黄檗希運と南泉普願
小
川
太
龍
は じ め に 黄 檗 希 運 (? ~ 八 五 〇 頃) は 臨 済 義 玄 (? ~ 八 六 六) の 師 と し て、 南 泉 普 願 (七 四 八 ~ 八 三 四) は 趙 州 従 諗 (七 七 八 ~ 八 九 七) の 師 と し て そ れ ぞ れ 禅 宗 史 上 で 大 き な 役 割 を 果 た す。 黄 檗 は 『伝 心 法 要』 『宛 陵 録』 を、 南泉は『南泉語要』を残した。彼らの思想はそれだけで完成されたものであり、傑出した弟子を輩出した事 も頷ける。 これまで黄檗について為されてきた研究は、主に 『伝心法要』に おける思想に ついてである。他に は、師 で あ る 百 丈 懐 海 (七 四 九 ~ 八 一 四) 、『伝 心 法 要』 の 筆 録 者 で あ る 裴 休 (七 九 七 ~ 八 七 〇) と の 関 係 に 言 及 さ れ る 程 度 で あ っ た (( ( 。 ま た、 南 泉 に つ い て も 「異 類 中 行」 「南 泉 斬 猫」 と い っ た 南 泉 自 身 の 思 想 か ら 考 察 さ れ る ことがほとんどであ る (( ( 。黄檗、南泉共に、彼らの思想内容が考察の対象となることが多く、思想から離れ、 伝記史料等から彼らの評価そのものに考察を加えた先行研究は少ない。そして、当然両者の関係性を考察し たものは管見の限り見当たらない。黄 檗 は 百 丈 に 嗣 ぎ、 南 泉 は 馬 祖 道 一 (七 〇 九 ~ 七 八 八) に 嗣 い だ と さ れ る こ と は、 疑 う 余 地 の な い こ と と される。また、同時代史料に黄檗と南泉の関係を言及したものはない。故に、黄檗と南泉に機縁の話がある ものの、両者の関係に焦点を当てる意義は特に見出されてこなかった。 しかし、黄檗の伝記は不明な点が多く、師である百丈との嗣法関係も時代の要請を受けて改変が加えられ たものであ る (( ( 。また、 『伝心法要』裴休序において黄檗の嗣法について、 「百丈之子」とされるべきところが、 「西堂百丈之法姪」とされ続けることにも違和感を覚え る (( ( 。 南 泉 に つ い て も、 灯 史 に お け る 評 価 は 変 化 し て い る。 馬 祖 下 で 二 大 士 と 呼 ば れ、 筆 頭 と さ れ た 西 堂 智 蔵 (七 三 五 ~ 八 一 四) と 百 丈 に、 後 に 南 泉 が 加 え ら れ て 三 大 士 角 立 の 話 が 作 ら れ る (( ( 。 ま た、 柳 田 氏 は 「『祖 堂 集』 『伝灯録』以降、南泉の評価は高まる」と指摘す る (( ( 。 その評価の変化する両者に 、多くの機縁の話が残されている。黄檗と師である百丈との機縁の話は合計で 五つであり、南泉が六つである。数に固執する必要はないが、検討の価値は十分にある。 本稿では以上の問題点から、黄檗、南泉の灯史に おける関係性の変遷を考察し、現在常とされている評価 を再検討する。これにより、黄檗と南泉をより理解するための一助としたい。 黄檗と南泉の足跡 まず、黄檗と南泉の足跡をそれぞれ概略する。 南 泉 は、 各 史 伝 を 通 じ 鄭 州 新 鄭 (河 南 省 鄭 州 市 新 鄭 市) に 出 生 し た と 記 さ れ る。 生 年 は、 一 般 的 に と ら れ る 寂年から逆算して天宝七年 (七四八) となる。 姓は王氏であり、 後に 自ら 「王老師」 と称した。 至徳二年 (七
五七) に河南省鄭州市新密市東南、新鄭市西南にある大隗 山 (( ( の大慧禅師 (生没年未詳) に就き受業する。故に、 数 え 十 に し て 受 業 し た こ と に な る。 そ の 後、 大 暦 一 二 年 (七 七 七) 三 十 に し て、 嵩 山 会 善 寺 の 暠 律 師 (生 没 年未詳) に就き具足戒を受け る (( ( 。『祖堂集』 以外の諸本では、 初め 『四部律疏』 一〇巻に より戒律を修めて後、 『楞伽経』 『華厳経』 、「中百門観」 (『中論』 『百論』 『十二門論』を中心とする三論の玄義) を窮めたとされる。 し か し、 経 論 を 学 ぶ こ と に よ り 玄 妙 な 真 理 は 得 ら れ な い と し (( ( 、 江 西 の 馬 祖 下 に 参 じ る。 馬 祖 は 大 暦 四 年 (七 六 九) に は 鍾 陵 の 開 元 寺 ((( ( (江 西 省 南 昌 市 新 建 県) に 住 し て い た と さ れ る の で、 そ こ に 参 じ た 事 に な る。 南 泉は馬祖下で初めて玄旨を得る事となる。 そこで南泉は、 同参の帰宗智常 (生没年未詳) と馬が合い、 共に過ごすことが多かったようであ る ((( ( 。 南泉は、 ただ馬祖の下で過ごしたのみならず、当時の禅僧が皆そうであったように道を求めて行脚を行 う ((( ( 。 そ の 後、 南 泉 は 貞 元 十 一 年 (七 九 五) 、 四 十 八 歳 に し て 池 陽 南 泉 山 (安 徽 省 池 州 市 貴 池 区) に 錫 杖 を 留 め、 自 ら禅宇を構えて住山す る ((( ( 。以降三十年間、南泉山を下らずに弘法したとされる。そして、池陽の前太守であ り、 宣 歙 観 察 使 と し て 赴 任 し た 陸 亘 ((( ( (七 六 四 ~ 八 三 四) が、 太 和 の 初 め (八 二 七 ~) 、 南 泉 山 を 下 ら し め て 弟 子 の 礼 を と り、 こ れ に よ り 南 泉 山 は 大 い に 盛 況 し た と い う。 陸 亘 が 宣 州 に 移 っ た の は、 『唐 方 鎮 年 表』 巻 五 には太和七年 (八三三) 閏七月となっている。その次の年、太和八年 (八三四) 十月二十一日に疾を示 し ((( ( 、十 二月二十五日の暁に遷化したとい う ((( ( 。八十七歳であった。 次 に 黄 檗 の 生 涯 を 概 略 す る。 黄 檗 の 出 自 は、 各 史 伝 を 通 じ 閩 県 (福 建 省 福 州 市 閩 侯 県) の 出 身 で あ る。 そ の 俗名については全ての伝記資料は逸しており、年寿も全ての資料は欠いているので生年を明らかにすること が出来ない。しかし、百丈の下で共に道を求め、同時代に活躍した潙山霊祐と仮に同年輩とすれ ば 、潙山霊 祐 の 生 年 は 大 暦 六 年 (七 七 一) で あ る の で、 こ の 頃 と も 考 え ら れ る ((( ( 。 幼 く し て 本 州、 即 ち 郷 里 の 福 州 黄 檗 山 (
で 出 家 す る。 『宋 高 僧 伝』 巻 二 〇 に は 「年 及 就 傅 郷 校 推 其 慧 利。 乃 割 愛 投 高 安 黄 檗 山 寺 出 家 ( 年 、 就 傅 に 及 ん で 郷 校 其 の 慧 利 を 推 す 。 乃 ち 愛 を 割 き 高 安 の 黄 檗 山 寺 に 投 じ 出 家 す ) 」 ( T. 50, 842b ) と あ る 。「 就 傅 」 は『礼記』内則 に 「十 年、 出 就 外 傅、 居 宿 於 外、 学 書 計 (十 年 に し て、 出 で て 外 傅 に 就 き、 外 に 居 宿 し て 書 計 を 学 ぶ) 」 と あ る の で、 『宋 高 僧 伝』 の 説 を と れ ば 十 歳 と い う 事 に な る だ ろ う。 黄 檗 の 出 家 し た 福 州 黄 檗 山 と は、 周 知 の と お り、 後代に隠元隆琦 (一五九二~一六七三) が住した黄檗山万福寺である。 黄檗の体躯は堂々たるもので、身長は七尺あったと各史伝は伝えており、額に は肉珠があったという。黄 檗が福州黄檗山を後にしたのは何時のことか記されていない。福州黄檗山を出で天台に登り、後に都、即ち 長 安 に 遊 び、 そ こ で 乞 食 行 中 に 出 会 っ た 老 婆 か ら 百 丈 の こ と を 聞 き、 百 丈 に 参 じ る 機 と な っ た と さ れ る ((( ( 。 『祖 堂 集』 の み に こ の 老 婆 は、 南 陽 慧 忠 に 礼 し た と 記 す ((( ( 。 こ れ に よ り、 百 丈 山 (江 西 省 宜 春 市 奉 新 県) の 百 丈 に参じることとなる。そして黄檗は百丈の下で大悟を得る。 また、黄檗の行脚の姿も残されている。管見の限り、黄檗が参じたのは百丈、南泉、塩官であ る ((( ( 。先述の 通り百丈との機縁の話は合計で五つ、南泉が六つ、塩官が二つである。この黄檗と南泉の機縁については本 稿の中心課題として次節以降考察を加える。そして、これも月日は特定できないが、黄檗は後、南昌府高安 (江 西 省 宜 春 市 宜 豊 県) の 黄 檗 山 ((( ( に 住 山 す る こ と と な る。 そ こ で、 裴 休 と の 出 会 い ((( ( を 経 て 会 昌 (八 四 一 ~ 八 四 六) の 廃 仏 に 遭 い、 弟 子 の 千 頃 楚 南 (八 一 三 ~ 八 八 八) と 林 谷 に 逃 れ た と さ れ る ((( ( 。 そ し て 大 中 二 年 (八 四 八) に裴休に再び請われ宛陵の開元寺に招来されたとい う ((( ( 。逃れていた場所は明記されていない為、特定が出来 ない。会昌の廃仏を迎えた鍾陵近郊か、それとも宛陵辺であろうか。 最後は本山とあるので黄檗山に 戻ったとされ る ((( ( 。寂年については諸説があ り ((( ( 、現段階ではどれも仮説の域 を 出 な い。 よ っ て、 黄 檗 の 示 寂 は 大 中 年 間 (八 四 七 ~ 八 五 九) で あ り、 裴 休 の 序 に 信 を 置 く な ら ば 大 中 二 年
(八四八) 以降となる。 黄檗と南泉の機縁 前述したように、黄檗と南泉の間に は合計六つの機縁の話が残されている。また、直接の対話は無いが、 伝 聞 し た 黄 檗 の 話 に 南 泉 が 評 唱 す る と い う 話、 馬 頭 峯 神 蔵 (生 没 年 未 詳) の 上 堂 に 南 泉 が 著 語 し、 そ れ を 黄 檗が評する話が残されている。黄檗と南泉の機縁の話は、管見の限り『伝灯録』までで全て出揃う。後代に おいて機縁の話を挙似した者の著語、評唱等が付されることもあるが、主たる機縁部分は『五灯会元』まで で字句も固定化される。故に、本稿で扱う資料は『五灯会元』迄とする。以下に機縁の話が収録されている 資料を挙げ、巻数の後ろに本稿で考察する順に①~⑥まで番号を打つ。著語・評唱があるものは白抜きにす る。 (著語・評唱が付されるもので前出と異なるものは斜体の白抜きとする。 ) 九五二年 (広順二) 『祖堂集』 〈十六〉南泉章❶②③⑤❹ 一〇〇四年 (景徳元) 『景徳伝灯録』 〈八〉 南泉章③⑤② 〈九〉黄檗章④⑥① 一〇三六年 (景祐三) 『天聖広灯録』 〈八〉 黄檗章③①❷④ 一〇八五年 (元豊八、序) 『四家語録』 〈二〉 黄檗章③①❷④ 一一三三年 (紹興三以前) 『宗門統要集』 〈四〉 黄檗章①❸ ❷ ⑤④ 一一八三年 (淳熙十) 『宗門聯灯会要』 〈七〉 黄檗章①❸ ❷ ⑤④ 一二五二年 (淳祐十二) 『五灯会元』 〈三〉 南泉章③⑤② 〈四〉黄檗章④⑥①
以 上 に 列 挙 し た も の を 見 る と、 系 統 が 容 易 に 理 解 で き る。 『祖 堂 集』 の み が 単 独 で あ り、 他 は 『伝 灯 録』 『広 灯 録』 『宗 門 統 要』 に 編 纂 さ れ る も の の ど れ か を 踏 襲 し て い る。 以 上 を 踏 ま え 以 下 に 黄 檗 と 南 泉 の 機 縁 に考察を加える。 一 『祖堂集』巻一六 ( 595 ~ 596 ) 南泉章 師問黄蘗、笠子太小生。黄蘗云、雖然小、三千大千世界 揔 ママ 在裏許。師云、王老師你。黄蘗無對。後有人 擧似長慶。長慶代云、欺敵者亡。保福代曰、洎不到和尚此間。 師、 黄 蘗 に 問 う、 「笠 子 太 だ 小 ち 生 い さ し」 。 黄 蘗 云 く、 「小 な り と 雖 い え ど 然 も、 三 千 大 千 世 界、 ( 揔 すべ ) て 裏 許 に 在 り」 。 師 云 く、 「王 老 師 你 は 」。 黄 蘗 無 対。 後 に 人 有 り て 長 慶 に 挙 似 す。 長 慶 代 わ っ て 云 く、 「敵 を 欺 あなど る 者 は 亡 ず」 。 保 福 代 わ って曰く、 「 洎 あやう く和尚が此間に到らざらんとす」 。 『伝灯録』巻九 ( 137a ) 黄檗章 師辭南泉、門送提起師笠子云、長老身材勿量大、笠子太小生。師云、雖然如此、大千世界揔在裏許。南 泉云、王老師 。師便戴笠子而去。 師、 南 泉 を 辞 す る に 、 門 送 し 師 の 笠 子 を 提 起 し て 云 く、 「長 老 の 身 材、 勿 量 大 な る に 、 笠 子 太 だ 小 生 さ し」 。 師 云 く、 「此の如くなりと雖然も、大千世界は 揔 すべ て裏許に在り」 。南泉云く、 「王老師 ■ は 」。師便ち笠子を 戴 かぶ りて去く。 『広灯録』巻八 ( 411b ) 黄檗章
師一日出次、南泉云、如許大身材、戴箇些子大笠。師云、三千大千世界揔在裏許。南泉云、王老師 。 師戴笠便行。 師、 一 日 出 で る 次 い で、 南 泉 云 く、 「 許 かく の 如 き 大 身 材 な る に、 箇 の 些 子 の 大 笠 を 戴 る」 。 師 云 く、 「三 千 大 千 世 界 は 揔て裏許に在り」 。南泉云く、 「王老師 ■ は 」。師笠を戴りて便ち行く。 こ れ は、 黄 檗 の 堂 々 た る 体 躯 と 笠 の 小 さ さ を 対 比 し た、 全 て の 資 料 に 記 載 さ れ る 話 で あ る。 右 に は、 『祖 堂 集』 『伝 灯 録』 『広 灯 録』 に そ れ ぞ れ 収 録 さ れ る 話 を 挙 げ た。 他 の 資 料 に 収 録 の も の は、 『伝 灯 録』 も し く は、 『広 灯 録』 の も の に 準 じ て い る。 内 容 は、 ほ ぼ 同 じ で あ る が、 厳 密 に は 三 つ の 違 っ た 立 場 が 取 ら れ て い ると考えられる。 ま ず 『祖 堂 集』 に 収 め ら れ る 話 に つ い て で あ る が、 『祖 堂 集』 の 話 に の み 長 慶 慧 稜 (八 五 四 ~ 九 三 二) ・ 保 福 従 展 (? ~ 九 二 九) の 著 語 が 付 さ れ る。 こ の 著 語 は、 南 泉 と 黄 檗 だ け の も の で は な い。 長 慶 の 著 語 「欺 敵 者 亡」 は、 『伝 灯 録』 巻 一 一 霊 樹 如 敏 章 に 記 さ れ る 如 敏 と 尼 と の 話 に 付 さ れ る 保 福 の 著 語 と 同 じ で あ る ((( ( 。 ま た、 保 福 の 著 語 「洎 不 到 和 尚 此 間」 は、 『祖 堂 集』 巻 一 一 保 福 章、 同 巻 一 五 東 寺 章 で、 東 寺 と 南 泉 の 話 に 付 さ れ る 保 福 の 著 語 と 同 じ で あ る ((( ( 。 ま た、 『伝 灯 録』 以 降、 慧 忠 章 に も 慧 忠 と 南 泉 の 話 と し て、 先 の 東 寺 と 南 泉の商量と全く同じ内容が記され、保福により「幾不到和尚此間」と、ほぼ同じ著語がなされ る ((( ( 。これらの 著語は、使用される場面は当然違うが、共通する点がある。それは、返者が「無対」という様に、答を発し な い 時 に 代 わ っ て 付 さ れ る 著 語 で あ る、 と い う こ と で あ る。 『祖 堂 集』 以 外 の こ の 話 に 著 語 が 付 け ら れ な い 理由の一つとして、黄檗が「無対」ではない、ということが考えられる。 『祖 堂 集』 以 外 の 資 料 に お い て、 黄 檗 は 南 泉 の 「わ し (王 老 師) は ど う か」 と い う 問 い に 、 笠 を 戴 り 行 く
のである。最後のこのはたらきが描かれることによって、黄檗の姿は全く違ったものになっている。また、 『祖堂集』のみ、黄檗の偉丈夫である姿が描かれていな い ((( ( 。他の資料においては、 「長老身材勿量大」 「如許 大身材」という様に、黄檗の堂々たる身長を云い、笠の小ささを際立たせ る ((( ( 。 次 に 、 こ の 問 答 が 何 時 為 さ れ た か と い う 点 で、 立 場 が 全 く 異 な っ て い る。 『祖 堂 集』 に は 何 の 記 述 も な い。 『広 灯 録』 等 で も、 「師 一 日 出 次」 と さ れ る の み で、 こ の 話 が 何 時 為 さ れ た か 明 記 さ れ て い な い。 し か し、 『伝 灯 録』 等 で は、 「師 辞 南 泉、 門 送 提 起 師 笠 子 云」 と、 南 泉 を 辞 去 す る 時 の 逸 話 と さ れ て い る。 こ れ は、 南泉と黄檗の数ある機縁の最後に記載されていることからも、理解することが出来る。 以 上 に よ り、 こ の 話 は 三 つ の 違 っ た 立 場 か ら そ れ ぞ れ 描 か れ て い る こ と が 理 解 出 来 る。 一 つ に は、 『祖 堂 集』 に 表 さ れ る、 ま だ 修 行 の 道 程 に あ る 黄 檗 の 姿 で あ る。 『祖 堂 集』 で は、 黄 檗 は 堂 々 た る 体 躯 で あ る こ と も描かれず、南泉の問いに得意に応じるも、重ねられた問いに答える事が出来ない。そのような不足があっ たからこそ、長慶、保福が著語を為すのである。 次 に 、『伝 灯 録』 等 に 表 さ れ る 南 泉 の 下 を 去 る、 大 悟 徹 底 し た 黄 檗 の 姿 で あ る。 機 縁 中 に 示 さ れ る よ う に、 南泉を辞する時の南泉との最後の対話である。南泉の追問に、堂々たる偉丈夫の黄檗は颯爽と笠を被り去り 行く、という行動により応じる。いかにも作家の弟子と、師の最後に相応しい姿である。 最 後 に 、『広 灯 録』 等 に み ら れ る 先 の 話 か ら 修 飾 句 を 除 い た、 南 泉 下 で の あ る 日 の 黄 檗 の 姿 で あ る。 内 容 は『伝灯録』等と変わらないが、簡素な表現で記されており、劇的な師との別れの日ではなく、師と弟子の 日常の一コマに感じられる。
二 『祖堂集』巻一六 ( 598 ) 南泉章 師問黄蘗、定慧等學明見佛性、此理如何。黄蘗云、不依一物。師云、莫便是長老家風也無。蘗云、不敢。 師云、漿水錢則且置、草鞋錢敎阿誰還。 師 黄 蘗 に 問 う、 「定 慧 等 し く 学 し て 明 ら か に 仏 性 を 見 る、 此 の 理 如 何 ん」 。 黄 蘗 云 く、 「一 物 に 依 ら ず」 。 師 云 く、 「便 ち 是 れ 長 老 が 家 風 な る こ と 莫 し や」 。 蘗 云 く、 「不 敢」 。 師 云 く、 「漿 水 銭 は 則 ち 且 く 置 く、 草 鞋 銭 は 阿 た 誰 れ を し て か 還 はら わしめん」 。 『広灯録』巻八 ( 411b ) 黄檗章 師一日在茶堂内坐。南泉下來問、定慧等學明見佛性。此理如何。師云、十二時中不依倚一物。泉云、莫 便是長老見處 磨 ママ 。師云、不敢。泉云、漿水錢且置、草鞋錢敎什 磨 ママ 人還。師便休。潙山後舉此因縁、問仰 山、莫是黃檗構他南泉不得 磨 ママ 。仰山云、不然、須知黃檗有陷虎之機。潙山云子見處、得與 磨 ママ 長 師 一 日、 茶 堂 の 内 に 在 っ て 坐 る。 南 泉 下 り 来 っ て 問 う、 「定 慧 等 し く 学 し て 明 ら か に 仏 性 を 見 る。 此 の 理 如 何 ん」 。 師 云 く、 「十 二 時 中 一 物 に も 依 倚 せ ず」 。 泉 云 く、 「便 ち 是 れ 長 老 が 見 処 な る こ と 莫 し や」 。 師 云 く、 「不 敢」 。 泉 云 く、 「漿 水 銭 は 且 く 置 く、 草 鞋 銭 は 什 い ず れ 磨 の 人 を し て 還 わ し め ん」 。 師 便 ち 休 す。 潙 山 後 に 此 の 因 縁 を 舉 し て、 仰 山 に 問 う、 「是 れ 黄 檗 の 他 の 南 泉 を 構 す る こ と 得 ざ る こ と 莫 し や」 。 仰 山 云 く、 「然 ら ず、 須 く 黄 檗 に 陥 虎 の 機 あ る こ と を 知るべし」 。潙山云く、 「 子 なんじ が見処、与磨に長ずることを得たり」 。 こ の 話 も 本 稿 で 挙 げ る 資 料 全 て に 記 載 が あ り、 『伝 灯 録』 等 は 『祖 堂 集』 に ほ ぼ 準 じ て い る。 こ の 話 は、
『涅槃経』巻二八「師子吼菩薩品」 ( T. 12, 79 2c ) 「諸佛世尊定慧等故、明見佛性」の語に典拠があり、 『六祖 壇経』定慧第四 ( T. 48, 352c ) でも次のように取り上げられる。 師示衆云、善知識、我此法門以定慧為本。大衆勿迷言定慧別。定慧一体不是二。定是慧体、慧是定用。 即慧之時定在慧。即定之時慧在定。若識此義即是定慧等学。 師 衆 に 示 し て 云 く、 「善 知 識、 我 が 此 の 法 門 は 定 慧 を 以 っ て 本 と 為 す。 大 衆 は 迷 っ て 定 慧 は 別 な り と 言 う こ と 勿 れ。 定 慧 は 一 体 に し て 是 れ 二 な ら ず。 定 は 是 れ 慧 の 体 に し て、 慧 は 是 れ 定 の 用 な り。 即 慧 の 時、 定 は 慧 に 在 り て、 即 定 の時、慧は定に在り。若し此の義を識ら ば 即ち是れ定慧等しく学するなり」 。 禅定と智慧を、法門の根本とするという極めて重要な主張である。これは当然、南泉、黄檗のみならず、 当時の禅僧達もこの問題を扱った問答を為してい る ((( ( 。 こ の 話 は、 『広 灯 録』 で は 茶 堂 で の 事 で あ っ た さ れ る。 ま た 『広 灯 録』 等 の 話 で は、 黄 檗 が 南 泉 の 語 を 打 ち切ったことと、その後の潙仰の評唱が付される。この付加より、この話に対する理解が変化する。また、 『宗門統要』巻四 ( 90b ) 黄檗章等では潙仰の語の後に、 保福展云、若無潙仰、埋没著黄檗。五祖戒云、仰山大似爲虵畫足。 保福展云く、 「若し潙仰無くん ば 、黄檗を埋没す」 。五祖戒云く、 「仰山大いに虵の為に足を画くが 似 ごと し」 。 というように『広灯録』等の立場を受け、保福と戒和尚の著語が付される。
『祖堂集』等、評唱が付されないものでは、南泉の黄檗への一語で締めくくられる。内容を見れ ば 、南泉 の「禅定と智慧を等しく学ぶことによって明らかに仏性を見る、ということは、どのようなことか」という 問 い 掛 け に、 黄 檗 は、 「何 も の に も (定 慧 に も) 依 存 し な い こ と だ」 と 応 じ る。 南 泉 は、 「そ れ が お 前 の 見 処、 家風なのだな」と念を押す。黄檗はその言葉に「どう致しまして」と答える。この答えは、文脈から謙遜で は 無 く、 自 負 の 意 が 滲 ん で い る と 取 る べ き で あ ろ う ((( ( 。 南 泉 は、 そ の 得 々 と し た 黄 檗 に 、「飲 食 代 は 仕 方 な い として、その見処を提するに費やした修行、行脚の費用は誰が代弁するのか」と、その見処ではまだ及 ば な い ((( ( 、と叱咤する。以上が『祖堂集』等、潙仰の評唱がないものの表面的な解釈になる。最後の南泉の語は、 黄檗を全面的に肯っているようには見えず、この話は、黄檗の機が未だ純熟していない時のものである。少 なくとも、 『祖堂集』 『伝灯録』のようにこの話が南泉章に収録されているものでは、そのような評価を下し ていると考えられる。 しかし、潙仰の評唱を付するものは、この話をまた違った視点から評している。南泉の語に 黄檗は休する。 そ し て、 潙 山 が こ の 因 縁 を 挙 し て 仰 山 に 、「黄 檗 は、 南 泉 の 真 意 を 得 る 事 が 出 来 な か っ た の だ ろ う か」 と、 問 い か け る。 こ れ は、 黄 檗 の 「休」 か ら、 全 体 を 問 題 に し て い る の で あ る。 そ れ に 仰 山 は、 「そ う で は な い。 黄檗には、虎を穴に陥れるような大力量があることを知らね ば ならない」と、答える。それは、この「休」 は 勿 論、 問 答 全 体 の 主 導 は、 実 は 黄 檗 に あ っ た の だ と 云 う の で あ る。 そ れ に 対 し 潙 山 は、 「お 前 の 見 処 は 成 長している」と、仰山を肯い賛ずる。 また、 『宗門統要』等では、それを受け、黄檗の評価を決定づけてい る ((( ( 。本稿では、 「定慧等学明見仏性」 という思想内容に立ち入り考察することはしないが、この話に評価の変化があることは確かである。それも、 百丈と黄檗の関係性を深く繋げる役目を担った同じ潙仰の評唱が付されることによることは注目に値す る ((( ( 。
三 次に挙げる機縁の話も本稿で扱う資料全てに 収録される話である。 『祖堂集』巻一六 ( 598 ) 南泉章 師又問、長老什摩年中受戒。蘗云、威音王佛同時受戒。師云、威音王佛是我兒孫。黄蘗却問和尚、什摩 年中受戒。師云、這後生莫礼。黄蘗無對。 師 又 問 う、 「長 老 什 い ず れ 摩 の 年 中 に か 受 戒 せ る」 。 蘗 云 く、 「威 音 王 仏 と 時 を 同 じ う し て 受 戒 せ り」 。 師 云 く、 「威 音 王 仏 は是れ我が児孫なり」 。 黄蘗却って和尚に問う、 「什摩の年中に か受戒せる」 。 師云く、 「這の後生礼莫し」 。 黄蘗無対。 『伝灯録』巻八 ( 117b ~ 118a ) 南泉章 師一日捧鉢上堂。黃蘗和尚居第一坐、見師不起。師問云、長老什麽年中行道。黃蘗云、空王佛時。師云、 猶是王老師孫在、下去。 師 一 日 鉢 を 捧 げ て 上 堂 す。 黄 蘗 和 尚 第 一 坐 に 居 り、 師 を 見 る も 起 た ず。 師 問 う て 云 く、 「長 老 は 什 麽 の 年 中 に か 行 道せる」 。黄蘗云く、 「空王仏の時なり」 。師云、 「猶お是れ王老師が孫なり、下り去れ」 。 『広灯録』巻八 ( 411b ) 黄檗章 師行脚時到南泉。一日齋時捧鉢向南泉位上坐。南泉下來。見便問、長者什 磨 ママ 年中行道。師云、威音王巳 前。南泉云、猶是王老師孫在。師便移下座 師 行 脚 の 時 南 泉 に 到 る。 一 日 斎 時、 鉢 を 捧 げ 南 泉 の 位 上 に 坐 す。 南 泉 下 り 来 る。 見 て 便 ち 問 う、 「長 者 は 什 い ず れ 磨 の 年
中にか行道せる」 。師云く、 「威音王巳前」 。南泉云く、 「猶お是れ王老師の孫なり」 。師便ち下座に移る。 『宗門統要』巻四 ( 90a ) 黄檗章 師在南泉會、為首座。一日捧鉢、向南泉位中坐。泉入堂、見乃問、長老甚年中行道。師云、威音王已前。 泉云、猶是王老師孫、下去。師過第二位坐。泉休去。潙山云、欺敵者亡。仰云、不然。須知黃檗有陷虎 之機。潙山云、子見處得與麽長。雪竇云、可惜王老師。只見錐頭利。我當時若作南泉、待伊道威音王已 前、即便於第二位坐、令黃檗一生起不得。雖然如此、也須救取南泉。雲峰悅云、後來叢林中多有商量。 或道、黃檗有陷虎之機、南泉有煞虎之威。若作與麽說話、誠實苦哉。殊不知、這老賊有年無德。喫飯坐 處、也不依本分。若雲峯門下、說甚威音王已前、王老師更大。直須喫棒了趂出。 師 南 泉 の 会 に 在 っ て、 首 座 と 為 る。 一 日 鉢 を 捧 げ、 南 泉 の 位 中 に 坐 す。 泉 入 堂 し、 見 て 乃 ち 問 う、 「長 老 は 甚 いずれ の 年 中 に か 行 道 せ る」 。 師 云 く、 「威 音 王 已 前」 。 泉 云 く、 「猶 お 是 れ 王 老 師 が 孫 な り、 下 り 去 れ」 。 師 第 二 位 に 過 ぎ 坐 す。 泉 休 し 去 る。 潙 山 云 く、 「敵 を 欺 る 者 は 亡 ず」 。 仰 云 く、 「然 ら ず。 須 く 黄 檗 に 陥 虎 の 機 有 る こ と を 知 る べ し」 。 潙 山 云 く、 「子 が 見 処、 与 麽 に 長 ず る こ と を 得 た り」 。 雪 竇 云 く、 「惜 し む 可 き は 王 老 師 な り、 只 だ 錐 頭 の 利 な る を 見 る の み。 我 れ 當 その 時 かみ 若 し 南 泉 と 作 ら ば 、 伊 かれ の 『威 音 王 已 前』 と 道 う を 待 っ て、 即 す な わ 便 ち 第 二 位 に 坐 し、 黄 檗 を し て 一 生 起 ち 得 ざ ら し む。 此 の 如 く な り と 雖 然 も、 也 た 須 く 南 泉 を 救 取 す べ し」 。 雲 峰 悦 云 く、 「後 来 の 叢 林 中 に 多 く 商 量 有 り。 或 る ひ と 道 く、 『黄 檗 に 陥 虎 の 機 有 り、 南 泉 に 煞 虎 の 威 有 り』 と。 若 し 与 麼 の 説 話 を 作 さ ば 、 誠 に 実 に 苦 な る 哉。 殊 に 知 ら ず、 這 の 老 賊 に 年 有 っ て、 徳 無 き こ と を。 飯 を 喫 し 坐 す る 処、 也 た 本 分 に 依 ら ず。 若 し 雲 峰 門 下 に、 甚 の 『威音王已前』と説か ば 、王老師更に 大 はなはだ し。 直 すべからく 須 棒を喫し了って趂出すべし」 。 この話の芯となる部分は、次の如くである。南泉が黄檗へ「何時受戒をしたのか」と問う。それに 黄檗が、
「威 音 王 仏 (空 王 仏) と 同 じ、 も し く は そ れ 已 前」 と 応 じ る。 威 音 王 已 前 (空 王 已 前) は、 定 型 語 で あ り、 こ れ 以 上 遡 る こ と の 出 来 な い 過 去 で あ る。 し か し、 南 泉 は そ れ を 好 し と は せ ず、 「威 音 王 仏 な ど わ し の 孫 ほ ど だ」と喝破する。 こ の 他 の 部 分 に、 語 句 の 異 同 が 見 ら れ、 各 々 状 況、 立 場 に 相 違 が 生 じ て い る。 『祖 堂 集』 で は、 時、 場 所 は 分 か ら ず、 た だ 問 答 の み が 描 か れ る。 『伝 灯 録』 で は、 文 脈 か ら 南 泉 が 鉢 を 捧 げ て の 上 堂 で の 話。 『広 灯 録』 で は、 斎 時、 即 ち 正 午 の 食 事 の 時 の 話 で あ り、 鉢 を 捧 げ る の は 黄 檗 で、 食 堂 で の 話 と な る。 『宗 門 統 要』では、ある一日の話となるが、内容から先の『広灯録』と同じ斎時の話であると推測される。ここでは 黄檗は南泉下の首座である。 そ し て、 南 泉 の 一 語 の 後 の 対 応 に 大 き な 違 い が 生 ず る。 『祖 堂 集』 に お い て 黄 檗 は、 続 け て 「で は 和 尚 は い つ 受 戒 し た の か」 と 返 問 す る。 そ れ に 対 し 南 泉 は、 「這 後 生 莫 礼」 と 「こ の 未 熟 者、 礼 が な っ て お ら ん」 と 一 喝 す る ((( ( 。 そ の 一 喝 に 黄 檗 は、 返 す 言 葉 が 無 い。 『伝 灯 録』 で は、 上 堂 す る 南 泉 を 見 て、 第 一 座 よ り 立 た な い 黄 檗 に 向 け て 為 さ れ た 問 答 で あ る。 こ の 話 を 締 め く く る の は、 南 泉 の 「下 り 去 れ」 で あ る。 『広 灯 録』 では、食堂で南泉の坐るべき座に坐っていた黄檗との問答である。黄檗は、南泉の一語により自ら下座へ移 る。 『宗 門 統 要』 で は、 首 座 ((( ( と 明 記 さ れ た 黄 檗 の 『広 灯 録』 と 同 じ 状 況 で の 問 答 で あ る。 し か し、 南 泉 の 一 語 の 後、 黄 檗 は 第 二 座 に 坐 る。 そ れ に 対 し 南 泉 は、 「師 便 休」 と 黄 檗 が 南 泉 を 下 し た か の よ う で あ る。 そ し て、それに続き潙山の著語が付される。この著語は、本稿「 一 」で考察した『祖堂集』に、収録される機縁 に長慶が付した著語と同じである。その後、これも本稿「 二 」で考察した『広灯録』に、付される潙仰の評 唱 と 全 く 同 じ も の が 加 え ら れ る。 そ の 上、 雪 竇 重 顕 (九 八 〇 ~ 一 〇 五 二) 、 雲 峰 文 悦 (九 九 八 ~ 一 〇 六 二) の 評 価も付される。ここに付される評唱を見れ ば 一目瞭然であるが、黄檗が高く評価されている。
『祖 堂 集』 の 話 は、 他 と 趣 が 異 な る が、 『伝 灯 録』 以 降、 内 容 が 増 補 さ れ て い る こ と が 容 易 に 理 解 出 来 る。 『祖堂集』の話は、南泉章に収録されていることからも、師である南泉の力量が強調されており、黄檗に重 点は置かれていない。しかし、 『伝灯録』以降、黄檗のはたらき、そして南泉の休す様が追補される。 『宗門 統要』に至っては、他の機縁に付された潙仰の評唱、雪竇・雲峰が露骨に南泉を下す評が加えられる。収録 される資料により立場が異なり、作為的な改変がなされていることが如実に理解出来る。 四 『祖堂集』巻一六 ( 60 1 ~ 60 2 ) 南泉章 師問黄蘗、去什摩處。對云、擇菜去。師云、將什摩擇。黄蘗竪起刀子。師云、只解作客不解作主。自代 云、更覓則不得。有僧拈問長慶、与古人作主如何道。長慶便咄之。僧拈問順徳、南泉見黄蘗去什摩處意 旨如何。順徳云、也是黄蘗招致得。僧云、只如黄蘗後与摩 枑 ママ 對南泉還得也無。徳云、且自付則得。僧云、 只如對南泉作摩生道。徳云、汝作南泉来。僧云、將什摩擇。徳放下刀。 師、 黄 蘗 に 問 う、 「什 摩 処 に か 去 く」 。 対 え て 云 く、 「菜 を 択 び に 去 く」 。 師 云 く、 「什 摩 を 将 っ て か 択 ぶ」 。 黄 蘗、 刀 子 を 竪 起 す。 師 云 く、 「只 だ 解 く 客 と 作 る の み に し て 主 と 作 る 解 わ ず」 。 自 ら 代 わ っ て 云 く、 「更 に 覓 む れ ば 則 ち 得 ず」 。 僧 有 り て 拈 じ て 長 慶 に 問 う、 「古 人 の 与 に 主 と 作 ら ん に は 如 何 が 道 わ ん」 。 長 慶 便 ち 之 を 咄 す。 僧 拈 じ て 順 徳 に 問 う、 「南 泉、 黄 蘗 を 見 し 什 摩 の 処 に か 去 く の 意 旨 如 何」 。 順 徳 云 く、 「也 た 是 れ 黄 蘗 の 招 致 し 得 た り」 。 僧 云 く、 「只 だ 黄 檗 の 後 に 与 摩 に 南 泉 に 枑 (祗) 対 せ る 如 き は 還 た 得 た り や」 。 徳 云 く、 「且 く 自 か ら 付 せ ば 則 ち 得 た り」 。 僧 云 く、 「只 だ 南 泉 に 対 え る が 如 き は 作 摩 生 か 道 わ ん」 。 徳 云 く、 「汝、 南 泉 に 作 り 来 れ」 。 僧 云 く、 「什 摩 を 将 っ て か択ぶ」 。徳、刀を放下す。
『伝灯録』巻九 ( 137a ) 黄檗章 師在南泉時、普請擇菜。南泉問、什麽處去。曰、擇菜去。南泉曰、將什麽擇。師、擧起刀子。南泉云、 只解作賓、不解作主。師扣三下。 師、 南 泉 に 在 り し 時、 普 請 し て 菜 を 択 ぶ。 南 泉 問 う、 「什 麽 の 処 に か 去 く」 。 曰 く、 「菜 を 択 び 去 く」 。 南 泉 曰 く、 「什 麽 を 将 っ て か 択 ぶ」 。 師、 刀 子 を 挙 起 す。 南 泉 曰 く、 「只 だ 解 く 客 と 作 る の み に し て、 主 と 作 る 解 わ ず」 。 師 扣 くこと三下す。 こ の 話 も、 本 稿 で 挙 げ る 資 料 全 て に 記 載 が あ り、 『伝 灯 録』 以 降、 後 述 の 部 分 以 外、 大 き な 変 化 は 見 ら れ ず、 『祖 堂 集』 の み 長 慶、 順 徳 に よ る こ の 話 を 題 材 に し た 商 量 が 続 け ら れ る。 こ の 話 は、 「主 客」 「分 別」 を 主 題 と し た も の で あ り、 入 矢 氏 ・ 古 賀 氏 の 指 摘 に あ る よ う に 、『龐 居 士 語 録』 に 収 録 さ れ る 龐 居 士 (~ 八 〇 八) と松山 (生没年未詳) の話を踏まえていると考えられ る ((( ( 。 「択菜」とは、菜の葉の青い部分だけを取り、黄色いものは捨てることをい う ((( ( 。作務という日常に内包さ れる、分別、差別を題材に南泉が問いかける。それに黄檗は、包丁を持ちあげ体を持って示す。しかし、南 泉は「只解作客不解作主」と、それでは菜を択ぶ主体が見えぬ、と詰め寄る。ここまでは、各資料同様であ るが、以下に違いが生じる。 『祖堂集』では、南泉が自ら代わって「更覓則不得」と見処を示す。その後、長慶と順徳に ある僧が挙似 し、 そ れ ぞ れ 黄 檗 に 代 わ り 「主」 を 提 示 す る。 『祖 堂 集』 で は、 黄 檗 は 「主」 を 示 す こ と が 出 来 ず 南 泉 に 導 かれる。故に、それが後に問答の題材となるのである。また、順徳は、実はこの商量は、黄檗から仕掛けた ものだという。そうであれ ば 、『祖堂集』では黄檗は、全く南泉に下されていることとなる。
しかし、他の資料では状況が変化する。各資料大きな字句の異同はなく、南泉の一語の後、黄檗は「師扣 三下」と包丁を三度たた き ((( ( 、包丁を使いこなす自己という「主」を提示する。南泉の追尋に難なく答えるの で あ る。 さ ら に 『五 灯 会 元』 で は、 「大 家 択 菜 去 (み な 菜 を 択 び に 行 け) 」 と 南 泉 は そ れ を 肯 う か の よ う に 結 ぶ ( 。 『祖堂集』以外、黄檗の評価は、一致して向上していると言える。 五 『祖堂集』巻一六 ( 598 ~ 59 9 ) 南泉章 師又問、白銀為地、黄金為壁。此是什摩人居止處。蘗云、聖人居止處。師曰、更有一人、居什摩處。蘗 云、我則道不得。師云、王老師却道得。蘗云、便請道。師云、王老師罪過。 師 又 た 問 う、 「白 銀 を 地 と 為 し、 黄 金 を 壁 と 為 す。 此 は 是 れ 什 摩 の 人 の 居 止 す る 処 な り や」 。 蘗 云 く、 「聖 人 の 居 止 す る 処 な り」 。 師 曰 く、 「更 に 一 人 有 り、 什 摩 の 処 に 居 す る や」 。 蘗 云 く、 「我 れ 則 ち 道 い 得 ず」 。 師 云 く、 「王 老 師 却 って道い得たり」 。蘗云く、 「便ち道うを請う」 。師云く、 「王老師が罪過なり」 。 『伝灯録』巻八 ( 118a ) 南泉章 師一日問黃蘗、黃金爲世界、白銀爲壁落。此是什麽人居處。黃蘗云、是聖人居處。師云、更有一人、居 何國土。黃蘗乃叉手立。師云、道不得何不問王老師。黃蘗却問、更有一人、居何國土。師云、可惜許。 師 一 日、 黄 蘗 に 問 う、 「黄 金 を 世 界 と 為 し、 白 銀 を 壁 落 と 為 す。 此 は 是 れ 什 麽 の 人 の 居 す る 処 な り や」 。 黄 蘗 云 く、 「是 は 聖 人 の 居 す る 処 な り」 。 師 云 く、 「更 に 一 人 有 り、 何 れ の 国 土 に 居 す る や」 。 黄 蘗 乃 ち 叉 手 し て 立 つ。 師 云 く、 「道 い 得 ざ れ ば 何 ぞ 王 老 師 に 問 わ ざ る」 。 黄 蘗 却 っ て 問 う、 「更 に 一 人 有 り、 何 れ の 国 土 に か 居 す る や」 。 師 云 く、
「可惜許」 。 こ の 話 は、 『広 灯 録』 等 に は 収 録 さ れ て い な い 話 で あ る。 凡 聖 と い う 題 材 か ら 差 別 を 問 う 話 で あ り、 本 稿 「 四 」の話と通ずる点がある。 『祖堂集』では、白銀を地、即ち世界と為し、黄金を壁、即ち住まいとし、それ以外では、黄金を世界、 白銀を住まいとしている。これは、 『大智度論』巻三二 ( T. 25, 302b ) に「東方有国、純以黄金為地。彼仏弟 子、 皆 是 阿 羅 漢。 …… 東 方 有 国、 純 以 白 銀 為 地。 彼 仏 弟 子、 皆 学 辟 支 仏 道 (東 方 に 国 有 っ て、 純 もっぱ ら 黄 金 を 以 っ て 地 と 為 す な り。 彼 の 仏 弟 子、 皆 な 是 れ 阿 羅 漢。 …… 東 方 に 国 有 っ て、 純 ら 白 銀 を 以 っ て 地 と 為 す な り。 彼 の 仏 弟 子、 皆な辟支仏の道を学ぶ) 」と、ある。 黄金、白銀の字句の入れ替わりはあるが、南泉が、物質的且つ在俗的豪奢な世界に 住するものは誰か、を 黄 檗 に 問 う。 黄 檗 は、 聖 人 で あ る と 答 え る。 そ れ を 踏 ま え 南 泉 は、 で は、 「更 に 一 人 有 り」 即 ち、 そ の よ う な凡聖といった差別を超えた者は、どこに住するのか、と重ねて問う。ここから字句の異同が見られる。 『祖 堂 集』 で は、 黄 檗 は 「言 う こ と が 出 来 な い」 と 答 え る。 そ れ を 受 け て 南 泉 は、 「わ し な ら 言 う 事 が 出 来る」と答える。 「それならどうぞ一句お願いします」という黄檗に南泉は、 「わしが悪かった」と話を締め くく る ((( ( 。 『伝灯録』等では、黄檗は叉手に て立つ。即ち即今当処がそこである、と体現するのである。それを南泉 は、 「言 え な い な ら ば 、 な ぜ 聞 か ぬ」 と 言 葉 で 示 す こ と を 迫 る。 そ こ で 黄 檗 は、 同 じ 言 句 を 問 い 返 す。 そ れ に対し南泉は「おしい」とす る ((( ( 。 『祖堂集』では、黄檗は「道不得」と、見解を呈することを拒否、或いは答に 窮しているように 見える。
『伝灯録』等では、体を持って見処を示しており、黄檗の姿が違って見える。しかし、どちらの応答にも南 泉は、自らに問わしめようとする。即ち、黄檗の見処はどちらも同等のものであり、好しとはされない。そ し て、 黄 檗 は 南 泉 と 主 客 を 転 じ よ う と 問 い を 発 す る が、 そ れ も、 南 泉 の 導 き に 沿 う も の で は な い。 故 に、 「王 老 師 罪 過」 「可 惜 許」 と 嘆 息 す る の で あ る。 ど ち ら も、 黄 檗 を 導 く こ と が 出 来 て い な い 南 泉 の 自 省 の 念 が含まれていると読み解け る ((( ( 。この話は字句の異同が見られるが、内容的にはほぼ同義である。しかしなが ら、 『伝 灯 録』 等 に 収 録 さ れ る も の の 方 が、 理 解 が 容 易 で あ る。 ま た、 到 ら ぬ 点 で は 同 様 で あ る が、 見 処 を 呈しており、表面的な黄檗像が改良されている。 六 『伝灯録』巻九 ( 137a ) 黄檗章 一日南泉、謂師曰、老僧偶述牧牛歌。請長老和。師云、某甲自有師在。 一 日 南 泉、 師 に 謂 い て 曰 く、 「老 僧 偶 た ま 牧 牛 歌 を 述 ぶ。 請 う 長 老 の 和 せ ん こ と を」 。 師 云 く、 「 某 それ 甲 がし に 自 ら 師 有 る なり」 。 この話は南泉と黄檗の因縁話中に おいて異質であり、収録されている資料が少ない。この話は『伝灯録』 から追加されるが、 『広灯録』には見えない。また、字句の異同はほぼ無い。 周 知 の 如 く 南 泉 に は 「異 類 中 行」 の 語 が あ り、 彼 は 度 々 話 中 に 水 牯 牛 を 持 ち 出 す。 南 泉 は 上 堂 に お い て 「祖 佛 不 知 有、 狸 奴 白 牯 却 知 有 (祖 仏 は 有 る を 知 ら ず、 狸 奴 白 牯 却 っ て 有 る を 知 る) 」 (『祖 堂 集』 巻 一 六、 58 7 ) と 説 き、 遷 化 に 臨 み 「向 山 下 檀 越 家 作 一 頭 水 牯 牛 去 (山 下 の 檀 越 家 に お い て 一 頭 の 水 牯 牛 と 作 り 去 く) 」 (『祖 堂 集』
巻一六、 590 ) という。 牛は知られるように 禅家に おいて良く題材として使用され、後に 『十牛図』等で明確に なるように 心、本 具の仏性の喩えとして使用される。この「牧牛歌」とあるのも当然、同時代の禅匠達と同様に使用したもの であり、不思議はない。しかし、南泉においては、特に「牛」に意があると解すことが出来る。 南泉は、親しみと敬意を込め黄檗を「長老」と呼び、自らが作した牧牛歌に 酬和することを求める。それ に 対 し 黄 檗 は、 「私 に は も と も と 師 が お り ま す」 と 応 え る の で あ る。 こ れ こ そ が、 黄 檗 の 和 し た 牧 牛 歌 で あ ると、云えるのかも知れないが、深くこの語の真意を探ることを今は置く。虚心にこの語を見るなら ば 、た だ南泉の歌に和することをせず、自らに元来師があることを伝えているのである。この話が収録される資料 では、この次の話が南泉を辞するものである。これを踏まえ、南泉の牧牛歌に和することは、法系を継ぐこ とであり、それをせず百丈下であることを宣言している、と解釈することは飛躍し過ぎているだろうか。少 なくとも、この話で南泉が黄檗を明確に認めていることは真実である。後代、この話が収録されるにあたり、 内容に変化のある字句の異同はない。 ま た、 『広 灯 録』 巻 一 五 ( 475b ) 風 穴 章 に 牧 牛 歌 を 和 す、 こ の 話 と 全 く 同 じ 流 れ で、 風 穴 延 沼 (八 九 六 ~ 九 七三) と守廓 (生没年未詳) の話が収録されている。この時、風穴は酬和してい る ((( ( 。 七 『祖堂集』巻一一 ( 44 1 ~ 44 2 ) 睡龍章 有俗官、問黄蘗供養主、黄蘗和尚驢馬相似。上座、作供養主作什摩。僧無對。却歸擧似黄蘗。黄蘗云、 道薄人微甚是難消。有人擧似南泉。南泉云、池州麻黄・蜀地當歸。有人擧似師。師云、泉州葛布、好造
汗衫。 俗 官 有 り て、 黄 蘗 の 供 養 主 に 問 う、 「黄 蘗 和 尚 は 驢 馬 に 相 い 似 た り。 上 座、 供 養 主 と 作 り て 什 摩 を か 作 す」 。 僧 無 対。 却 か え っ 歸 て 黄 蘗 に 挙 似 す。 黄 檗 云 く、 「道 薄 く 人 微 に し て 甚 だ 是 れ 消 い る こ と 難 し」 。 人 有 り て 南 泉 に 挙 似 す。 南 泉 云 く、 「池州の麻黄・蜀地の当帰」 。人有りて師に挙似す。師云く、 「泉州の葛布、汗衫を造るに好し」 。 『伝灯録』巻八 ( 127a ) 磁州馬頭峯神蔵章 上堂謂衆云、知而無知、不是無知而說無知。南泉云、恁麽依師道、始道得一半。黃蘗云、不是南泉駮他、 要圓前話。 上 堂 し 衆 に 謂 い て 云 く、 「知 に し て 無 知 な り と は、 是 れ 無 知 に し て 無 知 と 説 く に は あ ら ず」 。 南 泉 云 く、 「 恁 か 麽 く 師 に 依 っ て 道 い て、 始 め て 一 半 を 道 い 得 た り」 。 黄 蘗 云 く、 「是 れ 南 泉 が 他 を 駮 す る に は あ ら ず。 前 話 を 円 な ら し め ん と 要 ほっ するなり」 。 最後に挙げるこの二つの話は、南泉と黄檗二人の直接の因縁話ではない。先の話は『祖堂集』のみに 収録 さ れ、 黄 檗 下 の 街 坊 化 主 と 黄 檗 の 話 を、 南 泉 が 聞 い て 評 唱 す る と い う 構 成 で あ る。 後 の 話 は、 『伝 灯 録』 等 に収録され、神蔵の上堂の語に対する南泉の評価と、その南泉の意をさらに黄檗が解説するという構成であ る。今、内容に立ち入り考察を加えることはしない。これらの話から得るべき本稿で必要なことは、南泉と 黄檗を繋げる話が存在している、ということであり、黄檗の師である百丈との間には、このような話が残さ れていないことである。 これが史実に基づくことであったなら ば 、黄檗が南泉下を去った後も、このような話が残されるような交
際があり、先の考察で南泉が黄檗を「長老」と呼んだことと合わせて関係の密であったことが理解できる。 黄檗が歴参した禅匠達との間に はこのような話は残されておらず、潙仰のような師弟の濃密な様を彷彿と させる。 また、黄檗と南泉に は非常に 似通った話が残されている。長文の為、全文を挙げることはしないが、冥界 より、南泉は自下の雲納、黄檗は裴休を、大喝により呼び戻す神異譚であ る ((( ( 。両話とも非常に構成が似通っ て お り、 『祖 堂 集』 に し か 収 録 さ れ て お ら ず、 管 見 の 限 り、 他 に こ の 話 の 流 れ で、 両 話 ほ ど 似 て い る も の は 見られない。 お わ り に 『祖 堂 集』 の 持 つ 特 性 に 拠 る も の で も あ ろ う が、 『祖 堂 集』 に お い て 黄 檗 が 南 泉 に 認 め ら れ て い る 姿 は 描 か れ な い。 し か し、 『伝 灯 録』 以 降、 黄 檗 の 評 価 は 向 上 す る。 こ れ は、 黄 檗 と 南 泉 の 機 縁 に 付 さ れ る 著 語、 評唱からも理解出来る。 『祖堂集』に付されるものは、未熟な黄檗に代わってのものであった。しかし、 『祖 堂集』以外のものは、露骨に黄檗を称賛するものであり、一義的な評価の方向性を示唆する。 この黄檗の評価向上に 、南泉が利用されていることは、本論に より明確に なった。しかし、同様に 黄檗の 評価向上の為、改変利用された百丈との機縁と比べると、異なる視点で編まれたことが窺える。 本 論 で 考 察 し た よ う に、 黄 檗 と 南 泉 の 機 縁 の 数 は、 『伝 灯 録』 の 時 点 で 既 に、 六 つ と 出 そ ろ い、 百 丈 と の それよりも多い。黄檗と百丈の機縁は、 『祖堂集』に収録されるものは一つのみであり、 『伝灯録』に収録さ れるものは三つ。 『広灯録』に到り五つに加増されている。しかし、黄檗と南泉の機縁は、 『広灯録』におい
て 南 泉 章 は 立 て ら れ ず、 『五 灯 会 元』 の も の は、 『伝 灯 録』 の 焼 き 直 し で あ る。 黄 檗 と 百 丈 の 機 縁 は、 『広 灯 録』において完成し、 『五灯会元』における機縁は、 『伝灯録』を踏襲しながらも、改変が見られる。 南泉を黄檗の評価向上に 利用していることは、事実である。しかし、史伝編纂に あたり時代が下るに つれ、 師弟の間柄から当然であるかも知れないが、南泉ではなく、百丈との関係により黄檗の評価を高めようとす る意図が見える。これは、黄檗と百丈の機縁が百丈を飛び越え馬祖に嗣ぐという作意の元、馬祖の正系なら しめんが為に改変されたものであったことからも裏付けられ る ((( ( 。 このように、黄檗と南泉・百丈との機縁は質が異なる。しかし、黄檗と南泉の機縁は、黄檗評価向上の露 骨な作為が行われる前からその数は確定し、黄檗が南泉を、南泉が黄檗をそれぞれ評する話が二つ残されて いることは、注目に値する。これは、評価の修飾とは関係なく、黄檗と南泉の関係の並々ならぬものである こ と が 理 解 出 来 る。 む し ろ こ れ だ け 見 れ ば 、 黄 檗 と 南 泉 の 関 係 は、 『伝 灯 録』 の 時 点 で 百 丈 よ り も 密 で あ る ように感じられ、 『伝心法要』裴休序の「西堂、百丈之法姪」という記述も強ち誤記とは言えない程である。 ま た、 会 昌 の 廃 仏 の 後、 黄 檗 は 裴 休 に、 逃 れ て い た 山 か ら、 宛 陵 (安 徽 省) の 龍 隆 寺 に 請 わ れ た。 こ の 時、 黄 檗 は 鍾 陵、 黄 檗 山 付 近 (江 西 省) に 逃 れ て い た の だ ろ う か。 推 測 の 域 は 脱 し 得 な い が、 黄 檗 は 南 泉 下 で 過 ご し て お り、 そ の 縁 に よ り 池 州、 宣 州 辺 (安 徽 省) に 逃 れ て い た。 だ か ら こ そ、 裴 休 は 黄 檗 を 宛 陵 に 招 来 し 得た。と、両者の関係からこのように推察することが可能である。 以上の評価、仮説は飛躍したものであるかもしれないが、本論考を通じ、少なくとも、現在為されている 黄檗と南泉の関係を見直し検討する必要が、十二分にあると結論付けることが出来る。今後この問題に対し て、より詳細な史料研究と合わせ、思想から考察することが必要である。また、灯史の編纂された時代背景、 両者の周辺から考察することも課題とする。
注 ( 1) 須山長治「黄檗希運の語録 百丈懐海との機縁」 『印度学仏 教 学 研 究』 (三 三 ─ 二) 一 九 八 五 年。 柳 田 聖 山 「黄 檗 希 運 と 裴 休 の 『伝 心 法 要 序』 」・ 「四 家 録 と 五 家 録」 『禅 文 献 の 研 究 ・ 上』所収、法蔵館、二〇〇一年。拙稿「黄檗希運の嗣法につ い て」 『禅 学 研 究』 (八 八) 二 〇 一 〇 年。 拙 稿 「黄 檗 希 運 と 会 昌の廃仏」 『禅学研究』 (九〇) 二〇一二年 ( 2) 原 田 憲 雄 「南 泉 斬 猫」 『京 都 女 子 大 学 人 文 論 叢』 (二 三) 一 九七四年。原田弘道「仏行と罪相──「南泉斬猫」話を資縁 と し て ──」 『駒 沢 大 学 仏 教 学 部 論 集』 (一 七) 一 九 八 六 年。 沖 本 克 己 「異 類 に つ い て」 『禅 文 化 研 究 所 紀 要』 (一 五) 一 九 八 八 年。 沖 本 克 己 「南 泉 斬 猫」 花 園 大 学 研 究 紀 要 (二 一) 一 九 九 〇 年。 新 井 勝 竜 「異 類 中 行 に つ い て」 『宗 学 研 究』 (三 四) 一 九 九 二 年。 唐 代 語 録 研 究 会 第 二 班 注 「「南 泉 語 要」 第 一 則 上 堂 訳 注」 『禅 文 化 研 究 所 紀 要』 (一 九) 一 九 九 三 年。 常 磐 義 伸 「南 泉 の 異 類 中 行 と 楞 伽 経 の 兎 角 牛 角」 『松 ヶ 岡 文 庫 研究年報』 (二五) 二〇一一年。 この他に、趙州・臨済の思想との関係から論じられた論考 と し て、 平 野 宗 浄 「南 泉 と 趙 州」 『印 度 学 仏 教 学 研 究』 (二 〇 ─ 一) 一 九 七 一 年。 同 「南 泉 と 臨 済 ── 自 由 と い う 言 葉 を め ぐ っ て ──」 『印 度 学 仏 教 学 研 究』 (二 三 ─ 一) 一 九 七 四 年。 がある。 ( 3) 注( 1)に記載される論考参看 ( 4) 元版大蔵経『伝灯録』巻九末尾に収録される『伝心法要』 のみ「百丈之子、西堂之姪」とする。大正大蔵経『伝灯録』 の『伝心法要』はこれによったもの。これ以外のテキストは 全て「西堂百丈之法姪」とされる。 ( 5) 宋本『伝灯録』巻六、百丈章に馬祖下の筆頭、西堂と百丈 略号・略記 本稿で使用した、テキストと略号を次に 挙げる。 『祖堂集』 ‖ 禅文化研究所編『祖堂集』禅文化研究所、一九九四年 (大韓民国海印寺蔵) 『景徳伝灯録』 ‖ 禅文化研究所編『景徳伝灯録』禅文化研究所、一九九〇年 (東寺蔵福州東禅寺版) 本稿中では『伝灯録』と略記する。 『天 聖 広 灯 録』 ‖ 柳 田 聖 山 編 『宋 蔵 遺 珍 宝 林 伝 ・ 伝 灯 玉 英 集、 附 録 ・ 天 聖 広 灯 録』 禅 学 叢 書 之 五、 中 文 出 版 社、 一 九 七 五 年 (知 恩 院 蔵福州開元寺版) 本稿中では『広灯録』と略記する。 『宗門統要集』 ‖ 柳田聖山・椎名宏雄編『禅学典籍叢刊』第一巻収録『宗門統要集』臨川書店、一九九三年 (東福寺蔵宋版) 本稿中では 『宗門統要』と略記する。 以上を使用し ( ) 内に頁数を記す。
他の同参の者より両者が絡む話が多く見られる。 ( 12) 自らの下に参じた者以外の機縁の話は管見の限り南陽慧忠 (~ 七 七 五) 、 魯 祖 宝 雲 (生 没 年 未 詳) 、 東 寺 如 会 (生 没 年 未 詳) 泐 潭 常 興 (生 没 年 未 詳) 、 百 丈 惟 政 (生 没 年 未 詳) が 残 さ れ て い る。 し か し、 ど れ も 正 確 に 訪 れ た と は 確 定 し 難 い。 「南 泉 一 円相」 として 『碧巌録』 六九則 ( T. 48, 01 98c ~ 199 a ) にも収録 される南泉、帰宗、麻谷が慧忠を訪れようとする話があるが、 慧忠の没年は七七五年であり、まだ南泉は具足戒を受けてい ない。また、結局訪れなかったはずの南泉が慧忠を訪ね対話 する話も残される。しかしこれも東寺如会とほぼ同じ内容で あり、収録時の誤りではないかと考えられる。魯祖・東寺は 南泉と同じく馬祖下の禅者であり、これは行脚により両人を 訪ねたのか、馬祖下での話であるのか断定することは難しい。 泐潭との話は『祖堂集』巻一四に収録される魯祖の話とほぼ 同じである。問われれ ば 「面壁」するのは魯祖の手段であり 編集時に間違ったものであると考えられる。百丈惟政との話 は、百丈惟政自身が惟政、涅槃、法正、が別人であるのか、 同一人物であるのか、また、馬祖下、百丈下どちらであるか の問題を孕んでいる。これに関しては、鈴木哲雄『唐五代の 禅宗──湖南江西篇──』大東出版社、一九八四年、一四三 頁~一四四頁に詳しい。この点を除いても、この問答自体疑 わしい点が多い。 ( 13) 『宋高僧伝』巻一一 ( T. 50, 775a ) 貞元十一年拄錫池陽南泉山。堙谷刊木以構禪宇簔笠飯牛溷 が馬祖と月を愛でる因縁話で 「経入 (智) 蔵、 禅歸 (懐) 海」 と 馬 祖 が 二 人 を 認 め る。 し か し、 『広 灯 録』 巻 八、 百 丈 章 ( 408b ) 等 で は こ れ に 南 泉 が 加 え ら れ 「唯 有 普 願 獨 處 物 外」 と三大士角立の話に改変される。南泉のみ「普願」とされ明 ら か に 違 和 感 が あ る。 尚、 本 稿 で 使 用 す る 東 禅 寺 版 『伝 灯 録』では三大士に改められている。 ( 6) 柳田、前掲書、二七三~二七四頁。 ( 7) 『宋高僧伝』巻一一 ( T. 50, 775a ) では「大隈山」 ( 8) 『宋高僧伝』巻一一 ( T. 50, 775a ) に記載があり、嵩山会善 寺 は 河 南 省 鄭 州 市 登 封 市 嵩 山 に 位 置 す る。 『大 明 一 統 志』 巻 二 九。 も と は 後 魏 の 孝 文 帝 の 離 宮 で あ り、 開 皇 年 中 (五 八 一 ~六〇〇) に会善寺の名を賜ったとされる。 弘忍門下の慧安・ 浄 蔵 が 住 し た。 趙 州 も こ の 戒 壇 で 受 戒 し た。 『伝 灯 録』 等 で は「嵩嶽」のみ。暠律師について『宋高僧伝』のみに記載が あるが、詳細は不明。 ( 9) 『宋高僧伝』巻一一 ( T. 50, 775a ) 「抉中百門観之關鑰、領玄 機於疏論之外(中百門観の関鑰を 抉 えぐ るも、玄機を疏論の外に 領す) 」他の資料『伝灯録』巻八 ( 117a ) 等では「入中百門、 精 練 玄 機 (中 百 門 に 入 り、 玄 機 を 精 練 す) 」 と た だ 学 究 に 勤 め た 旨が記される。 ( 10) 『大明一統志』巻四九。 『江西通志』巻一一一。宋代に は能 仁寺、明代には永寧寺、清代には祐清寺と呼 ば れた。 ( 11) 『祖 堂 集』 巻 一 五、 帰 宗 章 ( 57 2 )「師 久 與 南 泉 同 道 神 彩 奇 異」 同 巻 一 六、 南 泉 章 ( 593 ) 「師 與 歸 宗 同 行 二 十 年」 と あ る。
于牧童、 斫山畬田種食以饒。 足不下南泉三十年矣 (貞元十一年、 錫 を 池 陽 南 泉 山 に 拄 く。 谷 を 堙 め 木 を 刊 り て 以 っ て 禅 宇 を 構 え 簔 笠 にして牛を飯い牧童に溷り、 山を斫り田を畬き種食、 以って饒る。 足、 南泉を下らざること三十年) ( 14) 『旧 唐 書』 一 六 二 巻 列 伝 一 一 二、 『祖 堂 集』 巻 一 八、 『伝 灯 録』巻一〇等独立の章を立てられる。 ( 15) 『宋高僧伝』巻一一 ( T. 50, 775a ) ( 16) 『興隆仏法編年通論』太和五年。 『仏祖歴代通載』太和九年。 『禅灯世譜』太和一二年 ( 17) 入 矢 義 高 ・ 訳 注 柳 田 聖 山 ・ 解 説 『伝 心 法 要 ・ 宛 陵 録』 『禅 の 語 録 八』 筑 摩 書 房 一 九 六 九 年、 一 六 四 頁、 「か り に 潙 山 霊 祐 と 同 年 輩 と 推 定 す れ ば 、 大 暦 ・ 建 中 の こ ろ (七 六 六 ~ 七八三) の出生となる。 」 ( 18) 現在の福建省福州市福清市、 『大清一統志』巻三二五、 『福 建通志』巻六一。開創は貞元五年 (七八九) 、慧能の弟子 正 幹 (生 没 年 未 詳) が 般 若 堂 と 称 し た も の が 初 め と さ れ る。 そ の 八 年 後 貞 元 一 三 年 (七 九 七) 建 福 寺 と 号 し た。 『宋 高 僧 伝』 巻二〇では「投高安黄檗山寺出家」と誤りが見られる ( 19) 『伝灯録』巻九 ( 136b ) では、ただ「因人啓発」とされる。 ( 20) 『祖 堂 集』 巻 一 六 ( 61 2 )「後 人 伝 説、 此 婆 少 年 曽 参 見 忠 国 師 也 (後 人 伝 説 す ら く、 此 の 婆 少 年 に し て 曽 っ て 忠 国 師 に 参 見 せ り と) 」 ( 21) 『祖 堂 集』 巻 一 七 ( 71 8 ) 臨 済 章 に の み 馬 祖 の 下 に 参 じ た と いう記述がある。 ( 22) 四庫全書本『江西通志』巻八「黄檗山在新昌県西一百里、 山 之 絶 頂 有 寺 曰 鷲 峰 (黄 檗 山 は 新 昌 県、 西 の か た 一 百 里 に 在 り、 山の絶頂に寺有りて『鷲峰』と曰う) 」 ( 23) 会 昌 二 年 (八 四 二) に 「予 会 昌 二 年、 廉 于 鍾 陵、 自 山 迎 至 州、憇龍興寺、旦夕問道」と『伝心法要』序に記されるよう に、裴休と出会い黄檗山から龍興寺へ移ったとされる。裴休 との出会いについては前掲拙稿二〇一一年、参看 ( 24) 『宋高僧伝』巻一七 ( T. 50, 817c ) 楚南章 ( 25) 『江 南 通 志』 巻 一 七 五、 に も 「大 中 三 年 裴 休 知 宣 州、 迎 居 開元寺受法、 創広教寺於敬亭南麓 (大中三年、 裴休は宣州を 知 おさ め、 迎 え て 開 元 寺 に 居 せ し め 受 法 し。 広 教 寺 を 敬 亭 の 南 麓 に 創 る) 」 と ある。 ( 26) 『伝灯録』巻九 ( 138a ) 黄檗章等 ( 27) 『宋高僧伝』 ( T. 50, 842c ) 『景徳伝灯録』 ( 138a ) 、『広灯録』 ( 418b ) 、『五灯会元』 ( Z. 138, 123a ) 、等は大中年間 (八四七~ 八五九) に 示寂 し た と す る 。『隆興仏教編年通論』 ( Z. 130, 67 9b ) は大中四年 (八五〇) 、『歴代編年釈氏通鑑』 ( Z. 131, 973b ) 、『釈 氏稽古略』 ( T. 49 , 83 9a) 、『仏祖綱目』 ( Z. 146, 552b ) は、大中 四年 (八五〇) 八月、 『仏祖統紀』 ( T. 49 , 388b ) は、大中九年 (八五五) 、『宗統編年』 ( Z. 147, 184b ) は、戊辰二年、即ち大 中二年 (八四八) 、『仏祖歴代通載』 ( T. 49 , 638c ) は「大中三年 終於黄檗」 (八四九) とする。 ( 28) 『 伝 灯 録 』 巻 一 一 ( 19 0a. b 同 様 ) 如 敏 章 『 宗 門 統 要 』 巻 四 ( 90a ) 黄 檗 章 等 で は、 本 稿 「 三 」 で 考 察 す る 南 泉 と 黄 檗 の
機縁に 対する潙山の著語としてもこの語が使われる。 ( 29) 『祖堂集』巻一一 ( 41 8 ) 保福章。同、巻一五 ( 57 0 ) 東寺章 ( 30) 『宗門聯灯会要』巻三 ( Z. 79 , 34c ) 、慧忠章では「洎不到和 尚 此 間」 。 慧 忠 と 南 泉 の 機 縁 は 明 ら か に 東 寺 の も の と 同 じ で あり、作為的な移動であると考えられる。 ( 31) 黄檗章の履歴を述べる項に は、その偉丈夫な様に ついての 記載が見られる。 ( 32) これは『五灯会元』巻四 ( Z. 138, 88a ) 黄檗章等で黄檗が百 丈に初めて参じた時に 為した問答に 付される「巍巍堂堂」と いう修飾語に通ずる。この語を加えることに より、身長のみ ならず堂々たる禅機を備えていることを示している。 ( 33) 『伝 灯 録』 巻 一 二、 慧 林 鴻 究 章、 同 巻 二 八、 荷 沢 神 会 大 師 語・薬山惟儼和尚語、等に それぞれ見られる。 ( 34) 入矢義高 監修 伝灯録研究会 編『伝灯録』 (三) 禅文化研 究所、一九九三年、一一八頁 ( 35) 『古尊宿語録』巻二一 ( Z. 118, 141b ) 舒州白雲山海会法演和 尚語録に「若人於此見得、日銷萬兩黃金。其或未然、草鞋錢 教 什 麽 人 還 (若 し 人、 此 に 見 得 せ ば 、 日 に 万 両 の 黃 金 を 銷 す。 其 れ 或は未だ然らずん ば 、 草鞋銭は什麽の人をして還わしめん) 」 とある。 ( 36) 道 元 の 『正 法 眼 蔵』 第 三、 「仏 性」 に も こ の 立 場 で 詳 し く 取り上げられている。 ( 37) 前掲拙稿二〇一〇年、参看。 ( 38) この一喝であるが、 『臨済録』行録 ( T. 47, 505a ) にも収録 さ れ る 黄 檗 と 臨 済 の 応 酬 に 入 る 維 那 の 語、 「維 那 近 前 扶 云、 和尚爭容得這風顛漢無禮。黄蘗纔起便打維那 (維那、近前して 扶 け て 云 く、 『和 尚、 争 か 這 の 風 顛 漢 の 無 礼 を 容 し 得 ん』 。 黄 蘗 纔 か に 起 つ や 便 ち 維 那 を 打 つ) 」 と 通 ず る。 こ の 場 合、 黄 檗 は そ の 言を発した維那を打つ。 ( 39) こ の 他 に も、 『宗 門 統 要』 巻 四 ( 81b ) 甘 贄 行 者 章 に 収 録 さ れる話においても黄檗が南泉下で首座であったことが記され る。 尚、 『伝 灯 録』 甘 贄 章 で は 同 話 の 人 物 は た だ 「上 座」 と されている。 ( 40) 古 賀 英 彦 『訓 注 祖 堂 集』 「研 究 報 告」 第 八 冊、 花 園 大 学 国 際禅学研究所、二〇〇三年、六五五頁「両者は龐居士の一件 を前提にしていると考えてもよい」入矢義高『龐居士語録』 禅の語録七、筑摩書房、一九七三年、一一四頁~一一九頁。 ( 41) 『伝 心 法 要』 中 で も 分 別 の 否 定 に つ い て 「不 曾 生、 不 曾 滅、 不青不黄、無形無相…」と表現される。このように青と黄を 全ての「色」の代表とすることは唐代禅者の常套の手法であ る。 ( 42) 『伝 灯 録』 で は 何 を 扣 い た の か 具 体 的 な 語 は な い が、 他 の 資料では「師扣刀三下」となっている。 ( 43) 『五灯会元』巻四 ( Z. 138, 92b ) 黄檗章に黄檗が刀を三度扣 いたという記述の後に「泉曰、大家擇菜去」と加えられる。 ま た、 『伝 灯 録』 宋 本 ・ 高 麗 版 本 共 に 南 泉 の 「只 解 作 賓。 不 解作主」という語が無く、代わりに「大家択菜去」とされ、 黄檗が刀を三度扣く記述もない。南泉は黄檗が「挙起刀子」 したそれのみで認めたと取ることも出来、また黄檗を突き放
したとも取ることが出来る。しかし、他の機縁の話の『伝灯 録』での評価を踏まえるなら ば 前者であると考えられる。 ( 44) 『祖堂集』 巻一六 ( 589 ) 南泉章に大衆への言葉、 『伝灯録』 巻 八 ( 120b ) 南 泉 章 等 に 収 録 さ れ る 陸 亘 と の 問 答 で も 同 じ く 「王老師罪過」で締められる話がある。 ( 45) 『宗 門 統 要』 巻 四 ( 91a ) 黄 檗 章 に 「師 云、 可 惜 許」 と あ り、 黄檗の発言であるとされるが誤りである。 ( 46) 入矢、一九九三年前掲書、では「惜しい!」というのはそ の問いがこちらからの誘いによって導き出されたものである こ と を 惜 し む の で あ ろ う」 (一 一 七 頁) と 黄 檗 の 見 処 を 部 分 的 に賛じての句としている。 ( 47) 「羯鼓掉鞭牛豹跳。遠村梅樹觜嚧都 (羯鼓、鞭を掉るい牛、豹 のごとく跳る。遠村の梅樹、 觜 し 嚧 ろ 都 と ) 」と酬和している。 ( 48) そ れ ぞ れ 『祖 堂 集』 巻 一 六、 南 泉 章 ( 60 2 ~ 60 3 ) 黄 檗 章 ( 61 6 ~ 61 7 ) に記載される。 ( 49) 黄檗と百丈の機縁については、前掲拙稿二〇一〇年、参看。