天 南 代 紗 に つ い て
外 山 映 次 On Tennandaisyo E. TOYAMA (-) ここで,下野太平在曹洞完大本山大中禅寺に蔵する「天南代語抄」と題する半紙判(24×16.5) 二冊の冊子を問題にしようと思う。識語によると,もと五巻以上あったものと思われるが,現在は 二巻と五巻のみを残す零本である。墨付きは二巻一四六丁(うち識語二丁,巻頭に別の本文六丁が あるが,ざん人であろう)五巻二二七丁(うち識語一丁)であり,各葉一三∼-五行ほどで,かな りな雑な細字で書かれてある。 識語の類は,二巻の巻初に, 這巻仁三朝冬夜冬至入定出定萱ッ仁而代数百ニッ也 但這裏末仁入出之参別而可謂也内抄者他見無 用也露内参漸悦可為事歴前 太平主人計為照鑑書置也(二の-オ) また次葉に 太平山為住持職人一覧而可成手形大中室内公用松薫 医巨巨)大中十三代天南代語抄二巻目(二 の二オ) (注1) とある。五巻の巻初にも同旨の識語が見える。これによると,本書は大中寺十三代主天南松薫が自 身下語した代語の抄を何らかの形で書き留め,大中歴代住持のために残し置いた天南松薫の提唱本 であることがわかる。 この識語(天南自筆であろう)と本文との筆致が同筆か別筆かは今にわかに決め難いのであるが, 本文中推考。添削。書き入れの類がほとんどないことなどから,天南自身の提唱のための手控えと いうよりも,聞き書きを冊子に仕立て,大南がそれに識語を認めたものというべきではないかと思 われる。ともあれ,講者天南師の花押。朱印まで見る本書はその成立時にぎわめて近い姿をとどめ ていると考えられる。 (ニ) 現在,天南代語抄なる書物は写本版本を問わず他には管見に入らない。寛文から元禄初年ごろま での書籍目録に「天南代二冊」と収録せられているのほ加註しない代請(漢文)を版行したもので あろう。それも現在手に取って見ることはできない。 天南松薫の略譜は,太平山歴祖年譜(別名太平山大中寺縁起,譜と略称),日本洞上聯燈録(録と (注2) 略称)などに見える。それを整理すると大略次の如くである。 大正元年(1573)参州出生(譜)遠州出生(鍾)26 天 南 代 紗 に つ い て 天正九年(1581)遠州可睡斎鳳山等膳に参す(録) . 文禄四年ごろから慶長九年ごろまでの問,野州大中寺韓嶺に参す(録) この間,江戸天暁院入院(録) 慶長十九年(1614)江戸龍雲院入院(譜) 元和元年(1615)野州大中寺入院(譜) 寛永五年(1628)大中寺退院越後慈眼寺入院(譜) 寛永十七年(1644)九月十七日示寂六十八歳(譜) 譜と録とではその出生地に相違があるが,九歳にして遠江可睦斎入院という記事との関連から録 は遠州説を取ったものであろうか。天南示寂の地,越後慈眼寺(覗,新潟県三島郡出雲崎町)が火 災のため現在全くその寺誌を欠いているなど,資料からその出生地を確めることは,いまはできな い。元禄十六年大中寺撰の譜を重視して,しばらく三河出生説をとっておく。 つまり,天南は天正元年三河に出生,九歳にして仏門に入り,青年期を東海道。関東の諸寺に参 し,級,江戸の寺院を歴任して,元和元年大中寺に十三代として入院し,在寺十三年の後,越後に 赴いているということになる。 本書は提唱のなされた日時。場所についての記録が全く示されていない。しかし,識語などから, 天南の大中在院中に成立したものであると考えるのは赦されよう。さすれば,ほぼ元和元年から寛 永五年までの問に,野州大中寺において講ぜられたものと言える。本文中には成立時期に関して参 考になるべき記事はほとんどないが, 「寛永元甲子ノ参始メ也」 (五の一一〇オ)の一文が見える。 ほぼ,それに前後した時期の成立であろう。 (三) 当期には洞門高僧の提唱本である代語抄の類がいくつか版行されている。そのうち数種類が現在 紹介され,その記述された国語が,東国語脈によっているところより,当期束国語研究の数少ない 資料に用いられていることは衆知のことである。そこで,本書が国語史的にどれほどの価値がある のかを以下に検討して行きたいと思う。 (注3) すでに紹介ずみの諸書,すなわち版本であれば大淵・巨海。高国のそれぞれ代紗,写本であれば, (注4) 禅林類衆抄・妙続大師語録抄などは,版本の場合ではその印刷された事情による資料の純正さの問 題,写本の場合では作者及び成立年代の問題など,言語資料としての言わば致命的な欠陥がどうし ても付きまとっていた。しかし,本書は作者。成立年代ともに比較的明確であり,加えて書写版行 という二次的過程を経ていない点からも,資料としての純正さは前述の諸書にまきると言えよう。 以下本書に記述されている国語について見て行きたい。 表記については,漢字混り片かな文で濁点は右肩に「つ,かなり詳しく打ってある。字音を借り ての宛て字「用。郎」などほ前述諸書のあるものと共通に見られるものである。推量意志表現に用 いられる「令。生・用」などは,代語抄に通じて見られる用字法で,洞門僧独自の表記と考えられ る。
(四) 大塚光信氏は先に関東。関西両系の抄物の性格を決める物指しとして, (a)助動詞ダ. (b)助動詞 ヨウ. (c)-行四段活用連用形促音化, (d)形容詞連用形原形維持の四項を挙げられ,それらが同時 にある程度以上の数量を満足することを条件とされた。私は,それに加えて,さらに. (e)条件句ウ (注5) ニハの使用の一項を加えて考えている。そこで,まずこの五項目について本書を検討してみよう。 (a)助動詞 ダ 指定辞はダが一般で,時にナ1)が混じる。ヂャほ次の二例のみである。 例1.何ニトモ出せ嗣続ヲ体ニシテ出ス物ヂャ,心火ノ挑ゲ用伝燈ノ一灯ヲカカゲ用ヲスル物ノヂャ ト云仰ダ(五の一二八オ) これにしても,一種の引用文であり,文体的には,全くダで統一されているとみてよい。 (b)助動詞 ヨウ この項目については,天南代紗と前後して成立したと見られる巨海代紗(天正末より慶長頃成立, 承応二年版),大淵代砂(元和七年より寛永十三年までの問成立,慶安二年版)の両書の傾向と照合し つつ考えてみよう。大略は第一表の通りである。数字は用例の数で, ( )は活用語尾の表記のない もの。また サカ 例2.仏心宗-久シク昌ヨウズト(五の六り) ハタ 例3.謝語ノ句ハ果シテ聞コ用ズ(五の一五一り) サカコタ の如き[昌ヨウズ。聞コ用ズ・シタガヨウズ・答用ズ」の類は数量の中に加えていない。ただし,用 例数は一回かぎりの調査による数量である。 〔第 一 表〕 他 (注6) 下二段の「聞キ受ケ用ズ」サ変の「シ用ズ」助動詞の「セシメヤウズ」などの言わば孤例に近いも
天 南 代 紗 に つ い て のを除けば,本書は上一。二段動詞,及び下二段語幹母音-音節語(得の類)承接の場合まで,ヨウ が定着して使用されていると言える。これははぼ同時代成立の大淵代紗よりもむしろ慶長頃成立の 巨海代砂に近い傾向である。 またサ変においては 例4.ウカウカト掛ッタラバ,ケガヲ生ズ(五の一八り) 助動詞(ス・サス。ル・ラル)においてほ 例5.収サメサ生カダ(互の九り) 例6.各自二分散せラ令ズゾ(五の六六オ) 下二段にあってほ,活用語尾を表記しない(つまり動詞を漢字のみで表記する)もの以外のほとん が, 例7・何り着語シタラバ鼻孔-ヒシギャウナ(二の三オ) 例8.耳ミモヒシゲ脳門モサキャウズ(玉の四三オ) 例9.甜鎚ヲ当チャウドスレバ(二の九三り) の如く物音表記である。このように,むしろ表音的態度で表記しているところよりして,本書のり。 ヨウに関する傾向は当時の(そして当事者の)口頭語をかなり反映しているのではないかとも考えら れる。巨海代砂はその成立時期はともあれ,現在見られるものが,承応二年の版本であることから, その資料としての確かさをいくぶん割り引いて考える必要があるとすれば,本書のヨウの用法に近 づけて巨海のそれは考えることができる。しかし,寛永末成立,慶安初年版の大淵代砂は一見して わかるようにかなりヨウの使用度が高い。成立以後十数年の後の版行であることの配慮を加えても, なお天南代砂との差は甚だしいものがある。わずか数年しかその成立時期の違わぬ両書のこの相違 は個人差か,提唱の行なわれた地域の差か,いずれかによるのであろう。しかし,提唱の行なわれ た地域云々はこの場合あまり問題にならないのではないかと思われる(東国,西国という違いであれ ば別であるが)。大南・大淵ともそれぞれ大中寺。総寧寺に入院する前は東海道・関東の諸寺を歴任 しているし,その講蓬に参した学僧も広く関東一円から集まっているのであろうから。また,洞門 内部の法統の差によるとも考えられるが,はば当該期が助動詞ヨウの東国における発生生成期に当 たることから考えて,天南師。大淵師の(それぞれ筆録者があればそれを含めての)個人差によるも (注7) のと一応考えておきたい。 (C)ハ行四段活用連用形促音化 この促音化の傾向は「-て」 「-た」への承接の仕方によって事情が少し異なるようである。湯沢 幸吉部博士も「室町時代言語の研究」の中でて」承接の場合の促音化の例を引かれたあと, 「-た」承接の場合の促音化については未だ関西語脈の中では一例も見出せないと述べておられる。実 際にも「-て」承按における促音化の傾向は,室町末期の訓読文などにほ東西を問わず普通に見られ ることであるし,文章語的性格の強いものでは,むしろ「-て」承接の場合は促音化の傾向が強いこ とも有り得るのである(例えば,成賓堂文庫本論語抄など)。したがって,東西両語脈の対比として
この傾向を検討する場合は「-た」承接の場合を重視する必要がある。例によって,巨海。大淵両書 と比較すると,第二表の如くになる。 (数量は一回限りの調査による) 〔第 二 表〕 ウ 音 便 促 音 便 一 テ 上 タ ●一 計 一 テ 上 タ 計 巨 海 代 砂 14 14 2 8 8 0 ■8 天 南 代 砂 6 8 10 7 17 5 1 07 69 2 1 7 大 測 代 砂 3 3 5 2 85 7 12 19 巨海・大淵のものでは未だ促 音化の傾向がり音便化に比し て対等とまではいっていない が,本書の傾向は「-て」承 接においてはすでにう音便化 を凌駕しており,かつ, ナラ 例10.引ヅソロッテ数皮ノ戦イニ憤ッタ名大将卜見エタゾ(五の一八オ) コ■ 例11.馬大師-掴一破セント拶シ立テテ請ッタゾ(五の一二八り) 例12.言ッタ言バヲ許ルシタ用二恩ウベイカ(五の一三二オ) といった「-た」承接の場合の促音化が,はば四割弱に達している。巨海においては,その例末だ見 ず,大淵においてすらやっと二割弱である点より考えて,本書の東国語的傾向はこの点に関しては 著しいものと言えよう。 (也)形容詞連用形の原形維持 この傾向についても前述(C)における「-て」承接の場合と同じようなことが言える。関西語脈に よるものでも,漢文訓読的乃至文章語的性格の強い文体では,り音便形より原形(ク形)を多く取る ことがある。例えば,中華若木詩抄などは,ほぼ九割までが原形をとっている。従って,本傾向に ついては,他の弁別的特徴とのにらみ合わせのうえある程度の数量を確認することで満足せねばな らない。言わば,東国語脈の認定について,十分条件の一端を担っているにすぎないのである。例 の如く数量で示せば,第三表の如くになる。 (数量は一回限りの調査による) 〔第 三 表〕 原形優勢は歴然であろう。ただ本書では,シク 活用の連用形において, 例13.ヲピタダシュウ動揺シ,ヲビタダシュ ウ言イ触レタ- (二の五二ウ) 例14.君卜臣トノ参会睦マシュウシテ隔テガ ナイゾ(五の一一〇ウ) の如く,その勘長音を表記するに「シウ」でなく,表音的に「シュウ」としている。関西語系のもの は別として,洞門系の抄物では珍らしい表記であると言えよう。これは,本書の傾向が関西語脈に 近い性格を持っているというのではなく,前述ク。ヨウの表記と内様に口頭語的性格が強いためで あろう。 (e)条件句ウニハ 一種の条件句として用いられている「ウエハ」は「タラウニハ」 「ナラウニハ」の形で洞門抄物に
30 天 南 代 紗 に つ い て 特徴的に用いられている。 例15.密室不通風,トットノ屋裡ナ郎ニハ門外ノ賓客モ窺イ難イ処デ在郎呈ニ(五の一三六り) 例16.忍ノ一字ヲサヱ居夕郎ニハ何ンタル強気悪心ヲモヲツフせテシタカヨウズ(五の一三六り) の如き用法で,一般に仮定から既定までかなり広い順接条件を示す。本書では, 「タ郎ニハ」 18例, 「ナ郎ニハ」 2例,とそれぞれ見えるが,この場合例外なく「郎」字を使用している点,表記の上で も問題がある。版行せられた代抄の類は,ほとんどこの場合「郎」字を用いており,これらは洞門僧 (注8) の伝統的な表記法および慣用句であったと思われる。 (五) 次に東国語的と認められる言語的特徴がいくつか見られるので,それについて述べよう。 (∫)助動詞ペイ いわゆる関東ベイで,例のロドリゲス大文典にも記述されているこの意志推量・の助動詞が本書で はかなり使用されている。内訳けは終止用法二十九例,連体用法八例ででる。その用法を検討して みるに,連体用法はベシのイ音便としての形が中古からすでに現われていることであるし,中世末 の関西語系の抄物にも少なからず見られることでもあるので,東国語的傾向の認定に関しては消極 的徴候の域を出ないものである。やはり, 例17.辛労ガ無クンバ推量バカリデ速力ルペイ(五の一一三オ) 例18.クハラリト焼却シテノケラレクモ此ノ様ナ落居デ走ペイ(五の四二ウ) の如き終止用法をもって,関東ベイの徴候と認めるべきである。しかし,それにしても,なお本書 の用法は例17の如く講義調ないし文語調とみられる文にまでも用いられていることからして,口頭 語をそのまま反映させたものでなく,多分に講義口調にそれを取り入れたらしき感がある。特に例 18の如き「候(そう)」の未来形としての「ソウベイ」が十二例も見られ,関西語の「ソウズ」に対応 (注9) した形として用いられているのをみるとその感が深い。また, 例19.神変奇特ノ住居ヲ成シタ用ナ事デハ何二力走ベイ(五の一八八オ) 例20.向上ノ主人翁-露レヌ也トモ見ベイヨ(二の一三八り) の如く, 「何ニ力走ベイ」といった慣用的表現に,また「ト見ヨウズ」に対する「ト見ベイ」といっ た提唱独特の言い回わしなどにも見られる。以上のことから,本書のベイは当期東国語において使 用せられていた(とみられる)ベイを提唱の場に取り入れて一種の講義調文体を形成させているとこ ろのベイであると考えられる。これらの資料が東国語脈によって記述されていると言われる所以で (注10) ある。 (g)助動詞ナイ・付ナイデ 当期の抄物ではあまりその出現が期待されなかった助動詞ナイが本書にはとにかく見られる。 例21.極マレバ陽来覆シテ回互宛転環キノ如ク論ジナイゾ(二の六八り) 例22.遠イゾ高イゾト言テ手ヲヲ付ケ無イゾ(二の五六オ) 二例とも助動詞としてより外EK考えられない例である.もちろん,両巻通じては「ヌ」の勢力が圧倒
的に強いことは言うまでもない。が,助動詞ナイの古い例として認めてよいかと思う。湯沢博士の 挙げられた史記抄の一例(「室町時代言語の研究」所収)とは違って,この二例を単なる孤例として 無視し去ることができないでいるのほ,助動詞ナイ と深い関係にあると思われる接続助詞ナイデが 本書に五例使用されているからである。 例23.一句二贋ミ殺シテ捨テナイデ,ムダ事ヲツカスルヨト(二の七二ウ) (症ll) 例24.噴挙トハ棒スルトキンバ,ジキニ打殺ノ拾捨テナイデハヨ(五の二五オ) この接続助詞「ナイデ」は,衆知の如く東西両方言対立の一役を担っている(なお,抄物においてほ, 関東・関西両系の対比を,接続助詞「デ」と「イデ」とによって捕えることができる)。 例24の「ナイデ-」の形は,抄物によく見られる余情を含ませた一種の否定終止法の「デハ」と同 じ用法であり,関西語脈の「イデハ」に対応するものであろう。例23の「ナイデ」はわれわれの用し.、 る接続助詞として.の用法に極めて近いものであろう。いま, 「ナイデ」の成立事情に関しては,その 経緯を断定Lがたいが,いずれにしろ「ナイ」の関与なしには考えられないから,本書に「ナイデ」 が五例見出される事を考えて,前述の「ナイ」を助動詞と認めたいと思う。 (h)そ の 他 その他,目ぼしい語法。用例などをいくつかあげる。ロ氏大文典にも記述のある「足る。借る」の 類の一段化の例が見える。 例25.釈迦丈六ノ衣ハ換カノ袈裟ナレドモ千尺ノ弥勤ノ身被在シタガ足リヌ事モ無ク余リモせズ 威儀ツジ丁度合ウタハ(五の九九オ) タル が, 「飽キ足ホドシイ掛ケタハ」 (五の六二オ)の如く四段の例もあることを付け加えておかねはな るまい。 最後に一般語嚢について述べよう。従来この種の資料(洞門抄物)から束国語らしき一般語嚢を見出 すことは,極めて稀であった。というより,ほとんど期待できなかったのである。東国語脈によってい るとはいえ,提唱を行なう立場からほ末だ東国方言(とくにその観念語)を使用することが困難であっ たのか,あるいは意識的に避けていたかしたのであろう。具体的な概念を示す場合は大かた京都語を 中心に述べていたのである。本書では僅かに二例ではあるが東国語らしきものがとにかく認められる。 例26.シカラルルモ,ヲドサルルモサシテヲソロシュウハ無イ物ダ,只ダ修行者ガ髄二朽チ入ッ テヲッカナイ物ヨ(二の四七オ) ノ 例27.片夕意ニギシャバッタ用ナ事デハ何ニカ在郎ズ(二の一〇七オ) 十† いずれも物類称呼には東国語であると記述されている。 「ヲッカナイ」は同系の資料である妙続大 (注12) 師語録抄にも,その用例を見る。 「ギシャパル」は物類称呼では「ぎしむ,畿内の語也,関東にてり きむといふに当る言也,上総にてぎしゃぼると云---」として,上総方言としているが,吾山の頃 にはすでに上総近辺のみに残っていたものであろうか。.†大言海などに引く,東海道中膝栗毛発端の 巻の例は, 「わしゃ-ア田舎もんでござるから,養老ぼってむけちなくぼゐ出しましたが,こんなに なるべいたァ,おもひおりませなんだ,ドレドレむすめほどこにゐおります」 (岩波大系42ペ)の如
32 天 南 代 紗 に つ い て く,江戸近在の田舎おやじに使わせている。がしかし,幕末のものを初期まで持っていくことはで きないし,一九の創作ということもあるから,この例はあくまで参考にすぎない。種々問題もあろ うが,この二例,東国語の反映として見られはしないだろうか。
(六)
以上,近世東国語の新しい資料として,天南代砂を紹介し,かつその記述された国語の様相をあ らまし検討してきた。ほぼ,問題になりそうな諸点はあげてきたつもりであるが,なお二,三の問 題が残っている。一つは成立事情がもう一つ明瞭でない憾みが残ることであり,一つは大中寺系と 総寧寺系とによって,その記述された国語にやや差があると認められることである。そしてその差 が単に個人差によるものか,あるいは洞門内部の法統の差によるものか,いまだ明らかでない。当 時の洞門では,寺法・人法が一系であるべきことが定法であった。 (もっとも,江戸初期では,それ がかなり乱れていたらしが)提唱という性格から考えると,伝法相承の系統の相違によっては,提 唱の仕方にいくぶんの差がでてくることも考えられ,その際使用せられた国語にも,何らかの特色 が生ずることもあり得たであろう。しかし,数少ない資料によってこの問題を解決することは困難 でもあり,危険でもあろう。豊富な資料の裏づけを待って,`この問題は解決されるべきであろう。 とまれ,他の近世初期東国語資料よりもはるかに資料としての氏素姓が正しい本書の価値は損わ れないであろう。二巻五巻のみの零本ながらも,分量はかなり多く,該資料が東国語研究に利用さ れる価値は十分にあると.確信している。 注1 ・ 「太平山鳥住持職人一覧而可成手形也大中室内用, 松薫 関内澄再吟際他見必無用也,大中十三代主天南曳代語抄五巻目」 (五の三才)とあり,巻末には「天南曳歴軌とある。 注2. 「太平山歴祖年譜」 (大中寺蔵)には「十三代天南松薫和尚,表号松翠,師天正元発酉於参州出生,慶 長十九甲寅三月廿七日江戸龍雲院入院,則江湖興行行年四十二歳玄時依賢命賜米三百俵,元和元乙卯三月 廿日大中寺入院行年四十三歳法場数夏中興行在寺十三年,元和九年発亥雪月二十七日伽藍炎焼従公方賜米 一千俵章管諸堂者也,寛永五戊辰春有故請居越後出劃奇慈眼寺隠居行年五十六歳隠住十三年'寛永十七庚 辰九月十七日示寂,在時十三年,寿六十八線,到干元線十六発未凡六十四年」とあり,日本洞上聯燈録巻 十一には, 「泉岳門奄宗開禅師(筆者注大中寺十二世)法嗣,野州大中天南松葉禅師,遠州人九歳徒可唾鳳山膳公, 馬駆烏,受具後,首参韓嶺於大中,執侍数歳,及謁門巷,一語契投,親承記如,出住江府天暁院,東照源 君曽詣鳳山室,諭禅,因知師道遇,待遇益益隆,慶長乙卯,承鈎旨,住大中,領僧綱,洞上宗隆於此席, (以下略) 」とある。 注3.金田弘氏「東国語脈で書かれた抄物二三」 (国語学二十輯) ,拙稿「高国代紗」 (未定稿七号) 注4.福島邦道民「江戸語の音軍と東国方言」 (国語,文理大終結号),大塚光信氏「ダとある抄物」 (国文学致, 二十一集)など。池上禎造氏「妙続大師語録の抄」 (国語国文二五五号) 注5.大塚光信氏前出論文,及び拙稿「足利学枚蔵人天眼目抄とその国語」 (国語と国文学,三十七巻十二号) 注6. 「山僧ハ向り聞手受ケ用ズカ」 (二の六一オ), 「向卓見収ムルカ平春シ用ウス(二の五オ), 「-場ニ-v&M 挨拶セシメヤウズ」(二の一一八オ)の諸例。ただし,後述の如く,サ変の他の例はすべて「生ズ,生ウズ」 の形をとる。 「しむる」の他の一例は, 「-場ノ挨拶ニ-及バシメウズカ」 (二の一一七ウ)であり,きわ めて接近した個所にこの二例が見られるのは問題があろう。 注7.なお,洞門抄物における助動詞ヨウの取り扱いについては,大塚光信氏「助動詞ヨウについて-その成 立と性格-」 (国語国文三三二号)及び,拙稿「洞門抄物にみえる助動詞ヨウについて」 (国語学四十六輯) とを参照されたい。 注8.この種の「ウニ-」は当時の洞門関係の抄物であれば,必ず使用されていると云ってよい。ただ,史記 抄(桃源)では,「サラウニハ所当ノ罪チヤト申スソ(一一の九一り) 」 「カウアラウニハ法ヲ犯シテ-カナウマイヨ(六の九オ) 」 の如く, 「サラウニハ・アラウニハ」といった形で使われているが,洞門抄物のようには,その用法が多 彩でなく,なかば接続詞化している。また,その後の関西語系のものにはほとんど見られないし,これを 洞門系独自のものと考えてよいだろう。 \ . ところで,洞門系の諸富にみえる用法でも,そ表記の上でやや異なっているものがある。管見によれば, 大中寺,絶寧寺など関東三個寺に関係した慶長期以後の憎の代語抄は,この場合「郎」字をとることが多 いが,それ以外はこの「郎」字をとることがない,と云える。しかし, 「洞家ノ宗旨繁興デ在郎ズ(高国 代紗,二の三オ) 」の如く,推量の助動詞にこの「郎」字を宛てることがいつごろ起こったかという一般 の国語史上の問題がからむので,上述の傾向は,むしろその「郎」字使用の時期の問題として考えるべき であろう。いま,この二つをからみ合わせて考えると,大中,纏寧両寺関係のものとはっきりしているも のでは, O 「本来ノ父母卜問タニ直二出シタ郎ニ-狼籍ナル事ヨ」 (巨海代紗下の一四オ,慶長頃成立,承応二 〇 野) O 「杏林モ向ゾトウナズイタ郎ニ-,精魂モ弄ジタ事ヨ」 (大測代砂二の二七オ,寛永十二年頃までに成 ○ 立,慶安二版) o 「其ノ時キ在り逢夕郎ニハ,一膳二階殺シテ除ウズ物ヲ」 (扶桑説吟三の一〇オ,大中寺末寺孝顕寺十四 ○ 代扶桑の抄,但し,本文中,作者,大中寺に廿年間住したとの記事あり。寛永六年ごろから正保二年ご ろまでの問成立,承応二版) O 「取テ出サルル物ナ郎ニ-把将シ釆レト云ガ」 (高国代紗, -の七ウ,慶安末成立,万治四版) 0 o 「サテ雨メガーツブモヲチタ郎ニハ今宵正当ノー句ハ早ヤ傾イタ事ヨ」 (鉄外和尚代紗下の四ク,大中 ○ 寺十七代鉄外の抄,寛文二年以前成立,刊記のない版本) の如く,天南代紗の例を合わせて,巨海以後のものでは,いずれも「郎」字の使用がみられる。 作者,成立時とも不明の禅林類衆抄では。 O 「ツラヲ出シタ労ニ-,其声-ナマ労ズ」 (-の一三り) 0 0 の如き「労」字使用が一般で,一部かながきであり,慶長十八・九年頃成立,下線東漸寺八世円応作と推 定される(池上先生前掲論文)妙続大師語録抄では, O 「ア、下度二此生二坂ツタラウニハ,六根清浄デ有ラウヨト」 (二九オ) の如くかながきである。また,すこしさか上って,天正六年以前、書写乾坤院川憎作の人天眼目抄はかなが き,金田弘氏のご紹介による碧厳大空抄もかながきのようであり,大中寺関係でも,永緑十一年大中寺窓 下にて書写との奥書きのある古今全抄(京大池上研究宝蔵)では, o 「如此語ラレテ出得ス可キトシタラウニハ,何ガ偏正遍ヲ離却せウズゾ」 (一二オ) とすべてかながきである。 以上のことから, ㊨ 「ウニハ」は洞門僧の好んで使用したものであり, ㊥推量表現での「郎」字使用が 洞門憎の間では慶長年間ごろ(巨海のころ)に始まった, ㊤その結果, 「タ郎ニハ・ナ郎ニ-」なる特徴的 表現及び表記ができ上ったと云えると思う。 注9.注8に引用した鉄外和尚代紗は,かなり固い文体をもつ抄物であるが,この「走ベイ」が二例ほど見える。 「源頭無熱地ノ凍ツタハ知レク事ヨ程二雪中ノ懐古卜云題モ澄ミ走ベイ(上の一六オ) 」 の如く,典型的な講義調文体の中に使用されている。 注10.本書の「ベイ」の用例を二,三あげておく。 「修行ガ無ク-浅サク-心得ペイ(五の六九り) 」 「是-再吟セズ共聞ヱペイ(五の九二ウ) 」 「即今殊勝二恩ウテハ肝二銘ズベイナ(二の七八オ) 」 注11.他の三例はいずれも「ナイデ-」の形で見える。 ヨギ 「ソコヲケチラシテ過ラナイデハ,斑テ夫レヲバ何ント留ウズ(二の六〇オ) 」 「ヒョット突出シテヲリヤル虞デ鑑ミナイデハヨ,ノビテ見夕虞ダ(五の九六オ) 」 「フット云イ損ンズマイカ,尊慮二叶-ナイデハ, (五の一七九り) 」 注12. 「アノヲッカナイ自中ロ賊マ竜ル、カト也(一四オ) 」これは「恐」字の釈文と考えられる。 (付記)小稿は昭和三十八年度文部省科学研究費による調査研究の一部をまとめたものである。また,資料閲 読に際し大中寺副住持掘場徳雄師にいろいろとご便宜をほからっていただいた,記して感謝の意を表する次第 である。