-39 -は'三二阻法語﹄にあら 耶拘泥的陀押い朝田〃Wカ ・ 一 l ■ l 昔 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ . .
原
田
(
改
稿
)
俳
譜
表
諭としての本情の説
t ' 改 稿 の 弁 此の稿は'昭和七年九月'「日本文学・第二巻第九号」 (鹿児島 ・日本文学研究社発行)に発表した同題の拙論を故あって書き改め たものである。昭和十一年'私が病気で東京を去って郷里阿蘇に隠 退した際に'掲載誌を散逸させ'そののち'かろ-じて買い求めた が'なぜか拙論については2頁分を除いて破り去られていたので、 私の手許には'完全な形では残っていないのである。半世紀近-ち 探して来たが'まだ求め得ていない。いっそのこと'旧稿を捨て て'改めて書いた方が楽であろ-と'今'青い記憶をもとに'改め て資料を調えて'書き改めることにした次第である。当時は「日本 文学」誌は友人の新屋敷幸繁・峯岸義秋両氏を編集主幹として私ど も数人で毎月その誌面を埋めて発行したもので'特に私の論文など ほ草稿とい-べきものであったから、改稿するとなれば'全く新し く筆を染めることになる。AJの旧論には'私としては'す-なから ず愛着を感じて来た。その後も俳論における本惜論に触れた論考を 見受けないが'近代の歌論・俳論における写生論の先鍵とも考えら れるので'今頃私などがこれを云云するのほいささか場違いかとも 忠-のであるが'敢えてこれを書き残しておきたいと思-のであ る 。 旧稿では 「本情の説」としたが、用字としては、「本情」 「本 性」いずれがふさわしいかの問題も新たに生じて来る。特にt r去 来抄Jlについては'伝本間の本文の異同も多いので、この点も新た に触れざるを得ない。 「本性」は古い用字法であり'「本情」は新しい。「本性」の伝 統的な用法のそれは'「ホンジャウ」と読むのだから'「本情」は 単に文字面を改めたものだと判断される。今日の語感からすると 「本性」と書-と「ホンシャウ」と清音に読まれやすいので'その 点では'近世の新しい字面だが「本情」の方がまざれる恐れはなか ろちノ。 t「本情・本性は用字の相違か 問題を提起するのほ'まず﹃去来抄﹄の伝本による用字の差異である。旧稿では私が資料としたのが「日本俳書大系」などだけであ ったので'異文を問題にする事もなかったが'「日本古典文学大 系」 「古典俳文学大系」 「棚芭蕉全集」などが底本とする伝本との 間にはかなりの相違があるので、避けて通る事の出来ない問題があ った事を知らされるのである。 日本俳書大系本の底本は'安永四年の坂本である。これは,まず 流布本として扱ってよろしいであろ-。日本古典文学大系以下の諸 本の底本は'国立国会図書館蔵の一本であるが'その中で特に問題 になる「先師評」 「同門評」の部分は'大東急記念文庫蔵の去来自 筆と目される本に近いので'﹃去来抄﹄研究の資料としての価値は 極めて高いと思われる。大東急記念文庫本は「先師評」 「同門評」 二編だけであるので'この二編はこれを底本とLt他の部分は国会 図書館蔵本を底本としているものが多い。 そこで便宜上'大東急記念文庫本・国会図書館本を甲類表文と Lt坂本を乙類本文として'両者を対比して'何らかの見解を抽出 してみよ-と恩-.本行に甲類本文を掲げ'校異として主要な乙類 本文の相異を注記する。本行と校異との対照番号を算用数字で記 す 。 うらやましおもひ切時猫の恋 題人 先師伊賀より此旬を書贈りて日-' 3 1 心に風弛有もの'一度口に 4 いでずと云事なし。 りト也。此より前' はし。しかれどi・ かれが風流'此にいたりて本性をあらはせ 5 越人名四方に高-'人のもてはやす拙句お 6 此に至りて初て本性を顕すとほの給ひけ り 。 ( 先 師 評 ) 校 異 -俗 情 2 不 レ 出 3 風 雅 4 本 情 5 は ナ シ 6 な り 特に問題なのは4である.文末の方の「本性」 は両者同一なの で'まず考えられる事は'この乙類本文でも「本情」 「本性」を同 じよ-に用いているとい-事である. 甲類本文を乙類本文と比べてみると'伝来の事情とい-点を一応 離れて考えても、乙類の方には種々の点でさかしらな変更や整理が 加わっている事が感じられる.1の「風雅」 「俗情」の対比につい ても'「俗情」はいかにも不自然である。ど-不自然であるかには 問題があろ-。日本古典文学大系本の頭注には' 版本「俗情あるもの」。版本に従えば、意味が反対になる。即 ち'越人がこの旬によって馬脚を現わしたの意になる。東急本 に従-べきである。浪化宛去来書簡にこの旬を掲げ「又'越人 ( 猶 カ ) も定家卿の猪の恋の-たによりて'-らやましおもひ切る時猶 の恋、おもひ切時を-らやみたるは'越人の秀作と奉存候」と あるのによっても'東急本の本文のよいことが解る。 とあるのは1見識であって'結論の部分は正しいと思-が'「越人 がこの句によって馬脚を現わしたの意になる」とい-部分にはいさ さか不審が持たれる。私の解釈では'芭蕉書簡の「心に風雅有るも の,一度口にいでずと云ふ事なし」の真意は、後文「越人'名四方 覧向く'人のもてはやす発句多し」が解説しているよ-に'越人の 「うらやまし」の句が'風雅を愛する人々でこれを口にしないもの はないとい-事を言ったものである。「俗情」がおかしいとい-事
41 -はし。しかれども、此忙至りて初て漆恒を置 虫 m 川 汽tuLVlと、レ 1 . . _ I : - : . . . こ ■ -I -I -I . . I - ■ I ︰ ∼ ∼ J ● -l l I ∼ ∼ . -I . . J . I -t ■ -. J t = ■ ほ、その論理から納得されよ-.しかし'「俗情」に改めた加筆の 心理はよ-ほわからないが'必ずしも越人をおとしたものではある まい。それでは芭蕉の真意からあまりにも遠ざかる。「心に俗情あ る者」は'俳譜の平俗の情を愛する者を意味しよ-。俳譜の本質 はその平俗にあり'風雅の上に平俗の「をかしみ」を加えたもので ある。越人の此の句は'俳譜の軽みに到達したものである。そ-解 じ や う しないと'次の「かれが風流ここに至りて本性をあらはせり」も解 し よ う 釈しがた-なる。越人の卑俗さの本性を現わしたとい-のでほ決し て な い 。 「本性」とは'その物本来の性を意味する。ここでは猶の恋のあ われさおかしさの其実相をつかみ得ている点に言及して激賞したの であり'「俗情」とした事で意味が反対になり'題人をおとしめた とい-事にはならない。 じやう ここの「本性」は越人の本性ではない。猫の恋のおかしさあわれ じやう きの実感実相であり'また俳語の美的本質でもある。「本性」はあ -まで美的対象の本有するものである。越人の俳譜の風流がこれを つかみ取って、表現を与えるに至ったと覚めた芭蕉の本意は動くも のではない。さきの「心に風雅あるもの」は世の俳語者流をさす。 これを「心に俗情あるもの」と少しく表現を変えても'さす所は異 3 初の字心得がたし。行が旬は矧蘭の姿笹あらず。岩佐すがる 4 5 は'或は物におそほれて飛びかゝりたる姿、或は餌ひろふ時、 6 7 又はここよりかしこへ飛-つらんと伝ひ道にしたるさま也。 8 9 凡'物を作するに'封矧をし沌べし。しらざる時は珍物新剤に 0 魂を奪ほれ _ _ 1 . _ . 1 _ 1 . . . - _ t l -事になれり。魂を奪るゝほ、 其物に著する故 也∵是を本意を失ふと云。 3 l l 角が功者すら時に取て過チ有.初学 ならない。 鴬の身を逆にはつね哉 鷺の岩にすがりて初音哉 l 去来日'角が句は乗暖の乱鷺也。幼鷺に身を逆にする曲なし. の人憐むべし。(同門評) 校 異 1 暮 春 2 初 鴬 3 時 鷺 4 怖 れ て 5 あ が り 6 ナ シ 7 ナ シ 8 本 情 9 奇 言 1 0 ナ シ H ナ シ 1 2 其 本 意 を 失ふ事有べし 13過てる事多し 14慎まずんはあるべからず 後人が手を加えて添削したにしてほ、あまりに大胆で'度が過ぎ ているとい-感もないではない。 ともあれ'右の校異で最も大きな問題は勿論8の「本性」 「本 情」の相違にある。これについての言語上の考察は'項を改めて整 理する事としたいが'用字の上で「本性」から「本情」 への移行を あながちに否定的に抹殺してしま-べきではなかろ-と思-。去来 自身の改稿の過程で庵生じる可能性が全-ないとはいえない. 101112にかけて'大東急本系が第一次の原初の形を示す事は論の ない所であるが'「珍物新詞に魂を奪ほれて外の事になれり」は' いささか飛躍に過ぎて語の続きがらに自然さを欠-。「魂を奪はる るほ其の物に着する故なり」もまた然り。理を以って詰めれば'奇 物新詞に魂を奪われるのは、作者の着想の新奇さに流されるのであ る。其の物(素材)に執着するが故とは言えな-なろ-。対象の実
柏に擬人するならば'むやみに表現の新奇さに淫してはならないと 言おうとしているならば'大東急本の原形は必ずしも有効とも思わ れない。むしろ坂本系の「珍物奇言に魂を奪ほれて'其の本意を失 ふ事有るぺし」と縮約した方が'はるかに効果的で'徒らな表現が なくなっている。 1の「乗暖の」は耳に入りに-い。「暮春の乱鷺なり」の方が、 わかりやすいLt表現の奇を求めた嫌いは消える。 これらの点から'去来の改稿本ないしはそれに近いものが存在し て'それが安永坂本の基礎になっていた可能性も'1応は考えてお きたい気がする。 + T < ∼ _ 去来日'俳譜は新敷趣を尊とすといヘビも'物の本性をたがふ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ペからず。若し其事を打返して云には品あり。撃へは、感時花 ● ● 洩レ涙'惜別鳥動レ心'或は'桜花ちらば散なん散らずとも大宮 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 人の来ても見な-に'と云へ.る類也。感時'惜別'大宮人の見 ざる所'1首の勝也。(修行) 校異・・・点を右傍に記した部分は甲類本脱落'他の諸本 に依って補入。 - 「本性」は坂本系「本情」。 右の「本性」を「本情」としているのほ'天理図書館蔵三浦若海 旧蔵朱書校合本、費川他石蔵(名著全集翻刻)本'安永板本,大磯 義雄蔵本'等がそうである由、古典俳文学大系﹃蕉門俳論俳文集﹄ の注に見えている。 三、漢語「本性」の語史 ﹃去来抄﹄の大東急本系諸本が「本性」という字面を用いている 事は、極めて重要な事実である。 「本性」とい-漢語は'平安朝以来用いられて来ており,語史的 には「本情」より音-、﹃去来抄﹄の原初の形態がこれを用いたの は'この語の伝統的正用である。 ところで'これが蕉門の俳話者流(去来をも含むかも知れない) の中で「本情」の方に移行したのはなぜか。「本性」という字面が 示した本来の語感が'俳譜表現論が求める文学論的要請と必ずしも 合わな-なったからであろうと私は思う。 近世語としての「本性」は豊日で「ホンシャウ」と発音する傾向 が 強 い 。 ﹃ 日 葡 辞 書 ﹄ は 「 ホ ン シ ャ ウ ヲ ウ シ ナ ウ 」 の よ う に , 明 ら かに清音を示している。そしてその意味は'本心'正気,正常心 をさしている。これは現代も同じである。去来が俳譜表硯論として 「本性」を用いたのは'この現代語的「ホンショウ」とは合致tな いのである。それは確かに'﹃宇津保﹄や﹃源氏﹄ ﹃枕﹄で読みな れた古典語としての「本性」であった。それは伝統に従って「ホン ジャウ」と濁って発音していたに違いない。 ちなみに'いささか気になるので現代の辞書の「本性」の清海の 扱いを検してみると'案外に認識が徹底していない。 0大言海 は ん し ゃ -刺 悌 r ウ マ レ ツ キ 。 天 然 ノ 性 。 ( 例 略 )
- 43-+ 十 -; 6 -い - ∵ -本心。正気。(狂気'酔気ナドニ対ス)(例略) ㊤角川古語辞典 はんしゃ-︹本性︺ ①生れつき。天性。「わがもとの心の - 」︹枕︺ ⑧正気.本心「声の内より狂ひさめて'又 -にぞなりにける」︹謡・巻絹︺=はんじゃ-0 ㊤岩波古語辞典 はんしゃ-︹本性︺①本来の性質。生れながらそなわってい る性質。「∼ほいと静かに心よ-子めき給へる人」(源氏真 木柱)⑧本心。また'正気。(例略) 濁音に読む中古語と'清音に読む近世語とは'別けて採録しない と'辞書としての役目が半分になるよ-に思-0 中古の仮名ぶみ系の古典語の一角を占めている「本性」は、明ら かに連濁を生じて「ホンジャウ」と発音されていた。この事を断定 する事の出来る資料は'その表記に求められる。周知のよ-に普通 の仮名表記には'清濁の指標がない。しかし'漢語系の外来語は' 普通の仮名による表記の不可能または困難な場合がすくなくない。 こ-した場合漢字を使用した形跡がある。この場合はおのずから清 濁が知られる。この種の漢字使用の中には'倍音というものがあ る。この倍音にも、通常の仮名による表記の不可能な場合に、その 欠を補-とい-性格がはっきりしているので'後世の「生」を「し よ-」とLt 「経」を「きよ-」とする類の劫音・勧長音の仮名表 記の発達する以前のものと見るべきである。貫之自筆本のおもかげ を留めているとい-青紫書屋本﹃土左日記﹄には倍音表記の例はま だ見られないが、漢字を表語的に正用した例は、概ね漢字としての 表音機能を有している。だから 「廊」は 「グヮムLt 「京」は必ず 「キャウ」と読むべきである。これは倍音表記に延長して考えるべ -'意味を捨てて音だけを借りる仮名としての機能を果たす。古い 所では﹃倭名抄﹄の 内五(醍醐) 千開(線牲) 尊短(栴檀) 謝古(碑硬) などがあり、珍透の古い事を知らせる。 さて﹃宇津保﹄ ﹃源氏﹄ の類で'倍音表記に宛てられた「行」 「上」「生」「尺」などを観察すると'前二者は必ず濁音「ギャウ」 「ジャウ」に'後二者は必ず清音「シャウ」 「シャク」に宛てられ ている.﹃宇津保﹄に'朱雀院に宛てて「寿尺院」とした例がある が'「尺」は「シャク」とい-清音を表わしている。これだけは清 濁通用かと疑ってみたが'字書を検すると「雀」は漢音「シャク」 呉音「サク」慣用音「ジャク」とある。「朱雀」は漢音で読んだも のと思われるから、﹃宇津保﹄の「寿尺」はやはり「シュシャク」 と正しい読みを示したものである.ちなみに「寿」も漢音「シュ ウ」。皇城の門や殿舎の名は'原則として漢音で呼んだのである。 但し'倍音に用いた「尺」は、呉音「シャク」を用いている。倍音 表記に漢音を用いた例はないよ-だから'その起源の青い事を思-べきであろ-0 ともあれ'この倍音表記は後世のものでな-'﹃宇津保﹄なり ﹃源氏﹄なり﹃枕﹄なりの当初からのものである。これなしには、 いろは四十七字では当時の国語を書き表わす事が出来なかったので
あ る 。 ところで'漢語「本性」であるが、漢籍に見られるよ-に'人間 本然の性'天然本有の人情の意にまでひろげた用法は見られず'生 まれつきの性格・性情'ないしは容貌・容姿など、専ら個人の上に 用いられている。そして仮名ぶ鼻になじむ古典語としては呉音で呼 ばれていたが'︹lcLOjのよ-な外来語音は'多少和臭を帯びても仮 名表記は困難であった。倍音にたよる事になるが'その語の本来の 文字をなぜ用いなかったのか'そこに倍音の秘密があった.倍音の 漢字はすでに固定していて'「生」ならば清音「シャウ」'「上」な らば濁音「ジャウ」のよ-に'既に表音記号としての体系に組み込 まれていたのである。い-ならばこれも既に仮名の1翼であったの である。倍音文字を用いる事は'発音の指定であり、清濁まで指定 していたのである。 ﹃宇津保﹄の「俊蔭」の巻'「古典文庫」一二貢' 「わがぬしをゑほしたてまつるも心ありや。ゑひて'もはらし 給はねば'本上あらほし給へとぞや」 左大将正強が仲忠聖一一口-詞である。「上」が倍音で呉音「ジャ ウ」を表わす事'叙上の説明で明らかである。天成生得の才能を意 味している。 同'「内侍のかみ」の巻'古典文庫七六六頁' ( ひ ) 仁寿殿の女御'あしたの御まかないにいでたまふ.さらに本上 ( 御 息 ) の衛かたち'この宮す所ににたるなし。 「本上」の倍音'上に同じ。私はこの倍音表記は﹃宇津保﹄創作 当初のものと見なす。つまり。「本」の嶺尾︹m︺のあとで連濁が生 じて「性」の呉音「シャウ」が濁音化したのは'﹃宇津保﹄が書か れた当初からであったと見る。 ﹃枕草子﹄'「四季の御障子の西面の立蔀のもとにて」の段'三巻 本 で は ( 宣 ) 「我もとの心の羽n山」とのみの給ひて、「あらたまらざる物は ( 宣 ) 心なり」との給へば' とある。能因本では「はんしや-」と仮名で表記しているが'この 表記は多分中世の転写の問に、倍音の漢字から仮名に変えたもの と'私は見なす。 ﹃源氏﹄の「帯木」の巻'﹃湖月抄﹄によると' さしもあだめきめなれたる-ちつけのすきLr、しきなどは'こ のましからぬ御本上にて'まれにはあながちにひきたがへ、心 づ-しなることを御心におぼしとゞむる-せなん'あやにくに て ' 「真木柱」にも一例あるが'﹃湖月抄﹄では「本性」と正字を宛 てている。倍音から正字に反したものと思-。 前にも触れたが'中古の古典語としての「本性」は個々人の生ま れつきの心情・気質・性格ないしは天成の容姿などをさすが'漢籍 の用例が示すよ-な'広く人間の本然自然の性情をさす哲学的表現 にわたるものはない。そして連濁して「ホンジャウ」と発音してい た事は'その倍音表記の観察によって推定する事が出来る。近世俳 論に見られる「本性」はやがて「本情」とい-字面を用いるように
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-45-′ J 「 -. イ なった点からが'「ホンジャウ」と濁って読んだと推定され、中古 の古典語の流れを汲むものと見てよろしかろ-。ただし'人間の上 のみでなく'草木鳥獣から無生物にまで広げられて'それらの訊詠 の対象が自然に有する感じに及んでおり、小主観に左右されない本 有の実感・実情をさしており'明らかに俳譜的写実主義の主張につ ながっている。その点で'これも近世語として現代に及ぶ「本心」 しやう 「正気」を意味する「本性」とは別個の流れをなしている事も'前 述した如-である。 四'薫門俳論における本性-本情の理念の考察 まず'芭蕉が去来宛の書簡で越人の旬を称揚したとい-'「かれ じ や う が風流'ここに至りて本性を顧せり」の意味を考えてみたいのであ るが'必ずしも解釈が容易でないよ-な気がする。「羨まし恩ひ切 る時猪の恋」を芭蕉はど-解釈したのであろ-。﹃猿蓑﹄所収のこ の旬、日本古典文学大系「俳論集」の頭注に'「思ひ切る」を諦め る意に取って、「やかまし-鳴きたてる猫の恋も諦めるとなるとさ っぱりしている。人間は煩悩を断ち切れない。羨ましいことだ」と あるが'いささか不審さを感じる。猪の恋には'人間の世智弁の及 びもつかない1途さがある。何もかも思ひ切った恋にひたむきなそ の鳴き声'恋に身をやつし果てたその姿には'世間を思いかねた り'結果を打算したりする人間にない純粋さがある。それを羨まし ヽ ヽ いと言った旬者は'なかなかいきなわかりの良さがある。越人の句 はそれだと恩-。猪の恋に対して、それに成りきらねばこうは詠め な い 。 「思ひ切る」には'すべてを捨てて一事におのれを賭ける'決心 する1義がある。﹃岩波古語辞典﹄には' 「屍を一の谷でさらさんと思ひ切ったら直実ぞや」 ( 平 家 ・ 九 ・ 1 二 の 懸 け ) とい-文例をあげている。 猪の恋を詠ずるのに、恋がさめてしまったあとのけろりとした姿 を見て羨ましいと言ったのでは'旬の感もあるまい。芭蕉が称揚し そうもない。ここで思い出されるのは、﹃為兼卿和歌抄﹄の主張で あ る 。 何事にてもあれ'其の事にのぞまば、それに成りかへりて'さ またげまじはる事な-て'内外ととのはりて成ずる事'義にて なすと'その気味に成り入りて成ると'はるかに変はる事な り。 芭蕉も'越人の旬が'猪の恋の気持に成り入って'よくその情を 捉え得ている点を称揚したものであろ-。多少無用の弁を弄したか と恐れるが'私には越人の旬は'右のよ-に理解される。 次の「鷺の身を逆さまに初音かな」等の旬評は去来の見解を述べ たものである。その核心をなすのは' じ や う 凡そ'旬を作するに本性を知るべし。 であるが'その「本性」とは'対象の真実の様相を言-と見てよい。句作の基礎を写実・写生に置こ-とした意図を示している。こ れを知らないと'徒らに表現の新奇を競-て'俳語の詩として本意 を失-であろ-とい-のである。其角の華麗で新奇放胆な句風に対 して'写生的手法を提唱しているのは'俳諮表現論史の上で'すこ ぶる注目すべきである。さきの先師評に見えた所は'旬が対象の内 的実相への擬人を勧賞したのと'いささか方向を異にする。ともあ じ d r う れ'去来の本性論が'近代の写生説の先雌をなしている事に注意し て置きたい。 「滑稽論」の第一段に彼はこ-書いている. 「修行」の部に見えるのも'去来の見解で'右の句評を通して主 張している所を'改めて強調したものである。俳辞は新しい趣きを 特に要とするが'それも写実・写生の基礎の上に立つべきで'その 上に新意を工夫しなければならないとい-。これも暗に其角1派の 俳風にあきたりない事をほのめかしている。つまり先師の言葉を承 けてほいるが'一歩新しい方向に動き出しているものと見るべきで あ る 。 右に述べた去来の論とも'芭蕉の論とも、やや異なった角度で 「本情」(彼は「本性」 とは書いていない) とい-語を用いて俳語 の表現を論じたのは'各務支考である。﹃続五論﹄の男頭「滑稽 論」に述べた所がそ-である。いささか舞文の嫌いもあって、要旨 の捉えがたきがなき忙しもあらずだが'理論に長じた彼の長所を見 せて-れている。 俳譜といふ聖二あるぺし。華月の風流は風雅の体也。おかしぎ は俳藷の名にして'淋しぎは風雅の実なり。この三の物に及バ ざれは世俗のた三一日となりぬペし。 「俳語」という名義は'もともと滑稽話語とい-に近-'「をか しみ」があるが故の名である。しかし'それだけでは'風雅として の俳語とはなり得ない。花月訊詠の文芸である事を主体とLt 「さ び」をその「まこと」としていなければならない。花月を訊詠する 日本の詩歌の伝統を守りながら'「をかしみ」と「わび」 「さび」 の芙とを兼ねなければならない。「世俗のただごと」とは区別され なければならない。これが支考の理論の出発点である。 詩といひ歌といふ'俳譜は高下の情をもらす事なし。 漢詩・和歌の実の世界をも包摂Lt 同時に平俗の 「をかしみ」 「わび」「さび」の世界を漏らさない.そこに俳譜の本領がある。俳 語がもともと滑稽の名であったからといって'平俗でさえあればよ いと考えるのは'おろかなる俳譜師であるへ と彼は論ずる。 そこで、_俳譜の美をどこに見つけたらよいかとい-'俳讃美論 が、「滑稽論」の第二段になっている。ここで彼は'文芸の対象の 本情を見つけよと主張する。 有情のものはさらにいはず、無情の草木・瓦石より、道具・ ママ 表色にいたるまで'おのれ-トが本情をそなへて'尤人情にか ほるペからず。其本情にいたらぬ人は'月華に対して月はなを しらず。道具持てももたぬ人に似たるペ.し. 1 ] 1 1J fJ . ' 持 t ! 相 川 川 山
-47-せて-れている。 l I ・ ・ 一 二 、 . . ≡ 月や花の美が月や花の本情であり'その本情を知るとは'その実 的実相を観入する事である。 金犀の松の古さよふゆどもり ( わ ) 炭俵の序に'この旬の魂すはりてとかき侍りしが'そのたまし ( 浴 ) ゐといふほ何ぞや。金犀はあた1かにへ銀犀は涼し。是をのづ から金原銀犀の本情也。 ( 浴 ) しかるを'世の人'金犀の桧の古びはよき冬寵なりと見てをか ば、風雅のかたほしを心得たるといふペし.六月の炎天に金犀 をたてんに'人の顔かゞやきてよからず。さる座敷は'遺具し らぬ人に落べし.されば'金銀犀の涼暖を今の人の見つけたる にはあらず'そも天地よりなせる本情也。それをしらぬほ誠に しらぬといふ人なるべし。 しかれども'金犀銀犀の-ち出たる本情は'貴品高家の千畳敷 とおもひよるべし。それを松の古さよといほれたれは'煤つが は げ ひもはなれぐ-に冗か1りて'ばせを庵六畳敷のふゆどもりと 見え侍るか。是風雅の淋しき実なるべし。金犀のあたゝかなる は物の本情にして'松の古さよといふ所は二十年骨折たる風雅 のさびといふぺし。 そも - 本情あり'風雅あり'その本情だ忙しらぬ人の風雅に 骨をらんとするは'と-ふをあへものせむとおもへる、料理の たがひもあるべし。 さきの去来の写生主義的本性論に比べると、むしろ芭蕉の「本性 を顕はせり」式の考え方に近いが、物にそれぞれの本情を知って' その上に風雅のさびを発見するのだとい-主張が'本情をあくまで 客観的に捉えよ-としていて'その上に主体的な「わび」 「さび」 で色づげをしよ-としているのほ'芭蕉の旬評から察せられる本性 観とはいささか距離があるようである。 蚊屋しまふ夜や銀犀の花薄 この旬もその秋'尾城のあたりより出たる銀犀也。か-いへ ば'奥八畳次十畳の座敷に'榛の月影もきらめき渡り'玉階ノ 夜色涼メ如レ水といへるその夜のありさまならん。始の金犀は' 松のふるびて取寵りたる座敷と見えへ後の銀犀は'花薄のはな やかにして取ひろげたる座敷と見ゆ。是も銀犀は本情にして、 花すゝきは風雅也。この本情と風雅のふたつをしりて'はじめ て俳譜をしれる人といふペし。 ここまで来ると'さきの芭蕉の意見や去来の論とは大分変わって 来る。特に本情と風雅と対立させ'素材の持つ美的本情を巧みに配 置して'その上に旬者の内蔵するさびの色を加える事で'俳譜が成 就すると説-ものの如-である。許六らが説いた「取り合わせ」説 とも一脈相通ずる所がある。制作論としては'極めて知的な技巧主 義である。 支考の考える「本情」は、右の句例が示すよ-に'漢詩なり和歌 なりから学び取る所の多いものであろ-。「本情を知る」 「知ら ず」としばしば言っているのも'それが教養として俳譜者流が学び 取るべきものと考えている事を示す。 物それぞれの本情は'対象の世界に属するもの'「風雅のさび」
ほへ年を重ねて骨折って体得すべきものとしていると思われる。支 考らしいみごとな俳譜表硯理論であったと評価してよかろ-0 ﹃続五論﹄の第二章をなす「華実論」の中で'次のよ-にも説い ている。 ( お ) このさかひほへ 二十年の腸をさくべき俳語の工夫地也。をのれ ( お ) が心は女色芙肴のたのしみにをきて'口に風雅のさびをいほん とおもへる'心・口のふたつあらばいひもいほれぬべし。風雅 は本さびしきもの也。女色芙肴は最上のたのしみ也.たのしぎ に居ては淋しぎをたのしみがたく'さびしきに居てはたのしぎ をたのしみやすしといふ所を'心におもひてつしたらは'終り ママ にそみ終りに喰らふとも'いかで風雅のさびなからん.年わか ければさびなしなどいふ人は'俳語のそも心より出るものとい ふをしらぬ人也。 彼が「さび」をこのよ-に考えていた事は、さきの論を理解する たよりになる。 五'三冊子の象徴的表現論 1連の俳譜表硯論として一括したいのであるが'冒一冊子﹄の著 名な象徴的表現論には'異色もあるし、なかなかに深い所も見られ るので、独立の項として言及してお-0 代々の歌人の歌をみるに'代々其変化あり。また新古にもわた ( な ) らず、今見る所むかしみしに不レ替'哀成るうた多し。是まづ 不易と心得べし。又'千変万化する物は自然の理也。変化に-つらざれば風あらたまらず'是に押-つらずと云ふほ'一端の ( ゑ ) 流行に口質時を得たるばかりにてへその誠を責めざるゆへ也。 せめず'心をこらさゞる者、誠の変化をしる事なし.たゞ人に ( ゑ ) あやかりてゆ-のみ也.せむるものはその地に足をすへがた ( と も ) -'1歩自然に進む理也.行-末千変万化する共'誠の変化は みな師の俳語也。かりにも古人の湊をなむる事なかれ。四時の (とも) 押-つるごと-物あらたまる。皆か-のどとし共いへり。 不易流行論の最も要を得たものであり'恐ら-は師の芭蕉の道教 をよ-伝え得たものであろ-と恩-。これについては'別に私の解 釈を記してみた事もあるので'ここでは-だ-だと述べないが、こ れはまことの変化とい-事を言ったものである。不易を心に悟っ て'誠の変化を求めてゆ-のが風雅の真の姿であると言った'芸術 全般にわたる論であり'芸術の新し味に触れる極めてすぐれた論に なっている。 高-心を悟りて'俗に帰るべLo とい-芭蕉の教えは'右の芸術汎論を、特に俳静について述べた特 論である。 桧の事は格に習へ'竹の事は竹に習へと'師の詞のありしも' 私意をほなれよといふ事也。此習へといふ所を'己がまゝにと ( つ ひ ) りて、終に習ほざるなり.習へといふほ'物に入ってその微の ( は ) 顕れて情感ずるや旬と成る所也。たとへは'ものあらわにいひ 出ても、そのものより自然に出る情にあらざれば.'物我二つに
-49-′ . . 7 ヽ らず,今見る所むかしみしに不毎哀成る-た多し。是まづ 出ても ふ m T I