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ヒュームの宗教論における人間精神の一貫性

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(1)

ヒュームの宗教論における人間精神の一貫性

著者

菅原 宏道

雑誌名

文化

83

3,4

ページ

55-75

発行年

2020-03-31

URL

http://hdl.handle.net/10097/00128852

(2)

令和 2 年 3 月 31 日発行

ヒュームの宗教論における人間精神の

一貫性

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ヒュームの宗教論における人間精神の一貫性

菅 原 宏 道

序論 ヒュームが神や宗教について論じたのは、主に『自然宗教に関する対話』、 『宗教の自然史』、『人間知性研究』第十章「奇蹟について」、同第十一章「特 殊的摂理と未来の状態について」、そして「奇跡と熱狂について」などの諸 エッセイにおいてである。これらのなかで、彼がもっとも多くの紙面を費や し、神や宗教、そしてそれらに関わる人間の精神について議論を展開したのは 『自然宗教に関する対話』であり、彼は自身の死の近き到来をさとった際、近 しい人々に同著の出版を強き嘆願までしている。 本稿は、複雑な構成を持つ『自然宗教に関する対話』の読解を試みること で、彼における神や宗教に関わるわれわれ人間の精神における一貫性なるもの の実際を描き出そうとするものである。これは、『人間本性論』などにおける 彼の見解に依拠してなされる。『自然宗教に関する対話』が対話篇という形式 を採り、かつヒューム自身は著者ないし創作者という立場にあり、同著単独で は彼の見解を特定の作中人物に帰することは困難だからである。また本稿は、 彼が人間の精神を演劇の隠喩を用いた諸知覚の継起と捉えたことを、人間の生 という営みにおける、自然的本性の発現する状況という一種の因果的な契機と 捉えたと解し、上の試みをなしてゆくことにする。 1. 人間学と自然宗教 ヒュームは『人間本性論』第一巻「知性について」の最終節「この巻の結 論」において、「私は、私自身を、すべての形而上学者、論理学者、数学者、 さらには神学者の敵意に曝してきた」と同巻を振り返っている(T1.4.7.2)。 この言は、彼が、哲学を含めた当時の諸学が、無知や不可知を顧みない僭称 ゆえの脆弱な学的基礎の上に構築された「不完全な現状」にあると思量し(T intro.1-2)、そうした状況を改めるべく、同巻で進取を発揮し続けたことに所 以を有している。彼が諸学の改善を試みる新規な方策は、広義的には、伝統的

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な諸学問の序列との離別と言うことができる。換言すれば、伝統的に自由七科 の上位に位置していた哲学が、これに下位分類されていた諸学を堅固に基礎づ けるということである。これゆえ、彼が為し行く哲学は、むろん真理を人間が 手中にし得ると揚々と称する形而上学や、啓示宗教を理論的に基礎づける神学 に身を捧げる精励的な哲学ではない。 諸学が悪しき状況に至った主な原因を上記のように見定めたヒュームが、そ れらの改善を試みるべく構築を試みるのは「人間学」(the science of man)1

あり、その趣意は、総じて、精神が有する能力と性質とを知ることにある(T intro.8)。この目的のための手段は「実験的推理法」(the experimental method of reasoning)と称される。これは、ニュートンの自然哲学における方法論に 多くを倣ったと目され、経験と観察によって得られる個別的事象どうしが、類 似、隣接、原因と結果の三つの関係、つまり観念連合の原理に基づくことで、 それら事象間における結合の一般化や規則性の獲得へと路を開くものである。 彼は、自身の独自な人間学を構築する意義とその展望について以下のように述 べている。   明らかに、あらゆる学は、 多かれ少なかれ人 間の自 然 本 性(human nature)に関係を有し、人間本性からどれほど遠く隔たるように見える学 でも、何らかの道を通って、やはり人間本性に結びつく。数学3 3 、自然哲3 3 3 学3 、および自然宗教3 3 3 3 3 3 3 でさえ、ある程度「人間」の学に依存している。[中 略]重要な問題で、その決着が人間学に含まれないものはなく、また、こ の学を知る前に確実な決着がつけられ得る問題はない。それゆえ、われわ れは、人間本性の諸原理の解明を企てることで、実は、ほとんどまったく 新しい基礎の上に、しかも諸学を安全に支え得る唯一の基礎の上に、諸学 の完全な体系を建てることを目論んでいるのである。(T intro.4-6) 改善が試みられる諸学の人間学への依存は、それら諸学が「人間の認識能 1 むろんこうした問題の学的考察はホッブズの人間論等にも見られるように、ヒュ ームに始まることではない。また、人間学と言っても、ヒュームは、プレスナー やシェーラーらの哲学的人間学(philosophische Anthropologie)のように、人間 の本質や、世界や自然界における人間の存在の意義などは問題としない。

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力の及ぶ範囲にある事柄であり、人間の諸能力によって判断される事柄」(T intro.4)であるということに依っている。人間学が探究の対象とする人間本性 は、広義的には、われわれにあまねく備わっている精神の諸特性と言い得るで あろうが、ヒュームはこれを、「人間知性の範囲と力」、「われわれが用いる諸 観念の本性」、そして「われわれの推論における心的作用の本性」とやや具体 化して列挙している(ibid.)。ヒュームはそうした人間の諸能力や本性の探究 によって学的改善がとりわけ期待されるのは、中世以来、哲学を予備学として 持ち続けてきた神学であり、チャーベリーのハーバート、ロック、トーランド らの理神論に観られる「自然の光」、つまり人間の理性2の能力が司る自然宗 教であると捉える。彼はその理由を以下のように付している。

  なぜなら、自然宗教は、単に神々の本性(nature of superior powers)を 説くに留まらず、神々のわれわれに対する神慮(disposition)と、われわ れの神々に対する義務(duties)にまで考察を進めるので、われわれ自身 が、単に推論を行う者であるだけでなく、推論の対象の一つとなっている …。(ibid.) 名誉革命が先導した近代市民社会の発展、17 世紀中葉から 18 世紀ヨーロッ パを貫く啓蒙主義による合理的精神の拡大などからなる当時の歴史的脈絡や思 想的環境においては、理性こそが人間に本来的に備わっている能力と積極的に 解され、その意識的な行使が人格を有する市民の証、あるいはキリスト教を合 理的に理解し得る能力として称揚された。こうした理性観の伸張は、一般に、 キリスト教における神の恩寵や奇蹟、つまり人間の理性の能力を超越した事柄 をも謳う啓示宗教そのものや、聖職者らの権威に対する反動にたどり得るとさ れるが3、それでもヒュームは、自然宗教における神を拝する合理的な理性の 2 ヒュームは、知性(understanding)という語と、理性(reason)という語を、能 力としても作用としても、厳密には区別せずに使用している。理性には広狭二義 があり、広義の理性は、知性と同義的に使用され、狭義の理性は、数量化が可能 な対象についての論証をなす能力ないし作用の意味で用いられる。 3 ただし、啓示宗教の典型とも言うべきキリスト教の教義体系に関する敷衍的解釈 一般においては、理性的推論や経験的証拠をもその見解に採り入れることは、少 なくとも当時は、必ずしも特異なことではなかった。

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揚々たる雄弁には与しなかった。 彼の問題意識は、神の実在や、神秘の啓示の真偽等ではなく、神や宗教に関 わる、あるいは関わらざるを得ない人間の精神の能力や作用、とりわけ知性や 信念にある。それは、『宗教の自然史』の序論に要約的に述べられているよう に、「理性における宗教の根拠」に関する問題、および「人間本性における宗 教の起源」に関する問題(NHR intro.1)である。前者の問題は『自然宗教に 関する対話』における中心的な主題であるデザイン論証、つまり神の存在や本 性を支持する合理的な根拠、あるいは信念を抱く原因の問題として、後者の問 題は『宗教の自然史』における未知な原因に対する不可知な力を持つ存在への 希望や恐れ、つまり情念とこれに導かれる想像力の問題として扱われている。 2. 『自然宗教に関する対話』の構成 本章では、『自然宗教に関する対話』におけるデザイン論証を通じて、「理性 における宗教の根拠」の問題を扱う。ヒュームがデザイン論証(the argument from design)についてまとまった論述をなすのは、『自然宗教に関する対話』 と、これに先立つ『人間知性研究』の第十一章「特殊的摂理と未来の状態につ いて」であり、両者とも対話篇という形式を採っている。前者におけるデザイ ン論証(目的論的証明)を簡易に紹介するならば、以下のようになろう。 世界ないし自然には、手段の目的への否定し難い適合、すなわち計画性によ る秩序が見いだされる。このことは、時計のような精巧な人工物の場合と類似 している。ところで、類似した結果には類似した原因が存在する。これゆえ、 時計という巧みなメカニズムをもつ人工物(結果)に意図や知性を持つ製作者 (原因)が存するように、世界ないし自然の原因も、意図や知性を持つ存在、 しかも計画性による秩序を有する世界ないし自然という偉大な結果に比例する 偉大な意図や知性を持つ存在、つまり世界ないし自然の創造主である神の存在 を証明する4 『自然宗教に関する対話』においてヒュームは、懐疑主義的なフィロ、自然 宗教擁護的なクレアンテス、そして信仰主義的なデメアの三名による対話に加 え、対話中の個別的な状況における対話者の様子などを、クレアンテスの弟子 4 板橋は、デザイン論証一般について、「文化とともにあった人間の宗教的感情の 論理化であったと言えよう」(板橋 p.202)と概評を与えている。

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であるヘルミッポスが、正確な記憶を頼りに、読者役のパンフィロスに伝える 体裁を採っている。デザイン論証はもちろん、自然宗教を擁護するクレアンテ スによって主張され、対話の多くは、この主張に対して、多言を呈するフィロ と敬虔なデメアによる批判に費やされている。対話篇という形式ゆえ、古くか らヒュームの代弁者を特定しようとする議論に数多の紙面が費やされてきた。 たとえば、ケンプ・スミス、ガスキン、オコーナーらはフィロこそヒュームの 考えを提起しているとし、ポプキンやパイクはそれをクレアンテスと見なし た。もっとも、この代弁者の特定問題は、ヒューム自身の考えを、他の著作に おいて把握し、それに基づく一貫した主張をしている特定の者がいること(あ るいは、いないこと)を前提としている。 この代弁者の特定問題をより困難にしている理由は、プラトンの『国家』に おけるソクラテスや、バークリの『ハイラスとフィロナスの三つの対話』に おけるフィロナスなどのように、対話者の内の特定の者が他の対話者を教え諭 すような関係にはなっていないこと、また、対話者の他に対話の伝達者とその 受け手もいるということに求められよう。後者の点は、ヒュームが同著をキケ ロの『神々の本性について』をモデルとして執筆したことに理由の一端を求め 得ようが、同著はキケロ自身が著者と伝達者とを兼ねている点が『自然宗教に 関する対話』と決定的に異なる。さらに、『自然宗教に関する対話』における 伝達者であるパンフィロスは、対話の単なる伝達者の役割を越え、同著の序説 においては対話篇の利点や単一の神の存在などに独自の見解を、また対話の只 中においては、対話者の様子や心中の推察を挟み入れ、さらに最終章の末尾に 至っては、次のような見解を持って同著を締めくくっている。   こ の 日 の す べ て の 議 論3 3 (reasonings)ほ ど、 私 に 大 き な 印 象3 3 (impression)を与えたものはかつてなかったので、私は正直に告白する が、全体を真剣に検討した結果、フィロの諸原理が、デメアの主張よりも 蓋然性が高いこと、しかし、クレアンテスの原理が[フィロの諸原理よ り]さらに一層真理に近いと思わざるを得ない3 3 3 3 3 3 3 3 。(DNR12.34;傍点は筆者 による) パンフィロスによるこの総括ないし感想はどう読まれるべきであろうか。少 なくとも、ヒュームが当時の世相を鑑み、無神論者の廉を恐れて自然宗教ない

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し一神論を支持したという見解は、知人らが彼を諫めた諸書簡から確かである にせよ、それがパンフィロス3 3 3 3 3 3 のこの総括と整合するか否かは、われわれの知る 限り、テキストの証拠に乏しい。この問題は後に論じるが、ここで少しだけ述 べれば、パンフィロスは、対話中の議論によって印象を受けて、つまりこの議 論を原因として、クレアンテスの原理が真理に近いと思わざるを得ないという 結果に至ったということにあると考えられる。つまり精神が因果的に被決定さ れたということである。 3. デザイン論証とその批判 それでは、以下にデザイン論証の主要な議論を追ってみることにしよう。前 述したデザイン論証の擁護者クレアンテスの主張に対するフィロの批判は同 著の第二章以降、多岐の観点からなされている。批判の多くは、ヒュームがク レアンテスに「論証」(argument)と呼ばせているものが経験的な証拠という 結果に基づき、神の存在という原因が帰納的に導かれていることに向けられて いる。そうしたア・ポステリオリな論証は、むろん結論が蓋然的であることを 逃れない。クレアンテスのデザイン論証は以下のように提起されている。これ は、トマス・アクィナスや後にカントが提起した神の存在証明のうち、自然神 学的証明と基本的に同様な論理に基づいている。   全自然を一貫している手段の目的への巧妙な適合は、程度は遙かに高いに せよ、人間の工夫、つまり人間の意図、思惟、知恵および知性への諸結果 とまさに類似している。このような次第で結果が相互に類似しているから というので、われわれは、類比のあらゆる法則によって、原因もまた類似 していると推論する(infer)に至るのだ。ただ自然の創作者は、彼が成就 した作品の偉大さに比例して、遙かに大きな能力を備えているだけの違い なのだ。このようなア・ポステリオリの論証により、またこの論証だけに3 3 3 3 3 3 3 よって3 3 3 、われわれは直ちに単一の神の存在とこの神の精神や知性への類似 性を証明するのだ。(DNR2.5; 傍点は筆者による) これに対して、フィロはまず、因果推理は類似する対象どうしの恒常的随伴 の経験の必要性、および、想定される対象の一方である神そのものを経験する ことの不可能性の考えによって応じる。言うまでもなく、この応答は、ヒュー

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ム自身が『人間本性論』や『人間知性研究』で繰り返し説いたことに他ならな い(T1.3.2.2, 1.3.14.20-21, EHU7.2.2-3. et al.)。また、フィロは「宇宙が家へ のそっくりのそのままの類似を持っていて、われわれが家の場合と同一の確実 性で類似的な原因を推測できるとか、あるいは類比がこの場合も欠けたことが なく完全であるとは言えまい」(DNR2.8)と、家と宇宙との類似性を相違点の 強さの観点からとらえ、類推による結論の蓋然性の低さを指摘している。われ われが得ることができる経験的証拠は世界や自然のなかの一部分に過ぎず、そ の一部分と人工物との類似性に基づき宇宙と人工物との類似性を肯定すること はできないのである5 他方で、信仰至上主義的なデメアは、第二章でのクレアンテスのア・ポステ リオリな論証に対し、苛立ちを表す。すなわち、神の存在証明はア・プリオリ な論証によってなされるのであり、そうした論証はこれまで多くの哲学者がな してきたはずではないかといぶかる(DNR2.6)。そして彼はクレアンテスに対 し、「このような偽りの公平さ(affected candour)によって、君は[実質的に] 無神論者に利を与えているよ」(ibid.)と皮肉る。デメアの本意はこうであろ う。すなわち、創造主である神と人間、ないしは世界や自然と人工物との類推 は、両者における本質の洞察であるはずだが、クレアンテスの類推は、経験的 に認められる一部の類似を恣意的に取りだしたに過ぎず、両者に対する「偽り の公平さ」は、クレアンテスの論敵であるはずの無神論者と同様に自説を論証 する手立てを持たないことを自ら認めることになってしまう。かく見通したデ メアのア・プリオリな存在証明は第九章に至って提示される。   どんな事物にとっても自己自身を産出する(produce itself)ことや、自分 自身の存在の原因であることは、絶対的に不可能であるから、およそ存在 するものは何であれ、その存在の原因ないし理由を持たなければならな い。それゆえ、結果から原因へとさかのぼってゆけば、われわれは何の究 極的原因を何ら持つことなく、無限な継続たどりつつ進んでゆくか、そう 5 また後にフィロは、譲歩して上のクレアンテスの考えを受け容れたとしても、結 果に神が含まれていない以上、世界や自然の創造者が唯一の神である必然性はな く、何らかの精神どころか、物質の運動や構成によって偶然的に生成した可能性も 排除できないとまで説き及んでいる(DNR5-12)。

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でなければ、必然的に3 3 3 3 存在している何らかの究極的原因に最終的には助け を求めなければならないのだ。[中略]この存在は、自分自身の存在の理 由をそれ自身のなかに持っているのであり、また明確な矛盾なしには存在 しないと想定され得ないのだ。したがって、そのような存在が存している のだ。すなわち、単一の神が存しているのだ。(DNR9.3) この証明は、いわゆる宇宙論的証明であり、もちろんヒュームが徹底的に 論難した考えに根拠を置いている。ヒュームが「原因の必然性」(necessity of cause)と呼んだ、存在の因果律とも言うべきものは、彼によると、直観に基 づく、当時の「哲学における一つの一般的原則」とされており(T1.3.3.1)、 「存在し始めるものは何であれ、存在の原因を持たなければならない」という 原理である。   われわれには、すべての新たな存在、または存在のすべての新たな変様 に対する原因の必然性を論証することは、同時に、何らかの産出原理 (productive principle)なしに何かが存在し始めることが不可能であるこ とを示さずにはできない。後ろの命題が証明できない場合には、われわ れは、前の命題を証明(論証)する可能性を断念しなければならない。 (T1.3.3.3) 存在の因果律が論証的にも直観的にも確実性を持たないということは、 ヒュームが、「観念の関係」(relations of ideas; EHU4.1.1)という真理保存的 な推論対象の関係と、「事実の問題」(matters of fact; ibid.)という、われわれ が記憶や感覚の証拠を越え出ることが可能である問題において、前者に対象ど うしの確実性の根拠を求めることが不可能であることに依拠している。しか し、デメアのア・プリオリな神の存在論証に対して反論するクレアンテスが主 として依拠するのは、上にあげたヒュームの「観念の関係」と「事実の問題」 との区別である。   僕がまず指摘したいのは、経験的事実を証明しようとすること、つまり ア・プリオリ3 3 3 3 3 な何らかの論証によって経験的事実を立証しようとすること には、明白な不条理が存在するということだ。何ものもその反対が矛盾を

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含意していない限り証明が不可能なのだ。判明に思い浮かべることのでき る(distinctly conceivable)ものは、何ものも矛盾を含意しない。われわ れが存在していると思い浮かべることができるものは、すべて、われわれ は存在していないと思い浮かべることができる。これゆえ、その非存在が 証明可能な存在物は存しない。(DNR9.5) クレアンテスのデザイン論証に対して批判や異論を提起する点でフィロとデ メアは、基づく根拠は異なるにせよ、デザイン論証批判という点では足並み を揃えている。しかし、先述したように、デメアから批判されたクレアンテス は、ヒュームが他著で提起した考えに基づきこれに応答している。少なくと も、これまでの議論においては、ヒュームの代弁者の候補はフィロのみである ように見える。それでは、クレアンテスから批判されたフィロは、どのような 考えによって応答ないし反論しているのか。そして、それらは成功しているの か。次章で論じるのはこれらの問題である。 4.フィロの困惑と信仰告白 さて、クレアンテスは第三章において、第二章におけるフィロの「論理の諸 原理」(DNR3.8)によるデザイン論証批判に対して攻勢に出る。クレアンテス は、第二章など無かったかのように「有神論者が自然の諸作品の[人間の]技 芸の所産への類似性を証明するなどということは、この類似性が自明であり、 否定することが不可能であればこそ、まったく必要がないということに君は気 づかないのか」(DNR3.1)と反論する。これはフィロが適用する論理の諸原理 とは別様な仕方による自身の主張の提起と言い得る。すなわち、当の問題は、 類推の不完全さや恒常的随伴の欠如などへの指摘など、知性によって合理的に 神や宗教を基礎づけようとする仕方では扱うことができないほどの確実性を有 しているという論点である。 クレアンテスは、「一つの音節を持った声が雲間から聞こえ、それが人間の 技術がかつて達し得るどんな声よりも遙かに大きく、かつ遙かに旋律が美しい と想定したまえ」と隠喩を用い、「この声の原因に関して、君は一瞬たりとも 躊躇することがそもそもあり得ただろうか。むしろ君は、即座にそれをある意 図ないし目的に帰せずにはいない3 3 3 3 3 3 3 3 のではあるまいか」(DNR3.2; 傍点は筆者に よる)と、フィロの論理の諸原理ではなく人間本性に訴える。彼はこれに留ま

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らずさらに次のような隠喩を使って畳み掛ける。仮に、人類が共有する普遍的 な言語が世界や自然に存在し、また、その言語によって書かれた書物も世界や 自然に存在し、書物は、動植物のように繁殖を繰り返し、自らの種を永続させ ているとした場合、フィロが自分の書斎に入るならば、次のようにならざるを 得ないはずとクレアンテスは考えている。   書斎は、仮定通りの自然の産物である本で満たされており、それらは、こ の上なく洗練された理性や、この上なく上品な美を備えている。君は、 そのなかのどれか一冊を開くなら、その書物を生み出した起源的な原因が 精神や知性にこの上ない強い類比を帯びていることを疑い得るだろうか。 [中略]その本は、時には純粋な理性(pure intellect)に訴え、時には情 感(affections)に訴えてくる。(DNR3.5)   作品のなかで、われわれは[美の]法則に反すると思われるような美しさ に出会うことがある。そのような美は、批評のどんな原則や、これまでの 名匠らの権威に逆らい、気持ちを惹きつけ想像力を喚起する。(DNR3.8) 仮定された諸事例であるにせよ、第三章におけるクレアンテスの反論は、わ れわれの人間本性が傾向性として顕現しているならば、われわれはそれに抗 するどころか、起源的な原因と人間の精神や知性との強い類比を信じざるを得 ないことをフィロに感得させるに十分であったと考えられる。むろんクレアン テスのこの論証は、かつてのア・ポステリオリな論証とは異なる「不規則な議 論」(irregular argument; DNR3.8)であり、人間の情念そして情念に基づく 想像力の作用にその基礎が帰され、信念を生起させるものである。この論証に 対してフィロは反論しない。ヒュームがヘルミッポスにさせた描写によると、 フィロは「少しばかり困惑して混乱している(embarrassed and confounded) のが見てとれた」とされる。フィロの心情を推し量るならば、この状況におい ては、クレアンテスの論証に同意せざるを得ないことと、懐疑的な知性が基づ く論理の諸原理によるデザイン論証の不可能性の主張との、いずれも選択し得 ない精神の状況に「困惑し混乱している」と考えられる。 実際にフィロは、同著の第六章から第八章に渡り、世界や自然と人工物との 類推とは異なる類推の可能性を指摘している。これは『人間本性論』第一巻第 三部において「非哲学的蓋然性」とヒュームが呼んだ蓋然性が低下する事例、

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すなわち、われわれが観察した複数の事例のなかに反対の事例が見いだされる 場合、導かれる結論の蓋然性が弱くなるという主張に該当している(T1.3.12.4-24)。さらにフィロは、第十章および第十二章においては、クレアンテスと同様 な不規則な論証を自身でもなし、第十二章の冒頭付近において自然宗教への信 仰を告白するに至る。   私は好き勝手に話をするし、特異な論証を好むが、君は、私ほど宗教の感 覚を深く心に刻み込んでいる者はいないということは分かっているだろ う。われわれには、説明不可能な自然の考案や技巧において、神聖な存在 者は自らを理性に対し知らせている。そうした神を私ほど深く敬愛する者 がいないことは、君には分かるだろう。(DNR12.2) この信仰告白は、しばしば、第三章の困惑および混乱に端を発するフィロの 「心変わり」(change of mind)の問題として、トゥウェイマンやガスキンらを はじめ、『自然宗教に関する対話』における重要な論点とされてきた。すなわ ち、フィロはクレアンテスの反論を受け、論理の諸原理からではないにせよ、 信念として有神論を採るに至ったと解されることの是非の問題である。上述し たように、われわれは、フィロの困惑や混乱は、少なくともクレアンテスから の反論を受けた状況での一種の戸惑いによる一時的な判断の停止の状況と考え た。そうした心的状況の後にフィロがなす、明証性の低さを原因とする信念の 生起の不可能性の指摘は、何らかの情念の生起という契機によって懐疑的精神 を取り戻したフィロの再反論と解するべきであろう。もっとも、そうした再反 論の最中にあっても、単一の神の存在やその目的や意図に基づく計画性を信じ てしまう傾向はフィロに潜在している可能性を持つ。そして何らかの情念の契 機によってそれが顕現し、フィロはクレアンテスに自身の信仰を打ち明けるに 至ったのである。 5. ヒュームにおける情念と想像力 それでは、情念が目的を持ち、これに想像力がしたがうとする見解を持つ ヒュームは、フィロの信仰告白をどのように捉えるのだろうか。『自然宗教に 関する対話』を素朴に読む限り、フィロの心的態度は、少なくとも一貫性を有 しているようには見えない。上の問いは、理性を重んじる懐疑主義的なフィロ

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が宗教的信念を持つに至った精神の機構を探ることである。換言すれば、いか なる情念を原因としてフィロは、単一の神を信仰するに至ったのかという問題 である。 ヒュームは、ロックが、『自然法論』や『人間知性論』第一巻において、お そらくはデカルト主義者を念頭におき、彼らの生得説を批判した際、彼もこれ に同意しているが、その同意は決して全面的なものではなかった。

  人 間の精 神には、 苦と快(pain and pleasure)の知 覚が、 精 神のすべ ての作 用の主な原 動 力(moving principle)として植え込まれている (implanted)。(T1.3.10.2)。   善と悪、言い換えれば、快と苦の他に、直接情念はしばしば自然な衝動つ まり本能から生じる。しかし、これはまったく説明不可能である。この 種のものには、敵に罰を与え、友に幸福を与えたいという欲求や、飢え、 性欲、その他いくつかの肉体的欲望がある。これらの情念は、正しく言え ば、善悪をつくり出しているのであり、他の感情のように、それらから生 じるのではない。(T2.3.9.8; cf.2.3.3.8) ヒュームは、侮辱に対する憤激、両性ないし同性間の利他的な情念、あるい は自己愛などは、われわれに生得的に備わっている人間の自然的本性と考え る。これゆえ、ヒュームにとって、ロックがデカルト主義者の生得説を批判し た際に、それらの情念は除外されるべきものであった。ともあれ、上記の引用 部に、宗教的な信念と連関を持つ本性を読み込むことは、一見、可能なように 思われる。彼は『宗教の自然史』第三節「同一主題(多神教の起源)の続き」 においては、次のように、情念とそれに従順な想像力について述べている。   われわれは、生と死、健康と疾病、豊富と欠乏との間の絶え間ない浮遊状 態に身を置いている。これらは人類の間に密接な未知の諸原因によって配 分されており、その作用はしばしば予想外であり、常にはかり難いからで ある。そこで、これらの未知の諸原因3 3 3 3 3 3 は、われわれの希望と恐怖の不断の 対象となる。かくて、諸情念は出来事の兢々たる予期によって、絶えざる 警戒態勢に保たれている半面、想像力も、われわれがこれほど完全に依存 しているこれらの諸力について、観念を形成するのと同じように忙しく働

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かされる。(NHR3.1) ヒュームは、希望と恐怖という情念は、善悪から生起する反省の印象ととら える。究極的な原因こそ未知であれ、われわれの情念は、恐怖が虚妄と消え、 晴れて希望が適うという目的を持ち、警戒態勢をとりつつ、そうした諸情念の 目的へ、想像力が手段として「観念」を形成するべくしたがう。しかし、われ われが未知の諸原因の「観念」を想像しえるとしても、そうした「観念」が 「現実を虚構より切実な(より現実な)もの」(T app..12)とし生き生きとし た仕方で抱かれる信念であり、延いては信仰であるとまで説き及んだことにな るのだろうか。確かに、われわれにとって「生と死、健康と疾病」などは切 実な問題であろう。しかし、ヒュームにおいて、「観念」は、抽象的対象も含 めて思念の対象であり、信念は、「現実をして情念と想像力に対するより大き な影響を与えるような精神の作用」(ibid.)によって抱かれるものである。つ まり、神の実在性に及んだ神の信念が求められるのである。この問題に対する ヒュームの見解は簡潔である。彼は信念の生起を、現実における諸対象の恒常 的随伴を経験することに求めるからである。   私が観念を考えるときと、神を存在すると考えるときと、神を存在すると 信じるときとでは、私が抱く神の観念は、増えも減りもしないのである。 しかし、ある対象の存在を単に思念することと、それを信じることとの間 には大きな相違があることは確かであり、この相違が、われわれが思念す る観念の諸部分にも、観念の複合にもないのであるから、その相違は、わ れわれがその観念を抱く(思念する)抱き方(思念の仕方)になければな らない、ということが帰結する。(T1.3.7.2) 他方で、ヒュームにおける想像力は、「記憶」と区別される想像力と、「理性」 と区別される想像力とに大きく区別される。前者は「より生気のない観念をい だく能力、つまり推論と空想の能力」、つまり比較的安定した想像力である。 これに対し後者は、「同じ能力から、ただ論証的および蓋然的推論をのぞいた もの(能力)」であり、これは時として宗教的な熱狂や迷信を生み出す。そし て彼は知性を、前者の「想像力の一般的でより確立された原理」(T1.4.7.7)、 あるいは「熟した想像」(T1.4.7.14)と言い換え、広義の理性と同義的に使用 していたことを、『人間本性論』第一巻の最終節に至って顕わにしている。彼

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は、次のように理性について説明ないし定義を与えている6

  理性とは、われわれをある特定の観念の連鎖に沿って運び、それらの観念 にそれらの特定の状況と関係に応じて特定の性質を与えるところの、われ われの魂における驚くべき理解不可能な本能(wonderful and unintelligible instinct)に他ならない。(T1.3.16.9) ここから、ヒュームにおける前者の想像力は、人間の自然本性に位置づけら れる、作用ないし能力の一つと見なすことができ、ここに伝統的な論理学を批 判する契機がある7。その作用や能力は、蓋然的推論や推理ばかりか、数量を 対象とした論証においても働く。われわれが一般に、理性(知性)の能力や作 用によってなしていると考えるものは、実際は想像力の一般的に確立された能 力である。そして、想像力は、すでに述べたように、感じる「知覚」としての 「反省印象」として扱われる情念の赴くにしたがい、目的を達するために助力 6 「われわれは、われわれ自身が、手段を目的に適合させるに際して、推論と計画 とによって導かれていること、そして、われわれが、自己保存、快の獲得、およ び苦の回避に資する行為を、知らずにするのでも、無計画にするのでもないとい うことを意識している」(T1.3.16.2)。く、何らかの精神どころか、物質の運動 や構成によって偶然的に生成した可能性も排除できないとまで説き及んでいる (DNR5-12)。 7 われわれはこの機会をとらえて、学校でしばしば教え込まれることによって、 いわば確立された原則となってしまい、すべての論理学者たちに普遍的に受け 容れられている非常に注目すべき誤りを、考察してもよいであろう。その誤り は、 知 性 の 作 用(acts of understanding) を、 概 念 作 用(conception) と 判 断 (judgment)と推論(reasoning)とに分ける通常の分類と、それぞれに与えら れる定義とにある。[中略]知性のこれらの三つの作用について一般に主張でき ることは、正しい見方をすれば、それらの作用のすべてが、第一のもの[概念作 用]に帰着し、対象を思念する特定の仕方に他ならないということである。[中 略]われわれが単一の対象を考察しようと、いくつかの対象を考察しようと、わ れわれが、これらの対象に留まろうとも、それらから他の対象へ移ろうとも、ま たどういう形式と順序で対象を眺めようと、精神の作用は、単なる概念作用(思 念)を超えないのである。この場合に生じる唯一の顕著な相違は、われわれが、 概念作用に信念(belief)を付け加え、われわれの思い浮かべる(思念する)こと が真であることを確信する場合に生じる。(T1.3.7.5.n1; 傍点は筆者による)

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としての役割を果たすのである。しかし、われわれが知性(理性)と呼ぶもの が上記のような二種の想像力であるということは、われわれが受け容れ難い帰 結を生むことになる。   もし、われわれが想像力の取るに足りない示唆のすべてに同意するなら ば、これらの示唆がしばしば互いに相反している上に、それらはわれわれ が最後にはわれわれの信じやすさを恥じなければならないような誤謬や不 合理や不明瞭に導く。想像力の飛翔ほど、理性にとって危険なものはな く、哲学者たちのあいだでこれより多くの誤りの原因となったものはな い。想像力の激しい人は、この点で、聖書が描いている、自分の目を自分 の翼で覆っている天使(堕天使)たちに喩えられる。(T1.4.7.6)   われわれが、想像力の些細な示唆をすべて拒絶することを決心して、知性 に、すなわち想像力の一般的でより確立された性質にしたがうことを決 心するならば、この決心でさえ、もし一貫して実行されるならば、危険で あり、もっとも致命的な結果を伴うであろう。というのは、…知性がもっ とも一般的な諸原理にしたがって働くときには、自らを完全に覆し、哲学 におけるものであれ、日常生活におけるものであれ、いかなる命題にも、 もっとも低い明証性さえ残さないからである。(T1.4.7.7) この状況はディレンマに他ならない。しかし、ここで確認すべきことは、む しろ、彼がここで提示した懐疑論者を自身ではなく「想像上の学派」としてい ること(T1.4.1.8)、懐疑論者による理性に対する疑いは、彼ら自身が持つ理 性に依拠してのみ権威を持つこと(T1.4.1.12)、そして、われわれは想像力が 一般的に確立されたものとしての理性であっても、そこで生じる懐疑的議論を 終生維持し得るものではないということである。ヒュームは、決して全面的な 懐疑論を自身の結論としては提示していないのである。   ここで私が説き勧めようと大いに骨を折っているように見えるところのこ の議論に、私がまじめに同意しているのか、また、私が本当に、すべて が不確かであり、われわれの判断はいかなる事柄においても真理と虚偽の いかなる基準も持っていないと主張する、懐疑論者の一人であるのか、 と尋ねられれば、私は、この問いがまったく不必要な問いであり、私で

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あれ、また他の誰であれ、この意見を真面目にまたずっと変わらず抱い3 3 3 3 3 3 3 3 3 たことはなかった3 3 3 3 3 3 3 3 、と答えるだろう。[中略]このまったき懐疑論(total scepticism)の小理屈を論駁しようと骨を折った人はみな、実は、論敵が いないのに論争していたことになり、自然があらかじめ精神に植えつけ (implanted)不可避としたところの能力を、議論によって確立しようと 努力していたことになる。(T1.4.1.7; 傍点は筆者による) ヒュームにおける理性(知性)は、先に引用したように、人間の自然的な本 性に基づくとは言え、その場合の理性とは、想像力が一般的に確立されたもの としての理性(知性)であり、自ら積極的に行使する精神の能力ではない。理 性をそのような能力と見なすことは、悪しき理論哲学の、つまり悪しき形而上 学の観点から理性を捉えていることに他ならない。さればこそ、理性(知性) が、自身の出自(想像力)を隠して越権し続けることは許されず、「想像力の 一般的でより確立された原理」としてのみ作用するならば、「原因から結果へ、 あるいは結果から原因への習慣的移行(因果推理)のように、永続的で、不可 抗で、普遍的である諸原理」に基づき、「われわれのあらゆる思惟と行為の基 礎であり、それがなくなれば、人間本性はただちに破滅してしまうほかない」 (T1.4.4.1)とするのである。 結論 人間の精神は、定まった時点や地点や状況において経験や観察がなされるも のではなく、人間の実生活における多様な振る舞いを、いわば推移として探究 される。これは、人間学の手段たる実験的推理法が基本とした経験的事実の収 集という実践的な営みの対象である。精神を諸知覚の継起とするヒュームは、 そうした実践を現実の人間における長き生において捉えた。こうした意味にお いて、彼における精神は、倫理的、文化的、そして法的などのさまざまな観点 から、人格(person)、ないし自我(self)と言って差し支えないであろう。 彼は、『人間本性論』第一巻の最終節「この巻の結論」において、「われわれ の思惟または想像に関わる人格の同一性」と「われわれの情念(passion)と、 われわれ自身に対する気遣い(concern)とに関わる人格の同一性」とに苛ま れている自身の目の前の光景を吐露し続けている。多様な解釈が林立してきた この箇所で、彼は情念に基づき、哲学者たらんと誓うや、次は社交や会話に心

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を惹かれ、しばらくすると、たとえ知性の蓋然的な結論に心が砕かれようと も、哲学に貢献しようとする。彼のこうした精神的転回の繰り返しは、特定の 情念が設ける目的に対してという観点からは一貫性を欠き、強く持続的な情念 による安定した生とはうつらない。しかし、それでもわれわれは精神に同一性 を帰そうとする傾向を持つと考える。ヒュームはこの事実に対し、「何がわれ われに、これらの継起する諸知覚に同一性を帰し、一生を通じてわれわれが不 変で中断のない存在を持つと想定する、このように大きな傾向を与えるのであ ろうか」(T1.4.6.5)と問うたのであった。この探究こそ、「人間知性の範囲と 力」や「われわれが用いる諸観念の本性、ならびにわれわれの推論における心 的作用の本性」(T intro.4)という序論において示した問題の中心である。し かし彼は、この問題を探究する際、ロックやデカルトにおける「観念」や精神 についての考えを踏襲することはなかった。 デカルトをはじめ、当時ないし伝統的に考えられていた、主に単純性や同一 性によって特徴づけられていた実体的な精神の理解は、諸知覚を「それ自身 で存在し得る」実体とし、その継起全体を精神とする考えと大きく異なる。 ヒュームは「人間本性論摘要」において、デカルトを名指し、精神についての 考えの違いを明瞭に述べている。   デカルトは、思考が心の本質であり、それは、この思考あるいはあの思考 ではなく、思考一般であると主張した。これは絶対的に不可能であるよう に思われる。というのは、すべての事物は、存在するとき個別的だからで ある。そしてそれゆえ、心を合成するものは、われわれのいくつかの個別 的な知覚でなければならない。私は心を合成する3 3 3 3 (compose)といい、心 に属する3 3 3 (belong)とはいわない。心は、そのなかに知覚が内属している 一つの実体ではない。そのような実体の概念は、思考一般あるいは知覚一 般が心の本質であるという例のデカルト的な考えと同様に理解不可能であ る。(A28) ヒュームは、われわれの諸知覚は「すべてともに結合され、しかし、何らの 完全な単純性や同一性を持た」(ibid.)ず、「限りなく多様な配置や状況におい て混在」(T1.4.6.4)と考察したした。各々の知覚やそれらの継起は、どれほ ど類似していても厳密にはすべて唯一のものである。したがって、彼にしてみ

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れば、デカルトによって呈された精神ないし思考一般が、これに内属する「観 念」を精神や思考一般が知覚することが可能であるということは、われわれ が、演劇に喩えられる諸知覚の継起の全体おいて、個々の判断の適切さを吟味 することや、種々の感情に動かされることが、いかなる意義をも持ち得ないこ とを含意する。継起する諸知覚のなかから恣意的に単一の知覚を切り取ったと しても、その「知覚」は、それに先行ないし後続する知覚との繋がり、つまり 因果的な影響関係を欠いた「知覚」に過ぎない。われわれは、ある演者がある 状況で発した台詞が単独で感銘的であると感じることはないのである。その台 詞に比し得る「知覚」は「限りなく多様な配置や状況」と相対的に、かつそれ らに依存する仕方でしか有意には評価し得ないからである。 さて、『自然宗教に関する対話』の第一章は、デメアとフィロによる教育に 関する対話から始まっていた。デメアは「哲学を学ぶ者は、まず論理学、次 に倫理学、その次に自然学、そして最後に神々の本性を学ぶべきである」と説 く。これに対してフィロは、「君は宗教の原理をそんなに遅く子供におしえる のか。子供らは教育の全課程の間、ほとんどその種の見解を聞かないとする と、そうした見解をまったく無視したり、拒否したりする危険はないだろう か」と疑義を呈す。しかしデメアは、自然神学を後回しにするのは、学問とし てのそれであり、すべての学問に先んじて信仰心を育むことこそ肝要であると 応答し、フィロもこれに同意する。続けて、この両者の同盟的な状況をクレア ンテスが遮り、「フィロ、そうであるならば、君の提案は宗教の信仰を哲学的 懐疑主義の上に築き上げたいと言うのだね」と真意を確かめる。つまり、理神 論的傾向を有するクレアンテスが重んじる理性を懐疑に付すことで、諸学の明 証性が奪われ、その結果、われわれは神学の傘下に避難することになることを フィロの発言に読み込んでいる。しかし、フィロによる明確な応答は第十二章 に至って以下のようになされている。   [人間に]自然に備わる理性は不完全であると正しく習った者(a person, seasoned with a just sense of imperfections of natural reason)ならば、啓 示される真理に対して、最大の熱意を持って飛び立つでしょう。しかし他 方で、傲慢な独断論者は、哲学の助力があれば、自身で神学の完全な体系 を構築できると信じているので、哲学以外の助力を見下し、外から来た師 (啓示)を拒絶するのだ。学術の世界の人にとって、哲学的な懐疑主義者

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であることは、正統にして信仰の厚いキリスト教徒となるための、最初 の、そしてもっとも本質的な一歩だ。(DNR12.33) ここで注目すべきことは、懐疑主義的であるフィロが、理性(知性)の不完 全さを前提した語り方をし、またその理性を、クレアンテスが擁護するような 理論理性ではなく、「自然に備わる」と形容していることであろう。これは、 ヒュームが理性(知性)の自然性、つまりその出自を人間本性の想像力に持つ ものと解していたことと整合しよう。これにより、第一章でのフィロを「宗教 の信仰を哲学的懐疑主義の上に築き上げたい」と解したクレアンテスの誤解が 顕わになっている。すなわち、クレアンテスは、第一章において、フィロの真 意を、理論理性に基づく懐疑主義の破綻は宗教的信仰を基礎付け得ないと揶揄 していた。しかし、フィロの真意は、自然な理性が作用する結論の蓋然性に対 して繰り返される反省に打ちひしがれた際、われわれは、「啓示された真理」 の考察という目的を情念が設定することを述べていることにある。 ヒュームは、先述したような、自身の人生における精神遍歴を典例とし、『自 然宗教に関する対話』において、予備的な経験や学問、つまり精神に影響する 原因を持たない子供への教育の仕方やそれに基づく子供の人格形成のあり方を 真偽の問われない創作として描こうとしたのではないだろうか。すでに見たよ うに、作中人物の精神にいわゆる一貫性を読み込み得ない以上、そこで描かれ る誰かの人格の生成や教育観を、彼が範例としていたとは考え難い。むしろ、 そうした固定的な人格形成こそヒュームが拒否するものであろう。『人間本性 論』に明らかなように、「継起する諸知覚に同一性を帰し、一生を通じてわれ われが不変で中断のない存在を持つ」ことは想定に過ぎないのである。 『自然宗教に関する対話』は、精神に倣い、演劇にも比し得よう。同著は一 人称による論究ではなく、対話篇であることによって、しかも、対話者に参 加していないパンフィロスに、見解や性格の異なる三名の対話者を、第三者的 な立場から評価(観劇)する定点的な視点を与えている。諸知覚に比し得る三 人の対話者(演者)のさまざまな状況や情景における個々の台詞や演技は、演 者どうしのやり取り、あるいは演劇全体としての出来栄えなどとして評価され る。もっとも、ヒュームはこの演劇に自身の理想とする筋書き(台本)は与え ず、ヘルミッポスという読者の代表を採用することによって、読者の評価も仰 いでいる。こうした考えにおいては、同著にヒュームの代弁者を求めることは

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無用な詮索となろう。彼はこう述べている。   [対話で]扱われる主題が興味をそそる面白いものであれば、その書物を 通して、われわれは、いわば[対話の]仲間に連れ込まれ、人生におけ るもっとも高潔な快楽である、研究と社交に同行させてくれるのである。 (DNR Pamphilus to Hermippus) 作中で対話の仲間に無為に連れ込まれたのは、パンフィロスその人を置いて 他にいない。それでは、こうした読解において、人間精神における一貫性はど のようなものとして捉えられ得るのだろうか。この問いへの応答は、広義的な がらすでに示されている。すなわち、われわれ人間の精神は、情念の設定した 目的に想像力がしたがうことにより生を営み続ける。ある時は、誰かの議論に 惹かれてそれを受け入れざるを得なくなり、後に興味や進取が消え去れば、社 交や会話へ赴くように。そうした現実の生の営みは、幼少から教育を受ける子 供であろうと成人であろうと同様であろう。もっとも、ヒュームも述べている ように、われわれは各人各様の性格を有する。これゆえ、同じ状況において各 人がみな同じ情念を持つとは限らず、想像力の作用も多岐に渡る。各人に共通 するのは、個別的な状況において情念に先導され、因果的に想定される結果な いし原因が想像力において抱かれること、つまり人間精神において、そのよう に発現する人間本性こそ、生の営みにおいて一貫性した作用を保ち続けるので ある。 [ 文献 ]

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参照

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