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大正期における地主と農民(一) : 水稲単作地帯の一地主の事例研究

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大 正 期 に お け る 地 主 と 農 民 ( 一 )

A C a s e S t u d y o n t h e J i n u s h i - K o s a k u ( L a n d l o r d - t e n a n t f a r m e r )

Relationship in Taisho Period (1)

高 橋

Mitsuru Takahashi

I序論 地主制研究の課題 と視角 におけるその位置や役割は, 日本資本主義の確立 と独 占段階-の移行 とともに大 きな変化 をみせて いる。 また,農村社会内部に視野を限 って も,磨 「地主制 は,農地改革にいたる 日本資本主義 の全 民運動-小作争議 の展開を契機に,地主的支配は 生活史を貫 ぬ く課題であ り,全社全構造 の基本的 激 しい動揺にさらされて きた。 一環」(1)をなす, といわれ る。 しか し,体制的支配 調査対象地中浦村の寄生地主制 も,大正期-昭 図1 中浦村 (現豊浦町 )全体図

(2)

和初期の小作争議 の展開によって,その地主的支 配の実質を変容 させて きたく21のだが, に もかかわ らず,争議以降 も依然 として農民の生産 と生活を 規定 し続 けた。 これは多かれ少なかれ 月 本の農 村社会に一般 にみ られた ことであろ う。それゆえ, 村落構造を

,

「特定 の段階における生産関係の総体 たる経済構造 の うえに成立す る村落の政治的 (-階級的)支配構造」(3)として とらえるな ら,戦前 に おける農村の生産関係の基幹的位置を占めた地主 制の, とくに地主 による農民支配の構造を解 明す る努力が農村社会学 に求め られ る。 しか し,農村 社会学 におけ る地主制研究は,小作争議や村落構 造の分析 とかかわ り問説す ることはあって も, こ の間題を正面 か ら取扱 って こなか った。 こうした研究状況をふまえるならば,農村社会学 における地主制研究が,いかなる課題 を設定 し, どの よ うな視角か ら分析を進めねばな らないかを まず 明示す る必要 があろ う。以下,経済史お よび 社会学の見地 に立つ研究の検討を とお して課題 と 方法の若干を提示 してみたい。 経済史学における地主制研究 先 に述べた よ う な農村社会学 における研究状況をみ るな らば, 普 ず,関連領域 における諸研究か ら考察をは じめな ければな らない。 ここでは経済史学 における地主 制研究を取上 げ よ う。 この経済史学 における地主制研究を考察 しよ う とすれば,戦前の 日本資本主義論争 にまで潮 らね ばな らないが, これについては次の諸点にだけ触 れてお こ う。す なわち,第一 に,日本革命の戦略・ 性格規定をめ く・り講座派 ・労農派によ りたたかわ れた この論争 において,講座派 は天皇制 国家権力 の物質的基礎 として半封建的土地所有を位置づけ たが, この中で 『日本資本主義分析J において山 田盛太郎が,地主制を 日本資本主義 の構造的一環 として定置 し, しか も,その特殊的構造を規定す る契枚 として把握す る視角を提示 していた ことに 注 目したい。 だが,第二に,山田にあ っては労農 派が批判す るよ うに,資本 と地主制 との関連 を固 定的に とらえ,従 って,地主制 を 日本資本主義の 一環 として位置づけるにして も, この資本 との依 存 ・対抗関係を段階的視点か ら追究す る観点 に欠 けていた, といい うる。第三 に,後 に触れ るが, この論争の主要 なテーマのひ とつ となった封建地 代論争, とくに名子の賦 役労働 の性格規定をめ ぐ って,有賀 の批判を甘受 せ ざるをえない方法論的 弱点を もっていたのであ る(4)。 この地主制研究が,戦 後 の寄生地主制論争(5)杏 契機 として,戦 前 のそ れ とは一線 を画す る理論 的 ・実証的成果をあげた ことは周知の ことであろ う。 とくに,実証的調査 に基づいた研究 と検討が 進め られ,理論的にも西欧社会の地主制 との比較 経済史的方法が,研究 に大 きな前進を もた らして いる。 しか し,農村社会学 の視点か らいえは, こ の研究が,農地改革の評 価 ともかかわ り

,

「地主制 成立史」 といわれ るよ うな明治維新史 ・資本主義 成立史の見地 に立つ研究 に併行 して進め られた結 果,い くつかの重要な問題 が等閑視 され ることに なったのではなかろ うか。 これは農村社会学におけ る地主制研究の課題 と もなるのだが,その要点 を記 しておけば,

#L

に, 幕末一明治初期 に比 して明治末一大正期 における 地主制の実証的研究がは るかに立ち遅れ(6),また, 事例 として も畑作商品化 の著 しい地帯に限定 され る傾向がみ られた(7)。ち なみに新潟県の地主制 に ついていえば,古島敏雄 ・守 田志郎 らの研究や個 々 の千町歩地主の経営につ いての詳 しい分析(8)があ るが, いまだ頂点にとどま り,農民支配の構造を 理解す る上で重要 な下級大地主については, ほ と ん ど研究の進展がみ られ ない現状がある。第二 に, 先 に述べた よ うに,山田が既に戦前において,段 階的把握が不十分であ る とい う恨みはあるが,也 主制 を 日本資本主義の構造的一環 として定置 し, これを把握す る視角を提起 していたが, この構造 的把捉 とい う視点が不十 分 になった点があげ られ る。農村社会学 は, 日本資本主義の構造的一環 と して地主制 を とらえねば な らない。従 って,その 対象時期は無限定的ではな く,地域類型 -農業地 帯疑型を意識 しつつ,本源的蓄積段階 お よび資本 制的蓄積段階下の地主制 に分析を限定す ることに なろ う。 近年の地主制研究では,確かに,これらの諸点の 克服を意図 して旺盛 に研究 が進め られている(9)0 しか し,依然 として重要 な問題が残 されているよ うに思われ る。それは農 民 に対す る地主支配の構 造や性格の解明であるC これは,寄生地主制論争 の焦点が

,

「地主制 とは なんであるのか」, とい う

(3)

本質論 に絞 られ,結果的に,その歴史的形態や機 能的側面の解 明がおろそかにな った こととかかわ る。 この点 について,古島敏雄 らが,地主制研究 は 「地主の小作人に対す る支配 の関係を追求す る ことを もとよ り忘れてはな らないのであ る。だが, 地主支配の量 的変化が,地主小作関係の変化 と結 びつけ られて いたか といえば,必ず しもそ うでは ない」(10),と指摘 していた。その後,中村政則 も研 究史を総括 して

,

「地主-小作関係の特質究明は, 地主的土地所 有の量的確定 とともに,地主制研究 の-枢要点」といわれなが らも

,

「戦後の明治一大 正期地主制研 究は, この点の究明についてはそれ ほ ど大 きな実 証的成果をあげていない」(ll), とい う評価 を下 している。念のため述べておけば, こ の地主一小作 関係 とは,「地主の小作人に対す る支 配の関係」 に はかならない。 気づかれ る よ うに, これ らの諸点が十分明 らか にされない限 り,近代 日本の村落構造の解明やそ の類型 化が問題 とな りえない ことは論 を また な い。 農村社会学 における地主制研究 経済史学 にお ける地主制研 究の検討か ら,地主制 を 日本資本主 義の構造的一環 として把捉す る視角 とともに,也 域類型 ・段階 的視点を踏 えつつ地主一小作関係の 特質を究明す ることが,社会学 における地主制研 究のひ とつの重要 な課題をなす ことを明 らかにし て きた。 本稿 の課題 も, こうした社会学的課題-の一定 の寄与をなす ことにある。 しか し,従来 の社会学 におけ る戦前 の農村社会 の支配構造 の理解 は, 応 々に して,土地所有の有無,面積の大小, もし くは経済的階層 の統計的分析を基礎 とし,それで す ます例が少 な くなかった。あるいは逆 に, 本家-地主の分家 -小作に対す る身分的要因に より支配 の根拠が説明 されて きた。従 って,地主 と小作人 との支配 ・被支配関係の解明も平版 な理解に終止 して きた よ うに思われる。 こうした弱点 をいかに 克服 し,農民支配を具体的構造的に理解 しうるの か, これが社会学 に課 された課題 となることはい うまで もあ るまい。 これについて結論的に述べれば,社会学におけ る地主一小作 関係の特質の解明は, この関係 自体 が小農経営の解体の帰結 として成立す るものであ るか ら,農民層分解論を基礎的視角 としなければ な らない, と考 える。 この小農の分解 は,言 うま で もな く,資本主義の生成 ・発展の視角か らは, 資本蓄積の主要な一環 として把握 しうるものであ る。従 って,先に述べた よ うに,本源的蓄積段階 と資本主義的蓄積段階下の農民層分解 を峻別 し, この過程で成立 ・変容す る地主一小作関係の段階 的特質を明 らかにす るこ とが課題 とな るのであ る。 この点,菅野正の研究は,戟前の農民支配の 構造を 「官僚制的支配」 と 「地主名望家支配」 と の結合 と背 離 の過 程 として捉 える(12)が,端 的 に は,農民層の位置づけが不明確であるために支配 の形態的把握 に とどま り,支配の動態的構造を明 らかに しえていない ように思われ る。我 々は,磨 民層分解論を基礎視角 とす ることによ り,第一に, 地主的支配を媒介に,「農民の生活構造 と国家体制 的支配 とを統一的に把捉」 し,第二 に,農民支配 を動態的 ・構造的に把握 し,・第三に, この問題を 戦前戦後一貫 して同 じ視角か ら捉 えることが可能 となるのであ る。 これは菅野氏 自身が主張す るこ とで もあるのだが, ここで農村社会学 に とっての 農 民層 分解 論 の意 義 を改 め て強 調 して お きた い(13)

0

だが,問題 は戻 るが, この農民層分解論をいか に社会学的に実質化す るのか, とい うことが重要 な点 となる。 これについて述べれば,農民層分解 が家や家連合のあ り方,そ して これ らを構成単位 とす る村落を媒介 としていかに変容 ・実現 される のか, とい うことが問われ る必要がある, と考 え る。以下, こ うした視角を内在 させ, しか も農村 社会学 における地主制研究の古典た る地位 を占め る有賀喜左衛門の研究を中心に取上げ,その方法 的問題に限 り若干の検討を加 え,本稿 の視角を明 示 してい こ う。 有賀は,1933-34年にかけて 「名子の賦役一小 作料の原義」を雑誌 に発表す る。 これは大幅な改 訂を受けて 『農村社会研究一名子の賦役』 として 出版 され, さらに,43年の 『日本家族制度 と小作 制度』 として集大成 された。 この過程で及川宏 ・ 喜多野清一 らの新たな知見をふ まえて, 自らの家 と同族の社会学理論を彫琢 していった ことは周知 の ことであろ う。 この理論 の精致化の過程の検討 自体重要 な問題 -

(4)

3-である(川が, ここでは社会学 の見地 に立つ地主一 小作関係分析 の礎 石を築 いた点 に注 目したい。つ ま り,有賀は,当時の 日本資本主義論争, とくに 封建地代論争 への積極的 な参格 を意図 して先 の諸 論稿を発表 したが,同時 に彼は,小作慣行 につ い ての経済学 ・法学的研究へ の批判 を とうして,社 会学的研究の 自らの立場 を鮮 明に打 ち出 してい っ たのであ る。 そ こでの有 賀の批判 は,第一 に

,

「支配的小作形 態」 と 「特殊 的小作形態」 とを過度 に一般化す る 方法 に向けられた。 よ り具体的 に明示すれば,小 作慣行の本質 を 「現在支配 的な小作形態」 のみを 論 じることで解明 しよ うとす る労農派 と,名子の 賦役 とい う 「残存

「痕跡」的 な 「特殊小作形態 の 意味を一般化」す る講座派の両者の方法論的誤 り を有賀は批判 す るのであ る(15)。第二 に,経済学や 法学 の研究では,小作慣行 の 「諸形態 における地 主小作人 の関 係を支配 ・被支配 の関係に還元」 し, この結果,「地 主小作人間 にみ られ る広汎 な社会関 係」 を視野にお さめ ることがなか った ,7とい うの であ る(16)0 有賀にあ っては, これ に対 して,小作慣行の本 質 を探 るため に

,

「残存

「痕跡」的事象を第一義 的研究対象 とし, これを歴史的瑚及法 に よ り瑚 り つつ(17),小作慣行の 「あ る形態 か ら他の形態が, 発展的契機において発生す る社会的条件 を明 らか にす ることに よって,諸形態の社会的歴史的 な相 互関連 を知 る」(18), とい う民族学的方法 が とられ た。そ こでの方法 の特徴 として次の三点を指摘で きよ う。すなわち,第一 に,第一義的研究対象を 「残存」あ るいは 「痕跡」的事象 に求め る点であ る。 従 って, 日本資本主義論争 の重要 な論点 となった 名子 の賦役の評価 をめ ぐる問題 は, 自らの方法論 を実証 し,主張す る上で格好の テーマ となったの であ る。第二 に, いわゆ る 「社会関係の形態的把 捉」 とい う方 法であ り,第三に,小作制定を,そ れが存立す る社会的 ・経済的諸条件 と関連 させ て 把捉す る とい う視点であ る。 この第一の点は

,

「民族学 の本願」において既 に 主張 されていた ことであ るが,第二,第三の方法 的特徴は,経 済学 ・法学的研究への批判 を媒 介 と して 自らの方 法的立場 を社会学 に据 えた こととか かわ る。すなわち,有賀 は次の よ うに,社会学 に 固有の課題 を社会関係の形態的把握 にお くことを 宣言す る。 「特殊科学 としての社会学において,その対象 とす るところは人間の存在形態 としての社会関係を捉え ることでなければならない。社会関係の構造を形態 的に追求するところに目的あ りとすれば,今ここで は社会関係の一つ として小作慣行を形態的に研究 し て,その角度からその社会的歴史的関連を求め, し か る後 に民族的性格 を理解 しよ うとす るのであ る」O(19) よ く知 られてい るよ うに,有賀 は社会関係 とい う概念 に特殊 な意味を合意 させている。 ここで さ らに引用 を重ねて,彼 の意図す る ところを探 るこ とに しよ う。 「社会学概念 としての社会関係を私は個人 と集団 の相互媒介の形態 と定義する。社会関係に於ける生 成の側面では個人が創造的,歴史的に顕出し,完了 の側面では創造に非ず形成であ り,個人に対 し集団 乃至社会性が願出する。それ故社会関係は歴史性 と 社会性との相互媒介形態であると言い換える事が出 来る。そこで個人の構造は常に個人的,社会的であ るから,個人間の相互作用を通 して見れば社会 (隻 団)は個人に外在すると同時に内在する。か くの如 き緊密なる関係に於てこそ,初めて個人に対する社 会的強制が存する所以であ り,か くの如 き構造に於 いて社会関係を捉へる場合に真に現実的,具体的で あると言ひ得る」 (20)0 この よ うに,社会関係を個人 と個人の関係 とし てではな く

,

「個人 と集団の相互媒 介の形態」にお いて とらえ よ うとす る ところに有 賀 の特 色 が あ る。ただ し, ここでの 「集団」概念 も一般 に理解 されているものではな く,個人に対す る全体,あ るいはよ り具体的 にいえば,「個人が置 かれてい る 社会的環境 の総休」 とい う意味が内包 されてい る 点 に注意 しなければな らない (21)。そ うした内容を ふ まえれは,有賀 の ここでの強調 は,社会関係を 抽象的 ・超歴史的個人間の相互作用 としてではな く,個人のおかれた歴史的 ・社会的諸条件 との関 連 で把捉すべ きだ, とい う方法的態度 におかれて いた, といい うるのであ る。 こ うした問題意識や視角か らの研究 に よ り,有 -

(5)

4-賀は,小作料 の原義 -小作料の原初的形態を名子 の賦役に求め, しかも,それが 「大家族の家内賦 役」と関連す る ものであ ることを実証 していった。 今,その論 旨を要約す る余裕 もないが,具体的な 分析 において は,小作慣行の形態を村落の生活形 態 との関連 において捉 え, しか も, この生活形態 の究明に際 しては家あるいは家連合のあ り方の分 析が重視 された。その ことによ り,地主一小作関 係の支配 ・被支配関係は

,

「よ り広汎 な社会関係」 との関連にお いて理解 され る可能性が生 まれたの であ る。そ こには後の農村社会学 における村落把 握の基本的方法,すなわち村落の構成単位 として 家を措定 し, この家 々の連合のあ り方を とうして 村落構造を理解す るとい う方法が既に示 されてお り,今日においても高 く評価 され よう。また,有賀 の封建地代論争をめ ぐる労農派 ・横座派批判は方 法的 に正当な もの も含むが,そ こにい くつかの問 鼠 点を内蔵 させていたのではなかろ うか。 第- に

,

「残存

「痕跡」的事象を第一義的研究 対象 とす る民族学の方法は,一般的には,社会学 の方法 とす る ことはで きない。我 々は, まず,質 本蓄積 との関連で特定 の段階における家連合によ り媒介 され る地主-小作 とい う経済的 ・階級的関 係の存立構造 を問題 としなければな らないのであ る。第二に, そ もそ も,具体的な地主一小作関係 の分析ではな く,その形態的把捉を起点 とす ると ころに問題が残 る。 しかも, この 「社会関係の形 態的研究は, ともすれば,社会関係を,生産力の 発展 に規定 された特定の時期 におけるもの として ではな く,抽 象的 ・超歴史的概念 として扱 う」(22), とい う評価 を受けるものであ った。実は,有賀の 方法的特徴の第三点 として指摘 した よ うに,小作 制度 の存立を規定す る社会的諸条件の解明は,柳 田民族学か ら出発 し, これを越 えるために彼 自身 強調 した ところであったのである。 しか し,端的 にいえは,社 会的諸条件の綜体を生活意識 と等置 す ることに よ り,後には生活意識 にかわ り民族的 性格を強調す ることによ り,社会学的究明の努力 は放棄 されて いったのである(24)0 この点,有 賀理論の止揚を意図 した中村吉治 ら の周到な実証 では

,

「生産条件を除外 して,生産構 造である意味 を離れて,家を考 えて も,社会構造 の中の家 とは されない」(25), とい う視点が貫ぬか れている。つ ま り,村落における農耕地 をは じめ とした生産諸条件,家連合には いる家 々の農業生 産諸条件のあ り方が具体的 な分析の基礎 に据 えら れた。そのことによ り,水利,山林,耕地 とい う 生産手段を単位 とす る労働組織 の重層性 と歴史的 特質が浮 きぼ りにされている。 これは有賀の具体 的分析 に欠落 していた点であ り,社会学的分析が これに学はねばな らない ことは言 うまで もない。 第三 の問題 として指摘 しておかなければな らな いのは,有賀が,地主的支配の根拠を土地所有関 係 に求めるのではな く, もっぱ ら同族的系譜の本 支 とい う身分的関係に求めている点である。 しか も,そ こでは本家 -地主 と分家 -小作 とい う関係 が前提 されている。これは

,

「地主た る地位は身分 的観念にほかならぬのであ って,新 しく生 じた地 主 で も古い身分関係を必然的 に継東す る」(26), と の主張 に結 びつ く。無論,地主による共 同体的支 配が身分関係 と相即 して,あるいは結合 して農民 に対す る支配を安定た らしめることは多い。 中村 らの分析では,労働組織に入る家々には位置づけ の軽重があ り, これが身分階層 と密接 な対応関係 を示す ことを実証 しているが, しか し, この対応 が固定 した ものでない ことはい うまで もない。だ か ら土地所有 に基づ く階級関係 と身分的関係 と は,一応峻別 されねばな らないのである。我 々は, 有賀の批判 にもかかわ らず,地主一小作関係を, 基本的には,支配 ・被支配関係 として とらえる。 この関係は,土地所有 に基づ き小作料収取に結果 す る階 級関係 に他 な らぬが,それ が具体的 な支 配 ・被支配関係 として現象す るには,家 と家の身 分的関係,他の社会関係が媒介す ることになろ う。 地主的支配における土地所有 と身分階層の関連の あ り方を具体的に とらえ,その段階的特質を明ら かにす る必要があるのである。 本稿の課題 と方法 以上,不十分であるが有賀 の研究 を中心 とす る検討の まとめを と うして,本 稿 の課題 と方法を簡単に述べてお こう。 まず,第一に,小作慣行の形態的分析か らでは な く,地主一小作関係の具体的分析を出発点 とし なければならない。 しか も,その「原義

-原初的 形態を 「残存

「痕跡」的事象を手がか りとして歴 史的に潮及す るとい うのではな く,特定の段階に おける地主一小作関係の存立構造を解明す ること

(6)

か らは じめ る。先 に述べた よ うに,地主制 を 日本 資本主義 の構 造的一環 として捉 え,農民層分解論 を基礎 視角 とす ることか らすれ ば,源蓄期 お よび 資本主義 的蓄 積段階の地主一小作関係の存立構造 とその変容が問題 とな る。 第二 に,有 賀 の方法 の よ うに,地 主一 小作関係 を家 と家 の関係 として把捉す る必要 があ るが, こ の織 り成す社会関係を特定 の段 階 におけ る生産諸 条件 に規定 された もの として考察 しなければな ら ない。 ここで生産諸条件 とい う場 合で も,一般的 な方法 的 態度 の指 摘 に と どま るわ け に は い か な い。私 は, と りわ け地主経営 の経済的構造 分析が 重要 な基礎 に据 え られねばな らない, と考 える。 この分析 を基礎 として,農 民層 の分解 が,地主経 営 の性格 の変化や農民的経営 の発展 (これ 自体 が 地 主 の家 との社会的家関係 に ど うかかわ るのか問 題 とな るが) に よ り, さらに, これ ら地 主 の家 と 小作農 との家関係の変化 に よ りいか に媒 介 され, 変容 を受 けつ つ実現 され るのか, とい うことを展 望 しつつ具体的 ・歴史的 に考察 しなけれ ばな らな いので あ る。 第三 に,地 主支配 におけ る土地所有関係 と身分 階層 との関連 を具体的 に把捉 し, そ の段 階的特質 を明 らか にす る, こ うした方法 を貫 ぬ く必要 があ ろ う。 そ して, こ うして明 らか に された地主支配 の構造 は, よ り広い農村社会 におけ る支配機構の 綜 合的 な展望 の中に位置づけ評価 され るべ きだろ う。 この点は,有賀は無論, 中村 らの研究 におい て も残 された課題だ ったのであ る。 本稿 で は, こ うした視角 に よる地 主 の家 と小作 農 の家関係の分析 を と うして,大正期 におけ る地 主一小作関係 の特質 を解 明す る ことに課題 を限定 したい。 同時 に,先 の経済史 におけ る研 究で指摘 された地 域類型 を考慮 し,事例 として, 山形 の庄 内,宮城 県 の大 崎地方 と並 んで「千 町歩地 主地 帯」 「大地 主地 帯」として特徴づ け られ る新潟県北蒲原 郡 中浦村 の地 主 田中家 を中心 に取 り上げ る。考察 で は, まず, 中浦村の農業生産 と地 主的土地所有 の地域 的特徴 と小作農 家層 の経 済的 ・社会的性格 を把捉 し,次 に, 田中家の家 の概要 と地 主経営 の 構造 の分析 をふ まえ,最後に,大正期の田中家を中 心 に結 ばれ る労働組織 ・生活組織 の考察 を と うし て, この期 の地 主一小作関係 の特質 を明 らかに し よ う。 註 (1) 安孫子麟 「寄生地主制論

(r講座 日本史 日本 史学論争

J

,東大出版会)150頁。 (2) 拙稿 「1920年代における地主的支配扱構 と農民 運動の性格

(r社会学年報IXI,1982年)におい て,この点を実証 した。この論文において,私は, 「寄生地主支配が存続 して きた原因は何か。これを 地主支配に対す る農民諸層の主体的対応 -農民運 動の性格に焦点を据えて問 う」(79頁)た。そこで は政治的実践を中心 とす る農民運動の性格に分析 の焦点がおかれ,その基底 となるべ き地主制の分 析が必ず しも十分でなかった。本稿でその点 も補 いたいと考える。従 って,調査対象地の概況,農 業生産の特徴等の記述については内容が重複す る ことになる。 (3) 河村望 ・蓮見音彦 「近代 日本における村落構造 の展開過程」L

t

j(

r

思想j407号)55頁。 (4)山田盛太郎 r日本資本主義分析](岩波書店)杏 参照。 (5)この 「寄生地主制」論争を総括 したもの として, 前掲安孫子論文のほか,安良城盛昭 「日本経済史 研究の当面する課題一理論 と実証をめ く・る二 ・三 の問題」(2)(3)

(

r

思想1407,423号),山崎隆三 「地 主制 (形成期)をめ く・る諸問題

(r社会経済史学

1

31- 1-5),加藤幸三郎 「地主制 (確立期)をめ く◆る諸問題」(同前誌), さらに,最近 までの研究 動向にも触れているもの として,中村政則 r近代 日本地主制史研究

J

(東大出版会)がある。 (6)こうした点を指摘 し,地主制を 日本資本主義 と の相克ないしは矛盾の展開 として把握する視点を 強 く打出しているのが,安孫子麟,中村政則 らの 一連の地主制研究である。 とくに,段階論 と採型 論の統一 としての地主制の把握 とい う視角は,大 石嘉一郎「農民層分解の論理 と形態

(r商学論集

j

26号-3,1957年),安孫子麟「日本地主制分析に 関す る-試論

」(

r

東北大学農学研究所桑報1第12 巻-2,1961年)において明確にされた。 (7) 古島敏雄編 r日本地主制史研究」(岩波書店)な どで事例の片寄 りと,さらに

,

「農地改革 との関連 で,まずわが国地主制一般の性格 として問題 とな るのは巨大地主地帯における地主の性格である」 (2頁), と指摘 されている。安孫子 も,水稲単作 地帯の地主制の中に 「日本地主制のよ り本質的な 形態をより明瞭に見出し得 る」 (「水稲単作地帯に おける地主制の矛盾 と中小地主の動向

r

東北大学

(7)

農学研究所愛報1第9巻1 4,1958年,29貢), と 述べてい る。方法論的にも,事例を選定す る上に もひとつ の重要な点であろ う。 (8)古島敏雄 ・守田志郎 r日本地主制史論j(東大出 版会)。 なお,後の分析に出る市島家については, r市島家文 書

j

r千町歩地主市島家の構造j(農政調 査会編) がある。 (9) この点 は,中村政則,前掲雪における近年の研 究動向に触れ られている。 (10)舌島敏雄,前掲書, 8貢。 (ll) 中村政則,前掲書,141頁。 (12) 菅野正 『近代 日本における農民支配の史的構造j (御茶 ノ水書房)。 とくに,序章 「わが国における 農民支配 の構造」において, ウェ-,:一に基本的 に依拠 しつつ 「支配の類型」 として視角を提示 し ているが,後の分析に もこれが生か されていると は思iっれ ない。 (13)菅野は

,

「農村社会学 の歴史的展開 と今 日的課 題

」(

r

宮城教育大学紀要」第14集,1980年)にお いて,この農民層分解論が

,

「体制 と農民生活の接 点の総合的認識」(225頁)を可能 とす る方法論で あ り,農 民支配 と農村変革の主体形成の問題 に と って も基本的視角 となることを指摘 している。 し か も

,

「この場合の分解論は,任意に とられた経済 的指数に よる統計的議論だけではな く,農民生活 の トータル性の把握 にむけて社会学的に実質化」 (226頁)す る必要性を強調 し, こ うした方向 とし て 「分解 論 とイ- ・ムラ理論の接合」(225支)杏 展望 して いる。 (14) こうした論考 として,中野卓 「同族団研究の起 点 と課題

」(

r

商家同族団の研究jLt),未来社),森 田政裕 「有賀喜左衛門の r家J理論 とその論理構 造

(r社会学評論j115号),武笠俊一 「有賀社会 学の成立 と展開」「系譜関係 と親方子方関係

(

r

社 会学評論』116,128号),平野敏政 「有賀喜左南門 の家理論

(F家族史研究 3」,大月書房)等をあ げてお こ う。 (15) 有賀喜 左衛門 r有賀喜左衛門著作集 Ij(未来 社), と くに 「小作制度の研究法」を参照。 (16)有賀 『著作集 IJ, とくに20-22貢。 (17) こ うした方法は,既 に

,

「民族学q)本願

」(

r

著作 集Ⅵtu) において明示的に展開 されている。 (10 有賀 『著作集Ij20-21頁。 (19) 有賀 r著作集 Ij32貢。 CO) 有賀 r著作集Ij247-248頁。 Ol) 森 田,前掲論文,31頁。 ¢2) 河村 ・蓮見,前掲論文,56貢。 缶3) 「名子の賦役一小作料の原義

」(

r

著作集Ⅵ汀J)に おける方法 として,「特定の経済関係が生ず るため には特定の社会的条件が必要なのであ って,経済 関係における特異性はその環境の 自然的条件以外 にその社会組織やその他の生活条件の反映す るこ とはいかん ともすべか らざる事実であ って,そ こ に示現す る生活の形 はつねにそれ ら諸条件の綜合 であ り,その生活の全体を表象す るものはその生 活意識である」(210貢),と述べ る。しか し,社会 的諸条件の分析 を基本 とす るのではな く,「私の考 察の重心はそれぞれの小作形態がいか なる生活意 識によって行なわれているかを知 り, これを比較 す る点にある」, とい う主張に大 きな問題がある。 この 「生活意識」の概念の意味内容や 「民族的性 格」への概念の使い方の転換については,鳥越暗 之 「有賀社会学 にみ る生活把握の方法

」(

r

東京教 育大学社会学研究室r現代社会の実証的研究」1977 年)を参照。 ㈹ 中村吉治 r村落共同体j55頁。 α6) 有賀 r著作集

I

j50頁。 ⅠⅠ 中浦村 にお け る地 主 制 と農 民諸 層 の動 向

1

調 査 対 象 地 の 概 要 調 査対 象地 とな る新 潟 県北 蒲原郡 中浦 村 (現豊 浦 町) は,郡 の中心地 ,新 発 田市 に隣接 す る東西 6.4km,南 北9.3km,総面積63.39kntに及 ぶ 典型 的農 村地 帯で あ る。 図

1

にみ る よ うに, 村 の南東 には 真 木 山 (標 高92.0m),本 田山 (同124.5m)を負 い, 両 山 の麓 か ら東 部 にか けて は一 般 に標高 は高 いが, これ か ら漸 次低減 して西 の端 に位 置す る乗 過 ,三 ツ倒 ,天 王部 落付近 で福 島潟 に臨 んで い る。 こ うした土地 条 件 の もとにあ るた め, 一般 に低 湿 地 であ る といわ れ るが, 村 内 にお いて も福 島潟 あ るいは これ に注 ぐ河 川 との接触 の程 度 に よ り水 利 事情 も異 な り, 中浦 村 に おいて も農 業 生産 の条 件 はず いぶ ん と異 な る ものが あ った。 と くに福 島 潟 縁 の諸 部 落 を中心 とす る西部地 域 は水 害常 襲地 帯 で あ り, 水 との苦 闘 の中 で稲 作農 業 を展 開 して きた。 これ に対 して, ここで 中心 に取 上 げ る地主 田中家 の居 村 とな る小坂 部 落 は, 県道新 発 田一水 原 線 か ら奥 ま った村 の東 南 に位 置 し, 従 って,標 -

(8)

7-高 も比 較 的 7-高 い こ とか ら, 生 産 力 も安 定 し, 畑 面 積 も村 内 で は相 対 的 に比 率 が高 い。 以 下 , 叙 述 の 優 のた め に行政 区 画 の変 遷 を辿 る と, 図

2

の よ うに な る。 中 浦 村 に属 す る地 域 は, 古 くは豊 田の 荘 と称 し東 大 寺 領 で あ った が, 慶 長

3(

1

5

9

8

)

年 に新 発 田溝 口氏 の所 領 とな って い る。 小 坂 は 現 行 の 小 坂 と動 木 橋 よ り構 成 され て い た が, 現 行 の行 政 区 は, 藩 政 期 に は ほ ぼ そ れ ぞ れ 独 立 した 小 村 で あ った。 明 治 以 降 か な り複 雑 な変 遷 を辿 って い るが , 明治

2

2

年 の市 制 町村 制 に よ る天 王村 , 中 浦 村 , 荒 橋 村 の三 村 か ら, さ らに明 治

3

4

年 これ らが合 併 し中浦 村 とな って い る。

2

農 業 生 産 の 特 徴 と農 民 層 分 解 中 浦 村 の全 産 業 に 占め る農 業 - の依 存 度 は, 北 蒲 原 郡 全 体 と比 して も著 し く高 い。 まず , この 中 浦 村 の農 業 生 産 の地域 的 特 質 を 明 らか に し,次 に, 大 正 期 を 中心 に農 民層 分 解 の動 向 を統 計的 に把 捉 して お こ う。 明 治

3

5

年 に お け る中 浦 村 の 地 目別 構 成 を み る と, 第 一 に, 田

1,

3

7

5.

5

町 , 畑

1

6

5.

0

町 と, 耕 地 革

9

7.

6

%

, うち水 田化 率

81.

8

%

を 占め,稲 作単 作型 の生 産 形 態 を志 向 し, 米 を 唯一 の商 品 とす る新 潟 県 の平場 農 村 の典 型的 姿 を 示 して い る。 しか し, 第 二 に, この水 田 の

9

9.

8

%

が湿 田で ,農 業 生 産 の 基 盤 が脆 弱 であ った とい うこ とが 特 徴 と して指 摘 で きる。このた め 明治末 期 か ら大 正 初 め にか け て, 地 主 に よる耕 地 整理 と農 事 改 良 が 農 業 生産 の大 き な課 題 とな り,これを契 機 と して小作 争 議 が展 開 さ れ る よ うに な る。 第三 に , 中浦 村 の 明治

3

6

-4

0

年 の平均 反 収 は

1.

3

9

石 で , 生 産 力 は低 く不 安 定 で , 図2 中浦村 ・豊 浦町行 政区画 の変遷 触冶 5年 大 区-小 区 制 の 頃

2

i

'

2

1

芸 書芸 l芸莞 23大区 22大 区 23大区 課 小 3区 小 8区 小 3区 ー 裏 書漆 芸墓室≡≡叢 ≡嚢董≡喜妄言喜 詣 端 妻接 喜≡≡ 」 ′ ヽ_________J ヽ- Iヽ__J ヽll.・...J ∼___- ′」 ノ松平 」〕 ′ ヽ_____._____′ 小 友組 用掛 (小 坂組 )用掛発町組).用戸 用掛広 [百合(吉 浦組 )用掛細野弥蔵 用掛 刈谷政次 用掛∫ 丹 治 用掛 '田中三 保平今井会次 掛長蔵 用船 、 戸長 戸長 〝 用掛 与五白貯 弓 戸長「井畝 林 犬与井右衛佐蒔 〝戸長 〝 ▲細野弥蔵 脚

β

明治5年 (小 坂 組 ) 明治 11.年 (吉 柿 組 )

男鹿

斉成 雄三

悪 ン

戸長 田中佐保平 門 門 吉浦村列11村 戸長 出村供平 明治17年J赤 浦小 声太 藤赤大小二荒切荒町村 外11ケ村 池万加竹吉浦村外乙 10ケ村書 下中東中三三三 天 新 天本 田村外9岡月ケ村 本 申滝 改定戸長 役 場 所轄 芸 新 坂≡≡芸橋芸坂芸 町梅 堂 孟代芸芸ツ 次 .浦詣 姐ノ孟 ツ

璃 冨 岡 田 ノ沢 区 域 田 田村 田田田村 田村村村村 村 村村村 村 村 村村村村 目村捌 田田 王 村 田 村村 村 通村 浦 三 新 (18.4.6 新 S ツ 川 田(17.4.13) 村捌 村

松浦村 荒 橋 村 中 中 浦浦 村 村l 天 王 村 巨 - 村負山 注;町史編纂委員会 「行政区画の変遷と天王小学校の沿革調査」より引用。 -

(9)

8-県や郡 と比較 して低率であったが,地主的農事改 良の浸透 とともに生産力の上昇がみ られた. 中浦村の農 業は稲作経営を中心 として きたが, 畑作 は どうで あろ うか。

衰 1

の畑の作 目別作付面 積構成の推移 をみ ると,時期面 こ盛衰はあるが, 大豆 を中心 とす る食用農産物 などの 自給的性格の 強い作 目の比 率が一貫 して高い。商品作物 として の米の役割 は大 きなものがあった と推察 され るの であ る。 次 に, この よ うな特徴を もつ農業生産を主体的 に担 う農民諸層の動向を, とくに,大正期に焦点 を据 えて辿 ってみ よ う。 表1 畑作物の作物別作付面積推移 (単位 :皮 ) 明治45大正5大正10 昭和元 昭和 5 麦 類 139 135 64 39 30 大 麦 50 63 40 16 10 小 麦 89 72 24 20 14 秩 -麦

0 0 0

3 6 食用 農作物 756 804 698 547 1.189 大 豆 446 420 517 343 601 甘藷 馬持誓 28 189 79 102 128 な た ね 156 93 78 97 450 そ ば 126 102 24 5 10 戎 菜 類 394 400 243 297 371 大 根 270 253 149 176 196 な す 91 87 48 55 62 きゅ う り 14 25 23 30 43 白 .

13 14 12 6 10 そ の 他 6 21 ll 30 60 果 樹 6 ll

0 0 0

慕 136 126 89 61 28 注;豊浦町役場資料より作成, 資料的 に十分ではないが,表2の明治34年の所 有規模別農家構成をみ ると,無所有農家 が65%を 越 え(この うち宅地 さえ持たない農家が750戸を数 えていることに注 目す る必要があろ う),さらに五 反未満層を加 えると,実に85%の極零細農家が滞 留 してい ることがわか る。他方

,2

0

町以上を所有 す るわずか4家(0.3%)の地主が, 自村民所有地 全体の約4割を所有 してお り,実に激 しく両極分 解の進展 していることが窺 えよ う。 かかる特徴 を,表3地小作地別反別構成 によ り 各郡 と比較 して補 い,同時に,その推移 をつかん でお こう。 これによると,大正6年の数値で地主 的土地所有の進展度を示す小作地率は,実 に

9

2

.4 % とな り,極限に達 したかの観 さえある。 これは 県や当時最 も地主的土地所有の進展 していた北蒲 原郡全体 と比 して も極わ立 った高 い数値 で あ る が, しか も,以後小作地率の漸増す る県や停滞を 示す郡 とは対称的 に,大正12年 までのわずか6年 間に小作地率が10%ほ ど激減 していることが特徴 的である。 この動 向は 自小作別農家構成 にも端的 にあ らわ れている。表4の よ うに,起点 となる大正6年 に おいて,小作農家率74.1%は県の2倍,逆 に, 自 小作農家率お よび 自作農家率は,それぞれ県の4 分の1と2分の 1しか占めていない。 この農家構 成の動向 も先 と同様にみてお くと,大正6-12年 を焦点 としてみれば, 自作農家は実数で

5

0

-5

5

戸 とほぼ一貫 して変化はみ られない。 これ と対照的 な変化は,小作農家の約

2

0%

ほ どの激減 と自小作 農家が逆 に21.0%か ら37.9%-約17%その構成を 増 していることであろ う。 しか し,両者 の実戸数 を相殺す るとわか るが,140戸の減少がみ られ,こ れは農村雑業層や小作零細農の離農 -賃労働化者 が激 しく進展 した もの と推測で きる。 表2 所有規模別農家構成 (単位 :皮 ) 0- 5 5..-10 10- 15 15- 20 20′-一30 30- 50 50-100100J200200.-. 所有ナシ 計 習 p-%& 30 19.5253 4.356 3.241 1.215 2_431 1.519 1.114 1.013 0.34 65.6851 1.297100

,

q

p%& 19.2245 4.152 2.937 1.317 2.431 1.519 1.215 0.9ll 0.34 66.3848 1,279100 症 ;「中浦村村是調査書」より作成,

(10)

表3 地 小作 地 別反 別構 成 の推移 新 潟 県 北 蒲 原 中 晴 村 自 作 小 作 自 作 小 作 自 作 小 作 討 大正 6 % % % % 反 105.5 1,287.5 1,393.0 40.6 59.4 25.7 74.3 % 7.6 92,4 100 8 39.9 60.1 26.0 74,0 反 117.5 I,287.0 1,404.5 % 8.4 91.6 100 12 40.0 60.0 27.2 72.8 反 269.7 1,140.5 1,410,2 % 19tl 80.9 100 昭和5 37.2 62.8 25.1 74.9 %反 241.5 1,145.4 1,386.9 17.4 82.6 100 7 37.7 62.3 25.6 74.4 反 287.9 1.130.1 1,418.0 % 20.3 79.7 loo ll 39.9 60.1 26.9 73.1 反 295.5 1,122.5 1.418.0 % 20.8 79.2 100 14 40.6 59.4 27.8 72.2 反 359.2 1.058.8 1,418_0 % 25.3 74.7 loo 20 49.4 50.6 39.9 60.1 反 515.6 1,031.0 1.546.7 % 33.3 66.7 100 25 93.4 6.6 96.5 3.5 反 1.519.7 26.6 1,546.3 注

;

'「新潟県統封書」 および 「中浦村村会議事録」 よ り作成 。 表4 日小作別 農家構成 の推移 新 潟 県 北 蒲 原 中 楕 村 自作 白 .小 小 作 自作 白 .小 小 作 自 作 白 . 小 小 作 農 家 .f,i 大正6 % % % % % % 戸 50 213 752 1.015 22.8 43.▲ 34.0 13.5 36.8 49.6 % 4,9 21.0 74.1 8 23.0 42.5 34.6 13.5 36.8 49.7 + 5 5.855 + 63 29.2 - 138276 65,0 - 7614 0 945 12 23.6 42.1 34.3 14.2 34.8 51.0 - 1 6.254 + 51 37.9 - 1330 28 55.9 - 76486 870 昭和 5 24.0 44.0 32.0 14.1 42.3 43.6 - 4 5.750 + 62 44.4 - 45392 49.9 + 13441 883 7 24.3 43.9 31.8 13ー8 40.1 43.0

±0

5.950 - 40 41352.3 + 9 52.8 一450 一 31 852 ll 23.7 43.9 32.4 13.1 44.2 42.7 +5 6.255 + 14 41366.4 + 13 52.4 + 32463 884 良 ; '「新潟県統封書」および 「中浦村村 会議事録」 よ り作成.

(11)

これは表5の現住人 口 ・戸数の推移にも読 み と れ よ う。明治末年か ら増加 して きた現住人 口 ・戸 数 ともに,大正6年を鏡に,絶対的 ・相対的 に減 少 し,郡の動 向 とは対照的な動 きを示す。 また, 村 か らの流 出率 も大正6年 の9.8%か ら大正10年 の18.6%に急増 し,村内に限 って も兼業化が著 し く深化 してい るのである。つま り, この大正期に 農民層内部 の構成や性格に大 きな変化が顕在化 し たのであ り,具体的には,労働市場の展開 ととも に,停滞的過 剰人 口として地主 ・自小作上層 の年 雇 ・日雇 として依存す る農村雑業層 -飯米購入小 作層(1)の一定部分が,一部は滞留 し,また,一部は 窮乏化を深めて都市賃労働者への傾斜を強めてい った と思われ るのである。 次に,経営規模別農家構成をみてお こ う。蓑 6 である。 これにみ るよ うに,中浦村の農 家経営面 積は,県や郡 と比較 して規模が大 きい。五反未満 の比率が少な く, 2- 3町の上層農家の配分が高 いのである。 この ことは第- に,所有 と経営 が極 端 に分離 していることを示 している。 さらに,中 浦村の第二の特徴は,北蒲原郡 においては大正-昭和初年代にかけて

1- 2

町の増大 と五反未満零 蓑 5 現在人口 ・戸数および流出率の推移 本籍人口 i3;1現 住 男 人 口女 流 出 率 実 数現 住 戸 数比 北浦現住戸 数 比 肺 30 ? 人 5,543人 2,782人 2.761人

?

% 1,047戸 91.5% ? % 44 ? 6,207 3,122 3,085

?

1.008 96_9 ? 大正 2 7,615 7,039 3.500 3,539 7.6 1.144 100.0 100.0 6 8,104 7,310 3,654 3,656 9.8 1.150 100.5 100.1 8 8.105 6.851 3,419 3,432 15.5 1,130 98.8 100.4 10 8,105 6,601 3,419 3.185 18.6 1,133 99.0 101_3 12 8,291 6,757 3,517 3,240 18.5 1,137 99.4 102.2 昭和 3 8.563 7,327 3,808 3,519 14.4 I.131 93.9 105.1 6 8.643 7,176 3.686 3,490 17.0 1,130 99.3 100.9 9 8.836 7,262 3.724 3,538 21.7 1,151 100.5 108.7 12 9,327 7.276 3,546 3,730 20._0 1,155 101.0 109.7 16 9,830 7.328 3,597 3,781 25.4 1,143 99.9 110.7 20 ? 8.398 3.796 4,501 ? 1.313 114.8 129.2 22

?

8,569 4,079 4,490 ? 1,360 118.9 112.7 注 ;「新潟県統言1書」より作成。 表6 経営規模別農家構成の推移 (単位 :% ) 新 潟 県 北 蒲 原 中 浦 村 0--5 5-1010-2020-3030-

皮0

-

-

5

5-1010.-ノ2020-3030-

皮0

<

5-101α--2020-3030- 皮 明治43 15.3 14.6 39.3 24.●5 6.3 大正 5 36.4 30.6 29.1 10.8 3.0 19.4 21.1 34.3 20ー1 5.1 13.7 13.9 39.1 26.9 6.3 15 25ー0 30.9 30.6 10.9 2.5 15_0 19.9 39.0 20.5 5.2 14.3 14.0 38.5 26.9 6,4 昭和 5 26.3 29.8 31.6 10.0 2.3 15.4 18.8 41.0 19.5 4.9 14.0 15.5 37.8 25.7 6.9 lO 27.0 27.9 31.0 9.7 2.4 17_1 19.4 39.9 18.1 5.4 14.5 15.7 37,5 25.2 7.1 13 26.6 29.1 31.9 9.9 2.5 19.1 19.9 37.6 18.6 4.9 15.0 15.4 36,8 25.7 7.2 22 26.8 31.6 31.5 5.9 4.1 18.7 20.4 40.7 12.1 8.6 17ー5 15.7 35.0 25.0 7.0 注 ;「新潟県統副書」および 「中浦村村会議事掠」より作成。

(12)

細農家の減少 とい う 「中農標準化傾向」がみ られ るが,明治末 にやや こうした傾向を示す ものの大 正期 にはみ られない, とい うことである。 以上簡単にみて きた ように,大正期 における農 民層分解 は, 当時 において既に地主-小作分解 と い う形態が極 限に達 し,小作農民層の自小作層-の前進的上昇 と都市賃労働者の析 出(2)とい う 「両 極」的分解が主要な形態 となってきたことを示 して いる。これは,中浦村の農民層分解が資本主義的な 人 口法則に包摂 されて きた ことを意味す るが,上 向 ・下向のいずれの場合にも, さしあた り統計的 には,地主層 からの小作農民の 自立化が進んでい ることを察知 で きる。 こうした分解の動向は,也 主 との家関係 を とうして どのよ うに具体的に展開 しているであ ろ うか。 これをみ る前 に,農民層の 対極 に位置す る中浦村の地主制の特徴をつかんで お こ う。

3

地 主的 土地 所 有 の諸 相 と特 質 北蒲原郡の地主制 は,新潟県における地主的土 地所有の根幹 をなす, といわれ る。それは,千町 歩地主 とい う大地主の存在,早期確立性,土地の 集中性 とい う3つの特徴に総括で きよ う。 これ と の関連で中浦村の地主制の特質 と地主による土地 集積過程 の若干を考察 してお こう。 表7は,中浦村に居住す る10町以上 の地主によ る土地集積の推移を示 している。 これを所有規模 に応 じて,第一層 ・千町歩地主の市 島家,第二層 ・ 細野,野村, 田中の3家 (これ らを下級大地主 と 呼んでお こ●ぅ),最後に第三層・10町前後の中小地 主, に分けてお こ う。中浦村において も市島家 と い う千町歩大地主の存在を確認で きるが,土地所 有規模だけを とって も実に多様 な地主が存在 して いることに注 目したい。それぞれ,支配機構にお ける位置づけ も,その支配の形態 も異 なるのだが, 千町歩地主の市島家 とここでは田中家 との比較 と い うことを念頭において,同 じ第二層 ・下級大地 主の細野家を取上げて,中浦村内の土地集積過程 に問題 を限定 し,その特散を明 らかに してお こう。 `千町歩地主市島家の土地集積(3) まず,中浦村 の地主制 の頂点に立つ千町歩地主市島家を取上げ て, この中浦村における土地集積の過程を簡単 に 概観 しよ う。 とくに藩政期における地主による土 地集積 については,他の地主が不明な ことか ら, 市島家の時期的特質か ら推察す ることになろ う。 蓑 7 中浦村内10町以上地主の土地所有推移 (単位 :町 ) 明 治4年 明 治25年 明 治40年 大正10年 ` 昭 和 4年 昭 和20年 市 島 岳 次 郎 天 王 1,867.00 1,248.81 1.273.00 1.405.00 1.257.00 1,031,00 細 野 弥 蔵 下中 ノ 目 117.44 116.29 133.90 134.45 115.48 68.32 岩 淵 義 美 中ノ日新田 32.03 野 村 書 直 吉 浦 36.18 25.58 47.10 62.98 64.63 62.71 田 中 九 長 次 小 坂 24.55 19.61 61.27 57.75 34.69 堀 川 静 司 池 端 18.97 19.55 8.09 5.81 柿 崎 静 弥

16.94 16.02 ll.55 4.48 村 山 歯 太 郎 竹ノ花 16.32 14.89 本 間 荻 松 赤 橋 12.48 13.78 ▲4.55 10.41 榎 木 彦 十 郎 吉 浦 12.63 10.28 須 戸 門 次 郎 下 中 ノ 日 12.80 ll.44 14.32 12.50 田 中 作 五 郎 中ノ目新田 15.77 10.43 15.13 4.41 小 林 茂 ? 10.25 細 野 益 三 中 ノ 目 10.08 9.47 7.34 注 ;1

)

F改革史資料 5.6

.

7

.

J

F千町歩地主市島家の構造」より作成, 2)③ 岩淵 は転出。

(13)

市 島家の発 祥の地は,丹波国氷上郡市 島村 と伝 えられ,遠祖 ・治兵衛の代 に溝 口氏の士分御用達 として仕 え, 慶長3年の溝 口氏の移封 とともに, 北蒲原郡五十 公野 に来任 した といわれ る

。 2

代嘉 右衛門の代 に水原 に居を移 し,農業の傍 ら薬問屋 として財をな し;後に貿易 も手掛けなが ら土地を 集積 してい った。 この市 島家 の土地集積 が最 も進展 した のは, 1790年か ら1800年初頭にかけてで, この頃 よ り少 し前 の

3

代書右衛門 (南山)の代には,嘉や大阪 との取引 きを行 う薬問屋 として成長 し,集積 も三 千石 に達 して いた。次の 4代徳次郎の代 には,薬 の他 に海産物 ,金物の取引 きを加 え, さらに,慕 府や新発 田藩 等への武家金融 を行 うまで とな り, この利得を土 地集積に投下す ることによ り彼の晩 年には七千石 に急増 している。後に下 って

, 7

代 目徳次郎 (宗輔)の代に,水原 の屋敷が焼失 した のを機 に, これを郡役所 として献上 し,現在の天 王に明治10年居を構 えたのである。 以上のよ うな幕末一明治期 までの土地集積の全 体像をつかむ ものが表8である。 これは質流れ証 文の集計によ り集積過程をみた ものだが,一見 し てわかるよ うに, 4代 目徳次郎の代,1780-1800 年初頭にかけて急速な土地集積のあ った ことが察 知で きる。 これは,天明の大飢薩か らそれに続 く 凶作 ・災害 に よる農民層の絶対的窮乏化の進行を 背景 としてお り,1830年以降の集積は少 な くなっ てお り,農家経済は比較的安定 していた と思われ る。 ここで土地集積の地域的分布について も述べ てお くと,新発田藩は浜通 り,山通 り,島通 りの 3つに区分 されていたが,市島家はその土地の80 %以上を中浦村を含む島通 りに所持 していた。 こ の地域は,そ の名 の とお り常襲水害地帯であ り, 沼潟を改良 した開田地帯 として特徴づけ られ る。 そのために特殊な小作慣行 もみ られたが,市 島家 は,急速 に地 主的統制を強めつつ経営を強化 して ゆ く。 次 に, これ を中浦村に限 って考察を加 えよ う。 それによ り, 中浦村の藩政期における農民層の土 地喪失過程を推測 しようとい うのである。 表9は,市 島家の中浦村 における各大字の土地 所有の推移を示 している。寛政

2

年 (1790年)に 紘,福島潟縁 の諸部落に,具体的には,天王 に16 (年代) 1705 10 20 30 40 50 60 70 80 90 1800 10 20 30 40 50 60 1870 表8 市島家の藩政期における土地集積 10 20 30 40 50 60 70 (集積件数 ) 注 ; 「市島家支

」より引用。 町4反1畝,三 ツ例 に6町4反余,三 ツ倒新田(現 福島部落)に

1

7

反,中 ノ目新 田に

9

1

6

歩をそれぞれ所有 していた。つ ま り,全体では33 町6反2畝7歩の小作地を既 に所有 していた こと になる。 これか ら大分時期 は下 るが,明治10年の数値を み る と,天王 は33町余に2倍,三 ツ例が3.4倍,三 ツ倒新田2.3倍,中 ノ目新田1.9倍 と, ほぼ2倍か ら3倍に延ば し,新たに加 えた乗廻,吉浦の分を

(14)

含め る と,合わせ て84町5反5畝1歩 に達 してい る。 しか し, この間 に,例 えは三 ツ刷 の保有 高 は 1830年 の106.1石 か ら幕末 の250石 と約2倍以上 に 増大 してお り,生産力 の上 昇を考慮 して も,比率 的 な延 びはそれほ どで はない よ うだ。 それ以後, 明治20年 には154町4反7畝3歩 と, この10年間 に約70町余 の集積が あ る ことに注 目し たい。 しか も, この集積 では,従来 の福 島潟 縁 の 地域 に限 られ ていたのが,東部諸部落-の拡大が み られ る とい う質的変化 があ る。 こ うした中浦村 におけ る拡大 の特徴 に,不在地 主 として集積 して いた頃 とは異 なる居村- の配慮 が窺 えよ う。以後, 表10の よ うに明治35年 には162町余, 同41年167町 余 と停滞 を示 してお り,中浦村 にお け る市 島家 の 集積 は,明治20年 まで にほぼ終 って い る, とい え よ う。そ して, これ と市 島家の明治維 新 か ら10年 頃 までには土地 を手放 す こ とがほ とん どみ られぬ ことを勘 案す る と,幕 末 には,少 な くとも85町前 後 の土地 集積 に達 して いた とい うこ とが で き よ う。 さて,我 々の次 の課題 は,中浦村 にお ける藩政 期 の集積 が どの よ うな ものであ ったのかを把捉す るこ とにあ る。 このた め先 の質流証文 の うちか ら 中浦村分だけを抜 き出 し,1757年 か ら20年間 ご と に集計 してみ たのが表 11であ る。 それ に よる と, 宝暦7 (1757)年一 明和6 (1779)年 までの20年 間 に4町5反6畝7歩 を集積す るが,次の20年間, す なわ ち寛政9 (1797)年 まで に,実 に3倍 の15 町3反4歩 を集積 して い る ことがわ か る。そ して, 表9 市島家の中浦村内の各大字別土地所有推移 (単位 :町 ) 安 政 3年 明治10年 明治24年 天 王 16.413 33.320 45.266 三 ツ 倒 6.418 21.713 27.535 三ツ倒新田 1.690 3.815 13.675 中ノ目新田 9.106 16.954 20.283 乗 坦 8.713 10.207 古 橋 0.36 0.592 そ の 他 48.125 症 ;F千町歩地主市島家の構造」およびF市島家文書」よ り作成。 表10 市島家 の中浦村における 地 目別土地所有の推移 (単位 :町 ) 明治20 明治24 明治 35 明治41 昭 和 22 田 114.827 130.337 123.193 125.483 104.630 畑 37_082 25.365 26.063 25.272 宅 地 1.112 5.900 8.150 8.512 山 林 2.511 2.982 原 野 2.091 2,411 池 沼 0.005 2.800 その他 1.452 4.041 江 ;F千町歩地主市島家の構造jより作成。 表 11 市島家の中浦村内におけ る藩政期 の土地集積過程 (単位 :町 ) 時 期 集 積 面 積 1757 - 1777年 4.567 1778 - 1797年 15.304 1798 - 1817年 7.789 1818 - 1865年 0.425 注 ;F市島家文書』より作成。 寛政10(1798)年一文 化14(1817)年 の7町7反 8畝9歩 の後, 明治 に至 るまで集積 は ないに等 し いのである。 ここで, 先 にみた よ うに,市 島家 の 中浦村 内 にお け る土 地 所 有 規 模 が最初 にわ か る 1790年 の数値10町前後 とい うことを勘 案すれ ば, 表 の質流証文 の集計 に よ る数値 は,実 数値 の約

3

分の 1を表 わ してい る とみて よいであ ろ うか。従 って,結論 として,中 浦 村 にお ける幕 末 まで の集 積面積85町余 は,1778-1817年 の約40年間 に集積 された と考 える ことが で きる。 市 島家 につ いての以上 の考察 か ら,次の よ うに 総括す る ことがで きよ う。 つ ま り,中浦村 におけ る土地集積,従 って農 民 層 の土地喪失 は, 2つ の 画期 を もって急速 に進 んだ。第1期 は,1790-1820 年頃 まで の藩政期末に お け る集積 であ り,地域的 には福 島潟縁 の諸部落 が これ にあた る。 この こ と は,地主的土地所有が 浸透 す るだけの生産 力 の上 昇がみ られた ことを意 味 す るが, 同時 に, それ が 不安定 であ った ことを示 してい る。飢箆や 凶作 ・

(15)

災害 を契機 とす る絶対的窮乏化によ り農民層 は土 地 を手放 さざるをえなかったのである。 これに対 して,比較的生産力の安定 した東部地域において は,集掛 ま市 島家が中浦村を居村 と定めて以降の ことであ り, 第二 の明治10-20年 までの時期 が こ れ にあた る。 いずれにせ よ,中浦村における地主 制 の形成は,比較的早 いことを確認で きよ う。 下級大地主細野家の土地集積 村落における地 主的支配の構造を問題 とす るなら,村落 とのかか わ りの深い第二層の在村地主が重要であろ う。 こ れについて古 島敏雄 は,「古い歴史を もつ在村 の寄 生地主 として,単 に関係小作人 とい う範囲ではな く,一つの集落単位 としてその村を強 く常握す る 条件 を もち続 けて きた」(4),とい う。田中家を事例 とす る意図 もこの具体的条件を解明す ることにあ るのだが, ここでは田中家 との比較の意味か ら, 村のはば中央 の下中 ノ目に居住す る細野家を取上 げて,その土地集積過程 とこの特質について考察 を進め ることに しよ う。細野家は,系譜的にみれ ば藩政期には名主,明治に入 って も用掛,戸長等 を歴任 し,後 には県会の副議長 に就任す るな ど, かな りの政治力を有す ることを前 もって念頭 に入 れてお きたい。 この細野家 の土地所有規模が最初 に判明す るの は明治4年で ある。当時で既に100町を越 え,地主 的基礎の古 きを窺わせ る。残念なが ら藩政期 にお ける土地集積 を確認す ることはで きない。市 島家 の集積か ら間接的に推定す るほかはないが, はば 同時期に土地 集積を とげたのではないだろ うか。 しか も, この要因は, この下中 ノ目を含む福 島潟 縁西部の各村 が,福島潟開墾に よって正保以降の 時期 に 「附近 ノ村民 ノ漸次-開拓移住 シテ部落 ヲ 造 り村邑 ヲ成」(6)した ものであるか ら,この過程で 成立 した封建的小農が,経済的基盤の幼弱 さと領 主 の貨幣要求や凶作 ・水害 を突放 として窮乏化す ることに求め られ よ う。 こ うした領主支配の下 における農民層の早期 の 土地喪失ゆ えに,一般 には,集積者は同一村居住 者 に限 られ,土地の集中性 とい う特徴を示す こと になる, といわれ る。 これを表12で確認 しよ う。 一見 して察知 で きるよ うに, 自己の居村下中 ノ目 に土地所有が集中 し,それ以外 も隣接す る諸部落 にほほ限 られている。 この よ うな明瞭な土地集積 の集中性 とい う特徴は,逆 に,細野家の地主 とし ての成立の事情を傍証す るもの といえよ う。 次に,蓑13の地 目別土地面積の推移 をみる と, そ こか らい くつかの画期が析出で きる。第一 に, 明治40年を境 とす る時期である。漸次土地を集積 し,明治36年 に144.6町 と頂点 に達 してい る。_この 時期は,資本主義の発展 とこれに伴 う米穀市場の 高度化によ り産米改良を強い られ,農事改良をめ ぐり地主的支配が貫 ぬ く形で行政組織や農会 をは じめ とす る農政諸団体の整備 と機能的連繋をはか りつつ,地主的支配機構 の完成をみた時期であ る。 細野家で もこれに対応 し

,

「農事改良同盟会」を阻 殺 し,小作料の内包的拡大 と小作人の組織化 を意 図 して活発 に活動を展開 していた。 しか し, この 40年頃か ら大正初年 の間に129町にまで減少 し,中 浦村全体 よ りもやや早 く停滞現象を示 してい る。 第二 に,大正10年か ら昭和初年代にかけての減 少が顕著である。 この要因は,い うまで もな く小 作争議にあるが,内部的によ り詳細にみ ると,昭 和

3

年 までの絶対的減少は 自分の下中 ノ日部落の ものであ り,逆 に,争議の一段落す る昭和6年 ま でに全体で13町を増やすが,同時期に も下中 ノ目 ではさらに4町余減少が続 いている。 ここに小作 争議に対応 し, 自己の部落民に対す る配慮 と協調 をめざす細野家の姿勢が窺 えよ う。 以上,市島家 と細野家の分析を簡略 にまとめて お こ う。 まず,第- に,地主制成立の早期性,土 地 の集中性,そ して大地主の存在, とい う3つの 特徴を実証で きたか と思 う。第二に,地主に よる 土地集積,逆 にいえば,農民の土地喪失 の画期は, 市島家の分析か らは,藩政期の1790-1830年 まで 蓑 12 細野家の大字別土地所有推移 (単位 :町 ) 自分の 部落内 隣部 接落 他村 の内 村 外 孟1 大正 4 77.49 19.41 9.26 106.16 6 77.52 19.41 9.26 0.62 106.81 8 77.52 18.98 9.26 0.62 106.38 10 79.49 19.39 9.26 0.62 108.76 12 79.51 19.37 10.51 1.27 110.66 昭 和 3 63.30 19.37 10.51 1.57 94.75 症;「細野家文書」より作成。

(16)

表13 細野家の地目別土地所有推移 (単 位 :皮 ) 田 畑 山 林 原 野 雑 種 地 そ の 他 引 明 治 34 1.110.685 85.757 1 37.961 10.235 1.244.638(100) 明 治 35 1,107.037 175.622 95.836 27.727 1,403.222(113) 明 治 36 1,120.754 167.919 157.562 1.446.235(116) 大 正 4 1.061.819 135.812 78.528 15.604 .117 .010 1,291(104).870 大 正 6 1,068.183 169.422 64.913 18.164 .117 .010 1.320.815(106) 大 正 8 1.068.429 140.126 99.022 18.118 .117 .010 1.325.822(107) 大 正 10 1,087.628 139.684 98.714 17.938 .528 .010 1.344.502(108)一 大 正 12 1.106.690 129.713 13.856 .010 1,250.269(100) 昭 和 3 947.000 166.500 13.800 1.154.800(93) 注

;

「細 野家文書」よ り作成。 の時期 と明治

1

0

-2

0

年の

2

期 に求め られ る。そ し て市島家は以後停滞的 となるが,下級大地主細野 家では,明治

4

0

年 まで土地集積が進 んだのはみた 如 くである。 これか ら小作争議の展開 とともに土 地集積 は減少を示す よ うになっていった。第三に, 藩政期 と明治以降の集積地 は,およそ村の西部 と 東部 とい う地域的対応がみ られた ことに注 目して お こ う。 とこで は農民層の土地喪失 の契故 も異な って,前者が飢僅 ・凶作 ・水害等による絶対的窮 乏であるのに対 して,後者では,肥料購入をはじ め とした商 品経済の一層の浸透 による, いわゆる 「前向 きの窮乏 化」に要田が求め られ るのである。 田中家は,村の東部にあるが,後にこの土地集積過 程やその土地所有 の特徴を考察 し,市島家や細野 家に対す る特質 を創出しよ う。

4

小坂 部 落 の状況 と農 民層 の性格 農民層の社会的 ・経済的性格 地主一小作関係 の特質を,地主 と小作農民の家あるいは家連合関 係の分析か ら把捉 しよ うとすれば,地主および小 作農民層の社会的 ・経済的性格を明 らかにしてお く必要 があろ う。地主の家やその経営構造につい ては次章で考察を加 えることとして, ここでは田 中家 と家連合を結ぶ小作農民層 の家の性格を確定 表14 小坂村 (小坂 ・動木橋 ) 階 層 別 現 石 高 推 移 (単位 :戸 ) 1838年 1843年 1870年 1873年 1 斗 未 満 16 ll 18 18 1 .- 3 斗 24 27 20 20 3 - 5 斗 6 5 7 . 7 5斗 - 1石 10 7 4 4 1 - 2石 8 ll 8 8 2 - 5石 7 6 12 12 5 -.10石 6 5 2 2 rrI.∼ f5石

0 0

2 2 15- 20石 2 2 1 1 注 ;資料 は表15の注 を参 風 ,

(17)

してお こ う。 言 うまで もな く,家の社会的 ・経済的性格 を規 定す る基本的契機 は土地所有 にあ る。 しか し, こ れ は資料的 に正確 には知 りえない。 そ こで

1

8

3

8

年 以降 の現石 高 の推移 を考察す ることに よ り,階層 分化 の傾 向 をそれ も限 られた範囲で推察せ ざるを えない。

蓑1

4

は, 小坂村 におけ る現石高 の階層別構成 の 推移 を示 して いる。 これ に よって変動 を概観す る と

,1

8

4

3

-1

8

7

0

年 に顕著 な変化が確認で きる。み られ るよ うに, この期間 に

1-3

斗の減少 と一斗 未満層 の顕著 な増大,同時 に

, 1-2

石 の減少 と

2- 5

石屑 の微増 お よび

2

0

石 以上 の 出現 に

,

「両 極」 的分解 の進展 を察知で きよ う。前 もって述べ ておけば,太 線で囲 った部分が田中家の位置す る 階層 を示 して いる。 この よ うに

,1

8

4

3

年 までは村 落 におけ る最上位層でなか ったが

,7

0

年 には

2

3

石 を越 えて,他 の農民層 を陵駕す る。 この小坂 村 は,後 に行政的には小坂 と動木橋 に 分かれ,これ らが地理的 に も離れてい るこ とか ら, 小坂 の分だ けを抜 き出 して個 々の小作農家 につ い て よ り詳細 にみてお く。大正期 にあ る家 々につ い て,現石高 の判 明す る分を抽出 して作成 したのが

蓑1

5

であ る。一 目瞭然であろ うが,全般的 には変 化 は少 ない。 だが,個 々の農家 をみ る と全体の動 向 と同様 に

1

8

7

0

年 まで に大 きな変化がみ られ るも のがあ る。 と くに,今後 田中家 とともに中心的 に 出て くる① の家 は1.5斗 か ら2石 台 に急増 し,逆 に,⑥ が激減 をみせている ことを確認で きる。 と くに① につ いていえは, この現石高の急増 は,級 の分析でみ る田中家 との密接 な被護 ・奉仕 の関係 か らいって, 田中家の急増 とともに持高 を増加 さ せた といえ るのではなか ろ うか。 しか し, この(丑の家 とて もこれだけで生活 し う るわ けでは な く,小作関係が結 ばれていた とみて 間違 いない。 それだけで な く, この よ うな農民層 の存在形態 が可能であ るためには

,

「農民的貨幣経 済 の発展 が社会的分業 を形成 し,非農業的職業部 門,営業 がっ くり出 され これが没落農民の放 出 す る労働力 を小商人 ・職人 ・諸賃稼 な どとして吸 収」(7)し うる こ とが前提 とな る。 これ は小坂 の場 令, どの よ うな内容 として展開 されていただ ろ う か。 その一端 を表 の

(

6

)

に よ り確 かめてお こ う。 これ は明治

1

5

年 「諸職人調」 にあ らわれた農業以外 の 小商人 ・職人的活動 であ る。 この うちの陶器職 は, 会津本郷焼 の流れを くむ小坂焼 として近郷 に知 ら れ,真木山に産す る粘土 と薪 を利用 して⑦ ⑳ ⑳ の

3

家が焼物 に従事 していた。その他,小挽職 ・星 板葺職人への従事があ るが, ここで注 目すべ きは 米売買業であろ う。米穀市場が十分展 開 していな い段階 において,一般農民が唯一 の商 品であ る米 売買業 に③ ④ G)⑫ ⑬ の

5

家が従事 してい るので あ る。 しか し,その階層か らい って も小作米や 自 己の余剰米を販売す る とい うのではな く, ご く零 細規模 の中間的流通 を担 っていた と思わ れ る。 次に,個 々の小作農民の身分階層 をみてお こ う。 表

1

5

の(1)は元治

2 (

1

8

6

5

)

年 の 「人別 改帳」 に記 載 された身分階層 であ る。これは近世 の基本的「身 分内の諸身分」 として様 々な名称で呼ばれ るもの であ るが,家 を単位 とす るゆえに家格 として現象 す る。 ここで は,近世本百姓 としての本家, これ に従属 した と思われ る名子,間脇 の

3

家格がみ ら れ,各 々

1

5

,1

0

,2

4

戸 とい う構成 にな ってい る。 先 ほ ど述べた よ うに,地主-小作関係 とは,土 地貸借 に基づ き,小作料収取 に結果す る経済的 ・ 階級的関係であ り, これ と身分階層的関係 とは峻 別 され,具体的 に把握 されねばな らない。この点, 第一に, 田中家 とこれ らの家 々の家 格 との関連 に ついていえは, 田中家の名主 としての来任は比較 的新 しく,小坂 での分家は明治

4

0

代年 の長三郎家 の分派を初発 の こととす るか ら関係は なか った と み ることが で きる。 第二 に,身分階層 と現石高の 階層 との関連 は ど うであろ うか。 これ は表

1

5

の よ うに,間脇 に無高層がやや多い とはいえ るが,歴 然 とした相関はみ られ ない。例えは,一番系譜的 には従属性 の強い間脇 であ って も

1

0

-1

5

石台の家 がみ られ

,2-4

石屑 も

4

戸を数 え る こと,小坂 部落 に限 って も, 田中家を除 くと間脇格 の① の家 が最上位を 占めてい ることに も明 らか であろ う。 こ うした身分階層序列 と経済階層的序列 との帝 離 によ り,小坂では既 に藩政期 には本家だけでな く名子 ・間脇 を も村寄合の構成員た りえた し,時 には,重立 として村 の運営 に実際たず さわ っ七い たのであ る。 つ ま り,近世 における小農民の村落 における支配秩序 として成立 した身分階層秩序

(18)

-表15 小坂部落の農民別身分階層 ・現石高推移 (1) (2) (3) (4) (57 (6) 身 分 1838年 1843年 1870年 1873年 備 考 (∋ 山形 松 次 郎 間 脇 石150.90合 石150.90合 2.001.30石 合 2.001石 合.30 (令 高 山文 太 郎 間 脇 73.30 73.80 (勤 小 池 文 吉 小 脇.米売買 (参 山形 直 次 郎 名 手 1,364.60 100.60 100.60 米売買 ⑤ 山 形 佐 市 本 家 196.40 196ー40 254.40 254.40 米売買 @ 宮 原 丈 三 間 脇 241.00 241.00 241.60 241.60 (∋ 桜 井 清 太 郎 名 子 陶器取 60円 (砂 金 田 平 七 間 脇 177.30 177.30 268.60 268.60 (9 小 池 菅 松 屋根葺7円旭金気 ㊥ 清 治 仙 吉 間 脇 163.00 161.00 257.70 257.70 ⑭ 小 池 幸 平 ⑩ 小 池 ハ キ 米売買 ㊥ 桜 井 敬 吉 本 家 325.90 325.90 325.80 325.80 米売買 ⑭ 鈴 木 丑 吉 本 家 162.90 162.90 243.00 243.00 ㊥ 田 中長 三 郎 ⑯ 小林七左エ門 ⑰ 金 田 金 吉 ⑯ 清 治 弥 蔵 本 家 I.204.60 1.259.30 ㊥ 金 田 新 蔵 本 家 555.60 555.60 1.225.90 1.259.30 ㊨ 近 江 留 次 郎 ㊧ 桜 井清 次 郎 ㊧ 清 治 新 作 ⑳ 宮 原 又 - 名 手 陶器磁 15円 ㊧ 桜 井 福 松 間 脇 ⑳ 小 池 藤 八 ⑳ 田 中九 長 次 本 家 5.570.10 3.402.20 23.700.40 24.490.00 注 ;1)「人別御改帳 小坂村」 (元治2年, 1864年 )0 2) 「定的石帳 小坂村」 (天保 9年, 1838年 )。 3)「御役石帳 小坂村」 (天保 14年.1843年 )0 4)「定納石帳 小坂村」 (明治3年, 1870年 )0 5)「小坂村現石板 小坂村」 (明治6年, 1873年 )。 6)「諸職人取調」 (明治15年, 1882年 )0 家格支配 の構造 は,封 建的小農 民 自体 の分解 の過 程 で動揺 ・解体 を よぎな くされ,支配 の原理 た り えていなか った, とい えるで あ ろ う。 小坂部落の状 況 さて, ここで小坂部落 の機構 自体 につ いて少 し触 れ てお く必要 が あ ろ う。 明治 末一大正期 にか けて の小坂部 落 の概 念図 を示 した のが図3であ る。26戸 の家 々は足並 に沿 って 4つ の班 に分 け られ るが, これは藩政期 の5人組 の区 域 にほぼ付合す る。 また,生活組織 としての葬式 組 は, これ とは別 に部 落 を

2

つ に分 けて構成 され ていた。 村落 内の組織 につ いては, 明治末-大 正期 にか けて,行政 の主導 の もとに青年 会,婦人 会,在郷 軍人会等 の社会教 育系統 の諸団体 が浸透 す るが, 生活組織 として先 の葬式組 や頼 母子 講 な どの存在 を資料的 に確認 で きる。 この他 ,宗教的 組織 とし て氏子集 団や来迎寺 ・永見寺の壇徒集団,戸 隠講 な どがあ るが, これ らは9戸で構成 され る重立会

参照

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