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『池の藻屑』における南北朝史観をめぐって

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『池の藻屑

j .一、 はじめに 「増鏡 j の後の時代を受け継いで、 後醍醐天皇から後陽成天皇 までの歴史を取り扱った「池の涵屑」には、 良統が吉野の南朝と 京都の北朝に分裂し、 半世紀を超えて対立していた時期(光明天 皇が即位して後醍醐天皇が吉野に南遷した建武 三年 〈二ニ三六、 延元元年〉より、 南北 朝の和睦が成立して南朝の後亀山天品から 北朝方ヘ一ー 一 種の神器が譲渡された元中 九年 〈 一 三九二、明徳三年〉 まで)もその記述の範疇に含まれているが、 この南北朝時代につ いては、 南朝ではなく、 北朝方の事跡を中心に叙述が展開されて いる点に本書の特色が認められる。 南朝 と北朝 のいずれを正統と見なすかという南北朝正閏論は、 天皇家の正統性に関わるだけに、 戦前はその扱いをめぐって政治 論争にまで発展するなど、 折に 触れて議論が蒸し返されてきた非 常に決浩が難しい問題である。現在では、 宮内庁を始め、 歴代の 天皇の代数は南朝で数えるのが主流であり、 南朝方が正統とされ ていることになっている。 しかし、 近世期においては、 北朝方の 後小松上皇が自ら の系統の正統 性を主張するために編纂させた 「本朝皇胤紹連録」(洞院満季編、応永三十三年〈一四二六〉成立) が(l)、 勅撰の皇室系誇として茄末に至るまで宮中で匪んじられ るなど、 公家の間では北朝正統論が絶対視されていた。実際に京 都に存絞している天品家が、 北朝方の血統を受け継いでいる以上、 南朝正統論は感情的にも受け入れがたいものであり 、現 実的な判 断であったと言えよう。 江戸都府の修史事菜として林羅山・鵞峰によって編纂された 「本朝通鑑」(寛文十年〈一六七0〉成立)でも、 凡例では南北 朝が併記されているものの、 本組においては北朝正統論が採用さ れており、 北朝を正統とする考え方は、 近世期を通じて朝廷と都 府が共有する公式見解であったと受け止められる。すなわち、 明 治から大正にかけての南北朝正凹論争の 際に、 南朝が正統な皇統 として位置付けられていく過程で、 絶大なる思想的影響を与えた とされている水戸彰考館が絹纂した「大日本 史」(最終的な完成 は明治三十九年〈一九〇六〉であるが、 本紀は元禄十年 〈一六九

における南北朝史観をめぐって

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七〉、 列伝も正徳五年〈一七一五〉に脱稿さ れた)は、 所謂〈三 大特筆〉の一っとして南朝正統論を打ち立てているもの の、 南朝 を正統とする考え方は当時にあっては世の通念に反するものであ り、 ごく一部の歴史家に限定される少数派の意見であったと考え られる (2) 0 故に、 麗女が、 北朝方の天皇一代に一巻を割り当てて「池の藻 屑」を構成しているのも、 近世中期頃の南北朝時代に対する一般 的な見解に従った結果であったと推測される。 しかし、 それでも やはり留意されるのは、 後述するように、 後世の南朝正統論の形 成に思想面で大きな影響を及ぽした「神皇正統記 j や水戸彰考館 によって絹纂された著作との接点が作品中から確認できるにも関 わらず、「池の藻屑」において北朝正統論が採 用されている点で ある。 そこで本稿では、 先ず「池の藻屑 j と「神皇正統記」及ぴ 「続神皇正統記」との影響関係について確認した上で、 本書の構 想の際に麗女の如何なる判断によって南北朝時代の問題が処理さ れたかについても考察を及ぼしてみたいと思う。 二、「神皇正統記』との関係をめぐって 「神皇正統記」(延元四年〈一三三九〉成立、 典国四年〈一三四 ――-〉修訂) は、 周知の通り、 南朝の廷臣北畠親房によって執節さ れた歴史評論害である。麗女の著作と「神皇正統記」との関わり については、 歴史物語「笠舎」(安永四年〈一七七四〉成立)の 主要な出典の―つに挙げられていることが指摘できるが{3)、『池 の藻屑」においても巻一と巻三を中心に、「神皇正統記」の後醍醐· 後村上天皇二代に関する記事が引用されていると考えられる。

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そ こ で 先 ず光元応暦の」、明院「三巻」屑藻の池「年(一三三八、 延 元 三 年 ) 五 月 条めよ州奥に冬年前にた、るす伐討を氏祖利足り 義 良 親 王 ( 後 の 後 村 上 天 皇 ) を 泰 じて上京してきた北畠顕家が、 和 泉 堺 浦 で の 戦 い に お い て 壮 絶 な 討 死 を 遂 げ る ま で の 場 面を取り 上 げ 、 「 池 の 藻 屑 」 と コ隙認確ていつに係響神影の」記統正贔し て お き た い と 思 う 。 二 月にも成しかば、OO の 東 の 国 々 は こ と(<平らぎて、追 ひ ら け し か ば 、 宮 、 中 納 言 は 心 や す く 伊 勢 の 国 にぞ焙せ給ふ。 や が て 芳 野 に 参 り 給 は ん とて、伊賀の国より大和路をめぐり て 、 奈 良 の 京 に な ん氏直師りよたかが苺い。りへまたりた直 常 な どではかつし云もさま里の日春を兵るすにぞ、所々にて あ ま た 、に、てりあ負勝みぴたか、にし有戦8 数 を のみ韮ね つ ヽ 、 五 月 に う つ りし言納中、にひ戟有ぬてに国の泉和。打 ⑳ ⑲ ⑱ ⑰ ⑯ ⑮

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皇 負給ひて、安部野の露の草の原に埋れぬ名をのみとゞめ給ひ しかば、残の兵もみな心をまどはして、ちり/\にぞ成侍る。 ︵ ﹃ 池 の 煤 屑 ﹂ ︶ 又ノ年戊寅ノ春二月、鎖守大将軍顕家卿、又、親王ヲサキタ テ申、カサ`不テウチノポル、海道ノ国々、コト/\クタイラ キヌ、伊勢・伊賀ヲヘテ、大和二入、奈良ノ京ニナン、ツキ ニケル、ソレヨリ、所々ノ合戦アマタ、ヒ‘[互]二勝負侍リ シニ、同五月、和泉国ニテノタ、カヒニ、時ャイタラサリケ ン、忠孝ノ道コ、ニキハマリハヘリニキ、苔ノ下ニウツモレ ヌ[モノトテハ

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心 ウ キ 世 ニ モ ハ ヘ ル カ ナ 、 ︵ ﹁ 神 皇 正 統 記 ﹂ ︶ 二作品の棒線部分の文章を比較すると明らかなように、﹃池の 藻屑﹄の記述には部分的に﹁神旦正統記﹂の語句を省略・改変し た形務が認められるものの、内容的にはほぽ一致していることが 看取される。 尚、﹃池の藻屑﹂の﹁安部野の露の草の原に坦れぬ名をのみとゞ め給ひしかば﹂の箇所には、﹁神皇正統記 j とは別に、﹃金紫和歌 集 j 巻十・雑部下・六二 0 に収録される和泉式部の﹁もろともに こけのしたにもくちもせでうづまれぬなを見るぞかなしき J ( ﹁ 和 泉式部集﹄にも収録︶、或いは

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初後撰和歌集 j 巻十九・雑歌下・ 一五六五•読み人知らずの「苔のしたにう‘つもれぬ名をのこしつ つあととふ袖に露ぞこぼるる﹂などの古歌の一節も踏まえられて

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おり、 享年二十一歳という顕家の日十すぎる死に対して、 読者に哀 悼の念を感じさせる場面となっている。 一方、 f 池の藻屑」本文 の波線を付し た箇所の 記述は、「参考太平記 j 巻十九「宵野原 軍 ijl 八幡合戦井顕家卿討死事」の記事に基づいて構成されたと想 定される部分 であ る (4)0 以上の ことから、「池の藻屑」におけるr神皇正統記」の摂取 の傾向は、 他の文献からの記事を取り入れて内容を更に補強した り、 古今の歌集からの引用をちりばめなが らも、 記事の内容に大 . 幅 な改変を加えることなく、 基本的に原文に忠実な態度を示した ものである ことが理解できる。 ここで注意されるのは、「池の孫 屑」が「神皇正統記』から引用した箇所は、 歴史的な出来事に関 する内容の記事に限定されており、『神皇正統記 j の最大の特色 とも言うぺき思想的側面については全く取り上げられていない点 である。 『神皇正統記」は、 作者である北畠親房の政治的な立場やその .成立の経緯が強く反映された、 強烈な南朝正統論の理念で貰かれ た作品である。親房の思想の特異性は、 顕家討死の記事の直前に 置かれた、 建武三年(二ニ三六、 延元元年)の光明天皇の即位と 後醍醐天皇の吉野遷幸という未曾有の出来事を扱った次の箇所か らも、 その一端を窺い知ることができる。 裔氏等、 西国ノ凶徒ヲアとカタラと テ、 カサネテセメノホル、 官軍、 利ナクシテ、 都二帰参セシホトニ、 同廿七日二、 又、 山門二 臨幸シ給、 八□□イタルマテ、 度々合戦アリシロロ、 官軍イトロロマス、 伯テ、 都ニハ、 元弘偽主ノ御弟二、一―-J 御子此仁卜申ケルヲ、 位ニッケ奉ル、 ……同十二月ニシノヒ テ都ヲ出マシ(テ、 河内国二正成トイヒシカ一族等ヲメシ クシテ、 芳野ニイラセ給ヌ、 行宮ヲツクリテワタラセ給、 モ トノコトク在位ノ儀ニテソマシ/\ケル、 内侍所モウツラセ 給、 神匿モ御身ニシタカヘ給ケ リ、 マコトニ奇持ノコトニコ ソ侍シカ、 自らが忠節を尽くす後醍醐天皇方を「官軍」と位憫付けて正当 化し、 足利尊氏等朝廷に反旗を翻Lた武士逹に「朝敵」「凶徒」 の汚名を滸せて糾弾する姿勢を始めとして、 元弘の乱の際に鎌倉 碓府によって擁立された持明院統の光厳天皇までも「偽主」と称 して憚らない本書の主張の過激さこ そ` 後世の歴史家に強い衝撃 を与えたところであったと想像される。親房が 北朝方の天皇の即 位を認めず、 あくまで後醍醐天皇の在位の正当性を主張している 根拠は、「大日本鳩根ハ、 モトヨリノ島都也、 内侍所・神璽モ芳 野ニオハシマセハ、 イツ クカ都ニ アラサルヘキ」と、 吉野の朝廷 が三種の神器を持ち伝えており、「今ノ御門、 マタ天照太神ヨリ コ ノカタノ正統ヲウケマシ(ヌレハ、 コノ御□ニアラ□ヒタテ マツル者ヤハアルヘキ」と、 天照大神の子孫である天皇家の正統 を継承しているのは後醍醐天皇と後村上天皇の南朝方である、 と いう強い信念に基づくものである (5)0

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親房の南 朝擁匪の思想は、「神皇正統記」の随所に見出すこと ができるが、 中でも、「池の躁屑」が参照した後醍醐天皇以後の 当代記の叙述に飛も力点が醤かれ ていたことは、 親房が南朝を理 論而で支える柱石であり、 後酸醐天皇が建てた南朝を正当化する ために本書が執箪されたという事情を考慮して も、 明瞭な事実で あると考えられる。 加えて、版本として刊行された「神皇正統記 j は、 都末に至るまで殷安二年(一六四九)版と群掛類従所収本の 二揺類が存在するに過ぎなかったが、 本搭で展開された親房の南 朝正統論は、 朱子学の正閏論と結ぴ付けられて「大日本史 j の絹 集方針に多大な影響を及ぽしただけでなく、 近世期に成立した多 くの史曹・随節等にも少なからぬ影響を与えた(6ー。 故に、「池の 藻屑 j に『神皇正統記」の基本精神である南朝擁護の思想が採用 されなかったのは、 麗女によって意図的に避けられた可能性が高 いと判断されるのである。 「池の湊屑」では、 親房の南朝正統論が採用されなかった代わ りに、 他の文献からの記事を取り入れること で、 個々のエピソー ドが補強され、 物語化が志向されること になったと考えられる。 その端的な例として、「池の藻屑」暦応元年五月条では、 前述し た額家討死の記単の後に引き続いて、 顕家両親の悲嘆が次のよう に極めて印象的に叙述されている。 芳野にもか、る事を冊せ給ひ て、 上もいといたう御心をなや まさせ給へり。 まして父母の御歎きはい ひやらんかたなし。 ん ……父君な</\、 さきだてし心もよしや中々 にうき世の事を思ひ忘れて との給ふさまも いと堪が たげにぞ見え給へり。 北の方は其 ま、に臥しづみ給ひて、 御心ちもなきやうなれ ば、 いかさま にかとさぶらふ人々思ひまどひたるに、 からうじて、 玉の緒の絶もはてなでくり返し同じ浮世にむすぼ、るら 同じ道にとのみ思ひ給ひたる も、 いとをしき 御けしきになん。 其低に御ぐしおろして、 観応寺といへる、 山寺の麓にいと幽 にておはします。 ...... 斯て三年ばかりおはしまし、に 、 世の 中もやう(しづまりぬれば、 よし野をも出給ひて、 元の都 にぞ登り給ひぬ。 ここで出典として用いられたのは、『吉野拾逍」巻一第十二話「源 中納言の北のか た発心の事」であるが乞、 この場面に認められ る顕家両親への感悩的 なまで の感情移入は、『神皇正統記 j にお いて、 我が子顕家の戦死という悲劇に対し実の父である親房が感 情を抑えた策致で淡々と事実のみを記し、「心ウキ世ニモハヘル カナ J という感慨を述べるにとどまっているのとは対照的であり、 二作品の性格の相違が如実に示された箇所であ ると思われる。 「神皇正統記 j では、 顕家の戦死は、「時ヤイタラサリケン、 忠 孝ノ道コ、ニキハマリハヘリニキ」と、 天皇親政の理想を掲げた 後醍醐天皇とその新政権への親房の個人的な思い入れの強さを反

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映して、皇室に対する忠節の念が究極的な形で表出された行為と して位骰付けられている。そして親房のこの信念は、﹁凡、王士 ニハラマレテ、忠ヲイタシ、命ヲスツルハ、人臣ノ道ナリ﹂と断 言するように、皇室に対する徹底した腺崇の念と、彼が唯一絶対 なものと信じる南朝正統論という大義名分によって支えられてい たと考えられるのである。 しかしながら、﹁池の淡屑 j では、同じく顕家討死の場面を記 述するにあたって、 I 吉野拾逍﹂の中から見付け出してきたエピ ソードを﹁神皇正統記﹂の記事に繋ぎ合わせて再構成することで、 ﹁忠孝ノ遊﹂や﹁人臣ノ道﹂とは関係なく、顕家の両親が僅か二

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歳の若さで早世した息子を純粋に悲しむ姿を描出している。 南朝正統論という枠組みを解除することで、結果的に﹁神皇正統 邑では記述されることのなかった、最愛の肉親を喪失した親房 とその要の自然な感情の発器に焦点が当てられることになったと 推察されるのである。

小 槻 晴 宮 著 「 続 神 皇 正 統 記 」 ( 文 明 年 間 〈 一 四六九ー一四八七〉 成 立 ) . は 、 後 村 上 天 皇 で 梱 節 し た「神皇正統記」の後を受け継い で 執 節 さ れ た 歴 史 杏 で あ る 。 「 続 神 皇 正 統 記 」 と い う 書 名 に 明 示 ' さ れ て い る よ う に 、記強を在存の親」統正泉神「の房く意識した 作 品 で あ る が 、 先 行 作 品 の 体 裁 を 踏 まえながらも、北朝方を正統 ③ ② ① 八 巻 蕨原寧子皇-第ー・潤南

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北朝巻五

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の皇子 勝 最 溝 の

光厳

厳光践詐と出滉上で連れ去に光厳光.

後光厳院

第ーの 光明・後見を皇れら明.Lの 問の...

両天泉幕府が‘弟のあに 賀名生て崇光三和冗文 る悶

起に年ハ の広義 たに 上年 `^ る幽閉皇及^

騒っぎ正三 要厚に門院仁王弥親れたさ臭前び互-三 ーよ→ ,,ヽヽ 延

る嚢見涵後、子正 元 に平 ヽ

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直平 の慶後光 仁親七年 るニ

女御 の王がジ条 とする立場から後村上の践詐を認めず、九十六代光厳、九十七代 後醍醐重詐として、以後、九十八代光明より 1 0 四代後花固に至 るまでの、北朝を中心とする十代の天皇の事跡を記述したところ に本誉の特色が認められる。この時期、このような柑物が出現し たのは`南朝正統論を強く主張した﹁神皇正統記 j に対して、親 房の理想と現実の社会情勢との乖離が時の経過とともに深まるに つれ、北朝方に心を寄せる人々の間で﹁神皇正統記﹂の内容に対 する批判意識が高まった結果であったと推測されている (8)0 この﹁続神皇正統記﹂もまた﹁池の藻屑﹂の出典の︱つに想定 される作品であるが、﹁神皇正統記 j に比べて本書に対する評価 は相対的に低く、かつ掲載された記事の絶対批が少ないことも影 響してか、﹁池の泌屑﹂が利用した記事はそれほど多くないよう に見受けられる ( 9 ) 。しかし、少なくとも次の五箇所については、 両者の密接な影響関係が指摘できる。

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. 乱-陰謀巻 面o南朝 七 ●すにる ●E後

●記 にょ 9―院←

皇し

哭Iょ- 徳

• — つ年 盃北麿口ニ

吉祐

羹〗盈急

のの 場条 ここでは先ず、 南北朝の抗争の端緒となった建武三年(-三――― 六、延元元年)の光明天皇の即位に関する①について、「池の藻屑」 と「続神皇正統記」の影響関係を確認しておく。 九十七代の帝は、 さきにも聞えさせし、 豊仁と申奉る御事よ。 御母は広義門院にておはします。建武三年、 御歳十六にて世 中騒しかりし頃御位に即給 へり。 此とき神 璽は芳野に渡らせ 給へど、 しゐて御位につかせ給へるは、 後鳥羽院の御例にや 侍らん。 又由の奉幣とて伊勢使を立られて、 天照太神に事の よしを申させ給へるなるを、 それもとゞめられぬるは、 所々 うち乱れて道ふたがれるゆへとはいへど、 神の御慮もいかゞ と時の人いひあへり。 (「池の躁屑」 第九十八代。光明院。 110 後伏見第二御子。光厳院の 御猶子也。御母広義門院。丁丑の年即位。勢州路次通ぜざる によりて、 今度由奉幣を行れず。 これは御即位の由を太神宮 に告申さる、依なり。停止せられぬる事、神慮難レ計し (「続神皇正統記」 両者を比較すると、「池の源屑 j のこの場面については、『続神 れる 應統記 j の記事の内容が参照されていることが明らかであると 思われる。 因みに、「池の藻屑 j と国神皇正統記 j との間で光 明天皇の即位の順位が 異なるのは、『池の漢屑 」で は後醍醐天皇 の重詐を歴代天皇の代数に含めていないからである (10)0 さて、 この場面で重視されるのは、「此とき神璽は芳野に渡ら せ給へど、 しゐて御位につかせ給へるは、 後鳥羽院の御例にや侍 らん」と明記しているように、 天皇家の伝統と慣習を破って、 明天皇の即位が三種の神 器抜き で強行されたことについて言及し た箇所である。この時点で神器を所有していたのは、 京都を出奔 して吉野行宮に逼塞していた後醍醐天皇であるが、 この神器所持 という事実こそ、「神皇正統記 j において親房が南朝の正統性を 主張する拠り所としていたとこ ろであった。故に、「池の藻屑」 でわざわざこ の話題に触れているの は、 三種の神器の帰属という 問題が、 光明天皇及びそれ以降に即位した北朝方の天皇の正当性 に大きく関わってくるとの認識を麗女が持っていたためと考えら そこで、 光明天皇の即位の正当性に向けられた嫌疑を払拭する ために、 北朝正統論を掲げる需池の築屑」が持ち出してきた論理 が、「後烏羽院の御例にや侍ら ん」とあるように、 治承・寿永の 乱の最中、平家一門が安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちして しまった後、 事態を収拾するための臨時措慨として、 祖父の後白 河法皇の専断によって神器を欠いた状態で急遠擁立された後鳥羽

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天皇の先例に擬えることであった。束西に二人の天皇が同時に並 ぴ立つという異例ずくめとも言う べき後鳥羽天皇の即位の経緯に ・ついては、「増鏡」巻一「おどろのした」の冒頭部分や「月の行衛」 巻二「安徳天昂」の寿永二年(―-八三)条でも取り扱っている ところであ るがg‘r神島正統記」においてもその間の事情を次 のように説明している。 先帝、 西海二臨幸アリシカト、 祖父法皇ノ御世ナリシカハ、 •都 ハカハラス、 ……還幸アルヘキヨシ、 院宜アリケレト、 平 氏承引申サス、 ヨリテ、 太上法品ノ詔ニテ、 此天皇夕、セ給 ヌ 、 親王ノ宜旨マテモナシ 、 先 、 皇太子トシ、 即、 受禅ノ儀 ア リ、 翌年、甲辰ニアタル年四月二改元、 七月二即位、 此同 胞二高倉ノ第三ノ御子マシ(シカトモ、 法皇、 此君ヲエラ ヒ定申給ケルトソ、 先帝、 三種ノ神器ヲアヒクセサセ給シュ へ二、 践詐ノ初ノ違例二侍シカト、 法皇、 国ノ本主ニテ、 正 統ノ位ヲ伝マシマス 、 皇太神宮・熱田ノ神アキラカニマホリ 給コトナレハ、 天位ツ、カマシマサス、平氏ホロヒテ後、 内 侍所・神度ハカヘリイラセ給、 宝剣ハツヰニ海ニシッミテミ エス、 ここで注意されるのは、「神皇花統記」で は、 良位の象徴であ る三植の神器を所持していない後鳥羽天皇の即位は、「践詐ノ初 ノ途例」の措世であるとの認識を示しながらも、「正統ノ位ヲ伝 .マシマス」「天位ツ、カマシマサス」と、 その即位の正当性その ものについては否定していない点である。 親房が後烏羽天皇の即 位を容認した背景には、 現在の天良家(持明院統と大覚寺統)が 後鳥羽天皇の血統を受け継いでいることへの配慮 と、 結果論では あるものの、 神器が無事に都に戻されたこと などが考えられるが、 この箇所で展開された親房の論理 には、 大きな矛盾が認められる ところでもある。 「神岳正統 記」におい て主張された 親房の本来の論に よると、 神国日本の神聖不可侵なる旦 位は、 日神天照大神の本誓のままに、 三種の神器を所持し、 神器の徳を顕現する有徳の天皇が、 祖宗か らの譲りを正しく受けた上で継承されるべきものであった〈12)°親 房がこれほどまでに神器の所在に拘泥する姿勢を示したのは、 三 種の神器を守り保っているという事実 こそ、 現実の社会情勢では 常に劣勢を余儀なくされてきた南朝方の正統性を何よりも象徴す る、 菰要な意義を持っていたからである。 ところが、 後烏羽天皇の場合は、 天皇の京不在という未曽有の 混乱状態を処理するための便宜的な対策により、 祖父の法昂から の院宜を受けるという変則的な形で、 しかも同母兄を差し囮いて 僅か四歳で継承されたものであった。 しかし、 親房は、 これらの 歴史的事実を把握しながらも、「法皇、 国ノ本主ニテ、 正統ノ位 ヲ伝マシマス」「皇太神宮・熟田ノ神アキラカニマホリ給コトナ レハ」という言辞を弄して、 国政の疲高権力を掌握した〈治天の 君〉たる後白河法良が、 天日嗣の正統な継承 者としての権威を以

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って皇統の問題を決箔させたこ と、 及ぴ鏡・剣を御神体として祀 る伊勢・熱田両神宮の神の露護を条件に、 この度の即位の正当性 を独調している(13)。 親房の持論からすれば、 南朝方の正統性にも 関わってくる問題として、 後烏羽天皇の即位の正当性について正 餘を論ずべ きところであるにも関わらず、 極めて不徹底な印象を 与える箇所となっているのである9。 『池の藻屑」は、 このような親房の論理 の戴駈をつく形で、 烏羽天皇の即位の先樅を引き合いに出し て、 光明天是の即位の正 当性の拠り所として利用したものと考えられる。すなわち、 吉野 の山中で三種の神器を帯して自分こそが正当な天皇であると宜言 する後醍醐天皇に対抗する形で室町額府によって担ぎ出された光 明天皇の姿に、 西国で神器と共にある安徳天皇の存命中に後白河 法皇によって擁立された後烏羽天皇の事例を重ね合わせることで、 その即位の正当性を支える理論的根拠としているのではないかと 推測されるのである。 同じく後嵯峨天皇の系統を受け継ぐ持明院統と大覚寺統は、 ずれも由緒正しき天照大神の子孫ではあるものの、 長子相続を原 則とする正嫡主義に照らして見ると、 祖父亀山天皇が後深草天皇 の弟であるだけでなく、 自身も後二条天皇の弟にあたる後梨醐天 皇の皇統は、 天皇家の系譜の上から見て、 傍系の傍系に位箇する ことは疑いようのない事実であった。 しかも、 麗女にとって、 鳥羽天且の即位が歴史的事実として正当なものと認められている 以上、 持明院統の光明 天皇の即位もま た同様の観点から認める方 が合理的な考え方であり、 一時的に吉野の朝廷に神器が存在した ことを強調して北朝の存在を抹殺し、 南朝方の正統性を絶対化し ようとする親房の強引な論理は、 現実の状況を無視した極めて矛 盾に満ちたものに感じられたのではないかと憶測される。 と言うのも同の秘屑」では、 光明天島の在位中には実現しな かったものの、 南北朝の分裂から約六十年後となる明徳三年(一 三九二、 元中九年)閏十月、 室町幕府三代将軍足利義満の強力な 介入によって両朝の和睦が成立し 朝の後亀山天皇の入京とと もに、 三種の神器が再び京都(北朝方)に戻ってきたことが叙述 されているからである。 この場面もまた「続神皇正統記」の記事 の利用が指摘できるところであり、 長文の引用となるが、 論の展 開上、 該当箇所について先ず両者の影響関 係を確認しておきたい と思う。 今は世の中思ふ事なきにつけても、 都の上は、 三種の御宝の ,. 渡らせ給はぬ事のみ、 御心ぐるしうおぼしめしなやませ給ひ、 99999999999999 9999999999999999999999999999999, .. ,.,999999, ... , いかにもして、 芳野殿とむつまじうならせ給ひて、 御璽など 99999999, をもも とのま、に、 都に遠し奉らまぽしうおぼしめされて、 ・・・・・・室町の大臣に仰言侍りしに、 大臣も従ひ奉り給へば、 999999999999999999. には大内義弘を召れて、 四位の少将になさせられつヽ、 こま 9999999999999999999999999999999999999999999,' やかなる仰言にて、 芳野殿に逍はさせ給へり。 …・・・京にはい つしかと待おは しつるに、 御使佛上りて、 しか(と奏し奉

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りければ、 内にも御気色よくて、 他士ども召れて、 8を定め させ給ひ、 御迎の人々をもえらせ給へり。 ...... 十月廿五日よ 999999999999999999 9 9 9 9 9 999999999999 き日なりとて、 御迎の人奉れ給 ふ。 .. , ... 芳野の上は、 廿八日 御山を出させ給ふ。 関白殿は御よそ ひうるはしく直衣にて、 其外の公卿殿上人どものみやっこなどは、 みなこと/\しう 9 9 9 9 9999999999999999999999999999999999999999, えぴすの衣きて前しりへにしたがひたてまつれり。名和修理 9 9 99999999999999999999999999999999999999999999999,' 亮といふものは、帯剣の役に て、 御興にそひ奉る。義弘もさ 9 9 9 99 9 99 9 99999 999999999 .うぞくの下に、 腹巻といふ物を暗て、 引さがりてぞつかうま 999 9 999999 9 9 99 9 9 9 9 999999999999999 つりける。先奈良の京におはしまし、 立田などをも御らんず。 ・・・・・・閏十月にぞ都にいらせ給ふ。其日は殊に 引つくろはせ給 ひて、 内の行幸ぱかりの御儀式にて、 御引直衣なり。御輿仕 丁などさへ内より奉り給へば、 いと花やかなる 見ものにて、 都人どもは立なみて拝み奉る。夜に入てぞ、 嵯峨に浩せ給ひ、 大覚寺におはします。内よりも勅使あり。五日にぞ 三種の御 宝は、 大党寺殿より内裡に渡らせ給ひける。元暦の昔、 内侍 所の西の海よりかへらせ給へる例をひかせ給へりとかや。日 野の中納言を大納首になされて、 事どもした、むぺく定めさ 9999. せ給ふ。 関白殿もつかふまつり給ひ、 君達もあまたおはしま す。道の程もいみじき御よそひにて、 事なく内 にいらせ給ヘ ば、 此時ぞ誠に四つの海―つの御代となりぬ るを、 公私よろ こぴあひたり。 (「池の藻屑 J) 明徳三年大樹申沙汰にて、 南方御和睦の事あり。一ー一種神器帰 座あるべき御はかりごとにこそ 3 元暦内侍所西海より渡御の 例にまかせらる。 日野中納言資教卿大納言に任じて申沙汰し、 十月廿五日、 陣にて日時を被レ勘。閏十月二日、 南主夜に入 て御入洛。 直に嵯峨大党寺に渡御。併主上行幸の儀にてぞま します。御引直衣、 腰輿に熟。御葱与丁、 御与長なども沙汰 し献ぜらる。去月廿八日、 南山御所を出給 て、 奈良を経まし /\て、 けふ二日御京箔。供奉人大略戎衣鎧直垂也。関白殿 とかやは御直衣也。内侍所御 先行。今日片時の御行粧ながら、 当朝両主の御威儀こそめづらか なる御事にて侍れ 。同三日陣 定にて、 同五日三種芙宝内裏土御門殿に渡御。歎重の御儀式 にてぞまします。今度御合体の事、宥申さるこ旨御契諾の儀 もありけるにや。 とまれかくま れ霊宝御帰座、 まことに聖代 のしるしもあらはれ、 万歳の宝詐は弥御た のもしうぞ侍る。 (『続神良正統記」) 二作品の棒線を付した箇所をそれぞれ比較すると、 三種の神器 が北朝方に引き渡される際の儀式を中心 に、 南朝の後亀山天皇の 帰京前後の記述について「統神良正統記』の記事が参照されてい ることが 確認でき る。尚、点線部分の記述については「後太平記」 が、 波線部分については「続太平記」の記坦の内容がそれぞれ利 用されていると考えられる(15b この場面において、 主と して「税神皇正統記」「後太平記」「続 太平記 j からそれぞれ取り出してきた情報を適宜組み合わせなが 92

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-ら、 南朝の後亀山天皇の京都還御の有様が詳細に叙述されている のは、 この度の南北朝合体が皇室にとって特鉦されるべき一大事 件であっただけでなく、 北朝正統論を掲げる『池の藻屑 j にとっ ても、 南北朝の和睦に伴って実現した三種の神器の北朝方への穣 渡という出来事が、 北朝方の正統性を歴史的に根拠付ける狐要な 意義を持っていたためと考えられる。 また、 この場面において特に目を引くのは、「都の上は、 ...... ひたすら 思し召た、せ給ひて、 室町の大臣に仰酋侍りしに、 大臣 も従ひ奉り給へぱ」と、 南北朝和睦の提言と合体交渉が、 あくま で北朝の後小松天皇の意志に基づい て、 天皇主導の下でなされた ことが強調されている点である。 史実では、 北朝と合議すること なく南北朝の合体を独断で強引に推し進めたのは将軍義満の方で あり(16)、「続神皇正統記 j と「統太平記」も同様の立場を採って いるが、 E 池の煤屑」では後小松天皇が主導的 役割を演じる『後 太平記 j の内容が採用されている。 この要因とし て、 朝廷主導の 成果による南北朝合一の実現を強調することで、 北朝方の皇統の 正統性ひいては皇室の威信を更に高める効果を狙っていたのでは ないかと推測される。 更に、 三種の神器が南朝から北朝方に引き渡された際の儀式に 関連して、 「 元暦の昔、 内侍所の西の海よりかへらせ給へる例を ひかせ給へりとかや」と、 元暦二年(―-八五)三月の平家一門 の滅亡後に神器が長門檀の浦から引き上げられて四月に京都に帰 還した、 元暦の先例に言及している点も注目されるところである。 この元暦の先例については、 親房が「神良正統記 j において後烏 羽天皇の即位を正当化する理由の一っとして取り上げたものであ り、『池の藻屑」も当然そのことを念頭に設いた上で、 親房の意 図するところとは逆に、 北朝方の正統性を主張する歴史的根拠と して利用したものと想定される。 以上のことから、「池の藻屑」では、 親房が「神皇正統記」に おいて展開した理論の趣旨を踏まえた上で、 歴史上の事例に立脚 して南朝の立場を補強し正当化しようとした親房の論理の構造を 逆手にとる形で、 逆に、 北朝方の皇統の正統性を主張する理論的 根拠として利用していると考えられるのである。 四、 おわりに 親房が「神皇正統記 j において繰り広げた南朝擁護のための不 退転の思想は、 その直戟的で雄勁な文体との相乗効果によっても たらされる精神の高揚感と相侯っ て、 後世の歴史家に少なからぬ 影咽を与えたが、 明暦三年(一六五七)二月、 江戸の水戸家中屋 敷に史局を設僅して修史の事業に着手した水戸第二代器主徳川光 囲もまた、本世の強烈な理念に感銘を受けてその史嘗『大日本史」 に南朝正統論を採用した一人であった-17)。 ところで、『大日本史」 の編纂過程で光図と彰考館によって世に送り出された堵作群は、 麗女が歴史物語を執策する際に大いに活用した賓科であり( 18) 、 南 93

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-朝正統論を掲げる「大日本史」の存在 も、 当然麗女の意識すると ころであったと思われる。 しかしながら、麗女は、『神皇正統記」 や水戸彩考館の著作を通じて南朝正統論に接しながら も、 その思 想に与することなく、 北朝正統論 の立場を堅持して、 資料の中か ら淡々と歴史的事実のみを拾っていったのである。 このように麗女が親房や 光囲の意図に反して、「池の淡屑」で 北朝正統論を採用した背景には、「池の澳屑j巻二「光厳院」の 巻頭において、 転変する時代の激流に翻弄され綬けた北朝第一代 光厳天品の治世を叙述するにあたって、 此御事は、 世をしらせ給ふ程も久しからず、 いとあはたゞし くて、 おりゐさせ給へり。 ことに御位におはしまし、世の事 は、 さきにい ひ置たる人も侍れ ば、今更に同じ事云出たらん は、 床しげなきやうに侍れば、 とゞめ侍る也。 されど御つぎ /\のかぞへにもれさせ給べくもあら ず、 又後々は此御ぞう のみ伝へさせ給ふれば、 いとなんいみじき御事に侍り。 という感慨を記しているように、 紆余曲折を経ながらも、 光厳天 皇の系統が現在に至るまで途切れることなく継承されてき た、 と いう厳然たる事実が前提としてあったからである。 「池の藻屑』巻一「後醍醐天皇」の巻末で は、 後醍闊天皇の波 乱に宮んだ御代を締め括るに際し、 南北朝時代の世相に対する次 のような脱女の見解が提示されている。 如何成にか此世には、 天か下に二人の君おはしまして、 …… 都にて又なく時めきしものも、 露計りの憂ふしをかごとにて、 芳野殿に急ぎ参りては、 きのふけふまで睦まじかりし友をも、 いつしか打亡ん事をおもひかまふるに 、 又 京よりことよくい ひあざむくに ぞ、 やがてかたらはれて、 たち焔りなどするは、 誠に淵瀬もさだめなく、 何が道なる世の中とて、 さらに争ひ のやむ時なくなりぬるに ぞ、 国破れて山河あり、 城春にして 草木深し、 といひけん古ごとにかよへる世とはなりぬ。 後醍醐天皇が招来した南北朝 時代とは、『太平記jにも詳述さ れているように、 治承・寿永の乱をはるかに凌ぐ全国的規模の動 乱の中で、 絶え間なく打ち萩く戦乱によって荒廃した人心が裏切 りの横行と辿鎖をもたらし、 没落した公家勢力に取って代わり政 治の実権を掌握した守護大名たちは、 室町幕府の下で権力抗争に 明け暮れるなど、 一刻も早い平和と秩序の回復が希求される時代 であった。故に、 南北朝動乱の激動の時代に生き、 自ら最前線に 立って奮闘した親房の生き方は、.遥か後代の近世中期という泰平 の世に 生を享けた 麗女にと ってもはや実感に乏 しいものであり、 南朝(大党寺統)の天皇へひたすら献身的に仕え、 天良親政・公 家一統の御代の実現に生涯を捧げた親房の理想と信念は、 現実の 社会情勢にそぐわない極めて観念的なものに映じたであろうと思 われる。 しかも、 南北朝合体後に旧南朝の後裔たち(後南朝)が 辿った悲劇も麗女の熟知するところであることから 、 現 在の天皇 家の直接の祖先である北朝(持明院統)を正統と捉える方が、 当 94

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-・時の実態や社会通念に照らし合わせても、より合理的であると判 断したのであろうと推測されるのである。 (l)本杏では、後村上天皇以降の歴代南朝の天良を正統から外し、 後既闇天&の後は光厳天品以降の歴代北朝の天良が正統の天皇 として扱われており、「池の煤屈jの構想との一致が認められる。 (2)正徳五年に完成した本紀・列伝が、碁府には献上されながら朝 廷への献上が実現せず、「大

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本史」の舟名について勅許を得 る案も放菜されたのは、本書の南朝正統論が、京都の 朝廷 が北 朝の系統をひいているという事実とは相容れない主張であると 考えられ、朝廷の公式見解に対する挑戟として受け取られたた めであった。尾藉正英「水戸学の特質」(で日本思想大系53 水 戸学」岩波書店、一九七三年)。 (3)千田憲「隧徳麗女の「笠令」に就いて」(「京都女子大学紀要j 第十一巻、一九五五年十月) (4)拙稿「「池の藻邑と軍記物話」(『間大国文論稿j第三十三号、 二00五年三月) (5)後嵯峨天皇の二人の皇子のうち、兄の後深箪天皇の系統(持明 院統)ではなく、後醍闇天品の祖父にあたる弟の亀山天皇の系 統(大覚寺萩)による皇位継承に正当性を付与するための理論 付けとして持ち出されたのが、天照大神の訳慮によって日嗣の 継承が実現されていくという「正理」の理念であり、本書の論 理の矛盾の一っとして指摘されるところでもある。新田一郎「継 承の論理ーW朝と北朝ー」(「岩波猿座 天且と王権を考えるj 第二巻、岩波世店、二00二年) (6)「日本古典文学大系87 神皇正統記・増競j (岩波柑店、一九六 五年)の解説(岩佐正執節)、平田俊春「神旦正緩記と大日本史」 (「訊事史学」第十二怨第一号、一九七六年五月、のち「神品 正統記の基礎的研究」雄山閣出版、一九七九年に所収)を参照。 (7)小泉弘「吉野拾遺と東斎随節の世界」(「日本の説話・中世

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」 第四巻、東京美術、一九七四年) (8)『日本古典文学大辞典j (岩波嘗店、一九八四年)第四巻「絞神 且正統記」の項(笠松宏至執箪)、注6の「日本古典文学大系 87神且正統記・埒鏡」の解説を参照。 (9)『国害総目録』によると、本密には明和四年(一七六七)刊の 版本が存在する。 (10)「池の煤邑の歴代天皇の数え方についても、「本朝旦胤紹運録 j の記述との符合が認められるところであり、両者の密接な関係 が想定される。 (11)『増鏡」と麗女の歴史物栢との関係につい ては、 拙稿「歴史物 語の系陪と「池の藻屑」『月の行衛」」(『日本言語文芸研究j第 六号、二00五年十二月)において考察した。 (12)『神皇正統記」(岩波苔店〈岩波文駅116 .1〉、一九七五年)の補 注(岩佐正執箪)を参照。 (13)注6ので日本古典文学大系87 神皇正統記・培説」の頭注。 (14)本郷和人「天品の思想ー闘ヽ2頁族北

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親房の思惑T '」(山川出 版社、二010年)は、本由の至る所に論理の矛旧が 認められ る要因として、親房が学間的な厳密さよりも現実の社会情勢へ の対応を瓜視する貴族であった点を指摘している。

(14)

(15) 「池の藻屑 j と「後太平記 j 「続太平記 j との影響関係について は注4において考察した。 (16)義尚が南朝側に示した読和条件の中には、 南朝の後亀山天星の 即位を正式なものと認め、 今後の皇位維承は阿統迭立とするな ど、 北朝側にとって到底承服できない事項が含まれてお り、 当 初から約束の不屈行は不可避の情勢であった。森茂暁「闇の歴 史、後南朝ー後梨醐流の抵抗と終焉ー」(角川嘗店〈角川選杏284〉、 一九九七年)及ぴ「南朝全史ー大党寺統から後南朝ヘー J (講 談社〈講談社選書メチェ334〉、 二00五年)を参照。 (17)i二大特策を始めとする絹集方針や全体の構想が姫終的に定まっ た時期については諸説あるが、 正式に水戸史学思想の根幹が世 に明らかにされたのは、 完成した本紀・列伝が都府へ献上され た享保五年(一七二0)以降であったと考えられる。瀕谷義彦 「水戸学の背原」(「日本思想大系53 水戸学」) (18)拙稿「荒木田麗女の「池の藻屑jにおける「参考太平記」と「扶 桑拾菜集 l の利用について」(「8本言語文芸研究」第八号、 ニ 00七年十二月) 〔付記〕本稿で使用したテクストは、「池の源屑」は「改訂史藉集覧」 第三巻(臨川書店、一九八三年復刻版)、「神良正統記」は「神道大系」 論説組十九『北畠親房(下)」(神道大系椙 纂会、 一九九二年)、「統神 皇正統邑は「新校群幣類従 j 第二巻(内外柑藉株式会社 、一 九二九 年)、 和歌関係は「新椙国歌大観〈第一巻〉勅揖集絹 歌集」(角川皆 店、 一九八三年)であり、 引用に際しては読み易さを考虚して私に改 変を加えた。 —文系ー(大要女子大学)四 大要国文(大要女子大学国文学会)四一 二九 大阪大学 跡見学園女子大学 研究室受贈図書雑誌目録IV 人文学フォーラム(跡見学園女子大学文学部 人文学科)八 (もりやす 跡見学園女子大学文学部紀要(跡見学園女子大学)四五 歌子(実践女子短期大学日本語コミュニケーション学科)十八 宇大国語論究(宇都宮大学国語教育学会)ニ― 湖の本(奏 恒平)一0二‘ 10三‘ 10匹‘ 10五 湖の本 エッ七イ(秦 恒平) 愛媛国文研究(愛媛国語国文学会•愛媛県高等学 校教育研究会国 語部会)五九 愛媛国文と教育(愛媛大学教 育学部回語国文学会)四二 王朝細流抄(安田女子大学大学院古代中世文学研究会)十三 王朝文学研究誌(大阪教育大学大学院王朝文学研究会)二十 大阪大谷国文(大阪大谷大学日本語日本文学会)四十 日本学報(大阪大学大学院文学研究科日本学研究室) 大要女子大学紀要 まさこ 台湾・真理大学助理教授) 96

参照

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