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オルガン建造の背景 : イングランドの例を中心に

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Academic year: 2021

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はじめに  「多くの笛を一人の人間が一度に操って、和音を奏し、音楽を紡ぐことはできないだろ うか」――古代の人々はおそらく、アポロンやディオニュソスやオルフェウスの息吹を身 近に感じながら、テクネーたる音楽演奏について想像をめぐらせたのだろう。人間の好奇 心とそれを満たそうとする工夫とは、往々にして独創的な発明の母となる。何本もの笛を 口いっぱいにくわえて、それぞれ別の旋律を演奏することは不可能かもしれない。しかし、 息の代わりに風を送ってくれる装置を使ったらどうだろうか?……かくしてオルガンが誕 生した。もっぱら弦楽器に託されていたハルモニアを管楽器によって具現する、そんな試 みの成果かもしれない。オルガンという語の起源については諸説あるが1、楽器としての 定義は、風を起こす装置、それを溜めるチェスト、送風装置を操作する鍵盤の類、その風 によって発音するパイプの四つを兼ね備えていることである。この定義にしたがえば、ヘ レニズム期、アレクサンドリアで発明された水オルガンをその原初の形として挙げるの が定説である2。当時、自然科学の知が集結していたこの都で絶賛を博した水オルガンは、 地中海を渡り、ギリシャ、ローマを経て欧州全域にもたらされた。以後、オルガンはそれ ぞれの土地で、その風土、気候、民族、宗教、社会的事情などによって異なった展開をみ せていく。オルガン建造のありかたは、つねに背景となる社会が土壌となっており、社会 とオルガン建造の事情は密接な関係を持っている。  本稿では、わが国のオルガン建造および演奏に最も大きな影響を与えたとみられるドイ ツの事情を視野に入れつつ、それとは全く異なる道を辿ったイングランドのオルガン建造 とその社会的背景を明らかにし、オルガン建造という事業がそれをうながす背景によって どれほど異質なものになるかを考えたい。

オルガン建造の背景

―― イングランドの例を中心に ――

横 山 正 子

キーワード:オルガン建造、オルガン、バッハ、メンデルスゾーン、 イングランド国教会

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1.現代イングランドの折衷型オルガン  現代のイングランドは、世界有数のオルガン演奏大国である。パブリック・スクールで は音楽教育が重視され、オルガンをはじめとする楽器演奏、聖歌隊歌唱法、指揮法などの 教育に多くの時間が費やされる。ケンブリッジやオックスフォードのいくつかのカレッジ・ チャペルでは、学生聖歌隊と学生オルガニストが毎夕の音楽礼拝で演奏している。彼らの 中には音楽以外の道を志す者も少なくないが、その演奏水準は専門家の領域をゆうに凌い でいる。また、ロンドンなど都市の大聖堂の中には日常的に英国人オルガニストによるリ サイタルを開催しているところが多い。イングランドのオルガニストたちがいかに厚い層 を有しているかを思い知らされる。彼らのレパートリーは、ドイツ後期バロック、フラン ス古典期、ロマン派、そして現代まで幅広い時代様式の作品である。これは視点を変えれば、 大学カレッジのチャペルにしても大聖堂にしても、そこに設置されているオルガンは、後 期バロックから現代まで 300 余年にわたる音楽史の中で作られたオルガン曲をすべて演 奏できる特性を備えているということである。オルガンという楽器は時代様式により、構 造や音色が大きく異なる。しかしイングランドでは、ある国のある時代の作品を演奏する というコンセプトのもとに建造されたオルガンを見ることは少ない。複数の時代様式を想 定して設計されたオルガンは、後で述べるように「折衷型オルガン」3と呼ばれる。20 世 紀前半のオルガン運動以降、このタイプの楽器に対して存在意義に疑問を投げかける傾向 が強まり、現在では折衷型オルガン導入に慎重な姿勢をとるケースが多い。ところがイン グランドでは、いまなおこのタイプのオルガンが主流であり続けている。そして演奏家も あらゆる時代様式のオルガン曲をこれらの折衷型オルガンで学び、演奏している。  この国では 19 世紀半ばまで、バッハ作品の演奏が可能なオルガンは造られていなかっ た。すなわち、現在オルガン演奏大国であるこの国には、19 世紀半ばまでバッハのオル ガン曲を楽譜どおりに演奏するオルガニストが存在しなかったのだ。イングランドのオル ガン演奏は、19 世紀後半以降のわずかな期間に、他に類を見ないほど急速な熟成を果た したといえよう。一方、オルガンという楽器に対するこの国の意識は今なお荒削りな印象 を免れない。これは興味深い矛盾である。この国において、オルガン演奏、およびオルガ ン建造は何を目指して歩んできたのだろうか。それを考えるに先立ち、ドイツの例を検討 してみたい。 2.民族的象徴としてのオルガン――ドイツの場合  「バッハを演奏するにふさわしいオルガンこそ優れたオルガンである」というスローガ ンは、1920 年代のオルガン運動(Orgelbewegung)4を支える中心理念であった。ドイツ の音楽学者を中心に立ち上げられたこの運動は、オランダ、デンマーク、スイスのオル ガン建造家に支援され、オルガン研究の必要性を提唱していった。先立つ世紀、ロマン派

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音楽のドラマティックな表現方法やシンフォニックなサウンドがオルガンにも求められ、 ヨーロッパ各地のおびただしいオルガンが改造されたが、オルガン運動の根底には、この 改造への反省と反発が流れていた。オルガンを「大音量によって聴衆を圧倒する楽器」と 捉えるロマン主義の感覚は、オルガン本来の姿を見失っている、というのがオルガン運動 の主張だったが、その本質は、言い換えれば「バッハを演奏すべきオルガン」への希求で あったといえよう。アルベルト・シュヴァイツァーが、その著書『ドイツおよびフランス のオルガン建造技法とオルガン芸術』5の中に記した「あらゆるオルガンの尺度、最良に して唯一の尺度となるものはバッハのオルガン音楽である」6という提唱は、おそらくシュ ヴァイツァー自身の志を超えた方向へ広がり7、その影響は 20 世紀初頭の政治運動によっ て鼓舞され、ドイツ精神の高揚に合致して共感を呼んだ8  第二次世界大戦後、音楽学の資料研究が充実するにつれ、オルガン研究者はさらに古い 文献を探索するようになった。とはいえ、オルガンはあまりにも長い歴史を持つ楽器であ り、15 世紀半ば以前の状況については推測によるところが大きい。現在われわれが読む ことのできる最古のオルガン理論書はアルノルト・シュリックの『オルガン建造家とオル ガニストの鑑』9である。ここには、各ヴェルク独立の必要性や、ペダル鍵盤で定旋律を 弾く奏法、そしてペダル鍵盤ストップについての留意事項が記され10、以後のドイツにお けるオルガン建造の基準となった。  ドイツ語圏のオルガン研究をみると、ドイツ人にとってオルガンは単なる楽器ではなく、 その精神的・文化的財産であり、歴史の歩みの中、一貫して追求されるべき民族的象徴で もあったことが理解できる。オルガン運動勃興はドイツ人にとって必然だったといえるで あろう。19 世紀、ヨーロッパにおけるドイツの民族意識が堅固なものとなっていく時期に、 バッハはドイツの英雄的存在にまつりあげられた。そのバッハ像は 20 世紀の資料研究に より少しずつ切り崩され、バッハの真の姿が明らかにされていった。しかしながらそのこ とはバッハの価値を少しも貶めるものではなかった。「バッハを弾くにふさわしいオルガ ン」が優れたオルガンの基準とされる傾向はその後のオルガン建造にも影響を与える。バッ ハの音楽を弾くにはそれにふさわしい(バッハ時代のオルガンを彷彿とさせる)ストップ とアクションを備えたオルガンがのぞましく、ロマン派のオーケストラ的響きを追求した 巨大オルガンや、どんな時代の作品もそれなりに弾けてしまう折衷型オルガンではバッハ を弾くべきではない、という考え方は今も健在である。しかし、そうはいっても、現実的 にはバッハの音楽は隅々まで構築的に作られており、鍵盤の数さえ足りればどのような楽 器でも弾けないことはない。「バッハを弾くには、ほんとうにバッハ時代のオルガンを再 現した楽器が最もふさわしいのか」これはドイツから発し、近年は我が国のオルガニスト をも長く悩ませてきた問題である。  ところが、ここにバッハ存命中はもちろんのこと、その後も 19 世紀後半にいたるまで、 バッハのオルガン曲を弾くことのできない――「バッハの音楽を弾くにふさわしいかどう か」を云々する以前に、楽器の構造からいって不可能な――オルガンを造り続けた国があ

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る。これがイングランドである。  「バッハのオルガン曲を演奏できないオルガン」、それは簡単に言ってしまえば足鍵盤が ないことを意味する。シュリックは 16 世紀に、早くも独立した足鍵盤の重要性を説いて おり、以後ドイツのオルガン建造において足鍵盤は欠くことのできない重要な部分であっ た。この信念あってこそ、ブクステフーデやブルーンス、そしてバッハといったオルガン の大作曲家が生まれたともいえよう。しかし、イングランドではこれを顧みず、足鍵盤な しのオルガンを造り続けた。その結果、イングランドからは現在に残るオルガン曲の名作 というものが殆ど生まれていない。では、イングランドの人々にとってオルガンとは何だっ たのだろうか。   3.清教徒革命から 18 世紀まで――イングランドの市民生活とオルガン  シュリックが『オルガン建造家とオルガニストの鑑』を著した 1511 年ごろ、イングラ ンドはヘンリー八世の治世であった。オルガン建造の初期の記録は、イングランドでもや はりこの頃から残されているが、それはレジストレーションやパイプ配置の詳細ではなく、 オルガン建造に対する支払いの記録などである11  17 世紀後半、30 年戦争を終えたヨーロッパ大陸でオルガン建造が進歩を見せ、教会と 宮廷でオルガンという楽器に関心がよせられたころ、イングランドでは清教徒革命が勃発 した。清教徒にとってオルガンは教会の権威の象徴、すなわち堕落の象徴であっただろう。 教会建築の内部空間そのものを巨大な共鳴体として響き渡るこの贅沢な楽器は、革命に触 発された暴徒によって打ち壊された。1649 年のチャールズ一世処刑から 1660 年の王政 復古まで、イングランドの教会においてオルガンが鳴り響くことはなかった。  1660 年、亡命先のフランスから帰国して王位についたチャールズ二世は、カトリック びいきをにおわせつつも英国国教会を再建していく。聖歌隊の再教育が行われ、アンセム とサーヴィスという英国国教会独自の音楽が息を吹き返した。共和制時代、ドイツ、オラ ンダに滞在していたバーナード・スミス、フランスに身をひそめていたトーマス・ハリス とその息子リネイタス・ハリスといったオルガン・ビルダーが帰国し、改めてオルガンの 建造に取りかかった。聖歌隊の再教育は主に大聖堂や王室礼拝堂で行われ、オルガンを伴っ たアンセムを歌うようになっていく。このころ海をへだてた大陸のドイツではすでにブク ステフーデやブルーンスが活躍し、北ドイツ独特の壮麗な外観と、独立したヴェルクを持 つオルガンを用いて、数々のオルガン曲を生みだしていた。シュニットガーに代表される 北ドイツのオルガンは、重低音を担当するペダル・ヴェルクが独立しており、低音に基盤 をおいて音楽を構築していくドイツ・バロックのオルガン音楽を世に送り出した。1685 年には J. S. バッハが誕生し、18 世紀前半にかけてオルガン音楽の頂点を形づくる。また、 フランスでは宮廷を中心に、異なった音色同士による対話を表現するオルガン音楽が盛ん に作られた。

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 これに反してイングランドの教会音楽は、18 世紀に入ってその勢いを失っていく。そ して、王政復古以降教会の楽器として作られたオルガンには、ヨーロッパ大陸諸国とは全 く異なった役割が与えられるようになっていった。18 世紀イングランドといえば、産業 革命が進行し、産業の工業化に伴って都市が拡大され、市民階級が台頭していったという ことは周知の事実である。産業革命とそれにともなう社会現象の数々は、この時期のイン グランドを激変させた。人口が密集し急成長を遂げた都市にはミュージック・ホールが作 られ、流行歌手や芸人が客を楽しませ、またそこは歌手の登竜門としても機能するように なっていく。貴族も市民階級も市井に娯楽を求め、飽くことなくそれを追求する。ウィリ アム・ホガースの描く、よく知られた絵画「ジン横町」に見られるような飲酒への耽溺、 遊園での野外コンサートにおける社交、労働者による吹奏楽の活動など、庶民たちを中心 とした娯楽への欲求はとどまるところを知らず噴出していった。この状況が、大聖堂でじっ くりと聖歌隊を育て、重低音を備えたオルガンを据えて対位法のオルガン曲に取り組む、 という流れを生まないのは当然のことといえよう。  そもそも、音楽を「楽しむ対象」と捉えるのは近代人の感覚である。西洋音楽の源泉と もいえる中世の教会では、音楽は神の作りだす調和を具現するものであった。中世以降教 会の歴史とともに歩んだオルガンは、一人の人間が教会の巨大な空間に神の調和を描き出 すための道具であった。演奏者は神に仕える一個の小さき存在であり、演奏そのものが奉 仕のわざであった。その後、ルネッサンス期を経て音楽の捉え方は変化していったとは いえ、18 世紀のイングランドほどあからさまに娯楽としての音楽を追求した例は少ない。 イングランドは、今につながる大衆音楽誕生の地ともいえよう。このような状況の中、オ ルガンが大いに活用された場はロンドンの遊園コンサートであった。18 世紀のロンドン には、60 から 70 の遊園があったと考えられている12。それは市民の社交場であり、遊興 の場でもあって、さまざまな出し物が人気を呼んでいた。音楽はいうまでもなく、盛り上 げ役としてなくてはならないものであった。管弦楽、歌などさまざまな種類の音楽が供さ れたが、中でも人気を呼んだのはオルガン協奏曲であった。大きな音が出せるオルガンは、 屋外で使用するのに適した鍵盤楽器だったのだ。作曲家たちは遊園オルガンのための曲を 作り、またオルガニストたちも自作の披露や即興演奏を行った13。この場合、作品のクオ リティが問題にされないのは自明であろう。そして、この遊園オルガニストの多くは、教 会でも職を持つオルガニストたちであった。ここに至り、オルガンはもはや教会の巨大な 内部空間を共鳴体として、そこに調和を描き出す楽器ではなかったのである。  18 世紀イングランドの大都市でオルガンが用いられた第二の場は慈善施設である。ジョ ン・ウェスリーに始まるメソディスト運動の影響がこのような施設建設とそこでの宗教教 育を促した。ヘンデルが 1749 年から捨子養育院(The Foundling Hospital)で毎年チャ リティ・コンサートを開いたことはよく知られている。彼の「メサイア」は、その際の定 番曲であった。1739 年に創設されたこの養育院のほか、1746 年にはロック・ホスピタ ル(The Lock Hospital)、1758 年には女子孤児院(The Asylum of Refuge for Female

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Orphans)とモードリン擁護院(The Magdalen Hospital)が創設される。ロック・ホス ピタルは性病専門病院、モードリン擁護院は売春婦の更生施設である。この 4 つの施設 はいずれも、当時のイングランドの社会現象を象徴するといってよい。そしてこれらの慈 善施設にもチャペルが作られ、チャプレンが就任し、オルガンが取りつけられ、礼拝が行 われたのは勿論である。現在、慈善施設はすでに取り壊され、楽器についての詳細な資料 も残っていない。しかし、捨子養育院は数字付低音によるオルガン伴奏を伴う讃美歌集を 発行しており、それを見るとオルガニストが簡単な伴奏をしながら指導していたことがう かがえる14。ロック・ホスピタルのオルガニストについては、興味深い記録がある。ニコ ラス・テンパーリーの詳細な研究がそれを示してくれる。1762 年、初代チャプレン、マー ティン・マダンの要請によりこの病院には 800 名を収容できるチャペルが新設された。 オルガンに関しては価格を検討のうえ、中古のものを 125 ポンドで購入したというので あるから、音色や構造は二の次であったのだろう。とにかくオルガンは必要であった。そ れは見事なオルガン曲を演奏するためではなく、礼拝で患者たちに讃美歌を歌わせるため にであった。そして、この年から 1765 年までのマダンの収支報告書には、「先唱者とオ ルガニストのサラリー」という項目がある(オルガニストの個人名は記載されていない)。 さらに 1768 年以降の記録をみると、当時ロック・ホスピタルには幾名ものオルガニスト が在職し、その管理をマダン自身が行っていたことがわかる。オルガニストの中にはチャー ルズ・ロックハートや、讃美歌作者チャールズ・ウェスリーの息子であるチャールズ・ウェ スリー・ ジュニアの名前も見られ、多くの者は年俸制で勤務していたようである15  次に地方の一般的な地区教会(Parish Church)に目をむけてみよう16。そもそも王政 復古以来、オルガンを設置して聖歌隊の訓練を行ったのは大都市の大聖堂と王室礼拝堂が 中心であったことは前に述べた。地方の地区教会では、このような啓蒙的活動ができなかっ たのが現実である。オルガンを設置した教会はごく限られており、教会の会衆は調子外れ の詩篇歌を無伴奏で歌っていた。しかし、産業革命以降労働に携わる人々が娯楽の味を知 り、それを追い求める風潮の下、地区教会にも素人の聖歌隊が結成されるようになってい く。多くの場合商人、工場労働者、使用人などで、いずれも産業の機械化、工業化に伴っ て大量に出現した職業の人々である。多くは文字もろくに読めず、歌詞を丸暗記して歌う しかなかったが、日曜日に教会へ集まり、とにかく聖歌隊の役割をつとめるようになった。 彼らの歌がいかにも拙く、荒々しく、会衆の歌をリードするどころではなかったことは想 像に難くない。そして、こうした地方教会の会衆にとって、教会音楽=オルガンという概 念はまったく存在しない。楽器が使われることはあったが、バス・ヴィオルのような弦楽 器かファゴットに低音を支えてもらう程度であった17 4.イングランドにおけるバッハ受容と折衷型オルガン建造のはじまり  19 世紀、都市化が進むにつれて、地方の一般的地区教会の労働者による無骨な音楽は

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歓迎されないものとなっていく。聖職者たちはこのような田舎風聖歌隊を、招かれざる客 として排除しようと目論んだ。もっとも手軽な手段として導入されたのがオルガンであっ た。オルガンがあれば、会衆の歌を先導することはできる。パイプオルガンに手の届かな い小教会では、代用品としてバレルオルガンを愛用した18。イングランドの地区教会にお いては、オルガンは会衆の歌とともにあるものではなく、教会音楽の立役者でもなかった。 では、富裕層に支えられる大都市の大聖堂や王室礼拝堂のオルガンはどのような状況だっ たのだろうか。  1829 年、20 歳の青年フェリックス・メンデルスゾーンは初めてロンドンの地を踏んだ。 ベルリンで、歴史的な「マタイ受難曲」上演を果たした翌月のことである。彼の故国ドイ ツにおいて、1750 年に没した J. S. バッハはもはや過去の人となっていた。鍵盤音楽な どは、楽器をピアノに置き換えて弾かれることはあったが、受難曲やオラトリオのような 長く深刻で複雑な作品は 19 世紀の聴衆の耳には合わなかった。メンデルスゾーンはこの 風潮の中、恩師の反対を押し切り、自前の費用で「マタイ受難曲」を上演し、大成功をお さめた。もちろんそれは、バッハ時代特有のさまざまな楽器を 19 世紀の楽器に置き換え るなど、時代に合うように工夫を加えた上演ではあったが。メンデルスゾーンはこの成功 により、自国の作曲家バッハの価値をあらためて確信したに違いない。ロンドンへやって きたこの若い音楽家の胸に抱かれたさまざまな野望の中には、バッハの音楽をイングラン ドにも伝えようという志もあったと考えるのが自然である。しかし、彼はそれが思ったほ ど容易ではないと知ることになったであろう。18 世紀、市民の娯楽への希求が大きなう ねりを見せてすべての音楽を飲み込んでいったが、その状況は 19 世紀になっても変わっ ていなかった。すなわちセント・ポール寺院のような大聖堂における教会音楽はすっかり 無気力なものに堕し、聖歌隊もオルガン演奏も恐るべきレベルの低下に陥っていたのだ。 大聖堂では音楽に対する予算が削られ、聖歌隊員の数は激減していた。サーヴィスとアン セムという英国国教会独自の教会音楽は成立しなくなり、礼拝では数曲の歌を使いまわし てお茶をにごすことになる。オルガンの役割は重要性を失い、オルガニストたちも誠実に 練習を重ねるよりは、遊園でアルバイトをするほうを選ぶのだった。これでは、深刻で長 大、演奏技巧も難しく、腰を落ち着けて練習を重ねることを要するバッハの音楽を伝えよ うにも、その苗床がない。  さて、メンデルスゾーンはこのとき、トーマス・アトウッド(Attwood, Thomas, 1796 年よりその死の年 1838 年までセント・ポール寺院のオルガニストであった)19の知 己を得た。この大聖堂には 17 世紀にバーナード・スミス設計によるオルガンが取りつけ られていた。三段の手鍵盤を持つ 24 ストップのものであるが、足鍵盤がない。1720 年 から 21 年にかけて、クリストファー・シュライダーというオルガン建造家が手鍵盤から プルダウンの足鍵盤を付け足し、これが当時、イギリスにおける唯一の足鍵盤であった。 1720 年といえば、バッハは 35 歳の働き盛りで、足鍵盤の演奏を駆使したオルガン曲を 数多く書いていたし、バッハ以前のオルガン作品においても、足鍵盤による低音の充実は

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もはや当たり前であった。しかしイングランドでは、ドイツ・バロックの作品群に近寄る ことなく、独自のオルガン曲「ヴォランタリー」のように、手だけで弾ける比較的平易で 単純なオルガン曲が好まれていた。ニコラス・シスルスウェイトらがまとめた報告によれ ば、1810 年から 29 年までの、イングランドのオルガン公式演奏会でのバッハ作品の演 奏は、以下のようであった20 年 演奏者と曲名 1810 S. ウェスリー他 オルガン・トリオ(連弾) 1812 S. ウェスリー他 前奏曲 変ホ長調(BWV552-1) (オーケストラとオルガン連弾:ノヴェロ編曲) 1815 S. ウェスリー フーガ 変ホ長調から、第三フーガ(BWV552-2?) 1816 Dr クロッチ フーガ 変ホ長調(ピアノフォルテ用編曲) 1827 S.S. ウェスリー他 フーガ 変ホ長調(連弾) 1828 S.S. ウェスリー 前奏曲 ロ短調、ホ短調 1829 ブラックバーン他 2 名 フーガ 変ホ長調(6 手)、フーガ ロ短調、 トリオ・ソナタ ハ短調 第三楽章、 前奏曲 変ホ長調 図 1  一見して分かるように、バッハの作品を連弾や編曲によって手鍵盤だけで演奏している。 メンデルスゾーンはこの後たびたびイングランド、およびスコットランドを訪れるが、各 地に逗留して教会へ赴き、オルガンを弾きながら、「バッハを弾くべき足鍵盤がない」と いう嘆きを手紙や日記に綴っている。この時期のイングランドにおけるオルガンの状況と、 その後の変化については、筆者の別稿21にて報告されているので、詳細はここでは割愛 するが、メンデルスゾーン活動以降、イングランドではバッハのオルガン曲を演奏できる 足鍵盤付きオルガンの建造が本格的に検討されるようになった。それは、おりしも教会音 楽刷新運動ともいえるオックスフォード運動の時期と重なる。社会全体の状況改善、福祉 や社会事業の整備とともに、大聖堂における聖歌隊育成と、バッハ作品を含む優れた音楽 を演奏できるだけの機能を備えたオルガン建造がクローズアップされたのだ。こうして、 バッハ没後 100 年を経て、バッハ作品を弾くことができるオルガンがイングランドにも 建造されるようになった。この時期、革新的なオルガンを考案・建造したオルガン建造家 ウィリアム・ヒルの作品は、以後のイングランドにおけるオルガンのスタイルを確立する ことになる。ヒルのオルガンについての詳細は、これも筆者の別稿22に記されているの でここに繰り返すことは避けるが、彼が新たなオルガン観のもと、次々とその成果を発表 し始めた 1838 年を機に、イングランドでのバッハ・オルガン作品演奏はにわかに本格的 なものとなっていく。シスルスウェイトによれば、これ以降のイングランドにおける公開

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演奏会でのバッハ演奏は、以下のようである23 年 演奏者と曲目 1839 ジョサイア・ピットマン 前奏曲 変ホ長調、 前奏曲とフーガ ホ短調 1840 メンデルスゾーン 前奏曲とフーガ ホ短調 パッサカリア ハ短調 メンデルスゾーン 曲目不詳(バッハ作品) 1841 ゴーントリット フーガ 変ホ長調、フーガ ト短調 1842 オルガニスト候補者 フーガ ト短調 メンデルスゾーン 曲目不詳(バッハ作品) メンデルスゾーン 曲目不詳(バッハ作品) メンデルスゾーン 曲目不詳(バッハ作品) 1843 ゴーントリット トッカータとフーガ イ短調 ジョージ・クーパー フーガ イ長調、ニ長調、ファンタジア 1844 オルガニスト候補者 フーガ 変ホ長調、ト短調、ロ短調 フレデリック・ガントン フーガ 変ホ長調 1845 ジェイムズ・スティンプソン フーガ ニ長調 図 2  メンデルスゾーンによる多くの演奏会での演目が不詳であるのは残念だが、この時期の 演奏会では編曲や連弾は影をひそめ、また、前奏曲やフーガをそれぞれ取り出して別々に 演奏するのではなく、セットとして取り上げる例が増えている。「前奏曲とフーガ ホ短調」 (おそらく BWV548)のような長大な難曲がとりあげられているのも、ようやくこのよう な作品を楽譜どおりに演奏できるようになり、オルガニストが挑戦し始めたあらわれであ ろう。  とはいえその後も、足で鍵盤を弾くという演奏法への抵抗は続いた。また、低音に音楽 の推進力をゆだねる習慣がなかったイングランドの教会に、場所も取ればコストもかか る足鍵盤用のパイプ群を据え付けることが、はたして本当に必要なことなのかという議論 は間断なく行われた。イングランドにおけるオルガンの概念はこうして少しずつ変化して いったが、「バッハのオルガン曲を弾けるオルガン」が「足鍵盤を備えている」という条 件にとどまり、そこからほとんど出ていない事実は、20 世紀に入っても変わらなかった。 5.20 世紀、そして現在  20 世紀初頭のオルガン運動については冒頭に述べたが、イングランドはこの運動にほ

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とんど関わらなかったと言ってよい。ドイツを中心とした時代の潮流は音楽の学問的研究 の動向を反映し、その波に乗ってオルガン改革運動が勢いづいていった。特にバロック以 前の音楽を解釈し、注釈して出版する活動が進められるにつれ、19 世紀をはるかに通り 越して過去を見つめ、古い音楽とそれを奏でた楽器の真の姿を洗い出そうとする研究は、 音楽学者、オルガン建造者、そしてオルガン演奏家を巻き込んで啓発的なものになっていっ た。ところがイングランドにおいて、こうした研究の成果が実践に反映されることはなかっ た。イングランドではウィリアム・ヒルの「折衷型オルガン」の系統が受け継がれていっ たと考えてよいだろう。イングランドの大聖堂や地区教会には、もはや足鍵盤のない「バッ ハ作品演奏不能」なオルガンはほとんど存在しない。そして、高い音楽教育を受けた人々が、 バッハをはじめとするオルガンの主要レパートリーを毎日のように披露している。その演 奏者層の厚さは前述したように、おそらく世界でも有数であろう。しかし、イングランド の教会や大学チャペルに据えられているオルガンのほとんどは、「バッハを演奏するにふ さわしくない」折衷型オルガンである。すなわち、バッハの作品ももちろん弾くことはで きるけれど、同時にメンデルスゾーンやリストなどのドイツ系ロマン派、フランク、トゥ ルヌミール、ヴィエルヌなどフランスロマン派から近代の作品、レーガー、ヒンデミット などドイツ系近現代、そしてメシアンやアランなどの現代曲、あらゆるものを「それなりに」 弾くことができる音色と機能を備えているのだ。これは、「オルガン運動」の精神とは真っ 向から対立する傾向である。もちろん、イングランドのオルガン演奏者はその教育の過程 で、バッハ時代のオルガンがどのようなものであったか、現代、それを規範としたスタイ ルの楽器がどれほど盛んに製造されているかを学んでいる。ただ、オルガン建造の第一義 にそれを置くというオルガン観は、この国ではみられない。この国の人々がオルガンとい う楽器に対して求めているものは、ドイツ語圏とは本質的に異なっている。イングランド において、オルガンが民族的精神の象徴であったことは歴史上一度もなかった。オルガン はかつて無骨な素人聖歌隊を追い出すためのものであったり、遊園でやかましく鳴り響く 娯楽のためのものであったり、社会の底辺を生きる人々が集まる慈善施設で拙い賛美を支 えるものだった。一部のオルガン建造家と演奏家がバッハのオルガン音楽を弾こうとしは じめるまでには、バッハ没後 100 年を要したが、それでも楽器そのものをバッハ時代に 近づけるという方向には向かわなかった。イングランドの人々にとって、バッハの音楽が 礼拝堂に鳴り響くことは歓迎すべきことであろうが、その楽器に過去のスタイルを求める ことは関心の外にあったようだ。 6.むすび――社会的背景を持たずに育った日本のオルガン文化  わが国においては 1970 年代まで多くの折衷型オルガンが建造された。ドイツのヴァル カー、ベッケラート、シュッケ、オーストリアのリーガーなど、ドイツ語圏の大規模メーカー の製品が多く導入された。しかしその後、オルガン運動の流れを汲むオリジナル主義の影

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響が日本のオルガン界にもおよび、フランスのガルニエ、オーベルタン、オランダのライ ルなどがバロック音楽専用のオルガンを制作した。できれば折衷型オルガンを避け、バロッ ク音楽はバロック音楽専用の楽器で演奏すべきだという観念は、もはや日本のオルガニス トたちの常識となっている。以上の歩みは、キリスト教文化を基底に持たない国としては、 目覚ましい進化であったということができる。しかし、そこには大きな危険も存在するこ とに気づくべきであろう。  バブル景気に沸いていた 1980 年代、日本では各地に折衷型・バロック専用・ロマン派 専用とりまぜて多くのオルガンが設置された。教会だけでなく公共ホールまでもが競って この豪華な楽器を取り付け、専属オルガニストを置いた。一時期、ホールが主宰する公開 講座や一般向けレッスンは人気を呼んでいた。しかし今、公共ホールのオルガンは顧みら れなくなりつつある。オルガンコンサートは集客が困難になってその数が激減し、公開講 座もかつての賑わいを見せなくなった。オルガンは維持費のかかるお荷物と化している。 人々のオルガンに対する関心がゆっくりと失われつつあるという現実に、われわれはいや おうなしに向き合わねばならない時が来ている。  日本人にとって、「オルガン」といえば長い間リードオルガン24――俗称「足踏みオル ガン」を指す語であった。明治政府の教育政策のもと、アメリカよりもたらされたこの楽 器は音楽教育の主役として活躍した。足踏みオルガンはピアノの代用も兼ね、教会や学校 にあって、讃美歌だけでなくあらゆる音楽を奏でた。その音色は宗教的イメージというよ りは、親しみやすく、歌う声に良く溶ける、家庭的なものであった。楽器自体比較的安価 で、小型でもあり、日本の小さな教会や学校の教室に気軽に置けるものであった。しかし、 ピアノの普及につれてこの楽器は次第に教室から姿を消していく。また 1970 年代以降、 日本でも「オルガン」とはパイプオルガンを指す語であり、足踏みオルガンはその代用品 に過ぎないという捉え方が定着し、パイプオルガンを本格的に学ぶ若者が急激に増加して いった。そして、いつしか「オルガン」(=パイプオルガン)は人々にとって非日常の世 界に属するものになり、日常の世界では「オルガン」と名のつくものは用いられなくなった。  ドイツにおけるオルガンは民族的象徴として捉えられ、オルガン運動へとつながり、自 国の生んだバロックのオルガン音楽をオリジナルの形で見つめ直そうとした。イングラン ドにおいてはその社会史と深くかかわり、あくまで実用的な観点から製造され、用いられ てきた。それに比べ、わが国のオルガン――足踏みオルガンではなくパイプオルガン―― は楽器についての哲学も必要性も欠落したまま導入され、今日まで来てしまったのでは ないだろうか。確かに古い音楽の研究という学問的基盤は日本においても確立されていっ た。資料研究の立場を踏まえてオルガンの特殊性を把握し、専門家の側からオルガンの在 り方を考えることは、オルガン音楽に関わる者にとって重要なプロセスであったろう。し かし音楽の場合、研究を実践に結びつけることが求められるのは過去も現在も同じである。 21 世紀に入り、音楽はダウンロードによっていっそう手軽に手に入るようになってきた。 特定の場所まで出かけていかなければ聴くことのできないオルガンという楽器は、その非

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日常性も相まって、ますます人々の耳から遠ざけられてしまう可能性を持っている。日本 はキリスト教国家ではないため、オルガンの必要性が少ないことも否定はしないが、イン グランドのオルガン史をこうして概観すると、日本では宗教のみならず社会的にこの楽器 を必要とする背景が存在しなかったことが理解できる。音楽のありようは社会のそれと常 に連動していることを日本のオルガン関係者――筆者もその末席に連なる者であるが―― はあらためて銘記する必要があるのではないだろうか。 註

1 Williams, Peter, A New History of the Organ, Indiana University Press, 1980, pp.19 21

2 Ibid. pp.22 24

3 Ibid. p.210 著者 Williams は折衷型オルガン(Compromise Organ)を歴史的現象として認識し、

この種の楽器の存在意義を前向きに捉えている。

4 もともとは Orgel-Erneuerungsbewegung。1930 年ごろから簡略化されて Orgelbewebung とい

われるようになった。英語では Organ Revival。オルガンの歴史的本質を復興させようとする運 動である。

5 Schweitzer, Albert, Deutsche und Franzoesische Orgelbaukunst und Orgelkunst, Breitkopf & Haertel, 1906, 日本語訳;松原茂、シンフォニア、1978 6 松原訳前掲書 39 頁 7 シュヴァイツァーは前掲書の中で、オルガン建造を通して科学技術の発達と商業主義の関係や、 文化的な諸問題を取り上げているが、むしろフランスに比してドイツのありかたに疑問を投げか けており、その主張はドイツ国家主義とは結びつくものではない。また彼の主張は、古い時代の 作品をその時代の様式を持つ楽器で演奏すべきであるという、オリジナル主義とも異なっている。 彼はフランス・ロマンティック・オルガンの製作者カヴァイエ=コルのオルガンで演奏されるバッ ハ作品の素晴らしさを力説している。オーケストラの代用品としてのオルガンや、聴く者の耳を 圧倒する大音量を持つオルガンではなく、あくまで音色の美しさを追求するカヴァイエ=コルの 姿勢を、シュヴァイツァーは礼賛している。 8 1926 年に開催されたオルガン会議のキーワードは「ドイツ的なもの」であり、この時期のドイツ における政治的、文化的状況を如実に反映する内容であった。Williams 1980, pp.188 189 参照

9 Schlick, Arnolt, Spiegel der Orgelmacher und Organisten, Mainz, 1511 英独対訳版;Translation and notes by Elizabeth Berry Barber, Frits Knuf, 1980

10 英独対訳版上掲書 pp. 49 53

11 Bicknell, Stephen, The History of the English Organ, Cambridge University Press, 1996, p.26

12 Schwartz, Richard B., Daily Life in Johnson’s London, 日本語訳;玉井東助、江藤秀一『18 世紀 ロンドンの日常生活』研究社出版、1990, 114 117 頁

13 Croft-Murray, Edward, London, Article in the New Grove Dictionary of the Music and Musicians, ed. by Stanley J. Sadie, Macmillan Publishers, London, 1980

14Psalms, Hymns and Anthems, London Foundling Hospital, 1774

15 Temperley, Nicholas, Studies in English Church Music, Ashgate, 2009, pp. 50 52

16 ロンドンを中心とする英国宗教施設の組織については、筆写の別項「メンデルスゾーンと 19 世紀

イギリスのオルガン」桜美林論集第 34 号、2007,131 頁 参照。

17 Temperley, Nicholas, Psalmody, Article in the New Grove Dictionary of the Music and Musicians, ed. by Stanley J. Sadie, Macmillan Publishers, London, 1980, pp.337 338

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18 Barrel Organ 丸太にピンを打ち付け、回転させて演奏する自動演奏オルガンの一種。19 世紀、ヨー ロッパ各地で自動演奏楽器やオートマタが盛んに製造された。

19 Dawe, Donovan, Organists of the City of London 1666-1850, Donovan Arthur Dawe, 1983, p.75

20 Thistlethwaite, Nicholas, The making of the Victorian Organ, Cambridge University Press, 1990, p.176 21 横山 2007 参照 22 Ibid. 23 Thistlethwaite 1990, p.177 24 足踏み式のふいごを風力源とするオルガンには、そのふいごの形態と働き方により吸気式と吐気 式がある。北アメリカでは吸気式ふいごを有する楽器を「リードオルガン」、吐気式ふいごを有す る楽器を「ハーモニウム」と呼んで区別する習慣がある。アメリカ人宣教師によって日本に持ち 込まれたものの多くは吸気式の「リードオルガン」であった。ヨーロッパでは両方を「ハーモニウム」 の名称に統一している。

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