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連結会計導入思
一連結会計促進諸要因の分析を中心として一考とその発展(1)
蜷
木
實
工 は じ め に 周知のように,連結財務諸表を作成・公表する会計慣行は,今日では世界各 国で制度として確立されているが,その実務が最も早くから導入され普及し たのは,米国である。チャイルズ(W. H.Childs)によれば,1892年12月31 日終了年度の第1期年次報告書に連結財務諸表を公表したナショナル鉛会社 わ(National Lead Company)がその最初であるとされているが,連結貸借対照 ラ 表という名称を使用したのは,それから25年後の1917年になってからである。 続いて,1894年12月31日終了年度の第2期年次報告書にゼネラル電気製造会 おう 社(General Electric Company)が連結財務諸表を公表したとされているが,デ ニールズ(M.B. Daniels)によれば,既に当社の1893年年次報告書に連結貸借対 4) 照表と連結損益計算書が公表されていたと報告されている。更に,会田義雄教 授によれば,当社は1892年6,月に創業して,第1期の会計年度は8ケ月間で終 1)W.H. Childs, Consotidated Financial』State”rents(Cornell University Press, 1949),p.43. 2)rbia., p 44.この点について,会田義雄教授は,・・一バード大学のベイカー図書館 にあるCole RQomの年次報告書について,マイクロフィルム等で検証したところ, 1892年の貸借対照表を仔細に検討しても,連結貸借対照表という内容を見出すことが できなかったと報告されている(会田義雄「アメリカ連結会計の若干の実態」『産業 経理』38巻3号(1978年3月)49頁)。 3) Ibid., P.44. 4) M.B・Daniels, Corporation Financial Statements(Ann Arbor:University of Michigan Bureau Qf Business Research,!934), p.39,56 了しているので,最初の決算日は1893年1月31日となり,従って第2期の決算 5) 日は1894年1月31日となる。そして,当社の第1期貸借対照表は要約貸借対照 表(Condenced Balance Sheet)とされていたが,第2期(1894年1月31日) 6) では連結貸借対照表(Consolidated Balance Shect)と改名されている。 また,連結財務諸表の作成実務は,これらの工業会社に先立って,鉄道業や 公益事業でも採用されていることに注目しなければならないであろう。会田教 授によれば,鉄道業の1つであるサザン・パシフィック会社(Southern Pacific Co.)が既に1888年に12社を連結した連結貸借対照表(Consolidated Balan’ce Sheet)と連結損益計算勘定(Consolidated Profit and:Loss Account)を提示 のしていると報告されているが,ブランデイジ(P.F. Brandage)も同じ鉄道業 の1つであるアトチソソ,トペカ,サンタ・フェ鉄道(Atchison, Topeka and Santa Fe Railroad)が,1896年に体系的貸借対照表(system balance sheet) 8) を作成していたと述べている。更に,書簡の中で,メイ(G.0.May)は, 1886年にアメリカ綿実油トラスト(American Cotton Oil Trust)が最初の連結 9) 財務諸表を作成したと記述していると報告されているが,このような株式会社 でない組織体が,早くから連結財務諸表を作成していた事情は,デモンド(C. 10) W.De Mond)によっても報告されている。 5)会田義雄,前掲稿,48頁。なお,当社は,チャイルズのいうように,/909年の第18 期から会計決算日を!2月31日に変更している。 6)同上,50頁。従って,会田教授の実態調査の報告やデニールズの記録などを考慮す れば,チャイルズの挙げている6大工業会社の中では,General Electric CQ.が最初 の連結財務諸表を作成・公表した会社であるということになる。 7) 同上,49頁。 8) P. F. Brundage, “Consolidated Statements”, in T. W. Leland (ed.), Contemporary Accounting (New Yark: American lnstitute of Accountants, 1945), Ch. 5, p. 1. g) M.E. Peloubet, in M. Backer(ed.), HandbookげModern Accounting Theor y (New York; Prentice−Hall, lnc., 1955), p. 31, 10) C. W. De Mond, Price, 1]Vaterhouse & Co. in America (New York: privately printed 195!), p.60.彼によれば,プライス・ウォーター・・ウス会計事務所は, U. S. スティール社の1902年の報告書よりも10年も早くから他の顧客のために連結財務諸表 を作成していたと報告しているQ
連結会計導入思考とその発展 (]1) 57 以上のような事情からして,連結財務諸表は少くとも19世紀末には多少作 11) 成・公表されつつあったものと推論できるであろう。ところが,連結財務諸表 に関する文献となれば,1904年9月にセントルイスで開催された会計士国際会 議の第3日目(9月28日)にデイッキンソン(A.L, Dickinson)によって発 表された「会社の利益」 (“The Profit of a Corporation”)と題する論文が最 12) 初のものである。このように,わが国や英国とは異なって,文献による論議以 前に,既にある程度の連結会計慣行が醸成されている実態には,何といっても 注目しなければならない。また,法律,規制等の制定を必ずしも前提とせず に,むしろ経済上の経験・慣行として,古くから連結会計が導入されていると 13)ころに,その史的研究上の難しさもあるといえるであろう。 ムーニッツ(M.Moonitz)によれば,連結財務諸表は,社会・経済的真空 の中に存在するものではなく,それは,特定の歴史的諸条件から生れた現実の 必要性を満たすために発達したもので,いわぽ米国における企業結合の動きが 14) 示した独特の形態を会計面に反映したものであると述べられている。 そこで,本稿では,このような観点から,まず連結会計導入思考を明らかに するために,1900年前後における企業結合の社会・経済的な背景を探り,同時 代における公開規則や会計実務などについても考察することにより,米国にお ける連結財務諸表導入の社会・経済的な背景を概観する。そして,U. S.ステ !!) この点に関して,チャイルズは,1890年から1910年までの期間に,連結財務諸表の 使用が容認された実務となったようであると述べている(W・H・Childs, oP・cit・, P・ 44’)e !2) A. L. Dickinson, “The Profit of a Corporation”, Official Record of the Pro− ceedingsげ彪Congress of/Accozantαnts(New York l George Wilkinson,1904), pp. 17/−91.この点に関して,チャイルズは,連結財務諸表に関する最初の議論として A. L. Dickinson, C‘Notes on Some Problems Relating to the Accounts of Holding Companies,”The Jowrnal of∠Accountancy, April 1906, pp.487−91.を挙げている (W. H. Childs, oP. cit., p. 44−5.). 13) この点に関して,会田教授も,米国連結会計の史的研究は,まず経験・慣行として 導入された典型例として困難な研究課題であると指摘されている(前掲稿,48頁)。 14) M. Moonitz, The Entity Theory of Consolidated Statements (American Account・ ing Association, 1951), p. 1.
イール社による連結財務諸表の作成・公表の動機ないし理由などを分析し,ま た,ディッキンソソによる連結財務諸表の必要性や問題点などの指摘について の考察を通じて連結会計導入思考を明らかにしていく。次に,このような連結 会計導入思考が,やがて英国的資産評価思考の導入によって,どのような形で 影響され,更には子会社株式の評価や連結会計思考においても,どのように変 遷・発展していくのかを明らかにしていきたいと思う。 皿 企業結合の社会・経済的背景 1 資本集中化と独占企業の出現 周知のように,米国における独占資本の形成は,1873一・9年の恐慌を契機に 始まったが,このような産業集申を促進した要因は,米国産業資本の急速な成 長とそれにともなう莫大な資本の集積であった。南北戦争(1861−4年)によ り異常な刺激を受けた北部や西部の産業は,戦後も目覚ましい工鉱業の発展を みた。1863年の連邦銀行法の制定によって,通貨・金融制度は整備され,1869 年の大陸横断鉄道の建設により,西部の開発は一段目促進され,近代工業化の ユの 一大要因となった。また,各産業部門での新しい生産技術の積極的な採用によ り,生産力増大にともなう経営規模の拡大化を招き,これに対応できる株式会 16) 社という新しい経営形態をとるようになった。 しかし,このような個別資本家による資本の集積は,株式会社形態によって 容易になったとはいえ,根本的には社会的富の蓄積程度に制限され,また,特 15) A. D. Chandler Jr., “The Rise of Business in the United States: a Historical Surveジin E. Goldtern, H. C. Morton&G. N. Ryland(eds.)The American Bztsiness Corporation(Cambridge, Mass=The MIT Press,1969), p.43.なお,連 邦銀行法の制定やユニオン・パシフィヅク鉄道およびナザン・パシフィック鉄道の設 立や経過に関する詳細については,小山賢一『アメリカ株式会社法形成史』 (商事法 務研究会 昭和56年)229−61頁を参照されたい。 16) このような近代工業出現の段階,すなわち莫大な資本蓄積を背景とする企業規模の 量的増大の過程は,一般に資本の集積(concentration)と呼ばれている(小原敬士 『アメリカ独占資本主義の形成』(岩波書店 昭和45年)16頁参照)、
連結会計導入思考とその発展 (1) 59 的な生産部門に固定する社会的資本部分が,商品生産者として相互に独立・対 17) 立する個別資本家間に分割されざるをえないという限界をもっていた。そこ で,このような方法によらず,資本の結合ないし吸収という新しい方法によっ て,資本の集積をヨリー層高度化しようとする資本集中化運動が起こったので 18) ある。 これは,1873年に始まるデフレーション恐慌期に,既にインフレーション過 程で急激に膨張した工業生産力と消費とのアンバランスの表面化を契機に,企 業聞の激烈な価値実現化競争として具体化された。やがて,それは,諸企業間 で価格,生産量,販売量,販売市場等に関する協定を結び,競争の制限ないし IS) 緩和を図るプール(pool)の出現となった。しかし,このプールは,各加盟企 業の独立を保証しながら,短期的な価格吊上政策を実施することが多かったの で,当時の米国民法上はよく違法とされて,充分な強制力をもちえず,また, 部外者の活動や加盟者自身の協定違反などにより,事実上,有効適切な政策を 20) 実行することができなかったのである。 そこで,市場支配の確立により,価格と利潤の確保を図るトラスト(trust) が,各産業部門で組織された。これは,トラスト協定に参加する企業が,その 17) 同上。 18)南北戦争以前でも,製造会社が拡大発展して,会社グルーープが統一的支配の下に入 って,産業結合が各音ll門にわたって一時試されたこともあったが,殆んど功を奏さな かったようである(V.S, Clark, HistoryげManufactures in the United States (New York: McGraw Hill Bool〈 Co., lnc,, 1929), Vol. ff, p・ 39・). !9) ジョンズ(E.Jones)によれば,プールの形態としては,(1>価格統制のための紳士 協定(gentlemen’s agreement),(2)投機プール(speculative pool),(3)生産協定プー ル(regulation of output pool),(4)販路協定プール(division of the field pool), (5)販売組合プール(selling agency),(6)特許プール(patent poo1)などヵミあったが, これらは,所詮,各個別企業の独立を確保したまま,その製品価格や販路の維持を図 る協定を結ぶ穏かな企業結合形態であった(E.Jones, The Trust Problem in the United States (New Yorl{: The Macmillan Company, 1922), pp. 6−18.). 20) この点に関するプールの発展とその欠陥についての評細な説明は,国弘員人『bラ スト,カルテル論』 (白山書房 昭和23年)85−9頁を参照されたい。
株式を受託者(trustees)に信託する代りに,その企業財産の評価額に見合う信 託証書(trUst certif量cates)を受取るという新しい資本集中化方式であった。各 企業の株式の信託を受けたにすぎない受託者は,これらの株式を合同勘定で管 理したため,各株主はトラスト協定によって株主権を喪失し,単に受託者の保 有する株式や財産に対する比例的持分(proportionate interest)を取得するだ けとなった。従って,受託者は,全信託証書の過半数を保有していたので,その 傘下会社の役員を自由に任命し,参加会社の経営を事実上支配することができ 21)たのである。このトラスト方式は,最初,1879年にロックフェラー(John. D. Rockefeller)によって考案され,1882年にスタンダード石油トラスト(Standard Oil Trust)の結成により一層強固な形態となった。この成功を範として,他 の産業部門でも多くのトラストが結成され,特に1884年以降に急激な普及をみ 22) るに至った。 しかし,このような産業独占運動は,多くの産業利潤の獲得を図る産業資本 家の政策であったため,必然的に農民,労働者,一般消費者などの経済的利益 に反するものであった。そこで,プールやトラストに反対する気運が高まり, Z3) やがて反トラスト運動の展開へと発展していった。1888年の大統領選挙では, 21) 小原敬士,前掲書,26頁。EJones, oP. cit., pp.19−20.このような受託者トラス トは,法的観点よりすれば,信託法を利用した法人格のない持株会社であって,プー ルでは法的強制力を欠く反面,上州にわたって活動する本来の持株会社の形成には, なお法体制の整備を必要とした。そこで,両者の中間形態として,信託が法人と同種 の機能を果すことを利用して,これが形成されたのである(小山賢一,前掲書,327 頁参照)。 22)E. Jones, op. cit., pp.30−3.例えば,棉実油トラスト(1884年),ナショナル亜麻 仁油トラスト(1884年),ウィスキートラスト(1887年5月),砂糖トラスト(1887年 8月),綱具トラスト(1887年),ナショナル鉛トラスト(1887年)などが続出した。 23)まず最初は,1867年に農家保護団体がウィスコンシンに設立され,西部各地にその 支部が組織されて,鉄道の高運賃と倉庫の高倉敷料に対する攻撃が開始され,小商工 業者も加わって,鉄道の国有化が要求されるに至った。そこで,1871年にイリノイ州 はグレンジャー法を制定して高料金を規制したので,他の州でもこれに倣って,アイ オワ,ミネソタ,ウィスコンシンが続いた。また,東部では1869年のマサチューセッ ツ州の鉄道委員会で,弱い勧告権限をもつ委員会方式が採用されるに至った(碧山賢 一.前掲書,318;頁)9
連結会計導入思考とその発展 (工) 61 全候補老が反トラスト綱領を掲げ,各州でもトラストを禁止ないし抑制する措 24) 置を論じ始めた。しかし,州法ではトラストの禁圧には不充分であったので, 連邦的な立法が要求されて,1887年に州際通商法(lnterstate Commerce Act) が制定され,1890年にはシャーマン反トラスト法(Sherman Anti−Trust Act) が成立したのである。前者は,不当かつ不公正な運賃と運賃プールを禁止し (ag 1条,第5条),あらゆる運賃の割戻しと個人的・地域的差別を禁止した (第2条,第3条)。また,全ての運賃を各駅に掲示し,州際通商委員会に届 出るものとし(第6条),同委員会は,運送業者の届出るべぎ財務,営業,運 ゐ 賃等に関する年次報告書の様式を定める権限を与えられた(第20条)。 後者は, 「不法な制限および独占に対して取引ならびに通商を保護するため の法律」であって,僅か8か条から成るものである。これは,各州間または外 国との取引もしくは通商を制限するあらゆる契約,トラストその他の形式によ る結合もしくは共謀を違法とし,当事者に軽罪の責任を負わせた(第1条)。 また,上記の取引もしくは通商のどの部分についても独占し,または独占を企 て,または独占するために他の者と結合もしくは共謀した者に軽罪の責任を負 26) わせた(第2条)。確かに,シャーマン法は,トラストの解消には一応の効果 24)まず最初の攻撃は,1887年のルイジアナ州のアメリカ棉実油トラストの解散判決に 始まり,1888年にはニュー・ヨーク州の製糖業トラストのノース・リヴァー製糖会社 の起訴,1890年にはオハイオ・スタンダーード石油やネブラスカ州の蒸虚業家蓄飼育業 トラストのネブラスカ蒸溜会社の起訴と進展:していった(大原敬士,前掲書,42頁参 照)。また,1889年にはカンサス州が一一般的な反トラスト州法を制定したので,これ に倣って,メイン,北斗ロライナ,テネシー.ミシガンも加わり,翌年には南ダコタ, ケンタッキー,ミシシッピーが続いた(小山賢一,前掲書,322頁参照)。 25)矢沢惇「アメリカにおける反トラスト法の形成」『法律時報』第202号 27頁参 照。和田英夫「州際通商委員会(LC・C.)の成長と展開」『北海道大学法学論集』第 1巻 57:頁参照。また,鉄道規制の動きについては,G. E. Roberts(ed.), Railroad Regugation(New York:American Chamber of Economics, Inc.,1921), P.!0,を参 照されたい。 26)小山賢一,前掲書.323頁。以上が実体規定であって,これを効果あらしめるため に,次の4っの訴訟手続が定められている。第1は刑事訴訟で,罰金,弾唄または両 者の併科(第1条,第2条),第2は衡平法における違法行為の差止命令(第4条),
62 をもったようにみえたが,それに代る持株会社という新しい資本集中の形態が 出現し,近代的トラストの発展となった。 2 シャーマン法と持株会社の出現 会社の権能は,設立準拠法によって制限されていたので,ペンシルバニア会 27) 社(Pennsylvania Co.)のような特許設立会社でなければ,一般に他の会社の 28) 株式を取得することは認められていなかった。ところが,1888年に,ニュー・ ジャージ州は個人と同じ方法で,かつ同じ権利で,株式を所有,保有かつ処分 する権利を会社に与えるように州法を改正し,この改正によって,1889年5月 にニュー・ジャージ会社法の特別改正が行なわれた。これらの改正により, 1875年のニュー・ジャージ法に準拠して設立された会社の取締役は,原料を所 有,採掘,製造もしくは生産する会社の株式あるいはその事業に必要なその他 の資産を購入し,また,その支払のために自己の株式を発行できる旨が規定さ 29) れた。そして,1893年には,これが一般的所有権にまで及ぶものとされ,どこ で設立された会社であっても,その株式を所有する権利を含むものと明文でも 30) って規定されたのである。 第3は損害賠償の請求訴訟(第7条),第4は物件の没収訴訟(第6条)に関する規 定が設けられている。なお,詳細については,矢沢惇,前掲稿『法律時報』第203号 74一・5頁および国弘員人『トラスト禁止法研究』(同文館 昭和22年)40一・9頁を参 照されたい。 27)1811年3月22日に二z.・一・ヨーク州は世界最初の準則制株式会社法を制定し,株式 会社設立自由への道を開拓したが,それ以前acは,会社の設立には全て議会の認可を 要したのである。従って,特許設立会社は,銀行,保険,交通,水道などの業種が多 かったが,次第に工鉱業も増えてきたため,特許制から準則制へと移行したのである (小山賢一,前掲書,113−8頁参照)。ペンシルヴァニア会社は,事実上,米国最:初 の大規模な持株会社で,他社の社債や株式の売買ができる特許を有していた。従っ て,1879年までに,ペンシルヴァニア鉄道と関連のある鉄道路線に対して過半数の 持分を有し,資産の半分以上がそれらの証券であった(L.H. Haney, BzaStne∬Organ・ tzation and Conzbination (New York: The Macmillan Company, rev. ed., 1916), p. 220,). 28) Jones, op. cit., p. 29. 29) Jbid., p. 30. 30) R. G. Walker, Consolidated Statements (New York: Arno Press lnc , 1978), p. 124.
連結会計導入思考とその発展 (工) 63 そこで,反トラスト法で違法とされた信託トラストは,資産保有会社(prop・ erty holding company),証券保有会社(security holding company)あるい は持株会社(operating or pure holding company)という新しい資本集中形態 である近代的トラスト(modern trust)へと発展していったのである。資産保 有会社とは,(!)企業合同,(2)資産の売却,(3)資産と株式の交換などの方法によ って,既存もしくは新設の一会社が他の諸会社の資産を獲得する資本集中形態 う である。これに対して,持株会社とは,ある会社が他の会社のグループの株式 の多数を保有することにより,各社の独立性を維持したままで,諸会社の取締 役を自由に任命して,それらの会社経営を事実上支配する企業結合の方式であ る。従って,この方法は,受託者トラストによる企業結合方式とは,事実上殆 んど異ならなかった。換言すれば,信託証書が株式になり,受託者の関係が所 お 有者の関係になり,そして受託者会が取締役会に置換されただけであった。し かし,当時,受託老トラストは合名会社(partnership)であるという考え方が 支配的であったので,法的観点からすれば,合名会社が株式会社に組織変更さ れたことにもなる。 そこで,ニュー・ジャージ州は,会社設立のメッカとなって,会社設立登記 料その他の税収を独占することになったので,他の諸州でも相次いで,その会 社法を改正して,持株会社の設立を許可するに至った。このような事情から, 各州聞で激しい会社設立の誘致競争が始まったのであるが,その情況は次の第 1表からも明らかであろう。 31)小原敬士,前掲書,52頁。 32) Jones, oP. cit., p. 28. 33)小山賢一,前掲書,333頁。 34) W, Z. Ripley, Main Street and Wall Street (Boston: Little, Brown and Company, 1929), pp. 16−37. 35)ヘイニーによれば,1890年代以降,デラウェア,メイン,西ヴァージニア,ニュー・ ヨーク.その他14州がニュー・ジャージ州に従ったと報告されている(耳aney, oρ. eit., p. 220・)o
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第1表州別会社設立状況
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1898年
1899年
!900年
1901年
企業 結 合 数 ユ00万ドル以上の資本額 86 20 87 42 !00万ドル以上の拠出資本 46!902年
巨9・3年 t一..r「一 63 18総 資 本 額
(株式および社債) $ 1, 4!4, 293, OOO 708, 600, OOO 2, 243, 995, OOO 831, 415, OOO 出所:R.G. Walker, oP. c・t., p.128より作成。 1900年以前には最も重要な企業結合4!件のうち,持株会社によるものは僅か の 6件にすぎなかったが,1901−3年の主要な企業結合29件のうち,持株会社の 41) 設立によるものは16件を下らなかったと報告されている。この時期で最大の企 業結合は,勿論,1901年の持株会社によるuS.スティール会社の設立であ った。当社は,最初の年次報告書から,連結財務諸表を提示していた。ゼネラ ル・エレクトリック社の1893年年次報告書も,連結貸借対照表と連結損益計算 書を掲載していたし,その他の会社もヨリ古くからこれらを作成していた例は 39) Jones, oP. cit., p. 39−40. 40)Bonbright and Means, op. cit., p.69.この中で最も重要なものは,勿論.かつて 受託者トラストであったニュー・ヨーク・スタンダード石油会社であったが,当社の 持株会社への改組が,他社を持株会社へ走らせた主な要因であったといわれている (lbid・)0 41) /bid,, p. 70.66 あるので,U. S。スティール社は,決して連結財務諸表を作成した最初の会社 コ コ コ コ るの ではなかったが,これを公表した最初の会社であったといえるであろう。それ は,比類なき莫大な財務情報を公開し,その公開政策が,その後の会社財務報 告の発展に多大な影響をもたらした最初の大会社であったからである。 皿 1900年前後の公開規則と会計実務 1 会社の公開規則と投資家保護規定の不備 (1)投資家保護規定の不備 英国では,1844年に会社法(Joint Stock Companies Act of 1844)が制定 されたが,この法令のうちいくつかは,投資家に対する財務公開の最低基準を 定め,財務報告書の第三者による監査を要求している。また,会社法の一環と して制定された1890年の取締役責任法(Directors Liability Act)は,ある状況 下における取締役に誤った財務諸表で見込みが違い,保証された他の書類で損 害を蒙った人々に対する補償義務を負わせた。こうして,英国では,1900年ま でに投資家にとって信頼できる財務情報の公開が,法的義務として強制されて 43) いた。 これに対して,米国では,一般に最も重要な保護規定の導入として,1911年 のカンサス州の最初の青空法(blue−sky law不正証券販売取締法)の導入が の よく取上げられるが,この時期までに株式会社は既に米国経済において最も支 配的な役割を演じていた。 このような会社報告や証券規制に関する米国の投資家保護体制の遅れは,.次 あ の2つの要因によるものと考えられる。その1つは,英国では財務活動が一つ 42) Walker, oP. cit., p, 129. 43) David F. Hawkins, “The Development of Modern Financial Reporting Practices among American Manufacturing Corporations,” The Business History Review, (Vol. 37, No 3, 1963), p. 137, footnote 7. 44)Walker, op. cit., p.129.これに対して,同じ年に株主保護を目的とした監査役規 定を設けた最初の州法である!911年のノース・カロライナ法を取上げられる見解もあ る(大矢知浩司『会計監査』 (中央経済社 昭和46年目18頁)。 45) Walker, op. cit., p. !30−1.
連結会計導入思考とその発展 (工) 67 の主要な市場に集中していて,会社も全国的な法律によって規制されていたの に対して,米国では財務活動や法的規制が,もっと分散化し多様化していたこ とによるものである。つまり,当時のニュー・ヨークは,確かに米国の主要な金 る 融市場になってはいたが,まだ多数の匹適する経済の中心地が存在していた。 更に,各州では,それぞれの会社法を制定していたが,その多くは,既述のよ うに,会社の行動を規制するよりもむしろ会社設立による州の登記料収入の増 大を図るため,企業誘致に腐心していたのである。その2は,当時の主たる投 資が英国にみられるような公開規定ないし保護規定を必要とするような:もので はな:かったことによるものである。1880年代における主たる投資形態は,鉄道 47) 会社の社債であったが,当時,鉄道社債は相当安全な投資であると思われてい た。従って,社債保有者は,普通株式の保有者ほど財務公開に関心がなかった し,その公開要求を主張する必要もなかったのであろう。更に,鉄道業や公益 事業は,その料金決定活動について政府の規制を受けていたが,その政府の規 制機関は,これらの会社の会計報告実務を取締ってい牟。そこで,このような 規制方法があったために,州会社法は,19世紀末に莫大な大衆投資の対象とな った産業の会社活動にも,殆んど関与しなかったのでぱないかと思われる。 (2)州会社法の公開規則 若干の州では,会社に定期的な報告書の届出を要求していたが,これの公開 46)!850年代には,ボストンやフィラデルフィアにも,ニュー・ヨークに匹敵する大き な証券取引所があった(Sobel, op. cit., pp.52−3)。従って,ボストンは産業証券の 故郷(early home of industrial securities)とも呼ばれている(T. R. Navin and M, V. Sears, “The Rise of a Market for lndustrial Securities, 1887−1902,” Business Histor二y Reviezpt, June 1955, PP.105−38.)。 47)テイラーによれば,米国の鉄道は,実際には全くの無資本から出発し,建設資金は 全て社債に依存していたといわれている(W.G. L Taylor,“Promotion befQre the Trusts,”Journag of 1)oJitical Economy,1904, p.387.)。しかし.カーシュマンによれ ば,1855年までには合衆国における全鉄道資本の41%以上は担保付社債であったが, 1899年までには社債と株式はほぼ同額になった。しかし,その後は鉄道株の価格下落 や額面株の割引発行禁止規定などにより,新規の建設資金としては,むしろ社債の発 行が多くなったと述べられている(J.E. Kirshman, Prineiples of Investment(Chi. cago: A. W. Shaw Company, 1924), pp. 435−9.).
68 まで要求した州は殆んどなかった。また,当時の文献では,公開を奨めるより 48) も,会社活動に最も適した州法規の説明に重点をおいていたようである。1905 年以前に制定された自由な会社法のうち,ごく僅かなものが,ある種の財政状 態に関する報告書の作成と届出を要求していたにすぎない。その主たる要求 は,取締役の氏名と住所,発行株式の明細,会社の本店所在地などの表示であ 49) つた。 もう少し具体的にみてみると,マサチューセッツ州法は,年次報告書に会社 の資産・負債表を含めることまで要求していたが,この内容を定めた規則を備 えてはいなかった。次に,ニュ 一一・ヨーク州法は,資産保有率と配当率に基づ いてフランチャイズ税(franchise tax)を徴収していたので,これに関する財務 情報の公開を要求していたにすぎない。また,デラウェア州やコロンビア地区 でも,資本金や資産投資額を要求していた程度であって,西ヴァージニア州に 至っては,10,000エーカーを超える場合には,州内で保有している土地のエー カー数と監査人の要求するような諸事実を公開することを求めていたにすぎな 50) い。しかし,南ダコタ州法は,授権資本,払込資本,配当明細表,借入金明細 48)W.C. Clephane,7■he Organz2ation and Management o/Business Corporations (St. Paul, Minn. West Publishing Co., 1905), ch. 1 and ch. !, para. 17. 4g) Frank E. Horack, The Organization and Control of lndustrial Corporations (Philadelphia: C. F. Taylor, 1903), pp. 79−122. なお,この点に関して,株式会社の報告実務を規制する各州の法律規定に関するホ ラックの研究をまとめて示せば,以下のようになる(加藤盛弘「連邦証券法制定以前 のアメリカの会計規制」「同志社商学』29巻1号(1977年8月)72頁参照)。 ㈲ 州機関への報告書の届出を求める州……27州 (a)詳細な報告書(資産,負債の詳細)を求める州……16州 (b)会社の状態la関する一般的な報告書を求める州……5州 (c)簡単な報告書(取締役の氏名,住所等)を求める州……6州 (B)株主への報告書の提出を求める州……!9州 (a)株主への定期的報告書を求める州……9州 (b)少数株主の要求に応じて報告書を求める州……7州 (c)(a)と(b)の両者を求める州……3州 50) Walker op, cit., p. 13!−2.
連結会計導入思考とその発展 (工) 69 表および純利益額を示した年次報告書の公表を要求していたが,このように明 らわ 確に利益の公開を要求していたのは,この州法だけであった。 他の諸州では,詳細な公開規則はなく,ただ,各州の一般的な規定と同じ く,虚偽の報告書を公表した取締役に対して軽罰が課せられているにすぎなか った。しかし,この規定は,株式との交換による取得資産または提供用役の価 値決定権を取締役に委ねている他の規定があったために,事実一ヒ,効力はなか ら つたのである。従って,これらの規定により,むしろ財務諸表に架空数値の計 上を是認することとなったのである。このような初期の会社法は,規制法とい うより授権法であったため,会社の財務公開を強制ないし指導する規定を殆ん ど備えず,株式会社の設立,課税,運営等に関する規則を定めているにすぎな かった。 (3)証券取引所の公開規則 既述のように,鉄道社債は証券取引所の主要取引の座を占め,大規模な有名 会社で,安全な投資と考えられていたが,産業会社は小規模で無名の不安定な らヨ ものと考えられていた。ところが,1880年中のトラストの発展により,信託証 書は魅力あるものとなり,1890年代初頭には産業会社による優先株式の発行に 54) より,一般産業会社も,ますます注目を浴びることとなった。1869年に,ニュ ー・ヨーク証券取引所の株式上場委員会(CQmmittee on Stock List)は,会 社に一度上場されたら,どのような形式にせよ年次報告書を公表する同意を取 りつける方針を採用した。しかし,殆んどの会社がこの規定を守らず,最小限 の報告規定を守る実質的な約束を取りつけたのは,1897年のカンサス・シティ ー・ Kス会社(Kansas City Gas Company)の上場契約が最初であったといわ 51) Jbid., p. !33. Jr2) Jbid., p. 132−3. rJ3) Navin and Sears, oP. sit., p. 106. 54)rbid., pp.116−7.1890−3年の間には,23の産業会社が投資目的の優先株式を発 行したが,その過半数はニュー・ヨーク証券取引所に上場され,よく普通株式と同時 に上場されたと報告されている(lbid., pp.1!7,!19.)。これが,鉄道以外の株式保有 の普及化の始まりであった(Walker, o?.αちp.134.)。
70 らの れている。 1900年以前には,取引所は,その報告規定を余り会社に強制することなく, 1885年に非上場部門(Unlisted Department)を創った。これは,発行会社に対 して殆んど制約がない場外取引の会社を把握するためで,非上場部門に示され た会社(主に製造業)は,発行に関する財務情報を取引所に提出することが要 求されなかった。しかし,非上場株式は,相場表の上では星宿で区別された が,正規に上場された株式と同様に取引された。そこで,多数の会社は,増資 を通じて,そこに上場され,その上場による売手の利益を獲得しようと図った ものもあった。例えば,1890年には,鉱業を除く産業会社で,財務雑誌にこの ような相場が掲載されていたのは!0社足らずであったが,1893年までtlc e#・30社 57) 以上にもなり,不況時の4年間には更に170社も新規に加わったのである。 このように,ニュー・ヨーク証券取引所は,企業に財務情報を公開させる努 力をしたが,詳細な公式の公開規則がなく,鉄道債が取引の中心であったため, 詳細な財務情報の公開を強制する理由もなかった。更に,証券取引所は,第 2,第3の株式市場との競争に対してその地位を維持すること,また,株式の 空売りやその他の不正操作を排除することに懸命であったため,財務公開の規 制には,余り積極的ではなかったとみられる。 2 会社の非公開実務と資産の過大評価 1900年頃まで,大衆所有の製造会社が株主に提供した財務情報は,全く不十 分であったが,その僅かな情報も会社の観点から修正されたり,怠慢によって 58) あまり信頼のできるものではなかった。更に,ウェスティングハウス電気製造 会社(Westinghouse Electric and Manufacturing Company)は,1897−1905 年の間に,報告書の公表も年次株主総会の開催も行わなかった。また,アメリ 55) Birl E. Shultz, Stock Exchange Procedure (New York: Harper and Brothers, Publishers, 1936), p・ 17. 56) Hawkins, oP. cit,, p. 150, 57) Navin and Sears, oP. cit., p. 127. 58) D. F. Hawkins, oP. cit,, p. 135, 59) Norman L, McLaren, Annual Re?orts to Stockholders (New york, 1947), p. 5,
連結会計導入思考とその発展 (1) 71 力砂糖精製会社(American Sugar Refining Company)のような若干の製造会 社は,非常な秘密主義をとったため,20世紀に入っても,株主は会社の資本や の配当の記録以外に利用できる財務情報がなかったほどである。そこで,1900年 頃までは,株主は,製造会社の株式資本に関する情報をハント商業誌(Hunt’s Merchant’s Magazine)や商業金融年報(Commercial and Financial Chronicle) といった標準的な財務資料から得ていたが,これらの簡単な貸借対照表が役立 つことは少なく,売上高や利益額が公表されることは殆んどなかったのであ る。 それでは,なぜ会社は,自社の財政状態についてこのような非常な秘密主義 をとったのであろうか。その主たる理由としては,(1)所有経営者的態度の継 承,(2)州法や大衆の無関心,・(3,)証券割当の方法,(4)会計基準の欠如などを挙げ 62) ることができるであろう。以下,この点について,もう少し詳細に検討してみ ることにしようD その第1の理由としては,当時はまだ公開の習慣がなく,個人事業家,協同 経営者,初代同族所有者に対する情報公開の一般的な要求はなく,また,経営 者も大衆にこのような権利はないと考えていた。更に,経営者は財務情報の公 開により無意識に競争者を助けることを恐れ,買手危険負担の原則(doctrine お of caveat emptor)が証券にも応用できると考えていた。一般に,大規模産業 会社が形成され始めた1880年代までは,大衆が商取引に関する自由放任経済の 単純な原理に同意して,慣習法の認めていた買手危険負担の考え方を,商取引 但し,190ユ年2月20日に当社の取締役会は,特別株主総会に2頁の報告書を提出した が,その中には財務諸表はなく,1898−!900年の売上高,総配当額,利息および減債 基金の支払が報告されたにすぎない。 60)Hawkins, op. o∼ちP・135. 61) ジューイングによれば,概して雑誌の記事は,単に会社の公報部を通じて発表され た事実や信用できない情報や風聞から成っていたが,商業金融年報は最も有益な雑誌 で,その正確さは目立っていたとその信頼性について述べている(Arthur S. Dewing, Corporate Promotions and Reorganixation (Cambridge, 1914), p. 12.). 62)一63)Hawkins, op・o‘ちP・141,
72 64) にも認めていたのである。 その第2の理由として,州会社法は,経営者やその代理人の非公開の考え方 を反映して,州当局によって要求される報告書が,一般に州と会社の問の機密 書類(confidential statements)と考えられ,従って,それは大衆が調査のため に利用することはできないとされた。また,株主に提出される報告書は,約半 数の州で要求されたが,一般に,これらの州は,単に年次報告書が株主に与え られることを定めただけで,報告書の内容を指定したり,株主総会に出席でき なかった株主に年次報告書の郵送を規定した条項は殆んどみうれなかった。既 述のように,詳細な情報公開を課せば,優良企業の誘致競争上,不利になるも のと考えられたからである。 その3としては,新しい産業証券を市場に売出す一般的な方法が,より広汎 な財務公開を経営者に強要しなかったのである。つまり,当時,投資家は,主 に発起人または証券を売出す投資銀行家を信頼して証券を買入れていた。特 に,投資銀行家は,証券の事前調査を行い,投資対象となりうる証券のみを提 供し,実際にその証券を保証すると信じられていた。従って,証券の最初の問 題は,発行会社の財政状態ではなくて,むしろ投資銀行家の信頼性であったと う いわれている。 その4としては,米国における強力な会計専門家や会計理論の確立された実 体の欠如により,財務報告書が不適正なものになっていた。つまり,会社が異 なれば,同じ取引の測定や報告に異なった会計概念が使用された。従って,会 計実務の標準化が行われず,代替的会計実務の使用によって,多くの混乱が招 来された。このような会計の恣意性は,会計理論に対して余り注意が払われな 67) かったことによるものである。 その5としては,会計士の職能や監査報告書が一一eeに誤解されていたことで 64) lbi;d., p. 143. 65) lbid., p. 142−3 66) Jbid., p. 143−4. 67) lbid., p. 144.,
連結会計導入思考とその発展 (1) 73 ある。つまり,会社がその帳簿の調査を独立監査人に依頼することは,しぼし ば大衆によって,虚偽,不正,損失,更には報告会社の財務上の健全性に疑い のある徴候であると受けとられていた。従って,1900年頃でさえ,多くの企業 家は,まだ会計士に援助を求めることを嫌い,会計士による多くの調査が,し ラ ぱしば夜間と日曜日に秘密に行われるほどであった。 ところが1890年代に入るや,深刻な不況により,特に鉄道会社は,財政的危 機に見舞われ,破産,更生などの事態さえ招き,これを契機に,英国から渡 来した会計士らによる発行会社や更生会社の会計検査や監査が要求されるよう になったのである。従って,このような情況では,会計士は企業の弁済能力 (SQIvency)の表示には相当な関心を払い,流動性の表示には極端に留意した 70) が,資産の過大評価された財務報告書には黙認の態度をとったようである。米 国鉄道業の初期における貸借対照表の過大表示は,明らかに普通のことであ り,株式発行は全く投機的なものと考えられ,その程度まで過大資本化された と公言されている。 ’この傾向は,トラスト運動によって一層拍車がかけられ,1880年代には信託 証書の額面総額が構成会社の額面総額を優に超過していた。メイによれば,無 形資産を含む取得資産の合理的な価額まで,優先株式や社債を発行し,将来を アき 見越して普通株式を発行するのが習慣であったようである。つまり,州会社法 では,現金ないし財産(あるいは若干の州法では用役)をもって,株式の発行が できるという規定を備えていたため,このような資産の過大評価が可能であっ たのである。従って,新設会社では,取得のために発行した株式の額面額で財 68) lbid,, p, 144−5. 69) P. Grady (ed.), Memoirs and Accounting Thought of George O, May (New York: Ronald Press Cornpany, 1962), p. 20. 70) Walker, oP, cit,, p. 136. 71) Taylor, op. cit., p. 387. 72) Navin and Sears, oP. czt, p. 114. P. Grady (ed.), op. cit., P. 22. 73) P. Grady (ed.), o,b. eit., p. 22.
74 産を評価し,発起人らの提供用役をも株式に払込みうる状況では,設立費の資 産化をもたらし,更に,外観上の財務的強化を図るために,これを他の資産と 合体することができたのである。 既述のように,当時の州法では,株式発行の対価として取得した財産(ない し用役)の評価決定権を取締役に明確に付与し,他の州法では,取締役の評価 74)が詐欺のない限り,唯一の容認できるものと規定してさえいた。従って,この ような情況下では,会社の財務報告書の内容は,当時の発起人らの利害関係や 75) 願望などによって,大きく左右されていたといえるのである。 (以下次号) 74)当時でも,コロムビア地区だけは,株式がその実価で現金ないし財産をもって発行 されることを要求していた(Clephane, op. cit., pp.!3−27.)。 75) カイスターによれば,会社の帳簿を開始する場合に,鉱山,工場,フランチャイ ズ,蒸気機関,機械,土地などの財産に名目的価額(nominal values)を付すること は,全く合法的であると主張されている(D.A. Keister, CorPoration Accounting and Auditing (Cleveland: The Burrows Bros. Company, !2th ed., 1907), pp. 63, 70,) ので,当時の会社法では資産の過大評価は勿論,過少評価も実務慣行としては認めら れていたようである,