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1814年~1815年のウィーン会議と音楽 : 演奏会と教会音楽演奏(続) 利用統計を見る

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(1)1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽- 演奏会と教会音楽演奏(続) The Congress of Vienna and Music (1814-1815): Concerts and Church Music Performances, part 2 ジェラルド・グローマー Gerald GROEMER. 山梨大学教育学部紀要 第 28 号 2018 年度抜刷.

(2) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号 pp.181-196. 1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽- 演奏会と教会音楽演奏(続) The Congress of Vienna and Music (1814-1815): Concerts and Church Music Performances, part 2 ジェラルド・グローマー Gerald GROEMER 複数の役割を兼ねた公共施設における音楽会 45 代表的なものとして、王宮附属の冬季 コンサート会場として、政府運営の公共施設も使用された。. 乗馬学校があげられる。その演奏会利用の発端は、設立されたばかりの楽友協会によるヘンデル作曲 のオラトリオ『ティモテーウス』の上演で、1812 年 11 月 29 日に行われ、その後多くの音楽演奏がここ 46 慈善目的の豪華な営みであったため、1815 年にオーストリア皇帝フランツ1世は楽友 で開催された。 47 ウィーン会議開催中に楽友協会もい 協会に年に2回、冬季乗馬学校の定期的使用を正式に許可した。. くつかの乗馬学校における大人数での演奏会を企画し、1814 年 10 月 16 日にはヘンデル作曲のオラトリ オ『サムソン』が、1815 年4月 20 日と 23 日には『メサイア』が舞台にかけられた。両演奏は大成功を 収め、『サムソン』の本番2日前のゲネプロにでさえ音楽ファンが殺到し、拍手が止まないために合唱 48 曲を繰り返し演奏しなければならなかったほどであった。. 冬季乗馬学校に隣接する大小の仮面舞踏会ホールにも複数の音楽演奏会が開かれた。1833 年の報告 によると小ホール(kleiner Redoutensaal)は約 248 平米を占め、大ホール(großer Redoutensaal)は約 696 49 小ホールは主に外国からやってきたソリストが愛用したが、ウィーン会議開催 平米の広さであった。. 中には多種多様なコンサートが次から次へと催された。 大ホールはベートーヴェンが 1814 年 11 月 29 日を借りあげ、すでに数回延期された大音楽会がようや く行なわれた。プログラムは 1813 年 12 月8日にウィーン大学の大ホールで行われた、負傷兵支援のた めの慈善興行で初演された交響曲第7番(op. 92)と交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦 い』(Wellingtons Sieg oder die Schlacht bei Vittoria, op. 91)の再演であった。50 それに加えてベートーヴェ ンがウィーン会議のチャンスを狙って作曲したカンタータ『栄光の瞬間』(Der glorreiche Augenblick, op. 136)もプログラムに載った。この作品には医師の A. ワイセンバッハ博士(Aloys Weissenbach, 1766 年~1821 年)が作詞した、新時代の幕開けを予告するテキストが採用された。歌詞はウィーンに集結 した国家君主たちの業績と名誉を賞賛し、ウィーンという都市の栄光を褒め称え、最後に民衆が経験 51 ウィーンを訪れたドイツの大手著名出版社の息子であった C. ベルトゥフ している恵みに感謝した。. (Carl Bertuch, 1777 年~1815 年)はこの大演奏会に出席し、手記にそのプログラムの詳細を次のように 記録している。52 11 月 29 日火曜日 昼の 12 時、2回も延期されたベートーヴェンの演奏会が行われた。 1. 新作の交響曲。豊かさと明快さを特徴とし、音楽の分野を充実させる素晴らしい作品であ る。 2. カンタータ。歌詞は非常に平凡であり、特別の時のために作られた他の詩の多くと同様、単 に多数の君主たちがウィーンに集まっていることを内容としている。音楽としては立派であ - 181 -.

(3) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号. る。合唱曲が挿入されたブシーナ [ママ] の歌とマイセーダーによる [ヴァイオリンの] オブ リガート演奏は素晴らしかった。53 [ 歌手は ] ボンドラ(Anna Bondra, 1798 年~1836 年)と ミルダー(Anna Milder-Hauptmann, 1785 年~1838 年)、フォルティ(Anton Forti, 1790 年~ 1859 年)とウィルド(Franz Wild, 1791 年~1806 年)である。 3. 『ビトリアの戦い』。これは [ ウェリントンの ] 性格を描く大胆な音楽的肖像画である。次第 に近づくドラムの音から始まり、引き続き「統べよ、ブリタニア」 (“Rule Britannia”)のファ ンファーレ、戦いの爆音を含む戦闘自体、最後に散発的な大砲の音が微かに聞こえるなか で静まりかえり、そして「国王陛下万歳」 (“God Save the King”)。第2部は勝利の交響曲。 ベートーヴェンの独特な指揮で上演された。彼にとって外界は狭すぎ、作品では新味を追求 している。伸びあがったり縮こまったりすることで、体格が大きくなったり小さくなったり している。 最高位の君主たちからはアレクサンドル皇帝と皇帝妃、ロシアの両大公妃、プロイセン国王 彼は第1部だけを聴いたが シチリアの王子(レオポルド)が出席し、ホールは超満員であっ た。54 この興行が大評判となり、同年 12 月2日に再演された。大きな喝采はあったものの、ホールの半分 は空席であった。それでも同年 12 月 25 日にはサンクト・マルクス病院の支援のため、三度目の演奏が 行われた。すでに頂点に達していたベートーヴェンの国内の評判は国際的にも不動なもとなった。 演 奏 者 が 選 好 し て 利 用 し た も う ひ と つ の 公 共 施 設 は、1848 年 ま で ニ ー ダ ー エ ス タ ラ イ ヒ (Niederösterreich)のあらゆる身分の代表者が重要議題を議論するために使われた会議場であった 55 1870年に建てられた楽友協会の大ホー (Niederösterreichisches Landeshaus, 現在の1区Herrengasse 13)。. ルよりも少し広く、堂々した入口には2つの階段があり、音響もよいという評判であった。しかし、 暖房施設が完備されていないことが大きな欠点であった。56 このホールは国内外の演奏者が比較的簡単 に借りることができ、ウィーンで多くの弟子を育てたピアノ教師の M. クンツ(Michael Kunz)と彼と の関係が定かでないグリアシュ(Gulyas)夫人は 1814 年 10 月 30 日に教え子のお浚い会を兼ねた演奏会 を開き、20 台のピアノに編曲されたベートーヴェンの交響曲からの楽章を披露した。他にもこの際に 出演したウィーン在住の一流の演奏家や歌手たちは、バラエティーに富む曲を発表した。このイベン トもウィーン中に話題となり、11 月1日に再演された。 企業とホテルにおける演奏会 以上述べた冬季乗馬学校と仮面舞踏会ホールなどは営利目的では建設・運営されていないものの、 演奏会を開くには高額の借用料を支払う必要があった。一方、当初から企業収益と宣伝効果のため に設けられたホールもウィーンに数箇所存在し、そこにも多種の演奏会がしばしば開らかれた。その 代表的な施設のひとつは 1794 年ドイツからウィーンに移住し 1802 年にウンガルガッセ(現在の3区 Ungargasse 46)でピアノ工房を営んだピアノ教師で作曲家の J. A. シュトライヒャー(Johann Andreas Streicher, 1761 年~1833 年)が創立・運営したホールであった。シュトライヒャー社の経営責任者は彼 の妻ナネット(Nanette、旧姓 Anna Maria Stein, 1769 年~1833 年)であった。彼女はピアニスト、歌手、 作曲家として活躍し、ベートーヴェンなどウィーン在住の名だたる作曲家や演奏者と深い友情の絆で 結ばれていた。1812 年シュトライヒャー夫妻は自宅の敷地内に豪奢なコンサートホールを建設し、自 57 ウィーン会議開催中 社のピアノの優れた質はもちろん、弟子の華々しい育成ぶりを聴衆に紹介した。. には、1815 年1月 23 日、2月 23 日、3月 17 日などに演奏会が開かれ、会議の参加者の多くが参集した。 58 2月 23 日のコンサートの様子は、ベルトゥフの日記に記録されている。. - 182 -.

(4) 1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽-. (ジェラルド・グローマー). 無料の招待券をもらったこともあり、午前 11 時に馬車でウンガルガッセのシュトライヒャー邸に赴 き、そこでは 11 時から2時頃まで素晴らしい演奏会が開かれた。綺麗なホールには過去の偉大な作 曲家たちと音楽愛好家の胸像が飾られた。まずシュトライヒャー氏とハーン嬢(Fräulein Hahn)は 2台のピアノのための二重協奏曲を演奏した。59 この協奏曲はプロイセンのルイ王子(Prinz Louis Ferdinand von Preussen, 1772 年~1806 年)による情熱に溢れる作品である。続いてアポニー伯爵夫人 (Gräfin Apponyi) 旧姓ノガレラ(Nogarella、正しくはノガロラ [Nogarola]) は、イタリアの アリアを心から、しかも非常に趣味よく歌唱した。次に若いフルート奏者が曲を演奏し、そしてメ ジャン夫人(Fr. v. Mejan) 旧姓シュピールマン男爵の娘(Baronin Spielmann) はある変奏曲を ピアノでとても技巧的に奏でた。その後、ゴボー嬢(Fräulein Gobeau)は声が少し揺れながらまた過 60 剰な装飾を施しながらあるアリアを披露した。. 出席者はえり抜かれた仲間であり、マリア大公妃(Maria Pawlowa Romanowa, 1786 年~1859 年)、 61 ビュッケブルク伯爵(Graf Bückeburg)、カスカート卿(Lord Cathcart)などが参会した。. 喫茶店(カフェーハウス)、料理屋、宿泊施設などに開催された演奏会も経営に直結した。62 雄大な 公園と遊楽地であったプラーター(Prater)には、軍楽、オーケストラ曲、ダンス音楽などを客に提供 する企業が軒を並べ、なかでもベンコ(Benko)と名乗る者が 1808 年以降営んだカフェーハウス(1811 年以降には料理も販売した)が広く知られていた。ベンコが経営したのは「第一のカフェーハウス」 (“Erste Kaffeehaus,” 現在の2区 Volksprater にあった)と呼ばれ、「大きな雨傘」(日除け傘を兼ねたか) 63 夏には毎週火曜日午前8時からシュッパンツィク監督の で覆われた舞台は 31 のテーブルに囲まれた。. コンサートがここにも開かれ、あるいはベートーヴェンが 1814 年4月に自作の三重奏曲『大公』(op. 64 シュッパンツィクはこ 97)をここで聴衆に紹介し、ピアニストとしてのキャリアに終止符を打った。. の演奏会場を好んだようで、1815 年5月9日からは8回の午前8時に始まる連続演奏会をここで主催 し、シリーズ全体の入場料は 10fl. であった。弦楽四重奏曲はもちろん、様々な器楽曲が演奏された。 この時代に個人の音楽家が最も容易に借りることができた演奏会場は、フライウング(Freyung、現 在の1区の Renngasse 1 周辺)にあったホテル「ツム・レーミシェン・カイザー」(“Zum römischen Kaiser”)のホールであった。65 ここは舞踏会場としても広く知られていた。1815 年5月7日に J. ベッ カース(Joseph Beckers)がこのホテルの「小ホール」を利用し演奏会を開催した記録から、少なくと も大小2つのホールがあったことが明らかとなっている。演奏者の大半は小ホールを利用したと思わ れるが、1814 年3月にはベートーヴェンのオラトリオ『オリーヴ山のキリスト』(Christus am Oelberge, op. 85)が演奏された際、おそらく大ホールが会場となったであろう。ツム・レーミシェン・カイザー の経営者は E. エッピンガー(Emanuel Eppinger, 1768 年~1846 年)であり、1815 年3月5日彼がこの ホテルで負傷兵支援のための慈善興行を主催・企画し、ベートーヴェンが再度同作品を指揮した。寄 付興行であったので、入場料はやや高価な 3fl. が求められ、聴衆は貴族と富裕層を中心としたであろ う。それとは別に、一覧表からも分かるように、ウィーン会議開催中には 11 回の演奏会がツム・レー ミシェン・カイザーで営まれた。そのうち 7 回は日曜日のコンサートで、通常正午の開演であった。 潤沢な資金を持ち、娯楽を求める国内外の会議の代表者などの出席を見込んで、クラリネットの大家 であった J. S. ヘルムシュテット(Johann Simon Hermstedt, 1778 年~1846 年)をはじめ、ウィーンの室 内楽界に君臨するシュッパンツィクと彼が率いる弦楽四重奏団、名フルート奏者の R. ドレッスラー (Raphael Dressler, 1784 年~1835 年)がこのホールに登場した。またメトロノームの発明家として知ら れる J. メルツェル(Johann Mälzel, 1772 年~1838 年)の弟であり、ピアニストとオルフェウス・ハルモ ニー(Orpheus-Harmonie)という6オクターヴの鍵盤楽器の発明家としても注目された L. メルツェル 66 そしてフンメルの弟子で神童として一時世を騒がせたピアニス (Leonhard Mälzel, 1783 年~1855 年)、. - 183 -.

(5) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号. トの J. サライ(Joseph v. Szálay, 1800 年67~1860 年)など、ヨーロッパの著名な演奏家は皆ツム・レーミ シェン・カイザーを利用し持ち前の芸を聴衆に披露した。また J. メルツェルが発明した自動演奏機の 「オルケストリオン」(Orchestrion)のデモンストレーションもこのホテルで行われ、当時流行したオペ 68 なお、ダンスが教会によって禁じられた四旬節 ラの序曲などで好奇心旺盛な聴衆にあっと言わせた。. の時期に娯楽を求めるウィーンの市民は 1812 年以降、毎週火曜日にツム・レーミシェン・カイザーで 音楽演奏、遊戯、会話などを促進する「再会」(“Reunion”)という集いを発足したが、具体的な演奏会 に関する情報は見つかっていない。69 ツム・レーミシェン・カイザーのホールで演奏会を開催するためには、様々の煩瑣な準備を要した。 まず演奏者はエッピンガーと賃貸借契約を結び、賃貸料を払い、そして序曲と協奏曲の伴奏などに不 可欠なオーケストラを結成し、共演者と交渉し、広告を印刷したり予告を新聞に掲載したりし、招待 券をばらまくことは通常のプロセスであった。この時代には入場券はまだ通常は演奏者自身が自宅で 販売し、会場には切符売り場などが設けられていなかった。入場券の値段設定も大事であり、中流階 級の一日の収入が 1fl. ~ 3fl. であった時代には、高価な入場料を徴収することが困難であった。70 寄付興 行であれば、貴族階級と都市の富裕層がそれを支持するため高い入場料を徴収することが可能で、例 えば楽友協会はヘンデルのオラトリオ『ティモテーウス』が上演された際には 5fl. から 6fl. を求めた。 あるいは以上に述べた 1813 年 12 月8日(同月 12 日に再演)のベートーヴェンがウィーン大学の大ホー ルにおいて『ウェリントンの勝利』を含むコンサートを開催した際にも入場料は高額な 5fl. もしくは 71 しかし、自主的にコンサートを開く場合はパ 10fl. が請求され、慈善の目的で 4000fl. 以上が集まった。. ガニーニやリストなど絶大な人気を誇る演奏者でないかぎり、採算が合わないことが多かった。実は ベートーヴェンでさえ黒字を出すために苦戦を強いられた。1814 年 11 月から12 月に主催したコンサー トの場合、作曲家の友人たちの多くがオーケストラ団員として務めたにもかかわらず、イベントの総 費用が巨額の 5108fl. にまで膨らんだ。ロシア皇帝妃が 200fl. を寄付していなければ、赤字となったよう である。新聞には「以前にも演奏会から利益を得ておらず、純粋な芸術熱で行った」と報道されてい 72 正確な収支報告は現存しないため詳細は不明であるが、A. シンドラー(Anton Schindler, 1795 年~ る。. 1864 年)の伝記によれば、ベートーヴェンの新曲『栄光の瞬間』のパート譜の作成だけでも 367fl. 以上 73 ホールの借用、プロのオーケストラ団員の雇用、様々な雑費などが重なり、大きな利益 がかかった。. を出すのは難しいことが容易に想像される。 貴族と富裕層主催の演奏会とサロン 一覧表を見れば、会議が正式に開催された7ヶ月の間には、世俗的な一般公開された演奏会はそれ ほど頻繁に行われておらず、ひと月に約5~6回であった。しかし、コンサートは毎日毎晩開かれた と会議の目撃者が語っている。この矛盾の秘密は 18 世紀末年ウィーンを訪れた教師・作家であった C. キュットナー(Carl Küttner, 1755 年~1805 年)の残した記録が解決の鍵を与えてくれる。彼いわく、 ウィーンにはたしかに多くの国内外の演奏者がたびたび劇場と諸ホールにて演奏会を開いているが、 「さらに多くの演奏会は私的なものであり、ウィーンでよい人脈をもつ者はだれも容易に参加できる」 74 教会音楽でさえ私宅で行われた演奏会で発表されていた。例えばミヒャエル・ハイ と説明している。. ドンとヨーゼフ・ハイドン両人の弟子で、パリで名外交官のタレーランに仕えた作曲家の S. ノイコム (Sigismund Neukomm, 1778 年~ 1858 年)の宗教曲『悲しみの聖母』(Stabat mater)は、1814 年3月 24 日にミノリーテン教会で公開の初演を経験するが、実はそれ以前に、法学・統計学のツィーツィウス 教授(Johann Nepomuk Zizius, 1772 年~ 1824 年)の自宅で聴衆に紹介された作品であった。75 社会的・文化的な優越性の象徴であった私的な演奏会の開催は、当然主に上流社会に支持された。 シュワルツェンベルク(Schwarzenberg)、リヒノフスキー(Lichnowsky)、ロプコヴィッツ(Lobkowitz)、 - 184 -.

(6) 1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽-. (ジェラルド・グローマー). キンスキー(Kinsky)、エステルハージー(Esterházy)などウィーン在住の諸侯は競ってヨーロッパの 名高い演奏家と作曲家を召し抱え、ロプコヴィッツ公は宮殿において専属のオーケストラを配置した ほどである。豪商なども貴族の趣味を真似て、音楽演奏を通して家の文化的水準の高さを社会に示し た。1805 年4月7日アン・デア・ウィーン劇場で一般聴衆に紹介されたベートーヴェンの『英雄交響 曲』が早くも 1805 年1月 23 日、ロプコヴィッツ公の宮殿で演奏されたことはよく知られているが、実 はその3日前には問屋と銀行を営む A. フェルナー男爵(Andreas Freyherr von Fellner, 1750 年~1819 年) とその娘婿の J. ヴュルト(Joseph Würth)の家において、厳選された聴衆向けにはすでに発表されてい た。76 フェルナー邸では毎週日曜日の午前中に音楽愛好家が参集し、管弦楽作品を中心に演奏の楽しみ を満喫した。77 ウィーン会議の最中の 1815 年1月 27 日にも、演劇と歌劇界に大きな影響力を持つパルフィ伯爵 (Ferdinánd Pálffy von Erdöd, 1774 年~1840 年)のヘルナルス(Hernals, 現在の 17 区)にあった別荘にて 豪華なコンサートが開かれた。パルフィ邸では伯爵自身が収集した多くの絵画も展示され、来賓には 78 現存しない I. モシェレスの日記によれば、その冬にはパルフィ伯爵邸では 贅沢な晩餐が提供された。. 6つの「夜の音楽会」(Nacht-musiken)が催された。79 演奏会に登場した音楽家は揃ってその分野の名 手で、バリトンの A. フォルティをはじめ数々のスター歌手が登場し、クラリネットの J. フリードロフ スキー(Joseph Friedlowsky, 1777 年~1859 年)、ケルントナートーア劇場のカペルマイスターを勤めた ヴィオリン奏者・作曲家の F. ペハーチェック、ピアノ伴奏は『フィデリオ』の初演を指揮した作曲家 の I. フォン・サイフリード(Ignaz v. Seyfried, 1776 年~1841 年)、ピアノ独奏と室内楽ではモシェレスと J. N. フンメル、ギターのM. ジュリアーニ(Mauro Giuliani, 1781年~1829年)、ヴァイオリンのマイセー ダー、チェロのJ. メルク(Joseph Merk, またはMerck, 1795年~ 1852年)、ホルンのラデツキー(Radezki, 生没年不詳)などが参加した。モシェレスとマイセーダーを含む楽団がベートーヴェンの『フィデリ オ』の序曲の編曲版を演奏し、モシェレスとラデツキーもベートーヴェンのホルンソナタ(op. 17)を 披露し、あるいは、高いレベルの音楽の理解力と集中力を要しない上流階級が好むメドレーも聴かせ た。その他、オペラからのアリアと重唱、ペハーチェックがロシア皇帝の出席の機会に乗じて作曲し たと思われるロシアのテーマによる変奏曲、サイフリードが作曲したアレクサンドル皇帝のお気に召 すポロネーズによる四重唱などもプログラムを飾った。休憩時間には庭においてヨーデルが響き(即 席の演奏か)、招待客は楽しい夕食のひとときを過ごした。出席した聴衆にはロシアのアレクサンドル 皇帝とプロイセン国王、バイエルンの王子ルードヴィグ1世(Ludwig Karl August, 1786 年~1868 年)、 ヴュルテンブルク王子のウィルヘルム1世(Friedrich Wilhelm Carl, 1781 年~1864 年)、バーデンの カール大公爵(Karl Ludwig Friedrich, 1786 年~ 1818 年)、イタリアのウジェーヌ副王(Eugène-Rose de Beauharnais, 1781 年~1824 年)、諸国の大臣とその夫人など錚々たる顔ぶれであった。 貴族に引けをとらない経済力を持つ市民も、その大邸宅で演奏会を開いた。例えば 1787 年にウィー ン有数の銀行を創立し、オーストリア皇帝に厚く信頼された B. エスケレス(Bernhard von Eskeles, 1753 年~1839年)とその義弟のN. A. アルンシュタイン(Nathan Adam Freiherr von Arnstein, 1748年~1838年) はメールグルーベ付近(Mehlgrube, 現在の1区の Dorotheergasse 11 にある Palais Eskeles)に立派な建物 を所有し、長期にわたり大きく注目されたサロン・コンサートを催した。ウィーン会議開催中の 1814 年 11 月1日、同年 12 月 13 日、1815 年1月3日などにも定期演奏会がそこで開かれ、それを仕切ってい たのはナポレオンを嫌い、ウィーンの窮民のために募金活動に腐心したファンニー(Fanny)というあ だ名で知られたアルンシュタイン夫人(Franziska von Arnstein, 1758 年~1818 年)であった。アルンシュ タインの客間に会議参加者が集い、舞台裏の交渉を行うかたわら音楽演奏を享楽した。80 会議のため ウィーンに足を運んだフランス人のド・ラ・ガルド伯爵(Comte Auguste de la Garde)によれば、アル ンシュタイン邸の「階段、客間、舞踏会場には彩色と香りを放つ世界各地から採集された様々な珍花 - 185 -.

(7) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号. が飾られ、数千本の蝋燭と鏡、金、絹布があらゆるところで輝いていた。ウィーン以外では聴くこと 81 そして彼は「ウィーンの最 のできない優れた音楽演奏は耳を魅了した」とその光景を描写している。. も気高い方々、会議に影響力を及ぼす者たち全員、外国の傑出したあらゆる人物、諸侯の家の指導者 たちがこのサロンに詰めかけた」と強調している。また、以上にも引用したベルトゥフもこの家を数 回訪れ、演奏会が夜7時~10 時に催されたと記録している。多数の貴族、各国の政府高官と外交官な どが出席した 1814 年 11 月1日の演奏会について彼は次の通り述べている。 夜7時には例のごとくアルンシュタイン邸の演奏会を聴きに行った。そこでいくつかの部屋に無数 の人々が鮨詰め状態となった。洗礼を受けたユダヤ人で大活躍中のマイセーダーはある序曲 [を指 揮し]、それで音楽会が開始された。ベルリンのマイヤベール(Giacomo Meyerbeer, 1791年~ 1864年) は主題と変奏曲をピアノで弾き、両手の技巧の素晴らしさを見せびらかした。そして音色の重厚さ と演奏技法のよさを兼ね備えているファゴット奏者のロムベルク(Anton Romberg, 1771 年~1842 年) は [自作の ?] 四重奏曲のソロを吹いた。演奏会の第2部では [ヘンデル作曲のオラトリオ]『ティ モテーウス』より素人たちがいくつかの合唱曲を見事に演奏し、この曲は [ヘンデル作曲のオラト リオ]『サムソン』よりも大きな聴衆に適していることを示した。演奏会は 10 時頃終わり、その後若 者はダンスを楽しんでいた。この集いには紅茶、レモネード、アーモンドミルク、アイスクリーム、 82 軽い焼き菓子などが提供された。. 1814 年 12 月 13 日に同じ家でベートーヴェンの七重奏曲などが演奏され、翌年の1月3日にはマイ セーダー作曲の四重奏曲、イタリア歌劇からの二重唱、『ヴェネツィアの盲目』というオペラからの抜 粋などがプログラムに載った。83 アルンシュタイン邸では演奏会以外にも来客のための呼び物も用意さ れ、会議の合意が直に得られそうであると噂された 1815 年1月 10 日、ベルトゥフは夜にアルンシュタ イン邸に伺い、200 人のゲストとともに展示されたギリシャの英雄、中国人、インドの塔、平和の神な どの蝋人形を鑑賞した。84 以上ツィーツィウス教授の例にすでにふれたが、他にもウィーンの中流市民の家にて演奏会が開ら かれた。その多くの具体例は弁護士と音楽愛好家として知られ、ベートーヴェンとシューベルトとも 親しかったレオポルド・フォン・ソンライトナー(Leopold von Sonnleithner, 1797 年~1873 年)の懐古 録に見られる。85 彼によれば、昔は市民病院であった建物内(Bürgerspital, 現在 1 区のケルントナー通 り 32-34)にあったホーフェンアデル(Hochenadl)邸という比較的狭いスペースにて、毎年 11 月から 春の復活際の間にアルト歌手として活躍した K. ホーフェンアデル(Katharina Hochenadl, 1785 年または 1786 年~1861)を中心に、日曜日の昼のコンサートが定期的に行われた。毎回多様なソロ曲、室内楽 86 曲、声楽曲、合唱曲、オーケストラ曲、オペラ、オラトリオなどの編曲版がプログラムを飾った。. 枢密顧問官とバス歌手であった I. ソンライトナー(Ignaz von Sonnleithner, 1770 年~1831 年)邸にも 87 1815 年5月から 1824 年に多くの音楽作品が演奏され、彼のホームコンサートも町中の評判となった。. あるいは 1815 年1月8日 12 時から、ベルトゥフは芸術と文学に精通し、大商社を経営するグリプネル (Gripner, 正しくは Krippner)邸に向かい、そこでは冬には毎週日曜日の 12 時から 14 時に音楽と朗読が 各週交互に行われる会が催された。建物は演奏会場としては質素であったが、新進気鋭のピアニスト 88 その他には例えば 1815 年2月5 の I. モシェレスと有名なチェリストの B. ロムベルクも出入りした。. 日にはハールマルクト(Haarmarkt, 現在の Rotenturmstraße と Fleischmarkt 付近)のある家で 12 時から 14 時にピアノ名手のフンメルとフルート奏者の第一人者のドレッスラーなどが当時としてはまだとんで もなく高い 10fl. の入場料を徴収する演奏会を開いた。フンメル自作のピアノ協奏曲などが紹介された 後、フンメルは聴衆から主題を乞い(この場合はピアニストのモシェレスがテーマを提供した)、それ - 186 -.

(8) 1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽-. (ジェラルド・グローマー). 89 によって巧みな即興演奏を展開した。 また 1815 年3月2日以降にもローテントゥルムシュトラーセ. (Rotenturmstraße 733)に住んでいた大商人の I. ローラー(Ignaz Rohrer, 1768 年~1824 年)とヴァイオリ ンとピアノを得意とした2人の息子は、音楽家協会の未亡人・孤児支援のために6回の連続の慈善興 行を行った。フンメル、ジュリアーニ、マイセーダーは最高の演奏技術を要する新曲を耳の肥えた聴 衆に聞かせた。90 当然音楽教師として活躍した者も自宅でコンサートを開き、サロンと音楽教室の広告を兼ねるイ ベントにした。例えば人気絶頂のピアニスト・ピアノ教師であった視覚障害者の M. T. パラディース (Maria Theresia von Paradis, 1759 年~1824 年)も弟子を募るため、また競争によって弟子の向上心を刺 激するためにも降臨節(クリスマス前の4週間)と春の四旬節の間、毎週日曜日に現在1区のラーベ ンシュタイグ(Rabensteig 8)にあった家で昼または夜の音楽会を主催した。弟子のピアノ独奏はもち ろん、様々なジャンルの室内楽、パラディース作曲のピアノ協奏曲(オーケストラが伴奏)などの演 奏に聴衆が耳を傾け、高名な歌手が演奏に参加することもあった。91 教会音楽 キュットナーの説明によれば、ウィーンには公開されている定期演奏会はなかったものの、個別の 音楽演奏会によって音楽文化が栄え「教会でさえこのような娯楽を提供しており、いくつかの教会で は非常に質の高い音楽が演奏されている」。92 やはり教会は宗教的な祭日以外にも、町の音楽文化を育 む役を演じていたようである。市中に散在した無数の教会には通常それぞれの合唱団が附属しており、 団員の大半は素人であった。だからこそ楽友協会がオラトリオの公演を企画した際、数百人の団員か ら成る巨大合唱団が難なく成立したと思われる。 以上の一覧表には新聞、雑誌、日記などに記録されている大きな教会における演奏会も掲載したが、 それに加えて記録が残っていない無数のより小さな教会にも毎週の礼拝などに登場する小合唱団、オ ルガン、小オーケストラなどが設置されており、教会音楽はウィーンの音楽文化の発展の一翼を担っ た。ウィーン会議が開催された時期にも教会における重要な音楽演奏が数回も行われた。まず王宮の チャペルにおいて、サリエーリが指揮する少年合唱団と有名な歌手が加わった演奏が行われ、演目は おそらくミサ曲であったと想像される。他には 1814 年 11 月 19 日の大学教会(Universitätskirche)にお いて、1784 年ヨーゼフ2世によりウィーン総合病院(Allgemeines Krankenhaus)の初代院長に任命され た名医師の J. クワリン(Joseph von Quarin, 1713 年~1814 年)を偲ぶためにモーツァルトの『レクイエ ム』(K. 626)が演奏された。 そして会議開催中の 1815 年1月 21 日には前代未聞の豪華な教会音楽演奏がシュテファン教会で開 催され、その目的は完全に政治的なものであった。1793 年1月 21 日革命広場においてフランスのルイ 16 世はギロチンで斬首刑にされたが、1815 年のその命日に大祭礼が行われた。旧体制とフランスの王 政復古を図る会議の参加者は、このイベントを通して革命は行き過ぎと認識し、レクイエムの上演に よってフランス革命自体が葬られたと考えたであろう。この厳かに執行された巨大儀式のためのレク イエムは、ノイコムが作曲を委嘱された。この上ない名誉ある仕事にノイコムが抜擢された背後には、 おそらくタレーランの暗躍があったと思われる。あるいはフランスで活躍したオーストリア人として ノイコムは両国の友好関係を具現し、そのため適切な人選と考えられたかもしれない。いずれにせよ、 レクイエムの初演の様子は多くの新聞と日記に詳しく紹介され、全ヨーロッパの人々がそれに大きな 関心を寄せたようである。マティアス・ペルトも1月 19 日にシュテファン教会のこのレクイエムのリ ハーサルに出席し、彼によれば、国内外の高位の方々の出席が予想されたため数日前から複雑な準備 93 そして演奏当日に聴衆は赤と青の入場券で振り分けられ、祭礼は午前 11 時からから 13 が進められた。 94 ノイコムの作品の演奏には王宮御用の歌手と 250 人の素人歌手から構成され 時に堂々と執行された。. - 187 -.

(9) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号. た大小2つの合唱団が動員され、大合唱団はサリエーリが指揮を取り、小合唱団はノイコム自身が率 いた。伴奏したのはオルガンと金管楽器のアンサンブルのみであり、オフェルトリウム(奉献唱)に はノイコムの妹が朗々とソプラノ独唱を歌いあげた。95 むすび 素人演奏者と音楽愛好家の役割 以上、1814 年から 1815 年前後のウィーンにおける様々な演奏会について、演奏会場の種別と主催者 の目的とに分けて論じてきた。いうまでもなく、これらの演奏会を検討するにあたっては、それぞれ のプログラム構成という視点から分析することも可能であろう。たとえば、慈善目的の興行や政府主 催のコンサートなどでは、プログラムの「豪華さ」を印象づけるために、大編成の合奏団・合唱団が 登用され、楽器編成や楽曲のジャンルも目まぐるしく変化することも少なくなかった。また営利目的 のコンサートでは、有料来場者の数を可能な限り増やすために、広く知られている旋律のメドレーや、 人気の高いメロディーによる変奏曲・即興演奏や、さらには演奏者の超絶的な技巧を際立たせるため の難曲などがプグラムの中心となった場合が多い。その余波は、ウィーン会議閉会後にも続いていた ようで、1830 年にこの都市を訪れたショパンは、ある書簡の中で「オペラ、歌、踊りがごちゃまぜの メドレーを演奏すれば、聴衆は有頂天になる」と、ウィーンの音楽事情を慨嘆まじりに伝えている。96 ところで前掲の一覧表の各項目からも明らかなように、公開コンサートでは現在「古典」と目され ているモーツァルトとハイドンの名曲の演奏頻度は非常に低い。また、ベートーヴェン自身が主催し た演奏会、あるいはシュッパンツィクの信念が強く反映されている室内楽のコンサート以外には、当 時ウィーン音楽界の唯一無二に花形であったベートーヴェンの名曲でさえ、ほとんど取りあげられて いない。ベートーヴェンの作品中、会議開催中に4度も演奏され目立ったのは、『プロメテウスの創造 物』という短く軽やかな序曲にすぎなかったのである。 このように見てみると、ウィーン会議を契機とするウィーンの音楽文化の豊かさと新しい発展と は、政府、教会、有名な演奏者などが主催した大規模のコンサートによってもたらされたものではな いことが推測できよう。そこから、ウィーンの音楽文化の更なる発展に最も大きく貢献した要因は何 であったのかという疑問が浮上してくる。この疑問を解くには、1781 年モーツァルトが父親宛の手紙 で伝えた、「[ウィーンは]まさにピアノの町ですよ」(hier ist doch gewis das Clavier-land!) という一節 が示唆に富んでいよう。97 また、1802 年にこの都市を訪れた旅行者 J. L. フィッシャー(Julius Wilhelm Fischer)の以下の言明も重要なヒントを与えてくれるように思われる。いわく、 ウィーンでは世界のどこよりも音楽が育まれている。それは、教養のある人に必須の素養であり、 若い女性たちは皆ピアノを、若い男性は皆ヴァイオリンかフルートなどを習わなければならない。 ウィーンの音楽に対する適切な感性も他所に見たことはない。このような状況になっているのには、 当然理由がある。まず多くの若者は懸命に音楽を勉強し有能な素人となる。そうすると[ウィーン では]音楽が高く評価されているので、彼らはどこの家への出入りも可能となるのだ。そのため音 楽が彼らに大きな得をもたらしている。彼らは、難曲を上手に弾くことができ、古い曲をいやがる ので、新作品を求めることにより作曲家を支えている。私宅で聴く良質な名曲の演奏によって作曲 98 家たちが育成されている。. これとほぼ同じ現象は、1828 年にオーストリアを厳しく批判した著書(英文)を匿名で出版した米 国在住のオーストリア人 C. シールスフィールド(Charles Sealsfield, 本名 Karl Anton Postl, 1793 年~1864 年)によっても指摘されている。ウィーンの日曜日の午前中は教会の鐘と礼拝に赴く人達の馬車の音 以外には町がひっそりしている、と彼はいう。しかし、市民が昼食を取った後、 - 188 -.

(10) 1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽-. (ジェラルド・グローマー). 午後3時から夜の 11 時頃までは、町中が文字通り音楽によって醸し出される官能的な感興に包まれ ることになる。どこへ行っても、楽器の音が耳に届く。どの中流階級の家に行っても、まずピアノ が目に入る。着席すると、間もなく大きなワイン瓶、水の瓶、クッキー(Pressburgh biscuit)が振る 舞われ、主人は [娘の] カロリーネに「来客のためピアノで一曲弾きなさい」と言う。楽器を演奏 することは自慢であり、中流階級の教育の主な柱となる。子供たちは4~5歳からレッスンを受け はじめ、6歳になればかなり上手になっている。99 素人が音楽の習得と演奏にこのように熱中している一方、850 人によるハイドンのオラトリオ『天 地創造』の王宮乗馬学校での豪華な演奏会は、空席が目立っていたとシールスフィールドも述べてい る。100 こうした演奏会が、満員にならなかった理由としては、高価な入場券にも一因があったのであろ う。しかし、それ以上に重要だったのは、ここウィーンでは、公開演奏よりも素人が行う自宅での音 楽活動の方が、尊重されていたという事情であろう。換言すれば、プロの音楽家の演奏を受動的に鑑 賞することよりも、素人が自ら能動的に演奏し、それを互いに楽しむことの方が、ウィーンの音楽文 化の発展により大きく寄与していたのではないだろうか。付言するならば、ハイドンの曲を演奏した 850 人の大多数もまた素人だったであろう。 フィッシャーとシールスフィールドが取りあげている、これらウィーンの素人演奏者・音楽愛好家 の数は膨大であり、彼らこそがこの地の音楽文化を下から支えていたことがわかる。また音楽家とし ては素人であった貴族が、自ら作曲し演奏することも、当時決して珍しくはなかった。市民階級の需 要により音楽出版社が繁昌し、楽器製作業が栄え、音楽教師という専門職が成立した。そしてサロン・ コンサートが頻繁に行われ、多くの住民を巻き込んだ合唱団が結成された。このようにしてウィーン 人の音楽に対する理解力は次第に深化し、様々な社会階級から優れた演奏家や作曲家が誕生した。素 人たちはコンサートから金銭的な利を求めず、音楽自体に興味を寄せたことから、ウィーンの音楽文 化がヨーロッパの他の都市と比較しても高いレベルを維持したと、19 世紀前半の評論家たちは繰り返 し主張している。 しかし、ウィーン会議がもたらした王政復古と宰相メッテルニヒの圧力により、市民階級は政治的 な出来事から締め出され、公的な生活に関しては急速に閉塞感に襲われることとなる。この時、彼ら は日常的で簡素なものに目を向けるようになった。音楽の分野では、これまでにもすでに大きな役割 を果たしてきた室内空間の重要性が、さらに増してゆく。しかし、やがてシュッパンツィクが好んで 演奏した室内楽は、聴き手に大きく刺激を与えた創造的な「現代音楽」という相貌をしだいに失い、 皆によく知られた「古典」と化してゆかざるを得なかった。 こうしてウィーン市民の音楽的趣味が次第に保守的になるにつれ、第一線で活躍した作曲家が発表 した曲の多くは一般市民の演奏力と理解力の限界を大きく超えるようになった。音楽を演奏する者と 音楽を聴く者との間の距離は増していった。しかし、素人の音楽への欲求や需要は依然として強く、 それに応えるために作曲家は大量の単純で理解しやすい音楽を供給するようになった。その結果とし て、こうしたいわゆる「ポピュラー音楽」と「芸術音楽」との間の溝は、さらに架橋しがたく広がっ ていった。それとともに、「音楽の都」ウィーンの社会は複雑に絡み合う保守性と進歩性とを併存させ てゆくことになる。そしてこの現代においてもなお、この事情は続いているといえるのである。. - 189 -.

(11) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号. 註 様々なホールについては Hanslick 前掲書、271 頁参照。冬季乗馬学校と仮面舞踏会ホールについてはジェラルド・. 45 . グローマー「マティアス・ペルトの日記に見られる 1814 年から1815 年のウィーン会議と音楽-その2」、228-229 頁も参照。 Hanslick 前掲書、145 頁。ドイツ語圏におけるヘンデルのオラトリオ上演の年表は Höink 編、Aufführungen von. 46 . Händels Oratorien 参照。 47 . Wiener Zeitung, 1815 年2月 19 日 (50 号 )、197 頁。しかし 1816 年の M. シュタドラー (Maximilian Abbé Stadler, 1748 年~1833 年) 作曲『エルサレムの解放』の演奏以降、1834 年まではこの類の演奏は行われていなかった。 Hanslick 前掲書、160 頁参照。 Friedensblätter, 1814年10月22日 (1巻49号)、202頁。公演の詳細についてはFriedensblätter, 1814年10月20日 (1. 48 . 巻 48 号)、197-198 頁 ; Morgenblatt für gebildete Stände, 1814 年 10 月 31 日 (260 号)、1040 頁 ; Feyerlichkeiten bey der Rückkehr Sr. Maj., 75 頁 ; Hesperus, 15 巻、2号 (1815 年1月)、12-14 頁参照。 Isis, 1833 年 (Heft IV)、313 頁。. 49 . この曲はすでに 1814 年3月 25 日にも「劇場関係者のための救貧基金」(Fond für Theaterarme) のための寄付興行の. 50 . 際にも演奏された。Alexander Wheelock Thayer, The Life of Ludwig van Beethoven, 第2巻、268 頁。ウィーン大学の 大ホールにおける音楽演奏についてはOtto Erich Deutsch, “Festkonzerte im alten Universitätssaal”参照。ベートーヴェ ンが開催した、あるいは参加した演奏会全般については Hermann Reuther, “Beethovens Konzerte” 参照。 Der glorreiche Augenblick については Mathew 前掲書、57-58, 68-81, 116-120 頁など参照。. 51 52 . ベルトゥフは体調不良のため参加出来なかった大手出版社社長であった父親の代理としてウィーンに足を運び、 別の出版社を率いた J. F. コッタ (Johann Friedrich von Cotta, 1764 年~1832 年) と共に出版の自由と海賊版の禁止 などに関する法令の制定を会議に出席した各政府関係者に求めた。. 53 . ブシーナ (Busina) とはViennaの書き違い、あるいは編集者の読み違いであろう。ここで指摘されているのは『栄 光の瞬間』の第3部 (Rezitativ und Arie mit Chor: O Himmel, welch' Entzücken!)、ソプラノの長いアリアの詞が繰り 返し合唱団の演唱に応え、重要なヴァイオリンのオブリガートがある。 Bertuch 前掲書、59-60 頁。. 54 . ホールは Landständischer Ratsaal ないしは Landständischer Saal など呼ばれたが、建物は現在 Palais Niederösterreich と. 55 . なっている。 Johann Pezzl, Beschreibung von Wien, 610 頁 ; Allgemeine musikalische Zeitung (Wien にて刊行 )、1823 年1月 12 日 (7. 56 . 号 )、49 頁 ; Eduard Hanslick, Geschichte des Concertwesens in Wien, 271 頁。 57 . シュトライヒャーとベートーヴェンは強い信頼関係に結ばれたことは 1813 年前後にまで遡り (Schindler 前掲書、 187 頁参照 )、1816 年以降ベートーヴェンが夫人のナネットに当てた手紙が多く残されている。シュトライヒャー の伝記、活躍、弟子、音楽作品などについては Christoph Öhm-Kühnle, “Er weiß jeden Ton singen zu lassen” は非常に 詳しい。Mittheilungen aus Wien (1835 年、第4巻、51-69 頁 ) も参照。. 58 . Bertuch 前掲書、132-133, 104-105, 147 頁参照。 Hahn 女子とは Fanny de Haan (詳細不明) のことであろう。. 59 . アポニー伯爵夫人とは Maria Therese Apponyi 旧姓 Nogarola(1790 年~1874 年)のことである。メジャン夫人とは. 60 . Franziska von Spielmann (1789 年~1857 年) のことで、1810 年に Mauricio Enrico Romano Mejan 伯爵 (または Mejean, Méjean 男爵) と結婚した。Gobeau とは Johanna Goubau, Freyinn v. Hovorost であろう (Hof- und Staats-Schematismus des österreichischen Kaiserstaats, I Theil, [1817 年], 148 頁参照 )。Vaterländische Blätter (1808 年 51 頁 ) によれば、 彼女は歌の「素人」であり、Giovanni Liverati (1772 年~1846 年、1805 年~1814 年にはウィーンで活躍 ) に師事 した。Reichard (Vertraute Briefe, 1巻 358 頁、2巻6頁も彼女の歌唱を絶賛している。 Bertuch 前掲書、132-133 頁。ビュッケブルク伯爵とはおそらく Georg Wilhelm zu Schaumburg-Lippe (1784 年~. 61 . 1860 年 ) を指しており、カスカート卿とはイギリスの全権大使の William Schaw Cathcart, 1st Earl Cathcart (1755 年 ~1843 年 ) である。 早い例の一つは「ヤーンの料理屋」(“Jahns Traiteurie”) であった。これはシェーンブルン宮殿御用の調理師であっ. 62 . た I. ヤーンによって営まれた企業であり、彼が 1795 年に Himmelpfortgasse 6 ( 現在の Café Frauenhuber の所在地 ) - 190 -.

(12) 1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽-. (ジェラルド・グローマー). にあった2階にホールを含む建物を購入し、モーツァルトとベートーヴェンなどが自作の室内楽と協奏曲を演奏 した有名な施設となった。しかし、せいぜい 400 人収容可能であった (AmZ, 6巻 28 号、1804 年4月 11 日、470471 頁 )。このホールはヤーンの死後に急速に人気が低迷し、ウィーン会議の時期に演奏会がそこで開かれたかど うかは不明である。ヤーンが経営したもう一つの歴史の古いレストラン兼演奏・舞踏会場はメールグルーベ (Die Mehlgrube) と称され、現在の1区 Neuer Markt にあった (Hermann Reuther, “Beethovens Konzerte,” 81-82 頁参照 )。 ウィーン会議期間中にコンサートが行われたかどうかは不明である。1799 年のヤーンの料理屋については Küttner 前掲書、第3巻, 439 頁を参照。彼の活動と業績全般については Gustav Gugitz, “Ein Stück Altwiener Lebenskunst; Rudolf Klein, “Ein alt-wiener Konzertsaal; Reuther, “Beethovens Konzerte,” 82-83 頁などが詳しい。 Franz Anton de Paula Gaheis, Wanderungen und Spazierfahrten, 第3巻、74-75 頁。. 63 . Schindler 前掲書、第1巻、197 頁 ; Thayer 前掲書、第2巻、270 頁。. 64 . Johann Pezzl, Beschreibung von Wien, 240, 608 頁を参照。ウィーン会議の際のツム・レーミシェン・カイザーの舞. 65 . 踏会については例えば Bertuch 前掲書、110 頁 (1815 年1月 30 日項 ) 参照。舞踏会は朝3時まで続いた。 メトロノームは実はすでに 1814 年 D. N. ウィンケル (Dietrich Nikolaus Winkel, 1777 年~1826 年) により発明され、. 66 . 数年後 J. メルツェルはそれ知り、少し改良を加え、特許を取得したのである。 67 . サライは 1815 年の報道には9歳と広告されたが、これは彼の天才ぶりを誇張するための虚報であろう。 Wiener Zeitung, 1814 年 12 月1日、1337 頁。. 68 . Bregenzer Wochenblatt (Intelligenzblatt, 4号 )、1812 年1月 24 日、13 頁 ; Sonnleithner 前掲書、16 巻4号、151-152 頁。. 69 . バーデンにも同名の集いが同じ目的で結成されたようである (Vaterländische Blätter, 1813年5月12日 [1巻38号]、 226 頁参照 )。 入場券の値段と販売については Hanslick 前掲書、271-272 頁を参照。ベートーヴェンの慈善演奏会については. 70 . Deutsch, “Festkonzerte im alten Universitätssaal,” 430-431 頁も参照。1815 年以降にはパガニーニとリストなども入場 券の値上げを実施し、場合によって1枚 10fl. を要求した。 Reuther, “Beethovens Konzerte,” 100 頁。. 71 . Friedensblätter, 1814 年 12 月 24 日 (1巻 76 号)、312 頁参照。. 72 . Anton Schindler, Biographie von Ludwig van Beethoven、第1巻、201-202 頁参照。しかしベートーヴェンが 1814 年2. 73 . 月 Großer Redoutensaal で行った自益のための公演(交響曲第7番と「ウェリントンの勝利」の再演、交響曲第8 番の初演など)に関する資料を検討した Thayer は、その利益が「非常に大きかったことが明白である」と結論し ている (Schindler 前掲書、第2巻、268 頁 )。ベルトゥフも 1814 年 12 月 25 日の演奏の収益が大きかったと報告し ている (Bertuch 前掲書、81 頁 )。 Küttner 前掲書、第3巻、405 頁。. 74 . AmZ, 17 巻 16 号, 1815 年4月 19 日、275 頁。弁護士でもあったツィーツィウスはウィーン大学の統計学の教授で. 75 . あった。彼のサロンについては Leopold von Sonnleithner, “Musikalische Skizzen aus Alt-Wien,” 16巻4号、155頁参照。 Peter Schleuning, “Das Uraufführungsdatum von Beethovens ‘Sinfonia eroica’”; H. P. Clive, Beethoven and His World, 213頁。. 76 . Fellner邸はホーエル・マルクト (Hoher Markt, 現1区) にあった (1809年のVaterländische Blätter für den österreichischen Kaiserstaat, 62 頁参照 )。Fellner と Würth については Johann Michael Zimmerl, Allgemeiner Handlungs-Alamanach, 41 頁も参照。 AmZ, 6巻 28 号 (1804 年4月 11 日 )、467 頁。. 77 . 夏用の別荘はLandhausまたはPalastと呼ばれ、現在のHernalser Hauptstraße 21-25にあった。絵画についてはGemeinnütziger. 78 . und erheiternder Haus-kalender、146 頁参照。 A. D. Coleridge 編、The Life of Moscheles, 第 1 巻、21 頁。. 79 . ファンニーの人物とサロンの様子は例えば K. A. Varnhagen von Ense, Ausgewählte Schriften, 第 17 巻、328-335 頁に. 80 . いきいきと描写されている。エスケレスの客間にも各国の貴族と外交官などが集まった。エスケレス夫人のセ シーリエは I. モシェレスに師事した。 De la Garde, Gemälde des Wiener Kongresses, 350 頁。. 81 . Bertuch 前掲書、45 頁。. 82 . Bertuch 前掲書、68, 91 頁。『ヴェネツィアの盲目』とはおそらく E. メユール (Etienne Nicolas Méhul, 1763 年~. 83 . - 191 -.

(13) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 28 号. 1817 年) 作曲、1806 年パリで初演された喜歌劇『トレドの二人の盲目』(Le deux aveugles de Tolède) の間違いで あろう。 Bertuch 前掲書、96-97 頁。2月 15 日にもこの展示はまだあったようである ( 同書、124 頁 )。. 84 . ウィーンの 19 世紀前半のサロン文化と音楽についてはすでによく研究されている。Chung-Mei Liu, Die Rolle der. 85 . Musik im Wiener Salon bis ca. 1830; Hanson 前掲書、109-126 頁 ; Katharina Reif, Wiener Salonkultur in der ersten Hälfte des 19. Jahrhunderts; Elisabeth Fiorioli, Die Salonkultur der Wiener Aristokratie in der ersten Hälfte des 19. Jahrhunderts な ど参照。 Sonnleithner 前掲書、16 巻2号、53-55 頁に音楽会の実態と演奏された曲目が詳述されている。. 86 . Sonnleithner 前掲書、16 巻3号、106-110 頁 ; 16 巻4号、145-151 頁を参照。. 87 . Bertuch 前掲書、93 頁。Heinrich Christian Krippner (1840 年没) が Preßgasse 454 にあった私宅にて主催した演奏会. 88 . については Sonnleithner 前掲書、16 巻4号、151 頁も参照。 Friedensblätter, 1815 年2月9日(2巻 17 号)68 頁。. 89 . 、同1815年4月13日(44号)176頁; Sonnleithner Bertuch 前掲書、151頁; Friedensblätter, 1815年3月4日(2巻27号). 90 . 前掲書、16 巻4号、152 頁。最近の研究ではジュリアーニが 1806 年トリエストからウィーンにやって来て、すで に世帯持ちであったが、夫人とは別に、ウィーン在住の Anna Wiesenberger (1784 年~ 1817 年 ) との間に4人の 娘をもうけたことが明らかとなってきた。1819 年にはウィーンを最終的に離れた。インターネットに掲載されて いる Michael Lorenz の2つの研究を参照。 Sonnleithner 前掲書、16 巻 3 号、97-99 頁。パラディースの催した演奏会の全体像には Marion Fürst, Maria Theresia. 91 . Paradis, 183-195 頁参照。 Küttne 前掲書、第3巻、405 頁。. 92 . Perth, Tage-Buch, 1815 年1月 19 日条。. 93 . Bertuch 前掲書、102 頁。. 94 . Perth, Tage-Buch, 1815年1月21日条。この演奏についてAmZ, 17巻7号, 1815年2月15日、123-124頁; Friedensblätter,. 95 . 1815 年1月 21 日(2巻9号)、36 頁 ; Allgemeine Zeitung München, 1815 年1月 27 日(27 号)、103 頁 ; Hesperus, 1815 年2月(1巻 15 号)、75 頁にも詳しく報道されている。 E. L. Voynich 訳、Chopin’s Letters, 129 頁(1830 年クリスマスの前の水曜日)。. 96 . Mozart 前掲書、第 3 巻、125 頁 (1781 年6月2日の書簡 )。. 97 . Fischer 前掲書、第1巻、212-213 頁。. 98 . Sealsfield 前掲書、202 頁。. 99 . Sealsfield 前掲書、203 頁。. 100. 参考文献 著書と論文 Angermüller, Rudolph. Wenzel Müller und “sein” Leopoldstädter Theater. Mit besonderer Berücksichtigung der Tagebücher Wenzel Müllers. Wien: Böhlau, 2009. Arndt, Ernst Moritz. Reisen durch einen Theil Teutschlands, Ungarns, Italiens und Frankreichs in den Jahren 1798 und 1799. 全 2 巻。Leipzig: Heinrich Gräff. Bertuch, Carl. Carl Bertuchs Tagebuch vom Wiener Kongreß. Hermann Freiherr von Egloffstein 校訂。 Berlin, 1916. Coleridge, A. D. 編. The Life of Moscheles, With Selections from His Diaries and Correspondence, by His Wife. 全2巻。 London: Hurst and Blackett, 1873. Clive, H. P. Beethoven and His World. London: Oxford University Press, 2001.. - 192 -.

(14) 1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽-. (ジェラルド・グローマー). de la Garde, Comte Auguste. Gemälde des Wiener Kongresses 1814–1815. Hans Effenberger 校訂。Wien-Leipzig, 1912. Deutsch, Otto Erich. “Festkonzerte im alten Universitätssaal: Haydn, Beethoven, Schubert.” Österreichische Musikzeitschrift, 18 巻 9 号、1963 年、428-433 頁。 ----------. “Musik im Burgtheater.” Österreichische Musikzeitschrift, 18 巻 9 号、1963 年、439-442 頁。 ----------. “Musik in der ‘Josefstadt.” Österreichische Musikzeitschrift, 18 巻 12 号、1963 年、549-552 頁。 Devaux, Vanessa. Joseph Mayseder (1789-1863), A Viennese Violinist and Composer. PhD dissertation, Cardiff University, 2014. https://orca.cf.ac.uk/67546/1/2014DevauxVa.phd.pdf Dlabacz, Gottfried Johann. Allgemeines historisches Künstler-Lexikon für Böhmen und zum Theil auch für Mähren und Schlesien. Prag: Gottlieb Haase, 1815. Feyerlichkeiten bey der Rückkehr Sr. Maj. Des Kaisers von Österreich nach Wien im Jahre 1814. Wien: Johann Baptist Wallishauser, 1816. Fiorioli, Elisabeth. Die Salonkultur der Wiener Aristokratie in der ersten Hälfte des 19. Jahrhunderts am Beispiel der Fürstin Maria Anna Schwarzenberg. Diplomarbeit Universität Graz, 1991. Fischer, Julius Wilhelm. Reisen durch Oesterreich, Ungarn, Steyermark, Venedig, Böhmen und Mähren in den Jahren 1801 und 1802. 全 3 巻。 Wien: Anton Doll, 1803. Fürst, Marion. Maria Theresia Paradis, Mozarts berühmte Zeitgenossin. Köln: Böhlau Verlag, 2005. Gaheis, Franz Anton de Paula. Wanderungen und Spazierfahrten in die Gegenden um Wien. 第 3 巻。第 4 改定版。Wien: Aloys Doll, 1809. Gemeinnütziger und erheiternder Haus-kalender für das österreichische Kaiserthum vorzüglich für Freunde des Vaterlandes oder Geschäfts-, Unterhaltungs- und Lesebuch auf das gemeine Jahr(von 365 Tagen)1827. Wien: Anton Strauß, 1827. Großes Sängerlexikon. K. J. Kutsch, Leo Riemens, et al. 全 7 巻。 München: K. G. Saur, 2003. Gugitz, Gustav. “Ein Stück Altwiener Lebenskunst: Gastwirt Jahn und seine Unternehmungen.” Unsere Heimat(Monatsblatt des Vereines für Landeskunde und Heimatschutz von Niederösterreich und Wien), 第3巻、1930年、 309-324頁, 340-358頁。. http://www.noe.gv.at/noe/LandeskundlicheForschung/Publikationen_des_Verein_fuer_Landeskunde_(vor_1999).html. Hanslick, Eduard. Geschichte des Concertwesens in Wien. Wien: Wilhelm Braumüller, 1860. Hanson, Alice M. Musical Life in Biedermeier Vienna. Cambridge: Cambridge University Press, 1985. 和訳には喜多尾道冬、 稲垣孝博共訳『音楽都市ウィーン その黄金期の光と影』音楽之友社、1988 年がある。 Harlow, Martin David. Viennese Chamber Music with Clarinet and Piano, 1783-1827: Repertory and Performance Strategy. 2 vols. PhD dissertation, University of Sheffield, 2004.. - 193 -.

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参照

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