• 検索結果がありません。

新刊紹介 ボルジギン・フスレ著 『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(一九四五~四九年)民族主義運動と国家建設との相克』

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "新刊紹介 ボルジギン・フスレ著 『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(一九四五~四九年)民族主義運動と国家建設との相克』"

Copied!
2
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

強大な他民族の支配下、あるいはその国家の支 配下にある少数民族が、その国家から分離、独立 して自らの国家を形成する機会は、きわめて乏し い。それは一世紀に一度訪れるかどうかという、 めったにない機会である。 二〇世紀は、モンゴル民族に対して二度にわた ってその好機を与えた。はじめは、まず一九一一 年の辛亥革命であり、つづく一九一七年のロシア 革命であった。外モンゴルは辛亥革命を機に独立 宣言を発し、それへのロシアの支援を利用するこ とによって、国際的な認知度では十分とはいえな いまでも、独立への過渡的地位を手に入れた。 内モンゴルでは、一部は、日本の支援を得て行 われた蒙古連合自治政府や、満州国の興安諸省で 与えられた「高度の自治」によって、十分に統一 されないながらも、脱漢、分離への道すじが示さ れた。 このように外モンゴルの中国 (清帝国) からの 分離、独立は、自らの軍事力というよりは、ロシ アの影響力を利用した、外交的手段によって行わ れたのに対し、内モンゴルでは日本の具体的軍事 力によって行われたことを大きな特徴とする。し たがって、日本の軍事力が消滅すれば、内モンゴ ルの自治、独立運動もまた、その支えを失わざる をえなかった。 好機の二度目は一九四五年の日本の敗北であっ た。これによって、内モンゴル独立勢力は日本の 権力から解放され、日本の意向に遠慮することな く、独自の路線を歩む自由を得られたけれども、 他方では中国の支配勢力の専横に直接さらされる ことになった。 一九四五年に日本の軍事勢力が中国から一掃さ れたとき、内モンゴルの独立勢力が頼りにできる のは、モンゴル人民共和国と、その背後にひかえ るソビエト連邦であった。 ソ連はヤルタ協定にもとづき、八月八日に日本 に宣戦布告して満州国と内モンゴルに軍をすすめ、 モンゴル人民共和国は、その翌日、ソ連との相互 援助条約にもとづいて、やはり対日宣戦を布告し、 内モンゴルに軍隊をすすめた。その際のモンゴル 人民共和国の対日戦は「民族解放戦争」という意 識のもとにすすめられた。すなわち、内モンゴル を日本の支配から解放して、内外モンゴルの統一 をはかるという意識であった。モンゴル人の論理 からすれば、これによって、辛亥革命にはじまっ たモンゴル人の解放と統一国家の樹立という目的 は成就するはずであった。成就できなかった大き な理由はソ連の態度にあった。ソ連は、モンゴル 人民共和国の参戦の目的が「民族解放 統一」で あるという「意識」を理解してはいたが、より重 要な国家的利害を考えていた。すなわち大国であ る「中国と利益を分けあう」ことを優先させたの である。 著者は本書の題名を「中国共産党 国民党の対 内モンゴル政策」としているように、この中国の 支配者たらんとする二つの勢力のモンゴルをめぐ る相克を克明に描き出し、 中国内での 「 内部矛盾」 を詳細にわたって教えている。 新しい中国の支配者となった中国共産党は、新 ― 34― 2011年 2月 20日発行 風響社 A5判 356頁 定価 5000円(本体) 学苑 第八六二号 三四~三七(二〇一二 八)

田中克

中国共産党



国民党の対内モンゴル

政策(一九四五~四九年)

民族

運動と国家

建設

との相克

ジギ



フスレ

刊紹介

(2)

しい中国国家の建設にあたって、ロシア革命とそ の成果たるソビエト連邦をモデルとしながらも、 それが本来とっていた 「諸民族の自決」 による 「連邦制国家」 と いう原則を次々に破り去って、 諸民族の漢化、同化への道をまっすぐひた走り、 諸民族抑圧国家へと転落した状況は、現状からみ れば明らかである。その結果は、学問的に成り立 たない「中華民族」という概念すら製造するに至 った。 ソ連邦が連邦制を形式的には維持しながらも、 実質は諸民族の抑圧体制へと転落していった点で は、中国と同類であった。この両国家に共通する 過程は、それぞれの国家的利益を重んじて、内外 モンゴルの統一を認めなかったという点で一致す る。本書で著者が細部にわたって論じた問題点を 理解し、この研究の真価を理解するには、まずこ のような、二〇世紀をつらぬく国際的状況を大づ かみにし、念頭に入れておかねばならない。 そのうえで、本書に託された重要なメッセージ、 それも日本人研究者が明言することを避けざるを えないメッセージを見落としてはならない。それ は、内モンゴルの独立という政治思想を涵養した 温床が、内モンゴルや満州国など、日本の支配領 域であったということである。一部の日本人、あ るいは日本軍の「満蒙独立」というスローガンが、 日本の利益のために作られたものであったにせよ、 モンゴルの独立運動家はひたすらそれを日本の利 益ではなく、モンゴルの利益のために解釈し直し、 活用したのである。 だからこそ、日本軍の敗退後、この地域にいた 政治指導者のみならず、一般住民までが、中国共 産党の追及をおそれてモンゴル人民共和国へ逃亡 したのである。しかしかれらの行く手もまた平坦 ではなく、苛酷であった。中国共産党のみならず、 モンゴル人民共和国もかれらを「満州国の息のか かった、日本の傀儡、手先」として扱ったからで ある。 著者が本書で用いた資料は多岐にわたり豊富で ある。それは熱心な収集の努力によって得られる かもしれないが、それをこえるものがある。何か といえば、受難のモンゴル人にしてはじめて教え ることのできる、かれらの独自の歴史観が示され ていることである。中国の少数民族をややもすれ ば「征服されるべき周辺民族」という観点からと らえやすい、日本のみならず外国の中国史家が、 最 も学 ぶ べきはこの点であ ろ う。 本書は中国の支配をめぐる二大 勢 力  国民党 と共産党との 間 で、どのような政治的 戦術 が用い られたかについて、 克 明にあとづけ、 分析 したも のであるから、モンゴル研究のための著作であり ながら、中国の支配とは何であるかを、支配の 権 力 闘争 の中心からではなく、支配されていくモン ゴル民族のた ち ばから示したものである。 日本の中国研究の大きな 特徴 は、中国をもっ ぱ ら支配の中心から見るにとどまり、 被 支配の 非 漢  少数民族の 側 から見る 試 みが ほ とんどないという 点である。たとえば チベ ット人や ウイグ ル人、な かんづく、かれらの独立という観点から中国とい う国家を論じる 試 みはきわめて 稀 である。それが 稀 であるのはな ぜ か  日本の研究者が中国の 権 力者、たとえば学 界 研究者から 不興 を 買 うことを 避けて、問題の 核 心に ふ れることをおそれるから である。 フ ス レ氏 と同 様 の 方向 をめざす研究は、 C h. At wo od ,U. B ula g などによって 堂 々たる 単 著が 英語 で 刊 行されているが、 フ ス レ氏 は、それをこ える力 量 でもって、日本 語 による著作を世に問う たことに 私 は 特 別 の 感銘 をお ぼ えるものである。 本書は、日本がかれに自 由 な研究の 空 間 を 与 えた 成果として 誇 っていい一 冊 である。 私 としては フ ス レ氏 のこの 偉業 を国内外に 向 けて 顕彰 し、大い に 宣伝 したい。それは、 今 日の国際 社会 における 中国研究のありかたにも 好 もしい 刺激 を 与 えるも のと 信 ずるからである。 ( たなか かつひこ 一 橋 大学 名誉 教 授) ― 35―

参照

関連したドキュメント

ブルジョアジー及び 大地主の諸党派くカ デツト・ブルジョア 的民族主義者・その.. 南東部地方

諸君には,国家の一員として,地球市民として,そして企

In addition, the Chinese mothers living in Japan tend to accept and actively adapt to Japanese culture and lifestyle, such as eating, drinking, and way of childcare. Due to

   立憲主義と国民国家概念が定着しない理由    Japan, as a no “nation” state uncovered by a precipitate of the science council of Japan -Why has the constitutionalism

青年団は,日露戦後国家経営の一環として国家指導を受け始め,大正期にかけて国家を支える社会

老: 牧師もしていた。日曜日には牧師の仕事をした(bon ma ve) 。 私: その先生は毎日野良仕事をしていたのですか?. 老:

が漢民族です。たぶん皆さんの周りにいる中国人は漢民族です。残りの6%の中には

 しかし、近代に入り、個人主義や自由主義の興隆、産業の発展、国民国家の形成といった様々な要因が重なる中で、再び、民主主義という