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粤北山間部ヤオ族の下山移住と適応: 沖縄地域学リポジトリ

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Academic year: 2021

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Author(s)

馬, 建釗; 陳, 暁毅; 木村, 自(訳)

Citation

地域研究 = Regional Studies(2): 47-73

Issue Date

2006-03-31

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/5543

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木村自(訳):譽北山間部ヤオ族の下山移住と適応

(日本語訳)訳者:木村自*

TranslatedbyMizukaKimura

輿北山問部ヤオ族の下山移住と適応

馬建釦**・陳暁毅***

OntheResettlementandCulturalAdaptation

ofYaoPeopleintheMountainousAreaofNorthGuangdong

MaJianzhaoandChenXiaoyi 本稿は鈩輿北山間部ヤオ族の移住と文化的適応について論ずるものである。本稿ではまず輿北山間部ヤオ族の移住の 基本状況について紹介し、続いて輿北ヤオ族の移住の要因に関して多角的な視点から分析する。筆者は、建設工事にと もなう移住以外にも、政治的、経済的、生態的要因が璽北111間部ヤオ族の移住を引き起こしていると考える。輿北ヤオ 族の典型的な移住村において行った調査や多くのインタビュー調査をもとに、物質・社会・精神の三つの側面から、ヤ オ族移民がその三側面においてどのように適応したかについて分析する。そのうえで、様々な要因から移住したヤオ族 の文化的適応状況について比較分析を行う。最後に、そのなかから問題点を指摘し、解決の糸口を探る。 キーワード:圏北山間部、ヤオ族、移住、文化的適応

lnthispaperwewilldiscusstheresettlementoftheYaonationalityanditsculturaladaptationAtabeginningwe

willtrytodepictthebasicsituationofresettlementoftheYaonationalityinthemountainousareaofnorthern

Guandong,andtheninquireintothereasonsfOrtheirresettlementfromseveralviewpoints・WediscusspoliticaL

economic,andecologicalaspects,aswellastheconstructionofahydroelectricdam,whichcausedtheresettlelnentof

Yaonationalityinthisarea・BasedondatawhichwegatheredthoughinterviewswithmanyYaopeoplelivinginthe

typicalresettlementvillagesinnorthernGuandong,weanalyzeculturaladaptationintennsofmaterial,sociaLand

spiritualaspects・Andthenwecompareseveralpattemsoftheirculturaladaptationcausedbythedifferentprocesses

ofresettlemenLAndfinallywewillpointouttheproblemsrelatedtotheirresettlementa、d,atthesametime,tryto

suggestwaystosolvetheseproblems

Keywords:Resettlement,Culturaladaptation,YaoNationality,MountainousAreaofNorthernGuangdong

は、この地域を中心に分布する。第5次人口センサスに

よると、広東省のヤオ族は202,667人に)であるが、この

人口数には外来ヤオ族と広東省の世居ヤオ族とが含ま れる。広東省の世居ヤオ族の主な分布地域は連南ヤオ 族自治県、乳源ヤオ族自治県、連山チユワン族ヤオ族 自治県であり、連州、始興、曲江、陽山、翁源、仁化、 楽昌、懐集、陽春、英徳、龍門などの10余の市や県に はじめに 「輿北」と 1. |譽北」とは広東省北部を指しており、清遠市と詔 関市とがその中心である。輿北は連綿と連なる山々と、 珠江と長江との分岐点を有する。-部盆地と峡谷を除 き、海抜1000-1500メートルに位置する地域がほとんど であり、広東省の最高峰、1902メートルの石坑連はま さに譽北に鎮座している。広東省の「世居ヤオ族」(1) *国立民族学博物館, **広東省民族研究所, ***広東省民族研究所 mizuka66@idcminpaku・acjp 広東省広州市,510180〔Majinzhao,Guandong,InstitutcofEthnicStudies,Guangzhou,PRChina,510180〕 47

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儒一支つ

「地域研究」2号2006年3月 連南の牛塘営林場、大麦山鎮の扶輪新村、連山の福堂 鎮福民新村で2005年8月に行った調査である。調査の 過程で、これらの地域に居住するヤオ族移民20余人に 詳しくインタビューするとともに、各県の民族宗教局、 移民弁公室、扶貧弁公室などの幹部10人ほどにインタ ビューを行った。また、上記の調査以外にも、筆者は 別のテーマで輿北ヤオ族に関する調査をしばしば行っ ており、そうした調査で収集したヤオ族の移住状況に 関するデータも、本稿で必要に応じて用いている。 散居している。そのうち、連南には8万人弱、乳源には 2万人余り、連山には1万人弱のヤオ族がいる。そのた め、珠江デルタ地域に移入した外来ヤオ族を除くと、 この三つの自治県に居住するヤオ族が、広東省の世居 ヤオ族の大部分を占めているということができる。 1980年代以降、広東省あるいは中国経済全体の急激 な成長にともない、各地で経済発展の格差が拡大した。 輿北山間地域で生活する貧困なヤオ族については、 1990年代から現在までに、注目すべき移住の波が生じ ている。経済的なプッシュ要因とプル要因の関係のな かで、先祖代々生活してきた土地から自発的に移動す る人々や、政府による指導や援助、慈善団体のサポー トなどにより生活状況の苦しい山間地域を離れる人々 もいる。1993年5月11日に広東省清遠市委員会と市政府 は、英徳市において「第1回石灰岩特別困窮地域人口 移住会議」を開催したが、清遠市はその後5年の間に、 石灰岩特別困窮地域及び寒冷高山地域の少数民族貧困 農民世帯18万人を組織的に移住させるよう計画した。 この移住は、嶺南地域においては近代以降、最も規模 の大きな移住となった。移住者たちは、特別貧困地域 からの人口大移住という貧困支援プロジェクトを、「第 2次解放」と呼んでいる(播偉,1998)。少なく見積も っても、改革解放以降の輿北ヤオ族の移住人口は4万 人以上に及ぶ。彼らが故郷を離れた要因や移住後の適 応状況は、これまでに十分に研究されてこなかった。 よって、本稿では輿北山間部ヤオ族の移住の状況、移 住の要因と文化的な適応状況などについて総合的な描 写と考察を加えることとし、この分野における研究の 今後の発展に期待する。 論文末に挙げた参考文献を除き、本稿で扱う資料は すべて人類学的なフィールドワークによるものである。 筆者は輿北地域において3回の調査を行い、人類学的 インタビューと参与観察に基づく調査を行った。3回 の調査はそれぞれ、連南三江鎮塘沖村の高嶺自然村及 び連山小三江鎮の立星村委員会で2004年12月行った調 査、始興県沈所鎮上園渓ヤオ族村及び乳源東坪鎮東莞 商会民族村、茶亭ヤオ族村で2005年3月に行った調査、 2.譽北ヤオ族の移住に関する概況 歴史的な要因により、連南、連山、乳源の三つの自 治県と圏北地域の民族郷のヤオ族の大部分が、生活生 産条件の極めて厳しい石灰岩地域と寒冷高山地域に集 住していた。三つの自治県と一部の民族郷が成立して 以降、各級政府は断続的に援助政策をうちだし、貧困 地域の少数民族のために多額の資金と物資を投入して、 生活状況の改善に努めた。しかし、1980年代末におい ても、この地域のヤオ族が依然として広東省内で最も 困窮した集団の一つであることに変わりはなかった。 1993-1996年の間、広東省政府は計9281.45万元を投入 し、石灰岩地域と寒冷高山地域に居住する少数民族を 対象に、大規模な移住政策を実施した。1993年5月か ら、清遠市は石灰岩山間地域の特別貧困人口と寒冷高 山地域の少数民族人口の大規模な移住を実施した。移 住地での農業開発を進め、農村特別貧困地域住民の食 住問題を、大規模かつ迅速に解決した。清遠市は各種 の移住資金計2億5526万元を投じ、特別貧困山間地域と 寒冷高山地域の少数民族3万9459世帯18万6850人を移住 させた。彼らに耕地15万2410ムー(lムーは約6.67ヘ クタール)を付与し、三つの移民管理区と1,177の移民

新村を建設した(3)が、この移住者たちの多くがヤオ族

であった。 1993-2002年の間に、連南ヤオ族自治県の移民弁公 室に出向していた房国良は、筆者に次のように語って いる。1986-2003年の間に、広東省政府は206万元の 「石灰岩地域移住費〔石灰岩地区移民搬遷費〕」を連南 48

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木村自(訳):雲北山問部ヤオ族の下山移住と適応 に分配した。実際には、移住にかかる費用は莫大なも ので、政府資金だけでは足りず、多くは複数の財源に よる。一般に移住費の財源は、政府の割当金、国内外 の民間慈善機構の資金援助、一般からの寄付金、それ に移住者自身の資金であり、資金の使途については厳 格に管理されている。たとえば、始興県では「四つの 一部〔四十一点〕(省や市からの資金援助から-部〔- 点〕、県の財政部門からの配分が-部〔-点〕、幹部や 一般の寄付金から一部〔-点〕、移住者自身の資金から -部〔-点〕)」による負担という方法を採用して、移 住者の移住定着のための資金を集めた。2003-2004年 の間、始興県では広東省による移民配分金380万元、市 の配分金36万元、県財政の配分が140万元、県所轄部門 の関係資金が133万元、県全体で募った幹部職員からの 寄付金が28.6万元であり、合計717.6万元であった。同 時に、移住者自身が働くよう促し、所轄機関の幹部職 員を組織して移住地において労働義務を課し、農業耕 作を助けて、建設工事にかかるコストを引き下げた。 移民資金の使用については、専用の銀行口座を開設し て、定期的に検査するなどT厳格な管理体制を実施し ている。実施に当たっては収支計画を策定し、移住理 事会に申請して、(県や市などの)それぞれの段階での 批准を得て、建設費用が配分される(始興県貧困璃区 移民安置弁公室,2004)。始興県沈所鎮上團渓ヤオ族村 では、移住は複数回にわたっているが、それぞれの移 住ごとに異なる資金援助方式が採用きれている。 いる。今回調査では、茶亭ヤオ族村に移住した人々は、 各世帯が5,500元を納付し、東莞商会民族村に移住した 人々は、各世帯が10,000元の移住費用を納付しており、 それ以外の費用はすべて東莞商会民族商会が援助して いる。大麦山鎮政府のそばにある「港澳扶輪ヤオ族新 村」は、港澳国際扶輪社(香港マカオ国際ロータリー クラブ)の塵烈武や雲大棉らが「慈善の気持ち」から 85万香港ドルを寄付し、それに加えて上級政府の割当 金及び県内で募った資金計163.8万元によって建設され た。さらに、高嶺村の67世帯の移民住宅建設の費用は、 省政府の移民基金から供出される10,000元/世帯の資 金、香港慈雲閣基金会からの寄付金62万元、及び寄贈 きれた文化室一部屋を除くと、各世帯が6,000元の資金 と4.5立方メートルの木材を各自準備しなければならな かった。明聯ヤオ族新村は、海外華僑の張明聯女史か らの100万元の寄付と、省及び市政府の配分金100万元、 ざらに広東鉄鋼集団公司、広州セメントエ場、佛山市 政府から寄付された建築資材の一部によって共同で建 設されたものである。 1980年代以降、輿北のヤオ族の移住様式が変化して きている。はじめは政府が全面的に請け負うかたちで あったのが、徐々に移住者が自主的に建設し、政府が 補填するというかたちに変化している。組織の面では、 県レベルの指導者を長とする移民指導小組が設けられ、 その下に移住定着弁公室〔移民安置弁公室〕を設置し、 ざらに村民から組織される移民理事会が成立している。 移住定着事業は県が統一的に計画し、移住定着弁公室 と移民理事会がそれを具体化する。県の指導者や各下 位部門の指導者が移住地域に入って事業の進捗状況の 把握に努め、人民代表大会の代表者や政治協商委員会 の委員を組織して視察を行い、事業の進行と質の向上 を保持しようと努めている。移住者の住宅や付随する 設備は、県の移住指導小組が一括して計画し、村民が 自主的に建設する。移住定着事業はヤオ族の自主を基 本として、集合定着と分散定着、農村定着と城鎮定着 との組み合わせを自由に採用する方法で、移住定着場 所を選択している。鎮や県城に移り住みたいという、 【上園渓村趙建春】費用については、1回目に移住 した世帯は3,000元、2回目に移住した世帯は5,000 元、3回目に移住した世帯は6,800元を供出し、残り は政府がすべて請け負った。家屋面積は80.68平方メ ートルあり、家の周囲を含めると110平方メートル ある。家屋は基本的に2階建てだが、まず1階を建 設し、2階については自分たちの資金力をみて建設 するかどうかを決める。 こうした措置は初期の移住を奨励する傾向を示して 49

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<~藷一両

「地域研究」2号2006年3月 上記以外にも、輿北に居住する散居ヤオ族の移住問 題も存在していた。詔関市始興県羅唄鎮小安村、院子 村及び花山郷合水村という三つの村367世帯1651人のヤ オ族が寒冷高山地域に居住していた。ここは、いわゆ る「三無村(農耕地無し、伐採可能な森林無し、歩行 可能な道路無し)」であり、生存環境は劣悪で生活は困 窮していた。このため、広東省政府は600万元を特別に 割当て、同県が移民新村において家屋を建設する補助 金とした。省扶貧弁公室と省民族宗教事務委員会は協 力して上記事業の推進に当たった。様々に検討した結 果、同県は三つの村の貧困少数民族を「山・水利・耕 地・森林・道路」すぺての条件が整った沈所鎮とその 交易中心地に移住させた。2002-2003年の間には、始 興県は沈所鎮の上團渓、下園渓、羅唄東山水、羅唄 山崗背坪の四つの移住地と沈所鎮内の交易中心地、県 城城区に228の家屋を建設し、水田386ムー、桑畑108ム ー、畑地300余ムー、養殖池90ムー、造林地800余ムー、 養蚕工場6000平方メートル余りを購入し、移住地にお ける道路、水、電気さらに電話などのインフラストラ クチャーをおおかた完備させた。ここ2年間の建築資 材の価格膨張が、移住者たちが家屋を建設する進捗状 況に直接的に影響し、移住者のなかには2005年の春節 前になってやっと家屋の完成を見たものもあった。現 在105世帯の移民が新たな家屋に入居し、残りの123世 帯は目下移住準備中である(凌偉建,2005)。 輿北のダム建設にともなう移住は1950年代からすで に始まっており、合計3,468世帯16,163人が移住してい る(陳夏春,2003)。本稿では輿北ヤオ族移民の適応の 問題を探求するが、時代を限定して1980-1990年代の ダム建設移民に基本的に焦点を当てる。1986年、広東 省政府は連南に板洞ダムを建設するために7,000万元を 投資し、現地の石灰岩地域に居住する人々の飲料水や 灌慨、電力の問題を解決しようとした。ダム建設地域 からは、206世帯700人近いヤオ族住民が移出し、二つ の地域に分かれて移住定着が行われた。そのうち、80 世帯281人はダムから8キロほど離れた牛塘営林場に移 住し、18-40歳の労働力人口は県城内の県所轄公営機 一定の教育や技術を有した-部ヤオ族の要望に応える ために、移住指導小組は鎮の計画に基づいて適切に優 遇措置をとり、ヤオ族住民が所管郷鎮の中心地域や県 城に自由に家屋を建設できるようにした。同時に、現 地の企業と提携して就業問題を解決し、中心地域へ移 住したものの、生活を維持できずに故地へと帰還する ということがないようにしている。 連南において移民管理工作に長く従事してきた房国 良によると、1960年代末から1970年代の初めにはすで に輿北における移住が始まっており、金坑鎮塘沖村は その当時の移住者によるものである。当時各世帯には 400-600元の手当てがあり、移住者の一部は政府の支 援を得たものであるが、自発的に移住した人々もいる。 しかしながら、大規模な移住はやはり1980-90年代に 行われている。この時期には、各地方政府に設置きれ た移民弁公室が上級政府の要求を遵守して、石灰岩地 域と寒冷高山地域からのヤオ族の集団移住工作を行っ ていた。移住事業は省内の三つの要求に従っている。 その三つとは、それぞれ次の通りである。l)近接地 域への移住定着、つまり同一郷鎮、同一県内への移住 を行う。2)子供の教育や農業工作、市場や医療施設 への簡便を考慮し、移民村は基本的には土地が平坦で、 水や電気、交通の便利なところに建設する。3)移民 新村の建設は「四つの統一」を遵守する。つまり、統 一規格(各世帯とも70-80平方メートルの赤レンガ及 び鉄筋コンクリート作り)、統一計画、統一設計そして 統一施工である。 以上の石灰岩地域からの移住原則に基づき、三つの 自治県から断続的に合計10,382世帯47,565人の人々が、 三つの県の24の郷鎮、152の行政村に移住し、357の移 民新村を建設した。そのうち、連南では5,656世帯 27,298人が、12の郷鎮と50の行政村に移住し、200の移 民新村を建設した。乳源では2,433世帯10,361人が、五 つの郷鎮に移住し、82の移民新村を建設した。連山チ ユワン族ヤオ族自治県では、1,993世帯9,906人の少数民 族が、32の行政村に移住して、57の移民新村を建設し た(陳夏春,2003)。 50

(6)

木村自(訳加害北山問部ヤオ族の下山移住と適応 関や工場、鉱山などの企業で働くことになった(連南

県板洞食水工程管理局,2005)。上記以外では、1996年

と2000年に乳源において、楊渓ダムと唄尾ダムを建設 する際に、700世帯の3,000人近い人々が移住している (陳夏春,2003)。 えられていった。これらの漢字は強烈な差別的意味を 有しており、山間部におけるヤオ族と漢族との交流や 融合を妨げ、同時に山間部ヤオ族の外部地域への移動 や下山移動を妨げてきた。 新中国の民族平等政策、共同発展政策により、ヤオ 族が山間部を離れるうえでの政治的障碍が取り除かれ た。民族平等政策と民族地域自治法が実施されたこと で、それまで歴代封建政権の圧制のもと、山奥に身を 隠していたヤオ族たちが、外部地域に居住することを 希望するようになった。こうした現象は、1950-60年 代にはすでに見られた。現在では「戸籍政策」が緩和 されたことにより、ヤオ族が「窮すれば遷ずる」ため の条件が整った。実際には、ヤオ族が移住定着した農 地は、現地の漢族(客家)が政府のスローガンに答え る形で寄付したものであり、移住者の家屋も現地の漢 族の支援を得て建設したものである。 石灰岩地域と高山寒冷地域からの移住は、多分に政 治的な色彩を帯びている。政府もこうした移住事業を 政治的課題として認識し、完成させている。貧困地域 の支援や居所の安定化などの事業は、政府のマイノリ テイに対する関心の高さを示しており、社会全体がと もに発展し、ともに豊かになるよう配慮したものであ る。このため移住は、現地の政策決定者が移住をどれ ほど重視しているかと密接な関係にあり、たとえば始 興県の貧困ヤオ族の移住は、県委員会書記が自ら花山 郷合水村に赴いて実地調査を行い、検討の後に提起し たものである。官僚のなかには、山間部のヤオ族に対 して、経済的に遅れたエスニック・マイノリテイであ るとして隣燗の情を抱いている人もいる。たとえば、 中国共産党清遠市委員会書記の酪雁秋は、1992年に国 務院扶貧開発指導小組を引き連れて、連南三排郷を視 察した際に、現地の状況を見て次のような詩を詠んで いる。「古くからの三排村は雲ほども高いところにあり、 石段を一歩一歩登っていくと肩も汗でずぶぬれになる。 ヤオ族の家屋の壁や垣根は破れ、家具は古びてしまっ ている。門前の竹ざおに衣服が干されているが、それ もぼろぼろである〔三排古塞桂雲辺、石径登鑿汗淌肩。 3.婁北山間部ヤオ族の移住の要因

輿北の山間部のヤオ族は、1980年代から多くの移住

者が出ている。その要因は政治的側面、経済的側面、 生態的側面、及び建設工事や災害にともなう側面に大 別することができる。奥北山間部の山地と峡谷との高 低差は非常に大きく、水力発電資源が豊富である。そ のため、こうした資源の開発と利用を目的としてダム や水力発電所が建設され、板洞ダム建設移民に見られ るように、ヤオ族の非自発的な移住を引き起こしてい る。建設工事にともなう要因以外にも、政治、経済、 生態それぞれの要因について、ここで深く検討する価 値があろう。 3.1政治的要因 ヤオ族の祖先は南朝末期に広東省に入り、階唐宋元 を経て一定の規模を有する集団へと発展した。しかし、 歴代朝廷は広東域内のヤオ族について具体的な政策を

打ち出してはこなかった(練銘志ら,2004:301)。元朝

期から清朝期にかけて、数々のヤオ族起義が発生して おり、そのため朝廷は輿北のヤオ族地区に対して何度 も兵力を差し向けた。広東ヤオ族に関する史料には、 数多くの「創璃(ヤオ)」上奏文を見ることができる (黄朝中・劉耀茎,1984:380-456)。こうしたことから、

輿北のヤオ族にとっては安全の確保が何よりも必要と

なり、そのためヤオ族の多くは、侵攻されにくい山間 部を自分たちの居住地として選択したのである。そこ から輿北ヤオ族に典型的な分布形態が生み出きれた。 元代以降民国に至るまで、歴代の政権はいずれも民族 抑圧政策、民族差別政策を行ってきた。唐宋期に使わ れていたヤオ族の呼称「揺」は、「狢」もしくは

「蛮癌」などの侮辱的意味合いを帯びた漢字に置き換

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(7)

(〔~誘一支-つ

「地域研究」2号2006年3月 山間部のヤオ族にとり非常に大きな経済的プル要因と なっている。こうしたプッシュ要因とプル要因の相互 作用の中で、情報収集に優れ頭脳明蜥なヤオ族は、政 府が移住を決定する以前に自主的に低地部へと移住し、 生産や生活を行っていた。なかには、自主的に山を降 りて農耕地の賃借や、外部での賃労働に従事するもの もいる。彼らはある程度の貯蓄ができると、未移住者 に一定の影響を与えることもある。こうした移住者に ついては、現地政府も重視しており、それが最終的に かれらの故地の貧困層ヤオ族に対する移住措置を、政 府に決定させることもある。 交通の不便ざや計画出産管理が行き届いていないた め、山間部のヤオ族人口は不断に増加している。その ため人口を養えるだけの土地が日増しに不足し、経済 状況は悪化している。土地は農業生産を行ううえでも っとも重要な資源であり、その広苔と質は農民にとっ て最も肝要である。石灰岩地域には開発利用可能な土 地は極めて限られており、乳源東坪鎮における土地不 足現象は極めて深刻である。耕地の平均所有面積が極 度に少ないわけではないが、土地は傾斜地が多くて土 地が小きく、土地は浅くて、石が混在している。保水 率も低く、肥料が流れ出て土地が痩せており、生産率 は低い。現在の人口規模と平均的な地力から計算する と、石灰岩地域の中には平均耕地面積が0.5ムーに満た ないところもあり、生活は困難を極めている。よって、 外地で生計を立て、生活することになる。 石灰岩地域のヤオ族の経済状況は逼迫しているが、 それは実際に移住を行なう際にも見て取ることができ る。連南南崗郷新村管理区のヤオ族が、清新県三坑鎮 明聯ヤオ族新村に移住した際には、政府は3世帯に1 台のトラックを手配したのみであったが、こうしたこ とからも彼ら家財や所持品が極めて少なかったという ことがわかる。彼らが山上から背負ってきた荷物は、 -括りの木板と-束の柴、数袋のもみや雑穀、それに 古着だけであった。車に載せて新居へと運んだ荷物の ほとんどは木材と薪であった(播偉,1998:38-39)が、 これらはすべて彼らが大変重要で価値があると認識し 破壁璃家空蕩蕩、-竿鑑楼吊門前〕」。播偉の著作(播 偉,1998)はまさに、1993-1998年間に政府が清遠市で 行った移住の過程を、ドキュメンタリーとして描いた 文学作品である。 3.2経済的要因 北宋以降、輿北のヤオ族のなかには漢族の影響を受 けて定住化、農耕化した新たな支系である排ヤオ族が 生まれていた(練銘志ら,2004:296)。彼らは伝統的な 「焼畑耕作〔勝耕〕」的生活方式を放棄して村落を形成 し、農耕を行うようになった。しかしながら、「低技術 の労働力が集約し、資源が不足したなかで零細農業を 行うことになり、都市部からの相対的な資源の簑奪と、 都市との歪んだ経済格差に直面し、かなりの農村社会 においてインヴォリューションが引き起こされた」(張 小軍,1998)。山間部においては、資源が限られている にもかかわらず、人口が増加し続けており、経済の 「インヴォリューシヨン」現象がヤオ族の生活をさらに 困難なものにしている。一方、低地部の急速な経済発 展は、珠江デルタ地域から放射状に伸びる強力な経済 的影響力と、それが引き起こすプル要因によって、も ともと距離的に近接しているはずの輿北と珠江デルタ の間において、同程度のコストと労働力によって獲得 できる報酬|に格段の差を生じせしめた。これが極めて 大きな経済格差を生み出している。山間部以外の地域 における発展の勢いは極めて迅速で、山麓に位置する 地域ですら、山上と比較すると極めて多くの労働機会 を有している。よって、外部地域へと移住した人々が 富裕化する確率は、移出地域よりも格段と高く、山間 部のヤオ族が移住したいと考える要因となっている。 石灰岩地域や寒冷高山地域では移住を促す様々なプ ッシュ要因が存在している。生態環境が悪化して飲用 水や食料が確保しにくく、結婚相手を見つけにくいな ど、様々な問題が生じている。珠江デルタ地域の経済 が急激に発展することで、低地経済は急速に成長し、 医療や子弟の教育、飲用水、交通などの面において山 間部より明らかに優れた状態にある。こうした状況が、 52

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木村自(訳):雲北山問部ヤオ族の下山移住と適応 ているものであり、また現実的にも彼らの家の中で最 も価値のある「財産」であった。 連南高嶺の移住者たちによると、移出村には1994年 に電灯が設置されたが、収入が少ないため、多くの村 人が電気代すら払うことができなかった。13元/1キ ロワット時で、毎月の電気代は8元であったが、その 8元すら払うことができず、そのため約30%の家庭が 電気を止められていたそうである。また、1996年の時 点ではまだ山間部に居住していて、米とサツマイモを 中心に栽培していたが、-人当たりの年収はわずか460 元であり、極めて厳しい生活状態であった。ある世帯 の老人は、病気になったが医者にかかる費用がなかっ たため、結局家の中で病死したと話す移住者もいた。 同時にヤオ族地区の水力資源も優勢を失いつつある (許文清,2002:81-89)。こうした要因も、ヤオ族住民の 生存と発展を脅かしている。 しかし、豐北山間部の生態環境は以前から劣悪だっ たわけではなく、幾度にもわたる「人災」によって脆 弱になった。建国初期にはまだ石灰岩山のいたるとこ ろに雑木や潅木が生えており、二人がかりで手を伸ば してやっと手が届くほどの太い松の木があったことも、 いまだに人々に記憶されている(播偉,1998:20)。ここ からわかるのは、当時の生態環境は必ずしも悪かった わけではなく、石灰岩質の山ではあっても、植物が茂 り、水が豊富にあったということである。しかし、 1958年の「大躍進」運動の時期に、「大錬鋼鉄」「以鋼 為綱」などの急進的思想の影響下で、膨大な量の樹木 を伐採して薪として燃やし、十分な保水力を維持して いた森林を台無しにしてしまった。「文化大革命」の時 期には、森林は誰にも管理きれておらず、「以糧以鋼」 「向山要糧」などのスローガンに惑わされて、森林を乱 伐して山を焼き払い、植生が大きな打撃を受けた。脆 弱な生態環境は、暴風雨などの試練に耐えることがで きず、土石流や土砂崩れがしばしば人や家畜を襲い、 村を破壊した。結局、政府や国内外の慈善団体、個人 の寄付金などにより、故村を離れて異郷に村落を再建 せざるを得ない状態になった。連南ヤオ族自治県では 1990年代後期から、同県において海抜500メートル以上 の寒冷高山地域に居住している少数民族を対象に、大 規模な移住政策を実施した。現在のところ480余世帯が いまだに山々に散居している。2002年7月には、大き な洪水が発生し、同県金坑鎮が深刻な災害がもたらさ れ、土砂崩れが発生した山村では、400世帯以上のヤオ 族が家を失った。こうしたことから、広東省扶貧弁公 室は200万元を準備し、同県の寒冷高山地域の最貧困少 数民族を対象とした移住政策を実施した。省民族宗教 事務委員会は、宗教界に呼びかけて集めた寄付金200万 元を用いて、同県金坑鎮で最も被害の深刻であった竹 新、泥楼、魚盆坑の三つの村落計179世帯881人のヤオ 族を対象として移住政策を実施した(凌偉建,2005)。 3.3生態的要因 輿北山間部のヤオ族の流動`性は非常に複雑な要因を 有しており、様々な要因が複合的に影響しあった結果 生じるものである。そのうち最も基本的なものが生態 的な要因である。輿北山間部ではカルスト地形が多く を占めており、石灰岩地域と寒冷高山地域が広がって いる。生態環境が養うことのできる人口は限られてい るうえ、不適切な森林の伐採により生態環境がさらに 悪化しており、自然災害の発生率も高くなっている。 建国初期の輿北ヤオ族の生活は極めて貧しく、「つぎ はぎだらけのぼろ着を着て」「多くが裸足で生活し」 「生産量が非常に悪くて、生活は困難を極めていた」 (黄朝中・呂燕華,1951)。寒冷高山地域に長期にわたっ て生活していた貧困少数民族は、人口の大幅な増加に も関わらず、「山に生活の糧を求め」すぎたために、人 口を養えるだけの土地が極度に不足し、獲得可能な資 源が日増しに減少していった。開墾可能な空間も徐々 に狭くなり、生活水準も日ごとに低下していった。貧 困の度合いがますますひどくなり、「一片の土地と水で、 一片の人を養えない」という状況にまで至った。こう した山間部ヤオ族の貧困は、多くが生態的要因によっ ている。森林の破壊と汚染は動植物の生存を脅かすだ けではなく、連南の農業生産をも困難な状況に陥れ、 53

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<~竈 ̄うり

「地域研究」2号2006年3月 態環境の重要`性に気づくようになってきた。近年は植 林による緑化も重視きれるようになっているが、樹木 の生長は晩く、生態環境のバランスや生産条件が整え るには、短期的には根本的な改善も望めそうにない。 始興県花山郷合水村には、田丘段、田心、塘斗、左 抜一組、左抜二組という五つの村民組と七つの居住区 があり、177世帯784人が居住している。県城からは20 キロほどの距離にあって、山間部の内奥に位置し、交 通は不便である。同地に居住するヤオ族は、左抜一組 及び左抜二組43世帯250人が、平均一人0.3ムーの耕作 地を所有しているほかは、誰も土地を持っていない。 その結果、現地のヤオ族には経済的な財源が存在しな い。統計によると、合水村の特別貧困世帯は全村世帯 数の75.7%にものぼり、特別貧困人数は全村人口の 68.1%に相当する。もともと現地の人々は山から生活 の糧を得ており、薪の販売や狩猟、筍やきのこ類の採 取によって生計を立てていたため、森林資源が過度に 伐採されて以降、現地のヤオ族の生活水準は必然的に 下降の一途を辿ることとなった。森林育成のために山 を封鎖し、伐採狩猟を禁止して以降は、こうした生計 方法に様々な問題が出現している。生活水準は1994年 以降毎年下降し、年収は一人平均1,000元に満たず、そ れぞれの村民組も700元に満たない。森林が減少し、植 生が破壊きれて以降は、貯水能力が低下し、そのため 水資源が日増しに枯渇することとなった。たとえば、 合水渓の現在の流量は、以前の流量の30%しかない。 同時に、過度の森林伐採により山林の保水機能が徐々 に喪失し、生態のバランスが崩れて災害防止力が激減 し、悪果を醸成することとなった。2000年9月には、 森林保護が行われていなかった合水村で大雨が降り、 その後生じた洪水により重大な損失が生じた。統計に よると、同村での被災者数は400人にも及び、ダムや農 園が水で流きれ、7世帯の家屋が倒壊し、直接的な経 済損失は100万元にものぼる(凌偉建,2005)。洪水の影 響で給水システムが汚染され、県城住民の飲用水が何 日にもわたって汚染ざれた。また、まれなことではあ ったのだが、連南ヤオ族自治県金坑鎮では、暴風雨に よる洪水によって、いくつかの村落で土砂崩れが発生 し、帰るべきところを失った人々が新たに生活する場 所を探さざるを得なくなった。 こうした自然による懲罰に直面し、人々は徐々に生 4.璽北ヤオ族移民の移住と文化的適応 施国慶と鎮阿江によると、広義の社会システムには、 経済、(教義の)社会、それに文化の三つのサブシステ ムが存在している(施国慶・陳阿江,1999)。そのため、 移民の変容もこの3方面から考えることができる。程 玲は「外在」と「内在」両方面から、三峡移民の適応 について描写している(程瑞,2004:117-136)。山間部 住民の移住にともなう文化的適応の文化人類学的な研 究については、物質、(教義の)社会、精神の三つの側 面から描き出し解釈することができる。物質的側面で は、移民の生業形態に着目しなければならず、これに は経済的なリソース、生産様式、生産技術などと移住 者の生活の詳細に関わる諸方面を含んでいる。社会的 側面に関しては、移住者の元来有していた基本的社会 ネットワークの破壊と新たな社会ネットワークの構築 に注目する必要がある。精神的側面では、移民の思想 観念と宗教信仰の適応状況について着目する必要があ る。 移住者たちは、その移住要因が様々であっても、移 住地においては文化的適応の問題に直面せざるを得な い。圏北ヤオ族は寒冷高山地域から下山し、石灰岩地 域から土地の肥沃な平地へ、ダム建設により水に沈ん だ地域から新たな地域へと移住しているが、いずれに おいても文化的適応のプロセスが存在する。こうした ことは、新たな生業形態への適応、新たな生活様式へ の適応、社会関係が断絶した後の社会的ネットワーク の構築、移出地の宗教信仰の持続と交通などの側面に おいて、主に現出してくる。輿北のヤオ族移民のほと んどが、村ごと、あるいは数家庭から数10家庭がそろ って移住しており、空間的な移動距離は大きくない。 そのため、彼らは制度的な側面での適応については典 型事例であるとは言えず、本稿では触れない。多くの 54

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木村自(訳加害北山問部ヤオ族の下山移住と適応 インタビュー調査資料をもとに、次節以下では物質、 社会、精神それぞれの側面での、ヤオ族移民の文化的 適応について描写する。 れた田には水がなく、小作地には水がある。2ムー の小作地を借りると、1ムー毎に毎年150斤の米を 払わなければいけないが、博羅村にいたときよりも 50斤少ない。家には全部で3人の子供と夫婦2人が いる。長男はもう結婚していて、現地で賃労働をす ることもある。三人目は男の子で、今は民族実験中 学の中学2年生だ。二人目は女の子で、県の錫箔工 場で働いている。毎月400元前後の収入がある。朝 晩は家で食事をして、昼は工場がまかなってくれる。 中学校を卒業してから働き始めて、もう1年になる。 4.1物質的側面 輿北ヤオ族移民にとっては、生活問題の解決が最も 重要な問題であった。そのため、食糧の確保、経済状 況の改善が、彼らの最も関心を寄せる問題である。こ れらはすべて、移住者たちの生業形態の問題、生業形 態の改変に関係しており、彼らの生活様式にも大きく 影響を与えている。 【東莞商会民族村趙錦輝】1963年生まれで、もとも とは東坪鎮茶坪村委五組に居住していた。1995年の 冬に茶坪村から龍王潭に移住した。当時の龍壬潭は 附城鎮に属していていたけれども、今では附城鎮が なくなって乳源鎮と合併した。農閑期には賃労働に 従事していたが、普通は左官業をして、日給はだい たい20元余りだった。多いときには毎年数千元の収 入があった。土地が少なかったから、2ムー余りの 水田を借りていて、1ムーごとに毎年1.5-2石(1 石は100リットル)の米を収めなければならなかっ た。lムーの生産高は700-800斤だったが、よくな いときには500-600斤ほどであった。村にはほかに 養豚場があり、うちでは豚を2頭飼っている。1頭 は売るため、もう1頭は食べるためだ。 4.11生業形態 建国前には、排ヤオ族の多くが高峻な場所を選んで 居住し、農業(水田工作)、林業、狩猟、採集を生業と していた。現在排ヤオ族の居住地は、林業地域(金坑、 渦水)、半林半農地域(大坪、香坪、盤石郷及び大麦山 鎮の九素、白芒など)それに農耕を主とする石灰岩地 域(三排郷、南崗郷及び大麦山鎮の中心崗、後洞、三 洲など)の三種類の地域に大別することができる。過 山ヤオ族は辺鄙な山間部に居住しており、水田は極め て少なく、畑地が耕地面積の90%以上を占めていて、 焼畑耕作や狩猟、採集を生業としている。農耕は季節 に従って行うが、やり方が粗雑で、施肥量は少なく、 広く植えても収穫量が少ないことが多い(連南県弁公 室,1996:168)。 山上から下山移住した後は、輿北山間部のヤオ族の 生業形態は必然的に様々な変容を蒙らざるを得ず、移 住地に見合ったコストのかからない適応戦略を採用し ている。 上記2人の移住者へのインタビューからは、寒冷高 山地域のヤオ族移民が山間部に居住していた時には、 田畑も土地もあったが、海抜や灌慨、耕作技術などに 限界があり、食糧生産量は低かったということが分か る。そのため食糧確保に関してやはり問題があり、多 く栽培することでそれを解決していた。移住後、食糧 生産量は増大しているが、自分たちの土地が少ないた め、食糧確保の面ではやはり問題が生じている。食糧 の不足した移住者たちも、山間部に帰って耕作するこ とはせず、現地で漢族や農耕を生業としない人々の土 地を借りて農耕を行っている。これは様々な事柄を天 【茶亭村趙永明】山の上にいたときには、乾季には 水田の灌概が保証きれず、生産量は300斤余だった。 山を下りてからは、どの世帯も名目上は2ムーの未 開墾の土地があることになっているけれども、実際 には1.5ムーしかなくて、食糧が不足するので、近く の地域で水田を借りて耕作するしかない。政府がく 55

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「地域研究」2号2006年3月 事している。 秤に掛けた後に選び取った適応である。食料以外で移 住者たちが考えるのは、いかに収入を増やすのかとい うことである。農閑期には、かれらは日雇いの賃労働 などをしてお金を稼ぐ。子供たちが成長すると、彼ら の生活様式の選択は、上の世代の人々とは部分的に異 なってくる。父親世代が行っていた農業を受け継ぐ人 もいるが、アルバイト的な労働は現在ではすでに不可 欠の収入獲得手段の一つとなっている。あるいは、現 地の企業で働き始めるものもおり、第二次産業が彼ら の労働の中心となり、農業生産は副次的な位置を占め るにすぎない。 こうした移住者たちの生業形態は新村と旧村の実情 や、移住者自身の素質などの制約や影響を受けること になる。 【高嶺村】山の上にいた時には、育てた豚も全く売 れず、市場まで担いでいっても、売れないまま昼に 店を閉めていた。今は’世帯がおよそ2頭の豚を飼 っているが、豚のえさには簡単な野菜や野草を与え るだけでよい。現在一人につき4分(0.4ムー)の水 田があり、それ以外にも川くりの水田や畑地20数ム ーを借りて耕している。どれもいい土地である。毎 年の借り賃は’ムーにつき2石で、ちょっと質の劣 る水田の借り賃は1石である。畑地の1年の借り賃 は、lムーにつき5-10元である。畑地では野菜や 落花生、香粉樹などの商品作物を植えている。香粉 樹は線香を作るための原料で、2年ほど前に始めた ところだ。数'oムーを香粉樹に当てている。1本の 香粉樹は400斤前後あり、100斤を12元で売ることが できる。8-12年で成木となり、1ムーに100 ̄110 本植えることができる。この木は特色があって、切 ってもまた生えてくるので、水や土地の保全に適し ている。毛竹はどの家にもある。現在は、たまに老 人が山に登って草を刈ったり、茶葉を摘んだりする。 木材の伐採については、毎年一人につき'、5立方メー トルしか切ってはいけないと政府が規定している。 人件費を除くと、1立方メートルにつき120元でし か売れない。以前からずっとそんな感じである。今 では村民は誰も山を開いて木を植えたいなどと思わ ない。というのも、杉の木を植えても16-17年でや っと成木になり、周期が長くかかりすぎるからだ。 【福民新村李明俊】私は修理工で、家電の修理もで きる。多くの人は私がここにいることを知っている ので、街頭に商品を並べる必要はない。ここには耕 地がないし、野菜を植える場所もない。すべて龍頭 にある。多くの人は朝起きてから龍頭に帰り農地を 耕す。田は1.2ムー、山地は8ムーほどある。山の田 畑はどこも栽培しにくく、土地は小きい。lムーの 土地で700斤ほど生産でき、毎年1期しか作れない。 水田には水稲を植えていて、畑地には生姜を植えて いる。山では造林を行っていて、家屋の周囲では野 菜を植えている。私の世代の中には、外地で賃労働 に従事している人もいる。珠江デルタが中心で、 深i;111や珠海、111頁徳などに行った人もいる。しかし、 大多数は龍頭村の山に戻って農耕を行っている。 【上園渓村趙建春】現在の村には小包工(訳注:小 規模で臨時の請負業)のボスがおり、山林の開発を 請け負っていて、竹を切って運ぶと日に40元前後も らえる。数10人が行っている。松脂の採取も20人以 上がやっていて、すべて松の木の山を請け負って松 脂を採取する。松脂の採取では、年収7,000-8,000 元になる。養蚕をしているところも5世帯あり、う ち2世帯の年収は10,000余元で、ほかの3世帯は ここからは、福民新村の移住者たちの生業形態に、 移住ご変化が生じていることが分かる。季明俊は家電 を修理する技術を有しているので、移民村での生活に ついては憂いがない。しかし、一般の移住者たちは元 来の生業形態を維持し続け、龍頭に帰って土地を耕し ている。心配事のない人々や大胆な人たち、あるいは 機転の効く人々は、珠江デルタの都市部で賃労働に従 56

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木村自(訳):雲北山閂部ヤオ族の下山移住と適応 5,000-6,000元である。桑の木も自分たちで植えて いる。水田は普通下半期の1期のみで、毎ムー 600-700斤の生産量がある。水稲を収穫した後には 落花生を植える。県農業局や鎮農業センターがしば しば人を派遣してきて指導している。元来の五つの 組のうち、左抜一組と二組のみが水田工作をしてい たが、水田も少なく、水田耕作をしているというこ とだけ知っていた。他の三組の農民はみな移住後に 水田耕作を学んだ。旧村中の左抜-組と左抜二組は 200人余りおり、中期の収穫のみを行っていた。種 もみが悪いので山の上の水稲は、1990年代にはlム ーにつき200-300斤しか生産できなかった。移住後 はよい種もみを使っているので、lムーにつき 600-700斤の産量がある。山の上での虫害は、山の 下ほどひどくなく、1605号農薬を使って1回除草す ればよく、平均lムーに1瓶を使えばよかった。今 の我々の田畑は、1回の作付けで6回も除虫しなけ ればいけない。肥料はとても高く、山ではこれほど 多くの肥料を買わなくてもよかった。というのも、 藁などを燃やして肥料とすればよかったからだ。 換を統一的に実施したからである。 【牛塘営林場陳宏隆】故郷には田があり山林もあり、 雑木を切って売りにいくこともでき、毎年幾分でも 収入があった。板洞にいたときには、我が家は10数 人おり、10数ムーの田を持っていて、農業で生活し ていた。元来の田は一人lムー余であったが、牛塘 営林場に移住して後は、田は余りにも少ないので、 居民委員会が毎月配る90元の生活費のみに頼り、衣 食も十分保証されない。1994年に私は径口発電所に 配属されて働き始めたが、月給は350元であった。 息子はまだ成人していなかったが、私が発電所で働 いていたので、子供の生活費の半分は負担せねばな らなかった。そのため、毎月45元しか子供の生活費 をもらえなかった。妻には仕事がないので、毎月配 られる90元の分配金に頼っている。すぺてを足すと、 我が家全体の収入は毎月合計485元である。息子は 三江鎮で勉強していて、生活費は毎月200元必要に なる。一家の収入の半分は使ってしまうわけだ。私 の2番目の弟がここの居民委員会で働いており、月 収は215元である。それに加えて90元の分配金があ り、一月の収入は合計305元になる。1番下の弟は 水道管理所で働いており、月収は300-400元の間だ。 1番上の妹は黄連発電所で働いており、月収は400 元足らずである。妻と残り二人の妹には仕事がなく、 不定期にアルバイト的仕事をしているだけだ。例え ば、鉱山で働いている人に食事を作るとかだが、毎 年およそ2,000-3,000元の収入がある。彼女らは外 で寝泊りするときもあるが、大体はやはり家に帰っ てくる。 上記からは、高嶺ヤオ族の生業形態が主に養殖業や 小作農地、それに商品作物の栽培などであり、これま で見たいくつかの移民村とそれほど違わないことが分 かる。また、上團渓では松脂の採取、養蚕、竹の伐採 などを行うだけで、山間部にいたときよりも収入が多 い。注目に値するのは、同様に稲作とはいっても、山 上と山麓とでは環境が異なることから、必要となる知 識や技術も著しく異なっている。そのため、移住者た ちはそれぞれ適応の過程を経ることになる。様々な訓 練を行うことで、こうした過程は順調に進んでいる。 上述の生業形態はすぺて農業従事者から農業従事者 への移行であり、彼らの生産様式は変化したものの農 民身分そのものは変化していない。しかし、板洞ダム 建設にともなう移住はこれとは大きく異なっている。 彼らは農業従事者から非農業従事者へと転換したが、 それは移住の際に、村民全員の「農から非農」への転 この発言からは、「農から非農」への転換した牛塘営 林場ヤオ族移民が、これまで述べてきた移住者たちと 異なる状況を呈していることが分かる。生業形態も前 出のいくつかの移住者のモデルとは異なる部分が見ら れる。牛塘営林場ヤオ族移民の典型的な生業形態は、 まさに上記の陳宏隆の家のような状況である。家族の 57

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「地域研究」2号2006年3月 干す」。この語り口は、ヤオ族の貧しく質素な生活様式 を生き生きと表現している。 飲食の面では、空間の移動距離が小さいので変化が なく、不適応問題は存在しない。福民新村の季明俊は 次のように述べている。田畑は移住前の原住地にある ので、野菜や穀物はすべて龍頭から運んできて食べて いる。雨が降って故村に帰れないときには、好きな野 菜を路上で買うこともある。そのため、食事の面では 移住前と大きく変わるところがない。ただ、移住後は 生活水準が向上したので、肉類が以前よりも多くなっ た。 水に関して言えば、山の上では溜め池や泉から竹筒 を用いて家の中まで水を引き入れていた。移住後は、 普通の家庭では水道水を用いている。しかし、設備工 事がきちんと行われていない移住地もあり、飲用水の 問題で頭を悩ましている移住者もいる。 成員は移民政策にのっとり発電所へ配属され、1世帯 は90元の生活保証をのみを受け取ることができるが、 同時に外で不定期の労働についてお金を稼ぐこともで きる。子供は毎月45元の生活費を受け取る。こうした 収入は、現在の圏北の消費水準から言えばやはり低い ものである。というのも、インタビューの中で陳宏隆 は、(戸籍地外での就学のため)子供の毎学期の臨時在 校費400元を、連南第一中心小学校自身が自分で解決し ないことに関して、何度も不平を述べていたし、バイ クのガソリン代に毎月100元を払わなければいけないこ とについても不満を抱いていたからである。 まとめれば、豐北山間部からのヤオ族には、移住後 彼らの生業形態に多かれ少なかれ変化が生じており、 生計の立て方は多様化する傾向にある。山上での生業 が比較的単一であったのに比べると、リスク対処能力 が格段に高まっている。例えば、連南南崗郷娯舩田管 理区のヤオ族236世帯の移住者は、山上から山麓へ移住 しただけではあるが、生業形態に大きな変化が生じ、 多様化する傾向にある。山上では水が不足して田が少 なく、交通も不便で、焼畑耕作によりトウモロコシや サツマイモを植えており、生業形態は単一的であった。 下山移住以降は、トラクターを購入して運送業を行う ものや、バイクに客を乗せる人、商店を開く人、石炭 の販売や炭坑での肉体労働を行う人、さらに元来の農 業生活を続ける人などが存在している。なかにはチャ ンスを掴んで、多角的な発展を実現させたひともいる。 例えば、連南南崗郷娯舩田管理区の唐亜利は、山上で は茅葺の小屋に居住しており、結婚に際しても豚や食 料を借りなければならないほど貧困であった。しかし、 移住後は炭坑の採掘を通して富裕になり、家のいたる ところに防犯ドアを付けるまでになった(播偉,1998: 102-105)。 【茶亭村趙永明】今では水道を用いているが、水源 が不足しているので、雨の日だけ水がある。冬と雨 の降らない時期には水を飲むことができない。村で は井戸を掘っているが、雨の降る時期だけ水があり、 冬には井戸には水がない。砂塘には井戸があるが、 40分も歩かなければならず、天秤棒で水を担いでこ なければならない。冬の問はずっとこうして水を運 ばねばならない。一家は6人で、豚を2頭飼ってい るので、毎日3回水を汲みにいってやっと足りる。 茶亭ヤオ族村の飲用水の設備工事に大きな欠陥があ るため、移住者たちに大変な不便をもたらしているこ とが分かるc 料理をする際に必要な燃料は、二つの解決の道があ る。一つは毎年冬に山上の原住地に戻り、そこの薪を 切ってきてトラクターで運び下ろしてくるというもの で、もう一つは、近くの加工場でおがくずを購入する というものである。乳源茶亭村の趙永明の家ではこの ようにして燃料問題を解決している。 4.1.2生活様式 石灰岩地域のヤオ族の生活について、次のように形 容する人もいる。「六本の杭で部屋一つ、数枚の板で寝 台一つ、三つの石でかまど-つ、一本の竹ざおで服を 58

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木村自(訳):豐北山間部ヤオ族の下山移住と適応 【茶亭村趙永明】1992年に附城陳の博羅村に来て田 を借りて水田耕作を始めた。2003年に移住して以降 も、燃料用の木材は故村の山から切ってくる。毎年 車2台分切ってくるが、普通は冬に切り取りに行き、 トラクターで持ち帰る。また、おがくずを燃やすこ ともある。床板の加工場から買ってくる。トラクタ ー1台分50元で、運送費が30元、合計で80元である。 毎年2台分購入する。 いない。通婚関係や外での労働などの要因で、現在 のヤオ族の民族衣装や民族の特色はいくぶん減少し ている。しかし、結婚の際などにはやはり民族衣装 を身に着けねばならない。大麦山鎮には、刺繍や腰 鼓、銅鎌や牛角の笛など、民族的な特色をもったも のがまだ残っている。 こうした発言から、輿北にけるヤオ族固有の衣服が 徐々に減少し、彼らが現地の漢族の服装と変わらない ものを着るようになっていることが分かる。しかしな がら、結婚などの場合には民族衣装を着用しなければ ならない。つまり、ヤオ族の服装は日常生活において は淡白化する傾向にあり、民族的な特徴を強調する儀 式や場面においてのみ、民族的シンボルや民族の境界 を強調するものであることを明示している。 居住に関しては、移住後の家屋の多くが、移民の主

管部門によって一元的に設計され、その後移民の代表

の意見を募って決定される。いずれにせよ、移住後の 家屋は移住前の家屋よりもずいぶんと良い。 燃料の面では、相当数の移住者たちがガスコンロを 用いることができるようになっているが、薪などの確 保が比較的容易な移住者たちの多くは、移住後も移住 前に行っていた薪で食事を煮炊きする習'慣をいまだに 続けている。薪からの煙で部屋が黒く汚くなってしま っても全く平気なのだが、それはガスが「金の無駄遣 い」であり、薪用の柴を採りに行くことが労働力と時 間だけを使うに過ぎないからである。非常に経済的な 思考をしていることがよく見て取れる。そのため、 我々が調査を行った村落の中には、薪の備蓄のほうが 「豊富」で、通路がこうした薪で通行できなくなってい るところもある。 衣服に関しては、山の上にいた時には、周りはすべ て見知った人ばかりであったので、着衣を気にするこ とは少なく、素朴なのが特徴であった。移住後は、若 者の衣服や装いに関する欲求が向上し、無意識的に鎮 の子供たちと比較していることも多く、彼らに近づき つつある。 時に人に笑われるのを恐れて、時に流行に乗りたく て、徐々に民族衣装を着る機会が少なくなっている。 現実的には、これは新たな環境がヤオ族移民にもたら した文化的な圧力による文化適応現象である。大麦山 鎮の鎮党委員会の戚書記は、ヤオ族移民の服装の変化 について次のように語っている。 【高嶺村房光良】山上で居住していた家屋はどれも 泥レンガの壁であった。60%の家屋は杉皮葺の屋根 で、40%のみが瓦葺の屋根であった。1998年に移住 する以前は、うちには父母と兄弟が6人いた。私は 2番目の子供であった。当時は4部屋に全員が住ん でおり、どの部屋も泥壁で杉皮葺であった。両親が -部屋に住み、1番上の兄が-部屋であった。朝食 と夕食は白いご飯であったが、昼食はサツマイモを 食べていた。朝6時過ぎに耕作に出た。移住後の家 屋はすべて平屋で、レンガ、木材、鉄筋コンクリー トの構造である。今では60%の家が改築しており、 うち2階建て以上の家が20世帯ほどある。 【牛塘営林場陳宏隆】我が家は1993年末に現在の居 住地に移ってきた。当時の家屋は移住資金と立退き 手当てを用いて、全員で建設した。建築費用は200 元/平方メートルで、1軒は120平方メートルである。 家屋は指揮部門によって一元的に設計建設され、建 元来は自分でヤオ族固有の布を織って着ていた。 今では、どんなに清潔に着ることができるものであ っても、ヤオ族固有の布を身につける人はほとんど 59

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碕囹 ̄尹の

「地域研究」2号2006年3月 洞化」問題が生じている。 山上にいたころには、多くのヤオ族の家具には最低 限の質素なものしかなく、食卓と腰掛、水瓶、鉄鍋、 椀、箸、食器棚、石臼、杵などであり、これらすべて がそろっている家庭は富裕なほうであった(練銘志ら, 1992:240)。移住後、こうした6のすぺてに大きな変化 が生じている。富裕な家庭には、現代的な家具、豪華 な飾りつけ、高価な家電製品などがすべてそろってい る。普通の家庭においても変化は生じている。たとえ ば、山の上にいたころにもヤオ族の中には漢族を模倣 してレンガでかまどを作っている家庭もわずかながら あったが、移住前のかまどと移住後のかまどとは大き く異なっている。というのも、一般的に山上のヤオ族 の家屋では、すべての部屋に囲炉裏〔火炉塘〕を設け ており、寝室の寝床のすぐわきに置かれている。囲炉 裏は炊事と暖を取るのに用いられ、冬には囲炉裏のそ ばで暖を取ったり、そこで眠ったりさえする(練銘志 ら,1992:239)。ヤオ族的な特色を備えたこの囲炉裏は 俗に「三脚猫」と呼ばれており、小さな鉄の輪を、下 から3本の鉄の棒で支えるものである。移住後は、か まどは建設施工者側の統一規格となっており、基本的 にレンガとコンクリートで壁につける形で作られてい る。炊事用のためだけに台所のみに設置されていて、 より一層衛生的・経済的で、安全である。 交通面では、移住地域には自動車道があり、故郷よ りも便利である。輿北の山道は非常に歩きにくく、確 かに黄朝中と呂燕華が述ぺるように、「ヤオ族の住む山 の道は山に沿って切り開かれているので、起伏があっ て曲がりくねっており、大変な傾斜である。……ヤオ族 の家屋の並びと、山のふもとの定期市を結ぶ道路は、 つづら折りの小道が続き、非常に歩きづらい。家屋の 並びの間はより一層狭い小道である」(黄朝中、呂燕 華,1937:423-424)。これが輿北において「商品流通」 を妨げるボトルネックとなっており、禦北経済の発展 を妨げてきたのである(顧宝炎ら,1999)。移住前、始 興県花山郷合水村の居住地域はすべて山道であり、自 動車の通る余地はなかった。居住地域によっては、鎮 設後に一括してお金を差し引かれる。以前住んでい た泥レンガの家の立退き手当ては60元/平方メート ルで、それ以外にも一人2,000元の移住資金を受け取 ることができる。当時の家屋は1階のみであったが、 現在2階を建設中である。去年政府は10,000元の追 加建設費用があると言っていたので、お金を借りて 2階を建て増ししている。お上は窓のところまで建 設したらまず5,000元を支給し、建設が終わってから 残りの5,000元を渡すと言っている。これまでに我が 家の建て増し費用はすでに17,000元以上(建材費と 人件費)を使っている。これ以外にも、雇った人の 食事代も必要だった。 経済条件が悪いので建築資材の運搬が難しく、山間 部に住むヤオ族の家にはトイレがなかった。牛や豚に も畜舎がないので、人と家畜が混在していることもあ った。移住後の新しい生活空間では、これらの問題は すべて解決きれている。どの家にもトイレ、豚の囲い、 牛舎が設けられている。しかし、移住後の家屋は以前 の家屋よりもよいものであるにも関わらず、いくつか の要因が重なって、以前の「草の小屋」に戻ったほう がよいと考えている移住者もいる。 【福民新村李明俊】就学中の子供がいなくなれば、 新村に住み続ける必要はない。もし家に就学中の子 供がいれば、学校との行き来で10数キロも歩かなけ れば行けないので、ここで子供の面倒を見なくては いけないだろう。子供が大きくなって、自分で生活 できるようになると、子供たちだけを新村に残して おくことができる。 子供の就学の関係上、福民新村の移住者の一部は故 村と新村との間を行き来する「二重」生活を送ってい る。そして、子供の養育という負担のない移住者は、 あっさりと自分たちの故村へと帰ってしまう。連山小 三江鎮立星村の移住者にも同様の状況が存在している。 このように、移住者の「回帰」現象と移民新村の「空 60

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木村自(訳):譽北山間部ヤオ族の下山移住と適応 まで出るのに25回小渓を渡り、5回山を越えなければ ならず、片道で2時間以上かかるところもあった(凌 偉建,2005)。われわれも調査のなかで、交通環境に移 住前と後で非常に大きな差が生じていることを確認し ている。 こうしたことは、経済条件の問題や、通信状況が悪く 電波が届かないところもあることから、山間部では全 く不可能なことであった。 一部の成功していない移民の例を除いて、輿北ヤオ 族移住者は衣食住などの側面において変化が生じたば かりではなく、生活様式そのもののあらゆる側面が変 容している。たとえば、連南金坑郷高嶺村の68世帯295 人の居住者は、海抜800メートル以上の高山地域に居住 しており、1996年の平均収入は900元余りであった。 1997年に寒冷高山地域から下山移住して後は、その年 の内に衣食住の問題が解決されただけではなく、生活 そのものに大きな変化が生じた。2002年の平均年収の 純収入は2,350元であり、80%の農業世帯がその年のう ちに家電を購入し、ケーブルテレビを導入して、3分

の1の家庭が電話を取り付けている(陳夏春,2003)。

村落内部での文化生活も多様化し、文化サロンやバス ケットボールコートなどが作られている。以下はヤオ 族移民が自分たちの生活様式について述べたものであ る。

【上園渓村】私たちが現在住んでいるところは、自

動車道から2キロ余り離れたところで、その一部は

もともと開発区が作ったものである。今では、外に

出て行くときには普通バイクを使い、80%の家庭に バイクがある。古いバイクもあれば、免許を持って いない人もいる。一家に2台のバイクがある家も 20%ぐらいある。

【高嶺村】交通環境は改善された。平坦な車道が家

の前まで延びていて、これまで徒歩に頼るしかなか ったヤオ族移住者たちも、自転車やバイクを交通手 段として買うようになった。高嶺村の中年女'性も皆 自転車に乗ることができる。 【福民新村季明俊】私の故郷は福堂鎮の肖渓村委員 会龍頭組にあって、ここから11-12キロのところだ。 今は1時間半歩いて龍頭の故郷に帰ることはない。 今は皆故村との往来には自転車を使う。下まで降り てくるのは45分ほどかかり、山道を登って帰るのに は1時間くらいかかる。 【上團渓村趙建春】テレビは90%の家庭にあり、電 話は60%の家庭にある。テレビについて言えば、 20%が白黒テレビで、自分で作ったアンテナを使っ て見ている。ケーブルテレビはまだないが、家にデ ジタル受信機を取り付けると、10-30のチャンネル を見ることができて、ケーブルテレビともそれほど 変わらない。うちには湯沸かし器やVCD、脱水機な どもある。通信面では、以前は電話を持っている家 はなかったが、今では60%の家に固定電話があり、

携帯電話の普及率も40-50%である。われわれの村

には少なくとも50台の携帯電話がある。水道につい ては、故郷ではため池から竹を使って家の中までみ ずを引き入れていたが、乾季には遠くまで水を汲み に行っていた。今では水道ができて、移住工事のな かで給水設備も整えられている。気候については、 山上では6-8月は比較的涼しかったが、移住後は暑 く感じる。夜には床の上で寝ないと、暑くて眼れな 交通環境が改善されて以降は、ヤオ族移民たちが外 出するときには徒歩ではなく、自転車やバイクを交通

手段として用いていることが分かる。子供たちの適応

はずっと早く、中年の人たちは努力してそうした交通 手段の扱いに慣れる。体力の限界などもあり、老人の 適応状況は全体的に芳しくない。 通信伝達も山間部よりも速いので、それが移住者た

ちの生活の質や発展のチャンスに直接影響を与えるこ

とになる。そのため、移住者の家庭の多くには電話が 設置されており、なかには携帯電話を持つものもいる。 61

参照

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