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フランシス・ポンジュ : オブジュ(objeu)の詩学 : ジャコメッティ論から詩作品「窓」(La Fenêtre)へ

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(1)

フランシス・ポンジュ : オブジュ(objeu)の詩学 :

ジャコメッティ論から詩作品「窓」(La Fenetre)へ

著者

横道 朝子

雑誌名

年報・フランス研究

35

ページ

191-204

発行年

2001-12-25

URL

http://hdl.handle.net/10236/9496

(2)

フランシス・ポンジュ

:オ

ブジュ

(o●

eu)の 詩学

一 ジャコメ ッテ ィ論か ら詩作品「 窓」(L Fenetre)へ

_

横道 朝子 は じめに フ ラ ン シ ス ・ ポ ン ジ ュ の 画 家 論『 現 代 絵 画 の ア トリエ 』 (ZИ た″ι″ 働 ″た,ψο″J″

,1977)に

は ピカソ、 ブラ ック、 フォー トリエなど20世紀を代表 する芸術家についての論考が多数収め られている。ポ ンジュは『 物の味方』(ιθ

乃rrli Prli∫ルs aοκ島1942)の 成功によってこれ らの芸術家 と知己を得たわけだ

が、これ らの論考は 1940年 代以降の詩人の詩学に彼 らが与えた影響の大 きさを 知 る上で重要な資料である。 というのも、それ らの多 くは芸術家についての単 なる考察であるというよ りはむ しろ、詩人自身の詩論 となっているか らだ。例 えば、前回の考察 (1)で 取 り上げたジャコメッテ ィ論では、ポンジュはこの彫 刻家の創作 について語 りなが ら、彼が 1940年 以降試みていた新 しい詩の形式に ついて述べているのである。前回はこの論考の読解・分析を通 して詩人の新 し い詩学について考察 したが、それが実際の詩作品においてどのように展開され るのかを考察することがで きなかった。そこで本稿 では詩論にも詩作品にもあ らわれ る語 をキー ワー ドに、詩論 (=prttet)と 詩作 品 (=1由LsatiOn)の 間に橋 をかけることを目的 とする。そのキー ワー ドとは “

httme"と

いう語である。 この語は ジ ャコメ ッテ ィの人物像 を表現す るために用 い られた語であるが

(fantOme impё 五eux)、 ほ ぼ 同 時 期 に 完 成 さ れ た 詩 作 品 「 窓 」

(L

Fentte,1929‐ 1953)において も、対象である窓がやは り “fantOme"と いう語で 表現 されるのである (fantOme irrunob」ier)。 この二つの “fantOme"に よって、

(3)

192

*

作 品「窓」の初版は 1955年 にパ リの John Devoluy書 店か らピエール・シャ ルボニエによる

2枚

の ドライポイン トを伴 つたかたちで出版 された。現在は『 大 作 品集』(ιθ Gra″グRθ "gfノ

)の

第二巻『 断片集』(Plia“

,1961)に

収録 されてい

る。作品は「 主題の前の変奏」 “uriadons avant thё me"、「詩」 “P“me"、「パ ラフレーズ と詩」“ParaphБ e d脚魔ic"の三部か ら構成 される。これ らの執筆時 期は「 主題の前の変奏Jと「詩」が 1929年 1月 か ら5月 にかけて、最終部の「パ ラフレーズ と詩」が 1953年 1月 であ り、先の二つか ら最終部の執筆時期の間に は20年以上の隔た りがあることになる(2)。 作 品を構成 するこれ ら三つの部分では、各部に付 された音楽用語を思わせる 表現 (「主題の前の変奏」「詩」「パ ラフレーズ と詩」

)が

示すように、それぞ れ位相の違 うエク リチュールが互いに関連 しなが ら展開 してい く。すなわち、 「主題の前の変奏」では、窓 という対象によって喚起 された様々な要素が断片 的に並置され、続 く第二部で これ らの要素がア レクサン ドランの、歌曲 (P∝me) とも言うべ き韻律 を備 えた詩へ と結晶する。そ して、続 く「パラフレーズ」(歌 曲を下敷 きとした幻想曲・混成曲

)と

しての第三部では「詩」についての説明

的解釈が続き、さらにそのパラフレーズから生まれた詩 い

sic)が

作品を締

め くくるのであ る。すなわ ち、「 窓」にお いては詩 の生成 が三つの過程 に よって 示 されてい るのであ るが、生成過程 を提示 す る方法 と して 1940年 代 に詩 人が採 用 した「 詩 的 日記」 と呼 ばれ る、作 品の創作過程 を提示す る作 品 とは大 き く異 な り、 一つ 一つの表現 か ら作 品の構成 まで詩人の強 い関与が見 られ る(3)。 詩 人の関与 は作 品の視 覚的な構成 にお いて も見 られ る。第二部ではわ ずか10 行 ほ どの詩句 がペー ジの 中央 に配置 され、 白いペー ジに黒 い詩句 によ って窓が 穿 たれて い るよ うに見 え る (Pp.45)。 作 品の外観 が対象物 の存在様態 を呈 す る とい う特 徴 は、『 物 の味 方』 に収 録 され た作 品 に多 く見 られ る もの で あ り、 物 質主義の詩 人 と してのポ ンジュの一側 面 を端 的に示 すものであ ろ う。例 えば 『 物 の味 方』収録 の「 たば こ」(La cigare■e,1935)で は、きつち りと配列 された

(4)

フランシス・ポ ンジュ:オブジユ (oЦeu)の 詩学

193

詩句 が箱 に詰 め られ たタバ コの よ うに見 え る し (CCop。19)、「 牡蠣 」 (rhttre,

1926‐1929)では作 品 を構成 する三つの部分が、牡蠣 の殻・身・真珠 の大 きさ と

比例 す るポ リュー ムを持 つ詩句 で構成 されていた ことを思い起 こそ う。 この特 徴 は「 窓」 と同年代 の作 品群 にお いて も見 られ る。『 断片集』 の「新 しい蜘蛛」 (La nollvene ttgnёc,1954‐1957)では、作 品 中に Tiret(―

)が

多用 され、 それが 蛛 の 糸 ・ 巣 の よ う に 見 え る (R pp.197‐ 2∞ )。 「 ツ パ メ 」 (Les

hirondelles,1951‐1956)で も同様 に多用 されたTiretがツパ メの飛ぶ軌跡 の よ うに

見 え る (R pp.189‐ 196)。

1。 FantOme= Attёnuadon au possible

さて、 この作 品「 窓」にお いて考察 のキー ワー ドであ る “fantOme"と い う表 現 があ らわれ るのは第 一部「 主題 の前 の変奏曲」 の第三連 にお いてであ る。以 下 に挙 げ るのは 冒頭部分 であ る。

VARIATIONS AVANT THEME

Harem■ombrellx dujour

Hmiliant tribut

Niches au clel vouё es a raison d'lul n■1lier par rues。

Op●

OSёes allx cielⅨ avec vos tabliers.

Bleues contusions

Ecchりnoses.

Fant01mes irFmObiliers。 Apparells du fallxJollr et de l'impraite rёne対on。

Foyers d'ardellrs

de nalmes■。ldes. Nouvel atte.

A■6nuation au possible des ln鴎.

(5)

194

フランシス 0ポ ンジュ:ォブジュ (o切cu)の詩学 このように第一部はマラル メの「窓」(Les Fentts)を街彿 とさせ るような 窓の女性化 (■minimiOn)か ら始 まる(4)。 外か ら建物を見 ると壁面に多 く穿た れた対象が「光のハー レムに住む女たち」のように見える(第一連)。 そ して一 つ一つに焦点を合わせると、それは「空に向かつて立っているエプロン姿の召 使」である。窓に映 る蒼空は、召使の「 青あざ」だ (第二連)。 しか し、対象の 女性化はここでいったん中断 し、それは「 不動産の幽霊」(第三連)、「照明器具」 (第四連)、「暖炉」(第五連)、「壁 が可能な限 り薄 くなってい くこと」(第六 連)と いうように、次々と異なった要素で描かれてい く。第一部全体を通 して、 対象についての このような断片的な描写が続 くが、 この冒頭部の使用語彙に注 目すると、その多 くが太陽・光・蒼空のイメージを喚起 する語であ り、一つの 語彙場 (champ lexid)を 形成 していることがわかる。その中で、問題の第二 連(FantOmes iIImobihers)と 、同 じく―行の詩句でできた第六連(Attёnuation au

possible des nlurs)は 極めて異質な要素であるといえよう。この異質な二つの詩 句は互いに呼応 し、「不動産の幽霊」

=「

壁が可能な限 り薄 くなってい くこと」 とい う他の詩句 とは根本的に異なる意味連鎖を提示 し、 冒頭部において突出 し た要素 となっている。 さて、 ここでジャコメッテ ィについての論考の中でも、ポ ンジュがジャコメ ツテ イの創 るあの極端に細長い人物像を fantomeと 形容 していたことを思い起 こそう。 1951年 に執筆されたこの論考の中で、詩人がその彫像に見たのは、戦後の危 機 の時代 を生 きる人間の姿であつた。「不条理や反乱のこの世界、価値が崩壊 し、 転換 するこの世界では、個人は可能な限 り小さ くな り、凝縮 する」(AC.p。157) のであ り、ジャコメッティの彫像は「極端に痩せ細 つたカオス」である人間を 表象 している (ACop.158)、 と詩人はとらえたのである。 したがつて、作品「窓」 とジャッコメッテ ィ論にあ らわれた二つの fantOme は、どちらもが「極端に細い」「可能な限 り薄 くなってい く」という要素によっ て結びつけることがで きる。 しか し、ジャコメッティの人物像についての「極

(6)

フランシス・ポンジュ:オブジユ(o可cu)の詩学

195

端 に細い」「 幽霊」という表現はご く自然だとしても、窓についての「壁が可能 な限 り薄 くなってい くこと」「 不動産の幽霊」とい う表現は、極めて独創的であ ると言えよう。 この表現は作品を通 してあ らわれ、壁 という語によって窓をあ らわすことが、作品「窓」において重要な要素であると推測される。第二部で は窓を直接示す “fene掟

"と

い ぅ語は一度 もあ らわれないが、「君」と呼びかけ られ るのは窓であ り、それは「 あ らゆる住居の壁 を中断する」

(DE TOU「

E

HABITAHON■

J MRROMPSLE―

Rp.45)の

である。 さ らに第二部では第一部の「壁が可能な限 り薄 くなってい く」という表現が その まま繰 り返 される。 なぜ窓は壁 という語によって表現されるのか。そうすることによって、窓に 新 しい資質を与えることがで きるのだろうか。壁 と窓の関係 を理解するために は、ポ ンジュの作品において壁が どのような役割を持つのかを考察する必要が ある。以下は『 断片集』収録の「 トカゲ」(Le lёad1945‐

47)の

冒頭の部分で ある。

Lorsque le mur de la pだ histoire se lёarde,ce mur de fond de jardin(c'est le

jardin des gёnёrations pだsentes,celui du l"re et du■ls),一il en so■ url petit

animl fbmidablement dessinё , conune un dragon chinois, bmsquc IIlais inorensrchacun le亜t d 9 1c Кnd Ыen sympadliquc。 (CCop。 745)

庭 の 奥 に古 い壁 が あ る。 そ の壁 にひ び が入 り、 そ こか ら竜 の よ うな見 事 な輪 郭 を持 つた 小 さ な 動 物 一 トカゲー が突 然這 い 出 して くる。 この よ うに一見何 気 な い風 景 描 写 が 続 く詩 句 で 変調 す る。

Par cc llur nous sorllnes donc bien mal enferIIlё s.Si p五somiers que nous

soyons,nous sonunes encore a la rnerclグ♭ノlιχttrli`“r,qu nousJette,nous expedic

sous la po■e ce pett po17rd.A la fois coIIme me memce ct ulle IIlawaise

plaisanteHe。

Ce petit poiprd qШ mverse nOtre esp五t en se tortillant d'llne fa9on assez

(7)

196 「 この壁 によつて我々はその内側 にうまい具合 に閉 じ込め られて しまってい る」のであ り、「 我々は囚われの身だ」というのだ。この引用が提示する閉鎖空 間は、ポ ンジユを詩の創作へ と向かわせた言語の閉塞状況を思い起 こさせる。 「 それに しても何世紀 もの間、言葉、精神、それか ら、人間の現実が どれほど 小さな回転木馬の中を ぐる ぐる回つているのか と思 うと、いろんな見地か らし て耐えがたいことである。それは どんなものでもいい手当た り次第にそのあた りの事物に注 目してみればす ぐにわかることだ。」(CCopp.201-202)「 庭」とは この引用中の「小さな回転木馬」に相当すると考えてよいだろう。つま り、壁 によって我々が閉 じ込め られている庭 とは、ポンジュの攻撃の的である既存の 言語 とい う庭 なのである。そ して、その庭 を仕切 る壁 とは、我々 と対象 との間 に既成の言語操作、概念操作によって作 られた障壁に他な らない。それは我々 の前に立ち塞が り、対象そのものを見ることを阻んでいるのである。 しか し、 救いはある。なぜな ら、庭の「外部か ら」(詩人はこの表現をイタ リックによっ て強調 している)、 ドアの下をす り抜けて這 つて来 るもの 一 トカゲ ー がいる か らである。 トカゲ とは「威嚇であると同時に悪い冗談であ り、我々の精神を 突 き抜ける短刀」なのである。それは刺激的な動 きによつて不幸な安定状態に ある「庭」

(=既

存の言語

)の

秩序 を壊 し、閉塞状態を打 ち破 るのだ。 壁 にひびが入 り、そのひびか ら トカゲが入 り込む 一 この壁 とひび、そこか ら入 り込む トカゲの関係は、そのまま、壁 と窓、そこか ら入 り込む光に置き換 えることがで きる。すなわち、壁にひびを入れる 一 窓を穿つ 一 と、そこか ら光が入 り込む。光には トカゲ と同 じ機能が与え られている。 トカゲが私にと って「威嚇」であつたの と同様 に、「外部か らの光は私 を打ち倒 し、破壊する」

(LA CL劇 閣■

DU DEHORS M'ASSOMME ET ME DЁ

TRUIT)の

である(Pp.45)。

光は対象を新 しい照明で照 らすことによって、それまでの見方を破壊 し、対象 の新 しい側面を提示するのである。

したがって、光を塞 ぐ壁が「 可能な限 り薄 くなってい くこと」、壁の “fantOme" 化である窓 とは、光が入 りこむために不可欠な “faille"(切れ 目・裂け目・欠落・

(8)

フランシス・ポンジュ:オブジユ (o切eu)の 詩学

197

欠陥・論理 の飛躍 あ るいは不整合)“

manquc"な

のであ る。それは、光 を遮 り、 閉鎖状態 を生み 出す壁 が、「 可能 な限 り薄 くな って い つた」果て の究極 の姿なの であ る。 こうい った窓の存在様態が、詩人の他 の作 品 と同様 、エ ク リチ ュールについ ての比喩で あ るこ とは言 うまで もないだ ろう。事物 はその存在様 態 に よって、 詩人 に詩学 を与 え るのだ。では、 それは いか な る詩学 なのか。 “faillぴ'あるい は “

mnque"で

あ る窓 は壁 に対 して大 きな割合 を 占めす ぎる と建物 は崩 れて しまう。 それは「壁 に対 して半分以下 だけ許 され た欠陥」であ る。テキス トにお け る窓 も同様 であ る。窓が多 す ぎる とそれは作 品 と して成 立 しない のだが、「 その欠 陥 とは我 々に とってやは りどう して も必要不可欠 な も の」であ る。 とい うの も、テキス トに窓が存在 す ることによって、読者はその ベー ジを開 くたび に (新しい光 を入 れ るこ とに よって

)新

しい意味 を生成 す る こ とが で きるか らで あ る。窓 のあ るテ キス トとは マ ラル メの「 開 かれ た本 」 (livres Ouve■

s)へ

とつなが る意味生成 の場 と してのテキス トなのであ る。 しか し、 それ だ けではない。窓の詩 学 はさ らに展 開 され る。以下の引用 を見 よ う。「 パ ラフ レー ズ」では第 一部 で「 窓」 を修飾 して きた表現 (「おお、空 に 向か つて 立つエ プ ロ ン姿の召使 よ」「壁 が可能 な限 り薄 くな ってい くこと」

)が

繰 り返 され るが、 それ を受 け るのは「 窓」 とい う語 ではない。代 わ りにその1多

飾 を受 け るのは「 一つの語 の欠如 だけ」(le mnque seuld'llII mot)で あ る。

Le mnque seul d'ull inot rendant pllls explicite l'attё nuaton au possible des llurs,fasse de votre corps une te対e mnslucide,o preposёes aux cicux avec vos

tabliers。 (Pp.46)

この部分 で欠如 してい る「 一つの語」 とは窓 とい う語ではない。壁 が可能 な 限 り薄 くな って い くこ とをもつ と明 白に示す一つの語 その ものが「 ない」 とい うのであ る。すなわ ち、 ここで問題 とな って い るのは、対象 とそれ を指 し示す 語 との根 源 的な乖離 なのだ。対象 の多様性、可 変性 に比べて、 それ を示すため

(9)

198 の道具である語は、貧弱で、硬直 し、あま りに決定的である。対象を語で名指 した瞬間に対象そのものは消えて しまう。対象を名付けることで、我々は対象 を見ることをやめて しまうか らだ。そ して、我々はこういった乖離に気づかな いまま、あるいは、それを埋め られないまま、 この偶然的で硬直 した結びつき を安易に受け入れている。 しか し、ポンジュにとってはこのような対象 と語の 乖離 こそが、創作 の最大の動機であつたことは言 うまでもない。「壁が可能な限 り薄 くなってい くことをもつと明 白に示す一つの言葉がないことが、あなたの 肉体 を一つの半透明なテキス トにするのだ。」(Pp.46)一 詩人の創作 はこの乖 離を埋めるための作業だと言つても過言ではないだろう。 語 とは我々がそこか ら対象をのぞき見る窓である。 しか し、窓であるはずの 語は壁のように対象の前に立ち塞がって、我々が対象を見ることを妨げている。 しか し、「 窓」(fenetre)と ぃ ぅ語によってひ とまず名指 されるその対象の存在 様態は、それを示す語 (「窓」(fenetre))の ように対象の前に壁 を作 ることはな い。それは我々の前にまるで存在 していないように存在するのだ。「壁が可能な 限 り薄 くなってい くこと」や “fantome"で あるその対象は、壁のように視界を 遮 ることな く、向こう側にある対象を透か して見せる。この存在様態も、窓(と 呼ばれる事物

)の

詩学 と呼べ るものであろう。詩人は作品の最終部で次のよう に述べ る。「 だか らガラス窓が与 えて くれた輝か しいチャンスを生かす としょ う。それは、対象を定義することよ りも、私たちの目に見える映像や、観念を あ らためて作 り直すことに長けているのだか ら」(Pp.46)。 したがって、窓は「壁が可能な限 り薄 くなってい く」

=「

極端に細い存在」 とい う意味においてだけではな く、存在 しているのに、存在 していないような

存在(feint‐計e)で あることによって “fantome"な のである。そ して、作品「窓」

では このような対象の存在様態が再現されている。すなわち、作品の中で対象 である窓がまるで “fantOme"の ように可能な限 り薄 くな り、最終的には消滅 し てい く過程が示されるのである。次にこの点について考察 しよう。

(10)

フランシス・ポンジュ:オブジユ (o可eu)の 詩学

199

2。

fantOme=feinttte

l)対

象 の消滅 第 一部「 主題 の前 の変奏」では、窓 とい う語 は第 一節 (第七連

)に

一度 あ ら われ るが、第三節 に至 る と以下の引用 が示す よ うな「私 」 (je)と「君 」

(m)に

よるエ ロチ ックな描 写へ と展 開 して い くため、 もはや我 々には対象が何 であ つ たか さえ定 かで な くな り、窓 とい う語 は記憶 の底 に沈 んで しまう。

Lorsque d'lm tourde min

j9dё he ta poignёe

Emu intriguё

lorsque de toije m'approche,

Je t'ollvre en recuhnt le torse

conIIle lorsqu'wle fenune veut rn'embrasse■

Puis tandis que ton corps

m'embttse et rne retient

Que m mbttSS‐ nloi

tout un enolos de voiles et de vltres, tu lne caresses,tu rne dё co遍圧じs; Le coIPs posё surton appui

mon espnt amve au dchors. (P pp.43-44) 続 く第二部「 詩 」では窓 とい う語 は 一度 もあ らわれない。前半で窓 を「 君」 と呼 びか け「 君 は壁 を中断 す る」 とい う描写があ るが (Rp.45)、 後半 に至 って は、「 私 」が作 用 を受け るのは、窓 か ら差 し込む「 外 の光 」 (LA CLメ

RE DU

DEHORS)で

あ り、 窓 とい う存在 は完 全 に消 えて しまうので あ る。窓の存在 を無視 して差 し込 む光 が 主語 に とって かわ り「 私 を打 ち倒 し、破壊 す る」 (P p.45)のであ る。 さ らに、第三部「 パ ラ フ レー ズ と詩」の前半部「 パ ラフ レー ズ」で も、第二部 か ら引 き続 き窓 とい う語はあ らわれ ない。その存在 は、以下の引用が示すよう

(11)

200

フランシス・ポンジュ:オブジュ (0噺cu)の詩学

に、三 人称複数形 の「elles」「les」、 あ るいは、 女性複数形 を示 す過去分詞 の語

尾変化 に よってほのめか され るだけであ り、描 かれ る対象は ます ます輪郭 を失 つて い く。

PARAPHRASE ET POESIE

Qttment avou∝s au CiCI Sur les facades de nos bMsses,nous pouvolls墨

voiler de l'intё五Щ,ces fautes lnoins qu'a denu pardonnees dans ia contlllutё des

parois;enes n'cn sont pas lnoills polr nous une nё∝ssitё inёlumble,ct l'arlche

au pndjour de nos faiblesses pourlu。 (Rp.“)

そ して、後 半部「 詩」の最終連 に至 っては、対象

=窓

は「y」 によって暗示 さ

れ るだけであ り、 文字通 り消滅 してい くのであ る。

Puis nous aidant a resprer

Nous conJure l'alr penetrё De ne plus tant y regarder

Par gace a la il entr'ouvcnc.

(Pp.46) 2)「私」(sttd)の消滅 さて、以上のように対象(o切et)が 消滅 してい く過程を見て きたが、作品「窓」 においては、「私」(sjet)に ついても重要な変化が見 られる。作品の第一部で

は、

「私」Ge)で あらわされるが、第三部で「我々」

(nOus)へ

と変化するので

あ る。 この変化 は何 を示すのであ ろ うか。 ここで も、われわれはジャコメ ッテ イ論 を参照 す る こ とに よって それ を理解 することがで きる。 とい うの も、 この 「 私 」か ら「 我 々」へ の変化 が ジャコメ ッテ ィ論の中で も重要な論点であ った か らであ る。 ポ ンジュは ジャコメ ッテ ィの彫像 について書 こうと した動機 を次の ように述 べ る。

Pourquoi suisJe tentё d'en parler mttecuvement?Parce qu'il est de notre

gёnё rationっ etco Non.Pollr une ralson plus profondeo Parce que,

L獅

″7ηθ 97θノθο″9“θ9“θノ

`S″お・

Voua ce quc Giacometti a l'aplomb de nous

(12)

フランシス 。ポンジュ:オブジュ (o可eu)の 詩学

201

11 estle sculpteur du pЮnom persOImel(de lapremiёre persolme du sinrier). (AC.p.187) 詩人はジヤコメ ッテ ィの周多像が「誰でもいい、任意の

(quebonque)存

在 と しての私」を表象 しているととらえた。「誰でもいい、任意の (queLonque) 存在 としての私」 とは他人 との差異 を強調するような唯一存在 としての私では ない。それは、 もはや個性や人格 を持たない単なる一人称単数の「私」である のだ。 しか し、た とえ個性や人格 を全て削 ぎ取 られても、 この「私」は我々の 言語か ら消 えることはない。「薄 くばやけた実体 のないその存在はいつも誰か の代名詞 として文章の冒頭にあ らわれ続ける」のである。すなわち、そのアル フアベ ツ トの「J」 に似た人物像 とは、「私」(je)の “fanめmσ'なのである。

C'ctt ce JE que vous avez ttussi a hre tenir dcbout sur sonjambage,slI SOn

pied mongruew、 cher AIberto.

Cette apparition nunce et flouc,qui iⅣ c en tae de la plupalt de nos phSes.

Ce fantOme im“ 五elⅨ.

Merci!

Car ttce a vous,nous le tenons,ce pourccau de l'intenigence,1'homme,ce

spectre,ce fll!notre demier dieu.

Meme sousle nonldc PERSONNE,通 ne poum plus nous creverles yeux.

II ne s'agit que de prendre garde,ct de survenler sOn ago面 e。(AC.p.98)

そ して 、 この 論 考 の 最 終 部 で 詩 人 は 以 下 の よ うに結 論 づ け る。

L'holnlne indёfmi queje suls,1'on voitett ce que c'cst.

Moins qu'unludioL mott qu'une grenouine de baromё tre.

le躍

糧 雰

msphSe亀

この実体のない “Je‐ fantOme"が 示すのは「 万人 としての私、我々としての 私」なのである。すなわち、「私」は「我々」へ と拡散することによつて、消滅 してい くのである。 しか し、 このような「私」の拡散・消滅が詩人の新 しい詩学にとつて重要な 要素であつたことはジャコメ ッテ ィ論の考察の中でも取 り上げたとお りである。 すなわち、 この “fantOme"化 した「私」 とは、1940年代以降の作品における書

(13)

202

フランシス・ポンジュ:オブジュ(0切eu)の詩学

く主体 (sttet qui ёcHt)のあ りようなのである。 さらに考察をすすめよう。

ジャコメッテ ィの彫像が表象するのは、既存の価値が崩壊 してい く世界の中 で、不安や不条理感によって極端に細 くなってい く人間の姿だ 一 詩人はこう 述べた後で、以下の引用のように、詩人 自身の創作について語 り始める。

II s'agit d'wl tacIIlent ttuttttre)pasttger d'ulle phasc(ёpiquC)de mOn cuvre.

Me pla∝r au niveau de la molt de Dict et de l'amindssement e涎 艶

me

amigrissement de l'individu ooIIIIne);de la dettucdon(ct refOnte)deS Valelrs.

Dむe le pourquoi de tt Rage dし ノIЬ字″

`ssliο″d des ttα たs et des A〃b″ο″s

e“

mes rha。五ques)dans le processus logique de mon― c.。

a■

i議

罵臨ま

e胤

り器∫

l胤

場篇

rimentatim(reprendre

voua le llcud de la questioL l'そisode cenml de la Trag6山c(cette momeHe

nO― C)。 (AC.p.159) 引用文中の「一時的な気の迷い :私 の創作の (叙事詩的な

)一

つの段階」と は『 やむにやまれぬ表現の欲求』『 サパー ト』『 モモン』に共通の創作形式、つ ま り「詩的 日記」の形式への変換のことを指す。「 詩的 日記」という名称が端的 に示すように、 この形式の作品は対象について 日々取 られたスケ ッチ集のよう な観 を呈 している。作品では、ある期間 (数週間、あるいは数年間

)に

なされ た対象についての描写の過程が 日記形式で示される。詩人は、 日、時間、場所 を変えることによってあ らわれる、対象の新 しい側面を書 き取 るのである。こ の過程が可能にすること、それはさまざまな視点で対象をとらえることである。 それによって「私」という固定的な見方が退け られ、「私」は匿名性へ と拡散さ れてい く。その結果、「私」の視点は「我々」のそれ という、一点に定 まらない、 浮遊する視点へ と還元され、「私」は “fantome"に なってい くのである。 この「私」の “fantOmぴ'化が、作品における「書 く主体」

(輌

et qui ёc五

t)の

消滅を指すことは言うまでもないだろう。そ して、それはポ ンジュが「詩人」 とい う資格 を拒否 し、「言己述者」(sc五pteurpという立場を取 つたことに結びつ く。 「記述すること以外の生存の全て、活動の全てを拒否 しようとする態度を選び 取 つたもの」(EPS.pp.12‐ 13)を示す「記述者」という立場は、直ちに、マラル

(14)

メの「純粋著作は詩人の語 りなが らの消失を必然の結果 としてもた らす」 とい う表現 を想起させ るし、 ロー トレアモンの「詩は万人によって作 られなければ な らない」、さらには、ランポーの「私 とは一個の他者である」という命題 まで、 その源を辿 ることがで きるだろう。 したが つて、作品「窓」における「私」か ら「我々」への変化は、つまると ころ、 ジャコメ ッテ ィ論の中で展開された「私」か ら「我々」への拡散、消滅 の過程が、実際に詩作 品で展開されたものだととらえることがで きる。 さ らに、 このような「私」の存在様態は、 もうひ とつの “fantOme"、 すなわ ち「 可能な限 り壁が薄 くなってい くこと」一 窓 一 と等価である。この「私」 とはテキス トの中に確かに存在 し、テキス トを書 く主体であるのに、主観 とい う厚い壁 によって対象への視界 を遮 ることはない。視点の複数化が主観 を拡散、 後退 させ るか らだ。他方、窓は と言えば、そこに確かに存在するのに、それは 壁のように対象への視界 を遮 るのではな く、向こうの対象を透か して見せ るの だ。すなわち、 これ ら「可能な限 り薄 くなってい く」二つの存在はともに実体 を持 たない “femЮ騰

"で

ぁ り、 これ ら二つの “fantOIne"は 、 ともに対象をさ まざまに照 らし出す照明器具(しかも、「私」も窓もともに「不完全な照明器具」 ではあるが

)な

のである。「私」 とは一つの窓であるのだ。 おわ りに 以上のように、詩人の画家論 と詩作 品「窓」に橋 をかけるべ く、両方に使わ れる “fantOme"と い う語を中心に考察をすすめて きたが、この考察か ら、極端 に細 く “feint―etre"でぁる存在 ― 犠皿

6me"一

カS、 創作形式の移行期における

詩人に とって非常に重要な要素 となっていたことが明 らかになった。 この二つ の “fantOme"が提示するのは、作 品において対象 (両et)と 「私」(呵et)が

同時に消滅 してい く過程であ り、それが「物あそび」((苅

eu)と

呼ばれる新 し

(15)

204

フランシス 0ポ ンジュ 三オブジュ (0助eu)の詩学 注:

本稿 で引用す るボ ンジュの著作 は以下の版に拠 つてい る。引用文の末尾 に略号 とそのペ ー ジ数 を示 した。 また、引用文中の下線は全て筆者による。

AC:LИ″′jar α刀″甲 ralir,Pans:C冠皿mat 1977. EPS:E""ガθぉ ル Fracrs P"gθ の

P力j′″ θ Sa′′θ湾,Paritt Ga■imard/Ed.du Seuil,1970.

CC:CE“ ッras Gοりlをrω,toIIle I,Paris:Ga■imaΠムcou.く8ibLoulёque de la P16iade〉〉,1999.

P:レ

Gra′Rθcuc■,`?J″σ “ 'I PariS:Gallimat 1961. (1)「フラ ンシス・ポ ンジュと現代芸術 ―アルベル ト・ ジャコメ ッテ ィについての論考 をめ ぐって 一」人文論究第51巻第2号、関西学院大学、2∞1、 pp.77‐90。 ポ ンジュ の ジャコメ ッテ ィ論は「 小彫像 についての省察 一アルベル ト・ジャコメ ッテ ィ人物

像 と絵 画 」(Rグ″ 餡 認r ras s″r“ar構 _角pas α ′θ加″′留 ′Иルθヵ Gliac翻

`″)

「J∝A SERIA―アル ベ ル ト・ ジ ヤコ メ ッテ ィの彫 刻 につ いて の ノー ト」OⅨИ

SEM―M9ras wr′ω sarp"″s′И′bθ″ο Gliaθο″ami)力Sあり、 どち らも1951年に書 か れ た もの で あ る。前者 は カ イエ・ダ ール誌2月号 に載せ られ た比較 的短 い論文 で あ り、後 者 は7月 30日か ら9月 4日までの お よそ一 ケ月 間で書かれ た もの で、 ポ ン ジ ュの 画 家 論 の 中で は数 少な い「 開かれ たテ キス ト」の形式の作 品であ る。

(2)ポ

ンジ ュは ジ ャ ン・ポー ラ ンとの 書簡 の 中で、第 二部「 詩」だ け を単独 で

NRFに

発 表 す る準備 を してい たが、結 局、この原稿 は出版社 に よ って掲 載拒 否 され た。vo士

Corψ

α2-Ja“εθノ923-ノ9て懲 [aveC Jan PAULHAN],tome L pp.Hl‐ H2,Pans:Ganimard.

2 vol.,1986. (3)『 物 の味方』には主に 1920年 代 に執筆 された作 品が収め られてい るが、これ らの作 品は「閉 じられた形式」「 爆弾形式」の作 品 と呼ばれてい る。ポ ンジュは これ らを、 ひ とたび読 まれ ると爆弾 の ように威力を発揮す る作 品に緻密に構成 していた。しか し、1940年代 に入 ると、詩人の作風は一転す る。すなわち、 ここで述べてい るよ うな下書 きの まま作 品を提示す る「詩的 日記」 とい う形式へ と以降するのであ る。 しか し、作 品「窓」を完成 させた1950年代 には再び「 閉 じられた形式」への回帰 が見 られ る。この回帰 については詩人自身がフィ リップ・ ソレルスとの対談の中で 言及 して い る。 vo缶

D"ガ

“sル 乃η “ おPοttβ ″ θθ動Jttηθ Sa〃ιrs,pp 88-89.Paris Gallirrlard/Ed.du Seuil,1970.

(4)vOr P″sligs,dans α″ras εο叩1をrasル S′ク勉″ んねJra月孵″,tome I,p.9-10,Ga■imrd, con.くd3ibuodhёque dc la Plこiade〉〉,1998.

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