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1930年代アメリカにおけるリン産業の展開と国際カルテル

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Ⅰ. はじめに

 本稿の目的は、アメリカにおけるリン産業の発展過程を、ヨーロッパのリ ン企業との間で締結された国際カルテルと関連させて跡づけることにある。 筆者はこれまで肥料の三大要素を構成する窒素・カリ・リンのうち、窒素と カリ産業について、1920年代から30年代にかけてアメリカでどのように展 開してきたのかを国際カルテルと関連付けながら考察を試みてきた。1 窒素

生産はDu PontやAllied Chemicalといった大手化学企業が中心となり、イギ リスの化学独占体Imperial Chemical Industriesやドイツの巨大化学企業IG Farbenindustrieとの協調や提携を通じて20年代から展開していった。30年 代に入りアメリカ企業は直接国際窒素カルテルには参加しなかったが、主と してヨーロッパの企業で構成される国際窒素カルテルの加盟企業と個別に協 調していくことにより、国内での価格の安定化を図っていった。連邦取引委 員会の肥料産業に関する調査報告書は窒素産業について次にように述べてい る。「海外での競争を制限する外国生産者との協調がなかったならばアメリ カ国内で形成された価格支配は不完全で効果のないものであっただろう。同 様に、もしアメリカ企業が自国以外の市場において競争を回避する協定の味

1930年代アメリカにおける

リン産業の展開と国際カルテル

目   次

二 橋  智

Ⅰ. はじめに Ⅱ. 1920年代までのアメリカとヨーロッパにおけるリン産業 Ⅲ. 国際カルテルの締結と世界市場の分割 Ⅳ. アメリカ国内におけるリン輸出管理の手法 Ⅴ. むすび

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方でなかったならば、カルテルによって形成された支配は危ういものになっ ていただろう。……1939年の時点で、国際カルテルから全く自由な窒素市 場は存在しなかった。2」他方、カリ産業ついてみれば、1930年に至るまで、 アメリカ国内で消費されるカリの8割以上が、輸入カリによって占められ、 1924年にドイツとフランスの企業の間で結ばれた国際カリ・カルテルの支 配下にあった。やがて30年代に入るとニューメキシコ州でのカリ鉱床の開発と 高品位カリへの生産集中によりカリ産業の発展がみられたが、その背景に は、35年7月に設立されたアメリカ・カリ協会と国際カリ・カルテルとの密 接な関係に基づいた基点価格制による国内流通価格のコントロールがあった。3  では、リン産業はアメリカにおいてどのように発展していったのだろう か。アメリカのリンは窒素やカリと異なり、第1次大戦前より国内において 豊富に産出されヨーロッパ市場でも大きなシェアを占めていた。しかし、大 戦後はフランスを中心としたヨーロッパ企業が急速に勢力を拡大し、窒素や カリ産業と同様、国際間の競争が激しくなっていった。そうした中でアメリ カのリン産業はどのように展開していったのだろうか。本稿ではその過程 を、主として連邦取引委員会(FTC)のアメリカ肥料産業に関する報告 書、Report of the Federal Trade Commission on the Fertilizer Industry に依拠 して跡づけてみたい。そして肥料を構成する窒素、カリ、リン産業がそれぞ れ国際競争を展開しながら国際カルテルとの関係を形作っていったことを踏 まえて、別稿において、1933年の全国産業復興法の下で肥料産業規約がど のように締結されていったのかを考察してみたい。 Ⅱ. 1920年代までのアメリカとヨーロッパにおけるリン産業 1. アメリカにおけるリン産業の発展  アメリカにおけるリン産業は1868年にサウス・キャロライナ州においてリ ン鉱石が発見されたことに始まるが、本格的な展開は88年にフロリダ州で2 種類のリン鉱石、すなわち高品位なハードロックhigh-grade hard rockとぺ ブルロックpebble rockが発見されてからのことである。そしてその少しあ とテネシー州でも高品位ぺブルロックが発見された。フロリダとテネシーの ぺブルロックは低コストで採掘が可能でありアメリカ市場ではこれがベース となる一方、フロリダ・ハードロックは他で産出されるどの鉱石よりも高品 位であり、海外市場においてより高い値がついたためほとんどが輸出され、

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1890∼1900年にかけて世界の優良なリン鉱石の標準となった。他方、フロ リダ・ぺブルロックの海外での価格は全般的に国内価格よりも高かったが、 海外の中品位鉱石に対しては競争力を持ち得たため、輸出市場を見出してい った。しかし、テネシーのぺブルロックは採掘費と沿岸部までの輸送コスト がネックとなり輸出についてはフロリダのリン鉱石と競争関係にはならなか った。1910年におけるフロリダのリン鉱石は、表1の通り、ハードロックは そのほとんどが輸出され、ぺブルロックは4割弱が輸出されたが、販売量で はぺブルロックがハードロックの3倍強であった。 表1 1910年におけるフロリダ・リン鉱石の国内・海外販売量  しかし、19世紀末から20世紀初めにかけて、世界各地で有望なリン鉱山 が次々と開発され国際的な競争が激しくなっていった。まず、1898年に北 アフリカにおいて中品位のリン鉱床が発見され、1900年頃には太平洋並び にインド洋のクリスマス島、ナウル島、オーシャン島などにおいて豊かな鉱 床が発見された。続いて1908年になるとエジプトで有力な鉱床が発見され 1910年ごろから採掘が開始された。さらに1917年になるとモロッコでフロ リダと同品位の大きな鉱床が発見され、1920年から生産が開始された。そ して1930年代はじめには、ロシアでも大きな鉱床が発見され、その輸出は 後に見るように、1930年代の国際リン市場の攪乱要因になっていった。4  これらのうち、アメリカ最大の競争相手となっていったのは1920年から フランス政府の保護と助成を受けて急成長したモロッコのリンであった。第 1次大戦前、ヨーロッパのリン市場は事実上アメリカが独占していたが、モ ロッコは地中海の諸港までトン当たりおよそ2ドルという輸送上の優位性も あり、アメリカのリン鉱石の主要輸出市場であったヨーロッパにおいて大き な脅威となっていった。その結果、アメリカは北欧以外、次第にヨーロッパ

(出典)Federal Trade Commission, Report of the Federal Trade Commission on Fertilizer Industry      (Washington: Government Printing Office, 1950), p. 66.

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市場から締め出され、逆にモロッコの鉱石はアメリカにまで輸出され、アメ リカ国内でアメリカ生産者よりも安く販売されるようになっていった。5 2. 1920年代における米系リン企業と欧州系リン企業との関係  こうした状況の中、1919年に輸出カルテルを認めたウェッブ・ポメリー ン法が制定されると、リン産業でもすぐに、フロリダのハードロックとぺブ ルロックのそれぞれの生産者から成る2つのリン鉱石輸出協会がほぼ同時に 結成された。一つは、1919年2月13日、International Agriculture Corp., Coronet Phosphate Co., Phosphate Mining Co.により非営利の共同輸出代 理店として組織されたリン輸出協会Phosphate Export Association(以下、 PEAと略)である。そして翌月の3月19日、Donnellon Phosphate Co., Mutual Mining Co., Cummer Lumber Co., C. & J. Campの4社のからなる非 営利の共同輸出代理店としてフロリダ・ハードロック輸出協会Florida Hard Rock Phosphate Export Association(以下、Hardphosと略)が組織され た。設立当初、両協会はそれぞれの主要な生産者からなっていたが、輸出に 携わるすべての企業が加盟したわけではなかったため、リン鉱石の輸出を完 全に管理することはできなかった。6  1919年3月から21年4月まで、二つの協会は独立して活動していた。 Hardphosのヨーロッパでの販売代理店は、ベルギー・ブリュッセルの大手 鉱山ならびに化学企業で、第1次大戦前からフロリダ・ハードロック鉱山と の取引があったJ. Buttgenbach & Co.が担った。PEAも1920年6月、ロンド ンに自らのオフィスを設けてヨーロッパでの販売組織を設置した。しかし、 両協会以外からのリン鉱石の輸出も見られたため、他の国内・国外生産者と 競合関係にあった。また、ぺブルロックはハードロックと同品位ではなかっ たが、PEAはアメリカからのリン鉱石輸出のうち1919年は約15%、20年に は39%を占めるまでになり、両協会同士の競争も激しくなっていた。  そこで1921年4月、PEAとHardphosはウェッブ・ポメリーン法に基づい て合弁組織を設立、共同で輸出向け製品の価格を決定し輸出量を割り当てる 協定を結んだが、それは23年6月までの短命に終わった。この間、輸出価格 は国内よりも高い価格を維持し続けたが、国内価格も輸出価格も急落した。 先に見たように1920年になるとモロッコではフランス政府の後押しでリン 鉱山開発が活発に進められるようになったからである。モロッコでは相対的 に低コストで生産が可能であり、またその鉱石は粉砕が容易で鉄やアルミニ

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ウムの含有量も少なかったため、トン当たり50∼75セントのプレミアムが 付いてもヨーロッパ市場ではアメリカの鉱石より好まれた。これに対して PEAはぺブルロックの輸出向け価格を引き下げることで対応しようとした が、Hardphosはシェアを維持するための価格引き下げには賛同せず、23年 6月30日、協定は相互の同意のもとで解消されることになったのである。7  その後1933年12月に至るまでの10年半、二つの輸出協会は再び別々に活 動したが、1923年から27年までの期間は海外との競争が一層激しくなった 時期である。フランス政府の支援のもと北アフリカでの生産は拡大し、ロシ アや太平洋諸島での生産も始まっていた。すなわちイギリス、オーストラリ ア、そしてニュージーランドの政府間の取り決めによりナウルやオーシャン 諸島での採掘が英連邦リン酸鉱委員会British Phosphate Commissionにより 始められていた。太平洋諸島のリン酸はまだヨーロッパにおけるアメリカや 北アフリカ・リン鉱石の脅威とはなっていなかったが、オーストラリアや極 東においては重要や位置を占めるようになった。

 1924年から27にかけて、PEAはその輸出量を増大させていったが価格は 低下し、PEAから4社が脱退した。すなわち、Morris Fertilizer Works of Armour & Co., Phosphate Mining Co., Southern Phosphate Corp., そして Coronet Phosphate Co.である。これらのうちCoronetはPEA設立以前か ら、ロンドンの企業と契約を結び輸出業務に携わってきた企業であるが、 PEA脱退後も、ヨーロッパでのリン販売を継続するため改めてドイツの Metallgesellschaft A. G. との間で契約を結んだ。

 ところで、そのMetallgesellschaftはすでにアメリカのリン酸化学製品の 生産企業であるOre & Chemical Corp.に出資していた。これによりOre & ChemicalとCoronetのリン鉱石が結び付けられ、MetallgesellschaftはPEA、 北アフリカ、エジプト、ロシアなどが競争を展開するヨーロッパ市場におい て大きな攪乱的要因となっていった。しかし激しい競争を経た1929年、Ore & Chemical Corp.がPEAへの入会を承認されると、Metallgesellschaftも

PEAに参加が許されることになったのである。8

Ⅲ. 国際カルテルの締結と世界市場の分割 1. 国際カルテルの中核―フランス協定

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メリカのぺブルロック輸出をめぐってMetallgesellschaftとPEAの間で激し い競争が展開された。このことはヨーロッパにおいてはフランス(北アフリ カ利害)、PEA、そしてMetallgesellschaftという3者による競争関係を作り 出した。しかし、国際的な競争はさらに地域を拡大していった。このころか ら日本市場がリン鉱石生産者の間で注目度を増していた。フランスが日本市 場での競争力を強化するため新たに低品位鉱山の開発をしていた1933年、 エジプトの生産者が日本への輸出を2倍にすると発表した。そしてPEAもま た、その数年前から日本への低品位鉱石の重要な供給者となっていたのであ る。こうした国際間競争の激化・地理的拡大はリン鉱石市場の安定、すなわ ち国際カルテルを求める動きとなって表れ始めた。1929年にMetallgesellschaft がPEAへの参加したことにより、PEAは、カルテルを望むフランスや他の 国との間の媒介的役割を担うことになった。9  カルテル協定へ導いたもう一つの要因は為替の変動であった。1931年に イギリスが金本位制を離脱するとエジプトのリン鉱石はフランスやアメリ カの鉱石に対して価格面での優位性を手に入れたが、33年にアメリカ議会 が平価切下げを承認すると、ドルも次第に切り下げられ、アメリカのリン鉱 石はフランスとともに価格面でエジプトの鉱石と競合していくことになっ た 。 こ れ に 対 し て フ ラ ン ス 生 産 者 は ア メ リ カ に よ る ダ ン ピ ン グ だ と 非 難したが、他方で、競争を回避するための協定を模索し始めた。当時の Chemical Marketsは次のように述べている。「フランスとアメリカのリン酸 塩生産の代表者たちは、パリにおける1週間にわたる交渉の末、8月30日に アメリカの生産者が提案したものに仮合意した。その内容は極秘とされ、ま だ決定ではなかったが、最低価格が設定されヨーロッパ市場の分配が合意さ れたものと思われる。10」こうした国際的な価格競争の激化を背景として、 フランスはPEAや他の利害集団と交渉するための単一の機関を設ける計画 を立て、PEAとHardphos(別個の組織として存在していたがPEAと非常に 密接な協力関係にあった)がそれに同調した。PEAによって主導された交 渉を通じて結果として6つの協定が出来上がった。それらのうち3つは(フ ランス協定、ハードロック協定、キュラソー協定)はヨーロッパ市場につい てのものであり、残りの3つ(日本協定、Kosseir協定、太平洋高品位協定 Japanese, Kosseir(Egyptian), and Pacific high-grade agreements)は極 東市場に関するものであった。

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 6つの協定のうち、1933年12月12日に結ばれたフランス協定は、PEAと フランスの北アフリカ利害だけが参加したものであったが、6つの協定のう ち、最も重要で管理された協定であった。この協定は、フロリダ・ぺブル・ リン酸塩のすべての生産者並びに販売者を代表するPEAと、アルジェリア とチュニジアのすべてのリン酸塩の生産と販売を支配しフランスによるモロ ッコ・リン酸塩のすべての生産と販売を完全に支配する北アフリカグループ との間で締結されたものだった。  この協定は、参加者の一方が他方に、協定が終了する少なくとも2年前ま でに通知をしない限り、黙諾により5年間延長され、1943年12月31日まで続 くものとされた。またこの協定により価格について以下のことが合意され た。すなわち、1)フランスにおける北アフリカ産リン酸塩の価格は北アフリ カグループが決定権を持つ、2)両者間でヨーロッパに出荷されるリン酸塩の 割合を設定する、3)どちらかが出荷割当を超過した場合には翌年の割当分か ら差し引く、4)どちらかにより割当超過が2年続いた場合には、「損失補 償」あるいは「損害賠償金」という形のペナルティを課す、などである。  協定の前文で、それぞれの調印者はリン鉱石生産地域のすべての生産者を 代表し、そこからヨーロッパへの出荷を管理することが記されていた。しか しながら、第6条には、PEAは、Coronetとの契約によってMetallgesellschaft が持つぺブル・リン酸塩の在庫の価格とそこからの出荷を管理することはで きない旨が記されていた。と同時にそこからの出荷はアメリカグループの割 当としてカウントされることも合意されていた。PEAには参加していなか ったSwift and Co. も協定に加盟したが、毎年12月31日付で脱退する権利を 有していた。フランス協定は、そのような脱退があった場合には、Swiftに よってヨーロッパに出荷された数量はどちらのグループの割当にもカウント しないことが特記されていた。従ってこの協定が満足のいくものになるかど うかは、PEAがMetallgesellschaft-CoronetとSwiftが独自に持つ出荷量をい かに管理できるかにかかかっていた。11 2. フランス協定を補完する協定  フランス協定はリン鉱石の最も重要な市場であるヨーロッパにおける価格 や出荷量について取り決めた国際カルテルであったが、フロリダ・ハードロ ックやキュラソーのリン鉱石のヨーロッパへの輸出を直接管理しているわけ ではなかった。フランス協定を実効あるものにするためには、この二つのリ

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ン鉱石を管理する補助的協定が必要であった。  ① ハードロック協定(Hard Rock agreement)

 ハードロック協定は、フランス協定の協議過程で生み出されたもので、同 協定の構成メンバーであるPEAと北アフリカグループが一方の、そして Hardphosがもう一方の当事者としてフランス協定と同時期の1933年12月1 日に結ばれた。ハードロック協定はHardphosに1934年にはヨーロッパ市場 の2.25%を割当て、36年以降は2.75%にまで増加させるというものであっ た。フランス協定の構成と内容に合わせ、HardphosがPEAと北アフリカ・ グループとの間で決めた価格に同意できない場合には、毎月の3者間の協議 で決定するというものであった。  販売超過に対する損失補償についての規定も設けられ、フランスにおける 価格はフランス・グループが決定権を持った。Hardphosが価格について同 意できなければ、フランス市場から撤退することもできたし、2年以内であ れば、それにより失った数量の40%までを超過割当とすることでいつでも 再参入できることとした。ハードロック協定の期間はフランス協定と同様 で、フランス協定の終結と同時にハードロック協定も打ち切られることが規 定されていた。さらにハードロック協定が結ばれる直前の33年11月、アメ リカの3つのハードロック生産者がブリュッセルに参集し、引き続きブリュ ッセルのJ. Buttgenbach & Co.をヨーロッパにおけるHardphosの代理人に 指定することが取り決められた。

 ② キュラソー協定(Cura˔ao agreement)

 フランス協定を補完するもう一つの重要な協定は、ヨーロッパ市場に参入 していたオランダ領西インド諸島キュラソーからの高品位リン灰石を管理す るためのものであった。1934年6月19日、オランダ・アムステルダムの Mijnma a tscha ppij Cura ca o を一方の、そしてフランス北アフリカグルー プ、PEAそしてHardphosからなるアフリカ=アメリカグループをもう一方 のグループとするキュラソー協定が結ばれた。これによりキュラソーにヨー ロッパ市場の2.25%を割当てることになったため、北アフリカ=アメリカグ ループのヨーロッパにおけるシェアは100%から97.75%に縮小された。12  以上、3つの国際リン・カルテルの関係を示せば次の図1の通りである。

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図1 国際リン・カルテルの概念図

3. その他の協定

 フランス協定以前、P EAのメンバーではなかったSwift & Co mpa ny Fertilizer Worksがリン灰石を極東、特に日本に輸出していた。しかし、東 アジアへの輸送上の優位性を持つエジプトにおける生産が拡大するとPEA やSwiftの輸出量は低下していった。そこで、アジア市場を確保しようとす るアメリカ資本によるエジプト資本との協定締結の試みが、フランス協定と 時を同じくして、フランス協定に参加したグループの同意の上で行われ、以 下のような協定が結ばれた。

 ① 日本協定(Japanese agreement)・Kosseir協定(Kosseir agreement)  PEAと北アフリカグループのフランス協定メンバーと、Kosseir(正式名 Societa Egiziana per L’Estrazione ed il Commercio dei Fosfati of Alexandria, Egypt)とSafaga(正式名Egyptian Phosphate Co. of London)の2つのエジプト資本とによる日本市場についての交渉の結果、 PEAは当時日本の植民地になっていた朝鮮への低品位リン酸塩年当り2.5万 トンの独占的優先割当が与えられ、他の利害関係者たちは朝鮮が年2.5万ト ン以上購入しない限り同市場には輸出しないことになった。パリに日本と朝 鮮市場をカバーする事務局が置かれてデータの収集と記録にあたった。日本 協定は1933年12月1日に署名された。  しかし、その後Kosseirはヨーロッパと日本市場における販売量に不満を 持ち、カルテル脱退の恐れがあったので、フランスはPEAの同意を得たう えで、1937年1月、Kosseirと改めてヨーロッパと日本市場についての協定 フランス協定 ハードロック協定 キュラソー協定 PEA 北 アフリカ グループ Hardphos Mijnmaatschappij Curacao

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を結び、Kosseirに日本協定を厳守させることを確約させた。なお、日本協 定はヨーロッパにおける大戦が勃発により1940年に終結した。

 ② 太平洋域高品位協定(Pacific high-grade agreement)

 上記の日本協定は低品位のリン灰石を対象としたものにすぎなかったが、 極東地域は高品位リン酸塩の販売市場でもあった。そのため、太平洋のオー シャン、ナウル、マカテア、そしてクリスマスの諸島の生産を支配する British Phosphate Commission、La Cie Francaise des Phosphates de L’Oceanie、そしてChristmas Island Phosphate Co., Ltd.からなる高品位 グループと日本協定に加盟する低品位グループとが鎬を削っていた。そこで 両グループ間で、1937年4月15日に協定が結ばれ、日本、朝鮮、広東州、満 州国に販売される両品位のリン灰石712,500トンのうち、低品位グループに は475,000トン、高品位グループは237,500トンが割当てられることになった。 その際、低品位グループはオーストラリアには販売しないこと、また高品位 グループはイギリス向けの7万トンを除きヨーロッパでは販売しないことが 取り決められた。しかしこの協定は短命で、1938年8月1日に失効した。13  以上のように、1933年以降、世界の主要なリン酸塩市場は、フランス協 定を軸とした幾層もの国際カルテルにより支配されることになったのである。

Ⅳ. アメリカ国内におけるリン輸出管理の手法

 連邦取引委員会は(FTC)肥料産業に関する以上のような調査から、フ ランス協定とそれに付随する一連の協定を、「ロシアを除くすべての主要な 生産地域の指導的リン酸塩生産者が、価格を固定し、割当により販売と生産 を統制し、それによって競争を排除して海外市場における価格の引き上げと 維持を図ることを目的とした、単一の世界大の協同団体a single world-wide cooperating group に結び付けられていたことを示すのに十分なものであ る」と断じた。14 そしてそのアメリカ市場におけるにおける影響について、 フランス協定の一節を引用して、「世界的なカルテル構造のどこをとっても 海外の利害がアメリカ合衆国において競争することはないという推論を強く 支持するものである」と述べている。15  このようなことから、FTCは、アメリカグループの目的の一つはアメリ カ合衆国へのリンの輸入を制限することであり、それゆえ「PEAは議論を 重ね、北アフリカ生産者とキュラソー生産者との間で、ぺブル燐灰石のアメ

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リカへの出荷の制限に関する了解を得た」と結論付けた。すなわち、海外か らの競争の排除により、国内価格を、アメリカの生産者が決定できるように 企図したのである。16  フランス協定をはじめとした一連のカルテル協定は、分割した市場での競 争を排除するため、それぞれのグループに厳しい輸出管理を課していた。 しかしながらPEAにしろHardphosにしろ、アメリカグループは国内のすべ てのリン酸関連企業をその支配下に置いているわけではなかった。では、ど のように、そうした非加盟企業も含めたアメリカからのリン酸塩の輸出をコ ントロールしていたのであろうか。 1. PEAによる非加盟企業に対する輸出管理  フランス協定の中で、PEAは「合衆国のフロリダ・ぺブル燐酸塩 Florida Land Pebble Phosphate of the United Statedの生産者と販売者を代表す る」と記されていた。このため、PEAはSwift & Co. とPhosphate Mining Co.に加盟を求めそれを実現した。加えて、PEAは加盟企業に、協定の存続 中はPEAのメンバーにとどまることを義務とした。もし脱退する必要があ ってその鉱床を処分する場合には、それを継承する者が、フランス協定の内 容を遵守することが決議されていた。  この決議は1936年に廃止されたが、その後も事実上効力を持ち、加盟企 業がその所有する会社や資産を売却する際、その購入者に、輸出はPEAを 通してのみ行うことを課した。PEAを通して販売する契約を結んでいない 非加盟企業の輸出でもPEAの割当に含まれ、割当を超過した場合には罰金 を支払うことが求めれていたフランス協定では、非加盟企業によるぺブル燐 酸塩のヨーロッパや極東への輸出を阻止するためあらゆる手段が講じられて いたのである。17 2. Hardphosによる非加盟企業に対する輸出管理  一方、Hardphosもハードロック協定を維持するため、様々な策を講じ た。1933年当時、Hardphos 加盟企業であるC. & J. CampとMutual Mining Co. は折半で出資したFernandina Terminal Corp.を運営していたが、同社 はフロリダ州フェルナンディナで、輸出向けのフロリダ・ハードロックを粉 砕・乾燥・貯蔵・荷積みするのに適合した唯一の臨海ターミナル施設であっ た。すでに指摘したように、フランス協定の下で、PEAはヨーロッパ向け

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のフロリダ・ぺブルロックのすべての生産者と販売者を代表する立場にあっ たが、フランス協定を補完するハード・ロック協定でも同様に、Hardphos はフロリダ・ハードロックのすべての生産者を代表することが規定されてい た。フェルナンディナ・ターミナル施設はHardphosによる輸出管理の戦略 的道具として活用された。すなわち、非加盟企業に対してその施設の利用を 拒否することによって、ヨーロッパ向けハード・ロックの輸出を管理してい たのである。フランス並びにハード・ロック協定の交渉過程で、Hardphos はDunnellon Phosphate Mining Co.、C. & J. Camp、Mutual Mining Co.、 Buttgenbachにフェルナンディナ・ターミナル施設の排他的利用権を与えた のである。  ところで、1920年には4つの民間ターミナル施設がハードロックの乾燥や 荷積みを行っていた。また、荷積み施設は持つが乾燥能力は持たない4つの 公共ターミナルもあった。しかし、前4社のうち3社は1920年から25年の間 に活動を停止し、フェルナンディナが完全な設備をもつ唯一のターミナルと なった。1926年から33年にかけて、同ターミナルから輸出していたのは Mutual、Camp、Buttgenbach、Dunnellonの4社だけであった。それらのう ち、MutualとCampはターミナルの共同所有者であり、Buttgenbachは Hardphosのヨーロッパ代理店として、そしてDunnellonはフェルナンディ ナ・ターミナルが活動を開始した時、所有していたPort Inglis Terminalを フルナンディナに譲渡することによりターミナルの利用権を手に入れていっ たのである。  この間、フェルナンディナ・ターミナル使用について外部から少なくとも 2件の問い合わせがあったが、それに対して同社は「現在、私たちは、将来 予想されるハード・ロックの販売者に、フェルナンディナ・ターミナルの施 設を提供できるかどうかわかりません。……この問題について十分に検討す るため、私たちに、何時、どれほどのハードロックを輸出しようとし、どの ぐらいの期間倉庫を必要とするのかお知らせください」と回答するも、その 後何の応答もなく4社によるフェルナンディナ・ターミナルの独占使用が続 けられていったのである。18  そしてフランス協定並びにハードロック協定締結後は、Hardphosの非加 盟企業によるにヨーロッパへのハードロック輸出はHardphosの割当に含ま れることになったため、ターミナルの利用はより厳しく加盟企業に制限され ることになった。すなわち両協定の交渉と同時に、Hardphosとフェルナン

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ディナ・ターミナルとの経営統合が進められていった。Hardphosの代表と してR. W. Groves、E. F. Fitch、H. N. Camp、D. B. Kiblerの4人が名を連ね ていたが、Kiblerがフェルナンディナ・ターミナルの使用に関してButtgenbach に了解を得るために提案した申し合わせの中で次のように記している。  「Fitch氏とGroves氏はフェルナンディナ・ターミナル社を通した他のい かなる積出しをも許可せず、同社をDunnellon Phosphate Mining Co.、C. & J. Camp、そしてButtgenbachの独占的利用に保持しておくことができる立 場にあります。それゆフェルナンディナ・ターミナル社はハードロックの競 争を抑えることができるのです。わずかばかりのハードロックの販売のた め、他社が輸出向けハードロックリン酸塩のためのターミナル工場を建設し たり設置しようとすることは全く現実的ではありません」と。  しかも、Fitchはフェルナンディナ社の副社長でありHardphosの執行委 員会のメンバーであり、C. J. Camp, Inc.の役員でもあった。Grovesはフェ ルナンディナ社の副社長兼財務担当補佐役員であり、Mutual Mining 社長と Dunnellon Phosphate社長を兼ね、Hardphosの会長でもあった。Campはフ ェルナンディナ社の財務担当役員であり、Ha rdpho sの副社長でありC. J. Camp,秘書兼財務担当役員兼取締役であった。このようにHardphosの加盟 企業の重役がフェルナンディナ・ターミナルの幹部役員を兼任することで両 者は経営結合されていたのである。19  一方、カルテル施行後もハードロック生産に新規参入しようとする企業か らフェルナンディナ・ターミナルの利用について照会があった。しかしフェ ルナンディナ社は、「倉庫保管を伴わない波止場使用料を設定しておらず、 また現在弊社の倉庫はすべて数社の荷送人との契約下にあります」と、いず れもその使用を拒否した。ターミナルの全貯蔵収容能力と契約している「数 社の荷送人」とはもちろんHardphosのメンバーであった。フェルナンデ ィナ・ターミナル社とHardphosとの重役兼任による密接な結合関係は、 Hardphosの加盟企業に以下のように言わしめた。すなわち、「私たちはあ る能力(=フェルナンディナ・ターミナル)を支配しているので、誰かが利 益の上がる形でリンを生産することは難しいと考えます。」このようにして 国際カルテル協定の下で、輸出向けのハードロック輸出を管理することによ り、国内における新規参入企業を排除し、独占を強固なものにしていったの である。20

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Ⅴ. むすび

 これら国際カルテルをめぐる活動は、アメリカ国内におけるリン産業の高 い集中度によって促進された。1932年から41年までの10年間、アメリカで 生産されたリン鉱石の71%をフロリダ・ぺブルロックが占め、そのすべて が7大リン鉱山会社によって採掘されていた。それら7大鉱山会社のうち5社 は、混合肥料産業におけるビッグ7として知られる企業を構成した。時代は 少し下るが、1944年当時、商業向け肥料産業には675社の混合業者がいた が、そのなかで、ビッグ7だけで37%の混合肥料を出荷し、他の9社とあわ せれば51%を出荷した。半分以上を占める最下位層の小規模な複合肥料企 業349社は出荷量が年当り4000トン以下で、全体でも4.69%を占めるに過ぎ なかった。21 しかし、こうしたアメリカ国内におけるリン産業における独占 的体制は国際カルテルによってのみ実現したものではなかった。  フランス協定をはじめとした国際リン・カルテルの締結が話し合われてい たちょうどその時、国内では全国産業復興法(National Industrial Recovery Act:NIRA)に基づき、肥料産業でも公正競争規約の作成が急ピッチで進め られていたのである。同法は、業界毎に労働者の団結権・団体交渉権・スト 権、最長労働時間・最低賃金などの規定を含んだ規約を作成しそれが大統領 の承認を得て署名されれば、独占禁止法の適用を停止して、当該産業のカル テル組織を認めるというものであった。多様な製品群と関連業種を包含する 化学産業では、包括的な規約を作成することが難航したが、肥料業界では迅 速な対応がみられた。6月16日にNIRAが成立すると、全国肥料協会(National Fertilizer Association:NFA)は、同会長であり国内最大級のリン鉱石生 産企業かつ肥料生産企業で、PEAの主要構成企業であるInternational Agricultural Corporationの会長、John J. Watsonのリーダーシップの下、7 月29日には規約案を完成させ、22 10月31日にはローズベルト大統領の承認・ 署名を得て肥料産業規約を発効させたのである。全国肥料協会事務局長であ るCharles J. Brandは次のように述べた。「戦後(第1次大戦後)2,3年を除 き、肥料がコスト以下でしか売れなかったことと多くの農民が肥料への支払 能力がなかったために、肥料産業は全体として低迷してきました。復興計画 の目標の一つは破滅的な競争を防ぐことにより産業に合理的な利益をもたら すことです。もし肥料産業が農民たちに適切に奉仕し、規約により高い賃金 率が支払われるようになれば、そして肥料業界が年々の損失の代わりにわず

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かばかりの利益を上げることが許されるならば、肥料価格はいくらか上昇す るでしょう」と。23  このように、肥料産業規約の作成を主導したリン業界は、国際カルテルの みならず政府のお墨付きを得た国内カルテル組織をも手に入れることになっ たのである。窒素、カリ、そしてリンを含む肥料産業規約はどのように作成 されていったのか、それが今後の課題である。 二橋(1998、1999、2001、2013)参照。 FTC, Fertilizer Industry, p. 51. 二橋(2013)参照。 FTC, Fertilizer Industry, p. 65。

Chemical Markets, Vol. 33−3, 1933/9, p. 259;FTC, Fertilizer Industry, p. 65. FTC, Fertilizer Industry, pp. 66−67

FTC, Fertilizer Industry, p. 67. FTC, Fertilizer Industry, p. 68. FTC, Fertilizer Industry, pp. 68−69.

Chemical Markets, Vol. 33−3, 1933/9, p. 259. FTC, Fertilizer Industry, pp. 69−70. FTC, Fertilizer Industry, pp. 70−71. FTC, Fertilizer Industry, p. 72. FTC, Fertilizer Industry, p. 73 その引用文とはフランス協定第6条パラグラフCで、次のように規定してい る。「この協定の継続中には、ヨーロッパにおけるリン酸の出荷に影響するい かなる協定も結んではならず、あるいは、現在参加している二つのグループの 承認なく協議された、一方のグループの利害がもう一つの地域(アメリカ合衆 国においてはアメリカグループに完全な活動の自由が留保されている)におい て害するような協定は結んではならない。」(FTC, Fertilizer Industry, p.74.) FTC, Fertilizer Industry, p.75. FTC, Fertilizer Industry, pp.75−76. FTC, Fertilizer Industry, pp. 76−77. (注) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18

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FTC, Fertilizer Industry, p.78. FTC, Fertilizer Industry, p.79. FTC, Fertilizer Industry, pp. 63, 84.

Chemical Markets, Vol. 33−2, 1933/8, pp. 118.

Chemical Industries, Vol. 33−5, 1933/11, p. 445−46. 19 20 21 22 23 参考文献 二橋智(1998・1999)「1920年代アメリカにおける合成窒素生産の生成と国際カルテ  ル(1)(2)(『桜美林エコノミクス』第40号、第41号) 二橋智(2001)「1930年代アメリカの資本蓄積に関する予備的考察−公正競争規約と  国際カルテルとの関連について」(『桜美林エコノミクス』第45号) 二橋智(2008)「化学産業における公正競争規約の作成過程」(『桜美林エコノミク  ス』第55号) 二橋智(2013)「1930年代アメリカにおけるカリ産業の発展と国際カルテル」(『桜  美林大学産業研究所年報』第31号)

Fed Haynes, William(1954) American Chemical Industry, Vol. 5, (New York:  D. Van Nostrand Company,)

Federal Trade Commission(1950),Report of the Federal Trade Commission on the ýFertilizer Industry, Washington, D. C.;GPO.

Chemical Markets Chemical Industries

参照

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