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<研究ノート>テマ反乱についての覚え書き

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(1)

<研究ノート>テマ反乱についての覚え書き

著者

中谷 功治

雑誌名

関学西洋史論集

35

ページ

63-74

発行年

2012-03-30

URL

http://hdl.handle.net/10236/12797

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研究 ノ ー ト

デマ反乱 につ いて の覚 え書 き

中 谷 功 治

は じ めに 今 か ら半世紀 ほ ど前、 デマ制 と 呼ば れる軍事行政制度 の起源 を め ぐ っ て ビザ ンツ史 学界で活発 な論争 が展開 さ れた(1)。 け れ ど も、 史料情報の乏 し さ か ら議論はほ どな く 沈滞化 し、 1980年代に入 る と、 研究の軸足はデマ制の成立時期か ら当時の ビザ ンツ帝 国 にお いて 「 デマ」 がは た し た具体的役割へ と 移 っ て い っ た。 主 に軍団 と し て史料 に 登場す る デマ の実態 に即 し た研究が登場 し、 その成果は今日に も受け継がれて い る。 と り わけ、 リ ー リ エ の小 ア ジア防衛論、 ケ ーキに よ る軍事不安の分析、 そ し て ホル ド ンの兵士 徴募 や近 衛 連隊 タ グ マ の研究 が あ げ ら れ る(2)。 こ れ ら の研究 を受け て筆者がかつ て注目 し た のが、 小 ア ジア のデマ軍団 が 7 世紀か ら 9 世紀前半 にかけ て ひき 起こ し た一連の軍事的騒乱、 「 デマ反乱」 で あ っ た。 それ はケ ーキの研究 を受け継 ぐ も ので はあ っ た が、 彼が 5 世紀か ら 9 世紀 に至 る よ り 広 い 時間枠 と 視野の下 で軍事不安 M ilitary Unrest 全般 を扱 っ たのに対 し、 筆者はあ く ま で デマが中心的役割 を果たす反乱に議論 を し ぼ って考察 し た。 その成果で あ る論文 「 デ マ反乱 と ビザ ンツ帝国」 (1986年) は、 いま だおおま かな見取 り 図 と 雑駁な考察の域 を 出 る も ので は な か っ た が、 そ の後 も い く つ かの論文 を つ う じ て、 ① 8 世紀初頭 に 「 デマ連合政権」 と 呼び う る政治体制が生 じ た こ と、 ② 9 世紀20年代のデマ反乱の事 実上の終焉によ り 、 ビザ ンツ帝国は中央集権的な皇帝専制体制へと むか っ た、 と の仮 説 を提示 し た(3)。 本稿では、 再度 「 デマ反乱」 全体 を概観 し、 筆者の 「 デマ連合政権」 論 と のつなが り の明確化 を日指 し て、 一連の出来事の特徴 を簡潔にま と めてお き たい。 1 . 後期 口一 マ帝国か ら中期 ビザ ンツ帝国へ まず、 時間的 ・ 空間的によ り 広い視野にたつケーキの研究 ( 5 世紀後半~ 9 世紀中 頃) を も と に、 後期 ロ ーマか ら中期 ビザ ンツ時代 にかけ て の軍事上 の動向 を ま と めて お こ う o ( a ) 周知のよ う に、 ロ ーマ帝国史におい て 3 世紀は危機の時代で あ っ た。 と り わけ

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セ ウ ェ ル ス朝断絶後の世紀後半は、 半世紀間に少 な く と も25回の帝位纂奪が く り かえ さ れた。 皇帝た ちの短命な治世は、 それ以前の元首政 2 世紀半での平均在位、 約20年 と 好対照 を な し て い る。 3 世紀末以降、 帝国の再建者 デ イ オ ク レ テ イ ア ヌ ス帝 と 再統一者 コ ン ス タ ンテ イ ヌ ス 1 世によ って革新的な諸政策が断行 さ れた。 こ こ で注目 し たいのが、 国家の統治に おいて軍隊の指揮権 と 属州 で の民事行政権 (徴税 ・ 裁判 な ど) を分離す る と い う 原則 で あ る o こ の改革 を つ う じ て、 かつ て皇帝位のすげ替 え に 「暗躍」 し た近衛長官 praefectus praetorio は文官 と し て、 帝国最大 の行政区分 「道 praefectura」 の最高責任者 と な っ た。 「道」 の下 には 「管区 dioecesis」 や さ ら に下 位の細分化 さ れた 「属州 provincia」 があ り 、 近衛長官は こ れ ら すべて を 統括 し た。 こ の整然 と し た官僚組織 に裏 う ち さ れた行 政は、 原則 と し て軍事か ら切 り 離 さ れた。 一方、 軍事面 では騎兵 を中核に し た機動野戦軍 comitatenses が帝国各地 に設定 さ れ、 司令官 magister militum の指揮の下 に置かれた。 こ れに加 え て、 国境付近 には ド ウク ス dux が指揮す る歩兵主体の国境守備隊 1imitanei が配置 さ れる。 外敵か ら の侵略 を 受け た国境守備隊は、 機動野戦軍の到着ま で敵軍の領内侵入 を で き る だけ小規模に と ど めお く 役割 を に な っ た。 なお、 7 世紀以降 に登場す る小 ア ジアのデマ (軍団) と は、 以上 にあげた機動野戦 軍の う ち、 オ リ エ ン ト 方面軍 ( ア ナ ト リ コ イ )、 アルメ ニ ア方面軍 ( アルメ ニ ア コ イ )、 ト ラ キ ア方面軍 ( ト ラ ケ シオ イ ) 、 皇帝直 属軍 ( オ プ シキ オ ン) が、 そ れぞ れ小 ア ジ ア に展 開 し た も の で あ っ た(4)。 ( b ) 4 ~ 5 世紀のロ ーマ帝国にみ ら れる特徴 と し て、 東方 と 西方で の統治の安定度 のい ち じ る し い差異 を あ げ る こ と で き る。 東方 で は、 コ ン ス タ ン テ イ ヌ ス 1 世以後、 大規模な軍事反乱は減少傾向にあ り 、 武力纂奪は影 を ひそめ る。 た だ し、 対外上 の情 勢 も あ っ て、 世紀末 のテオ ド シウ ス 1 世に至 るま で、 皇帝は 3 世紀後半同様に主 に軍 隊が擁立す る軍人皇帝が占めていた。 5 世紀に入 る と状況は大き く 変化する。 政権内外ではげ し く 動揺 を く り 返す西方 を よ そ に、 束方 は政治面 で し だ い に安定 へ と む か っ た(5)。 そ れ を象 徴す る のが、 皇帝 の コ ン ス タ ンデ イ ノ ー プル常時居住 と い う 現象 で あ る。 こ れと 時 を お な じ く し て、 こ の 町は帝国の首都 と し て急速 に整備 さ れて い っ た。 結果 と し て、 テ オ ド シウ スま での軍 人皇帝 た ちが当然のよ う に実施 し て いた親征は、 彼の死後ほ と ん どみ ら れな く な る。 378年、 首都近 く で のウ アレ ン ス帝の戦死 の影響 も あ っ た だ ろ う。 以上 に あげた軍事募奪 と 皇帝親征の消減 と い う 現象 の背景 と し て、 デ イ オ ク レ テ イ ー 64

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ア ヌ ス と コ ン ス タ ン テ イ ヌ ス帝 の時期 に導入 さ れた、 軍事 権 と 行政権 の分離 の存在 を 確認 し て お き た い。 民族移動の荒波 を回避 で き た帝国東方 にお いて は、 こ のデ イ オ ク レ テ イ ア ヌ ス ・ コ ン ス タ ン テ イ ヌ ス体制 が導入 か ら 1 世紀 を へ て、 よ う や く そ の効果 を 見 せ始 め た のか も し れな い。 こ のよ う な経緯 を う け て、 皇帝の即位儀礼 に お い て も、 軍隊 の比重は低下 す る よ う にな り 、 即位式典の場は首都郊外のへ ブ ド モ ン練兵場か ら首都の宮殿横の戦車競技場 ヒ ッ ポ ド ロ ー ムへ と 移 っ た。 こ こ に、 かっ て べ ッ ク が提唱 し た元老院 に よ る選出 (後 継指名 を欠 い た場合)、 市民 た ちの歓呼 と い う 即位式 と、 その後の聖 ソ フ イ ア聖堂 に 場所 を移 し て の総主教によ る戴冠 と い う 形 が整 っ た(6)。 以上は帝国国制 の脱軍事化 と 呼べ る だ ろ う 。 ( c ) デ イ オ ク レ テ イ ア ヌ ス ・ コ ン ス タ ン テ イ ヌ ス体制 に変化 の兆 し が見 え る のは 6 世紀に入 っ て か ら で あ る。 ユ ス テ イニ ア ヌ ス 1 世が発布 し た新法か らは、 軍事行政面 で の改革の試 みが確認で き る(7)。 一部 の属州 では軍民両権の一致が認 め ら れたので あ る。 こ れ ら は いま だ 例外的 な事 例 と みな す こ と が可能 か も し れな いが、 ユ ス テ イ ニ ア ヌ スが再征服 し、 新 た に方面軍司令官が派遺 さ れたイ タ リ ア と 北 ア フ リ カ にお いて は、 政情不安 と 首都か ら の遠 さ も あ っ て変化は さ ら に進 んだ。 マ ウ リ キオ ス帝 (在位581

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602年) は、 上記の両軍司令官 を 「総督 (エ ク サル コ ス)」 と 呼んで、 軍指揮権のみな ら ず現地 の行政権 を も ゆだ ねた ので あ る。 こ れは帝国 の辺境地域 にお け る措置 と は い え、 外見上 は後 のデ マ制 に近似 す る現象 で あ っ た(8)。 に も かかわ らず、 大 き な変化 は 7 世紀 にお と ず れる。 ( d ) 602年に ド ナウ国境で発生 し た軍事反乱は、 総司令官 を放逐 し て首都へと 向か い、 こ れに首 都 で の ク ー デ タ が呼応 す る こ と に な っ た。 将兵 が擁立 す る 軍人 フ ォ ー カ スがマ ウ リ キオ ス帝 を排除 し て帝位につ き、 こ こ に現職皇帝の失脚 ・ 殺害 と い う 事態 が数世紀 ぶ り に起 こ っ た (新帝はへ ブ ド モ ン練兵場 で即位) 。 そ し て、 フ ォ ー カ ス帝 に よ る武力簒奪に続 く のは内政の混乱 と 対外危機で あ っ た。 610年 には カ ル タ ゴ総督 ( エ ク サル コ ス) の息子 へ ラ ク レ イ オ ス (在位610

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641年) が帝位 を再 び武力 で簒奪 す る (9)。 ヘ ラ ク レ イ オ ス と その子孫 はほぼ 1 世紀のあい だ 7 世紀のロ ーマ帝国 に君臨 し たが、 ヘ ラ ク レ イ オ ス帝没後の後継者 を め ぐ る争 いや コ ン スダ ンス 2 世殺害前後の軍事不安 な ど、 時代は新たな方向に動き始めて もいた。 7 世紀末か ら 9 世紀20年代にかけては、 軍事反乱が く り かえ さ れ、 帝位が何度 も交替す る事態が生 じ た。 と り わけ、 7 世紀末 か ら 8 世紀初頭 と 8 世紀末か ら 9 世紀初頭にかけては帝位纂奪が断続的に繰 り 返 さ れ、 激変 と いえ る事態 にいた っ た。 それは 3 世紀後半 の武力纂奪の時代の再来 で あ っ た。

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( e ) こ の時期 には皇帝 の親征 と い う 習慣 も 復活す る。 ヘ ラ ク レ イ オ ス帝 に よ る決死 のペル シア遠征、 後継の コ ンス ダ ン ス 2 世の陸海 で の出征 と イ タ リ ア方面 への移動、 そ し て コ ン ス ダ ン ス の息 子 コ ン ス タ ン テ イ ノ ス 4 世 や孫 ユ ス テ イ ニ ア ノ ス 2 世 も 親征 を繰 り 返す。 以後 9 世紀後半 にかけて、 皇帝が親征を実施する こ と が常態 と な る。 こ れ らは帝国が対外的 な危機に瀕 し た こ と と 関係 し て いた と 思われる。 以上 のよ う な政治情勢のなか、 デマが し ば し ば反乱 を起こ し たのが 7 世紀後半か ら 9 世紀20年代ま で の時期で あ った。 デマ制は地方の軍団司令官によ る軍指揮権 と 行政 権の掌握 を基盤 と て い たが、 こ の制度が形成 さ れたの も こ の時代のこ と で あ っ た。 デ マ制の登場 と は、 帝国政治が再 び軍事色 を深めた こ と と 関係 し て い る。 2 . デマ軍団が関係 し た諸事件の概要 7 世紀か ら 9 世紀にかけ て、 デマがかかわ っ た軍事反乱や注日 すべき 事件 を列挙 し た のが下 の表 で あ る。 こ こ で は簡単 に そ れ ら に つ い て ま と め、 補足 し て お き た い。 年 年 代 年 66 66 69 69 71 71 71 71 72 74 77 79 79 80 81 82 82 ① ② 十 十 十 十 ③ ④ 十 ⑤ ⑥ ⑦ 十 ⑧ ⑨ 十 ⑩ 実 行 主 体 アルメ ニ ア コ イ 軍団 ア ナ ト リ コ イ 軍団 首 都 ク ー デ タ カ ル タ ゴ遠征艦隊 ケ ル ソ ン遠征艦隊 首 都 ク ー デ タ オ プ シ キ オ ン軍 団 将軍 レオ ン ( 3 世) へ ラ ス軍 団 な ど ア ル タ バ ス ド ス 小 ア ジ ア デ マ 将 兵 小 ア ジ ア全 デ マ軍 団 アルメ ニ ア コ イ 軍団 バ ル ダネ ス= ト ウル コ ス 将軍 レオ ン ( 5 世) ミ カ エ ル 2 世 ス ラ ヴ人 ト マ ス 概 要 将軍 サ ボ リ オ ス が蜂 起 将兵が首都対岸で政府に要求 元 アナ ト リ コ イ 将軍 を擁立 ・ 纂奪 撤退時に反乱 ・ 将帥擁立 ・ 簒奪 派遺先で反乱 ・ 流刑将帥擁立 ・ 纂奪 オ プ シキオ ン要人 ら官僚擁立 ・ 纂奪 遠征軍の反乱 ・ 無名役人擁立 ・ 纂奪 ア ナ ト リ コ イ 十 ア ル メ ニ ア コ イ ・ 纂 奪 皇帝擁立 と首都へ艦隊派遺 ・ 敗退 小 ア ジ ア の デマ を二分 す る大反 乱 レオ ン 4 世に息子の共同皇帝 を要求 帝位 をめ く' って首都付近 に集結 帝位を め ぐ って反乱 を継続 ・ 鎮圧 小 ア ジ ア の デ マ が反 乱 ト ラ キ ア に あ っ た デマ軍 が擁立 ・ 簒奪 首 都 で の ク ー デ タ 小 ア ジ ア の デ マ を二 分 す る 大反 乱 成否 x x 〇 〇 〇 〇 〇 〇 x △ 〇 〇 x x 〇 〇 x 5 9 6 9 1 6 3 4 4 頁 、 ) 8 2 8 0 8 3 5 6 5 7 9 5 9 9 2 ) * 4 5 6 7 7 8 8 8 0 1 4 6 6 7 0 * * 3 3 3 3 3 3 3 3 4 4 4 4 4 4 5 ( ( (「 十」 は反乱 で は な い が デ マ や軍隊 がかか わ っ た出来事 ; 「頁」 は 『 テ オ フ アネ ス

の年代記』 (Boor, C de(ed ), Theophanls Chronographia, vol. 1, 1883, Leipzig) のもの ;

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* Lesmuelier-Wemer, A. & 1. Thum,(eds ), fosep z Geneszz egum i n affuor, Berlin,

1978, A 22 (pp 20-21.); Bekker, 1.(ed ), Theophanes Continuatus, Bonn, 1838, A 25 (p p 38-40) ; * *cf Lemerle, P., Thomas le Slave, Travau:,c et Memoires 1, 1965, pp 255-

297.)

①は ア ル メ ニ ア コ イ 軍団 の将軍 ( ス ト ラ テ ー ゴ ス) のサボ リ オ スが、 皇帝 コ ン ス ダ ンス 2 世が西方に出征 し て不在中に く わだて た反乱であ っ た。 結局、 皇帝軍 と の決戦 を前 に し て、 サボ リ オ スが不 慮 の死 を と げ た た めに反乱 は瓦解 す る。 最初期 の デマ反 乱 と 呼ん で も よ い も のだ が、 事件 の詳細 は明 ら か で は な いao)。 ② も年代や具体的内容 を め ぐ っ て不明 な点が多 い。 と も か く 、 ア ナ ト リ コ イ 軍団が 都の対岸ま で到来 し、 皇帝に二人の弟 と の共同統治 を要求 し た ら し いが、 成功 し なか っ たa l)o なお、 皇帝の息子 た ち に よ る権力聞争 は、 王 朝初代 のへ ラ ク レ イ オ スの死後、 代 々 続 いて い る。 こ れ ら の帝位継承 を め ぐ る争 いに軍隊 が関与 し た事例 と し て は、 641年 のへ ラ ク レ イ オ ス帝 の死去 に 続 く ヴ アレ ン テ イ ノ ス将軍 のケ ー スが知 ら れ る。 た だ し 、 彼の具体的行動 の詳細は研究者 た ち の想像力 を お お いにふ く ら ま せて再構築 す る ほか な い (12)。 さ ら に、 反乱主体 と し て艦隊が重要な位置 を占 めて い る こ と も指摘 し てお き た い。 た だ し、 当時の帝国がかかえ る艦隊の全体像 を描 く こ と は困難で、 研究者 た ちは 8 世 紀初頭時点 では軍管区 と し て のデマ には含めて いな いa3)。 713年 の ク ー デ タ は オ プ シキ オ ン軍団 の司 令 官 ( コ メ ス) ら の指示 の も と 、 ク ー デ タ の実行部隊 と し て こ の軍団兵 が動 いたが、 政権交代成功後に こ の軍団司令官 らの首 謀者は失脚 し て い る。 そ れだけ に 2 年後、 再 びオ プ シキオ ン軍団 が起 こ し た反乱③ と の関連 が予想 さ れ る。 こ こ で 注日 し て お き た いのは、 反乱 を 起 こ し た オ プ シキ オ ンの 将兵は、 自 らの司令官 を皇帝 に推戴 し て い な い点で あ る。 そ も そ も、 こ の時代全体 を 通 じ て オ プ シキオ ン軍団 と 司令官の反乱 ・ 陰謀への関与 が何度か確認 さ れ るが、 その 司令官が皇帝位簒奪 を目指 し た のは⑤のアル タ バ ス ド スの反乱の時 だけ で あ っ た。 な お、 オ プ シキ オ ンの司令官 は将軍 ( ス ト ラ テ ー ゴ ス) で はな く 「 コ メ ス」 と 呼ば れる こ と に特徴的 な よ う に、 彼は中央政府の要人 で あ り、 ま た皇帝親衛隊の指揮者 と し ての役割 を も果 た し て いた ら し い。 つま り、 他の地方軍団 と し て のデマ と は性格 を 異 にす る可能性があ る。 少 な く と も 8 世紀初頭 ま では、 オ プ シキオ ンを他の小 ア ジア のデマ (軍団 に し て軍管区) と同列 に論 じ る こ と には慎重 で あ り たいao。 以上、 715年③ま で の反乱やデマの動向について述べて き たが、 筆者は 「 デマ反乱」

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と い う も の を よ り 厳密 に定義 し て用 い た い と 思 っ て い る。 す な わ ち、 以下 で 「 デ マ反 乱」 と 呼ぶのは、 ( α) 小 ア ジアの複数 のデマ が連携 し て、 ( β) その将兵 がデマ軍団 の将軍やそ の要職 に あ る者 を皇帝 に擁立、 な い し は現職皇帝 やそ の子孫 への支持 を表 明 す る、 そ のよ う な形態 を取 る も の と し た い。 以上 の定義 に し たが う な らば、 筆者が想定 す る 「 デマ反乱」 と は、 ④717年 の レ オ ン 3 世 と アル タ バ ス ド スに よ る政権簒奪 に始 ま り 、 ⑩の ス ラ ヴ人 ト マ スに よ る大反乱 を も っ て終結す る。 次章ではこ れ ら の反乱 を中心 に、 共通す る特徴 を探 っ て い く こ と に す る。 3 . デマ反乱の分析 前章末に提示 し た定義に も と づき、 ④~ ⑩の 7 つのデマ反乱を中心に考察 し てい く 。 ④717年、 首 都 コ ン ス タ ン デ イ ノ ー プル攻略 を め ざす イ ス ラ ー ム勢力 が陸 と 海 か ら 迫 る な か、 ア ナ ト リ コ イ 軍団 の将軍 レ オ ンは自軍 に よ っ て 皇帝 に歓呼 さ れ、 首都対岸 へ と 攻 めのぼ っ た。 彼は アル メ ニ ア コ イ 軍団 の将軍 アル タ バ ス ド ス と 盟約 を結 び、 彼 に娘 を あ た え る 約束 を し た (後 に アル タ バ ス ド スは オ プ シキ オ ンの司 令 官 コ メ ス に就 任 し、 皇帝の娘婿 と し て皇族用の爵位ク ロパラ テ スを受け る)。 首都近郊のニ コ メ デ イ ア で レ オ ン軍は皇帝 テ オ ド シオ ス 3 世 の息子 や側近 た ち を捕虜 に し、 コ ン ス タ ンデ イ ノ ー プル政府 と の交渉の結果、 無血で の首都入城 をはた し た。 皇帝 レ オ ン 3 世の誕生 で あ る o レオ ンは、 即位直後の国家の存亡 をかけた首都包囲戦 (717 718年) に勝利 し、 同 時期 に発生 し た デマ= シチ リ アの纂奪事件 を収束 さ せ る一方、 前帝 ア ナ ス タ シオ ス 2 世 がオ プ シキオ ンの司 令官 を含 む首都 の高官 た ち と 画策 し、 ブル ガ リ ア軍 を動 か し た 陰謀事件 を 未然 に防 い だ。 726年 のイ コ ン批判開始直後 にお こ っ たへ ラ ス と キ ク ラ デ ス諸島の反乱 も、 艦隊戦において粉砕 し、 こ れを鎮圧 し たa5)。 ⑤741年、 レ オ ン 3 世の死去後、 20歳過 ぎの皇帝 コ ンス タ ンテ イ ノ ス 5 世が小 ア ジ ア に出撃 す る と、 レ オ ン 3 世 の娘婿 で オ プ シキ オ ン軍団 の司令官 アル タ バ ス ド ス が峰 起 し、 首都 を 奪 っ て一時的 に帝位につ い た。 こ のデマ反乱は小 ア ジア のデマ を二分 し て の大規模 な内乱 に発展す る。 す な わ ち、 ア ナ ト リ コ イ ・ ト ラ ケ シオイ ・ キ ビ ュ ラ イ オ タ イ (海 の デ マ ) が コ ン ス タ ン テ イ ノ ス 5 世 を、 こ れに対 し ア ル メ ニ ア コ イ ・ オ プ シ キ オ ン、 そ し て ヨ ー ロ ッ パ 側 の デ マ= ト ラ キ ア が ア ル タ バ ス ド ス を 支 援 し た。 何度 かの激 し い戦聞 を へて、 首都 を 奪還 し た コ ン ス タ ンテ イ ノ スが最終的 に勝利 す る。 ⑥775年、 コ ンス タ ンテ イ ノ ス 5 世死去 に伴い、 共同皇帝の レ オ ン 4 世がその後 を 継いだ。 こ の時、 皇帝が最初に実施 し たのが軍隊の強化 で あ っ た (残念 なが ら詳細は

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不明)。 こ れに対 し、 「高揚 し た」 小 ア ジアのデマ将兵が上京 し、 皇帝に対 し息子の コ ンス タ ンテ イ ノ ス ( 6 世) を共同皇帝 と す る よ う 要求 し た。 人 々は戦車競技場 ヒ ッ ポ ド ロ ー ムに集結 し て誓願 を 5 日間続け、 皇帝はデマ将兵 た ち と と も に元老院議員や首 都の人 々か ら自分 と 息子への忠誠の宣誓 を受け た。 こ う し て新帝 の即位がな さ れたが、 年代記はその直後に、 レ オ ン 4 世の弟の皇帝擁立 をめ ざす陰謀 の発覚 と 関係者の処分 につ いて 伝 え て い る。 以上 の一連の出来事 につ いての私の解釈は、 皇帝側主導 によ る 「 や ら せ」 と 反対者 の粛正 と い う も ので あ る。 いず れに せ よ、 こ の事件 を反乱 と 呼ぶのは不適切か も し れ な い。 た だ し、 デマ将兵は既存の皇帝やその政権に反抗す る だけで な く 、 積極的 に支 持 を す る ケ ー スが あ っ た こ と を 指摘 し て お き た いa61。 ⑦790年、 父 の死後十年 をへて二十歳 と な っ た皇帝 コ ン ス タ ンテ イ ノ ス 6 世は、 摂 政 で あ る母エ イ レ ネ と その一 派か ら政権 を 奪お う と 画策 し た。 け れ ど も 計画 は事前 に 露見 し、 関係者は処分 さ れた。 一方、 政権基盤 を よ り 確実 な も の と す る ため、 エ イ レ ネは全 デマ (軍団 ・ 軍管区) へ と 使者 を派遺 し、 皇帝 コ ンス タ ンテ イ ノ ス 6 世 と と も に自分 を統治者 と し て認め る よ う に、 し か も息子よ り 先 に母の名 を挙げて の忠誠宣誓 を要求 し た。 こ の時、 ま っ さ き に反発 し た のがアルメ ニ ア コ イ の将兵 で あ り、 彼 ら は自軍 の将軍 を放逐 し た う え で首都 へ向 け て進軍 し た。 こ れに他の小 ア ジ ア の全 デ マ が合流 す る こ と に な り 、 軍事的 な威圧 を受け る かた ち と な っ たエ イ レネ と その取 り 巻 き の直官た ち は政権 を去 っ た。 こ う し て コ ン ス タ ンテ イ ノ ス 6 世 の単独統治が実現 し たが、 若 い皇帝 が外征に失敗 し、 政権に母親 を呼び戻す と、 アルメ ニ ア コ イ は再度蜂起す る。 今回、 将兵 た ちは自 分 た ちの将軍 を新 た な皇帝 に擁立 し た。 し か し 他のデマか ら の支持はな く 、 アル メ ニ ア コ イ の反乱 は皇帝 率 い る デ マ 軍 に よ っ て 鎮圧 さ れた。 そ の後、 コ ン ス タ ン テ イ ノ ス は母親 の陰謀 に よ っ て盲目 と さ れ、 帝 位 を追 われた(111。 ⑧802年、 エ イ レネ の女帝政権 を政府閣僚のニ ケ フ オロ ス ( 1 世) がク ーデ タ で打 ち倒 し て即位す る と 、 翌年 に小 ア ジアのデマ力 結束 し て反乱 を起こ し、 首都対岸に攻 めのぼ っ た。 皇帝 に擁立 さ れた のは ア ナ ト リ コ イ の将軍 バル ダネ ス= ト ウル コ ス で あ っ た。 し か し、 皇帝側へ と 寝返 る者が出 る なか、 バル ダネ スは政権 と 交渉に入 り 、 身 の 安全 を条件に戦場 を離れた。 結局、 反乱は瓦解 し、 皇帝は軍隊 を中心に加担者 を厳 し く 処罰 す る こ と に な っ た。 な お、 こ の反乱 に ア ル メ ニ ア コ イ 軍団 は不 参加 だ っ たa8)。 ⑨811年、 ニ ケ フ オロ ス 1 世が ブル ガ リ ア遠征で戦死 し、 息子の共同皇帝 ス タ ウ ラ キオ ス も重傷 を お っ て ま も な く 退位 し た。 新 た に即位 し た のは、 ニ ケ フ オロ スの娘婿

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ミ カ エ ル 1 世 ラ ン ガ べ で あ っ た。 新帝 は デ マ軍団 を ト ラ キ ア に集 結 さ せ、 ブ ル ガ リ ア 軍 と の決戦 に臨んだが、 お そ ら く 裏切 り な ど も あ っ て戦線 を離脱 し て首都に帰還 し た。 残 さ れた ビザ ン ツ軍 の指揮 を ゆだ ね ら れた のが ア ナ ト リ コ イ の将軍 レ オ ンで あ っ た。 デマの将兵は皇帝の軍事的無能 と ブルガ リ アへの苦戦に直面 し、 レ オ ン ( 5 世) を皇 帝 と し て歓呼 し た。 結局、 政府要人 た ちは相談の う え、 ミ カ エ ル帝 に レ オ ンを皇帝 と し て受け入 れて退位す る よ う 勧告 し、 政権交代が実現す るa9)。 ⑩820年 の ク リ ス マ ス に レ オ ンが首都宮殿内 で 殺害 さ れ、 彼 の盟友 で ア モ リ オ ン出 身 の ミ カ エ ル ( 2 世) が皇帝の座につい た。 こ れに対 し、 ま た し て も小 ア ジアの多 く の デ マ が反 旗 を ひ る が え し た。 デ マ将兵 が皇帝 に担 い だ のは、 ア ナ ト リ コ イ 軍 団 の ナ ンバ ー 2 (師団 長 : フ オイ デ ラ ト イ の ト ウル マ ル ケ ス) 、 ス ラ ウ'人 ト マ ス で あ っ た。 こ の反乱 には アル メ ニ ア コ イ と オ プ シキオ ン (司令官 コ メ スは ミ カ エ ルの従兄弟) が 参戦 し なか ったが、 反乱は長期にわた る首都包囲戦 を含め、 大規模な内乱へ と発展 し た。 823年 に ミ カ エ ル 2 世は ブル ガ リ ア軍 の支援 を受け て反乱軍 を破 り、 よ う や く 政 権 を維持す る こ と がで き た。 こ こ に、 事実上 デマの反乱は終結す るcol。 4 . 反乱の特徴 以上が 8 世紀初頭か ら 9 世紀初頭 にかけ て のデマ反乱の概要 で あ る。 こ れ ら に共通 し て見 ら れる特徴 を ま と めて お こ う 。 ( A ) 6 世紀以前の軍事不安 と 違 い、 反乱軍のいずれ も が自分 た ちが支持す る人物 を 歓呼 し つ つ、 首都 コ ン ス タ ンデ イ ノ ー プルへ攻 めのぼ っ た。 デ マ反乱 は帝国 か ら の離 脱 ・ 分離運動 ではな く 、 帝位募奪 を日指す活動 で あ っ た ( こ れは 7 世紀の事例の多 く で も同様)。 ( B ) デ マ反乱 は、 2 つ以上、 し ば し ば小 ア ジ ア のほ と ん どの デ マ が連携 す る か た ち で発生 し た。 アル タ バ ス ド ス反乱の場合 には、 二 つ に分かれて全 デマが反乱 にかかわ る こ と に な っ た。 803年 のバル ダネ ス = ト ウル コ スの反乱 の場合、 アル メ ニ ア コ イ 軍 団は洞 ケl峠 を決め込んで いた可能性があ る が、 こ のデマについては790~ 793年 の反乱 に お い て も 単独行動力 め だ つl21)。 ( C ) デマの反乱の発生には、 時期的な傾向 も見 ら れる。 8 世紀初頭の発生後は、 ア ル タ バ ス ド スの乱 を 例外 に、 少 な く と も小 ア ジア で は、 8 世紀末 ま で おおむね平 穏な 時期がつづいて いる。 そ し て 8 世紀末か ら 9 世紀初頭にかけて再び反乱が多発化 し た。 こ れは何 を 意味 し て い る のだ ろ う か。 ( D ) 数え方 に も よ る が、 成功 し た デマ反乱の事例は多 く な い。 最終的 に帝位纂奪に 成功 し た と い え る のは、 717年 の ア ナ ト リ コ イ と アル メ ニ ア コ イ に よ る レ オ ン 3 世 と

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813年 のデマ軍団 によ る レ オ ン 5 世擁立 だけ で あ る。 両名は と も に ア ナ ト リ コ イ の将 軍 で あ っ た。 ( E ) 反乱が発生 す るのは、 遠征軍派遺時 と 皇帝の代替わり の時で あ っ た。 前者 につ いてはケーキが力説 し てお り 、 と り わけ 7 世紀か ら 8 世紀初頭にその傾向が顕著 で あ る。 すなわち、 698年のカルタ ゴ遠征軍の反乱、 711年のケルソ ン懲罰遠征軍の反乱、 そ し て715年 の オ プ シキ オ ン軍 の反乱 の いず れ も が艦隊 派遺 を き っ かけ に勃発 し て い る o け れ ど も、 その後の展開 を みる な らば、 提示 し た事例はお お むね帝位の交替時 に発 生 し て い る。 逆 か ら い え ば、 帝 位の交替 に際 し て は必ず と い っ て い い ほ どに小 ア ジ ア の デ マ軍団 は動 き を みせ る ので あ る。 715年 のオ プ シキ オ ン反乱③ に対 し、 717年 の ア ナ ト リ コ イ と ア ル メ ニ ア コ イ ④、 741年 の レ オ ン 3 世 の死去 に と も な う アル タ バ ス ド ス反乱⑤、 776年の コ ンス タ ンテ イ ノ ス 5 世死去の直後、 レオ ン 4 世死後につ いては、 息 子 コ ン ス タ ン テ イ ノ ス 6 世成人 後 の791年 の ア ル メ ニ ア コ イ の反乱 ⑦ ( さ ら に そ の 後 も) 、 エ イ レネ失脚後の803年 のバル ダネ スの反乱⑧、 ミ カ エル 1 世の即位後ま も な く の813年 の政権交代⑨、 そ し て ミ カ エル 2 世の即位直後の821年か ら のスラ ウ'人 ト マ スの乱⑩で あ る。 こ れ らは 8 世紀初頭か ら 9 世紀20年代、 つま り 概ねデマ反乱の時期 に み ら れ る 現 象 で あ る。 以上 A ~ E の 6 つ の特徴の意味す る と こ ろ を、 私は次 のよ う に考 え て い る。 すな わ ち、 8 世紀初頭か ら後半 にかけ て、 デマ軍団が コ ンス タ ンデ イ ノ ー プルの中央政府 の 後 ろ 盾 と な っ て い た。 小 ア ジ ア の デ マ軍団 ( ア ナ ト リ コ イ 、 アル メ ニ ア コ イ 、 ト ラ ケ シ オ イ 、 オ プ シ キ オ ン、 キ ビ ュ ラ イ オ タ イ (海 の デ マ ) 、 8 世 紀 後半 に は ブ ケ ラ リ オ イ が加わる) は、 自分た ちのおす人物 を皇帝に いた だ き、 彼 を中心 と し て国家防衛の 責務 を担 っ て い た。 そ こ には力 ず く で の政権奪取 も し ば し ばみ ら れた が、 ロ ー マ帝国 の国制 の原則 に な ん ら違反 す る も ので は な か っ た。 国家 の存亡 を左 右 し かねな い イ ス ラ ー ム勢力 の侵攻 を前に し て、 事実上帝国の最後の砦 と な っ た小 ア ジア を中心に、 非常時の防衛体制が 構築 さ れた ので あ る。 そ の背後 には、 デ マ の将兵 た ち と 彼 ら を支 え る小 ア ジ ア の住民 た ち が あ っ た。 筆者はこ のよ う な緊急 の事態 を 「 デマ連合政権」 と 呼びたい と 思 う。 確かに、 その 内実は不透明 で あ り 、 中央政府がと る施策に デマ将兵の意向や利害が どれほ ど反映 さ れた か な どい っ さ いは不明 で あ る。 け れ ど も、 デ マ反乱 の続発 と そ の発生 の傾向は、 デ マ軍団 に よ る軍事政 権 の存在 を示 し て い る よ う に みえ る。 イ ス ラ ー ム帝国 が ウ マ イ ヤ朝 か ら ア ッ バ ー ス朝 に移行 し 、 東方 か ら の軍事面 で の脅

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威が低減す る と 、 本来は中央集権的 な皇帝専制 によ る政治 をむね と す る コ ンス タ ンデ イ ノ ー プルの 「中央」 政府は、 危機対応型の不安定な 「地方」 のデマ勢力に統制 を加え 始めた。 皇帝位 を為政者 (摂政政府 を含む) や政府要人が決定 し た り、 首都でのク ーデタ に よ っ て政権が交代 し た り す る と 、 小 ア ジア のデマはき ま っ て反応 を し め し、 し ば し ば それに反対 し て自分 た ちの意向 を武力 で訴え た。 776年 に既存の皇帝位の長子継承 を 要請 し た デマ軍団は、 791年 にはかつ て の宣誓 に し たが っ て団結 し た。 失敗 に終わ っ た も のの、 803年 に も反乱 を起こ し た デマ軍団は首都の動向に異議 を と な え、 813年 に は強力 な外敵 ブル ガ リ ア人 に対処で き な い 「無能 な」 皇帝 にはノ ー を つ き つけ て い る。 け れ ど も、 首都防衛 を も 担 う 近衛連隊 ( タ グマ) が増設 さ れ(2a、 デマ を地方 の行政 区 と し て統括す る中央政府の優位が次第に確立 さ れて い っ た。 9 世紀20年代は じ めの ス ラ ウ'人 ト マ ス の大乱 を も っ て デ マ反乱 は終焉 を むか え る ので あ る。 5 . おわ り に デ マ反乱 が終結 す る 9 世紀前半 と は、 ビザ ン ツ帝国 に と っ て どのよ う な時代 だ っ た のか。 こ の頃よ り 残存す る史料の状況は好転 し、 帝国がおかれた事態がよ う や く 明確 に な り 始 め る。 宮中晩餐会 の席次 を決 め る た めの文書は一 般 に 「 タ ク テ イ コ ン」 と よ ば れ る が、 そ の内 で現存 す る最古 の も のが 「 ウ ス ペ ン ス キ ーの タ ク テ イ コ ン」 (842/3 年 ) で あ る。 こ の 「 ウ スペ ン ス キ ーの タ ク テ イ コ ン」 が列挙 す る帝国最重 要 の官職 の 序列 を みる と 、 上位 を デマ の将軍 た ちが独占 し て い る こ と が判明す る。 こ の順序は そ の後 の一 連 の タ ク テ イ コ ンに お い て も 大 き な変化 は な いe3。 た だ し、 「 タ ク テ イ コ ン」 に登場 す る デ マ は反 乱 を 繰 り 返 し た小 ア ジ ア の 5 つ の主 要 デマ ( リ ー リ エ のい う 「原 デマ Urthemen」) だけ で は な い。 た し かに、 その最上 位 は ア ナ ト リ コ イ、 つ い で アル メ ニ ア コ イ と 原 デマ が続 く が、 デマ反乱終息期 に そ こ か ら 分離 し た り 、 バル カ ン半 島側 に新 た に創設 さ れた デ マ も多 数登場 す る。 そ の数 は 「 ウ ス ペ ン ス キ ーの タ ク テ イ コ ン」 の時点 で 19 に のぼ っ た。 デマ反乱が終わ る時期の史料 にお いて、 デマ将軍 た ち の優位が確認 さ れ る こ と の意 味 と は何か。 軍民両権の合一 と い う デマ制本来 のかた ちが明確に確認で き るのは、 皇 帝 レ オ ン 6 世 (在 位886 912年 ) に よ る 戦術書 『 タ ク テ イ カ 』 を 待 た ねば な ら な い が(2、 お お むね 9 世紀前半 には こ の制度は完成 に向か っ て い た、 と い う 点 で研究者 た ちの意見はほぼ一致 し て い る。 そ し て デマ制が確立 し デマが行政区画へ と 変貌 し て い く 時期 と は、 井上浩一氏によ れば、 中期 ビザ ンツ国家 を特徴づけ る中央集権的な皇帝 専制体制が完成す る時代 にほかな ら ないa 。 私見 では、 それは 8 世紀の緊急避難的 な

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小 ア ジ ア を中心 と す る デマ連合政権か ら の脱却 に よ っ て達成 さ れた ので あ る。 8 世紀 末か ら 9 世紀20年代 にかけ て のデマ反乱 の頻発 と は、 そのよ う な動 き への反動 で あ っ た と 考 え ら れ る。 同 じ 頃、 イ ス ラ ー ム世界 と の対外関係 も好転 し つつあ っ た。 国境付近 を除 く 小 ア ジ ア内部が大 き な侵略 を受け る こ と は し だいに少 な く な る。 こ こ に防衛組織 と し てのデ マ は そ の役割 を終 え る こ と に な り 、 反乱 に失敗 し た デ マ は小 規模 な も のへ と 分割 の う え行政単位 と し て中央政府の統治下 に組み込ま れて い っ た。 同様に、 デマ軍団 を率 い て た びた び出陣 し た皇帝 た ちの親征 も 減少 へ と むかい、 束方 で の戦場は国境地域に限 定 さ れて い く 。 タ ク テ イ コ ンに確認 さ れ る デマ将軍 た ち の序列上 の優位は、 現実 を反 映 し た も ので はな く 、 かつ て のデマ政権期 に小 ア ジア のデマ が保持 し た重要性 に応 じ た も の で あ ろ う 。 そ の ト ッ プ を 占 め た のは唯一 皇 帝 を輩 出 し た デ マ= ア ナ ト リ コ イ の 将軍で あ っ た。 実際のデマ連合政権の内実や解体過程につ いては、 デマ反乱のよ り 詳細な分析や中 央政府の個々の施策の検討、 親征す る皇帝の行動パ タ ー ンな ど、 な お個別に検討 す る 必要があ る。 今後の課題 と し た い。

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(1) 拙稿 「 デマから デマ制ヘー テマ制度の成立時期 をめぐ って一」 『待兼山論叢』 (史学篇) 21号、 1987年、 29-50頁。

(2) Lille, R.-J., D ie byzantinische Reaktion auf die Ausbreltung der Araber, M unchen, 1976; Kaegi, W.E.,Jr., Byzantine M l tary Unrest, Amsterdam, 1981; Haldon, J.F., Recruitment and Conscr iption in the Byzantine Army c 550-950, 1979, Wien; idem, Byzantine Praetorians, Bonn,

1984. (3) 拙稿 「 デマ反乱 と ビザ ンツ帝国一 「 デマ = システム」 の展開一」 『西洋史学』 144号、 1987年、 22-40頁 ; 「 8 世紀後半 の ビザ ンツ エ イ レ ー ネ 一政権の性格 を め ぐ っ て 」 『西洋史学』 174号、 1994年、 36-53頁 ; 「 レオン 3 世政権と デマ」 『関西学院史学』 38号、 2011年、 1-27 頁。 (4) さ し あた り 、 拙稿 「 デマ の発展 軍制か ら見 た ビザ ンテ イ オ ン帝国 」 『古代文化』 41巻、 2 号、 1989年、 8-21頁 を参照のこ と。 (5) 唯一 の例外 と 呼べ る のが 5 世紀中頃 のバ シ リ ス コ ス に よ る纂奪 で あ る が、 彼自身 も皇帝家 に 連な る人物で あ り 、 政権 も 1 年以内 に元 に戻 った。 なお、 簒奪を日指す陰謀な どは数多 く 見 ら れた。 cf Kaegi, op.clt., chap.1; Szidat, J., Ursupator T,anti Nominis・ Katser und Ursupator in 1)or Spatantike (337-476 N Chr ), Wiesbaden, 2010.

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(7) さ し あた り 次の文献 を参照。 Haldon, J., Economy and Administration: How did the Empire Work ? in: Maas, M (ed ), The Cambridge Companion to the Age of Justznlan, Cambridge,

2005, chapter 2, pp 28-59.

(8) 拙稿 「 デマの発展」 第 2 節参照。

(9) G ・ オ ス ト ロ ゴルスキー 『 ビザ ンツ帝国史』 和田廣訳、 恒文社、 2001年、 第 3 章。

(10) Strafes, A.N., Brzantium in the Seventh Century, vol.3: 642-668, (tr ) Hionides, H.T.,

Amsterdam, 1975, pp 236-247.

(11) 『 テ オ フ アネ スの年代記』 はこ の事件 を669/670年 の項 に記 し て い るが、 一部 の研究者 は681

年 の ブル ガ リ ア違征 と の関連 で見 よ う と す る。 cf. Turner, D., The Trouble with the Trinity:

The Context of a Slogan during the Reign of Constantine IV (668-685), Byzantine and Modern

Greek Studies 27, 2003, pp 68-119. (121 事件の概要は井上浩一 『 ビザ ンツ皇妃列伝』 (白水社、 2009年) の第 3 章 に詳 し い。 (13) 艦隊につ いては拙稿 「 ビザ ンツ艦隊 を めぐ る考察」 『史林』 94-4、 2011年、 71-88頁 を参照。 (14) オ プ シキオ ン軍団 お よ びその司令官 コ メ スは、 680/1年 の公会議署名 リ ス ト 、 さ ら に687年 の 教皇宛書簡に登場す る他、 8 世紀の他の陰謀事件に も た びたび名前が挙が って いる。 ただ し、 8 世紀後半以降は地方軍団 と し て の性格 を強 めて ゆき、 他の小 ア ジアのデマ と区 別は見え な く なる。 詳 し く は Haldon, Byzantine Praetorians, pp.164-182, 191-205。

(15) 拙稿 「 レ オ ン 3 世政権 と デマ」 第 3 章 を参照。

(16) 事件 を デマ 将兵 の皇帝 の軍事政策 への不 満 と 見 る研究者 も あ る。 cf w hittow, M., The

Making of Orthodox Byzantium 600-1025, London, 1996, p.170.

(17) 拙稿 「 8 世紀後半の ビザ ン ツ」 を参照。

(19) 拙稿 「 ビザ ンツ帝国のバルカ ン半島政策 ( 8 世紀後半~ 9 世紀初頭) ニ ケ フ オロ ス 1 世の 戦死を考え る一」 『愛媛大学教育学部紀要』 32巻 1 号、 1999年、 15-39頁 を参照。

(19) Theophanis Chronographia, pp 492-493, 502-503.

(20) 例外 と し て 866年夏 の オ プ シキ オ ン と ト ラ ケ シオ イ の蜂 起 があ る が、 ほ ど な く 鎮圧 さ れて い

る。 cf. Bekker, 1.(ed ), Theophanes Contlnuatus, Bonn, 1838, p 240. 11-23.

l21) ケ ーキは レ オ ン 3 世即 位 のケ ー ス を 除 い て、 ア ナ ト リ コ イ と ア ル メ ニ ア コ イ と の間 の対立 を 軸 に反乱 の傾向 を見出 そ う と し て い る。 cf Kaegi, op.czt., pp 231-4. な お、 シチ リ アで の何 度 かの反乱 は、 都 か ら離 れて い る こ と も あ り 、 小 ア ジ ア と は同列 には論 じ に く い。

(221 拙稿 「 タ グマ につ いて 8 世紀 ビザ ンツ におけ る近衛連隊の誕生 」 『関西学院史学』 30号、

2003年、 94-114頁。

(231 Oikonomides, N (ed ), Les listes de preseance byzantines des I et Xe slecles, 1972, Paris,

p47,49.

e Dennis, G (ed./tr ), The Taktika of Leo I, Washington D.C., 2010, 1.9 (pp.14.28-33). e 井上浩一 『 ビザ ンツ帝国』 (岩波書店、 1982年)、 第 1 章。

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