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明治末から大正初期の万年筆 : 販売における位相とその意義

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はじめに ❶万年筆の輸入と販売 ❷漱石と万年筆 ❸三越と万年筆 ❹「万年筆は現代の流行児なり」 おわりに 本稿は筆記環境の近代化と消費文化の様相を万年筆を通して考えようとするものである。ここで はまず,明治の日本において万年筆が販売に際してどのような位置づけであったか,について,丸 善における広告宣伝を確認し,特に夏目漱石が書いた「余と万年筆」(1912)をはじめとする万年 筆関係の文章を分析した。さらに三越百貨店における万年筆の販売の様相を『三越』『三越タイムス』 からうかがい,その特徴について考察した。その結果として,万年筆は筆記の近代化のシンボルと して,明治末から大正の初めにはかなり普及したが,特に三越では舶来品としての万年筆の販売に 尽力し,さらに関連する商品も視野にいれ,商品そのものばかりではなく,関連する知識や使用法 の啓蒙にも努めていたことが明らかになった。日本における万年筆の歴史,筆記文化の近代を考え るためには,ここで論じた以外にも国産化の過程をはじめとする複眼的な考究が必要であろう。 【キーワード】丸善,内田魯庵,夏目漱石,三越,ウォーターマン

明治末から大正初期の万年筆

小池淳一

A Study of Fountain Pens from the End of the Meiji Era to the Beginning of the Taishō Era in Japan: A Paradigm Shift in Their Marketing and Its Meaning

KOIKE Jun'ichi 110.5

[論文要旨]

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はじめに

万年筆は明治になって日本に輸入されるようになり,それまでの筆を中心とする筆記文化を徐々 に塗り替えていった。それは文明開化,西欧化の過程の一端として,毛筆からペンへと文字を書く という行為が大きく変容したことを示している。 文字を書くという行為は,識字能力と不可分であり,個人的な営みであると同時に社会的な営み でもある。文字を書き記すという行為を通して消費行動の文化的な意義をとらえることは近代的な 自我の形成基盤とも深く関わる一方で,識字を前提とした社会の構成や特質に関して考えることに もつながっている。墨を硯ですり,それを用いて筆で文字を書き記す前近代の行為が万年筆を用い ることによって,簡便かつ容易になり,近代社会のさまざまな場面において筆記を可能にしていっ た。そのこと自体が近代史における重要な階梯であるが,ここでは筆記具とそれをとりまく文化的 環境の問題として考えてみたい。また,本稿は万年筆という筆記具を通して消費文化がどのように 形成されてきたのかに関する考察を行おうとするものでもある。 本稿ではまず,明治の万年筆の導入の過程を確認し,とりわけ夏目漱石と万年筆との関わりを検 討してみたい。次いで三越が発行していた雑誌の記事や広告に着目して,消費文化における万年筆 の位相を検討する。特に実際に販売されていた百貨店製の万年筆の販売に際しての姿勢や強調点を 検討して,万年筆という筆記具の近代消費文化における特徴を考えてみたい。

………

万年筆の輸入と販売

― 筆記の近代化

万年筆がどのような契機にどういった人物によって日本にもたらされたのかについては未だ明確 にその様相を明らかにすることはできていない。しかし,明治 45 年に刊行された土岐哀果の詩集 『黄昏に』には「女」という作品が収められており,その中で万年筆は次のように描かれている(1)。 日ぐれどき, 萬年筆の銀の帯,指のあひだに,   光るはかなさ。 あるいは をかしさは, いつかインクの無くなれる萬年筆を,  携へしかな。 さらに

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秋の夜の,インクの滓の, ペン尖につくを気にしつつ,   書きたりし文 この詩について,はなはだ文学作品の興をそぐような読み取りを敢えておこなってみよう。ここ に引いた詩句からは,まず万年筆の軸には銀色の帯の装飾が施されていたこと,次に万年筆は携行 されるものであったこと,さらに筆記する際にはインク滓が付着するような状態が現出することを 読み取ることができる。明治の末の万年筆は,ほぼ現在の万年筆と同じような特徴を既にこの時点 で有していたことがうかがえる。ただしインク滓というのは当時のインクの成分,組成が現在とは 異なっていたらしいことを示している。 明治の初めに輸入された万年筆は,明治末年には文学作品のなかでこのようにうたわれる存在に なっており,生活の点景として描かれるようになっていたのである。ここから万年筆の浸透の程度 を読み取ることができるだろう。わずか 40 年足らずのうちに万年筆は日本の日常生活のなかに確固 たるイメージをもって定着しているのである。 万年筆を輸入しはじめたのは丸善であり,Fountain Pen を「泉筆」ではなく「万年筆」と訳した ことだけをみても,それが単なる輸入ではなく,積極的な翻案とでも呼ぶべき創造的なものであっ たことがうかがえよう。石井研堂は『明治事物起原』で,明治 25 年発行の「和洋書籍及文房具時価 月報」における広告と内田魯庵の証言とを引いて,明治 18 年頃より,万年筆が丸善によって販売さ れていたことを指摘している(2)。 丸善の社史においても万年筆については頁を割かれており,この筆記具が日本の社会のなかに受 け入れられていくきっかけは丸善によってもたらされたことが意識されているようである。ただし, 当初は現行の金属製のペン先を備えた Fountain Pen ではなく,先端部に針状の仕掛けがあり,紙 に押しつけるとそれが引っ込んでインクが流れ出す形式のスタイログラフィックペンであったらし い。やがてペン先を持つ Fountain Pen が明治 27,8 年頃からウオーターマンをはじめとして欧米か ら輸入されるようになっていった(3)。そしてその宣伝に力を尽くした人物として著名なのが内田魯庵 である。魯庵は丸善から発行されていた『學燈』の編集に携わるなかで,万年筆に関しても積極的 に啓蒙宣伝をおこなった。さまざまな機会をとらえて筆記における万年筆の優位を述べ,盛んにそ の特徴を説いている(4)。八木佐吉は,こうした丸善と万年筆,その普及に貢献した内田魯庵の功績を 述べるなかで,魯庵の丸善入社が明治 34 年であり,その頃,日清戦争以降に日常的に洋紙が用いら れるようになっていったことが万年筆の普及に有利であったことを指摘している(5)。 『學燈』誌における広告もそういった筆記環境の文明開化,西欧化を伴走するようなスタイルで貫 かれ,万年筆を用いてインクで筆記することがそのまま新しい時代をひらいていくといった主張が 行われていった。「太陽は輝けりオノトを持つ人の頭の上に」というのはこの頃の宣伝文であるが, ここからは,イギリスからの輸入万年筆を所持し,日常的な筆記に用いることは,書くことの文明 開化であるという姿勢を読み取ることができよう。そのことは明治 9 年 3 月の官報では公文書にイ ンキの使用を禁じる太政官令達が提示されていたのに対して,明治 41 年 12 月 7 日付けの官報でこ れを解くといった政府,行政の姿勢の変化とも対応していた(6)。万年筆は単なる贅沢な輸入筆記具で

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はなく,近代日本を構成する重要な要素だったのである。 こうした魯庵の万年筆普及に対する最も大きな貢献は明治 45 年 6 月に刊行された『万年筆の印象 と図解カタログ』で,そのなかでも当時の人気作家である夏目漱石に「余と万年筆(7)」という文章を 書かせたことであろう。次節では漱石の文業や回顧譚から万年筆の近代における位相を確認してみ たい。

………

漱石と万年筆

― 明治末の万年筆事情

『万年筆の印象と図解カタログ』は,丸善さらに内田魯庵の万年筆に対する強い思い入れ,意識を 示すものであるが,漱石自身はそれ以前にも万年筆を使用した経験があったことを彼の手紙類から うかがうことができる。 のちの漱石,夏目金之助はイギリス留学に向かう船の中から妻,鏡子とその実家の人びとに宛て て書いた手紙のなかで,船中のつれづれに鉄棒で器械体操をしていて万年筆を壊してしまったとい うことを書いている。「時さんの呉れた万年筆は船中にて鉄棒へツカマツテ器械体操をなしたる為め 打ち壊し申候洵に申訳之無…」(8)明治 33 年 10 月 8 日のことであった。英文学を修め,さらに研鑚を 積むための留学に際して,万年筆が贈られたことがわかる。 帰国し,やがて作家となっていった漱石の重要な転機が修善寺大患と呼ばれる罹患とその後の病 臥であったが,その療養生活でも万年筆を使っていたことが娘たちへ宛てた手紙から知ることがで きる。すなわち明治 43 年 8 月 11 日に書かれた手紙のなかに「御父さまは此手紙あおむけにねてゐて 万年ふででかきました」(9)とあり,病床で仰向けになって万年筆を用いていることが明記されている。 この修善寺の大患の際の衰弱の甚だしさを漱石自身は「万年筆をふる力なし」と記している(10)。「思 ひ出す事など」でも「其時の余は印気の切れた万年筆の端を撮んで,ペン先へ墨の通ふ様に一二度 揮るのが頗る苦痛であつた。実際健康な人が片手で樫の六尺棒を振り廻すよりも辛い位であつた。」(11) と記している。 ここからは仰向けでペン先を上に向けても毛細管現象によってインクが吸い上げられるために筆 記が可能な万年筆の特性を承知で使いこなしていることやペン芯の構造が現代の万年筆と比べて 未発達であるために,書き出す際に往々にして軸を持って振らねばインクがペン先に到らない特性 を意識していることが理解できよう。この作家にとって万年筆とそれを使う行為が日常的なものに なっていたことがうかがえる。 とはいうものの,漱石の作家生活にとっては万年筆は積極的な位置を占めていたとも言い切れな いことも確かである。「余と万年筆」を改めて読んでみよう。 冒頭で漱石は,内田魯庵の教示によって,丸善で多い時には 1 日 100 本もの万年筆が売れること, また 1 本の万年筆を 13 年も使う人がいるという例を出しつつ,実用品として万年筆が今の日本にお いて広く受け入れられつつあることを示してみせている。客観的な数字によって万年筆の需要が盛 んであることを述べているのである。 漱石自身の万年筆の経験としては,先に述べたように留学に際しての餞別,修善寺大患後の使い こなしがあったわけだが,ここでは 3,4 年前から万年筆で原稿を書こうと急に思い立ったと記して

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いる。それは「第一に便利といふ実際的な動機に支配されたのは事実に違いない」(12)と述べている。 その時,丸善からペリカンと称する万年筆(13)を 2 本購入したという。 この万年筆は調子が良くなかったらしく,筆記しようとするとインクが滴ったり,出なかったり したという。漱石もまた「セピア色の墨を買つて来て,遠慮なくペリカンの口を割つて呑ました。(14)」 というし,洗浄もしなかったらしい。やがて『彼岸過迄』の執筆時にはつけペンに逆行してしまっ たという。それが内田魯庵から贈られたオノトという万年筆でこの原稿を書いたところ,「大変心持 よくすらすら と書けて愉快であつた。」(15)と記している。漱石の文業において万年筆はこの時点ま では必ずしもその中心ではなく,いわば気になる存在にとどまっていたのである。 そのことは大正 3 年 3 月 22 日に『大阪朝日新聞』に載った「文士の生活」の末尾において「用筆 は最初 G の金ペンを用ひた。五六年も用ひたらう。其後万年筆にした。今用ひて居る万年筆は二代 目のでオノトである。別にこれがいゝと思つて使つて居るのでも何でも無い。丸善の内田魯庵君に 貰つたから使つて居るまでである。筆で原稿を書いた事は未だ一度もない。」(16)と述べていることから もうかがうことができる。漱石においては万年筆はあくまでも筆記の道具であり,その実用性にお いて評価していたのである。 「余と万年筆」では前半で「座右に欠くべからざる必要品としての価の廉不廉に拘はらず重宝がら れる」方に「重きを置きたい」(17)といい, 酒呑が酒を解する如く,筆を執る人が万年筆を解しなければ済まない時期が来るのはもう遠い 事ではなからふと思ふ。ペリカン丈の経験で万年筆は駄目だといふ僕が人から笑はれるのも間 もない事だとすれば,僕も笑はれない為に,少しは外の万年筆を試してみる必要があるだらう。(18) と述べて,万年筆が近代生活の筆記に不可欠のものとなることを予言している。そしてその具体 的実際的な例証として,丸善が輸入していたオノトを賞賛しているのである。漱石の個人的な経験 をこえて,明治の末のこの時期に万年筆は高価ではあるものの文筆に必要不可欠な道具としての位 置づけが行われており,その利便性を強調する(19)ことが販売と需要の掘り起こしとにおいて主張され ていたのである。 以上,いささか夏目漱石という作家にこだわって明治末期の万年筆をめぐる問題について考えて きた。しかし,この問題は作家漱石の個人的なものにはとどまらないであろう。明治末のこの時期 に筆記をしようとする日本人にある程度は普遍的に共通することではなかっただろうか。明治の後 半,丸善を介して続々と輸入された万年筆は,日本人の筆記に対する感覚を変えつつあったと言え るだろう。そのことを意識しつつ,次に百貨店における万年筆の販売の様相について考えてみたい。

………

三越と万年筆

― 明治末の百貨店における万年筆の位置

本節では,当時の代表的な百貨店である三越が万年筆をどのように販売戦略のなかに位置づけて いたのかを明らかにし,百貨店を舞台とした消費文化における万年筆についての素描を試みる。そ れによって販売する側からの,いわば商品としての万年筆の位相を考えることができると思われる。

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しかし三越が扱ってきた商品はきわめて厖大であり,また多岐にわたることはいうまでもない。こ こで対象とするのは明治末から大正の初めにおける雑誌『三越』『三越タイムス』における万年筆関 連の記事および広告に限定せざるを得ないことをあらかじめ確認しておきたい。 まず,明治 44 年から 45 年にかけての『三越』誌におけ る万年筆の広告を確認しよう。明治 44 年の第 1 巻 1 号に は「万年筆の選択」と題された 1 頁の広告が掲載されてい る【図版 1】。そこには, 万年筆は今や日本を通じて紳士と貴婦人と学生とを問 わず,日要品として誰しも一本を携ふるまでに広く用 ゐらる。されど万年筆を選択するには,其インキの流 れ出る工合のよろしきや否や,ペンの久しく用ゆるに 足るべきや否や,即ち安心して使用し得るものなるや 否やを確かめざるべからず。ウオターマン万年筆は久 しく我国に紹介せられ,其品のよろしき已に定評あり, こゝに提供して御注文を待つ。沢山御注文被下様御願 ひ申上候 と記され,さらに万年筆の図版とともに「ウオターマン万年筆一本五円以上種々有之候 内地小 包料一個金十二銭」と書かれている。同号にはさらに「こゝに二種の万年筆あり」として, 万年筆には種々の種類あり。然しながら価の廉くして,品質の劣等なるものは直に役に立た ず。日用必携品として紳士婦人学生諸氏が御求め遊ばすとなれば斯様の安ものを御薦め致しが たし。こゝに二種の万年筆あり。 (1)ウオターマン万年筆 五円,七円,以上種々あり (2)英国製速記者用万年筆 二円八五銭 ウオターマン万年筆は世界に於て其名を知らぬものなく,已に我国紳士社会に其名を知らるゝ こと多年,其製品の特長を今更喋々するまでもなし。英国製速記者用万年筆は価は廉なりと雖 も筆を運ぶこと愉快にして使用久しきに堪ゆるを以て三越が特約販売を引受けたるものなり。 何れも三越が責任を以て御薦め申す品なり。 と万年筆と速記者用の万年筆の 2 本の図版とともに掲載されている。注目されるのは,速記者用 の万年筆であり,これは図版を見るとスタイログラフィックペンらしく,それをさらに「速記者用 万年筆」と名づけている。明治の 10 年代にペン先付きの Fountain Pen に先んじて輸入されたこの タイプのペンを三越ではこの時期に速記者用として,特約販売をしていたことがわかる。 三越が万年筆として積極的に販売しようとしたのは,丸善におけるデ・ラ・ルー社のオノトでは なく,ウォーターマン社のそれであった。明治末の百貨店では取り扱う万年筆としてウォーターマ 図版1 『三越』明治44年 第1巻1号

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ンが強く推されていたのである。しかし,『三越』誌の明治 44 年 1 巻 4 号の「近流行旅行用具」と しての紹介のなかには,「ウオターマン万年筆 五円より二十五円まで」とともに「ムーア万年筆 五円より二十五円まで」とされている。ムーアは 1900 年にアメリカで創業した新興メーカーであっ た (20) 。三越はウォーターマンとともにこの会社の万年筆も積極的に販売しようと努めていたのである。 なお,旅行用具の中に万年筆が掲載されているところにも注意しておきたい。携行することが可能 な点に商品としての強み,特徴を見出していたことがうかがわれるからである。 この時期の『三越』誌には,このウォーターマン,ムーア,速記者用万年筆の 3 種が「優秀なる 万年筆」「万年筆三種」として繰り返し登場する。明治 44 年の第 1 巻 9 号には 1 頁を右上から左下 へと斜めに区切り,左上にはこの 3 種類の万年筆を図版とともに掲げ,残り半分の右下を「ミツコ シ鉛筆」と「ポッケツトデスク」の広告にあてている。「ミツコシ鉛筆」は「一打(ダース)二〇銭  一グロツス 二( マ マ )円」であり「三越が多年の苦心の結果漸く舶来品に劣らざる品質上等なる実用万年 筆を製作して発売するに至りしなし。事務室や学校なそにて使用するにはこのミツコシ鉛筆に勝る ものなし。御注文を乞ふ。」と記されている。「ポッケツトデスク」は「一冊(クロース表紙)一円 (河表紙)一円七十銭」で「これは坪井理学博士の考案にて旅行などには此上なき軽便なるものな り。鉛筆挿みなどを備へ尚葉書挿みあり,綴ピン容あり,吸取紙あり,郵券入あり,封筒,書簡箋, 写生帳などをも容るゝに足る。」と説明されている。三越のオリジナル鉛筆と携帯用の文房具入れと でもいうべき商品とともに万年筆の宣伝がおこなわれていたのである。 なお,この当時の万年筆が高額な商品であることはこれまでに見てきた広告類の文言からも明ら かであるが,三越では廉価な万年筆を扱わなかったわけではない。先の「万年筆の選択」という広 告が掲載された『三越』明治 44 年第 1 巻 1 号のなかには 「弟への贈物」という広告のなかにビクトリア万年筆が写 真とともに紹介されており,その価格は 35 銭であった。 これは箱とスポイトが一緒に写っていることから当時の ウォーターマンと類似したアイドロッパー方式の首軸を 外してインクを注入する,おそらく国産の万年筆ではな かったか,と推測される。こうした比較的若い消費者を 意識した万年筆の販売もおこなわれていた点に当時の万 年筆の人気や関心の広がりとそれを意識した販売戦略を 読み取ることができるであろう。 大正に入って『三越タイムス』誌上にも万年筆の販売に関 する広告や記事を見出すことができる。大正元年の第 10 巻 11 号の『三越タイムス』には「アズビー万年筆」の広告が 掲載されている【図版 2】。これは「AZBY FOUNTAIN PEN Price---Yen 2.80」「Made by Waterman Fountain Pen Co. NEW YORK Specially for Mitsukoshi &Co. TOKYO」と英文で書かれたあとに太字で「2 円 80 銭の 万年筆」と記され,以下のような説明が付されている。

図版2 『三越タイムス』大正元年 第10巻11号

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米国ウォーターマン会社の万年筆は,其名夙に天下に遍く,苟くも万年筆を所持せらるゝ紳士 学生諸君にして,ウォーターマン万年筆の名を知らざる方はあらざるべし。されどウォーター マン万年筆は何れも 5 円以上なり。尚一般の需用に応するに遺憾なき能はず。こゝに於て三越 は,ウォーターマン会社と特約してさらに平民的なる万年筆を製造せしめ アズビー万年筆 と命 名し,2 円 80 銭の廉価にて発売仕候。何卒御注文のほど奉願上候。 5 円以上する高価なウォーターマンの万年筆に対してその半額近い価格で,しかもウォーターマ ン社製の万年筆を三越が独自に販売するというのである。広告上部の英文はそのことを端的に示そ うとしたものであろう。説明文のなかでも「ウォーターマン会社と特約して」という部分は活字を 大きくし,さらに「アズビー万年筆」は大きな活字のみならず四角でそれを囲むという力の入れよ うである。高額ではあるが優れた商品といったこれまでの万年筆の位置づけから一歩踏み出し,三 越が積極的に海外のメーカーと組んで,舶来品でありながら安価で,もちろん高品質の商品を開発 販売するのである,という宣言である。万年筆の購買層の拡大を期した販売戦略であり,広告の製 作であるといえる。

………

「万年筆は現代の流行児なり」

― 大正初めの万年筆の販売戦略

大正に入ってからの三越ではこうした万年筆の大衆化を見すえた販売を積極的に進めていこうと していた。そのことは翌大正 2 年の『三越タイムス』第 11 巻 1 号でさらに明瞭に示されている。こ の号では写真入り見開き 2 頁でウオターマン万年筆 13 種,同じくウオターマン万年筆(セーフテー 式)4 種,ムーア万年筆 8 種が掲載されている【図版 3】。価格は 5 円から 28 円に及ぶもので装飾や 図版3 『三越タイムス』大正2年 第11巻1号

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様式などバラエティに富み,おそらく万年筆への憧れ,購買欲を刺激するものであった。 そして「万年筆は現代の流行児なり」という 10 頁にわたる記事がこの号には掲載されている。筆 者は文末に濱田生とあるから,おそらく三越の広告宣伝の中心であった濱田四郎(21)の執筆ではないか, と推測される。この記事は表題に続いて「▽万年筆を求めんとする方々に告ぐべきことども ▽万 年筆御使用の御方の知らねばならぬ事共」とあり,万年筆に関する基礎的な知識と使用法について 啓蒙しようとしたものであることがわかる。以下,要約しながら内容を紹介してみたい。 まず,「△万年筆の 2 大種別」として,万年筆と日本で呼ばれているものには,スタイログラ フィックペンとファウンテンペンの 2 種類に分かれること,後者は泉筆と訳すべきではあるが,万 年筆と訳していることが述べられる。次に「△万年筆の喜ばるゝ理由」として,外出の際に便であ ること,机上のインキスタンドを廃することができること,の 2 点を挙げ,万年筆は軽便無比なる ことは今や社会の定論だとしている。さらに「△便利極まる万年筆」という項では筆者の個人的な 経験として役所などでの書類を書く際や,絵はがきを書く際に使い,さらに家庭でも頻繁に用いて 少しも痛んでいないとする。そして「△万年筆は何年保つか」では,万年筆の寿命はその使いよう によるが,ペン先は金ペンであり,その紙に触れる部分は白金(実はイリジアム)で,黒インキに ふれても錆びないので,無理に取り替える必要もないとする。「△和製万年筆は使用に堪えず」で, 和製の万年筆は品質が実用に耐えないとし,金ペン先は日本では出来ないと断言している。そして 舶来の万年筆の名称を挙げ,なかでもよく人口に膾炙しているのがウオターマンとムーアであると し,口絵に言及しながらウオターマンの特色を「其インキの出る工合の如何にも柔らかにして,英 語で申すスムースといふ事は誠によくスラ とインキの出る工合を形容したものと見えます」と いい,「この特色は到底他の万年筆に見ることは出来ません。」とする。さらにウオターマン式万年 筆は筒(胴軸)に入れるが,ポケットに入れる際にはカップ(蓋,キャップのこと)を上にしてお かないとインクがカップの中に滴り落ちて使用する際に手先を汚すことがあるのが欠点といえば欠 点であるとする。 これ以降は万年筆の使用上の注意や構造の説明に記述が移っていく。「△ペン先を上向きにせよ」 として,鞘にクリップして万年筆を挿み,ポケットに入れるかシースに入れて帯またはポケットに 挿めばよいとする。ウオターマン万年筆への苦情はこのインクの滴りに関することだけであるとい う。なお,胴中にインキが残り少なくなるとインキの出具合が激しくなるのが,それを防ぐには相 当量のインキを入れておけばよく,このことは全ての万年筆に共通することだと述べる。「△セーフ テー式の現出」では,セーフティー式の説明が行われる。則ちインキの滴下の不便を補うためのも ので,カップに深く鞘を押こめ,先頭をネジで止めてインキが出ないようにしたものでムーア万年 筆と似ているとする。 「△ムーア式万年筆」はこのセーフティー式を採用しているムーア万年筆の紹介で,インキの滴 下のおそれはないが,書き出そうとする際にペン先を押し出すという手順があることが欠点と言え ば欠点だとする。「△特殊の好みに応じたる品」ではウオターマンもムーアも紳士用,婦人用の大 きさの違い,書斎用と外出向けの違いがあること,装飾の有無と意義(カップの破損防止)を述べ る。さらにペン先が数年間は持つこと,その大小が価格の高低に関わること,ペン先の尖った(細 い)ものが日本人には好まれ,尖らない(太い)ものは西洋人に好まれる傾向があるといったこと

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を述べる。「△掃除の方法及び其注意とインキの種類」では掃除のやり方を説明し,特にペン先は 外さない方が良いとする。さらにインキは万年筆用のものを用いるのがよく,青黒色(ブリューブ ラック)が最もよく,赤インクはペン先を損ねると注意している。 最後に「△修繕は出来る。安物買の銭失ひを御注意」としてペン先の破損,軸または胴の破損な どについて,三越では材料(部品)を輸入しているので対応可能であるとし,極めて便利になった と自賛している。終わりに価格について,関税が課されるにもかかわらず三越では米国国内とほぼ 同様の価格で販売しているとし,5 円以上のものならば安心して使用できる,と結んでいる。 以上,長々と「万年筆は現代の流行児なり」という記事の内容を紹介してきたが,大正初年におけ る商品としての万年筆の位相をよく示していることが理解できると考えたからに他ならない。ここ では万年筆の有用性,使用上の注意,構造の解説,修理の体制を具体的に述べ,その魅力をアピー ルしようとしている。毛筆やつけペンとは異なった注意が必要なことや,構造の理解の上に立った 扱いが求められること,耐久性や修理の可能性など,新しい商品としての万年筆を購買欲の対象と するべく周到な説明を加えているといえるだろう。これらのなかには,はるかに技術的に進歩,向 上した現代の万年筆の扱いに通じるものもあり,この時点での普及啓蒙が日本における万年筆の受 容に大きな意味を持っていたことがわかる。 この時点での万年筆の販売における大きなネックとなっていた点はその価格であっただろう。『三 越タイムス』大正 2 年第 11 巻 6 号では「御注文遊ばす際の御注意として八則」として通信販売を 利用する際の注意点をあげているが,そのなかで 7 番目に「5 円以下の万年筆は御使用に堪えざる や」,8 番目に「万年筆御使用の注意」という万年筆に特化した記事を掲げている。内容は「万年筆 は現代の流行児なり」の要約に近いが,三越の力の入れようがここからもうかがえる。7 番目の「5 円以下の万年筆は御使用に堪えざるや」では三越では 5 円以下の安物は売っていないとし,金ペン の使用,インキの出具合の良さを強調して「安い万年筆―換言すれば粗製濫造の万年筆は決して御 使用なからんことを希望致します。」と結んでいる。おそらく国内で製造されはじめた万年筆に対し て,輸入高級品の価値を主張しているのである(22)。 なお,この記事では万年筆そのものはもちろん,万年筆用のクリップ,ウオターマン製のゴム製 万年筆掃除器,万年筆首取外し用ゴムなどの広告も併載されている。万年筆のみならず,関連する 道具類も販売し,万年筆を快適に使いこなせる筆記環境作りをめざしていると解することも可能で あろう。 安価な万年筆に対して高価な外国製の万年筆の優位を主張する姿勢は『三越タイムス』大正 2 年 第 11 巻 12 号の「万年筆の時代は来たれり」でも貫かれている。その前半をみておこう。 三越では万年筆を販売して居ります。万年筆が近来非常に需用が多くなりましたにつれ,和製 の万年筆は雨後の筍の如く出来ました。然し万年筆は西洋でも中々面倒なる技術を要するので 完全なる万年筆はさう容易くは出来ません。現に世間で持て囃さるゝ万年筆が全世界を通じて 四五種以上はないといつてもよい位な訳でこれを日本で初めて拵へて見たからとて,直に売り 出すといふのは,誠に無責任の様に思はれます。これならばよいと確かに見込のついた上でな ければ売り出さないのが至当かと思はれます。

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日本で製せる万年筆はいろ あります。中には舶来のペン先を用ゐ軸其他を加工せるものも あります。和製品に舶来の様な名を付して売る店もあり升。然し三越では未だに之を御薦め申 す丈けの確信はありません。舶来品は安いものではございません。安くはないが使用上安心し て使はれます。インキの出る工合が違ふ,寿命が永くございます,結局万年筆は舶来品の中で, 最も名高い,――つまり西洋諸国で充分に社会の信用を得たる名高い万年筆――は最も信用あ り,最も安心して用ゆるに堪ゆといふ訳になります。 こう述べて,後半はムーアとウオターマンの優越を述べ,万年筆用のインキを使用することを薦 め,最後に「安い万年筆は買ふべからず」と主張をくり返している。これを三越における舶来優先, 高級志向とだけ受け取ることはできないだろう。それよりも商品の高品質の追求と三越での取り扱 いにおけるプライドが万年筆にも及んでいるととらえておきたい。流行しつつある万年筆の取り扱 いのなかにも三越が扱うのであれば,高い品質を希求し,その保証こそが販売を支えるという思想 を読み取ることができるように思われる(【図版 4】は同 号末尾の広告)。 万年筆に関しては,その販売にあたって従来の筆記具 およびその環境,関連付属する用具が大きく異なること が意識され,そうした知識や手順といった筆記をめぐる 新たな生活の様式につながる情報をも提供することが試 みられているといえるだろう。大衆化とはいっても商品の 安価での供給という単純なものではなく,知識の普及,価値 観の醸成といった商品そのものには現れない部分での啓 蒙を伴っていた。ある意味で万年筆を中心とする筆記文 化の革新がここで図られていたということもできよう。 明治末から大正の初めにかけての三越の万年筆販売 は,こうした一種の啓蒙運動としての意味を持っていた と後世からは評価することができる。そして,そこで展 開された販売戦略は三越の販売活動というだけではな く,筆記の近代を支えるコモンセンスの形成とかかわっ ていたといえるだろう。丸善による万年筆の輸入販売に 続く,三越による外国産万年筆の販売はそうした近代の 消費文化と筆記文化の両方に関わっているのである。

おわりに

本稿では,明治 10 年代に始まった万年筆の輸入供給の過程を確認し,その位相を特に夏目漱石と いう一人の作家に焦点を当てて整理してみた。さらに三越の明治末年から大正初めにかけての万年 筆の販売姿勢を具体的に検討し,その特徴を考えてみた。以上の結果,見通すことができたのは次 図版4 『三越タイムス』大正2年 第11巻12号

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の 3 点である。 第 1 に近代日本のなかで万年筆の普及販売に最も力を尽くしたのは丸善であるが,それに続いて 明治末年からは三越も万年筆を商品として取りあげ,その販売にかなりの努力を傾注していた。そ の販売は万年筆単独ではなく,関連する商品も視野に入れたものであった。 第 2 にそうした三越の万年筆販売は徹底した舶来品中心主義であり,その品質の高さを常に前面 に押し出す姿勢が堅持されていた。安価な普及品も海外のメーカーによる製造をおこない,国内で 生産される万年筆の可能性には否定的であった。このことから逆に,国産万年筆の普及がこの時期 に始まることを推測することができる。 第 3 に三越は万年筆の販売に際して商品そのものの供給ばかりではなく,関連する知識,特にそ の使用法の啓蒙に努め,万年筆の優越性を中心とする近代筆記文化の醸成に関わった。これは万年 筆に限らず,鉛筆やノートをはじめとする洋紙製品の普及とそれらと不可分な近代の諸制度や官公 庁,学校,軍隊などの場とも深く関わっていったものと思われる。 万年筆の日本での浸透については従来,丸善と内田魯庵の活動に即して叙述される場合が多かっ たが,丸善に遅れるものの三越が万年筆の普及,大衆化に果たした役割を軽視すべきではないこと が判明した。日本の万年筆史は複線的に描かれるべきなのである。(23) さらに,ここで見通すことのできた近代の筆記環境をめぐるさまざまな問題については視点を変 え,より多角的に考察していくべき点も少なくない。例えば,明治 35 年生まれで,東京帝国大学 に学んで国文学研究者となった伊藤正雄はその回想のなかで,養父で弁護士であった伊藤徳三が大 正 10 年,69 歳で世を去るまで,万年フデはおろか,普通のペンすら一度も使ったことがなく,専 ら毛筆を使っていたと言い,伊藤自身も大正末年の大学生時代(東京帝国大学),万年筆は持って いたものの日用には普通のペンを用いていたと言う。学生時代は「大学に通うにもわざわざインキ 壺をぶら下げていったものだ。これが当時の学生風俗だったのである。国産の安い万年筆は,故障 が多かったせゐもあらう。万年筆が真に大衆のものとなったのは,昭和に入ってからではあるまい か。(24)」と述べている。おそらく大正初めの三越では否定的に扱われていた国産万年筆の品質向上や普 遍性の獲得が万年筆のより徹底した大衆化へとつながっていったのではないか,と推測される。丸 善や三越のみを糸口に万年筆をはじめとする筆記文化の近代史を考えるのは一定の限界があるだろ う。それを乗り越えていくための視点や方法をも含めて,考えるべき課題は少なくないことを確認 して,とりあえず本稿を閉じたい。 註 ( 1 )――以下の引用は『明治文学全集(第 64 巻)明治 歌人集』(筑摩書房,1968 年)に拠った。当該作品は 140 ~ 146 頁所収。 ( 2 )――石井研堂『明治事物起原』(〔明治文化全集別巻〕, 日本評論社,1969 年),1422 頁。 ( 3 )――中西敬二郎ほか『丸善百年史』(丸善株式会社, 1981 年),808 ~ 814 頁。 ( 4 )――前掲注(3),819 ~827 頁。なお内田魯庵が説く万 年筆の有用性については明治45 年4月に発表された砂邱子 (内田魯庵)「万年筆の過去,現在,及び未来」(坪内祐三・ 鹿島茂編『明治の文学(第 11 巻)内田魯庵』,筑摩書房, 2001 年,424~437頁 ,所 収 )が 代 表 的 な も の である。 ( 5 )――八木佐吉『書物往来』(1975 年,東峰書房),170 ~ 172 頁。 ( 6 )――前掲注(5),204 ~ 205 頁。 ( 7 )――『漱石全集(第 11 巻)』(岩波書店,1975 年),

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(国立歴史民俗博物館研究部) (2014年12月1日受付,2015年 3 月19日審査終了) 509 ~ 513 頁。 ( 8 )――『漱石全集(第 14 巻)』(岩波書店,1975 年), 151 頁。なお,引用に際しては仮名遣いは原文のままと し,漢字は通用のものに改めた。以下,本稿における引 用については全て同じ。 ( 9 )――『漱石全集(第 15巻)』(岩波書店,1976年),3 頁。 (10)――明治 43 年 9 月 10 日の日記,『漱石全集(第 13 巻)』(岩波書店,1975 年),536 頁。 (11)――『漱石全集(第 8巻)』(岩波書店,1975年),287頁。 (12)――前掲注(7),511 頁。 (13)――これはドイツのペリカン(Pelikan)社のものでは なく,イギリスのデ・ラ・ルー社の製品,ペリカン(Perican) であった。 (14)――前掲注(7),511 頁。 (15)――前掲注(7),513 頁。 (16)――『漱石全集(16巻)』(岩波書店,1976年),712 頁。 (17)――前掲注(7),510 ~ 511 頁。 (18)――前掲注(7),512 ~ 513 頁。 (19)――なお,この利便性ということを視点に万年筆の 近代生活史における位置づけを考えることの重要性も確 認しておきたい。漱石の残した手紙には「急ぐので万年 筆で失礼します 以上」(大正 4 年の青木新護宛ての手 紙の末尾,『漱石全集(第 15 巻)』,岩波書店,1976 年, 478 頁)とあり,また大正 5 年の『明暗』十五では 西洋流のレターペーパーを使ひつけた彼は,机の抽 斗からラベンダー色の紙と封筒とを取り出して,其 紙の上へ万年筆で何心なく二三行書きかけた時,不 図気がついた。彼の父は洋筆(ペン)や万年筆でだ らしなく綴られた言文一致の手紙などを,自分の倅 から受け取る事は平生からあまり喜んでゐなかつ た。彼は遠くにゐる父の顔を眼の前に思ひ浮かべな がら,苦笑して筆を擱いた。(『漱石全集(第 7 巻)』, 岩波書店,1975 年,45 頁) という描写がある。これらからは,万年筆の筆記にあ たっての利便性や簡易性の反面で,折り目正しい正式の 書記行為ではないという認識や了解が大正初年にあった ことをうかがうことができるだろう。言文一致という文 体に加えて万年筆による筆記そのものが「だらしない」 ものであったのである。こうした認識がどのように変化 していったか,その背景や条件はどのようなものであっ たかを考えることは近代日本における筆記史の大きな課 題と言えるだろう。 (20)――A・ランブロー(すなみまさみち監訳)『Fountain Pens―万年筆 Vintage and Modern』(同朋舎出版,1991 年),35 頁。 (21)――濱田四郎については神野由紀『趣味の誕生―百 貨店がつくったテイスト―』(勁草書房,1994 年),111 ~ 121 頁を参照。 (22)――こうした三越における万年筆の輸入高級品戦 略は前節で指摘したビクトリア万年筆の販売やアズビー 万年筆の製造販売と矛盾するようにも思われる。アズ ビー万年筆はあくまでも万年筆普及のための入門的な商 品だったのかもしれない。「万年筆は現代の流行児なり」 では「三越で売つて居るアズビー万年筆は金ペンの代わ りに鍍金ペンを用ゐてあります。使用に耐へないことは ございませんけれども,ウオターマンの如く,ムーアの 如く百発百中と申す訳には参りません。」と述べられてい る。アズビー万年筆の仕様がうかがえるとともに,金ペ ンに対する信頼が厚いことにも留意しておきたい。 (23)――もちろん,国産万年筆の生産とそれを支えた技 術や思想の検討も重要である。その点については現代の 「手作り」万年筆を起点とした拙稿「国産万年筆研究の課 題」(『国立歴史民俗博物館研究報告』170 集,国立歴史 民俗博物館,2012 年)を参照されたい。 (24)――伊藤正雄『忘れ得ぬ国文学者たち―并,憶ひ出 の明治大正―』(右文書院,1973 年),276 ~ 277 頁。

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OIKE

Jun'ichi

A Study of Fountain Pens from the End of the Meiji Era to the Beginning

of the Taishō Era in Japan: A Paradigm Shift in Their Marketing and Its

Meaning

This paper examines fountain pens to reveal the modernization of writing instruments and the chang-es of consumption culture. First, this paper analyzchang-es the position of fountain pens in marketing strategichang-es in Japan in the Meiji era (1868-1912) by examining the advertisements of Maruzen, Yo to Mannenhitsu

(A Fountain Pen and I) by Sōseki Natsume (published in 1912), and other essays and writings regard-ing fountain pens. Moreover, this paper traces the marketregard-ing of fountain pens at Mitsukoshi Department Store and analyzes their characteristics by examining its booklets named Mitsukoshi and The Mitsukoshi

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mod-ernization in the writing universe from the end of the Meiji era to the beginning of the Taishō era (at the beginning of the 20th century). In particular, Mitsukoshi Department Store actively promoted the sale of imported fountain pens. In addition to sales promotions, it shared related knowledge, including how to use a fountain pen, to create cross-selling opportunities. In order to fully reveal the history of fountain pens and the modernization of writing instruments in Japan, further studies from different angles will be needed, including the research of the process of promoting the domestic production of fountain pens. Key words: Maruzen, Roan Uchida, Sōseki Natsume, Mitsukoshi, Waterman

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