1 ,862. 9 資 料 大 内 ・ 有 沢 ・ 相 原 編 「 国 家 資 金J80頁 ドイツの復興をみとめ、施設の解体やおびただしい数にのぼる工業生産の禁 止をなす占領政策を破棄したことである(訓杭、比較法二号六九瓦以下、とくに 註 (4 ﹀ に あ げ る ﹁ ポ ツ ダ ム 工 栄 計 四 ﹂ と ﹁ 改 訂 工 業 計 画 ﹂ を 参 照 さ れ た い 可 マーシャル・プランにより、西ドイツのドル地域にたいする国際収支は、 一九四八年以来アメリカのドル援助によっておおむね均衡をえたばかりでな く 一 九 五O
年および五一年にはドル援助額が、商品およびサ l ピ九の収支 資 料 による赤字分を上まわったため、外国為替保有高は増加している(表2参照)。 アメリカの対日援助資金は一九五二年に終り、この総額は一八億六千二百万 ドルにのぼる(表 3 参照)。巨額にのぼる日本の入超はこの援助資金と朝鮮動 乱による特需収入によって支払われている。対独援助資金が、わが国のそれ を大きく上まわっていることは、表2
、 3 からもうかがえよう(なお、五二年 の対独援助額は一億一千万ドル、五三年は四千万ドルである)。これが西ドイツのす みやかな国際収支の建全な均衡を可能とした。五一年と五二年における各国 の朝鮮動乱景気の中だるみも、西ドイツの輸出になんの支障もきたさなかっ た ハ 表 6 参 照 ) 。 五三年四月なかばにレン 五二年下半期からは黒字に転じ、 西ドイツの共同決定法の成立とその背景 九五大貿易国の外国貿易 (1952年=単位億ドノレ〉 表4 表5 主要工業国の人口一人当り 貿易額 国 名 │ 輸 入 │ 輸 出 ア メ リ カ 152 イ ギ リ ス 75 j] ナ ~. 41.0 フ ラ γ ス 西 ド イ ツ (1952年=単位ドル〉 国 名 │ 輸 出 │ 輸 入 日 本 24 イ タ リ ー 49 西 ド イ ツ 1760618円1 1 フ ラ ン ス ア メ リ カ イ ギ リ ス 前掲西独経済の再建過程56頁 資料 前掲西独経済の再建過程57頁 西ドイツ貿易半期別状況 〈単位 10億ドイツマルク〉 時 期 │ 輸 入 │ 輸 出 │ 差 引 i 1950年上期 4.7 3.3'(ー)1.4 か 下 期 6.7 5.1'(ー)1.6 1951年上期 65│〈
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O. れ る ( ゼ l テ 、 前 掲 訳 書 一 九 頁 ﹀ 。 表6。
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パソクは宜三億ドイツマルク 前掲西独経済の再建過程60頁 (一三億ドル)の金および外国為替 を保有した。この金額の半分以上は 金と自由ドルからなっていた ( 前 掲 ﹁西独経済の再建過程﹂五 O 頁、美濃部 一 口 出 吉 編 ﹁ 経 済 ﹂ 一 五 六 頁 参 照 ﹀ 。 そ の う え ア メ リ カ は 、 一九四七年以来西ド 資 料 イツ占領授ならびに再軍備費とし て、約二百億ドルを支出したといわ 石 炭 鉄 鋼 業 の 新 秩 序 を め ぐ る 思 惑 資 料 英軍政部の手になる鉄鋼栄の解体は、 この時期は対独経済管理において移行措置の段階にあたる。なかんずく 一九四八年末に一応の完結をみた。ドイ ツ石炭鉄鋼業は、英軍政部もうけいれる四八年一一月一O
日の石炭鉄鋼業の新体制に関する法七五号により、最終的な鉱工業再編成の準備にはいった。同法の制定により、米軍政部はル l ル 笠 工 業の管理についてはじめて公的な共同責任を負うことになった。非公式なアメリカの介入はほぼ四八年春にはじまっ たといわれる?巳・ロ
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年五月二五日、三国高等弁務官会議法二七号におきかえられた。法二七号はポツダム に移されないままに、 協定の対極に完全にのりかえた。国際政治における西ドイツの地位は一九四五年とはうらはらな政治状況におかれた ことを示している。そして経済的にも、西ドイツ経済がヨーロッパ経済の発展と健全化にとり決定的要素として承認 西 ド イ ツ の 共 同 決 定 法 の 成 立 と そ の 背 景され、その構成国の一員にむかえられることとなった。 法七五号は、その実施機関として鉄鋼業受託者協議会(印
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の設置を規定する。 ﹂ の 機 関設置の規定は法二七号にもひきつがれている。機関の任務は、連合国管理機関のもとで、ドイツ鉄鋼業の新秩序を 具体的に計画し、実施の方法を提案することにある。しかし、実際に機関が設置されたのは、法制定後ほぼ十カ月も 経った四九年九月一日であって、制定後の政治的要因が延期した決定的理由である。この委員は、英米占領地区行政 委員会 ( N g o -N 8 0 1︿ 。z
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広 告 ロ ダ ロ ・ ω ・ 0 ・ w 印 ・ ω ∞ ・ ) 。 こ う し た 抗 議をクレイ米軍政長官はにべもなく斥けている。結局、四九年八月二九日に一一名の委員が任命され、鉄鋼業受託者 協議会は九月一日に発足した。四名の組合代表は、 一四の専門部会のうち九つの議長または副議長をつとめた。 ( 1 ) 法二七号において、英米仏三国は一致した。しかし、法七五号はフランスのうけいれるところとなっていない。法七五 号はしたがって仏占領地区には適用されていない。その理由は、同法がドイツ石炭および鉄鋼業の究極の所有関係に関する 決定をドイツ政府に委ねると規定していることにある。この基本態度は法二七号にもうけつがれている。そこでフランスの 主張をくんで、法二七号は三国高等弁務官会誌の多数決により知世をなすと規定する。ロ2
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山 口 町 長 ロ ゲ 釦 ・ ロ ・ 0 ・ M m -ω 町 内 ロ ・ ω 吋 ﹀ ロ B -H ・ 参 照 。ハ 2 ) 法七五号は、石炭業については鉄鋼業とことなり、ドイツ実施機関の規定を欠いている。石炭栄は英軍政部法五二号一 般措置五号により企業を一凍結され、北ドイツ石炭管理部 ( Z o z r の RBg 。 。 己 の 5 ロ巴の監理下におかれた。ついで、四 七年八月二一日││九月一 O 日にわたるル l ル石炭に関する英米ワシ γ ト ン 協 定 に も と 。 つ い て 、 四 七 年 一 一 月 二 O 日 に 、 ド イ ツ石炭鉱業局(ロ 2 g n r o 同 o z g g G E ロ円急ロロ巴が合同石炭行理部 ( n c E r E 止 の 。 巳 の 。 己 E -0 5 毛)の施行椴関と して設置された。すなわち NGCCG は U K / U S l C C G に、ついで三国の参加した CCCG に発展した。右の DKBL は、四九年七月六日に法七五号の趣旨にのっとり、石炭栄の新秩序尖作成の委任をうけている。法二七号の制定後も、 DK BL は CCCG よ り 五 O 年六月一五日に委任されている。専門部会は六つおかれ、そのこつに組合代表が参加している。 組合は、この委任がなされるまえに、すでに社会化と共同決定をもとにする新秩序計四架を有しているが、鉄鋼業における ほ ど DKBL への影響力はみられなかった(ぐ巴・ロ 2 仲 間 各 g E L ロ 丘 町 昨 日 E E E W H H ・P ・O -M -h E R ・ ( 口 町 0 2 2 0 E ロ ロ ロ ぬ 山 自 問 。 E g r 2 m r g ﹀ h M M O H 同 r o 口"ロ日間 m B 1 w 印 -g h -F O o t 4 2 r 冨 国 - w H D 印 印 ∞ - M H H ・ ) 。 ( 3 ) 議長口同 -H V F } E 2 の推薦名簿にはつぎの名前があげられている。国 RBE 口同・﹀ r m w ロ 円 ・ 君 。 円 ロ 2 k r F 0 1 u H ハ ロ ユ 四 位 門 戸 n r w ロ 円 ・ 出 巳 ロ 岡 山 岳 ロ 巳 m F E O 山 口 門 戸 。 r E 昇 。 -r s y 町 同 日 包 門 戸 n r d 司 己 r o ] 自 開 口 ∞ o f U 円 ・ 。 ロ ロ 件 。 門 出 g -0 ・ z o 一 口 門 戸 。 r 冨 巳 O 円 切 り 円 ・ 出 2 r o ユ 宮 o ロ L o p ロ ♂ 開 門 戸 。 r H V 。H F o ロ w ロ?の 2 r 何 百 円 同 印 。 r B O L O ♂出 g 凹 ー の 口 H H H r R ∞ 。 E ・ ( 4 ) クレイ米軍政長官は、戦前に経営者として成功した事実は、その者を受託者に任命するうえでなんらの陣容にならぬとの ベる。﹁われわれは、産業を熟知し、しからずとも五大な混乱をひきおこした者を抜擢する。もしヒットラーによく奉仕し たとの籍口をうけいれるとすれば、能力があり経験に充ちた人格者を排斥することになる﹂ ( Z O 巧 吋 O H r 出 O B E 吋 ユ r g p H ・ ω ・ 巴 色 ・ ) 。 こ の 言 葉 か ら も 、 コ γ ツェルンの力と米軍政部の姿勢とつながりのほどをうかがいしることができる。 ( 5 ) 一一名の委員とは、組合代表口巳 m y 司 ♀ F O R O O Z E R r o H w z o 目 。 ♂ 解 体 鉄 鋼 企 業 の 代 表 団 日 目 。
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国 号 円 H o g -ラント政 府代表 Z g m p 巧 お ロ 2 ・英米占領地区行政委員会代表冨 o z s -受 託 者 理 事 会 代 表 思 昇 。 = ) ロ のY4
・ Hり と r g r g g ロであ る 。 。 山 口 F 2 出 g -o は留保された。理由は、法七五号 A 表に掲げる社員にして、コンツェルンの利益代表者であるから、 受託者として利害の紛争にまきこまれるおそれがある。軍政部は公表でかかる理由から留保する。したがって、同協議会は 西ドイツの共同決定法の成立とその背景四 一 一 名 の 委 員 で 構 成 す る 。 そ の 後 、 J ︿ 岳 民 口 。 円 は 石 炭 と 鉄 銅 の 連 合 に 関 し て 意 見 の 相 違 か ら 肢 を 辞 し 、 z g L S は 協 議 会 の 解 散 聞 に 死 亡 し た た め 、 五 二 年 九 月 の 舛 散 時 に は 、 総 計 九 名 と な っ た ( ロ 2 仲 間 。 rgE 仏 己 m E 巳 g t z p F P C -w m ・ ω 2 ・ ) 。 組合は鉄鋼業における新秩序の構想を、四八年六月の﹁鉄鋼業の生産性向上に関する党書﹂ Q P B 2 8 E E 5 2 色 O P E z E g g -∞ 0 2 ロ ∞ EL2 何 日 間 2 1 5 L ω E r -ロE m E O ) で す で に 表 明 す る ( U 2 2 0 r g E E a H E E E E w m b ・o -u m 同 日 。 ロ - h H V 2 H r c 白 " の ぬ 巧 O H r 富田 - w H C 回 目 印 N H C ・ h H 山 ・ 0 5 E w 問 。 ロ N O ロ 片 岡 丘 一 。 ロ ロ ロ L y s r g 己 目 自 己 ロ m w 。 。 巧 O 円r z z -w H U U U 印 ・ 巴 ∞ ・ ﹀ 。 ﹁ドイツ重工業コ γ ツ ェ ル γ は、ナチ九の拾頭と第二次大戦にたいし歴史的責任を負う。なんとなればその支配者は、 狭障な利益政策からナチスによる労働者階級の騨圧を好意的に迎えたにとどまらず、重工業の中核的指導者の公然た る入党、その政治活動をかぎりない財政支援でもって有効に促進した。 コンツェル γ とその権力者が、再び経済した がって政治的な戦略上の主要な地位を占めるとすれば、ドイツ労働者階級の意思に完全に反する。それがためには、 石炭ないし鉄銅業のいずれであれ、旧コンツェルンとその権威的代表者を将来の経済指導者から排除し、かっその復 帰は経済の民主的機関の構築で阻止しなければならぬ﹂。 ﹂の党舎は、四九年一一月一一一日の﹁ル
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ル規則と法七五 号にたいする組合の見解﹂ ( ∞ 円 。 = = 口 問 g r B O L O 円 の 05 円r m n r p E C M M N Z E H Z H B E E z E N ロB o a z N Z 円 ・3
・ ) で よ り 明 瞭に示される(ロ 22 。rSEEE 岡 山 巳 E E Z 件 、 P ロ ・ 0 ・u m -同 日 ωロ -h o g p の の 4 2 H r z 戸 、 5 u u m -m H 0 ・)。要旨はつぎのように、
llo IVB , ﹁われわれの表明は、 ヨーロッパの新秩序を意味するル l ル規則のネガティブの側面が、きわめてとぼしい建設的な芽生えさえもつみとるものであることを一不さんとするにある。ドイツ労働組合は石炭鉄鋼業のヨーロッパ規制を文 持する。かかる規制はヨーロッパ全経済の構築の基礎であり、 ヨーロッパ再建の根本的条件と考える。ドイツがヨ i ロッパの経済協力の領域で先駆的役割を演ずるためには、 ルール官庁が其に国際的官庁につくりかえられる必要があ る。ルール官庁が勝利者たる占領平の支配に服するかぎりで、 ヨーロッパ協力のための民主的秩序の秘成部分とみる ことはできない。ル l ル官庁をモデル規制にするというならば、近代国際法の原則に立脚した規定がもりこまれねば な ら ぬ 。 ルールの巨大企業はドイツ全体の公的活動にとって決定的意味をもつだけに、組合の共同決定権による民主 的管理の機関が創られねばならない。ドイツ労働組合は、 ヨーロッパの必要性の枠内で基幹産業の私所有を排除し て、はじめてドイツ経済が健全に発展することを自覚する。執行と監査機関への労働者階級の決定的参加だけが、 ヨ ーロッバの域内平和に関心をもっ内外の諸力にたいし、基幹産業にさけられない経済力の濫用を封じこむ保障になる こ と を 示 す で あ ろ う ﹂ 。 ルール規則と法七五号に対決する組合の基本的立場は、 一 九 四 九 年 一
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月 の DGB ミ ュ へ γ 結成大会における基本 綱領に要約される。 1 人間の自由と尊厳を確保するために、労働の意思と能力を有するものの完全廃倍、国民経済全体の計画性にのっとった合 目的的な配置ならびに国民経済上重要な要求充足を保障する経済政策。 経済の指語と形成をめぐるあらゆる人事、経済および社会問題に関する組殺労働者の共同決定。 基幹産業、とくに石炭鉱業、鉄釘業、重化学、エネルギー経済、重要運輸施設ならびに信用機関の公有への移行。 労働にたずさわるすべてのものが、国民経済の全収益にそれぞれふさわしい関与をなし、老年、労働不能または疾病のた 2 3 4 西ドイツの共同決定法の成立とその背景 五一 六 め 労 働 能 力 を 失 っ た も の に た い す る 十 分 な 生 活 保 障 を な す 社 会 正 義 。 DGB 議長
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・ ベ ッ ク ラ l は、これら四つの要求が﹁独立して互いに結びついたもの﹂であることを強調する。こ の基本綱領が内部的連繋のもとに貫ぬかれるためには、連邦共和国の支配権力と組合が力の証明をなし、組合が新し い経済と国家組織の原理をひるむことなく押しすすめる場合だけである。そのことはポ γ 基本法の変更を意味する。 変更は連邦議会の三分のこの過半数を要する。それが可能としても、反対者には憲法裁判所を利用する方法が残され ている。基本法の諸原理と組合の基本目標との対決のなかで、組合は要求をどう定着させるのか。かような問題意識 は組合内部において真剣にとりあげられてはいないようである令巴・ H v -円r R
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出子ア∞-E
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。しかもベックラ ーの死の直後に、後継者の手になる五一年三月二一日発表の﹁経済政策要求﹂にみるように、組合は西ドイツ経済の 根本的批判から内部的批判に上すべりしている。ピルカl
のいうように、組合の内部抗争における﹁ケイ γ ズ主義者 の 勝 利 ﹂ (同ぷ円 r o 円 - m - H W ・ O ・ -∞ ・ NC 印 止 し がそのことを示している。基本綱領がなしくずされた現実からして、四八年か ら四九年にかけての組合の党書や決定は、綱領精神を一面的にしか実際には貫徹せず、 コ ン ツ ェ ル γ 解体と社会化に たいする姿勢の陵昧さがとわれる。 労働者の共同決定権はドイツ経済の新秩序と相互に不可分に結びついている。これはミュ γへ
γ 綱 領 の 精 神 で あ る。それが社会化と結びついたコンツェルンの解体となると、椛力に密着したコ γ ツ ェ ル γ 支配者の排除と、生産性 の低下をまねかない範囲内でのこれらのものの復帰を阻止する組織の民主的行担という、きわめて皮相的・感傷的な 要求にとってかわる。ここにすでに、s
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の反対をもおしきってシユ l マ γ ・ プ ラ γ への肯定に走る要因がかくされ て い る 。
DGB
が共同決定権をドイツ経済新秩序の本質的部分ととらえながらも、組合みずからこれらにたいする 主体的立場を十分に確立していないことを暴露している。ここにみられる陵昧な機会主義が、DGB
のその後の運動 コ γ ツ ェ ル γ の登場や保守政権の長期安定化 をゆがめ、中途半端なものにし、後退を余儀なくさせる原因となった。 にたちはだかることができるどころか、かえってそれを助ける結果ともなった。 V ュi
マン・プラン構想のもとでの石炭鉄鋼業 一九五二年には一九三六年の生産額の一四四% 通貨改革以来、西ドイツ鉱工業の生産は絶えず上昇をつづけ、 1948年における欧米諸国の 鉱業生産水準 表7 (1938年=100) 99 リ タ イ ノレクセンプノレク 148 52 ツ イ ド 西 - 121 ギ ノレ.
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45 期 半 上 ス 116 リ ギ イ 60 期 斗4-
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下 タ~ 113 ン -フ オ ス 110 、 ノ - プ フ に 達 し た 。 四八年六月には、全産業の生産水準は辛じて五四%(一九三六年 1 一 前掲西独経済の再建過程62頁 0 0 ) であり、通貨改革以来五二年までに総生産が二倍半に達する自党しい発 展 を 示 し た 。 四八年というこの時点は、他の欧州諸国の産業が当時すでに三年 聞の平和建設を了えていたのにたいし、西ドイツ産業が四八年にいたってはじ めて組織的復興を開始するにいたったことを意味している。 一九四九年末から一九五O
年はじめにかけて、生産ははじめて戦前(一九三六 年)の水準を回復した。五O
年なかばに勃発した朝鮮動乱は新たな発展期の端 緒となった。動乱によって生じた需要の増大は生産増大のテ γ ポを再び促進し 資 料 た。五一年第二四半期には人口一人当り生産も三六年の水準に到達した。五一 西 ド イ ツ の 共 同 決 定 法 の 成 立 と そ の 背 景 七表8 西ドイツにおける鉱業生産の増加(1948年一1955年〉 (1936年=100) 年度 全 産 業 鉄 鋼 無 煙 炭 化 学 ガ ラ ス 製 紙 繊 維 食 糧 1948 63.0 37.7 81.1 69.7 92.5 52.2 51.0 118.7 1949 89.8 63.0 96.1 96.1 138.1 77.1 89.5 130.9 1950 113.0 81.7 105.8 125.3 139.6 97.3 118.6 144.0 1951 134.4 92.9 117.4 150.1 170.8 111.9 130.2 142.0 1952 144.2 107.3 125.4 154.7 146.8 103.8 125.2 148.9 1953 157.3 102.2 129.1 182.0 162.6 120.3 145.2 176.9 1954 176.3 114.5 135.3 210.4 193.2 139.9 150.8 182.8 1955 234.6 157.9 153.0 256.1 246.4 157.6 184.8 306.4 (11月〉 資料
W. M
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Blumenthal,
Codetermination in the German Steel lndustry,
Princeton and New ]ersey 1956,
P. 83. 表9 鉱 工 栄 生 産 の 増 加 率 〈生産増加額を%にて表示〉 発展期間o
計 鉱 業 原 料 投 資 材 消 費 財 食恰好品並品 1948年19 対 49年 43 19 49 61 60 24 1949年19 対 50年 27 11 28 38 32 14 1950年19 対 51年 20 11 18 33 17 6 1951年19 対 52年 7 5 3 13 3 6 総 19対4増8年19加52率年 129 54 130 233 150 59 l¥ 資 料 前 掲 西 独 経 済 の 再 建 過 程 67頁西ドイツ粗鋼生産高 〈単位 1,000トγ〉 表10 日 1950 44 13,506 1951 51 く註〉 実際稼動数を基礎に生産回数より 算出。 資 料 前 お 西 独 経 済 の 再 建 過 程 78頁。 年なかば以来生産の増加傾向は弱まったが、動乱景気の当然の 産〈註〉 8 10 30 18 40 15,806 1952 反動であり、五二年末頃には生産は三六年の水準を五
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方上 まわっていた。戦後の粗鋼生産高も表日にみるように、急激な 増加をとげた。しかも、五O
年なかば以来の加工工業の急激な 生産の上弁にたいし、鉄鋼の生産は歩調をともにすることがで きなかった。年粗鋼生産呈一一・一百万トγ
の制限は、すでに 五O
年に生産制限量を超過しているが、五二年七月一五日にな って公式に撤廃された。 西ドイツ石炭鉄鋼業の体制は、通貨改革と対独占領政策の切換によるばかりでなく、シュ l マ γ ・ プ ラ γ に よ 3,
OEO 2,
551 9,156 5,561 12,121 額 会 心 砂 市 作 度 1947 1949 194( -1948 年 り、第一次大戦後における国際鉄鋼カルテルに比すべくもないほどに変貌した。シュ l マ γ ・ プ ラ γ は 、EO
年五月 九日のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体の創設に関するR
・ シ ュ l マγ
仏外相の提唱にはじまる。同プラγ
は、同年八月一 四日の欧州会議の諮問協議会で採択され、関係諸国の代表は五一年四月一八日にパリI
においてシュ i マ γ ・ プ ラ γ に調印した。その後、各国議会の論議の的となり紛糾を霊ねたが、西ドイツ連邦議会は五二年一月一一一日にシュ l マ γ ・ プ ラ γ 条約を批准し、周年六月のベルギー、イタリーの各国議会の批准により参加国全部の批准を完了した。七 月二五日のバリl
における六カ国外相会議において、各国の批准害がフラン九政府に寄託されて、 西 ド イ ツ の 共 同 決 定 法 の 成 立 と そ の 背 景 ヨーロッパの歴史 九二 O に一新紀元を回すべき﹁ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体に関する条約﹂は発効した。 一九四七年のトル l マ γ 宣言に端を発し、マーシャル・プラ γ を中心とするアメリカの外交政策は、共産主義的全体 主義の拡大に抵抗するためのヨーロッパ復興と相互協力体制の実現の推進にあった。 ヨーロッパ経済協力機構︿ O E E C 、四人・四・二)はこの具体的なあらわれである。米経済協力局長官ホフマ γ のヨーロッパ経済統合の要請にこた え て 、
OEEC
みずから地域的統合と経済部門別統合に関する決議を採択し、活発に実現を開始した。ヨーロッパ内 貿易自由化の構想のもとに多角的支払機構として設立された、五O
年九月一九日のヨーロッパ支払同盟 ( E P U ) の 意 義は小さくない。しかし全般的には、各国の経済政策の基本的立場の相違と国家的利害の対立がからみ、十分な成果 はみなかった。こうした運動の反省から、五O
年 七 月 に は 、 ヨーロッパ全域にわたる問題の解決をはかる目的から、 オ ラ ン ダ 、 フランス、イタリー三国から九テイッカ l ・ プ ラ γ 、ベッチュ・プラ γ およびベラ・プランが理事会に提 案 さ れ て い る 。 シ ュ l マン・プランの構想は、資本主義経済社会を構成するユニットとしての国民経済の枠をこえて、単一市場の 設立を企図したという点に歴史的意義がある(の・司・ 0ち
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。 こ の 構 想 が 、 ヨ l ロッバの統合を目標にしたものであることは、OEEC
や欧州会議を中心とする統合 運動の推移からあきらかである。しかし構想の現実的な観点は、最終目標を達成するための一段階として、独仏聞の 伝統的対立関係を解消するため、両国間の石炭鉄鋼業を超国家的機関の管理下におき、生産の述帯性を確立すること に主服をおいた。最大の難関はルール管理機構の存廃をめぐるルール産業機構の再編成にあった。西ドイツは、シユー マ γ ・ プ ラ γ 提唱の直後に公布された p 西ドイツの石炭鉄鋼業の集中排除と非カルテル化に関する迎合国高等弁務 官会議法第二七号 d の緩和を、調印の条件として要求した。しかも、提唱後いくばくもなくして勃発した朝鮮動乱と 北大西洋条約にもとづく再軍備促進の気運は、 ヨーロッパにおける石炭鉄鋼の需給関係を逆転せしめ、売手市場を再 現するとともに、西側陣営における西ドイツの地位を強化することになった。こうした背去のもとで交渉は難航をつ づけたが、五一年にはいりようやく妥協案が成立し、周年四月、提案以来約一年を経過して正式調印のはこびになっ た 。 ル l ル管理機構の廃止について、独仏政府聞に了解が成立する。しかし、シュ
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マ γ ・ プ ラ γ の圏外にたつこと になるイギリ九は、ルールにたいする管理権を喪失するため、管理機構の廃止に最後まで難色を示した。そうした抵 抗といえども、北大西洋軍に西ドイツの参加を確保し、 ヨーロッパ防衛共同体の設立をもくろむアメリカの前にもろ くもくっし去った。 シ ュ l マ γ ・ プ ラ γ は関係六カ国(フランス、西ドイツ、イタリー、ベルギー、オラ γ ダ、ルクセンプルク)の国家法の基 本的な変更を意味する。これら関係諸国では、石炭鉄鋼業の基幹産業の分野において国家法関係法規をヨーロッパ法 におきかえることになる。西ドイツにあってはそのうえ、共同体の創設は、西ドイツにむけられた超国家法としての 占領法規の転回を意味している。占領法規もまた、これら基幹産業に関するかぎりでヨーロッパ法に抵触することに なり、内容的にも西ドイツにこれまで加えた一切の制限を廃止する結果をもたらすことになった。集中排除と非カル テル化に関する占領法規をシュ l マ γ ・ プ ラ γ はそれ自体排除するものではない。しかし、これら占領法規の存続は シ ュ l マ γ ・ プ ラ γ と相容れない。その存続は、西ドイツを差別しないことを根本とするプラ γ 日ヨーロッパ規制を 西 ド イ ツ の 共 同 決 定 法 の 成 立 と そ の 背 景無意味化することになる。このことは形式的にも実体的にもいいうる。依然として石炭鉄鋼業の領域に占領法の権限 が存するとすれば、プラ γ の構想とする共同体機関の無制約の権能(この点については、の・町・ 0 ち 己
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﹄ 巧 3 H t h H ∞ 、 HU 臼∞ -N ∞ 丘 町 ・ 参 照 ﹀ がなしくずされることになろう。実体的にも、 占領法規の内容はプラ γ の内容とうらはらな関係にある(。ち己P
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ピルカ l のいうように、シュ1
マ γ ・ プ ラ γ は 、 ヨーロッパにおけるマーシャル・プラ γ の実施にともなう必然的 な帰結であって、 フ ラ γ ス の ル l ル管理政策の挫折後のドイツ霊工業の新秩序を、真にヨーロッパの平面で解決せん とする試みであったQ
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♂ ω -P ・ O ・ -∞ -NHN ・ ﹀ 。 このプラ γ の政治目的は、西ドイツ重工業を国際管理のもとにお き、重工業体制をこなごなに打ちくだくことを阻止するにあったことはあきらかである。社会民主党と組合指導者の 一部は、西ドイツにおけるあらゆる社会民主的な志向にたいする教権的な謀叛としてはげしく反対した。しかしそう した見解も、組合内部にあっては完全一麗傍の理論家やケインズ主義者の手になる、五一年前半期のDGB
の経済政策 要求の作成にさいして葬られた。組合は、五一年初頭には過激な闘争をおしすすめながら、周年中頃には連邦政府の 経済政策に共同責任を負う地位に身をおいている。政治権力とのきびしい対決のなかで、すでに組合の述邦政府との いわゆる建設的な協力政策の路線が前面にあらわれている。短い歳月における変貌は単一組合組織のかかえる矛盾と 政党との板パサミにあった(拙稿、東洋法学六巻一号四六頁以下参照)。組合指導部は、自己の政治力とその可能性を社会 民主党をこえてなしうると解し、建設的な協力政策を社会民主党の反対にあってもあくまでも貫くことを決意している。社民党首 K ・ シ ュ l マ ッ ハ l が 、 シ ュ l マン・プラジを﹁超国家的教程的独裁主義﹂と規定したのに民し、組合 は根本的にはこれを肯定する態度をとっている
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・タイマー、訳合二一八l
九 瓦 参 照 ) 。 シ ュ ーマジ・プラ γ は党と組合のきづなに鋭いくさびをうちこむことになった。 ( 1 ) ヨーロッパ内貿易自由化のスロ l ガ γ のもとに、四九年一一月のフラ γ スの担唱になるフリタルックス(フラ γ ス 、 イ タ リ l およびベネルックス三国にわたる地域的集団)の結成、それにひきつづいてユニスカ γ 協定ハイギリスおよびスカン ヂナピア諸国を糾合する地域協定)、仏伊関税同盟、スカ γ ヂナピア関税同盟およびベネルックス経済同盟などの結成運動 がすすめられた(日銀調査局﹁ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体の発展﹂一一一瓦参照)。 ( 2 ) 妥 協 案 は 三 点 を 骨 子 と す る 。 的 ル ー ル ・ コ γ パイン(合同製鋼、クルップ等の六大カルテを中心とするルール鉄鋼 カルテル)の二十八分割。制鉄鋼業の炭坑所有の承認、ただし、石炭所有量の七五%を生産するだけの炭坑にかぎる。 竹中央石炭販売機構の解体、ただし、解体の期限を五二年一 O 月とする(日銀調査局・前拐書一九頁参照)。四
DGB
が要求する共同決定権法
組合が戦後くりかえし根強く主張した社会化とその前段階をなす共同決定権確立の要求が、ぐずぐずとひきの ばしにあったのは、連邦共和国の発展にみられたと同じ資本主義体制を堅持しようとする政治思想史的原因によって いる。経済と社会の新秩序の基礎となるあらゆる決定は中央ドイツ政府の樹立にいたるまでもちこされた。 西ドイツ連邦政府の成立した四九年九月二O
日、アデナウア l 首相は、基幹産業における所有諸関係の新秩序が必 要であり、労使の法律関係は新しい時代に即して秩序一づけられる必要のあることを言明する(巧- E
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各 l 君 。 r o ♂ の ? 西 ド イ ツ の 共 同 決 定 法 の 成 立 と そ の 背 景二 回 4 4 R H a n r H w h g ロ 宮 内 ︼ 2 H V 。 ロ E r 同 ん い ] ロ ロ ロ ︻ ︼ 。 包 包 g H u u p m ・ UO ﹀ ロ ヨ ・ ω 由 。 ・ u 旬 。 H F o ロ ・ NZ 円 。 m m n r 円 。 z p m -h H 0 ・u L O 円 m - w 円 。 円 声明は、真意において両者の相関係か否定し、後者については社 ( 1 ) 会的共同者の自己管理というベ
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ルにくるんでいる。この問題に政府から積極的に手をくだそうとはしない。ミュ γ 同 何 回 E 1 u ω ・3
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n ぎ O H r Z E -呂 町 切 ∞ - N H 品 ) ヘンでひらかれたDGB
結成大会の席上において、 ﹁社会的共同者の自己管理は新政府の基本政策の一つである。そ れゆえに暫定的にせよ連邦政府は、共同決定の規制に関する法律を提出することはない﹂と、 シュトルヒ労相は表明 する ( d -E H r o p ω ・ 釦- p
・ m -H S ・ ) 。 これをうけて使用者中央組織体の代表は、二回(第一回、五 O 年 一 月 九 日 i 一 O 日 。 第 二 回 、 三 月 三 O i = 二 目 。 ) に わ た る組合とのハッテンハイム会談をもった令巴・。・回 o E F Z 5 2 t B B g m m m o 印O R巴
m g g L 問 。 E W 呂 町 N w 問 山 口 EZgmr ω ・2
・ h M ・ 可 ・ 0oEPE 号 g E M E E t s g E二日宮巳ロ g m o p 目白色 Z S F 5 5 g w∞
- N 0 ・ h 巧 ・ ω 1 0 r F P 2 5 m ∞ め 聞 の l z 。 r H 仏 2 4 4 山 同 g o r m 注 目 。 r g 冨 5 2 5 B g m w 古 -Z 5 2 5 g g m m m o 名 門 M n F Z 円 ・ ∞ ・ 5 2 ω ・ 吋 -h E H m o r l 巧 o r R L -m ・o .
、 ω ・ 。。・﹀。会談は、共同決定を経営および経営をこえた分野で規制する必要のある点で基本的に一致した。この基本線にそ って、経営をこえた分野での共同決定としては、対等な構成による連邦およびラ γ ト経済協議会の設置、経営内共同 決定としては人事および社会的事項についての被用者の共同決定権を、使用者代表は承認した。しかし経済的共同決 定権、なかんずく監査役会の労使対等椛成と労働担当取締役の選任をめぐって、労使のあいだにぬきさしならない対 立が生じた。この対立が五O
年から五一年にかけ西ドイツ全土をつつみ、これにすべての人間をまきこんだ。 対立の源は第二回会談におけるドイツ経済新秩序に関するDGB
提案である。この提案の本質的部分は労働者の経済的共同決定権の規制にある。そして、提案は全体として不可分であり、これがくみいれられてはじめて人事および 社会的共同決定権が真にその機能をあらわす。四月一四日に文書として公にされた提案のはしがきにおいて、議長ベ ックラ l は 、 ﹁ドイツ経済を活気あるものとするためには、完全な新秩序にする必要があると労働組合は考える。新 秩序の重要な一部をなすのが経済における被用者の共同決定根の問題である﹂ ( 出 ・ 吋
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、∞巴・)とのべている。捉采のはばは、ほぼ四千の株式および株式合資 会社をふくむばかりでなく、商業および農業会議所や連邦およびラ γ ト経済協議会を対象とする。組合の指導者が、 この提案を最後通牒としての性格のものと解したかは疑問である?巴-E
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、 ∞ -H 吋 。 ・ ) が 、 現 実 に は 使 用 者 に たいする闘争通告となった。この提案は五O
年四月一四日にドイツ経済新秩序法案として発表された。こえてDGB
は、これにさらに手を加えた最終法案を五月二二日に公表している。 この間に、使用者団体連盟(︿2
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岳山足。)と創立してまもない全ドイツ工業述盟SEPT
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の小冊子を公刊する。これは使用者陣営の一般的見解とハツ テンハイム会談における主張を鮮明にしたものとして注目される。それによれば、監査役会への労働者参加は三分の 一とし、経済的事項についてはたんなる審議権をみとめるにすぎない。CDU
・CSU
は、連邦議会議員法案として、 経営内被用者共同決定に関する法案ハE
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ら ) 西 ド イ ツ の 共 同 決 定 法 の 成 立 と そ の 背 景 五一 一 六 を五月一七日に発表する。同法案は共同決定権の対象領域を経営内関係に限定し、経営をこえた分野については一 切ふれていない。くだって七月二五日の
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のドイツ経済新秩序法案ハ開 E 5 H 正 巳 ロ 何 回 の 2 2 N B N C円 一Z
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。 三 53PH 仏 。 己 目 。 r o ロ 巧 王 印 。 r t H ﹀ はDGB
法案をほぼひきついでいる。CDU
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法案とSPD
法案が連邦議会に上提され たのは、七月二七日の第一読会である。 なお、連邦政府は五月二一日の閣議で二週間内に労働省のもとで政府系を作成することを決定しハロ2
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印句。・)、いわゆる経営組織法といわれる経営内労使関係新秩序法案 ハ 開 ロ 同 巧 ロ m h 巳 ロ 2 0 S O R a r r o H L -o z o ロ O H L ロ ロ ロ mL2 目 。 N r r g M m o ロ ぐ 。 ロ ﹀ 円 r o -s o r E 2 ロ ロ L ﹀ 円 ﹃ 命 日 同 ぬ o r o H ロ 山 口 ︻ r ロ ロ 巳 ユ o r o H H ) を完成したが、これは公表されていない(
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2 H ハ ∞ B H V F ω ・4 ω ・ ロ ・ の 0 5 H r 冨 出 ・ ・ 5 8 ω -M H m ・ ) 。 政府はこの草 案をもとにつぎにのべる労使中央交渉に干渉し、共同決定権をめぐる紛争の主役を演ずる。政府案が連邦議会に上提 一一月一六日に第一読会が聞かれている。 v されたのは八月=二日で、 参 加 筒域一対象一段階 一社↑1 報知 一 一 2 共 同 一 会 一 審 議 経一的-3協議 一 事 一 4 共 同 D G B H S P D 果ω
経 協 に 単 純 な 協 議 抱 一ω
経 営 協 定 で 協 議 椛 を 一ω
協 誌 枢 は 当 該 事 項 に つ を認めるにすぎない。ょ一強行的に規定した場合。一いて協約で限定するかない り以上の協議根は経営協一立見の相述あるさい、仲一しは法律において定める内 定による経協の仲裁ない一栽ないし訴訟の逃がある一容について一般的に認め し訴訟手続による抗議松一も、仲裁は原則として伎一る。 C D U・
c s U 案 政 府 案 用 者 .r・ 万三 使ω
社 会 的 事 項 の す べ て の 問 題 に つ い て 、 経 営 協 議会(略、経協﹀の完全 な 共 同 決 定 権 を 要 求 す る ( 詳 細 は 法 律 で 定 め る ﹀告' 内 項 項 事 的 事 人 4 3 2 1 決 共 協 容 共 報 定 同 議 議 同 知 経 -報知 決 定 審議 -中 企 業 ( 被 用 者 数
一 一
01 三 O O 人)ω
技術・経済上の問題 については経済委員会に よる審議(構成、四l
八 名)。委員は単産の協力を えて被用者のうちから経 協 が 選 任 。ω
監査役会には経協委 員代表二名の出席・表決 権 。 E 大企業(被用者数三 O O 人以上または資本金 三 O O 万マルク以上) 用者を拘束しない。ω
協議権は経営協定に一ω
経営協定で協議粧を よる。意見の相述あるさ一強行的に規定した拐合。 い、仲裁ないし訴訟にお一意見の相違ある拐合は社 いて決める(但し、﹁無一会的事項と同じ。 効﹂の規定を欠く) にもとづくものとする。ω
被用者数二 O l 五 O 人以内の経営。経済委員 会ハ四l
八名)は任意設 置 と す る 。ω
被用者数五 O 人以上 の経営では、経済委員会 は設置を拘束される。権 限は報知権にとどまる。ω
監査役会を有する経 営。監査役会は三分の一 の被用者代表構成による 共 同 決 定 ( 註 ﹀ 。 監査役会を有しない五 O O 人以上の法人は、右の 2 共同 、... J究 自 ヲ 3 協議ω
すべての問題につい て、経協の完全な共同決 定権を要求する(詳細は 法律で定める) 決 定 西ドイツの共同決定法の成立とその背景 事 4 共同ω
被用者の健康管理につ いては完全な共同決定。ω
経協の共同容議権は経 営協定の方式による。ω
解雇保護法の原則内で の解約告知と大豆解雇につ いては、経協の協議桂を認 め る 。ω
報知のための経済委一 員会設置︿四 l 八名。被一 用者委員は経協が選任す一 る ﹀ 一ω
若干の前以って定め一 る問題については経協の一 協 議 粧 を 認 め る 。 一 監査機関の三分の一は被一 用者の直接秘密選挙で被一 用 者 の 中 か ら 選 出 。 一 候補者推薦名簿の提出で一 きるものは、同被用者団一 川 例 経 協 、 同 制 単 産 。ω
四半期毎の報告ω
いわゆる基本問題につ いては経協の問問的協力。ω
監持機関への被用者参 加は三分の一を認める。但 し、その資格は被用者にし て、少くとも経営に十年以 上勤続し、かつ三十才以上 であることを要する。 七経 所 議 会 区 地 産業および商業会議所の 公的任務と権限を委譲さ れた対等構成による地区 経済会誌所。手工業およ び民業会議所も同じく対 等 構 成 。 産業および商業会議所には ふれるが、地区会議所につ いてはみあたらない。手工 業 お よ び 民 業 会 議 所 も 同 様。従来存する関係団体で 組織するゲマインシャフト 機関の存続を主張する。 人
一組合の要求と原則において 一ほぼ一致。地区会誌所のち 一がいが、選出母体をことに 一することになる。 一 労 使 対 等 の 椛 成 ハ 一 一 一