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六条斎院禖子内親王家物語歌合と『夜の寝覚』 ――『夜の寝覚』の挑発と存亡・序章 その㈡――

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Academic year: 2021

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六条斎院禖子内親王家物語歌合と『夜の寝覚』

――

『夜の寝覚』の挑発と存亡

序章

 

その㈡

――

 

 

 

  はじめに 後 冷 泉 朝 の 天 喜 三 (一 〇五 五) 年 五 月 三 日 庚 申 の 夜、六 条 斎 院 禖 子 内 親 王 家 に 於 い て 題 を「物 語」と す る 史 上 唯 一 の 歌 合 が 催 さ れ た (廿 巻 本『類 聚 歌 合』 ) 。新 作 の 十 八 篇 に 及 ぶ 物 語 が 競 わ れ、そ の 内 容 (物 語 本 文 を 読 み 上 げ る 可能性を留保する) と作中歌が披講されたとおぼしい。 物語作者がそのまま方人となる当時流行の歌合形式であり、その作者た ちは、斎院家の女別当や宣旨という上﨟女房をはじめとして、斎院家で開 催 さ れ た 二 十 五 度 の 歌 合 の う ち 十 回 以 上 参 加 経 歴 の あ る 中 務 ( 18)、左 門 ( 19)、讃 岐 ( 14)、武 蔵 ( 15)、式 部 ( 19)、小 馬 ( 18) な ど の 常 連 女 房 が 顔 を そ ろ え、加 え て 禖 子 (後 朱 雀 天 皇 中 宮 嫄 子 所 生) の 姉 宮 で あ る 祐 子 内 親 王 家の女房であるらしい宮の少将や宮の小弁などが参加している。 そこで、疑問となるのが、祐子内親王家の女房である孝標女が、 『朝倉』 などを既に制作発表して物語作者としてその名を知られていたはずなの に )1 注( 、 何 故 そ れ ら し き 姿 が み え な い の か )2 注( 。『更 級 日 記』に は 物 語 歌 合 の 天 喜 三 (一 〇五 五) 年 五 月 三 日 に 近 時 す る 年 月 日 表 記 に 当 日 記 に 於 け る 唯 一 の 例 と し て 知られる「天喜三年十月十三日」の付記があり、その夜作者は自宅の軒先 の庭に阿弥陀仏が立った夢を見たというのである。何らかの吉報の暗示を 記したのであろうか。 当該日記には自作の物語については言うに及ばず、物語歌合などへの関 心 も い っ さ い 記 さ れ ず、幼 い 頃 の『源 氏 物 語』 (以 下『源 氏』と 略 称) へ の 熱狂は反転して、深い後悔に沈む後半生が刻まれている。 し か し、稲 賀 敬 二 は『寝 覚』 『浜 松』 (略 称 を 用 い る) が 孝 標 女 作 の 物 語 であるとの確信から、当該物語歌合にも何らかの関わりがあったとみて、 次のような憶測を発してい る )3 注( 。 祐 子 内 親 王 の と こ ろ へ 出 入 り し て い た 菅 原 孝 標 女 も 物 語 作 成 候 補 者 リ ス ト に は あ っ た の だ が、に ぎ や か な 所 へ 出 る の が 苦 手 な 彼 女 は、結 局、作 品 を 提 出 し な か っ た。 〝遅 れ て も で も い い、提 出 す る よ う に〟と 言 っ て も 出 さ な い。 彼女が『夜の寝覚』を完成したのは数年後のことだった。 稲賀氏の見解では当該物語歌合の開催と孝標女による『寝覚』の執筆開 始 が 連 動 し て い た こ と に な る。も し そ う だ と す れ ば、 『寝 覚』の 現 存 巻 五 巻 末 の 閉 じ 目 が、巻 一 冒 頭 の「寝 覚 め の 御 仲 ら ひ」と も 呼 応 し て、 「夜 の 寝覚絶ゆる世なくとぞ」と、いちおうの結末、物語展開の区切りとなる文 学苑 ・ 日本文学紀要   第九五一号   三二~五三   (二〇二〇 ・ 一)

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辞 を 配 す る け れ ど も、小 学 館 新 編 全 集 (鈴 木 一 雄 校 注) の 頭 注 が 説 明 す る ように「さらに悲劇を進展させ得る構えともいえよう。巻一の天人の予言 はここに確認され、なおも深刻化する可能性を残すのである。 」 (五四六頁) と、さらに書き継ぐ姿勢を見せつつ、ひと段落を着けたとすれ ば )4 注( 、この結 末は、発表用のためのひと括りであったのではないかとも理解されてくる。 だが、しかし、例えば宣旨の提出物語『玉藻に遊ぶ権大納言』 (一番右) は、物 語 歌 集 で あ る『風 葉 和 歌 集』 (以 下『風 葉 集』と 略 称) に 十 三 首 採 歌 され主人公権大納言も関白となっているところから、完成形は短篇物語と は言い難く、物語歌合当日にはその初巻のみが発表され、のちに書き継ぎ 長 篇 化 し た と 考 え る の が 穏 当 で、 『寝 覚』も そ う し た 成 立 過 程 を た ど っ た としても、現存五巻に加え、故関白との結婚生活を内容とする中間欠巻部 が現存巻二と巻三との間に存したことが知られているので、現存巻五の結 末に至る物語だけであっても既に相当な分量の長篇物語であって、当該物 語歌合に提出された物語の多くが当夜の趣向に合わせた短篇であったよう だ か ら )5 注( 、『寝 覚』が 巻 一 冒 頭 か ら こ の 場 に 馴 染 ま な い 長 篇 物 語 の 様 相 を 呈 し て い る こ と は (後 述 す る) 、当 物 語 に 当 該 物 語 歌 合 へ の 提 出 を 前 提 と す る かのような制作の契機があったとは疑問にならざるを得ないのである。 し か も 稲 賀 氏 の 論 拠 と な る『寝 覚』康 平 三 (一 〇六 〇) 年 成 立 説 で は 関 白 左 大 臣 藤 原 頼 通 の 息 師 実 の 官 職 経 歴 に 着 目 し て、天 喜 四 (一 〇五 六) 年 十 月、十 五 歳 で 権 中 納 言 兼 中 将 と な っ た 異 例 の 昇 進 が、 『寝 覚』の 男 主 人 公 の「権 中 納 言 に て 中 将 か け 給 へ る」 (巻 一) に 反 映 し て い る こ と を 前 提 と す る か ら )注 注( 、天 喜 三 (一 〇五 五) 年 の 当 該 物 語 歌 合 の 開 催 時 期 よ り 後 の 師 実 の 官 職 を 摂 り 入 れ る こ と は 不 可 能 で、 『寝 覚』の 執 筆 開 始 時 期 は 微 妙 に ズ レ て、両 者 の関連性への言及は有効な根拠を失うことになってしまう。 本 稿 は 稲 賀 氏 の『寝 覚』康 平 三 (一 〇六 〇) 年 成 立 説 を 首 肯 し つ つ も、摂 関 家の頼通が後援する当該物語歌合開催の目的等を再検討して『寝覚』成立 の可能性を探るものである。   頼通による物語蒐集 頼 通 が 長 久 ・ 永 承 (一 〇四 〇~ 五三 ) 年 間 に お い て、 『赤 染 衛 門 集』 (巻 末 に「関 白 殿 に 集 ど も 集 め さ せ 給 ふ」と あ る) を 初 め と す る 私 家 集 蒐 集 を 熱 心 に こ こ ろみていたことは周知されている。稲賀氏が推察するように、当然それが 物語蒐集への方向にも触手が動いた成果となると、一条朝期大斎院選子内 親 王 の も と で 活 発 化 し た「物 語 司」 (『大 斎 院 前 の 御 集』 。物 語 の 収 集、書 写、 改 作 作 業 に と ど ま っ た よ う だ) を 進 化 さ せ て の 催 事 と な り、斎 院 で あ る 禖 子 内親王家での当該物語歌合の開催が史的展開としても最も意義深いことに なるはずである。 当 該 物 語 歌 合 は、と り わ け 頼 通 の 歌 合 集 成 事 業 (十 巻 本『類 聚 歌 合』は 頼 通 の 在 世 中 の 編 纂 と 推 定 さ れ る) と も 関 わ っ て 歌 合 と 物 語 の 融 合 と い う 画 期 的形態であり、物語創作に女房が集団営為ではなく個人として主体的に関 わるという面からしても、記録上は一回性の催事として浮上しているにす ぎないが、物語創作が多くの宮仕え女房たちにとって容易な作業であるは ずもなく、一朝一夕な成果として十八篇もの新作物語が提出された訳でも な い )注 注( 。長年の育成の結果として、女房同士が自由に競い合う土壌があって、 この場では選び抜かれた物語作者としての名が評価されるに至っている。 当夜おそらく後座の御簾中に控えていた頼通が当該催事の進行に口を挟 んで小弁の遅参を待った理由に、 「かの弁が物語は見どころなどやあらむ」 (『後拾遺集』巻十五、雑一、八七五の詞書) とし て )8 注( 、物語内容への関心が「か

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の」によって女房の誰が作った物語なのかまで、つまりその物語の作者に まで至って認識され評価されている点を看過すべきではないのである。物 語作者であることの匿名性は失なわ れ )9 注( 、宮仕え女房でありながら突出した 書き手となった紫式部の時代の物語作者への偏見に根差す誹謗中傷や蔑視 あるいは揶揄の洗礼から隔世の状況を浮かび上がらせて、この物語歌合が 個々の物語をその作者とともに、いわば歌人 ・ 歌作並みに格上げするとい う基盤が築かれていたことを証するのである。 こ う し て 小 弁 は 無 事 に『岩 垣 沼 の 中 将』を 六 番 左 方 (後 半 開 始 の 一 番 手 か) と し て 提 出 す る こ と が で き た。こ の 物 語 は 期 待 通 り の 評 価 を 得 た よ う で「岩 垣 沼 の が り」 (= 岩 垣 沼 の 作 者 の も と へ) と す る 章 子 中 宮 の 女 房 で あ る出羽弁との贈答歌二組四首が残されている (廿巻本『類聚歌合』付 載 )注( 注( ) 。 こ の 出 羽 弁 は、五 番 左 に『あ ら ば 逢 ふ 夜 の と 嘆 く 民 部 卿』 (以 下『あ ら ば 逢 ふ 夜』と 略 称) を 提 出 し て い る が、た ん に 一 介 の 物 語 作 者 と し て 参 加 し たのではなく、全体的なとりまとめ役として頼通が信頼の置ける出羽弁を 物語歌合の企画段階から送り込んだのだとすれ ば )注注 注( 、右方の物語題名が宮の 少 将 作『よ そ ふ る 恋 の 一 巻』 (二 番 右) と か 甲 斐 作『淀 の 沢 水』 (四 番 右) 等とが混在し不揃いなのに対し、左方の物語題名は九篇全てが〈和歌的表 現による主題的提示 + 官職名〉となって統一されているところからして も )注( 注( 、少なくみても左の方人頭としての手腕力量発揮とも考えられ、これが 歌合形式という場で物語内容を素早く告知するための工夫として出羽弁の 指示ないし仕掛けだとすれば、左方チーフとして「岩垣沼のがり」贈答歌 の存在も合点がいこうと思われる。ここにあらためて後半の贈答歌一組を 掲げることとす る )注( 注( 。 ひきすぐしいはがきぬまのあやめぐさおもひしらずもけふにあふかな 返し 君をこそひかりとおふにあやめぐさひきのこすねをかけずもあらなむ 小弁の「ひきすぐし」歌は、前掲「かの弁が物語は」の『後拾遺集』歌 (但 し 初 句 は「引 き 捨 つ る」 ) で、今 日 の 物 語 歌 合 で の 意 想 外 の 頼 通 に よ る 恩 顧に与って感激と安堵を隠せない小弁の心中を披瀝している。その返しと なる出羽弁歌は、小弁を「君」として「ひかり」と讃え、物語作者として 栄誉に浴したのだから、本日提出した『岩垣沼の中将』以外のあなたが創 作 し た 物 語 を 外 に 出 さ ず に (= こ の 機 会 に 評 判 と な っ た 小 弁 の 他 の 物 語 を 読 み た い と の 頼 み に 応 じ て、女 房 た ち に 貸 し 出 し て し ま わ ず に) 手 元 に 残 し て お い てほしいとの意に解していけば、頼通の出羽弁への密命が左の方人頭程度 のとりまとめ役にとどまらず、当夜の物語歌合における短篇物語の中から 秀逸な物語を選りすぐり物語を集める目的 ・ 所為であったのではないかと 思われてくる。それが稲賀氏の言う出羽弁による第一次集成の『堤中納言 物 語』 (も ち ろ ん こ の 時 点 で は 当 物 語 呼 称 は 存 在 し な か っ た が) で あ っ た の で あ ろうし、当該物語歌合からは小式部作の『逢坂越えぬ権中納言』 (八番左) が選ばれたのだろう。 しかし、出羽弁による短篇物語の収集作業は中断を余儀なくされ、それ 以上は進まなかった。その理由の一つは、出羽弁はあくまで後冷泉天皇中 宮章子内親王の女房であり、その背後には内親王の祖母であり伯母でもあ る女院彰子が居たからに他ならない。おそらく彰子の圧力によって、頼通 の指揮下で出羽弁によって進められていた物語収集が頓挫したのであろう。 そればかりではなかった。出羽弁は『栄花物語』続篇の作者にも擬せら

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れるようで、確かに巻三十一「殿上の花見」から巻三十六「根合」にかけ ての計六巻には章子内親王方の記述とともに出羽弁の名が頻出し、歌も二 十余首収められている。 と こ ろ が、巻 三 十 六「根 合」の 最 後 の 記 事 は、天 喜 四 (一 〇五 六) 年 四 月 三 十日の催事である皇后宮寛子春秋歌合であり、列席した女房の衣装まで詳 細 に 記 録 さ れ て い る。そ れ に 対 し、天 喜 三 (一 〇五 五) 年 開 催 の 当 該 物 語 歌 合 については、次巻三十七「けぶりの後」の冒頭部に以下の如く極めて簡略 に記述されるに過ぎないのである。 物 語 合 と て、今 新 し く 作 り て、左 右 方 わ き て、二 十 人 合 な ど せ さ せ た ま ひ て、 いとをかしかりけり。 (③四〇二頁)   年 次 の 前 後 矛 盾 は、新 編 全 集 頭 注 (③ 四 〇 二 頁) が 指 摘 す る 禖 子 斎 院 退 下記事との関連という別種の論理による記事の配置転換かもしれないが、 物語歌合に参加したばかりではなく重責を荷ったとりまとめ役に注力した 出 羽 弁 が 情 報 提 供 者 で あ れ ば、 『後 拾 遺 集』八 七 五 の 詞 書 と 同 じ く「物 語 合」や「二十人合」などという曖昧で概略な表現を許容するはずもなく、 巻三十六「根合」の巻末における非難を覚悟しての書く行為への苦衷を述 べる跋文の存在により、少なくとも巻三十七「けぶりの後」の執筆者は別 人に交替していることは明らかであろ う )注( 注( 。 しかも、斎院禖子内親王家での当該物語歌合が、天徳内裏歌合の形式を 踏 襲 し、格 式 あ る 晴 儀 歌 合 を 装 う 意 図 を 解 消 す る か の よ う に、 『栄 花』は 前掲巻三十七「けぶりの後」の引用本文に続けて「明暮御心地を悩ませた まひて、果は御心もたがはせたまひて、いと恐ろしきことを思し嘆かせた まふ。 」と記して、まるで病悩の斎 院 )注( 注( の慰め事程度に貶めてしまっている。 いわば、伝統的な歌合の系列から除外される粋狂な「物語合」という催事 が斎院で行なわれたに過ぎないことになってしまっていると言ってよいだ ろう。 このような巻三十七「けぶりの後」の記述はともかくとして、巻三十六 「根 合」に お け る 天 喜 三 (一 〇五 五) 年 の 当 該 物 語 歌 合 に 代 わ る 天 喜 四 (一 〇五 六) 年の寛子春秋歌合の掲出が、頼通の実娘寛子皇后に寄せる一途な鐘愛によ る豹変というよりも、女院彰子との確執の板挟みとなり犠牲となった出羽 弁の苦肉の所為である可能性を考えた方が実情に合致するかもしれない。 というのも、寛子春秋歌合に関して『四条宮下野集』には寛子の女房下 野の二首に替わって彰子家の女房である伊勢大輔歌が三首選ばれることに なったのは、彰子の圧力のよってくるところだが、そうした裏事情は『栄 花』はもちろん記していない。がことは、後冷泉朝後宮文化圏の協調融和 的な関係性が崩れ る )注( 注( 象徴的現象として頼通 ・ 彰子の両者から格別の信任を 得 て い た 出 羽 弁 の 動 向、そ の 出 処 進 退 (も し 斎 院 出 羽 が 出 羽 弁 そ の 人 だ っ た ら) が『栄 花』巻 三 十 六「根 合」巻 末 跋 文 に よ っ て 再 び 問 わ れ る こ と に な るとすれば、文化サロンの経営が時の権力者によって左右され歪められる という由由しき問題が胚胎することになる。加えて他家との女房交流が盛 んで、文化サロンの支柱となっていた斎院禖子の仮構の病状悪化による退 下 (天 喜 六 〈一 〇五 八〉 年) に と も な っ て、頼 通 が 主 導 す る 物 語 蒐 集 も 以 後 萎 縮 せざるを得なくなったのだろう。 しかし、晴儀歌合を企画できる文化サロンの一翼が崩れたかといって、 姉の祐子内親王は高倉一宮として頼通の膝下で鐘愛されていたのであり、 幸いにも出羽弁が当該物語歌合十八篇の新作物語から小式部作の『逢坂越 えぬ権中納言』を選び残したことは、それが紛れもなく頼通側に寄り添っ

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た物語内容であったからなのであろうか。 井 上 新 子 は『逢 坂 越 え ぬ』 (以 下 略 称) に つ い て、主 人 公 権 中 納 言 の 年 齢 を「御年のほどぞ二十に一二ばかりあまりたまふらむ」と二十代前半の設 定としたのは、当該物語歌合の実質的主催者である頼通が十八歳から二十 二 歳 ま で、つ ま り 寛 弘 六 (一 〇〇 九) 年 (三 月 四 日 任。同 日 左 衛 門 督) か ら 長 和 二 (一 〇一 三) 年 ま で の 期 間、権 中 納 言 で あ っ た の で あ り、摂 関 家 嫡 男 と し て は珍しい若き権中納言時代の頼通を思い起こさせるとし、しかも当時は一 条朝末から三条朝にかけてで、同腹の姉妹である彰子や妍子が順次中宮で あったのだから、物語の中宮との人物関係も合致して栄華の典型的な構図 を現出させているとし た )注( 注( 。 さらに物語中で蔵人少将が左右の菖蒲の根の優劣を取り成し た )注( 注( 詠歌「い づれともいかが わくべき あやめ草 おなじよどの に生ふる根なれば」が、次 の よ う な『御 堂 関 白 集』に み え る 妍 子 (尚 侍) と 道 長 の 贈 答 歌 の 表 現 を 踏 んでいるとし た )注( 注( 。    尚侍の殿より薬玉に 長き世の 例 ためし に引けばあやめ草 同じよどの は離れざりけり (五七)    御返事 降り立ちて引けるあやめのねを見てぞ今日より 長き ためし とも知る (五八) 次女妍子からの贈歌「長き世の」歌の第五句が本来は『新千載和歌集』 (巻 二 十、慶 賀、二 三 二 〇) 『新 後 拾 遺 和 歌 集』 (巻 三、夏、二 〇 三) の 如 く 「 」で あ っ た と す れ ば、そ の 意 は「同 じ 淀 野 か ら 引 い て き た 菖 蒲 の 根 は 優 劣 の 区 別 が つ か な い」と な り、 「一 首 は、作 者 妍 子 が 菖 蒲 の根の長さに道長の寿命の長さと繁栄とを託し、父への賀の心を表した歌 として捉えられる」わけである。そこで井上氏は『逢坂越えぬ』に関して 次のように結論づけたのである。 男 主 人 公 の 設 定 に 若 き 日 の 頼 通 の 経 歴 が 反 映 し、作 中 の 和 歌 に 妍 子 が 道 長 の 長 寿 と 繁 栄 と を 祝 っ た 詠 歌 が 踏 ま え ら れ た こ と は、道 長 か ら 頼 通 へ と 受 け 継 がれた一門の栄華の歴史を多分に意識した趣向ではなかったか。 かくして『逢坂越えぬ』は、歌合での賀歌に準じた〈賀の物語〉として の特異な相貌を呈することになる。しかし、そもそも蔵人少将の「いづれ とも」歌を導いた物語歌合歌である「 君が世 の ながきためし に あやめぐさ ち ひ ろ に あ ま る ね を ぞ 引 き つ る 」 (八 番 左。傍 線 久 下) は、他 の 披 講 さ れ た 物語歌とは異質で、主人公権中納言の「逢坂越えぬ」宮の姫君との恋を主 題とする題号を提示しながら、それとは全く関係のない作中の歌合歌であ り、そこには左方の意図的な場への祝賀性が既に汲み取れよう。 と こ ろ で、寺 本 直 彦 は 左 方 を 主 導 す る 出 羽 弁 の『あ ら ば 逢 ふ 夜』 (五 番 左) に も「院 の 姫 宮 の 根 合 の 歌」 (『風 葉 集』巻 三、夏、一 六 八 の 詞 書) と す る「 君 が 代 に ひ き 比 べ た る あ や め 草 こ れ を ぞ 長 き た め し と は 見 る」 (一 六 八) が あ り、 『逢 坂 越 え ぬ』の「君 が 世 の」歌 と の 表 現 上 の 類 似 に 関 し て 前掲贈答歌における道長の返歌「降り立ちて」歌をともに本歌とするから だとしてい た )(( 注( 。出羽弁はひとり小式部に指示していた訳ではなく自らも協 同歩調をとって当該物語歌合における関白頼通への祝賀性を盛り上げてい たのだといえよう。 因 み に、引 い た あ や め 草 を「長 き た め し」と す る 表 現 は、 『寝 覚』の 先 行 物 語 と し て 位 置 づ け ら れ る 孝 標 女 作 の『朝 倉』に も 三 条 院 が 皇 后 宮 (朝 倉 君 の 娘 か) に「い み じ う 長 き 根」に 添 え て 贈 っ た 歌「あ や め 草 深 き 入 江

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を 尋 ね つ つ 長 き た め し に 今 日 は 引 く か な」 (『風 葉 集』巻 三、夏、一 七 〇) が あり、同じ祐子内親王家文化圏の営為として注意されるところであ る )(注 注( 。 ともかく当該物語歌合の実質的主催者ともいえる頼通にむかって父道長 と妹妍子の贈答歌を踏まえる物語構図は関心興味を引くことには違いない が、頼通周辺の人間関係におし拡げていくと、三条院后妍子所生の禎子内 親 王 は 頼 通 養 女 嫄 子 女 王 (禖 子 の 母 で 定 子 腹 敦 康 親 王 女) の 後 朱 雀 天 皇 入 内 によって、皇后に格上げされたものの、禎子と後朱雀との仲は遠ざけられ る事態となった。再び後冷泉天皇への寛子の強引な入内によって中宮章子 内親王 (後一条天皇中宮威子 〈道長三女〉 所生) との間に軋轢を生じ た )(( 注( 。 それは、ひいては章子を鐘愛する彰子や異母弟頼宗の娘延子あるいは実 弟 教 通 の 入 内 さ せ た 娘 た ち、生 子 (後 朱 雀 天 皇 女 御) や 歓 子 (後 冷 泉 天 皇 女 御) の立后問題での落胆 ・ 遺恨等が重なり、 「頼通とその一門」 (寺本論考) といっても寛子はむろんのこと、祐子 ・ 禖子両内親王及び頼通の義弟で猶 子 で も あ り、禖 子 の 家 司 と な っ た 源 師 房 (村 上 源 氏 ・ 具 平 親 王 息) と い っ た 頼通膝下の限定的な人々であり、もはや道長一統としてまとまる一枚岩と しての後宮政策ではあり得なくなってしまっていた。しかも頼通の近親は 正妻隆姫をはじめ中務宮具平親王の血族で占められている実状を看過すべ きではない。いわばこうした人間関係を見据えることになるはずで、道長 の栄華を継承するのが嫡子のみに与えられた特権であるかのような祝賀性 に内包する矛盾を開示することになれば、物語あるいは物語作者は表現上 の虚飾にどれほど耐えられるのか。 とりあえず、こうした問題を孕む歴史事象をひとまず脇に置いて元に戻 すと、左方の出羽弁を中心とする当該物語歌合への取り組む姿勢が頼通へ の祝賀という顕著な方向性がうかがえる中で、祐子内親王家の女房である 小式部が物語の主人公権中納言に頼通のイメージを摂り入れた方法と同じ く、 『寝覚』の男主人公の官職設定に頼通の嫡子師実を想定させたことは、 藤原摂関家の正統な継承譜を道長 → 頼通 → 師実と位置づけるための〈賀〉 の物語史構築を目論む痕跡とも考えられよう。が、だとすれば、一方で背 景に退いてしまった『逢坂越えぬ』の主題となるはずの宮の姫君への権中 納言の逡巡する恋の局面をどう理会すればよいのだろうか。 『逢 坂 越 え ぬ』は 短 篇 物 語 ゆ え の 手 法 で、権 中 納 言 と 宮 の 姫 君 と の 恋 の 行 方 を 放 置 し た ま ま 終 え る が、現 実 の 頼 通 が 権 中 納 言 と な っ た 寛 弘 六 (一 〇 〇九 ) 年 に は 具 平 親 王 家 の 長 女 隆 姫 と の 婚 姻 交 渉 が 具 体 的 な 展 開 を み せ 始 め たはずなのである。 『御 堂 関 白 集』に は 前 掲 妍 子 ・ 道 長 贈 答 歌 の 次 に 頼 通 ・ 隆 姫 (代 詠) の 贈答歌が配置されていて、頼通の贈歌は「左衛門督殿の、北の方にはじめ てつかはす/降り立ちて今日は引くにもかからねばあやめのねさへなべて な る か な」 (五 九) と な っ て い て、こ れ を 本 文 の ま ま 信 じ れ ば、頼 通 が 権 中 納 言 兼 左 衛 門 督 と な っ た 寛 弘 六 (一 〇〇 九) 年 の 五 月 五 日、菖 蒲 の 節 句 当 日 に初めて隆姫へ求婚歌を贈ったことになり、例の『紫式部日記』で道長が 紫 式 部 に 中 務 宮 具 平 親 王 家 と の 縁 談 で 相 談 し た 寛 弘 五 (一 〇〇 八) 年 十 月 中 旬 頃からだいぶ時間の経過がみられ、この結婚の進捗がいっこうにはかどら なかった状況が浮かび上がり、物語中の主人公権中納言と宮の姫君との関 係性に呼応するかのようである。 ほぼ半世紀前にもなろうとする当該物語歌合において中務宮具平親王家 と頼通との縁談が物語の 話 モチーフ 材 になり得るのは、禖子内親王の母である 嫄 子 女 王 が 具 平 親 王 の 次 女 所 生 で あ っ て 、 頼 通 の 正 室 隆 姫 と 姉 妹 で あ っ た と い う 関 係 が も た ら し た の だ と 割 り 切 る こ と も ま た 根 拠 と し て 薄 弱 な の で

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あ ろ う。 と こ ろ が、 『逢 坂 越 え ぬ』以 上 に 明 示 的 な の が 題 号 に「中 務 の 宮」を 表 示する一番左の『霞へだつる』であり、中務宮の姫君に思いを寄せる左大 将の実らぬ恋の嘆きを描く物語となっている。その左大将に思わぬ帝の姫 宮 降 嫁 の 話 が ふ っ て わ い た の は 管 絃 の 宴 で「月 の 都 も ひ と つ」 (『風 葉 集』 巻 十 七、雑 二、一 三 二 七) に し た 笛 の 賞 で あ っ た と は、樋 口 芳 麻 呂 )(( 注( ・ 神 野 藤 昭 夫 (前 掲 注( 8)論 考) の 推 論 で あ る が、そ の 一 件 が さ ら に 左 大 将 を 窮 地 に 追 い 込 み「う き 身 を か ぎ る」 (『風 葉 集』巻 十 六、雑 一、一 一 八 二) 春 の 暮 れが訪れたという一途で清廉な左大将の恋が主題となっていて、題号に暗 示する宮中から隔たった山の麓で穏やかに隠棲する居宅となる中務宮邸が 遠 景 に 退 い て い る 点、逆 パ タ ー ン で は あ る が、 『逢 坂 越 え ぬ』と 軌 を 一 に した設定だといえよう。 ま た 主 人 公 左 大 将 の 映 イ メ ー ジ 像 に 当 時 左 大 将 で あ っ た 頼 通 の 実 弟 教 通 が 想 定 (樋 口 論 考) で き る と す れ ば、具 平 親 王 の 三 女 で 前 斎 宮 で あ っ た 嫥 子 女 王 と の 結 婚 が、当 該 物 語 歌 合 の 四 年 前 で あ る 永 承 六 (一 〇五 一) 年 に 実 現 し て い た の で あ る し、そ の 前 妻 が 三 条 天 皇 第 二 皇 女 の 禔 子 内 親 王 (永 承 三 〈一 〇四 八〉 年 閏正月二十九日薨去) であってみれば、左大将の映像に確かに教通を投影で きるのである。樋口氏は次のように言う。 中 務 宮 の 姫 君 と 左 大 将 の 恋 物 語 と あ れ ば、読 者、と く に 禖 子 内 親 王 家 の 女 房 た ち な ど は、教 通 と 嫥 子 女 王 な ど の 恋 を 脳 裏 に 浮 か べ る 瞬 間 が あ る の で は な か ろ う か。す な わ ち 女 別 当 の 狙 い は、物 語 の 登 場 人 物 に 親 近 感 を 持 た せ、 人 々 に 微 苦 笑 を 誘 う た め に、中 務 宮 の 姫 君 と か 左 大 将 を 選 ん だ の で は な か ろ うか。 物語発表の場に直結する第一次享受者となる禖子内親王家の女房たちで はあるが、具平親王次女を祖母とするのは姉祐子内親王とて変わりないの だから、斎院家の筆頭女房で一番左の有資格者である女別当と親交のある 出羽弁との間で何らかの意思疎通により具平親王家に関わる話題性を打ち 出す物語提供に小式部ともども協働したのだと言えなくもない。ただ永承 六 (一 〇五 一) 年 当 時 五 十 六 歳 で 右 大 臣 兼 左 大 将 の 教 通 と 斎 宮 を 退 下 し た 嫥 子 女王 (四十七歳くらいカ) との結婚がどのような意図と経緯によったのかは っきりしないけれど、この結婚が一時延期された事情があったが、それは 杉崎重遠が推察するように、寛子皇后冊立により教通女歓子の立后の望み が 絶 た れ た こ と で、 「結 婚 相 手 の 嫥 子 女 王 が 当 面 の 対 立 者 頼 通 の 北 の 方 隆 姫女王の妹であってみれば、教通の心中釈然たらざるものがあったであろ う )(( 注( 。」と な る と、こ の 結 婚 が 教 通 の 願 望 と い う よ り は、こ じ れ た 兄 弟 間 で の 頼 通 に よ る 懐 柔 策 の 一 環 で あ っ た と の 認 識 が 妥 当 で あ り、 『栄 花』 (巻 三 十 六、根 合) が「ま こ と や 右 の 大 殿 は つ ひ に 殿 の 斎 宮 0 0 0 0 に お は し ま し ぬ。ね び さ せ た ま へ れ ど、心 ざ し 浅 か ら で お は し ま す。 」 (③ 三 七 五 頁。傍 点 久 下) と記すのも、頼通の後見がみてとれ、そうした背景がうかがわれよう。 だがしかし、それも頼通が関白職を退き譲る時期をむかえると、師実に 嗣がせたい頼通と実弟教通との間に反目が生じ、その確執は再び顕在化し た。この関白後継問題に関しては、家長である女院彰子が故道長の遺言を もち出して (『古事談』 ) 、まずは教通が関白職を嗣ぐこととなっ た )(( 注( 。 そ れ は、治 暦 四 (一 〇六 八) 年 四 月 十 七 日 の こ と で あ り、同 日 皇 太 后 禎 子 内 親王を太皇太后、中宮章子内親王を皇太后、皇后藤原寛子を中宮、女御藤 原 歓 子 を 皇 后 と し た (『一 代 要 記』 ) 。ま た 同 月 十 九 日 に は 後 冷 泉 天 皇 崩 御 に ともない、尊仁親王 (後三条天皇) が践祚した (『本朝世紀』 ) 。

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ともかく左大将としての教通の 映 イメージ 像 が、中務宮具平親王の三女 嫥 子女王 との結婚とも相俟て『霞へだつる』に定着することの意義は、平安後期の 物 語 史 に と っ て 重 要 で、 『浜 松』で は 主 人 公 中 納 言 の 母 の 再 婚 相 手 が 左 大 将であったという人物設定に関してはその存在性に理由づけはできないけ れ ど も、 『寝 覚』に お い て は 女 主 人 公 中 の 君 (源 氏 太 政 大 臣 女) の 最 初 の 結 婚 相 手 が 老 関 白 と し て 知 ら れ て い る が、そ の 関 白 職 は 兄 (男 主 人 公 の 父) か ら の 移 譲 と 推 定 で き、ま た 結 婚 当 初 は 左 大 将 (中 間 欠 巻 部) で あ り、し か も 後 妻 (前 妻 の 連 れ 子 が い た。生 子 ・ 歓 子 は 公 任 女 所 生) で あ っ た。つ ま り、 『寝 覚』で は 教 通 の 映 イ メ ー ジ 像 が 左 大 将 か ら 関 白 へ と 引 き 継 が れ て い る と い え、 このことが『寝覚』の成立時期とどう関わることになるのか、課題の一つ となる。 一 方、 『寝 覚』の 男 主 人 公 権 中 納 言 は 関 白 左 大 臣 の 嫡 子 で あ り、大 納 言 → 内 大 臣 → 関 白 と 栄 進 す る。師 実 も 関 白 左 大 臣 の 頼 通 を 父 と し て、康 平 元 (一 〇五 八) 年 四 月 十 七 歳 で 権 大 納 言 と な り、康 平 三 (一 〇六 〇) 年 七 月 に は 十 九歳の内大臣で、父頼通が左大臣を辞し、右大臣教通が左大臣に、内大臣 頼宗が右大臣に移ったことでの昇進となる。因みに師実が教通の後関白と な る の は、承 保 二 (一 〇七 五) 年 十 月 十 五 日 で あ り、承 保 元 (一 〇七 四) 年 二 月 二 日 に は 頼 通 (八 十 三 歳) 、同 年 十 月 三 日 に は 彰 子 (八 十 七 歳) が、翌 承 保 二 (一 〇七 五) 年九月二十五日に教通 (八十歳) が既に没していた。 と い う こ と で、 『寝 覚』で は 男 女 主 人 公 周 辺 の 人 物 関 係 構 図 や 官 職 昇 進 の経過が、実社会の教通、師実を取り囲む歴史的事象と極めて近似してい るのであり、また女主人公の身に起こる准后宣下についても既に稲賀前掲 論考に指摘があり、物語の創作方法として摂り込む歴史的事象や背景さら には作中人物の 映 イメージ 像 には孝標女が仕えた主人筋に当たる人間関係や官職が 反映されているのだといえよう。その方法は『寝覚』に先行して成立した 当 該 物 語 歌 合 に 提 出 さ れ た 小 式 部 作『逢 坂 越 え ぬ』 、女 別 当 作『霞 へ だ つ る』 、そして出羽弁作『あらば逢ふ夜』に顕著であった。 さらに付け加えて言えば、 『あらば逢ふ夜』に関しての前掲拙論 Aでは、 主 人 公 の 民 部 卿 の 映 イ メ ー ジ 像 に 頼 通 の 末 弟 で あ る 中 宮 大 夫 長 家 (次 妻 明 子 腹 だ が、 正 室 倫 子 の 猶 子 と な る) が 関 わ る こ と を 述 べ た が、前 掲 寺 本 論 考 に は『あ ら ば 逢 ふ 夜』の 作 中 歌 三 首 (う ち「君 が 代 に」歌 は 既 述) が 妍 子 ・ 道 長 贈 答 歌 と同じように類似表現を抱えていることが指摘されているので、いま改め て掲出しておくこととする。 それは 嫄 子入内後、後朱雀天皇と禎子皇后とが交した贈答歌のうち帝の 贈 歌「あ や め 草 か け し 袂 の ね を 絶 え て さ ら に こ ひ ぢ に ま よ ふ こ ろ か な」 (『後 拾 遺 集』巻 十 三、恋 三、七 一 五) が、 『あ ら ば 逢 ふ 夜』の「あ や め 草 か か る 袂 の せ ば き か な ま た し ら ぬ ま の 深 き 根 な れ ば」 (『風 葉 集』巻 三、夏、一 六 九) と「あ や め 草」 「根」 「袂」 「か け」の 表 現 類 似 に よ り 深 き 恋 路 を 意 味 する関係性において、また麗景殿延子入内の際に後朱雀天皇と梅壺女御生 子との贈答歌のうち生子の返歌「青柳のいと乱れたるこの頃は一筋にしも 思 ひ よ ら れ ず」 (『栄 花』巻 三 十 四、暮 ま つ 星。 『新 古 今 集』巻 十 四、恋 四、一 二 五 一) が、 『あ ら ば 逢 ふ 夜』の「常 よ り も い と ど 乱 る る 青 柳 は も と 見 し 人 に 心 よ る ら し」 (『風 葉 集』巻 一、春 上、五 八) と、乱 れ る 青 柳 を 他 の 女 人 に 心を寄せているからとする詠出に共通点を見出してい た )(( 注( 。これら二首の類 似は既に検討した「君が代に」歌とは違って、新たに入内した女人によっ て後宮が混乱する要因となっていることを示唆する引用とも考えられよう か。 確かに『逢坂越えぬ』を〈賀〉の物語とする井上氏の考え方は一つの表

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現「長きためし」に支えられているばかりではなく、女房参加を前提とす る 村 上 朝 の 天 徳 四 (九 六〇 ) 年 内 裏 歌 合 を 範 と す る 晴 儀 歌 合 の 復 活 と 合 わ せ て、物語作者としての女房を歌合の方人としてそのまま位置づける革新的 な催事 が )(( 注( 、関白左大臣頼通の指示によって形となった当該物語歌合の開催 意 義 は 測 り し れ な い か ら、祝 意 を も っ て 敬 す る の は 当 然 だ と は い え、 『逢 坂越えぬ』における内裏での根合で は )(( 注( 、中宮主催で公卿 ・ 殿上人をまき込 んで女房たちが過熱する様子が描かれるのに対し、一方天皇が置き去りに され、皇権が蔑ろにされている物語内容を含むの で )(( 注( 、頼通政権下の摂関体 制の内情を告発しているともいえるのである。 こ の よ う な 批 判 的 な 眼 差 は、 『栄 花』 (巻 三 十 一「殿 上 の 花 見」~ 巻 三 十 六 「根 合」 ) の 記 述 姿 勢 と 共 有 し て い る の で あ り、 『あ ら ば 逢 ふ 夜』の 作 者 で ある出羽弁としては、 嫄 子入内後の後朱雀天皇の他の后妃に関して穏やか ならぬ状況認識があって、後冷泉朝後宮におけるみずからの主人である中 宮章子内親王の心情を忖度、憂慮しての動機、所為であったにしても、そ れが出羽弁の出処進退を左右することになったばかりではなく、頼通のす すめる物語蒐集や歌合編纂事業へも少なからぬ影響を及ぼすことになった のではないかと、彰子の圧力以外の要因を想定してみたのであ る )(( 注( 。 ともかく摂関家を頂点としてその周辺に仕える女房作者にとって、身辺 に生起する歴史的事象を虚構の物語に摂り入れることが、後期物語の創作 手法として定着していることを示したが、次節ではもう一つの創作方法で ある『源氏物語』摂取について再確認しておきたい。   『源氏物語』摂取 『源 氏 物 語』 (以 下『源 氏』と 略 称) 摂 取 の 様 相 に つ い て 前 節 で 採 り 挙 げ た 『逢坂越えぬ』 『霞へだつる』を確認し、加えて宣旨作『玉藻に遊ぶ権大納 言』 (一 番 右) の 検 討 に 入 り、 『寝 覚』の 創 作 手 法 と の 一 致 や 相 異 に つ い て 『源氏』摂取の問題を考えていくこととする。 まず『逢坂越えぬ』の主人公中納言の人物造型が優柔不断な薫型である ことは、夙に言われていることであり、さらに次のような宮の姫君へ身近 に迫っての求愛においても具体的な表現上の引用によって『源氏』の特定 場面を指向させ認知できるようになっている。周知されている本文だが、 いちおう確認のため掲出しておく。 寛子 ︵頼通女︶ 皇后 馨子内親王 後冷泉天皇 ︵親仁親王︶ 中宮 禖子内親王 祐子内親王 ︵       ︶ 教康親王女 頼通養女 娟子内親王 良子内親王 尊仁親王 ︵後三条帝︶ 威子 ︵道長三女︶ 中宮 後一条天皇 嬉子 ︵道長四女︶ 尚侍 子女王 中宮 後朱雀天皇 禎子内親王 皇后 延子 ︵頼宗女︶ 女御 生子 ︵教通女︶ 梅壺女御 一条天皇 章子内親王 〈系図〉

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お ぼ し ま ど ひ た る さ ま 心 ぐ る し け れ ば、 「身 の ほ ど 知 ら ず、な め げ に は よ も 御 覧 ぜ ら れ じ。 」と 言 ひ も や ら ず、涙 の こ ぼ る ゝ さ ま ぞ、さ ま よ き人もなかりける。 (九〇頁) 突然襲われた姫宮は惑乱状態で「たゞ一声を」との男の切望もむなしい が、この場面は『源氏』若菜下巻において、柏木が女三の宮に迫って告白 することばに「かくおほけなきさまを御覧ぜられぬるも、かつはいと思ひ や り な く 恥 づ か し け れ ば、罪 重 き 心 も さ ら に は べ る ま じ」 (④ 二 二 五 頁) と、 女の恐怖心をいくらかでも和らげようとする言辞で、実事なき逢瀬場面の 定石的口上となっていくが、男の自制による理不尽な契りを回避しようと す る「身 の ほ ど 知 ら ず、な め げ に は よ も 御 覧 ぜ ら れ じ。 」が、措 辞 を そ の まま踏襲した訳ではないにしても、その内容は一致して対応することにな ろう。これに次いで柏木は「あはれとだにのたまはせば、それをうけたま はりてまかでなむ」と言う。これが「ただ一声を」に当り簡略に言い換え たという体となろう。 また竹河巻では、夕霧の息蔵人少将が玉鬘大君への懸想文に「あはれと 思ふ、とばかりだに一言のたまはせば、それにかけとどめられて、しばし も な が ら へ や せ ん」 (⑤ 八 九 頁) と 記 す か ら、 『逢 坂 越 え ぬ』の「た ゞ 一 声 を」は最後に「あはれ」の一言をせめて望む男の切ない恋情の呻きに似た ことばとして理会され、その水脈に位置づけられよう。それにしても中納 言の「涙のこぼるゝさま」とは、柏木や蔵人少将に比べてさらなる男の軟 弱性を露呈しているともいえよう。 次に『霞へだつる』だが、宮中から離れた山里に隠栖している宮家の設 定とその様相から宇治十帖の八の宮を想起させるとのことは、小木 喬 )(注 注( をは じめ前掲樋口 ・ 神野藤両論考において指摘されている。とりわけ神野藤論 考では「左大将と中務宮とその姫君との関係が、薫と八の宮と大君との関 係に重なり合うこと」に加えて、左大将の笛の賞として帝の女宮の降嫁を 導 き、 『源 氏』で は 薫 に と っ て 大 君 思 慕 と 女 二 の 宮 降 嫁 と を せ め ぎ 合 う 関 係 と は し な か っ た の に 対 し、 『霞 へ だ つ る』で は「左 大 将 が 中 務 宮 の 姫 君 への思慕と帝の女宮の降嫁の話との間で苦しむというふうに結びつけ主題 化したのではあるまいか。 」と推察したのであった。そうだとすれば、 『霞 へだつる』は『源氏』の登場人物関係構図の単なる引き写しを試みている ばかりではなく、薫との関わりから女宮降嫁を絡めてさらに複雑な左大将 の恋模様に仕立て上げているのだといえよう。 以上のように、特定の場面構造の中で表現の類似を構築したり、また人 物関係構図において直接の対応相手でなくとも同じ物語展開の中で生起し た事象を関連づけたりすることをも『源氏』摂取の概念に収め、全く同語 句の引用レベルではなくとも包含して検討することにしたい。 そこで、当該物語歌合において一番右に提出され、のちの『狭衣物語』 作者となる宣旨作の『玉藻に遊ぶ権大納言』だが、題号は宮道高風歌「春 の 池 の 玉 藻 に 遊 ぶ に ほ ど り の あ し の い と な き 恋 も す る か な」 (『後 撰 集』巻 二、春 中、七 二) に 拠 っ て い て、主 人 公 権 大 納 言 の「い と (暇) な き」恋 を 主 題 化 し た ら し く、 『逢 坂 越 え ぬ』や『霞 へ だ つ る』の 一 途 な 恋 物 語 と は 違 っ て 複 数 の 女 性 (一 条 院 女 一 の 宮、冷 泉 院 一 品 の 宮、春 宮 の 母 女 御) と の 交 渉 が 知 ら れ る が (『風 葉 集』 ) 、中 で も 冒 頭 部 に 据 え ら れ て い た ら し い「蓬 の 宮」 (『無 名 草 子』 ) と の 恋 模 様 が 飛 鳥 井 君 と 同 じ よ う に 物 語 を 通 底 し て い た ようだ。 それは、当該物語歌合に提出された『玉藻に遊ぶ』の主題性に添う作中

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歌「ありあけの 月まつ里 はありやとてうきてもそらにいでにけるかな」は、 『源 氏』末 摘 花 巻 で 光 源 氏 の 遅 い 後 朝 歌 へ の 返 歌「晴 れ ぬ 夜 の を お も ひ や れ お な じ 心 に な が め せ ず と も」 (① 二 八 七 頁) と 第 二 句「月 ま つ 里」を共有し、主人公と「蓬の宮」との出逢いの導入になっていたようで、 それに加えて末摘花が故常陸宮の姫君であり、その宮邸が蓬や葎が茂る荒 廃した環境であったことにも通じ連想させるから、末摘花が「蓬の宮」造 型に関わることは明白だといえよう。 しかし、末摘花が醜貌の姫君であって光源氏の落胆と失笑を買ったのと は 違 い、 「蓬 の 宮」は 主 人 公 の 心 か ら 離 れ ぬ 存 在 の 女 性 と な っ た よ う だ。 『風葉集』 (巻十二、恋二、九三六) にその後朝歌が残る。    内侍のかみ見そめて侍りけるあしたに遣はしける     玉藻に遊ぶ関白     越えて後静心なき逢坂をなかなか関のこなたなりせば 当歌は「蓬の宮」と初めて契った後、理想の女性と出逢って落ち着かな い 主 人 公 の 心 境 が 素 直 に 吐 露 さ れ て い る と み て よ い だ ろ う。 「蓬 の 宮」は 詞書にあるように主人公と関係をもった後、尚侍として入内していて、主 人公も関白となっているところからすれば、二人の恋は何らかの事情で行 き 違 い と な っ た よ う だ (後 述 す る) 。こ の よ う に 主 人 公 の 恋 は、い ず れ の 恋 も思うにまかせない不如意な結末をむかえていて、まさに『玉藻に遊ぶ』 は『狭衣物語』の前身といえそうな物語なのである。 一 方、 「蓬 の 宮」の 尚 侍 と し て の 入 内 に 関 し て も、 『風 葉 集』 (巻 十 四、恋 四、一 〇 二 一) の 詞 書 に「尚 侍、心 に も あ ら ず 内 に 参 り 侍 り け る」と あ っ て、不本意な入内が強いられたようだ。神野藤氏の推論に従えば、主人公 と「蓬の宮」との恋が、一条院女一の宮との結婚の障害になると判断した 主 人 公 の 父 親 が 後 見 し て、朱 雀 帝 の 尚 侍 と し て、 「蓬 の 宮」を 入 内 さ せ た のだとする。主人公の前から突然その姿を消して行方知れずになった「蓬 の宮」と宮中で再会することになる主人公は、二人の関係を元に戻そうと 迫るが、 「蓬の宮」は朱雀帝の寵愛との間で苦しみ、 「板ばさみにあって進 退きわまり、ついに宮中を出奔し、出家をする」と、この物語の展開を組 み立ててい る )(( 注( 。 尚侍が朱雀帝に愛されたこと及び出家したことは、 『風葉集』 (巻六、冬、 四 二 九) に 朱 雀 院 詠「内 侍 の か み さ ま 変 へ て 侍 り け る 後、雪 の 朝 に 遣 は さ せ給ひける/あはれとは思ひおこせる片敷きて身もさえわたる雪の夜な夜 な」とあって知り得ることなのである。 「蓬 の 宮」が 尚 侍 と な っ て 後 宮 の 妃 と な り、そ こ で 現 出 す る 帝 と 主 人 公 との三角関係は、物語文学史上では注視すべき事例であり、 『うつほ』 『源 氏』から『玉藻に遊ぶ』 『みづからくゆる』を経て、 『寝覚』に至る尚侍像 の系譜と変容の軌跡に関しては既に拙論があ り )(( 注( 逐一繰り返さないが、前稿 で 失 念 し た 点 で 当 論 に お い て 肝 要 な の は、 『源 氏』若 菜 上 巻 で は 前 掲『後 撰 集』の 宮 道 高 風 歌 が「玉 藻 に 遊 ぶ 鴛 鴦 の 声 々」 (④ 八 一 頁) と、尚 侍 で あ る朧月夜と光源氏との関わりにおいて引かれており、朱雀院の山籠り後、 二条宮に帰っていた朧月夜に再会していまなお続く執心を訴えようとする 光源氏を夫婦仲の良い鴛鴦の声々が触発するという場面が設定されている。 井上新子が言うように『玉藻に遊ぶ』の主人公と「蓬の宮」との関係には、 『源 氏』の 末 摘 花 と 朧 月 夜 の 物 語 が 前 後 を 繋 ぎ 合 わ せ 下 敷 き と な っ て 構 想 されていよ う )(( 注( 。 と こ ろ で、 『寝 覚』の 尚 侍 と い っ て も 帝 と 男 主 人 公 と の 板 ば さ み と な り

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三角関係に苦しむ当事者となるのは女主人公寝覚の上だが、尚侍となるの は寝覚の上の継娘、つまり亡き夫関白の先妻の娘であって、寝覚の上は帝 からの尚侍就任要請を断わり、身代りとして継娘を入内させたのである。 物語文学史上、 『玉藻に遊ぶ』 『みづからくゆる』を経るといっても、それ はほぼ成立上の年代順に過ぎないかもしれないのである。 と い う の も、 『寝 覚』の 尚 侍 は、史 上 の 教 通 二 女 真 子 が 長 久 三 (一 〇四 二) 年 尚 侍 と な り、入 内 し た こ と を 反 映 し て い る 可 能 性 が 大 き い の で あ り、 『玉 藻 に 遊 ぶ』 『み づ か ら く ゆ る』の 尚 侍 は、道 長 四 女 尚 侍 嬉 子 が 万 寿 二 (一 〇二 五) 年 に 薨 じ て 以 来、十 七 年 間 尚 侍 が 不 在 で あ っ た 時 期 を 想 定 し、独 自に変容をとげた尚侍造型であったとみられるのである。 寝覚の上は尚侍となった継娘にともなって宮中に入った。それが現存巻 三 以 降、帝 と 男 主 人 公 内 大 臣 (中 間 欠 巻 部 で 朱 雀 院 女 一 の 宮 降 嫁。母 大 宮 の 画 策 を 招 く) と の 間 で、寝 覚 の 上 を め ぐ っ て 確 執 が 生 じ、一 方 で 寝 覚 の 上 は 男主人公への愛に目覚める契機ともなっていくのである。 それは、男主人公の身に女宮降嫁を加える中間欠巻部を経て『寝覚』に とって巻三は本格的な男女主人公の物語の始動とも言ってよいが、既に物 語が始まってから長い年月が経ち、数多くの経験を積んだ女主人公として 立ち現われてくるのであり、女主人公をめぐる三角関係の恋物語としては 実 質 的 な 始 ま り と は い え、 〈尚 侍〉を 引 き 出 し て く る 物 語 の 構 造 的 意 味 合 いからしても、巻一の冒頭部には長篇物語として欠くことのできない『源 氏』摂取の様相が奏でられていたことの派生であることに留意しなければ ならないだろう。 物語の発端をかたどる現存巻一の冒頭部には源氏の太政大臣である父か らの訓育として「姉君には琵琶、中の君には箏の琴を教へたてまつりたま ふ」 (一 六 頁) と 紹 介 さ れ、姉 よ り 中 の 君 の 力 量 が 優 れ て い る こ と が 告 げ られ、八月十五夜、十三歳の中の君は夢の中で天人から琵琶を習うことと な る。こ こ ま で で も 既 に『竹 取 物 語』 『う つ ほ 物 語』の イ メ ー ジ が 折 り 重 なるように積み上げられているとはいえ、やはり『源氏』宇治十帖の初巻 橋姫巻で八の宮が姉に琵琶を、妹中の君には箏の琴を教えていたことに符 合させながらも、姉大君ではなく妹の中の君が物語の主人公として設営さ れ、せり上げられてゆくことが冒頭部における重要な話素となっている。 そして、それは宿命を負う物語の主人公化として天人が授けたのは琵琶 の 楽 曲 や 秘 技 だ け で は な く、 「こ れ 弾 き と ど め た ま ひ て、国 王 ま で 伝 へ た て ま つ り た ま ふ ば か り」 (一 八 頁) と す る 予 言 で あ り、さ ら に 翌 年 に は 「あ は れ、あ た ら、人 の い た く も の を 思 ひ、心 を 乱 し た ま ふ べ き 宿 世 の お は す る か な」 (二 〇 頁) と、第 二 の 予 言 ま で 下 さ れ て い る。こ の 予 言 が、 野口元大が言うように『源氏』桐壺巻における高麗の相人の予言に匹敵す るものではあるけれど も )(( 注( 、桐壺帝の英断によって「乱れ憂ふること」を回 避するため第二皇子の光を臣籍に降下する対応をとることが可能となる二 者択一の予言ではなかった。 いわば、外見的な明に対して内面的な暗ともいえ、このような吉と凶と を合わせ持つ予言は、孝標女の『更級日記』においても初瀬詣の代参の僧 が夢の中で鏡に写し出された二つの映像、つまり「臥しまろび泣き嘆きた る 影」 (新 編 全 集 三 二 一 頁) と、後 宮 を 思 わ せ る 華 や い だ 女 房 た ち の 出 衣 が 几帳からこぼれ出る光景が二つながら示されていたことと対応することに なる。 孝 標 女 の 将 来 を 予 見 す る 吉 凶、明 暗 の 光 景 は、 『更 級 日 記』で は 冒 頭 に 十三歳の時、上総国から上京することが明記され、人生の転機として刻印

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し、晩年の述懐では「ただ悲しげなりと見し鏡の影のみたがはぬ、あはれ に 心 憂 し。 」 (三 五 七 頁) と 記 し て い る 箇 所 を 根 拠 に『更 級』成 立 を 前 提 と すれば、 『寝覚』において同じく主人公が十三歳での人生の転機をむかえ、 この予言が設定される意図をも自ずから明確となり、第二予言である「も のを思ひ、心を乱したまふべき宿世」のみが実現する可能性に傾くといえ よう。 この姉妹は一世の源氏を父とし帥宮女を母とする申し分のない高貴な出 自が設定されているのだから、姉との問題は少なからず浮上してくるにし て も、 「国 王 ま で 伝 へ た て ま つ り た ま ふ」の 実 現 は、順 当 に 考 え れ ば 中 の 君が入内し后となる物語であるはずなのである。 ところが、姉の結婚相手である関白左大臣の息である権中納言と中の君 が先に契ってしまうのだから、橋姫巻での薫のかいま見時における姉妹の 楽器交換の意図がなかなか不分明なのに対し、天人による中の君への琵琶 の 教 授 が 明 確 な 伏 線 と な っ て 現 象 し て い る の で あ る。つ ま り、 「国 王 ま で 伝へたてまつりたまふ」という第一予言は、この物語を長篇化に導く言辞 であり、天人による琵琶の教授の行末を予期させているにすぎなく、当面 の物語の課題は第二予言の方にあり、天人によって選ばれた中の君の宿運、 特異な人生史の幕明けであったことを知らしめていたのである。 第二予言がいかなる事件によってもたらされてくるのか。それが男主人 公 権 中 納 言 と 中 の 君 (寝 覚 の 君) と の 突 然 の 出 逢 い で あ っ た の で あ り、そ の契機がまた濃密な夕顔巻からの『源氏』取りで成り立っていることに注 視することになる。 東 に、た だ 呉 竹 ば か り を 隔 て た る 所 に、左 大 臣 殿 の 中 納 言 殿 の 御 乳 母 の 月 ご ろ わ づ ら ひ け る が、こ こ に 渡 り て 尼 に な り に け る、訪 ひ に、そ れ も 今 日 の、 いみじく忍びやかにておはしたり。 (巻一。二六頁)   この場面が、夕顔巻の「大弐の乳母のいたくわづらひて尼になりにける と ぶ ら は む と て、五 条 な る 家 た づ ね て お は し た り」 (① 一 三 五 頁) と の 文 辞 の引き写しであることは瞭然で、吉海直人は両者の類似点を①主人公が乳 母の見舞いにやってきて、隣家の姫君を発見する。②乳母がともに尼にな っている。③乳母子がともに活躍する。④お互いに相手の素姓がわからず、 男君は姫君を下の品と誤認する。⑤姫君は方違えや物忌みで偶然そこに居 合わせたという設定になっている。との五項目を指摘し た )(( 注( 。 も ち ろ ん、 『源 氏』取 り ば か り で は な く、隣 家 へ と か い ま 見 に 至 る 周 囲 の 環 境 を「竹 の も と に 歩 み 寄 り た ま ひ て」 「こ な た も か な た も 竹 の み し げ り 合 ひ て」 「こ な た も 竹 多 く し げ り て」 (二 八 頁) と し て『竹 取 物 語』を 想 起 さ せ て、 「む ら 雲 の な か よ り 望 月 の さ や か な る 光 を 見 つ け た る 心 地」 (二 九 頁) と 絶 世 の 美 女 発 見 を、言 わ ず も が な の「竹 取 の 翁 の 家 に こ そ か ぐ や 姫はありけれ」を配し、男主人公の驚喜を導くのは、容易な引用の羅列が、 読者を合理的な説明なしに納得させ、男女主人公の出逢いを加速させる方 法として有効であったからこそと理会せねばならないところなのだが、こ のかいま見場面を『源氏』橋姫巻で薫が大君、中の君の音楽に興じるとこ ろ を か い ま 見 る 場 面 と 同 趣 (新 編 全 集 頭 注 説 明 三 〇 頁) と す る に は、寝 覚 の 君は箏の琴を弾くが、男主人公は楽器交換の現場を目撃しないので多少の 違和感を生ずることになる。これが第一予言とは関わらないゆきずりのか いま見として男側の論理を導く理由を物語は次のように説明する。

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「ゆ く り な く あ は つ け き 振 舞 は、お の づ か ら 軽 々 し き こ と も 出 で 来 る を」と、 あ り が た く お ぼ し を さ め た る 心 な れ ど、我 な が ら あ や し く 鎮 め が た き を、人 の 程 を こ よ な き 劣 り と 思 ふ に、あ な づ ら は し く、 「今 宵 を 過 ぐ し て ま た 言 ひ 寄 ら む 風 の 便 り も、さ す が に あ る べ き や う も な し」と お ぼ し 寄 り て、月 影 の かたに寄りて、やをら入りたまひにけり。 (巻一。三〇頁) 常日頃の軽率な行動を戒める自制心が溶解してしまうのは、相手が受領 の娘、但馬守の三女との誤解にもとづく、低い身分への侮り、見くびりが 男主人公の行動をかりたてているというのである。薫のかいま見が一挙に 暴挙へと展開しないのは、そして『逢坂越えぬ』の場合も、相手が高貴な 宮の姫君だったからということになる。そうした男の行動原理を支えるの が、雨夜の品定めで関心を抱いた階層ゆえ、夕顔を下の品の女と判断した 光 源 氏 に な ら う の な ら、こ の 出 逢 い の 枠 組 は、 『源 氏』夕 顔 巻 の 場 面 や 表 現の表層的な引き写しとも言えなくなるのだろうが。 この突然の契りによって女主人公を苦しめたのは正体も知れない男の胤 を宿したことに違いないものの、その後付き人の対の君から真相を聞き、 男の素姓が姉の夫となった中納言であったことを知った時の衝撃と驚愕が まさっていた。ここに注目すべき表現を見出したのは池田和臣であっ た )(( 注( 。 ◦ 姫 君 は、こ の こ と 聞 き た ま ひ し 後、恐 ろ し く、悲 し く お ぼ さ れ て、 「 骸 を だ に 残 さ ず、こ の 世 に な く な り な ば や 」と お ぼ し 入 る に、月 ご ろ 弱 り く づ ほ れ た ま ひ ぬ る 心 地、ま た あ や ま り て、音 を の み 泣 き つ つ、頭 も も た げ た ま は ず、 御帳のうちに沈み入りたまへれば、…… (巻一。六一頁。傍線久下) ◦ 姫 君 は、た だ「い か で、 骸 を だ に と ど め ず、な く な り な む 」と の み お ぼ し 入 るに、いといみじく堪へがたく、弱げになりまさりたまふに…… (巻一。一二〇頁) 傍 線 部「 骸 から を だ に 残 さ ず、こ の 世 に な く な り な ば や」 「 骸 から を だ に と ど め ず、なくなりなむ」は、入水を決意した浮舟が最後に匂宮に書き送った歌 「か ら を だ に う き 世 の 中 に と ど め ず は い づ こ を は か と 君 も う ら み む」 (浮 舟 巻。⑥一九四頁) に依る表現とする指摘である。 池田氏は、四十項目に及ぶ『源氏』と『寝覚』との類似点を挙げ、とり わけ浮舟物語との接点が多くあることに留意す る )(( 注( 。当該「 骸 から をだに残さず ……」に至る前には寝覚の君の美しい髪を「 五重扇を広げたらむやう に、 き よ ら に 多 く 凝 り 合 ひ て、類 な く め で た し。 」 (五 九 頁) と 形 容 叙 す の を、 浮舟の「様体をかしく、いまめきたる容貌に、髪は 五重の扇を広げたるや こ ち た き 末 つ き な り。 」 (手 習 巻。⑥ 三 五 一 頁) と の 対 照 で 関 連 づ け よ う とするのは、いかにも浮舟が出家後の尼髪であることからすれば、強引な 付 会 と も な り 得 よ う が、印 象 的 な 用 語 (「骸 を だ に」 「五 重 扇」 ) の 引 用 は、 埋没しかねない表現内容の重なりを意識させるための手法ともなっている といえる。 というのは、池田氏は寝覚の君の病状を案じた対の君が相談した兄の僧 都のことばと、浮舟の重態を気づかった妹尼が修法を懇願した横川僧都の ことばとの類同に着目していた。 ◦ な か に も こ の 姫 君 は、御 よ そ め い と 警 策 な り。女 と 申 し な が ら も、前 の 世 の こ と に よ り 生 ま れ も し た ま へ る と 見 ゆ る も の を、 か か る 不 便 の こ と の お は す らむ 、むなしくいたづらに捨てられぬものなり。 (巻一。六一頁) ◦ げ に い と 警 策 な り け る 人 の 御 容 面 か な。功 徳 の 報 い に こ そ か か る 容 貌 に も 生 ひ出でたまひけめ。 いかなる違ひめにてかくそこなはれたまひけん 。

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(手習巻。⑥二九三頁) 両者とも女人の美しい容貌に前世の功徳を思う。がそれなのに思いも寄 らない困難に直面し、ひどく苦しみ煩っている現況を僧都たちは見据えて いた。池田氏はこれをもって次のようにまとめる。 「か ら を だ に」の 引 用 は 孤 立 し て あ る の で は な く、浮 舟 を 喚 起 す る 連 続 的 引 用 表 現 の う ち に あ り、寝 覚 の 君 の 生 が 浮 舟 の そ れ に つ な が れ て い る こ と を、 浮 舟 の お わ さ れ た 主 題 を ひ き つ い で 生 か さ れ て い る こ と を 証 し だ て る の で あ る。 深刻な状態を言うにしても入水などを考えている訳ではない寝覚の君に 「骸 を だ に 残 さ ず (と ど め ず) 」と 思 念 さ せ る の だ か ら、い か に も 唐 突 な 表 現 で あ る ゆ え、再 度 巻 一 の 巻 末 (後 者 の 引 用 箇 所) に 掲 げ る の は、こ れ が 浮舟物語を前提とする表現であることを是非とも読者に認識させる必要が 池田氏の言う浮舟を引き継ぐ主題性であったのかどうか。 こ の 不 条 理 な 出 逢 い の 男 女 関 係 が 第 二 予 言 (「あ は れ、あ た ら、人 の い た く も の を 思 ひ 心 を 乱 し た ま ふ べ き 宿 世」 ) の 嚆 矢 と し て 位 置 づ け ら れ て い る こ とが、傍線部「かかる不便のことのおはすらむ」によって確認されている の で あ っ て、事 件 の 目 撃 者 と な る 但 馬 守 の 娘 (中 宮 付 き の 女 房 と な る 新 少 将) が「あ は れ、あ た ら 様 を、あ さ ま し き 夢 の う ち に も 紛 れ た ま ふ か な」 (六 八 頁) と の 証 言 も、寝 覚 の 君 の 悲 運 を そ の 超 絶 な 美 貌 と 関 連 づ け る と ころにあったのである。 繰り返し続く悲劇的事象に直面し、そこから逃れられない宿命を負う女 主人公の存立が危ぶまれる最初の事件が、まずこうした姉の夫である権中 納言との男女関係という形で糸口を切り、そのことが姉妹間の絆の断絶へ の恐怖心や堪え難い羞恥心が身の存在自体を否定し抹殺する「骸をだに残 さ ず (と ど め ず) 」と す る 表 現 に『寝 覚』で は 昇 華 し た の で あ り、結 果 的 に 引用表現の連鎖する浮舟物語から選び取られたことになりはするものの、 男女の三角関係の清算としての入水や出家思考の言質を介在させずに『源 氏』が終末に行き着いた浮舟物語をはりめぐらしたことの意図を、浮舟の 生を引き継ぐ寝覚の君の主題化の次元として捉らえるのではなく、本稿の 目的としては、物語形成の方法を考えるところにあって、であるならば、 その開始が何故『源氏』の夕顔物語であったのかを問うことが当面の課題 なのである。 夕顔物語から浮舟物語への移行が『源氏』内で白のイメージに伴うはか なさの造型継承が確実視できるのとは違って、前掲引用箇所で明らかな如 く男主人公の暴挙に及ぶ行動原理を支えるのが、受領の娘への侮りや見く びりであったことの披瀝が、夕顔に対する光源氏の思念に近似するものと してあったというよりは、むしろ浮舟に対する薫や匂宮の行動や処遇が、 浮舟を妻として迎える体ではなく、女房扱いの召人レベルであったことは、 八の宮の娘としての結婚をどこまでも願い、その血筋を矜持とする浮舟の 母である中将の君とは違い、匂宮にとってはまだしも大君の形代との認識 にある薫でさえ浮舟はしょせん常陸介の継娘であるに過ぎなかったという 意 識 が 物 語 展 開 の 随 所 に 顕 在 化 し て い た の で は な か っ た か。 『寝 覚』で は それが男主人公の妹中宮の女房として誤認した但馬守三女を招請する行為 となって直叙されている。 夕顔物語からの摂取が、かいま見を導く設定の前掲引用箇所 (池田論④) ば か り で は な く、⑥ 対 の 君 が 男 君 を「 『な ほ、人 に は あ ら ぬ に や』と む く

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つけく」思うところと、源氏が名のりせぬ夕顔に「名のりしたまへ。いと む く つ け し」と い い か け る 表 現。⑦ 「白 波 の 寄 す る 渚 に 世 を す ぐ す 海 人 の 子 な れ ば 宿 も 定 め ず」 (和 漢 朗 詠 集、下、遊 女) を も と に す る 表 現。⑧ 『寝 覚』の 但 馬 守 の 造 型 表 現 が、 『源 氏』の 伊 予 介 と 常 陸 介 の そ れ に よ っ て い る。との指摘が挙がってはいるが、夕顔物語から浮舟物語への移行、転回 の必要性、その核心は、貴族社会の洗礼のままゆきずりの契りが成り立つ 男側の身がってな情動の根拠、由来にあったのではなかろうか。その意識 の許容が、このかいま見から直に男女関係に至る経過を保障しているのだ といえよう。 もちろん夕顔物語の『源氏』での位置を考えれば、当然長篇化構造を担 うための設定であるのだけれども、また玉鬘系に連なる物語展開を思えば、 思いも寄らないこの契りによって誕生することになる石山の姫君が男主人 公のもとで長らく隠し置かれる存在となるから、そうした物語構造ととも に、石山の姫君の行末が将来問題となってくるはずである。本稿は序論と し て こ う し た 点 を 指 摘 す る に と ど め、 『寝 覚』に お け る 浮 舟 物 語 摂 取 の 有 様を池田論の範囲で収束させずにいま少し続けることとする。 前 稿 (「宇 治 の 浮 舟 ・ 白 河 の 寝 覚」 ) で は、浮 舟 を め ぐ る 薫 ・ 匂 宮 と の 三 角 関 係 構 図 に、寝 覚 の 君 を め ぐ る 内 大 臣 (男 主 人 公) ・ 冷 泉 院 と の 三 角 関 係 構 図が重ねられていることを指摘したが、その内実は浮舟が匂宮を受け入れ たのに対して、寝覚の君は冷泉院を拒み通したことで、あらたな執着を生 み、 「い ま 一 度 の 逢 瀬 を、い か で か な ら ず」 (巻 五。五 一 五 頁) と の 院 の 思 いは引きずられ、修羅場の主舞台が現存巻三、四、五のいわゆる第三部で の後宮から第四部である末尾欠巻部の白河の院へ、舞台は郊外へと移るこ とになる。つまり、現存巻五巻末は内大臣のもとでいちおうの安らぎを得 ることになるものの、依然としてその波乱要因は抱えたままで恋の三角関 係構図はそのまま末尾欠巻部に引き継がれることになって、浮舟物語の摂 取の有様としても極度に緊迫感が増したのである。 それが、東屋巻において薫が宇治に浮舟を隠し据えたことと、冷泉院が 寝覚の君を白河に隠し据えたこととの対応であった。さらに寝覚の君の白 河からの脱出行にしても、かくたる資料が残ってはいないが、寝覚の君自 身は入水などを考えていなくとも、寝覚の君が突然眼の前から姿を消して 行方知れずになってしまったことで、冷泉院が白河への入水死を考えたと し て も 不 自 然 で は な く、 『寝 覚 物 語 絵 巻』第 四 図 (詞 書 第 三 段) に よ れ ば、 息 子 真 砂 の 救 済 (冷 泉 院 の 勘 当) を 懇 願 す る 手 紙 が 冷 泉 院 の も と に 届 け ら れたことで寝覚の君の生存を知るという場面があるのも寝覚の君の死を前 提とすることだから、浮舟の入水死を遺骸なき葬儀によって確実視した薫 や匂宮の状況認識や心境に匹敵しよう。 一方、寝覚の君の出家については、その意向は現存巻四で男主人公の正 妻朱雀院女一の宮への生霊事件を恥じて以来の念願となっていて、巻五が 人物相関構造においては薫とその正妻今上帝女二の宮と浮舟を別宅に迎え た場合の混乱を仮説した物語ともいえるが、むしろその内実は『源氏』第 二部若菜上巻以降の光源氏、女三の宮そして紫の上との三者の立場が交錯 した状況を生み出していた。 現存巻五では、寝覚の君の出家意思が固まる中で、父入道に出家を願い 出る姿は、父朱雀院に出家を懇願する女三の宮の姿に重なり、なお引歌表 現「心の闇」 (四三七頁。 「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬる かな」後撰集、雑一、一一〇二、藤原兼輔) が文脈上それを保証していた。 し か し、父 入 道 が 石 山 の 姫 君 と 対 面 し た 折、 「上 な き 位 を き は め た ま は

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