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リアリズムと悲劇 : J.キング著『ヴィクトリア朝小説における悲劇性』についての批評的考察

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長 野大学紀要 第13巻 第第2・3号 合併号 147-157頁 1991

リア リズム と悲劇

J.キシグ著 『ヴィク トリア朝小説における悲劇性』につ いての批評的考察

Realism and Tragedy: A Critical Study of

Tylagedy in the Victorian Novel by Jeannette King

(

序)

『日陰者 ジュー ド』は--ディの最後の小説で あ る。 この小説の出版後激 しい非難が起 こ り、つ いに--ディは小説 をあ きらめ、以後は詩作に専 念 したか らである。当時の激 しい非難の原因は、 ラス ト近 くで子供が 自殺す る場面や、 セ ックス と い う 「下頗」 なテーマ を描いたことな どが、当時 は不道徳 とみなされたか らだ とされている。 しか し、 『ジュー ド』が さん ざん非難 された理由はそれ がすべてではない.--ディが当時の社会的慣習 を大胆に批判 していたことも、当時の反発の大 き な理 由の一つだった と思われ る。最初 の二つの理 由は今 では問題 にならない。(自殺のケー スはあま りに唐突で説得 力にかけ るのではないか、 とい う 問題 はあるがO) 『ジュー ド』の評価 と大 き くかか わっているのは三番 目の問題 である。 『ジュー ド』は--デイの作 品の中で も、その 評価が大 き く二つに割れている作 品である。 その 評価が最 も大 き く分かれているのは、悲劇性の問 題 とヒロインであるシュー ・ブライ ド- ッ ドの評 価 に関 してである。上述の三番 目の問題がか らん で くるのは、 この悲劇性 をめ ぐっての論争 である。 つ ま り、社会 を批判的に描 くリア リズム と神話か ら力 を得 ている悲劇 とは両立 しえない とい う悲劇 観 に立つか、 この二つは基本的に矛盾 しない とい う観点に立つかによって、『ジュー ド』の評価 は全 く変 わって しまうのであ る。 本論は、『ジュー ド』評価の根本にかかわるこの 悲劇性 とリア リズムの問題 に議論 を絞 って論 じよ うとす るものである。特 にここで取 り上げるのは、 リア リズム と悲劇 は両立可能であるとい う重要 な 提起 をした、 ジャネ ッ ト・キングの 『ヴイク トリ

Yasuichi Kasahara

ア朝小説における悲劇性』 (1)(以後 『ヴィク トリア 朝悲劇』 と略す) である。 キングの 『ヴィク トリア朝悲劇』は、代表的な 悲劇論一一一例 えば、ア リス トテレスの『詩学』、ニ ーチェの 『悲劇の誕生』、 ジョー ジ・スタイナ-の 『悲劇の死』等- と並べ ると、 その立場の違い は際立 っている。相違点についての詳細は後に述 べ るとして、 キングの重要 な貢献 は、劇 ではな く 悲劇 的小説 を正面か ら取 り上げて論 じたことであ る。類書には、R.B.シー ウォルの 『悲劇 の探求』 や実存主義 の立場か ら書かれ た

C.

.

グ リックス バー グの

2

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世紀文学におけ る悲劇的世界像』、ジ ョン ・オールの 『悲劇的 リア リズム と現代社会』 などがあるが、ヴィク トリア朝の悲劇的小説につ いてこれほ どまとめて論 じた ものは他 にほ とん ど 見あた らない。 『ヴィク トリア朝悲劇』が扱 っている作家は--ディの他 にジョー ジ ・エ 1)オ ッ トと- ン リー ・ ジェイムズである。全体の構成は、悲劇論及び 3 人の作家の作 品におけ る悲劇的要素 を論 じた総論 部分 と、個別作家 ・作 品を論 じた各論部分 との二 部構成になっている。論の立て方 としては、古典 悲劇 とこれ らの現代的な悲劇的小説 とを比較 しつ つ、古典悲劇 を理想 とす る立場か ら悲劇的小説に 加 えられた批判に反論 し、悲劇的小説 を擁護す る とい う形 をとっている。著者のこういった姿勢、 およびその主張の多 くは妥当な もので説得力 もあ るが、い くつかの点で不徹底 な ところもある。特 に後半の個別作家 ・作 品論が相対的に弱い。だが、 個別作家 ・作 品論がやや説得力にかけるのは、前 半部分 の悲劇論が持つ不徹底 な部分 と関連がある。 しか し、いずれに して も、 キングの著書は上記の -

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95-148 長野大学紀要 第13巻 第 2・3号合併号 1991 三人の作家、あるいはヴィク トリア朝の悲劇的小 説 を論 じるときには、避けて通れない必読文献で あることには変 わ りないO キングの悲劇論はこの ようにユニー クなものだ が、そのユニー クさを理解す るには、彼女の論文 の検討にす ぐ入 らずに、悲劇 とリア リズムの関係 が どの ように論 じられてきたのか をまず見てお く 方が よいだろう。

K E

現在、悲劇諭 は文学研究におけ る神秘思想の最 後の砦 といった様相 を呈 している。例 えば、徳永 哲の F現代悲劇 の探求』はイプセン以降の現代悲 劇 を分析 したものだが、その論調は全体 として否 定的である。現代 とい う神 なき時代の悲劇が描 く のは、「すべて金銭中心の人間関係」がで き上がっ た、「聖 なる光の届か な くなった俗 のみが支配す る」、アイデンティティ喪失の世界である。そのよ うな状況の下で劇作家たちは 「救い」 を求めて模 索 してい る、 と彼は見 る。他の悲劇論 と同様、 こ の研究書 もギ リシア悲劇 とシェイクスピア悲劇 を 悲劇の理想 とし、その観点か ら現代悲劇 を判断 し てゆ く。特に目立つのは、写実主義的 ・自然主義 的作品への剥 き出 しの嫌悪感である。「神や正義 と いった壮大で崇高な宇宙的観念」 とか 「永遠不滅 なもの」など といった観念的な用語 を使 って悲劇 の特質 を説明す る一方で、写実主義的 ・自然主義 的作 品に対 しては

、「

F低俗』の支 配す る暗 い世 界」、「理想や夢 を捨て去 った近代 人の低俗 な現実 -の埋没 と下降」などとい う表現 をしきりに用い る。「低俗 な」、「通俗的」、「低級の」、「無能な」、 「堕落 した」、「不道徳」などといった言葉の使 い 方に、彼の悲劇観の特質が よ く表れている。 (2) しか し、何 といって も神秘主義的悲劇論のチャ ス的な もの」や 「アポロ的なもの」 とい う用語は 言 うまで もな く、「根源的一着」とい う概念 と音楽 の捉 え方など、ニーチェのキー ワー ドとキー概念 はすべて抽象的で観念的である。 そ してここに も、 いや ここにこそ、合理主義思想 (ニーチェの言葉 では 「理論的世界観」)と日常性への剥 き出しの反 感が示 されてい る。 F悲劇の誕生』とい うタイ トル ではあるが、この挑発的な著作の半分 は 「悲劇 の -96-死」の分析 に当て られている。ニーチェに とって、 楽天主義的な理論的世界観 はデ ィオニュソス的な ものの不倶戴天の敵 である。 そ して、その反悲劇 的要素 はすでにギ リシア悲劇の時代 に悲劇 の中に 入 り込できていると見 る。エ ウ リピデス とその背 後にいるソクラテスが悲劇 を死に至 らしめた張本 人なのだ。彼 らによって、悲劇 は 「市民劇-の死 の跳躍 を迫 られ」 (3)たのである。 「悲劇の死」の原因をさらに赦密に追求 したの はジョー ジ・スタイナ-である。彼の F悲劇 の死』 は深刻 な危機感に基づ いてい る。 しか し、ニーチ ェがワー グナーに悲劇 の再生の可能性 を見 たよう に、スタイナ-の著書 も悲劇の死亡診断書ではな く、息 も絶 えだえになった病人の回復 を願 う医師 によって書かれたカルテ、 とで も呼ぶべ きもので ある。 スタイナ- も悲劇の概念 をギ リシア悲劇 とシェ イクスピア悲劇に多 く負っている。 その影響 とそ れに対す る観念的理解 は、例 えば、「悪魔的なエネ ルギー」、「悪の究極性」、「天の不公正」、「原罪に よる神 の恩寵か らの失墜」、「世界の流れに内在す る非人間的行為 と破壊へ の変 わ るこ との ない傾 向」などの言葉使 いに も表れている。そ して彼 も また、悲劇 の死の原因を近代的合理主義の台頭に よる、神話的 ・象徴的 ・祭式的意味体系の衰退に 求めている。彼は象徴的 ・寓職的精神 と合理的経 験主義、あるいは高尚な悲劇 の世界 (韻文) と日 常体験の世界 (散文) とを対比 させ る。 そ して、 悲劇 は王侯 ない し貴族 を中心に した社会の秩序 と その有機的共 同体 を想定す るこ とで成 り立 ってい るのであ り、 したが って悲劇 のヴィジョンには民 主的な ところはない と主張 している。彼に とって 民主主義は大衆化 と文学趣味の低下 を意味す るに す ぎない。つ ま り彼の悲劇理論は リア リズム否定 をその重要 な側面 として持 ってい る。彼の理論に よれば、災厄の原因が一時的な ものである場合、 それは悲惨であって も悲劇 ではない。 災厄の原因が一時的であるとき、葛藤が技術的・ 社会的手段によって解決 されるようなものである 場合は、深刻な ドラマはあるかもしれないが、悲劇 はない。より融通性のある離婚法ができてもアガメ ムノンの運命は変わ りはしない。社会的精神医学は

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笠原保- リアリズムと悲劇 J.キング著 『ヴィクトリア朝小説における悲劇性』についての批評的考察 149 『オイディプス』の解決策にはならない。 しか し、 経済関係がより健全になるか、もっとましな鉛管設 備があれば、イプセンの劇の重大な危機のいくつか は解決できるだろう。 (4) この ようにスタイナ-の悲劇論 は全体 として古 典準拠の色彩 が濃いが、に もかかわ らず、 ギ リシ ア悲劇 とエ リザベ ス朝悲劇 を絶対視 していない。 彼 は、 それ まで無視 され るこ とが 多か った 『リア 王』の散文の意義 を高 く評価 し、 ビュ ヒナ-の『ヴ ォイツェク』 を下層の生活 を扱 った最初 の真の悲 劇 として評価 してい る。 それ どころか、古典悲劇 を単 に模倣 しただけの作 品を厳 し く批判 し、 さら には古典的神 話 自体 も死 んで しまった過去 に通 じ るだけだか ら、悲劇 の再生には役 に立 たない とま で言 ってい る。つ ま りスタイナ- は、 それぞれの 時代 はそれにふ さわ しい悲劇 を生み出すべ きだ と 主張 してい るのであ る。 『悲劇 の死』か ら聞 こえて くるのは、"われわれは悲劇 を欲 している、現代 の 要求 に応 え られ る悲劇 を" とい う痛切 な訴 えであ る。 しか し、一見歴史的なスタイナ-の悲劇観 に も ある不変の基準があ る。その基準 に照 らす と、『人 形の家』や 『幽霊』な どの、「合理的改革 によって 解決 しうる世俗 的 なデ ィレンマ」 (p.291)に基づ く作 品は悲劇 ではあ りえず、「新 しい神 話」を創造 し表現 した 『ロスメルスホルム』や 『- ッダ ・ガ ブ ラ-』等の、晩年 の神秘的 な劇 が評価 され るの であ る。要す るに、 スタイナ一 に とって悲劇 の死 とは神話の死 であ り (この点 では前二者 も同 じ)、 それ ぞれの時代 にふ さわ しい神 話 を創造す るこ と が、悲劇 が生 き残 る唯一の道 なのであ る。 なぜ な ら芸術作 品は私的 ヴ ィジ ョンを超 えていなければ な らず、 その ため には何 らかの枠組が必要 であ る。 そ して悲劇 に とってその枠組 とは神話 なのであ る。 神話 とは個 人の天才が生 んだ ものではな く、 ホメ ロスや アイスキュ ロスの背後 には一千年以上 の リ ア リティがあ ったのだ とスタイナ- は主張す る。 神 話の もつ 「リア リティ」 とい う言い方は興味 深 い表現であ る。しか し、スタイナ- は神話 に「リ ア リティ」 を認め たが、 ホメロスや ア イスキュロ スの作 品 を リア リスティ ックだ と見てい るわけで はない。 スタイナ-が以下 の引用文 で主張 されて い るような見解 を共有 してい るとは思 えない。 『イー リアス』では自然が神々 として、運命 とし て人間を支配 し、人間はまだ運命を支配 し、自らを 支配するすべ を知 らないo しかるに

Fオデッセイ ア』では、はじめて人間は自己を制御 し、同時に自 然の支配へ と-歩 をすすめるのである。‥.海神 ポ セイ ドー ンの主人公への迫害に して も嵐や津波 を おこすだけで自然の脅威の域 をこえず、『アラビア ン・ナイ ト』の魔神のおこなうような超 自然的奇跡 はみられない.女神アテ-ネ-はオデュッセウスを 奇跡で救 うのでな く、彼に忠告 をあたえ、勇気や 力、なかんず く知恵を吹 きこむに とどまる。‥.巻頭 で詩人は、オデュッセウスの戦友たちはおのれの愚 かさゆえに身を滅ぼしたのだ、といい、つづ く神々 の会議でもゼウスは、人間が禍いは神々か らくると いって責めるのはまちがいで、彼 らは自らの愚かさ ゆえに定めをこえた苦 しみを味わっているのだ、と のべて、神々の力の限界を示 し、人間の知恵を高 く 評価するとともに、人間自身の責任 を明らかにして いる。これこそ、自然 と運命に対する屈従か らは じ めてたちあがった文明初期の人間的英雄の考 え方 にほかならない。このようにみれば、神々の登場に もかかわらず、Fオデッセイア』は近代文学の規準に 照 らしても、りっばに リア リズム文学 とよびうるで あろう。 (5) これに対 し、スタイナ一 に とっての神話 とは「恩 寵 と神 の懲罰 とい う秘蹟や あ らか じめ定め られた 運命 とい う観念」 (p.196)の ような寓職的 な抽象 観念の こ とで しか ない。 だが、スタイナ- は恩寵、 堕地獄、浄罪等の観念が生命力 を失 い合理的精神 が それに とって代 わったために、悲劇 は衰 えたの だ と主張す る前 に、 なぜ い まだにわれわれはギ リ シア悲劇 に魅力 を感 じるのか と問 うべ きだった。 『オイデ ィプス』の神話的枠組 を現代 人は共有 し ていないが、 それで もこの劇 に共感 しうるのは、 その悲劇 の本質部分 が極めて人間的 な苦悩 だか ら であ る。彼 は神話的宇宙論にあま りこだわ り過 ぎ たため、 この重要 な側面 を見過 ご してい る。 この 点は もっ と論 じられて しか るべ きなのだ。 ス タイナ- は現代悲劇 とギ リシア悲劇 とエ リザ ベ ス朝悲劇 の特質 の違 い を認めつつ も、 その共通 - 97

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の枠組 として神話 をみていた。 しか し近代以降の 悲劇 ない し悲劇的小説は、近代以前の悲劇 と本質 的に異なっているのではないか。近代以降のす ぐ れた悲劇 は基本的には神話 を克服 しているのであ って、む しろ神話が取 り入れ られ る時には、かえ って否定的な結果 をもた らしているのではないだ ろうか。近代以降の悲劇 を評価す る際の基本的姿 勢 としては、 スタイナ-が「世俗的なデ ィレンマ」

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と呼んだ ところの問題 を神話の代 わ り に中心 に据 えて論 じるような ものでなければなら ないのではないか。 アー ノル ド・ケ トルはこの新 しい悲劇 を次の よ うに定義 した。 悲劇は、人間が到達したある特定の発展段階にお いて、人間にとって解決不可能な状況が発生したと きに起 こる

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世紀におけるそのような状 況- その問題は今でも解決 されてはいないが一 一 とは、解放 を求める女性たちの広が りつつある意 識 (それは国会議員の選挙などのような単なる形式 的な解放のことではない)と、階級社会にとっては そのような自由を認めれば必ずその不可欠な部分 を損なうことになるという状況であった。 (6)

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ジャネ ッ ト・キングはまさにこのような見解 に 立ってヴィク トリア朝時代の悲劇的小説 を論 じた のである。次にキングの悲劇論 (正確 には悲劇的 小説論 または現代悲劇論) を検討 してみ よう。 し ば らくは彼女の議論 を追ってみたい。 キングは悲劇的小説を決定論 と自由意志の関係 を探求 したもの、あるいは決定論 (運命論、必然 論)的な力 と個人の意志の衝突 と規定 している。 その主人公は高潔 な人格 を持 った英雄 ではな く下 層出身の人物 であ り、叙述の手法は リア リズムで ある。 またそこで描かれ るのは、英雄的な行為 で はな く継続的で不可避の苦 しみ (日常性、受動性、 無力 さ、単純 さが強調され る)である。 この新 し い主題の背後 には、高貴な死 よ りも悲惨 な生の方 が よ り悲劇的であるとい う新 しい認識がある。悲 劇 は重大 な問題か らのみならず、 ささいなことか らも発生 しうる。G.エ リオッ トの考 えでは、単調 を 日常的苦難は死 と同 じくらい重大 な悲劇 である。

-98-したが って、 より古典的悲劇 に近 い--デ ィの小 説は別 として、G.エ リオ ッ トとジェイムズはアン チ ・ヒー ロー を描 く方向-向かい、かれ らのヴィ ジョンは 「死 よ りも惨 い運命」 (p.44)と呼ぶにふ さわ しい人間的苦悩に向け られている。 この ような現代的な悲劇 に対 して様々な批判が 投げつけ られた。 その多 くはギ リシャ時代の古典 悲劇 を理想 (もっとも作品よ りア リス トテレスの F詩学』が手本) とす る批評家たちか ら発せ られ た ものである。序章の中で紹介 されているもの を まとめ ると以下の ようになる。 1)古典的な英雄観 と典型的な人物 とい うリア リ ズムの手法は相入れない。 なぜ なら、人物像が 個別化 ・特定化 されているため、悲劇的英雄の 持つ象徴性 を持 たないか らだ。 2)身分 の低 い ものが滅んで も大 きな意義 を持 た ない。彼 らには雄弁 さもない し、彼 らの苦 しみ には偉大 さがない。 3)悲劇的小説には苦 しみのはけ口がない。 した がってカタルシスがない。哀れ さ、暗欝 さが残 るだけ。悲劇 的結未 で終 わ るべ きでは な く、

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を求め る本能 を満足 させ るべ き。 4) ギ リシャ悲劇 は神の行為 を扱 った ものであ る か ら人間性 とは無縁である。悲劇 は 日常的、現 代的、身辺的なもの を拒む。 5)時代 と習慣が悲劇 に合 わない。文明化 のため に強烈な個性が失われ、英雄的な冒険や偉大な 悲劇的罪などに当時の習慣が適 さない。 以上のような批判 を受けて、 キングは第

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章か ら3章にかけて悲劇的小説の弁護 を展開す る (そ れはまた三人の作家の特質 に関す る比較研究で も ある。) まず、 キングは、悲劇的小説に対す る伝統主義 者たちの批判の根底には、小説は ドラマ よ りも劣 った形式だ とい う考 えがあることを指摘す るo L か しリア リステ ックな悲劇 を創造 しようとしてい た小説家 たちは、古典的な悲劇 とは異なった主題 を現代の悲劇に求めていたのだ。その主題 は散文 による物語形式でのみ表現可能であった。現実生 活の微細で具体 的な側面、複雑 な相互関係 を描 き 出すには リア リズムに基づ く小説 こそが通 してい るのだ。 しか も

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世紀には本格劇 は裏返 して行 き、 パ ン トマ イムや メロ ドラマが盛んになっていた。

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笠原保- リア リズム と悲劇 J.キング著 『ヴ ィ ク トリア朝小 説 におけ る悲劇性』 につ いての批評的考察 151 また当時の詩人たちが書いた詩劇 は過去の偉大 な 作 品をコピー しただけの書斎劇 にす ぎなか った。 こ うして、 ドラマの中で文学性 と大衆性が分稚 し、 ドラマ本来の機能 である、 同時代 を映 し出す機能 を見失 って しまった。つ ま り、時代 の悲劇 を伝 え るのに不向 きだったのは、時代 ではな く彼 らが模 倣 した形式だったのだ。 この ように、劇が力 を失 って行 く一方で、小説は劇的な もの と叙述的な も の との融合、詩的な もの と同時代の現実 との融合、 とい う理想 を実現 して しまったのである。 では、 この新 しい現代的主題 とは何か。 それは 前述のように決定論的な力 と個人の意志の衝突 と い うかたちで表現 され る。決定論的な力 とは、エ リオ ッ トや ジェイムズに とっては人間関係 のシス テム (家系、職業、金銭、等)であ り、--デ イ に とっては社会機構 (法や制度、因習)あるいは 自然 などである。 しか し決定論的な力が人々に等 し く影響す るわけではないのは何故か。その答 え は、キングが第1章の第 2節につけたタイ トル「性 格 は運命 である」 とい う言葉が暗示 している。だ が性格 のみが運命 を決定す るわけでは必ず しもな い。 キングは、性格 は因習的伝統や環境によって 規定 されているが、逆 にそれは環境 と相互作用 し あって個人 を運命づ けて行 くものだ と説明 してい る。 た とえ外的要素が個 人の生活 を決定す るとし て も、それには少 な くとも部分的にはその人物 自 身 との共犯関係が介在 している。 したがって個 人 は孤絶 した状態で行動す るもので もな く、環境に 完全 に左右 されて行動す るもので もない。葛藤は 個 人の外部 に も内部 に もある。 エ リオ ッ トはこの こ とを 「ロザモン ドと呼ばれ る状況」 とい うアイ ロニカルな言い方で表現 している。 以上の論述は全体 として傾聴に値す るものであ る。 しか し彼女の悲劇論には多少不満 もある。 ま ず古典悲劇 と現代悲劇 (悲劇 的小説)の間の内容 的 ・形式的差異が必ず しもはっき りとまとめ られ ていない。 それは各作家 ・作 品の特質 を述べ るこ とで現代悲劇 の特質 を叙述す るとい う形式 をとっ ているためであるが、 それは また三人の作家が一 つに まとめ るにはあ ま りに異なった特質 を持 って いるか らである。 しか しさらに突 き詰めれば、古 典悲劇 と現代悲劇 とい う二つの悲劇がいかなる歴 史的 ・文学史的 ・社会的 ・文化的状況 と変化か ら 生 じた ものであ るか を十分論 じていないことに、 よ り根本的な理由があると思われ る。 ギ リシャ悲 劇 (『詩学』 も含めて)、 シェー クス ピアの悲劇、 悲劇的小説の違いは、 それ らを生んだそれぞれの 社会 と時代 の違いをあ る程度反映 しているはずだ。 悲劇的小説が生 まれた経過 も十分 に論 じられてい るとは言えない。小説 とい う新 しい文学形式、そ れの持つ リア リズム とい う特質 と、 よ り複雑にな り変化 しつつある社会 との関係が、 よ り詳 しくよ り歴史的に記述 されてこそ、彼女の主張は説得力 を持 ちうるのだか ら。

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次にキングの悲劇的小説論で最 も重要な問題、 つ ま り、悲劇 とリア リズムの両立は可能か、そし て、社会的悲劇 は悲劇 として成 り立つか、 とい う 問題 を検討 してみたい。 キングはまず、古典的悲劇 とヴィク トリア朝小 説が、 リア リズムに対 してそれぞれ どの ような姿 勢 を示 したか を対比す る。- 古典的悲劇 は リア リズム を必要 としないだけではな く、それ を拒ん でいる。 日常生活のこと細かな描写 を事 とす るリ ア リズムは、- イライ トを受けた人間 と神や運命 との関連 を扱 うジャンル (悲劇) とは折 り合 わな い。だが、ヴィク トリア朝の小説家 たちは個人 と 社会の関連 を描 くなかで、悲劇 とリア リズムを結 合す るこ とを試みていた。すなわち例外的である と同時に典型的である個 人の経験 を描 こうとした のである。 それは平凡な題材に美学的 ・象徴的価 値 を付与 しようとす るものである。 ヴィク トリア 朝の作家たちが一般に関心 を向けていた リア リテ ィー とい うものは、伝統的悲劇 の概念 と相入れな い ものであった。 キングは悲劇 とリア リズムの関係 に対す る一般 論 をこれ以上追及せずに、す ぐ各作家 ごとの分析 に入 る。 ここで も、彼女が一般論 を十分展開 しな いことは、結果的には彼女の主張の説得力 を弱め ている。悲劇 とリア リズムは両立 しない とい う一 般的認識 を打ち破 るには、 もっ としっか りした理 論的根拠が必要である。 なぜ なら、それぞれ多分 に個性的な作家 たちの特質 と歴史的意義 を際立た せ、その位 置 を理解す るためには、 この

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人の作 家たちをよ り広 い文脈、例 えばヴィク トリア朝小 一 99

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長野大学紀要 第13巻第2 ・3号合併号 1991 説 とリア リズムの関係、 とい う問題設定の中に投 げ込んで理解す る必要があるか らだ。 リア リズム にはデ ィケンズの リア リズム もエ ミリー ・ブロン テの リア リズム もあるのだか ら。 個 々の作家における リア リズム と悲劇 との関係 は、第

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章の

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節 「沈黙の向こう

」と第

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節 「リ ア リズム とシンボ リズム」で2つの面か ら論 じら れる。第1節では 日常の具体的で微細な リア リテ ィをいかに描いたかに焦点が当て られ、第2節で は具体的な事柄 を描 くリア リズムが シンボ リズム と結 びつ くことによって普遍的真実 をも促 えられ るこ とが論 じられている。特に重要 なのは、特殊 性 と普遍性の問題 を論 じた第2節のほ うである。 なぜ な ら、 リア リズムは しば しば単 なる写実主義 にお としめ られ、事柄の表面だけ を促 える皮相 な 方法だ と理解 されているか らだ。 しか し、す ぐれ た リア リズムは シンナポ リックな力を持つ。(リア リズムの伝統的概念である 「典型理論」 とは、 ま さにこの シンボ リックな力 をもった リア リズムを 理論化 した ものだ と私 は考 えている。) キングの主張は次のような ものである。G.エ リ オッ トや--デ ィの作品には、彼 らが雑誌等に寄 せた記事や、取材で集めた資料がほ とん どその ま ま使 われている。 しか しこれは作品をその扱った 対象の範囲に狭めてはいない。彼 らは、散文的現 実の描写は普遍的真実へ近づ く手段であると思 っ ていた。彼 らの科学的原理は、ギ リシャ悲劇 にお ける運命 と対になるものだが、運命 とは違 って合 理的な原理であ る。遺伝や進化や環境 とい うよ く 知れ渡った概念は、今 日的かつなれ親 しんだシン ボル としてよく使われる。特 に遺伝の場合 はそ う で、--ディやエ リオ ッ トはこれ をギ リシャ悲劇 の集団的 ・相続的罪に代わ るもの として用いた。 両作家 とも二元的考 えをもっていて、彼 らの作 品には合理的 ・人間的解釈 と超人間 (経験)的な 解釈 とが入 り交 じって見 られ る。つ ま り、一方で 登場人物 たちは 自分 の良心の声に したが っている と信 じているのだが、読者には神霊の声に従 って いるように見えるのである。人間 と超人間的な も の とを関連づけて描 こうとす ると、純粋 に合理的 な言葉 では説明できない要素が常にある。彼 らの 小説に表れる自然は、物理的影響力 と超越論的影 響力の両方 として経験 され る。 - 100 -つ ま り、 シェー クスピアの主人公たちが個 人的 経験 を通 して世界の真実や矛盾 を認識す るに至 る ように、--デ ィや

G.

エ リオ ッ トの小説 も具体 的 ・個別的問題 を扱いなが らも普遍的真実 を捉え るこ とがで きた と主張 しているのである。 しか し、 キングの主張にはあいまいな点が多い。 まず、遺 伝 ・進化 ・環境 とい うシンボ リックな要素は普遍 的真実 よりもむ しろ環境決 定論に結びつ きやすい。 こういった決定論的力は作品 をスタティックな も のに し、む しろ個 人 と社会の関係 を固定的で単純 な関係 に して しまいがちだ。つ ま り、社会の状態 と動 きをよ り複雑 に豊かに捉 えようとす る方向 と 逆行す る要素にな りうるのである。 また 「普遍的 真実」 とい う言い方 自体 もきわめて抽象的である (ニーチェや スタイナ-が言いそ うな言葉だ)。全 体の トー ンか ら、 キングが古典的な悲劇 の概念に 引 きず られていること、 その リア リズムの とらえ 方に不徹底 な部分があるこ とがはっきり読み取れ る。 もちろん、あいまいな部分 は扱 った作品 自体 の中に もあるのだが、キングはそれ らをほ とん ど 批判す るこ とな く、それぞれの作家の持 ち味の違 いに解消 して しまっている。 作家のあいまいさとキングのあいまいさが微妙 に重 な り合 っているのは、二元論的特質 を論 じて いる部分 である。例 えば、--デイには確かに悲 劇的状況に対す る合理的捉 え方 と超越論的捉 え方 が混在 していて、 しば しば批評家たちを悩 ませ る。 問題 なのはキングが単にそれ を指摘 しているだけ で、そのことが作 品に どのような結果 をもた らし ているかに触れていないこ とだ。二つの要素が混 在す ることは必ず しも悪いこ とではない。人間の 意志 を超 えた ところで働 く社会の大 きな動 きは し ば しば主人公には 「宇宙」的矛盾に思 える。 この ように もっ とも ドラマティックな悲劇的表現 は、 客観的認識が個人の主観 を通 して増幅 された時に 生 じる。『ジュー ド』の中で、フイロッ トソンに「誰 が悪いのか」 と聞かれた時に、「私わか らないわ、 宇宙が、物事一般の有 り様が悪いのか もしれない。 本 当にぞ っ とす るほ ど残酷 なんです もの

」(

7)と シューが答 える場面がその例 だ。 しか し、 この二つの要素が うま く結 びつけ られ ていない場合には、作品にあいまいさと不徹底 さ をもたらす ことになる。--デ イの作 品にはこの

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笠原保- リア リズム と悲劇 J.キング著 『ヴ ィク トリア朝小説におけ る悲劇性』 につ いての批評的考察

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よ うなあいまいな要素 はい くつ もある。 キングは --ディの小説におけ る自然の シンボ リックな役 割 を強調 しす ぎているために、 田園地方ではな く 町や地方都市 を描 いた 『ジュー ド』の評価 には と まどいが感 じられ る。 キングの悲劇理解 が古典的な悲劇の概念 と細い 膳の緒でつながってい ることは、次の第3節 「社 会的悲劇 :言葉の矛盾 ?」でよ りはっきり示 され てい る。彼女 はまず社会的悲劇 を否定す る論理 を 簡潔 に まとめ る。 多くの批評家たちは、真の悲劇がある社会的状況か ら生 じるということに疑問を抱いている。なぜ な ら、悲劇は不変で遍在的なものと関係づけられてい なけばならないからだ。もし不運な事態の原因が特 定の社会状況にあるとすれは、その事態は単にその 状況を変えることによって取 り除けるのではない か。そうなればそれは事実上悲劇的- つまり不可 避的かつ普遍的- ではな くなるのではないか。 (pp.64-5) これに対 して、キングは次の ように反論す る。 (--デイに関 して言 えば)彼は貧 困に嘱 ぐ人々 の悲劇、階級差、貧 困、悲惨 な生活 などを前面に 押 し出す。彼は、 この ような悲惨 な事態が移 り変 わる経済的、社会的圧迫によって引 き起 こされ る ことを描 いている。だが彼は更にその奥にあ る死 とい う悲劇的事実、それが一人一人に押 し付け る 絶対的孤独感 を見ている。 この必然的で取 り返 し のつかない事実は人々 を冷淡にす るが、それはま た読者の心 を打つのである。 しか し、 これに対 し ては次のような批判が予測 され る、 とキングは続 け る。つ ま り、社会が単 なる悲劇の道具 だてにす ぎす、悲劇の究極的な原因ではないのだ として も、 「われわれの理解 を越 えた存在 の、限 りな き広大 さに対す る意識」 (ヤ スパー ス)がなければ、結局 の ところ惨め きしか伝 えられないのではないか と。 これに対 してキングは、--デ ィの 自然は広大 さ を持 ってお り、登場人物の個 人的な限界 を補 うも の として作用 してい ると答 える。 ウェセ ックスの 風景 は宇宙 を象徴 しているのだ と。 最後にキングは社会性 ・歴史性の重要 さを強調 す る。(ここで--ディの名が抜けてい るこ とは注 目すべ きである。)エ リオッ トとジェイム ズが描 く 悲劇が含んでいる社会的 ・同時代的要素 を軽視 し てはならない。 なぜ なら小説が悲劇 の媒介 として 劇 よ りも有利である理由の一つは、悲劇的要素が 個人の幸福 を破壊 し侵害 してゆ く際に とる一見 さ さいに見える形態 を描 く時の、深 さと綿密 さにあ るか らである。悲劇 を作 り出 している状況が変化 しうるとい う可能性は悲劇性 を弱め るが、その時 代 によって もてあそばれ るとい う運命はやは り悲 劇的であることに変 わ りはない。 キングの反論はかな り及び腰である。社会悲劇 を擁護す る姿勢 を取 りなが らも、社会的原因だけ では底が浅 い と言われ ると、社会的諸問題は歴史 的背景以上の ものではない と逃 げ、「自然の広大 さ」 を弱々 しく掲げ る。最後には社会的悲劇 は普 遍的ではないので悲劇性 を弱め るとまで認めて し まっている。 だか、悲劇の原因が特定の時代の状 況にあるこ とは、少 しも悲劇性 を弱めた り普遍性 を奪 うことではない。 リア リズムに基づ いた悲劇 的小説の普遍性は、抽象化 された普遍的概念にあ るのではな く、主人公たちの苦 しみに対す る共感 の質 にある。われわれが彼 (女) らに共感す るの は、その苦悩が真実 であ り、具体 的であ り、未来 を志向 しているか らだ。 た とえ今 日奴隷制が制度 としては存在 しない として も、かつて奴隷 として 苦 しみ、戦い、死んでいった人々の人生が悲劇的 でなか った とい うこ とにはな らない。 また彼 らの 苦 しみや悲 しみ、怒 りに対す るわれわれの共感が 一時的であるとい うことに もならない。 ジュー ドとシュー を破滅に追いや ったのは究極 的には時代 だった。 (「僕 たち二人に比べ てまだ時 代の方が遅れていたんだ。僕 たちの理想が幸せ を もた らす には50年早す ぎた

」 (pA19) とい うの が、 ジュー ドが最後に到達 した認識である。)もち ろん、社会的 ・歴史的な条件が悲劇 の原因である とすれば、 その原因を取 り除 くことは可能だ し、 したがって悲劇が消滅す る可能性 もまた含 まれて いる。 しか しこれは社会的悲劇 を認めない批評家 たちが言 うほ ど簡単 なことではない。 なぜ なら社 会 と歴史、 さらには人間の意識その もの を変革 し なければ悲劇的状況 をな くせ ないか らだ。単に個 人の意志だけでは不可能である (しか も、多 くの 場合主人公は孤立 している)。想像 力によって以外 - 101

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-154 長野大学紀要 第13巻第 2・3号合併号 1991 は、人間は時空 を越 えて生 きるこ とはで きない。 いや、想像 の世界に逃 げて も悲劇 的状況が消滅す るわけではない。 悲劇的小説 を論 じるには、 もっ と歴史的 ・社会 的文脈の 中にそれ らを投げ込んでみ る必要があ る。 総括編の検討 を終 える前にその点 を補 ってお くべ きであろ う。次に引用す る文章 は悲劇 を論 じた も のではない。 しか し、そこでは悲劇的小説に通ず る重要 な指摘が なされてい る。 ひとりの人間の成長過程 を描 くという教養小説 の基本的な形式は、言うまでもな く、個性的な人格 として人間をとらえる視点なしには成立 しえない。 中世封建社会の終蔦 (あるいはその予感)と、近代 的な個人的自我の自立が、不可欠の前提である。だ が、自立 した瞬間に、社会がひとつの外的世界 と化 し、その外的世界 との乱蝶をわが身に引きうけねば ならなかったということこそは、近代的自我にとっ て根本的な不幸だった。中世的共同体の桂椎から解 き放たれたとき、く私)は、帰るべ き くわれわれ)の 故郷 と、調和的な生の基盤 と舞台とを失ったのであ る。‥.〈教養小説)がふ くむ人間の成長 と自己形成 への関心は、ぬきがたい喪失の意識 と不可分に結び ついている。(教養小説〉という形式は、〈私〉とし て孤立 した自我 と、外的世界としてこれに対立する 社会の現実 とのあいだの矛盾 と断絶の意識にみた されながら、なんとかしてこれを揚棄 しようとする ひとつの試みなのだ。(8)(傍点は著者) 教養小 説は 「一人の個 人の 自己形成の過程」 で あるだけではな く、「社会的現実のなかで個 人はい かに して意味ある生 を営む こ とがで きるか とい う 問い」(p.ll)で もある、 とい うのであ る。 しか し その答えが現実 の中には兄 いだ Lがたいのだ。 し たが って、教養小説の主人公 たちの問い と行為 は、 「欠如 の-表現」、「危機 の意識化」 (p.12) とな る。つ ま り危機 こそが教養小説の主題 であ り存立 基盤 なのである。 しか し、 その危機 の深化 は教養 小説その もの を危 うくさせ、「崩壊 に直面」(p.13) させ ざるをえないのだ。 「危機 の深化 」が主人公 を庄倒 して しまった時、 教養小説は悲劇 とな る。 これ こそまさに 『ジュー ド』のケー スだ0 -102

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最後 にキングの Fジュー ド』論 につ いて触れた い。 キングは、エ リオ ッ トや ジェイムズ と--デ イの違 いは、--ディは小 説 とい う形式に よって 古典悲劇 を受け継 ごうとした点にあ ると見 ている が、Fジュー ド』に関 しては 「現代悲劇」と捉 えて い る。 この認識は 『ジュー ド』 を--デ ィの作 品 の中で位 置づ け る上 で重要 であ る。なぜ な ら、Fジ ュー ド』に対す る批判 は、 (彼女 自身引用 している ゲラー ドの ように) ジュー ドは現代 的であ るゆえ に悲劇 的英雄 ではない とい う形 を取 るこ とが 多い か らだ。しか し、彼女 はこの立場 を取 らない。Fジ ュー ド』が他 の--デ ィの小説 よ りも古典 的理想 か ら隔たってい るか らといって、それ を悲劇 的で はない と決め付 け るわけには行 かない。 この小説 は 「現代悲劇」 とい う

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世紀の概念 を指 し示す形 で、拘束的力(law)や性格 に対す る古典悲劇 の伝 統的概念に意義 を申 し立ててい るとい うのである。 この拘束的力はアラベ ラ (との結婚 によって生 じる社会的義務)、階級の壁 である大学の壁、正 と 邪 を判断す る道徳 の規準、 自然の法則、 シューの かた くなな結婚観、 な どの形 を取 って現れ る、 と キングは論 じるo Lか し、 この一律化 した とらえ 方 は作 品を平板 な ものに して しまってい る。--デ ィの描 き方は非常に具体的 なのだか、彼女の「状 況」の とらえ方は どこか抽象的 な ところがあ る。 特 に クライス トミンス ターの壁 とア ラベ ラを同列 に論 じてい るこ と、 シュー をジュー ドの願望 を妨 げた存在 として とらえるこ とには大 いに疑 問 を感 じる。 キングが この よ うな定式化 をす るのには、 あ る前提がある。つ ま り、決定論的 な力 と個 人の 意志の衝突 とい う一般的テーゼは、--デ ィの場 合 「固有 の もの」 と 「人間の制度」 との間の葛藤 とい う形で表れ るとい う前提 である。 『ジュー ド』 を現代悲劇 と規定 しなが らも、作 品に決定論的な力 とい う抽象的 な枠組 み を機械的 に当てはめ たために、 キングは作 品の結未 をペ シ ミスティックだ ととらえざるをえな くなっている。 古典 的な悲劇 の英雄 な らば人間存在 のすべ て をか けて拘束的力に逆 らい、 その拘束的力に対す る信 頼 を一切投げ捨てて しまうのだが、 ジュー ドの行 為 の後には何 も残 らない。 ただ空 しさがあ るだけ だ。作 品が最終的に到達 した結論 は、個 人にでは

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笠原保- リアリズムと悲劇 J.キング著 『ヴィクトリア朝小説における悲劇性』についての批評的考察 155 な く、世界全体 に欠陥があ るのだ、 とい うペ シ ミ スティックな結論 だ と論 じてい る。しか し、「50年 早す ぎた」とい うジュー ドの言葉 には、「人間の制 度」が永遠不変の矛盾 であ る とい う響 き

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「ペ シ ミ スティック」 とい う表現が暗に示 してい るのは こ うい うこ とだ)は感 じ取れない。む しろそこには、 社会 の矛盾はいずれ解決 され るだろ うとい う認識 が あ るのだ。 『ジュー ド』が示 した ものはペ シ ミズ ムではな く、 ある特定 の歴史的段階におけ る人間 の可能性 と限界なのだ。 (9) キングは 『ジュー ド』の現代性 を登場 人物 の性 格 の描 き方に も見てい る。彼女が現代的 と言 って い るのは、つ ま り 『ジュー ド』 の登場 人物 の性格 が以前の--ディの諸作 品 よ りもよ り不確定的 で、 行動 には 目標 がな く、行動 のみに よっで 性格 を伝 え られな くなってい る とい うこ とであ る。 したが って、作者は行動の背後 にあ る非合理 な衝動 どう しの衝突 を描かねば な らない。 なぜ な ら悲劇 は運 命的 な行動 よ りも内面 の苦悩 に焦点 を当ててい る か らであ ると。 キングが登場人物 の性格 を不確定 的だ と見 なす のは、 その行動 を個 人の 「衝動」の レベ ルで判断 してい るか らである。 「人間の制度」を拘束的力 と い う言葉 で一律化 したように、登場 人物の行動や 内的葛藤 の原理 を 「衝動」 とい う言葉 で一律化 し て しま うのである。 もちろん彼女 は単純 に性格 だ けが悲劇 の原因だ とは考 えていない。--デ ィに とってプ ロッ トが最 も大事 な要素 で、彼の悲劇 は 性格 悲劇 とい うよ り状況悲劇 である。個 人の欠陥 は、場合 に よっては美点で もあ り、 あ る特定の状 況が生 じだ ときに、悲劇 の要 因になる と一般的に は説明 してい る。 しか し、ほ とん どのハ-デ ィの 登場 人物 はあ る生 まれ なが らの衝動 を持 ってい る とい う主張や、 ジュー ドとシューのばあいは彼 ら の遺伝 的性質が悲劇 的欠陥 として作用す るとい う とらえ方 には、登場 人物 に対す るスタティックな 把握 の し方がはっき り表れてい る。 確 かに シューの行動 は衝動的 で一貫 していない とよ く言われ る。事実批判 されて も仕 方のない よ うな部分 もい くつか あ る。 しか し、 その批判の 多 くは彼女の行動や考 え方 をよ り広 い文脈 (単 に作 品の レベ ルだけではな く、歴 史的 なレベ ルにおい て も)の中で とらえていない こ とか ら くるもので ある。 レイモン ド・ウィ リアムズは結婚 とい う問 題 を社会 的文脈 の中で とらえて見せ た。 構造 自体が変化 しつつあるなかで、流動性の もっ とも直接的な影響は結婚の選択の難 しさに現れる。 そしてこの状況は、バスシーバがボール ドウッドと オ-クの、グレイスがジャイルズとフイツツピアズ の、ジュー ドがアラベ ラとス-の、どちらを選ぶべ きかに迷 う例に見 られるように、個人的であると同 時に社会的なものとして繰 り返 し現れる。特殊な階 級的要素 と、階級的要素に対する不安定な経済の影 響は、煎 じ詰めれば根本的には生 き方の選択であ り、また誰かれの人間と一体になるという点でアイ デンティティの選択である個人的な選択の、一部を なしている。そしてここで重要なのは、誤った結婚 (これに--ディはたび重なる深い関心 を示 して いる)は、教育がある人間が相手の場合 と粗野な人 間が相手の場合 と、どちらにも起 こりうるというこ とである。この点に、精神的な意味でどこにも安住 の地 を兄いだしえない人間の状況が もっとも劇的 に現れている。社会的な疎外が人間の内部に入 り込 み、愛ある関係 を成就する能力をすべて破壊 してし まうのである。(10) ジュー ドがア ラベ ラ とシューの間で迷 ったの と 同 じように、 シュー もジュー ドとフイロッ トソン の間で、 そ して、 セ ックス と結婚 の杵の間で迷 っ たのであ る。 キングの シュー に対す る見方は、ア ラベ ラは肉体 を象徴 し、 シュー は精神 を象徴す る とい う、伝統的 な解釈 をほ とん どその まま受 け入 れた ものである。 だが なぜ シュー はセ ックスや結 婚 を拒否す るのか。 キングや他 の多 くの批評家 た ちは、彼女の非 肉体性やエ ゴイスティ ックな性格 のせ いだ と見てい る。 キングは結婚 の制度に問題 が あるこ とを認めつつ も、 シューの行動 を理解 し よ うとしない。確 か にそこには彼女の弱 きはあっ たが、 それは当時の女性が一般的 に置かれていた 弱い立場 の特殊 な表れなのだ。 シューの行動や考 えを理解 す るには、 イギ リス社会 におけ る結婚 と 女性 の地位 の歴 史 とい う文脈の中で彼女 を捉 えな ければな らないO シュー に結婚登記所 に入 るこ と を拒 ませ たのは、彼女 自身の偏狭 な意識 ではな く、 人間 としての男女の繋が りが一片の条文 によって - 1

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03-156 長野大学紀要 第13巻 第2・3号合併号 1991 拘束 されて しま う制度への恐れ であった。彼女 に の しかか る重圧 は、女性 であ るがゆ えに ジュー ド よ りも大 きか った。彼女 自身認識 に観念的 な弱 き が あ った こ とは事実 だ。 しか しシューが ジュー ド か ら去 った こ とを 「逃 げ道 を兄 いだ した」 と解釈 す るのは不 当であ る。 キングは シューの苦悩 に満 ちた生 を悲劇 的だ と認めてはい るが、 テスに感 じ た 「哀れ

」 をシュー に感 じてはいない. シュー の弱 きは、 イー グル トンが指摘す るよ うに、彼女 の理 想主義 の弱 きであ り、彼女 の強 さ もまたここ か らきてい る。 シューの限界は当時の女性解放 の 限界 で もあ る、 とい うイー グル トンの指摘 の方が (図式的 ではあ るが) はるか に正 当であ る。(ll) シュー を正 し く評価 で きないの は彼女 をジュー ドとの関連 の中で とらえないか らであ る。 シュー の限界は また ジュー ドの限界 で もあ る。 キングは、 世 界の不合 理 さに気付 いたため に ジュー ドは死 を 選 んだの だ と述べ てい るが、 この解釈 は間違 って い る。彼 が生へ の意欲 を失 ったのは、社会 の圧 迫 に対 し共 に戦 い、共 に支 え合 うべ き相手 を失 った か らなの だO シュー との強い杵が あったか らこそ ジュー ドもよ り人間 らしい、 自由 な生活へ の意欲 を持 ち続 け られ たのだ。 よ り人間的で 自由 な生 き方 を求め たがゆ えに、 二人は互 い を求め合 った。 しか し同時 にその こ と は二 人 を因習 とい う壁 に突 き当た らせ た。 自由で あろ うとす ればす るほ ど、二人は 自由 を奪 われて ゆ く。重圧 は よ り弱 い方か ら圧 しつぶ してゆ く。 そ して一端 秤が断たれれば、 もう一 方 も挫折す るO キングは Fダーバ ヴ イル家のテス』 が典 型的 な女 の悲劇 であ るのに対 し、 『ジュー ド』は典 型的 な男 の悲劇 であ り、「反抗 と志の悲劇、生活 を変 えよ う とす る願望 の悲劇 であ る」 と規定 した。 (p.120) しか し、 Fジュー ド』はあ くまで一組 みの男女 の悲 劇 なのであ る。 (か さは ら やす いち 講師) (1991.10.28受理) [注] (1)Jeannette King,T71qedy in the VT2'ctorian Nouel,(CambridgeU.P.,1978) (2)典型的な例は、アーサー ・ミラーの Fセールスマ ンの死』に対する評価である。「低俗な中に生 き、低 -10 4-俗 な出来事によって人生 を左右 され、低4-俗な死に方 をする、こうしたウィ リー ・ローマンの生涯 を悲劇 にまで高めることができるのは、このサスペ ンスが ある故であ り、現代人が絶 えず抱いている欲望 とそ れに付 きまとう危機感がそのサスペ ンスを現実感 溢れるもの とす るか らである。現代人の心の中に潜 む俗悪な神話がサスペ ンスを支 えてい るのではな いだろうか。」徳永哲、「現代悲劇の探求』 (海鳥社、 1991年)、p.2120 (3)フ リー ドリッヒ・ニーチェ、F悲劇の誕生』、秋山 英男訳、 (岩波文庫、昭和41年)、p.1350

(4) GeorgeSteiner,7TheDeathofTy喝edy,(Faber andFaber,1963),p.8.

(5)北条元一、「古代劇、ギ リシアの文学」、小場瀬卓

三 ・北条元- ・佐藤静夫編、F世界の文学1』所収、

(新 日本出版社、1972年)、p.340

(6) ArnoldKettle,AnInty10ductiontotheEnglikh Nouel,vol.1,(HutchinsonU.Pリ1967),p.66. (7) ThomasHardy,JudetheObscuyle,(1896,rpt.

Macmillan,1974),p.242. (8) 池田浩士、F教養小説の崩壊』 (現代書館、1979) p,10-110 ちなみに、川本静子はイギ リスの教養小説のパ タ ーンを次のように描いている。「主人公は、芸術家的 資質 を備 えた感受性の鋭い青年 として設定 されて いる。多 くの場合、彼は地方に住み、家族 をは じめ とする周囲の環境 と調和 しない。彼の感受性が、彼 と家族 との調和の障害になっているのである。家族 は彼の資質や天分 を理解せず、彼 もまた、家族 との 接触 を不快に思 う。特に父親 との乱按が甚だ しい。 彼は故郷 を離れ、世間に出て行 き、人生 とい う学校 で学ぶが、この場合の人生教育は主 として恋愛であ る。多 くの場合、ある道徳的 コンヴァー ジョンが、 主人公の到達 した 「生」の一段階 として提示 されて いるo」父親の問題 を除けば Fジュー ド』はまさにこ れに当てはまる。川本静子、『イギ リス教養小説の系 譜』 (研究社、1973)、pp.12-130 また、『ジュー ド』は社会の認識 と社会批判 をその 重要な側面 として もっているoFジュー ド』のような 悲劇は批判的 リア リズムの一形態 として位 置づけ ることもできるだろう。 (9) シーウォルは、「理想的に言えば、悲劇 とい うもの は、ある一つの完結 したアクションのなかで、人間

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笠原保- リア リズム と悲劇 J.キング著 『ヴィク トリア朝小説におけ る悲劇性』 についての批評的考察 157

の もつあらゆ る可能性 とともに、まことに悲 しむべ (ChattoandWindus,1963).山本和平他訳、『田舎 き限界 を同時に表す ものなのである。」 と述べ てい と都会』(晶文社、1985)、p.282。ちなみに、スー と る。R.B.Sewall,TheI/ぬionofTylqedy,(ValeU. はシューの別の呼び方である。

Pリ1959).上野直蔵監訳、『悲劇の探求』 (南雲堂、 01) Terry Eagleton,"Introduction,"toJudethe

1978)、p.169. Obscure,(Macmillan,1974),pp.13-14.

(10) RaymondWilliams,TheCounわツandtheCity,

参照

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