• 検索結果がありません。

西ドイツにおける表現の自由 利用統計を見る

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "西ドイツにおける表現の自由 利用統計を見る"

Copied!
28
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

西ドイツにおける表現の自由

著者

鎭西 恒也

雑誌名

東洋法学

1

ページ

115-141

発行年

1957-11

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007749/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

西

西

d

憲法学者や法律の実際面に携わっている人は伝統的に﹁思想(意見)の自由﹂ と言うものを、

l

l

比の際殆ど 必ずと一宮ってよい程﹁思想発表の自由﹂が意味されており

l

l

不法な強制、就中、国家の行政権からの自由を定めた ﹁一般的自由﹂或は﹁一般的個人法 ( 1 ) ﹂の一つの分校と見倣している。 ヨーロッパ近代国家憲法の古い人権法、或は市民法のカタログに、既に、他の﹁個人的自由の 諸権利﹂と共に ││i 発表の大小、或は分校の多少そして又権利確保の強弱の程度の差こそあれ

i

l

小規模ながら現わ れている。そして其等は、他の権利と同様に共に基本法に属している。其の基本法は、特に消極的な面を中心として 国家(政府)によって守られることを要求して来た ( 2 ) 。 思想発表の自由は、 しかし此等の基本的権利は、専制国家の行政とその機構に対抗して勝ちとられたものであり、個人と社会との政治 的闘争の上に発展して来たと言う歴史的過程を通して、 来せるのみで個人的な自由としての ﹁ 制 度 と 施 設 ﹂

(

E

E

m

z

z

z

g

g

E

2

g

g

-Z

R

J

ただ防禦の、或は損害賠償の要求等を発展せしめる結呆を招 ( 2 開 山 口 1 ﹁組織と法制度﹂ 片山岳宮出問。口。品。吋問

R

V

Z

E

丸 山

Z

Z

Z

)

で は な く 、 叉其れになり得ないのである ( 8 ) O さて思想発表の自由の特別なる位置は、

l

l

個人の自由権と言う一群の中に於て占める

l

ー一般的な個人法の個々 西 ド イ ツ に お け る 表 現 の 白 血 一 一 五

(3)

京 洋 法 学 一 一 六 の部分の発展を歴史的に又構成的に見ていくことによって明らかにされ得るであろう。 る 。 自由権の中に於て価値の段階や或る秩序を作り出すための中核をなすものは、喰人間の内的な精神の自由のみであ ( 思 考 の 自 由 、 決 断 の 自 由 、 判 断 の 自 由 ( 4 ) ) そして比等は度々単に﹁思想の自由﹂と言う名で呼ばれていた。 一八世紀の啓蒙思想は、﹁自由な精神﹂の﹁自由な思考﹂の最終的な帰結として理解されねばならなかった。しか し啓蒙思想は、個々の点に於て、主観的・精神的過程の論理的合法性の同一性に基ずきつつ、自治的にして精神的な しかも内的主観と一言う思考を、全く本質的に不自由にすると言うことを、叉環境(精神の自由が存在し得ると考えられ る﹀の選択に於ても、共の理解に於ても、共の価値認識に於ても、個人の﹁精神の自由﹂はなくて、ただ﹁意欲﹂と 共れにかかわるところの行動とか心の持ち方に於てのみ、個人の精神の自由があり得ると言うことをも見逃していた の で あ る 。 ために啓蒙主義に於ては内的な﹁精神の自由﹂を憲法にとりあげて法的に保護すると言うところまでは行かなかっ た 間の﹁思考の自由﹂を、 一七八九年の人権宣言も叉其の影響の下にあるのであるが、初期の憲法の基本法に於ける概観と保障も、内的な人 人類が自由の一つとして

ll

例の奴隷

g

g

a

以前に

il

獲得したものとして、 またスピ ノザが既に彼にとっては自然法と一緒になるところの権力と言う限界を其れに定めた様な︿そのような) 自由として 保障しようとしていた。 斯くの如く考えて来ると始めて例の﹁人聞は生まれながらにして自由である。﹂と一言う言葉が、 判然と理解されて ﹁内的に自由に生まれついている﹂と言うことであり、外的な鉄鎖の枠にある人聞は、内的な思 来る。即ち人閣は、

(4)

考の自由の恩恵により、解放されることを切実に欲求すると言うのである。 技術が人格の肉体的・心的・精神的関連の中へ、倒錯的に雪崩込んで来た今世紀になって始めて啓蒙主義の場え方 に従って、比の直接に迫って来る干渉によって生ずる自由の喪失について気づかわれ始めたのである。そして人々は ﹁思考の自由﹂を心から欲したのである。 其の中心と考えられる主体的﹁精神の自由﹂の周囲に、憲法が発展して行くにつれて、個々の憲法に従って保障さ れた種々の自由権が規定される様になった。そして比等の諸権利は、個人個人の﹁精神の自由﹂を、間接的に侵害さ れることから保護し、同時に考える人間の尊厳を保とうとしたものである。 斯くして此等の諸権利は、﹁個人が孤立しているのではなく、同じ様な階級、同じ様に保護せられるべき権利を持 っている沢山の個人が構成している社会と言うものの中に、生きているのだと言う事情を顧慮する様になる (5) ロ ﹂ そして斯くの如き観点に立って考慮されているのが、即ち﹁身体保障の自由﹂、﹁生命と健康に関する自由﹂ 的な移動の自由﹂ ﹁ 身 体 ( 転 居 の 自 由 ) な の で あ る 。 此の圏内に属する諸自由は、他の個々の自由と利害得失が衝突することなしに維持されると言う特色を有し、如何 なる方法によっても相対化されない。此の自由は孤立的な完全に完成された典型的な自由権であり大きな社会的転換 に於ても、根本的な革命的・政治的変動に際しでも、また自らをデモクラチックな思想によって合法化しようとする すべての国家権力によっても、歩くとも公然とは攻撃されないもので国民主権に基ずく大多数の国家に共通的な超時 代的な財産の一つになっている。 が他の圏内に属するものとして個人の物質的・経済的な生活の要求を守る基本権がある。 西 ド イ ツ に お け る 表 現 の 自 由 一 一 七

(5)

京 洋 法 ρ品.. 'f -一 一 八 併し比の権利は、ここ一五

O

年の聞に個人の社会的・経済的な外界の変化と共れに従って生ずる精神史的変遷とを 伴ないつつ非常に強度に﹁非個人化﹂されてしまった。勿論此の権利は最初は、﹁犯すべからざる神聖なる権利﹂と見 倣されていたのであるが、併し此の権利は常に﹁公共の、法によって確認せられた必要性 ( 6 ) ﹂ ( 2

8

8

X

O

M

V

S

︼ E C P -b h E -2 5 ロ 仲

8

ロ ω 宮 沖 合 ・ ) に譲歩せざるを得なかった。 4 んも高度の調停と損害補償の留保が附与されてはいたが。 適 し て お り 、 斯くてここで保護されたポジション(物質的・経済的生活を守る基本権) そして静止的な個人権の秩序が、近代工業社会の社会化のプロセスと一致しないために、輿論は社会主 カ ミ 政治権力のコントロールし難い行使に 義学説の影響の下で特に著しくそして益々強く此の基本権の共同体に対する義務性を強調し、また或る点では此の権 利の撤廃を要求した一一種の機械化が要望されそして達成されたのである。だから昔のポジションは今日所謂﹁社会的 基本権﹂の

l

l

i

外の場所で育った 1 1 ・一群と区別することが出来るのである(よ。 個々の自由権の第三のグループの特性は、其れが少くとも二者間の特別な関係を前提とすることの中に存する。比 の権利は、自由な精神的コミュニケーションを守り、また自由に考える人聞の共同の行動をも守る。典型的な例は、 自由な意見発表の権利及び其の権利と密接に結び付いた団体・集会の自由である。 思考・精神の自由から最初の推論として、また個人にとって恰も生命を養う空気の如き、 て ( 8 ) 、人間を縛る社会的な枠から脱した個人の思考の自由として(ヱ、また人間の最も大切な権利の一つとして

( 3

、 倫理的なあるものとし それから思考の自由、芸術的自由の直接的な外部への照射として(己、 個人の﹁意見発表の自由﹂が、 比処に現われ て来るのである。 比の基本法の意味での﹁意見﹂とは、従って、合国的な思惟現象の産物であり、自らの精神的現象により、ルノしは

(6)

把握され易くなり、間接的になされた確信とか、或は表術家的な意識の内容を意味する。そして遂には共れは、明ら かに認知せられ得る。 認知せられた思考または芸術創作共れ自体であり、共等のものを発表している人間其れ自身の精神的実行と産出を 意味するのである Q Y 私は谷聞に行って独りで山彦によって自分の大声を出して、自分自身が発表した意見を楽しむことが出来る。しか し比のようなことは、吾々が今使っている様な意味での意見発表(思想発表)とは何らの関係もない

3

)

白 寧 ろ 比 等 は、基本法的に直接保護され得ないもので、法的にも又実際的にも制限され得ない自由な精神の内的活動に属してい V Q ( H )

思想(意見﹀発表の自由と一吉う基本権は、 個人の思想の其れ自身に対する発表の現象を守るのではなく、思想(意 見)を受け取ること、そして個人が其れを受け取るに至る道程を守るのである。そして共の際、通信郵便の秘密など の他の基本権が其れに関連して来る(ぎ。 思想(意見)発表の自由と、思想を受け取る自由と言うものは一緒のものである。 自由な思想発表の権利は││誤 解働されてこう呼ばれているが

il

其の相関関係にある自由な個人の思想受け入れの権利によって始めて完全なものと なるのである。と言うのは人聞のいないところへ向って発表された意見を、法的に守ると言うことは凡そナンセンス だから d で あ る 。 ス メ ン ド は 、 ﹁自由な思想(意見)発表と言う基本権のモ一ナイーブと共の意味は、 丁度基本権によって保護される要求の一部をなしているお)。﹂ 思想発表の社会的なグループを 作っている機能であり、 そして共の機能が、 と 述 べ 西ドイツに廿引ける表現の自由 一 一 九

(7)

東 洋 法 戸且, f

O て い る 。 又トマス・フォレが、古来の自然法について究明し、そして其の中で基本的人権には生来義務が内在するのである と述べたことは、在来のドイツ法の一般的な考えなのであり、例のプロイセ Y 警察法に於ても概括条項に関する一般 州法の規定 Q E ・ ロ ・ 見 K F 戸間・)は、生来の社会的義務を当然の前提としたものであった。 義務が自然的自由そのものの中に在り、﹁権利は義務なり﹂と考えるときは、義務も又基本的人権と同様に超国家 的な価値を認められ、人権が現在の国家の法として定立された場合、当然に憲法上成文化されたものと見徴されるの で あ る 。 きて一九一九年のワイマ i ル憲法は極めて社会的な考え方を其の性格の特色としていたが、ワイマ l ル 共 和 国 は 、 ﹁結局先ず何よりも其の自由権の自由主義的無内容性と、無前提性によって没落したおとのでありワイマ l ル憲法 の運命もまた其処にあった。此に反して、現西ドイツ基本法は、個人主義的な性格が非常に強いのである。此は曾つ ての国家権力の乱用に鑑み、国民の基本権の確保に、主力が注がれているからであることは言うまでもない。併し同時 に西ドイツ基本法は、共の一つの特色として、西ドイツが法治国家の原理を確立すると共に、社会的な方針も採用し て、此の両者を結合せしめんとしている。即ち西ドイツの基本法が採用した﹁社会的法治国家自己

(

m

g

E

2

2

伊 丹 ω l 見詰仲)と呼ばれる新しい国家観である。 しかし両者はときには相互に矛盾を露呈するものと者えられている場合 Q V も あ っ て 、 西ドイツ基本法の社会的法 治国家は、憲法上の困難な問題を提供している。 註-ご般的個人法(権 U ﹂ は 今 日 、 ド イ γ 連 邦 共 和 国 基 本 怯 の 第 一 章 第 一 条 の 内 容 を 国 一 固 い 現 わ す 場 合 広 く 用 い ち れ て い る

(8)

言い方である。ここでは l ワ イ マ l ル憲法一一四条と対称的に l 種々の生活領域に於ける行動の自由もはっきりと明文化さ れ て い る 。 宮 国

g

古 田 宮 内 リ 。 ロ ω 宮田仲は﹁消極的な自由と言う意味に自由の理念が、此までの諸時代にとっては宋知であった﹂と述べてい る。しかし同広島日は此の、主張について疑問を持っていると述べている。精神史的に見た場合、近代の自由観念は、単に 啓蒙主義の申し子であるばかりではない。(しかし此についてはここで詳論する余裕がないが)ヨーロッパ大陸に於て自由 の理念が国家的に認められたのは、特にブラシスの人権宣言(一七八九﹀の後であった。そして其れは、直接の手本 111 ア メリカの回己主 E m v g ︿ 口 説

t

ロ ∞ ω ) ーーから啓蒙主義に適合していない点を排除したものであった。勿論此等のことは 法的に秩序付けられた国家政体の基礎をなしている﹁法による一般的自由権の要求﹂が法律化されるための唯一つの自明な 前 提 で あ る 。 国家と言う秩序の存在から必然的に思考の結果導き出されるものであり:::自由主義の一つの原理と言うようなものでは な し 。 斯る自由は

l

l

一時的な制限緩和の過渡期を過ぎて 1 1 レ l ニンの所謂﹁新しい権力によって作られた新しい法律性﹂を 可能にする。ハ z o a g g q z e M M O E O 一 山 、 印 A H V O C B o p g o の

E

ロ a s 各 宮 、 図 。 -S E M ・ 同 広 島 2 2 冨 巳 ロ ロ 白 畑 町 民 叫 丘 町 巳 仲 3 m -N A H F ] 戸山由同区一﹀

sn

削 W H 1 ︼ 印 n H M B X 件 、 町 同 m L V A L 可 o n v g c 白 色 宮 丘 町 神 ロ 立 。 E w = 。 の ω 口 w s t o H H a A W H 問 。 r H H ω 1 4 0 民 俗 ω ω 己 目 的 ︿ H U ω c m -N R 同 ・ 4 信仰の自由 1 1 非合理的な経典によってドグマを信ずる可能性を含んでいる

1l

が、持つ非合理な要素に対して、後の俗化 した啓蒙思想は、根本に於て全く感覚を失ってしまった、特記すべきは、一七八九年の﹁神の存在と庇護の下に﹂

( z

g

882ω 。 ロ ω 目 22B

r g a o -思 Bmc 宮 ・ 仲 B 0 3 ) 発布された宣言第十条の語調の中に既に此の様子が伺われる。 ( z g g g ロ

Z

E

話 邑

ε

切 れ F 2 5 F E o m H ロ ロ a s n z p 出 巴 自 己 同 ・ 悶 庄 内 回 2 2 宮 巳 ロ C 出 関 ω 巴 F O R -- ω - N 品 。 ・ 呂 町 品 ) 522BS ロ ze 匂 E O 判印会 25F 口 町

C

E

ロ 仏 門 ぬ の 宮 命 、 出 己 自 己 同 ・ EE22 昌 巳 ロ ロ ロ m 丸 岡 氏 宮 山 骨 3 ω ・ N 怠 ・ 巴 日 仏 ・ ) 6 ω 。 k p z -a o 円 巴 o n E 2 8 4 。 ロ コ ∞ ω 宮 門 岳 協 司 片 山 g g 目 的 O B E E -西 ド イ ツ に お け る 表 現 む 自 由

(9)

東 法

洋 学 7 ワイマlル憲法一五三条の附加文 2 盟 問 。 ロ 吉 田 4 0 吋

1

z

n

Z

3

が既に﹁自由権とは異質﹂なものとして呼ばれていた。(の ω

ω

H F M

回 目 立 、 出 向 日

v

u

m

仲 間 同

ω

-g o

﹀ 此等の諸権利は、国家の自由権ではなく、或る種の国家の行為をすることに対する請求権を社会の成員としての個々人に 与えるものであり、計画的、または少くとも制限的に提示された国政に対する方針であり、若しくは個人に対して其れにふ さわしい要求を実行可能にするため、立法者に対して出す指示なのである。社会的基本権は、社会に於ける物質財の分配を 修 E することを目的としつつも、やはり今日でも尚圧倒的に一九世紀の臭味を維持しているのである。

(

z

o

d

g

州 呂 田

Z

右 匂 1

2

A q

m n

M M

O M

-ロ

o

p

U

向 。 の HHH 白 血

s

n

F

宮 、 国 巳 自 己 神 戸 間 庄 内 同

2

2

宮 巳 ロ ロ 目 白 州 民

2

5

E

仲 3 ω -M品 吋

-S

E

)

m

g

o

白 色 、 ︿ 巴

ω

仲 間

F

A

r

m

-主民 同

-g

・冨邑の 2 0 ロ ピ 四 混 同

3

3

鱗訳につけたの

g

g

d

司 ωどの解説六八頁。 ﹀立・口弘

2

o

n

z

z

。 ロ 4 。 ロ ロ ∞ ω N ・ の

E

g

B

Z

Z

の﹁スイス連邦憲法﹂(一九四九)三六八頁。

l

l

第三階級蜂起時代の特に政治的な要請は、芸術の自由 の問題性を宋だ分離さ吐ないままで意識の表面に浮び上らせている。

z

o

c

g

g

Z

3

2

a

o

w

m

n

r

g

S

F

U

目 。 の

E

E

B

n

F

0

・ 出 。 ︼ 百 三 回 ・ 同 町 円

E22

昌 巳 ロ ロ ロ

m

鬼 門

0

5

0

同 仲 ェ ω -N む・巴忠 同 志 向 凶

2

は、﹁何らかの方法で其の意見を受け入れる外界に精神的に影響を与える様な意見の伝達ということがなくてはな らない、つまり少くとも知覚され、理解されなければならない﹂と、述べている、

(

Z

g

B

B

zf

句 。

E

3

m

n

F

2

5

0

F

口 町 ゅ の

E

白 血

s

n

r

宮 、 図 。 ︼ 百 三 回 ・

E

2

2

2

5

2

目 的 民

2

5

巳 仲 ェ ω ・ ピ ∞ ・ 巴 忠 ) N ・ の

Z

8

B

Z

Z

の﹁スイス連邦憲法﹂三六四頁。自然的な自由は11l法的には把握されない様な

li

思考の自由、芸術家 的なハ体験﹀の自由を意味する。 一七八九年のフランス人権宣言の第一条は、既に、ずっと E 確に、しかも単に﹁発表﹂のみならず﹁思想と意見の自由なコ ミ ュ ニ ケ l ショシ﹂と言うことにも触れている、 切 目 。 ロ 向 日

4 u

m

-仲 間 戸 品 、 ω ・ 問 。 8 11 10 12 13 14 15 16

(10)

日、目、﹁社会的法治国家﹂ハ

ω

。 比 巳

2

R

Z

Z

S

M

W

神)と言う表現は、カルロジュミットハ

n

R

Z

m

n

r

g

目 立 ) ・ 議 員 の 提 案 に よ る ものである。ハゎ・司・冨

g

m

o

p

U

2

国 高 江 昌 弘

2

8

N

凹 巳

gpw

E

g

g

g

山 吉 田

8

5

時の

2

ロ 仏 関

2

0

仲 間 、 思 お

ω

ω )

西 ドイツ基本法制担当時に於ては、新しい国家理念の発展基盤となるとは予測されず、殆ど内容については期待されていなか っ た 。 ( 冨

g

m

o

p

ω

-P

。 ・ ・

ω

・臼)そして右の如き表現の提案された理由は、政治的なもので、第一ナチの失敗を再び繰り 返さぬこと、第二に東ドイヲの人民主義的な国家とは区別さるべき、三権分立司法権の独立の確立された国家の特徴を宣言 しようとしたに過ぎない、(冨

g

m

o

p

- M W

・ 。

4 m - ω

同)此の表現は、西ドイヲ基木法第二十条第一一良、二十八条第一項前段 等に見られるが、ナチスが法治国家の実践の名目の下に、独裁主義国家を完成した失敗に鑑み、社会的法治国家は、従来の 形式的な観念を改め、法治国家の観念に再び新しい実質的な内容を付与しようとするのである。即ち社会構成員の生存の保 障に適応した社会秩序の形成に関して、国家を憲法上積極的に義務付けようとするものである。ドイヲ国法学会の﹁社会的 法治国家の概念と本質﹂に関するフォルストホップ(開・司

2

E

Z

山内)とパッホップ︿。・国営げえ)の報告に於て西ドイヅ 基本法にいうところの社会的法治国家とは何か、社会国家としての性格は、憲法に強間に確立された法治国家的な構造の中 に同化されるか否かの論議が大きく展開された D 1 1

以後此の問題は特に大きな論議の的となった訳である。グライン(司-E

o

Z

﹀は、西ドイ付ノ基本法に於て社会観的な規定に較べて、自由権の保障に関する規定が‘撞に多いことを考寵するなら ば同憲法は市民的自由的な法治国家の主旨に重点をおくものと言い、弦に彼は、社会的な傾向との矛盲を指摘した。しかし 現代国家の実状を見るとき、市民的自由の思想の支閉した時代から、現代では大きく変動して来ていることは疑いない。国 家は必然的に社会国家の方向に進むものである。ワイマ l ル憲法は王に此の方向に進むものであった。しかし西ドイ γ 基本 法は、法治国家的な個人の権利の保障の面でワイマ l ル憲法より強化されているが社会的な面に於て不完全なものと見られ る 。 ( 司 ・

5

0

山 口 N m g 件 当 ・ 国 内 凶 ・ H O G -図 。 止 ω 、 ω ・ ω混同)しかしフォルストホップの言う如く、此の矛盲は、社会的なもの の内容及び自由の観念の促え方如何によって解消されるであろう。(開・可。

z s

。戸︿

2

p

g

m

ω

宮 . 。 ぴ 問 。 自

o

a

g

m

。 江 巳 l

ω g

m

宮 、 呂 町 品 、

ω

∞ ︹ 可

5

2

0

5

0

︺)以上の様な社会的法治国家に於て国民の基本権は如何に取り扱われるべきか、此は法治 国と社会国家との関係に於て当然に注目さるべき問題である。西ドイヲ基本法は、国民の自由権を中心に基木権の保障を定 西ドイツにおける表現 D 自由

(11)

東 洋 法 学 一 一 一 四 めているが、法文の表現が同じであったとしても、其の、主旨を旧い自由の観念によって把摂することは出来ない。自由の保 障は、個人の自己満足のみを目的とするのではなく、社会共同生活に於ける自主的な創造の自由なる保障でなければならな い 。 ( 開 ・ 同 開 言 内

g

g

p

悶 ・

ω

・ 巧 4 国 内 凶 ・ 九 日 ω -J 3 ) 連邦裁判所は、﹁ボシ憲法に於ける人間像は、孤立した至上の個人ではな く、ボン憲法はむしろ、個人対社会の産引関係を人格者の社会的な交渉関係及び社会的な結合の意味であるとし、しかも此 の場合に、人格者の特有の価値を侵害すべきものでないと決定している。このことは、特にボシ憲法第一条、二条、二一 条、一四条、一五条、一九条及び二一条の全体から判明する。しかし以上のことは、次のことを意味する。即ち個人は其の 行為の自由の制限を認めなければならない。そして其の制限とは、立法者が、社会の共同生活の保護と促進のために、所与 の実体にあって一般に期待出来ると言うことの限界に於て、しかも人格者の独自の価値を保障すると言うことを要件とし て 、 引 い た も の で あ る 。 ﹂ と 判 決 し て 、 ︿ 何 回 神 宮 町 色 。 己 目 的 。 ロ 品 。 一

ω

田 口 同 M a 2 4 0 同 時 州

5 m H

H

忠 町 一

ω m

o H

r v

宮 、 同 ・ 回

ω

口 弘 、

ω - H

C m u

阿 ・ 4 。 自 呂 、 J 己おむ個人を社会から分離して、個人と国家を対立させることは、現在の国家生活に適合するものではない。 かくて、社会的な自由は、個人の怒意的な放縦を否定し、社会の民主的な規律のもとに、撃序されたものとして把握されな ければならない。ハ開・開 m w H H内 自

gp

-m

・ 君 、 回 仏 -A r m ・

8

)

日木国憲法は、西ドイヲ憲法と具なり社会国家の理念を採用 し、社会的基本権によって明白に根拠づけているが、各人の権利自由は公共の福祉とは相対立するものではないことを宣言 している(宮沢義俊、日木国憲法︽コンメシタール︾一八八、二 O 一

t

二 O 三頁)しかして此の社会国家理念は、実質的な 発展として今後の発展にまつべきものであり、此の点からして西ドイ γ 基本法における社会的法治国家の発展は、吾が憲法 の運営に対しても重要な示唆を与えるであろう。 治 却 尚﹁社会的法治国家﹂については三の註 ( S V 後 述 。 ま た 註 ハ M V ( 左記参照) 日社会的な傾向と法治国家との矛盾する点については、司

5

0

宮、回

85

吋 の

E

E

m

g

Z

N

C

出 品 閉 め の

Z

g

g

m

件 (NO 山 神 宮 町 同 町 内 同 崎 町 同 品 目 。

m

o

g

E

g

m

g

m

g

d

a

g

o

g

n

z

p

g

H C

S

ω

ω

き 民 ・

8

0

8

- u

︿

-m

n

F

2

5

p

m

g

E

ω

m

g

ω

富 。 号

gg

m

g

g

(

RZ

m

g

旦 ・

5

ω

ω

g

m

n

E

-E

ω

H

U

E

V

(

- m

・ 巧 ・

6

ω

5f

-g

g

p

急 ・

ω

ω

・ 。 . 、

ω - N P

ω

ご ・

(12)

西ドイツでは﹁表現の自由﹂と言う用例は、多くは見られないようであるが ( 1 u 、主にそこでは思想ハ意見)の 自由・報道の自由・宗教・良心の自由・出版の自由・学問の自由・集会・結社の自由の系列が一括して考察され、其 れが大体吾国でも通常用いられる﹁表現の自由﹂の内容を示している。 宗教的自由は、信仰告白殊にドイツはカトリック教以外の信仰告白または説教の自由として、また学問芸術の自由 は、学術研究発表の自由と関連して、結社の自由は、政治結社または労働団体結成の主義主張の自由として、それぞ れ言論・出版・集会の自由と多大の関係をもっ。 ﹁表現の自由﹂の法的根拠ないし法的基盤は、此の自由を認める法の種類形式はどのようなものであるかと言うこ とであるが、法治国家である限り、すべて自由は其の確立及び制限の両者に関し、法律の規定と関連をもっ。即ち法 は、積極的に表現の自由を確認、宣言、保障するのは勿論、消極的には其の侵害に対して保護救済を与える。 斯くして憲法それ自体が、﹁表現の自由﹂の根拠として最も重要であることは今更言うまでもないが、比によって 確立された﹁表現の自由﹂は、行政権は固より、立法権も比を侵害し得ないから、其の実際的意義は極めて大きく、 ドイツ各一フントの憲法も比の態度をとっているのである。 さでかかる憲法的基礎を持つ基本権は、しからば絶対無制約的なものであって、共の如何ような行使も法が認める のであろうか。私は前節に於てヨーロッパ大陸に於ける一般的な考え方の上に立って西ドイツ基本法も亦﹁権利の中 に義務が在る﹂との立場にある旨を述べたのであるが、西ドイツ基本法は、第二条第二項に、﹁何人も他人の権利を 侵害せず、且つ憲法的秩序ハ

4

3

p

g

g

g

g

r

M

3

0

a

s

g

m

﹀ 叉 は 道 徳 律 ( 切 言 。 目 的

2

2

N

)

に違反しない限り、其の人格 の自由な発展に対する権利を有するものと規定している。即ち此は現ドイツに於ける憲法学者の認める如くすべて 西 ド イ ツ に お け る 表 現 の 自 由 一 一 一 五

(13)

東 洋 法 学 一 二 六 の基本権に共通な一般的限界を示しているのである。しからば本項に於て ハ 道 徳 律 及 び 他 人 の 権 利 の 不 可 侵 に つ い て は し ば ら く お く と し て )

( 4

2 F

ω ω

ロ ロ

m m

目 前

ω

m

o

o

E

S

お﹀とは一体何を意味するものであるうか。 ﹁ 憲 法 的 秩 序 ﹂ 自由の一般的限界として憲法的秩序を個別的な基本権の規定から帰納言)しようとし、 此を憲法の規定に基ずく全法律体 ( 8 ) と見る。共に憲法を実定的規定による解釈の立場を主張しているのであ るが、後者の立場をとる場合、当然基本権の保障は法治的行政の原則に吸収され、すべての基本権について﹁法律の 留保﹂を認容することになろうし、また前者の場合は単なる循還論となろう。 一方﹁社会学的原理が概括条項の形式で法の領域に出現するとの見方をする ( 4 ) ﹂デュリヒは、憲法的秩序を次の 如くに解する。即ちマンゴルトやウ l パ 1 の如く実定的規定による解釈を捨てて秩序の概念の含む刑事法的、警察法 的価値に視点を据え

ll

実定的規定による解釈論が屡々﹁憲法的﹂と一言う法概念に重きを措くのに反して、そして此 の法概念からしばらく離れて

ll

社会生活の障害等を除き、そして共の危険を予防することが、吾々の集団生活の根 本的な社会学的性格であり、比の様な自己治癒の強い傾向が、元来実定法的秩序以前のものとして存在し、近代国家 ウ ー パ ー は 、 またマンゴル ト は 、 の成立に先立って既に認められていたのであるとする。勿論憲法的秩序

(

4

R

P

g

g

g

E

r

m

o

O

H

e

g

m

)

中に此の様 のな社会的基本性格を含んでいることは一吉うまでもない。 斯く見るとき﹁憲法的﹂とは、社会生活の秩序ある状態が所与として既に実定法の前提として春在することを意味 す る 。 社会学的事実と超法学的価値秩序によって﹁憲法的秩序﹂を説明すれば、結局﹁憲法的秩序﹂とは、警察法に於け る﹁公共の秩序と安寧﹂であると言うを得ょう。

(14)

比の﹁公共の秩序と安寧﹂を害することは、性質上当然に個人の自由には含まれず、比の様な妨害を阻止するため の行政庁が持つ法律上の権限は、個人の自由権に内在する限界の宣言的規定の何ものでもない。よって斯くの如き規 定は個人の自由権を侵害するものではない。 西ドイツ基本法第一九条第一項は、 ﹁この基本法の規定に従って、或る基本権を法律に依りまたは法律の根拠に基 ずいて、制限することが出来る場合、共の法律は一般的に適用されることを婆し、特殊の場合にのみ適用されてはな らない。更にその法律は、該当条項の基本格を一示すことを要する﹂と規定しているのであり、基本権を制限する法律 には、憲法の関係条項を示して基本権を挙げなければならないが、比の規定は、基本権に対して特別な創設的制限を 加える法律に関するもので、自由の内在的限界を宣一一一目する法律には適用されないものと解するのが妥当であるう。 一般に、曾つてのワイマ l ル憲法に対して、自由主義的個人主義的方向に偏していると言われ 西ドイツ基本法は、 ているが ( 5 J 、 基本格の保障に見られるところの斯る傾向は、 各種の条文によってまた共の社会的な解釈によって一 応是正されているかに見える ( 6 ) 。即ち第三条の ﹁所有権公用徴収﹂に関する条項、また第二

O

条及び第二八条の社会的法治国に関する各条文等によってである。し ﹁ 法 の 前 の 平 等 ﹂ に 関 す る 規 定 、 第一四条第二、 第三項に於ける かして斯る条文の反映として、 上に重要な位置を占めているのである ( 7 ) 。 ﹁社会的法治国家﹂の原理が憲法裁判所の判例の上に大きい影響を与え、憲法解釈の 尚比の基本法は、第二八条﹁自治体の自治行政に関する権利﹂、﹁職業的公務員の組織﹂に関する第三三条﹁学説、 出版の自由﹂の第五条、 ﹁政党﹂の第二一条、第九七条以下の裁判官の地位に現わされている如く、所謂諸種の﹁制 度的保障(日)﹂を認めている。制度的保障とは公法上の組織の憲法的保障を意味するのであり、 自然法的根拠、 超憲 西 ド イ ツ に h 引ける表現の自由 七

(15)

東 洋 法 学 一 一 一 八 法的原理によるものではなく、解釈上憲法全体から見て、憲法全体の秩序及び公の秩序に矛盾しない様にすべきもの で あ る 。 しかし比の制度的保障の限界は の﹁一般法律﹂ ﹁公の秩序を維持する﹂ところに共の本質が容するのであり、憲法第五条第二項 ( ﹀ ロ

m o

己 目 。 の

2

0

官。﹀の規定の条項は、其れを示しているのである。 表現の自由の中、 ﹁出版の自由﹂は、民主国に欠くべからざる制度であることは論を侠たない。ドイツ連邦出版法 ﹁新聞の自由﹂とは、関係者個人のためだけでなく、公のためのものであることを述べ、新聞が公の責務を呆す は べきものと定めている。 ハンプルグ、ウエストファ l レン等の各支邦の出版法は、出版事業の所有関係を公表せしめ、また一方パ l J ア ン 法 は、出版事業の独占禁止を規定しているが、既容の事業のために論議を抑制することを許さず、また出版事業の開設 及び其れへの参加、報道の自由等が、表現の自由の内容をなしていることは勿論である。一方新聞記者は、其の自由 を捨てて良心に反する様な社会的制約を受けることは、厳に排すべきであり、斯る場合は記者としての高次の義務に 違反することになる。外部からの不当な支配は絶対に阻止すべきであるとの主旨である。 しかして西ドイツに於ける﹁出版の自由﹂は、共の制度的保障を、自由権と併せ含むものと息われる。勿論 2 ﹀ 午 関O B E ロ ゅ の B O R o -の制限に服することは当然である。 土 占 1 -己 且 第十八条︿基本権の喪失の規定)中に﹁表現の自由﹂の言葉があり、そこでは表現の自由の種類として、主に、出版学問結 社 信 書 郵 便 及 び 電 気 通 信 の 秘 密 を 規 定 し て い る 。 d v o p 司

2 w

p a

仲 岳 山 ω 回 02H 同 ω 、 m -N

2

(16)

8 冨

g m

向 。 } 号 、 問 。

B

E

g

s

85

1

・ M ﹀ 回 目 -M の 回 目 件 。 吋 口 町 一 円 百 ﹀ 丘 -M 品 。 ω の 吋 ロ ロ 仏 側 。 ω σ 同 N O ω ロ ロ 品 品 目 。 の ゆ ロ O 吋 ω -0 2 出 陣 内 日 目 立 関 口 ロ m N ロ ﹀ = 肉 0 5 0 宙 開 話 回 目 凶 巴 - n H M O D g m w ω ω ロ m w F i go ロ ( K P R H M ・

2

同 ・ 同 -Z 司 ・ 岡 弘 -M 。 ・ 巴 町 ω 、

ω

句 。

ω

-S

民 ・ 田上教授は西ドイヲ基本法の性格及び人権について次の如く述べている。即ち﹁ボシ憲法は瞥定法の性格から、自由権を保 障するに止め、りイマ l ル憲法に著しい社会権の規定は、一九四六年のへッセン憲法の様な支分邦憲法に含まれるに過ぎな い。けれども人種の規定は歴史と伝統に従う思想史的解釈を必要とし、私法の形式的な法理論による解釈で足りないこと は、第五条の学問の自由が抽象的な自由の概念から演釈されず、クラシックな大学の概念、自由な研究と学問としての大学 の意味から理解されることによっても明らかである﹂と。昭和三十年十周公法研究六二頁。 6 前述(一節註一七・一八参照)の如く極めて難しい問題を提供しており種々の議論がある。自由主義個人主義的方向の是正 と言うことは結局、社会的国家観によるところの社会的基本権の確立を意味する。ワイマ l ル憲法に確立されていた社会的 基本権は、国家の積極的な義務の陸行を促すものであった。しかし西ドイ γ 基本法は、此の様な権利を空白のままに残して いる。勿論此は社会的基本権を否定するのではなく、実際には具体的な個々の立法によって行われている社会的な成果を、 憲法に適合するものとして認めているのである。ただ社会的な権利は、憲法に基ずいて直接に裁判所において主張され得べ きものでなく、(開・同 ω 丘

B

S

口 問 、

ω

、 当 ・ 回 p p m -∞印﹀積極的な立法及び行政の作用によって充足されるのであるが、西 ドイツ基本法は、直接裁判所に出訴出来る様な基本権を規定して、右の様な社会的な基本権の実現は、立法機関の判断に委 ねたのであると解される。(同・問主同

g

g

口 問 ・

ω

・ 4 司 ・ 回 品 ・ 品 、 ω ・ ∞ 印 ) 7 何 回 仲 ω n M M O 町 内 田 ロ 国 側 。 ロ 田 口 白 色 。 ω ︿ O 同 一 E m m c ロ m ω m o 己 n M M 4 Z 回 門 戸 、 A p m -H O 印 バイエル Y 憲法は、第一一一条に、出版の責務が、民主主義思想のために、公生活の事件、事情、制度及び人物を真実に報 道することにあると規定しているが、ここで見られるように、出版の自由は、自由権だけでなくカール・ジュミットの所謂 制度的保障をも含むものと解される。しかし此の制度的保障は、屡々社会生活の基本秩序の保障(第六・一一了一四条)等 即ち法制の保障(やはりカール・シュミット

)

(

E

E

x

c

g

g

ロ 巴 0 ) と混同され易い。 4 西 ド イ ツ に お け る 表 現 の 自 由

二 一

(17)

東 洋 法 学 一 三 O 西ドイツ基本法は、第五条で﹁何人も一言語、文書及び絵画をもって、其の意見を自由に発表公布し:::﹂と規 定して、意見発表及び報道の自由を定め、また﹁すべてドイツ人は、届出を要せず、叉許可を受けないで、平隠に且 ?・::集会する権利を有する﹂、として第八条は、集会する権利を規定し、第九条は、 第一項で組合及び結社の権利 を保障している。 きて意見発表・報道の自由は、国家権力に対する自由だけでなく、使用者其の他第三者に対する関係に於ても保障 されるものであるう。 一方﹁検閲は行わない﹂と明文で定めてあり、此は過去のナチ時代の実状から鑑みて、思想発表に先立ち予め比を 事前に検閲することによって、不当に思想の表現を圧迫することを除去しようとする意図からである。 元も第五条第二項で﹁比等の権利は、一般法律の規定、少年保護の為の法律上の規定並びに個人的名誉権に依っ て、制限される﹂と規定し事後的な矯

E

措置が認められる。しかし普通法律上届出義務を課することは可能であると 解釈されているが、意見の発表、報道の自由は、一般法律ハ

E

-m o

己 目 。 の

2

2

8

)

の規定及び少年の保護のための法 律上の規定、個人的名誉権によって制限されることは明らかであるから、犯罪の煽動、出版警察、営業警察等の法規 に違反するときは、出版・放送・映画たるとを問わずすべて取締りの対象となる。 同条第一項の﹁一般に入手出来る情報源から知ることを妨げられない権利﹂は、何を意味するかは争いのあるとこ ここに於て行政官庁の積極的な通知義務、文書を閲覧させる義務までは生じないと見るべきであろう。 ﹁学説の自由は、憲法に対する忠誠を免除しない﹂と規定するが、此はドイツ人の憲法改正を論ずるこ ろ で あ る が 、 第 三 項 は 、 とを妨げるものではない。

(18)

﹁共同の目的﹂を持たない集団、例え ば広場や街路に於ける群集は含まない。よって此の様な権利は保障は受けないしまた集会及び結社の権利は憲法がド しかし此の種の自由に関する制限として第一八条の基本権喪失の定めが存する ( 1 ) C 次の集会及び結社の権利に於ける集会には、行進の如き示威運動も含むが、 イツ人について保障した基本権であって、外国人には法の反射を認めるに過ぎないと解釈される。 第九条は、結社に関する一般的規定であるが、其の第二項が、﹁団体にして目的又は活動が刑罰法規に違反してい るもの、或は、憲法上の秩序若しくは国際理解の観念に反するものは、此を禁止する﹂と定めているから法律による 禁止をまたず、此の該当する団体は、主務行政官庁によって当然に解散を命ぜられる。しかし予防的措置を別にとる ことは不可能と息われる。 ほかに特別の規定がおかれているものがある。第一四

O

条が、宗教結社に関する規定である。第二 一条には政党は、国民の政治的意思の形成に協力するものとし、其の設立は自由である、とされているが、前掲第九 憲法の中には、 条第二項によって制限される。勿論軍事的結社等は、此に該当すると思われる ( 2 ) 。 此の様な特別規定がおかれている訳は、其れが、第九条の保障する一般的自由とは性格を異にしているためであ り、従って其れについては共の性格に応じた保障が与えられなければならないからである。 に関する具体的権利規定及び基本権の個別的規定に於ける特別留保

(

ω

宮 江 巳

4 2

z z

- z

v

であり、此等の自由権が、絶対的に保障されているものではなく、憲法は、前述の一般的制限 以上が西ドイツ基本法中の ﹁表現の自由﹂ 規定以外に法律的留保をも認めているのである。 が、同条第二項及び第三条以下の各々の自由権に内在する限界と見られるかどうかは必ずしも明確ではない。 しかし此の一般的限界を示すと言われている第二条第一項の規定 西 ド イ ツ に h 叩ける表現の自由

(19)

東 洋 法 学

しかし一般に権利の内在的限界を認めない場合は、個別的な法律の留保がない基本権については、其の無制限な溢 用を許容することになる。よってドイツの現行法は、内在的限界を認めるのを通説とすることは既に述べたとおりで あ る 。 右の特別留保の規定と、自由権に内在する共通の限界を併せ考えると恰も前者は、後者にすべて吸収されてしまう かの如くに感ぜられる。 さて第八条第二項に定めてある﹁屋外の集会﹂についての制限、第一四条所有権の内容と制限等の如く簡単に法律 の留保が認められている場合には、国家の統治権は、﹁如何なる場合にも、基本権は、共の本質的内容が段損せられ ではならない﹂とする第一九条第二項によって制限されるに過ぎない。ところで出版の自由等に認められる一般法律 ( ﹀ ロ m O B o z o の

2

0

R

巴による制限は、一般の生活行動に対して広く保護される法益のための法律を意味するもので、 ただ出版の自由に対してのみ保護される法益のためのものではない ( g ) 。 また国家が共の警察急状権によって、何ら社会秩序に違反しない第三者に義務を課する場合、其れが公の倫理的意 識によって認められるならば、特別の法的根拠を必要としない。 しかし急状権の発動が、其の範囲を逸脱した時は自由権の特別の制限となる。よって﹁この基本法の規定に従っ て、或る基本格を法律に依り叉は法律の根拠に基ずいて、制限することが出来る場合、其の法律は一般的に適用され ることを要し、特殊の場合にのみ適用されてはならない。更にその法律は、当該条項の基本権を一示すことを要する﹂ との第一九条第一項の規定により特別留保を必要とし、関係条項を明示しなければなら‘ない。 以上が第一一条の伝染病の危険防止、犯罪行為の予防に必要な場合に限り﹁移転の自由﹂を制限出来るとする特別

(20)

留保規定等に関して特別の意義を認めようとするデュリッヒの見解なのである。しかし比の第一一条の規定もまた、 団体の目的・活動が刑罰法規に違反し、或は憲法的秩序に違反する場合、当該団体を禁止する(第九条ニ項)の条項 と同様、丁度第二条の概括条項に吸収される様に息われる。 一方国は公共の福祉の名のもとに社会秩序の積極的な形成を行うことが可能である。それは、第五条第二項に示す 如︿、少年保護のための法律を定めて﹁出版の自由﹂を制限し、第一三条では公共の安全と秩序とに対する急迫した 危険を防止し、住宅の欠乏を除去し、伝染病の危険を防止し、要保護少年を保護するため﹁住居の自由﹂を制限規定 するのを見ても明らかであるう。 斯く見て来ると憲法の各条文は、確かに、 ﹁公共の福祉﹂の立場から、或は﹁社会政策的﹂な立場から、 ﹁ 社 会 的 法治国﹂の原理 ( 4 ) か ら 、 に関する基本権だけではなく、すべての自由権に対する法律留保を規定し ているが、前節に於て述べた如く、﹁社会生活の秩序ある状態が所与として実定法の前提となって﹂おり、﹁社会学 的原理が概括条項の形式で法の領域に出現している﹂のであり、そして其処に自由権の内在的限界があると認めるな らば、当然、個別的に特別留保の規定のある自由権には、第二条第一項の規定は適用されないと見るのが妥当である ﹁ 表 現 の 自 由 ﹂ う 以上の如く西ドイツ基本法に於て自由権に共通の内在的限界が容するとし、個別的自由権の保障に伴なう特別留保 の規定が此に吸収されるのか否かとの論議は、丁度吾が日本国憲法の第一二条、第一三条の﹁公共の福祉﹂による人 権の一般的限界を認めるとき ( 5 ) 、 第二二条の﹁公共の福祉﹂ が無意味な繰り返しになるかどうかと言う論争とよい 対照をなすと思われる。 西ドイ榊ノにおける表現の自由

(21)

東 津 d 法 A地 寸・ 一 三 四 およそ個人が、国家ないし社会を構成している以上、其の権利や自由は絶対無制約なものたることは本来あり得な いのであって、抽象的に絶対無制約の如くに見える権利自由も、共の社会における具体的な春在としては、多かれ少 かれ相対ル刊されて現われる。此の様な権利自由の相対必の程度は、時代によって変遷し、決して一様ではない。特に 現代に於ては、支配的な法律思想の強調する如く、個人の権利自由の濫用は許されないことは、当然であり、逆に比 の意味では、個人の権利や自由については、共の制約は益々大きくなりつつあると言える。しかし、それは、権利自 由に外部から加えられる超越的な制限・侵害と見るべきではない。西ドイツ基本法が、よって立つ其の立場の様に、 むしろ其の権利・自由は、共の様な制約を当然に内含するものとして歴史的社会の中に形成発展されて来たものと考 えるべきであろう。西ドイツ基本法が掲げる﹁表現の自由﹂を含む諸々の権利自由もまた、其の様な意味で具体的な 現伐の社会的基盤の上に妥当する権利自由を当然に前提としているのであって、共れは現代の社会秩序の要請する制 約に当然に服すべきものである。此の意味での権利自由に内在する制約の限度如何は、勿論各種の権利自由によって 異なり得るのであるが、共れは現代の社会的地盤の要請するところとして、客観的な限界が在するのである。 比の様な制約を日本国憲法に於ては、﹁公共の福祉﹂による制約と一一一日い表わしているのであるが、吾が憲法はその 第一二条・一三条の規定をとくに侠つまでもなく、右の如き内在的な制約を持ち、そしてこれに制約されるものであ やはり内在的限界ハ第二節に於て述ぺた知く)を有し、 る と 一 一 一 同 い 得 る な ら ば 、 西 ド イ ツ 基 本 法 が 、 れるのと向じ立場に立つものと言い得ょう。 それによって制約さ 次に権利自由の制約が、右の内在的な制約に止らず、更に其の上に外から加えられる場合がある。共れは特定の国 家目的を達成するためとか、或は、或る政策的考慮によって公益︿西ドイツ基本法、第五・八・一一了一一二・一四・二

0

(22)

共れは当然第一九条に関連して来る問題である。そして現代の社会的 地盤が当然に要請するものでなく、国家の或る積極的な意欲の発現として﹁公共の福祉﹂のために要請する制約であ る点で右に述べた内在的制約を一般に承認することは、基本的人権を其の根抵に於て保障し人間自由を強調しようと する憲法 ( 7 ) の精神に反することとなろう。 次に権利自由の制限と言う場合に、共の制限の形式の態様を考える必要がある。共の一つは、所謂事後抑制であっ 二八条等﹀のために加えられる制約であって、 て(第五条二項等﹀権利の行使なり自由の享受なりは一応比を認めて国家権力は介入せず、共の結果反社会的行為を犯 せば比を処罰し、また他人の権利を侵害すれば不法行為として行為者に民事責任を課す方法であり、事後に国家権力 が発動し、裁判所によって司法的に権利自由のコントロールがなされることになる。 得て始めて比をなし得るものとする場合と、 其の二は、権利自由の行使其のものを国家権力によって規制する方法である。即ち一定の国家機関の許可・承認を 一定の国家機関に届出ることのみを必要とする場合とがある。 此が事前制限と呼ばれる。比の場合は何れにしても行政機関によって権利自由の規制が行われることになる。 ( 第 八 条 ご 項 等 ) 此の中第一の司法裁利所による事後抑制の方法は、 一応権利自由の行使を認め、共の結呆を慎重な手続で責任を問 うのであるから、人権に不当な制約となる恐れは比較的少い。しかし行政機関が事前に権利自由を制限し或は取締る ことは、権利自由の行使或は享受そのものを行政官庁の判断に一応委ねることになるのであるから、権利或は自由そ れ自体に加えられる制約であり、若し此が広く行われれば、基本的人権は、鼻息するに至る恐れがある。 斯くして基本的人権の在在理由を考えるとき、 共れに対する国家権力の干渉が事前にあるか事後にあるかの区別 西 ド イ ツ に お け る 表 現 の 自 由 五

(23)

東 洋 法 が>4 ー王一 一 三 六 は、実質的に大きな意味を有することは否定出来ない。 しかし此等のことは日本国憲法の場合に於ても全く同じことが言い得るのであるし、またワイマ l ル憲法は、或る 種 の 自 由 に つ い て 、 其 れ が 一 般 法 律 ( ﹀ = 問 。 白 色 目 。 の

2

2

8

﹀による制限のあることを規定していた(一一八条、一三五 条等)し、西ドイツ基本法第五条にも此の制限が見られる。此の一般法律とは、アンシェツによれば、自由の行使その ものを規制する法律ではなく、主として刑罰法規一般警察法規等を指すものと解されていた。 ここで一宮う抑制の思想が、大体此の考え方と類似するものと考えられ、其れは日本の場合にも同様に当てはまるも の で あ る 。 ドイツの憲法は歴史的伝統的に見て英米の考え方と異なるものであり、人権に関してもドイツ人は元来個人主義的 な考え方をしないで、権利は義務なりとする自然法的な立場に立つ傾向が強く、よって基本的人権に関する憲法上の 規定も、解釈上権利が中心なのではなくてむしろ制度的保障が中心であると説くのが通説であった。比に反して吾が 国の憲法は英米のそれと同じく権利を中心とする考え方であることは勿論である。 きて吾が国の憲法に於ける表現の自由を含む諸種の権利自由の制約については、 其れは内在する制約の限度に於 て、此を事後に裁判所の判断によってコントロールすることのみが、表現の自由等の基本権に対する国家権力の原則 的な限度であると考えられる。そして比の様な強い保障を国民に一般的に与える反面、其の様な保障を与えられた国 民に権利自由の自覚ある行使を期待するのが、日本憲法第一二条において国民に重大な責務を課した趣旨と解すべき であろう。斯く解するとき、吾が国の個別的な権利自由の保障の諸規定の中特に﹁公共の福祉﹂を掲げたところの (第二ご条・ご九条)煮味が出て来るのであって、其の場合は、

E

に﹁公共の福祉﹂が、権利自由に内在する制約の限

(24)

界を超えて法律によって政策的考慮に基ずく制限を加え得る根拠となるのである c そして丁度此は、前掲の如く西ドイツ基本法が、表現の自由及び其の他の自由権の中に共通の内在的制限を認める 場合の特別留保規定一式々の論議と極めて類似しているのである。 ところで本来権利自由の保障は、 (デュリッヒの見解等﹀ 一般統治関係における国家と人民との関係を規律するものとして構成されている 一般統治関係とその地盤を異にする特別権力関係に於ては、無制約的には妥当しないが、特別権力関 係の目的に必要な最小限度の範囲内で若干の変容を受けるものと考えられる。 特別権力関係は、二主体聞の関係を、共の名称の示すように特別の権力

2 0

4

﹃包乙によって支配し服従する関係と 見ることにある。即ち国家と人民との関係は一般的服従関係であり、共の外に或る者が国家との聞に特別の関係に立 つ場合を、此の特別の観念で捉え、前者においては、法治主義の原則が妥当し、個々の命令強制には法律の根拠を要 するが、後者に於ては、共の特別の権力の及ぶ範囲内で、個別的な法律の授権によらず、其の権力の発動として命令 の で あ る か ら 、 強制をなし得るものとする。 それは、結局、一般統治関係と特別権力関係とは次元の異なった法秩序と見ることに帰着するが (91 ド イ ツ で は 、 此の特別権力関係によって表現の自由や他の諸種の基本権が制約されるとの見解が通説である。此はワイマ l ル憲法 についても西ドイツ基本法についても見られるところである(担。 特別権力に 於て、基本権が制約を受けるのは、基本権が法律の留保によって制限されている場合にのみ、法律の留保の及ぶ範囲 内に限り可能であり、無制約的に保障されている基本権は、特別権力関係の範囲内においても侵し得ないと論じてい 憲法上の基本権が一般統治関係のみを規律するのではなく、 併しフォルストホッフは此に対して、 る ( 日 ) 。 一 方 ヤ コ l ピ l は 、 例外的に特別権力関係を規 西 ド イ ツ に お け る 表 現 の 自 由 七

(25)

東 洋 法 ~ 7-一三八 律する場合にのみ、基本格が特別権力関係における命令権の限界をなすと言っている

81

もとより、基本権が、特別権力関係内において全然否定されるのではないことは勿論であるが、 て正当祝される特別権力関係の目的に照して必要な範囲内で変容され得るものと考えるべきであるう。 吾が国の最高裁判所の判決に於ても、比を踏襲し、﹁出版その他一切の表現の自由﹂について、自由意思に基ずい て成立する特別権力関係において基本的人権が制限を受けることを認めている(四百 きて﹁表現の自由﹂等の諸権利なり自由なりが、私人相互の聞で如何なる意味をもつであろうか。 一般法秩序におい 一般的には、憲 法上の権利は、国家に対する人民の権利としての性質をもつから、私人聞においては、当然には妥当しない。従って 信教の自由・集会結社の自由等を制限するような契約を締結することは可能である。しかし憲法が諸々の権利を基本 権として承認保障していることは、当然其れらの権利が、不当に侵されないことを以て国家の公の秩序を構成するも のと考えられるから、何等の合理的な理由なしに不当に権利や自由を侵害することは、所謂、公序良俗違反の問題を 生ずることがあり得ると考えなくてはならないハ比 )O 註 ー第一八条﹁何人も自由で民主的な基本的秩序を攻撃する目的で、表現の自由、特に出版の自由(第五条第二項)、学問の自 由(第五条第三項﹀、集会の自由(第八条)、結社の自由(第九条﹀、信書・郵便及び電気通信の秘密(第一 O 条 ﹀ 、 所 有 権 (第一四条)叉は亡命者庇護権(第一六条第二項)を濫用するときは、此らの基本権を喪失する。喪失とその程度とは、連 邦 憲 法 裁 判 所 に よ っ て 言 い 渡 さ れ る よ 此 は 基 本 権 の 喪 失 ︿ の 同 信 白 血

g

n

Z

2

2

4

﹃ 可

w c

s m

﹀の規定であって、此に該当する場 合は、関係者が基本権を採用することが出来ず、行政庁、裁判所が其の基本権を考慮する必要がない。此を言い渡す憲法裁 判所の判決は確認的性質をもち、此の判決に対しては憲法第一九条第四項及び第九三条第一項の訴訟が許される。 宮尚第九条第三項は、労働者の団結権を保障しているが、此は単なる立法の指針であるばかりでなく、圏構の外、対立する当

(26)

事者間においても直接に援用される現実の法規である。公務員の労働権についても此が適用され、公法上の勤務関係によっ て制限を受ける。尚罷業権、ロック・アウト等は憲法で保障されないから、法律により禁止叉は制限されるものと解され る 。 ( 司 Z O 弘 一 円 甘 討 の ぽ

ω

?

2

5

a

m

o

m

Z

N

O

由 民 同 品 目 。 回 口 里 町

ω

2E 豆 町

w

u

o

c

g

n

r

F

ロ チ ] 巴 日 ♂

ω

] E

R .

M m

R )

或は、他の高次の価値をもっ社会住活の基機を保護する法律によって制限することが出来る意味に解される。

α

R

2

H

z

r

r

c

自 問 。 白 色 。 同

42

E

E

m

c

s

肉 色

O

H

U

o

c

g

n

r

o

目 的 宮 一 巳

ω

o n

v z

- o

V

o

p

国 民 神 仏 、

ω

N ・ 吋 ω ﹀

(

4

E

4

2

t

4 社会的法治国家

P

S

F

-2

R

Z

E

S

M

W

仲)の原理は、社会的秩序の形成について国に積極的な権能と責任を生ぜしめる が、基本権の保障は原則として此の原理の実施を阻止するものであるが、例外として第二 O 条、第二八条、第七九条第三項 の如く特別留保規定がある場合にのみ実施される。︿の同町三

2

口 町 同 町 側 、 の

E

E

m

g

N

O

C

白 色 島 町 ぬ の

8

2

H

w

-2

目 的 同

n

v

z

m

s m

N C

i

- m o

目 。 吉 田 M色 町

N A

訟 の

H M

g

g

m

g

r

g

g

ω

3

戸、自民)尚、﹁社会的法治国家﹂については、一の註口

- m

参 照 。 5 6 吾が日本国憲法の第一二条第一三条の﹁公共の福祉﹂が、人権の一般的限界を明示するものか否かは争いのあるところで あ る 。 吾が憲法第ご一条は、﹁集会、結社及び言論、出版其の他一切の表現の自由は、此を保障する。﹂と規定している。吾々は むろん、このような表現の自由は全く無制限のものだとは考えない。しかしまたそう簡単にその制限を認めることは許され ないと言うべきである。このことは、憲法の規定の上にもはっきりと現われている。其れはこころみに、居住、職業の自由 の規定と比較して見るとよい。憲法第二二条には﹁何人も、公共の福祉に民しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を 有す。﹂と規定している。ここには、はっきりと、﹁公共の福祉に反しない限り﹂とあるが、第一二条には、この様な制約 はない。何故なら居住、職業の自由と、表現の自由とでは比較にならない程後者が大切であり、前者は個人だけのことだと も言えるが、表現の自由は、科学、文化、政治の全般に一旦って、其の発展の基礎をなすものである。其れは単なる利益だけ ではなくて、根本的に重要な公益であると言わなければならない。ところでチャタレイ裁判の最高裁判所の判決によると ﹁憲法の保障する各種の基本的人権について、それぞれに関する各条文に制限の可能性を明示していると否とにかかわりな く、憲法第一一一条、一三条の規定からして其の濫用が禁止せられ、公共の福祉の制限の下に立つもの﹂であると言う。尤も 西ドイツにおける表現の自由 一三九

(27)

京 洋 法 ρふ与‘ ザー 一 四 O 此は最高裁判所の憲法施行当初からの繰り返しであるが、此の判例が虎の子にしているのは、憲法第二一条一三条の規定で ある。ところで第一二条をよく読むと、そこには、文字通り国民の側で自由、権利を濫用することなく、公共の福祉に役立 てるようにせよと言うだけで自由なり権利なりを国家が制限してよいと言っているのではない。叉第一三条は、広く生命自 由幸福追求に対する根本的な権利を認めるもので、憲法の各条文で規定する個々の基本権的人権以外にも、公共の福祉に反 しない限り国政の上で充分に尊重せよと言うのである。個々の基本的人権を公共の福祉のために制限してよいと言う趣旨 は、ここからも出て来ない。:::むろん表現の自由が無制限だと言うのではなく、表現の自由には、表現の自由の存在理由 と言うものがあり、其処からまた内在的な限界、制約とも言うべきものがある筈である。(団藤教授チャタレイ裁判批判、 昭和三十二年六月中央公論四七、四八頁 J 最高裁判所の判決のとる立場は、学説としても可成り多くの有力な学者によって支持されている。しかし﹁公共の福祉﹂ それ自体が権利自由の中に存する所謂内在的制約なりととるならば、此の見解もまた妥当と思われる。ただ団藤教授の批判 は最高裁の立場を斯くの如くには見ていまいし、また最高裁のチャタレイ裁判に於ける立場は、﹁公共の福祉﹂なるものが 個人権に対して超越的外在的なもの、それ自体個人権保障思想と E 面から対立するものとして捉えている如くである。しか し一方に於て最高裁が﹁公共の福祉﹂の意味について﹁秩序が維持されることも、個人の基本的人権が維持されることも、 それ自身公共の福祉の内容を成すもの﹂であると言っているのは注目すべきである。(最高裁判所昭和二五

t

一 0 ・ 一 一 刑 集 四 巻 一

O

号 二

O

一 ご 一 貝 ) 尚﹁会共の福祉﹂の解釈については、清宮教授編、法律学演習講座憲法九二頁参照。 マンゴルトは、﹁ボン憲法に於ては、其の基木権の規定は、過去における自由の抑圧に対する意識的な反動によって、人間 自由の点が強調されている﹂と述べている。(冨 ω 関 一 色 缶 、 ロ 何 百 問 。 回 目 。 同 の

2

白色 m g o 宮 、 ω ・ ω 句 、 h E ) 8 ﹀ 同 M m w n H M 酎 官 、 問 。 自 自 o ロ S M 1 ﹀

1

・ ロ ∞

此の様な特別権力関係に関する理論構成は、ドイ y で広く行われ、吾が園行政法学にも一般に受け入れられているが、他の 諸国にはかかる特別権力関係の概念なるものは見ちれない。併し国家と人民主の一般関係の上に更に特別の関係を構成する 9

(28)

10 時は、一般法の異なった特殊の法規整を受け、そこにおける法律関係の性質、或は権利が、変容されることは、各国法でも 認められているところである。此等の各国法の理論構成は、ドイツで特別権力関係と考えられているものを、各種の法律関 係の一っと見て、そこを支聞する法秩序を探求するものに外ならない。従って特別権力関係の理論も、特別の法律関係にお いては、その性質に応じた法原則によって支因されるべきであって、一般法の原理がそのままには妥当しないと言う一般理 論に基ずくものと考えられ、此を﹁特別の権力﹂による支臨と服従の概念で把握したところにドイ γ 的理論の特色がある。 ハ註解白木国憲法上巻

ω

三 O 八頁参照) ワ イ マ l ル憲法については、﹀ロ ω 何 回 出 宮 、 問 。 B E g g p ω ・ 。 呂 、 開 同 省

E

F

。 。 玄 、 山 口 同 周 知 白 色 ゲ ロ n F a g a o 己 仲 ω n M M O g ω S ω Z t E w n F A け m刷 国 内 凶 ・ 同 ω -N 問 。 ・ 西ドイヲ基本法については、宮川 g m 包 件 、 問 。 BEgs 同 ω -s ・ 同 ・ 可 。 吋 m w 一 件 討 。 民 、 戸 O V 同 守 口 。 v a o ω J 1 0 H a 君

"

=

c

E

ω 吋 A w n - M 件 、 岡 田 M W 白 血 - h ﹀ C 2 . 、 ω・ 一

5

p

開 一 円 考 古 一 ﹃

R

。 HU 問 、 山 吉 田 g a - u d h M M M 色 。 ω 品 。 旦 ω n v g m g m w 仲 ω 。 伊 丹 ω 回 仏 ・ 同 ω -M 問 。 ・ 最高裁判所判決昭和二六・四・四大法延(民集五巻五号二一四号) 決定は、﹁蓋し、憲法一二条所定の言論、出版その他一切の表現の自由は、公共の福祉に反し得ないものであることは憲法 一一一条、一三条の規定上明白であるばかりでなく、自己の自由意思に基ずく特別な公法関係上または私法関係上の義務によ って制限を受けることのあるのは己むを得ないことである﹂と述べている。 独民法一三八条﹁善良の風俗に違民する法律行為は無効とす﹂(開山口問 2 z m m g 岳 町 民 pag 想 的 。 白 色 町 omEgmxg ロ 4 0 同 ω α ω ω 神 山 ω 神 田 町 内 日 げ 仲 町 畑 町 ) 11 12 13 14 西ドイツにおける表現の自由 四

参照

関連したドキュメント

und europa ¨i sche Rechtsprechung im Konflikt?, NStZ ῎ῌῌῒ , ΐῑ ff.; Karsten Gaede, Anmerkung zum Urt.. ΐΐ

[r]

日本においては,付随的審査制という大きな枠組みは,審査のタイミング

「有価物」となっている。但し,マテリアル処理能力以上に大量の廃棄物が

c・昭和37(1962)年5月25曰,東京,曰比谷公会堂で開かれた参院選の

「大学の自治l意義(略)2歴史的発展過程戦前,大学受難

以上の報道等からしても大学を取り巻く状況は相当に厳しく,又不祥事等

最後に,本稿の構成であるが,本稿では具体的な懲戒処分が表現の自由を