• 検索結果がありません。

奈良時代語におけるラムカ構文とケムカモ構文

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "奈良時代語におけるラムカ構文とケムカモ構文"

Copied!
13
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

1.問題の所在  奈良時代の日本語において、ム・ラム・ケムは終助詞カおよびカモと接続し、以下のように使 用される。 ⑴ 松蔭の清き浜辺に玉敷かば君来まさむか清き浜辺に (19/4271 藤原八束) ⑵ み薦刈る信濃の真弓我が引かば貴人さびていなと言はむかも (02/0096 久米禅師) ⑶ 石見の海打歌の山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか (02/0139 柿本人麻呂) ⑷ 雨障み常する君はひさかたの昨夜の夜の雨に懲りにけむかも (04/0519 大伴女郎)  これらの形式は、一般的に「∼だろうか」と現代語訳され、「疑問を含む詠嘆」や「詠嘆的疑 問」等と説明されている。解釈する上で、それぞれの構文の意味的な違いは見えづらく、どのよ うな体系を成しているのかについては、あまり注目されていない。その中で、近藤要司(1997) は、その違いを詳細に調査し、以下のようにまとめている。  一、名詞に下接する場合、両者とも傾向的には文中に詠嘆のモが無くても詠嘆に傾く。ただ し、カは一語文的な在り方をする場合もあるが、カモにはそのようなものはなく、むし ろ、直観直叙とはいえない複雑な連体修飾部をもつものがあった。  二、活用語に下接するもののうち、動詞連体形、形容詞連体形、過去完了の助動詞の連体形に 下接する場合、文末カの用例には文中に詠嘆のモが必ず用いられている。カモの用例にも 用いられるが、すべての用例というわけではない。  三、打消ずの連体形に下接する場合、文末カの用例は、すべて文中にモを含み、希求の意に なった。カモの用例では、モを含まない例もあり、そのような例は希求になるも詠嘆にな るものもあった。  四、む、らむ、けむ、じに下接する場合、文末カの用例で文中に詠嘆モを含むものは無かっ た。カモでは、文中に詠嘆のモを含むものが「∼むカモ」「∼けむカモ」にそれぞれ一例 ずつあった。「∼らむカ」の用例は十例以上存在するが、「∼らむカモ」は異訓を持つ二例 のみであった。    その他の活用語、助動詞のまし、べし、ましじ、なり、めりなどに文末カ、カモが下接す る用例は無かった。(注・以下全て、下線は筆者による)

奈良時代語におけるラムカ構文とケムカモ構文

小出 祥子

(2)

 本稿が注目するのは、「四」の下線部分である。終助詞カおよびカモとの接続関係において、 ム系助辞(1)にはそれぞれ異なる性質があるようである。  本稿では万葉集を資料とし、助辞ラム・ケムと終助詞カ・カモの接続関係に注目し、その様相 を記述していく。 2.調査対象  ラムおよびケムの使用例全体の中で、終助詞カ・カモと接続する例はどのように位置づけられ るのか。以下でまず、ラムおよびケムの使用される構文を概観し、終助詞カ・カモとの接続関係 に注目することは有意味であることを示す。 2.1. ラム ─ラム(連体修飾) ⑸ あしひきの山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ(今者鳴良武)鴬の声 (17/3915 山部赤人) ─ラム(終止形終止) ⑹ いざ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ(待戀奴良武) (01/0063 山上憶良) ─カ─ラム ⑺ 松浦川川の瀬早み紅の裳の裾濡れて鮎か釣るらむ(阿由可都流良武) (05/0861 大伴旅人) ─カモ─ラム ⑻ 今もかも大城の山に霍公鳥鳴き響むらむ(鳴令響良武)我れなけれども (08/1474 坂上郎女) ─ヤ─ラム ⑼ 松が枝の土に着くまで降る雪を見ずてや妹が隠り居るらむ(許母里乎流良牟) (20/4439 石川郎女) ─ソ─ラム ⑽ 道遠み来じとは知れるものからにしかぞ待つらむ(然曽将待)君が目を欲り (04/0766 藤原郎女) ─ラメヤ ⑾ 天離る鄙にある我れをうたがたも紐解き放けて思ほすらめや(於毛保須良米也) (17/3949 大伴池主) ─ラメヤモ ⑿ 安騎の野に宿る旅人うち靡き寐も寝らめやも(寐毛宿良目八方)いにしへ思ふに (01/0046 柿本人麻呂)

(3)

─ラムソ ⒀ ぬばたまの夜渡る月を幾夜経と数みつつ妹は我れ待つらむぞ(和礼麻都良牟曽) (18/4072 大伴家持) ─ラムカモ ⒁ 含めりと言ひし梅が枝今朝降りし沫雪にあひて咲きぬらむかも(将開可聞) (08/1436 大伴村上) ─ラムカ ⒂ 嗚呼見の浦に舟乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか(四寳三都良武香) (01/0040 柿本人麻呂) ─ラムヲ ⒃ 我妹子は早も来ぬかと待つらむを(麻都良牟乎)沖にや住まむ家つかずして (15/3645 遣新羅使) ─ラムニ ⒄ 志賀の浦に漁りする海人家人の待ち恋ふらむに(麻知古布良牟尓)明かし釣る魚 (15/3653 遣新羅使) ─ラムゴトク ⒅ ……雁がねも 継ぎて来鳴けば たらちねの 母も妻らも 朝露に 裳の裾ひづち 夕霧に 衣手濡 れて 幸くしも あるらむごとく(安流良牟其登久)出で見つつ 待つらむものを…… (15/3691 葛井子老) ─ラムモノヲ ⒆ ……朝露に 裳の裾ひづち 夕霧に 衣手濡れて 幸くしも あるらむごとく 出で見つつ 待つら むものを(麻都良牟母能乎)世間の 人の嘆きは 相思はぬ 君にあれやも…… (15/3691 葛井子老) ─コソ─ラメ ⒇ 白菅の真野の榛原行くさ来さ君こそ見らめ(君社見良目)真野の榛原 (03/0281 高市黒人) ─ラメドモ  鳥翔成あり通ひつつ見らめども(見良目杼母)人こそ知らね松は知るらむ (02/0145 山上憶良) 2.2. ケム ─ケム(連体修飾)  あをによし奈良人見むと我が背子が標けむ黄葉(之米家牟毛美知)地に落ちめやも (19/4223 大伴家持) ─ケム(終止形終止)  草枕旅行く人を伊波比島幾代経るまで斎ひ来にけむ(伊波比伎尓家牟) (15/3637 遣新羅使)

(4)

─カ─ケム  神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ(奈何可来計武)君もあらなくに (02/0163 大伯皇女) ─カモ─ケム  松反りしひにてあれかもさ山田の翁がその日に求めあはずけむ(母等米安波受家牟) (17/4014 大伴家持) ─ヤ─ケム  葛城の襲津彦真弓新木にも頼めや君が我が名告りけむ(吾之名告兼) (11/2639) ─ソ─ケム  時々の花は咲けども何すれぞ母とふ花の咲き出来ずけむ(佐吉泥己受祁牟) (20/4323 丈部真麻呂) 疑問詞─ケム(連体形)  草枕旅行く人を伊波比島幾代経るまで斎ひ来にけむ(伊波比伎尓家牟) (15/3637 遣新羅使) ─ケメヤモ  真木柱作る杣人いささめに仮廬のためと作りけめやも(造計米八方) (07/1355) ─ケムモ  娘子らが玉櫛笥なる玉櫛の神さびけむも(神家武毛)妹に逢はずあれば (04/0522 藤原麻呂) ─ケムカモ  帰り来て見むと思ひし我が宿の秋萩すすき散りにけむかも(知里尓家武可聞) (15/3681 秦田麻呂) ─ケムカ  秋の野の尾花が末に鳴くもずの声聞きけむか(音聞濫香)片聞け我妹 (10/2167) ─ケムガゴト  ……いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音の 騒く港の 奥城に 妹が 臥やせる 遠き代に ありけることを 昨日しも 見けむがごとも(将見我其登毛)思ほゆるか も (09/1807 高橋虫麻呂歌集) ─ケムモノヲ  天地と ともにもがもと 思ひつつ ありけむものを(安里家牟毛能乎)はしけやし 家を離れ て 波の上ゆ なづさひ来にて あらたまの 月日も来経ぬ 雁がねも 継ぎて来鳴けば…… (15/3691 葛井子老) ─コソ─ケメ  山鳥の峰ろのはつをに鏡懸け唱ふべみこそ汝に寄そりけめ(奈尓与曽利鶏米) (14/3468) 2.3. ラムおよびケムの比較  2.1および2.2で確認した構文によってラムとケムの使用状況を整理すると、下表のようになる。

(5)

表1 ラムおよびケムの構文の整理 出現位置 ラム 用例数(%) ケム 用例数(%) 文末(終止形) 終止形終止 23(9) 9(8) 文末(連体形) ─カ─連体形 60(25) 28(22) ─カモ─連体形 23(9) 7(5) ─ヤ─連体形 14(5) 4(3) ─ヤモ─連体形 1(0.4) 0(0) ─ソ─連体形 2(0.8) 1(0.8) ─連体形カ 14(5) 3(2) ─連体形カモ 3(1) 20(16) ─連体形ソ 4(1.5) 0(0) 疑問詞─連体形 0(0) 7(5) ─連体形モ 0(0) 1(0.8) 文末(已然形) ─コソ─已然形 10(4) 3(2) ─已然形ヤ 3(1) 0(0) ─已然形ヤモ 2(0.8) 1(0.8) 文中 連体修飾 69(28) 37(29) ─連体形ガゴト─ 0(0) 1(0.8) ─連体形ゴトク─ 1(0.4) 0(0) ─連体形ヲ─ 2(0.8) 0(0) ─連体形モノヲ─ 3(1) 1(0.8) ─連体形ニ─ 3(1) 0(0) ─已然形ドモ─ 1(0.4) 0(0)  ラムの総数238例に対しケムの総数は123例であり、用例数に2倍近い差があるため、( )内 に、それぞれの助辞の総数に各構文の用例数が占める割合をパーセントで示した。  ラムおよびケムは、どちらも文中の連体修飾用法が30%近くを占め、最も多く使用されてい る。次に多いのが、係助詞カの結びに現れる「─カ─連体形」の用法であり、それぞれ25%程 度を占める。その他の構文についても、それぞれをさらに詳しく分析する必要はあるものの、概 観してみると、よく似た出現割合のものが多いと言ってよいだろう。  本稿が注目するのは、終助詞カおよびカモが接続する構文である。便宜的に、ラムカ構文、ラ ムカモ構文、ケムカ構文、ケムカモ構文と呼ぶこととする。これらの構文では、ラムおよびケム の出現割合に明らかな差がみられる。終助詞カが接続するものについていえば、ラムカ構文が多 く、ケムカ構文は少ない。終助詞カモについてみると、近藤(1997)が指摘する通り、ラムカモ 構文はほとんど無いのに対し、ケムカモ構文はまとまった用例数がある。更に、ラムカモ構文お よびケムカ構文の用例数はさらに少なくなる可能性もある。以下で説明する。  まず、ラムカモ構文は以下の3例である。  含めりと言ひし梅が枝今朝降りし沫雪にあひて咲きぬらむかも(将開可聞) (08/1436 大伴村上)

(6)

 さ夜更けば出で来む月を高山の嶺の白雲隠すらむかも(将隠鴨) (10/2332)  志太の浦を朝漕ぐ船はよしなしに漕ぐらめかもよ(許求良米可母与)よしこさるらめ (14/3430)   および はラムが仮名書きされていない例である。また はラムとカモが接続しているた め、ラムカモ構文に含めたが、実際には已然形ラメにカモが接続し、更に終助詞ヨが後接する。 特殊な環境でラムとカモが接続した構文だと言える。  ケムカ構文は以下の3例である。  ……あをによし 奈良山を越え[或云 そらみつ 大和を置き あをによし 奈良山越えて]い かさまに 思ほしめせか[或云 思ほしけめか(所念計米可)]天離る 鄙にはあれど 石走る 近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ天皇の 神の命の 大宮は ここと聞け ども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる[或云 霞立つ 春日 か霧れる 夏草か 茂くなりぬる]ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも[或云 見れば寂し も] (01/0029 作者:柿本人麻呂)  霍公鳥今朝の朝明に鳴きつるは君聞きけむか(君将聞可)朝寐か寝けむ (10/1949)  秋の野の尾花が末に鳴くもずの声聞きけむか(音聞濫香)片聞け我妹 (10/2167)   は、ケムが終助詞カに接続しているため、ケムカ構文に含めたが、実際は、已然形ケメに終 助詞カが後接する特殊な環境である。 はケムが仮名書きされておらず、ケムカと読む確証はな い。また も本稿では元暦校本・類聚古集・紀州本に倣い「ケムカ」と訓み、ケムカ構文に含め たが、西本願寺本では「ラムカ」と訓んでおり、訓が定まっていない。  したがって、ラムカモ構文およびケムカ構文において、仮名書きされているのはラムおよびケ ムの已然形がカモ・カに接続する特殊な用例のみであり、連体形ラムおよびケムが出現するラム カモ構文、ケムカ構文の確例はないということになる。つまり、終助詞カおよびカモへの接続に ついて、ラムとケムには明らかな差があるといえる。  以下で、ラムカ構文およびケムカモ構文を考察し、その様相を記述していく。 3,考察 3.1. ラムカ構文  ラムカ構文は以下の14例である。  嗚呼見の浦に舟乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか(四寳三都良武香) (01/0040 柿本人麻呂)  安胡の浦に舟乗りすらむ娘子らが赤裳の裾に潮満つらむか(之保美都良武賀) (15/3610)  高圓の秋野の上の朝霧に妻呼ぶ壮鹿出で立つらむか(伊泥多都良牟可)

(7)

(20/4319 大伴家持)  鴬の鳴きし垣内ににほへりし梅この雪にうつろふらむか(宇都呂布良牟可) (19/4287 大伴家持)  潮騒に伊良虞の島辺漕ぐ舟に妹乗るらむか(妹乗良六鹿)荒き島廻を (01/0042 柿本人麻呂)  たけばぬれたかねば長き妹が髪このころ見ぬに掻き入れつらむか(掻入津良武香) (02/0123 三方沙弥)  橘の寺の長屋に我が率寝し童女放髪は髪上げつらむか(髪上都良武可) (16/3822)  橘の照れる長屋に我が率ねし童女放髪に髪上げつらむか(髪擧都良武香) (16/3823)  ぬばたまの黒髪敷きて長き夜を手枕の上に妹待つらむか(妹待覧蚊) (11/2631)  石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか(妹見都良武香) (02/0132 柿本人麻呂)  石見の海打歌の山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか(妹将見香) (02/0139 柿本人麻呂)  衣手の名木の川辺を春雨に我れ立ち濡ると家思ふらむか(家念良武可) (09/1696 柿本人麻呂歌集)  風をいたみいたぶる波の間なく我が思ふ君は相思ふらむか(相念濫香) (11/2736)  泊瀬の斎槻が下に我が隠せる妻あかねさし照れる月夜に人見てむかも[一云 人見つらむ か(人見豆良牟可)] (11/2353 柿本人麻呂歌集)  言表されているのは、情景を読んだ内容が多い。詠み手の感情は表示されず、詠まれる事態に 詠み手が介入していることもほとんどないのが特徴である。以下で確認する。   は、「娘子の着物の裾に潮が満ちる」様子が描写されている。 は、「秋野のあたりの朝霧 の中に妻を呼ぶ牡鹿がたたずんでいる」様子が描写されている。詠み手の感情は表示されておら ず、詠み手の介入する事態でもない。また、これらの事態は、詠み手にとって望ましい事態でも 望ましくない事態でもない。そのため、願望や喜び、悲しみ等の感情をこの事態が引き起こすこ とも考えにくい。   は、「うぐいすが鳴いていた邸内に咲いていた梅はこの雪で散っている」様子が描写される。 「梅が散る」事態は、願望に反する事態のようにも見えるが、この例は雪を詠む一連の群の例で ある。直前の4285番歌では、「めづらしく降った大雪な踏みそね惜し(珍しく降った大雪を踏む なよ、惜しい)」とある。したがって、 は願望に反した事態を詠んだわけではなく、ただ雪の 降っている情景を詠んでいると見るべきであろう。 は「伊良虞の島辺をこぐ船に彼女は乗って いる」様子が詠まれている。これも、詠み手の感情、願望は関与しない事態である。   は、「結えば解け、結わないと長いあなたの髪は、見ない間に整えてしまった」という内容 である。妻に会えないまま長い時間が経過したことを表現した例であり、それ自体は願望に反す ることではあるだろうが、歌に言表されている「髪を整える」こと自体には、詠み手は介入しな い。 も同様である。 は「私が連れ込んで寝た童女は髪を結いあげた」「わたしが連れ

(8)

込んで寝た乙女は童女放りの型に髪を結いあげた」という意味であり、乙女が結婚適齢期になっ たことを指すとみられる。 は「黒髪を敷いて長い夜じゅう肘枕をしてあの娘は待っている」と いう事態である。これらの事態から、詠み手の「もう一度逢いたい」という感情を読み取ること は可能かもしれないが、詠み手はこれらの事態を願望していたわけではないし、希望した事態が 実現したわけでもない。   は、次節のケムカモ構文でよく似た例が存在するため、そちらで言及し、ここでは省略する。   は「肌着が泣き(名木)の涙で濡れるという名木の河辺で、私が春雨に濡れてしょんぼり 立っていると妻は思っている」という事態にラムカが続く。「妻に自分を心配してほしい」とい う願望にも見えるが、この例に続く09/1697・09/1698の例を併せて考えると、そうではないこと が分かる。  家人の使にあらし春雨の避くれど我れを濡らさく思へば (09/1697 柿本人麻呂歌集)  あぶり干す人もあれやも家人の春雨すらを間使にする (09/1698 柿本人麻呂歌集)   は、執拗に降る春雨を、自分のことを心配するあまりの家妻の使いとしか思えないと解した 歌であり、 は、「濡れた着物をあぶって乾かしてくれる人が側にいるとでも思っているのか、 家の妻は春雨までを使いに寄こして目を光らせている」という歌である。 の歌は、 の「名 木の河辺に私が立っていると妻は思っている」という事態が、詠み手にとって確定していたこと を前提として作成できる歌である。 は、願望している事態ではなく、詠み手にとってよく知っ ている家にいる妻の様子を描写した例だといえる。   は「休みなく私が思う君は思ってくれている」、 は「私が隠した妻を明々と照っている月 夜に人が見た」という事態である。この2例だけが、詠み手の願望が関わる可能性がある。 は 詠み手にとって望ましい事態であり、 は詠み手にとって望ましくない事態である。  以上、ラムカ構文は、情景がそのまま描写される場合が多く、その情景に詠み手が介入しない 例がほとんどであった。また詠み手の感情が描写されることはなく、情景自体が詠み手の願望と 関わることも少ないことが明らかとなった。  では、ラムカ構文はどのような機能を持っているのだろうか。  ラムカ構文は、これまで疑問表現として解釈されてきたが、拙稿(2010)において、感動表現 であることを指摘した。以下で拙稿(2010)を用いながら、説明する。  実は、助辞ラムは、終止形で終止する場合、全15例のうち2例を除いた13例が、すべて二句 仕立てになっている(近藤(1991))。そしてそれらは、ラム句が意志や希求の根拠を提示する型 と、確実に把握された事態の帰結になる型 の二つのタイプに分けられる。  いざ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ(待戀奴良武) (01/0063 山上憶良)  秋去れば置く露霜にあへずして都の山は色づきぬらむ(伊呂豆伎奴良牟) (15/3699 遣新羅使)

(9)

 終止形で終止する文において、ラムは、因果関係を表す のような論理的な構造を常に要求 する。そして、意志や希求(いざ子ども早く日本へ)の根拠となる事態(大伴の御津の浜松待ち 恋ひぬ)を客観的に描写したり、確実な事態(秋去れば)が引き起こす帰結(置く露霜にあへず して都の山は色づきぬ)を淡々と描写する。非常に分析的で客観的な環境で使用される助辞であ る。  そのような傾向を持つラムが、終助詞カを後接するラムカ構文においては、単文で使用されて いる。通常、二句で用いられ、他の句と因果関係を成して用いられるラムを、因果関係を成さな い単文で使用することで感動を表現しているのだと考えられる。そして、その感動の種類は、驚 嘆や願望等の詠み手の経験に密着した急激な感情の変化ではないようである。驚嘆や願望は、 「その状況と逆の事態を予想していた」「ある事態を希求していた」というような詠み手個人の経 験が密接に関わる感情である。それに対して、ラムカ構文が表示するのは、個人の経験に関わら ず、誰もが情緒を感じるような情景である点が特徴的である。情景自体に情緒があり、それをあ たかも絵のように淡々と客観的に描写することで、感動を表現しているといえる(2) 3.2. ケムカモ構文  ケムカモ構文は、20例ある。ただし、已然形ラメとカモが接続する2例(3)は、考察対象から 省き、18例を考察対象とする。  詠まれている事態は、詠み手自身が関わるものが多い。以下 ∼ の12例がその例である。  思ひにしあまりにしかばにほ鳥のなづさひ来しを人見けむかも(人見鴨) (11/2492 柿本人麻呂歌集)  思ひにしあまりにしかばにほ鳥のなづさひ来しを人見けむかも(人見鴨) (12/2947 柿本人麻呂歌集)  月しあれば明くらむ別も知らずして寝て我が来しを人見けむかも(人見兼鴨) (11/2665)  思ひにし余りにしかば門に出でて我が臥い伏すを人見けむかも(人見監可毛) (12/2947 或本)  沖つ波高く立つ日にあへりきと都の人は聞きてけむかも(伎吉弖家牟可母) (15/3675 壬生宇太麻呂)  雨間明けて国見もせむを故郷の花橘は散りにけむかも(散家武可聞) (10/1971)  帰り来て見むと思ひし我が宿の秋萩すすき散りにけむかも(知里尓家武可聞) (15/3681 秦田麻呂)  霍公鳥鳴きしすなはち君が家に行けと追ひしは至りけむかも(将至鴨) (08/1505 大神女郎)  我がためと織女のそのやどに織る白栲は織りてけむかも(織弖兼鴨) (10/2027 柿本人麻呂歌集)  我がゆゑに言はれし妹は高山の嶺の朝霧過ぎにけむかも(過兼鴨) (11/2455 柿本人麻呂歌集)

(10)

 雨障み常する君はひさかたの昨夜の夜の雨に懲りにけむかも(将懲鴨) (04/0519 大伴女郎)  石見なる高角山の木の間ゆも我が袖振るを妹見けむかも(妹見監鴨) (02/0134 柿本人麻呂)  石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか(妹見都良武香) (02/0132 柿本人麻呂 / 再掲)  石見の海打歌の山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか(妹将見香) (02/0139 柿本人麻呂 / 再掲)   は「思い余って、水にもぐって餌をあさるかいつぶりのように、濡れ鼠になって来た様 子」、 はそれぞれ、「月が照っていたので夜が明けたことも気づかず寝過ごして帰ってきた様 子」「待ちきれず門に出て悶えて伏している様子」という自分の状態を人が見るという内容にケ ムカモが続く。 は、「沖の荒波が高く立つ恐ろしい日に出くわした自分のことを都の人が聞く」 という内容にケムカモが続く。 において、ケムカモの直前にある事態「人見る」は、詠 み手にとって望ましくない事態であろう。一方で の「都の人は聞きつ」は、詠み手が願ってい る事態である。  次に、 は自分の望む事態が実現していない様子が詠まれている。 は「雨の晴れ間に山野 を眺めたいと思っているのに、故郷の橘の花は散った」ことが、 は「無事に帰ってきた見よう と思った自分の庭の秋萩やすすきは散った」ことがケムカモ構文で詠まれている。   は、自分の望む事態が詠まれいている。ケムカモに接続しているのは、「ホトトギスが鳴い たとき、あなたの家に行けと追いやったホトトギスは、到着した」という内容である。   は、「私のために、織姫がその家で織る白妙の布は織れた」、 は、「私のせいで、とやかく 噂された彼女は、悩むあまりに高山の朝霧に消えてしまった」という事態にケムカモが続く。ど ちらも登場人物(織姫、妹)の行動の動機に詠み手自身が関わっている。 は「雨にさえぎられ たと言っては、いつも家にこもっているあなたは、昨夜来られたときの雨に懲りてしまった」と いう内容である。詠み手と過ごしたときに降った雨が原因で、登場人物(君)は雨に懲りてし まっており、この例も登場人物の行動の動機に詠み手が関わっているといえる。  どの例も、詠み手自身の関わる生々しい事態が詠まれている。ただの情景の描写ではなく、詠 み手の感情に働きかけるような事態であると見てよいだろう。事態に詠み手が介入せず、情景を 淡々と描写するラムカ構文とは大きく異なっている。  最後に、 の例は、ラムカ形式である とほぼ同形である。ここまでで確認したケムカモ構 文の傾向に従えば、 は、詠み手にとって望ましい事態として「石見にある高角山の木の間か ら、私が袖を振っているのをあの子が見る」というのを詠んでいると見るべきである。それに対 して、 はラムカ構文であるため、「私が袖を振っているのをあの子が見る」という情景を 淡々と描写していると理解できる。また、ケムカモ構文では、「妹見」の対象は「我が袖振る (私が袖を振っている姿)」すなわち自分の姿であるのに対し、ラムカ構文では「妹見」の対象は 「我が振る袖」である。ケムカモ構文では、事態に詠み手自身の姿が顕わに登場しているのに対

(11)

し、ラムカ構文では、飽くまで「妹」と「袖」に視点があり、詠み手は背景の一部になっている ようにも捉えられる。  詠まれる事態に特に詠み手が関わっていない例は、以下の7例である。ただし、詠み手の願望 に関わる事態として理解することも可能である。  さ夜更けて夜中の方におほほしく呼びし舟人泊てにけむかも(泊兼鴨) (07/1225 古集)  率ひて漕ぎ行く舟は高島の安曇の港に泊てにけむかも(極尓監鴨) (09/1718 高市黒人)  百済野の萩の古枝に春待つと居りし鴬鳴きにけむかも(鳴尓鶏鵡鴨) (08/1431 山部赤人)  高円の野辺の秋萩このころの暁露に咲きにけむかも(開兼可聞) (08/1605 大伴家持)  磐代の岸の松が枝結びけむ人は帰りてまた見けむかも(復将見鴨) (02/0143 長意吉麻呂)   は、「無事に舟が泊った」様子が詠まれている。 は、「夜が更けて夜中近くに、かすかな 声で呼び合っていた舟人たち」のことであり、 は「行き先は安曇だと声を掛け合って漕ぎ出し ていった舟」のことである。どちらも、実現が望まれる事態であるといえるだろう。   は「百済野の萩の古枝で春を待っていた鶯は、鳴いている」様子である。 は「高円の野辺 の秋萩はこのごろの朝の露に濡れて咲いた」様子である。それぞれ、鶯、秋萩の盛りの状態であ り、実現が望ましい事態である。   は有間皇子を追慕する歌である。「岩代のがけのほとりの松の枝を結んだというお方は、立ち 帰って再びこの松をご覧になった」の意味であり、実現していてほしいこととして詠まれている。  現段階において、この7例を詠み手の願望に関わる事態として理解するのは、あくまで解釈の みに基づいたものである。今後、構文等の面から更に分析を続けるべきではあるが、本稿におい ては、ケムカモ構文で言表されるのは、願望など、詠み手の感情を引き起こす事態であるとまと めておく。  では、ケムカモ構文の機能は、どのように考えるべきだろうか。  ケムカモ構文を構成する終助詞カモは、それ自体がそもそもいわゆる「詠嘆」を表す。終助詞 カモは辞書等で、以下のように説明されることが多い。  ①自問的な詠嘆。文末にあって、体言あるいは活用語の連体形に接する。   11/2411 白栲の袖をはつはつ見しからにかかる恋をも我れはするかも(吾為鴨) 作者:柿本人麻呂歌集  ②疑問。事柄事態についての疑いをあらわす。推量系の助動詞の連体形に接する。   16/3868 沖行くや赤ら小舟につと遣らばけだし人見て開き見むかも(解披見鴨) 作者:山上憶良  ③願望・希求。願っても実現し得ないような望みをあらわす。文末にあって助動詞ズの連体形 に接した∼ヌカモの形によってあらわす。   16/3867 沖つ鳥鴨とふ船は也良の崎廻みて漕ぎ来と聞こえ来ぬかも(所聞許奴可聞) 作者:山上憶良

(12)

①に含まれる例には、以下のようなものもある。  大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海を成すかも(海成可聞) (03/0241 柿本人麻呂)  白栲の袖をはつはつ見しからにかかる恋をも我れはするかも(吾為鴨) (11/2411 柿本人麻呂歌集) 「我が君は神でいらっしゃるので、真木が茂り立つ荒れた山中にも海を作られる 」「袖をちらり と見ただけで、このような恋をも私はする 」というように、事態を通常では考えられないこと として詠む例も多くあり、終助詞カモの表示する「詠嘆」とは、そのような事態に遭遇したとき に生起した感情であるといえる。  本稿が対象としているケムカモ構文は、ム系助辞がカモに接続する形式である。辞書的には 「疑問」と解釈されてきた。しかし、本稿では、ケムカモ構文は詠み手の感情を引き起こすよう な事態に接続することが確認できた。これは、 や と共通する性質である。ケムカモ構文は、 詠み手の感情を生起するような事態に関与し、その事態に遭遇した時の感情を表示する形式だと いえる。  また、ケムがカに接続せず、カモに接続するケムカモ構文がまとまって現れるのは、カモの 「詠嘆」を表す機能、すなわち詠み手の感情を生起するような事態に接続するという性質と、ケ ムの詠み手の感情を生起する事態を表す性質が親和的であるためだと考えられる。それに対し て、情景を淡々と表示するラムは、カモの性質と反するため、ラムカモ構文はほとんど現れない のだと考えられる。 4.まとめと今後の課題  ラムカ構文は、情景がそのまま描写される場合が多く、その情景に詠み手の介入しない例がほ とんどである。また詠み手の感情が描写されることはなく、情景自体が詠み手の願望と関わるこ とも少ないことが明らかとなった。そして、その情景を淡々と描写することで、感動を表示する 構文であることを示した。  それに対して、ケムカモ構文は、ただの情景の描写ではなく、詠み手の感情に働きかけるよう な事態が言表されている。詠み手が直接関わる事態であることも多い。そして、その事態の引き 起こす詠み手の感情を表す構文であることが明らかとなった。  前述したように、これまで、ム系助辞と終助詞カ・カモの接続した形式は「疑問を含む詠嘆」 や「詠嘆的疑問」等と説明されており、それぞれの違いはほとんど注目されてこなかった。ラム カ構文およびケムカモ構文の言表事態に注目し、その性質の違いを明らかにしたのは、本稿の成 果である。  ただし、ラムカ構文、ケムカモ構文を助辞ラム・ケムおよび終助詞カ・カモに分割して考えた 場合、それぞれがどのように作用して、構文の違いに影響しているのかについては、明らかに なっていない。助辞ラム・ケム、終助詞カ・カモの機能を明らかにするためにも、更に考察を続

(13)

けていきたい。 注 ⑴ 助辞ム・ラム・ケムのことをまとめて「ム系助辞」と呼ぶ。 ⑵ この特徴は、ラムカ構文だけのものではない。例えば、下の例は感動喚体の例であるが、事実 をそのまま述べることで、感動を表現している。   鹿背の山木立を茂み朝さらず来鳴き響もす鶯の声 (06/1057) ラムカ構文の表す感動は、感動喚体の表示する感動に近いといえる。 ⑶ 栲づのの 新羅の国ゆ 人言を よしと聞かして 問ひ放くる 親族兄弟 なき国に 渡り来まして 大君 の 敷きます国に うち日さす 都しみみに 里家は さはにあれども いかさまに 思ひけめかも(念鷄 目鴨)つれもなき 佐保の山辺に 泣く子なす 慕ひ来まして 敷栲の 家をも作り あらたまの 年の緒 長く 住まひつつ いまししものを 生ける者 死ぬといふことに 免れぬ ものにしあれば 頼めりし 人のことごと 草枕 旅なる間に 佐保川を 朝川渡り 春日野を そがひに見つつ あしひきの 山辺を さして 夕闇と 隠りましぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに たもとほり ただひとりして 白栲の 衣 袖干さず 嘆きつつ 我が泣く涙 有間山 雲居たなびき 雨に降りきや (03/0460坂上郎女) ここだくも思ひけめかも(思異目鴨)敷栲の枕片さる夢に見え来し (04/0633湯原王) 参考文献 伊藤博(1995‒1998)『万葉集釈注一∼一〇』(集英社) 近藤要司(1991)「万葉集の助詞カと助動詞ラムについて」(四国女子大学紀要11(1)) 近藤要司(1997)「係助詞の複合について㈠ ── 『万葉集』のカとカモの比較」(『金蘭国文』創刊号) 拙稿(2010)「ラムと終助詞カの接続関係に関する一考察」(名古屋大学国語国文学(103)) (受理日 2020年1月8日)

参照

関連したドキュメント

 このようなパヤタスゴミ処分場の歴史について説明を受けた後,パヤタスに 住む人の家庭を訪問した。そこでは 3 畳あるかないかほどの部屋に

証明の内容については、過去2年間に、優良認定・優良確認を受けようとする都道府県(政

スポンジの穴のように都市に散在し、なお増加を続ける空き地、空き家等の

3月 がつ を迎え むか 、昨年 さくねん の 4月 がつ 頃 ころ に比べる くら と食べる た 量 りょう も増え ふ 、心 こころ も体 からだ も大きく おお 成長 せいちょう