• 検索結果がありません。

岐阜県加茂郡七宗町・龍門寺の歴史

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "岐阜県加茂郡七宗町・龍門寺の歴史"

Copied!
32
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

岐阜県加茂郡七宗町・龍門寺の歴史

目   次 一、長良での創建と寺領 二、歴代各説・福光郷時代 三、歴代各説・神渕郷時代 四、妙心寺派時代

1   龍 門 寺 の 研 究 史   戦 後 の 龍 門 寺 研 究 史 と し て は、 昭 和 五 十 年 に 東 大 史 料 編 纂 所 の 玉 村 竹 二 氏 が、 『 金 沢 文 庫 研 究 紀 要 』 十 二 に、 「 中 世 前 期 の 美 濃 国 に 於 け る 禅 宗 の 発 展 」 と い う 論 考 を 書 か れ、 そ の 中 で 龍 門 寺 も 取 り 上 げ、 詳 述 さ れ たことが端緒であろう。その中で、神渕山龍門寺は、古くは 福 ふく 光 みつ 山 ざん と称したとされた。これを受けて、昭和 五十一年十二月の『岐阜史学』 67号で、福井金弘氏が「神渕山龍門寺等疑考」を書き、岐阜市長良に在った 福光山龍門寺が神渕郷へ移り 神 か 渕 ぶち 山 さん 龍 りよ 門 うも 寺 んじ となったことを明らかにされた。

(2)

  私 が 龍 門 寺 に 興 味 を 抱 い た の は、 福 井 氏 と 同 じ 頃 で、 昭 和 五 十 四 年 十 月 に、 『 美 文 会 報 ( 1) 』 に「 龍 門 寺 小 史」を書いたが、前掲福井金弘氏論考を玉村説と混同するという誤りを犯したので、ここに深くお詫び申し 上げる次第である。当初の龍門寺は長良に在ったとする説を打ち出したのは、福井氏であり、玉村氏は山号 の変更のみに触れておられる。   その後平成五年にはこれらを集大成する形で『七宗町史』が書かれ、二十三頁に至って詳述されているの で参照願いたい。このように、中世龍門寺史についてはほとんど書き尽されており、今回改めて取り上げる ことは少ないと思われる。それで、今回はこれら先学の業績を再確認しつつ、少ないながらも今までに把握 した新事実なども織り込みつつ、述べてゆきたいと思う。 2   長 良 龍 門 寺 の 位 置   龍門寺が長良の地に在ったことは福光山龍門寺と称していたことからわかる。しかしその具体的な場所と なると、甚だあいまいであることがわかった。平成二十七年八月に、私は思い切って現地を訪れてみた。と ころが戦後の耕地整理によって、旧区画割りや旧道は全く姿を消して、基盤目状の新しい区画道路に替って いた。さらに宅地化に伴う土地造成も在って、旧状を推定することは相当難しいと判断された。   それで家に帰って、家蔵で昭和十四年作成刊行の『岐阜市長良土地宝典』を見ることにした。何とこれに は字龍門寺の名が記されていて、初めから宝典を見れば良かったとも思った。しかし、現地調査のおかげで、 地元の人の声が聞きとれて、旧六反田や 堀 ほり 田 た の位置がわかったのは、宝典と現在の地図を重ねて見ることが 出来たおかげであった。やはり時代は変わろうと、一度は現地に立って見る必要性を強く感じた次第である。

(3)

  さて、そうした宝典と現在の地形図と合わせてみると、六社神社とそのすぐ西側の真福寺のあたりが龍門 寺跡と重なると見ても良いことが判明した。   ただ、真福寺には奈良時代から寺があったとされ、その十二坊跡を龍門寺と見るのには、何か根拠がほし い。たとえば宝篋印塔が五・六基分残るとかである。その確認のために翌日も車を走らせて、真福寺墓地を 拝見してみたが、宝篋印塔は見当らず、二~三基分の五輪塔が無縁塔群の中に見られたのみであった。五輪 塔は、一帯の山麓に火葬墓として造立されることが多かったので、禅寺が在ったという根拠になりにくい。 つまり、龍門寺跡はもう少しズレているような気がするということである。第二回目の調査の折、真福寺の 手 前 ( 南 ) 二 ~ 三 百 メ ー ト ル の 所 に 浄 土 真 宗 真 龍 寺 が あ っ た の で 飛 び 込 み で お 伺 い し て み た。 御 住 職 は 不 在 で、午後電話をいただいた。その話の中で真福寺の西側の付属墓地の隣に村の大きな共同墓地が在ると言わ れた。それこそ龍門寺跡に近いのではないかと思った。   さ て、 真 福 寺 は 百 ど 々 ど ヶ 峰 南 山 麓 に あ り、 南 方 の 環 状 線 か ら 分 か れ て 北 進 し、 幅 十 m ほ ど の 市 道 を 行 く と 徐々に登り坂となる。真龍寺の右手前西側の日吉神社の一角あたり一帯に龍門寺古墳群が在ったという。   昭和六十一年版『岐阜市の文化財』によると、市指定の「龍門寺古墳出土品」がみえる。出土品の三角縁 獣文帯四神四獣鏡などから四世紀後半の築造とされている。これらの調査記録は岐阜大学図書館にあるとい う ( 真 龍 寺 御 住 職 に よ る ) 。 そ の 龍 門 寺 古 墳 の 位 置 に つ い て は 甚 だ あ い ま い で、 町 史・ 福 井 論 文・ 岐 阜 市 の 文 化財など、正確に示されていないが、盗掘などを避ける為であろうか。地元の人々に聞くと、真龍寺の南方 百米ほどの西側、アパート付近だと言われる。   さ て、 真 福 寺 あ た り に 中 世 の 龍 門 寺 跡 が 重 な る と す る と、 真 福 寺 の 由 緒 が 問 題 に な る。 文 久 三 年 ( 一 八 六

(4)

三 ) に、 当 時 真 福 寺 の 本 寺 で あ っ た 崇 福 寺 か ら 役 所 へ 出 し た「 真 福 寺 興 隆 一 統 記 」 に よ れ ば、 真 福 寺 村 の 観 音堂は、文武天皇の大宝年中に守屋大臣の次男真福が建立した寺で、七堂伽藍を全備していた。天台宗で、 美濃守 頼 より 国 くに 公が寺領を寄進し、普光山真福寺と称してきた。子院に十二坊があったが、しだいに衰微し、焼 失 も し た。 寛 文 六 年 ( 一 六 六 六 ) の 秋 に、 代 官 今 村 次 郎 兵 衛 が 御 廻 村 の 時 以 来、 堂 守 を 置 い て き た。 境 内 四 反 歩 と 松 林 が 昔 か ら 除 地 ( 免 税 地 ) で、 ほ か に 堂 付 き の 田 畑 一 反 四 畝 八 歩 は 年 貢 地 で あ る。 図 面 の と お り の 境内であり、寛文以前のとおり普光山真福寺と称したく願い出るものであるとしている (崇福寺文書) 。   要するに、中世から近世を通して、せいぜい小堂が在るのみの寺跡であったことになる。中世ここに龍門 寺が在ったとしても矛盾は無いが、寛文八年 (一六六八) にはこのお堂に鰐口が架けられて、    寛文八年、岡本惣右衛門家次、岐阜市長良真福寺鰐口 と の 刻 銘 が あ る と、 昭 和 十 年 刊 の『 岡 本 家 歴 代 記 』 ( 伊 藤 信 著 ) に あ る の で、 少 な く と も 寛 文 六 年 以 降 は 真 福 寺と呼ばれたと言えよう。   た だ、 大 正 四 年 の『 稲 葉 郡 志 』 ( 一 三 〇 頁 ) で は、 真 福 寺 十 二 坊 な ど の「 所 伝 は よ し 信 ず 事 に 足 ら ず と す る も、真福寺が大刹なりしは想像し得るし、然るに現今当寺付近に於ては古代を偲ぶ古瓦等は発見せられず、 唯大門に亭々として老杉の曽比ゆるを見るのみ」と述べている。もしも中世に諸山としての禅寺の大寺が在 ったとしても、ほとんどすべてカヤ葺きで瓦の使用はほとんど無く、廃寺ともなれば、礎石以外何も残らず、 『郡志』の考察にも合致することになるだろう。

(5)

3   長 良 の 兜 卒 寺 に つ い て   龍 門 寺 の 長 良 時 代 に、 そ の 近 く に 在 っ た 兜 と 卒 そつ 寺 を 龍 門 寺 に 合 併 し た と い う ( 後 述) ( 2) 。 そ の 兜 卒 寺 に つ い て見てみよう。今枝愛真の『中世禅宗史の研究』には兜卒寺の名が見えず、諸山以上の官寺になった寺では な い ら し い。 さ ら に、 兜 卒 寺 な る 寺 が ど こ に 在 っ た の か 定 か で な い。 玉 村 竹 二 氏 は 玉 村 稿 の 中 で、 「 美 濃 に あると思える兜卒寺」と書いておられる。夢窓疎石の法弟で、美濃大興寺開山の龍湫周澤の「随得集」によ れ ば、 兜 卒 寺 は 美 濃 の 龍 門 寺 の 近 く に あ り、 太 清 宗 渭 が 両 寺 を 合 併 し て、 龍 門 新 寺 と し た と い う 記 述 が あ る ( 3) 。 中 巌 円 月 の「 東 海 一 漚 外 集 」 に よ れ ば、 中 巌 円 月 が 兜 卒 寺 の 狭 い 一 房 で、 大 風 雨 の 一 夜 を 過 ご し た が、 夜 中 に 目 醒 め て 一 詩 を 作 っ た と い う ( 3) 。 太 清 と 中 巌 は 交 流 が あ り、 太 清 が 相 模 の 東 勝 寺 に 住 山 し た 時、 江 湖 疏 を 中 巌 が 作 っ て い る ( 東 海 一 漚 集 ) 。 そ し て、 「 東 海 一 漚 外 集 」 五 に 見 え る も の で、 中 巌 自 ら が 作 っ た と い う 自 暦 譜 ( 年 譜 ) に よ れ ば、 貞 和 五 年 ( 一 三 四 九 ) の 己 丑 正 月、 中 巌 が 兜 卒 寺 に 在 っ た と さ れ る。 こ の 時 中巌は関東の利根へ向う途中と思われ、太清をたづねて兜卒寺に泊まったのであろう。   さて、兜卒寺は兜卒天すなわち弥勒菩薩を本尊に祀っていたと思う。とすれば、弥勒信仰が盛んであった 平安時代から続く寺ではなかったか。そうすると、大宝年中に真福が建てた寺が兜卒寺という名で存続して いたのかもしれない。そして至近の所に土岐氏が建てた龍門寺があり、同寺との合併に至ったという図式は 考えられる。 4   龍 門 寺 の 創 建   龍門寺は、岐阜県中部の飛騨川支流・ 神 か 渕 ぶち 川 がわ の上流にある妙心寺派の禅寺で、山号も地名を取って神渕山

(6)

と称している。寺伝によれば、開創は古く南北朝時代にさかのぼり、一山一寧国師が土岐頼貞の招きによっ て開いたという。    一山一寧 雪村友梅     雲渓支山         太清宗渭 ところが、揖斐川町に大興寺を開いた龍湫周澤の詩文集「随得集」によると、一山国師の法孫に当る太清宗 渭が兜卒寺に住持していて、その近くに在った龍門寺の住持にもなったので、兜卒寺を合併して龍門一寺に し た と い う。 光 厳 寺 ( 詳 細 不 明 で あ る が、 諸 山 に 列 し た 官 寺 ) も そ の 近 く に 在 っ た ら し い。 「 随 得 集 」 に あ り と して、次の一文が玉村稿にある。      寄渭書記并序    太清渭公記室、旧住兜卒、近以龍門合作一刹、光厳住持、宗説倶通、主伴勝会、不任欣悦、謾作山偈、 以致慶賛云、    両山合作一禅宮、小大旧新無異同、兜卒向来慈氏仏、龍門今日主人翁、稍伸医国一隻手、已露在水千尺 躬、   興大雲兮施法雨、文章載道老黄龍、   こ れ は、 「 五 山 文 学 全 集 」 二 に も 見 え て い る。 併 合 の 法 会 に は、 近 く の 光 巌 寺 の 住 持 も 参 じ て 祝 っ た ら し い。   と こ ろ で、 龍 門 寺 の 開 山 は 一 山 で あ る が、 「 一 山 国 師 行 記 」 に 一 山 の 龍 門 寺 開 創 な ど の こ と は 全 く 見 え ず、 一山は勧請開山であるかもしれないと玉村氏は述べている。むしろ、兜卒寺・龍門寺を合わせて新龍門寺と した太清宗渭を実質開山に充てるべきであろう。このことは町史・福井稿ともに述べているところである。

(7)

5   檀 越 ・ 土 岐 氏   龍門寺の開山が一山一寧としても、また太清宗渭であったとしても、龍門寺を官寺である諸山に列せさせ たのは、時に美濃で実力を有していた土岐氏であったことは疑いない。   現 在 の 龍 門 寺 で は、 開 山 を 一 山、 開 基 ( 檀 越 ) を 土 岐 頼 貞 と し て い る。 し か し、 学 問 的 に 見 た 場 合、 ど う してもしっくりしない。頼貞は足利尊氏のもとで美濃守護をつとめたが、長良の地もしくは神渕に勢力を布 植していたかどうかとなると、否定的に見ざるを得ない。頼貞の自領はいまだ土岐郡内を主体にしていたと 考えられるからである。特に長良の地に力を持つのは頼貞よりも少し降った時であろう。   そ う し た 目 で 土 岐 系 図 を 見 て み る と、 頼 貞 の 嫡 男 に 土 岐 小 太 郎 頼 直 が あ り、 「 福 光 」 と 号 し た と あ る。 尊 卑 分 脉 系 図 で は、 小 太 郎 か ら 左 衛 門 蔵 人 や 蔵 人 に 進 み、 従 五 位 下 に 叙 さ れ た と い う。 「 大 乗 院 日 記 目 録 」 の 元 享 四 年 ( 一 三 二 四 ) 九 月 十 九 日 条 に は、 土 岐 左 近 蔵 人 頼 直 が 蜂 起 し た こ と が 見 え、 「 花 園 天 皇 宸 記 」 の 同 日 条では土岐左近蔵人頼員とある。また「武家年代記」元享四年九月二十日条では土岐小□郎・田志見二郎が 誅されたとある。蜂起して誅されたのは頼直なのか頼員なのかはっきりしない。しかし、鷲見文書の建武三 年 六 月 二 十 五 日 付 鷲 見 忠 保 軍 忠 状 写 に は「 土 岐 左 近 蔵 人 」 の 名 が 見 え ( 4) 、 頼 直 は 制 裁 を 受 け て は い な い ら し い。 そ し て 観 応 元 年 ( 一 三 五 〇 ) に 土 岐 周 済 の 乱 に 周 済 と 共 に 六 波 羅 焼 野 で 斬 首 さ れ た 周 済 の 舎 弟・ 左 衛 門 大 夫 入 道 が こ の 頼 直 で な い か と い わ れ る ( 濃 飛 両 国 通 史 所 引 の 谷 口 研 語「 美 濃・ 土 岐 一 族 」 福 光 氏 条 ) 。 し か し、 頼直は長兄であり、入道しておらず、周済の舎弟ではなくて別人と見るべきである。頼直は、むしろ前掲鷲 見文書に見える左近蔵人に当てたほうがよいと思う。   この見方が正しければ、頼直は周済の乱に深く関与していないことがわかる。これより前の正中の変にも

(8)

関わらなかったが、凡庸な性格ではなかったか。そのため弟の頼遠が頼貞から美濃守護を継承することにな った。頼直は福光の地に龍門寺を建てて、太清を住職に招いた。諸山に列したのは兄や甥が美濃守護を勤め ていることによるのだろう。 6   寺 領   神 渕 郷 に つ い て   万里集九の「梅花無尽蔵」一に、文明八・九年頃、岸日向守入道浄璵が亡くなって、万里が悼偈を捧げた 記 事 が 見 え る。 「 弔 弾 月 翁 」 と の 題 が 付 さ れ て い る。 こ の 人 は 尾 張 の 人 で、 自 宅 に「 泰 枕 亭 」 な る 一 室 を 設 けて、 「弾月」との扁額を掲げていたらしい (巻一、巻六) 。   万 里 が ど う し て こ の 尾 張 の 武 人 と 知 り 合 っ た か と い う と、 「 梅 花 無 尽 蔵 」 に は 何 も 書 か れ て お ら ず、 不 詳 という他は無い。しかし、文明前期にすでに知己の間柄であったということは、神渕の龍門寺を介して知り 合ったと考えるのが手っとり早い (万里は文明二年春に龍門寺へ入った(中川徳之助「万里集九」P 54及び年表) ) 。 岸 日 向 守 の 所 領 ( 地 頭 職 を つ と め る 所 ) が 神 渕 あ た り に 在 っ た の で は な い か と 思 う の で あ る。 つ ま り 岸 日 向 守 の地頭する所が神渕近辺に在り、万里が龍門寺を訪れたときに知り合い、万里が尾張の本宅を訪れるように なったという図式が考えられる。   そして、この岸氏の残影として、七宗町神渕寺洞の、神渕神社所蔵の天正五年九月二十八日の棟札があげ られる (「岐阜県史」史料編) 。その文面は、

(9)

    (表)    天正 丁 丑 五年九月廿八日        せんらう     当社牛頭天王上ふき   神主岸式部丞   忠秀        大工   七郎右衛門   いふか         くれかす 九十二         給木二左衛門    (うら)           あしはり七郎右衛門 彦七郎ゆきながいと     げんごしゅ   大徳久田大塚 井助清谷まいとうたの神田           おくち田上ききよりあがる である。これに神主として「岸式部丞忠秀」の名が見えている。天正年間には神主として存続したが、それ よ り 七 年 前 の 元 亀 元 年 ( 一 五 七 〇 ) に は 龍 門 寺 本 尊 再 興 の 開 眼 供 養 に 際 し て、 「 檀 那 」 と し て 登 場 し て い る。 すなわち、関の梅龍寺文書の中に一枚物のメモが残されており、次のような記述がある。   ○本国武儀郡神渕山龍門禅寺本尊開眼法語曰、    左輔右弼、文珠普賢、黄面老面皮厚、見星成道出人天、喝一喝、      現住妙心再興龍門   天猷叟玄光 (花押)

(10)

      檀那式部丞忠秀   願主   趙栄         仏師   信教 宗恩        元亀元壬午   天 猷 は 龍 門 寺 を 再 興 し、 つ い で こ の 時、 妙 心 寺 に 輪 番 住 山 中 で あ っ た。 永 禄 十 三 年 ( 元 亀 元 年 ) か ら 翌 二 年 二 月 頃 ま で の 妙 心 寺 住 山 で あ っ た と み ら れ る。 天 猷 は 妙 心 寺 で 仏 日 真 照 禅 師 ( 雪 江 ) の 百 年 忌 を 二 月 に 行 っ て、 一 偈 が の こ る ( 豊 橋 市 太 平 寺 蔵「 雪 叟 詩 集 」 30丁 ) 。 こ れ は 元 亀 元 年 と い う よ り は 同 二 年 二 月 の こ と で あ ろう。前住は春国光新と思われ、妙心寺を退いて四月十九日に甲斐へ帰るため、いとまごいに内裏を訪れた ことが「御湯殿の上の日記」に見えているからである。   このように、天猷が妙心本寺の住山中に天猷が開眼供養をしたということは、仏師信教も京都の人であろ うし、京都での開眼供養であったと思われる。そして京都から神渕へ運ばれて安置されたとみられる。

1   太 清 宗 渭   太 清 は、 鎌 倉 時 代 末 の 元 享 元 年 ( 一 三 二 一 ) に 生 ま れ た。 元 弘 三 年 ( 一 三 三 三 ) 、 鎌 倉 幕 府 の 滅 亡 を き っ か けに出家し、京都嵯峨の西禅寺の雪村友梅の室に入り、その後各地で点々と修行した。   文 和 三 年 ( 一 三 五 四 ) 三 月、 龍 山 徳 見 が 南 禅 寺 に 住 山 す る や。 そ の 会 え 下 か と な っ て 後 堂 首 座 か ら 前 堂 首 座 と

(11)

な り、 や が て 美 濃 龍 門 寺 の 公 帖 を う け た。 『 七 宗 町 史 』 に よ る と、 太 清 宗 渭 が 土 岐 頼 直 を 檀 越 と し て 新 寺 龍 門 寺 を 建 て た の は 観 応 元 年 ( 一 三 五 〇 ) よ り 前 の こ と で、 頼 直 は 観 応 元 年 の 周 済 の 乱 で 敗 死 し た と す る。 ま た『町史』は、    龍門寺は、新寺創建後間もなく諸山に列せられ、勅使開堂の儀は、太清宗渭を迎えて行われた。諸山に 列されたのは延文元年 (一三五六) 以降康安元年 (一三六一) 以前である。 としている。   太 清 は そ の 後 相 模 東 勝 寺 ( 十 刹 ) の 住 持 と な り、 応 安 五 年 ( 一 三 七 二 ) 四 月 十 一 日 に 播 磨 宝 林 寺 へ 住 山 し た。 明徳二年 (一三九一) 六月十二日に示寂 (町史以外は玉村稿による) 。 2   晦 谷 祖 曇   こ の 人 は 夢 窓 の 直 弟 で あ る。 比 叡 山 の 論 客 の 一 人・ 玄 慧 法 印 の 真 弟 子 ( 血 縁 の 子 で、 し か も 門 弟 ) か ら 夢 窓 の 門 下 生 に 転 じ た 人 で あ る。 美 濃 龍 門 寺 か ら 山 城 臨 川 寺 に 住 山 し て、 延 文 三 年 ( 一 三 五 八 ) 六 月 十 一 日 に 示 寂 し た ( 玉 村『 五 山 禅 僧 伝 記 集 成 』) 。 こ の よ う な 経 歴 か ら 推 定 す る と、 太 清 が 龍 門 を 去 る と 同 時 に 入 れ か わ っ て入寺するぐらいでないと説明がつかない。つまり観応二・三年の入寺か。龍門寺が諸山に列されたのも、 町史の考えでは辻褄が合わず、観応年間の指定ということになろうか。義堂周信の『空華集』に、龍門の晦 谷 師 兄 に 寄 せ た 詩 が 見 え る ( 5) 。 義 堂 は、 観 応 元 年 ( 一 三 五 〇 ) に 帰 朝 し た 龍 山 徳 見 に 随 身 し、 延 文 二 年 ( 一 三 五 七 ) 、 三 十 三 才 で 龍 山 を 離 れ て 天 龍 寺 に 帰 錫 し た ( 玉 村『 五 山 禅 僧 伝 記 に 集 成 』) 。 詩 を 寄 せ た の は こ の 頃 の ことである。

(12)

3   江 西 常 松   『 七 宗 町 史 』 は、 山 門 疏 を 書 い た 中 巌 円 月 の 示 寂 年 か ら 一 三 七 五 年 ( 永 和 元 ) 以 前 に 江 西 が 入 住 し た と す る。 玉 村 稿 も、 中 巌 の「 東 海 一 漚 別 集 」 に「 江 西 住 濃 州 龍 門 江 湖 疏 」 が あ る と す る ( 6) 。 中 巌 が 応 安 八 年 ( 一 三 七 五 ) 正 月 五 日 に 示 寂 し た の で、 そ れ 以 前 の 入 寺 疏 で あ る こ と は 間 違 い な い が、 江 西 そ の 人 に 関 し て は 他 に ほ とんど手がかりがない。 4   春 巌 祖 玲   『 七 宗 町 史 』 が 述 べ る よ う に、 中 巌 の「 東 海 一 漚 別 集 」 に そ の 諸 山 疏 が 見 え る が、 中 巌 の 寂 年 に か け て 応 安八年 (一三七五) 以前の住山とする以外には手がかりがない ( 7) 。 5   玉 巌 □ 璋   玉村稿は、天境霊致の「無規矩」坤の疏の部に「玉巌璋首座住龍門山門疏」があるとしている。花園大学 の 今 津 文 庫「 天 隠 録 」 三 や 東 大 の「 無 規 矩 集 」 三 に も こ れ が 収 め ら れ て い る ( 8) 。 天 境 は 甲 斐 の 人、 正 安 三 年 ( 一 三 〇 一 ) に 生 ま れ た。 元 か ら 来 朝 し た 清 拙 正 澄 に 師 事 し た と い わ れ、 京 都 五 山 の う ち 聖 一 派 の 東 福 寺 を 除 く 他 の 四 山 に 住 山 し、 永 徳 元 年 ( 一 三 八 一 ) 十 一 月 十 八 日 に 示 寂 し た。 従 っ て 玉 巌 に 贈 っ た 山 門 疏 は 永 徳元年以前の作である。

(13)

6   晃 首 座   『 五 山 文 学 全 集 』 三 の「 業 鏡 台 」 ( 心 華 元 棣 の 作 品 ) に、 晃 首 座 住 濃 州 龍 門 寺 の 疏 が 収 め ら れ て い る ( 9) 。 そ の道号を明らかにせず、疏文中の「土岐英産」という縁語によって、土岐氏一族の出身と判明する以外何に も わ か ら な い。 心 華 は 生 没 年 不 詳 な が ら、 応 安 元 年 ( 一 三 六 一 ) に 一 時 美 濃 に 帰 休 し た ほ か は 各 地 で 活 躍 し、 南北朝時代を生きた人と言うことが出来る。晃首座とは同じ美濃出身ということで疏文を書いたのであろう。 7   香 林 □ 遠   『七宗町史』は、 住山年代不詳、 太清宗渭の直弟とする。玉村稿の一山派系図も同じ。太清は元享元年 (一 三 二 一 ) 生 ま れ で、 明 徳 二 年 ( 一 三 九 一 ) 六 月 十 二 日 に 七 十 一 歳 で 示 寂 し た。 語 録 一 巻「 太 清 録 」 が あ る ( 東 大 史 編 ) 。 香 林 は そ の 法 嗣 と い う の だ か ら、 貞 和 元 年 ( 一 三 四 五 ) 頃 生 ま れ の 応 永 三 十 年 ( 一 四 二 三 ) 示 寂 ほ ど の生涯ではなかろうか。町史は史料など出典を明示していない。玉村著『五山禅林宗派図』では、一山派の 太清宗渭の法嗣として香林遠を挙げている。また、玉村稿では注一三一―二で    南江宗浣の「漁庵小藁」の部に「遠香林住濃之龍門山門疏」が見える。 と し て い る ( 10) 南 江 は 美 濃 の 人 で、 応 永 末 か 永 享 初 年 頃 に 相 国 寺 へ 移 り、 永 享 四 年 以 降 主 と し て 泉 南 の 地 を本拠とした。文安二年 (一四四六) 寂だから、香林の龍門住山はそれ以前のことである。 8   化 元 真 毓   化 元 は 太 清 の 門 下 生 で ( 玉 村 稿 ) 、 応 永 二 十 六 年 ( 一 四 一 九 ) に 龍 門 寺 へ 入 寺 し た ( 10) こ れ を 初 め と し て、

(14)

永 享 二 年 ( 一 四 三 〇 ) に は「 前 聖 福 」 と 称 し て い る ( 次 掲 文 書 ) 。 十 刹 の 博 多・ 聖 福 寺 へ の 出 世 を と げ て、 尾 張 山 田 郡 ( 瀬 戸 市 赤 津 ) の 雲 興 寺 ( 勝 光 寺 ) の 住 持 職 を 曹 洞 宗 峩 山 派 の 天 先 和 尚 に 譲 る と い う 次 の よ う な 証 文 を残している (雲興寺文書) 。        本号    尾張国山田郡飽津保内白坂雲興寺事、        勝光    依有故、当知行無相違処也、然間、限永代而住持職并寺領等、段歩不残相副、譲与    天先和尚申了、不可有他妨者也、      永享二年 庚 戌 十二月十二日、            前聖福真毓         (印二顆)   こ の 十 一 年 前 の 応 永 二 十 六 年 の 諸 山 疏 ( 11) 中 で、 瑞 渓 周 鳳 が、 「 三 身 四 身 頓 開、 光 巌 仏 界、 東 行 跬 歩、 西 咲何志」という詩を詠じ、その中に光巌という縁語を入れており、光巌寺近くの龍門寺に化元が住山すると 言っていると見れば、龍門寺は未だ福光に在るということになる。 9   用 谷 □ 受   『七宗町史』 『福井稿』 ともに用谷の龍門入寺を応永三十年 (一四二三) としている。瑞渓周鳳の 「瑞渓疏」 用谷受首座住龍門諸山疏の中に縁語として「光巌住持」が織り込まれており、いまだ福光に龍門寺が在る可 能性が高い。玉村稿では、用谷受首座住龍門諸山との標題下に「応永癸卯」とあるとしていて、応永三十年

(15)

( 一 四 二 三 ) の 入 寺 で あ る と 確 認 さ れ る。 「 瑞 渓 疏 」 は 積 萃 文 庫 と 東 大 に 在 り、 私 が 見 た 東 大 本 に は 応 永 癸 卯 の年紀は見当らなかった。 10   寒 潭 □ 珠   同じく瑞渓周鳳の「瑞渓疏」 (東大影写本) に、    万寿寒潭珠首座住濃之福光山龍門諸山 と 題 す る 疏 が あ る ( 12) 京 都 五 山 の 万 寿 寺 に 居 る 寒 潭 珠 首 座 が 福 光 山 龍 門 寺 へ 出 世 し た と い う も の で、 福 光 山 と 称 し て い る か ら に は、 こ の 時 点 で ま だ 神 渕 へ 移 転 を し て い な い の で は な い か と 思 わ れ る。 『 七 宗 町 史 』 は、この移転の時期について、化元入住の応永二十六年以前と推定し、移転後の明徳元年春に崇福寺が福光 に 建 て ら れ た の で は な い か と す る。 『 瑞 渓 疏 』 の こ の 諸 山 疏 は、 玉 村 稿・ 福 井 稿・ 七 宗 町 史 と も に 収 録 さ れ ていない。   な お、 瑞 渓 は、 永 享 二 年 ( 一 四 三 〇 ) に 山 城 景 徳 寺 の 住 持 と な り、 無 求 の 真 前 に 一 香 を 献 じ て 法 を 嗣 ぎ、 文 明 五 年 ( 一 四 七 三 ) に 示 寂 す る ま で の 間 に 寒 潭 珠 首 座 の 諸 山 疏 を 作 っ た わ け だ か ら、 化 元 の 入 寺 よ り 少 し 降った永享・嘉吉・文安・宝徳頃に寒潭は龍門寺に住山したのではなかろうか。ただし、永享九年以降は、 「 陰 涼 軒 日 録 」 で 入 寺 が 或 程 度 た ど れ る の で、 永 享 前 期 の 入 寺 か も し れ な い。 こ の 説 に よ れ ば、 長 良 か ら 神 渕への龍門寺の移転は、従来説よりも四十年以上後であったことになる (大信□晟の条参照) 。

(16)

11   東 芳 真 詢   「蔭涼軒日録」の永享九年 (一四三七) 七月十九日の条に、    濃州龍門寺公帖、御判出矣、 (中略) 、龍門即真詢也、 とある。玉村『法系図』によれば、    一山 雪村友梅 太清宗渭 叔栄宗播     大圭宗价 万里集九         東芳真詢        宗讃 とあって、太清の孫弟子に当る。玉村稿のほか福井稿・七宗町史ともに歴代住持に挙げている。 12   宗 讃   「蔭涼軒日録」の永享十二年 (一四四〇) 八月二十七日条に、    濃州龍門寺宗讃首座、吹嘘雲頂院彦軾、 とある。玉村氏は宗讃を太清派下の人と推定しておられる。なお町史は宗讃□□として、宗讃を道号ととら えているが、首座ら平僧の場合は諱で呼ぶので、□□宗讃とすべきかと思う。

(17)

1   大 信 □ 晟   玉 村 稿・ 福 井 稿・ 町 史 と も に 享 徳 元 年 ( 一 四 五 二 ) 十 二 月 に 大 信 が 神 渕 山 龍 門 寺 に 入 寺 し た と す る。 玉 村 稿によれば、 「流水集」に「晟大信住濃之龍門并序」がみえる ( 13)。そして文中に、   享徳元年 (一四五二) 十二月如意珠日、栄膺大壇越釣命、住董濃州神渕山龍門禅寺、…………、 との一文がある。これによって、享徳元年には、龍門寺が神渕に移っていたことが確認できる。龍門寺の移 転 は 永 享 か ら 享 徳 元 年 ( 一 四 五 二 ) に か け て の 二 十 年 ほ ど の 間 に 行 わ れ た 可 能 性 が あ る。 寺 領 は 早 く か ら 神 渕郷であったとみられ、寺領を保全するためと、長良福光で檀越の土岐氏が衰退したために、龍門寺の寺領 の内に寺を移転させたということではなかろうか。   あるいはまた、文安・宝徳の美濃内乱で、焼き打ちなどをのがれるために神渕への移転が行われたかとも 考えられる。 2   等   「蔭涼軒日録」長禄二年 (一四五八) 三月二十一日の条に、    美濃龍門寺等楩首座、 (中略) 、公文御判被遊、 とある。町史では、等楩□□として、等楩が道号であると見ているが、宗讃の条でも述べたように、諱であ る。 「 蔭 涼 軒 日 録 」 の 長 禄 二 年 十 二 月 十 七 日 条 に、 濃 州 龍 門 寺 領 を ( 守 護 使 ) 不 入 に す る と の 記 事 が み え る。

(18)

ま た 同 長 禄 四 年 ( 一 四 六 〇 ) 三 月 二 十 四 日 に は 龍 門 寺 を 諸 役 免 除 に す る と の 記 事 も あ る ( 14) こ れ は 龍 門 寺 が 京都相国寺雲頂院の末寺ということで、将軍家の尽力を得たゆえだろう。 3   有 繁   「蔭涼軒日録」寛正二年 (一四六一) 三月十五日の条により、有繁が入寺したことがわかる。    美濃国龍門寺有繁首座、 (中略) 公文御判被遊也、 とある。 4   有 法   「蔭涼軒日録」寛正五年 (一四六四) 三月二十七日の条によれば、有法の入寺を知る。同書に、    美濃国龍門寺有法首座、公文御判被遊也、 とある。 5   太 初 真 肇   「蔭涼軒日録」寛正五年 (一四六四) 九月四日の条に、真肇住山の記事がある。同書に、    美濃国龍門寺真肇首座、 (中略) 、公文御判被遊也、 とある。また、これより二年前の寛正三年十一月八日には、この真肇首座が、三河国の長福寺の還付につい て将軍から御判をもらったが、これは上野中務大輔が真肇の弟という関係によるもので、大輔に御礼として

(19)

太刀を献上した ( 15)   こ の 人 に つ い て は、 『 五 山 禅 僧 伝 記 集 成 』 ( 以 下 単 に『 集 成 』) に と り 上 げ ら れ て い る。 こ れ に よ れ ば、 上 野 民 部 大 輔 ( 一 に 中 務 大 輔 ) の 弟 と い う。 た だ「 蔭 涼 軒 日 録 」 で は、 真 肇 は 大 輔 の 兄 に 当 る。 『 集 成 』 で は、 上 野氏の香火寺たる三河長福寺領同国宝飯郡松原村 (現豊川市一宮町) を安堵してもらうことに成功したとある が、 角 川 日 本 地 名 辞 典『 愛 知 県 』 で は 山 城 国 葛 野 郡 の 長 福 寺 領 と す る。 『 集 成 』 に よ れ ば、 前 述 の よ う に、 真肇は寛正五年に龍門寺の公帖を受け、のち山城の十刹真如寺の公帖も受けたらしい。のち相国寺雲頂院内 に寄寓して、明応元年 (一四九二) 十二月二十一日に八十歳をもって示寂した。 6   寄 寓 万 里 集 九   応仁の乱を避けて京都から万里が龍門寺へやってきた。万里は 秉 ひん 払 ぽつ をとげているものの、将軍の許可を得 ての正式な入寺ではなく、一時避難的な住山と思われる。   万里は近江の速水氏の出身で、京都五山禅林で修行を積み、応仁元年には相国寺雲頂院に居たが、戦乱で 罹 災 し た の で、 近 江 か ら 美 濃 へ 入 り、 文 明 元 年 ( 一 四 六 九 ) か ら 翌 年 ま で 龍 門 寺 に 寄 寓 し た。 文 明 二 年 に は 八百津町の天寧寺へ移った (五山禅僧伝記集成) 。   その後尾張一宮の妙興寺を経て、文明三年に鵜沼に居を構えたという。文明三年から九年にかけて、自身 の「梅花無尽蔵」に作品が見当らないのは、還俗して妻帯生活に入り、二子をもうけたことによると言われ て い る。 万 里 は 龍 門 寺 に つ い て「 梅 花 無 尽 蔵 」 一 に「 龍 門 甚 貧 寺 」 と 書 い て い る ( 16) 貧 寺 な の は、 土 岐 氏 や奉行人・宇佐見丹波守たちが、東軍側の将軍の息がかかった同寺に対して寺領押領の挙に出ているからな

(20)

のであろう。   な お、 万 里 が 去 っ て 後 の 文 明 五 年 ( 一 四 七 三 ) 四 月 二 十 二 日 に は、 龍 門 寺 に 留 ま っ て い る 僧 の 一 人 ( 会 計 係) 劣侃集観都寺が亡くなり、五輪塔が造立されている (拙者『岐阜県の石仏石塔』二一〇頁) 。 7   看 坊   明 叔 真 晃   「 蔭 涼 軒 日 録 」 長 享 二 年 ( 一 四 八 八 ) 正 月 十 七 条 に、 濃 州 龍 門 寺 の 看 坊 職 と 同 寺 領 の 神 渕 郷 の 庄 主 職 と し て 明 叔 真 晃 首 座 を 補 任 し た と あ る。 「 蓋 し 化 元 和 尚 の 旧 例 を 以 っ て な り 」 と も 書 か れ て い る。 福 井 稿・ 町 史 と もにこの記事を載せている。   同書の同年三月三十日の条には、次のような一文がある。    雲 頂 院 末 寺 美 濃 国 龍 門 寺 并 寺 領 神 渕 郷 之 事 、 一 乱 以 来 守 護 方 押 領 候 、 御 還 補 奉 書 事 、 申 御 沙 汰 候 者 、 寺 家可為本望候、恐々謹言、     三月卅日、       名判      飯尾大蔵大夫殿           後陣所   また、四月七日の条では、龍門寺と寺領神渕郷について還補の御奉書が出されたこと、それに関して持是 院 ( 妙 純 ) と 天 寧 寺 ( 美 濃 国 加 茂 郡 ) へ 蔭 涼 軒 主 が 一 文 を 出 し た こ と、 妙 巌 庵 主 の 東 瑛 首 座 が 天 寧 寺 へ 手 紙 を 書き、明叔真晃に渡したことを書き留めている。   さ ら に 同 年 六 月 二 日、 龍 門 寺 と 同 寺 領 神 渕 郷 に つ い て 守 護 へ 導 行 状 が 出 さ れ、 天 寧 寺・ 持 是 院 ( 妙 純 ) ・

(21)

宇佐見丹波守にも一札が出され、龍門寺は保護されたようであるが、違乱停止がいつまで守られたのか疑問 である。 8   祖 庭 敬 教   看 坊 の 明 叔 真 晃 の 尽 力 に よ っ て、 龍 門 寺 が ど う に か 成 り 立 つ よ う に な り、 延 徳 二 年 ( 一 四 九 〇 ) 閏 八 月 九 日 に 敬 教 首 座 の 入 寺 が 決 ま っ た ( 17) 翌 延 徳 三 年 二 月 二 十 一 日 に は、 大 源 院 主 を 勤 め る 敬 教 西 堂 に 祖 庭 と の 道 号 が 贈 ら れ た ( 17) 大 源 院 は 岐 阜 市 茜 部 の 承 隆 寺 内 に あ っ た と 推 定 さ れ る 塔 頭 で、 し か も 承 隆 寺 の 開 山 塔 院ではなかろうか。 9   真 洋   「 蔭 涼 軒 日 録 」 延 徳 三 年 ( 一 四 九 一 ) 三 月 十 五 日 の 条 に、 真 洋 首 座 が 美 濃 国 龍 門 寺 入 寺 が 決 ま っ た と い う 記 事がある ( 18)。玉村稿では、 真洋は一山派雲頂院門派の人で、 中でも叔瑛宗播の派下に限定されるとしている。 10   亀 仙 東 安   「 蔭 涼 軒 日 録 」 の 延 徳 四 年 ( 一 四 九 二 ) 三 月 二 十 七 日 の 条 に、 東 安 首 座 が 美 濃 龍 門 寺 の 公 帖 が 出 さ れ た と あ る ( 19)。「鹿苑院公文帖」の南禅寺歴代の中に亀仙東安が見え、明応の頃に南禅寺へ出世したことを知る。

(22)

11   雪 心 宗 安   『鹿苑院公文帖』の「諸山位次簿」永正七年 (一五一〇) 条に、    濃州龍門    雪心宗安    十一月十九日 とある。玉村稿・福井稿・町史ともにこれを取り上げている。雪心はその後、十刹位の播磨法雲寺へも入寺 している。 12   そ の 後   その後の龍門寺については、天文八年までの二十五年ほどの歴代住職名は判明しない。そのうち永正七年 から十九年ほど経過した享禄二年 (一五二九) に新調された絹本著色の涅槃図が龍門寺にあり、その軸裏に、    奉寄附濃州路武儀郡神渕山龍門禅寺者也、享禄弐年乙丑小春十六日、永寅書記命画師図之、画師西倉、 従享禄二丑年、今到元禄十二己卯八月彼岸日、一百七十年之後、再興修補之者也、現住龍門北湘潭叟記 焉、 との墨書きがある (『七宗町史』通史編一一八一頁) 。   禅 昌 寺 本「 明 叔 録 」 に、 天 文 二 十 四 年 ( 一 五 五 五 ) の 龍 門 寺 再 建 化 縁 疏 が 見 え る ( 20) こ れ に よ れ ば、 龍 門 寺 は 天 文 八 年 ( 一 五 三 九 ) に 戦 火 に 罹 り、 全 焼 し た ら し い。 た だ、 享 禄 二 年 ( 一 五 二 九 ) の 涅 槃 図 な ど が 残 る ので、蔵など焼け残った建物も在ったとみられる。当時看院をつとめていた光庵宗鍳座元が再興に尽力し、

(23)

ようやく天文二十四年にこれら諸堂が完成したので、同年十月二十三日に、美濃市 大 お 矢 や 田 だ の道樹寺から妙心 寺派の景聡興勗を導師に招いて、供養の法会を行ったのであった。

1   景 聡 興 勗   前 述 の と お り、 下 呂 市 の 禅 昌 寺 本「 明 叔 録 」 ( 岐 阜 県 史 等 で は「 明 叔 慶 浚 等 諸 僧 法 語 雑 録 」) に 収 め ら れ た 天 文 二 十 四 年 の 景 聡 興 勗 に よ る 仮 題「 龍 門 寺 再 建 化 縁 疏 ( 20) に よ れ ば、 龍 門 寺 は、 罹 災 後 に 看 院 の 光 庵 宗 鍳 座 元 の 尽 力 で よ う や く 再 建 が 成 っ た の で、 天 文 二 十 四 年 ( 一 五 五 五 ) 十 月 二 十 三 日 に、 景 総 を 招 い て 再 興 の 法 会を催した。景聡は五山派僧と違って妙心寺派僧であったが、妙心寺派内では、尾張熱田の南溟紹化や伊勢 の江南珠栄と並んで近隣にこの名が知られていたので、光庵座元が導師として招いたらしい。   2   天 猷 玄 晃   第 一 章 の 6の「 寺 領   神 渕 郷 」 の と こ ろ で 述 べ た よ う に、 元 亀 元 年 ( 一 五 七 〇 ) の 龍 門 寺 本 尊 開 眼 の 法 語 には、    現住妙心再興龍門天猷叟玄光 (花押) と あ っ た と あ る ( 梅 竜 寺 文 書 ) 。 天 猷 は 元 亀 元 年 に は 妙 心 寺 に 住 山 中 で あ っ た が 、 そ の 前 に 龍 門 寺 を 再 興 し た と いう。それは永禄年間であったろう。なお天猷玄光が玄晃と改諱するのは、天正十六・七年頃のことである。

(24)

  天 猷 は 尾 張 国 水 野 ( 瀬 戸 市 ) で 永 正 十 五 年 ( 一 五 一 八 ) に 生 ま れ た。 妙 心 寺 派 で 修 行 し、 天 文 十 八 年 に 蘭 らん 畹 ねん の法を嗣ぐに至った。そして、 永禄五年 (一五六二) 九月二十七日に犬山瑞泉寺へ輪番住山をした (瑞泉寺史) 。 そ の 前 後 に は 前 住 妙 心 の 称 を 得 た と 思 う。 諸 山 の 格 式 を 有 す る 龍 門 寺 へ 入 寺 し た の は そ の あ と の こ と で、 「前住妙心」つまり紫衣僧として入寺したものと思われる。永禄八・九年頃のことではなかったか。 3   春 峰 景 立   景聡は天文二十四年の法会に龍門寺へ赴いたものの、導師をつとめたあと、すぐ自坊の道樹寺へ帰ったと 思われる。そして、その後住として梅龍寺の天猷玄光が住山し、ついで、永禄十年前後頃に大圭門下の春峰 が住山したらしい。鎌倉松が岡文庫の「禅林雑記」一に、    透過竜門関廿霜、鳥風黒雨是佳郷、胡為棄我急皈去、五月梅花嗅不香、春 芳 (峰) 追悼、大圭 という悼偈が収められている。春峰が龍門寺に住山することおよそ二十年とこの偈に書かれている。そして 某 年 五 月 に 亡 く な っ た と い う。 師 の 大 圭 紹 琢 ( 天 正 二 十 年 八 月 二 十 五 日 示 寂 ) よ り も 早 く 亡 く な り、 大 圭 が 悼 偈をささげたということである。岐阜県川辺町比久見の龍洞寺では、開山の春峰が文禄二年二月十九日に示 寂したと伝えられている。これでは大圭のあとに亡くなったことになるので検討の余地がある。   なお、この悼偈について、岐阜市乙津寺の「孤岫録」には次のように書かれている。    透過竜門関廿霜、鳥風黒雨 (アキ)    棄吾何事急皈去、五月梅花嗅不香、 保 ( 大 圭 ) 寧 悼春峰、 春峰の一周忌では、恐らく大圭が和韻しており、東大影写本「保寧語録」にその偈が見える。    変成大士焼香査、儒履道冠又釈裟、一夢一年三百六、不如只献井中花、

(25)

4   近 世 妙 心 寺 派 の 世 代   昭和五十五年に龍門寺第二十六世田尻樹山が書き上げた世代表がある。開山は一山一寧、二世は雪村友梅、 三世太清宗謂とし、第四世は文華、第五世は栢峯、第六世は春峯景立、第七世は梅礀宗鶴、第八世は天猷玄 晃となっている。第九世以降をここに列記し、特記事項があれば注記することにする。   第九世、勅謚独園神秀禅師鉄松玄固大和尚        慶長十五年二月二十八日寂、   第十世、前住妙心北州祖秀和尚        寛永四年六月七日寂、清泰寺二世、 第十一世、前住妙心梁屋祖棟和尚        延宝二年十一月十五日寂、同三世、 第十二世、当山中興絶泉祖温和尚        元禄九年八月十二日寂、世寿八十二、本州武義郡谷口人、終焉居岫雲軒、 第十三世、湘 祖北和尚        宝永二年八月廿二日寂、世寿六十二、本州宇多院人、 第十四世、再中興大顛癡絶和尚        延享三年二月四日寂、寿七十四、再住妙心、汾陽寺、 第十五世、前住妙心禹門禅啓和尚        宝暦十四年五月七日寂、寿六十七、犬山町生、

(26)

第十六世、前住妙心鶴洲祖林和尚        文化元年六月四日寂、寿七十一、 第十七世、前住妙心苟同癡完和尚        文化十三年六月十三日寂、飛騨高山生、 第十八世、前住妙心仙洲巨霊和尚        文政元年十二月十日寂、住山二年、 第十九世、前住妙心梵叟先陀和尚        同四年一月十七日寂、住山三年、 第二十世、瑞泉第一座閑翁座元禅師        同十三年二月五日寂、住山九年、 第廿一世、前住妙心泰瑞一爾和尚        嘉永五年六月八日寂、寿五十八、前住汾陽寺、住山十七年、 第廿二世、前住妙心荊叢文蘂和尚        万延元年五月十二日寂、寿三十七、泰瑞徒、住山六年、 第廿三世、当寺僧堂創建龍渕義超禅師        明治十二年五月十八日寂、寿五十、住山十五年、 第廿四世、前住妙心舜翁古範和尚        明治二十四年十二月二十四日寂、住山十二年、

(27)

第廿五世、前住妙心教道義訓和尚        昭和八年二月二十四日寂、住山四十三年、 第廿六世、贈再住妙心樹山奕童禅師        平成七年二月十八日寂、九十二歳、 第廿七世、田尻和光 注 ( 1) 拙稿「龍門寺小史」は、美濃文化財研究会の会誌・昭和五十四年十月二十八日の『美文会報』一四八号に一頁 半ほど書いたものである。 ( 2) 合寺の史料は「龍門寺の創建」の条に原文を玉村稿から転載したので参照のこと。 ( 3) 中巌円月が兜卒寺に泊まった記事は、 『五山文学全集』二の「東海一漚外集」に見える。   兜卒寺 ノ 房、夜為大風雨、所擺揺、睡醒而作、 雨 澎 滂 海 雪 浪、 々 轆 々 侵 柴 牀、 ハ 建 瓴 ヲ 潢 ハ 盈 庭、 屋 欲 流 兮 動 不 停、 中 正 禅 子 佳 其 中、 至 於 此 極 未 為 窮 睡 受 三禅天上楽、夢覚又御冷然 タル 風、 ( 4) 鷲見忠保軍忠状写は『岐阜県史』史料編古代中世一に見え、次のとおり、   鷲見忠保軍忠状写 美濃国郡上郡御家人鷲見藤三郎忠保、馳参洲俣、土岐左近蔵人殿属御手、今月十四日森山合戦、同十六日宇治 罷向候畢、同十七日・十八日・十九日西坂本中尾致合戦、忠節候畢、然者為後証、下賜御一見状、増弓箭勇、 言上如件、   建弐三年六月廿五日

(28)

進上     御奉行所 ( 5) 龍門の晦谷祖曇に寄せた詩は、次のとおり(空華集) 。   又用前韻、寄龍門晦谷師兄、兼簡向 悆 楷三侍者、 尋 師 擇 友 非 無 願 、 九 到 三 登 豈 厭 頻 、 鳥 道 山 高 難 措 足 、 龍 門 水 急 不 通 津 、 談 鋒 妙 転 風 雷 舌 、 筆 力 能 回 造 化 春 、 煩 問雪鰲同宿夜、不知成道是何人、 ( 6) 『五山文学全集』 二 の「東海一漚別集」に、江西住濃州龍門江湖疏は次のとおり。   江西住濃州龍門江湖疏 治国君有明不明、惟明者能得賢才賛佐、出世士有徳否徳、惟徳者能得英檀帰依、不是強為、自然相合、某人、 本色衲子、敦厚人材、絶待喜有克家、定中歓幸、牧護宜当継業、門外喧呼、与其燕窠久労而修、孰若龍門一躍 而上、旧遊修好、交游母忘、 ( 7) 『五山文学全集』 二 の「東海一漚集」に見える春巌の龍門寺入寺諸山疏は次のとおり。   請春巌玲首座、住濃之龍門、諸山疏 本朝崇欽仏門、風行于上俗励于下、総管撤去妄偽、試精於吏選詳於場、 有材倶収、無器不用、某人、渕懿内朗、雅誉外馳投機鹿山、三度便応三度呼、莫分負吾負汝、借払亀阜、一喝 不用一喝用、孰弁全主全賓、明君詔董大明、列刹竢排行列、挙出賢宰、議合公輇、霊鳳児出鳳城来、佇看呈祥 呈瑞、臥龍子入龍門去、正好作雨作霖、直須飛揚、切勿或躍、臥龍乃師之塔也、 ( 8) 『続群書類従』 13上に「天隠録」が見えるが、今津文庫本とは異なり、文明・明応頃のものである。 ( 9) 『五山文学全集』 三 の心華元棣の作品を集めた「業鏡台」に、晃首座の龍門寺入寺疏がみえる。   晃首座住濃州龍門寺 乃濃州人也、 心覚開法七閩、前輩豈忘父母之国、円悟旺化三蜀、後生孰在伯仲之間、温故知新、視今如古、 林無秦無人之

(29)

歎、 郷 閭 有 楚 有 材 之 声、 某 玉 雲 親 孫、 土 岐 英 産、 機 用 太 密、 宗 姓 倶 高、 、 若 浮 山 称 遠 録 公、 似 睦 州 呼 陳 尊 宿、 廼翁昔誇鳳将九子出、何復分狗虎龍、吾㑪時慶魚上三級来、不可論兎馬象、宣以身而徇道、況当仁不讓師、青 銅万選之挙軽乎、黄金一諾之価重矣、法説譬説因縁説、願調獅絃、戒香定香解脱香、好祝鳳暦、 ( 10) 東大史料編纂所の写本「漁庵小稿」 (『五山文学新集』六に収)に次の一文がある。      遠香林住濃之龍門山門疏 紫微郎紫微花、仮我以九霄之勢、招提遊招提境、貽人有五字之題、欲登龍門、室待鶚薦、某、父事甘露、祖承 大雲、香林十八年侍師、喜名慕古、仰山第二座 元 (衍カ) 説法、迅辯生風、遂領板首於琴台、処拝詞頭於台幕、駅関不 破、魚鳥猶畏簡書、朝衫有光、鴎鷺何知時様、久哉先 可念、孰云化跡無方、人々具瞻、如北風雲渓之図画、 永々多福、祝南閣浮提之聖人、 ( 11) 東大影写本「瑞渓疏」に、化元の諸山疏がある。   化元毓首座住龍門諸山    応永 巳 (己) 亥 八龍之出穎川、自慈明而為称首、五烏之遷江左、□琅 以竢中興、一門隠然、余子歇者、某、越氊逸□、呑艇 脩鱗、疏曹源於濫觴、清流可掬、起大雲於膚寸、利澤猶存、早牧久混稠人、奮飛俄分半座、一皷再皷大振、無 畏獅音、三身四身頓開、光巌仏界、東行跬妙、西咲何忘、天彰周公之勲、元子対魯、人美管仲之器、諸侯会斉、 ( 12) 東大影写本「瑞渓疏」に見える寒潭珠首座の龍門寺諸山疏は次のとおり。   万寿寒潭珠首座住濃之福光山龍門諸山 騋 牝三年禅駿、皆帰洞野、駕龍十二飛謄、必到雲霄、豈争途哉、且試小歩爾、某、面無喜愠、身任行蔵、霊雲 一株之桃花、不疑則待何悟、朔月十襲於藍縷、有実者淂厥名、洗心乎曹源之流、染指于甘露之味、先宗所属、 明命云臨、入如来室者如来衣、庶幾一音雷震、従招提遊宿招提境、想見四衆麋麕臻、居彼土游、際茲住運、南 鄭相北鄭相、天下服仁、東明公而明公、方隅増重、 ( 13) 「流水集」二(国立公文書館)

(30)

  晟大信住濃之龍門并序 伝曰、信者国之宝也、民之所 人而無信、不知其可也、故文王問太公曰、何如以為天下、太公曰、信蓋天下、 然後能得天下云々、又曰、無一言而非信、無一㕝而非信、然則信之為信、吁大矣哉、竜阜大信晟公禅師、今雲 門大有大和尚寵弟也、執侍巾瓶者、自六歳至今四十余年、而読書者又澤忘罷、和尚結器之、凡偏歴尊宿者、夥 周旋往辺、激揚頻密上其堂入其室不窺、其奥者、就中双桂大禅伯文円之虎也、禅師袖韻語謁、深見賞識、其後 江湖名緇見禅師率曰、此双桂所賓接者也、是蓋無他、以嚮之所謂信者国之宝也、云者也、享徳元年十二月如意 珠日、栄曰大檀越釣命、往薫濃州神渕山竜門禅寺、於是乎、洛下列刹聞茲盛挙、靡弗歓抃胥率製疏、恁通厥□ 駕云、 龍門三月之浪、鯉魚上天鵬路、万里之鳳鴬鳩、控地緊達人、徇縁而応世異味者、不学而送時、某瀾舌汪洋、虚懐 広大、乃翁旺化叢社、雲門三世生於王宮、是尤領職翰林、雪竇百則、謂之公案名字不入他人、夾袋文章、流出自 己胸襟自賦、双桂牡丹、寧庶少林皮髄、恩綸新下晃々焉、虬扉三階、黙稿幾渝咍々焉、虎渓五咲丕疏、曹源之脈 、快竪宝覚之挙頭曰、雨而雨膺喝而喝、謁言以立信欲工而王、欲覇盟其勿更隷君成道之梅、□我不僧之柳、 ( 14) 「蔭涼軒日録」長禄二年十二月十七日条、 (前略)雲頂院末寺濃州龍門寺領不入之事、 (中略) 、書立之、   「蔭涼軒日録」長禄四年三月二十四日条、 (前略)濃州雲頂院末寺龍門寺、諸役免除之事伺之、 ( 15) 「蔭涼軒日録」寛正三年十一月八日条、 真肇首座就三河国長福寺還付之事、頂戴御判、故今晨奉懸于御目、仍献千疋也、 以上野中務太輔殿為其弟、披露其故、仍太輔殿為御礼、献御太刀也、 ( 16) 「梅花無尽蔵」一   無晨炊、龍門甚貧寺、

(31)

  雨気連朝泥未消、後園菜葉似芭蕉、鳥声過牛無炊米、白酒門前借半瓢、其地菜葉大、 ( 17) 「蔭涼軒日録」延徳二年閏八月九日条 濃州龍門寺敬教首座、龍門寺事者、愚塔頭本寺之故、書之云々、 同書 延徳三年二月二十一日条   自鹿苑、贈濃州大源院敬教西堂字祖庭来、 な お、 敬 教 の 龍 門 寺・ 安 国 寺 へ の 公 帖 に つ い て は、 今 泉 淑 夫 氏 が『 日 本 歴 史 』 六 〇 〇 号( 一 九 九 八 ・    五)に、 「祖庭敬教の場合」と題して、未秉払で公帖を得たことの顛末を書いておられる。   ( 18) 「蔭涼軒日録」延徳三年二月二十四日条   美濃国龍門寺真洋首座、書立渡鹿苑侍衣、   「同書」 延徳三年二月二十六日条   濃州龍門寺相計書之、 「同書」 延徳三年三月十五日条   公帖御判七通被遊之(中略) 、真洋首座美濃国龍門寺、 (中略) 、以上七通、 ( 19) 「蔭涼軒日録」延徳四年三月二十七日条      公帖三通御判出、 (中略) 、東安首座美濃龍門寺、 ( 20) 禅昌寺本「明叔録」龍門寺再建化縁疏 濃州路武義郡神渕山龍門禅寺、罹天文八年己亥之変、忽成瓦礫場、花開葉落斗転星移、経歳月幾多哉、看院光 庵宗鍳座元禅師、竭丹誠、再造仏像、建仏殿鋳鐘、続灯誦金剛経、奉回向三尊者一千巻、至方丈庫司之諸屋無 不造畢、厥功至矣尽矣、今茲天文廿四 良 (十) 月廿又三、営弁宝殿再興之法会、拝請尊衆、令諷演白傘蓋神呪之次、 小比丘興勗、謹焚宝香、奉供養大毘廬舎那仏、左輔文珠、右弼普賢、依這勲力、国君諸司弥受丕徳、野老百姓 共楽無為矣、共惟、光庵宗鍳座元、

(32)

  分甘建立、生不数奇、 制度髣髴霊竺、機功依 般 、 弐如玉或如金、層台聳而鳳凰翔下、 美哉輪美哉奐、大厦成而燕雀賀来、   是三宝興隆之地、即十方帰仰之基、   優曇跋華時到開、叢林有喜、   菩提道樹日益長、葛藟虆之、至祝々々、伏惟々々、   天文廿四年乙卯小春廿三日    景聡書焉、

参照

関連したドキュメント

  安倍小水麿願経とは ︑﹁ 無災殃而不肖 ︑無福楽而不成者 ︑般若之金言 ︑真空之妙典 ︑被称諸仏之父母 ︑聖賢之師範 也

佐倉太鼓衆 櫻太鼓 四街道太鼓みかさ会 下總之國津久太鼓 和太鼓 風 城北流艶太鼓 和太鼓 凪 粋童会 龍星太鼓 和太鼓衆 雷夢 太鼓衆 楽

c・昭和37(1962)年5月25曰,東京,曰比谷公会堂で開かれた参院選の