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復讐・暴力・死刑 -『中国の復讐者たち』に関する問題提起-

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(1)Title. 復讐・暴力・死刑 −『中国の復讐者たち』に関する問題提起−. Author(s). 竹内, 康浩. Citation. 北海道教育大学紀要, 人文科学・社会科学編, 60(2): 15-24. Issue Date. 2010-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/1118. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第60巻 第2号 JournalofHokkaidoUniversityofEducation(HumanitiesandSocialSciences)Vol.60,No.2. 平成22年2 月 February,2010. 復讐・暴力・死刑 −『中国の復讐者たち』に関する問題提起−. 竹 内 康 浩 北海道教育大学釧路枚史学研究室. Revenge,ViolenceandCapitalPunishment TAKEUCHI Yasuhiro. DepartmentofHistory,KushiroCampus,HokkaidoUniversityofEducation. 概 要 本稿は,最近上梓した拙著『中国の復讐者たち』において扱った対象について,著述の意図及び敢えて触 れえなかった問題について確認する。その上で,それらの問題に関する近年の重要な研究を紹介しつつ,そ れらの研究の傾向を指摘しながら,より明確に歴史学的な課題を抽出することを試みたものである。. はじめに. 2009年7月に,私は『中国の復讐者たち』を上梓した(1)。そこでは,中国史上数多い復讐事件をさまざ まな観点から集めて解説を加え,復讐行為の奥底に潜むものについて追究してみたのであった。但し,読者 としては,中国史に特に関心を持つ者に特定せず,凡そ不特定多数,一般的に想定したので,叙述は平易を 旨とし(時には卑俗にも流れている),学説上の問題や専門知識の込み入った説明を除いてある。さらに, 真の課題として問いかけたかった点について,敢えて明言を避けているところもある。 あらためて,拙著を世に問うた理由,考えるべき問題点をここに明記し,その上で,歴史学としての課題 にまで話を推し進め,現在における卑見を述べておきたい。. ー. 『中国の復讐者たち』について 『中国の復讐者たち』(以下,拙著,と記す)は,全編が書き下ろしであり,既発表の原稿を踏まえたも. のではない。私は,これまでに復讐を扱った論文を発表したこともなく,こうした分野の専門家というわけ. でもない。ここ数年,私は,伝統中国における物の考え方・価値観の解明に問題関心を移しており(2),今 回の拙著もその間題関心に基づいている。. 15.

(3) 竹 内 康 浩. 紀元前から,まさに無数といってよいほど起こってきた復讐事件は,まさしく殺人事件であるが故に,そ の暴力の部分に注目して,肯定的には尚武,否定的には野蛮,という評価がなされることがあった。但し, これを,例えば「中国人は暴力的だ」とかいった民族性の次元に還元することは適切ではなく,また人間の 「文明化」に応じて生ずる(そして消滅する)歴史的な段階のようにとらえることも適切ではない,との印 象を私は常々抱いてきた。即ち,復讐(殺人)を正当化し,必然化させた,もっと根源的な理由が存在する のではないかと考え,人間観・人生観・世界観にさかのぼって解釈すべきことを,拙著では主張したのであ る。中国における復讐には,ただの怨恨や激情の発露ではない,人としての道がその基礎にあったのである。. その詳細については拙著において充分に述べておいたので,そちらに譲りたい。 しかし,耕著に記しておいたことは,問題のほんの一部にすぎない。事件の背景を充分に読み取りきれな かったので検討を断念した事例も多く,また,あくまでも漢民族中心の記述にとどまり,異民族の事例は一 つも触れることはできなかった。また,数量的にもまだ充分ではあるまいし,歴史的な傾向の変化について も今回は検討をしていない。こうした点については,引き続き検討を進めてゆくこととしたい。しかし,今 回この文を草する理由は,拙著で取り扱った内容から派生して考察すべき問題や,さらに拙著の中では述べ なかった問題が存在し,ここではそれらを提示して,あらためて問題提起をしておきたいと考えたからであ る。. 第一は,暴力という問題である。この点については,拙著中で何度も「復讐は殺人行為である」と念を押 し,Ⅲの「5 流血の大惨事」の節をわざわざ設けて,いかに酸鼻を極めた事件が多かったかを確認してお いた。日常の中,民間人が突発的に起こした暴力事件について,往時の人々はどのように考え,対処したの かについて問題としたい,と考える。特に私が重視するのは,一般民間人が行侵する暴力である。戦争に代 表される国家暴力は,国家主権のような抽象的にしてかつ特殊なレベルにおける暴力であるから,一般の人々. の問題として扱うのは適切ではない。また,宗教団体の反乱のような事例は,これも世界観の違いによる明 白な主張の対立であり,同様に,特殊な事例として扱うのが適切であろう。また,民間人であっても,政治 的な主張を掲げた集団的な行動は,社会の秩序構造自体に関わるものとしてこれも特殊な意味合いを持つた め,別に扱うのがよかろう。一般民間人が,個人の次元で行使する暴力を,私は問題としたいのである。日 常の中にそれがいかに溢れているか,ないし無縁でいられるかは,思考様式や行動様式と強く関連し,社会 に求める役割についての思想にも必ずや影響をもたらすと考えられるからである。利害の対立などに代表さ れる紛争の(当面の)解決手段として暴力が用いられ,それを容認するような雰囲気があるならば,それは なぜか,それを妥当と考えるのか,など,道徳や法律の規制を超えた,人間の生活の現実そのものの反映と. して,その社会自体のあり方と絡めて追究すべき問題であると考える(3)。 暴力は,現代社会においても重大な問題であり,現代人と同じ悩みを過去の人間も抱いてきた。今後の社 会のあり方を考えるための重要な材料を歴史に求めることには大きな意義があると思う。 第二は,刑罰,特に死刑の問題である。この点については,敢えて拙著の中では全く触れていない。理由 は二つある。一つには,先に述べたような復讐を支えた基礎的観念の問題からだいぶ外れてしまうこと,も う一つには,現代的課題として重要で,しっかりと論じるためには拙著中の材料はあまりにも不足であるこ. と,である。因って,直接には死刑の問題には拙著では言及していない(4)。しかしながら,この間題を常 に念頭に置きながら叙述を進めていたことは,ここで正直に告白しておきたい。復讐が殺人行為である以上,. 確かにそれは違法行為であり,法律の条文を直接には読まぬ庶民にも,「殺人者には死刑」という提はよく 知られていた。うまく仇討が成ってもその後には今度は自分が命を絶たれる可能性があることを知りつつ, それでも殺人行為を確信を持って遂行するならば,それはもはや刑罰の持たされている意味を否定し無視す るものと言わねばならない。つまり,死刑は犯罪抑止力にならないことはもとより,教育的な意味も持ちえ. 16.

(4) 復讐・暴力・死刑. ないのである。また,復讐事件の発端となった事件の加害者(要は復讐者にとっての仇)の命を奪うという ことが,社会にとって,特にその秩序の面からは,どのような意味をもったのであろうか。こうした問題に ついてどのように考えればよいものであろうか,それを問うてみたいと願っている。 拙著が考えてみようとしたこうした二つの問題については,もちろん,先行業績が存在する。それらの中 から最近の例を取り上げ,私なりの若干の印象を,次には記しておきたい。. 二 暴力をめぐって 暴力をめぐる問題に関しては,注目すべき業績が,近年いくつも公にされている(5)。その内,須田努・ 趨景達・中嶋久人編『暴力の地平を超えて 歴史学からの挑戦』(青木書店 317ページ 2004年5月20日刊。 以下,この二節内での本書は,該書を指す)は,歴史研究者によって暴力について追究された専論を集めた, 珍しく,また注目に催する論文集である。本書をここでは取り上げて,私なりの印象を述べておきたい。 本書の内容は次のとおりである。. 序論 いま,なぜ暴力か(趨景達) 暴力はどう語られてきたか(須田努). 第Ⅰ部 暴力を選択する人びと 口本中世の土一揆と村の暴力(藤木久志) 人斬りの村 −19世紀集団暴力の心性(須田努). 騒乱する人びとへの視線 一近代日本の都市騒擾と政治運動(藤野裕子). 第Ⅲ部 他者との関係における暴力 自由党と自衛隊 一秩父事件における民衆の暴力(中嶋久人) 無頼と侶義のあいだ 一植民地化過程の暴力と朝鮮人「傭兵」(慣蒼宇). 北アイルランド紛争を生きる 一暴力とコミュニティ関係(ヂ慧瑛). 第Ⅲ部 政治文化としての暴力 明末清初における暴力と正義の問題(岸本美緒) 反廃される暴力と自博 一国民党の時代を生きる須長漣造という歴史(阿部安成) 暴力と公論 一植民地朝鮮における民衆の暴力(趨景達). あとがき(中嶋久人). 本書が,「暴力の地平を超えて」研究会の成果をまとめたものであることは,「あとがき(中嶋久人)」に. 触れられている。第Ⅰ部から第Ⅲ部までの本論部分には計九本の論考が置かれ,うち五本が日本史,二本が 朝鮮史,中国史とヨーロッパ史が一本ずつ,とい. う構成になっており,扱われている地域にはやや偏りがあ. 17.

(5) 竹 内 康 括. るが,その点は欠点ではない。但し,藤木論文が15∼16世紀,岸本論文が17世紀を中心に論じているのを除 けば,他の論文は19世紀三本,20世紀四本と著しく近現代に偏っている。研究会のメンバー構成などさまざ まな事情はあるにせよ,この時代的な近現代への著しい偏重は問題なしとはしえない(後述)。 本書のコンセプトについては,「序論 いま,なぜ暴力か(趨景達)」に次のような説明がある。. 本書は,暴力にも歴史があるという観点から,あえて歴史的文脈のなかで暴力の意味や暴力をふるう人 びとの心性を解析しようとするものである。(12ページ). また,「あとがき」にも,それを執筆した中嶋久人氏の考えとして次のようにある。. 暴力の行使により正当性が創出され秩序を形成し,その秩序のなかに暴力が潜在化していくということ もまたいえるのではないかと思えてきた。そして,現在の私たちが正当化された秩序のもとに安住してい るなら,それは潜在化する暴力の存在を忘却しているだけではないのかと考えるにいたった。(314ページ). 暴力行使の意義,暴力についての心性,といった点について,歴史的に考察を試みるというのが,本書の コンセプトかと思われる。個別の論考について論評する能力・資格は私にはない。これらの論考を拝読し,. 禅益するところ甚だ多く,大変勉強させていただいたというのが率直な感想である。にもかかわらず,先に 記したような私個人の問題意識からすれば,次のような不満をどうしても抱いてしまう。 即ち,ここで取り上げられている材料はいずれも民衆反乱ないしそれに類するものばかりで,これまで多 くの蓄積を持つ反乱史をちょっと違う角度から眺めてみたに過ぎないのではないか,ということである。そ うであるならば,それはこと暴力を問題として探究する上で適切かどうか,疑問があるのである。拙著にお いて私が取り扱った復讐事案と反乱について,いくつかの観点から特徴を比較してみると,次のような違い が明らかとなる。. ①目的と暴力の関係 復讐:相手の殺害を狙った暴力の行使それ自体が目的である. 反乱:自分たちの掲げる要求の貫徹が目的であり,暴力の行使は手段にすぎない. ②暴力をふるう主体. 復讐:本質的には個人の行為。助太刀はありうるが,中心人物は特定される 直情的なケースも,周到なケースもある. 反乱:必ず集団的行動であり,規模は千や万を以て構成されることすらある 結合の強さと仲間内の秘密性が必要。場合によっては仲間に対して一層残酷である. ③暴力の客体(被害者). 復讐:狙われるかたき本人に極めて限定的。巻き添えはありうるが,無差別ではない 反乱:逆らう者は誰でも敵で,無差別殺人もありうる. ④達成後のヴィジョン. 復讐:達成後の人生像については一切考慮せず,特にヴィジョンはない. 18.

(6) 復讐・暴力・死刑 反乱:達成後のヴィジョン(作ろうとする世界像)こそが重要である. ⑤国家秩序・法律に対する意識. 復讐:違法行為であることは熟知。基本的には法の裁きに従う姿勢 政治や道徳といった「権威」に対してはむしろ極めて従順である 伝統的秩序の枠内からはみ出した世界観を持つことはない. 反乱:違法行為であることは熟知ないし理解。しかし現秩序への反抗こそが眼目 現在の政治や道徳の「権威」を否定する姿勢を持つ 自分たちに固有の世界の理解や作り方を持つ. ⑥結果に対する評価 復讐:成功すると世間や朝廷から称賛されることが多い. 反乱:成功して王朝転覆を達成しない限り,大概は非難攻撃され,否定的に扱われる. 極めて雑駁ではあるが,復讐と反乱とをこのように対比させてみると,反乱は,当該時代の主たる価値観 を反映してはいないものであること,要はその時代において浮きあがった行為であるという傾向の方が強い ように思われる。反乱が行侵する暴力は,手段としての要素が強く,そして数と無差別性からは一層凶暴な ものとして特殊であると考えるべきではあるまいか。時代の変革のモメントとしてならばともかく,ある時 代そのものの理解のためには,反乱を扱うことは場合によっては不適切であるかもしれない,とも言い得よ う。また,こうした反乱について,主体(参加者)であれ客体(被害者ないし傍観者)であれ,一人の人生 上,どれほど直面する機会があったであろうか。それらと無縁の人生こそ,むしろ普通ではありはすまいか。 権威をかさにきてのしかかる「官」の暴力,遊侠らが行侵する民間での暴力,さらには「教戒」と称する家 庭内における暴力,そういった暴力こそ,ごく普通に数十年の人生を送れば必ずや接することのあったもの. に相違ない(6)。そうした生活実感・実体験の中で,暴力に対する見方が形成されていったものと思われる。 せめて誰か一人でも,そういう問題を取り上げてよかったのではないであろうか。 本書が近現代に著しく偏った構成をとることも,問題であろう。本書で取り扱われた素材をたどっていく と,皮相な見方をするならば,民主主義とともに民衆は凶暴化し社会の秩序は混乱してきている,という歴 史像が描かれてしまうからである。また,新しい時代が扱われているために,身分と暴力という問題がほと んど捨象されてしまうこととなったのも不満である。いうまでもなく,紀元前から暴力は存在する。ならば, その暴力の発露それ自体のあり方をさまざまな素材を検討して歴史的に明らかにすることこそ,まさしく歴 史学の立場からの暴力へのアプローチなのではないだろうか(7)。 以上のような観点から,本書については,所収の論考のそれぞれの立派な結実ぶりにもかかわらず,歴史 における暴力に対するアプローチとしては必ずしも充分ではないし適切ではない,との印象を,私は拭えな いのである。急いで付言すると,これは本書に対する否定的評価を下しているつもりではない。やはり同じ ように歴史における暴力の問題を考えようとしている,竹内一個人の問題意識とは本書は違っている,とい うことで理解いただければ幸いである。従って,ここで私が述べたような観点に従って,同時代秩序から評 価する暴力の意義,という問題が,私の今後明らかにすべき課題として明白になった,ということになる。. 19.

(7) 竹 内 康 括. 三 死刑をめぐって 次に,拙著のなかでは敢えて明言しなかった問題である,刑罰(死刑)の問題について述べよう。これは 現代的課題でもあり,それ故,充分な準備が整っていない拙著では敢えて踏み込むことができなかったので あるけれども,現代を考える材料としての歴史,という点からは,大いに検討を加えておかねばならない問 題である。. こうした私とほぼ同様な問題意識を持って公刊されたと思われるのが,富谷至編『東アジアの死刑』(京 都大学学術出版会,Ⅹi+540ページ,2008年2月25日刊。以下,この三節内での本書は,該書を指す)であ る。以下,本書を簡単に紹介し,私なりの印象を述べておきたい。 本書の内容は次のとおりである。. はじめに(富谷至). Ⅰ 罪と刑罰. 第1章 究極の肉刑から生命刑へ 一決∼唐死刑考(富谷至) 第2章 末代以降の死刑の諸相と法文化(岩井茂樹) 第3章 千金の子は市に死せず −17・18世紀朝鮮時代における死刑と彙首(アンデシ・カールソン) Articlel 有徳の殺人? L漠代における国家容認の暴力の歴史(ベント・ペテルソン). Ⅲ 社会と死刑. 第4章 貌晋時代の皇帝権力と死刑 一西晋末における謀殺を例として(古勝隆一) 第5章 朝鮮党争史における官人の処分 一賜死とその社会的インパクト(矢木毅) 第6華 中国の前近代絵入り史話における死刑と暴力の図像(オリバー・ムーア) 第7章 死刑の社会史 一近世・近代日本と欧米(伊藤孝夫) 第8章 現代中国の死刑に関する立法およびその整備について(周東平) Article2 東アジアと死刑の風景 L死刑のイメージの比較社会学(藤田弘夫). Ⅲ 非中国的視座に立って 第9章 古代インドにおける死刑 −サンスクリット文献に見える刑罰の分析を通じて(赤松明彦). 第10章 ムルキ・アイン(MulukiAin) −ネパールの法典と死刑(ホーカン・ヴオルケスト). 第11章 死刑と朝鮮の法的伝統(スタフアン・ローゼン). 死刑存廃論議の門口に仔んで 一総括に代えて(富谷至). 本書は,タイトルに「東アジア」とあり,第七草で触れられるほかは欧米と日本は基本的に対象から外さ. −ご(1.

(8) 復讐・暴力・死刑. れている。二つのArticleも含めて計一三の論考のうち,六件が中国,三件が朝鮮の専論で,言及するとこ ろも含めれば,相当な割合を中国と朝鮮で占めていることになる。もちろん,そのことは本書の欠点ではな いことは誤解のないように明言しておく。 本書の目的は,編者の富谷至氏によれば,「実証的学術論文として,死刑廃止,存続,そのどちらの立場 もあえて主張せず,死刑存廃の議論に供する一学術資料と価値づける」(506ページ)ことにあるという。そ のコンセプトは全編を通して確かに貫徹されており,統一感を保っている。総計550ページを超える巨冊に して,内容の充実もまた立派な成果と言えよう。 先の『暴力の地平を超えて』についてと同様,個別の論考について論評する能力・資格は私にはない。こ れらの論考を拝読し,多くのことを勉強させていただいた立場にすぎない。にもかかわらず,先に記したよ うな私個人の問題意識からすれば,次のような不満をどうしても抱いてしまう。 第一の不満は,本書に収められた諸論考の多くは,国家の刑罰制度としての死刑を扱ったものである,と いうことである。どの地域に,いつ頃の時代(王朝)に,どういう法律に基づいて,どういう犯罪を行った 者を死刑にしたか,という歴史的事実についての検討としては,本書の精微な諸論考は多くのことを教えて くれる。制度史としては充実した成果である。しかし,もし死刑の問題に踏み込むならば,当該犯罪者の罪 のいかなる部分がなにゆえ死に催するのか,彼を死刑にすることでこの世界の何が守られるのか,という意 識・価値観・考え方の問題こそ是非検討していただきたい,と願うのである。編者が言うように「今後の東 アジアの死刑存廃を考えるうえでの基礎資料」(iiiページ)をめざすのであれば,やはりこの点を深く追究 する必要があろう。 第二の不満は,死刑を宣告し実施するにあたって,国家の側がいかなる配慮をしたか,また死刑に関して 何らかの問題点を認識したか,という問題が追究されていないことである。現実に発生した多種多様な事件 を裁くにあたって,担当の官が深ぐ悩み,明確な結論を出せぬまま上級に報告しているケースが多々あった. ことは,先学の研究にすでに紹介されているとおりである(8)。また,拙著においても,「Ⅳ 官の対応」に おいて,復讐事案にどう対処するかについて議論した若干の例を紹介しておいた。法の規定通りに裁いて死 刑を宣告して何の問題もないところ,死刑を言い渡すことにためらい,果ては何とか死刑を回避しようとし て苦慮する(場合によっては苦慮すらしない),というケースがあるのである。死刑の運用にあたってこう いう側面があったことは,大変重要なことではないかと思う。 第三の不満は,第一の不満と重なるが,死刑を定め執行する側については触れられているけれども,一般 の人々が死刑についてどのように考えていたのかについての追究が少ないことである。この点に触れたのは. 伊藤論文のみであろう(9)。死刑にされることがありうる立場,また死刑を見物する立場としての,一般の人々 の「死刑観」が取り上げられていないことは,死刑に関する問題点の摘出のためには不充分である。たとえ ば魯迅の『阿Q正伝』のラストにおいて,一般民衆の死刑に対する見方が鮮やかに描かれているように思う が,一般の人々の死刑に対する考え方の中に,死刑の存続や廃止について考えるための重要な論点があるの. ではないか,と予想される(10)。 以上,本書に対する私としての不満を言い換えてみると,死刑の意味,死刑の運用,死刑への眼差し,と いう三点について答えてくれていない,ということになる。私自身,今後検討を試みたいが,その場合にも, 復讐事案がどのように見られ扱われてきたかということがヒントを与えてくれるように思う。復讐は殺人行 為なわけであるから,法律を杓子定規に適用すれば何の悩みもなく死刑に処してよいはずなのに,官はでき うる限り無罪を求め賞賛までしようとした。道徳的に容認される殺人が存在すること,法の機械的運用は最 善ではないこと,法は社会的に認知される正義を実現せねばならないこと,といった考え方があったことが, 復讐をめぐる検討から浮かび上がってきたように私には思われるのである。. 21.

(9) 竹 内 康 括. 四 復讐・暴力・死刑. 私が拙著で問いかけようとしたことを,歴史学的な課題としてあらためてまとめてみよう(11)。 私が追究しようとしたのは,前著『「生き方」の中国史』に引き続き,伝統中国における価値観・人生観・ 世界観の問題である。そしてそれを一つの材料として,現代および未来をどのように作っていくかという現 代人としてのわれわれの課題の確認である。 拙著においては,特に人間理解,特に自己の存在をめぐる,伝統中国の人間の理解の仕方について確認し, 凄惨なる復讐もそれに基づくものなのだということを明らかにした。復讐は,悔しさとか怒りとか,一過性 の感情にまかせた行いではない。それは人間存在の根源的な部分に関わる,重要な認識を踏まえたものであっ た。こうした根源的認識については前著において論じておいたが,さらに具体的な材料を収集して,いっそ う明確にしておきたく思う。特に,行動様式にそれがどう反映しているかについて,検討を続けたい。 次に,暴力の問題については,拙著においては事件の凄惨さを横和させるためにいささか戯画的な描写を してしまったので,復讐事案にとどまらず,さまざまな事例を収集して考えてみたい。まずは,一般的な「暴 力観」を追究しておきたい。拙著は復讐事案を扱ったが,復讐があるからにはその発端となった事件が必ず あるわけであり,しかもその事件は家族の死など人命に関わったケースが多い。復讐は確かに「暴力の連鎖」 なのであって,復讐事件が多いことは基本的に暴力そのものが多いことを示している。まして,官による正 当な裁きがなされなかったことから復讐が始まるケースが多いわけである。すなわち,引き起こされる暴力 事件,それが解決されないという不当な状態(暴力の事実上の放置容認),こうした状況下で人々の中に暴 力に対してどのような意識が形成されていったのかを探りたいと思う。そこで,先にも触れたように,権威 を振りかざす「官」の暴力,乱暴者による野放図な暴力,家庭内における暴力,といった,生活内の実体験 の中で経験する不当な暴力を取り上げる必要があると思う。一般的な「暴力観」はそういう中においてこそ 形成されると思われるからである。従来の研究が多く扱ってきたのは,現代人(現代日本人)の目から見て. 一見異様な暴力行為であるケースが多かったと思われる(12)。それらは当該時代にあっては「暴力」とは認 識されていなかったかもしれないのであって,例えば,よくある孝子説話ですら,表面上ひどく暴力的であ. ることが特徴的である(13)。当事者同士の関係を踏まえて成り立っている(肯定される)暴力,はじめから 暴力とすらみなされない暴力,も存在したわけであり,用語も含めて,一層資料を集めて検討を行いたい。 なお,資料的には困難を極めると予想されるので,小説の類も大いに参照する必要があろう。例えば,『水 許伝』は,権威をかさに着た官の暴力と,相手の殺傷をものともせずに噴出する民の暴力とが,全編に溢れ ている。検討に催する素材であろう。 そして死刑の問題は,社会のありようと深く関わって論じられねばならないことも,自覚されねばならな い。例えば,近代日本の貧困に関する書物が数多く著されているが,それらを読むと,貧困にあえぐ層がい かに簡単に犯罪に手を染めるかということが,重い事実として突きつけられてくる。「生きる」という必要 性の前には,自分の行為が「違法」「犯罪」であるという認識は何の抑止力にもならない。殺人という露骨 な暴力も,およそ道徳的に顧みられることはない。死刑の問題も,そういう社会の状況と関係させて考えな ければならない。そして上の「暴力観」を踏まえた上で,死刑についても考察せねばならない。親不孝者に 死刑を適用した,伝統中国の法制度や道徳はどのように評価しうるものか,前著『「生き方」の中国史』で は特に踏み込まなかったのであるが,引き続き,考察してゆきたい。. ?2.

(10) 復讐・暴力・死刑. おわりに. 拙著の上梓に際し,本のコンセプトの上から書中には明記できなかったところなどを,あらためて記して みた。また,近年の注目すべき業績を紹介し,私なりの若干の不満を記すことによって,今後の課題を明ら かにしてみた。取り上げた二著はいずれも有益な研究であり,本稿で述べたことのうちに誤解や失礼があれ ば,それはまことに私としても不本意であるのでお詫びを申し上げたい。拙著および本稿でとりあげた問題 に関する今後の課題を明らかにし,深く追究を進めることによって,罪を償うこととしたい。. 復讐は,時代や地域を問わず,人類の歴史に普遍的に見られる現象である。それは現代においても何ら変 わるところはない。仮に復讐事件は少なくなったにせよ,′ト説や映画,テレビドラマなどで復讐ものは相変. わらず量産され続け,復讐者の心情に我々がなにがしかの共感を抱く限りにおいて,復讐は現代人にとって も無縁のものではない。上に述べた課題にこたえるべく,引き続き,検討を行うこととしたい。. 注 (1)大修館書店,2009年7月1日,Ⅴ這i+199ページ。 (2)竹内康浩『「生き方」の中国史』(岩波書店,2005年6月)に,だいたいの考えをまとめておいた。 (3)例えば,日本でも近年数多く紹介される韓国映画には,実に暴力的な描写が多い。軍隊・警察・学校といった組織はもと より,民間人同士の暴力行使も枚挙に暇がない。韓国刑事政策研究院の調査によると,「対話や法で解決できないことが暴 力で解決できるケースが多いとみるか」という質問に対し,37.5%が肯定的に答え,「そうでもない」というやや曖昧な答 えは34.4%,完全に否定的な答えは28.1%であったという。研究陣は,「暴力が必要だと認める程度よりかなり高い水準で, 実際に効果があると認識している。韓国社会では,いまだ暴力が『効率的な』生活の方法であり手段になっている」と指摘. した,という(インターネットYAHOOニュース,2009年2月12日配信。ソウル聯合ニュース)。韓国映画における暴力に ついては,誰でもが見られるテレビドラマとの差異化のため,敢えて描写を激しくしているとの指摘もあるが,それにして も,この調査結果に表れた意識と全く無縁であるとは思われない。また,オランダの映画監督であるポール・ヴァーホーベ ンは「ロボコップ」や「スターシップ・トゥルーパーズ」などの作品での過激なヴァイオレンスシーン描写で有名であるが, 幼少期にナチス占領下で見た多くの残虐な行為がそうした描写を生みだす基礎であるかもしれない,とインタビューで述べ. ていたのを記憶する。 (4)但し,「Ⅳ 官の対応」において,死州に処すべきか密かをめぐる朝廷の議論を紹介することで,間組の一端に触れては いる。. (5)歴史の立場からは,山内進・加藤博・新田一郎編『暴力 比較文明史的考察』(東京人学出版会,2005年)が,文化人類 学方面ではもっと前に,田中雅一編著『暴力の文化人類学』(京都大学学術出版会,1998年)が出版されている。個別論文 に至っては,大変に数が多く,枚挙の蓮がない。 (6)こうした観点において,「軽生図頼考」(『史朋』27,1995年)をはじめとする,図頼を扱った三木聡氏の一連の研究は,. すこぶる意義深いものであると思う。 (7)いまさらと言われるかもしれないが,ヨーロッパ中世のシャリヴァリなどを取り上げた論考も,あってよかったのではな いか。また,山内進『略奪の法観念史』(東京大学出版会,1993年)のような業績も,引き継がれてよいように思う。なお, 注(5)に掲げた山内ら編『暴力 比較文明史的考察』は,時代や地域はさらに広がり,大変に優れた示唆するところの多い論 考を載せているものの,全体はここに指摘したような本書とほぼ似たような傾向になっている。 (8)裁判の具体的な事例を取り上げて,詳細な検討を加えた,中村茂夫『晴代刑法研究』(東京大学出版会,1973年)や,滋 賀秀三『晴代中国の法と裁判』(創文社,1984年)は,素晴らしい成果である。また,「権利と冤抑」(『法学』61−5,1997 年)など,寺田浩明氏の諸論考も同様に大いに参考となる。こうした法の定めと現実との乳轢・調整を追究した論考が盛り. 込まれなかったのは何故であろうか。 (9)伊藤氏の論文は,大変に示唆するところの多い,優れた論文であると思う。なお,ベント・ペテルソン氏の文も,若干こ の間題に近いように見えるものの,いかんせん,内容が粗雑に過ぎる。 (1¢)水林彪編『新体系日本史 2 法社会史』(山川出版社,2001年)の,Ⅳ 明治の3章,「明治時代の罪と罰」(岩谷十郎) は大変に参考になる。また,村井敏邦『民衆から見た罪と罰』(花伝社,2005年)は,実際には法制度を定めた側の話が内. 23.

(11) 竹 内 康 浩 容の中心であるけれども,民衆側の視点については近代の部分に示唆するところが多い。なお,オリバー・ムーア氏による 本書第6章「中国の前近代絵入り史話における死刑と暴力の図像」は,大変に興味深い素材を扱っていて,もし,絵入り史 話本の受容史に話が及んでいれば,この間越に踏み込めていたのに,と思う。 (川 本論で取り上げた書物や注(5)に掲げた書物においても,ベンヤミンヤアレントなど,歴史学以外の分野の成果に言及して いる論文が多い。個別論文の「完成(完結)度」としてはそれらの援用で高まるようにも見えるのだが,そうすると,それ らの理論に沿う形で例を挙げた追加検証か,あるいはせっかくの具体的事例の検討結果を置き去りにした一般化か,どちら かになってしまって,歴史学の本領を発揮した成果にならなくなっているように,私には見える。豊富な実例を提供し歴史 的に検証する,まず禁欲的にその作業に集中してはどうだろうか。なお,拙著は,アマゾンでは「文学・評論>古典>中国 の古典」として分類され,また『北海道新聞』では「中国思想の入門」と紹介された。どうも,拙著の扱った内容は,歴史. 学の分野には人らないというように見られているようである。拙著の扱った問題はまさしく「歴史」の範疇であると確信す る著者白身としては,甚だ不本意である。 (1勿 注(5)の山内ら編『暴力 比較文明史的考察』においても,フェーデや武家法が検討されており,論考としては有益な成果 であるけれども,やはり,結局それらは「今から見ると暴力だが,当時にあっては“正当な”行為」という前碇ないし結論 になりはすまいか。暴力観,暴力に対する意識,ということでは,いささか違う範疇に属するのでは,という疑問を禁じ待 ない。また同じく注(5)の田中編著『暴力の文化人類学』では,異民族の習俗に対して,やはり現代人(現代日本人)からの. 眼差しが強いように思う。 (13)『二十四孝』においても幼児虐待,果ては幼児殺害(未遂)まで見られることは周知であろう。付言すると,『二十四孝』 の中に(諸版はあるが),子が出世して親に何不自由ない暮らしをさせたという話が皆無であることは注意しなければなら ない。そうした実現可能性の薄い話では,庶民にとっての努力目標としての「孝」の実践モデルにはならない。貧困者でも できるようなモデルでなければならない。過剰なまでの自己犠牲と痛ましさが要求される,これも一つの「暴力」である。 なお,拙著の「Ⅳ 官の対応」の末尾において言及しておいたように,同じ一族の間ですら復讐事件は起こっている。暴力. のあり方は多様であるといわねばならない。. (釧路校教授). ?4.

(12)

参照

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